世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2017

第1問
 「帝国」は、今日において現代世界を分析する言葉として用いられることがある。「古代帝国」はその原型として着目され、各地に成立した「帝国」の類似点をもとに、古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある。
 以上のことを踏まえて、前2世紀以後のローマ、および春秋時代以後の黄河・長江流域について、「古代帝国」が成立するまでのこれらニ地域の社会変化を論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。(太字は中谷の強調)
  漢字 私兵 諸侯 宗法
  属州 第一人者 同盟市戦争 邑

第2問
 世界史に登場する国や社会のなかで、少数者集団はそれぞれに、多数者の営む主流文化との緊張のうちに独自の発展をとげてきた。各時代・地域における「少数者」に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) ポーランド人の国家は14世紀後半から15世紀に隆盛したが、18世紀後半に至ってロシア、オーストリア、プロイセンによって分割された。ポーランド人はそれぞれの大国のなかで少数者となり、第一次世界大戦を経てようやく独立した。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ポーランド人の国家が隆盛した時期の状況と、その後衰退した背景について、3行以内で説明しなさい。
 (b) プロイセンの主導でドイツ人の統一国家が成立した際、ポーランド人以外にも有力な少数者集団が、国内の南部を中心に存在した。それはどのような人々であり、当時いかなる政策が彼らに対してとられたか、2行以内で説明しなさい。

問(2) 史上たびたび、アジアには広域支配を行う国家が登場し、民族的に多様な人々を治めるのに工夫をこらした。また、近代に入ると、国民国家の考え方が、多数派を占める民族と少数派の民族との関係にも大きな影響をもたらした。これらは、今日に至るまで民族の統合や衝突の背景となっている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 清朝は、藩部を掌握するために、どのような政策をとっていたのか、2行以内で説明しなさい。
 (b) 1965年に独立国家シンガポールが成立した。その経緯について、シンガポールの多数派住民がどのような人々だったかについて触れながら、2行以内で説明しなさい。

問(3) 北アメリカ大陸各地でも、ヨーロッパ人植民以来の発展のなかで様々な少数者集団が生まれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) カナダの国土面積の約15パーセントを占めるケベック州では、今日なお半数以上の住民が英語以外のある言語を母語としている。このような状況が生まれる前提となった、17世紀から18世紀にかけての経緯を2行以内で記しなさい。
 (b) アメリカ合衆国では、南北戦争を経て奴隷制が廃止されたが、その後も南部諸州ではアフリカ系住民に対する差別的な待遇が続いた。その内容を1行でまとめ、その是正を求める運動の成果として制定された法律の名称と、そのときの大統領の名前を記しなさい。解答はそれぞれ行を改めて記しなさい。

第3問
 人類の歴史は戦争の歴史であったといっても過言ではない。古代から現代に至るまで世界各地で紛争や戦争が絶えなかった。戦争に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) パルティアの領土を引き継いだササン朝は、西方ではローマ帝国としばしば戦火を交えた。260年のエデッサの戦いでは、ローマ軍を打ち破ってウァレリアヌスを捕虜とした。このときのササン朝の君主の名前を記しなさい。

問(2) 北部を除くイベリア半島全体を支配下におさめたイスラーム勢力は、ピレネ一山脈を越えて南西フランスに侵攻したが、732年、トウール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の騎馬軍に敗北した。このときのイスラーム勢力およびフランク王国のそれぞれの王朝名を記しなさい。

問(3) 三十年戦争は、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に対して、ベーメン(ボヘミア)の新教徒が反抗したことから始まった。バルト海に影響力をもっていたある新教国は、当初は参戦していなかったが、皇帝軍の北進に脅威を抱いて途中から参戦した。この新教国の当時の国王の名前を記しなさい。

問(4) ナポレオンは、1798年、イギリスのアジアへの通商路を遮断するためエジプトに遠征し、在地のマムルークをカイロから追放し、さらにエジプトの奥地やシリアにも転戦した。その後、フランス軍は1805年にイギリス艦隊に大敗した。ジプラルタル付近で起こったこの戦いの名称を記しなさい。

問(5) 清では、1860年代から、西洋の軍事技術などを導入して富国強兵をめざす政策が推進され、兵器工場なども建てられた。この政策において、曾国藩、左宗裳とともに中心的役割を果たした人物の名前を記しなさい。

