世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2017


 16世紀半ばに書かれた次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 あらゆる商品の価格は、その必要性が非常に高く、かつ提供される量が少ないときには上昇する。貨幣もまた、それ自体で売買され、かつあらゆる契約取引の対象となる以上は一つの商品であり、したがってその価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される。実際にフランスではスペインよりも貨幣の量が少なく、パン、布、労働力の値段がスペインよりもはるかに低い。またスペインでも、貨幣の量が少なかった時代には、インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代よりはるかに安い値段で商品や労働が提供されていた。
(マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)より引用。但し、一部改変)

問い この文章中で述べられている現象が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 黒人奴隷制に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ユネスコが1994年に奴隷貿易、奴隷制の記憶を掘り起こす「奴隷の道」プロジェクトを開始して以降、21世紀に入り、環大西洋世界の奴隷貿易に再び注目が集まっている。国連総会では、①ハイチ革命」200周年にちなみ、2004年を「奴隷制に対する闘いとその廃止を記念する国際年」とすると宣言され、また1807年に世界に先駆けて奴隷貿易を禁止したイギリスでは、200周年を前に首相が「遺憾の意」を表明した。
 下の表は、16世紀以降の環大西洋圏の地域別奴隷輸入数を示したものだが、従来、大西洋奴隷貿易は、英仏などヨーロッパ諸国を起点にアフリカとカリブ海域を結ぶ、主に北大西洋で展開された三角貿易に関心が向けられてきた。だが、表からもわかるとおり、最も多くの奴隷を輸入したのはポルトガルの植民地、ブラジルであり、近年の研究では、②ラテンアメリカ地域」、とりわけブラジルとアフリカを直接結ぶ南大西洋の奴隷貿易について、その独自のメカニズムに関心が集まっている。

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問1 15世紀末にスペイン、ボルトガルの両国が定めた、支配領域の分界線を定めた条約を何というか。

問2 下線部①にあるハイチ革命を契機に、南北アメリカ大陸における奴隷貿易廃止、奴隷解放の流れは加速した。最後に奴隷制が廃止されたのは、最も多くの黒人奴隷を受け入れてきたブラジル(1888年)であった。この19世紀の南北アメリカ大陸で達成された奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか簡潔に答えよ。(100字以内)

問3 下線部②にあるラテンアメリカ地域では、1810〜20年代に多くの国々が独立した。その独立運動は、いかなる契機から始まり、どのような人々により担われ、独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか、述べなさい。(275字以内)


 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 われわれが海を渡り、最初に到着した町はザイトゥーンの町であった。そこは壮大にして、規模の大きな町であり、カムハー織り(錦紗)やビロード織りの布地(緞紗)がそこでは製造されており、それらはその町に由来する名で知られている。その布地は、ハンサー織りやハンバーリク織りよりも上等である。
 そこの停泊港は、世界の数ある港のなかでも最大規模の港の一つ、否、間違いなく最大のものであり、私は実際にその港で、約100艘の大型ジャンクを見た。さらに小型船に至っては、多くて数え切れないほどであった。そこの港は陸地に入り込んだ海からの大きな入江で、やがてその海は大河と混じり合う。この町は、他のすべてのシナ地方と同じく、住民のための果樹園、田畑と屋敷が町の真ん中にあって、ちょうど、我が国のスィジルマーサの町とよく似ており、他ならぬこのために、彼らの町は規模が大きくなっている。
 (イブン・バトゥータ著、家島彦一訳注『大旅行記』より引用。但し、一部改変)

問い ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を論じなさい。(400字以内)

………………………………………

第1問
 史料の文「その価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される……インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代」とは価格革命の説明だと推理できます。神学者マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)という出版年もそれを示唆しています。
 課題は「現象(価格革命)が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響」でした。
 つまりスペイン本国と他の国に与えた影響の双方を書かなくてはならない、ということです。新大陸から大量の金銀を獲得したことでスペインはどうなったのか、それが流入しなくなるとどうなったのか、他のヨーロッパの国々はどんな影響を受けたのか、ということです。後者は教科書に必ず書いてある一般的なことを書けばいいですね。たとえば、詳説世界史ならこうです。

 1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2〜3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃をうけた。
 西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。

 これだけで254字です。受験場でこれだけキッチリ書けないので、200字くらいとします。また「ヨーロッパ」とあれば西欧と東欧の双方も含むことも注意です。詳説世界史の記事はその前に商業革命のことも書いてあり、これも含めることができます。記事は以下、

 大航海時代の到来とともに、世界の一体化がはじまった。ヨーロッパ商業は世界的広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場をひらくことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。

