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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2016年度・合格者の再現答案

2016年度の再現答案
再現答案について
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

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東大・世界史

第1問
東アジア。中国。毛沢東の死後、プロレタリア文化大革命が終了し、鄧小平が復権した。開放政策への転換で資本主義の要素を取り入れた。韓国。朴正煕から続いた開発独裁は、光州事件などの民主化を求める運動を経て民主化した。台湾や韓国では経済成長が著しくアジアニーズとして台頭した。中東。イランでは親米のパフレヴィー朝がホメイニの主導するイラン革命によって打倒され反米のイラン=イスラーム共和国が建国された。イラクのサダム=フセインはイランイラク戦争を起こし、アメリカは支援したが打倒失敗に終わった。イスラエルは平和への動きが進んだ。エジプトへシナイ半島を返還した。パレスチナに対してはPLOとパレスチナ和平協定を結んだ。中米・南米。ペルーやチリの反米社会主義政権をアメリカが裏で支援して崩壊させた。アルゼンチンはマルビナス諸島を巡ってイギリスとフォークランド紛争を戦ったがイギリスの近代兵器を前に完敗した。このように東アジアでは中国のように1990年以降の社会主義政権崩壊の前兆として社会主義国の資本主義化がみられた。中東では反米政権の誕生やイスラエルの動きは1990年以降のアメリカへのテロ攻撃や不安定なイスラムの中東情勢につながった。中米・南米での反米社会主義政権の崩壊は現在のキューバとアメリカの和解が進むなどの中南米とアメリカの融和につながった。グレナダは使えなかった。

第2問
(a)イクタ―制
棒給を現金で与えるアタ―制に変わって、軍人に現金支払いの代わりにその土地の徴税権を与える制度。
(b)カピチュレーション
帝国内を商人が自由に通行できる権利を他国に与える制度。仏に最初に与えられた。衰退期には列強がオスマン侵略の口実とした。
2(a)イクタ―制を継承して軍人に対し、現金の代わりに土地の徴税権を与える制度。官位によって差があり、官僚制を支えた。
(b)非ムスリムに対しジズヤを復活するなど弾圧を加えたため、マラーター同盟結成やシク教国家の設立などの離反を招いた。
3東南アジアでの香辛料貿易やヨーロッパでの中継貿易で繁栄したオランダに対し、イギリスはインド開拓に専念、クロムウェルは航海法で中継貿易に対抗した。フランスではコルベールが東インド会社再建や特権マニファクチュアの設立で重商主義推進し対抗した。
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筑波・世界史
【1】
紀元前4世紀アレクサンドロス大王が遠征中に死ぬとディアドコイ争いで帝国は崩壊した。西アジアにはギリシア系セレウコス朝シリアができた。セレウコス朝シリアはインドへ侵入しこの地では後にギリシア風のガンダーラ美術が栄える。アム川流域ではバクトリアが台頭し、その西ではイラン系パルティアが台頭した。後者は中国と交易を行い安息と呼ばれた。この交易を通じてアラム文字が形を変えて中央アジアに広がった。3世紀になるとササン朝ペルシアがパルティア内部からクテシフォンを都として成立。ペルシス地方から誕生したササン朝はアケメネス朝の後継としてゾロアスター教を国教とした。6世紀にはササン朝のホスロー1世は東ローマ帝国ユスティニアヌスと争った。これにより絹の道は衰退した。代わりに貿易の中心となったメッカ、メディナからイスラームが台頭した。7世紀にはササン朝はイスラーム勢力によって衰退、後に滅亡。

【2】
明は初め海禁政策を行い政府による貿易のみに制限した。15世紀初頭永楽帝の時代は鄭和による大遠征が朝貢国を増やすことを目的とし実施され、朝貢による貿易が中心であった。しかし16世紀頃からの後期倭寇の活動や西欧諸国の圧力により海禁は解除された。これにより多くの中国人が南洋華僑として流出した。清も初めは海禁を実施していたが、社会が安定すると解除した。中国に米大陸からトウモロコシなどの穀物が伝わると人口が増加し、華僑が多数流出した。17世紀の康熙帝は遷海令を出し鄭氏台湾の反清運動を防いだ。三藩の乱の際に台湾を支配すると解除した。乾隆帝の時代には貿易港を広州に制限し、公行だけに貿易をさせた。琉球王国は初め清と朝貢関係であったが、江戸時代に薩摩藩が貿易を行い日清に対しての両属関係であった。

【3】
11世紀に聖職者の世俗化などが問題となり、教皇と皇帝の間で叙任権をめぐり対立した。1077年には教皇が皇帝を破門し、皇帝が謝罪をしたカノッサ事件が起きた。叙任権闘争は1122年のヴォルムズ協約で一応は妥協した。この協約ではドイツ地方においては皇帝権が優位していた。しかし、13世紀の大空位時代などで皇帝権が衰退するとインノケンティウス3世の時に教皇権が優越した。インノケンティウス3世はアルビジョワ十字軍や第四回十字軍を実施。各地の王を破門するなど教皇権の全盛であった。しかし十字軍の失敗などにより衰退していく。14世紀初頭には仏王によってアナーニ事件が起き、教皇は憤死した。以後教皇が並立する大シスマと呼ばれる教会分裂となった。15世紀のコンスタンツ公会議で解決したが、以後の宗教改革や絶対王政の確立により教皇権は衰退していく。

【4】
1894年日清戦争で敗北した清は朝鮮の宗主権を失った。その後19世紀末には朝鮮は大韓帝国と国号を変え自立性を主張した。1904年朝鮮半島をめぐり日露戦争が起きた。ポーツマス条約により日本の優位が決まった。その後日本との三次に渡る協約で総督を設置し内政権外政権を奪われた。これにより朝鮮半島では義兵闘争が活発となり、伊藤博文が暗殺されると1910年日本は韓国併合を行った。初めは武断政治であったが、1919年に三一運動が起こると文化政治に変更した。しかし、日中戦争が起こると日本は皇民化政策を実施し朝鮮の人は創氏改名、神社崇拝の強制、日本に日本兵として連行された。戦後朝鮮半島は米ソにより占領された。38度を境界として、北に共産主義の支援を受け朝鮮民主主義人民共和国が成立。南は米国の支援で大韓帝国が成立。両国は冷戦の影響下で対立し、1950年の朝鮮戦争を向かえる。
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東京外大・世界史
1-8
中国語北方の諸民族は、防寒のための黒貂の毛皮の必要性から拠点となる要塞を建設し、中国北部への進出を図った。また台湾では、鄭成功が反乱の動きを見せたため、清朝がその動きを鎮圧した。一連の流れの中で清朝皇帝の康熙帝の関心は領土問題へと向いていった。北方民族の領土問題に関しては、中国在住のイエズス会士の司教が仲介となり、彼らに期待できる最大の商売の利益を約束し、穏便に調停した。またモスコー人のツァーであるピョートル1世は、ヨーロッパでの北方戦争に勝利して支配を拡大した結果、中国方面への領土拡大にも関心を寄せていた。ロシアと中国は国境の画定の必要性に迫られ、ピョートル1世と康熙帝は1689年、アルグン川とスタノヴォイ山脈を国境にすることを定めたネルチンスク条約を締結した。(334字)
2-6(2)
ポルトガルはマラッカ、スペインはマニラに進出、オランダはジャワ島に東インド会社を設立し、香辛料貿易を推進した。19世紀になると、ゴムのプランテーションの経営や、華僑のスズ採掘へと変化した。(95字)
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京大・世界史
1
アッバース朝ではトルコ人傭兵マルムークが雇われ、以後イスラム王朝の中心となりイスラム化が進んだ。中央アジアでは、10世紀にカラハン朝が成立し、最初のトルコ系イスラム王朝としてトルコ人のイスラム化を進めた。11世紀にはセルジューク朝が成立し、西進してブワイフ朝を滅ぼして西アジアを支配下に置いた。スンナ派の盟主としての地位を確立し、西アジアにおけるトルコ人のイスラム化を推進した。アフガニスタンでは、マムルークがイスラム王朝としてガズナ朝を開いた。セルジューク朝分裂後は、ルーム=セルジューク朝が小アジア、ホラズム朝が中央アジアを支配し、イスラム化を進展させた。
3
イギリスでは、政治学者や哲学者が啓蒙思想を受容した。ロックが「市民政府二論」で説いた人民主権の思想はルソーに影響を与え、フランス革命の原動力となった他、アメリカ独立宣言の基幹ともなった。また、アダム=スミスは「国富論」を発表して自由主義経済学を創始した。プロイセンでは、フリードリヒ2世がヴォルテールとの交流を通じて啓蒙思想を受容し、啓蒙専制君主として上からの啓蒙を図り、農民の保護や社会福祉の充実にのりだし、自国の近代化を推進した。しかし専制主義の維持のため一般民衆の思想の自由化は行われず、自由主義思想への取り締まりが行われたため、民衆運動に発展することはなかった。

2016年合格メール

 

