世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2016

第1問
 聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。「生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られる」と説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない
 (上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)
 *civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

 

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)

 

第3問
 次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。

 アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。
 (中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)
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コメント
第1問
 課題は「聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察」でした。ということは、二人の思想家が考えた都市のあり方というより、「実態を対比」という、思想家の対象にした都市そのものの対比です。
 「対比」とは比較して相違点を示すことが求められています。二人の思想家は材料にすぎないということになります。たんに引用文のように「都市の経済性を高調……政治組織として考察」という議論と同じ内容をなぞるだけの解答は要らないことになります。たとえば次のような解答例はそうした例になるでしょう。

アリストテレスは古代ギリシアのポリスを前提とした。アテネに代表されるポリスは、市民が軍役を通じて貧富によらない政治的平等を達成し、民会による直接民主政を行ったことで、独立した政治的共同体の性格を強めた。経済面では商工業や貿易も活発だったが農業の比重が高く、市民は労働の多くを奴隷に委ね、経済活動を副次的なものとして政治参加に注力できた。一方聖トマスは中世封建社会の都市を前提とした。中世都市は商工業や交易の発達を背景に、経済の中心として発展した。やがて自治獲得が進むがそれも経済力によるものである。政治面ではツンフト闘争を通じた手工業者の政治参加拡大はあったが、ギルドを結成する大商人や親方が市参事会を独占して、経済的に豊かな者のみが政治に参加でき、自治においても経済の論理が中心となった。このような違いから、都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた。

▲ 初めの「アリストテレスは……一方聖トマスは……都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた」となぞった書き方は特に必要ではありません。課題は「実態」の対比です。
 奴隷制立脚の説明をしているのなら、中世都市の働き手、主体(担い手)は誰なのかがハッキリしません。中世都市に奴隷がいるのかいないのか? 対比になっているのは平等な参政権と大商人・親方の市政独占のところだけです。「商工業や貿易も活発……商工業や交易の発達」と共通点をあげていますが、これは要らない文章です。また古代都市は「市民が軍役を通じ」とあるのであれば、中世都市の軍事はどうなっているのか?
 中世都市の前提(背景?)が「中世封建社会の都市を前提とした」とすれば、じゃ古代都市の前提(背景)は何なんでしょうか?

 奴隷制の有無、軍事的な面の内と外の依存、周囲の農村(農民)との関係、都市同盟のあり方、都市内身分制度、と対比すべきテーマがあります。

第2問
 課題は「2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい」でした。
 これもまた比較の問題です。次の「模範」解答のミスが分かりますか?

王権神授説を信奉しフランス絶対王政の最盛期を現出したルイ14世は、ユグノーに信仰の自由を認めたナントの王令を廃止し、カトリックによる信仰の統一を実現しようとした。その結果、ユグノーの商工業者が多く新教国に亡命したが、ブランデンブルク=プロイセンは、彼らを積極的に受け入れて経済成長を遂げ、スペイン継承戦争でオーストリアを支援し王号を認められた。これらがフランス大聖堂建設の背景である。その後プロイセンは、フリードリヒ2世の時代にオーストリア継承戦争でオーストリアからシュレジエンを獲得し、七年戦争でその領有を確定した。また第1回ポーランド分割を主導して領域を拡大した。これによりカトリック教徒のポーランド人を支配下に含むことになった。フリードリヒ2世は、同時に啓蒙専制君主として信教の自由を認める改革を行ったため、ポーランド人のカトリック信仰が容認された。これらが聖ヘートヴィヒ聖堂建設の背景となった。

▲ 両聖堂は導入文に「1701年に始まり」「1747年に始まり」とあり、「建設された理由」を問うているのだから、この年代以後のことは理由にならないはず。フリードリヒ2世の戦争と獲得地を書いたのはミスです。シュレジエンを獲得したのはアーヘンの和約(1748)であり、七年戦争(1756)は寺院建設以後のことです。
 また「模範」答案に「王号を認められた……領域を拡大」とありますがなぜ王号・領土拡大が建設理由・背景になるのでしょうか?
 「比較しながら」の解答文はどこにありますか? 何と何を比較しているのか? 分かりません。なぜドイツ(プロレイセン)に新旧の宗教的亡命者が東西から集まることになったのか? 西のフランスという国と東のポーランドという当時の国のあり方は大きく違っています。1701年までに受け入れたユグノー、1747年までに受け入れたカトリック教徒、このちがう二つの民族・宗教を受容したドイツ側の理由が違っています。
 なお啓蒙専制君主フリードリヒ2世は戦争を始める前、即位と同時に発布(1740)したのが宗教寛容令でした。この寛容令で、初めてドイツで個人の信仰の自由が認められました。導入文の「聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想」とはこれです。

第3問
 課題は「1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を」でした。二つの課題のうち、初めの1945年以降の情勢とは、南北に韓国と朝鮮ができる過程を書けばよく、次に朝鮮戦争と中国・台湾への影響を書くという容易な問題でした。朝鮮戦争は1950〜53年の期間で接する中国と近くの台湾に影響を与えました。
 中国は人民義勇軍を派遣して約13万人が戦死しています。また建国(1949年10月1日)間もない中国にとっては大きな負担となり、社会主義構想は先輩のソ連の援助に頼るかたちをとりました。第一次五ヵ年計画(1953〜57)に依存します。
 台湾について。蔣介石が共産党との戦いに負けて、この台湾に逃避しており、米軍の基地の一つとなりました。ただし戦争中に戦場になった訳ではなく、あくまで米海軍第七艦隊の後方支援で、陸海空の臨検をおこない包囲網を築いていました。それが戦後の1954年に米華相互防衛条約が結ばれる土台となりました。さらにアメリカの支援により、台湾は「中国」の国連代表権と安保理の常任理事国の地位を維持することになりました。

京大世界史2016

1 (20点)
 西暦8世紀半ば、非アラブ人ムスリムを主要な支持者としてアッバース朝が成立したことを契機に、イスラーム社会の担い手はますます多様化していった。なかでも9世紀以降、イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々は、そののち近代に至るまでイスラーム世界において大きな役割を果たすようになる。この「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワードを両方とも用いて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

  マムルーク カラハン朝

2 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(18)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答構に記入せよ。

A [本文中の漢字にルビがふってある場合は( )で示しています。また●は後で解説する箇所]中国歴代王朝は自らの正統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢はそうした瑞祥の一つである。戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛慎が「こ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢納したという伝説が見える。粛慎は(1)「海内(かいだい)」の中国と大海で隔てられた[海外」に住む神話的な存在ともされ、したがって、その朝貢は、子の徳が世界の果てにまで及んだことの証として、第一級の瑞祥となる。
 (2)後漢末の群雄割拠に際し、(3)遼東郡では公孫氏が自立した。曹丕が後漢の禅譲を受けて魏を建国すると、劉備・孫権も蜀・呉を建国した。呉が遼東公孫氏・高句麗と結んだため、魏は遼東公孫氏を滅ぼし、高句麗に出兵した。魏の進出にともなって、東北アジアに関する豊富な知見が獲得された。このことを反映して、『三国志』の烏丸(うがん)鮮卑東夷伝には、東北アジア諸民族に関する現存最古のまとまった記述が見える。これら諸民族の一つが抱婁(ゆうろう)である。(4)『三国志』の本紀には、粛慎の朝貢が見えるが、これは伝説上の粛慎と同じく「こ(木+苦)矢」と石鍛を用いていた抱婁を「古(いにしえ)の粛慎氏の国」として朝貢させ、粛慎朝貢の瑞祥を演出したものである。(5)前漢・後漢あわせて400年にも及ぶ漢帝国が崩壊したのちの分裂に際して、魏は自らの正統性を喧(けん)伝するための瑞祥を切実に必要としたのである。
 その後、[  a ](西晋の武帝)が魏の禅譲を受けて晋を建国した際や、西晋滅亡後、江南において東晋が成立した際にも、粛慎が朝貢している。一方、華北でも後越の(6)石勅(せきろく)・石虎、前秦の(7)苻堅(ふけん)のもとに粛慎が朝貢している。これらも抱婁を粛慎と称したものである。
 『三国志』についで東北アジア諸民族のまとまった記述が見えるのは、鮮卑[ b ]部が建国した王朝を扱った『魏書』である。『魏書』によれば、勿吉(もつきつ)が北魏・●[ c ]に29回朝貢し、うち7回「こ(木+苦)矢」を貢納している。勿吉を「旧(もと)の粛慎国」として瑞祥を演出したものだが、頻繁な朝貢が瑞祥の希少価値を減
じたためか、「こ(木+苦)矢」の貢納は517年が最後である。高洋が●[  c ]の禅譲を受けて北斉を建国すると、粛慎が朝貢し(8)靺鞨(まつかつ)をとくに粛慎と称し、建国の瑞祥としたものであろう。


(1) 戦国時代の鄒衍(すうえん)はこうした地理認識を発展させた「大九州説」を唱えた。鄒衍は諸子百家のうち、何家に属するか。

(2) この時期、黄巾の乱を起こした張角が創唱した宗教結社の名を記せ。

●(3) 戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた。遼東郡を設置した国の名を記せ。

(4) (ア) 本紀と列伝を中心とする歴史書の形式である紀伝体を創始した人物の名を記せ。
 (イ) 『三国志』の本紀において「大月氏」と称された、1〜3世紀に中央アジアから北インドを支配した王朝の名を記せ。

(5) 前漢の禅譲を受けて新しい王朝を開いた人物の名を記せ。

(6) ●(ア) 石勒は五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族の出身である。この民族の名を記せ。

 (イ) 亀茲(クチャ)に生まれ、4世紀前半、石勅の帰依を受けた仏僧の名を漢字で記せ。

(7) 苻堅は淝水(ひすい)の戦いの戦いで東晋に敗れた。この時の東晋軍の主力である北府軍の
下級軍人から立身した劉裕が、東晋の禅譲を受けて開いた王朝の名を記せ。

(8) ●(ア) 靺鞨の一部は高句麗遺民とともに渤海を建国した。今日の黒龍江省寧安市の東京城遺跡にあった▲渤海の国都は、当時何と呼ばれたか。

 (イ) 靺鞨の一部である黒水靺鞨の後身が女真である。12世紀、女真は金を建国した。金が女真人に対して採用した行政・軍事制度の名を記せ。

 (ウ) 17世紀、女真は後金を建国した。この建国者の名を記せ。

B 20世紀初頭までの中国では、「党」とは、官僚やその予備軍である知識人が、個人的な交友や一定の政治理念を基に結んだグループのことを指した。だが、こうしたグループの形成は王朝の禁じるところであり、史書では非難や弾圧の文脈で登場している。
 例えば、後漢の時代には(9)二度にわたる「党人」に対する弾圧が行われたし、唐王朝では、二つの官僚グループが数十年にわたって「党争」を繰り広げている。10世紀に[ d ](太祖)が打ち立てた王朝は、官吏登用試験に(10)皇帝が試験官となる出題を加えたが、これはそれまであったような、試験官と合格者が私的な関係を取り結ぶことを妨ぐためであった。しかし、この王朝でも、(11)ある政治家が提起した諸政策の是非をめぐり、「党争」が何十年も続いた。このほか後年の王朝で、17世紀初め設立の[ e ]書院を基礎に形成された政治グループが、やはり「党人」として弾圧されたし、弾圧した側の宦官にくみした官僚たちは、史書で「えん(門+奄)党」(宦官党)と呼ばれている。
 したがって、中国では「党」とは決して良いイメージの言葉ではなかった。20世紀初め、知識人や(12)留学生たちが共和国樹立を目指し、(13)国外で近代的な政治結社を結成した時にも、彼らはその名称に「党」を用いることはなかった。やや後の、彼らと違って立憲君主制を主張して組織された政治団体にあっても、そのことは同様である。
 こうした状況が一変するのは、(15)共和国が成立したのち、中国史上初の国会議員選挙が行われる過程においてである。中国の政治家たちはこの時、以前から近代政治結社を「党」と称していた近隣国家の例にならい、共和・統一・民主などの語と「党」を結びつけたのだった。そして、共和国樹立を目指した前述の結社は[ f ]と改名してこの選挙に勝利し、国会で多数を占めたのだが、(16)時の臨時大総統」の暴力の前に、政権掌握を阻まれた。同党の政治勢力はその後、党名と組織形態の変更を繰り返したのち、国際的な共産主義組織の働きかけで、別の政党との協力関係樹立に踏み切る。以後、(17)この二つの政党の協力と対立が、(18)中華人民共和国成立までの中国政治の一つの軸を構成することになる。


(9) この弾圧は、中国の歴史上どのように称されているか。

(10) この皇帝が試験官となる試験は、何と呼ばれるか。

(11) この「諸政策」のねらいを、農民・中小商人の保護のほかに二つ挙げよ。

(12) 中国からその近隣国家に赴いた留学生の数は、20世記初めに急増したが、このことは1905年に行われた中国政府の政策決定と関係している。この決定とは何か。

(13) この「近代的な政治結社」は、政治主張を三つにまとめたことで知られる。この三つの主張のうち、漢民族の独立(少数民族による支配の打破)以外の二つの主張を記せ。

(14) 19世紀末に中国が対外戦争に敗れた際、知識人によって立憲君主制導入を中心とする制度改革が主張された。この改革は当時何と呼ばれたか。

(15) 「共和国が成立した」ことの背景の一つに、政府がある事業を国有化しようとした結果、中国のさまざまな階層が広く反発したことが挙げられる。この事業とは何か。

(16) この「共和国臨時大総統」は、対内的には政党を解散させて独裁権力を握る一方、対外的には近隣国家による大規模な権益拡大の諸要求を承認したことでも知られる。この諸要求は何と呼ばれるか。

(17) この「二つの政党の協力」のうち二回目のものは、1930年代半ば、中国の内陸のある都市で起こった事件を契機に成立している。この都市の名を記せ。

(18) この国家では1960年代、党の最高指導者が自らの党組織に対する攻撃を呼びかけ、大規模な政治運動が始まった。この運動は何と呼ばれるか。

3 (20点)
 18世紀のヨーロッパでは、理性を重視し、古い権威や偏見を批判する啓蒙思想が有力となった。イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

4 (30点)
 次の文章(A,B,C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代以来、西洋では船が運輸と軍事で重要な役割を果たした。フェニキア人は二段櫂(かい)船などを用いて海上輸送を行い、地中海沿岸に(1)植民市を建設した。ギリシア人は衝角を備えた三段櫂船などの艦隊を用いて、前480年[ a ]の海戦でペルシア▲臨隊に勝利した。ローマ人も軍事用に▲擢船を用いたが、(2)前1世紀頃までに地中海がほぼ平定され、遠隔地交易が活発になると、帆船が発達した。
 9〜11世紀の地中海では、ビザンツ帝国の艦隊とシリアや(3)アンダルスなどから出撃するムスリムの艦隊が、ともに三角帆を備えた櫂船などで覇権を争ったが、イオニア海以西ではしだいにイタリア諸都市と(4)ノルマン人が勢力を伸張させた。7回に及んだ十字軍の遠征では、第1・2回においてその主力は陸路でシリア・パレスチナへ進軍したが、第3回以降は海軍と海上輸送される兵士が中心となった。兵士や馬に加え、多くの(5)巡礼者と物資を輸送するため、ヴェネツィアやジェノヴァでは多くの櫂船と帆船が建造された。
 13世紀末、ジェノヴァの船がジブラルタル海峡経由でフランドルへ到達し、[ b ]と地中海という二つの海域を結ぶ航路が開設された。この頃、[ b ]・バルト海間の通商では、ハンザ▲同盟の盟主[ c ]とハンブルクをつなぐ河川路・陸路が主軸であったが、15世紀以降、[ b ]とバルト海をむすぶ(6)エーレスンド(▲ズント)海峡の通航量が増大し、バルト海沿岸から西欧へ生活物資が大量に帆船で運送されるようになった。地中海でも商用帆船は発達したが、軍事用では櫂船が16世紀に至るまで支配的であった。


(1) フェニキア人が北アフリカに建設した代表的な植民市の名を記せ。

(2) ●地中海をかこむ諸地域を支配下に入れたオクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて、ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩を書いた人物の名を記せ。

(3) 8世紀半ば以降、コルドバを首都として、この地域を支配していた王朝の名を記せ。

(4) 12世紀前半、ノルマン人が地中海域に建てた国の名を記せ。

(5) 巡礼者の保護などのために設立された代表的な宗教騎士団の名を二つ記せ。

(6) ●15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名を記せ。

B 支配的な権力や勢力に強制されて、あるいはよりよい機会を求めて、故地を出て各地に離散した人々やその状態をあらわす、(7)ディアスポラという概念がある。この切り口から見ると、ヨーロッパ近世・近代史は、たえずディアスポラを生みだす歴史であった。
 (8)コロンブスがサンサルバドル島に到達した年、数万人のユダヤ人がスペインから追放された。彼らは西欧諸国およびオスマン帝国へと移住し、商業などで目覚ましい活躍をする者もあらわれた。また、同じくスペインから、モリスコ(キリスト教に改宗した元イスラーム教徒)が、(9)1568〜71年の反乱の鎮圧を経た後の17世紀初頭、約30万人追放された。そのうちの大部分はモロッコなど北アフリカに逃れた。
 宗教改革の影響で、新教・旧教の双方からディアスポラが発生した。ヘンリ8世によって国教会体制が敷かれたイギリスでは、(10)▲カトリック教徒が厳しい制約の中でひそかに信仰を守ったが、一部は国外へ逃れ、故郷の同宗信徒との関保を保った。フランスでは、16世紀後半の宗教内乱を経てしばらくはユグノーの信教は許容された。しかし、(11)1685年にナント王令が廃止されるなどしたため、多くのユグノーがイギリスやスイス、オランダやプロイセンへと逃れ、共同体をつくり、またフランスで迫害に遭っている仲間の救済に尽力した。
 政治闘争の敗北者たちが一種のディアスポラを形成することもあった。名誉革命で王位を追われたジェームズ2世はフランスにわたり、やがてパリ西方のサン=ジェルマン・アン・レーに亡命宮廷を構えたが、ここは、(12)ジェームズの王統をなおも信奉する人々、ジャコバイトにとって物心両面での拠り所となった。また、(13)フランス革命の際にはエミグレ(亡命貴族)が発生し、異郷で反革命を画策し、帰還の機会をうかがった
 経済的要因が強く作用したディアスポラの例もある。たとえば、ヨーロッパ人が深く関与した奴隷貿易によって(14)膨大な数の黒人がアフリカから離散した。また、(15)南ロシアで1881年に大規模なポグロム(ユダヤ人に対する襲撃)が生じたことも手伝って、その後、(16)多くのユダヤ人が住んでいた場所を捨て、西方のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移民していった
 このような各種のディアスポラは国の枠を越えて拡大し、ヨーロッパ諸国にとっては、これらの人々をどのように処遇するにせよ、つねに憂躍すべき要素となった。


(7) この語は古代ギリシア語に起源を持つが、もっぱらパレスチナ地方を追われたユダヤ人と関連付けられてきた。19世紀末になると、各地に散ったユダヤ人の間で民族的郷土の建設を求める運動が活発化した。この運動を何と呼ぶか、記せ。

(8) この追放令が発せられた時のスペインの女王の名を記せ。

(9) これと同じ時期にスペイン王を悩ませる大規模な反乱を開始し、十数年後に独立を宣言した国がある。その国の中心都市で、17世紀に国際金融の中心となった都市の名を記せ。

(10) ●そのような状況にもかかわらず、彼らは16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ。

(11) この頃プロイセンを統治していた家門名を記せ。

(12) ●彼らは18世紀初頭にイギリスで王朝交代があったその翌年に、ジェームズ2世の息子を奉じて反乱を起こした。これを撃退したイギリスの新しい王朝の名を記せ。

(13) ●反革命の動きに対抗して、革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国の名を記せ。

(14) 彼らが輪送先のプランテーションで栽培に従事した主な作物を二つ記せ。

(15) ●1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ、それがボグロムの引き金となったとされる。この人物の名を記せ。

(16) ユダヤ人など多くの移民を生み出したロシア・東欧と並んで、1880年代にエリトリアを植民地化したある国からも、アメリカ大陸への移民が増大した。この国の名を記せ。

C 第二次世界大戦後に出現した、アメリカ合衆国とソ連を頂点とする二極構造の国際システムは、時間の経過とともに、より多極的な構造に移行していった。
 非共産主義世界では、(17)西ヨーロッパ諸国と日本が急速な経済成長を遂げたことで、アメリカの経済的地位は相対的に低下した。(18)ベトナム戦争の長期化により、アメリカの経済的疲弊はさらに深まった。(19)1970年代初頭、アメリカが自国の経済的利益を優先する政策を採用したことを契機に、ブレトン・ウッズ体制は大きく変容することとなった
 社会主義国よりなる東側陣営では、(20)1956年にソ連のフルシチョフが新たな政治路線を打ち出したことを大きな契機として、陣営内でさまざまな変動が生起した。中国はフルシチョフの新たな路線を批判し、(21)中ソ関係は国境をめぐる軍事衝突が発生するまでに悪化、最終的に中国は東側陣営から事実上離脱した。一方、東ヨー口ッパでは、抑圧的な国内政治体制と、ソ連の支配への批判がまり、ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアで政治的自由化に向かう動きが断続的に発生した。
 かつて植民地や半植民地などとして経済的に従属的な地位に置かれていた地域は、政治的独立を果たした後にも、低開発に苦しむことが多かった。しかし、このような地域の中からも、韓国・(22)台湾・シンガポール・香港・ブラジルなど、比較的早い段賠から急速な経済成長に成功する国や地域が現れた。これらが、のちに(23)新興工業経済地域(NIES)と呼ばれる地域のさきがけとなった。


(17) ▲古ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が結成される契機となった提案を行ったフランス外相の名を記せ。

(18) ベトナムからのアメリカ軍の撤退を定めた和平協定が締結された都市はどこか。

(19) 1971〜73年にブレトン・ウッズ体制に生じた変化を、それに関連するニクソン政権の政策と合わせて、簡潔に説明せよ。

(20) ●このときフルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について、簡潔に説明せよ。

(21) 1969年3月に、ソ連と中国の間で領有権をめぐって大規模な戦闘が起こったのはどこか。

(21) ●1988年に総統に就任し民主化を推進した人物の名を記せ。

(22) ●新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴を、簡潔に説明せよ。

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第1問 (20点)
 課題は「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワード(マムルーク カラハン朝)を両方とも用いて」でした。このイスラーム化の中身は前半の文「イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々」と説明してあります。つまり宗教を受けて入れただけでなく、「イスラーム文化」を受容したことも入っています。大きくは「文化」の中に「宗教」もはいりますが、ここでは分けて問うているので「宗教以外の文化」ととればいいでしょう。自分・他人(予備校も含む)の解答を批判するときに、宗教以外の文化がどれだけ考慮してあるか見るといいのです。この考慮がないとたんなるトルコ人のイスラーム王朝興亡史になります。
 たとえば以下のような解答。

アッバース朝の下でトルコ人は軍人奴隷であるマムルークとして組織され、イスラーム世界で軍事力の中核を担うようになった。他方、トルコ人のウイグルがキルギスにより崩壊すると、彼らの一部が中央アジアに移動し、イスラーム教を受容してカラハン朝を樹立した。これ以降、トルコ人の間でイスラーム化が始まった。彼らはアフガニスタンにガズナ朝を樹立し、次いで北インドへと侵攻した。さらに中央アジアで成立したセルジューク朝はバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。その後アナトリアにも進出し、この地域のイスラーム化を進めた。また彼らはエジプトで成立したアイユープ朝でもマムルークとして活躍した。

▲トルコ人がイスラーム化した、つまりイスラーム教という宗教に改宗したのは、中央アジアに移動してからですが、それまでは何を信じていたのでしょう? マニ教や仏教です。また指定語句のカラ=ハン朝から中央アジアのトルコ(人)化(トルキスタン化)も始まりました。印欧語系のひとびと(ソグド人)のところがトルコ人の住む地に次第に変わったのは、このトルコ人の中央アジアへの大移住の結果でした。またイスラーム化したため、アラビア語(文字)の採用も伴ったはずです。アッバース朝下のマムルークになった時点ではアラビア語の採用は確かです。これらが文化です。ただ、まだトルコ=イスラーム文明(文化)という点にまで発展していません。いずれティムール帝国(14〜15世紀)になって完成します(トルコ文学、細密画、天文学)。

第2問
 難解そうなところだけ解説します。大半はかんたんな問題なので。
A 空欄[ c ]は下に2回目に出てくるのがヒントです。「高洋が[ c ]の禅譲を受けて北斉を建国」とあり、北斉の前が何かを推理する。北魏が分裂して東西に分かれ、東魏・西魏となり、それぞれ北斉・北周と受けつがれます。それで東魏が正解。統一の方向は東魏でなく、西魏→北周→隋という順でしたが。

問(3) 「遼東郡を設置した国の名」のヒントは「戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた」という前文です。七雄の中で遼東半島に一番近い国、北京(当時の名は薊)の支配者はなんという国か、ということ。燕雲十六州でも表現している国名・都市名です。

問(6) (ア) 「五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族」とは五胡を全部数えたら出てくるかも知れない。匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の中の羯(けつ)です。氐と羌はチベット系。

問(8) (ア) 「渤海の国都」は、教科書によっては長安、平城京とともに碁盤の目の都城図が載っているので覚えているひともいるだろう。

第3問
 課題は「イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか」でした。ここにはいくつもの要求があります。まずなにより英普の比較です。自分と他人(予備校も)の答案を批判する際に、この比較ができているかどうか、つまり啓蒙思想の受容が英普でどうちがったのか、政治への影響のちがい、社会への影響のちがい、がそれぞれ3点書いてあるかどうか。「比較しながら」はこの3点全部に及びます。

 そもそも啓蒙思想家を想起できるかどうか、ですね。教科書では啓蒙思想家とあればフランス人で埋まっていますが、英国ならロックとアダム=スミスくらいでしょうか。ロックは17世紀のひと(1632〜1704)ですが、その影響は18世紀にもあります。アメリカの独立宣言に彼の思想が息づいていることは学んでいるはずです。つまりそれだけ読み継がれているということです。この他には? いますよ。
 選挙法改正運動をおこなったベンサム(1748〜1832)もいます。選挙法改正は第1回は1832年に実現し、この年にベンサムも死去しますが、運動自体は18世紀末からありました。かれの「最大多数の最大幸福」の主張は1768年の著書から現れていて、これを実現する方法が選挙法改正でした。
 奴隷貿易の廃止は1807年に、奴隷労働の廃止は1833年に実現しますが、その代表的な運動者ウィルバーフォース(1759〜1833)が生きていたのも18世紀です。「1787年にウィルバーフォースの友人、グランビル・シャープが1786年に設立した奴隷貿易廃止促進協会にウィルバーフォースも参加した」とウィキペディアの記事にあります。
 トマス=ペイン(1737〜1809)はアメリカ人? いいえ、イギリス人です。用語集に「イギリス生まれの文筆家・革命思想家。76年に「コモン=センス」を著し、独立への気運を高めた。のちフランス革命で国民公会の議員を務めた」と書いてありますよ。つまり英仏米で活躍した人物です。イギリスで出版した『人間の権利』(1791)で貴族攻撃をしたためイギリス政府に追放され、パリに渡ってフランスの市民権を得、国民公会では新憲法の草案作成委員会にまでなるという特異な人物です。
 また『ロビンソン・クルーソー』(1719)の作者デフォー(1660〜1731)もあげることができます。「その『イングランド人民全体の本源的権力の検討と主張』(1701)によって、ロック思想の普及者となった、といわれる。この書物は、ケントの地主が提出した下院への請願の内容が不穏当であるとして請願者が逮捕されたのに抗議し、人民の権力こそあらゆる権力の根源であることを主張したものであり、そのほかのいくつかのパンフレットにおいても、デフォーは王権神授説批判、社会契約説、抵抗権論などを展開している。しかしこのことはかれが体制批判者であったことを決して意味しない。かれは抵抗権を主張しつつ、革命には反対なのであり、名誉革命を支持しつつ、クロムゥェルの共和制に対しては最大級の非難をなげかけるのである。こういう態度はデフォーだけでなく、当時ふつうにみられたところであったが」(浜林正夫著『イギリス民主主義思想史』新日本出版社,p249)。
 ドイツの啓蒙思想家にはライプニッツやカントが含まれますが、大陸合理論のライプニッツには民主主義に関する言論がありません。観念論のカントは、立憲君主政の主張者だが、ロックのような市民の抵抗権・革命権は認めず、服従を解いた思想家でした。フランス革命に拒絶反応を示したことでもそれは表れています。
 イギリスはアダム=スミスだけあげて、プロイセンは啓蒙思想家を挙げない解答も変な者ですが、そういう解答例ばかり見てきたでしょう。
 またイギリスでは議会とか責任内閣制のことが書いてあるのに、プロイセンで議会がどうだったのか何も書いてないものも多い。また影響としてプロイセンでは農奴解放ができなかったのに、さも出来たかのように書いてある答案例も見たでしょう。「比較」の問題が出題されると、どうしようもない程ひどい答案を書いてしまうものです。「比較」文を書く方法論がないためです。

第4問
 難問だけの解説です。
A 
(2) 「オクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて」では分からなくても「ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩」=『アエネイス』の作者は誰か、という問題。ラテン語の発音としてはウェルギリウス、ヴェルギリウスも可。

(6) 「15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名」とは、カルマル同盟(1397)以来のデンマーク王国。16世紀(1523)にスウェーデンが独立するまでのこと。

B
(10) 「彼ら(カトリック教徒)は16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ」という問。「16世紀半ば」とはエリザベス1世(1558)の前がカトリックの女王でした。ブラッディ・メアリーという名をもらうことになった迫害を行った。映画『エリザベス』では新教徒に改宗した牧師たちを火刑にする場面からでした。

(12) 「18世紀初頭にイギリスで王朝交代……イギリスの新しい王朝」という問題。アン女王で断絶したステュアート朝の後はドイツからジョージ1世が来ました(1714、『ワンフレーズ』の覚え方ではでは「歯NO婆、どないしょ」)。この王朝名は?