 盗み取ったり、強制的に採掘させて獲得した銀でアジアに買い物に出かけたことが「世界商業圏の形成」になりました。五大陸間貿易の開始という言い方もあります。
 スペイン史の「盛」は書けても「衰」は意外と難しいかも知れません。たんに銀の流入が止まった、だけでは衰退理由になりません。
 また「17世紀」についてどれだけスペイン史が書けるか。予備校の解答例を見て、17世紀に該当する内容を書いたものはどれだけあるでしょう?
 17世紀のスペイン史にとってオランダ(低地)の独立承認にいたるまで、鎮圧費の負債が大きくなりすぎて休戦し(1609)、さらに三十年戦争の開始(1618)とともにオランダとの再戦になり、これでも赤字を増やしました。戦後の1647年(三十年戦争は1646年に事実上終わっています)、53年、6O年、62年と不払い宣言を出しています。
 ポルトガルを併合したのが1580年でしたが、1640年にはポルトガル王国は復活して、スペインからすれば失い「太陽の沈む国」になります。スペインの横暴に嫌気がさして、イギリスの援助を得てスペインからの分離独立を実現します。
 このポルトガルをまだ持っていた時期と失う時機に、躍進してきたオランダにポルトガルの基地が奪われました。マラッカはポルトガルが1511年に王国を滅ぼしましたが、次世紀にオランダが1619年に占領します。アフリカ西岸のエルミナもポルトガルが築いた奴隷貿易の最大の基地でしたが(1482)、1637年にオランダが乗っ取ります。セイロン(現スリランカ)は1505年に築いた貿易基地でしたが、1658年にオランダに奪われました。またサファヴィー朝アッバース1世によってホルムズ島からポルトガルは追放され(1622)、オマーン・マスカットも彼に奪われました。こうして大西洋とインド洋の重要な拠点を失っていきます。

 詳しい『詳説世界史研究』ではスペインの衰退について、こう書いています(p.302)。

スペインの繁栄は長くは続かなかった。その担い手であったムスリムを追放したことがおもな原因となって、毛織物工業などの手工業が衰退してしまったことも、スペインの経済的没落の一因であった。
 1588年にはスペインの誇った無敵鑑隊(アルマダ)が、へンリ8世の宗教改革以来、宗教問題やアメリカの領有権をめぐって対立の続いていたイギリスの海軍に大敗し政治・軍事的にも衰退にむかった。このような衰退過程を決定的にしたのは、17世紀初頭になって、アメリカからの銀の流入が激減したことである。また1640年には、 イギリスの援助をうけたポルトガルが、ブラガンサ朝のもとに再独立を果たした。

 この引用文の初めに書いてある「担い手であったムスリムを追放」を不思議におもひとがいるかも知れません。レコンキスタとともに追放したのではないかと。留まる者はキリスト教への改宗を強制されました。かれらをモリスコと呼びますが、改宗してもキリスト教徒との共存が難しく、多くの軋轢(あつれき)が起きていました。とうとう当時の国王フェリペ3世は、モリスコ追放を承認しました(16O9)。約30万人が半島から脱出します。かれらモリスコは優秀な農民や手工業者であったため、米とサトウキビの栽培が著しく減少し、小麦も不足し、カスティーリャやイタリアのサルデーニャから輸入せざるをえなくなります。かれらだけでなくても、スペイン人自身が17世紀の再流行したペストや凶作、諸戦争の徴兵と戦死、またアメリカへの移住、などでも減少しました。

 このうち17世紀のベストとは、1647〜52年の黒死病の流行で、125万人がスペイン全体で死亡したとみられる数です。セビリア市だけで13万人が病死しています。


第2問
問1 易問でした。調印された都市はスペイン北部にあり、ポルトガルの国境に近い。

問2 課題は「奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか(100字以内)」でした。
 過去問(2003)に類題がありました。「奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と、国際的な要因を、カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい(指定語句→砂糖 トゥサン=ルーヴェルチュール クリオーリョ インディオ)」です。

 過去問は奴隷貿易全般がテーマでしたが、今年の問題はハイチと合衆国と限定して、「他とは異なる特徴」という比較の問題です。「奴隷解放の歴史」と問われても、「異なる特徴」をすぐには思いつかないものです。構想メモをつくって比べてみないとハッキリしません。ただ「他とは異なる」といっても、この「他」はラテンアメリカ全体なので、ハイチはその一国として共通点もあります。3者(ラテンアメリカ・ハイチ・合衆国)の比較が必要です。そこからハイチと合衆国の特殊性(相違点)はどこにあるのか探る、という仕事です。それもたった100字でという字数が苦しい。
 予備校の解答例を見ると、どれもラテンアメリカの奴隷解放がどんなものだったかを書かず、ハイチと合衆国を書いただけでは「特徴(相違点)」が分からないままです。下の設問・問3と重なっているため、それは避けたのかも知れませんが、これはこれで完答すべきです。