問(6) 19世紀後半、南下政策を進めるロシアは、オスマン帝国からの独立をめざすバルカン地域を支援し、オスマン帝国と戦い、勝利した。このとき、締結された条約によって、ロシアはひとたびはバルカン地域での勢力を大幅に強めた。この条約の名称を記しなさい。

問(7) 19世紀末のスーダンでは、アフリカ縦断政策を進めるイギリスと、アフリカ横断政策を進めるフランスが対立し、軍事衝突の危機が生じたが、フランスの譲歩により衝突は回避された。この事件の名称を記しなさい。

問(8) インドシナでは、1941年に共産党を中心として、統一戦線が結成された。この組織は、植民地からの独立をめざして日本やフランスと戦った。この組織の名称を記しなさい。

問(9) 1963年に3か国の間で調印された部分的核実験禁止条約(PTBT)は、地下実験を除く核兵器実験を禁じている。この3か国の名称を記しなさい。

問(10) 17世紀の前半に活躍したある法学者は、戦争の悲惨さに衝撃をうけて『戦争と平和の法』と題した書物を著し、軍人や為政者を規制する正義の法を説いた。この法学者の名前を記しなさい。

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第1問
 この問題を作ったひとはフランシス・フクヤマ著『政治の起源 上・下』(講談社)を読んで刺激を受けたとおもわれます。この本は始皇帝のつくった帝国が西欧で19世紀になって実現する中央集権国家をすでに実現していた、と主張するものです。西欧のギリシア・ローマに見られる古代帝国の形成についてはわずかにしか説明されていませんが、ちょこちょこ比較しつつ指摘するだけです。ならば、ローマ帝国の形成と比較する問題を出してみよう、と。
 フクヤマは序文で「国家は、その過去にとらわれ続けるわけではない。ただ、数百年、あるいは数千年も前に起きたことが、政治の本質に大きな影響を与え続けていることが、往々にしてある。今ある諸制度の機能を理解しようとするなら、その起源と、制度を生みだした偶然の力を考えてみる必要がある。……私は中国の国家形成を一つの基本的な枠組みと考え、他の文明がなぜ中国のたどった道をたどらなかったのか考えてみたい」と述べていて、世界史を学ぶひとには頭の体操になる面白い書です。

 この第1問のポイントは「大きな違いがある。以上のことを踏まえて」とある部分です。フクヤマと同様に帝国形成過程を書かせて、二つの帝国がどういう違った帝国を形成してしまったかを探させようとしています。
 ある予備校が発表している次の解答例を読んでみてください。

重装歩兵を担う市民団を基盤とする都市国家ローマは、ポエニ戦争に勝利し属州を広げたが、市民団を支える中小農民が長期の従軍と属州の安価な穀物流入によって没落した。一方、同盟市戦争でローマ市民権がイタリア半島の全自由民に認められ、ローマ市民団は拡大し公用語のラテン語も広がった。没落した無産市民を私兵化して台頭した実力者の内乱は激化し、有力軍人による三頭政治・カエサルの独裁を経て、オクタウィアヌスが勝利し地中海地域を統一した。その後、市民の第一人者を意味するプリンケプスを称して市民共同体の理念を尊重しつつ、元老院からアウグストゥスの称号を受け、軍事・政治の最高指導者となった。春秋時代から戦国時代にかけて、宗法を基盤とする血縁的なの連合体が存在していたが、鉄製農具や牛耕の普及などで農業生産力が向上すると、家族単位の農業が可能となり、氏族共同体の結束は失われて封建制は崩れていった。諸侯は新県を設け開発を進めて小農民を統率し、商業を振興し有能な人材を実力本位で登用するなど富国強兵策を推進し、地域的な領域国家が形成された。周王の権威は失われ各国君主が王を称していたが、諸子百家のうち法家思想を採用した秦が中国を統一すると、光り輝く天の支配者を意味する皇帝を称し諸王の上に君臨した。郡県制による支配が各地に拡大し、篆書に統一された漢字は、長江流域を含む各地での集権的な官僚統治に役立てられた。