(13) 「革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国」はマリー=アントアネットの出身国です。母はマリア=テレジア。

(15) 「1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ……この人物」ということは農奴解放令を発布した皇帝です。発布は20年前でした。

C
(20) 「フルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について」=「スターリン批判」の内外政策です。内は個人崇拝の否定、外は資本主義国と平和共存、あるいは暴力革命の否定です。

(21) 「1988年に総統に就任し民主化を推進した人物」。それまで長いこと総統は蒋介石、次に厳家淦(75〜77)、そして蒋の子(蒋経国、77〜87)が就いてきた。京大農学部で学んで共産党員にもなったが2年で離党した。戦後、米国に留学、帰国して大学教授となった。1971年に国民党に入党してから政界入りした。

(22) 「新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴」という課題なので、開発独裁といわれる政治的な要素は要らない。輸入代替型の工業化(輸入している工業製品の国産化)を進めていたが,その後輸出指向型の工業化(技術導入・研究開発を支援し、関税を引下げて外資系企業の誘致を促す政策をとり、輸出を促す)を推進したことを指し、1960年代から世界平均を上回る高度成長を遂げていきます。

(わたしの解答例)
第1問
9世紀ウイグル文字をもつウイグル人がキルギスに追放され西走すると、天山山脈西北にカラハン朝を建国した。かれらは更に西進し、中央アジアをトルキスタン化するとともに、マニ教・仏教の信仰からイスラーム教に改宗した。10世紀、サーマン朝を破り、トルコ人はマムルークとしてアッバース朝に雇われ軍事の中核となり、この頃アラビア文字を採用した。11世紀にセルジューク朝を建国、バグダードに入城してブワイフ朝を追放した。その結果トゥグリル=ベクはスルタン称号をもらいカリフを宗教的権威のみに落し政治権力を握った。ビザンツ帝国を脅かしたが、十字軍との戦いから分裂していった。マムルークたちはアイユーブ朝の軍事を担った。
第2問
空欄 a司馬炎 b拓跋 c東魏
(1)陰陽家
(2)太平道
(3)燕
(4)(ア)司馬遷 (イ)クシャーナ朝
(6)王莽(草冠+犬+草)
(6)(ア)羯 (イ)仏図澄
(7)宋
(8)(ア)上京竜泉府 (イ)猛安(・)謀克 (ウ)ヌルハチ
B
空欄 d趙匡胤 e東林 f国民党
(9)党錮の禁
(10)殿試
(11)財政再建、軍事力強化
(12)科挙廃止
(13)民権伸張、民生安定
(14)変法運動
(15)(幹線)鉄道
(16)二十一カ条要求
(17)西安
(18)(プロレタリア)文化大革命
第3問
英国で受容したのは産業資本家・革新的ジェントリーであり、市民政府論のロック、人権論のトマス=ペイン、自由放任のアダム=スミス、功利主義のベンサムの諸説を受け入れた。普国で受容したのは近代化を急ぐ国王と一部のユンカー層に限られ、大陸合理論のライプニッツ、観念論のカントの説を受容した。政治的影響は、英国では責任内閣制を実現して国王の権力を無力化し、議会政治の発展が見られ、選挙法改正運動が起きた。しかし普国では国王の権力強化・中央集権化に寄与した。官僚による統治は発展したが議会政治の発展はなかった。社会的影響は英国では奴隷解放運動に発展した。普国では宗教寛容令に表れたが農奴解放を実現しなかった。
第4問

空欄 aサラミス b北海 cリューベック
(1)カルタゴ
(2)ウェルギリウス
(3)後ウマイヤ朝
(4)両シチリア王国
(5)ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団・テンプル騎士団 (うち2つ)
(6)デンマーク(王国)

(7)シオニズム
(8)イサベル(イザベル)
(9)アムステルダム
(10)メアリ1世の旧教復活
(11)ホーエンツォレルン家
(12)ハノーヴァー朝
(13)オーストリア
(14)綿花(棉花)・サトウキビ・タバコ(うち2つ)
(15)アレクサンドル2世
(16)イタリア

(17)シューマン
(18)パリ
(19)アメリカがドルと金の交換を停止し,そのため固定相場制は変動相場制へと移行した。
(20)国内は個人崇拝否定によるスターリン批判、対外的には資本主義諸国との共存と平和革命の主張。
(21)ダマンスキー(珍宝)島
(22)李登輝
(23)それまでの先進国製品の国産化から、先進国の技術・資本を導入し、輸出へと転換した。

 

京大世界史2010

第1問(20点)
 中国共産党について、その結成から中華人民共和国建国にいたる歴史を、中国国民党との関係を含めて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)の[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(12)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代オリエントでは、大河の流域で、はやくから灌漑(かんがい)農業が行われ、定住が進み、都市を中心とした文明が生まれた。メソポタミアでは、前3000年頃からシュメール人が、[  a  ]川下流域のウル・ウルクなど様々な都市国家を築いた。前24世紀頃これらの都市国家を征服してメソポタミアを統ーしたのがセム語族の[  b  ]人である。その後、同じセム語族の(1)アムル人が強力な国家を建設し、前18世紀前半ハンムラビ王のとき全メソポタミアを支配下に置いた。この王国は、小アジアに建国したヒッタイトに滅ぼされた。一方、エジプトでは前3000年頃までに最初の統一王国が生まれ古王国はメンフィス、中王国はテーベを中心に栄えた。新王国では、前14世紀半ば(2)アメンホテプ4世が改革に着手して遷都すると、新都を中心に写実的な[  c  ]美術が生まれた
 エジプト王国とヒッタイト王国が弱体化するとシリア・パレスティナでは、セム語族の3民族、[  d  ]人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。(3)[  d  ]人は前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍し、フェニキア人は沿岸部にシドン・ティルスなどの都市国家をつくり、地中海交易を独占した。前7世紀前半に古代オリエントはアッシリア王国により統一され、その崩壊後はイラン人が大帝国[  e  ]朝ペルシアを建設したが、前4世紀後半アレクサンドロス大王がこれを滅ぼした。
 アレクサンドロス大王没後そのアジアの領土はセレウコス朝に受け継がれたが、前3世紀半ばにはバクトリアが独立し、またイラン系のパルティアが建国された。パルティアが[  f  ]川河畔に築いたクテシフォンは、パルティアおよびこれを倒した王朝の首都となった。ヘレニズム時代に最も繁栄したのがプトレマイオス朝で、首都[  g  ]には研究所・図書館が建設され、学問の中心となった。プトレマイオス朝が滅びローマ帝国が拡大すると、(4)アラビア半島やシリア砂漠のオアシス諸都市は隊商都市として繁栄した
 7世紀初めアラビア半島西部の交易路上の都市にイスラームが興った。預言者ムハンマドと第3代までの正統カリフは[  h  ]を活動の拠点としたが、その後成立したウマイヤ朝はダマスクスを首都とした。(5)8世紀後半にアッバース朝が新都バグダードを築くと、この都市は、13世紀後半カイロにとって代わられるまで、イスラーム世界の政治・経済・文化の中心として繁栄した。東方では10世紀にサーマーン朝の首都[  i  ]、11〜12世紀にはセルジューク朝下の主要なイラン都市においてイラン=イスラーム文化が栄えた。

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(1) (ア)この王国(王朝)の首都の名を記せ。
  (イ)この首都の位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(2) この新都の位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(3) ダマスクスの位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(4) シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し、現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ。
(5) バグダードの位置を地図上のA〜Nの中から選べ。

B 16〜17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが、国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(6)ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった[  j  ]はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴォルガ流域を制圧し、(7)そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(8)ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで[  k  ]というモンゴル国家が存在し続けた。
 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺(だいこうあんれい)以東の[  l  ]族のなかからヌルハチが台頭し、1616年にはハンを称した。ついで、(9)その子の[  m  ]は1636年に、本来は“主人筋"であった内モンゴル諸王侯に推戴(すいたい)されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(10)清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。
 (11)康熙帝・[  n  ]から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は、外モンゴルおよび[  o  ]仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ[  p  ]と激しく争いあう時代でもあった。(12)清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、1793年に乾隆帝のもとを訪れた[  q  ]が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。


(6) ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこのモンゴル国家は何というか。
(7) 1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(8) ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(9) このときの首都はどこか。
(10) このときの清朝の皇帝は誰か。
(11) 康熙帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(12) このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。

第3問(20点)
 古代ギリシア・ローマと西洋中世における軍事制度について、政治的・社会的な背景や影響を含めて、それぞれの特徴と変化を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章CA、B、C)の[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代末期にはじまる東西のキリスト教会の対立は(1)8世紀の聖像をめぐる論争によってますます深まり、11世紀には両教会は完全に分離するに至った。この東西教会の分離に先立って、ビザンツ帝国はスラヴ諸民族のあいだにキリスト教の布教活動を展開していた。9世紀には(2)ギリシア出身の修道士の兄弟がビザンツ皇帝によってモラヴィアに派遣され聖書と典礼書を現地の言語に翻訳し、布教を試みた。10世紀末には、キエフ公国の大公[  a  ]がビザンツ皇帝の妹との結婚を機にギリシア正教に改宗した。
 (3)1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、モスクワ大公[  b  ]は最後のビザンツ皇帝の姪と結婚して(4)ツァーリを名乗り、自らをローマ帝国の継承者とみなした。また、コンスタンティノープル総主教のもとに従属していたモスクワ府主教は、1589年に総主教の地位に格上げされ、ビザンツ滅亡後の正教世界においてロシア正教会が指導的役割をはたすべきであるとする主張の実現が目指された。
 他方、(5)ローマから西方のキリスト教を受容したポーランド・リトアニアでは、(6)16世紀後半から、対抗宗教改革の一環として、カトリック教会がウクライナの正教徒社会への布教活動を推し進めた。西方のラテン=キリスト教文化の影響が浸透することによって、正教会の内部には対立が生じた。1652年にモスクワ総主教に就任したニコンは教会儀礼の改革を断行したが、かえってロシア正教会の分裂をもたらした。さらに、俗権に対する教権の優位を主張したニコンは、やがて(7)ツァーリであるアレクセイ=ミハイロヴィチと対立して総主教を解任された。18世紀前半、ピョートルl世は総主教制を廃止し、宗務院を設置して正教会を国家機関のなかに組み込んだ。この状態は、ロシア革命後に宗務院が廃止されるまで続いた。


(1) 8世紀前半に聖像崇拝を禁止する布告を発したビザンツ皇帝の名を記せ。
(2) この修道士の名前を1人挙げよ。
(3) このときコンスタンティノープルを攻略してアドリアノープル(エディルネ)からこの地に首都を移した君主の名を記せ。
(4) この称号の語源となった古代ローマの有力政治家の名を記せ。
(5) ポーランド人と並んで、ローマ=カトリックに改宗した西スラヴ系の民族を1つ挙げよ。
(6) このときカトリック布教の中心となった修道会は、1534年に設立され、中国や日本でも活発な布教活動を行った。この修道会の名称を記せ。
(7) このツアーリの治世下、1670年から71年にかけてヴォルガ川流域からカスピ海沿岸にかけての地域で大規模な反乱が発生した。
 (ア) この反乱の中心となった戦土集団の名称を記せ。
 (イ) この反乱を指導した人物の名を記せ。

 人口の増減や移動はヨーロッパ近代史を強く規定した。
 大航海時代の幕開けとともに、ヨーロッパの人々はヨーロッパの外の世界からのさまざまな影響にさらされるようになった。(8)中世後期に激減した人口の回復基調とも重なり、また、南米から大量の銀が流入し、物価騰貴がもたらされたことも刺激となって、(9)16世紀には、商業活動が新たに盛り上がった。しかし、17世紀に入ると様相は一変し、深刻な人口停滞と経済不況を含む(10)「17世紀の危機」と呼ばれる状況があらわれた。
  危機の時代を経て、ヨーロッパは新たな局面に入った。ある推計によると、ヨーロッパの人口は、1750年に1億4400万人であったが、1850年には2億7400万人、1900年には4億2300万人と、(11)未曾有のペースで増加した。これは、同じ時期にヨーロッパ社会を大きく変容させることになった一連の産業革命の原因であり、また結果でもあった。
 たとえば、世界最初の産業革命の地イギリスにおいては、農業生産方式の革新が、都市の人口、言い換えれば商業や工業を担う人々を支えた。(12)1851年には、イングランドの実に37.6%の人が人口2万人以上の都市に住むようになった。そして、こうした都市民を中心に構築された巨大な消費市場は、世界中の商品を引き寄せた。
 上述の人口推計には、(13)ヨーロッパの外への移民の数は含まれていない。その数は、20世紀の最初10年間だけで、約120万人にも及んだ。それほどヨーロッパにおける人口の伸び、したがって人口の圧力には、著しいものがあった。


(8) (ア) この時期の人口激減のもっとも大きな要因になった病気の名前を記せ。
  (ィ) パリに生まれ、ナポリやフィレンツェに暮らしたある人物は、(ア)の要因をきっかけに集まった10人の男女が順に話を語り継ぐ、10日間の物語を書いた。この人物の名を記せ。
(9) 一方で、それまでヨーロッパ経済における一大勢力であったイタリア諸都市は、相対的重要性を次第に低下させただけでなく、政治的にも混乱し、イタリア戦争の舞台となった。この戦争に中心的に関わった二つの王家を挙げよ。
(10) 17世紀の危機は三十年戦争に代表されるように戦争や反乱の頻発という形でもあらわれた。この時期フランスで起きた大規模な貴族反乱を記せ。
(11) 18世紀の末、このような人口増加の問題について鋭い診断を下して、大きな衝撃を与えた学者の名を記せ。
(12) (ア)同じ年、イギリスの工業力を内外に誇示する壮大なイベントが催された。それは何か。
  (イ) 産業革命期、急激に人口が増え、コブデンやブライトが活躍したことでも知られる都市の名を記せ。
  (ウ) 1871年の段階で、ドイツの同じ数値は7.7%であった。しかし、その後ドイツは急速な都市化と工業化を遂げ帝国主義的拡張を追求するようになり、イギリスの脅威となった。このような「世界政策」を行った皇帝の名を記せ。
(13) (ア) 19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、アイルランドやドイツ、ロシア、東欧、南欧からの移民の大半が向かった国はどこか。
  (イ) アイルランドから大量の移民を出すことになった大きなきっかけは何か。

C 西ヨーロッパ世界の外部への拡大過程で、東南アジアは次第に世界経済に組み込まれ、19世紀末までにその大部分が西ヨーロッパ諸国の植民地に編成されていった。
 16世紀には、スペインとポルトガルが、香料などを求めて東南アジアに進出した。スペインはフィリピンを領有したが、ポルトガルは(14)東南アジアではごく小さな領土を保持するにとどまった。17世紀にはオランダとイギリスそれぞれの東インド会社が勢力を競ったが、まもなくオランダが優位を築き、のちに(15)オランダ領東インドとなる東南アジア島嶼(とうしょ)部の広大な領域を勢力下におさめていった。一方、イギリスはナポレオン戦争後に海峡植民地を建設し、同植民地はのちの(16)イギリス領マラヤ」の中心となった。インドシナ半島では、19世紀後半にフランス領インドシナ連邦が建設された。
 20世紀初頭には東南アジア各地で(17)植民地支配に抵抗しさらには政治的独立を要求する民族運動が勃興した。第二次世界大戦中にこれらの地域の植民地政府が一時的に崩壊すると、独立への動きが加速した。インドシナでは、大戦終結の直後にベトナム民主共和国の独立が宣言されたが、(18)植民地支配の回復を求めるフランスとの戦闘が1954年まで続いた。オランダ領東インドでも、(19)インドネシア共和国の独立が宣言され、オランダとの武力闘争を経て、1949年に正式な独立が認められた。イギリス領マラヤは1957年にマラヤ連邦として独立し、(20)1963年に周辺のイギリス領を加えてマレーシア連邦を形成した


(14) 旧ポルトガル領で、1976年にインドネシアに併合された後、2002年に完全独立した地域の名称を記せ。
(15) 輸出用作物の栽培を促進するためにオランダがジャワ島に1830年代に導入した制度の名称を記せ。
(16) イギリス領マラヤから輸出された主要な鉱物資源は何か。
(17) 1910年代のオランダ領東インドで最も大きな勢力を誇った民族主義組織の名称を記せ。
(18) 1954年に締結されたジュネーヴ協定においてベトナムについて合意された内容を簡潔に説明せよ。
(19) 1960年代後半にインドネシアの実権を掌握し、開発独裁体制を築いた指導者の名前を記せ。
(20) マレーシア連邦の結成に参加したある地域は、1965年に連邦から分離独立した。
 (ア) この地域の名称を記せ。
 (イ) 分離独立の背景を簡潔に説明せよ。
………………………………………
コメント
第1問
 ここに各予備校のHPで公表されている答案例を陳列します。
 他人の解答を掲載する際にはルールが必要です。出典を示すこと、また引用したものはあくまで従であり、わたしの文章が主になっていなくてはならないことです。▲の横から始まるコメントがわたしの文章(見方)です。

 課題は「中国共産党について、その結成から中華人民共和国建国にいたる歴史を、中国国民党との関係を含めて300字以内で説明せよ」でした。主問は共産党史であり、副問として「国民党との関係」が付いています。時間は1921年から1949年までです。どれくらい中国共産党史に迫った内容になっているかが判定基準です。この基準は大学が求めていることであり、受験生も、たぶん(?)予備校も求められる基準です。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai〜juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k01.html
中国共産党は、1921年コミンテルンの支援のもと上海で結成された。そして中国国民党と第1次国共合作を行い、軍関打倒をめざす北伐をともに始めたが、上海クーデタ後に合作が破綻すると、紅軍を組織して各地の農村に根拠地を建設し、1931年瑞金で毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。しかし国民党の攻撃を受け、長征を開始して延安に移動した。その間に八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成を訴えると、西安事件が起こり、日中戦争の勃発後、第2次国共合作が成立して両党は抗日戦を展開した。戦後、国共内戦が本格化すると、土地改革で農民の支持を得た共産党が勝利し、1949年中華人民共和国を建国した。
▲まちがいのない解答ですが、共産党史という主題において、コミンテルン・八・一宣言の詳しめの説明は不可欠ではありません。紅軍を書いたのであれば、むしろ発展した八路軍・新四軍などを入れた方がより党史になります。それでいえば「1949年中華人民共和国を建国」とするより、「1949年人民解放軍が統一した」とすれば一貫性があります。また長征途中の遵義会議を入れて毛沢東の実権確立を入れた方が瑞金での毛沢東が「主席」だという借りものにすぎなかった地位の説明より大事でしょう。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/kyodai/sekai/index.htm
中国共産党は第一次世界大戦後コミンテルンの指導下に結成され、その後軍閥打倒のため国民党と第一次国共合作を行って北伐を開始したが、国民党の蒋介石による上海クーデタで合作は崩れた。その後、日本の満州進出が激しくなるなか、瑞金の中華ソヴィエト共和国に対し蒋介石が猛攻を加えたため、共産党は長征を行って拠点を延安へ遷す一方、八・一宣言を発して一致抗日を呼び掛けた。これに呼応して張学良が起こした西安事件を機に両党の話し合いが始まり、日中戦争の勃発直後に第二次国共合作が成立し、両党は協力して抗日戦を遂行した。しかし、日本が敗れると内戦が再開され、勝利した共産党が中華人民共和国を建国し、国民党は台湾へ逃れた。
▲「第一次世界大戦後コミンテルンの指導下に……その後、日本の満州進出が激しくなるなか……日本が敗れると内戦が再開され」は共産党史という主題の中では無くてもいいものです。日本との関係を問うているのではないし、どうしても当時の東アジアの全体状況を書いてしまいやすい傾向があるので、これを抑えて党史に集中した解答にすべきでした。紅軍・八路軍・遵義会議・土地改革などを入れた方がベターです。
 下の解答例は皆同じコメントでいい。たがいに見合いながら書いたかのように酷似した答案で上の答案と同じ欠点をもっています。合格者の再現答案と比較したら、密度の点で、ということは得点の取り方の点で予備校の解答が薄っぺらい解答であることが判別できるでしょう。(→こちら)

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
中国共産党は、1921年コミンテルンの指導で結成された。その後24年に中国国民党と第一次国共合作を成立させて北伐を行ったが、国民党の蒋介石による弾圧を受け内戦が始まった。日本の侵略激化のなか、31年には江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国を成立させたが,国民党の攻撃にあい本拠地を陝西省延安に遷す長征を開始した。この途上で共産党がハ・一宣言を発して一致抗日を唱えると,国民党側にも同調者が現れ蒋介石が監禁される西安事件が発生した。この事件が共産党の調停により解決すると第二次国共合作が成立したが,終戦後には内戦が再開され、共産党は最終的に勝利して49年に中華人民共和国を建国し、敗れた国民党は台湾へ移動した。(297宇)

(代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/kyoto/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
【解答例】
11921年、コミンテルンの支援により中国共産党が結成され、24年には国民党との第一次回共合作が成立した。26年に北伐が発動されたが、総司令の蒋介石が上海で反共クーデタを起こし、国共合作は崩壊した。共産党は農村に拠点を移し、31年には瑞金に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が成立した。日本軍の脅威が迫るなか蒋介石は共産党攻撃を優先させ、共産党は拠点を放棄して長征を開始した。この途上共産党は八・ー宣言を発して抗日統一を呼びかけ、これに共鳴した張学良が起こした西安事件をきっかけに第二次国共合作が成立した。日本が敗退すると国共は再び分裂し、49年に中華人民共和国が建国され、敗れた蒋介石は台湾に逃れた。(300字)

 なお、どの解答例も西安事件について言及しつつも、共産党の関わりを積極的に書いているのは(東進)のものだけです。山川用語集には「中国共産党の周恩来らの説得によって」と書いてあります。説得の必要性は、すぐは折れない蒋介石に対して、張学良と楊虎城の名で、全国に向かって内戦停止、一致抗日を訴えたため国中が粉糾しだしたからです。中国の最高指導者の監禁という異常な事件に対して、裁判や公開処刑の声もあがっていました。張の依頼を受け、周恩来・葉剣英らが延安から飛来して、蒋介石を説得するとともに、南京代表の宋子文、宋美齢らと折衝を重ね、和解に達したのは共産党の働きです。この会談の結果、すぐ第二次国共合作ができたのではないが内戦停止にはなりました。共産党の関わりなしに解決できない事件でした。
 ベネッセ(http://tk.benesse.co.jp/k_conquest/prompt_report/k_w_history_10.html)の解説には「西安事件など、共産党と関わりの薄い事項は適宜削除することも必要だ」とありますが、「国民党との関係を含めて」と要求されている問題に、こういうアドバイスする気が知れない。もちろん、ここに書いているわたしの意見は、わたし個人の意見であり、眉唾つけながら読んで下さい。冷静な目を。

第2問
A
 上から順に空欄・下線の区別なしで解説します。地図以外はほぼセンター試験のレベルです。
空欄a ウルやウルクが何川下流域かと問うている細かい問題です。地図にあるK・L側がユーフラテス川、J側がティグリス川です。Lの周辺にあったと思い出せたら正解です。拙著『センター世界史B各駅停車』(以後『各駅』と省略)p.135にもウルとウルクの位置が地図が載ってます。

空欄b 「メソポタミアを統ーしたのがセム語族」とあるのでサルゴン1世の国・アッカド王国で、アッカド人となります。シュメール→アッカド→バビロン第一王朝の順は「朱赤はびこる」で覚えます(『各駅』p.132)。

下線部(1) (ア)この王国はバビロン第一王朝(古バビロニア王国)であり、王朝名のようにバビロン第一王朝が都です。(イ)その位置を地図上のK。反対側にあるJは問(5)のバグダードです。

下線部(2) テル=エル=アマルナの位置はナイル川沿いの都市Aアレクサンドリア、Bメンフィス、C正解、Dテーベが分かればいい(『各駅』p.128)。Bメンフィスの位置がちと下がりぎみではあります。

空欄c 写実的なという形容がつくこの首都の名前をとった言い方です。ありのまま写すように奨励したためアメンホテプ4世は妊娠した腹のように突き出た姿を後世にさらすことになりました。

空欄d セム語族でダマスクスを中心に交易、とあればアラム商人です。

下線部(3) ダマスクスの位置は、現シリア南部Fです、海岸線はレバノンになるのでEはフェニキア人の街ビブロスかシドン、Gはイェルサレムでしょう。

空欄e アッシリア帝国崩壊後の大帝国は四国分立後のアケメネス朝ペルシア帝国しかありません。それにアレクサンドロスによって滅ぼされる(前330)のですから。

空欄f クテシフォンはバグダードのあるティグリス川沿いを下っていくと東南にあります。クテシフォンの位置を確かめて勉強したひとはどれだけいるでしょうか?(『各駅』p.138,140の地図)。パルティアとササン朝の双方とも都になったので、「PSフォン」と覚えます。

空欄g プトレマイオス朝の首都なので、アレクサンドリア市。王立研究所ムセイオンは名高い自然科学の場でした(1998年度に出題)。

下線部(4) これはセンター・レベルではありません。「シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し」でも分からない、「現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ」といわれても受験生にとって有名ではないという世界遺産はたくさんあります。これはできなくていい問題でした。山川の用語集では頻度2ですが、わたしの持っている教科書7冊の中には記載したものがありません。もちろんパルミラのことはオリエント史の本を読めば出てくるので、そんなに細かいとは言えないが、受験生はそんなに歴史書を読めるはずがないので、できなくていい、と言ってます。なーに1点減点で恐がる必要はないのです。私大でもたまにしか出ません。最近では学習院(10・文学部)と慶應(07・法学部、語群にあるだけで正解ではない)で。

空欄h 正統カリフ時代の都ですから、メディナ(マディーナ、当時の名はヤスリブ)です。ムハンマド(マホメット)の母親の故郷であり、ムハンマドの墓地のあるところです。地図のIがメッカ(マッカ)で北のHがヤスリブです。

下線部(5) バグダードの位置はティグリス川沿いのJです。「ググ」と覚えます。出題されなかった地図のイラン(ペルシア)のMはスサで、Nはペルセポリスです。

空欄 i 地図の範囲外なので載っていませんが、地図の東側をもっと拡大すればアラル海に注ぐ南側の川にアム川というのがあり、その中流域にある都市です。ここを16世紀に支配したウズベク族が分かれてブハラ(ボハラ)=ハン国になるところです。イブン=シーナー(スィーナー、アヴィケンナ、980〜1037)がここの医師として名高い都市です(『各駅』p.144)。

B
下線部(6) 「ルーシと呼ばれた地域」とはロシアのこと。ロシアを支配したモンゴルの国、という易問です。

空欄J 「16世紀半ば、王となった」とあるのでイヴァン4世です。「半ば」は大雑把すぎますが、即位は1533年(『世界史年代ワンフレーズnew(以下『ワン』)』の語呂では「イヴァンナ、先1公5め3メ3ッ」)です。カザン=ハン国とアストラハン=ハン国はキプチャク=ハン国が分解して、ヴォルガ川上流にカザン=ハン国、下流にアストラハン=ハン国ができました。イヴァン3世はモスクワの北部を4世は南部を征服しています。

下線部(7) 年代に諸説ある場合の注釈を吉川弘文館の世界史年表・巻末の解説でおこなっています。この場合も1年と2年説があり、「イェルマクがシベリア遠征隊を組織したのが1581年であり,遠征隊がウラル山脈を越えてシビル汗国を滅ぼしたのが1582年である」と。しかしこれも確かなことは分からず、「82年10月にハーン国の首都シビルを占領した。しかし3年後の85年(一説に84年)8月クチュム・ハーンの夜襲をうけて負傷,イルティシ川の支流で溺死した。残されたコサックはシビル市を捨ててロシアに帰ったが」(平凡社百科辞典)とあるように、失敗しています。オランダが独立宣言をしたのが1581年なのでいっしょに覚えます(『ワン』では「オランダ・シベリアは、人155倍81」)。

下線部(8) 「ある山脈を境」はすでに(7)で越えています。シビル=ハン国はウラル山脈を越えたところにありました。「シビル=シベリア」です。

空欄K ヒントは空欄の前の「1783年」です。この頃の女帝エカチェリーナ2世(18世紀後半はすべて彼女と覚えておきます、位1762〜96)が黒海の北にあるこの国を滅ぼしてセヴァストポリ要塞を築くことになる、クリム=ハン国です。この地域のモンゴル人はクリミア・タタールといい、トルコ人と相当混血したものらしい。スターリンによって中央アジアに追放されました。しかし1991年にタタール人の集会(クリルタイ)が開かれ、帰還を決め、今は25万人が帰っています。

空欄 l 「ヌルハチ」とあればジュルチン(女真)族です。

空欄m 後金創始者ヌルハチは、1624年、チンギスの弟の血をひくホルチン部族の領主と婚姻をむすんで同盟し、1636年の大清と国号を改称したホンタイジ(皇太子)は、元朝皇帝の後裔から旧元朝の皇帝玉璽(ぎょくじ)を献上してもらい支配の正統性を引き継いでいます。ホンタイジの皇后は皆モンゴル人で、三人はホルチン部族出身、残りはチャハル部族のリンダン汗の未亡人でした。一方のロシアは、1575年イヴァン4世の時に、キプチャク=ハン国の後裔の汗から位を継承する手続きをと取っています(詳しくは山内昌之著『ラディカルヒストリー、ロシア史とイスラム史のフロンティア』中公新書、第一章)。イヴァン4世自身の母方はチンギス汗の男系子孫ではなかったが、モンゴル有力部族の出身であり、モンゴル民族からは「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれていました。

下線部(9) 清朝の初期の都を問うています。瀋陽は1634年には盛京、1657年には奉天(府)と呼びました。これは細かい。

下線部(10) 北京入城は1644年で3代目の5歳の子供でした。フリンが満州名ですが、かれから順治帝と中国風に呼びます。

下線部(11) ロシアと清朝の最初の国境条約で、センター・レベルです。

空欄n 康煕帝と乾隆帝との間の皇帝名という、センター・レベル。漢字が正しく書けるかどうか。

空欄o この空欄oとpが迷うところですが、ヒントは空欄の前の「外モンゴルおよび」とあるので地名であること、空欄の後の「仏教文化圏」とあるので仏教と関係のある地名であること、三皇帝の時代が西方に領土を拡大し藩部にしていったこと、それが乾隆帝で完成することを考慮します。仏教関係国としては東方の朝鮮も日本も関連はあるものの藩部になったのではないので、残るはチベット(西蔵)しかありません。

空欄p 空欄の後の「モンゴル帝国以来の由緒」とあるのでモンゴル系であること、「激しく争いあう」関係になったものたち、とは「パミール以東」=回部(新疆ウイグル自治区)をめぐる争いでもあったこと。康熙帝がこの民族のガルダン=ハンを追放したが、天山山脈の北にあって雍正帝・乾隆帝と争い、乾隆帝のときにとうとう「制圧し」た、となればジュンガル(部)となります。

下線部(12) 「パミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャー」とあってこのシャーの名前は知らなくても、「パミール……西南」とあれば地図からアフガニスタンしかない。

空欄q ヒントは「1793年に乾隆帝……使節団」です。マカートニー一行がやって来ました。アメリカはホイットニーの綿繰り機発明、ヨーロッパはジャコバン派政権のフランス革命の年です。

 30点中、26〜28点は取れる問題でした。京大をこの世界史で受験するひとはセンター試験で世界史はとらないとしても、センター試験は世界史の基本でもありますから、センター試験の問題を解くといいです。

第3問
 課題(主問)は古代と中世の軍事制度について書けということですが、「政治的・社会的な背景や影響、それぞれの特徴と変化」とうるさいくらいの副問がくっついています。後半の特徴は比較することで表れる違いですから、内容的に違いが出ておれば、わざわざ「特徴は……」と書かなくても良いでしょう。それと古代から中世にかけて制度の変化を書かざるをえないので、これもわざわざ「変化は……」と書かなくていいはずです。となれば、「「政治的・社会的な背景や影響」は欠かせない。
 「政治的」は政治体制、君主、市民権、民会(元老院)、法などいろいろありますが、いちばん書きやすいのは政治体制(政体)でしょう。西欧古代史・中世史なら国家の規模も特殊です。都市国家から世界(多民族)帝国に発展し、それが分解して部族国家・中世都市・荘園と小さい単位になり中世末に次第に国民国家(権力面から絶対主義国家)に変化しました。君主の面では、初めはギリシア民主政・ローマ共和政から始まって、アテネ帝国・マケドニア王国の支配へと移行し、これらはローマに吸収されて君主のいないローマの帝国的発展があり、とうとう皇帝が登場して専制君主政にまでいき、瓦解してゲルマン人王の支配へと変化しました。
 「社会的」は京大がよく問う問い方でした。過去問では、1991,1993,2000,2008年などに表れています。「社会的」と問われて何を書くかは拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)のコラム(ここだけの話)に「社会って何?」というのがありますから詳しくはこれをお読みください。かんたんに言えば政治以外のすべてです。民族・身分・経済・文化とみなこの「社会」の中にはいるのですが、とくに経済史です。経済がいちばんよく教科書に書いてあるから、という事情もあります。古代・中世史なら、奴隷制からコロヌス制、そして農奴制と農奴解放へ、という働き手の地位変化です。商業面でなら地中海世界全体の商業圏から、次第に都市の衰えた農村中心の自然経済(貨幣流通のない経済)、そして11世紀から全欧での商業ルネサンス・貨幣経済・中世都市の発展です。

 さて肝心の軍事制度に注目しましょう。古代ギリシアもローマ共和政前期も武装自弁・市民皆兵の原則という制度でした。しかしギリシアもローマもこれは市民経済の破綻・戦争の頻発による荒廃の結果、維持できなくなり、傭兵・志願兵制に依存するようになりました。
 ギリシアの傭兵は外国人(他のポリス市民やスキタイ人)です。
 ローマの場合は外国人傭兵依存ではありません。ポエニ戦争までは、ローマ市民権をもち、財産をもっていて武装できるものたちが義務として参戦しました。ポエニ戦争以降はマリウスの兵制改革がおこなわれ、志願兵制(職業軍人制)になりました。財産資格を撤廃し、武器は国家が用意する、この兵士たちは征服地を退役とともに分配してもらう、ということになり、分配してくれる将軍たちの私兵のような存在になりました。しかしこれは傭兵=外人部隊ではありません。私兵的な要素をなくして国家の軍隊に転換したのが、元首政の常備軍(軍団)・親衛隊(近衛軍)の設置です(拙著『センター世界史B各駅停車』p.191)。これを明快に書いた教科書が見当たりませんが、専制君主政のところに軍備増強は必ず書いてあり、この増強する軍隊(30万→70万)が、要するに常備軍です。
 この常備軍を知りたければ、ウィキペディアの「ローマ軍団」を見るといい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ローマ軍団
 しかし3世紀の危機(軍人皇帝時代)から属州民の兵士を徴収したり、ゲルマン人を傭兵として雇うようになり、4世紀からは侵入するゲルマン人をローマ同盟軍として懐柔しました。常備軍以外のものが増えていきます。ゲルマン兵は、ますます領内に食い込んでいき、西ローマ帝国滅亡時には、イタリア半島は傭兵オドアケルの支配下にありました。このゲルマン人たちがローマ市民権をもっている多数のひとびとを支配する王国ができます。中世の始まりです。残った東ローマ皇帝から西方の総督の称号をもらって、かたちとしてはローマ帝国が存在しているかのような体制でした(中世ローマ帝国)。
 これらの王たちが支配できたのは小さい領域であり、王の家臣たち、つまり領主たち(諸侯・騎士)も小さい空間(荘園)を支配していました。軍事制度といっても、この小さい空間の支配のためであり、いざ外敵が現れるという危機のためだけ封建制という主従関係が機能しました。ばらばらな軍人をまとめられるのは教皇という宗教的権威だけです。その結果として十字軍・レコンキスタ・東方植民という集団的軍事行動が可能でした。
 中世末になると貨幣経済の浸透、火器の登場により、主従関係は崩れだし、封建契約も貨幣代納金を払うことで済ませるようになり、金を集めた国王が武器・兵士を雇って常備軍をつくるようになります。封建契約の下にあった領主たちは次第に官僚、傭兵軍の指揮官として生きていくように変化します。
 しかし中世末から現れる常備軍はすべてが傭兵ではありません。百年戦争のような国民的戦争になるとイギリス兵はイギリス人がほとんどであり、けっして外人傭兵軍ではありません。フランスは傭兵を雇っている間は勝てなかったので、シャルル7世が教区毎に徴兵する制度にし、国民軍に近い常備軍をつくりました。傭兵は2ヶ月契約が一般的であり信用できない兵士なので、こればかりを使って戦争はできません。国を守る、という意識はないし、戦争が終われば強盗になります(詳しくは『百年戦争のフランス軍 1337〜1453』新紀元社)。
 
 さて以上のことを踏まえて、予備校の答案を添削してみましょう。どれもほぼ同じようなことが書いてありますから、個別に点検する必要もないですね。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai〜juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k01.html
古代ギリシア・ローマで、は富裕化した平民が重装歩兵として、貴族に代わって国防の主力となった。彼らは政治的発言力を強め、やがて戦士が市民団を形成して政治をになう体制を実現した。しかし戦乱が続いて貧富の差が拡大していくと重装歩兵軍団は解体し、市民皆兵の原則は崩れ、傭兵の使用が流行した。西洋中世ではノルマン人の侵入などの社会の混乱の中、ゲルマンの従士制とローマの恩貸地制が結合して封建制が成立し、封土を受けて軍事奉仕を行う騎士層が成立した。騎士は荘園領主として地方を支配し、分権的な社会を形成した。しかし商業の発達による荘園制の解体などにより騎士は没落し、中央集権を進める国王により傭兵が導入されていった。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/kyodai/sekai/index.htm
古代ギリシア・ローマでは、初め貴族の騎兵が軍隊の主力であったが、やがて中小土地所有の平民が自弁で武装すると、その重装歩兵が軍事力の主力となった。彼らは参政権を要求し、貴族の政治独占は打破され貴族と平民の法的な平等が実現した。しかし戦争などにより兵力の担い手であった市民が没落すると、傭兵が多用されるようになった。西洋中世では、外民族の侵入による混乱を背景に、主君が臣下に封土を与えて軍役を課す封建制が形成され、その下で騎士軍が軍隊の主力となった。その結果、諸侯や騎士が権力を握り地方分権的体制が広がった。しかし中世末期には諸侯・騎士が没落し、中央集権化を進める王権の下で傭兵が重用されるようになった。

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
古代ギリシア・ローマでは、当初、貴族による重装騎兵が軍事力の中心であったが,平民の武器自弁が可能になると彼らによる重装歩兵が中心に変化した。この結果、平民は貴族に対して参政権を求め始め,しだいに政治参加が実現すると市民皆兵の原則も確立されていった。しかし度重なる戦争などで平民が没落するとこの原則も崩れ,傭兵の使用や職業軍人制が開始された。一方、西洋中世では諸民族の侵入などを背景に主君と臣下の契約による封建的身分秩序が形成され,諸侯や騎士などが軍事力の中心となった。彼らは荘園を経済的基盤として地方分権社会を形成したが,中世末期に彼らが没落し王権が強化されると傭兵の使用が本格化するようになった。

(代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/kyoto/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
古代ギリシア・ローマでは初め貴族層が国防の担い手であったが、やがて武器の自弁が可能となった平民により重装歩兵軍団が構成され、戦いの主力となった。こうして平民の発言力は強まり民主化も進んだが、長期間の戦争などで平民層が没落すると、軍団は傭兵に支えられるようになった。ゲルマン人の大移動、イスラーム勢力の侵入などで混乱した西ヨーロッパでは、主君が家臣に封土を与える代わりに軍事奉仕を求める封建的主従関係が成立し、西洋中世では騎士を中心とする戦士団が戦いの主力となった。しかし、中世後半に封建制が衰退し、戦術の変化などによって騎士層が没落すると、国王による中央集権化が進み、傭兵で組織された国軍が活躍した。