問3 課題は「その独立運動は、(1)いかなる契機から始まり、(2)どのような人々により担われ、(3)独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、(4)ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか」と4つもあります。
 (1) 本国(スペインとポルトガル)のあるヨーロッパがナポレオン戦争に巻き込まれ、スペインはフランス軍の占領下におかれました。ポルトガルはフランス軍に侵入されイギリス軍の援助でなんとか切り抜けたものの、その脅威があり、国王と親族はブラジルに逃れてきた、という本国の危機が何よりあげられます。また植民地の中の白人地主のクリオーリョ(クリオージョ)の中にヨーロッパに留学したり、啓蒙思想の影響を受けた地主層がいたこと、かれらが本国(イベリア半島)から派遣し、徴税している半島者(ペニンスラール)に反感をもっていたこと、などがあげられます。
 (2) 担手は何よりクリオーリョたちです。本国の国王─副王─半島出身の官僚(ペニンスラール)─クリオーリョ─メスティーソ─インディオ─黒人、という階層構造のうち、トップの副王・官僚を追放するのが独立戦争で、白人からの白人の解放だったことが特異です。また同じスペイン人がたくさんのスペイン人の国々をつくったため、国民国家の形成に失敗した、ともいいます。シモン=ボリバルの「大(グラン)コロンビア共和国」構想は失敗しました。それぞれの国境は植民地時代の行政区分がそのまま反映しました。
 (3) 植民地時代の農業モノカルチャー経済(コーヒーや砂糖)は変わらず、欧米を市場とする鉱業も変化がありません。欧米のような工業化を目標にせず、もっぱら欧米の工業製品市場にして利益をあげることを支配層は考えました。少しはあったマニュファクチュアは欧米工業製品に負けていき、農業も工業も、むしろ植民地時代より欧米経済とのリンクが深化しました。
 土地はインディオの共有地を地主たちが取りあげ、分配して大土地所有者が低賃金労働者の安い労働力をつかって利益をあげていく構造ができあがります(アシエンダ制)。
 (4) ブラジルは亡命してきた国王夫妻が本国に帰還した後、帰国しなかった息子のペドロ(ペードロ)がクリオーリョにたきつけられて独立し、しかも皇帝を名乗るという親子喧嘩で実現します。他の独立国のような戦闘もなく、また他国は独立と同時に奴隷解放もしますが、ブラジルだけは1888年まで奴隷労働制を維持しました。

第3問
 課題は「ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を」でした。
 もしザイトゥーンがなんという都市か浮かばなかったとしたら、「11〜13世紀の国際関係」に集中する他はないです。ただ泉州そのものはセンター試験頻出の都市ではあります。2015年第2問の導入文は以下。

泉州は、唐代中頃から、南海貿易の中心となった港の一つである。泉州には、様々な出自・信仰を持つ外来商人が住み着いた。ここを拠点に長年にわたって胡椒(こしよう)貿易に関わった蒲寿庚(ほじゅこう)も、アラブ系もしくはペルシア系ムスリム商人とされている。元朝は、蒲寿庚の持つムスリム商人の貿易ネットワークを利用して、南海諸国に対し朝貢を勧誘して貿易を促進した。このことは商船の誘致にもつながり、13世紀、泉州は東アジア海域とインド洋方面との結節点として、繁栄した。

 「11〜13世紀」という漠然とした時間設定なので、この時期の中国・インド・イスラーム世界の王朝を思い浮かべてみるといいでしょう。その上で、それぞれの経済についてメモしていきます。「当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係」といっても中国史だけではないはずで、この記事を書いたイブン=バトゥータ自身がモロッコ出身で、中国に来る前はデリー=スルタン朝のインドに寄ってから来ています。つまりはインド洋を軸にすえて東西を広く網羅した解答文です。

 中国の11世紀は北宋、12世紀に南宋、13世紀に元朝が現れます。北宋はとくに陶磁器・絹・銅銭の生産で知られていました。教科書(詳説)に「宋代の中国では、青磁や白磁など陶磁器の生産がさかんとなり、絹や銅銭とともにジャンク船によって各地に輸出された。中国商人による交易の範囲は、東シナ海から南シナ海・インド洋にまでおよび、陶磁器を主要な交易品とするこのルートは陶磁の道ともよばれる」とある部分です。
 11世紀のインドはチョーラ朝が栄え、「11世紀にスリランカやスマトラに進出し、インド半島から東のインド洋の覇権を握り、また南インドの水田開発をすすめて繁栄した。この王朝のもとで南インドのヒンドゥー文明が確立した(東京書籍)」とあります。11世紀は世界史としては膨張の世紀と知られ、何も十字軍だけでなくレコンキスタ本格化、東方植民があり、商業ルネサンスが開始された時期でもありました。その勢いは13世紀のマルコ=ポーロ訪中までつづきました。西アジアのイスラーム世界ではアッバース朝の衰退が目立ち、代わってカイロを建設したファーティマ朝が貿易保護政策をとり、次第にバグダードに代わってカイロがイスラーム世界の商業の中核となっていきます。
 西アジアでは「セルジューク朝以降、……地中海とインド洋を結ぶ商業活動は活発におこなわれた。ムスリム商人は、奴隷や香辛料の交易にたずさわるばかりでなく、中国・インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラーム教の伝播にも大きな役割をはたした」とあります。
 またアフリカ東岸にもイスラーム世界ができて、インド洋貿易の一翼を担うようになります。「10世紀以降、その南のマリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワなどの海港都市にムスリム商人が住みつき、彼らによるインド洋貿易の西の拠点として繁栄した。やがてこの海岸地帯では、アラビア語の影響をうけたスワヒリ語が共通語としてもちいられるようになった。さらにその南方、ザンベジ川の南では11世紀ころから鉱産資源とインド洋貿易によってモノモタパ王国などの国ぐにが活動し、その繁栄ぶりはジンバブエの遺跡によく示されている」と。