Aくん
3月7日 1122
お久しぶりです。Aです。
まず、東京外大言語文化学部中国語学科合格しました。本当にご指導ありがとうございました。
問題はご覧になりましたか。資料の読み取りも論述に含まれていたので、かなり苦戦しました。先生の指導がなかったら、時間内に書き終わらなかったかもしれないので…。
感謝してもしきれません。ありがとうございました。
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Bくん
3月7日 1641
Bです。
この度、先生の添削指導を直接請うことはできませんでしたがHP、論述練習帳、解答例をもとにやってきました。
練習帳で質問に対する答え方、質問の捉え方を一から学び、それを基礎としてHPの過去問で演習に取り組みました。特にHPでの情報量は通史ではなかなか気がつくことのできない知識まで得ることができました。
そのおかげで今日無事、筑波大学 社会・国際学群社会学類に合格しました。
解答例を提示していただく時にしか直接は連絡をとる機会はありませんでしたが、大変お世話になったため報告させていただきました。
ありがとうございました。
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Cくん
3月7日 1756
東京外大合格しました。
添削や質問、図々しく送ってしまい申し訳ありませんでした。
答えていただいたこと、すごく参考になりました。
ありがとうございました!!
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Dくん
3月9日 1417
京大法学部に合格しました!
世界史について話をすれば、
今回の論述はわからないなりにかけたと思います。
①に関しては、
オーソドックスな問題でした。
問題が何を要求しているかを考えて書くことができました。これは先生のおかげだと思います。
③に関しては、
正直イギリスについてはまったくわかりませんでした。ただプロイセンの方を書いて、比較する形でなんとか部分点を狙えるくらいには絞り出すことができました!
ほんとに先生のおかげで合格することができました!ありがとうございます!
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Eくん
3月9日 1353
お久しぶりです。こんにちは。
受験の直前に、先生から京大の予想問題をいただいた加藤です。
おかげで京大法学部に合格することができました。
いまでも信じられない気持ちでいっぱいです。
先生からいただいだ問題と答えは全部プリントアウトして、
全問自分なりに解答と添削して取り組みました。
「世界史論述練習帳」とともに、もちろん京都にも持参して、直前まで何回も見直しました。
今年の京大文系世界史は、少し難化したような気がしましたが、試験終了後「やれるだけはやった」という自信が持てたのは、本当に先生のおかげです。
(ちなみに僕の今年の京大実践模試は、49点と33点!でした。。。ひどい笑)
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Fくん 
3月9日 1544
今日、合格発表があり、
おかげさまで、京都大教育学部に合格できました。
ありがとうございました。
お忙しい中、論述を50問以上添削していただきました。
しかも、一問一問、丁寧に見てくださったおかげで、力がついていったのだと思います。
特に、今年の京大の第1問は、創作問題にあったものとほとんど同じで、助かりました。
本当にありがとうございました。
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Gさん
3月9日 2013
京大法学部無事合格しました!!!
世界史論述の添削お世話になりました。
世界史で何点取れたかはまだ分かりませんが,
世界史の論述はしっかり書けたと思います。
本当にありがとうございました!!
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Hくん
3月10日 1312
先生ありがとうございます!東大文科三類合格しました!!!
1年間予備校の講師の中で1番お世話になったのが中谷先生でした。世界史に関しては論述練習帳の力が大きかったです。今まで数多くの参考書を買いましたが、どれも途中で使わなくなりました。でも最後まで使い切れたのがこの参考書でした。先生の解答例は駿台や河合の模範迷答と違って題意に正確に応えてあり、題意把握や分析、論理的思考のトレーニングができ、知識量は今までにない世界史の面白さを感じさせてくれました。すっかり1年間中谷信者となってしまいました。HPも活用させてもらいました。批判的思考を大切にする先生からすれば信者と言われるのは気持ち悪いかもしれませんが....笑
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Iくん
10日1212
こんにちは。Iです。
東京大学文科三類に合格しましたので報告いたします。
申し訳ありませんが、大論述があまり書けなかったことがショックで再現答案は作成しておりません。
ともあれ、世界史は全体的にはよくできたと思います。
宅浪をしていた僕にとって先生の添削はとてもありがたかったです。
いままでありがとうございました。
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Jくん
3月10日 1223
京都大学法学部合格しました!
連絡が遅くなってすみません。短い期間でしたがありがとうございました。
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Kさん
3月16日 1230
色々準備してたら報告遅れました!
京都大学文学部合格してました!!
英語も数学もダメだったので、先生の問題と似ていたトルコ人の論述で満点近くとったのが本当に大きかったと思います!!
だいたい一ヶ月ぐらいの短い間でしたが、本当にお世話になりました!
たまに添削の中に、先生の世界史観、みたいなものが入っているのはとても興味深かったです!笑
今までありがとうございましたm(__)m
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Lさん
3月25日
ご連絡が、大変大変大変大変遅くなり、本当に申し訳ありません………………。
合格発表後は入学準備や卒業などバタバタしており、ご一報入れないと、とずっと思っているままに、3月末になってしまいました><
東京大学文科一類に合格いたしました!まさかの合格です。未だに実感が湧きません…。
世界史の感触について申しますと、勿論第1問は吹っ飛んだ感触でした…。笑
過去問の流れからいって近代史がでるだろうことはわかっていたので、第1次・第2次大戦後の1950年代まではきっちりと固めていったのですが、その後はまさか出ないだろうと思いほぼ未習…。
しかしここで先生に習ったことが活きました。わからなくても、難しそうに見えても、問題文をよく読み、問題の要求をきちんと把握して、その要求に対して素直に答える。指定語句や(5つ意味のわからないもの、そのうち3つは見たことがないものがありましたが笑)センター試験の学習の際に身につけた少しばかりの知識を駆使して、なんとか20行中の15〜17行を埋められました。また、使えなかった3つ(!!)の指定語句は、先生が論述練習帳などでおっしゃっていた方法で処理したため、0点答案を免れることができたと思います。これを知らなかったら、まず書こうという気力も持てなかったでしょうし、書いても0点だったかもしれません。
1ヶ月あまりの間、大変に丁寧なご指導をいただきました。世界史が本番1ヶ月前にして絶望的だった私でも、なんとか合格に漕ぎ着けることができました(世界がずっとネックでしたが少しは克服できたことが一因だと思います)。感謝の気持ちがやみません。本当にありがとうございました。

京大世界史2016

第1問 (20点)
 西暦8世紀半ば、非アラブ人ムスリムを主要な支持者としてアッバース朝が成立したことを契機に、イスラーム社会の担い手はますます多様化していった。なかでも9世紀以降、イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々は、そののち近代に至るまでイスラーム世界において大きな役割を果たすようになる。この「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワードを両方とも用いて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

  マムルーク カラハン朝

 

第2問 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(18)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答構に記入せよ。

A [本文中の漢字にルビがふってある場合は( )で示しています]中国歴代王朝は自らの正統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢はそうした瑞祥の一つである。戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛慎が「コ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢納したという伝説が見える。粛慎は(1)「海内(かいだい)」の中国と大海で隔てられた[海外」に住む神話的な存在ともされ、したがって、その朝貢は、子の徳が世界の果てにまで及んだことの証として、第一級の瑞祥となる。
 (2)後漢末の群雄割拠に際し、(3)遼東郡では公孫氏が自立した。曹丕が後漢の禅譲を受けて魏を建国すると、劉備・孫権も蜀・呉を建国した。呉が遼東公孫氏・高句麗と結んだため、魏は遼東公孫氏を滅ぼし、高句麗に出兵した。魏の進出にともなって、東北アジアに関する豊富な知見が獲得された。このことを反映して、『三国志』の烏丸(うがん)鮮卑東夷伝には、東北アジア諸民族に関する現存最古のまとまった記述が見える。これら諸民族の一つが挹婁(ゆうろう)である。(4)『三国志』の本紀には、粛慎の朝貢が見えるが、これは伝説上の粛慎と同じく「こ(木+苦)矢」と石鍛を用いていた挹婁を「古(いにしえ)の粛慎氏の国」として朝貢させ、粛慎朝貢の瑞祥を演出したものである。(5)前漢・後漢あわせて400年にも及ぶ漢帝国が崩壊したのちの分裂に際して、魏は自らの正統性を喧(けん)伝するための瑞祥を切実に必要としたのである。
 その後、[  a ](西晋の武帝)が魏の禅譲を受けて晋を建国した際や、西晋滅亡後、江南において東晋が成立した際にも、粛慎が朝貢している。一方、華北でも後越の(6)石勅(せきろく)・石虎、前秦の(7)苻堅(ふけん)のもとに粛慎が朝貢している。これらも挹婁を粛慎と称したものである。
 『三国志』についで東北アジア諸民族のまとまった記述が見えるのは、鮮卑[ b ]部が建国した王朝を扱った『魏書』である。『魏書』によれば、勿吉(もつきつ)が北魏・[ c ]に29回朝貢し、うち7回「コ(木+苦)矢」を貢納している。勿吉を「旧(もと)の粛慎国」として瑞祥を演出したものだが、頻繁な朝貢が瑞祥の希少価値を減じたためか、「コ(木+苦)矢」の貢納は517年が最後である。高洋が[  c ]の禅譲を受けて北斉を建国すると、粛慎が朝貢し(8)靺鞨(まつかつ)をとくに粛慎と称し、建国の瑞祥としたものであろう。