▲書いてあることは、古代については、
政治的背景・影響 貴族戦士が市民団を形成して政治をになう体制→貴族と平民の法的な平等
社会的背景・影響 中小土地所有の平民が自弁/富裕化した平民
軍事制度 平民が重装歩兵……国防の主力→重装歩兵軍団は解体→傭兵の使用
 となりますが、政治的背景としての政体が不明。帝政期のローマ(世界帝国)はどこへ行ったのでしょう? 約500年は無視? 京大の問題文は特にローマ共和政期に限定していません。東大が「ギリシアのポリスと共和制期の古代ローマ国家との間に共通に見られる重要な特徴を三つ挙げよ(1980)」と問う場合、「共和政期の」と限定しているのは、帝政期に入るとギリシアとの共通点がなくなるからです。しかし京大はそういう限定なしで出しているということは、帝政期も考慮していいということです。それに約500年間(前27〜476)と長い期間を無視できません。予備校の解答は古代の半分を勝手に削っています。いやマリウスの兵制改革(前110年頃、志願兵制)以降を書いてないので約600年間の削除です。東進は「職業軍人制」は良いのですが、これを常備軍に転換した元首政のことは書いてありません。
 との答案例も「市民が没落すると、傭兵が多用されるようになった」とギリシアの外国人による一時的な傭兵と、ローマの自国民志願兵に武器・給与(補償)を与えて長期に(25年)従軍させる常備「傭兵」とを区別していません。
 古代末期にゲルマン人を傭兵にする、といっても、傭兵だけで戦争はできません。主力はあくまで常備の正規軍団です。傭兵を強調しすぎてます。

 中世については、
政治的背景・影響 (外民族/ノルマン人の侵入?)封建制(恩貸地制・従士制/封土と軍役)→中央集権化を進める王権
社会的背景・影響 何も書いてない/騎士は荘園領主として地方を支配→荘園制の解体などにより騎士は没落
軍事制度 軍事奉仕を行う騎士層→傭兵が導入/重用

 古代は平民・市民とあり、中世は騎士、ということで特徴は出ているものの(厳密には、平民・市民と騎士はちがうものです、後述)、最後には古代も中世も「傭兵」依存・多用・重用ということなので「特徴(違い)」は出ていません。それに常備軍が傭兵で占められたように書いているのは、中世末であっても、上で説明したようにまちがいです。
 政治的背景・影響の面でも古代と中世ではかみあわない。法的な平等と封建制? どうちがう? これでは「それぞれの特徴」が表れない。
 どの答案も封建制と、その由来として恩貸地制(封土)と従士制(軍役)を説明していますが、封建制は軍事制度そのものではありません。社会的経済的なものも含んだ主従関係を指しており(特に、土地所有の承認・継承)、「従」の騎士にだけ軍事奉仕を書いて、軍事制度を書いたつもりでいます。しかし軍事の担当者は「主」の立場の皇帝・国王・諸侯も含むのであり、封建関係の契約者は互いに「戦う人」でした。むしろ中世西欧における封建制は、軍事制度としては、「君主の君主は君主でない」「家臣の家臣は家臣でない」というように、きわめて分権的で不安定な性格をもったものであった、ということです。古代との比較でいえば、軍事の担当者は市民・農民ではなく領主であったという点です。古代では市民を必ず書きながら、中世でこの領主を鮮明に指摘しているものはありません。
 どの答案例も古代から中世への変化が欠けています。「外民族」侵入をあげて、それに対する対応策としての封建制を挙げているのですが、しかし封建制ができる時期は9〜10世紀です。「封建的主従関係は……フランク王国分裂以後,本格的に出現した」と書いてあります(詳説)。「10世紀には……西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明確な姿をあらわしてくる」ともっと遅く10世紀からと説明をしているもの(東京書籍)もあります。この外民族に「ゲルマン人の大移動、イスラーム勢力の侵入」としているもの(代々木)は的外れです。だいたいゲルマン人が中世前期(6〜10世紀)の支配者であり、かれらの間で封建制はできあがるのですから、ゲルマン人の侵入に備えてゲルマン人が封建制で対応した、という変なことになります。これ以外の解答例は、明示しない(駿台・東進)か、ノルマン人(河合塾)としていますが、そうすると、中世の初めにあたる5〜6世紀からは8世紀までは空白になります。いやマリウスから書いてないのですから、前1世紀から後8世紀まで9世紀間が無視されています。
 社会的背景・影響では、中小土地所有の平民と、中世の何が対応しているのか? 書いてない。奴隷制と農奴制という基本的な社会基盤への言及が欠けています。書いてあることに間違いはなくても、分解してみると整合性のない無茶苦茶なものであることが判明します。
 生意気なことを書いている、と思わる方は注意。これを書いているわたしは誰かが大事ではありません。わたしが書いている内容が真実かを吟味してください。

第4問
A
下線部(1) 聖像禁止令を出した皇帝名です。『各駅』の覚え方(p.238)は「聖像冷温」です。聖像って冷たい感じがしますね。レ(ー)オン3世のことですが。8世紀前半とは726年です、『ワン』の語呂は「聖像、77踏2む6」。

下線部(2) 兄弟のうち一人ということです。キリル文字(グラゴル文字)を考案したということになっているキュリロス(キリル、キリール、スラヴ語のアルファベットをつくった「南スラヴの使徒」)、兄メトディオスか。

空欄a ウラディミル(ウラジーミル、ヴォロディーメル)1世が皇帝(バシレイオス2世)の妹と結婚というロシアに正教が伝わる起源となった出来事。

下線部(3) メフメト2世はセンター・レベルです。2003年追試に出ただけですが、いずれ本試験でも問われるはず(じっさい「メフメト2世が、コンスタンティノープルを占領した」と2011年に出題されました)。

空欄b 空欄の後に最後の皇帝の姪と結婚してツァーリを名乗りとあるので、イヴァン3世です。この皇帝の約30年後に登場するのが第2問・問(7)に出てきのたイヴァン4世(雷帝)です。

下線部(4) ツァーリの語源になる人物名です。易問すぎる。

下線部(5) 西スラヴ人とはポーランド人の他にかつてのチェコスロヴァキアを構成したチェック人、モラヴィア人、スロヴァキア人です。これらは皆カトリックでした。すぐ南のハンガリー(マジャール)人もカトリックを信仰しますが、スラヴ人ではありません。

下線部(6) ウクライナへの布教という奇異なことがあげてっても、設問文「1534年に設立され、中国や日本でも活発な布教活動」がヒントです。ヘンリ8世の首長法とイエズス会設立は同年なのでいっしょに覚えます。『ワン』では「首長家は人1混5み3よ4」。布教はある程度の効果があったようで、いまでもウクライナに8%のカトリック教徒がいます。

下線部(7) この皇帝名を知らなくても、設問文「1670年から」が大きいヒントです。ロシア史には2つしか反乱名はなく、それは(イ)ステンカ=ラージン(1670)とプガチョフ(1773)と1世紀開いて二つ(『ワン』では「ステンカに、ボ1ル6シチ7を0」)。どちらも(ア)コサックです。

B
下線部(8) (ア)病気の名は黒死病。最近の小説ではケン・フォレット著『大聖堂─果てしなき世界』ソフトバンク文庫に詳しい。黒死病と農民の賃金高騰を分かりやすく説明してます。中巻の後半から・下巻前半に14世紀のイギリスの実例が書いてあります。1ペニーだった賃金を2ペニーに上げて農民を募集した女子修道院院長カリス、高賃金を求めて逃げた農民夫婦ウルフリックとグヴェンダ、逃げた農民を追いかける領主ラルフという具合です。この小説は百年戦争の初期の戦闘シーンも臨場感あふれる描写で書いてます。
 (ィ) 「10日間の物語」=十日物語ともいう『デカメロン』の作者です。デカメロンといえば、ボッカチオのポッカメロンです(『各駅』p.231)。

下線部(9) イタリア戦争に関わった二つの王家とはカール5世のハプスブルク家とフランソワ1世のヴァロア家をあげればいい。イタリア戦争は広義では1494年からで同時多発テロのフランス王はルイ12世ですが、その後の代表的な王の名前で覚えておくといい戦争です。

下線部(10) 「17世紀の危機」は三十年戦争の他に、清教徒革命(イギリスの内乱)があり、そして「フランスで起きた大規模な貴族反乱」もあります。三十年戦争が終わったのに戦争中の重税を課けつづけることに対する市民の反発もありましたから、貴族だけの反乱ではありません。貴族の官職保有者は4年間の給与カットに怒っていました。反マザラン闘争です(1648〜53)。

下線部(11) 時間が「18世紀の末」、「人口増加の問題について鋭い診断」とあれば人口論のマルサスです。

下線部(12) (ア)「同じ年、イギリスの工業力を内外に誇示する壮大なイベント」は万博(万国博覧会)です。ロンドンについでパリ(1855)、3回目もロンドン(1862)でした。
 (イ) 産業革命の中心都市、ビートルズの生まれた街です。
 (ウ) 「世界政策」を行った皇帝はビスマルクを辞めさせた人物。

下線部(13) (ア)「アイルランドやドイツ、ロシア、東欧、南欧からの移民」とは西欧移民の多かったそれまでの傾向の転換でした。サラダ・ボール(人種の坩堝)になる国です。
 (イ) 「アイルランドから大量の移民」はジャガイモ飢饉といわれる大惨事でした。これは約110万人が餓死したといわれる災害です。1845年から1849年はヨーロッパ全体が寒冷であり、ジャガイモは寒さに弱い。とくにアイルランドに入ってきた種類は病害に弱いものでした。小麦はとれたそうですが、これはイギリス人がもっていってしまい、アイルランド人の口には入ってこないため、人災的飢饉となったものです。しかし冷害は全欧にあり、イギリス本国でも影響がでてきてコブデン・ブライトの運動はあっても、穀物法を廃止しないと本国でも餓死者が増えることになり撤廃にふみきった、ということです。この冷害は1848年革命(二月革命・三月革命)の背景でもあります。今の日本でもジャガイモは生のままでは輸入できないことになっていて、ゆでてマッシュにした冷凍品だけです。国が指定したジャガイモ(馬鈴薯)の原種をつくる専用の農場があり、そこでウイルスのついていない種を作って管理し、ジャガイモ生産農家に配布するようになっています。

C
下線部(14) 2002年に完全独立とあれば、相当新しい独立国です。2006年と09年にセンター試験(本)で出ています。「20世紀後半に、東ティモールはオランダから独立した」「フィリピンから分離した東ティモールが、2002年に独立国となった」とどれも誤文でした。

下線部(15) 「1830年」が大きいヒントです(『ワン』強制栽培せよ、千1葉8実3を0)。

下線部(16) 鉱山資源は錫です。イギリスはゴムのプランテーションでも儲けています。

下線部(17) 1911年中国では辛亥革命の年にできたイスラーム教徒の団体です。センター試験では2002年、04年、08年と出てます。

下線部(18) ジュネーヴ協定の合意内容です。インドシナからフランスが撤退し(=ヴェトナム・ラオス・カンボジアの独立)、北緯17度線を暫定的軍事境界線とし、南北で統一選挙(1956年7月)を行う、という3点ですが、このうち2ポイントがあれば満点2点のはずです。

下線部(19) アキノさんにやられるまで、日米が支えた開発独裁者の名前です。デビ夫人のダンナです。

下線部(20)  (ア) ある地域は、1965年に連邦から分離独立した。『ワン』の語呂は「シンガポール、行1け9る6こ5れから」。
 (イ) 分離独立の背景は、華僑が多数派のこの島、イスラーム教徒が多数派になっているマレーシアからの独立です。

 ここまで第4問のほとんどセンター・レベルでした。30点中28点は取れる問題です。第2問と合わせて54点以上取れ。第1問・第3問の論述40点中16点以上取れば合格圏です。

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 上に予備校の解答例を挙げ、その批判もしました。他人の答案を批判して自分の答案を隠すのは卑怯なので今年に限り自分の解答例も挙げておきます。比較してみてください。他の年度の解答例を挙げてないのは、一度掲載したときに参考書の会社でわたしの解答をまねたもがあったからで、今年だけにします。もっとも『世界史論述練習帳 new』(パレード)を買っていただいた方には、他年度の解答例(非公開)をメールで配信しています。

第1問
マルクス主義研究会が元になり上海で結成した共産党は国民党と合作し、蒋介石とともに北伐を敢行した。上海クーデタのため合作は破れ、紅軍は根拠地を井崗山他に移した。31年瑞金で中華ソヴェト政府を設けたが国民党の攻撃が激しく、瑞金を捨てて長征に出た。途中の遵義会議で毛沢東の指導権が確立し、全国に八・一宣言を発して一致抗日を訴えた。西安事件に周恩来が介入し、盧溝橋事件・日中戦争開始後に再合作をし、抗日戦を八路軍・新四軍で戦った。解放区では減租運動を展開した。太平洋戦争が始まると国民党は攻撃を共産党に向け出し、日本撤退後は内戦となった。土地改革が勝因となり、人民解放軍が国民党を台湾に追放し全国を統一した。
(注:「蒋介石」の「蒋」は異体字。減租運動とは、小作料の額を下げさせることです。まだ土地をうばって農民に分配という共産主義的な改革まではやっていないが、このゆるやかな改革でも農民の支持をうけるに十分でしたし、表向きの国共合作を保つ方策でもありました。日本撤退後は「農村部で土地改革を指導して支持をかため、47年なかばから人民解放軍によって反攻にでた。(詳説世界史)」とある内の「土地改革」は中国土地法大綱のことです。戦中からの土地改革を継承・発展させたものです。八路軍は華北で新四軍は華中で抗日戦を戦った共産党の軍隊名です。)

第2問

空欄 aユーフラテス bアッカド cアマルナ dアラム eアケメネス fティグリス gアレクサンドリア hメディナ(ヤスリブ) iブハラ(ボハラ)
(1)(ア)バビロン (イ)K (2)C (3)F (4)パルミラ(パリミュラ) (5)J

jイヴァン4世 kクリム=ハン国 lジュルチン(女真) mホンタイジ n雍正帝 oチベット pジュンガル qマカートニー
(6)キプチャク=ハン国 (7)イェルマーク (8)ウラル山脈
(9)瀋陽 (10)順治帝 (11)ネルチンスク条約 (12)アフガニスタン王国

第3問
古代は小都市国家で官僚制未発達な民主・共和政であり、奴隷制に立脚した消費者市民が武装自弁で軍役を担った。ギリシア・ローマ共和政は戦争頻発のため疲弊し傭兵に依存した。大土地所有傾向は市民の自弁を不可能にする。世界帝国ローマはこれを転換して常備軍を設け、コロヌスに立脚した専制君主政は官僚と軍を増強した。次第にゲルマン人の傭兵・同盟軍に依存したため、かれらが自立してゲルマン人諸国が西方属州に樹立された。コロヌスから農奴に格下げされた農民の上に小領主の諸侯・騎士が軍の担い手となった。官僚制が未熟な封建国家は、中世末、農奴解放と火器の出現のため領主は没落し、常備軍を用意した国民国家・絶対王政が登場する。
(注:消費者市民とは、生産労働をせず奴隷のつくったものを消費し、政治軍事に専念する古代市民のありかたを表現したことばです。『体系経済学辞典』東洋経済にあることば。ここでは「市民は、原則として生産部門はもっぱら奴隷労働にゆだね、みずからは政治・軍事・学芸にたずさわる特権的な消費者階級であった」とある解説)
(別解)
都市国家は武装自弁による市民軍によって守られた。初めは武装自弁できる富裕層、次第に平民層にも広がり奴隷制立脚によって維持された。しかし都市間抗争が激しく、この抗争から抜け出たマケドニアによる世界帝国が形成された。ローマ共和政は中小農民兵を土台に半島の統一を実現、ポエニ戦争勝利後はマリウスの兵制改革により志願兵制によって世界帝国を形成した。帝政は常備軍によって帝国を守り、次第に属州兵・ゲルマン同盟軍を利用する。ゲルマン人諸国は領域内の小国家を諸侯・騎士という領主が守り、コロヌスを農奴に落した。都市は市民が武装し防衛した。中世末には農奴が解放され、分権を打破した国民国家ができ、常備軍が設置された。

第4問

空欄 aウラディミル1世、bイヴァン3世
下線部 (1)レオン3世 (2)キュリロス(メトディオス) (3)メフメト2世 (4)カエサル (5)チェック人(スロヴァキア人、モラヴィア人) (6)イエズス会 (7)(ア)コサック (イ)ステンカ=ラージン

(8)(ア)黒死病 (イ)ボッカチオ (9)ハプスブルク家・ヴァロワ家 (10)フロンドの乱 (11)マルサス (12)(ア)(第1回)万国博覧会 (イ)マンチェスター (ウ)ヴィルヘルム2世 (13)(ア)アメリカ合衆国 (イ)ジャガイモ飢饉

(14)東ティモール (15)強制栽培制度 (16)錫(スズ) (17)サレカット=イスラーム(イスラーム同盟) 
(18)ベトナム南北の暫定的軍事境界線を北緯17度とし、南北で統一選挙を行うことを約束した。
(19)スハルト (20)(ア)シンガポール (イ)ムスリムのマレー人と華僑の子孫たる中国系住民の対立。

京大世界史2003

第1問(20点)
 中国の皇帝独裁制(君主独裁制)は、宋代、明代、清代と時代を経るにしたがって強化された。皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変について、各王朝名を明示しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(16)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 陳独秀は1879年に安徽省安慶で生まれた。陳は幼少の頃より(1)科挙の勉強に励んだが合格することができず、(2)康有為や梁啓超を信奉するようになった。
 1901年(3)日本に渡り、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学した。陳は日本で反清革命に傾き、帰国後は安慶で革命運動に従事した。1911年湖北省の[ a ]で軍隊が蜂起(ほうき)すると、1か月足らずの間に多くの省が相次いで独立を宣言した。陳は安徽省軍政府の秘書長として招かれたが、1913年に袁世凱の専制と国民党弾圧に反対した[ b ]が失敗すると、陳は重要犯人として指名手配され、(4)上海に逃れた。
 1915年9月、陳は『青年雑誌』を創刊した。この雑誌はのちに『新青年』と名を改め、西洋の近代的合理主義にもとづき、(5)中国の旧(ふる)い思想・道徳・社会制度を徹底的に攻撃した。一躍、新文化連動の旗手となった陳は、1917年に蔡元培の招きで北京大学文科長に就任した。
 1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を話し合う[ c ]が開催された。(6)山東省の旧ドイツ利権が中国に返還されず日本に与えられようとしたことから、北京で学生らによるデモが行われ、(7)運動は全国に波及した。結局中国はヴェルサイユ条約調印拒否を声明するに至った。[ c ]に対する期待が失望に変わっていく中で、『新青年』の紙面も創刊当初の西洋賛美の論調が次第に変化してきた。陳独秀はマルクス主義に傾斜していき、1921年7月李大 (金+リ) らと(8)中国共産党を結成した
 1924年中国国民党第1回大会が開かれ、孫文の掲げた「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策が採択され、(9)共産党との協力体制が実現した。1926年7月[ d ]を総司令とする国民革命軍は(10)北伐を開始した。その途上1927年4月[ e ]が起こり、共産党は大きな打撃を受けた。陳はその責任を負わされて総書記を解任された。以後、歴史の表舞台に立つこともなく、1942年四川省でその生涯を閉じた。

(1)科挙が廃止された年はいつか。
(2)彼らを登用して戊戌の変法を断行した皇帝は誰か。
(3)ヴェトナムでもファン=ボイ=チャウらが維新会を組織して日本留学運動を推進した。この運動を何というか。
(4)上海など5港の開港を定めた条約の名を記せ。
(5)「文学改良芻議(すうぎ)」を発表して白話運動を提唱したのは誰か。
(6)1898年ドイツが宣教師殺害を口実に清朝から租借したのはどこか。
(7)同じ時期、ソウルで大規模な民族独立運動が起こった。この運動を何というか。
(8)このあと、ヴェトナムでも共産党が結成された。その指導者で、のちにヴェトナム民主共和国の初代大統領となったのは誰か。
(9)1937年にもう一度両党は協力して抗日民族統一戦線を成立させた(第二次国共合作)。そのきっかけとなった、前年に起こった事件は何か。
(10)国民革命軍は1928年6月に北京を占領した。それまで北京を支配し、奉天に帰還する途中で日本軍に爆殺された軍閥の首領の名を挙げよ。

B 古代の西アジアでは、さまざまな民族の興亡が繰り広げられたが、やがて政治的統合が進み、史上いく度か西アジアを広くおおう大帝国が成立した。
 西アジアの主要部に最初の政治的統一をもたらしたのが、セム系のアッシリア人である。アッシリア人は前2000年紀のはじめ頃から[ f ]川流域のアッシュールを拠点に交易活動に従事し、前9世紀から活発な征服活動を行った。その軍隊は、(11)鉄製の武器、戦車および騎馬隊をそなえ、広く西アジアを征服し、前7世紀前半にはエジプトをも版図に加えた。アッシリア帝国は征服地の各州に総督を派遣して直接的に統治したが、被征服民に対する強圧的な政策がわざわいし、前7世紀末に滅んだ。アッシリア帝国滅亡後、(12)西アジアとエジプトには4つの王国が並立した
 西アジアの政治的統一を回復したのは、(13)イラン人が建国したアケメネス朝ぺルシアであった。前550年キュロス2世が同じイラン系の[ g ]王国を減ぼして建国し、第3代の王[ h ]のときには、東は中央アジア・インダス川流域から西はエーゲ海岸・エジプトにおよぶ大帝国となった。領土の各州にサトラップ(知事)をおいて統治させたほか、監察官の派遣、税制の整備、被征服民への寛容な政策など、アッシリアの帝国統治法をさらに高度なものへと発展させた。アケメネス朝はアレクサンドロス大王の東方遠征によって前330年に滅んだ。アレクサンドロス没後は、(14)シリアを拠点とするセレウコス朝をはじめ、各地にギリシア系の国家が誕生してヘレニズム文化が栄えた
 ヘレニズム時代を経て、ふたたび西アジアを政治的に統一したのがササン朝ペルシアである。ササン朝は226年アルデシール1世が[ i ]王国を倒して建国した。第2代の王シャープール1世のとき、東方ではインダス川流域にまで進出して[ j ]朝から領土の大半を奪い、(15)西方ではシリアに進出してローマ帝国と対抗した。5世紀から6世紀にかけては、中央アジアの騎馬遊牧民[ k ]の侵入を受けて苦しんだが、6世紀半ば、ホスロー1世のときに最盛期を迎え、[ k ]を滅ぼした。しかし、7世紀半ばのアラブ軍の侵攻には対抗できず、ササン朝は651年に滅んだ。
 アラブ軍の征服活動は[ I ]朝成立後も活発に進められ、8世紀はじめ、その領土は、東は中央アジア・西北インドから西はイベリア半島にまで達した。イスラム教の浸透とアラビア語の共通語化によって、広大な領域における共通の文化の基盤が形成され、(16)やがてアラビア語以外のさまざまな言語もアラビア文字で記されるようになった

(11)最初に鉄器を使用し、製鉄技術を独占していたとされる、アナトリアの古代王国の名を記せ。
(12)この4つの王国のうち、ある王国は、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を支配し、首都の繁栄でよく知られている。(ア)その王国の名を記せ。(イ)その王国の首都はどこか。都市名を記せ。
(13)イラン人は言語的には何語族に属すか。語族名を記せ。
(14)セレウコス朝から独立した、あるギリシア系の王国は、現在のアフガニスタンを主な領土とし、西北インドにヘレニズム文化を伝えた。その王国の名を記せ。
(15)対ペルシア遠征に失敗し、260年エデッサでシャープール1世に捕らえられた、ローマ帝国の軍人皇帝は誰か。
(16)アラビア文字が普及する前の西アジアの文字の多くは、あるセム系言語の表音文字を母体としていた。(ア)前1000年紀に楔形文字に代って西アジアに広まった、この表音文字は何か。(イ)この文字を母体として中央アジアで生まれた文字には何があるか。1つ記せ。

第3問(20点)
 第一次世界大戦は予想をはるかに越えて長期化し、これにかかわったヨーロッパのおもな国々は本国の大衆を動員しただけではなく、さらには、植民地や保護国を抑えつけながらも、同時にその力を借りて戦わねばならなかった。このことに関して、イギリスを例にとり、インドおよびエジプトに対して大戦中にどのような政策がとられたかを、そのことが戦後に生み出した結果にも触れつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 都市と都市国家は、古代地中海世界を構成する最も重要な政治的単位であった。(1)紀元前15〜13世紀にギリシア本土のミケーネやティリンスで栄えた国家は、なお専制的な支配者をもつ小王国であったが、紀元前8世紀以後、アクロポリスやアゴラを中心とする集住によってポリスが成立すると、ギリシア世界は大小の独立都市国家によって構成されるようになった。また(2)ポリス市民は盛んに黒海沿岸から地中海各地に植民都市を建設し、海上交易をおこなった。
 ポリスは軍役義務を負う住民の共同体であり、この義務を担うことによって、住民の政治的権利も拡大した。このような「戦士共同体」としての都市国家の性格は、ローマにおいても同様であった。イタリア中部の都市国家として出発したローマは、他の都市国家を征服し、服属させることによって地中海世界を統一した。こうしたローマの版図拡大において軍役を担った市民は、(3)紀元前4〜3世紀には政治的権利を発展させたが、(4)軍役の長期化は次第に自作農でもある市民の没落をも招き、民主政は危機に陥った。この危機と権力闘争の中からやがて、帝政ローマが誕生する。
 ローマ帝国は、地中海世界のみならず、ほぼライン川とドナウ川までの地域をも支配した。帝国は、(5)地中海世界のような都市文明を持たなかったアルプス以北のこの地域にも都市を建設し、都市を中心とした行政単位を設けて統治したのである。これらのローマ都市は、とくにアルプス以北では、ゲルマン民族の移動と西ローマ帝国の滅亡後の混乱の中で衰退した。しかし多くのローマ都市では、人口減少や市域縮小をともないつつも、司教座などの教会を中心とする都市の核は存続し、11世紀以後のヨーロッパにおける遠隔地商業の復活により、商工業都市として、あらたな発展を開始した。またライン川以東の、ローマ都市が存在しなかった地域では、12、13世紀以後、国王や諸侯によって都市が建設された。とくに(6)ドイツ北部からバルト海地方にかけてのハンザ商業圏では、こうした建設都市が多い
 ヨーロッパ中世都市においても、市民は都市防衛のための軍役を負い、都市は城壁で囲まれた。一般に中世都市の自治権は、城壁内とその小さな隣接地域に限られ、大きな領域を持つ都市国家へと発展することはなかった。また13、14世紀以後の各地域における国家統合の進展の中で、都市自治は次第に制限されていった。しかし(7)イタリア北・中部の諸都市は、広い領域を持つ都市国家を形成し、(8)ドイツの有力な帝国(自由)都市もまた、イタリア都市のような国家形成は実現できなかったものの、その政治的自立性を維持した

(1)(ア)このミケーネ文明において使用された文字を何というか。
    (イ)またこの文字を解読したイギリス人学者の名を記せ。
(2)紀元前500年ころペルシアに対して反乱した、イオニアの中心的な植民都市の名を記せ。
(3)平民会の議決が元老院の承認なしでも法律となることを認めた、紀元前287年に制定された法を何というか。
(4)自作農没落の原因として、軍役の長期化以外にどのようなことが考えられるか。1点のみ簡潔に記せ。
(5)次の都市のうち、ローマ都市に起源を持つものを1つ選んで、記号で答えよ。
     a ケルン   b ニュルンベルク
     c ベルリン  d プラハ
(6)ハンザの盟主的存在であった、バルト海南部の建設都市の名を記せ。
(7)12世紀にロンバルディア同盟の中心となり、また14、15世紀にはヴィスコンティ家の支配下で大きな国家を形成した都市の名を記せ。
(8)都市国家、都市共同体という形態の相違はあれ、イタリア、ドイツの有力都市が19世紀まで、自立性を維持することができた政治的背景を、簡潔に述べよ。

B ヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターが、95箇条の改革意見書を公表して始まったヨーロッパの宗教改革は、信仰の実践と教会のありかたについて、真摯(しんし)な問い直しをおこなって多くの支持者を集め、ヨーロッパに新たな生活の指針や社会の原理を提供した。しかしそれは同時に、宗教的な対立にもとづく迫害や戦乱を引き起こす原因ともなり、また政治的な抗争の口実として利用されることにもなる。1524年に西南ドイツの農民が起こした反乱に、最初ルターは好意的であった。だが、(9)反乱が中部ドイツに拡大して再洗礼派の影響の下に急進化すると、ルターはこれを非難し、以後ルター派の運動は領邦君主や都市の市民と結びついて支持を得た。1529年、神聖ローマ帝国皇帝はシュパイエルの国会でルター派の布教を禁止したが、諸侯・都市はそれに抗議し同盟を結成して皇帝に対抗した。ドイツにおける宗教問題は、(10)1555年のアウグスブルクの和議で一応の決着をみたが、(11)対立はその後もつづき、1618年には、ベーメン(ボヘミア)で王の即位に反対した新教徒を、皇帝の軍隊が弾圧したことをきっかけに三十年戦争が開始された。この戦争は、(12)新教徒擁護を口実とした外国勢力の介入を招いて長期化し、とくに戦争末期にはフランスまでもドイツに遠征して皇帝の軍隊と戦った。
 フランス国内では16世紀に、救済は予定されていると説いたジュネーヴの改革者ジャン・カルヴァンの教義が、都市の商工業者を中心に支持を拡大し、宮廷にも勢力をもつにいたった。ここでも新旧の信仰は、貴族間の対立と結びついて30年以上にも及んだ(13)ユグノー戦争を引き起こした。この戦乱のなかでフランスの[ a ]朝は断絶し、あらたに即位したブルボン家のアンリ4世は、自らカトリックに改宗するとともにナントの勅令を発してユグノーの信仰を承認し、混乱を収拾することに成功した。
 イギリスではすでに、ヘンリー8世と議会がカトリック教会から制度的に離脱して国教会制度を誕生させていたが、改革は比較的穏健なままにとどまっていた。(14)カルヴァンの改革の影響はイギリスにも及んで改革を先鋭化させ、教会のありかたにあきたらない諸勢力は多くの教派をうみだした。国教会に対する批判はやがて国家と国王に対する反抗となって共和政の実現をもたらした。革命で議会軍を指導した独立派のオリヴァー・クロムウェルは、政治上の実権を掌握すると、禁欲的倫理にもとづいた厳格な神政政治を実施し、またカトリック教徒の多く住む[ b ]への軍事遠征をおこなった。共和政が短期間で終了した後、(15)1673年に制定された審査法は、新王のカトリックヘの復帰を警戒した議会による立法であったが、同時に非国教会諸教派の権利をも抑圧することになった。

(9)この反乱を指導したドイツの宗教改革者は誰か。
(10)この和議によって、帝国内の宗教問題はどのように決着したか。簡潔に説明せよ。
(11)19世紀に成立したドイツ帝国においても、カトリック、プロテスタントの対立は顕在化した。この時期のカトリック教徒を代表した政党の名は何か。
(12)この戦争に介入したプロテスタント国1つの国名と、その国王の名を記せ。
(13)この戦争中の1572年、多数の新教徒が殺害された事件を何と呼ぶか。
(14)スコットランドではカルヴァン派は何と呼ばれたか。
(15)この法律が19世紀に廃止された際の経緯を簡潔に記せ。

C つぎの〔ア〕〔イ〕は、元徒刑囚を主人公とする(16)(17)フランスの歴史小説(1862年刊)から引用したものである。〔ア〕は、登場人物の一人マリユスが、1827年17歳の時、復古王政支持者からナポレオン支持者へと転向をとげる場面を描いている。〔イ〕は、その約1年後、マリユスが、共和主義者に論争を挑んだあげく論破され、ナポレオン崇拝熱から冷めていく様子を描いている。

〔ア〕マリユスは屋根裏の小さな自分の部屋にひとりでいた。ナポレオン軍の公報を読んでいた。ときどき亡父の名が出てきたし、皇帝の名はしょっちゅう出てきた。大帝国全体が彼の目の前に現れた。ときどき、父親が息吹きみたいにそばをとおりすぎ、耳もとに話しかけるような気がした。彼はだんだん妙な気持ちになってきた。太鼓や大砲やラッパの響きや、軍隊の整然とした歩調や、騎兵隊のかすかな遠い早がけの響きが聞こえるような気がした。胸がしめつけられるようだった。感動で身をわななかせて、あえいだ。ふいに、心のなかでなにが起こったのか自分がなにに服従しているのかわからないままに、立ちあがって両腕を窓のそとに突きだし、闇(やみ)や、静けさや、暗い無限や、永遠のひろがりをじっとみつめて叫んだ。「皇帝ばんざい!」
 この瞬間で、すべてが決まった。皇帝は、崩壊を建てなおす驚異的な建築家であり、シャルルマーニュや、ルイ11世や、アンリ4世や、リシュリューや、ルイ14世や、(18)公安委員会などの後継者だった。あらゆる国民に、フランス人を「大国民」とほめさせる使命をになった人物だった。いやそれ以上だった。剣をにぎってヨーロッパを、光りを放って全世界を征服するフランスの化身そのものだった。マリユスは(19)ボナパルトのなかに、つねに国境にすくっと立って未来を見守る、まぶしくかがやく幽霊を見た。
〔イ〕「いったい、きみたちは、皇帝を賛美しないとすれば、だれを賛美するんだ!彼にはすべてがそなわっていた。完全だった。ユスティニアヌスのように法典をつくり、カエサルのように命令し、談話では、タキトゥスの雷撃にパスカルの稲妻を混じえた。歴史をつくり、歴史を書いた。(20)ティルジットでは皇帝たちに尊厳をおしえた。このような皇帝の帝国に住むことは、国民としてなんとすばらしい運命だろうか。しかもその国民はフランスの国民であり、フランスは自分の天才をこの男の天才につけ加えたのだ! 山が四方にワシを放つように、地上のあらゆる方面に軍隊をとひたたせ、征服し、支配し、粉砕し、勝利をつぎつぎに勝ちとってヨーロッパのいわば金色にかがやく国民となり、歴史をつらぬいて巨人のファンファーレを鳴りひびかせ、征服と眩惑(げんわく)によって二度世界を征服する。これは崇高なことだ。これより偉大なことが、いったいあるだろうか?」
(21)(22)「自由でいることだ」とコンブフェールが言った。
 こんどはマリユスが顔を伏せた。この簡単な、冷たい言葉は、鋼鉄の刃のように、彼の叙事詩のような熱弁をつらぬいた。彼は心のなかで熱情が消えさるのを感じた。(辻 (永+日)訳 訳文は一部省略した)