 12世紀は東アジアでは金が南下し、西夏が西域を占拠してシルクロードの道をおさえ、南宋はこれら征服王朝下で苦しみながら、経済は「江浙熟すれば天下足る」といわれる繁栄をしていました。日本との日宋貿易(私貿易)として、敦賀・博多に来た宋人が高麗も含めた三国間貿易をおこなっていました。公貿易としては、平忠盛・平清盛による貿易振興政策がありました。インドの12世紀もチョーラ朝は東西交易の要でした。次第に東南アジアでもインドから来るダウ船がイスラーム教の普及ととともに商品を運んできました。「ダウ船とよばれるムスリム商人の船は、インド西海岸のカリカットやスーラトでインドの物産を積みこんでペルシア湾沿岸の諸港市に陸あげし、ここから陸路カスピ海南岸沿いにすすんでコンスタンティノープルやシリアの諸港に運ばれた。いっぽう、南インドの諸港からインド洋を西に横断した船は、アラビア半島の南をぬけて紅海沿岸に陸あげし、陸路、カイロを経由してアレクサンドリアやシリアの諸港に物資を運んだ(東京書籍)」と実に東西とも幅広い活動をしています。12世紀の西アジアの中心は上の記事の通り、やはりカイロで、「アイユーブ朝やマムルーク朝は、豊かな農業生産に加えて東西貿易の利益を独占し、首都カイロはイスラーム世界の経済・文化の中心地として繁栄をきわめた。このころインド洋と地中海を結ぶ交易活動をになったのは、カーリミー商人とよばれるムスリムの商人グループであった」(詳説世界史)とあります。

 13世紀はモンゴルの世紀「パックス=タタリカ(モンゴルの平和)」です。中国・北アジアではモンゴル帝国が現れ、イントではデリー=スルタン朝、カイロにはアイユーブ朝からマムルーク朝に交代します。
 『詳説世界史』の中国を中心に書かれた記事はこうです。

 元の時代には、中国もモンゴル帝国の広域的な交易網のなかに組みこまれ、長距離商業が活発となった。モンゴル帝国は、初期から交通路の安全を重視し、その整備や治安の確保につとめ、さらに駅伝制を施行した。その結果、おもにムスリム商人の隊商によって、東アジアからヨーロッパにいたる陸路貿易がさかんにおこなわれた。海上貿易も、宋代に引きつづいて発展し、杭州・泉州・広州などの港市が繁栄した。江南と大都を結ぶ南北の交通としては、大運河が補修され新運河もひらかれたほか、長江下流から山東半島をまわって大都にいたる海運も発達した。貨幣としては、銅銭・金・銀がもちいられていたが、やがて交鈔が政府から発行された。この紙幣は多額の取引や輸送に便利であったため、元の主要な通貨となった。不要となった銅銭は日本などに流出して貨幣経済の発達をうながした。

 西アジアについては上の12世紀の記事にもマムルーク朝(1250〜1517)という貿易保護政策をとった王朝のことが書かれています。日本と中国の貿易でも元寇のために一時は絶えましたが、その後は復活してきます。

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解答例の依頼先を変更しました

 拙著『世界史論述練習帳new』の巻末にある解答例の依頼先が変更になりました。yusurayama@enjoy.email.ne.jp となっていますが、以下に依頼のメールをください。大学名・年度・第何問と。高校名・何年・名前も忘れず。

 

whnashi◎yahoo.co.jp (← ◎の箇所を @ に変えて) 

16年東大模試

A模試
第1問
 18世紀後半、北アメリカで始まった革命を契機として、 19世紀前半までの間に大西洋を挟むヨーロッパとアメリカ大陸では、政治・社会・経済の大変革がおこった。この変革は当該地域に様々な影響をもたらしたが、その一つは内部の対立の顕在化であった。また、両地域の変革は環大西洋地域を越えて世界各地に新たな摩擦・対立を生むことになった。
 以上のことを念頭にヨーロッパとアメリカ大陸地域の変革に伴い当該地域や世界各地で生じた摩擦・対立について、19世紀中頃を中心に、その背景に留意しながら論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。
 フアレス 『共産党宣言』 南北戦争
 滅満興漢 日米和親条約 コッシュート
 シパーヒー フランクフルト国民議会