(1) 戦国時代の鄒衍(すうえん)はこうした地理認識を発展させた「大九州説」を唱えた。鄒衍は諸子百家のうち、何家に属するか。

(2) この時期、黄巾の乱を起こした張角が創唱した宗教結社の名を記せ。

(3) 戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた。遼東郡を設置した国の名を記せ。

(4) (ア) 本紀と列伝を中心とする歴史書の形式である紀伝体を創始した人物の名を記せ。
 (イ) 『三国志』の本紀において「大月氏」と称された、1〜3世紀に中央アジアから北インドを支配した王朝の名を記せ。

(5) 前漢の禅譲を受けて新しい王朝を開いた人物の名を記せ。

(6) (ア) 石勒は五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族の出身である。この民族の名を記せ。

 (イ) 亀茲(クチャ)に生まれ、4世紀前半、石勅の帰依を受けた仏僧の名を漢字で記せ。

(7) 苻堅は淝水(ひすい)の戦いの戦いで東晋に敗れた。この時の東晋軍の主力である北府軍の下級軍人から立身した劉裕が、東晋の禅譲を受けて開いた王朝の名を記せ。

(8) (ア) 靺鞨の一部は高句麗遺民とともに渤海を建国した。今日の黒龍江省寧安市の東京城遺跡にあった湖海の国都は、当時何と呼ばれたか。

 (イ) 靺鞨の一部である黒水靺鞨の後身が女真である。12世紀、女真は金を建国した。金が女真人に対して採用した行政・軍事制度の名を記せ。

 (ウ) 17世紀、女真は後金を建国した。この建国者の名を記せ。

B 20世紀初頭までの中国では、「党」とは、官僚やその予備軍である知識人が、個人的な交友や一定の政治理念を基に結んだグループのことを指した。だが、こうしたグループの形成は王朝の禁じるところであり、史書では非難や弾圧の文脈で登場している。
 例えば、後漢の時代には(9)二度にわたる「党人」に対する弾圧が行われたし、唐王朝では、二つの官僚グループが数十年にわたって「党争」を繰り広げている。10世紀に[ d ](太祖)が打ち立てた王朝は、官吏登用試験に(10)皇帝が試験官となる出題を加えたが、これはそれまであったような、試験官と合格者が私的な関係を取り結ぶことを妨ぐためであった。しかし、この王朝でも、(11)ある政治家が提起した諸政策の是非をめぐり、「党争」が何十年も続いた。このほか後年の王朝で、17世紀初め設立の[ e ]書院を基礎に形成された政治グループが、やはり「党人」として弾圧されたし、弾圧した側の宦官にくみした官僚たちは、史書で「エン(門+奄)党」(宦官党)と呼ばれている。
 したがって、中国では「党」とは決して良いイメージの言葉ではなかった。20世紀初め、知識人や(12)留学生たちが共和国樹立を目指し、(13)国外で近代的な政治結社を結成した時にも、彼らはその名称に「党」を用いることはなかった。やや後の、彼らと違って(14)立憲君主制を主張して組織された政治団体にあっても、そのことは同様である。
 こうした状況が一変するのは、(15)共和国が成立した」のち、中国史上初の国会議員選挙が行われる過程においてである。中国の政治家たちはこの時、以前から近代政治結社を「党」と称していた近隣国家の例にならい、共和・統一・民主などの語と「党」を結びつけたのだった。そして、共和国樹立を目指した前述の結社は[ f ]と改名してこの選挙に勝利し、国会で多数を占めたのだが、(16)時の臨時大総統の暴力の前に、政権掌握を阻まれた。同党の政治勢力はその後、党名と組織形態の変更を繰り返したのち、国際的な共産主義組織の働きかけで、別の政党との協力関係樹立に踏み切る。以後、(17)この二つの政党の協力と対立が、(18)中華人民共和国成立までの中国政治の一つの軸を構成することになる。


(9) この弾圧は、中国の歴史上どのように称されているか。

(10) この皇帝が試験官となる試験は、何と呼ばれるか。

(11) この「諸政策」のねらいを、農民・中小商人の保護のほかに二つ挙げよ。

(12) 中国からその近隣国家に赴いた留学生の数は、20世記初めに急増したが、このことは1905年に行われた中国政府の政策決定と関係している。この決定とは何か。

(13) この「近代的な政治結社」は、政治主張を三つにまとめたことで知られる。この三つの主張のうち、漢民族の独立(少数民族による支配の打破)以外の二つの主張を記せ。

(14) 19世紀末に中国が対外戦争に敗れた際、知識人によって立憲君主制導入を中心とする制度改革が主張された。この改革は当時何と呼ばれたか。

(15) 「共和国が成立した」ことの背景の一つに、政府がある事業を国有化しようとした結果、中国のさまざまな階層が広く反発したことが挙げられる。この事業とは何か。

(16) この「共和国臨時大総統」は、対内的には政党を解散させて独裁権力を握る一方、対外的には近隣国家による大規模な権益拡大の諸要求を承認したことでも知られる。この諸要求は何と呼ばれるか。

(17) この「二つの政党の協力」のうち二回目のものは、1930年代半ば、中国の内陸のある都市で起こった事件を契機に成立している。この都市の名を記せ。

(18) この国家では1960年代、党の最高指導者が自らの党組織に対する攻撃を呼びかけ、大規模な政治運動が始まった。この運動は何と呼ばれるか。

 

第3問 (20点)
 18世紀のヨーロッパでは、理性を重視し、古い権威や偏見を批判する啓蒙思想が有力となった。イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第4問 (30点)
 次の文章(A,B,C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代以来、西洋では船が運輸と軍事で重要な役割を果たした。フェニキア人は二段櫂(かい)船などを用いて海上輸送を行い、地中海沿岸に(1)植民市を建設した。ギリシア人は衝角を備えた三段櫂船などの艦隊を用いて、前480年[ a ]の海戦でペルシア臨隊に勝利した。ローマ人も軍事用に擢船を用いたが、(2)前1世紀頃までに地中海がほぼ平定され、遠隔地交易が活発になると、帆船が発達した。
 9〜11世紀の地中海では、ビザンツ帝国の艦隊とシリアや(3)アンダルスなどから出撃するムスリムの艦隊が、ともに三角帆を備えた櫂船などで覇権を争ったが、イオニア海以西ではしだいにイタリア諸都市と(4)ノルマン人が勢力を伸張させた。7回に及んだ十字軍の遠征では、第1・2回においてその主力は陸路でシリア・パレスチナへ進軍したが、第3回以降は海軍と海上輸送される兵士が中心となった。兵士や馬に加え、多くの(5)巡礼者と物資を輸送するため、ヴェネツィアやジェノヴァでは多くの櫂船と帆船が建造された。
 13世紀末、ジェノヴァの船がジブラルタル海峡経由でフランドルへ到達し、[ b ]と地中海という二つの海域を結ぶ航路が開設された。この頃、[ b ]・バルト海間の通商では、ハンザ伺盟の盟主[ c ]とハンブルクをつなぐ河川路・陸路が主軸であったが、15世紀以降、[ b ]とバルト海をむすぶ(6)エーレスンド(ズント)海峡の通航量が増大し、バルト海沿岸から西欧へ生活物資が大量に帆船で運送されるようになった。地中海でも商用帆船は発達したが、軍事用では櫂船が16世紀に至るまで支配的であった。


(1) フェニキア人が北アフリカに建設した代表的な植民市の名を記せ。

(2) 地中海をかこむ諸地域を支配下に入れたオクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて、ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩を書いた人物の名を記せ。