問(16)小説名(ア)と、作者名(イ)を記せ。
(17)(ア)作者は、古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛した文芸思潮を代表している。その文芸思潮名を記せ。
   (イ)また、その文芸思潮の特徴を、批判内容に言及したうえで、引用文を参考にしながら簡潔に説明せよ。
(18)公安委員会がおこなった土地改革を10字程度で説明せよ。
(19)ボナパルトが1802年にイギリスと結んだ協定を何と呼ぶか。
(20)このときに結ばれた条約の結果として建国され、フランスの従属国家となった国を1つ記せ。
(21)自由主義の精神は、1820年代、ヨーロッパ各地に広がっていった。ロシアにおいて自由主義を掲げ1825年に立憲君主制確立などを唱えて蜂起した人びとは何と呼ばれているか。
(22)1820年代当時のブルジョワジーがよりどころにした自由主義経済学は、前世紀にイギリスで誕生した。この経済学の体系的創始者名(ア)と、その主著名(イ)を記せ。
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コメント
 相変わらず、第2問第4問は易しい問題で得点源であり、第1問第3問の論述が合否の決めてであることは従来と変わっていません。

第1問 
 問題の要求は「皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変について、各王朝名を明示しつつ」というものです。問われているのは、軍事制度でも、官吏登用法でもなく、経済政策でも、農村の組織(隣保制度)でもありません。「政治」制度です。それも「中国の皇帝独裁制(君主独裁制)は、宋代、明代、清代と時代を経るにしたがって強化された」政治制度です。君主独裁化の制度だけを書きなさい、という要求です。軍事も官吏登用法も経済政策なども皇帝権強化のための制度だと広くはとれないこともないのに、「……経るにしたがって強化された」制度ですから、君主に直接かかわる政治の制度でなくてはなりません。それは皇帝と官僚の関係、決裁のありかたがどう変遷したのかを問う狭い問題です。
 しかし、この一つのテーマを追いかけて書くのは意外と難しいかもしれません。なにしろ予備校の解答を見ても、ちゃんと一つのテーマを追いかけていないものが結構あるからです。問題を勝手に都合よく書きやすいテーマに変えて書いてしまっています。
 教科書では三省のことは唐で説明があり、その後は消えて、たいてい明朝になって中書省を廃止した、と突如でてきます。つまり途中の経過が書いてなくて、門下省・尚書省はその間、存在したのかどうかさえ分からない。学生にとっては迷うのは当り前ですが、予備校もそうだというのは哀しいことです。インターネットでも解答例(速報)を予備校は出していますから、一緒にご覧いただくといでしょう。

 宋代:ここで独裁化がスタートしますが、その発端は唐末に表れていました。唐ははじめ皇帝の下に三省六部で中央官庁をはじめましたが、この三省のうち門下省という貴族の牙城があまりに強かったため、次第にその権限を削っていきました。宋代には三省はなく、中書省と門下省をくっつけた、というより中書省が門下省を吸収して、中書門下省と変え、責任者も同中書門下三品、あるいは同中書門下平章事(のち同平章事と略称)と呼びます。ちなみに、このことは『中谷の世界史論述練習帳』(旺文社)の巻末問題に問い、かつ解答しています。
 問「宋皇帝と唐皇帝の権力のちがいについて説明せよ。(指定語句→)門閥貴族 殿試」
 解答「唐では法案の決定権と人事権とが門閥貴族に奪われていたのに対し、宋皇帝は中書門下省により決定権と、殿試により人事権を掌握した。(注:中書門下省とは中書省と門下省がくっいたもの、換言すれば、門下省が中書省に吸収された。これは貴族という批判勢力がなくなり無意味になったための処置。)」
 つまり宋代は、唐代の三省六部を継承しません。また貴族勢力が強かった門下省の権限を削滅するのは唐の中期からおきていることがらであり、宋になってからやったことではありません。だいたい宋代にはもう貴族がいません。唐末五代に消滅したからです。このあたりは中国史の基本といっていいでしょうが、それさえ分かっていない解答もあります。
 殿試によって皇帝と官僚の関係を強化した、と書いても「関係」がどういうことなのかサッパリ分かりません。「官僚の人事権を天子がにぎり、旧貴族の復活の道をふさいだ。さらに全国的に行政官の職務権限の分割と行政監察の徹底をはかり、ついに軍事・行政・財政のすべての最終の裁決権を天子一人に集中する君主独裁制を確立した」(『新世界史』山川出版社)という風に書かないと独裁皇帝と奉仕する官僚の構図が見えてきません。
 この教科書の記述のように官庁の長官を複数にして、一人に権限を集中させず、皇帝のみを最終決定者としたことを「複数宰相制」といいいます。「皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変」という問題からは、これは是非とも書かなくてはならないことです。これを書いた答案が見られないのは、理解に苦しむことです。
 これが書けないとしても文治主義を書いてもいいでしょう。これなら書ける……いや、これさえ書いてない予備校の解答もあります。必要のない軍事制度について書いています。
 文治主義(文政)により軍人から軍政権をうばい、科挙により選抜された文官官僚が軍政を統括するように変えました。中央から文官を派遣して地方政治を文官の支配下におき、徐々にそれまで節度使がもっていた民政・財政・軍事の3権力をうばっていきました。このように軍人の上に文官を置く文官優位の体制を文治主義といいます。五代十国の武断政治を代えた制度です。
 しかしこの文治主義はあくまで、それまでの武断政治から離脱したことに強調点があり、軍事制度も、たとえば禁軍を説明すると、この後もずっと軍事制度を書いてしまう、という愚を犯すことになります。

 明代:この時代では、中書省(元朝が名前を中書門下省から「中書省」と変えています)の廃止、六部直轄は不可欠です。皇帝が唐代の三省のしごとをすべて引き受けるからです。この忙しさから内閣が生まれてきます。しかし内閣制度を書いたものはほとんど見られません。これも政治制度ですから書いても不思議はないのですが……。補佐機関だから書かなくてもいだろう……と済ませていいものでしょうか?
 たくさんの仕事をこなすことができず、建国者の洪武帝のときに「殿閣大学士」を置いたのが起源です。永楽帝のとき、これを「内閣」と称します。永楽帝を継いだ短命な仁宗のときから内閣の大臣を「内閣大学士」と呼ぶことがはじまります。初めは、その地位は低かったのですが、皇帝のそばにいて補助する仕事は次第に重きを増していきます。とくに「票擬」といって、臣下からの上奏(申請)文に対する皇帝の決裁文をあらかじめ用意するようになります。内閣はしだいに明の中心的政務機関となり、内閣大学士は実質的な宰相となります。教科書でもこのことを指摘しています。「内閣大学士は洪武帝が皇帝の親政を補佐させる殿閣大学士をおいたのに始まる。行政権はもたないが宰相に近い権力をもった。(新世界史)」「のち大学士の筆頭が事実上の宰相となった。(詳解世界史)」と。明代の皇帝独裁は、この内閣との合作であったのです。皇帝独裁を代行した張居正という人物は必ず教科書にでてきます。
 また「(永楽)帝は、宦官を重く用い(『詳説世界史』)」を用いて、東廠(とうしょう、西廠)という秘密警察を設けたことに言及してもいいでしょう。
 「衛所制」を書いたものもありますが、むしろ内閣を書くべきでした。軍制を書くとすれば、衛所制ではなく五軍都督府をとりあげた方がいい。衛所制はこの五軍都督府の下の制度であり、直接的には皇帝独裁につながるものではないからです。明の初期は、軍事の最高機関として宋代以降の枢密院が置かれていましたが、中書省が廃止されるとともに五軍都督府になり、いざ戦争というときには、皇帝自らが、どの部隊をだれに指揮させるかを決定し、六部の中の兵部がその命令を都督府に伝える順で下に降りていきます。ここにも皇帝独裁を維持する線が守られています。しかしこれは軍制であり、やはり無くてもいいものです。
 まして「里甲制」について言及する必要はありません。この農村を統制する郷村組織は、政治制度ではありません。ここで里甲制を書いても、他の宋・清朝では郷村組織は、じゃどうだったのか、ということになり一貫性も整合性もなくなります。論述の一つの課題を忘れて、王朝毎に特徴的なことをなんでもかんでも入れ込んだという無茶な答案になります。

 清代:満漢併用制とか思想統制を書く必要はありません。これは民族政策です。皇帝権強化のための政治制度ではありません。馬鹿のひとつ覚えのように、清朝とあれば満漢併用制だと書いてしまったのでしょうが、「皇帝独裁制……経るにしたがって強化された」政治制度という問題を忘れなければ、満漢併用制はテーマからはずれる、とすぐ認識できるはずです。漢民族を統治するためのアメとムチ、あるいは二重統治策は、異民族支配者(征服王朝)の問題には不可欠な知識ではありますが、ここでは要らない。もちろん八旗・緑営などの軍事制度は要りません。必要なのは「政治制度の改変」です。京大の過去問に「唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に300字以内で述べよ」(1990年度)とあるように、政治制度と軍事制度とは別のものです。もちろん完全に無関係ではないが、問題というのは、要求されたことは目一杯書くのが原則です。余計なことは書かない。2003年度の問題は「軍事制度も書け」とは要求していないのです。だいたい軍事組織のない王朝はありえないし、王朝創建のさいに母体となった軍がその後も軍の中枢を占めることは当り前のことです。
 思想統制(文字の獄)は清朝からはじめたのではなく始皇帝以来の歴代の王朝がやってきたことです。とくに清朝になって「強化された」制度でもありません。
 書くべきは軍機処です。清朝は政治制度はほとんど明の制度を受けついでいて、内閣も受けつぎました。内閣が国家の最高行政機関でした。軍事は後金建国以来の満州貴族でかためた議政王大臣がとりしきっています。ところが、ジュンガル部討伐のため5代目の雍正帝が臨時の軍需房を設けたことから、次第にこの軍略専門の官庁が重きをなしていきます。なぜそうしたのかは、内閣の庁舎が遠いところにあったり、内閣に関係する人間が多過ぎて機密が漏れる恐れがあったことを危惧したためらしい。これを臨時でなく常設の軍機処とします。そして軍略だけでなく一般行政に関することも合わせて管轄するようになり、従来の議政王大臣と内閣の職権を兼ねる国政の最高機関にしあげていきました。内閣の大学士や六部の官僚の中から信頼できる人間を集め、4〜5人の軍機大臣を常時出仕させて皇帝のもとで働かせます。宮崎市定著『雍正帝』(中公新書)に副題が「中国の独裁君主」となっている理由です。
 
 インターネットにのっている各予備校の解答を見てみたら、不十分な点はあるものの予備校(K)の解答がもっとも問題の要求に合った解答になっています。上述した誤解や、不要なことをよく書いた非「模範」答案の予備校もあります。こういう答案では論述も中国史も教えられるのか、なんとも怪しい。
 2001年度の第1回京大実戦模試でわたしのアイディア「中国皇帝の専制化(宋〜清)」というテーマを、わたしではない作問者は「中国では10世紀以降、漢人・異民族の支配が相半ばした。そして諸王朝の下で軍事・文治の両側面が整えられて次第に皇帝権力が強化される。10〜17世紀の諸王朝で皇帝権力を支えた軍事・行政の制度の特徴について、王朝間の継承や担い手にも留意しながら300字以内で述べよ」という問題にしました。この問題になると、今回の京大の問題より要求項目が多い。軍事が入り、元朝も入り、担い手も要求しています。初めのわたしのアイディアの方が単純で今回の問題に近かかった。
第2問
A
問(1) 過去問に「紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について」(1998年度)という問題が出されています。この「20世紀初め」が何年かと問うています。
 この問題文のはじめ出てくる改革派のひとたちはみな科挙に苦杯をなめさせられた経験の持ち主です。陳独秀は17歳のとき科挙予備試験に合格して「秀才」となったものの、あとの郷試で落第しています。自伝で、科挙は、まるでサーカスの猿か熊のようで、長年にわたってずっと繰り返しているもの……中国の他の制度は等しく腐敗してる、と疑問をていしています。
 梁啓超は17歳で郷試に合格して挙人となりますが、翌年の会試に失敗しました。
 康有為は17歳のときの郷試に失敗し(1876年)、ふたたび郷試受験のために上京したとき官僚の腐敗と無能を指摘する上書(意見書)を提出しました(1888年)。しかし、彼が進士でなかったため上書の資格に欠け、皇帝のもとには届かなかったのです。こんどは会試受験のため上京し、また上書したのですが受け入れられませんでした。1895年になってやっと殿試に合格して進士となります。20年間の受験勉強の終了です。かれが四書五経を学びだしてからは、30年間と言うべきでしょうか。変法運動のひとつとして科挙の改革があったのは自然です。2000年前の四書五経で列強に対抗できない。あまりの時代錯誤でした。
問(2) よく問われる人名です。センター試験でも過去3回確認できます(89年、92年追試、99年)。この弱い皇帝は、ある朝早く西太后にたたき起こされ、こんなことはもう止めなさい、と言われ、そのまま幽閉されました(戊戌の政変)。なんともあっけない変法運動でした。この皇帝は西太后の妹の子で、4歳のときに西太后が皇帝にしたてた人形でした。改革をつぶすのは容易なことでした。
問(3)「ファン=ボイ=チャウ」の運動もセンター試験で出ています(98年度)。「日本留学」運動そのものを漢字で言い直します。日本は東にあり、留学は遊学ともいいます。ファン=ボイチャウ(1867〜1940年)は1900年の地方試験に合格します。同時に、かれは明治維新・変法運動に動かされ、「維新会」という反仏の秘密組織をつくります(1904年)。この年、武装闘争を考えていたかれは、日露戦争をチャンスと見、武器援助を求めて来日しました。犬養毅や亡命中の梁啓超の助言もあり、まず武器でなく人材をと説得され、ヴェトナムの青年たちを日本に留学させます。200人ほどの学生が来日しました。フランスはこれを嫌い、日本と日仏協約を結んで、すべての学生を退去させます。日本は信頼できる国ではありませんでした。見透かしていたホー=チミンはフランスに留学します。
 空欄a 「1911年湖北省」「軍隊が蜂起」「多くの省が相次いで独立を宣言」は辛亥革命です。西洋式の軍隊「新軍」の兵士3000人が10月10日夜に蜂起したものです。鉄道国有化問題に対して四川暴動の鎮圧のため湖北の新軍が西に派遣され、答えの町に残った兵士が少なくなったこと、ロシア租界で密造中の爆弾が破裂したことから同志が逮捕されたこと、などから6日の蜂起の予定が10日になりました。
 空欄b 1911年を第一革命として1913年の反袁闘争を第二革命、1915年の反袁闘争を第三革命といいます。奇数(1、3、5)ごとに革命のやり直しです。日本では一般的ではありせんが、護国軍起義・雲南護国運動などともいいます。袁世凱は民主的な仮憲法である臨時約法を停止し(1914年)、大総統の権力強化をねらった新約法を制定しており、儒教の国教化をはかる尊孔運動までやりだしていました。
問(4)「上海など5港の開港」とあればアヘン戦争の結果としての条約です。この条約もセンター試験で4回でています。私大なら5港全部が出ます。「清は香港の割譲、長江以南の[ ア ]・[ ウ ]上海・寧波・厦門の5港の開港(法政大)」、「清を破ったイギリスは1842年に条約を結び、[ a ]を割譲させ、[ b ]・福州・[ c ]・[ d ]・広州の5港を開港させた(立命館大)」のように。
問(5) この人物もセンター試験で過去3回出ています(1989年、1996年追試、2003年追試)。「文学改良芻議」の正式名は「文学改良についての卑見」で、内容の一部はこうです。「今日、文学の革命を唱えようとすれば、次の八項から着手する必要があると思います。それは、
 一、典故を用いない。二、常套句を用いない。三、対句を使わない(文章では駢文を、詩では律詩を廃止すべきである)。四、俗字俗語を避けない(口語で詩作することも排さない)。五、文法構造を追求しなければならない。以上はいずれも形式上の革命です。六、悩みもないのに深刻ぶらない。七、古人を模倣せず、一語一語に個性がなければならない。八、言葉に中身がなければならない」(西順蔵編『原典中国近現代史 第四冊』岩波書店)。
 空欄c 「ヴェルサイユ条約」「期待が失望に変わって」というのは第一次世界大戦の戦後処理会議の開催地の名前が付いています。
問(6)文中に「山東省の旧ドイツ利権」とあります。この湾もセンター試験で3回出ています(1996追試、2001年、2003年)。私大では書かされます。書けますか?
問(7) 1919年、この設問の朝鮮半島における運動も刺激になり、五・四運動が北京ではじまります。韓国の教科書では「韓国独立万歳」を叫んだことになっていますが、ほんとは「朝鮮独立万歳」です。「朝鮮」という名をなんとしてでも使いたくない、ということでしょう。もちろんセンター試験で出ています(1996年、1998年、2000年、2001年の追試)。
問(8) 読んできたひとは、この答えがすでにあったことを知っているでしょう。日本に留学しなかった人物です。「ヴェトナムでも共産党が結成され」とあるように、ヴェトナム共産党をつくりますが、インドシナ全域の解放を目指そうと目標を大きくして「インドシナ共産党」に名称を改めました(1930年)。かれの戦いの生涯はその終結を見ず閉じてしまいました(1969)。
問(9) この問題を作問する頃の昨年6月、事件をおこした張学良(1901〜2001、100歳でハワイで亡くなった)の証言がコロンビア大学で公開された、と新聞が報じていました。1936年12月、軍閥の楊虎城将軍と組んで西安で蒋(漢字は古いものを使うのが正式)介石を監禁し、これまでやってきた共産党掃討を中止して、挙国一致の抗日作戦に転換しようと迫ったのです。蒋介石が投宿していたのは西安郊外の華清池という楊貴妃が湯浴みしたとされる温泉です。突然の銃声に寝室を飛びだした蒋介石は、わずかな護衛兵とともに裏山へ逃げましたが、中腹の岩穴に潜んでいるところを、張学良の東北軍に発見され連行されます。しかし蒋介石は共産党掃討中止をすぐには承諾しないため、延安の周恩来にきてもらい、やっと蒋介石が承諾した、という事件です。
 空欄d 「総司令……国民革命軍」は問(9)でしぶしぶ抗日を認めた人物です。
問(10)張学良の父です。小さいとき朝早く農家の納屋に火をつけ、農家のひとをドンドン戸をたたいて起こし、一緒に消火をして、よくぞ早く知らせてくれた、大事に至らなかったと感謝されて金をもらった、という幼くて暴勇の人物でした。
 空欄e 「北伐……途上1927年4月[ e ]が起こり……共産党は大きな打撃を受けた」という共産党員虐殺事件です。上海のヤクザ青幇が労働組合と共産党をつぶす陰謀を蒋介石にもちかけます。蒋介石がこの話にのり、ヤクザに資金援助を見返りに承諾しました。4月12日の明け方、共産党員を逮捕し、街頭で首をはねていきます。諸説ありますが、3日間で3000余人が殺され、5000人が行方不明になったらしい。

B
 空欄f 「アッシュール」というアッシリア帝国のもとになった都市がユーフラテス川沿いにあるのか、ティグリス川沿いにあるのか? バグダードはティグリス川沿いにあり、バビロンはユーフラテス川沿いにあります。さてアッシュール(Ashur,Assur)市は? ティグリス川の上流にあることは、つぎの地図で確かめられるでしょう。http://www.nineveh.com/whoarewe.htm
問(11) 「最初に鉄器を使用」で分かるはず。「アナトリア」という地名はローマ時代からの「アジア」と同じ。現在のトルコ領西部で、北は黒海、西は地中海に囲まれたところ。しかし、アジアという概念が東へと広がったため、この地は小アジア(Asia Minor)と改められた。「アナトリアAnatoliaともよばれるのは、ビザンティン帝国の14のテマ(軍管区)に分けたとき付けられた名前からです。次のホームページの地図の28 Asia がそれに当たります。
http://www.dalton.org/groups/rome/RMap.html
問(12)(ア) 「4つの王国のうち」「肥沃な三日月地帯」であるメソポタミアを支配した王国は何か、(イ)その王国の首都はどこか、という、これも地図を見ていないと迷う問題。つぎのホームページにのっています。http://www.biblestudy.org/maps/assybaby.html
この中の Chaldaean Empire が答えです。別名「新バビロニア(王国)」とも「バビロン第10王朝」ともいいます。
問(13) 「イラン人」はペルシア人ともいいます。ペルシア北部のメディア人も、小アジアのヒッタイトも、メソポタミア北部のミタンニも、南部のカッシートも、インダス川に入ったアーリア人も、そしてヨーロッパに入った5民族もみな同じ語族です。みな青銅剣・戦車をもち、この戦車をひっぱる馬を連れています。1995年度に「問(2)ローマ人の母語であるラテン語と同じインド=ヨーロッパ語族に属する言語を、次の〔1〕〜〔4〕から1つ選んで記号で答えよ。〔1〕トルコ語 〔2〕アラビア語 〔3〕アラム語 〔4〕ぺルシア語」という問題が出ています。
 空欄g 「前550年キュロス2世が……を減ぼして建国」というのは歴史家の評価で、キュロス「2世」から「建国」という表現に疑問をもつひともいるでしょう。アケメネス家では、前700年から王国時代がはじまっていて、それまで服属していたメディアの都エクバタナを陥落させてペルシア全体の支配者になったのが前550年だからです。
 空欄h 「第3代の王」「大帝国」は、古典ペルシア語ではダーラヤヴァウシュ(ダラヤウァウシュ)ともいう人物です。この大帝国に自分の肖像をかたどった金貨ダレイコスを発行し、史上はじめて貨幣で徴税したひとでもあります。この金貨は次のホームページで見ることができます。
http://www.coin-gallery.com/cgearlycoins.htm
問(14) アレクサンドロスの遠征は、たんなる征服だけでなく、ギリシア人の拡大とみなすことができ、それは建国、都市建設、植民、商業、コイネー(共通ギリシア語)の普及を伴ったものでした。いわゆる「ヘレニズム文化」といわれるものの拡大でした。西欧人のサイドで名前はヘレニズムとなっていますが、アレクサンドロスの軌跡をたどれば、ギリシア人の方がオリエントの影響を強く受けていることが分かります。大王が死ぬと、東方の大半の征服地はセレウコス1世が受けつぎ、この王朝が西のプトレマイオス朝エジプトとシリアの領域をめぐって長い戦争に入ると、セレウコス朝のもっとも遠い方から独立していきます。それがこの問題のアフガニスタンにおけるギリシア人将軍ディオドトスによる独立・建国です。国名にわざわざ「グレコ(ギリシア)」とギリシア人による国であることを示す表現もあります。しかし、20世紀後半にその遺跡が発掘されるまで、その痕跡はコインとギリシア人による書籍しかなく幻の王国といわれていた国です。日本最高の博物館ミホ美術館で「古代バクトリア遺宝展」を開催しています。開催期間は2003年3月15〜6月8日。
http://www.miho.or.jp/japanese/inform/inform.htm
この答えの王国もセンター試験ではよく出ています(1996年、97年、2000年追試、2003年追試)。
 空欄 i 問(14)と同じ頃(前250年)にセレウコス朝から独立し、南下してイラン全土を支配した王国です。甘英が来訪してここを「安息国」と名づけたことでも知られています。この国も過去のセンター試験では9回出ています。
 空欄 j 3世紀頃にインダス川流域にあった国はなにか、と問われています。45年頃から450年頃まで存在した大月氏の後継者です。カニシカ王のいた王国といえば分かりやすい。風邪をひいているみたいな名前です。  
問(15) この皇帝は1990年のセンター試験の追試でも出たことがあります。なにかしつこくセンター試験のことを書いていますが、京大の問題は基本問題ですよ、と言いたいためです。京大の世界史は得点源。第2問第4問の計60点問題で、50点を越えることは容易です。第1問第3問の論述で半分しかとれないとしても、70点を越えることは確実。
 なにか幸福な感じになりますが、この皇帝は捕虜になってすぐ死んだという説と、生涯奴隷であったとの説があり、分かりません。いずれにしろ不幸でした。割れないですよ、と聞こえる皇帝です。
 空欄k 「5世紀から6世紀」とあったら反射的に出てこなくてはいけない民族名です。センター試験にすでに5回出ています。  
 空欄1 空欄の後の「8世紀はじめ」の王朝です。8世紀半ばの750年からアッバース朝です。
問(16) 「アラビア語」が普及する以前の西アジア地域の国際語であり文字でもあったのが、問(ア)の文字です。それが中央アジア(その中心都市がサマルカンド)の商人の文字になります(イ)。六朝時代から隋唐にかけて中国に頻繁に訪れたひとびとの文字です。(ア)は今年も含めてすでにセンター試験で2回でました。(イ)も2回出ています。

第3問
 京大は南アジア史はこれまで論述で皆無でしたが、とうとう出題しました。この3問目は例年、欧米史の出題でしたが、イギリス中心ではあれ、アジア史がもろに問われたのは珍しい。問第1問に回しても良かったはずです。植民地・半植民地への「イギリスの政策」を問う、という点ではこの第3問が欧米史だという分野は守られています。
 構想メモとしては、インド政策→戦後の結果、エジプト政策→戦後の結果、という順で書いていくのがひとつ。インド政策→エジプト政策、戦後のインドとエジプトの結果、という時間順に書いてもどちらでもいいでしょう。
 「大戦中にどのような政策」はインドでは、なにより自治の約束をあげなくてはならないでしょう。一方的にイギリス側からの発案で自治の約束があった訳ではありません。戦前から自治の要求はあり(カルカッタ大会のスワラジ)、戦中もガンディーがアフリカから帰国して政治活動をはじめており(「1915年にはガンディーの政治活動も始まり」三省堂の『詳解世界史』)、全インド=ムスリム連盟と協定を結んで自治要求運動を展開しています。さらに何より、「約150万人もの兵士が強制的に徴募された(同じ教科書)」という事実。これはイギリス帝国全土の中で、インド兵が他のどんな地域より「桁はずれに多くの人々が動員された(木畑洋一著『支配の代償 英帝国の崩壊と「帝国意識」』東京大学出版会)」ことと関係しています。インドに次ぐ動員は、カナダ約63万人、その次がオーアストラリアの約41万人です。この二国はもう自治領でした。
 なお予備校の中には、国民会議派と協力した「全インド=ムスリム連盟」の名前を「全インド=イスラーム連盟」などと解答しているものがありますが、こんな名称はありえません。All India Muslim League (All India Moslem League)は「全インド=ムスリム(イスラム教徒)連盟」と訳します。
 戦後の結果は、自治の約束を果たすことがなく、イギリスはむしろより強圧的なローラット法という民族運動弾圧法をしいています。「逮捕状なしの逮捕、普通の裁判手続抜きの投獄など、民族運動に対する法外な弾圧を目ざす治安維持法である(平凡社)」と「法外な」といっていいものでした。ある予備校は「強圧的な支配」を「続行」と書いているものがありますが、むしろ「強化」に訂正した方がいいでしょう。Anarchical and Revolutionary Crimes Act が正式名で、「無政府・革命分子犯罪取締法」とか「刑事緊急権限法」とか訳します。ローラットは1917年にインドの治安調査委員長の名前です。この悪法はインド人の激しい抵抗を引きおこします。すでにあった不満に火をつけた、といっていいでしょう。このローラット法制定の翌月、アムリッツァー市で開かれた抗議集会にダイヤー将軍率いるイギリス軍が包囲して発砲し子供を含む1000人強の死傷者を出しています。ここでガンディーを指導者に全国的な非暴力不服従(サティヤーグラハ)運動もはじまります。まさに結果は全国的・全民族的で組織だった反英運動に発展します。

 エジプトに関しては、戦中は名目的なオスマン帝国の外交権をイギリスがうばい保護国とします(1914年)。その理由は「第一次世界大戦でトルコがドイツ側についたので、イギリスはエジプトを保護国とした(『要説世界史』山川出版社)」のでした。
 予備校の中には、エジプトにもインド同様に「戦後の自治を約束した」とか「将来の独立を約束して戦争に協力させた」とデタラメなことを書いているものもありますが、そんな約束はありません。「将来の(エジプトだけの)独立を約束」などというものはなく、フサイン・マクマホン協定(1915)というカイロの高等弁務官マクマホンとメッカの首長フサインとの書簡で、アラブ人の独立の約束があったものの、ここにエジプトは含まれていません。含まれているのは戦後に委任統治領にするところとアラビア半島です。むしろ「エジプトを保護国として最終的にトルコとの関係を断ち切らせたイギリスは、その支配力をさらに強化するために植民地として併合することをも、戦争中に検討していた」のが実状でした(木畑の前掲書)。(教科書に書いてないことは、書かない方が無難です。予備校のようにボロを出す可能性があります)
 しかし、米国大統領ウィルソンの民族自決に刺激されてワフド党のもとになる団体が18年から運動をはじめ、戦後激しい民族運動がおこります。全国的な反英運動を「1919年革命」とまで呼ぶ歴史家もいます。「エジプト人は街頭の主人であり、権力の主人であった。男、女、子供、ストやデモの参加者、すべての者の集合場所としての街頭は民族の全生命を吸い込んだ。政府はもはや存在しない(岩波講座『世界歴史』25巻、板垣雄三の論文「エジプト1919年革命」から)」と。こうした動きに促されてイギリスが戦後1922年に保護権を廃止し、独立を承認していきます。さらにイギリス軍が駐留する名目だけの独立に民衆は反発し、1924年の総選挙ではワフド党が政権をにぎるまでになりました。

第4問
A 
問(1)(ア)クレタ文明なら絵文字、線文字A。後を継いだ「ミケーネ文明」なら解読されています。つぎのホームページでこの字体と読み方を確かめることができます。
http://ancienthistory.about.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http%3A%2F%2Fwww.ancientscripts.com%2Flinearb.html
ミケーネ文明以前にも文字はあったのか、という問題がセンター試験に出ています(1996年度)。
(イ)14歳のときに、クノッソス宮殿を発掘したエヴァンズの講演を聞きに行き、線文字Bについて話しているのを聞いています。それ以来興味をもちつづけ、18歳で 雑誌 American Journal of Archaeology に線文字Bはエトルスキ文字と関連があるとの論文を発表しました。1952年にラジオで線文字B がギリシア文字の古い形であることを発表します。
(2)ペルシア戦争の発端となった反乱の都市です。万物の根源を「水」と唱えたタレースの出身地です。センター試験の過去問ではアリストテレスがここで活躍した、とまちがった文章で出ています。ここは現在のトルコ側です。つぎの地図でMiletos という文字が見つけられますか?
http://www.fsmitha.com/h1/map11ae.htm
(3)これは追試も含めるとセンター試験で5回も出題されている基本データです。「こうして共和政ローマは、法的には平等な市民によって構成される国家となった」という部分だけ注目するとローマ史を見やまってしまう法です。この文章の後の「が、現実には元老院を構成する少数の貴族集団に強大な権限が集中した寡頭政の国家であった」とか、「しかし、このような改革にもかかわらず、非常時には貴族の独裁官(ディクタートル)が全権をにぎったりして、結果的には貴族と平民上層の富裕者が政治の実権をにぎる体制となり、ギリシアのポリスのようなより徹底した民主政とはことなった(『新世界史』)という点が重要です。
(4)「自作農没落の原因」のばいあの「軍役」の最大のものはポエニ戦争です。それはイタリア半島と農民にどんな影響を与えたのかを追っていけば、いろいろな解答が可能です。
 ポエニ戦争のときのカルタゴ軍の侵入による農村(耕地)の荒廃。農民とは逆にこの戦争の期間を利用して土地を拡大した元老院議員や騎士が農地を買い占めたこと。征服地を属州としていったたために、税として無償の穀物や、安価な穀物が輸入(流入)してきたため中小自営農は対抗できない。大土地所有者が経営する奴隷制という安上がりの労働力の経営に対抗できない。ラティフンディウムの「圧迫」に農地経営が行き詰まった、といってもいいでしょう。ポエニ戦争と農民の没落をあつかった文章もセンター試験では過去3回出題されています。
(5)aのケルンはローマ帝国時代の名前はコロニアです(Colonia Claudia Ara Agrippinensium、Colonia Agrippinensis、略称Colonia)。コロニア(植民市)がケルンという名前の起源です。ローマ帝国の国境線であるライン川・ドナウ川の地図を教科書・歴史地図でよく見ていれば、これはローマ時代からあったはずと推理できます。さて、きみどうでしょう? bのニュルンベルクは、歴史的にはナチス大会とナチスを裁く裁判の都市ですが、いつできたのか教科書・参考書では分からないものですが、こういうばあいは放っておく。cとdはローマ国境線外になるので、いくらなんでもちがうだろう、と推測できるはず。cのベルリンはエルベ川沿い、dはプラハはエルベ川の支流ブルタバ(モルダウ)川沿いにあります。ライン川とエルベ川の区別ができない? それでは地図をこれから勉強しましょう。
http://www.roman-emperors.org/nouest1.htm
 センター試験でも似た問題に次のようなものが出ています。
 ローマによって建設された都市ではないものを一つ選べ。  
 1 ロンドン  2 パリ  3 ベルリン 4 ウィーン(1990年、答えは3)
 なお、ニュルンベルク市は1050年に記録上はじめて確かめられる都市で、もともと皇帝ハインリヒ3世(位1039〜56)が築いた城に由来するそうです。特許状を得て一人前の都市となったのは1219年です。
(6)京大の過去問に「北海・バルト海商業圏が地中海商業圏と並んで重要な意義を持つようになった」に下線があり、設問は「この地域の商業上の最大の都市同盟を何というか」という、似た問題が出ています(1993年度)。論述問題としても「l1〜l4世紀のヨーロッパの遠隔地商業について、主な商業圏とその代表的都市および商品を挙げて、200字以内で論述せよ(1995年度)」と出ています。これは何も京大のよく出すところ、というより、どこでもよく出題している頻出分野です。論述であれ、かんたんな問題です。中世都市の問題はいろいろな角度から論述では問いますから、『中谷の世界史論述練習帳』(旺文社)に6問の中世都市の問題がのっています。
(7)ハンザ同盟はセンター試験で出ても、このロンバルディア同盟は出たことがありません。頻度からは出題されても不思議ではないものです。ロンバルディアはゲルマン人の「ロンバルド王国」が残した地名でもあり、もしかして映画ファンであれば「ヴィスコンティ家」といえばその子孫の映画監督の名に気がつくひともいるでしょう。この都市もローマ帝国の西方の中心として栄えました。前の設問(5)の地図の下方にMediolanum(「平野の真ん中の地」の意味)という文字が見つけられたら、それがローマ時代の名称です。
(8)予備校の解答はへんです。「分裂状態……強力な権力が存在しなかった」と解答しています。これは問題文に、すでに「都市国家、都市共同体という形態の相違はあれ、イタリア、ドイツの有力都市が19世紀まで、自立性を維持することができた政治的背景を」と全体を統合する強力な政治的権力が存在しなかったことを示唆しています。都市の自立性は、それを統制・制限する中央集権的権力がなかったということであり、「分裂」が解答なら、そうした解答は問題文の言い換えにすぎません。問題文の「19世紀まで」は、19世紀まで両国が統一できていなかったことも示唆しています。分裂でなく、もっと明快な理由を説明すべきです。
 この問題の「背景」は「理由」に近いでしょう。京大の過去問に「ドイツの再統一は……その後の民族国家への歩みは、決して順調なものではなかった。このことを念頭において中世ドイツにおける国家の発展の特色を、画期をなすいくつかの事件をあげ、150字以内で述べよ。(1991年度)」と歴史的な事件をあげながら、統一しにくい理由を求めた問題です。この問題と共通する点が今回の問題にあります。これは時代を中世に限っていますが、今回の問題は19世紀まで広げています。なぜ中央集権が育たなかったのか? 統一国家的な絶対主義はなぜなかったのか? これに代わる存在としての皇帝と教皇がそれぞれ存在し、どこよりも地方(領邦)・都市の自治の発展したところでした。叙任権闘争による内戦、皇帝のイタリア政策は絶対主義を育成しませんでした。また近世(16〜18世紀前半)の時期に内戦(イタリア戦争、三十年戦争)が激しく外国の干渉・侵入も頻繁でした。