(解答)
ナポレオン没落後、列強はウィーン体制でナショナリズムの抑制に努めたが、二月革命に続きドイツ三月革命で体制が崩壊すると、ナショナリズムが高揚した。ドイツでは自由主義者がフランクフルト国民議会を開催して統一問題を討議し、小ドイツ主義と大ドイツ主義の対立が生じた。オーストリアの支配に対しては、コッシュートがハンガリーの独立を宣言した。イギリスで本格化した産業革命は、ヨーロッパ各地に資本主義社会を出現させ、資本家と労働者の対立が顕在化した。マルクスは『共産党宣言』を著して民族を越えた労働者の団結と社会主義国家の建設を訴えた。アメリカ合衆国の北部では工業化が進展し、奴隷制農園の批判が高まると、南部諸州が合衆国からの離脱を求め南北戦争が勃発した。中南米ではクリオーリョを主体とした独立運動の後も大土地所有制が存続し、権威主義的政治が行われたが、メキシコでは、フアレスを中心とする自由主義的改革が始まったことから、保守勢力の抵抗とフランスの干渉で内戦に発展した。欧米で進んだ資本主義体制はアジアを変動させた。日米和親条約で鎖国を破られた日本では攘夷運動を背景に倒幕の動きが活発化した。アヘン戦争の結果、自由貿易体制に組み込まれた清では銀価が高騰し、重税に苦しむ農民が滅満興漢を唱える太平天国に結集した。またイギリスの綿製品の流入で伝統的手工業の解体したインドでは、シパーヒーの反乱が起こった。
………………………………………
▲ 1800年前後の「大変革」とは産業革命であり、米仏の市民革命(大西洋革命)、ナポレオン戦争を指しているのは確かでしょう。それの「内部の対立の顕在化」を19世紀の中頃まで飛んで影響を与え、「摩擦と対立」が生じた、とする立論そのものに時間的な経緯を無視したムリがあります。
 「模範」解答例を見てみると、1800年前後の変革(内部の対立の顕在化)と関連させていない文がたくさんあります。
 まず「ナポレオン没落後(対立顕在化の終了後)」から始まっていますが、フランス革命はどこへ行ったのでしょう? これを元にしないで、ウィーン体制→二月革命に飛び、フランクフルト国民議会まで突っ走っている。摩擦・対立を書かなくてはならないので、普墺の大小主義は書かなくてはならないですが、これがフランス革命・ナポレオン戦争の「内部の対立の顕在化」とどう通じているのか説明してもらいたいものです。
 コッシュートもフランス革命とどう関係しているのか分からない。たんに国民議会のつづきとしてだけ書いている。
 産業革命と共産党宣言は通じやすいですから、なにか他にないの、という感じです。「イギリスで本格化した産業革命は、ヨーロッパ各地に資本主義社会を出現させ」ではなく、「イギリスで本格化した産業革命は、ヨーロッパ各地に工業化(産業革命)を進展させ」のはずです。飛びすぎです。
 あとの合衆国がいきなり「北部では工業化」なんて、どこに1800年前後の大変革(内部の対立の顕在化)がからんでいるのか分からない。せめて米英戦争と経済的自立のきっかけくらい書けよ、とおもいます。
 「中南米ではクリオーリョ」以降は確かに1800年前後なので、これはそのまま行けます。ただ「フアレス」と自由主義改革は1800年前後の変革(内部の対立の顕在化)とどうつながっているのか? 書いてありません。
 アジアの欧米進出と1800年前後の関連性はどこにも書いてないですね。「欧米で進んだ資本主義体制」だけで「大変革(内部の対立の顕在化)」を言い切っていいものでしょうか? 書くとすれば、「欧米市民革命は国民を統合し、産業革命は市場拡大を求めてアジアに侵出」と書くべきでしょう。「内部の対立の顕在化」より欧米側の国内結束です。
 出題文と「模範」答案のズレがひどい解答文でした。むしろ解答文からはシンプルに19世紀中頃に起こった内乱や内部対立を地域別に箇条書き風に書けばよかったようです。するとなぜ1800年前後の「大変革」をもちだしてきたのか分からなくなります。

B模試
第1問
 第一次世界大戦と前後してユーラシア大陸の東西では、それまで国際秩序を構成していた大帝国の解体が進み、その際、史料にあるような「強大な国家」から「弱小民族」が自立する動きが起きた。しかし、自立を目指した東欧、中央アジア、中東、東アジアの諸民族のうち、二十世紀を通じて国民国家を維持できたものは少なく、多くは新たな「帝国」支配や国際対立に組み込まれ、20世紀を通じて帝国の残像は旧領域に残った。このことは、現代にまで続く地域紛争や民族対立の原因にもなっている。
 以上のことを踏まえて、20世紀前半の帝国の解体の経緯と、その後の諸民族の動向について、21世紀初頭までを視野に入れて論じなさい。
 委任統治 ウィルソン サン=ジェルマン条約
 外モンゴル ダライ・ラマ チェコ チェチェン
 中東戦争

