世界史教室

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京都大学の過去問一覧

京都大学の過去問一覧 論述の字数は(  )

1989 1 モンゴル帝国時代における東西文化の交流について(300) 2 A 中国石窟 B 明清初の貿易 3 (a)前5世紀アテネの政治経済状況(100) (b)ローマ元首政の特徴(80) (c)西欧と異なるビザンチン文化の特色(120) 4 英仏独の議会史 5 メキシコ史 

1990 1 唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に(300) 2 A 12〜15世紀の北方民族 B 17〜19世紀中ロ関係史  3 (a)反宗教改革 (b)米の南北対立と西部開拓(150) (c)日露戦争の各国への影響 4 アテネ 前6〜前3世紀 5 スラヴ諸族(15世紀まで) 

1991 1 鉄器の出現がもたらした経済的・社会的変化(300) 2 A 明経済史 B トルコ民族移動史 3 (a)中世ドイツの国家発展(150) (b)米西戦争と米国の対外進出 4 A ギリシア文字からラテン文字へ B 15-18世紀のスペイン史 C 18世紀末から戦後までのポーランド史 

1992 1 戊戌の変法はどのような位置を占めているのか(300) 2 A 魏晉南北朝 B 唐文化 3 (a)ギリシア文化の東西への受容の仕方・影響の相違点(180) (b)ビザンツ帝国とロシアのかかわりと影響(150)、4 A 英中世史 B 19世紀英帝国主義 C 伊20世紀史

1993 1 10〜11世紀は,西アジアにおけるイスラム世界の転換期(300) 2  2 秦〜唐反乱史 明中期以降の新傾向文化  3 (a)モンロー宣言の背景と結果(150)  (b)九ヶ国条約の内容と中日への影響(200) 4 A エーゲ文明から13世紀までの地中海史 B 15〜17世紀オランダ、

1994 1 4世紀から5世紀中葉の大分裂時代(300) 2 A 孫文1905〜24年 B アラム文字から満州文字へ 3 (a)ギリシアの衰退(150) (b)啓蒙専制君主の名・背景・政治の特徴(200) 4 A ローマ末期から中世キリスト教史 B 仏第三共和政史 

1995 1 明のモンゴル政策(300) 2 A 諸子百家 B シーア派の歴史 3 (a)中世ヨーロッパ商業圏(200) (b)イギリス連邦(200) 4 A 前3世紀〜後3世紀のローマ史  B イベリア半島の海外進出 

1996 1 東西文化の交流(300) 2 A 宋史 B 清末対外戦争史 3 (a)キリスト教発展史(200) B 英仏の重商主義(200) 4 A ルネサンスの流れ B 第二次産業革命と帝国主義 

1997 1 五・四運動期の文化運動(300) 2 A 仏教流入史 B イスラム流入史 3 (a)都市比較:シュメール・ポリス・中世都市(300) (b)仏第四共和政第五共和政独立運動への姿勢のちがい 4 A スラヴ民族史(19世紀まで) B 1700年前後の西欧国際関係 

1998 1 中国の官吏登用制度(300) 2 A 明末清初の経済 B 西欧におけるイスラム文化 3 独伊ファシズム成立理由(300) 4 A ヘレニズム時代、6世紀のビザンツ帝国、十字軍(第4回十字軍の説明(100)) B 近世国際政治(ウェストファリア条約の説明(120))

1999 1 トルコの近代化(300) 2 A 武帝の対外政策、五代史も含む中国王朝交代史 B 遼・金・元朝を含む北京史 3 アルザス・ロレーヌにおける独仏対立(300) 4 A 前5世紀のアテネの民主政治(50)、スパルタの政治 体制(50)、ノルマンの移動 B オランダ独立と海外進出(13州の独立過程(60)、スペインの太平洋貿易(30))  

2000 1 2世紀末以降100年の中国(300) 2 A チャガタイ=ハン国史 B 清朝全盛期とその影響 3 ローマ的地中海世界の形成(300) 4 A バルカン半島史 B プロイセン史 C インド独立過程

2001 1 イスラム文化:過程・特徴・担い手・伝播(影響)(300) 2 A 洛陽史 B 海の道 3 近代奴隷制の特徴(300) 4 A キケロ時代のローマ B 近世から近代のイタリアへの侵入 C 近現代ラテン=アメリカ 

2002 1 7世紀から9世紀のモンゴル高原チベット雲南地方の諸国や諸民族の唐文化と政治的関わり、興亡について(300) 2 A 江南発展と大運河 B 9〜19世紀エジプト史  3 17世紀のイギリス・オランダ関係(300) 4 A 中世キリスト教会史 B 絶対王政の宮廷文化 C 19世紀後半〜20世紀前半のロシア・ソ連 

2003 1 宋明清の皇帝権強化制度(300) 2 A 辛亥革命とその後 B 古代オリエント史 3 第一次世界大戦中と戦後の英国のインド・エジプト政策(300) 4 A 古代・中世の都市キリスト教史 B 宗教改革・戦争 C 近代の政治と経済の革命

2004 1 セルジュク朝・モンゴル帝国オスマン朝の対イスラーム政策(300) 2 A 碑文による中国諸史 B 明清の朝貢関係 3 中世世界の形成につながる4世紀ローマ帝国(300) 4 A シベリア史 B 北米の植民地化と独立 C カミュとフランス現代史 

2005 1 1911〜37年の日中関係(300) 2 A 秦〜明の西安市 B 17世紀までのインド概略史 3 近代英仏関係史(300) 4 A ヨーロッパ統合起源 B 19世紀後半の西欧文化史 C 戦後ヨーロッパの復興

2006 1 1910〜50年代の西アジアの分割・独立・離脱(300) 2 A 10〜13世紀征服王朝 B 清〜中華民国の軍制 3 4〜8世紀の地中海地域の政治的変化(300) 4 A 中世〜20世紀の英国農村の変化 B 欧米の産業革命 C 20世紀ソ連

2007  1 中国の北に対する外交政策(300字) 2 A トルコ系民族史(6〜17世紀)、Bインド・中国・東南アジアの植民地化 3 1960年代の二極構造の変化(300) 4 A 軍事指導者たる西欧君主(古代〜現代)、B 太平洋探検と先住民、C 合衆国の独立と発展

2008 1 唐宋支配層の土地制度と学術を対比(300) 2 A 蒙古高原と中国(前3〜10世紀)、B ルブルクの旅行 3 ギリシア独自の民主政治(300) 4 A 宗教的寛容(17-19世紀)、B 西アフリカと西欧、C 20世紀後半世界経済の一体化

2009 1 19世紀末から1947年までの回印関係(300)  2 A 紀元前から17世紀までの中国地図史 B 7-14世紀朝鮮史 3 大航海による新旧大陸の変化(300) 4 A ギリシアとローマの比較 B 中世の周辺民族との戦い C 17-20世紀独露関係

2010 1 中国共産党史(300) 2 古代中世西アジア史・ロシア帝国清朝の拡大 3 古代中世の軍事制度(300) 4 東方正教会史・近現代の人口圧・東南アジアの植民地化と独立○2011 1 4-12世紀の江南開発(300) 2 古代インド・10-11世紀東アジア 3 1921年から1930年までの合衆国の関与(300) 4 古代中世のライン川ルイ14世の治世・バルカン半島近現代史

2011 1 4-12世紀の江南開発(300) 2 A 古代インド史 B 北宋の政治と国際交流 C 日清戦争から袁世凱新文化運動 3 1921〜1930年の米国による国際秩序形成(300) 4 A ライン川の古代中世史 B ルイ14世の治世 C バルカン半島の近世近代史

2012 1 仏教・道教の発展・政治・社会・文化への影響(300) 2 A イスラーム文明の発展 、B 19世紀後半から20世紀の米中関係 3 18世紀後半-19世紀前半期、米・西領の変化の特徴(300) 4 奴隷や農民の反乱・西欧史の包摂と排除・電力史

2013 1 ウンマ成立の経緯、主要な政治的事件とその結果(300) 2 A 古代における「中国」 B アルメニア史 3 19世紀仏露関係史(300) 4 A ギリシア・ローマの史書 B ジブラルタル海峡史 C 第三世界

2014 1 科挙の政治的社会的文化的側面(300) 2 A 洛陽史 B イランの民族史 3 冷戦展開とドイツ史(300) 4 A 11世紀以降のイベリア半島 B 議会参加の歴史 C 欧米の民族差別的侵出

2015 1 4回の戦争・講和による経済権益と外交の改変(300) 2 A 古代インド史 B スンナ派シーア派 3 前3〜前1世紀ローマ軍・政体の変化(300) 4 A 西欧中世の団体 B 近世キリスト教改革 C 19・20世紀のパン主義

2016 1 9-12世紀のトルコ系の人々のイスラーム化過程(300) 2 A 粛慎の朝貢 B 中国史の「党」 3 英国・普国啓蒙思想(300) 4 A 西欧古代中世都の船 B 西欧近世・近代のディァスポラ C 冷戦から多極化へ

2017 1 前3世紀から後4世紀初頭の匈奴と中国(300) 2 A 梁啓超の新史学 B エジプトの宗教史 3 ソ連、東欧諸国、中国、ベトナムの変革比較(300) 4 A 西欧古代中世の移動 B 近世から現代までのバルト海の覇権

2018 1 トルコの国家統合(300) 2 A 秦〜宋の統一 B 20世紀の中国直轄市 3 十字軍の影響(300) 4 A 西欧古代中世の地理学 B 長い19世紀

2019 1 4〜17世紀前半の東北の歴史(300) 2 A 古代オリエントの文字 B 清朝の帝国支配 3 16〜18世紀インド侵略(300) 4 A 西欧中世の相続 B 移動手段の発達と強いられた移動

2020 1 ソグド人の活動と中国の文化への影響(300) 2 A ムスリムと非ムスリム B 中国近現代の海洋政策 3 核兵器開発(300) 4 A 西欧古代〜近世の正戦論 B 情報伝達手段の発展

●2021 1 宣教師が訪中した背景・活動・影響(300) 2 A シリア地方興亡史 B 西アジアの古代・中世文化 3 1815年からのドイツ統一(300) 4 A 古代ギリシアローマ市民権 B 西欧の動物(馬・牛・象)・革
●2022 1 15〜16世紀マラッカ王国史(300) 2 A 古代オリエントの文字 B 16世紀〜現代の中国の人口史 3 アテネローマ市民の市政(300) 4 A 12〜19世紀の大学史 B 石炭・石油の西欧近現代史
●2023 1 5〜12世紀モンゴリア史(300) 2 A 17〜20世紀マレー世界 B 19〜20世紀の米中関係 3 7〜15世紀イベリア半島レコンキスタ史(300) 4 A キプロス島史 B 東西冷戦の変化

『世界史論述練習帳new』訂正

巻末付録「基本60字」の10p、1番
「春秋戦国期の農業の技術的変化について述べよ。(指定語句→鉄製農具 牛耕)」という問題にたいして次のような解答を出しています。

石器・木器から鉄製農具へ、黄土台地の農耕から牛耕・灌漑による沖積平野の畑作へ、氏族共同体の経営から家族単位の経営へ変化。

 このうち「氏族共同体の経営から家族単位の経営へ」は技術的変化とは言いがたく、社会的な変化です。受験生の指摘により、次のようにこの解答を訂正します。指摘者に感謝します。

石器・木器から鉄製農具へ、黄土台地の農耕から牛耕・灌漑による沖積平野の畑作へ、用水路・堤防建設により荒地を耕地に変えた。

 

p.37

 わたしの解答例に「チャールズ2世の旧教復活」という誤句があります。まちがいです。「ジェイムズ(ジェームズ)2世」が正しい。

論述Q&A

●論述Q&A

Q1 論述の勉強のしかたはどうすればいいですか?

1A 今が4〜8月のころであれば、なにも論述の勉強の第一歩は論述問題そのものを解くことでなくセンター試験や一般的な私大の問題を集めた問題集を解くことをすすめます。論述問題を解いたら論述問題が解けるようにはなりません。それより書けるだけのデータが充足していないと文章はできないのです。センター試験で8割とれないようなら、書く資格はないといっていいです。ある程度の蓄積ができてから、10月ころから過去問を一週間にひとつ解くペースでいき、センター試験が終わってから集中的に論述問題を解くという、ゆっくり集中度をあげていくのが「書ける」ようになる道筋です。


Q2 通信添削は役にたちますか?

2A 役にたちます。しかし、ひとつの目的においてです。世界史の知識を吸収する、という点で役にたちます。提出する前にカンニングして調べていくと、その調べるという過程で知らなかったこと、十分あたまに入っていなかったことが把握できるようになる、という点です。これは狩猟採集の段階です。なにも見ないで文章をつくりあげる、また問題要求にあったものにしあげる農耕段階にはたっしません。こういう段階まで進歩しないのは学生に責任があるというより、添削の主宰者が論述の解き方・文章構成のしかたを知らないためです。提出する側でなく添削する側の指導力のなさも進歩しない理由です。


Q3 『(旧版)青木世界史B講義の実況中継』(5ページ)に「論述対策は要らない」と書いてありますがホントですか?

3A ウソです。知識があれば解けるはず、という推理の無知な発言です。知識がなくては解けないのは当り前ですし、単純な論述問題であれば、とくに修練しなくても解けるものもあります。しかし国立文系の二次で論述をだす大学の問題を解かなくてはならない学生にはあてはまりません。どんなに知識があっても点の取れない答案しかつくれない学生はたくさんいます。知識をどう構成するかが問われるからです。構成のしかた(方法)を知らないと、どれだけ文字を羅列しても意味をなしません。東大の歴史学の教授のことばを紹介しましょう「記憶しているデータが同量でも論述のしかたによって大いに点差がひらくことがある」と。これはゼミの学生に採点に関して告白している時のことばです。


Q4 大学がどんな風に採点しているか知らないかぎり、模試や添削をやっても無意味なのではありませんか?

4A まったく知らなかったら確かにそう言えますが、同僚(予備校)のなかには採点にたずさわったものも居ますし、大学を退職したかたが予備校の職についています。また大学に知り合いがありますので、デタラメなことはしていません。採点基準の作成・変更については少しですが知っています。


Q5 模範答案を暗記するのは得策ですか?

5A 最悪の方法です。第一にまったく同じという問題が出題されない。第二に受験産業のだしている模範答案が「模範」であるかどうかが疑わしい。そういことが合格体験記に書いてあったりすると役にたつと思ってしまうのでしょうが、その体験記をよく読めば、それがどのように役にたったかは実は書いてありません。そういう無駄な勉強のしかたをしたとは言えるでしょう。「藁(わら)をもつかむ」という心境では鎮静剤がわりにはなります。しかし暗記の時間が無駄です。それよりは教科書本文の要約練習(600〜1000字くらいの章・節を100字に縮約する)をするほうが、社会科学的な文章の独特の言いまわしや簡略表現を習得できます。


Q6 論述の方法はどのように学ぶのですか?

6A 問題を分解・分析することが必要です。主問・副問・副次的要求の振り分けです。その分析にしたがって答案を書いてみることです。例え優れた「模範」答案が目の前にあっても重要ではありません。1ヶ月もかけてプロが書き推敲の結果だされた出版された答案を、受験場で数十分で書かなくてはならない学生にとっては、どんなに優れたものであれ、いや優れたものであればあるほど「模範」であるはずがありません(しかし予備校の出す速報は確かめてみると本になってもほとんど同じ解答文ですから、速報だけで優劣が判断できます)。第二は予備校の講習に参加して実際に問題の分析と、解く手順を講義してくれるなら方法を学ぶことができます(拙著『世界史論述練習帳new』パレード、でも学べます)。もちろん方法を言っていてもその講師が方法に則って課題に正確に解答文を作成できるかは、受講生であるご自分で判断しなくてはいけません。第三に方法論を知っている先生・講師に添削してもらうことです。


Q7 論述は書く練習をたくさんすれば書けるようになりますか?