B
問(9)下線部の後に「ルターはこれを非難」とある農民反乱の指導者です。
(10)和議の内容はいくつもあります。領邦君主と都市(市参事会員)に信仰の選択権が認められたこと。個人の信仰の自由はないこと。ルター派は認めるがカルヴァン派は認めない。聖職諸侯がルター派に改宗するときは、その聖職と領土を放棄しなくてはならない。
(11)議会の中央の議席を占めたたため呼ばれるようになった政党です。
(12)ともにルター派であるスウェーデンかデンマークをあげ、その君主もあげる問題です。スウェーデンの国王はセンター試験で2回出ています。デンマークの王は出たことがありません。頻度からも出題の可能性がありません。
(13)映画『王妃マルゴ』でも描かれた凄惨な虐殺事件です。
空欄a 王妃はカトリーヌ=ド=メディシスの娘で、マルグリット=ド=ヴァロアといいます。 
(14)教会の経営において聖職者でない信徒(俗人)の長老たちPresbytersにゆだねたため、この名前があります。南のイングランドにも広がり、イングランドの長老たる貴族が政治を担当する議会政治を理想とする派としてピューリタン革命でも登場します。
空欄b クロムウェルの征服地です。これ以来の紛争が今も完全には収まっていません。
(15)この解答も予備校のは理解しがたいものです。たいてい、オコンネルとカトリックの反対運動の沈静化をあげているのですが、そうでしょうか? かれらカトリックにとってはカトリック教徒解放法(1829年)があり、オコンネルは確かに審査法廃止の前から活動しているものの、審査法廃止後もカトリック排除は変わらないから、かれを支持する運動が盛んになるのです。カトリックである者には被選挙権がないにもかかわらず、アイルランドのひとびとは選挙でオコンネルを当選させてしまいます。対立候補とは2057対982という圧倒的な差でした。それでカトリック教徒解放法が審査法廃止後に成立します。この問題は審査法廃止の経緯を問うているのであって、カトリック教徒解放法の成立の経緯を問うているのではありません。だいたいカトリック教徒だけが反対運動をしていた訳でもありません。なにより非国教徒がいます。教科書は審査法廃止をナポレオン戦争中からの自由主義改革の一貫として書いているのはそのためです。奴隷貿易禁止(1807)、手枷足枷の刑の廃止(16)、婦人の笞(むち)刑の廃止(20)、結社禁止法の廃止(24)、奴隷労働制の廃止(33)という一連の改革の中で、この審査法廃止もあります。非国教徒であるメソジスト教会やクェーカー派の運動があり、この時期のウェリントン内閣(1828〜30)で提案された審査法廃止は下院で圧倒的な支持を集めたのは、下院に非国教徒のホイッグ党員が多かったからです。こうした自由主義改革がつぎつぎと実現していく背景には、産業革命の進展と中産階級の台頭もあげることができます。この間の事情を説明しているのは教科書『新世界史』です、「1820年代になるとトーリー党内部にもカニングのような自由主義政治家が登場し、内政・外交に転換がおこった。内政面では1828年に審査法が廃止され……」と。『詳解世界史』でも「産業革命をいち早く遂行したイギリスでは、新興ブルジョアジーがしだいに力を増し、自由主義的な改革が進んだ。1824年の結社禁止法の廃止は労働組合の合法化に道を開き、1833年に工場法が制定された。1828年の審査法の廃止や翌年のカトリック教徒解放法の制定は……」と述べています。
 審査法廃止だけの経緯を書いた教科書はありません。教科書の記述に合わせた方が無難です。
 予備校や多くの参考書が、まちがった解説・解答(カトリックの運動)をこの設問にたいして出している理由は、非国教徒は国教徒でないものをさし、旧教徒(カトリック)も含まれる、と誤解しているためでしょう。信仰のことゆえ分かりにくいのはしたかないとしても学生に教える立場の人間もそうであるのはなさけない。国教徒も非国教徒も新教徒(プロテスタント)であり、旧教徒(カトリック)とは別です。これは清教徒革命を説明する際にも分かっていないといけないキリスト教の根本的な区別のはずですが……。

C
問(16)(ア)(イ) 小説名は「元徒刑囚を主人公とするフランスの歴史小説」で分からなければ、作家も無理でしょう。諦めても他の設問は難しくありません。
 小説の概要はつぎのホームページで知ることができます。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/2462/remizerasite.html
 また全文はテキスト・データで購入することもできます。つぎのホームページです。
http://www.gutenberg21.co.jp/miser.htm
 資料として作品の一部をもってきた推し量らせるというのは、特殊な問題ですが、作者とその時代自体は特殊ではありません。センター試験(2001年度)で次のように問題の導入部に出ています。

 19世紀フランスの生んだ文豪ヴィクトル=ユゴー(ユーゴー)は、政治家としても波乱に富んだ一生を送った。七月王政期に貴族院議員であったユゴーは、二月革命の際にも憲法制定議会の議員に連出された。1851年のクーデタに対しては、抵抗委員会を組織して共和政擁護を叫んだが失敗に終わり、19年間にも及ぶ亡命生活を余儀なくされた。その間、『レ=ミゼラブル』などの代表作を執筆した。帰国後、再び議員となり、パリで他界して国葬に付された。しかし、ユゴーが共和派の英雄としてまつられるに至った19世紀後半は、一方でフランスが対外的に侵略的姿勢を強めていく時期でもあった。

(17)(ア)「古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛」とあれば理性主義の啓蒙思想とフランス革命を否定した主義です。ロマンチックromantic(英語)、romantique(フランス語)ということばもここから出ています。伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として使われるようになります。理性・啓蒙思想の普遍主義(どこにも通じる主義)を拒否して、自国の歴史・伝説に立ち返るとともに、自然感情や個人の叙情性をうたいあげようとするものです。理性至上が結果的に恐怖政治と戦争に陥ったことに対する反発です。ユゴーはロマン主義の戯曲『エルナニ』を書き、コメディ・フランセーズで初演します(1829年)が、観客が古典派とロマン派に分かれて乱闘騒ぎにまで発展するという事件もおきます。「エルナニ合戦」です。フランスではルソー・スタール夫人・シャトーブリアンを先駆者にしてユーゴー・ラマルチーヌ・ミュッセらが演劇を中心に活躍し、ユゴー・デュマ・ジョルジュ=サンドらが小説の分野でも見られ、イギリスでは、この主義の作家としては、ワーズワース・バイロン・シェリー・キーツらの詩人、ロシアではプーシキン、アメリカではエマソン・アーヴィング・ホイットマンらをあげます。
(18)ジャコバン政権のおこなった土地改革は? という問でもあります。
(19)パリ市をまっすぐ北のカレー市に向かうと、ちょうどその中間に位置する町で、そこにゴシックの大聖堂もあります。協定(和約)はこの大聖堂で結ばれました。年代もヒントです。もちろんセンター試験に出ています(2001年度)。
(20)1807年の「ティルジット」条約はフランスに敗北したプロイセンとロシア帝国との条約ですが、とくに前者は領土半減となります。この半減はもともとプロイセンのものではなく、ポーランド分割でとったところです。ポーランドでなにが何という国ができましたか、という問です。ナポレオンの没落とともに消えてしまう国です。
(21)ニコライ1世の即位式のときに、将校たちが新しいツアーに宣誓する前に立憲の要求をつきつけました。十二月です。
(22)(ア)1776年はトマス=ペインの『コモン=センス』も発表された年としても名高いものです。「経済学の体系的創始者」はマルクスが名づけた古典派経済学の創始者のことです。(イ)作品は英文で読むことができます。
http://www.bartleby.com/10/
 これまでの和訳に異議をとなえているホームページは以下。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/koten/bn/WealthOfNation1-3.html

京大世界史2009

第1問
 19世紀末からのインド亜大陸における民族運動はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立、およびこれを煽(あお)るイギリスの政策によって、しばしば困難な局面を迎えた。インド亜大陸の民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の関係や立場の違い、およびこれをめぐるイギリスの政策について、1947年の分離・独立までの変遷を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B の[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(10)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 中国で古くから精度のかなり高い地図が作られていたことは、1973年に湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)で発掘された紀元前2世紀の墓中にあった(1)絹製の地図によって明らかになった。文献には地図に関する記述はけっして多くはない。春秋五覇の筆頭である[ a ]に仕えた政治家管仲の著作と伝えられる『管子』には「地図」篇があって地図の軍事的重要性が強調され、また『戦国策』には蘇秦が合従策を趙王に向かつて説いた際、(2)趙国の地勢について論じてから、「天下の地図」をよりどころにして諸侯の領地が秦の5倍であることを力説したことが記されているが、これらの記述は例外的なものである。とりわけ群雄割拠の時代においては地図の軍事的効用が重視されたであろうが、地図が具体的にどのように描かれ、用いられてきたかは明らかでなかった。
 天下を統一した秦が有していた地図は、首都[ b ]を劉邦の軍が占領した時に接収されたという。[ c ]が『漢書』の地理志を編纂(へんさん)した時点ではそれを参照できた。しかし、晋の斐秀(はいしゅう)が五経の一つである[ d ]の「禹貢(うこう)」の記述と晋代の地名を対照させた地図を作成した時には秦の地図は見られなくなっていた。漢代の地図についても、文献からは具体的な姿を描くことが難しい。たとえば(3)「東京賦」の著者である張衡が作った「地形図」、が斐秀の地図とともに、9世紀の書物(4)『歴代名画記』の「古(いにしえ)の秘画・珍図を述ぶ」の項目に挙がっているが、どんな地図なのかを知ることはできない。その点で、漢代の地図の具体的様相を示す馬王堆の地図の発見は画期的だったのである。
 斐秀の作品が「禹貢」に関連していることからも明らかなように、夏の禹王に献ぜられた各地の貢品と山川について記した「禹貢」は(5)周代の制度を理想的に描いた『周礼(しゅらい)』の地理関連の記述とともに中国人の地理観に大きな影響を与え、後世においてもさかんに研究された。12世紀後半に著された(6)程大昌の『再貢論』『禹貢山川地理図』や、1705年に江南に巡幸してきた[ e ]帝に胡渭(こい)が献上した『禹貢錐指(すいし)』がその代表的なものである。また『周礼』の中で「天下の図を掌る」任を担うとされた「職方氏」は後世には地図を管掌する部局の名前へと受け継がれた。中国で活動したイエズス会士ジュリオ・アレーニが著した世界地理書(7)『職方外紀』、(1623年に完成)は、職方の管掌外にある地域を扱うものであることを書名によって示している。これら「禹貢」や「職方氏」の記述と、南北朝時代にレキ道元(麗+おおざとへん、れきどうげん)が著わした地理書[ f ]によって、中国知識人の伝統的地理観は形作られてきたと言えるだろう。


(1) 地図のうちの1枚は漢王朝の南方に当時存在したある国を意識して作られた軍事地図であった。その国の名を記せ。
(2) 蘇秦は、秦があえて趙を攻めないのは秦と趙の間にある2つの国のためである、と論じた。秦の東方趙の南方にあったこの2つの国の名を記せ。
(3) 「東京賦」の「東京」とはどこを指しているか。その都市の名を記せ。
(4) この項目には、王玄策の「中天竺国図」も挙がっている。王玄策は7世紀に数回インドに使いした人物であるが、2度目の時にインドの内乱に巻きこまれ、結局ヒマラヤ山脈の北にあった新興国の力を借りてインドの王を捕虜にしている。この新興国の名を漢字で記せ。
(5) 漢にかわって王朝を立て『周礼』を利用して復古的政治をおこなおうとしたのは誰か。その名を記せ。
(6) 程大昌は「禹貢」に見える「弱水」を、漢代の西域関係記事を参考にして、大夏・大月氏・安息を経て西の海に注ぐものであるとした。大月氏に使いして、西域情報を中国に伝えたのは誰か。その名を記せ。
(7) (ア) この本の「百爾西亜(ペルシア)」、の項ではペルシアの沖合にあって、アジア・ヨーロッパ・アフリカの富裕な商人が集まってくる島の繁栄が強調されている。この島の名を記せ。
(ィ) また、仏教に由来する「五天竺」という区分をうけて「印度は五つある」とし、そのうちの「四印度」は「莫臥爾」国に併合されたと述べる。この併合を16世紀後半に実現したのは誰か。その名を記せ。

B 下の図は、朝鮮半島に展開した諸王朝──X王朝、Y王朝、Z王朝──について、それぞれの首都の所在を示したものである。

f:id:kufuhigashi2:20170710102122g:plain

 このうちX王朝は、中国の[ g ]王朝から(8)冊封」を受け、これと軍事同盟を結んで、長く敵対していた[ f ]と[ i ]を滅亡させた。ところが、[ g ]王朝は[ i ]の故地に安東都護府を設置し、朝鮮半島全域を支配しようとした。このため、これに反発したX王朝は、[ i ]遺民の反乱を利用して[ g ]王朝の勢力を駆逐し、朝鮮半島を統一した。しかし、その後の(9)北東アジアにおける国際環境の変化によって、x王朝と[ g ]王朝との関係は再び親密なものとなった。
 次に、Y王朝が成立したころ、中国は[ j ]と呼ばれる分裂の時代にあったが、その後、[ k ]王朝が中国を統一した。Y王朝は[ k ]朝と通交し、その冊封を受けたが、10世紀末から11世紀前半にかけて数次にわたって北方王朝の侵攻を受け、これに服属したため、[ k ]王朝との国交は断絶した。しかし、中国の商人たちは国禁を犯して朝鮮半島に渡航し、Y王朝としきりに通商していた。このため11世紀後半に入って中国で[ l ]党と呼ばれる勢力が権力を掌握すると対外政策に積極的であった[ l ]党の政権はY王朝と国交を再開し、Y王朝を利用して北方王朝の勢力を牽制(けんせい)しようとした。
 最後に、 z王朝は14世紀末に成立して中国の[ m ]王朝から冊封を受けたが、1636年に[ n ]王朝の侵攻を受け、翌年、これに服属した。その後、[ o ]の乱で[ m ]王朝が滅亡すると[ n ]王朝はこの混乱に乗じて中国本土に進出し、やがて中国全土を統ーした。Z王朝は[ k ]王朝に服属したものの、[ m ]王朝に対しては(10)特別の恩義を感じていたため自らの王朝が[ m ]王朝の正統を受け継ぐのだという独特の世界観を構築し、暗に[ n ]王朝に対して復讐(ふくしゅう)の機会をうかがっていた。


(8) 下線部の「冊封」について、当時の国際関係を規定する外交上の概念として簡潔に説明せよ。
(9) 下線部の「北東アジアにおける国際環境の変化」、とは何か、歴史的事実を簡潔に説明せよ。
(10)下線部の「特別の恩義」とは何か歴史的事実を簡潔に説明せよ。

第3問
 コロンブスおよびそれ以降の航海者の探検によって、大西洋の西、アジアとヨーロッパとの間にある陸地は大陸であることが証明された。この「新大陸」の発見の結果、新・旧両世界にひきおこされた直接の変化について300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。なお解答には、下記の語をかならず使用し、用いた語句には下線をほどこせ。
  先住民  産物

第4問
 次の文章(A、B、C) の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(21)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代の地中海地域を中心に文明を築いたギリシア人とローマ人には、市民権を持つ都市の正式構成員が主体となる政治体制を樹立するなど、共通する面も多かったが、他方ではまったく性格の異なる政策を実施するなど、注目すべき相違点もみられる。
 (1)古代ギリシアの代表的なポリス、アテネでは民主政の発展によって成年男性市民の総会である民会が国政の最高決定権を有し、また市民は一部の特別職を除いて誰でも公職に就くことができ、公職者はくじで選ばれ、日当が支払われた。参政権は市民の成年男性に限られており女性や在留外国人には与えられなかった。しかも(2)紀元前5世紀中ごろの立法によって、アテネ市民の両親から生まれた子でない限り市民権は与えられなくなった
 ローマの場合も、共和政の時代は、市民の集会である民会で国家の公職者が選出され、参政権を持つ者も成年男性に限られていた点は、アテネと同様であった。しかし、(3)ローマ市民の中でも貴族が公職を独占的に保持して権力をふるい、貴族主導の政治体制をとった点は大いに異なる。また、(4)ローマ人は征服活動を進める過程でローマ市民権を他の諸部族諸民族にも与えたため、(5)政治的特権であるローマ市民権を持つ市民団は、故地ローマ市はもとより、イタリアをも越えて拡大した
 対外的な活動においてもギリシア人とローマ人の違いは注目に値する。両者とも、(6)地中海を自由に航行し、植民活動や都市建設をおこなっている。しかし、ギリシア人の場合、植民によって建設された都市は母市から独立したポリスとなったが、ローマ人が建設したり植民したりした都市がローマ国家から切り離されることはなかった。またギリシア人は広大な植民活動をおこなったが、植民市はおおむね故地と気候や風土の似た海岸部に建てられたのに対し、(7)ローマ人の場合、ヨーロッパの内陸部にも征服地を広げ、イタリアとは気候や風土の異なる地域にも都市を建設した。このため、(8)ローマ人の国家は、地中海沿岸にとどまらず、ヨーロッパの中央部、さらにはブリテン島やドナウ川下流域にまで広がり、ヨーロッパの広大な地域に大きな影響を残すこととなった。


(1) アテネとともに古代ギリシアを代表するポリス、スパルタは、市民間の平等維持や厳しい軍事訓練などを定めた独自の国家制度を完成させた。この名称を記せ。
(2) この法律を提案しアテネ民主政の黄金期を築いた政治指導者の名を記せ。
(3) 貴族の権力から平民を守るために前5世紀に設置された公職の名を記せ。
(4) 前1世紀の初めに、イタリア半島の都市へのローマ市民権付与をめぐって生じた戦争の名を記せ。
(5) 政治的特権であったローマ市民権は、保持者の増大につれて特権としての価値を減じていった。
 (ア) キリスト教のローマ帝国東部への伝道に活躍し、キリスト教を世界宗教とするために最も大きな役割を果たした人物は、属州で逮捕されたが、ローマ市民権を有したために首都ローマの皇帝の裁判に上訴することができた。この人物の名を記せ。
(イ)紀元3世紀の初めにはローマ帝国内のすべての自由民にローマ市民権が与えられた。この措置がなされた当時の帝国の状況を正しく説明した文章を、次の(a)〜(d)より1つ選んで、記号で答えよ。
 (a) オクタウィアヌスが内乱に勝利し、新しい政治体制を導入した。
 (b) ディオクレティアヌス帝が混乱した帝国を再統一し、様々な改革を断行した。
 (c) 門閥派と民衆派の政治権力をめぐる争いが激化した。
 (d) 五賢帝時代も過ぎて、国境外の諸民族の侵入や皇帝位をめぐる争いが頻発するようになった。
(6) ローマ人の地中海進出以前ギリシア人とともに地中海での交易や植民に活躍し、カルタゴなどの植民市を建設した民族の名を記せ。
(7) 初代皇帝アウグストゥスの治世にローマの3軍団がゲルマン人の部隊によって全滅させられローマの内陸部征服計画は頓挫(とんざ)することになった。この戦いの名を記せ。
(8) ローマ人が進出する以前のヨーロッパ中央部には前5世紀から前1世紀にかけて独自の性格を持つ鉄器文化、ラ・テーヌ文化が広がっていた。
 (ア) この文化の担い手となった民族の名を記せ。
 (イ) この文化の担い手である人々がローマの支配下に包摂されるようになる大きな契機は、ユリウス・カエサルの遠征である。彼がこの遠征について自ら書き記した作品の名を記せ。

B ユーラシアの歴史では遊牧民族の移動と征服活動によって幾度も大きな変化がもたらされた。規模は異なるもののヨーロッパ史においても、様々な民族や集団の移動が、社会や国家の変化を促している。ゲルマン民族の移動が一段落した後、7世紀にスラヴ民族が西進、南下し、ヨーロッパ東部の政治と文化に大きな影響を与えた。バルカン半島ではトルコ系の[ a ]人が東部に定着し、7世紀末には独立国家を建て、やがてスラヴ化した。西ヨーロッパでは、北欧からのノルマン人の略奪活動が(9)ブリテン島や西フランク王国の社会にとって大きな脅威となり各地において支配体制の変化をも促した。しかしノルマン人の活動が、略奪と交易から植民と定住に向かうことにより、(10)ヨーロッパ各地における新たな国家形成の出発点となったことも、見逃してはならなこのように4世紀から11.12世紀にかけては様々な民族集団がヨーロッパを縦横に移動したのに対し11.12世紀には西ヨーロッパから周辺世界への移動や支配の回復・拡大が始まる。11世紀末に開始された十字軍は、イェルサレム王国を建ててイスラム王朝と戦ったが、1187年にはアイユーブ朝の建国者[ b ]との戦いでイェルサレムを失い、1291年にはアッコン陥落により、王国最後の拠点をも失った。エルベ川以東のスラヴ民族の居住地域では、ドイツ人による植民と都市・村落の建設が進められていたが、パレスティナで活動していたドイツ騎士団は14世紀初めまでに拠点をバルト海南岸地域に移して、国家的支配を築いた。(11)この「騎士団国家」はバルト海南岸各地に広がったが、(12)その一部は宗教改革を経て世俗国家となり、ドイツのホーエンツォレルン家の支配下に入った。他方、イベリア半島のレコンキスタもまた、イスラム教徒との戦いにおいて十字軍理念と結びついたと言われるが実際にはキリスト教諸王国はイスラム教徒と同盟し共存をはかるなど柔軟な相互関係を結んでいた。非キリスト教徒に対する抑圧が強まるのは(13)イベリア半島の政治的統ーが進んだ中世末以後である
 14,15世紀にはヨーロッパ東南部は、東方からの新たな脅威に直面する。(14)バルカン半島に進出しコンスタンティノープルを征服したオスマン朝は、1529年にはウィーンを包囲して当時の神聖ローマ帝国の政治に大きな影響を与えたのである


(9) 9世紀末にノルマン人の一派デーン人を破ってアングロ=サクソン王国を復興した人物の名を記せ。
(10) ノルマン人が12世紀前半にイタリア南部に建設した王国の名称を記せ。
(11) 15世紀に「騎士団国家」と戦って優位に立った、この地域の国家の名称を記せ。
(12) ホーエンツォレルン家が継承したこの世俗国家の名称を記せ。
(13) 15世紀後半にイベリア半島の政治的統一を大きく前進させる契機となったのはどのような事実か。簡潔に記せ。
(14) 具体的にどのような影響を与えたのか、簡潔に記せ。

C ロシアはピョートル1世のころから、西方、特にドイツとの関係をそれ以前に増して強化している。(15)ピョートル1世が建設した新首都は、ドイツ語風にサンクト・ペテルブルクと名付けられた。ロマノフ家とドイツ貴族との関係は深く、たとえば、啓蒙専制君主の(16)エカチェリーナ2世はドイツ貴族の娘である。ロシア領内のドイツ系住民の一部は帝国にとって重要な地位を占めることとなる。経済的にも、(17)第一次世界大戦までにドイツはロシアにとって輸出入両面で最大の貿易相手国となった。
 一方、ドイツとロシアとの政治的関係は1870年代から不安定となる。1878年、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)で戦勝国となったロシアは、ビスマルクが議長を務めたベルリン会議でバルカンへの権益拡大を制限され、(18)代わってオ〜ストリアが勢力を拡大した」。その後バルカンをめぐってロシアとドイツは亀裂(きれつ)を深めていき、第一次世界大戦では交戦国となる。開戦直後に、ロシアの首都はロシア語風にペトログラードと改名されている。ロシア軍が劣勢におかれるなかで、(19)ドイツ系有力者が敵と内通しているためにロシアは戦争に勝てない、という意見も公然と叫ばれるようになった。
 ロシア革命後、ソヴィエト政権とドイツは1922年に国交を回復する。(20)ナチスの政権獲得後、1939年には両国の間で不可侵条約も結ばれるが、1941年から両国は再び交戦国となりドイツの首都ベルリンはソ連軍に占領される。戦後、ドイツは東西に分割され、ドイツ民主共和国(東ドイツ)はソ連の勢力圏に入り、ベルリンも東西に分断された。その後、東ドイツ市民の大量流出を防止するため、東西ベルリンの間には(21)「ベルリンの壁」が築かれた。この壁は東西対立を象徴する存在となった。


(15) 新首都は戦争のさなか、要塞建設を中心に進められた。建設工事は、交戦中だったある国の陸海軍の妨害を受けることもあった。この国の名称を記せ。
(16) 彼女と盛んに文通したフランスの啓蒙思想家を一人挙げよ。
(17) このころのロシア第2の貿易相手国は、ロシアと1907年に協商を結び、両国は政治的に接近する。この国の名称を記せ。
(18) オーストリアはベルリン会議後ボスニア・ヘルツェゴヴィナを管理下におくこととなり、1908年にはこの地域を併合した。この地域で1914年に起こった事件は、第一次世界大戦の直接の引き金となった。
 (ア) この事件の内容を簡潔に記せ。
 (イ) 1990年代に入るとこの地域は内戦の舞台となる。この内戦で解体した連邦国家の名称を記せ。
(19) ドイツでも第一次世界大戦後敗戦の原因を国内の特定の「人種」、に押しつける理論が流行した。この「人種」は何人と呼ばれたか。
(20) この間に起こったある国の内戦で、両国はそれぞれが支持する勢力に武器援助等をおこなった。その国の名称を記せ。
(21) (ア) 「ベルリンの壁」の建設が始まった翌年、ソ連はアメリカ合衆国との対立を激化させ、全面核戦争直前という状況を迎える。この事件の名を記せ。
(イ) 「ベルリンの壁」が崩壊した年を記せ。
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コメント
第1問
 この問題と解き方・解答例は『世界史論述練習帳 new』(パレード、2009年10月出版)p.69〜71に載せておきました。巻末の「基本60字」にも既問(東大で出題)として以下の問いがありました。

 インド民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒との協力と対立について述べよ(90字)。 

 合格した受験生が載っていたアレが出ました、と報告してきました。受験生はいいとして、たいていの予備校の解答例(YST)は、イギリス側の政策の一つとして政治組織(インド国民会議・全インド=ムスリム連盟・英印円卓会議)がつくられているのに、そのことを指摘せず、両教徒の対立ばかりを書いてます。 イギリス側の政策があげてあっても、協力関係があったことが欠落した解答例も見られます。
 問題文に、「……これを煽(あお)るイギリスの政策……これをめぐるイギリスの政策」とあるのを見逃しています。また「教徒の対立……関係や立場の違い」とあり、「関係」は対立ばかりでないことも示唆しています。とくに1920年代は、第一次世界大戦が終わった後でもあり、民族自決の声、アムリットサル虐殺やローラット法施行があり、トルコにおけるカリフ制廃止に反発したムスリムのキラーファット(カリフ制擁護)運動があり、これをヒンドゥー教徒も支援して共闘ができました。
 しかし、共闘しながらも次第に違和感をおぼえ、1930年からイスラーム教徒独自の国家建設をめざすべきだとの主張が現れます。それが、1940年のムスリム連盟ラホール大会において、ジンナーの演説を元にラホール決議(Lahore Resolution)として結実します。その演説には「ムスリムは一国民であり、その故国、その国土、その国家をもたなければならない」とあります(もっと長くは、かの wikipedia でジンナーを調べると出てきます)。これをパキスタン構想といいます。
 また問題文に「1947年の分離・独立」とあるのに、解答文の最後に、これをまたわざわざ書いているものも見られます。すでに問題文に書いてあることは書いても得点にはなりません。コピーは能力の一つではありません。もっとも世界史学習はほとんどコピー(暗記)能力の養成みたいなものなので、作答者も慣れきって、書いても不思議におもわないのかも知れません。分離・独立に反対したガンディーのことぐらい書いてもいいはずです。
 
第2問
 第1問で中国史が出ようと出まいと必ずこの第2問で中国史を出してきます。それほど京大にとって中国史ははずせないということでしょう。
 
A 空欄と下線設問を別にしないで、出ている順に説明します。中国史の地図に関する私大的な問題文です。

問(1) 「南方……ある国」と問題文にある「前2世紀」がヒントです。 前203〜前111年に存在した広東以南に位置していた独立国でした。建国者の趙佗(ちょうだ)は秦の漢人官僚で県令(県知事)であり、秦漢交代期を利用して独立しました。中国に対抗して皇帝を名乗っていたため、景帝の使者にたいして帝号を用いず朝貢すると約束しながら、国内では帝号を使いつづけたそうです。中国側は景帝の後をついだ武帝がこの国を征服し、南海九郡を置きました。後々、阮福映(映の右側「央」に草冠が付いた字も可)が清朝に国名を「南越国」と申請したら、この古い国の復活を図り反抗する意志がみられるととられ、断わられたため「越南国」と申請したら許可された、という経緯がありました。これが現在のヴェトナム(越南)の起源です。

 空欄(a) 「春秋五覇の筆頭」とあるので最初に覇者と位置づけられるのは斉の桓公です。拙著『センター世界史B各駅停車』には未出題ではあれ、出る可能性の大きいものとして「斉の桓公、晋の文公」(文公は97追試で出題歴)と覚え方を載せています。

問(2) 七雄は時計回りで勾玉(まがたま)のような格好をしたもので覚えるのが一般的です。これも拙著(前掲書 p.9)に地図とともに覚え方が書いてあり、真っ先に覚えるべきは韓魏趙からとしています。理由はこの3国がもともと晋から下剋上で独立した国々であり、この3国の分裂を周本家が認可したことをもって戦国時代の開始ととるからです。位置としては下から順に、韓→魏→趙と上に昇ります。答は韓と魏です。

 空欄(b) 秦の都はかんたんですが漢字が正しく書けたかどうか? 2005年の第2問でも「[ a ]水の北岸には(2)秦の都である咸陽があった」と問題文に出てきたことがありました。空欄は渭水の「渭」です。劉邦軍の占領後に、前206年12月壮麗な宮殿群が猛火の中で沈もうとしていました。咸陽城を燃やしたのは楚の項羽です。17年前に秦軍60万に攻められ、楚は都を燃やされました。その復讐です。

 空欄(c) 『漢書』の著者名です。センター試験でも問われてきた基本問題です(88、97追、2005)。

 空欄(d) これは難問。できなくていい。ただ五経の5つの内容をある程度知っていて歴史の経典はどれか、と考えることができたら『書経』が出てきたかもしれない。五経の覚え方も拙著(前掲書)には載せています(p.8)。

問(3) 問題文の中の書以外に南宋の孟元老(12世紀)が書いた『東京夢華録(とうけいむかろく)』という本があり、この場合は開封を表していました。ただ問題文に「漢代の地図……張衡」という後漢の科学者の名があり、この場合は時代的に東京は洛陽を指しています。というのは長安を都にした前漢に対して洛陽を東の都という意味で「東京・東都」と呼んだからです。
 
問(4) 作品のことよりインドの方に話が移って「王玄策は7世紀……ヒマラヤ山脈の北にあった新興国の……名」という要求です。ヒマラヤの北といえば、もろにチベットであり、7世紀にできたばっかりとは吐蕃以外にないでしょう。吐蕃は中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード、以下『ワン』と省略)では「飛ばん咳(せ7き9、7〜9世紀)」と覚え方が書いてあります。

問(5) 「漢にかわって」というのは「前漢にかわって」と同じで、内乱・内戦の勝利者でない宮廷クーデタで皇帝になった人物です。王莽の「莽」は正しくは草冠の下が犬で右肩に点が付きます。短い治世でも王莽が残したものがいろいろあります。貨幣「貨布・貨泉」は佐賀県や大阪府で見つかっています。学・校という名の教育施設をつくって儒教を教え、酒の専売のためのコマーシャル「酒は百薬の長」は王莽作といわれます。

問(6) 大月氏に使いして、西域情報を中国に伝えたのは誰か……かんたん過ぎるでしょう。これも漢字「騫」が正しく書けるかどうか。

 空欄(e) 「1705年に江南に巡幸してきた」帝は誰か。1661年に即位して61年という在位だった人物。で、分からなかったら地丁銀のもとになった盛世滋生人丁を即位50周年を祝ってやった皇帝。で、分からなかったら雍正帝の年代がキャフタ条約(1727)だから、その前の皇帝。で、分からなかったら諦めた方がよろしいようで。分かっても康煕帝の「煕」が正しく書けるかどうか。

問(7) (ア) 「ペルシアの沖合……この島の名」はペルシア湾から出るにはこの島名からとったホルムズ海峡を通過しなくてはなりません。センター試験2006年度第1問の問2に地図がのり、正解の方ではなかったがホルムズの位置が「イ」として出ました。教科書では1515年ポルトガルが占領したが、1622年アッバース1世が奪還した島として出てきます。またマルコ=ポーロが、イル=ハン国に嫁ぐコカチン姫の道案内役として泉州を出帆し、海路ホルムズに上陸して任を果たし(1290)、ヴェネツィアに帰りました。

(ィ) ややこしい名称の国はわからなくても、「併合を16世紀後半」とは、この時期のムガル皇帝の名をあげればよく、アクバルがすぐ想起できますね。できない? 「悪張る、千1個5殺56す」が『ワン』の語呂。この年にフェリペ2世も即位していることが書き添えてあります。

空欄(f) 南北朝(北魏)時代にレキ道元(麗+おおざとへん、れきどうげん)が著わした地理書。センター試験で出題歴はないもの。京大世界史は少し詳しめに中国史を学べ、という示唆です。

B
 朝鮮と中国のからみ、外交関係の歴史です。複雑そうですが、空欄の語句は何度も出てくるので確定しやすい。北からYZXは都らしいところを矢で指しています。位置から、また下の問題文からY高麗(開城)、Z李氏朝鮮(平壌)、X新羅(慶州)、と推測できます。

 空欄(g)は「中国の」王朝であり、この王朝を駆逐し、「朝鮮半島を統一した」とあるので新羅が追い出した唐と判明します。この3国と唐との関係と経緯は、センター試験2009年度第3問・問2(問題番号20)でも出ました。 