 この答案の中で「大きな違い」にあたるものを指摘しなさい、と問われて指摘できるとひとはどれだけいるでしょう?
 歴史の名称がちがうことは相違点を意味しません。たんにラベルが違うことを制度の意味の違いとは言わない。インドのヴァルナ制と新羅の骨品制はどちらも身分制度ですが、名称がちがうことは中身の違いを指摘していない。イクター制はイスラーム世界の封建制で、ビザンツ帝国のプロノイア制も封建制ですが、それは中身がどう違っているのか名称だけでは何も示していません。こんなに当り前のことを言わなくてはならないくらい、思考が劣化している答案です。答案の作者は違いを書いたつもりでしょう。たんに羅列しただけなのに、比較して「大きな違い」を表わしたとおもっているようです。
 も少し具体的に見てみましょう。ローマではしきりに「市民団」という語句を使ってますが、これは中国では何に当たるのか? 家族でも氏族でもない。何か個人の権利を指している「市民」とその団体という言葉「市民団」は中国古代には存在しない。なぜこの市民という概念、個人の権利の上に立つ国家という、ギリシア以来の西欧独特の語句を使いながら、中国にそれがないことを指摘しないのでしょうか? 指定語句に「同盟市戦争」があるのになぜ気づかないのか? 過去問に「ローマの市民権の拡大について2行以内で説明しなさい。(2011)」というのもあったのに?
 ローマで農民の没落と私兵化が書かれていますが、これは中国ではないのか、あるのか? 中国の鉄製農具と牛耕農法が書いてありますが、ローマでは農業技術の革新はない? 比較・対比は同じ分野・テーマで比べる、という比較する際の基本が分かっていないようです。ローマでA・B・Cを書いて、中国でD・E・F・Gという風にちがう分野のことを書いても比較したことにならない、A-A'、B-B'、C-C'、D-D'と分野毎に比較しないと比較したことにならない、という基本のことです。
 ローマでは都市国家ということから出発していますが、中国の都市とローマの都市はどう違うのか? 統一への過程において都市はどう変化したのか? 中国では法家思想が統一への思想となっていますが、ローマの思想は何か? 万民法と法家思想はどうちがうのか? 中国の漢字・諸子百家という文化的なことがらはローマではどれが該当するのか?
 「公用語のラテン語も広がった」と「統一された漢字」とどう違うと言いたいのか? 言語と文字?
 君主の称号「アウグストゥス」は「尊厳者」という神にささげる尊称であり、じっさい死後ローマ皇帝はみな神として礼拝されることになります。この称号と「光り輝く天の支配者を意味する皇帝」とどう違うのか? 同じではないのか? アウグストゥス帝が残した自身の記録は『神皇アウグストゥス業績録』と呼ばれています(桜井・木村共著『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論社 p.322)。

 これほど「大きな違い」を何も書かない答案を採点官はどう評価するのか聞いてみたいものです。この「大きな違い」が必要ないのであれば、第2問の(a)・(b)のように分けて別々に書いたらいい問題になります。なぜ同一の問題の中で、同時代の二つの帝国形成について書かせているのか出題意図が分からなくなります。
 この問題だけでなく、比較の問題になるとどの予備校(講師)もまともな解答文が書けません。例年のことなので何も驚くことではないですが。東大はこれまでにも「奴隷制廃止前後の差異に留意しながら(2013)」「差異を考えながら(2012)」「特徴を比較して(2009)」「対照的な性格に留意しつつ(1998)」「解体過程の相違に留意(1997)」と比較の思考を要求してきた過去があり、比較文が書けることは必須の論術です。これではいつまで経っても進歩がないですね。進歩のなさが、怖いところです。

 「大きな違い」という語句を無視した、問題文が読めなかった、比較文が書けない、というだけでなく、出題者の意図がまったく読めなかった、という欠陥もあります。まったく違うタイプの帝国を比較するという課題がなぜ捉えられなかったのか?
 他人の答案を批判したので、自分の答案を下の方で載せておきました。
 予備校だけでなく、受験生も中国とローマの統一なんてなんとか書けるととおもい、それぞれの流れをずらずら書いて終わったでしょう。ちょっとでも踏ん張って構想メモをつくったひとは居るでしょうか。流れに埋没して「大きな違い」なんて独りでに現れるはず、と甘く考えたでしょう。しかし受験生が書いてくれた再現答案の中では、少しでも違いを書いた受験生が合格しています。上の予備校講師の解答を越える解答です。

 さて、出題意図を探ってみます。政治・経済・文化の三つの分野に分けます。課題は「ニ地域の社会変化」といいながら、この「社会」は一番広い使い方です。一般には「社会」とあれば政治以外のすべてですが、たいていは経済を書けばいいものの、この導入文の「社会」の使い方は政治も文化もみな入っているようです。というのは、「「古代帝国」……古代社会……「古代帝国」の成立」と「帝国」は明らかに政治用語であり、ここでは政治と社会が等価で扱われています。「法則」という議論にまで言及すると、政治と経済がからむことは自明でしょう。