(3) 8世紀半ば以降、コルドバを首都として、この地域を支配していた王朝の名を記せ。

(4) 12世紀前半、ノルマン人が地中海域に建てた国の名を記せ。

(5) 巡礼者の保護などのために設立された代表的な宗教騎士団の名を二つ記せ。

(6) 15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名を記せ。

B 支配的な権力や勢力に強制されて、あるいはよりよい機会を求めて、故地を出て各地に離散した人々やその状態をあらわす、(7)ディアスポラという概念がある。この切り口から見ると、ヨーロッパ近世・近代史は、たえずディアスポラを生みだす歴史であった。
 (8)コロンブスがサンサルバドル島に到達した年、数万人のユダヤ人がスペインから追放された。彼らは西欧諸国およびオスマン帝国へと移住し、商業などで目覚ましい活躍をする者もあらわれた。また、同じくスペインから、モリスコ(キリスト教に改宗した元イスラーム教徒)が、(9)1568〜71年の反乱の鎮圧を経た後の17世紀初頭、約30万人追放された。そのうちの大部分はモロッコなど北アフリカに逃れた。
 宗教改革の影響で、新教・旧教の双方からディアスポラが発生した。ヘンリ8世によって国教会体制が敷かれたイギリスでは、(10)カトリック教徒が厳しい制約の中でひそかに信仰を守ったが、一部は国外へ逃れ、故郷の同宗信徒との関保を保った。フランスでは、16世紀後半の宗教内乱を経てしばらくはユグノーの信教は許容された。しかし、(11)1685年にナント王令が廃止されるなどしたため、多くのユグノーがイギリスやスイス、オランダやプロイセンへと逃れ、共同体をつくり、またフランスで迫害に遭っている仲間の救済に尽力した。
 政治闘争の敗北者たちが一種のディアスポラを形成することもあった。名誉革命で王位を追われたジェームズ2世はフランスにわたり、やがてパリ西方のサン=ジェルマン・アン・レーに亡命宮廷を構えたが、ここは、(12)ジェームズの王統をなおも信奉する人々、ジャコバイトにとって物心両面での拠り所となった。また、(13)フランス革命の際にはエミグレ(亡命貴族)が発生し、異郷で反革命を画策し、帰還の機会をうかがった
 経済的要因が強く作用したディアスポラの例もある。たとえば、ヨーロッパ人が深く関与した奴隷貿易によって(14)膨大な数の黒人がアフリカから離散した。また、(15)南ロシアで1881年に大規模なポグロム(ユダヤ人に対する襲撃)が生じたことも手伝って、その後、(16)多くのユダヤ人が住んでいた場所を捨て、西方のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移民していった
 このような各種のディアスポラは国の枠を越えて拡大し、ヨーロッパ諸国にとっては、これらの人々をどのように処遇するにせよ、つねに憂躍すべき要素となった。


(7) この語は古代ギリシア語に起源を持つが、もっぱらパレスチナ地方を追われたユダヤ人と関連付けられてきた。19世紀末になると、各地に散ったユダヤ人の間で民族的郷土の建設を求める運動が活発化した。この運動を何と呼ぶか、記せ。

(8) この追放令が発せられた時のスペインの女王の名を記せ。

(9) これと同じ時期にスペイン王を悩ませる大規模な反乱を開始し、十数年後に独立を宣言した国がある。その国の中心都市で、17世紀に国際金融の中心となった都市の名を記せ。

(10) そのような状況にもかかわらず、彼らは16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ。

(11) この頃プロイセンを統治していた家門名を記せ。

(12) 彼らは18世紀初頭にイギリスで王朝交代があったその翌年に、ジェームズ2世の息子を奉じて反乱を起こした。これを撃退したイギリスの新しい王朝の名を記せ。

(13) 反革命の動きに対抗して、革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国の名を記せ。

(14) 彼らが輪送先のプランテーションで栽培に従事した主な作物を二つ記せ。

(15) 1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ、それがボグロムの引き金となったとされる。この人物の名を記せ。

(16) ユダヤ人など多くの移民を生み出したロシア・東欧と並んで、1880年代にエリトリアを植民地化したある国からも、アメリカ大陸への移民が増大した。この国の名を記せ。

C 第二次世界大戦後に出現した、アメリカ合衆国とソ連を頂点とする二極構造の国際システムは、時間の経過とともに、より多極的な構造に移行していった。
 非共産主義世界では、(17)西ヨーロッパ諸国と日本が急速な経済成長を遂げたことで、アメリカの経済的地位は相対的に低下した。(18)ベトナム戦争の長期化により、アメリカの経済的疲弊はさらに深まった。(19)1970年代初頭、アメリカが自国の経済的利益を優先する政策を採用したことを契機に、ブレトン・ウッズ体制は大きく変容することとなった
 社会主義国よりなる東側陣営では、(20)1956年にソ連のフルシチョフが新たな政治路線を打ち出したことを大きな契機として、陣営内でさまざまな変動が生起した。中国はフルシチョフの新たな路線を批判し、(21)中ソ関係は国境をめぐる軍事衝突が発生するまでに悪化、最終的に中国は東側陣営から事実上離脱した。一方、東ヨー口ッパでは、抑圧的な国内政治体制と、ソ連の支配への批判がまり、ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアで政治的自由化に向かう動きが断続的に発生した。
 かつて植民地や半植民地などとして経済的に従属的な地位に置かれていた地域は、政治的独立を果たした後にも、低開発に苦しむことが多かった。しかし、このような地域の中からも、韓国・(22)台湾・シンガポール・香港・ブラジルなど、比較的早い段賠から急速な経済成長に成功する国や地域が現れた。これらが、のちに(23)新興工業経済地域(NIES)」と呼ばれる地域のさきがけとなった。


(17) 古ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が結成される契機となった提案を行ったフランス外相の名を記せ。

(18) ベトナムからのアメリカ軍の撤退を定めた和平協定が締結された都市はどこか。

(19) 1971〜73年にブレトン・ウッズ体制に生じた変化を、それに関連するニクソン政権の政策と合わせて、簡潔に説明せよ。

(20) このときフルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について、簡潔に説明せよ。

(21) 1969年3月に、ソ連と中国の間で領有権をめぐって大規模な戦闘が起こったのはどこか。

(21) 1988年に総統に就任し民主化を推進した人物の名を記せ。

(22) 新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴を、簡潔に説明せよ。

………………………………………

コメント

第1問 
 課題は「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワード(マムルーク カラハン朝)を両方とも用いて」でした。このイスラーム化の中身は前半の文「イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々」と説明してあります。つまり宗教を受けて入れただけでなく、「イスラーム文化」を受容したことも入っています。大きくは「文化」の中に「宗教」もはいりますが、ここでは分けて問うているので「宗教以外の文化」ととればいいでしょう。自分・他人(予備校も含む)の解答を批判するときに、宗教以外の文化がどれだけ考慮してあるか見るといいのです。この考慮がないとたんなるトルコ人のイスラーム王朝興亡史になります。
 たとえば以下のような解答。

アッバース朝の下でトルコ人は軍人奴隷であるマムルークとして組織され、イスラーム世界で軍事力の中核を担うようになった。他方、トルコ人のウイグルがキルギスにより崩壊すると、彼らの一部が中央アジアに移動し、イスラーム教を受容してカラハン朝を樹立した。これ以降、トルコ人の間でイスラーム化が始まった。彼らはアフガニスタンにガズナ朝を樹立し、次いで北インドへと侵攻した。さらに中央アジアで成立したセルジューク朝はバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。その後アナトリアにも進出し、この地域のイスラーム化を進めた。また彼らはエジプトで成立したアイユープ朝でもマムルークとして活躍した。

▲トルコ人がイスラーム化した、つまりイスラーム教という宗教に改宗したのは、中央アジアに移動してからですが、それまでは何を信じていたのでしょう? マニ教や仏教です。また指定語句のカラ=ハン朝から中央アジアのトルコ(人)化(トルキスタン化)も始まりました。印欧語系のひとびと(ソグド人)のところがトルコ人の住む地に次第に変わったのは、このトルコ人の中央アジアへの大移住の結果でした。またイスラーム化したため、アラビア語(文字)の採用も伴ったはずです。アッバース朝下のマムルークになった時点ではアラビア語の採用は確かです。これらが文化です。ただ、まだトルコ=イスラーム文明(文化)という点にまで発展していません。いずれティムール帝国(14〜15世紀)になって完成します(トルコ文学、細密画、天文学)。

第2問
 難解そうなところだけ解説します。大半はかんたんな問題なので。
A 空欄[ c ]は下に2回目に出てくるのがヒントです。「高洋が[ c ]の禅譲を受けて北斉を建国」とあり、北斉の前が何かを推理する。北魏が分裂して東西に分かれ、東魏・西魏となり、それぞれ北斉・北周と受けつがれます。それで東魏が正解。統一の方向は東魏でなく、西魏→北周→隋という順でしたが。

問(3) 「遼東郡を設置した国の名」のヒントは「戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた」という前文です。七雄の中で遼東半島に一番近い国、北京(当時の名は薊)の支配者はなんという国か、ということ。燕雲十六州でも表現している国名・都市名です。

問(6) (ア) 「五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族」とは五胡を全部数えたら出てくるかも知れない。匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の中の羯(けつ)です。氐と羌はチベット系。

問(8) (ア) 「渤海の国都」は、教科書によっては長安、平城京とともに碁盤の目の都城図が載っているので覚えているひともいるだろう。

第3問
 課題は「イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか」でした。ここにはいくつもの要求があります。まずなにより英普の比較です。自分と他人(予備校も)の答案を批判する際に、この比較ができているかどうか、つまり啓蒙思想の受容が英普でどうちがったのか、政治への影響のちがい、社会への影響のちがい、がそれぞれ3点書いてあるかどうか。「比較しながら」はこの3点全部に及びます。