7A いいえ。まさにこの期待があるからこそ「書く練習」のために添削が営業としてなりたっているのでしょう。しかし書く練習をしても上達して合格可能な能力にたっするかどうかは判りません。スポーツの練習なら、走りこむことで基本的な体力をつけることはできますが、論述はスポーツではありません。あたまの働きですから、「書く」という行為がスポーツのように次第に効果をあげることはありません。知識と方法(考え方)を習得することが必要であり、たんなる書く練習は指の力を強くするだけです。もっとも書いてみないと自分の実力のなさはわかりませんから過去問にあたってみて、書く練習でどうにもならないことを確認してもらうとよいでしょう。


Q8 どの程度の知識量で論述は書けるようになりますか?

8A 第一に、基本的には教科書の内容でいいです。政治と経済(受験生にとっては経済史がわかりにくいので特に勉強しなくてはいけないですが)が主で、作品カタログのような教科書の文化史はあまり出題されません。知識量の目安としてはセンター試験で80点以上がとれるくらいが望ましい。第二に、この教科書の知識にプラスすべきもので、経済史を含めたよく論述で問われるテーマというものがあり、それを学習して書けるようにしておく必要があります。これは拙著『世界史論述練習帳new』巻末の「基本60字」で学べます。第三に、基本的な年号(教科書本文にでてくる年号)をおぼえてください。論述に年号? といぶかるかも知れませんが、何世紀から何世紀までの……と長い時間わくで問われますから、自分がこれから書こうとしていることが、課題のなかに入るできごとなのかどうか自信がなかったら書けませんよ。論述に年号暗記は欠かせません。
 年代についてもう一言。拙著のコラム(p.27〜28)にも書いています。論述問題は細かい年代を問わないものの、○○世紀から○○世紀までのテーマについて書け、という問い方が圧倒的に多いため、課題の世紀に合ったデータを入れていかないと解答にならないからです。また世紀からはずれたデータは減点対象になります。受験場で自信をもって入れることができるには、年代を覚えておくと確実です。細かい年代をおぼえる必要はありません。推薦している中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)のセンター試験向きのものをおぼえるといいです。この語呂本の半分くらいです。ぱっ、と課題に合ったデータををそろえることができるようになり構想メモも早くつくれます。


Q9 私大の穴埋め問題ならできるけど、文字を書くとなったら手も足も出ない、どうしたらいいでしょう?

9A 短い文章を書くことです。たとえ長文の論述問題でも短文の積みかさねですから。これは拙著『世界史論述練習帳 new』巻末の「基本60字」に短文で書く問題ばかりを集めています。知識不足と方法(問題の分解・構想のたてかた)が判っていないことも、こういう質問をする原因ですが、とりあえずは短文で練習をし知識をえてください。


Q10 志望大学の過去問を解くのに3〜4時間かかります。もっと早く書く方法はありませんか?

10A あります。問題の分解と構想のつくりかたを練習していくと、早く書ける、つまり何度も書き直しをしなくてもよくなります。受験場でも書き直しの余裕がないですから、この方法を身につけることが必須です。志望大学の時間にあわせてタイムをはかりながら書く練習も直前にはしたほうがいいです。しかし、センター試験の前の段階であれば、時間をかけて自分としてはこれでベストだと思う答案を時間をかけてつくったほうがいいです。この時間をかけた練習で要約のしかた、全体構成を考える力がつきます。それを次第にスピード化していけばいいです。じゃ、「問題の分解と構想のつくりかたを練習」というのはどうするのか、という声が聞こえてきますが、これはQ6のAで答えています。


Q11 自分の書いた答案が正しいのか、合格できる答案なのかどうか評価できない、どうしたらいいか?

11A 自分の答案を評価できるなら合格も近いことになります。つまり基本的には受験生には不可能なのです。しかし、合格可能かどうかの評価ができないかというと、まったく無理というわけではありません。それはひとえに問題文の要求することがらを正確につかむ→それにしたがった構想をつくる、ということができるならです。すぐは上達しませんが、いくつかの読みとりにくい問題の分解をやってみることと、8種類の構想の方法をまなべば、ほぼ評価が自分で可能です(この構想の方法は、予備校の講習でしか私は公開していません。『世界史論述練習帳 new』に開示しています)。しかしそれをまなぶチャンスや教師が周辺にいなければ、とりあえずは、友人や身近な教師に答案を見てもらい、なんでもかんでも思いつくまま言ってもらうことでしょう。前もって「殴らない」という契約書を提出しておくことががその際のエチケットです。そういう友人・教師がいないならば、書いた答案を1週間見ないで寝かせておき、1週間後まず問題を読み直して要求をつかみなおし、それにしたがって書いたかどうか自分で検討するといいでしょう。


Q12 教科書だけの知識で論述は解けますか?

12A Q8の答えに答えがあります。教科書以外の知識で必要なのは、たとえば産業革命の先進国別のちがいや、2種類の三民主義のように論述でしか出題されないものがあります。また大学によっては経済史が詳しい(金沢大学経済学部・一橋大学・東京大学)とか、中世史が詳しい(一橋大学)とか、高校生にはまったく解けそうもない詳細な説明をもとめるもの(一橋大学、一橋大学にも教科書内のよい問題もたくさんありますが難解きわまるものが時にあります)もあり、教科書だけでOKでないことが現実です。大阪大学のように教科書の知識だけに限定して出題することを決めている大学が増えればいいのですが。大阪大学もかつては学生のレベルを無視した「高等な」問題を出していたのですが、全体として低すぎる学生の答えに対して合否を決定することの困難さから教科書に限定する決心をしました。それが結果的に勉強してきた学生とそうでない学生のカーブがきれいにできて合否判定がしやすくなったと出題者が述懐していました。東京大学・京都大学の問題も、ほぼ教科書内にあります。


Q13 論述は歴史の流れがわかっていたら解けますか?

13A いいえ。歴史の流れという年表的に事件を順に書きつづっていくだけの問題は少ないです。京大のばあい1998年度からの10年間を見ても、91年度・3(b)(150字)と95年度・1(300字)、96年度・3(a)(200字)、98年度・1(300字)、99年度・1(300字)、3(300字)と28問中6問です。東大のばあい第1問だけをとると、93年度、95年度、96年度、99年度と最近になって多くなってきましたが、どの問題も中身は教科書とはちがう視点(広角度のレンズ=視点)で書かせており、いわゆる王朝史的な勉強では歯が立たないものです。むしろ政治・経済・文化の分野別で書かせたり、さらに比較・原因→結果・理由・意義・関係という論理的な思考を要求しており、単純に、ああなってこうなって……という歴史物語をつづる答えは少ししか求めていません。


Q14 論述に良い参考書はどんなものがありますか?

14A 難病に効く良い薬はありませんか、ときいているみたいですね。残念ながら良いものはありません。
 たいていの参考書は、(1)テーマが実際にでている問題からすれば少なく、(2)解答している模範答案が、問題の要求を正確につかんでいないため、(3)結果として「模範」でなくまちがった答えがそうとう掲載してある(これは河合塾・駿台)、(4)時代順に問題がならべてあるため(これはどの参考書もあてはまる欠点)、時代が長く、地域も広い問題を避けているため、点差のひらく難問が掲載されていない、(5)あつかわれている問題の内容がほとんど流れ(展開・推移・過程)の問題か、何かについて説明せよ、という単純なものばかりであるため、比較・意義など思考力を要求する問題に対処できない、などの欠点があります。
 山川出版社でだしている論述問題集は、ほとんど「字数」で段階的に問題をのせて説明しているが、論述は長短で難易がきまるわけではないです。問題の思考要求の型に分けてあるものの、その思考の導きだしかたや、どう具体化するかの方法論に言及していません。
 Z会の問題集は時代別にただならべただけのもので、時間と空間の大きい問題、最近のどう解いていいか判りにくいテーマはあつかっておらず、解答にまちがいと思われるものが多い。 
 もちろんこれらの問題集・参考書は一種の過去問集ですから、どんな問題がでているか一部としてはのぞけるし、すべてがダメな答案というわけではないから、まったく役にたたないわけではないです。しかし(1)どんな問題がでるのか網羅したもの、(2)問題要求のつかみかた、(3)構想のつくりかた、(4)文章化のテクニック──という学生にとって困難な面をカヴァーしてくれる参考書・問題集は皆無といっていいでしょう。解答用紙の使い方を実例をあげて示したものさえありません。こういうと自分のを宣伝をしていると取られます。それは構いませんが、本当にそうなのです。ま、あたって砕けてもいい、という覚悟でどんな問題集でもやってみて下さい。自己責任です。見る目がなければ、どれも美しい。


Q15 指定された語句についてなんらかの説明文をつけ加えながら書くと点がもらえますか?

15A それは論述を書くさいの基本的な姿勢でなくてはなりませんが、いくつかの限定もあります。まず、論述問題は語句を与えられても、それが必要な語句のすべてではないことです。あたえられた語句を説明したら、それでいいと思ってしまい、別に書かなくてはならない語句を無視する危険性があること。また東大のように450字の問題に8個も語句指定があると、たいてい大きい長い時間のテーマであるため、いちいち語句説明に終始していると必要なことがらが書けなくなることです。第一に書くべきは、テーマに沿った解答で、文章全体がテーマに沿った構成をもっていることが大事なのであって、語句説明ではないことです。東大の問題のばあいは、あたえられた語句になんらかの説明文を、という考えは捨てるべきです。 いちいち説明をしていたら字数オーヴァーになります。これは実際に解いてみると判明します。ただし模擬試験は素人もたくさん採点するため、採点しやすくするために指定語句にどういう説明を付けたかで加点するようにしていますから、模擬試験用には説明しつつ書いて下さい。本番ではしないことです。


Q16 60字論述問題集の「秦漢帝国を同時代のローマ帝国と比べ、共通点と相違点をあげよ」という問題の解答に「共通点。多民族を軍……相違点。後者には皇帝を……」というふうに、どちらかと言えば箇条書きのような書き方がしてありますが、許されるのでしょうか?

16A もちろん許されます。文章たるもの、ひとつづりの文章でなければならない、切ってはいけない、体言止めはいけない、という固定観念があるからでしょう? 論述といっても、論述の文章が独立して存在しているわけではありません。あくまで解答の文章であって、問題を知らない他人も判るような文章である必要はありません。受験とは問答であり、問うた相手が判るように答えたらいいのであって、問いを知らない一般世間にむかって発信するものではありません。随筆でも新聞記事でも文学作品でもありません。解答は問いに依存しています。問いを見ないと、なんの文章なのか判らないようなものであってもいいわけです。問うた試験官・採点者だけが知りうるものであればいいのです。狭い世界の文章です。「これからまず共通点を述べさせていただきます……」なんて文章はなくても、「共通点。……」で十分判ります。「共通点は……である。」でももちろん良いのですが。そんなに双方に差があるでしょうか?
 ときには文章になっていなくてもいいのです。たとえば『60字論述問題集』の解答に「国内産業の保護と貿易の振興のため。中継貿易のオランダに打撃をあたえ3次の英蘭戦争がおき、勝ったイギリスが海上覇権を奪った。」というのがあります。これだけ読んだらなんのことか判りません。いくつか主語が抜けています。しかし「1651年に発布したクロムウェルの航海法の目的と結果を記せ」という問題の答えになっています。


Q17 最初のマス目は空けなくていいのですか?

17A 空けなくていいのです。まちがえてはいけないのは、解答であって、なにか随筆でも書くことを要求されているのではありません。用紙も原稿用紙ではなく、「解答用紙」という特殊なものです。「300字以内で書け」とあれば300字以内で、段落もなしに、ひとつの段落として書け、ということです。300字使え、という条件を出しておきながら、ホントは299字以内で書けと言っているんだ、ととる必要はないのです。もし文章として変な感じがする、ということであれば、「句読点も1字に数える/ふくむ」という条の最後に字を入れて、さらにすぐ句読点がきたら、一般の文章のばあいは、字と句読点を一つのマス目に入れこんでしまいますが、この論述の要請は、次の行の最初のマス目に句読点を入れるのが論述の書き方なのです。それでも心配なら1字空けて書いたらいいでしょう。最初のマス目は使わなかった、ということになり、たんなる無意味な1マスの空白のために減点するとは考えられません。
 次に実例を示します。

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❶ 最初のマス目を1字空ける必要はないです。
❷ 世紀のつもりで「C」を書いていますが、「C」を誰でも「世紀」ととってくれる訳ではありません。略字は使わないようにしてください。
❸ 数字は「数字も1字と数える」ということわりがないかぎり1マスに2字入れてもかまいません。採点官である教授たちも原稿を書くときにそうしています。教科書の書き方がそうなっています。「2000」も2マスに入れます。一橋大学の地歴・公民用問題冊子には「注意」として「……洋数字およびアルファベットにかぎり、1マスに2字入れることができる。句読点は、1マスに1文字とする。問題番号にも、1マスを使用すること。例えば、問1ならば1と書けばよい。」とあります。
❹ これは消しゴムをできるだけ使わないための方法で右から左に返って読んでくれます。時間の余裕があれば、消して書き直してください。
❺ 下線を要求されたらできるだけマス目の線を外して引いてください。薄い鉛筆で線にそってキッチリ引かれると線があるのかどうか判りません。
❻ 文章の終わりが一行の終わりにきたら、次行の初めに句読点をもっていくのが、句読点を1字と数えた書き方です。
❼ 中黒の「・」、カッコの(「)、(」)なども1字と数えて書くのが一般的です。ただし冒頭に記号(1)を入れてから書き始めよ、と指示がある場合は、この冒頭は最初のマス目を意味しますから、3マス使うのでなく、1マスに(1)を入れてしまいます。
❽ 「ふきだし」といって時間がないときに、後で気がつき語句を挿入したい、しかし消して書き直すほど時間がないときの窮余の方法です。しかし多用しないでください。この答案の場合でも無くてもいいですね。 


Q18 イギリスを「英」としアメリカ合衆国を「米」と表記してもいいのですか?

18A 構いません。国名だけで相当字数が埋まってしまうという短文論述の場合に、実際そのように書きなさいという指定をした過去問もあります(1988年度東大に「解答において、イギリス、アメリカ、フランス、プロイセンを、それぞれ、英、米、仏、普、と表記してよい」、1990年の京大なら問題文に、「日露戦争(1904-05年)の結果ロシアの東アジアヘの進出がとまったことによって、ヨーロッパ列強(英、仏、独、墺、伊、露)どうしの関係はどのような影響をうけたか」と出てきます)。これらの文字の近くに麦とか稲とかがなければ「米」が米国を表わすことは判別できます。また英として判りにくいと思うような場合は英国とすればいいです。たった1字ふえるだけです。


Q19 文のはじめに序文は必要ですか?

19A 必要ありません。いきなり本論にはいる、というのが解答の原則です。300〜450字の文で起承転結を考える必要はありません。この程度の字数の文はひとつの段落程度の文章を書けと求められているにすぎず、長い論文であるかのように考えないことです。いきなり本論にはいらないと、後で書かなくてはいけないことを思い出しても書き足すことができなくなります。書くことがなくてマス目が余るようだったら、加点は期待しないでマス目を埋めるためだけに「まとめ」を書くといいでしょう。「起承転結」をすすめる参考書もありますが、それはもう牧歌的な綴り方教室の世界です。


Q20 文章には必ず結論なり「まとめ」を書く必要がありますか? 