 導入文にある「古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」という部分についての考察です。マルクス主義の法則的な階級闘争的史観(唯物史観)では「古代」は奴隷制社会のはずでした。しかしこの単純な「法則」ではすべての古代帝国は捉えられないとして「法則の枠組みに収まらず」と述べ、その実例として君主の「呼び名」にも現れていると指摘しています。
 上の疑問点をあげたところで、オクタウィアヌスはアウグストゥスと元老院から授けられた称号を自らは名乗りませんでした。かれの強調点は指定語句になっている市民の中の「第一人者」、「第一の市民」という意味のプリンケプスです。権力は集中していて後世の史家は皇帝政の開始ととっていますが、この表現は避けて市民の中の「第一人者」と呼ぶことで独裁者カエサルの二の舞になりたくない、という意志が働いていました。カエサルのように地位を終身にせず、毎年更新するかたちをとったのも、その慎重さを表わしてます。皇帝は元老院で選ばれる地位であり、その元老院議員はパトロヌス(保護者)とクリエンテス(被保護者)という庇護関係(パトロネージ)の親分たちでした。元首政を皇帝と元老院の共同統治と表現します。元老院はまだ無視できない権威をもっていました。アウグストゥス帝とて「護民官」という平民を守る官職と義務を負っています。本来、アウグストゥス帝はパトリキなので、パトリキはプレブスだけが就けるこの官職に就けなかったのに、わざわざ元老院に法案を通過させて就任しています。
 この問題の場合は専制君主政(ドミナートゥス)まで言及する必要はないでしょう。後者の場合は元老院の意味がなくなるからです(拙著『世界史論述練習帳new』別冊のp43「元首政と専制君主政のちがい」参照)。

 「市民」という政治的な権利については、中国史では現代にいたるまで認められた歴史がありません。始皇帝は個人の生殺与奪の権利をもつ、いわば唯一自由な地位にありました。現・中華人民共和国憲法の第二章に市民の権利を定めたものがありますが、それらは「いかなる組織ないし個人も社会主義体制を破壊することを禁止する」という条項によって無意味にされます。同じように自民党改憲案・第13条では「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福求に対する国民の権利」としながら、その後に「公益及び公の秩序に反しない限り」と条件を付けることで前文を反古にしてしまいます。自民党は市民の権利を削ることに余念がない。ローマ史には平民が貴族の権利をつかみとる長い歴史がありました。個人の権利を認めた上での帝国、という西欧近代国家に近いものです。

 また官僚制の発展も帝国形成には不可欠の事柄であり、中国の場合は能力主義の官僚制を発展させることと連動していました。それは封建制度・血縁の関係の強い社会のつながりを切り裂くものでした。諸子百家といわれる有能者たちは、各国に誘われ、自ら求めて遊説して回りました。孔子が遍歴した国は故郷の魯から周→斉→魯→衛→陳→宋→鄭→蔡→楚→衛と回って魯に帰国しました。孟子は梁→斉→宋→藤→魯→鄒と遍歴しました。商鞅の遍歴は衛→魏と回って秦で落ち着きました。呉起の遍歴は衛→魏→楚でした。これらのうち商鞅・韓非・李斯の法家グループが官僚制の必要性を説いて、法家に学んだ始皇帝が統一に成功しました。この点についてフクヤマは「中国では知識人と官僚の役割の融合が行われたが、これは世界のほかの文明では見られなかったことだ」と指摘しています(p.176)。これは新しい指摘ではなくエチアヌ・バラーシュの『中国文明と官僚制』(みすず書房)で明解に説いていることでした。
 ローマ帝国の官僚制はどうだったでしょう? 専制君主政になって「巨大な官僚体制をきずいた。官吏の力は強大となり、皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制ができあがった(詳説世界史)」とあるのであれば、それ以前の元首政においては官僚制は発展していなかった、と推理できます。もっと詳しく説明しているのは東京書籍の教授資料(先生用のアンチョコ)です。以下。