 そもそも啓蒙思想家を想起できるかどうか、ですね。教科書では啓蒙思想家とあればフランス人で埋まっていますが、英国ならロックとアダム=スミスくらいでしょうか。ロックは17世紀のひと(1632〜1704)ですが、その影響は18世紀にもあります。アメリカの独立宣言に彼の思想が息づいていることは学んでいるはずです。つまりそれだけ読み継がれているということです。この他には? いますよ。
 選挙法改正運動をおこなったベンサム(1748〜1832)もいます。選挙法改正は第1回は1832年に実現し、この年にベンサムも死去しますが、運動自体は18世紀末からありました。かれの「最大多数の最大幸福」の主張は1768年の著書から現れていて、これを実現する方法が選挙法改正でした。
 奴隷貿易の廃止は1807年に、奴隷労働の廃止は1833年に実現しますが、その代表的な運動者ウィルバーフォース(1759〜1833)が生きていたのも18世紀です。「1787年にウィルバーフォースの友人、グランビル・シャープが1786年に設立した奴隷貿易廃止促進協会にウィルバーフォースも参加した」とウィキペディアの記事にあります。
 トマス=ペイン(1737〜1809)はアメリカ人? いいえ、イギリス人です。用語集に「イギリス生まれの文筆家・革命思想家。76年に「コモン=センス」を著し、独立への気運を高めた。のちフランス革命で国民公会の議員を務めた」と書いてありますよ。つまり英仏米で活躍した人物です。イギリスで出版した『人間の権利』(1791)で貴族攻撃をしたためイギリス政府に追放され、パリに渡ってフランスの市民権を得、国民公会では新憲法の草案作成委員会にまでなるという特異な人物です。
 また『ロビンソン・クルーソー』(1719)の作者デフォー(1660〜1731)もあげることができます。「その『イングランド人民全体の本源的権力の検討と主張』(1701)によって、ロック思想の普及者となった、といわれる。この書物は、ケントの地主が提出した下院への請願の内容が不穏当であるとして請願者が逮捕されたのに抗議し、人民の権力こそあらゆる権力の根源であることを主張したものであり、そのほかのいくつかのパンフレットにおいても、デフォーは王権神授説批判、社会契約説、抵抗権論などを展開している。しかしこのことはかれが体制批判者であったことを決して意味しない。かれは抵抗権を主張しつつ、革命には反対なのであり、名誉革命を支持しつつ、クロムゥェルの共和制に対しては最大級の非難をなげかけるのである。こういう態度はデフォーだけでなく、当時ふつうにみられたところであったが」(浜林正夫著『イギリス民主主義思想史』新日本出版社,p249)。
 ドイツの啓蒙思想家にはライプニッツやカントが含まれますが、大陸合理論のライプニッツには民主主義に関する言論がありません。観念論のカントは、立憲君主政の主張者だが、ロックのような市民の抵抗権・革命権は認めず、服従を解いた思想家でした。フランス革命に拒絶反応を示したことでもそれは表れています。
 イギリスはアダム=スミスだけあげて、プロイセンは啓蒙思想家を挙げない解答も変な者ですが、そういう解答例ばかり見てきたでしょう。
 またイギリスでは議会とか責任内閣制のことが書いてあるのに、プロイセンで議会がどうだったのか何も書いてないものも多い。また影響としてプロイセンでは農奴解放ができなかったのに、さも出来たかのように書いてある答案例も見たでしょう。「比較」の問題が出題されると、どうしようもない程ひどい答案を書いてしまうものです。「比較」文を書く方法論がないためです。

第4問
 難問だけの解説です。
A 
(2) 「オクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて」では分からなくても「ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩」=『アエネイス』の作者は誰か、という問題。ラテン語の発音としてはウェルギリウス、ヴェルギリウスも可。

(6) 「15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名」とは、カルマル同盟(1397)以来のデンマーク王国。16世紀(1523)にスウェーデンが独立するまでのこと。

B
(10) 「彼ら(カトリック教徒)は16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ」という問。「16世紀半ば」とはエリザベス1世(1558)の前がカトリックの女王でした。ブラッディ・メアリーという名をもらうことになった迫害を行った。映画『エリザベス』では新教徒に改宗した牧師たちを火刑にする場面からでした。

(12) 「18世紀初頭にイギリスで王朝交代……イギリスの新しい王朝」という問題。アン女王で断絶したステュアート朝の後はドイツからジョージ1世が来ました(1714、『ワンフレーズ』の覚え方ではでは「歯NO婆、どないしょ」)。この王朝名は?

(13) 「革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国」はマリー=アントアネットの出身国です。母はマリア=テレジア。

(15) 「1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ……この人物」ということは農奴解放令を発布した皇帝です。発布は20年前でした。

C
(20) 「フルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について」=「スターリン批判」の内外政策です。内は個人崇拝の否定、外は資本主義国と平和共存、あるいは暴力革命の否定です。

(21) 「1988年に総統に就任し民主化を推進した人物」。それまで長いこと総統は蒋介石、次に厳家淦(75〜77)、そして蒋の子(蒋経国、77〜87)が就いてきた。京大農学部で学んで共産党員にもなったが2年で離党した。戦後、米国に留学、帰国して大学教授となった。1971年に国民党に入党してから政界入りした。

(22) 「新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴」という課題なので、開発独裁といわれる政治的な要素は要らない。輸入代替型の工業化(輸入している工業製品の国産化)を進めていたが,その後輸出指向型の工業化(技術導入・研究開発を支援し、関税を引下げて外資系企業の誘致を促す政策をとり、輸出を促す)を推進したことを指し、1960年代から世界平均を上回る高度成長を遂げていきます。

(わたしの解答例)
第1問
9世紀ウイグル文字をもつウイグル人がキルギスに追放され西走すると、天山山脈西北にカラハン朝を建国した。かれらは更に西進し、中央アジアをトルキスタン化するとともに、マニ教・仏教の信仰からイスラーム教に改宗した。10世紀、サーマン朝を破り、トルコ人はマムルークとしてアッバース朝に雇われ軍事の中核となり、この頃アラビア文字を採用した。11世紀にセルジューク朝を建国、バグダードに入城してブワイフ朝を追放した。その結果トゥグリル=ベクはスルタン称号をもらいカリフを宗教的権威のみに落し政治権力を握った。ビザンツ帝国を脅かしたが、十字軍との戦いから分裂していった。マムルークたちはアイユーブ朝の軍事を担った。
第2問
空欄 a司馬炎 b拓跋 c東魏
(1)陰陽家
(2)太平道
(3)燕
(4)(ア)司馬遷 (イ)クシャーナ朝
(6)王莽(草冠+犬+草)
(6)(ア)羯 (イ)仏図澄
(7)宋
(8)(ア)上京竜泉府 (イ)猛安(・)謀克 (ウ)ヌルハチ
B
空欄 d趙匡胤 e東林 f国民党
(9)党錮の禁
(10)殿試
(11)財政再建、軍事力強化
(12)科挙廃止
(13)民権伸張、民生安定
(14)変法運動
(15)(幹線)鉄道
(16)二十一カ条要求
(17)西安
(18)(プロレタリア)文化大革命
第3問
英国で受容したのは産業資本家・革新的ジェントリーであり、市民政府論のロック、人権論のトマス=ペイン、自由放任のアダム=スミス、功利主義のベンサムの諸説を受け入れた。普国で受容したのは近代化を急ぐ国王と一部のユンカー層に限られ、大陸合理論のライプニッツ、観念論のカントの説を受容した。政治的影響は、英国では責任内閣制を実現して国王の権力を無力化し、議会政治の発展が見られ、選挙法改正運動が起きた。しかし普国では国王の権力強化・中央集権化に寄与した。官僚による統治は発展したが議会政治の発展はなかった。社会的影響は英国では奴隷解放運動に発展した。普国では宗教寛容令に表れたが農奴解放を実現しなかった。
第4問

空欄 aサラミス b北海 cリューベック
(1)カルタゴ
(2)ウェルギリウス
(3)後ウマイヤ朝
(4)両シチリア王国
(5)ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団・テンプル騎士団 (うち2つ)
(6)デンマーク(王国)

(7)シオニズム
(8)イサベル(イザベル)
(9)アムステルダム
(10)メアリ1世の旧教復活
(11)ホーエンツォレルン家
(12)ハノーヴァー朝
(13)オーストリア
(14)綿花(棉花)・サトウキビ・タバコ(うち2つ)
(15)アレクサンドル2世
(16)イタリア

(17)シューマン
(18)パリ
(19)アメリカがドルと金の交換を停止し,そのため固定相場制は変動相場制へと移行した。
(20)国内は個人崇拝否定によるスターリン批判、対外的には資本主義諸国との共存と平和革命の主張。
(21)ダマンスキー(珍宝)島
(22)李登輝
(23)それまでの先進国製品の国産化から、先進国の技術・資本を導入し、輸出へと転換した。

東大世界史2016

第1問
 第二次世界大戦後の世界秩序を特徴づけた冷戦は、一般に1989年のマルタ会談やベルリンの壁の崩壊で終結したとされ、それが現代史の分岐点とされることが少なくない。だが、米ソ、欧州以外の地域を見れば、冷戦の終結は必ずしも世界史全体の転換点とは言えないことに気づかされる。米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれつつあったのである。
 以上のことを踏まえて、1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化について論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。
  アジアニーズ(注) イラン=イスラーム共和国 グレナダ 光州事件 サダム=フセイン シナイ半島 鄧小平 フォークランド紛争
 (注)アジアの新興工業経済地域(NIES)

 