(解答)
東欧では、ウィルソン米大統領が提唱した民族自決の原則が適用され、オーストリア・ハンガリー帝国はサン=ジェルマン条約・トリアノン条約で解体、チェコ人などスラヴ系民族が独立した。ロシア帝国も革命で崩壊し、ポーランド・バルト3国などが独立したが、その大半は第二次大戦の際、ソ連に再併合された。第二次大戦後、東欧諸国はソ連の衛星国として共産圏に組み込まれたが、冷戦終結で社会主義政権が崩壊、チェコとスロバキアが分離し、ユーゴスラヴィアは解体した。ソ連解体で独立した各共和国では少数民族も独立を主張し内乱を起こし、ロシア連邦でもチェチェンの独立運動が起こった。旧ロシア帝国領の西トルキスタンではトルコ系ムスリムが社会主義共和国としてソ連に編入されたが、ソ連解体後に独立した。オスマン帝国はケマルの革命で滅亡し、トルコ共和国が成立した。旧オスマン領のアラブ人移住地域の多くはフセイン・マクマホン協定に反し、サイクス・ピコ協定に基づいて英仏の委任統治領となったが、シオニズムを掲げるユダヤ人がパレスチナに流入、第二次大戦後イスラエルを建国しアラブ人と中東戦争を起こした。東アジアでは清が辛亥革命で滅亡し、外モンゴルはソ連の支援で中華民国から独立した。チベットはダライ・ラマにより事実上独立したが、中華人民共和国成立後、人民解放軍が介入し抵抗を鎮圧した。その後もチベットや新疆では漢族との対立から暴動が起こった。
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▲ 1997年の過去問に「旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら」とそっくりの問題でした。指定語句は外モンゴルが同じでしたが、「模範」答案の文には、1997年の指定語句に使われていた語句、「民族自決、三民主義、少数民族、シオニズム、アラブ、モンゴル、オーストリア・ハンガリー、バルト三国」のうち三民主義以外はすべて使って書いてあります。あまり考えなかった物まね問題でした。新しいのは時間の範囲を「21世紀初頭まで」もってきたことです。1世紀もの時間の問題です。
 無理な課題とおもわれるのは、東大オープンと同様に時間的に長すぎることです。①帝国の解体の経緯に、②その後の諸民族の動向について、21世紀初頭までを」という長さです。じっさい、「模範」解答でも21世紀初頭まで書いているのは、「チェチェン……新疆では漢族との対立から暴動」ぐらいです。バルト三国にしても「再併合」の後のソ連崩壊と連動した再独立はあっていいのに書いてありません。ソ連から独立したウクライナ問題も書いていいでしょう。中東は「中東戦争を起した」で終わっていますが、ソ連解体・湾岸戦争後の中東における民族・宗派対立は書かなくていいのでしょうか? つまりチェチェン紛争以外に、アフガニスタン紛争(介入したソ連を追放するタリバン、その後の欧米軍の介入)もあります。湾岸戦争(1991)におけるアラブの分裂、スンナ派とシーア派の対立激化、米軍のプレゼンスと対抗する勢力(タリバン、アルカイダ)の台頭、パレスティナ自治問題などです。第一次世界大戦から問題になっているクルド人問題は今も未解決です。なぜ書いてないのか? 中国の21世紀初頭は「新疆」とするより「ウイグル(中国政府によるウイグル族弾圧)」の語句を使う方が題意に合っているようにおもいます。
 出題側の意図は、過去問1997年の目線は帝国側から少数民族へ向いているが、今回は少数民族が帝国の混乱でどうなったかを書かせる、ということらしいが、問題文に活かされていません。
 それに解答例にあるチェコとスロヴァキアが分離したことは少数民族問題なのでしょうか? ユダヤ人とアラブ人の対立は少数民族問題なのでしょうか? と疑問もでてきます。

 また東大の過去問の問題文は、第一段落は導入文で、第二段落は課題文、とほぼ決まっているのに、この実戦問題は導入文に地域限定をしているらしく「東欧、中央アジア、中東、東アジアの諸民族」と書いてしまっています。導入文で民族紛争・少数民族問題が多い地域をあげただけで、この地域以外のことも書くべきなのか迷う問い方でした。第二段落の課題文で、改めて「東欧、中央アジア、中東、東アジア」の語句を入れて問うべきでした。

 オープン・実戦のどちらの問題も、時空が広く長すぎて、書けることがたくさんあるので、どの事項をどこまで書くべきかの取捨選択に迷う問題となりました。東大の今年(2016)の問題が「1970年代後半から1980年代」と1989年冷戦終結のつながりを問うた問題であったためか、近い問題をつくってはみたものの、漠然とした問題しか作る能力がなかった。問題と「模範」答案がかみ合っていないのはそのためとおもわれます。出題者が自分の作った問題が何なのか理解しないで解答を作ってしまいました。

 

京都大学の過去問一覧

京都大学の過去問一覧 論述の字数は(  )

1989 1 モンゴル帝国時代における東西文化の交流について(300) 2 A 中国石窟 B 明清初の貿易 3 (a)前5世紀アテネの政治経済状況(100) (b)ローマ元首政の特徴(80) (c)西欧と異なるビザンチン文化の特色(120) 4 英仏独の議会史 5 メキシコ史 

1990 1 唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に(300) 2 A 12〜15世紀の北方民族 B 17〜19世紀中ロ関係史  3 (a)反宗教改革 (b)米の南北対立と西部開拓(150) (c)日露戦争の各国への影響 4 アテネ 前6〜前3世紀 5 スラヴ諸族(15世紀まで) 

1991 1 鉄器の出現がもたらした経済的・社会的変化(300) 2 A 明経済史 B トルコ民族移動史 3 (a)中世ドイツの国家発展(150) (b)米西戦争と米国の対外進出 4 A ギリシア文字からラテン文字へ B 15-18世紀のスペイン史 C 18世紀末から戦後までのポーランド史 

1992 1 戊戌の変法はどのような位置を占めているのか(300) 2 A 魏晉南北朝 B 唐文化 3 (a)ギリシア文化の東西への受容の仕方・影響の相違点(180) (b)ビザンツ帝国とロシアのかかわりと影響(150)、4 A 英中世史 B 19世紀英帝国主義 C 伊20世紀史