 ローマ皇帝は、帝国の細部にわたって綿密な管理をほどこすといった体制をとらず、各地の都市に広範な自治を与えていた。皇帝の公務は、午前中いっぱいと午後の一部であった。また、一日の政務の多くは裁判が占め、巨大帝国の統治者のわりには、行政そのものを行う時間が少なかった。皇帝が行政に励まなくとも、帝国は麻痺しなかった。その理由は、皇帝は一切を集中管理せず、各官僚に裁量権を与え、行政決定を任せていたからである。官僚も多大な時間を公務に割いたわけではなかった。勤務時間は、夏至ならば午前7時から10時半すぎまで、冬至ならば9時から11時すぎの午前中のみであった。また、官僚の定員も帝国の人口約6000万人に対して、ただの300人であった。
 このように帝国は驚くほど少数の官僚で運営され、皇帝も行政のすべてを陣頭指揮したわけではなかった。巨大帝国がなぜ「官僚制なき小さな政府」で統治できたのだろうか。その理由をあげると、中央政府は地方行政を各都市へ丸ごとゆだね、最低限の干渉にとどめたこと、各地の秩序が維持され徴税が確保されれば行政の目的を達成したとみなしたこと、などであった。ローマ帝国は、地方の都市を帝国行政の歯車に利用することで、帝国存立に最低限必要とされた各地の秩序維持と徴税が確保できたのである。

 時期は少しずれますが、ローマが「人口約6000万人」だった頃、前漢末の人口数も約6000万人弱(5959万4978人)でした。ローマの官僚が300人だったのに対して、前漢の官僚数は約13万人と見積もられています(鈴木正幸他三氏編『比較国制史研究序説』の中の渡辺信一郎「中国古代専制国家論」)。秦の人口数は前漢より半分以下と見られていますが、それでも官僚比率の差は大きいといえるでしょう。

 こうした事柄を知らなくても、ローマが征服地の統治に関して、徴税請負制をとったことは習うでしょう。請け負ったものたちが財産を蓄え、「騎士(エクイテス)」と呼ばれるようになることも習いますね。かれらが本来ローマが国家としてやらねばならない仕事を請け負いました。仕事の内容は広範です。

かれらが請負ったものに、第二次ポエニ戦争中のごとき公共建築・土木請負や戦時の食糧・軍衣供給などのほか、財産税・奴隷解放税・関税等の徴集、公有地とくに共同牧地における放牧税、属州の十分の一税の徴集、さらには塩の専売、鉱山採掘権、森林・漁撈権にまで及んだ。これらの請負契約はローマで戸口調査官との間で結ばれ、初めは個人が契約したが、おそくも前二世紀の初めには一種の会社組織(societas)が現われている。(弓削達『ローマ帝国論』吉川弘文館 p.94)

 上の上の引用文に都市について「中央政府は地方行政を各都市へ丸ごとゆだね」とある点でも中国との違いを示しています。ローマは半島統一戦争の過程で、都市との戦いに勝利しても、その所有地の全てを奪っておらず、3分の1くらいを取りあげて、後は従来通りの自治を認め、その代わりローマ市との関係では市民権格差を設けて分割統治をしました。植民市・自治市・同盟市の3区分です。こうした都市自治の伝統が、6世紀のユスティニアヌス帝のときに起きたニカの反乱でも現れていて、この皇帝のときになってやっと自治を奪いました。
 対して中国の都市は初め「邑」という都市国家(邑制国家)にあたる表現でしたが、戦国時代にこれらの邑は「郡」「県」と名付けられて中央政府の末端基地としての役割を担わされます。新しい開拓地や他国との戦争に勝利すれば、全ての土地を奪い、その中心都市(邑)を郡・県と呼んで王の直轄地とし、家臣には有能な人材を選びかれらを官僚として郡や県に派遣し統治させました。そこにはローマのような自治を認める要素はなく、独立性の乏しいものでした。帝国にとっての都市の位置づけがローマと違っていたのです。