20A 必要ありません。理由は19Aと同じです。起承転結を考える必要はありません。


Q21 知らない語句が指定されたら、無理にでも使うべきなのですか?

21A いいえ。無理に使ったら前後の文章が破綻(はたん)する可能性がありますから文章の中では使わないことです。それでも、減点なり「没」の危険性があるかも知れないので、使わないで使う方法があります。解答としての文を書きおわったら、つづけて「(指定語句)については知りませんでした」と書いて必要なら下線を引いておくのです。これで使ったことにする。これ以外の方法はありません。
 なぜこのような対処をすすめるかというと、理由は二つあります。
 第一に、採点官の立場にたてば理解できるはずです。大学の採点はたくさんの答案をいかに「処理」するか、という観点にたっているからです(予備校の教師として学生の答案を添削するときは、学生の良いところをできるだけひろってあげよう、育てよう、という立場で添削しますが、それとは対照的です)。歳をとったひとたちが何百枚もの答案を見るのは耐えがたいことでしょう。指定語句を提示し、かつ下線を引け、という条件をだしてくるのは、語句でヒントを与えている面はあるものの、なにより採点のスピード化に役立つからです。受験生の解答を読む前に、まず指定語句を使っているかどうか数えます。もし一個でも使っていなかったら減点か、あるいは没にすることが機械的にできるからです。この機械的に減点なり、没にされるより、さいごに語句を使ったことにしておけば、読んでくれる利点があるからです。
 第二に、もし「(指定語句)については知りませんでした」「(指定語句)は使えず」と書いても没になる可能性は実は非常に少ないだろう、ということです。教育者でもある採点官の教授・助教授たちがそこまで機械的にはなれない。やさしい短文の問題であれば可能性はありますが、200字以上の長文であればしないだろう。駿台の模試の採点基準も没ではなく、減点法をとっています。とすれば、無理に知らない語句を文中に使うと周辺が破綻して、大幅に減点されるより得だということです。1個使わなかったマイナスより大きい減点が予想されます。わたしがこれまで見てきた答案ではそうでした。


Q22 模試で結構書いたつもりなのに点がとれません。なぜでしょうか? 京大を受験します。

22A 答案を見てみないと確かなことは言えません。しかし推測できることの一般的な原因を言っておきます。
 与えられた課題にたいして充分な具体例をもりこまなかったことがあげられます。歴史的データを入れないで、わずかなデータだけ書いて、それをいくら長々と説明しても加点ポイントが増えないですよ。京大の問題は1行か2行程度の短い問題文で問うてきます。つまり、わずかな行で書いてある大きなテーマについて「具体例をあげて」ということばが入ってなくても、実際は具体例をあげて説明しなさいと要求しているのです。もちろん京大ですから、なにも詳細な具体例をあげろ、ということでなく教科書にあげてあるもので十分です。逆に東大は具体例になる語句を指定してくるので、その語句に圧倒されて問題文の大きなテーマを忘れてしまい、語句の説明に終始してかえって論理的な文章ができない、という京大とはちがう穴に陥る可能性があります。 
 受験場で入れ込むべき具体例が思い出せない場合があります。そのときは、課題からはずれていても、その課題の同時代のできごとやテーマに関連することはなんでもメモしてみるのです。たとえば、1991年の「春秋戦国時代の中国において、鉄器の出現がもたらした経済的・社会的変化を300字以内で述べよ」とあれば、経済・社会とあって政治のことが要求されていないにもかかわらず、政治的なものをよく知っているはずですから、書いてみるのです。とくに「社会」が判りにくいですね。政治的なことから出発しても、経済・社会になることをさがすつもりで、芋づる式に推理します。人によって推理のありかたはちがっていますので、下のように推理しなくてはいけないわけではありません。自分のやりやすいようにします。
 五覇→周王の権威がたおち→王を名乗るものも→封建制の動揺→封建制の崩壊
 戦国→七雄→下剋上→従来の卿大夫士の動揺→身分の動揺
 七雄→富国強兵→灌漑をすすめる→耕地の拡大→貧富差の拡大→豪族・豪商の登場・没落する農民も……
 という風に、さいごの部分を解答に入れたらいいのです。


Q23 具体的な年号を入れたほうが、たとえば1699年カルロヴィッツ条約と入れたほうが、採点官への印象がよくなって点数もあがるでしょうか? 東大志望です。

23A 問題によってです。東大の長い流れの問題であれば、どこかに時間を示すことばがないと、どのような時間の近さか遠さか、いつから始まったのかが不明なため、読者である採点官が迷ってしまうということがあります。いつのまにか変化してしまっているなあ……ということになる。「印象がよく」「点数があがる」ために時間用語を入れるのでなく必要性があるからです。ですから2〜3箇所でも時間用語を入れていくと判りやすいので入れて下さい。その場合必ずしも1699年のような細かい表現でなくとも17世紀末というものでいいのです。論述は細かい知識を問うのが課題ではありませんから。細かく書いて、もし年数が間違っていたらかえって減点対象になります。とくに要求がないかぎり世紀で書くといいです。流れの問題でなければ全く入れなくていい場合もあります。流れの問題でなくても、時間的なことを短文論述でも必要な場合があります。結局、問題の要求内容と、判りやすさが時間用語を入れるかどうかの判断基準です。


Q24 「16世紀から18世紀にかけてヨーロッパの諸国家は、重商主義政策をとって自国の商工業を保護・育成しようとした。この重商主義政策はイギリスとフランスにおいてどのような形で行われたか、具体的な事実を挙げて、200字以内で論述せよ。(京大1996))」という問題がありますが、これは英仏の重商主義のちがいも比較することを求めているのですか? 問題の意図がどこにあるのかわかりません。

24A いいえ。比較を求めていません。比較してほしいのなら、そのように文面にあるはずです。この場合そうした文句がありませんから、前半をイギリスの重商主義、後半をフランスの重商主義について書いたらいいのです。かんぐる必要はありません。問題文のとおり素直にとっていいのです。もし意図があって隠れているのなら、問題文じしんに問題があります。東大の場合でも、「ヴェトナムとドイツ……この二つの分裂国家の形成から統合への過程を、冷戦の展開と関連づけて略述せよ。(1993(H5))」という問題で二つの国の比較は求められていません。前半をヴェトナム、後半をドイツについて書けばいいだけです。もし比較してほしいなら、「双方のちがいに留意して」という語句が入るはずです。問題文が要求のすべてです。


Q24 模試で結構いい成績だったのですが、模試は出題されないと聞きましたが、ホントですか?

24A 大学側が模試の問題を見ているからです。予備校で出題された問題が出た、と大学側としては新聞で言われたくないために予備校の問題を収集しています。また予備校も模試の問題をもっていき、その代わり速報のために大学の問題をできるだけ早くいただく、という共生・依存の関係にありますから。
 また模試の問題が大学側の傾向研究の対象として見ても、あまり意味をなさない。たいてい実際の問題よりレベルが低いことが多いからです。レベルとは、問題の熟成度が低いという意味で、充分に研究・検討して出題していると評価しにくい。東大の模試の例でいえば、実際の問題より細かいデータを盛り込み時代・空間設定も狭い(S)とか、過去問の焼き直しにすぎないものだったり(K)で、実際に出題された過去問のほうが数段優れているからです。予備校は過去問を研究しているからと信用するひとがいますが、それは勘違いです。予備校の問題作成者は大学院生かそれにちょっと毛の生えた程度の頭が作成しますから、大学教授という専門家がつくる練られた問題に比べたら差が大きいですよ。もちろんあまりに専門すぎて、受験生のレベルからしてズレた問題を出す大学(とくに一橋)もありますが、おしなべて大学が上です。
 当たったという予備校の掲示も怪しい。問題の一部が時代や地域が合っていただけで当たったと、宣伝しているものがほとんどです。あるいは別の模試とテキストの問題をむりやりくっつけて当たったことにしている。いかに予備校というものが信用できないかを如実に示す例でしょう。予備校のしごとはどんな問題が出題されても解答できる力を学生に植えつけるのが課題なのに、それを放棄しているようなものです。宝くじのように考えている。論述の勉強の基本は教科書(内容とその要約の練習)と過去問の研究、それから導き出せる技法を習得することです。


Q25 同一の指定語句が複数回出てきたら、そのすべてに下線を引かなくてはいけないですか?

25A 「初めに使用した時に」という限定がなければ、安全策としてはすべてに下線を引いておくといいでしょう。本来、下線を引かせるのは採点のさいに全部使っているかどうか確認するためのもので、複数引いてあることが課題ではないはずですが。


Q26 「前者・後者」という表現を解答に使ってもいいですか? たとえば東京大学の過去問1987年の朝鮮戦争とヴェトナム戦争を比較させる問題のように、いちいちこの戦争の名称をあげながら書いていくのは字数からも省きたいからです。

26A もちろんOKです。たとえば、わたしなら次のように解答します。
(C) 共通点。ともにひとつの民族が南北にわかれて国家をつくり、独裁政治がおこなわれ、それを背後から米ソ超大国が支援したことが原因である。とくにアメリカ合衆国はどちらの戦争にも強力な軍事力で南の政府のてこいれをしたことが戦争を誘った。国際的影響の面では、米ソの同盟国が参戦・協力をした。なかでも日本は両戦争で米軍の基地となり「特需」といわれる景気によって戦後の復興と繁栄をものにした。相違点。朝鮮戦争は米ソ占領終了後の建国と対立によっておこったが、ヴェトナム戦争は植民地化していたフランス軍の撤退のあとを米軍がひきつぎ、南部の反体制勢力になやむ独裁政府を支援したことからおこった。国際的には前者が半島のみを戦場としたのにたいして、後者は周辺国にも波及した。また前者では中ソ封じこめの軍事ブロックをアメリカはつくりあげたが、後者では封じこめ政策がやぶれ米中接近・日中国交に変わってしまい、むしろ中ソ対立によって国際政治の多極化をうながした。前者では一部の知識人にすぎなかった反戦運動が、後者では学生を中心に世界的な運動となった。前者ではまだ繁栄を保てた米経済は後者でドル危機をまねいた。結果は前者が統一失敗・米軍駐留、後者では北による統一・米軍撤退が成功した。


Q27 ずばり「文明」といったら、政治・経済・宗教などすべてを含んだことでしょうか? 東大の1995年度の問題に、「ローマ帝国の成立からビザンツ帝国の滅亡に至るまで、地中海とその周辺地域では、どのような文明がおこり、また異なる文明の間でどのような交流と対立が生じたのか」という問題があり、この場合の文明は何を書くのでしょうか? 

27A 文明とは、宗教でなく、宗教も含む文化全体に重点をおいた表現です。地理的にせまいとか、期間的に短いものは文化ですが、それが一民族をこえて多民族に共通する文化となったときに文明といいます。その問題の場合はローマ文明、ビザンチン文明、イスラム文明、「12世紀ルネサンス」(と後のルネサンス)の西欧文明などをあげるといいのです。その中に含まれるものは、言語(公用語)、法律、建築、技術、文学、宗教、美術様式などが入り、とくに各文明の特徴的なものをあげるといいです。たとえば、ローマ文明なら道路・橋・公共建築物などの土木技術、ローマ法(万民法)、キリスト教。ビザンチン文明なら、モザイク・丸屋根などの寺院建築、ローマ法大全、イコン(聖像)と、古典墨守(保存)、装飾過多などの特色。イスラム文明なら、都市を基盤とし、古代地中海世界の文明も吸収した普遍的なものとなった、具体例では化学・医学、説話文学、細密画(ミニアチュール)、アラベスクなど。12世紀ルネサンスと後のルネサンスならイスラム哲学・科学を吸収したスコラ哲学、カトリックの教会建築、ステンドグラス、騎士道物語、14世紀以降のルネサンスなら、俗語(各国語)による人間的な文学、遠近法の絵画、油絵、肉体表現の彫刻、火砲(火薬)・羅針盤・活版印刷など。


Q28 「16世紀から19世紀初頭の時期におけるエルベ川以東(プロイセン)の農民の地位の変化を90字でまとめよ。」という問題のことですが、
 16世紀以降・・・ユンカーによるグーツヘルシャフトの形成によって、農奴化した、とまとめると、
 19世紀のプロイセン改革における農奴解放後はどうなったのか?? と悩んでしまいました。『小作農化』でいいんでしょうか? うーん……なんという言葉が適切でしょうか?

28A 小作農化ではなく、農業(農村)労働者です。賃金をもらう労働者です。
 一部のひとは有償でも、ローンで金を払って土地を獲得し、独立自営農の小農・中農になれましたが、大半の農民は農奴ではなくなったものの、代償として農民の土地を3分1ないし2分の1を旧領主にささげ、共同地もささげさせられました。また所によっては解放の対象外にさせられた農民もおり、これは追放されました。どうにしろ所有権を得たわずかな土地では、生きていけないので、旧領主の大農場で働く賃金労働者となったのです。追放された農民も賃金労働者(農業労働者)となりました。旧領主の方は、農民にささげさせた土地と共同地をえて土地をむしろ拡大することになり、従来の封建的領主制による領地経営を、この拡大した土地で農業労働者を雇って経営する資本主義的農場経営に切りかえることができました。こうして変化した経営のありかたを、経済史学では「ユンカー経営」といいます。中世以来のグーツヘルシャフトに代わる表現です。領主裁判権も警察権も残し、未解放の農民もけっこう残ったそうです。ここにドイツの古い体質が20世紀までもちこされた、と批判される改革でした。


Q29 草稿用紙に解答を書いてから解答用紙に写す、というやり方をしてきました。時間ぎりぎりになりますが……。

29A やめた方がいいです。時間的に余裕のある場合は別として、たいていは時間切れになり無理です。草稿用紙は構想メモを書くために使えばいい。文字を埋めてから写すものではありません。


Q30  こんにちは。僕は高3で一橋大学志望です。先生のHPでみて、論述の参考書にみられる誤りの多さに驚きました。そこで質問させていただきたいことがあるのですが、赤本、青本、各参考書が誤りだらけなのなら、何を使って勉強していけばいいのでしょうか? 僕はまだベースができてないのでしばらくは基礎を固める予定ですが、いずれは論述の練習に移りたいと思います。気になるので教えていただけますか? 反抗的な響きがあるかもしれませんがその意図は無いです。

30A 「赤本、青本、各参考書が誤りだらけ」ではありません。
 一部に誤りがあり、大半は正しい解答を出しています。批判をするとどうしても誤りが目立つので「誤りだらけ」という印象をもってしまいます。
 しかし真剣に学習している学生にたいしては、できるだけ誤りのない解答をだすべきで、多くの参考書は失礼なことをしていることはかわりありません。
 一橋の場合なら、2003年度の第三問のB「中東で生じた事件を一つ取り上げ」とあるのにフランスでおきた「ドレフュス事件」をあげたら得点できません。これは何もわたしが言わなくても学生でもわかる誤答です。
 合否はわずかな差で決まりますから、受験生の立場でもっと真剣に解答をだしてほしいものです。
 「何を使って勉強していけば」というのであれば、どんな参考書でもいいのです。どれであれ、過去問を提示しているのですから、問題文を見ることができますし、解答・解説も参考になるはずです。ひどくはずれた解説・解答は出していないからです。ただそれで得点が完璧になるかは別のはなしです。ときに的外れのもあります。参考書だけでなく模試でもそうです。それらのものに誤答がないか、はじめから信用しないで冷静に見つめることが必要です。
 参考書が信用できないので、わたしは『練習帳』をだしました。結局自分で批判する力を養わないかぎり、他人のも、まして自分のも批判的に見れず、結局満点に近づく答案はいつまでもできないです。受験場ではどんな参考書も自分の助けにはなりません。たいていは(参考書で)見たこともない新しい問題に直面しますし、過去問の解答を暗記してきたものは、ここでいかに無駄であったかを知らされますし、なにより目の前の問題にどう対処するかが迫られています。その際、役に立つのは、どこかの有名予備校の名前でも講師でも参考書でもなく、自分の鍛えてきた(かどうかは知りませんが)頭だけです。頼れるのは自分だけです。
 自分を鍛えることが肝心です。鍛える、とは知識をためること、その知識をつかって問題にあわせて思考する訓練をすることです。『練習帳』を勉強されることと、自分の書いた答案をだれかに添削をしてもらえば、この訓練はできるはずです。


Q31 論述の解答に体言止めをつかってもいいのでしょうか? 「体言止め 」をつかわないのが日本語文として正しいのではないでしょうか? 現代文では体言止めを使うと必ず赤のチェックが入ります。

31A 体言止めばかり使うと堅苦しい文章になり、スムーズには読みにくいものです。しかし一部に使う程度なら、それほど読みにくいものではありません。現代文の先生たちは神経質に赤を入れるかもしれませんが、それほど気にすることではありません。今日から新聞でも小説でも体言止めがあるかどうかを気にしながら読んでみてください。日常的に体言止めをつかっていることが判明するでしょう(朝日の「天声人語」が代表例)。体言止めを好む作家もいます。たとえば丸谷才一は小説でなく評論で体言止めを使う名手です。最近の本では、山口仲美著『日本語の歴史』(岩波新書)には頻繁に体言止めが使われていますが、違和感はありません。樺山紘一著『地中海』(岩波新書)にも何の躊躇もなく体言止めが使われ、まるで体言止めが文体にまでなっています(著者は現東大名誉教授の歴史家、1995年の東大の論述問題「地中海におきた文明」の作問者と推測できる人)。
 受験生がつくらなくてはならない解答は短いですから、体言止めを使わないと書ききれない問題もあります。当然ながら予備校の解答例にもあります。最近の解答例から体言止めの実例をあげておきます。つまり多用しなければそれほど気にする必要もないことです。下の解答は読みにくいですか?