問(8) 「当時の国際関係を規定する外交上の概念」は2007度もこの第1問と第2問で出ました。中国を主人・主君とし周辺国は家臣・臣下の立場で交際をする、朝貢をするという册封体制・君臣関係です。

 空欄(h)(i) 双方とも「滅亡させ」られた国々です。(i)は「故地に安東都護府」とあるので平壌と推理できるので、高句麗と決まり、前者hは百済となります。

問(9) 「北東アジアにおける国際環境の変化」とは、高句麗の遺民たちがつくった渤海(国)です。共同建国となった民族の靺鞨(まっかつ)人は書けなくてもいいでしょう。

 空欄(j) 「中国は……分裂の時代」とあるので五代十国です。

 空欄(k) このころ「中国を統一した」は宋(北宋)しかありません。

 空欄(l) 「11世紀後半」で「党」とあれば王安石の新法党です。「新法は登10録69で(『ワン』から)」が語呂です。「権力を掌握」していなければ新法の実行はできません。
 
 空欄(m) 「z王朝は14世紀末に成立……冊封を受けた」とあるので、Zが李氏朝鮮であることはまちがいありません。語呂は「利子挑戦、遺1産3国92」(『ワン』)。この王朝の少し前にできたのが明朝です。語呂は「明が、日1見3る6番8」(『ワン』)。

 空欄(n) 時代が200年も飛んで「1636年」とあるのでホンタイジの清朝です。

 空欄(o) 明朝を滅ぼした農民反乱です。指導者名で李自成の乱です。

問(10) 「特別の恩義」とはすぐ直前のできごとで清朝が朝鮮を助けてくれたことは何か、と考えて秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱=文禄・慶長の役)に対する清朝の援軍と推理できます。ただどれくらい清朝の援軍が朝鮮にとって役にたったかは怪しいところがあるようです。 


第3問
 「「新大陸」の発見の結果、新・旧両世界にひきおこされた直接の変化」という課題です。指定語句は難しいものでなく「先住民・産物」でした。
 変化は新旧の双方とも書かなくてはならないのですが、旧大陸のユーラシアは西欧しか書いてない答案例(YKO)が見受けられます。あるいは西欧と中国だけという場合(ST)もあります。それでは旧大陸の全体にはなりません。東欧・西アジア・南アジア・東南アジアも書けるといいでしょう。字数300字では苦しいですが簡潔になら全部書けます。この幅の広さで答案の善し悪しを判定できるでしょう。

 新大陸は、まず征服され西欧の領土となり、インディオの文明は破壊されました。新大陸の豊かな土地・資源(金銀・産物)が西欧のものとなり、西欧の産物(小麦)と病気が輸出されてインディオの人口が激減します。足りない労働力をアフリカから連れてきた奴隷で埋めました。土地と先住民はエンコミエンダ制で経営し、インディオには貢納をさせます。
 旧大陸の西欧では価格革命がおき、商工業が盛んとなり、経済的に絶対王政を支えることになります。領主危機がおこり農民の地位はより上昇します。
 東欧は西欧に対する後背地となり、グーツヘルシャフト(農場領主制)が広がりました。
 西アジアでは、この膨張してきた西欧とオスマン帝国の間でカピチュレーションが結ばれ、大西洋だけでなく東方貿易も盛んとなります。
 南アジアでは銀をもった西欧商人が来たり、キャラコの生産が増え、ムガル帝国はルピーという銀貨を発行します。
 東南アジアではフィリピンが植民地化され、アカプルコ貿易がはじまり、銀で買い物する中継点となります。
 東アジアの中国では、マニラから墨銀が流入し、日本銀も入ってきました。銀納の一条鞭法は両税法の800年の歴史を終わらせました。

 指定語句の「産物」については、間違った解答例が見られました。
 アメリカ原産のトウモロコシ・ジャガイモ・タバコなどの産物がヨーロッパに伝えられ,人々の生活に大きな変化を与える生活革命に影響した。(Y)
 ジャガイモ・トウモロコシ・サツマイモなどの新大陸の産物は、旧大陸に流入して、ヨーロッパや中国の食糧事情を改善した。(S)
 ジャガイモ,サツマイモなどの産物が旧世界に流入し生活事情の変化がみられた。(T)
 ヨーロッパやアジアへもたらされ、その食糧事情に大きな変化を与えることになった。(O)
 「旧大陸」に伝えられ食糧生産・生活に大きな変化をもたらした。(A)
 ……これらはすべて間違った解答です。教科書をよく読めば、こんな解答はしないはずです。問題文に書いてある「直接の」という条件は16世紀に限っていると見るべきでしょう。教科書に世紀を書かず、ゆるやかに「その食生活を大きくかえることになった」とあるのは実は16世紀より後の世紀になってからでした。下のように教科書のこの後の記事を見たら判明します。 

 18世紀には政治の安定のもと,中国の人口は急増した。新大陸から伝来したトウモロコシやサツマイモなど,山地でも栽培可能な新作物は,山地の開墾をうながして,人口増をささえた。(詳説世界史)
 17世紀ごろから,アメリカ大陸からの輸入作物のうち,トウモロコシが華北一帯で,甘藷が江南で広く栽培されるようになり,甘藷は琉球を通して日本にも伝わった。(東京書籍)
 17世紀ころから華北ではトウモロコシ,江南ではサツマイモといったアメリカ大陸産の作物の栽培がはじまり,当時の人口増加をささえることとなった。(山川の要説世界史)

 西欧でもジャガイモの栽培が本格化するのは18世紀からです。西欧で早い例は三十年戦争(1618〜48)のときに傭兵のオランダ人がもちこみ飢餓のドイツ人を救った作物だそうです。さらに七年戦争(1756〜63)は「ジャガイモ戦争」といわれるくらいにジャガイモがかかわっています。フリードリヒ2世は国内に奨励しただけでなく、確保したシュレジエンにこれを植えつけ、スウェーデンでは帰国した兵士がこれを伝え、フランスでもプロイセンの捕虜となったパルマンチェが食糧としてのジャガイモを知り、これを持ち込んだとのこと。かれはマリー=アントワネットにジャガイモの花束を贈ったそうです。するとマリー=アントワネットはジャガイモの白い花を髪に飾って見せびらかしたたことから貴族の間に流行するようになったとか。宝石の首飾り事件が尾を引いてギロチンにかかる前のことです。ジャガイモの花では首は飛びません。

 新大陸の産物が食生活に影響を与えるのは入ってきた16世紀でなく、もっと後であるとわざわざ説明した論文もあります。こちら→http://www.teikokushoin.co.jp/teacher/high/history_world/pdf/200804/17.pdf 
 ここに、「中国へもたらされたのは、16世紀。海路福建や広東から、あるいは西北のシルクロードを通って甘粛から、インド洋からビルマを経由して雲南などから伝わったようだ。しかし、伝来してすぐ爆発的に広がるようなことはなかった。中国全土でトウモロコシの栽培が確認されるのは18世紀に入ってからのことである」とあります。
 センター試験1993年度に、17〜18世紀のグラフが出て、18世紀が際立った人口増加を示していて、「人口増大にともなって、耕地の開発が行われ、トウモロコシなどの新大陸作物が普及した」(問題番号34)という文章が正文として出ていました。

第4問
A
問(1) スパルタ独自の国家制度は、軍事中心の市民生活を規制したもので、文化の発展がなかった理由にもなりました。それを定めた王リュクルゴスとともにその規制の詳細は『プルターク英雄伝』(岩波文庫・第一巻)にあります。

問(2) 「市民の両親から生まれた子でない限り市民権は与えられなくなった」という法律を提案しアテネ民主政の黄金期を築いた政治指導者の名……易しすぎます。市民権法は前451年につくられましたが、この法に刺激されたのかどうかどうか定かではないですが、ローマ市から使節が訪問しており、帰国してこの年に十二表法を定めています。

問(3) 平民を守るために前5世紀に設置された公職……これも易しい。ラテン語で、tribunus plebis、英語で Tribune。新聞名によくあるトリビューンという名はこれからきています。

問(4) 前1世紀の初め……ローマ市民権付与をめぐって生じた戦争……易しい。同盟市というローマ市民権を与えられなかった都市がよこせと抗議して蜂起したのを、鎮圧する側から呼んだ呼び方です。

問(5)(ア) 「属州で逮捕されたが、ローマ市民権を有したために首都ローマの皇帝の裁判に上訴することができた」という部分について知らなくても、「キリスト教を世界宗教とするために最も大きな役割を果たした人物」とは異邦人の使徒と呼ばれたパウロです。なおパウロ逮捕の部分は新約聖書『使徒行伝』22章25〜29節にあります。こちら→http://ja.wikisource.org/wiki/使徒行伝(口語訳)#22:25

問(5)(イ) 「ローマ市民権が与えられた。この措置がなされた当時の帝国の状況」というセンター試験のような問題です。じっさいセンター試験でこのことはよく出されてきました(88、91、95、99追、01追、11)。カラカラ帝(マルクス=アウレリウス=セウェルス=アントニヌス)が生きていたのは荒々しい時代、軍人皇帝時代(3世紀の危機)といわれる時代です。

問(6) カルタゴなどの植民市を建設した民族の名……いやに易しい。センター試験でも、どの民族がカルタゴをつくったかは何度も出ています(90追、92追、94、97、99追、2000追、01追、06、08、10、11、12)。

問(7) 3軍団敗北の戦いは、センター試験で出たことはないが、ローマ帝国の国境線を決めた戦いとして名高いものです。教科書本文になくても地図にはライン川のすぐ東に載っている場所。17、18、19の3軍団の約2万人が戦死した戦いです。

問(8)(ア) ラ・テーヌ文化とは細かいが、しかし設問はセンター試験並です。ラ・テーヌ文化はスイスの鉄器遺跡です、その前のハルシュタット青銅器文化をうけついだケルト人のものです。ケルト人のセンター試験出題歴は90、94、96追、2002年です。

問(8)(イ) ガリア戦記のセンター試験出題歴は、94追、95、98追、99、2001追、03、11年です。京大の第2問・第4問はセンター試験並で7〜8割は取れるといえます。

B 
 空欄(a) 「バルカン半島ではトルコ系……7世紀末」という三つの限定の中では、ブルガール人、後のブルガリア人しかないでしょう。センター試験(1993年)でも中世の東欧に移動してきた民族と国を組み合わせた問題にブルガリア人が出ています。少々細かいが。

問(9) 「9世紀末にノルマン人の一派デーン人を破」った王の名前です。ならアルフレッドしかないでしょう。『ワン』(前掲書)では「アルフレッドの馬8声71」とかんたんな語呂で出ています。

問(10) 「12世紀前半にイタリア南部に」とあれば両シチリア王国しかないでしょう。「建国」というよりナポリ王国と両シチリア王国の合体でした。これも前掲書の語呂では「漁師、ト1ト1さん3を0(トト=魚)」とかんたんです。

 空欄(b) アイユーブ朝の建国者、という易問です。センター試験(2004年度、問題番号20)では「(クルド)民族の出身者に,サラーフ・アッディーン(サラディン1138〜93年)がいる。サラーフ=アッディーンについて……」として出ています。

問(11) 15世紀に「騎士団国家」と戦って優位に立った国、というのは14世紀にすでに出来ている国でポーランドのピアスト朝と合体した国家・ヤゲロー朝(リトアニア=ポーランド王国)のことです。「15世紀」とは両国の戦いが、タンネンベルク(第一次世界大戦と同じ場所、1410年)であり騎士団に勝ったことを指しています。

問(12) 「宗教改革を経て世俗国家となり」とはルター派になって修道服を脱いだことを指します。ドイツ騎士団は正式にはドイツ騎士修道会といい、修道士であり騎士でもあった団体でした。プロテスタントは修道会の存在を認めないため修道服を脱ぎました。ルター自身がアウグスティヌス派の修道僧でしたが、脱いでいます。

問(13) 「15世紀後半」「イベリア半島の政治的統一」ということは、それまで分裂していた国々が合体することです。となればアラゴン王国とカスティラ王国の合同であるスペイン王国の成立です(『ワン』の語呂は、スペイン国、闘1羊4な7く9)。

問(14) 「ウィーンを包囲して当時の神聖ローマ帝国の政治に大きな影響」とは、という問い。カール五世はオスマン帝国の脅威から結束のために第1回シュパイエル国会(1526年)でルター派を認めながら、包囲が解かれると、第2回シュパイエル国会を開き、前の議決を否定するというぶれた対応をとったために、新教派諸侯と帝国都市は抗議(プロテスタツィオン)を行ったので、新教派は「プロテスタント」とよばれることになります。新教派は「教皇がアンチ・キリストであるのと同様に、トルコ人は肉体をもって現れた悪魔である」と非難します。プロテスタント諸侯はシュマルカルデン同盟(1531年)を結び、シュマルカルデン戦争(1546〜47年)がはじまりました。

C 
問(15) 「ピョートル1世、新首都」で「交戦中だったある国」とは北方戦争の相手ということになります。ここで両国の争奪戦になった島がコトリン島で、ロシアはこれを奪いクロンシュタット要塞を築きます。ここにバルチック艦隊の軍港があり、1921年には反ボリシェヴィキの蜂起が起きました。

問(16) 一番女帝が援助した啓蒙思想家はディドロでした。ディドロはお礼にロシアまでやってきて農奴が奴隷化するくらいひどい社会を見て、啓蒙思想に理解のある君主というイメージが砕かれてしまいます。

問(17) 1907年に協商……とあるので英露協商しかありません。

問(18)(ア) 世界大戦の直接の引き金となったサラエボ事件の説明です。
 二つあればいいでしょう。殺すのがセルビアの青年(プリンチプ/プリンツィプという名前までは要らないでしょう)、殺されたのがオーストリア皇太子(皇位継承者)夫妻(フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーは要らないでしょう)。

 (イ)いきなり現在に来て「1990年代……内戦で解体した連邦国家」とあり、これはユーゴスラヴィアしかありません。

問(19) 敗戦の原因を国内の特定の人種に押しつける理論……というほど理論的だったかどうかは怪しいが、人種差別ということなら分かりやすい。人種差別は殺戮し人体実験をいとわない感覚をもたせてくれます。京大医学部も多くの医師を満州国に派遣し人体実験をしました(常石敬一著『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書)。差別観が人殺しを容易にすることを数多の例をあげて証明しているのはデーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)です。世界史なら華夷思想、五胡、脱亜入欧、ローマ帝国によるゲルマン人「蛮族観」、白人優越観(白豪主義)、黄禍論、未開人などの差別表現があります。差別観は殺害に効力を発揮し、殺しても良心の痛みを和らげてくれる薬です。わたしが殺したのはまともな人間ではない、殺してもいいんだあ、と。差別観にあふれた2ちゃんねるというスラム街は殺し薬の培養ビーカーです。 

問(20) ある国の内戦で、両国はそれぞれが支持する勢力に武器援助等をおこなった……はスペイン内戦(スペイン市民戦争)です。パリの日本大使館員がこの内戦を見学して人民戦線側に来ているソ連製の武器の劣悪さを日本に伝えたために、ノモンハン事件(1939年)で痛いめに遭うことになりました。スターリンの裏が読めない外務省のお粗末さです。

問(21) (ア) 「ベルリンの壁」の建設が始まったのは1961(『ワン』壁、ど1け9ろ6土1)年で、翌年の米ソ対決とはキューバ危機と容易な問題です。

問(21)(イ) 「ベルリンの壁」が崩壊した年は、『ワン』の語呂なら「ベルリンの壁、土1空9白89」。

京大世界史2001

第1問(20点)

 9世紀以降、バグダードやコルドバを中心に急速に発達したイスラム文化は、その後も発展を重ね、世界の文化の進展に様々な影響を及ぼした。
 このイスラム文化について、次の4点に注意しつつ、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
 1 発達・発展の過程。どのような過程を経て発達・発展したか。
 2 内容と特徴。どのような分野が優れ、どのような特徴を持っていたか。
 3 担い手。どのような人々を中心に発達したか。
 4 他文化への伝播・影響。何をどこに伝え、どのような影響を及ぼしたか。

 

第2問 青色は下線部にあたります(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(17)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 漢を再興した[  a  ]が朝廷を置いた洛陽は、続く魏・晋王朝の都にもなった。(1)左思の「三都賦」が愛読されて、「洛陽の紙価を貴からしむ」という言葉を生み出したのは晋代のことである。しかし、まもなく起こった(2)永嘉の乱にはじまる五胡十六国時代では、北族支配下の地方都市に転落する。南遷した東晋王朝による洛陽回復も一時的なものに止まった。
 洛陽が首都の地位に返り咲いたのは、北魏の第6代皇帝孝文帝が(3)南朝征討を口実にして強引に挙行した(4)遷都による。これは漢化政策の一環であったが、王朝の東西分裂の遠因ともなった。そのうち西魏の系統を引く隋・唐が統一を回復すると、洛陽は西京の長安に対して東都と呼ばれた。副都とは言っても、(5)穀倉地帯である南方により近いこともあって、唐朝の前半期には皇帝が臣下を引き連れて洛陽に滞在することもしばしばであった。(6)則天武后の時代には「神都」と呼ばれて事実上の首都だったこともある。北魏以来の仏教文化も健在で、南郊の[  b  ]の造営も続いていた。
 安史の乱以後、洛陽の政治的地位は低下する。中央政府に反抗的な(7)節度使たちを牽制する重要な位置を占めていたものの、皇帝が行幸することはなかった。しかし、(8)官界から身を引いた士大夫たちの隠退の地として愛された。
 黄巣の反乱軍から投降した[  c  ]が904年に朝廷を洛陽に遷したが、やがて自らの王朝をつくると、洛陽から程遠からぬベン州(開封府)を都とした。洛陽に首都を置いた後唐を除き、宋朝に至るまでそれが続く。この東京に対して、洛陽は西京とされたが、唐の時代以上に官僚の隠退の地という性格を強めていく。神宗が起用した[  d  ]による政治改革に反対して朝廷を去った司馬光が(9)『資治通鑑』を編さんしたのも洛陽においてであった。「中原(ちゅうげん)」という言葉が狭義には洛陽一帯を指すように、洛陽は長く天下の中心と意識されてきたが、宋代以後歴史の表舞台となることはなかった。   

(1)この作品を収めた『文選』の編集の総裁は誰か。
 (2)310年、動乱の洛陽にやってきて以後、仏教の普及に努めた西域出身の僧侶の名を答えよ。
 (3)当時の南の王朝は武人の蕭道成がはじめたものである。その王朝名を答えよ。
 (4)北魏のそれまでの都はどこか。
 (5)穀倉地帯と長安・洛陽を結ぶのは大運河であるが、そのうち長江とつながる江南河の起点はどこか。
 (6)則天武后がつくった王朝の名を答えよ。
 (7)10節度使を置いて、その強大化への道を拓いた皇帝の名を答えよ。
 (8)その一人で、「長恨歌」の作者は誰か。
 (9)この本の記述の始点は、春秋時代の強国晋の臣下であった三家が諸侯として認められた時点に置かれている。その三家がそれぞれつくった国の名を答えよ。

B 地中海から紅海・ペルシア湾・アラビア海を通ってインドにいたり、さらに東南アジアをへて中国に達する航海路は、海の道とも呼ばれ、東西をむすぶ役割をはたしてきた。かなり早い時期から、(10)海路を利用した例がいくつもみられるが、とくに8世紀以降はムスリム商人が[  e  ]と呼ばれる帆船を使って海上に進出し、中国の沿岸各地にもやってきた。
 その刺激もあって、中国も次第に海上交易に目を向けるようになり、(11)おもな港湾都市には貿易管理を担当する[  f  ]がおかれる一方、(12)中国商人も東南アジア方面に出かけてゆくことになった。13・14世紀には、モンゴル世界帝国が出現し、内陸ルートとも完全につながって、(13)海上交通はいっそう活発となり、(14)東西の文化が交流した
 ところが、明になると、(15)中国人の渡航を認めず、[  g  ]貿易以外の外国との取り引きを禁止した。この政策はその後も堅持され、1517年に[  h  ]人が広東付近に来航したのを皮切りに、(16)ヨーロッパ商人がつぎつぎと来航するようになっても、その基本姿勢は変わらなかった。しかし、16世紀後半になると、民間人の渡航も許されるようになった。
 清に政権が交替すると、台湾を根拠地として大陸反攻をはかる[  i  ]を孤立させるため、清は(17)1661年に中国沿岸の住民に内陸部への移住を命じる法令を出した。しかし、それも1684年には解除し、翌年には広州など4か所に[  j  ]を設けて、海外交易を統制・管理する方針に転換した。

(10)インドから海路で中国に帰った4〜5世紀の仏教僧は誰か。
 (11)南宋から元にかけて、中国最大の貿易港はどこであったか。
 (12)中国側の輸出品の主なものを2つ挙げよ。
 (13)13世紀末に中国にやってきて、大都(現在の北京)の大司教となったイタリア出身の人物は誰か。
 (14)文化交流の結果として、1280年に中国で暦がつくられた。その製作者は誰か。
 (15)この政策を、ふつう何というか。
 (16)このうち、スペインはフィリピンを根拠地に間接的に中国と交易したが、そのさいスペイン側が対価として出したのは何か。
 (17)この法令は何というか。

第3問(20点)
 16世紀から19世紀前半にかけてヨーロッパが海外に膨張していく過程で、新しい性格を持つ奴隷制が広がっていった。近代奴隷制と呼ばれるものである。この奴隷制の拡大に関わった国々を明示しつつ、近代奴隷制の特徴と展開過程を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[    ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(17)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 雄弁家として知られるローマ共和政時代末期の政治家キケロは、紀元前106年にラティウム地方の小さな町アルビヌムに生まれた。民衆派のリーダーとして有名な(1)マリウスと同郷であり、出身家系もマリウスと同様、貴族に属してはいなかった。しかし、キケロは法廷弁論家として成功を収め、その成功によって国家の公職にも当選した。政治家としての栄達を求めたキケロは、ついに前63年に共和政ローマの最高公職である[  a  ]に就任した。この年、当時の政治体制に不満を持った貴族カティリーナが国家転覆を企てたが、キケロはこれを未然に防いで「祖国の父」の尊称を得、その名声は頂点に達した。
 だが、前60年に(2)ポンペイウス、カエサル、クラッススの実力政治家が密約を結んで「(3)第1回三頭政治」を始めると、キケロは政治活動から離れざるをえなくなり、またカティリーナ陰謀事件の時の非常処置を問題にされて一時ギリシアに亡命せざるをえなくなるなど、不遇の日々を送ることとなった。
 キケロが再び政治の世界に復帰するのは、独裁政治をおこなっていたカエサルが暗殺された前44年である。この年の[  a  ]になっていたアントニウスは、カエサルの後継者を自認して権力を握ろうとした。これに対し、キケロは共和政を守ろうとして、得意の弁舌でアントニウスを攻撃し、アントニウスと対立していたカエサルの養子オクタウィアヌスに期待した。一時キケロの活躍でアントニウスは窮地に陥ったが、カエサルの部将[  b  ]が仲介してアントニウスとオクタウィアヌスが和解し、前43年にこの3者による「第2回三頭政治」が成立すると、事態は急転した。除かれるべき政敵のリストに入れられたキケロは、アントニウスの放った刺客によって殺害されたのである。
 キケロは中世においても、ローマの作家としては(4)詩人ウェルギリウスとともによく読まれたが、しかし彼の政治家としての側面は忘れられ、(5)修辞学の基本書の作者として尊敬されていた。キケロが西洋の思想と文化に真に大きな影響を持つようになったのは、(6)主要な著作や弁論の写本が発見されて、彼の人と思想の全体が明らかになるようになったルネサンス時代以降のことである。

(1)マリウスは兵制改革をおこなったことで知られる。
  (ア)その内容を簡潔に記せ。
  (イ)この改革はその後の共和政ローマの歴史的展開に大きな意義を有することになった。これについて要点を簡潔に説明せよ。
 (2)ポンペイウスが滅ぼしたヘレニズム諸王国の一つの名を記せ。
 (3)この政治体制によって権限を与えられたカエサルが展開した、最も重要な政治的軍事的行動は何か。
 (4)ウェルギリウスの有名な作品の名を一つ記せ。
 (5)中世の学問体系では、専門領域に移る前に修辞学や文法などを習うことになっていたが、これらの諸学はまとめて何と呼ばれたか、記せ。
 (6)キケロの友人宛の書簡を発見したのは、人文主義の先駆であるとともに、理想の恋人ラウラヘの思慕を歌った抒情詩集『カンツォニエーレ』の作者としても知られる人物である。その名を記せ。

B 15世紀末、フランスは、それぞれ領土をめぐって争いのあったイギリス、および神聖ローマ帝国と和を結び、ブルターニュ、ブルゴーニュ両地方を併合して、フランスのほぼ全域の統合に成功した。同じ頃、イベリア半島では、スペインが、最後に残ったイスラム支配地の[  c  ]を陥落させ、レコンキスタを完成する。国土の統一後、両国はさらに対外的な領土拡大の鉾先を、イタリア半島に向けた。1494年、フランス王シャルル8世は、1482年以来、スペインのアラゴン王家の支配下にあった半島南部の(7)ナポリ王国の王位継承権を主張して、イタリアヘの遠征を開始した。
 こうして始まったイタリア戦争は、16世紀の半ばまで4次にわたってくりかえされ、およそ半世紀間、イタリアは外国の軍隊による戦場と化した。1527年には、(8)皇帝の軍隊によって、教皇庁のあるローマが包囲され、破壊と略奪にさらされる事件も起きた。こうした戦乱は、絶頂期にあったルネサンス期のイタリアをしだいに衰退に導いた。また、イベリア半島の2つの国による、新たなアジアヘの航路の開拓は、それまでイスラム圏の商人との取引を通じて、東方貿易を独占してきた北イタリアの商人の経済的な地位を、相対的に引き下げることにもなった。1571年には、スペインを主力とした、教皇、[  d  ]共和国との連合軍が、オスマン帝国の海軍を[  e  ]の沖で破り、スペインによる東地中海の制海権が確立した。こうして、イタリアはヨーロッパの歴史の新しい展開から取り残されることになる。
 いっぽう、イタリア戦争の開始にさいし、フランスの軍事行動がイタリアの政治秩序を混乱させることを懸念したスペインや神聖ローマ帝国は、教皇やイタリア諸都市と結んで軍事同盟を結成し、征服したナポリ王国からのフランスの撤退を迫った。ところが、イタリア北部で[  d  ]共和国の勢力が強大化すると、こんどはフランスを取り込んだ新たな同盟を結成することになる。勢力の均衡維持のために、情勢の変化に応じてつぎつぎと国家間の関係が再編される、近代的な国際関係の原理が、(9)北イタリアの諸都市国家で育まれてきた徹底した世俗的国家観ともあいまって、ここに開始されたといえよう。
 18世紀の末、イタリアは再びフランスの軍隊の侵入にさらされる。ナポレオンの遠征である。イタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンは、ロンバルディアを征服、ミラノ、ジェノヴァ、ローマに従属共和国を樹立し、さらにエジプトに転進する。(10)イタリア、エジプトでの軍事的成功は、ナポレオンに国民的人気をもたらし、(11)1799年のクーデタで、彼が政権を奪取するひきがねとなった。1801年にナポレオンは、フランス革命以来とだえていたフランスと教皇庁との関係を、宗教協約(コンコルダート)によって修復し、翌年には(12)教皇領を復活して、イタリアに新秩序を築くことになった。

(7)この王国の領土に、12世紀、ノルマン人が建国した国を何というか。
 (8)この神聖ローマ帝国皇帝は誰か。
 (9)これについて、国家における君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家は誰か。
 (10)この軍隊が、イタリア、エジプトで戦った主要な国は、それぞれどこか。
 (11)このクーデタを何というか。またクーデタによって倒された政府は何と呼ばれたか。
 (12)1859年のイタリア統一戦争以後の、イタリア統一過程における教皇領の位置について簡潔に記せ。

C 長年スペインとポルトガルの植民地支配のもとにあったラテン・アメリカでは、18世紀末から独立の気運が高まり、やがて各地に新しい国家が誕生した。フランス領であったハイチでは[  f  ]に指導された黒人の独立運動が成功したが、スペイン領であったところでは、植民地生まれのスペイン人である[  g  ]が運動の中心となった。アルゼンチンやチリで活躍したサン・マルチン、ベネズエラやコロンビアで活躍した[  h  ]らはみなそうである。
 しかし独立は、ただちに民主的な社会の成長、あるいは自立した経済の発展をもたらすものではなかった。まず、国内では[  g  ]の地主階級が政治や経済の実権を握り、独立以前と同じ大土地所有制が続いていたため、多数の貧しい農民の状況はほとんど変わらなかった。他方、海外からは、独立の動きを支援した二つの有力な国が、その大きな影響力を各国に及ぼすことになる。そのひとつイギリスでは、外相そして後に首相を務めたカニングが、自由主義的外交を展開して(13)諸国の独立を支援した。また、いわゆる北の巨人、アメリカ合衆国は、モンロー宣言でヨーロッパ諸国の西半球への干渉を拒否する一方、西半球に勢力を拡大していく姿勢を明確にしはじめたのである。やがてアメリカはメキシコ領であったテキサスを併合し、アメリカ・メキシコ戦争でさらに(14)広大な領土を割譲させた
  アメリカの膨張で国土が半分以下になったメキシコでは、社会が混乱した。その後、自由主義勢力が力を伸ばして内戦状態を収拾したものの、やがてここに経済権益をもつ(15)ヨーロッパ諸国が介入し、その一国は皇帝さえも擁立した。メキシコ人は介入に抵抗し、まもなくこの(16)ヨーロッパの勢力は撤退したが、こんどは抵抗のなかで重要な役割を演じたディアス将軍がクーデタで政権を握った。独裁者となったディアスの下では、鉱山業と鉄道を中心にアメリカやイキリスの資本が投下され、経済開発が進められた。
 一方、スペインの植民地支配が続いたキューバでは、1860年代に独立を求める反乱が生じ、いったんは鎮圧されたものの90年代にふたたび大きな反乱が起こった。キューバのプランテーションに投資し、また1889年に[  i  ]を主催してラテン・アメリカ地域への経済進出を意図していたアメリカ合衆国は、この反乱を機にキューバに介入し、1898年のアメリカ-スペイン戦争をへて結局はキューバを事実上の保護国とした。さらにアメリカは、セオドア・ローズヴェルト大統領の下でモンロー主義を拡大解釈し、西半球諸国へのみずからの干渉を正当化する新しい方針を発表して、カリブ海一帯に進出し始めた。二つの大洋を結ぶためにコロンビアの一州を独立させ、[  j  ]の建設に着手したことはその一環である。
 独裁の続いていたメキシコでは、1910年になって(17)革命が起こった。激しい政治変動の過程ではアメリカの干渉も受けたが、1917年には新しい憲法が制定された。これは土地が本来は国家に属すると定めて土地改革に根拠を与えるなど、民主主義的な色合いを強くもつものであった。このような変化は、その後、徐々にラテン・アメリカ諸国に広がっていくことになる。

(13)イギリスがラテン=アメリカ諸国の独立を支援した背景を簡潔に記せ。
 (14)このときアメリカが割譲させた地方名を記せ。
 (15)介入したヨーロッパの国の名を二つ記せ。
 (16)介入を打ち切らせることになったヨーロッパ内部の事情について簡潔に記せ。
 (17)このなかで、土地改革を主張して農民反乱を指導した人物の名を記せ。

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コメント
第1問
 イスラム文化(文明)が未出題分野であることは、すでに「対策」の中で指摘していたものでした。
 「イスラム文化について、次の4点に注意しつつ」と要求が多いです。しかし教科書には答えのすべてがのっています。結局、必要だったのは、4つの要求を短文で次々と書きつづっていくことでした。
 これらの要求のうち「過程」は流れですが、後の「内容と特徴」「担い手」「伝播・影響」は流れではありません。なんでこんな当り前のことを言うかというと、昨年度のところでも書きましたが、世界史の論述は流れさえ判っていれば書けるよ、と甘い見方をしている高校教師がおり(これはわたしが教えている予備校生から聞いていますし、かれらの書く答案を見ても判明します)、時間をとめて一般化した表現が必要であることを、この問題は教えています。
 また昨年度まで具体例を書かせることに主眼のあったのとちがい、あまり具体例を書き込むと必要な4つが書けなくなる可能性をもっています。要求が抽象的です。イスラム文化の一面を書かせるのでなく、全面を書かせようとした広すぎた課題だったためです。具体例を書きだすとアップアップになります。実際に書いてみたらいいでしょう。
 「影響」が西方だけに終わらないようにしたいものです。東方にも多くの影響があります。東方を見逃した予備校の解答例がありますから、それらのホームページでとくとご覧あれ。
第2問
A 私大の問題にもよく出されるタイプの歴史的な都市(本問は洛陽市)の回顧史です。洛陽は「九朝古都」といわれ、九つもの王朝がここに都を置いた都市です。問題も「楽よーッ」という感じ。  
空欄a は「漢を再興した」とあるので後漢であり、建国した皇帝はだれかという易問。  
空欄b も前文の「北魏以来の仏教文化も健在で、南郊の」というのは北魏が「造営」したものを想起すればいいわけで、北魏の前半の都(問4)の平城近郊に造営したのが雲崗石窟、とすれば南に遷都した洛陽の南郊には何か。雲から龍がでてきます。  
空欄c も前文「黄巣の反乱軍から投降した」とあり、その後に「やがて自らの王朝をつくる」とあれば、朱温が唐朝に投降してもらった、うさんくさい名前です。  
空欄d は、空欄の前後に「神宗が起用した」「政治改革」とあるので新法の人物。  
問(1) 『文選』編纂の「総裁」といわれると、そんなにおおげさな職責だったのかと驚くが、知っている名前はひとつしかない。   
問(2) 西域出身で名高い僧侶は教科書で二人いますが、「仏教の普及に努めた」とあれば布教僧をさします。鳩摩羅什は訳経僧で、時代も「310年」ではなく、前秦の苻堅に捕らえられたのが384年、前秦が滅んだ後、後秦によって国師として長安に迎えられたのが401年です。399年法顕がインドに向かうのとちょうど入れ違いになる僧侶。  
問(3) これは細かい。「当時」は前文の孝文帝がいつごろの皇帝か知らないと判りにくいですが、孝文帝といえば均田法開始の皇帝でもあるからおぼえておくといい(485年、語呂は「均田4箱」。在位は471〜499年)。「武人の蕭道成」とあるが読めなかった受験生もいるでしょう。「しょうどうせい」と読みます。奇問狂問です。479〜502年のたった23年しかつづかなかった「斉(南斉)」です。  
問(4) 既述。
問(5) 大運河の最南端の都市はどこか、という問と同じ。  
問(6) 武周革命という言い方もあります。唐朝の血をひかぬ武后には唐朝の皇帝を名乗るのは無理であり、新たな王朝名を必要としました。周をおこした武王の子孫であるとでっちあげ、弥勒仏の下生(げしょう、この世に生まれる)として崇めさせる、というなんとも奇妙奇天烈な創作でした。この創作を可能にするには恐怖政治が背景にありました。そのオドロオドロしい世界をのぞきたくば、津本陽『則天武后』(冬幻舎文庫)を読まれたい。  
問(7) これは安史の乱のときの皇帝です。714年から置きました。  
問(8) 作者は「詩と酒と琴」を「三友」とした豪快な詩人。  
問(9) 司馬遷が「三晉」と呼び、司馬光がこれを発端として戦国時代がはじまったとした三国です。