1993 1 10〜11世紀は,西アジアにおけるイスラム世界の転換期(300) 2  2 秦〜唐反乱史 明中期以降の新傾向文化  3 (a)モンロー宣言の背景と結果(150)  (b)九ヶ国条約の内容と中日への影響(200) 4 A エーゲ文明から13世紀までの地中海史 B 15〜17世紀オランダ、

1994 1 4世紀から5世紀中葉の大分裂時代(300) 2 A 孫文1905〜24年 B アラム文字から満州文字へ 3 (a)ギリシアの衰退(150) (b)啓蒙専制君主の名・背景・政治の特徴(200) 4 A ローマ末期から中世キリスト教史 B 仏第三共和政史 

1995 1 明のモンゴル政策(300) 2 A 諸子百家 B シーア派の歴史 3 (a)中世ヨーロッパ商業圏(200) (b)イギリス連邦(200) 4 A 前3世紀〜後3世紀のローマ史  B イベリア半島の海外進出 

1996 1 東西文化の交流(300) 2 A 宋史 B 清末対外戦争史 3 (a)キリスト教発展史(200) B 英仏の重商主義(200) 4 A ルネサンスの流れ B 第二次産業革命と帝国主義 

1997 1 五・四運動期の文化運動(300) 2 A 仏教流入史 B イスラム流入史 3 (a)都市比較:シュメール・ポリス・中世都市(300) (b)仏第四共和政第五共和政独立運動への姿勢のちがい 4 A スラヴ民族史(19世紀まで) B 1700年前後の西欧国際関係 

1998 1 中国の官吏登用制度(300) 2 A 明末清初の経済 B 西欧におけるイスラム文化 3 独伊ファシズム成立理由(300) 4 A ヘレニズム時代、6世紀のビザンツ帝国、十字軍(第4回十字軍の説明(100)) B 近世国際政治(ウェストファリア条約の説明(120))

1999 1 トルコの近代化(300) 2 A 武帝の対外政策、五代史も含む中国王朝交代史 B 遼・金・元朝を含む北京史 3 アルザス・ロレーヌにおける独仏対立(300) 4 A 前5世紀のアテネの民主政治(50)、スパルタの政治 体制(50)、ノルマンの移動 B オランダ独立と海外進出(13州の独立過程(60)、スペインの太平洋貿易(30))  

2000 1 2世紀末以降100年の中国(300) 2 A チャガタイ=ハン国史 B 清朝全盛期とその影響 3 ローマ的地中海世界の形成(300) 4 A バルカン半島史 B プロイセン史 C インド独立過程

2001 1 イスラム文化:過程・特徴・担い手・伝播(影響)(300) 2 A 洛陽史 B 海の道 3 近代奴隷制の特徴(300) 4 A キケロ時代のローマ B 近世から近代のイタリアへの侵入 C 近現代ラテン=アメリカ 

2002 1 7世紀から9世紀のモンゴル高原チベット雲南地方の諸国や諸民族の唐文化と政治的関わり、興亡について(300) 2 A 江南発展と大運河 B 9〜19世紀エジプト史  3 17世紀のイギリス・オランダ関係(300) 4 A 中世キリスト教会史 B 絶対王政の宮廷文化 C 19世紀後半〜20世紀前半のロシア・ソ連 

2003 1 宋明清の皇帝権強化制度(300) 2 A 辛亥革命とその後 B 古代オリエント史 3 第一次世界大戦中と戦後の英国のインド・エジプト政策(300) 4 A 古代・中世の都市キリスト教史 B 宗教改革・戦争 C 近代の政治と経済の革命

2004 1 セルジュク朝・モンゴル帝国オスマン朝の対イスラーム政策(300) 2 A 碑文による中国諸史 B 明清の朝貢関係 3 中世世界の形成につながる4世紀ローマ帝国(300) 4 A シベリア史 B 北米の植民地化と独立 C カミュとフランス現代史 

2005 1 1911〜37年の日中関係(300) 2 A 秦〜明の西安市 B 17世紀までのインド概略史 3 近代英仏関係史(300) 4 A ヨーロッパ統合起源 B 19世紀後半の西欧文化史 C 戦後ヨーロッパの復興

2006 1 1910〜50年代の西アジアの分割・独立・離脱(300) 2 A 10〜13世紀征服王朝 B 清〜中華民国の軍制 3 4〜8世紀の地中海地域の政治的変化(300) 4 A 中世〜20世紀の英国農村の変化 B 欧米の産業革命 C 20世紀ソ連

2007  1 中国の北に対する外交政策(300字) 2 A トルコ系民族史(6〜17世紀)、Bインド・中国・東南アジアの植民地化 3 1960年代の二極構造の変化(300) 4 A 軍事指導者たる西欧君主(古代〜現代)、B 太平洋探検と先住民、C 合衆国の独立と発展

2008 1 唐宋支配層の土地制度と学術を対比(300) 2 A 蒙古高原と中国(前3〜10世紀)、B ルブルクの旅行 3 ギリシア独自の民主政治(300) 4 A 宗教的寛容(17-19世紀)、B 西アフリカと西欧、C 20世紀後半世界経済の一体化