第2問
 国家の経済制度・政策に関する、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 西アジアでは、イスラームの成立以降、国家や社会のかたちに大きな影響を与える、独特の特徴をもつ経済制度が発展した。これらの制度に関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 10世紀にブワイフ朝が始めた土地・税制度は、同時代に発展した西ヨーロッパの封建制やビザンツ帝国のプロノイア制にも似た特徴をもち、その後のイスラーム諸王朝に受け継がれ、体系化された。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の特徴について2行以内で説明しなさい。

(b) 16世紀にオスマン帝国が導入した外国人商人に対する制度は、イスラーム法の理念にもとづき、交易の発展をはかることを目的としていた。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の内容、および後の時代に与えた影響について2行以内で説明しなさい。

問(2) 北インドでは、ティムールの末裔バーブルが、1526年、パーニーパットの戦いでロディ一朝に勝利をおさめた。彼がムガル帝国の基礎を築いたとするならば、第3代のアクバルは、中央集権的な機構を整え、ムガル帝国を実質的に建設した人物であった。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) アクバルの時代に整備されたマンサブダール制について2行以内で説明しなさい。

(b) 第6代アウラングゼーブの時代には、ムガル帝国の領土は最大となったが、支配の弱体化も進んだ。この支配の弱体化について2行以内で説明しなさい。

問(3) 17世紀のイングランド(イギリス)およびフランスで実施された経済政策について、それらを推進した人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて4行以内で説明しなさい。

 

第3問
 民衆の支持は、世界史上のあらゆる政治権力にとって、その正当性の重要な要素であった。また、民衆による政治・社会・宗教運動は、様々な地域・時代における歴史変化の決定的な要因ともなった。世界史における民衆に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 古代ギリシアの都市国家における民主政は、成年男性市民全員が直接国政に参加する政体であり、アテネにおいて典型的に現れた。紀元前508年、旧来の4部族制を廃止して新たに10部族制を定め、アテネ民主政の基礎を築いた政治家の名前を記しなさい。

問(2) 秦の圧政に対して蜂起し、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」ということばを唱えて農民反乱を主導した人物の名前を記しなさい。

問(3) 古代ローマの都市に住む民衆にとって最大の娯楽は、皇帝や有力政治家が催す見世物であった。紀元後80年に完成し、剣闘士競技などが行われた都市ローマ最大の競技施設の名称を記しなさい。

問(4) ドイツに始まった宗教改革は、領主に対する農民蜂起に結びつく場合もあった。農奴制の廃止を要求して1524年に始まったドイツ農民戦争を指導し、処刑された宗教改革者の名前を記しなさい。

問(5) インドでは15世紀以降、イスラーム教の影響を受け、神の前での平等を説く民衆宗教が勃興した。その中で、パンジャーブ地方に王国を建ててイギリス東インド会社と戦った教団が奉じた、ナーナクを祖とする宗教の名称を記しなさい。

問(6) 植民地化が進むインドで1857年に起こり、またたく間に北インドのほぼ全域に広がった大反乱は、旧支配層から民衆に至る幅広い社会階層が参加するものであった。この反乱のきっかけを作り、その主な担い手ともなったインド人傭兵の名称を記しなさい。

問(7) プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に敗れたフランス政府は1871年1月に降伏した。その後結ぼれた仮講和条約に反対し、同年3月、世界史上初めて労働者などの民衆が中心となって作った革命的自治政府の名称を記しなさい。

問(8) 孫文が死去した年に上海で起こった労働争議は、やがて労働者や学生を中心とする、不平等条約の撤廃などを求める反帝国主義運動へと発展した。この運動の名称を記しなさい。

問(9) インドシナにおいてベトナム青年革命同志会を結成して農民運動を指導し、フランス植民地支配に対する抵抗運動の中心となった人物の名前を記しなさい。

問(10) 1989年に中国では学生や市民による民主化要求運動が起こったが、それはソ連のゴルバチョフが中国を訪問していた時期とも重なっていた。そのゴルバチョフが国内改革のために掲げた、「立て直し」を意味するロシア語のスローガンの名称を記しなさい。

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コメント

第1問
 拙著『世界史論述練習帳new』を推薦してくれるのは、うれしいものの「元・駿台講師」と書いていて、わたしは今はそうではないらしいのですが、いつからそうなのか? 駿台・京都校に電話(075-842-1111)して確かめください。今も現役の講師です。
http://mao-24.com/todai-juken-takurou-books-world-history-essay

 今年の課題は「1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化」を書くのですが、その前に書いてある「以上のことを踏まえて」を条件として課されています。以上とは「米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれ」ということです。
 先にこの「1990年代以降につながる変化」を把握しておかないと、「1970年代後半から……の変化」が書けません。双方がつながっていることが必要です。この問題は、2005年第1問の「第二次世界大戦と戦後史の関連」を求めたのと似ています。過去問は「戦争中の出来事(火種)→戦後のありかた(火事)」という構成でしたが、2016年度の問題は後半は書かなくてよいものの、示唆する程度でも書いてもまちがいではないでしょう。90年代を踏まえて、70年代後半・80年代の15年間を書くという課題です。
 受験生にとって困難だったのは、この現代史の15年間を学んでいるかどうか、高校でそこまで授業をしていない高校も多かったのではないか(とくにラテンアメリカ現代史、指定語句「グレナダ」は使えるか、古用語集頻度2、新用語集では0)、という点です。またこの年代で想起できる事象を浮かべることができたか、という困難さも加わります。受験生が生まれる少し前の時代です。生きている現時点から30年〜50年前の歴史は歴史でなくニュースだ、事件だ、いやフランス革命以降はニュースだ歴史ではない、という意見もあります。過去問を解いてきた受験生の中には、これが東大の一番難しい問題だったと言っていた学生もいました。確かにわたしもそう思います。「中米・南米」を諦めて、他はがんばってみよう、でもいいでしょう。合格者の答案では「グレナダは使えなかった」書いても合格しています。難化したため、20・20・20の配点にしたようです。 第1問の出来具合が悪いと、このような配点になりやすい。

 まず90年代のことを三つの地域で想起してみましょう。

 東アジア
  中国。江沢民(1993〜2005)の「社会主義市場経済(事実上の資本主義導入)」、香港返還(1997)、マカオ返還(1999)……ここにあるのは、共産党の中国が党独裁を固守しながら社会主義を否定していく、「1989年的傾向」が見られます。19世紀以来の帝国主義の残滓(のこりかす)を示す二つの港湾都市が中国に返還され、脱植民地化の仕上げになっています。
  朝鮮の盧泰愚(ノテウ、1988〜93)は軍人でありながら、「韓国のゴルバチョフ」みたいに、文治主義政治への転換を準備します。南北朝鮮の国連同時加盟(1991)と中韓国交樹立(1992)を果たします。つづく金泳三(1993〜98)で文民政権の誕生となりました。ここにも「1989年的傾向」が見られます。
  台湾の李登輝(1988〜2000)も入れていいでしょう。経済発展と中国・台湾「二国論」の主張は、民族主義の主張でもあり、治安法の廃止・選挙の民主化・総統の独裁化防止策など、やはりこれも「1989年的傾向」が確認できます。

 中東。湾岸戦争(1991)におけるアラブの分裂、スンナ派とシーア派の対立激化、米軍のプレゼンスと対抗する勢力(タリバン、アルカイダ)の台頭、パレスチナ暫定自治協定(1993)……といった事象の全体的傾向はアラブの分裂・内紛・内戦です。東アジアの民主化・経済発展とはちがう様相です。それでもイスラーム世界の一枚岩と見られた地域がはげしく戦うのも、東欧の1898年の変革がユーゴ内戦を呼び込んだように、「1898年的傾向」ととっていいでしょう。

 中米・南米。エルサルバドル内戦(1980〜)は、政府とゲリラの間で停戦合意(1992)。北米自由貿易協定(NAFTA)発足、メキシコがそれに加わる(1994)。南米南部共同市場(メルコスール)発足(1995)。グアテマラで40年以上続いた内戦が終結。ラテンアメリカ共同市場形成を目ざしアンデス共同体発足(1996)……といった現象があります。独裁・共産党政権の崩壊から民主化、地域統合の動きがあります。これも「1898年的傾向」です。

 「1898年的傾向」とはそれまで機能していた社会主義圏、アラブ・イスラーム圏の分解がすすみ、その閉鎖性が破られて国際政治への個々の国が登場し、枠組みの新結成にむかう動きである、と総括できるでしょう。個々の国は、独裁政治から民主政治へ、社会主義から資本主義へという傾向を表しました。前者のタイプは完全には払拭されていませんが、後者への傾斜は止められない情勢です。これは統計的に著したスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』(青土社)の主張に沿った動きです。

 これらの「1990年代以降につながる変化」は以前の「1976年〜90年」にかけて、「世界各地で生まれつつあったのである」と以前の動き、準備的な、予兆的な出来事を記せ、という課題です。