B 海の道をテーマにした問題。  
空欄e は細かい。もっともセンター試験にも出されたことがあります(2001年度世界史A)。  
空欄f と空欄j「貿易管理を担当する」役所は玄宗が広東に置いた(714年)のが最初とされます。これは清朝では海関と呼び名が変わります(空欄j)。  
空欄g 自由な貿易を禁止したという文脈の中で、従来から中国中心(中国側が品物の種類・数量・人員を指定してくる)の貿易が外交もかねて行なわれました。  
空欄h このヒントは後の「ヨーロッパ商人」と問(16)に「スペイン」とあるから、それ以外のものと推理できます。  
空欄i は後に「1661年」とあるのでまだ鄭成功は生きています。1662年5月に亡くなっているから、鄭氏でもいいですが、ここは個人名にしたい。空欄jは既述。  
問(10)行路は陸路だったのが帰路は海路だったという坊さんのことは問(2)で既述。  
問(11) 泉州だということがパッと判るかどうか。これはマルコ・ポーロやイブン=バトゥータらが「ザイトゥーン」呼んで世界一繁栄している港としてその盛況を証言しています。  
問(12) シルクロードは海にもおよび、陶磁の道はアフリカ東岸にまでいたっています。  
問(13) これは一般に中国にはじめてカトリックを伝えた宣教師はだれか、という問ででてくる人物。わたしは北京でこのひとが建てた教会を訪れたことがあります。今も現存しています。  
問(14) 授時暦の製作者を問うています。冬至の決定にイスラムの天文学を応用したらしい。  
問(15) 「中国人の渡航を認めず」だけでなく、外国人が中国に勝手に来校することも禁じている政策です。日本では鎖国といいます。  
問(16) 西欧人には売るものがない。スペインは現生(げんなま=金銀)をもってきました。  
問(17) これも細かい質問。台湾を根拠地にして復明を図ろうとするものを海岸に近づかせないための方策です。福建・広東両省を中心に東南5省の沿海住民を30里奥地へ強制移住させ、無人化して貿易・渡航を禁止し、鄭氏の孤立化をはかっていました。京大の中国史は私大的なデータも学んでこいということでしょう。多くはセンター試験レベルですが、満点をとるために。

第3問
 2000年の年末は、合衆国の大統領選挙の投票集計をめぐるニュースに集中しました。フロリダ州の開票を手作業で確認するパンチの押し具合が問題でした。しかし、ここに奴隷制の後遺症を読み取った人はどれだけいたでしょうか? 
 テクノロジーの最新国になぜ、パンチに穴を空けて投票するなどと前時代的なものがあるのか。機械はもちろん開票作業が早いからですが、その他に、文字・スペルが正しく書けない文盲に近い黒人たちが大勢いることも理由なのです。かつて奴隷であった黒人たちは、名前を持つことや読み書きを禁じられていました。奴隷解放後もつづいた差別と貧困によって教育水準は低くおさえられました。一説ではゴア候補は、このためにフロリダで27,000票も失ったらしい。
 さて、この問題のテーマ「近代奴隷制」には三つの要求があります。「関わった国々を明示」、「特徴(古代中世の奴隷制とのちがい)」、「展開過程(流れ)」です。第1問とともにうるさい要求です。時間ははじめに「16世紀から19世紀前半」とありますから南北戦争(1861〜65)に言及する必要はありません。
 さて問題のテーマ「近代奴隷制」には三つの要求があります。「関わった国々」、「特徴」、「展開過程」です。このうち「特徴」の要求は難しい。これをまともにとるか、まともにとらないで、たんなる「内容説明」になります。しかしまともにとるなら、文脈からは、古代中世の奴隷制とのちがいになります。
 「特徴」がどれだけ書けたかで差がつきそうです。というのは貿易にかかわった国々、展開過程のところでは、三角貿易やインディオに代わる労働力であること、鉱山や棉花栽培に酷使された点はだれでも書きそうですから。
 問題文に「新しい性格を持つ奴隷制」「近代奴隷制」と「16〜19世紀前半」のものを定義していますから、「新し」くない奴隷制、「近代」でない奴隷制、すなわち15世紀以前の古代中世の奴隷制を考慮しないかぎり「特徴」は浮かび上がってきません。
 古代であれば、ギリシア・ローマを想起します。中世であればイスラムとの貿易に主に東欧スラヴ人が奴隷としてイタリアやドイツ商人によって売られています。古代中世とも、たいてい白人の奴隷です。一部に黒人もいました。このことを踏まえて「近代」奴隷制とはどう違うのか考えましょう。
 問いの順どおりに書くより、国々→展開過程→特徴、という順のほうが書きやすい。国々は、教科書にも書いているようにポルトガル→スペイン→イギリス・フランスとすればいい。フランスはわたしの教科書には書いてない、というなら「奴隷貿易がさかんとなった……イギリス・オランダ・フランスが積極的に参加しはじめた」と書いた教科書もあることを指摘しておきたい(山川『新世界史』)。ピークをなした18世紀後半から1810年までの半世紀だけでフランス人が運んだ黒人は60万人弱にたっします(イギリス人が150万人強、ポルトガル人が100万人強)。1人25ポンドで買った奴隷は新大陸で150ポンドに売れました。フランスの奴隷船の船主たち(ブルジョア層)は自分の船に「ヴォルテール号」「ルソー号」「社会契約号」などと命名していました(ルソーが奴隷を運ぶ、という図は差別を土台にして平等を主張する西欧人らしい象徴画です)。時は啓蒙思想の流行期でした。この貿易で港のナント、ボルドー、ル・アーヴル、ルーアンが繁栄しています(M.Beaud A History of Capitalism 1500-1980 Macmillan Press)。
 展開過程は、いわゆる流れであり、16世紀からはじまって、どうして19世紀まで継続・発展したのか、その理由としての奴隷制の必要性や使役場所、生産させたものなどをあげていきます。これは教科書に充分データがあります。奴隷貿易という項目がたいてい載っているし、南北戦争のところでも説明があります(『詳説世界史』なら645字)。
 特徴(特色)を、『新明解国語辞典』は「ほかのものと違って(すぐれて)いる点」と定義しています。「ほかのものと違って」という語句の中に、比較の思考があり、比べた上で、一方のすぐれた点、変っている点をとくに強調して述べることです。特徴らしきものを書いたら採点官はわかってくれるだろう、というのは甘い。しっかり明解に書いたほうがいい。
 構想メモは左に旧奴隷貿易、右に新奴隷貿易として比較の表をつくってみましょう。「旧」はすぐ浮かびませんから、分かっている「新」のすがたを思いつくままメモしてみます。その上で左も類推していくと現われてくるものです。(旧)を少しでも触れて、(新)を書くと「特徴」が明解に出せます。なお下のメモのすべてを書く必要はありません。

(旧)            (新)
白人ほか          黒人が主
周辺地域          アフリカ大陸から
ムスリム・キリスト教徒   アフリカの諸王国が売り手
いろいろな国々       買うのは西欧人・アメリカのプランター
諸々の商品の一つ      膨大な数(西欧全人口の5〜6倍)
死なせない(損失になるから) 途中(大西洋)の大量死亡と投棄
影響少ない         (影響)アフリカの疲弊(人口激減)・その文化破壊
               貿易国の強勢(ベニン・ダホメー・ヨルバ王国など沿岸国)・内陸王国の衰退
               輸入地の混血とアフリカ文化の移植
               輸入港(リヴァプール・ブリストルなど)に莫大な利益(→産業革命の資本へ)     

第4問
A 文章に合わせて下線設問と空欄を説明します。
  (1)下線設問(ア)は、マリウスの兵制改革として名高いもの。これは(イ)とも関連しています。教科書では改革がどのようなものであったか、いまひとつ不明解です。アフリカに出兵するさいに、徴兵したのでなく志願兵をつのり、集まった無産市民兵で軍団を構成しました。このことが慣例となり、兵役は義務として市民がになうものでなく、給料をもらって戦地におもむく志願兵(形としては傭兵ですが、しかしローマ軍ではある)がになうものに変わったのです。職業軍人制といってもいい。失業者に仕事を与えたことになります。戦利品(土地)の分け前ももらえました。とすると、たんまりもらえる将軍には恩義を兵士たちは感じ、将軍がなにかに立候補するときには投票する。こういう風にパトロネジといって私的な庇護関係(親分・子分関係)がつくられていきました。これが地中海全域に拡大し、私兵を権力闘争のための軍事力として動員しました。「内乱の一世紀」は、こうした少数の有力政治家・軍人を頂点とする複数の権力ピラミッド間の闘争でした。
 空欄a はやさしい。リキニウス法によって平民からも一人選ぶことになりました。
 問(2) セレウコス1世が建国した当時とはちがう、だいぶ縮小したシリアを前64年にほろぼしました。
 問(3) カエサルは三頭政治のときには他の二人のように軍事的功績をあげていなかった。前58年からガリア遠征がはじまります。
 空欄b はこの後の文章に「この3者による「第2回三頭政治」」とあるのでやさしい。
 問(4) もやさしい。たくさんの作品の中のひとつしか教科書にはのっていない。アエネーイス、アエネアスともいう。センター試験でもすでに3回出題されています。
 問(5) 英語ではliberal artsリベラル・アーツという。中世の大学の基礎科目です。
 問(6) 『カンツォニエーレ』は教会でであった娘に恋をした詩人の苦悩詩です。

B 空欄c は「最後に残ったイスラム支配地」でナスル朝の都です。
 問(7) ルッジェロ2世が初代の王となるシチリア王国とナポリ王国の合体国家。
 問(8)前文に「1527年」とあり、このころの神聖ローマ皇帝はだれか、という問。1519年からスペイン国王カルロス1世(1516〜56)は皇帝となります。神聖ローマ皇帝はドイツ語表現が通例。ルターとウォルムス国会で対決した、アウグスブルク和議のときの皇帝、といえば判るのではありませんか。空欄d前文に「1571年」とあるので、空欄eのほうが先に判るでしょう。そうすると西欧側の戦力でスペインでも教皇でもないとすれば、「アドリア海の女王」といわれる海港都市です。この空欄dは後の文章でも「イタリア北部」とヒントがあります。
 問(9) 「君主の役割を中心に論じたイタリアの思想家」といいながら当時は劇作家として名を成した人物。もちろん『君主論』の著者です。
 問(10) 「イタリア、エジプトでの軍事的成功」と「成功」まで下線が引いてあります。問は「主要な国」。イタリアは侵入してきたオーストリア軍との戦いがあり、これはいいとしましょう。エジプトはどうか。当時オスマン帝国領であり、ここのマムルーク軍と戦って勝ち、エジプトを占領する。マムルーク軍は火砲の威力の前に崩れ、カイロを明け渡しました。ただちにナポレオンは軍事政権を樹立し、イスラム教を公認し、トルコの圧制を排して人民の解放と近代化を推進しました。カイロ入城後まもなくアブキール湾でイギリスのネルソン艦隊にフランス海軍が撃滅されたため、本国との連絡を失い、孤立を余儀なくされました。「成功」にこだわれば、答えはオーストリアとオスマン帝国(トルコ)です。
 問(11) はやさしい。「クーデタ」と名のつくものは一つしかない。
 問(12) 1861年のイタリア王国成立時点では、まだ教皇領は西海岸がのこっていました。それが普仏戦争でドイツ帝国と組み、西海岸も奪いローマ市も占領しました。事実上教皇領はなくなりました。教皇はヴァチカン宮殿にこもることになります。1929年のムッソリーニとのラテラン条約により領土喪失は年金で補償をしてヴァチカン市国が成立しました。問題文には「統一過程における」とあるのでラテラン条約に言及する必要はないです。
C 空欄fは細かい。 奴隷でありながら反乱を指導しました。フランス語で「抜け穴(ルーヴェルチュール)」の意味をもつくらい神出鬼没のゲリラ戦でフランス軍を悩ましました。
 空欄g 個人名でないことは後の「みなそうである」という文章で判ります。植民地生まれの白人地主の総称。
 空欄h ボリビアの国名で今もその名が残っている人物。
 問(13) イギリスに産業革命がおこっていた時期です。
 問(14) 西海岸の広大な州の名前。
 問(15)  3国が派兵しています。
 問(16) 奇問に近い。メキシコ干渉を充分説明された受験生はどれだけいるでしょうか? といってもメキシコ干渉(遠征)当時のヨーロッパの事件を推理する他はない。1866〜67年が撤退の時期でこの頃の事件にあたりオーストリアにもフランスにもかかわることがらといえば、ビスマルクの行った戦争しかないでしょう(普墺戦争は66年6月から7月)。それより前、南北戦争を終えたばかりの合衆国はナポレオン3世の行動を許さず、国境に軍隊を集結させて撤退を迫っていました(66年の2月から)。フランス軍は撤退しました(67年3月)。
 空欄 i 空欄の前の年号か後の「経済進出を意図」かで判らなくてはならない。
 問(17) メキシコ革命には多くの人物がかかわっているが農民反乱とあればひとりです。
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第1問(君の解答)
第2問
A a 光武帝(劉秀) b 竜(龍)門石窟  c 朱全忠  d 王安石
問1 昭明太子  問2 仏図澄(ブドチンガ)  問3 斉  問4 平城   問5 杭州  問6 周  問7 玄宗  問8 白居易(白楽天)  問9 韓・魏・趙
B e ダウ(船) f 市舶司 g 朝貢 h ポルトガル i 鄭成功 j 海関 問10 法顕  問11 泉州  問12 陶磁器・絹  問13 モンテ=コルヴィーノ  問14 郭守敬  問15 海禁  問16 (メキシコ・墨)銀  問17 遷界令 
第3問(君の答え)
第4問
A
空欄 a コンスル(統領、執政官)  b レピドゥス
問 (1)(ア)無産市民を集めて武器をもたせローマ軍として雇った。
 (イ)雇った軍人はしだいに有力将軍の私兵と化し、それを背景に将軍たちの内乱を招いた (2) セレウコス朝シリア  (3) ガリア遠征  (4) アエネイス(アエネアス、アイネーイス)  (5) 自由七科  (6) ペトラルカ
B
空欄 c グラナダ d ヴェネツィア e レパント
問 (7) 両シチリア王国  (8) カール5世  (9) マキァヴェリ  (10) オーストリア、トルコ(イギリス) (11) ブリュメール18日のクーデタ、総裁政府  (12) 1861年に東海岸の領土をうばわれ、71年の普仏戦争でヴァチカン宮殿以外の西海岸の領土も奪われた。
C
空欄 f トゥサン=ルーヴェルチュール g クリオーリョ h シモン=ボリバル i パン=アメリカ会議(汎米会議) j パナマ運河
問 (13) 市場・原料供給地として重要視していたから  (14) カリフォルニア、ニュー=メキシコ  (15) イギリス、フランス(スペイン)  (16) 普墺戦争でオーストリアが敗北し勝利したプロイセンが台頭したため (17) サパタ

京大世界史2002

第1問(20点)
 隋を受け継いで大帝国を樹立した唐は、近隣の諸国や諸民族に大きな影響を与えた。唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもったモンゴル高原、チベット、雲南地方の諸国や諸民族の7世紀から9世紀にかけての興亡について、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)~(15)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 中国においては、その南北で風俗・景観・生産に大きな差異がある。たとえば農業では、あわ・きび・[  a  ]などは主に北部の畑作地帯で作られ、稲は主として南部で作られる。その境界は、だいたい淮河付近にある。平和が回復した宋の時代には、(1)産業が盛んになったが、農業においては江南地方の開発がめざましかった。米作では技術改良や新田の開発が進んで、米の生産高が増大し、長江下流域は穀倉地帯となった。「蘇湖(蘇常)熟すれば天下足る」のことばは、それを物語る。江南ではまたこのころ[  a  ]の栽培も行われるようになって、その経済力は華北地方をしのぐほどになった。さて米の生産量はその後も拡大したが、(2)長江下流域では商品作物の生産が増えた結果、長江中流域の[  b  ]地方が、新たな穀倉地帯として浮上した。宋以後の王朝、とくに現在の北京に首都を置いた元・明・清朝にとって、江南地方の穀物をいかに首都に輸送するかは、重要な問題であった。
 (3)
モンゴルは、アジアとヨーロッパにまたがる空前の大帝国を建てたが、13世紀後半に即位したフビライは、大都(現在の北京)に遷都して元朝を開いた。(4)その後南宋を滅して、その領土を併合すると、江南の穀物を大都に送るために、新たに運河を開削して、それを利用する方法や、[  c  ]による方法を試みたが、最終的には後者の方法により輸送した。元に代わって中国を統一した明朝は、その初期には南京を首都にしたが、(5)甥(おい)の建文帝から帝位を奪った永楽帝は、早くから北京を事実上の首都としたので、江南の穀物を北京まで輸送しなければならなくなった。永楽帝は元のときに掘られた運河を開削し直して、(6)北京から江南地方まで現在とほぼ同じコースを通る大運河を完成すると、[  c  ]をやめて、大運河で穀物を輸送した。17世紀前半に明が、[  d  ]の反乱により滅亡すると、(7)清朝が東北部から本土に進出して、北京に遷都した。清もまた大運河を利用して、江南の穀物を北京に輸送した。大運河は物資輸送の大動脈であるとともに、交通路としても利用され、官僚・商人・兵士・農民・(8)外国人その他大勢の人びとが、ひんぱんに往来した。

(1)宋では産業が興って、商業が盛んとなり、銅銭を主とする貨幣経済が発達して、紙幣も使用された。宋代に使われた紙幣の名を2つあげよ。
(2)明代の長江下流域の農村で発達した主な家内工業を2つあげよ。
(3)モンゴル軍は、ヴェトナムに数回侵入した。(ア)当時ヴェトナム北部にあったヴェトナム人の王朝は何か。また、(イ)この王朝時代に漢字をもとに作られた独自の文字は何か。
(4)元では、旧南宋領にいた人びとは、身分的に最下位に置かれていた。かれらは、何と呼ばれたか。
(5)この内乱を何と呼ぶか。
(6)大運河は、現在の山東省を通る。そのコース沿いにかつてあった湖を根拠地に、主人公たちが活躍するのを描いた口語体の長編小説は何か。
(7)北京に入城する以前に組織された清の軍事的・社会的な組織を何と呼ぶか。
(8)イギリスが貿易交渉のために派遣した大使らが、帰国するために1793年大運河を通行した。この大使は誰か。

B ギリシア系の[  e  ]朝の滅亡後ひさしくローマ帝国およびビザンツ帝国の支配下にあったエジプトは、7世紀半ばアラブ・イスラム軍によって征服され、ここにエジプトのイスラム時代がはじまった。
 9世紀になるとエジプトに独自のイスラム王朝が成立し、10世紀後半には、(9)
北アフリカにおこったシーア派のファーティマ朝がエジプトを占領した。(10)ファーティマ朝君主はカリフを称してアッバース朝カリフに対抗し、首都カイロはシーア派文化の中心となった。しかし、エジプトのシーア派化はあまり進行せず、1171年にクルド人の武将[  f  ]がファーティマ朝を滅ぼし、スンナ派のアイユーブ朝をひらいた。アイユーブ朝は十字軍との抗争に苦しみ、マムルーク(奴隷軍人)を多数登用して彼らの勢力増大をまねいた結果、1250年マムルーク軍団によって政権を奪われ、マムルーク朝が成立した。マムルーク朝は、1258年モンゴル軍が[  g  ]を占領すると、アッバース朝カリフの子孫を保護し、またモンゴル軍をくい止めてシリアを守った。以後マムルーク朝はエジプトとシリアを領土とし、また(11)地中海とインド洋を結ぶ商業路を支配して経済的な繁栄を得た。
 15世紀になると小アジアに拠点をおくオスマン帝国が強力となり、(12)
1453年コンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅し、1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトとシリアを領土に加えた。オスマン帝国はスレイマン1世の時に最盛期を迎え、ヨーロッパにおける領土を拡大する一方、東方では、(13)イランのサファヴィー朝から領土の一部を奪った。しかし、強盛を誇ったオスマン帝国も17世紀になると衰退のきざしが現われ、18世紀末には弱体化が明らかとなり、(14)エジプトでは、ナポレオン軍の侵入をゆるした。このような政情のもとで1805年エジプト人の支持を得て[  h  ]がエジプト総督(太守)となり、近代化のための様々な改革を行った。彼は対外政策にも積極的で、アラビア半島に出兵して[  i  ]王国を一時的に滅亡させ、またスーダンを征服した。
 1869年のスエズ運河開通はエジプトの軍事上・交通上の重要性を増した。帝国主義諸国の関心が高まる中、イギリスがスエズ運河会社のエジプトの持ち株を買収して発言力を増し、(15)
1882年にはエジプトを軍事占領下においた

(9)ファーティマ朝がおこったのは北アフリカのどこか。現在の国名で記せ。
(10)この頃ファーティマ朝やアッバース朝のほかにも、君主がカリフを称したイスラム王朝がある。(ア)その王朝名を記せ。また、(イ)その王朝の首都はどこか。都市名を記せ。
(11)15世紀末からヨーロッパのある国がインド洋貿易に参入し、1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝軍を破った。(ア)その国の名を記せ。また、
(イ)その国が1511年に滅ぼした、東南アジアの貿易の中心であったイスラム国家の名を記せ。
(12)のちに「征服王」と呼ばれた、この時のオスマン帝国君主の名を記せ。
(13)オスマン帝国軍は一時的にサファヴィー朝の首都を占領した。この時占領されたサファヴィー朝初期の首都はどこか。都市名を記せ。
(14)(ア)ナポレオンのエジプト遠征の時に発見され、古代エジプトの神聖文字を解読する鍵となったものは何か。また、(イ)1822年神聖文字の解読に成功したフランスのエジプト学者は誰か。
(15)イギリスは1881年におこった反英反乱を鎮圧してエジプトを軍事占領下においた。この反乱を指導したエジプトの軍人は誰か。

第3問(20点)
 17世紀に入ってオランダ、イギリス両国は、いちじるしい対外発展を開始した。このことを背景として、以後17世紀末までの両国の関係について300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)のの中に適切な語句を入れ、下線部(1)~(21)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A ローマ帝政の初期にパレスチナで成立したキリスト教は、その後ローマ帝国に広がり、さらに中世以後のヨーロッパにおける社会、政治、文化に大きな影響を与えた。(1)ローマ帝国ではキリスト教はしばしば迫害をうけたが、4世紀初めの[  a  ]帝による大迫害の後は、キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難であると考えたコンスタンティヌス帝によって313年に公認され、また392年には国教とされた。こうして国家と結びつきながら社会に定着していったキリスト教は、帝政末期には都市を中心とした教会組織の形成と、(2)教父たちの著作活動、そして(3)教義の統一のための公会議によって、その基礎を固めていった。民族移動期の混乱を経て、新しい社会と国家の形成が進められたフランク王国においても、教会、とくに修道院は重要な役割を果たした。カール大帝(シャルルマーニュ)は(4)修道院文化が発達していたイギリスなどから学僧を招き、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化的興隆をもたらした。この時期においてより重要なのは、カールの皇帝戴冠によって、ローマ教皇と皇帝の二つの普遍的権威を軸とする、西ヨーロッパ世界の基本秩序が成立したことである。しかしこの聖・俗両権威の関係は、しばしば対立をも生じさせ、11世紀にはローマ・カトリック教会の改革と世俗権力からの自立化をめざす教皇グレゴリウス7世は、聖職叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝[  b  ]と対立した。この対立は1122年のヴォルムス協約によって一応終結するが、その後ローマ教皇の権威は十字軍運動を通じて上昇し、(5)インノケンティウス3世のころには全盛期を迎えた。しかし十字軍の終焉や各国王権の発展にともなって、教皇の普遍的権威は下降を始める。(6)1303年のアナーニ事件と、これに続く「教皇のバビロン捕囚」、そして40年にわたる教会分裂は、ローマ・カトリック教会に大きな動揺をもたらし、これに対する厳しい批判も現われた。15世紀には(7)ローマ・カトリック教会再建の試みもなされたが、根本的な改革は実現されず、宗教改革時代を迎えることになる。

(1)その原因の一つに、皇帝のためのある儀礼をキリスト教徒が受容しなかったことが考えられる。この儀礼とは何か。
(2)400年ころアウグスティヌスが著した自伝的著作は何か。
(3)ネストリウス派を異端とした5世紀の公会議の開催地はどこか。
(4)その代表的人物を一人挙げよ。
(5)この教皇がイギリス王ジョンを破門した理由を簡潔に記せ。
(6)この時のフランス王は誰か。
(7)教会分裂を克服した15世紀初めの公会議の開催都市はどこか。

B 近代初期のヨーロッパにおける芸術家や思想家の活動は、しばしば権力者の宮廷の世界と密接に結びついていた。聖俗の有力者は、自らの威信を高めるために学芸を保護し、芸術家や学者のパトロンとなった。たとえばルネサンス期のフィレンツェでは、(8)メディチ家がブルネレスキ、ボッティチェリ、ミケランジェロなどすぐれた建築家や画家に活動の場を提供し、また(9)人文主義者によるギリシア古典の研究を援助した。イギリスでも、(10)16世紀後半から17世紀初頭にかけて.エリザベス1世の宮廷を中心に、詩人エドモンド・スペンサーや劇作家シェイクスピアらが活躍した。17・18世紀には、各国の王権は、絶対君主としての威光を示すために宮廷に文化人を集め、その才能を積極的に活用した。(11)絵画の分野では、フランドル派のルーベンスやファン・ダイク.スペインのベラスケスらが宮廷画家として活躍した。フランスでは、ルイ13世が登用した宰相[  c  ]によってアカデミーが設立され、フランス語の統一がはかられた。つづく(12)ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を造営し、「太陽王」としての絶対的な権力を演出するために多くの画家や文筆家を動員した。コルネイユ、ラシーヌ、モリエールらの劇作家が活躍し、フランスの古典主義文学が最盛期を迎えたのは、この時代である。
 18世紀にはいると、造形芸術の分野で、前の時代にくらべてより繊細で優美なロココ様式が流行した。宮殿建築としては、(13)
フリードリヒ2世がポツダムに建てた[  d  ]宮殿やマリア・テレジアが完成したウィーンのシェーンブルン宮殿が、その代表的な例である。理性を重視し、非合理的な慣習を批判した啓蒙主義者たちも、宮廷の世界と無縁ではなかった。フリードリヒ2世や(14)エカチェリーナ2世ら啓蒙専制君主たちは、ディドロやヴォルテールと交際し、新しい思潮をとりこみながら国力の強化に努めた。19世紀に市民社会が成長し、新たな文化の担い手となるにつれて、宮廷に代わる新たな学問・芸術の場が形成されていった。しかし、宮廷文化のなかで発達した礼儀作法は、宮廷の外で暮らす一般の人びとにも部分的に浸透し、市民社会のマナーとなって受け継がれていくのである。

(8)この家の出身の教皇が、サン・ピエトロ大聖堂の改築費用をまかなうためにドイツで販売を許可したものは何か。
(9)人文主義者の活躍はアルプスの北でもみられた。ギリシア・ローマの古典や聖書を研究する一方、聖職者の道徳的堕落をたくみに風刺して名声を博したロッテルダム出身の人文主義者は誰か。
(10)この時代のイギリスでは、ルネサンス的な宮廷文化が開花する一方で、経済的な変化にともなって職を失って移動する人びとも増大した。この問題に対処するために制定された法の名を記せ。
(11)これらの画家たちに共通する様式を何と呼ぶか。
(12)財政面では、ルイ14世は財務長官コルベールを重用して、国力の強化をはかった。コルベールの行った政策の内容を簡潔に説明せよ。
(13)フリードリヒ2世は、マリア・テレジアによるハプスブルク家の家督継承に異議を唱え、そのために戦争が起こった。この戦争の結果、フリードリヒ2世がハプスブルク家から獲得した領土はどこか。
(14)西欧の先進的な文化に強い関心を示したエカチェリーナ2世は、他方でロシアの伝統的な農奴制を強化した君主でもある。彼女の治世下に勃発し、鎮圧された大規模な農民反乱の指導者は誰か。

C 19世紀後半のロシアでは、(15)農奴解放が部分的に行われ、世紀末までに工業化もある程度進行していたが、専制政治への不満が高まっていた。このような背景のもと、1905年には日露戦争を契機としてロシア第一次革命が勃発した。しかし、まもなく首相となった[  e  ]は、革命の結果開設された国会を抑制し、富農育成を目指す農業改革を行ったため、社会的不満は解消されなかった。一方、19世紀を通じて、ロシアは南下政策を試みていたが、イギリスやトルコの抵抗に遭い、数度の挫折を経験した。ロシアを取り巻くこのような国際情勢は、世紀末から徐々に変化し始める。欧州の勢力均衡に腐心していたドイツの帝国宰相ビスマルクが、海外への勢力拡大を企図する皇帝[  f  ]と対立して辞職したことから、(16)ドイツ・ロシア間の条約は更新されなかった。ドイツの勢力拡大を危惧するロシア、フランス、イギリスは徐々に外交的に接近し、1907年に(17)英露協商が締結されたことで三国協商が成立する。この間、ロシアが南下政策をなお推進しようとし、ドイツ、オーストリアを中心とする勢力とのバルカン半島を巡る緊張が高まったことが、第一次世界大戦勃発の背景となった。
 弱体化していたロシアの支配体制は、総力戦となった第一次世界大戦を生きぬくことができなかった。1917年の三月革命によって帝政は倒れたが、革命で成立した臨時政府は戦争を継続し、このことが十一月革命の大きな原因となった。十一月革命で成立したソヴィエト政府は、ドイツとの単独講和を結んだ。ソヴィエト政府は、反革命勢力の抵抗と列強による軍事干渉を耐えぬき、その後は国内経済の発展に努めた。1928年には(18)
五カ年計画が開始された。ソ連は徐々に(19)国際社会における孤立を脱しつつあったものの、世界経済からの孤立が逆に幸いして(20)世界恐慌の悪影響を受けなかったため、数次の五カ年計画のもとでソ連経済は発展した。国力を蓄えたソ連は、第二次世界大戦勃発とともに、周辺諸国に武力で侵攻した。(21)ヴェルサイユ体制の下で新たに誕生していたヨーロッパの独立国の多くが、ソ連とナチス・ドイツによって再び独立国家の地位を奪われることになった。

(15)1861年に農奴解放令を発した皇帝の名前を記せ。
(16)この条約名を記せ。
(17)この協定によって、イギリスとロシアは、ある国における、それぞれの勢力範囲の設定に合意した。この国の名を記せ。
(18)第1次五カ年計画で重点的に推進された政策を簡潔に説明せよ。
(19)ドイツは、1922年にソヴィエト政府とラパロ条約を締結し、列強の中でいちはやく革命政府との外交関係を樹立した。この理由を簡潔に述べよ。
(20)世界恐慌の悪影響を緩和すべく、ドイツの賠償支払いの一時猶予を行ったアメリカ大統領の名前を記せ。
(21)これらの中で、第二次世界大戦勃発までに、ドイツが一部領土を併合し、残る領土を保護国化した国の名を記せ。


コメント
第1問
 やさしそうに見えてやさしくはない。
 「やさしい」感じがするのは、唐と周辺民族だから、なんとか書けそうな問題であるからですが、300字を満たせるだけのデータを持ち合わせたものは少ないのではないか。想起しやすい、とは思えない。それと、問題が唐の周辺の民族の興亡史ではあるものの、「.……大きな影響を与えた。」という導入部の文章につづいて、その影響の中身は「唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもった」とあり、これをある程度書かなくては課題に正確に応えたことにはならない。関係をもとにした興亡史です。唐との文化的・政治的関わりも書かなくてはならない。たんに唐を無視して周辺国の興亡史だけであれば300字も要りません。文中に「あるいは」とあり、文化でも政治でもどちらか書けば点はくれそうですが、どちらも影響・関係があるばあいは書いたほうが良いに決まっています。

 

 じゃ突厥の唐文化受容は?
 ウイグルの唐文化受容は?
 チベットの吐蕃の唐文化受容は?
 雲南の南詔の唐文化受容は?