2009 1 19世紀末から1947年までの回印関係(300)  2 A 紀元前から17世紀までの中国地図史 B 7-14世紀朝鮮史 3 大航海による新旧大陸の変化(300) 4 A ギリシアとローマの比較 B 中世の周辺民族との戦い C 17-20世紀独露関係

2010 1 中国共産党史(300) 2 古代中世西アジア史・ロシア帝国清朝の拡大 3 古代中世の軍事制度(300) 4 東方正教会史・近現代の人口圧・東南アジアの植民地化と独立○2011 1 4-12世紀の江南開発(300) 2 古代インド・10-11世紀東アジア 3 1921年から1930年までの合衆国の関与(300) 4 古代中世のライン川ルイ14世の治世・バルカン半島近現代史

2011 1 4-12世紀の江南開発(300) 2 A 古代インド史 B 北宋の政治と国際交流 C 日清戦争から袁世凱新文化運動 3 1921〜1930年の米国による国際秩序形成(300) 4 A ライン川の古代中世史 B ルイ14世の治世 C バルカン半島の近世近代史

2012 1 仏教・道教の発展・政治・社会・文化への影響(300) 2 A イスラーム文明の発展 、B 19世紀後半から20世紀の米中関係 3 18世紀後半-19世紀前半期、米・西領の変化の特徴(300) 4 奴隷や農民の反乱・西欧史の包摂と排除・電力史

2013 1 ウンマ成立の経緯、主要な政治的事件とその結果(300) 2 A 古代における「中国」 B アルメニア史 3 19世紀仏露関係史(300) 4 A ギリシア・ローマの史書 B ジブラルタル海峡史 C 第三世界

2014 1 科挙の政治的社会的文化的側面(300) 2 A 洛陽史 B イランの民族史 3 冷戦展開とドイツ史(300) 4 A 11世紀以降のイベリア半島 B 議会参加の歴史 C 欧米の民族差別的侵出

2015 1 4回の戦争・講和による経済権益と外交の改変(300) 2 A 古代インド史 B スンナ派シーア派 3 前3〜前1世紀ローマ軍・政体の変化(300) 4 A 西欧中世の団体 B 近世キリスト教改革 C 19・20世紀のパン主義

2016 1 9-12世紀のトルコ系の人々のイスラーム化過程(300) 2 A 粛慎の朝貢 B 中国史の「党」 3 英国・普国啓蒙思想(300) 4 A 西欧古代中世都の船 B 西欧近世・近代のディァスポラ C 冷戦から多極化へ

2017 1 前3世紀から後4世紀初頭の匈奴と中国(300) 2 A 梁啓超の新史学 B エジプトの宗教史 3 ソ連、東欧諸国、中国、ベトナムの変革比較(300) 4 A 西欧古代中世の移動 B 近世から現代までのバルト海の覇権

2018 1 トルコの国家統合(300) 2 A 秦〜宋の統一 B 20世紀の中国直轄市 3 十字軍の影響(300) 4 A 西欧古代中世の地理学 B 長い19世紀

2019 1 4〜17世紀前半の東北の歴史(300) 2 A 古代オリエントの文字 B 清朝の帝国支配 3 16〜18世紀インド侵略(300) 4 A 西欧中世の相続 B 移動手段の発達と強いられた移動

2020 1 ソグド人の活動と中国の文化への影響(300) 2 A ムスリムと非ムスリム B 中国近現代の海洋政策 3 核兵器開発(300) 4 A 西欧古代〜近世の正戦論 B 情報伝達手段の発展

●2021 1 宣教師が訪中した背景・活動・影響(300) 2 A シリア地方興亡史 B 西アジアの古代・中世文化 3 1815年からのドイツ統一(300) 4 A 古代ギリシアローマ市民権 B 西欧の動物(馬・牛・象)・革
●2022 1 15〜16世紀マラッカ王国史(300) 2 A 古代オリエントの文字 B 16世紀〜現代の中国の人口史 3 アテネローマ市民の市政(300) 4 A 12〜19世紀の大学史 B 石炭・石油の西欧近現代史
●2023 1 5〜12世紀モンゴリア史(300) 2 A 17〜20世紀マレー世界 B 19〜20世紀の米中関係 3 7〜15世紀イベリア半島レコンキスタ史(300) 4 A キプロス島史 B 東西冷戦の変化

『世界史論述練習帳new』訂正

巻末付録「基本60字」の10p、1番
「春秋戦国期の農業の技術的変化について述べよ。(指定語句→鉄製農具 牛耕)」という問題にたいして次のような解答を出しています。

石器・木器から鉄製農具へ、黄土台地の農耕から牛耕・灌漑による沖積平野の畑作へ、氏族共同体の経営から家族単位の経営へ変化。

 このうち「氏族共同体の経営から家族単位の経営へ」は技術的変化とは言いがたく、社会的な変化です。受験生の指摘により、次のようにこの解答を訂正します。指摘者に感謝します。

石器・木器から鉄製農具へ、黄土台地の農耕から牛耕・灌漑による沖積平野の畑作へ、用水路・堤防建設により荒地を耕地に変えた。

 

p.37

 わたしの解答例に「チャールズ2世の旧教復活」という誤句があります。まちがいです。「ジェイムズ(ジェームズ)2世」が正しい。