(河合塾 一橋02)
聖職叙任権闘争。1O世紀に成立した神聖ローマ帝国では,皇帝が領内の聖職者を任命し,奉仕を義務づけて帝国支配の基礎とする帝国教会制がとられていた。11世紀にクリュニー修道院の教会刷新運動が展開されると俗人である皇帝の聖職叙任が問題となり,その影響を受けて教会改革を進めた教皇グレゴリウス7世は聖職売買を厳禁し,皇帝の聖職叙任をそれに当たるとした。皇帝ハインリヒ4世は教皇の廃位を謀ったが逆に教皇から破門を受け,1077年カノッサの屈辱事件で教皇に屈服した。クレルモン公会議に始まる十字軍が聖地奪還に成功すると,教皇の権威は上昇し,これに対して皇帝側は教会財産の押収,俗権の停止などで対抗したが,1122年皇帝ハインリヒ5世は俗権授与と聖職者選挙への立ち会い権を確保した上で教皇の叙任権を承認するヴォルムス協約を結び,教皇との妥協を図った。その結果教会勢力の皇帝権からの自立が明確となり,皇帝権の神聖性は失われた。(399字)

(河合塾 京大04第4問)
(15)人間存在を不条理な存在としてとらえ、その在り方を追求する立場。

(代々木 東大04)
16世紀、スペイン・ポルトガルの海外進出により世界経済の一体化が始まった。スペインはポトシなど新大陸の銀山を開発、これらの銀はマニラ経由で明に流入して墨銀とよばれた。日本銀や墨銀が流入した結果、明は諸税を銀で一括納入する一条鞭法を始めた。当時、国際交易の中心はアントウェルペンだったが、17世紀にはアムステルダムに移った。また、東欧は西欧への穀物輸出地域になり、プロイセンでは賦役労働で穀物の商品生産を行うグーツヘルシャフトが現れた。一体化は17世紀半ば以降さらに進展、西欧の武器などをアフリカに運んで奴隷と交換、それを新大陸で砂糖などと交換して西欧へ運ぶ大西洋三角貿易も活発化した。すでに西欧では、銀の大量流入によって物価が急激に上昇する価格革命がおこっていたが、その結果、封建勢力がさらに没落して絶対主義化が促された。絶対主義諸国は重商主義を採用、その担い手である各国の東インド会社は各地で衝突したが、18世紀にはイギリスが覇権を確立した。イギリスによるインド支配の結果、イギリスにインド産綿織物が流入して産業革命を刺激、イギリス主導の一体化がはじまった。

(駿台 東大04)
解答例4
1869年レセップスにより開通したスエズ運河はイギリスとインドの距離を半分に短縮した。イギリスは75年その株式を買収し、82年アラビ・パシャの反乱を鎮圧してエジプトを植民地化し、3C政策を展開した。これに対抗してドイツはバグダード鉄道敷設権を獲得、バルカン・中東に3B政策を展開した。世紀末汽船はそれまでの帆船に代り、大量輸送を可能にし、労働力の輸送やアジア・アフリカからの留学を容易にした。有線電信に始まるモールス信号は、世紀末マルコーニの無撤電信にも応用され、アジア・アフリカにも世界のニュースは伝えられた。ドイツの膠州湾租借を機に欧米による運輸手段で失業した中国人は扶清滅洋を唱えて義和団に投じ、北京を占領、列強の鉄道を破壊した。1904〜05年目露戦争での日本の勝利の報は、インド人の民族意識に刺激を与え、インド国民会議は06年カルカッタ大会のスワデーシ、スワラージ等4綱領で英のベンガル分割令に対抗した。またイランのカージャール朝でも日本勝利の報は刺激となりイラン立憲革命が起こった。ガンディーは英留学で弁護士となった後、南アフリカでインド人の権利擁護闘争でサティヤグラハを創め、第一次大戦後これをインドにもちこんで拡大した。

(駿台 東大01)
解答例 2
ナイル川下流域のエジプトは前3000年頃ファラオによりて統一さたが、肥沃な穀倉地帯であったため、外来勢力の侵入をうけた。前2000年紀には西アジアから侵入したヒクソスに征服され、新王朝の下で独立を回復したが、前1000年紀にはクシュ人・アッシリア・アケメネス朝の支援を経て最終的にギリシア人のプトレマイオス朝が成立した。アクティウムの海戦でロ一マの属州となったが、7世紀アラビア半島から興ったイスラム教徒に征服された。10世紀チュニジアから興ったシーア派のファーティマ朝が首都カイロを建設して以後、東西交易の中継点として繁栄。サラディンのアイユーブ朝を経て、13世紀マムルーク朝はモンゴルの遠征軍とキリスト教徒の十字軍を撃退したが、16世紀オスマン帝国に征服された。英仏の第二次百年戦争の一環として、18世紀末フランスの軍人ナポレオンがイギリスとインドの中継点エジプトを占領、続いてイギリスも出兵したが、19世紀初頭ムハンマド・アリーがかこれを撃退してエジプト総督に就任、1830年代トルコと戦ってエジプト国王に即位した。第一次大戦中イギリスの保護国となったが、第二次大戦後エジプト革命で王政を倒したナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言、これに反対して出兵した英仏・イスラエルを世論の支持で撤兵させた。

 このように体言止めを使っているのに、使っているひとたちがハッキリ体言止めが許容できることを発言していません。そのため、わたしだけが体言止めを推奨しているかのように錯覚しているひとたちもいます。使っていいかと受験生に是非を問われるので、許容できるといっているだけです。しかし、体言止めを多用する受験生には使わないようにたしなめることにしています。


Q32 もうひとつ、主語抜き文も現代文の講師には赤ペンを入れられてしまいます。先生の『練習帳』のコラムに「主語はときにはなくてもいい」と書いてあり困ります。

32A 主語を執拗に書くことを強調するのは、とくに現代文の講師(教師一般・日本語文法学者)によく見られる傾向です。しかしほんとうにそうなのか。そんなに分かりにくいことなのか、という疑問をわたしはもっています。井上ひさしという作家は日本文をうまく書く方法として主語を書かないことを提唱しています。実際に新聞や随筆・論文で主語のない文章はなんぼでも日常茶飯事的に見ることができますし、そういう文章を悪い文章とはわたしはおもいません。まして受験での解答文は主語はなくてもいいことが多いのです。
 なぜそうなのかというと、現代文の講師の一番わかっていなことは、解答は出題者に向かって述べる文章であって、なにもしらない一般世間にむかって発する文章ではないことです。問題があって解答がある、という、これは密室のできごとであり、問答といういいかたがあるように、相手があって初めて成り立つもので、解答文は問題によりかかっているし、また、よりかかることではじめて解答が成立します。問題を知らないひとに分かる必要はないのです。解答は対話の一方にすぎません。わたしの解答について解答だけ見て主語がないとわめくひとがいますが、問題文がすぐ近くにあることを無視しているからです。主語(主題/主テーマ)はたいてい問題文に書いてあり、そのことをいちいちまた言わなければならないほど無知な相手にむかって述べるものではないからです。問題のテーマもひとつかふたつ、ひとつの国、ふたつの国程度のことです。現代文の講師たちはなにか学界発表とか文学作品とかのつもりで文章は書かれるべきとおもっているふしがあります。問いがなんであれ、一般世間に出しても恥ずかしくない文章(解答)であるべきだとおもっているようです。これは錯覚です。だいたい主語不可欠を金科玉条にしている講師たちは主語病にかかっており、これは黒船以来の日本人の劣等感が反映しています。現代文の教師たちはだれであれ、金谷武洋著『日本語に主語はいらない』(講談社メチエ選書)に反論してほしいものです。その上で、わたしにも文句をどうぞ。


Q33 設問番号を含めた字数で論述しないと字数オーバーとして減点されるのでしょうか? 冬の東大実戦模試では改行してしまって論述で三点も減点されました。夏の実戦模試では今回と同じように書いて減点されなかったので気にしていなかったのですが……。やはり“設問1”などと行の頭に書いて30字が字数だとしたら27字以内として論述するべきですか??

33A 第1問は、解答欄(イ)に17行(510字)以内で
第2問は、解答は,解答欄(ロ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。
……というのが通常の書き方の指示です。
ですから、第1問は解答用紙にすでに(イ)が印刷されていますから、問題番号を書き入れる必要がありません。ときに1問の中に2つのテーマがあり、それを番号(たとえば(a)(b))を入れてから書きなさい、という指示があるときには、(a)(←1字分)と初めのマス目に入れてから書き出せばよく、つぎに(b)と途中で入れてから次の答案を書いていくことになります。もし500字以内の問題であれば、498字分が解答範囲です。
 第2問の場合は、行を改めてから、最初のマス目に(1)(←1字分)と初めのマス目に入れてから、4行(120字)でということなら、119字で解答を書くことになります。けっして「設問1」などと書く指示は出されたことがありません。
 改行してしまって論述で三点も減点……なぜそうなったのか分かりません。8月も11月も同じ問い方でしたから、採点ミスでしょう。

 

Q34 京都大学 経済学部志望です。僕は現役の時に理系でセンターのみの受験だったのですが、時間的な余裕がなかったこともあり本番では68点でした。今年は、文転して本格的に世界史を勉強しているところなのですが、どのような順序で勉強を進めて行けば京都大学で合格点を取れるレベルに辿り着けるでしょうか? 世界史を使うのはセンターと京都大学だけです。

34A 京大対策としては、まずセンター試験レベルの問題が解けるようになることです。68点では心許ない点数ですから。
 センターレベルといっても実は京大の第2問・第4問はこのレベルの問題が圧倒的に多いです。第2問・第4問で合計60点ありますから、これで50点以上取れるようになることが必要です。ですからセンター対策は京大対策につながっています。
 あとの第1問・第3問の論述問題は合計40点のうち半分以上取れたら合格します。この二次対策はわたしの創作問題を解かれるといいです。それまでは、山川の『センター試験完全対策・世界史B』と『世界史問題集』(私大の問題を集めたもの)を並行して解くといいです。後者の問題集はセンター試験の文章の背景理解に役に立つためですし、二次対策の準備になります。二つの問題集を並行してやっていけば、センターと論述対策の基礎ができます。問題集を解きながら勉強する、ということです。まとめのノートを作らないように。ページは増えても忘れていきます。問われながら知識を習得する方が効率が良いのです。
 7月か8月までにこの二つ問題集を解くと土台はできたことになります。この間、出てきた地図は教科書で調べ、分からない用語は山川の用語集で確かめ、年代は『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)をおぼえていってください。問題集はカンニングしつつ解くといいです。問題の中には用語集にも載っていないようなものもわずかに出てきますが、それは無視してください。出来なくて当然と。
 9月から論述問題の添削。これも用語集をカンニングしつつ解きます。解答を提出して、返ってきた添削済みの答案にある修正箇所と解説文を読んで、まちがったところ、足りなかったところを確認しつつ次の解答作成に活かします。
 センター試験が終わったら、残っている論述問題を解きます。


Q35 先生の論述練習帳を買いました。論述をする際に教科書を見ながらやる事が推奨されてますが本編でなく基本60字の場合も同様でしょうか?本編と基本60字はどちらを先にやるべきでしょうか?

35A 「基本60字」の場合も教科書見ながらか、という質問です。イエスです。巻末の問題は教科書でも解ける問題と解けない問題があります。それを確認するためにも教科書を見ながらでいいです。教科書に書いてなくて論述では必要なのだという区別の確認です。
 もう一つはどちらを先に、でした。今の時期から始めるのであれば、「基本60字」からです。教科書で解ける易しいものと、解けない難しい問題が混在していますが、論述問題に取りくむ手初めとして、これくらいの知識が必要なのだということを知ってもらうためにも「基本60字」をやってください。これが終わってから本編の問題を解いてください。本編は問題を自分でとく練習ですが、解き方が分かればいい部分なので、解答文を完全なものをつくる必要はなく構想メモ程度のものを書きながら読み進めるといいです。


Q36 私は東京外大を志望しています。
東京外大の過去問を解くには最後の方にある東大、京大、一橋の過去問集を参考にするのは難しすぎますか?
読まないでほか大学時代のものを読んだほうがいいでしょうか?(筑波大学など) 私は世界史がとても苦手で正直、どうしたらいいのかわかりません

36A 東京外大の問題は史料やグラフをたくさん出していて特異な様相を示していますが、それでも問われる内容自体は近現代史のありきたりの論述問題です。過去問を見てみると以下のようになります。

07 ヴェトナム戦争の影響(400字)、ナントの勅令(100字)
08 パレスティナ(第一次世界大戦〜第三次中東戦争)(400字)、総理各国事務衛門を創設に至るまでの経過(100字)
09 ヴェルサイユ体制崩壊過程(400字)、オーストリア=ハンガリー二重帝国(100字)
10 ソ連の民族政策転換(400字)、ウィーン体制(100字)
11 7年戦争の背景と影響(400字)、東アジアの秩序(100字)
12 アフリカ分割の過程(400字)、アメリカ合衆国の外交(100字)
13 ドナウ沿岸地域の諸民族の自立の動き(400字)、戦後ベトナム史(100字)
14 17世紀のユーラシア大陸同時代史(400字)、日本軍の東南アジア地域侵攻(100字)
15 奴隷制度を廃止の経済的理由(400字)、インド大反乱による統治の変化(100字)

 これから分かるように、近現代史の問題ばかりです。つまり16世紀以降のもの、欧米なら大航海時代以降ですし、アジアは19世紀以降でいいです。東大の問題は複雑なので避けて、京大・筑波・一橋のこの時代のものを選び、山川の『世界史用語集』をカンニングしながら解いていくといいです。上の問題と類似のものは捨てて、まだ出題されていないテーマのものを選ぶといいです。それらの解答例が要るようであれば、メールで送れます。


Q37 東大の採点についてです。
先生が、東大第1問の配点を20点以上だとされているのは知っています。
しかし、現役の東大生で、私が勉強の参考にしている方がブログで調査の結果20点だとしています。
http://s.ameblo.jp/gaku59bunichi/entry-12175253803.html
私は、先生も彼も信じていて割り切れなく不安でした。
考えたのですが、配点としては20だけども採点基準で調整してるために20以上にみえているというのはないでしょうか?