 中国。周恩来・毛沢東の死去は同年(1976)におき、四人組逮捕によって文化大革命は終息します(1976)。毛の神格化運動は終わりました。胡耀邦総書記(1982〜87)の改革開放路線を積極的に推進する動き、鄧小平の四つの現代化(1979)政策、人民公社解体、職業選択の自由拡大、経済特区(1979)の設置があります。しかし第五の現代化=民主化を求めた第2次(六四)天安門事件(1989)がおき、鄧小平(1977〜97)は鎮圧してしまいました。民主化はしない、という点は今も維持されています。むしろ今の習政権は独裁化に向かっています。
 朝鮮。独裁者・朴正熙の暗殺(1979)、受けついだ全斗煥政権(1980〜88)に対する学生たちの光州事件(1980)、盧泰愚の民主化(1988〜93)は上に述べました。経済発展はアジアニーズの一員にしました。
 台湾。上にあげた李登輝の時代が「1990年代」と「1976年〜90年」と重なっています。

 中東。第四次中東戦争が終わり、その後にエジプト=イスラエル平和条約(1979)が結ばれシナイ半島の返還(1982)も果たされました。和解の動きです。イラン=イスラム革命(1979)とシーア派の勢力拡大はアラブ世界を分裂させ、ソ連のアフガニスタン軍事介入(1979)とタリバーン形成、米国が育てたサダムのイラン・イラク戦争の挑戦(1980〜1988)なども分裂を加速させ、原理主義・過激イスラーム主義が台頭する背景となりました。

 中米・南米。米パ間の新パナマ運河条約(1977)で運河返還を約束、アルゼンチンがしかけたフォークランド戦争(1982)の敗北による民政移行があり、ソモサ独裁政権をサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が打ち倒したニカラグア革命(1979)がおき、それを米国が介入(1988)してつぶし、グレナダ左翼政権成立(1979)と米国の介入(1983)、チリのアジェンデ政権(1970〜73)からピノチェト独裁政権が倒れて(1988)、民政移管(1990)が実現したことは、米国の妨害行為を別にすれば「1989年的傾向」です。

第2問
問(1) 
(a) 「ブワイフ朝が始めた土地・税制度は」はイクター制。「特徴」といってもイクター制とは何かを答えたらいい。軍人に土地所有権を与えず、徴税権を与え、それを俸給の一部とさせる制度です。用語集では「俸給額(アター)にみあう金額を徴収できる土地の管理と徴税権を与えた制度」。

(b) 名称は、カピチュレーション(カピテュレーション)で、内容は、外国人に領内の港で商売する権利。用語集では「領事裁判権、租税免除、身体財産などの安全を保障した一種の治外法権」。
 影響は、西欧が産業革命の商品を投入してきたため、経済的にトルコが従属することになった、という点をあげるといいでしょう。用語集では「オスマン帝国が衰退すると、西欧列強諸国に有利な不平等条約として解釈利用され、侵略への足がかりとされた」。

問(2)
(a) マンサブダール制は、地位・階級にみあった給与を与え、義務として騎兵・騎馬を準備しなくてはならなかった制度です。「ダール」は「持っている者」の意味。用語集では「官僚をマンサブ(位階)で序列をつけ、それぞれのマンサブに応じた騎兵や騎馬の準備を義務づけ、給与を与える制度」。

(b) 「第6代アウラングゼーブの……弱体化」ということなので、彼がイスラーム化を強制したため、離反する地方勢力が伸びて、勢力圏が減少したこと、後継者を巡る争いが頻発したこと、などを挙げます。用語集では「ラージプート族シク教徒マラータ族などの反抗をまねき、戦費の増大で財政は悪化し、帝国の衰退が始まった」。

問(3) 「17世紀の英仏の経済政策……人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて」でした。英国は中継貿易依存の蘭にたいしてクロムウェルが航海法を制定して中継貿易を阻止し、アンボイナ事件の賠償問題も重なり英蘭戦争に発展した、仏は蘭の日常品工業に対してコルベールの下で王立・国立・特権マニュファクチュアを作らせ、奢侈品生産で対抗しました。

第3問
 どれもセンター試験レベルの易問でした。
問(1) 「旧来の4部族制を廃止して新たに10部族制を定め、アテネ民主政の基礎を築いた政治家の名前」ですが、この年「前508年」に独裁者になる可能性のある人物を陶片に書いて投票し、一定数あればアテネ市から追放という陶片追放を決めた人物でもあります。

問(2) 前209年、北のモンゴル高原では冒頓単于が父を殺害して単于となった年でもあります。国内では陳勝蜂起が起きます。

問(3) 「剣闘士競技……競技施設」という観光クイズみたいな問題。

問(4) 「ドイツ農民戦争を指導」者の名。

問(5) 「イスラーム教の影響を受け、神の前での平等を説く民衆宗教が勃興……ナーナクを祖」とヒントが多い。

問(6) 「1857年に起こり……担い手ともなったインド人傭兵の名称」。

問(7) 「世界史上初めて労働者などの民衆が中心となって作った革命的自治政府の名称」。

問(8) 「上海で起こった労働争議……反帝国主義運動へと発展した。この運動の名称」。

問(9) 「ベトナム青年革命同志会を結成して農民運動を指導し、フランス植民地支配に対する抵抗運動の中心となった人物」。

問(10) 「1989年に……ゴルバチョフが国内改革のために掲げた、「立て直し」を意味するロシア語のスローガン」。
………………………………………
第1問(君の解答)
第2問
問(1)
(a)イクター制
軍人に対して、土地所有権を与えず、俸給にかわって分与地の徴税権を与え、それに応じた軍事奉仕を義務づけた制度。
(b)カピチュレーション
帝国内の外国人に居住の安全や通商の自由を保障したが、領事裁判権、租税免除など治外法権は19世紀に帝国を従属化した。
問(2)
(a)官僚の地位(マンサブ)を階級に分け、その階級にしたがった給与を与え、義務として維持すべき騎兵・騎馬数を定めた。
(b)ジズヤ復活やヒンドゥー寺院破壊などイスラーム化政策をとったため離反され、討伐の遠征費用がかさみ、後継者紛争も加わった。
問(3)
イギリスはクロムウェルが航海法で蘭の中継貿易に打撃を与え、アンボイナ事件の賠償も求めて英蘭戦争を戦い北米植民地を奪った。フランスはコルベールが王立・国立・特権マニュファクチュアをつくり、蘭の日常品に対抗した。オランダ侵略戦争も行った。
第3問
問(1)クレイステネス
問(2)陳勝
問(3)コロッセウム(コロッセオ)
問(4)(トマス=)ミュンツァー
問(5)シク教
問(6)シパーヒー(セポイ)
問(7)パリ=コミューン
問(8)五・三〇運動
問(9)ホー=チ=ミン
問(10)ペレストロイカ

一橋世界史2016

第1問
 聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られると説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない
 (上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)
 *civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

 

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)

 

第3問
 次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。

 アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。
 (中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)

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コメント

第1問
 課題は「聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察」でした。ということは、二人の思想家が考えた都市のあり方というより、「実態を対比」という、思想家の対象にした都市そのものの対比です。
 「対比」とは比較して相違点を示すことが求められています。二人の思想家は材料にすぎないということになります。たんに引用文のように「都市の経済性を高調……政治組織として考察」という議論と同じ内容をなぞるだけの解答は要らないことになります。たとえば次のような解答例はそうした例になるでしょう。

アリストテレスは古代ギリシアのポリスを前提とした。アテネに代表されるポリスは、市民が軍役を通じて貧富によらない政治的平等を達成し、民会による直接民主政を行ったことで、独立した政治的共同体の性格を強めた。経済面では商工業や貿易も活発だったが農業の比重が高く、市民は労働の多くを奴隷に委ね、経済活動を副次的なものとして政治参加に注力できた。一方聖トマスは中世封建社会の都市を前提とした。中世都市は商工業や交易の発達を背景に、経済の中心として発展した。やがて自治獲得が進むがそれも経済力によるものである。政治面ではツンフト闘争を通じた手工業者の政治参加拡大はあったが、ギルドを結成する大商人や親方が市参事会を独占して、経済的に豊かな者のみが政治に参加でき、自治においても経済の論理が中心となった。このような違いから、都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた。

▲ 初めの「アリストテレスは……一方聖トマスは……都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた」となぞった書き方は特に必要ではありません。課題は「実態」の対比です。
 奴隷制立脚の説明をしているのなら、中世都市の働き手、主体(担い手)は誰なのかがハッキリしません。中世都市に奴隷がいるのかいないのか? 対比になっているのは平等な参政権と大商人・親方の市政独占のところだけです。「商工業や貿易も活発……商工業や交易の発達」と共通点をあげていますが、これは要らない文章です。また古代都市は「市民が軍役を通じ」とあるのであれば、中世都市の軍事はどうなっているのか?
 中世都市の前提(背景?)が「中世封建社会の都市を前提とした」とすれば、じゃ古代都市の前提(背景)は何なんでしょうか?

 奴隷制の有無、軍事的な面の内と外の依存、周囲の農村(農民)との関係、都市同盟のあり方、都市内身分制度、と対比すべきテーマがあります。

第2問
 課題は「2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい」でした。
 これもまた比較の問題です。次の「模範」解答のミスが分かりますか?