 つまり政治的関係や興亡はなんとか書けそう、でも文化的影響はなかなか想起できないのではないでしょうか? 
 「突厥の唐文化受容」なんてどこにも書いてない……でしょうか? たとえば、教科書『詳解世界史』p.34に「7世紀後半のアジア」という地図があり、そこに東西突厥の首都が示してあります。遊牧民の首都? この意味はなんでしょう? オルホン碑文には漢字とともにアラム系文字の突厥文字が記してあります。もちろんウイグルも首都をもち、漢字のように縦書きのウイグル文字もつくりました。マニ教を国教といっていいくらいに信奉していましたが、これは安史の乱とかかわったことと関係があります。やはり受容はありますね。
この二つのトルコ系民族がブレーンでもあったソグド商人の交易によって中国からの多くの物産を受容していたことも知られています。とくに絹を代表として、種々の織物、金銀の細工物、容器、仮面、装身具、皿、留め金などが入ってきています。突厥・ウイグルが代わりに出すものは馬でしたから、こうした交易を絹馬(けんば)貿易といいます。
 唐という東アジアの中心国が繁栄することで、周辺民族は唐と対立しながらも、唐の制度・文化を導入して周辺民族みずからの国家の成立・成長をとげていった時期でした。とくに文字・都市をもたない部族段階の北アジア遊牧騎馬民族が、文字・都市をもつようになった点は歴史家たちが「文明化の過渡期」と評価する時代です。つまり征服王朝(遼金元清)のときは、完全に文字・都市をもつどころか独自の種々の文化と強力な君主権力をたてて中国という文明国と変わらない国をつくることができました。この征服王朝へいたるまでと、柔然までの部族時代までのあいだに、このトルコ系民族(突厥・ウイグル・キルギス)の時期があったということです。

 部族(文字・都市なし、シャーマニズム、部族連合)……匈奴・鮮卑・柔然
 
過渡期(文字・都市あり、マニ教、ただしまだ部族連合)……突厥・ウイグル・キルギス
 
征服王朝(文字・都市あり、仏教・ラマ教、中央集権国家)……遼金元清
 注:シャーマニズムはシャーマンという霊媒師(みこ)が仲立ちとなって神霊や祖先の霊などと心を通わせる宗教。経典・教団・寺院がない段階の原始的な宗教。これらの組織をもった宗教がマニ教・仏教など。
 なお、チベット民族運動のほうからいえば「文化の受容」に中華思想をみるでしょう。

 インターネット上の解答を検討するときは、次のようなことが書かれているかどうか確認してみるといいです。欠陥だらけだということを発見するでしょう。政治的関係だけ書いた後に文化的関係も書いたり書かなかったりと整合性がありません。分析の甘さを見れば、解答の甘さにも反映していることが分かります。

 モンゴル高原:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→
 チベット:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→
 雲南:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→

第2問

 古代はみな「大麦」が専門家の説。小麦が普及するのは唐代になってから(問題は時期が宋以前だから、これでもかまわない)。古代の貧しいひとびとの主食は豆。だから豆(まめ)でもいい。問題文にある「きび」は黍と稷とある。ともに「きび」と読む。前者は「もちきび」ともいい、後者は「たかきび」「うるちきび」といってちがう種類で穀物としては上等品。
 洞庭湖の北が湖北省、南が湖南省、この二つの省を合わせたいいかた。
 漕運(そううん)はまちがい。海運であれ運河をつかうのであれ都に納税のための穀物を輸送することを漕運というからです。問われているのは「方法」。「海運」も正確にはふさわしくない。陸運に対して使うことばで、運河も船を使う海運なのです。これは問題文のこの空欄の前にすでに書いてあります。後の問題文にも「[ c ]をやめて、大運河で穀物を輸送した」と出てきます。すると沿岸の海しかないから、答えとしては、たんに「海」か「海路」がふさわしい。問題文の作者が誤解していなければ……。
 王朝を直接倒した反乱はこれしかない。中国共産党が高く評価している反乱です。「殺人せず、愛財せず、姦淫(かんいん)せず、略奪せず」と軍律をきびしくし、農民の支持を得たからです。「良い鉄は釘にはならない。良い人間は軍人にはならない」というくらいに中国では軍人・兵士を嫌っていましたが、李自成の反乱軍はちがっていたのです。共産党の紅軍の規律でも、三大規律として「一.行動は指揮にしたがう。二.労働者、農民のものはなに一つとらない。三.土豪からとりあげたものは公のものにする」と。さらに六項注意は「一.寝るために借りた戸板はもとどおりはめておく。二.寝るために借りた“わら”はもとどおりにくくっておく。三.言葉づかいはおだやかに。四.売り買いは公正に。五.借りたものは返す。六.こわしたものは弁償する。」(野村浩一著『人民中国の誕生』講談社学術文庫)。日本人なら、こんなこと守って戦争できるかい、とふてくされそうです。平時でも守ったほうがいいよ、といってあげたい人が回りにいるでしょう? とくに五と六ですね。

下線設問
(1) 北宋と南宋の紙幣です。このHPの我楽苦多教室→紙幣箱に香港で買った模造品がありますから、ごらんください。  
(2) この設問の文章のことがあるからこそ、空欄bの穀倉化があったことをおぼえてほしいものです。下流(江南)の工業化→中流(湖広)の穀倉化です。
(3)(ア)マルコ=ポーロの『東方見聞録』ではモンゴル人の馬とヴェトナム人が駆使した象との戦いが描かれています。この本の中ではもっとも生き生きした描写のあるところで、「嘘八百」のマルコが戦場にいるかのようです。
(3)(イ)このモンゴル人の侵略に刺激されて民族文字をつくったのであろうと歴史家はみています。
(4) 淮水より南にいたひとたちです。(も)蒙古→(し)色目人→(か)漢人→(な)南人という順で下降します。おぼえかたは頭文字をとって「モンゴル(人第一主義)は、もじかな(文字仮名)」です。モンゴル人にとっては遊牧的であることが人間としてまっとうな生き方であり、中国人農民のように家畜に必要な草を刈ってしまい畑にするのは許せないのです。マルコは本の中で中国人のことを「マンジ」と呼んでいますが、これは中国人を「蛮人」と呼んでいたことからきているらしい。遊牧民にとって農民は野蛮人でした。  
(5) 「靖難」は「靖康」のように元号ではなく、スローガンからきています。燕王(後の永楽帝)が「宮廷の困難を靖(やす)んずる師(リーダー)がわたしだ」と。高原に帰還しなかった多くのモンゴル兵を燕王はかかえていて、これが役に立ちます。皇帝位簒奪(さんだつ)劇です。 
(6) 奇問に近い問題。いくらかヒントは「主人公たち」と複数形になっていること、「長編小説」であることくらい。ま、捨ててもいいですね。すべての奇問に付き合う必要はないのです。これ一問できなくたって合格できます。しかしこの小説のファンであれば、けしから~ん、ということになるでしょうか? 「湖を根拠に」で分かるじゃないか、ととがめられそうです。しかしこれで分かるひとはマニアです。水の滸(ほとり、岸辺)の話しやないか、と。梁山泊という湖のほとりに集まった武人たちの物語。私大の問題では「北宋末の反乱を元にした小説はなにか?」と問われます(1995年甲南大学文系、1995年関西大学経済学部、1997年法政大学経営学部など)。
(7) ヌルハチが創設したもの。清の軍事組織で、平時は行政組織をかねます。1旗は7500人の軍団で、それが8つあった。8つの軍団は黄・白・紅・藍の4色の軍旗と、それぞれの色の旗に縁をつけた計8つの旗で区別しています。どれにも中には龍が刺繍してあります。
(8) ヒントは「1793年」、つまり18世紀末に乾隆帝に会いにきたイギリス最初の使節です。西欧ではルイ16世が処刑されて対仏大同盟がむすばれヨーロッパ中が戦争に巻き込まれる年です。それに対してワシントン大統領が中立宣言を発して孤立主義外交のはじまりにもなった年。

 クレオパトラ7世の自殺。最近、独のエジプト博物館からクレオパトラの直筆文書が見つかったというニュースがありました。自殺の2年前のものらしく、文書はパピルス紙にギリシア語で書かれています。この文書はローマの軍人カニディウスと家来らに対してエジプトが貿易の自由と免税を認める内容で、「穀物の輸出、ワインの輸入を認め、エジプト国内に所有している畑で取れる穀物に課税される税金を免除する」とあり、文書の最後に「そのように計らえ」という署名があるそうです。亡国の危機にあったプトレマイオス朝を守るため、ローマに対する懐柔策として打ちだされた政策らしい。(アサヒ・コムのニュース記事から)
 空欄の前の「1171年にクルド人の武将」とありますが、「クルド人」と年代から、また後の「ファーティマ朝を滅ぼし」からはサラディンしか答えはないですが、さてこの「1171年に」は正しいのか? 教科書にある1169年は実権を掌握した年で、1171年はファーティマ朝を滅ぼした年、ということで正しい。
 アッバース朝の都です。この空欄の後の文章に「アッバース朝カリフの子孫を保護し」とあるよに、子孫はメソポタミアからエジプトに亡命してきたので、カリフ家はカイロで生きつづけることになります。イスラム世界の教科書では日本とちがい、フラグがアッバース朝を滅ぼした、としないでバグダードからカイロに遷都した、と表現しています。これを知っておくと、後にやってくるオスマン=トルコ帝国がスルタン=カリフを名乗る根拠が分かります。
h 空欄アリーの後の「近代化のための様々な改革」とは、西洋式の陸海軍の創始、造船所・官営工場・印刷所の建設、教育制度の改革を指します。原料の棉花は十分ありますから産業革命をエジプトでもおこそうと機械を買っています。そのために多くの外国人を登用しています。軍人・官吏・技術者などをヨーロッパからきてもらい重用します。地租改正をおこない農民を直接支配下におき、農産物の専売制度や徴兵制も導入しています。まるで日本の明治維新みたい。日本より半世紀も先んじた維新です。しかし借金がかさみ失敗におわります。  
 半島の東部におこりサウード家の支持をえた原理主義(ムハンマド時代の原始イスラム教に帰るべきだと説く主義)の宗派です。この宗派をつけて○○○王国といいます。サウディアラビア出身のオサマ=ビンラディンの起源をたどればここまでいくでしょう。このワッハーブ派(王国)はムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブ (1703~92) を始祖とする一派で、聖人崇拝、聖人廟への巡礼を禁じ、『クラーン(コーラン)』の定めた禁酒の規定を守ることを説きます。19世紀初頭にはアラビア半島西部のメッカとメディナを占領します。で、この聖地を奪回せよとアリーにオスマン帝国は指示します。

下線設問
(9) 歴史地図を見ていると容易な問題。969年にカイロ市を、970年に現在のイスラム教世界最高学府となるアル=アズハル大学をつくっています。教祖ムハンマドと妻ハディージャとの間に生まれた娘にファーティマという子があり、これを母とする子孫だと名乗ります。ファーティマは教祖の娘の名前なのです。はじめからカリフを名乗る勇ましさにも理由があったということです。
(10)(ア) イベリア半島のカリフ国「西カリフ国」のこと。後ウマイヤ朝のスタート時点ではカリフを名乗っておらず、謙虚にアミール(総督)称号でした。ところが10世紀になり、問題にもあるようにファーティマ朝がカリフを名乗ったことに刺激をうけ、アブド=アッラフマーン3世が929年にカイロとバグダードに対してカリフを名乗りだします。10世紀になって突如3カリフ時代があらわれたのです。カリフの権威失墜ともとれます。このアブド=アッラフマーン3世は実は母がフランク人の女奴隷であり、青い目で金髪をしていたそうです。それでゲルマン人と見られたくなくて髪の毛を黒く染めていたそうです。愛妾を6321人もかかえていたという豪傑らしい。徳川家斉が40人の側室をもっていて日本では豪傑といわれますが、そんなの目じゃない。中国の皇帝なみです。イスラム教徒は妻は4人までではないか? 4人の妻をもってみたい、とお思いの諸君は金がかかって仕様がないことを肝に銘じるべきです。平等に愛せよ、と戒律はなっていますから。実際は二人目以降の妻たちは一人目の奥さんの召使いのように扱われるのが現実らしい。また4人といっても正妻であり、他は金さえあれば何人でも妾がもてる、というのが現実です。あ、なにか話しの流れがおかしくなってきました……。
(10)(イ) 約40万人と数えられるこの都は当時西欧最大の都市です。道路は舗装されており、高校・大学にあたる学校が17校もあったというのです。70を越える図書館があり、王宮図書館は40万冊の蔵書を数えた、と。多くの文化人が集まったことでも知られています。コルドバ生れでは、イブン=ルシュドがもっとも名高い哲学者です。イブン・ザイドゥーンのような宮廷詩人もいます。外科医ではアブー・アルカーシムが知られていました。
(11)(ア) 前半の問題文で国名はでてきますね。(イ)の文章もヒントです。「1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝を破った」は習ったでしょうか? あまり知られていない戦いです。しかし世界史の中では、西欧がアジアに対して軍事的勝利をおさめ、これから大航海時代がはじまることを告げる重要な戦いで、本当はどの教科書にも書いてあってもいいのではないかと思います。エジプトとインドの貿易に西欧が割って入った事件です。かつて防衛大学で出題されていました。これは不思議ではありませんが、私大でも出題されるようになりました。1994年度慶応・文学部、1995年度の明治・農学部と法政・文学部、1997年度同志社・法学部、1997年度早稲田・教育学部、関西学院大学は好きなのかよく出す大学です(91,94,97,98,01)。山川の用語集は説明が不十分です。ポルトガルがマムルーク朝艦隊を撃破、とありますが、マムルーク朝とインド側の「グジャラートの艦隊」が連合していたのに負けています。このグジャラートは半島の名前でインドの西海岸を見るとこの半島が見つかるでしょう。この半島の南端にディウという島があります。前年の1508年の戦いではポルトガルは負けたのですが、この戦いで戦死した息子の復讐をはたすべく父アルメイダが大艦隊を率いて1509年に再びやってきて望みを果たします。詳しくは『ポルトガルとインド 中世グジャラートの商人と支配者』(M.N.ピアスン著、生田滋訳、岩波現代選書)。
(11)(イ) この王国の成立年代(1400年頃)はハッキリしませんが滅亡はハッキリしています。アルフォンソ・デ・アルブケルケの率いる艦隊が約100年のこの王国の歴史を終わらせました。ポルトガルはこの王国から略奪のかぎりをつくします。その証拠はマラッカ海峡に難破していたポルトガルの船フロール・デ・ラ・マール号で、金・宝石を最低でも10億ドル(1300億円)相当を積んでいました。嵐にあって沈みます(1512年)。ざまあ見ろ、という事件もあったのです。 
(12) 「征服王」というあだ名を知らなくても、問題文の「1453年コンスタンティノープルを征服」でわかるはず。かれはコンスタンチノープルに入城すると、大地にひざまずき、「ムハンマドの預言はここに成就した」といったそうです。ムアーウィアがこの都市の攻撃をはじめてから約800年もして、やっとイスラム教徒の手に陥落しました。
(13) イル=ハン国の都と同じです。マラガ(メラガ)でもいいが、知られていないので、後に(1295年)ガザン=ハンがここに首都を遷してから栄えた都市でいいのです。1597年、サファヴィー朝のシャー=アッバース1世が都をイスファハンに遷すまでです。
(14)(ア) 私大ではこの石の現物はどこにあるか? という問いまで出ています。(1994年立命館・法学部、2000年慶応・文学部)大英博物館でわたしも冷たい石を触ってきましたが、結構大きい石でした。こんな感じです(http://www.crystalinks.com/rosettastone.html)。
(14)(イ) 語学の天才でないと文字の解読はできないようです。シュリーマンの『古代への情熱』を読んだ人は感嘆せざるをえないですが、このヒエログリフの解読者もそうです。10歳になる前に、ラテン語・ギリシャ語の初歩を習っていました。11歳になるとヘブライ語を学び始め、13歳からは兄からアラビア語、シリア語、カルデア語を学び始めています。なんでこんなこと並行してできるの? とため息がでますが可能のようです。兄も学者で、グルノーブル大学の文学部教授でした。その口添えもあり、答えの人物は18歳で古代史の助教授になっています。おおーッ。
(15) ナイル川デルタ地帯にある村長の息子として生まれた人物。ムハンマド=アリー朝でエジプト人は必ずしも優遇されていなかったのが、スルタンによって登用の機会が増えたり減ったり、ということがおきエジプト軍人の不満がたまっていきます。それが反帝国主義、反王朝へと民族運動にまで発展してしまいます。かれは軍事裁判で死刑判決を受けますが、実行されずセイロンに流刑となり1901年に19年ぶりに帰国が許されますが、もう政治に顔を出す空気は残っていなかったそうです。

第3問
 わたしが教えてた京大志望者には、「17世紀の中葉には、その後のヨーロッパ史を決定づけるような大きな変動がおきている。そこで17世紀のイギリス・フランス・ドイツでおきた変動とその後に及ぼした影響について、300字以内で述べよ。」という創作問題をやらせました。ぴったりは当たっていませんが、これは論述としては創作といいながら、ありきたりのテーマでもあります。17世紀は「諸革命の群生」として学界では知られた特異な世紀だからです(『十七世紀危機論争』トレヴァー=ローパー編、創文社歴史学叢書)。今年の京大の問題は「関係」でした。

 まず問題の「対外進出」を少しくわしく見てみましょう。
 まずイギリスの進出です。
1600.東インド会社設立 07.ジェイムズ・タウン 12.スラート(印) 19.バミューダ諸島 20.プリマス植民地 25.バルバドス 29.バハマ諸島 32.リーワード諸島 39.マドラス(印) 49.アイルランド征服 50.アンキラ 51.航海法、セント・ヘレナ 52.第一次英蘭戦争 55.ジャマイカ 61.ケープ・コースト、ボンベイ(印) 63.カロリン、王立アフリカ貿易会社 54.ニューアムステルダム占領 65.第二次英蘭戦争 72.ヴァージン諸島、奴隷貿易独占権、第三次英蘭戦争 90.カルカッタ(印)
 ステュアート朝の時期とあいだの共和政期(1649~60)との双方にまたがって対外進出が滞りなくおこなわれています。
 次はオランダの進出です。
1600.オランダ船リーフデ号が豊後に漂着 02.東インド会社設立、モルッカ諸島 05.アンボイナ島 14.ニューネーデルランド 19.バタヴィア、アフリカ黒人をアメリカに陸揚げ 21.西インド会社設立 23.アンボイナ事件 24.台湾、マンハッタン島、ポルトガル領ブラジルに侵入 37.エルミナ(ポルトガルの奴隷貿易基地) 40.スリナム 41.マラッカ、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す 42.オーストラリア(新オランダ)、ニュージーランド 55.ハドソン川河畔のスウェーデン植民地を占領 56.コロンボ 77.ジャワ島マタラムに侵出
 17世紀の前半に進出が集中していることが分かります。
 対立はアンボイナ事件を代表とする衝突だけではありません。ともに毛織物工業国であり、オランダが中世以来の技術は高く、加工工業で利益をえていました。未仕上げの英国の織物を購入して付加価値をつけて輸出しています。毛織物の市場をめぐっても対立していました。アンボイナ事件による英国人の虐殺にたいして賠償金を要求していますが、オランダは不払いを決め込んでいます。それに北海の漁場をめぐる問題もありました。これらが英蘭戦争の要因となります。

 ここから次のように、この17世紀の両国の関係は展開したといえるでしょう。
 16世紀における宗教戦争においては、新教国として反スペイン・反カトリックの友好関係にありながら、17世紀前半にともに海外進出をさかんにした結果、宗教より利益を優先するように変わっていき、世紀後半には対立が深まっていったといえます。世紀後半の末期にはカトリック・フランスの台頭があり、再び手を結ぶことになった、と総括できます。世紀後半の英蘭戦争でも一貫して両国は対立ばかりしていたのではなく、1668年にイギリスとオランダが、フランスに対抗してハーグ同盟を結んだ例があるように、迷いがあります。第三次英蘭戦争(1672~74)は、フランスのオランダ戦争(1672~78)と重なっていますが、年代を見るとわかるようにイギリスはルイ14世に利用されると危惧して早々と和解しています。
 まとめると、全体の流れは、
(1)
<前提>新教国として反スペイン・反カトリックの友好関係
(2)
17世紀前半の両国の対外進出と対立……アンボイナ事件
(3)
17世紀後半の対立の激化……三次の英蘭戦争
(4)
反仏のために連合……名誉革命

 こうした関係は政治的な外交関係ばかりですが、人的交流が双方のあいだにあったことも結果的に対立を和解に導いたといってもいいでしょう。それはいろいろいな著書にありますが、たとえば、駿台のガンダルフ(映画『ロード・オブ・ザ・リング』で主人公フロドに助言を与える指導者)といっていい山本義隆師の著書『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』(現代数学社)に科学者同士の交流が描いてあります。
 「科学思想面においてもオランダは、大陸のどの国よりイギリスと密な交流を維持していた。とくにライデン大学は「大陸におけるニュートン主義の普及のための一つの──当面は唯一の──中心」(ピーター・ゲイ)であった。17世紀後半にベーコンとボイルの経験論は、イギリス以上にオランダで評価されていた。ロックも一時オランダに亡命しているし、そのロックにニュートン力学の正しさを請け合ったオランダ人ホイヘンスは、逆にイギリスを訪れ王立協会の会員にもなっている。また、スコットランドの初期ニュートン主義者ピトカリンは1692年に1年間ライデンで講義しているし、逆に、1715年から一年間イギリス大使を勤めた「オランダにおける最初のニュートン主義者」グラーベサンドは、デザギュリエの講義に出席し、またニュートンとも会見し、帰国後ライデン大学で数学と天文学を教えている」と。
 こうした科学者だけでなく思想家・政治家・非国教徒・ユダヤ人にとっての避難所をオランダは提供していました。特に革命時(1640~90)はそうでした。宗教的差別をしなかったからです。ガリレオはオランダでしか自分の研究書を印刷できませんでした。デカルトもオランダにわたり『方法叙説』『省察録』を出版しています。上記にあるロックはチャールズ2世に追放されて、オランダに亡命し名誉革命で帰国します。光と影の芸術家レンブラントは破産して移り住んだのはアムステルダムのユダヤ人街で、そこで多くのユダヤ人と知り合いになり、ユダヤ人を描いています。「ユダヤ人の婚礼」「アムステルダムのラビ」「ユダヤの青年」です。いやレンブラントが描いた多くの聖書物語の人物は、かれがよく知っているユダヤ人の日常生活のひとびとでもあったのです。かれが住んだ家のさほど遠くないところにアンネ=フランクの隠れ家もあります。スピノザが生まれた家も近くにありました。オランダ東インド会社の株の4分1をユダヤ人がもっていました。1598年にオランダで初めてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられています。
 政治とは無関係な交流が結果的に対立国を和解させる、という例はいくつか歴史に見られることです。インターネットで国を超えた関係ができていくと、和解の実現は20世紀までの歴史より早いかも知れません。
 さて各予備校のこの問題の答案を見て、なぜ英蘭両国が対立から友好関係に変わったのか理解できないのではないでしょうか? できごとの羅列になっています。結局「関係」はハッキリしない。

第4問

a
 この皇帝の「大迫害」があったにもかかわらず「キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難」という理由は、この皇帝の大迫害が困難を証明したからです。その迫害は、教会の破壊、聖書の焼却、キリスト教公職者の地位剥奪、信徒の法律的保護の剥奪、信徒奴隷の解放禁止という法令をだし、それがさらに硬化して宮廷内教徒を処刑、聖職者を逮捕・拷問・処刑となります。しかし4人の皇帝のうち西の正帝や副帝は法令の一部しか実施せず、末端の官僚たちは無視したという事例があり、皇帝暗殺をねらったとみられる宮殿の火災が頻発します。約500人くらいは殺したそうですが、全人口(約5400万人)の7~12%(「住民の1割」詳解世界史)とみられるローマ帝国のキリスト教徒では微々たるものでした。迫害したガレリウス帝自身が311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ、その後の抗争に勝ちのこったコンスタンティヌス帝が313年にミラノ勅令を発して宗教自由の原則をみとめます。コンスタンティヌス帝の母ヘレナは解放奴隷でキリスト教徒でした。
 この皇帝とグレゴリウス7世とのおぼえかたは一橋大学の2002年度の解説にあります。  
(1) キリスト教徒はローマ帝国に対して不忠実であると見られただけでなく、宗教的にも嫌われていました。ローマの多神教には祭壇があり、祭祀があり、儀礼があり、神殿があったのですが、キリスト教には見えない神を崇めている以上、こうした宗教的な装置をもたないため無神論にひとしい、と見られました。またその秘密の集会では近親相姦がおこなわれ、幼児を誘拐してその血をすすっていると噂されました。ディオクレティアヌス帝になると、皇帝をローマの神々の代理として「主にして神」と呼ばせることになり、これまで死んでから神々の列に加えていたはずの皇帝たちを生きているうちから礼拝の対象とするかたちに変わったのです。皇帝崇拝が強制され、皇帝にたいして臣下は跪拝礼をしなくてはいけなくなります。カエサルに仕えるのか神に仕えるのかの決断は、現代でも信徒が迫られる問題です。
(2) マニ教からキリスト教に改宗する過程を描いたものです。ミラノ司教アンブロシウスの影響を受けてキリスト教への傾斜を深めていきました。この司教はテオドシウス帝を皇帝にしたてはキング・メイカーでもある有力者です。改宗前にアウグスティヌスはテオドシウス帝からも改宗を勧められています。 (3) 公会議の開催地はみなトルコ西部小アジアに集中しています。ニケーア(ニカイア)公会議(325)も、この設問のエフェソス公会議(431)も、単性論を異端にしたカルケドン公会議(451)も。キリスト教の中心がいまとちがいトルコにあったからです。
(4) 781年イタリア訪問中にパルマでカール大帝と会い、翌年から招請され、アーヘンの宮廷学校の校長として迎えられます。大帝の文教政策に協力し、失われていたローマ時代のラテン語復興につとめます。いわゆる「カロリング・ルネサンス」の中心人物です。
(5) この教皇はジョン王だけでなく、離婚間題でフランス王フィリップ2世にインターディクト(聖務禁止の罰則)を下しています(1201)。ジョン王は英国国王に戴冠権をもつカンタベリ大司教の叙任権をめぐる争いをしています。教皇は破門をもって対抗した(1209)ので、1213年に教皇の臣下となることで許してもらい屈服しました。 
(6) 三部会を初めて召集し、アヴィニョンに教皇庁を移した国王です。カトリックの王であるにもかかわらず(宗教改革はまだ先ですが)フランス王権の教皇に縛られない独立した状態を求めて成功した人物。この人物が代表する考え方をガリカニズム(フランス人中心主義)といいます。
(7) 1414~1418年に南ドイツのこの都市で開かれました。神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力により、ピサの教皇ヨハネス23世がカトリック教会の分裂(シスマ)を止め統一を実現し、またウィクリフやフスらの異端の根絶をはかるために召集しました。


 ルイ13世の宰相が問われています。ルイ14世の宰相はマザランです。まちがえないように。「マザコンの14世」とおぼえるとまちがわない? この答えの宰相は肖像画で見たらわかるように聖職者です。教皇につぐ枢機卿の地位にありました。この宰相の能力が大きすぎたためルイ13世にルイ14世のような「親政」がないのです。この宰相を辞めさせて、ルイちゃんが親政しなさいと諌めたのが母のマリー=ド=メディシスでしたが、ルイ13世は宰相に頭が上がらなかったのです。生涯、劣等感を抱いて死んだそうです。進言を聞いた宰相は母親も追放します。
 ロココ様式の代表的宮殿です。華麗な花模様・草模様のたれさがる部屋が教科書の写真にのっています。あんなところで男が暮らすのか、というのは日本人の野暮な感想でしょう。ヴォルテールは2世に招かれて作文を教えて難儀したとのことで、この王の虚栄心を嫌ってスイスに逃げていったそうです。

(8) 「この家の出身の教皇」とはレオ10世です。目の前にサン=ピエトロ大聖堂という巨大なビルのような教会を見れば、どれだけの費用がかかったのかと、だれでもため息をつくはずです。答えとして「免罪符」という表現はまちがった表現です。罪は日本的に「免れ」水に流されることはないのです。かならず償わなくてはならないのがキリスト教です。  
(9) 私大ではロッテルダムというかれの出身都市そのものを問う細かい問題もあります。「ギリシア・ローマの古典」に関しては『文章用語論』があり、また「聖書を研究」に関しては『校訂ギリシア語聖書』があり(ルターが学ぶテキストです)、「聖職者の道徳的堕落」に関しては『(痴)愚神礼賛』があります。  
(10) 英語で Poor Law といわれるものです。囲い込み(エンクロージャー)のために農村から追い出された貧民を各地の教会が面倒をみなさい、という法律です。
(11) 先に紹介したレンブラントもその中に入れる様式です。絶対主義最盛期の様式ともいいます。つまり、どっか誇張があるのです。これらの画家の絵を見ると一目瞭然です(こちら http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rubens/)。これらの絵を見たらわかるように、人物を画面一杯に描いており、赤・黒というどぎつい色を多用しています。題材としては静かなレンブラントを別にすれば、物語のクライマックスを劇的に表そうとしていることがうかがえます。 
(12) コルベール主義ともいう財政政策です。教科書では「国内の商工業を育成し、東インド会社などの特権会社を振興した(詳説世界史)」「保護貿易や、特権マニュファクチュアの育成がはかられた(詳解世界史)」という風に国内と対外政策の両方があげてあると良いでしょう。決して貿易政策だけで終わらないように。重商主義とは「商」業だけ「重」視した政策ではありません。国内産業の保護政策も加えないと、貿易差額だけでは利益は得られません。やはり売れる商品もつくらなくてはならないのです。フランスの国内マニュファクチュアは英蘭のように民間人が自発的に(これをかんたんに「下から」といいます)おきたものではなく、政府のほうから資金をだし指導して工業を振興しようとするものです(これをかんたんに「上から」といいます)。どこかの予備校の解答に「王立マニュファクチュア」というのをあげたのがありますが、フランスは王立・国立・特権と3種類の特権的なものをつくりましたから、この一部だけあげるのはまちがっています。つまり「王立」は政府が全面的に資金をだすマニュファクチュアですから「保護・育成」は必要ないのです。「国立」は政府と民間が半々で、「特権」は全部民間資本ですから、後半の2者が「保護・育成」の対象になります。
(13) この土地をめぐる戦いは3回にわたっておこなわれました。第1次は1740~42年。プロイセンがマリア・テレジアのオーストリア相続を認める代償にここを占領します。これがオーストリア継承戦争の発端となります。第2次は1744~45年。勝敗はなしでした。第3次が1756~63年。オーストリアがフランスと同盟してでもとりかえしたかったのですが、結局負けます。この土地を地図で確かめたことがありますか? 現在大半はポーランド領 です(ポーランド名シロンスク) 。ポーランドのどの辺りか地図で確かめてください。山岳地帯というイメージですがオーデル河畔の低地は肥沃な土地で、農耕も牧畜も盛んです。地下資源も、石炭・鉄鉱・亜鉛など産みだしています。
(14) 私大ではプーシキン著『大尉の娘』の主題となった反乱はなんですか? とも出題されます。露土戦争を展開していたエカチェリーナ2世はこの反乱鎮圧のために戦争を早期に終わらせ鎮圧に向かわせました。


 この首相のおこなった二つのことは重要です。政治と経済です。「国会を抑制」はへんな表現ですが、国会を解散し、国会の協賛を経ずに新選挙法という悪法を発布します(地主1票は農民540票にひとしい)。1906年には農業改革を実施し、従来の村落共同体(ミール)を廃止して自作農を創設していきます。うまくはいかなかったのですが。  
 ビスマルクを辞めさせた皇帝です。理由に売春婦がからんでいた、というのが最近のニュースです。「ビスマルクが皇帝のスキャンダルをもみ消す」というもので、皇帝がひそかに寵愛していた売春婦から情事をねたにゆすられ、「国家の一大事」を察知した鉄血宰相ビスマルクがもみ消しに奔走していた、と。ビスマルク財団が保管する関係資料から、皇帝の隠されたスキャンダルを実証する脅迫の手紙や口止め料の領収書などが発見された。ツアイト紙によれば、皇帝から「ミス・ラブ」と呼ばれていた高級売春婦は、皇帝から届いた恋文や皇帝の「変わった性癖」を暴露すると脅して金品を要求。事態の深刻さを知らされたビスマルクは、若き皇帝の火遊びをいさめたものの聞き入れられず、一計を案じて1889年にフランクフルトの宮殿でこの売春婦に2万5000マルクの口止め料を支払い、手紙も買い取ります。しかし、これがきっかけで皇帝とビスマルクは疎遠となり、ビスマルクの失脚を早めるきっかけとなった、と。

(15) この法令のために「解放皇帝」ともいわれます。クリミア戦争の末期におやじ(ニコライ1世)が死去し、おやじの尻ぬぐいをさせられた皇帝です。 
(16) 空欄fの皇帝が短絡にロシアとの関係を蹴ってしまった。かれ自身の、ドイツを世界中に書き込みたい、ビスマルクは欧州の安全ばかりに気を取られていて海外に雄飛できない。また国内にはこのうつけものの野望を支持する産業界の発展があり、やれやれ、行け行けと声をあげていました。
(17) カージャール朝(1796~1925)の国です。  
(18) 五ヵ年計画の説明ですから「計画経済」ということばは要りません。第一次は、社会主義的工業化といって、重工業の発展のための基礎的な機械(生産手段生産部門)をつくることでした。それと農業の集団化でコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)です。前者はミールを解体して(ストルイピンの解体は成功せず革命のときにミールは復活しています)、国家管理の共同体に仕立てたものです。後者は国営農場と訳すように模範的農場としてつくられたもので、大半は前者でした。
(19) 下線を含めた文章が「ソ連は徐々に国際社会における孤立を脱しつつあった」だから、「孤立化を回避」というのでは答えになりません。ともに第一次世界大戦による敗北と、第一次世界大戦を利用して革命にこぎつけた両国が疎外されたり孤立した状態におかれていました。孤立化から脱却しつつあった中で、またそのひとつとしてラパロ条約があるのだから、「この理由」はもっと具体的なことを書くよう求めています。ドイツにとってはフランスの対独包囲網に風穴を開け、ソ連領内で秘かに再軍備をはかり武器を製造することでした。ソ連は戦後経済の復興と赤軍の強化を考えておりドイツ軍部に訓練をしてほしかった。互いの軍事と経済の欲望が合致した結果がラパロ条約です。
(20) 恐慌開始のときの大統領です。通常の景気後退にすぎないと甘く見ていたために被害をひどくしてしまった大統領です。国民にむかって演説するときは「自らの問題を解決するために政府を当てにしてはならない。……解決する力は、……個人と地域社会が、自らの責任を果たすかどうかによって明らかになります」と。明らかになったのは、倒産・失業者はますます増えつづけ、自分が落選することでした。どこかの首相も似たようなことを言っています。痛め痛め、と。  
(21) ミュンヘン会談の結果、ドイツにズデーテンを割譲することになった。この割譲をせまられた国は何? という問い。ナチス・ドイツはズデーテンだけでなく、西側のボヘミア・モラビアの全域をとってしまい、東のスロヴァキアを保護国化しました。独裁者の脅しに対する誤った譲歩(宥和政策)は一国をつぶしてしまいます。   

解答例 2002
【1】
    (君の答え)
【2】

a 小麦(大麦/麦/豆) b 湖広 c 海(海路) d 李自成
(1) 交子・会子  (2) 綿織物業・絹織物業  (3)(ア)陳朝 (イ)字喃
(4) 南人 (5) 靖難の変 (6) 水滸伝 (7) 八旗(制) (8) マカートニー


e プトレマイオス  f サラディン(サラーフ=アッディーン)  g バグダード
h ムハンマド=アリー  i ワッハーブ
(9) チュニジア  (10)(ア) 後ウマイヤ朝 (イ)コルドバ 
(11)(ア) ポルトガル (イ)マラッカ王国  (12) メフメト2世(メフメット2世)  
(13) タブリーズ  (14)(ア)ロゼッタ石(ロゼッタ=ストーン) (イ)シャンポリオン
(15) アラービー(オラービー)=パシャ(アフマド=アラービー)

【3】
    (君の答え)
【4】

a ディオクレティアヌス  b ハインリヒ4世  
(1) 皇帝崇拝 (2) 告白(告白録) (3) エフェソス (4) アルクィン
(5) ジョン王がカンタベリ大司教の叙任権を譲らなかったため。  
(6) フィリップ4世 (7) コンスタンツ

c リシュリュー d サンスーシ(サン=スーシ)
(8) 贖宥状 (9) エラスムス (10) 救貧法 (11) バロック様式  
(12) 国内では特権的なマニュファクチュアを保護・育成し、対外的には保護貿易をおこなった。
(13) シュレジエン(シレジア/シロンスク) (14) プガチョフ

e ストルイピン f ヴィルヘルム2世
(15) アレクサンドル2世 (16) (独露)再保障条約(二重保障条約/再保険条約)
(17) ペルシア(イラン) 
(18) 重工業の発展のための基礎的な機械をつくることと、コルホーズとソフホーズという農業の集団化。
(19) ドイツは国防軍を秘密裏に再軍備したく、ソ連は経済建設のためドイツとの協力を欲していた。
(20) フーヴァー (21) チェコスロヴァキア