37A 教えていただいたブログは、なぜ20点と断言できるかの根拠を示していません。わたしは20点のときもあり、30点のときもあり、その中間もあるとおもってます。
 根拠は、2012年度と今年の2016年度の問題のように、第1問が難問で、日本史の平均点との差が大きくなったときに、第3問を20点にして調整するため、ということです。
 2012年度のときには難問だったにもかかわらず、受験生は高得点をとったとの報告があいついだこと、今年の難問の場合は、次のようなメールが来たことでも第3問を20点にして第1問を20点にすることで調整したと推理できます。

開示点は、43/60でした。
おそらく順に9-15-19の点数かなと推測しました。
今年は不合格者含めて他人の点数を分析しても、第1問の難化の影響で、第3問は20点に配点されていると思います。河合と違っていつまでも第3問10点配点と頑なに主張する駿台世界史科には???です。

 東大は第1問で得点をかせぐのが難しいということですね。第2問・第3問のような基礎的な問題をしっかり取ることが大事です。

2016年度・合格者の再現答案

2016年度の再現答案
再現答案について
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

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東大・世界史

第1問
東アジア。中国。毛沢東の死後、プロレタリア文化大革命が終了し、鄧小平が復権した。開放政策への転換で資本主義の要素を取り入れた。韓国。朴正煕から続いた開発独裁は、光州事件などの民主化を求める運動を経て民主化した。台湾や韓国では経済成長が著しくアジアニーズとして台頭した。中東。イランでは親米のパフレヴィー朝がホメイニの主導するイラン革命によって打倒され反米のイラン=イスラーム共和国が建国された。イラクのサダム=フセインはイランイラク戦争を起こし、アメリカは支援したが打倒失敗に終わった。イスラエルは平和への動きが進んだ。エジプトへシナイ半島を返還した。パレスチナに対してはPLOとパレスチナ和平協定を結んだ。中米・南米。ペルーやチリの反米社会主義政権をアメリカが裏で支援して崩壊させた。アルゼンチンはマルビナス諸島を巡ってイギリスとフォークランド紛争を戦ったがイギリスの近代兵器を前に完敗した。このように東アジアでは中国のように1990年以降の社会主義政権崩壊の前兆として社会主義国の資本主義化がみられた。中東では反米政権の誕生やイスラエルの動きは1990年以降のアメリカへのテロ攻撃や不安定なイスラムの中東情勢につながった。中米・南米での反米社会主義政権の崩壊は現在のキューバとアメリカの和解が進むなどの中南米とアメリカの融和につながった。グレナダは使えなかった。

第2問
(a)イクタ―制
棒給を現金で与えるアタ―制に変わって、軍人に現金支払いの代わりにその土地の徴税権を与える制度。
(b)カピチュレーション
帝国内を商人が自由に通行できる権利を他国に与える制度。仏に最初に与えられた。衰退期には列強がオスマン侵略の口実とした。
2(a)イクタ―制を継承して軍人に対し、現金の代わりに土地の徴税権を与える制度。官位によって差があり、官僚制を支えた。
(b)非ムスリムに対しジズヤを復活するなど弾圧を加えたため、マラーター同盟結成やシク教国家の設立などの離反を招いた。
3東南アジアでの香辛料貿易やヨーロッパでの中継貿易で繁栄したオランダに対し、イギリスはインド開拓に専念、クロムウェルは航海法で中継貿易に対抗した。フランスではコルベールが東インド会社再建や特権マニファクチュアの設立で重商主義推進し対抗した。
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筑波・世界史
【1】
紀元前4世紀アレクサンドロス大王が遠征中に死ぬとディアドコイ争いで帝国は崩壊した。西アジアにはギリシア系セレウコス朝シリアができた。セレウコス朝シリアはインドへ侵入しこの地では後にギリシア風のガンダーラ美術が栄える。アム川流域ではバクトリアが台頭し、その西ではイラン系パルティアが台頭した。後者は中国と交易を行い安息と呼ばれた。この交易を通じてアラム文字が形を変えて中央アジアに広がった。3世紀になるとササン朝ペルシアがパルティア内部からクテシフォンを都として成立。ペルシス地方から誕生したササン朝はアケメネス朝の後継としてゾロアスター教を国教とした。6世紀にはササン朝のホスロー1世は東ローマ帝国ユスティニアヌスと争った。これにより絹の道は衰退した。代わりに貿易の中心となったメッカ、メディナからイスラームが台頭した。7世紀にはササン朝はイスラーム勢力によって衰退、後に滅亡。

【2】
明は初め海禁政策を行い政府による貿易のみに制限した。15世紀初頭永楽帝の時代は鄭和による大遠征が朝貢国を増やすことを目的とし実施され、朝貢による貿易が中心であった。しかし16世紀頃からの後期倭寇の活動や西欧諸国の圧力により海禁は解除された。これにより多くの中国人が南洋華僑として流出した。清も初めは海禁を実施していたが、社会が安定すると解除した。中国に米大陸からトウモロコシなどの穀物が伝わると人口が増加し、華僑が多数流出した。17世紀の康熙帝は遷海令を出し鄭氏台湾の反清運動を防いだ。三藩の乱の際に台湾を支配すると解除した。乾隆帝の時代には貿易港を広州に制限し、公行だけに貿易をさせた。琉球王国は初め清と朝貢関係であったが、江戸時代に薩摩藩が貿易を行い日清に対しての両属関係であった。

【3】
11世紀に聖職者の世俗化などが問題となり、教皇と皇帝の間で叙任権をめぐり対立した。1077年には教皇が皇帝を破門し、皇帝が謝罪をしたカノッサ事件が起きた。叙任権闘争は1122年のヴォルムズ協約で一応は妥協した。この協約ではドイツ地方においては皇帝権が優位していた。しかし、13世紀の大空位時代などで皇帝権が衰退するとインノケンティウス3世の時に教皇権が優越した。インノケンティウス3世はアルビジョワ十字軍や第四回十字軍を実施。各地の王を破門するなど教皇権の全盛であった。しかし十字軍の失敗などにより衰退していく。14世紀初頭には仏王によってアナーニ事件が起き、教皇は憤死した。以後教皇が並立する大シスマと呼ばれる教会分裂となった。15世紀のコンスタンツ公会議で解決したが、以後の宗教改革や絶対王政の確立により教皇権は衰退していく。

【4】
1894年日清戦争で敗北した清は朝鮮の宗主権を失った。その後19世紀末には朝鮮は大韓帝国と国号を変え自立性を主張した。1904年朝鮮半島をめぐり日露戦争が起きた。ポーツマス条約により日本の優位が決まった。その後日本との三次に渡る協約で総督を設置し内政権外政権を奪われた。これにより朝鮮半島では義兵闘争が活発となり、伊藤博文が暗殺されると1910年日本は韓国併合を行った。初めは武断政治であったが、1919年に三一運動が起こると文化政治に変更した。しかし、日中戦争が起こると日本は皇民化政策を実施し朝鮮の人は創氏改名、神社崇拝の強制、日本に日本兵として連行された。戦後朝鮮半島は米ソにより占領された。38度を境界として、北に共産主義の支援を受け朝鮮民主主義人民共和国が成立。南は米国の支援で大韓帝国が成立。両国は冷戦の影響下で対立し、1950年の朝鮮戦争を向かえる。
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東京外大・世界史
1-8
中国語北方の諸民族は、防寒のための黒貂の毛皮の必要性から拠点となる要塞を建設し、中国北部への進出を図った。また台湾では、鄭成功が反乱の動きを見せたため、清朝がその動きを鎮圧した。一連の流れの中で清朝皇帝の康熙帝の関心は領土問題へと向いていった。北方民族の領土問題に関しては、中国在住のイエズス会士の司教が仲介となり、彼らに期待できる最大の商売の利益を約束し、穏便に調停した。またモスコー人のツァーであるピョートル1世は、ヨーロッパでの北方戦争に勝利して支配を拡大した結果、中国方面への領土拡大にも関心を寄せていた。ロシアと中国は国境の画定の必要性に迫られ、ピョートル1世と康熙帝は1689年、アルグン川とスタノヴォイ山脈を国境にすることを定めたネルチンスク条約を締結した。(334字)
2-6(2)
ポルトガルはマラッカ、スペインはマニラに進出、オランダはジャワ島に東インド会社を設立し、香辛料貿易を推進した。19世紀になると、ゴムのプランテーションの経営や、華僑のスズ採掘へと変化した。(95字)
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京大・世界史
1
アッバース朝ではトルコ人傭兵マルムークが雇われ、以後イスラム王朝の中心となりイスラム化が進んだ。中央アジアでは、10世紀にカラハン朝が成立し、最初のトルコ系イスラム王朝としてトルコ人のイスラム化を進めた。11世紀にはセルジューク朝が成立し、西進してブワイフ朝を滅ぼして西アジアを支配下に置いた。スンナ派の盟主としての地位を確立し、西アジアにおけるトルコ人のイスラム化を推進した。アフガニスタンでは、マムルークがイスラム王朝としてガズナ朝を開いた。セルジューク朝分裂後は、ルーム=セルジューク朝が小アジア、ホラズム朝が中央アジアを支配し、イスラム化を進展させた。
3
イギリスでは、政治学者や哲学者が啓蒙思想を受容した。ロックが「市民政府二論」で説いた人民主権の思想はルソーに影響を与え、フランス革命の原動力となった他、アメリカ独立宣言の基幹ともなった。また、アダム=スミスは「国富論」を発表して自由主義経済学を創始した。プロイセンでは、フリードリヒ2世がヴォルテールとの交流を通じて啓蒙思想を受容し、啓蒙専制君主として上からの啓蒙を図り、農民の保護や社会福祉の充実にのりだし、自国の近代化を推進した。しかし専制主義の維持のため一般民衆の思想の自由化は行われず、自由主義思想への取り締まりが行われたため、民衆運動に発展することはなかった。

2016年合格メール

 

Aくん
3月7日 1122
お久しぶりです。Aです。
まず、東京外大言語文化学部中国語学科合格しました。本当にご指導ありがとうございました。
問題はご覧になりましたか。資料の読み取りも論述に含まれていたので、かなり苦戦しました。先生の指導がなかったら、時間内に書き終わらなかったかもしれないので…。
感謝してもしきれません。ありがとうございました。
………………………………………
Bくん
3月7日 1641
Bです。
この度、先生の添削指導を直接請うことはできませんでしたがHP、論述練習帳、解答例をもとにやってきました。
練習帳で質問に対する答え方、質問の捉え方を一から学び、それを基礎としてHPの過去問で演習に取り組みました。特にHPでの情報量は通史ではなかなか気がつくことのできない知識まで得ることができました。
そのおかげで今日無事、筑波大学 社会・国際学群社会学類に合格しました。
解答例を提示していただく時にしか直接は連絡をとる機会はありませんでしたが、大変お世話になったため報告させていただきました。
ありがとうございました。
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Cくん
3月7日 1756
東京外大合格しました。
添削や質問、図々しく送ってしまい申し訳ありませんでした。
答えていただいたこと、すごく参考になりました。
ありがとうございました!!
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Dくん
3月9日 1417
京大法学部に合格しました!
世界史について話をすれば、
今回の論述はわからないなりにかけたと思います。
①に関しては、
オーソドックスな問題でした。
問題が何を要求しているかを考えて書くことができました。これは先生のおかげだと思います。
③に関しては、
正直イギリスについてはまったくわかりませんでした。ただプロイセンの方を書いて、比較する形でなんとか部分点を狙えるくらいには絞り出すことができました!
ほんとに先生のおかげで合格することができました!ありがとうございます!
………………………………………
Eくん
3月9日 1353
お久しぶりです。こんにちは。
受験の直前に、先生から京大の予想問題をいただいた加藤です。
おかげで京大法学部に合格することができました。
いまでも信じられない気持ちでいっぱいです。
先生からいただいだ問題と答えは全部プリントアウトして、
全問自分なりに解答と添削して取り組みました。
「世界史論述練習帳」とともに、もちろん京都にも持参して、直前まで何回も見直しました。
今年の京大文系世界史は、少し難化したような気がしましたが、試験終了後「やれるだけはやった」という自信が持てたのは、本当に先生のおかげです。
(ちなみに僕の今年の京大実践模試は、49点と33点!でした。。。ひどい笑)
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Fくん 
3月9日 1544
今日、合格発表があり、
おかげさまで、京都大教育学部に合格できました。
ありがとうございました。
お忙しい中、論述を50問以上添削していただきました。
しかも、一問一問、丁寧に見てくださったおかげで、力がついていったのだと思います。
特に、今年の京大の第1問は、創作問題にあったものとほとんど同じで、助かりました。
本当にありがとうございました。
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Gさん
3月9日 2013
京大法学部無事合格しました!!!
世界史論述の添削お世話になりました。
世界史で何点取れたかはまだ分かりませんが,
世界史の論述はしっかり書けたと思います。
本当にありがとうございました!!
………………………………………
Hくん
3月10日 1312
先生ありがとうございます!東大文科三類合格しました!!!
1年間予備校の講師の中で1番お世話になったのが中谷先生でした。世界史に関しては論述練習帳の力が大きかったです。今まで数多くの参考書を買いましたが、どれも途中で使わなくなりました。でも最後まで使い切れたのがこの参考書でした。先生の解答例は駿台や河合の模範迷答と違って題意に正確に応えてあり、題意把握や分析、論理的思考のトレーニングができ、知識量は今までにない世界史の面白さを感じさせてくれました。すっかり1年間中谷信者となってしまいました。HPも活用させてもらいました。批判的思考を大切にする先生からすれば信者と言われるのは気持ち悪いかもしれませんが....笑
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Iくん
10日1212
こんにちは。Iです。
東京大学文科三類に合格しましたので報告いたします。
申し訳ありませんが、大論述があまり書けなかったことがショックで再現答案は作成しておりません。
ともあれ、世界史は全体的にはよくできたと思います。
宅浪をしていた僕にとって先生の添削はとてもありがたかったです。
いままでありがとうございました。
………………………………………
Jくん
3月10日 1223
京都大学法学部合格しました!
連絡が遅くなってすみません。短い期間でしたがありがとうございました。
………………………………………
Kさん
3月16日 1230
色々準備してたら報告遅れました!
京都大学文学部合格してました!!
英語も数学もダメだったので、先生の問題と似ていたトルコ人の論述で満点近くとったのが本当に大きかったと思います!!
だいたい一ヶ月ぐらいの短い間でしたが、本当にお世話になりました!
たまに添削の中に、先生の世界史観、みたいなものが入っているのはとても興味深かったです!笑
今までありがとうございましたm(__)m
………………………………………
Lさん
3月25日
ご連絡が、大変大変大変大変遅くなり、本当に申し訳ありません………………。
合格発表後は入学準備や卒業などバタバタしており、ご一報入れないと、とずっと思っているままに、3月末になってしまいました><
東京大学文科一類に合格いたしました!まさかの合格です。未だに実感が湧きません…。
世界史の感触について申しますと、勿論第1問は吹っ飛んだ感触でした…。笑
過去問の流れからいって近代史がでるだろうことはわかっていたので、第1次・第2次大戦後の1950年代まではきっちりと固めていったのですが、その後はまさか出ないだろうと思いほぼ未習…。
しかしここで先生に習ったことが活きました。わからなくても、難しそうに見えても、問題文をよく読み、問題の要求をきちんと把握して、その要求に対して素直に答える。指定語句や(5つ意味のわからないもの、そのうち3つは見たことがないものがありましたが笑)センター試験の学習の際に身につけた少しばかりの知識を駆使して、なんとか20行中の15〜17行を埋められました。また、使えなかった3つ(!!)の指定語句は、先生が論述練習帳などでおっしゃっていた方法で処理したため、0点答案を免れることができたと思います。これを知らなかったら、まず書こうという気力も持てなかったでしょうし、書いても0点だったかもしれません。
1ヶ月あまりの間、大変に丁寧なご指導をいただきました。世界史が本番1ヶ月前にして絶望的だった私でも、なんとか合格に漕ぎ着けることができました(世界がずっとネックでしたが少しは克服できたことが一因だと思います)。感謝の気持ちがやみません。本当にありがとうございました。