王権神授説を信奉しフランス絶対王政の最盛期を現出したルイ14世は、ユグノーに信仰の自由を認めたナントの王令を廃止し、カトリックによる信仰の統一を実現しようとした。その結果、ユグノーの商工業者が多く新教国に亡命したが、ブランデンブルク=プロイセンは、彼らを積極的に受け入れて経済成長を遂げ、スペイン継承戦争でオーストリアを支援し王号を認められた。これらがフランス大聖堂建設の背景である。その後プロイセンは、フリードリヒ2世の時代にオーストリア継承戦争でオーストリアからシュレジエンを獲得し、七年戦争でその領有を確定した。また第1回ポーランド分割を主導して領域を拡大した。これによりカトリック教徒のポーランド人を支配下に含むことになった。フリードリヒ2世は、同時に啓蒙専制君主として信教の自由を認める改革を行ったため、ポーランド人のカトリック信仰が容認された。これらが聖ヘートヴィヒ聖堂建設の背景となった。

▲ 両聖堂は導入文に「1701年に始まり」「1747年に始まり」とあり、「建設された理由」を問うているのだから、この年代以後のことは理由にならないはず。フリードリヒ2世の戦争と獲得地を書いたのはミスです。シュレジエンを獲得したのはアーヘンの和約(1748)であり、七年戦争(1756)は寺院建設以後のことです。
 また「模範」答案に「王号を認められた……領域を拡大」とありますがなぜ王号・領土拡大が建設理由・背景になるのでしょうか?
 「比較しながら」の解答文はどこにありますか? 何と何を比較しているのか? 分かりません。なぜドイツ(プロレイセン)に新旧の宗教的亡命者が東西から集まることになったのか? 西のフランスという国と東のポーランドという当時の国のあり方は大きく違っています。1701年までに受け入れたユグノー、1747年までに受け入れたカトリック教徒、このちがう二つの民族・宗教を受容したドイツ側の理由が違っています。
 なお啓蒙専制君主フリードリヒ2世は戦争を始める前、即位と同時に発布(1740)したのが宗教寛容令でした。この寛容令で、初めてドイツで個人の信仰の自由が認められました。導入文の「聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想」とはこれです。

第3問
 課題は「1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を」でした。二つの課題のうち、初めの1945年以降の情勢とは、南北に韓国と朝鮮ができる過程を書けばよく、次に朝鮮戦争と中国・台湾への影響を書くという容易な問題でした。朝鮮戦争は1950〜53年の期間で接する中国と近くの台湾に影響を与えました。
 中国は人民義勇軍を派遣して約13万人が戦死しています。また建国(1949年10月1日)間もない中国にとっては大きな負担となり、社会主義構想は先輩のソ連の援助に頼るかたちをとりました。第一次五ヵ年計画(1953〜57)に依存します。
 台湾について。蔣介石が共産党との戦いに負けて、この台湾に逃避しており、米軍の基地の一つとなりました。ただし戦争中に戦場になった訳ではなく、あくまで米海軍第七艦隊の後方支援で、陸海空の臨検をおこない包囲網を築いていました。それが戦後の1954年に米華相互防衛条約が結ばれる土台となりました。さらにアメリカの支援により、台湾は「中国」の国連代表権と安保理の常任理事国の地位を維持することになりました。

一橋世界史2016

第1問
 聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。「生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られる」と説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない
 (上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)
 *civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

 

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)

 

第3問
 次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。

 アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。
 (中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)
………………………………………
コメント
第1問
 課題は「聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察」でした。ということは、二人の思想家が考えた都市のあり方というより、「実態を対比」という、思想家の対象にした都市そのものの対比です。
 「対比」とは比較して相違点を示すことが求められています。二人の思想家は材料にすぎないということになります。たんに引用文のように「都市の経済性を高調……政治組織として考察」という議論と同じ内容をなぞるだけの解答は要らないことになります。たとえば次のような解答例はそうした例になるでしょう。

アリストテレスは古代ギリシアのポリスを前提とした。アテネに代表されるポリスは、市民が軍役を通じて貧富によらない政治的平等を達成し、民会による直接民主政を行ったことで、独立した政治的共同体の性格を強めた。経済面では商工業や貿易も活発だったが農業の比重が高く、市民は労働の多くを奴隷に委ね、経済活動を副次的なものとして政治参加に注力できた。一方聖トマスは中世封建社会の都市を前提とした。中世都市は商工業や交易の発達を背景に、経済の中心として発展した。やがて自治獲得が進むがそれも経済力によるものである。政治面ではツンフト闘争を通じた手工業者の政治参加拡大はあったが、ギルドを結成する大商人や親方が市参事会を独占して、経済的に豊かな者のみが政治に参加でき、自治においても経済の論理が中心となった。このような違いから、都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた。

▲ 初めの「アリストテレスは……一方聖トマスは……都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた」となぞった書き方は特に必要ではありません。課題は「実態」の対比です。
 奴隷制立脚の説明をしているのなら、中世都市の働き手、主体(担い手)は誰なのかがハッキリしません。中世都市に奴隷がいるのかいないのか? 対比になっているのは平等な参政権と大商人・親方の市政独占のところだけです。「商工業や貿易も活発……商工業や交易の発達」と共通点をあげていますが、これは要らない文章です。また古代都市は「市民が軍役を通じ」とあるのであれば、中世都市の軍事はどうなっているのか?
 中世都市の前提(背景?)が「中世封建社会の都市を前提とした」とすれば、じゃ古代都市の前提(背景)は何なんでしょうか?

 奴隷制の有無、軍事的な面の内と外の依存、周囲の農村(農民)との関係、都市同盟のあり方、都市内身分制度、と対比すべきテーマがあります。

第2問
 課題は「2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい」でした。
 これもまた比較の問題です。次の「模範」解答のミスが分かりますか?

王権神授説を信奉しフランス絶対王政の最盛期を現出したルイ14世は、ユグノーに信仰の自由を認めたナントの王令を廃止し、カトリックによる信仰の統一を実現しようとした。その結果、ユグノーの商工業者が多く新教国に亡命したが、ブランデンブルク=プロイセンは、彼らを積極的に受け入れて経済成長を遂げ、スペイン継承戦争でオーストリアを支援し王号を認められた。これらがフランス大聖堂建設の背景である。その後プロイセンは、フリードリヒ2世の時代にオーストリア継承戦争でオーストリアからシュレジエンを獲得し、七年戦争でその領有を確定した。また第1回ポーランド分割を主導して領域を拡大した。これによりカトリック教徒のポーランド人を支配下に含むことになった。フリードリヒ2世は、同時に啓蒙専制君主として信教の自由を認める改革を行ったため、ポーランド人のカトリック信仰が容認された。これらが聖ヘートヴィヒ聖堂建設の背景となった。

▲ 両聖堂は導入文に「1701年に始まり」「1747年に始まり」とあり、「建設された理由」を問うているのだから、この年代以後のことは理由にならないはず。フリードリヒ2世の戦争と獲得地を書いたのはミスです。シュレジエンを獲得したのはアーヘンの和約(1748)であり、七年戦争(1756)は寺院建設以後のことです。
 また「模範」答案に「王号を認められた……領域を拡大」とありますがなぜ王号・領土拡大が建設理由・背景になるのでしょうか?
 「比較しながら」の解答文はどこにありますか? 何と何を比較しているのか? 分かりません。なぜドイツ(プロレイセン)に新旧の宗教的亡命者が東西から集まることになったのか? 西のフランスという国と東のポーランドという当時の国のあり方は大きく違っています。1701年までに受け入れたユグノー、1747年までに受け入れたカトリック教徒、このちがう二つの民族・宗教を受容したドイツ側の理由が違っています。
 なお啓蒙専制君主フリードリヒ2世は戦争を始める前、即位と同時に発布(1740)したのが宗教寛容令でした。この寛容令で、初めてドイツで個人の信仰の自由が認められました。導入文の「聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想」とはこれです。

第3問
 課題は「1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を」でした。二つの課題のうち、初めの1945年以降の情勢とは、南北に韓国と朝鮮ができる過程を書けばよく、次に朝鮮戦争と中国・台湾への影響を書くという容易な問題でした。朝鮮戦争は1950〜53年の期間で接する中国と近くの台湾に影響を与えました。
 中国は人民義勇軍を派遣して約13万人が戦死しています。また建国(1949年10月1日)間もない中国にとっては大きな負担となり、社会主義構想は先輩のソ連の援助に頼るかたちをとりました。第一次五ヵ年計画(1953〜57)に依存します。
 台湾について。蔣介石が共産党との戦いに負けて、この台湾に逃避しており、米軍の基地の一つとなりました。ただし戦争中に戦場になった訳ではなく、あくまで米海軍第七艦隊の後方支援で、陸海空の臨検をおこない包囲網を築いていました。それが戦後の1954年に米華相互防衛条約が結ばれる土台となりました。さらにアメリカの支援により、台湾は「中国」の国連代表権と安保理の常任理事国の地位を維持することになりました。