京大世界史2016

第1問 (20点)
 西暦8世紀半ば、非アラブ人ムスリムを主要な支持者としてアッバース朝が成立したことを契機に、イスラーム社会の担い手はますます多様化していった。なかでも9世紀以降、イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々は、そののち近代に至るまでイスラーム世界において大きな役割を果たすようになる。この「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワードを両方とも用いて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

  マムルーク カラハン朝

 

第2問 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(18)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答構に記入せよ。

A [本文中の漢字にルビがふってある場合は( )で示しています]中国歴代王朝は自らの正統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢はそうした瑞祥の一つである。戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛慎が「コ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢納したという伝説が見える。粛慎は(1)「海内(かいだい)」の中国と大海で隔てられた[海外」に住む神話的な存在ともされ、したがって、その朝貢は、子の徳が世界の果てにまで及んだことの証として、第一級の瑞祥となる。
 (2)後漢末の群雄割拠に際し、(3)遼東郡では公孫氏が自立した。曹丕が後漢の禅譲を受けて魏を建国すると、劉備・孫権も蜀・呉を建国した。呉が遼東公孫氏・高句麗と結んだため、魏は遼東公孫氏を滅ぼし、高句麗に出兵した。魏の進出にともなって、東北アジアに関する豊富な知見が獲得された。このことを反映して、『三国志』の烏丸(うがん)鮮卑東夷伝には、東北アジア諸民族に関する現存最古のまとまった記述が見える。これら諸民族の一つが挹婁(ゆうろう)である。(4)『三国志』の本紀には、粛慎の朝貢が見えるが、これは伝説上の粛慎と同じく「こ(木+苦)矢」と石鍛を用いていた挹婁を「古(いにしえ)の粛慎氏の国」として朝貢させ、粛慎朝貢の瑞祥を演出したものである。(5)前漢・後漢あわせて400年にも及ぶ漢帝国が崩壊したのちの分裂に際して、魏は自らの正統性を喧(けん)伝するための瑞祥を切実に必要としたのである。
 その後、[  a ](西晋の武帝)が魏の禅譲を受けて晋を建国した際や、西晋滅亡後、江南において東晋が成立した際にも、粛慎が朝貢している。一方、華北でも後越の(6)石勅(せきろく)・石虎、前秦の(7)苻堅(ふけん)のもとに粛慎が朝貢している。これらも挹婁を粛慎と称したものである。
 『三国志』についで東北アジア諸民族のまとまった記述が見えるのは、鮮卑[ b ]部が建国した王朝を扱った『魏書』である。『魏書』によれば、勿吉(もつきつ)が北魏・[ c ]に29回朝貢し、うち7回「コ(木+苦)矢」を貢納している。勿吉を「旧(もと)の粛慎国」として瑞祥を演出したものだが、頻繁な朝貢が瑞祥の希少価値を減じたためか、「コ(木+苦)矢」の貢納は517年が最後である。高洋が[  c ]の禅譲を受けて北斉を建国すると、粛慎が朝貢し(8)靺鞨(まつかつ)をとくに粛慎と称し、建国の瑞祥としたものであろう。


(1) 戦国時代の鄒衍(すうえん)はこうした地理認識を発展させた「大九州説」を唱えた。鄒衍は諸子百家のうち、何家に属するか。

(2) この時期、黄巾の乱を起こした張角が創唱した宗教結社の名を記せ。

(3) 戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた。遼東郡を設置した国の名を記せ。

(4) (ア) 本紀と列伝を中心とする歴史書の形式である紀伝体を創始した人物の名を記せ。
 (イ) 『三国志』の本紀において「大月氏」と称された、1〜3世紀に中央アジアから北インドを支配した王朝の名を記せ。

(5) 前漢の禅譲を受けて新しい王朝を開いた人物の名を記せ。

(6) (ア) 石勒は五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族の出身である。この民族の名を記せ。

 (イ) 亀茲(クチャ)に生まれ、4世紀前半、石勅の帰依を受けた仏僧の名を漢字で記せ。

(7) 苻堅は淝水(ひすい)の戦いの戦いで東晋に敗れた。この時の東晋軍の主力である北府軍の下級軍人から立身した劉裕が、東晋の禅譲を受けて開いた王朝の名を記せ。

(8) (ア) 靺鞨の一部は高句麗遺民とともに渤海を建国した。今日の黒龍江省寧安市の東京城遺跡にあった湖海の国都は、当時何と呼ばれたか。

 (イ) 靺鞨の一部である黒水靺鞨の後身が女真である。12世紀、女真は金を建国した。金が女真人に対して採用した行政・軍事制度の名を記せ。

 (ウ) 17世紀、女真は後金を建国した。この建国者の名を記せ。

B 20世紀初頭までの中国では、「党」とは、官僚やその予備軍である知識人が、個人的な交友や一定の政治理念を基に結んだグループのことを指した。だが、こうしたグループの形成は王朝の禁じるところであり、史書では非難や弾圧の文脈で登場している。
 例えば、後漢の時代には(9)二度にわたる「党人」に対する弾圧が行われたし、唐王朝では、二つの官僚グループが数十年にわたって「党争」を繰り広げている。10世紀に[ d ](太祖)が打ち立てた王朝は、官吏登用試験に(10)皇帝が試験官となる出題を加えたが、これはそれまであったような、試験官と合格者が私的な関係を取り結ぶことを妨ぐためであった。しかし、この王朝でも、(11)ある政治家が提起した諸政策の是非をめぐり、「党争」が何十年も続いた。このほか後年の王朝で、17世紀初め設立の[ e ]書院を基礎に形成された政治グループが、やはり「党人」として弾圧されたし、弾圧した側の宦官にくみした官僚たちは、史書で「エン(門+奄)党」(宦官党)と呼ばれている。
 したがって、中国では「党」とは決して良いイメージの言葉ではなかった。20世紀初め、知識人や(12)留学生たちが共和国樹立を目指し、(13)国外で近代的な政治結社を結成した時にも、彼らはその名称に「党」を用いることはなかった。やや後の、彼らと違って(14)立憲君主制を主張して組織された政治団体にあっても、そのことは同様である。
 こうした状況が一変するのは、(15)共和国が成立した」のち、中国史上初の国会議員選挙が行われる過程においてである。中国の政治家たちはこの時、以前から近代政治結社を「党」と称していた近隣国家の例にならい、共和・統一・民主などの語と「党」を結びつけたのだった。そして、共和国樹立を目指した前述の結社は[ f ]と改名してこの選挙に勝利し、国会で多数を占めたのだが、(16)時の臨時大総統の暴力の前に、政権掌握を阻まれた。同党の政治勢力はその後、党名と組織形態の変更を繰り返したのち、国際的な共産主義組織の働きかけで、別の政党との協力関係樹立に踏み切る。以後、(17)この二つの政党の協力と対立が、(18)中華人民共和国成立までの中国政治の一つの軸を構成することになる。


(9) この弾圧は、中国の歴史上どのように称されているか。

(10) この皇帝が試験官となる試験は、何と呼ばれるか。

(11) この「諸政策」のねらいを、農民・中小商人の保護のほかに二つ挙げよ。

(12) 中国からその近隣国家に赴いた留学生の数は、20世記初めに急増したが、このことは1905年に行われた中国政府の政策決定と関係している。この決定とは何か。

(13) この「近代的な政治結社」は、政治主張を三つにまとめたことで知られる。この三つの主張のうち、漢民族の独立(少数民族による支配の打破)以外の二つの主張を記せ。

(14) 19世紀末に中国が対外戦争に敗れた際、知識人によって立憲君主制導入を中心とする制度改革が主張された。この改革は当時何と呼ばれたか。

(15) 「共和国が成立した」ことの背景の一つに、政府がある事業を国有化しようとした結果、中国のさまざまな階層が広く反発したことが挙げられる。この事業とは何か。

(16) この「共和国臨時大総統」は、対内的には政党を解散させて独裁権力を握る一方、対外的には近隣国家による大規模な権益拡大の諸要求を承認したことでも知られる。この諸要求は何と呼ばれるか。

(17) この「二つの政党の協力」のうち二回目のものは、1930年代半ば、中国の内陸のある都市で起こった事件を契機に成立している。この都市の名を記せ。

(18) この国家では1960年代、党の最高指導者が自らの党組織に対する攻撃を呼びかけ、大規模な政治運動が始まった。この運動は何と呼ばれるか。

 

第3問 (20点)
 18世紀のヨーロッパでは、理性を重視し、古い権威や偏見を批判する啓蒙思想が有力となった。イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第4問 (30点)
 次の文章(A,B,C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代以来、西洋では船が運輸と軍事で重要な役割を果たした。フェニキア人は二段櫂(かい)船などを用いて海上輸送を行い、地中海沿岸に(1)植民市を建設した。ギリシア人は衝角を備えた三段櫂船などの艦隊を用いて、前480年[ a ]の海戦でペルシア臨隊に勝利した。ローマ人も軍事用に擢船を用いたが、(2)前1世紀頃までに地中海がほぼ平定され、遠隔地交易が活発になると、帆船が発達した。
 9〜11世紀の地中海では、ビザンツ帝国の艦隊とシリアや(3)アンダルスなどから出撃するムスリムの艦隊が、ともに三角帆を備えた櫂船などで覇権を争ったが、イオニア海以西ではしだいにイタリア諸都市と(4)ノルマン人が勢力を伸張させた。7回に及んだ十字軍の遠征では、第1・2回においてその主力は陸路でシリア・パレスチナへ進軍したが、第3回以降は海軍と海上輸送される兵士が中心となった。兵士や馬に加え、多くの(5)巡礼者と物資を輸送するため、ヴェネツィアやジェノヴァでは多くの櫂船と帆船が建造された。
 13世紀末、ジェノヴァの船がジブラルタル海峡経由でフランドルへ到達し、[ b ]と地中海という二つの海域を結ぶ航路が開設された。この頃、[ b ]・バルト海間の通商では、ハンザ伺盟の盟主[ c ]とハンブルクをつなぐ河川路・陸路が主軸であったが、15世紀以降、[ b ]とバルト海をむすぶ(6)エーレスンド(ズント)海峡の通航量が増大し、バルト海沿岸から西欧へ生活物資が大量に帆船で運送されるようになった。地中海でも商用帆船は発達したが、軍事用では櫂船が16世紀に至るまで支配的であった。


(1) フェニキア人が北アフリカに建設した代表的な植民市の名を記せ。

(2) 地中海をかこむ諸地域を支配下に入れたオクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて、ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩を書いた人物の名を記せ。

(3) 8世紀半ば以降、コルドバを首都として、この地域を支配していた王朝の名を記せ。

(4) 12世紀前半、ノルマン人が地中海域に建てた国の名を記せ。

(5) 巡礼者の保護などのために設立された代表的な宗教騎士団の名を二つ記せ。

(6) 15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名を記せ。

B 支配的な権力や勢力に強制されて、あるいはよりよい機会を求めて、故地を出て各地に離散した人々やその状態をあらわす、(7)ディアスポラという概念がある。この切り口から見ると、ヨーロッパ近世・近代史は、たえずディアスポラを生みだす歴史であった。
 (8)コロンブスがサンサルバドル島に到達した年、数万人のユダヤ人がスペインから追放された。彼らは西欧諸国およびオスマン帝国へと移住し、商業などで目覚ましい活躍をする者もあらわれた。また、同じくスペインから、モリスコ(キリスト教に改宗した元イスラーム教徒)が、(9)1568〜71年の反乱の鎮圧を経た後の17世紀初頭、約30万人追放された。そのうちの大部分はモロッコなど北アフリカに逃れた。
 宗教改革の影響で、新教・旧教の双方からディアスポラが発生した。ヘンリ8世によって国教会体制が敷かれたイギリスでは、(10)カトリック教徒が厳しい制約の中でひそかに信仰を守ったが、一部は国外へ逃れ、故郷の同宗信徒との関保を保った。フランスでは、16世紀後半の宗教内乱を経てしばらくはユグノーの信教は許容された。しかし、(11)1685年にナント王令が廃止されるなどしたため、多くのユグノーがイギリスやスイス、オランダやプロイセンへと逃れ、共同体をつくり、またフランスで迫害に遭っている仲間の救済に尽力した。
 政治闘争の敗北者たちが一種のディアスポラを形成することもあった。名誉革命で王位を追われたジェームズ2世はフランスにわたり、やがてパリ西方のサン=ジェルマン・アン・レーに亡命宮廷を構えたが、ここは、(12)ジェームズの王統をなおも信奉する人々、ジャコバイトにとって物心両面での拠り所となった。また、(13)フランス革命の際にはエミグレ(亡命貴族)が発生し、異郷で反革命を画策し、帰還の機会をうかがった
 経済的要因が強く作用したディアスポラの例もある。たとえば、ヨーロッパ人が深く関与した奴隷貿易によって(14)膨大な数の黒人がアフリカから離散した。また、(15)南ロシアで1881年に大規模なポグロム(ユダヤ人に対する襲撃)が生じたことも手伝って、その後、(16)多くのユダヤ人が住んでいた場所を捨て、西方のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移民していった
 このような各種のディアスポラは国の枠を越えて拡大し、ヨーロッパ諸国にとっては、これらの人々をどのように処遇するにせよ、つねに憂躍すべき要素となった。


(7) この語は古代ギリシア語に起源を持つが、もっぱらパレスチナ地方を追われたユダヤ人と関連付けられてきた。19世紀末になると、各地に散ったユダヤ人の間で民族的郷土の建設を求める運動が活発化した。この運動を何と呼ぶか、記せ。

(8) この追放令が発せられた時のスペインの女王の名を記せ。

(9) これと同じ時期にスペイン王を悩ませる大規模な反乱を開始し、十数年後に独立を宣言した国がある。その国の中心都市で、17世紀に国際金融の中心となった都市の名を記せ。

(10) そのような状況にもかかわらず、彼らは16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ。

(11) この頃プロイセンを統治していた家門名を記せ。

(12) 彼らは18世紀初頭にイギリスで王朝交代があったその翌年に、ジェームズ2世の息子を奉じて反乱を起こした。これを撃退したイギリスの新しい王朝の名を記せ。

(13) 反革命の動きに対抗して、革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国の名を記せ。

(14) 彼らが輪送先のプランテーションで栽培に従事した主な作物を二つ記せ。

(15) 1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ、それがボグロムの引き金となったとされる。この人物の名を記せ。

(16) ユダヤ人など多くの移民を生み出したロシア・東欧と並んで、1880年代にエリトリアを植民地化したある国からも、アメリカ大陸への移民が増大した。この国の名を記せ。

C 第二次世界大戦後に出現した、アメリカ合衆国とソ連を頂点とする二極構造の国際システムは、時間の経過とともに、より多極的な構造に移行していった。
 非共産主義世界では、(17)西ヨーロッパ諸国と日本が急速な経済成長を遂げたことで、アメリカの経済的地位は相対的に低下した。(18)ベトナム戦争の長期化により、アメリカの経済的疲弊はさらに深まった。(19)1970年代初頭、アメリカが自国の経済的利益を優先する政策を採用したことを契機に、ブレトン・ウッズ体制は大きく変容することとなった
 社会主義国よりなる東側陣営では、(20)1956年にソ連のフルシチョフが新たな政治路線を打ち出したことを大きな契機として、陣営内でさまざまな変動が生起した。中国はフルシチョフの新たな路線を批判し、(21)中ソ関係は国境をめぐる軍事衝突が発生するまでに悪化、最終的に中国は東側陣営から事実上離脱した。一方、東ヨー口ッパでは、抑圧的な国内政治体制と、ソ連の支配への批判がまり、ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアで政治的自由化に向かう動きが断続的に発生した。
 かつて植民地や半植民地などとして経済的に従属的な地位に置かれていた地域は、政治的独立を果たした後にも、低開発に苦しむことが多かった。しかし、このような地域の中からも、韓国・(22)台湾・シンガポール・香港・ブラジルなど、比較的早い段賠から急速な経済成長に成功する国や地域が現れた。これらが、のちに(23)新興工業経済地域(NIES)」と呼ばれる地域のさきがけとなった。


(17) 古ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が結成される契機となった提案を行ったフランス外相の名を記せ。

(18) ベトナムからのアメリカ軍の撤退を定めた和平協定が締結された都市はどこか。

(19) 1971〜73年にブレトン・ウッズ体制に生じた変化を、それに関連するニクソン政権の政策と合わせて、簡潔に説明せよ。

(20) このときフルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について、簡潔に説明せよ。

(21) 1969年3月に、ソ連と中国の間で領有権をめぐって大規模な戦闘が起こったのはどこか。

(21) 1988年に総統に就任し民主化を推進した人物の名を記せ。

(22) 新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴を、簡潔に説明せよ。

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コメント

第1問 
 課題は「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワード(マムルーク カラハン朝)を両方とも用いて」でした。このイスラーム化の中身は前半の文「イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々」と説明してあります。つまり宗教を受けて入れただけでなく、「イスラーム文化」を受容したことも入っています。大きくは「文化」の中に「宗教」もはいりますが、ここでは分けて問うているので「宗教以外の文化」ととればいいでしょう。自分・他人(予備校も含む)の解答を批判するときに、宗教以外の文化がどれだけ考慮してあるか見るといいのです。この考慮がないとたんなるトルコ人のイスラーム王朝興亡史になります。
 たとえば以下のような解答。

アッバース朝の下でトルコ人は軍人奴隷であるマムルークとして組織され、イスラーム世界で軍事力の中核を担うようになった。他方、トルコ人のウイグルがキルギスにより崩壊すると、彼らの一部が中央アジアに移動し、イスラーム教を受容してカラハン朝を樹立した。これ以降、トルコ人の間でイスラーム化が始まった。彼らはアフガニスタンにガズナ朝を樹立し、次いで北インドへと侵攻した。さらに中央アジアで成立したセルジューク朝はバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。その後アナトリアにも進出し、この地域のイスラーム化を進めた。また彼らはエジプトで成立したアイユープ朝でもマムルークとして活躍した。

▲トルコ人がイスラーム化した、つまりイスラーム教という宗教に改宗したのは、中央アジアに移動してからですが、それまでは何を信じていたのでしょう? マニ教や仏教です。また指定語句のカラ=ハン朝から中央アジアのトルコ(人)化(トルキスタン化)も始まりました。印欧語系のひとびと(ソグド人)のところがトルコ人の住む地に次第に変わったのは、このトルコ人の中央アジアへの大移住の結果でした。またイスラーム化したため、アラビア語(文字)の採用も伴ったはずです。アッバース朝下のマムルークになった時点ではアラビア語の採用は確かです。これらが文化です。ただ、まだトルコ=イスラーム文明(文化)という点にまで発展していません。いずれティムール帝国(14〜15世紀)になって完成します(トルコ文学、細密画、天文学)。

第2問
 難解そうなところだけ解説します。大半はかんたんな問題なので。
A 空欄[ c ]は下に2回目に出てくるのがヒントです。「高洋が[ c ]の禅譲を受けて北斉を建国」とあり、北斉の前が何かを推理する。北魏が分裂して東西に分かれ、東魏・西魏となり、それぞれ北斉・北周と受けつがれます。それで東魏が正解。統一の方向は東魏でなく、西魏→北周→隋という順でしたが。

問(3) 「遼東郡を設置した国の名」のヒントは「戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた」という前文です。七雄の中で遼東半島に一番近い国、北京(当時の名は薊)の支配者はなんという国か、ということ。燕雲十六州でも表現している国名・都市名です。

問(6) (ア) 「五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族」とは五胡を全部数えたら出てくるかも知れない。匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の中の羯(けつ)です。氐と羌はチベット系。

問(8) (ア) 「渤海の国都」は、教科書によっては長安、平城京とともに碁盤の目の都城図が載っているので覚えているひともいるだろう。

第3問
 課題は「イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか」でした。ここにはいくつもの要求があります。まずなにより英普の比較です。自分と他人(予備校も)の答案を批判する際に、この比較ができているかどうか、つまり啓蒙思想の受容が英普でどうちがったのか、政治への影響のちがい、社会への影響のちがい、がそれぞれ3点書いてあるかどうか。「比較しながら」はこの3点全部に及びます。

 そもそも啓蒙思想家を想起できるかどうか、ですね。教科書では啓蒙思想家とあればフランス人で埋まっていますが、英国ならロックとアダム=スミスくらいでしょうか。ロックは17世紀のひと(1632〜1704)ですが、その影響は18世紀にもあります。アメリカの独立宣言に彼の思想が息づいていることは学んでいるはずです。つまりそれだけ読み継がれているということです。この他には? いますよ。
 選挙法改正運動をおこなったベンサム(1748〜1832)もいます。選挙法改正は第1回は1832年に実現し、この年にベンサムも死去しますが、運動自体は18世紀末からありました。かれの「最大多数の最大幸福」の主張は1768年の著書から現れていて、これを実現する方法が選挙法改正でした。
 奴隷貿易の廃止は1807年に、奴隷労働の廃止は1833年に実現しますが、その代表的な運動者ウィルバーフォース(1759〜1833)が生きていたのも18世紀です。「1787年にウィルバーフォースの友人、グランビル・シャープが1786年に設立した奴隷貿易廃止促進協会にウィルバーフォースも参加した」とウィキペディアの記事にあります。
 トマス=ペイン(1737〜1809)はアメリカ人? いいえ、イギリス人です。用語集に「イギリス生まれの文筆家・革命思想家。76年に「コモン=センス」を著し、独立への気運を高めた。のちフランス革命で国民公会の議員を務めた」と書いてありますよ。つまり英仏米で活躍した人物です。イギリスで出版した『人間の権利』(1791)で貴族攻撃をしたためイギリス政府に追放され、パリに渡ってフランスの市民権を得、国民公会では新憲法の草案作成委員会にまでなるという特異な人物です。
 また『ロビンソン・クルーソー』(1719)の作者デフォー(1660〜1731)もあげることができます。「その『イングランド人民全体の本源的権力の検討と主張』(1701)によって、ロック思想の普及者となった、といわれる。この書物は、ケントの地主が提出した下院への請願の内容が不穏当であるとして請願者が逮捕されたのに抗議し、人民の権力こそあらゆる権力の根源であることを主張したものであり、そのほかのいくつかのパンフレットにおいても、デフォーは王権神授説批判、社会契約説、抵抗権論などを展開している。しかしこのことはかれが体制批判者であったことを決して意味しない。かれは抵抗権を主張しつつ、革命には反対なのであり、名誉革命を支持しつつ、クロムゥェルの共和制に対しては最大級の非難をなげかけるのである。こういう態度はデフォーだけでなく、当時ふつうにみられたところであったが」(浜林正夫著『イギリス民主主義思想史』新日本出版社,p249)。
 ドイツの啓蒙思想家にはライプニッツやカントが含まれますが、大陸合理論のライプニッツには民主主義に関する言論がありません。観念論のカントは、立憲君主政の主張者だが、ロックのような市民の抵抗権・革命権は認めず、服従を解いた思想家でした。フランス革命に拒絶反応を示したことでもそれは表れています。
 イギリスはアダム=スミスだけあげて、プロイセンは啓蒙思想家を挙げない解答も変な者ですが、そういう解答例ばかり見てきたでしょう。
 またイギリスでは議会とか責任内閣制のことが書いてあるのに、プロイセンで議会がどうだったのか何も書いてないものも多い。また影響としてプロイセンでは農奴解放ができなかったのに、さも出来たかのように書いてある答案例も見たでしょう。「比較」の問題が出題されると、どうしようもない程ひどい答案を書いてしまうものです。「比較」文を書く方法論がないためです。

第4問
 難問だけの解説です。
A 
(2) 「オクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて」では分からなくても「ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩」=『アエネイス』の作者は誰か、という問題。ラテン語の発音としてはウェルギリウス、ヴェルギリウスも可。

(6) 「15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名」とは、カルマル同盟(1397)以来のデンマーク王国。16世紀(1523)にスウェーデンが独立するまでのこと。

B
(10) 「彼ら(カトリック教徒)は16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ」という問。「16世紀半ば」とはエリザベス1世(1558)の前がカトリックの女王でした。ブラッディ・メアリーという名をもらうことになった迫害を行った。映画『エリザベス』では新教徒に改宗した牧師たちを火刑にする場面からでした。

(12) 「18世紀初頭にイギリスで王朝交代……イギリスの新しい王朝」という問題。アン女王で断絶したステュアート朝の後はドイツからジョージ1世が来ました(1714、『ワンフレーズ』の覚え方ではでは「歯NO婆、どないしょ」)。この王朝名は?

(13) 「革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国」はマリー=アントアネットの出身国です。母はマリア=テレジア。

(15) 「1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ……この人物」ということは農奴解放令を発布した皇帝です。発布は20年前でした。

C
(20) 「フルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について」=「スターリン批判」の内外政策です。内は個人崇拝の否定、外は資本主義国と平和共存、あるいは暴力革命の否定です。

(21) 「1988年に総統に就任し民主化を推進した人物」。それまで長いこと総統は蒋介石、次に厳家淦(75〜77)、そして蒋の子(蒋経国、77〜87)が就いてきた。京大農学部で学んで共産党員にもなったが2年で離党した。戦後、米国に留学、帰国して大学教授となった。1971年に国民党に入党してから政界入りした。

(22) 「新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴」という課題なので、開発独裁といわれる政治的な要素は要らない。輸入代替型の工業化(輸入している工業製品の国産化)を進めていたが,その後輸出指向型の工業化(技術導入・研究開発を支援し、関税を引下げて外資系企業の誘致を促す政策をとり、輸出を促す)を推進したことを指し、1960年代から世界平均を上回る高度成長を遂げていきます。

(わたしの解答例)
第1問
9世紀ウイグル文字をもつウイグル人がキルギスに追放され西走すると、天山山脈西北にカラハン朝を建国した。かれらは更に西進し、中央アジアをトルキスタン化するとともに、マニ教・仏教の信仰からイスラーム教に改宗した。10世紀、サーマン朝を破り、トルコ人はマムルークとしてアッバース朝に雇われ軍事の中核となり、この頃アラビア文字を採用した。11世紀にセルジューク朝を建国、バグダードに入城してブワイフ朝を追放した。その結果トゥグリル=ベクはスルタン称号をもらいカリフを宗教的権威のみに落し政治権力を握った。ビザンツ帝国を脅かしたが、十字軍との戦いから分裂していった。マムルークたちはアイユーブ朝の軍事を担った。
第2問
空欄 a司馬炎 b拓跋 c東魏
(1)陰陽家
(2)太平道
(3)燕
(4)(ア)司馬遷 (イ)クシャーナ朝
(6)王莽(草冠+犬+草)
(6)(ア)羯 (イ)仏図澄
(7)宋
(8)(ア)上京竜泉府 (イ)猛安(・)謀克 (ウ)ヌルハチ
B
空欄 d趙匡胤 e東林 f国民党
(9)党錮の禁
(10)殿試
(11)財政再建、軍事力強化
(12)科挙廃止
(13)民権伸張、民生安定
(14)変法運動
(15)(幹線)鉄道
(16)二十一カ条要求
(17)西安
(18)(プロレタリア)文化大革命
第3問
英国で受容したのは産業資本家・革新的ジェントリーであり、市民政府論のロック、人権論のトマス=ペイン、自由放任のアダム=スミス、功利主義のベンサムの諸説を受け入れた。普国で受容したのは近代化を急ぐ国王と一部のユンカー層に限られ、大陸合理論のライプニッツ、観念論のカントの説を受容した。政治的影響は、英国では責任内閣制を実現して国王の権力を無力化し、議会政治の発展が見られ、選挙法改正運動が起きた。しかし普国では国王の権力強化・中央集権化に寄与した。官僚による統治は発展したが議会政治の発展はなかった。社会的影響は英国では奴隷解放運動に発展した。普国では宗教寛容令に表れたが農奴解放を実現しなかった。
第4問

空欄 aサラミス b北海 cリューベック
(1)カルタゴ
(2)ウェルギリウス
(3)後ウマイヤ朝
(4)両シチリア王国
(5)ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団・テンプル騎士団 (うち2つ)
(6)デンマーク(王国)

(7)シオニズム
(8)イサベル(イザベル)
(9)アムステルダム
(10)メアリ1世の旧教復活
(11)ホーエンツォレルン家
(12)ハノーヴァー朝
(13)オーストリア
(14)綿花(棉花)・サトウキビ・タバコ(うち2つ)
(15)アレクサンドル2世
(16)イタリア

(17)シューマン
(18)パリ
(19)アメリカがドルと金の交換を停止し,そのため固定相場制は変動相場制へと移行した。
(20)国内は個人崇拝否定によるスターリン批判、対外的には資本主義諸国との共存と平和革命の主張。
(21)ダマンスキー(珍宝)島
(22)李登輝
(23)それまでの先進国製品の国産化から、先進国の技術・資本を導入し、輸出へと転換した。

東大世界史2016

第1問
 第二次世界大戦後の世界秩序を特徴づけた冷戦は、一般に1989年のマルタ会談やベルリンの壁の崩壊で終結したとされ、それが現代史の分岐点とされることが少なくない。だが、米ソ、欧州以外の地域を見れば、冷戦の終結は必ずしも世界史全体の転換点とは言えないことに気づかされる。米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれつつあったのである。
 以上のことを踏まえて、1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化について論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。
  アジアニーズ(注) イラン=イスラーム共和国 グレナダ 光州事件 サダム=フセイン シナイ半島 鄧小平 フォークランド紛争
 (注)アジアの新興工業経済地域(NIES)

 

第2問
 国家の経済制度・政策に関する、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 西アジアでは、イスラームの成立以降、国家や社会のかたちに大きな影響を与える、独特の特徴をもつ経済制度が発展した。これらの制度に関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 10世紀にブワイフ朝が始めた土地・税制度は、同時代に発展した西ヨーロッパの封建制やビザンツ帝国のプロノイア制にも似た特徴をもち、その後のイスラーム諸王朝に受け継がれ、体系化された。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の特徴について2行以内で説明しなさい。

(b) 16世紀にオスマン帝国が導入した外国人商人に対する制度は、イスラーム法の理念にもとづき、交易の発展をはかることを目的としていた。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の内容、および後の時代に与えた影響について2行以内で説明しなさい。

問(2) 北インドでは、ティムールの末裔バーブルが、1526年、パーニーパットの戦いでロディ一朝に勝利をおさめた。彼がムガル帝国の基礎を築いたとするならば、第3代のアクバルは、中央集権的な機構を整え、ムガル帝国を実質的に建設した人物であった。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) アクバルの時代に整備されたマンサブダール制について2行以内で説明しなさい。

(b) 第6代アウラングゼーブの時代には、ムガル帝国の領土は最大となったが、支配の弱体化も進んだ。この支配の弱体化について2行以内で説明しなさい。

問(3) 17世紀のイングランド(イギリス)およびフランスで実施された経済政策について、それらを推進した人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて4行以内で説明しなさい。

 

第3問
 民衆の支持は、世界史上のあらゆる政治権力にとって、その正当性の重要な要素であった。また、民衆による政治・社会・宗教運動は、様々な地域・時代における歴史変化の決定的な要因ともなった。世界史における民衆に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 古代ギリシアの都市国家における民主政は、成年男性市民全員が直接国政に参加する政体であり、アテネにおいて典型的に現れた。紀元前508年、旧来の4部族制を廃止して新たに10部族制を定め、アテネ民主政の基礎を築いた政治家の名前を記しなさい。

問(2) 秦の圧政に対して蜂起し、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」ということばを唱えて農民反乱を主導した人物の名前を記しなさい。

問(3) 古代ローマの都市に住む民衆にとって最大の娯楽は、皇帝や有力政治家が催す見世物であった。紀元後80年に完成し、剣闘士競技などが行われた都市ローマ最大の競技施設の名称を記しなさい。

問(4) ドイツに始まった宗教改革は、領主に対する農民蜂起に結びつく場合もあった。農奴制の廃止を要求して1524年に始まったドイツ農民戦争を指導し、処刑された宗教改革者の名前を記しなさい。

問(5) インドでは15世紀以降、イスラーム教の影響を受け、神の前での平等を説く民衆宗教が勃興した。その中で、パンジャーブ地方に王国を建ててイギリス東インド会社と戦った教団が奉じた、ナーナクを祖とする宗教の名称を記しなさい。

問(6) 植民地化が進むインドで1857年に起こり、またたく間に北インドのほぼ全域に広がった大反乱は、旧支配層から民衆に至る幅広い社会階層が参加するものであった。この反乱のきっかけを作り、その主な担い手ともなったインド人傭兵の名称を記しなさい。

問(7) プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に敗れたフランス政府は1871年1月に降伏した。その後結ぼれた仮講和条約に反対し、同年3月、世界史上初めて労働者などの民衆が中心となって作った革命的自治政府の名称を記しなさい。

問(8) 孫文が死去した年に上海で起こった労働争議は、やがて労働者や学生を中心とする、不平等条約の撤廃などを求める反帝国主義運動へと発展した。この運動の名称を記しなさい。

問(9) インドシナにおいてベトナム青年革命同志会を結成して農民運動を指導し、フランス植民地支配に対する抵抗運動の中心となった人物の名前を記しなさい。

問(10) 1989年に中国では学生や市民による民主化要求運動が起こったが、それはソ連のゴルバチョフが中国を訪問していた時期とも重なっていた。そのゴルバチョフが国内改革のために掲げた、「立て直し」を意味するロシア語のスローガンの名称を記しなさい。

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コメント

第1問
 拙著『世界史論述練習帳new』を推薦してくれるのは、うれしいものの「元・駿台講師」と書いていて、わたしは今はそうではないらしいのですが、いつからそうなのか? 駿台・京都校に電話(075-842-1111)して確かめください。今も現役の講師です。
http://mao-24.com/todai-juken-takurou-books-world-history-essay

 今年の課題は「1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化」を書くのですが、その前に書いてある「以上のことを踏まえて」を条件として課されています。以上とは「米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれ」ということです。
 先にこの「1990年代以降につながる変化」を把握しておかないと、「1970年代後半から……の変化」が書けません。双方がつながっていることが必要です。この問題は、2005年第1問の「第二次世界大戦と戦後史の関連」を求めたのと似ています。過去問は「戦争中の出来事(火種)→戦後のありかた(火事)」という構成でしたが、2016年度の問題は後半は書かなくてよいものの、示唆する程度でも書いてもまちがいではないでしょう。90年代を踏まえて、70年代後半・80年代の15年間を書くという課題です。
 受験生にとって困難だったのは、この現代史の15年間を学んでいるかどうか、高校でそこまで授業をしていない高校も多かったのではないか(とくにラテンアメリカ現代史、指定語句「グレナダ」は使えるか、古用語集頻度2、新用語集では0)、という点です。またこの年代で想起できる事象を浮かべることができたか、という困難さも加わります。受験生が生まれる少し前の時代です。生きている現時点から30年〜50年前の歴史は歴史でなくニュースだ、事件だ、いやフランス革命以降はニュースだ歴史ではない、という意見もあります。過去問を解いてきた受験生の中には、これが東大の一番難しい問題だったと言っていた学生もいました。確かにわたしもそう思います。「中米・南米」を諦めて、他はがんばってみよう、でもいいでしょう。合格者の答案では「グレナダは使えなかった」書いても合格しています。難化したため、20・20・20の配点にしたようです。 第1問の出来具合が悪いと、このような配点になりやすい。

 まず90年代のことを三つの地域で想起してみましょう。

 東アジア
  中国。江沢民(1993〜2005)の「社会主義市場経済(事実上の資本主義導入)」、香港返還(1997)、マカオ返還(1999)……ここにあるのは、共産党の中国が党独裁を固守しながら社会主義を否定していく、「1989年的傾向」が見られます。19世紀以来の帝国主義の残滓(のこりかす)を示す二つの港湾都市が中国に返還され、脱植民地化の仕上げになっています。
  朝鮮の盧泰愚(ノテウ、1988〜93)は軍人でありながら、「韓国のゴルバチョフ」みたいに、文治主義政治への転換を準備します。南北朝鮮の国連同時加盟(1991)と中韓国交樹立(1992)を果たします。つづく金泳三(1993〜98)で文民政権の誕生となりました。ここにも「1989年的傾向」が見られます。
  台湾の李登輝(1988〜2000)も入れていいでしょう。経済発展と中国・台湾「二国論」の主張は、民族主義の主張でもあり、治安法の廃止・選挙の民主化・総統の独裁化防止策など、やはりこれも「1989年的傾向」が確認できます。

 中東。湾岸戦争(1991)におけるアラブの分裂、スンナ派とシーア派の対立激化、米軍のプレゼンスと対抗する勢力(タリバン、アルカイダ)の台頭、パレスチナ暫定自治協定(1993)……といった事象の全体的傾向はアラブの分裂・内紛・内戦です。東アジアの民主化・経済発展とはちがう様相です。それでもイスラーム世界の一枚岩と見られた地域がはげしく戦うのも、東欧の1898年の変革がユーゴ内戦を呼び込んだように、「1898年的傾向」ととっていいでしょう。

 中米・南米。エルサルバドル内戦(1980〜)は、政府とゲリラの間で停戦合意(1992)。北米自由貿易協定(NAFTA)発足、メキシコがそれに加わる(1994)。南米南部共同市場(メルコスール)発足(1995)。グアテマラで40年以上続いた内戦が終結。ラテンアメリカ共同市場形成を目ざしアンデス共同体発足(1996)……といった現象があります。独裁・共産党政権の崩壊から民主化、地域統合の動きがあります。これも「1898年的傾向」です。

 「1898年的傾向」とはそれまで機能していた社会主義圏、アラブ・イスラーム圏の分解がすすみ、その閉鎖性が破られて国際政治への個々の国が登場し、枠組みの新結成にむかう動きである、と総括できるでしょう。個々の国は、独裁政治から民主政治へ、社会主義から資本主義へという傾向を表しました。前者のタイプは完全には払拭されていませんが、後者への傾斜は止められない情勢です。これは統計的に著したスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』(青土社)の主張に沿った動きです。

 これらの「1990年代以降につながる変化」は以前の「1976年〜90年」にかけて、「世界各地で生まれつつあったのである」と以前の動き、準備的な、予兆的な出来事を記せ、という課題です。

 中国。周恩来・毛沢東の死去は同年(1976)におき、四人組逮捕によって文化大革命は終息します(1976)。毛の神格化運動は終わりました。胡耀邦総書記(1982〜87)の改革開放路線を積極的に推進する動き、鄧小平の四つの現代化(1979)政策、人民公社解体、職業選択の自由拡大、経済特区(1979)の設置があります。しかし第五の現代化=民主化を求めた第2次(六四)天安門事件(1989)がおき、鄧小平(1977〜97)は鎮圧してしまいました。民主化はしない、という点は今も維持されています。むしろ今の習政権は独裁化に向かっています。
 朝鮮。独裁者・朴正熙の暗殺(1979)、受けついだ全斗煥政権(1980〜88)に対する学生たちの光州事件(1980)、盧泰愚の民主化(1988〜93)は上に述べました。経済発展はアジアニーズの一員にしました。
 台湾。上にあげた李登輝の時代が「1990年代」と「1976年〜90年」と重なっています。

 中東。第四次中東戦争が終わり、その後にエジプト=イスラエル平和条約(1979)が結ばれシナイ半島の返還(1982)も果たされました。和解の動きです。イラン=イスラム革命(1979)とシーア派の勢力拡大はアラブ世界を分裂させ、ソ連のアフガニスタン軍事介入(1979)とタリバーン形成、米国が育てたサダムのイラン・イラク戦争の挑戦(1980〜1988)なども分裂を加速させ、原理主義・過激イスラーム主義が台頭する背景となりました。

 中米・南米。米パ間の新パナマ運河条約(1977)で運河返還を約束、アルゼンチンがしかけたフォークランド戦争(1982)の敗北による民政移行があり、ソモサ独裁政権をサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が打ち倒したニカラグア革命(1979)がおき、それを米国が介入(1988)してつぶし、グレナダ左翼政権成立(1979)と米国の介入(1983)、チリのアジェンデ政権(1970〜73)からピノチェト独裁政権が倒れて(1988)、民政移管(1990)が実現したことは、米国の妨害行為を別にすれば「1989年的傾向」です。

第2問
問(1) 
(a) 「ブワイフ朝が始めた土地・税制度は」はイクター制。「特徴」といってもイクター制とは何かを答えたらいい。軍人に土地所有権を与えず、徴税権を与え、それを俸給の一部とさせる制度です。用語集では「俸給額(アター)にみあう金額を徴収できる土地の管理と徴税権を与えた制度」。

(b) 名称は、カピチュレーション(カピテュレーション)で、内容は、外国人に領内の港で商売する権利。用語集では「領事裁判権、租税免除、身体財産などの安全を保障した一種の治外法権」。
 影響は、西欧が産業革命の商品を投入してきたため、経済的にトルコが従属することになった、という点をあげるといいでしょう。用語集では「オスマン帝国が衰退すると、西欧列強諸国に有利な不平等条約として解釈利用され、侵略への足がかりとされた」。

問(2)
(a) マンサブダール制は、地位・階級にみあった給与を与え、義務として騎兵・騎馬を準備しなくてはならなかった制度です。「ダール」は「持っている者」の意味。用語集では「官僚をマンサブ(位階)で序列をつけ、それぞれのマンサブに応じた騎兵や騎馬の準備を義務づけ、給与を与える制度」。

(b) 「第6代アウラングゼーブの……弱体化」ということなので、彼がイスラーム化を強制したため、離反する地方勢力が伸びて、勢力圏が減少したこと、後継者を巡る争いが頻発したこと、などを挙げます。用語集では「ラージプート族シク教徒マラータ族などの反抗をまねき、戦費の増大で財政は悪化し、帝国の衰退が始まった」。

問(3) 「17世紀の英仏の経済政策……人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて」でした。英国は中継貿易依存の蘭にたいしてクロムウェルが航海法を制定して中継貿易を阻止し、アンボイナ事件の賠償問題も重なり英蘭戦争に発展した、仏は蘭の日常品工業に対してコルベールの下で王立・国立・特権マニュファクチュアを作らせ、奢侈品生産で対抗しました。

第3問
 どれもセンター試験レベルの易問でした。
問(1) 「旧来の4部族制を廃止して新たに10部族制を定め、アテネ民主政の基礎を築いた政治家の名前」ですが、この年「前508年」に独裁者になる可能性のある人物を陶片に書いて投票し、一定数あればアテネ市から追放という陶片追放を決めた人物でもあります。

問(2) 前209年、北のモンゴル高原では冒頓単于が父を殺害して単于となった年でもあります。国内では陳勝蜂起が起きます。

問(3) 「剣闘士競技……競技施設」という観光クイズみたいな問題。

問(4) 「ドイツ農民戦争を指導」者の名。

問(5) 「イスラーム教の影響を受け、神の前での平等を説く民衆宗教が勃興……ナーナクを祖」とヒントが多い。

問(6) 「1857年に起こり……担い手ともなったインド人傭兵の名称」。

問(7) 「世界史上初めて労働者などの民衆が中心となって作った革命的自治政府の名称」。

問(8) 「上海で起こった労働争議……反帝国主義運動へと発展した。この運動の名称」。

問(9) 「ベトナム青年革命同志会を結成して農民運動を指導し、フランス植民地支配に対する抵抗運動の中心となった人物」。

問(10) 「1989年に……ゴルバチョフが国内改革のために掲げた、「立て直し」を意味するロシア語のスローガン」。
………………………………………
第1問(君の解答)
第2問
問(1)
(a)イクター制
軍人に対して、土地所有権を与えず、俸給にかわって分与地の徴税権を与え、それに応じた軍事奉仕を義務づけた制度。
(b)カピチュレーション
帝国内の外国人に居住の安全や通商の自由を保障したが、領事裁判権、租税免除など治外法権は19世紀に帝国を従属化した。
問(2)
(a)官僚の地位(マンサブ)を階級に分け、その階級にしたがった給与を与え、義務として維持すべき騎兵・騎馬数を定めた。
(b)ジズヤ復活やヒンドゥー寺院破壊などイスラーム化政策をとったため離反され、討伐の遠征費用がかさみ、後継者紛争も加わった。
問(3)
イギリスはクロムウェルが航海法で蘭の中継貿易に打撃を与え、アンボイナ事件の賠償も求めて英蘭戦争を戦い北米植民地を奪った。フランスはコルベールが王立・国立・特権マニュファクチュアをつくり、蘭の日常品に対抗した。オランダ侵略戦争も行った。
第3問
問(1)クレイステネス
問(2)陳勝
問(3)コロッセウム(コロッセオ)
問(4)(トマス=)ミュンツァー
問(5)シク教
問(6)シパーヒー(セポイ)
問(7)パリ=コミューン
問(8)五・三〇運動
問(9)ホー=チ=ミン
問(10)ペレストロイカ