 奴隷制についてはどうでしょう? ローマはラティフンディアが発展したので奴隷制は前提ですが、中国はかつてはマルクス史観(郭沫若)にたって殷周時代を奴隷制としていましたが、今は殷代までしか奴隷制をあてはめていません。ローマは帝国領の拡大とともに奴隷の増大になりましたが、戦国時代の中国が奴隷制を発展させたとは言えないようです。戦争があり、捕虜が奴隷になるのは中国でもありえましたが、あくまで「捕捉的な」労働力でした(貝塚茂樹・伊藤道治『中国の歴史1』講談社 p.382)。
 その点でいえば、ローマでは奴隷労働が要らなくなるような技術革新をしないことになっていて、農業技術の変化は見られません。戦国に鉄製農具・牛耕農法が普及しますが、各国も富国強兵策のため開墾・干拓・灌漑を奨励し、土地の私有制を広めました。「従来、共同体に所属している農民たちは、土地の占有権を持っただけで、所有権は持たなかったが、その土地の売買が自由化していく過程で、しだいに所有権に変わった。共同体の土地を共同で利用していたはずの農地が、小単位に分割され、それに対する所有権をもつことになった結果、地主階級が生まれてくることになった。」(前掲書p.380-382)。そうすると貧富差も出てきますが、大多数の農民は小規模自作農民でした。
 ローマは半島統一戦争の過程で3分の1ほどを取りあげる、と書きましたが、それらは公有地とし、中小農民が参戦して取りあげた土地、すなわち「公」有地でありながら、じっさいには大土地所有者が利用しました。そこでリキニウス法(前367)が制定され、公有地500ユゲラ(約125ha)以上占有禁止、公有地に100頭以上の牛、500頭以上の羊の放牧の禁止、という内容から中小農民が外されていることが分かります。前111年には占有地の私有を認めていき、それはまさに大土地所有の容認でした。大きい例では1人が2万人の奴隷を所有して経営していたことが知られています。中国ではありえない異様な光景です。

 中国統一の原動力となった法家思想とローマの万民法はどう違うのでしょう? 
 戦国時代に『法経』を著わした李克(李悝 りかい)から法家思想が始まり、商鞅、韓非、李斯と受け継がれ、富国強兵・信賞必罰の徹底で統一を実現しました。人間を信用せず、並ぶ者のない専制君主の下で法の施行(法治主義)こそ統治の基本と考えるひとたちです。
 ローマの法は十二表法から始まりますが、これは市民にだけ通用する法であり、万民法はローマの支配地域が拡大すると必然的に現れました。ストア哲学から受け継いだ法の前の平等の考えが影響したようです(福田歓一『政治学史』東京大学出版会 p.62-75)。前242年の外国人との商法を定めたのが最初とみられていて、中国のように国内の集権化や統一のための政治的な法ではありません。万民法は非市民である外国人との関係法として発展し、これが増えていき、212年のカラカラ帝のアントニヌス勅令で、帝国内全自由民に市民権を与えたため、市民法と万民法の区別がなくなりました。これはしかしアウグストゥス帝の登場のあと約250年後のことです。帝国成立までに果たした役割は小さかったと言えるでしょう。

 指定語句となっている「漢字」は始皇帝が統一とともに小篆に統一したことも名高いできごとです。七雄が官僚制を拡大していく際に、それぞれの余り違いのない文字(金文)を使用していて、統一後に秦の使用していた大篆を簡略化した小篆に統一しました。上に書いた知識人たちの全国遊説も漢字の拡大につながったでしょう。官僚は、徴税記録、認可証明書などの事務処理のために漢字を多用したはずです。
 ローマの場合は、東方属州はギリシア語とギリシア文字、西方属州はラテン語が公用語で、ラテン文字が使われています。これだけでなく、帝国内にはゲルマン人たちのそれぞれの言語にルーン文字、フェニキア人のアルファベット、シリア人のシリア文字、ユダヤ人のヘブライ語とヘブライ文字、アラム語は当時の西アジア公用語で、アラム文字はアラム商人を通して東方に伝わります。旧約聖書の一部はアラム語で書かれています。200年頃に編纂された新約聖書はギリシア語で書かれました。マルクス帝のようなストア哲学者たちはギリシア語で著作しました。バイリンガルであることがローマ知識人の常識でした。このように中国との違いは大きい。

 長くなったので、第2問・第3問の解説は省略です。

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(わたしの解答例)

第1問

黄河・長江流域の氏族共同体は宗法で維持されていたが、をもつ諸侯たちが互いに覇を争い、それは七雄の抗争に発展し、秦が統一帝国を形成した。その間、奪った国・土地・都市に官僚を派遣して直接統治をした。ローマは半島以外の征服地を属州としたが、都市の土地を全土奪わず、市民権を3段階に分けて分割統治をした。同盟市戦争が市民権格差をなくし、都市自治を認め、官僚制は徹底しなかった。次第に私兵を養う将軍たちが台頭し政治を左右した。三頭政治を勝ち抜いた将軍のオクタウィアヌスが元首政を始める。始皇帝は神・上帝に等しくなったが、元首は元老院で選ばれ、護民官も兼ね、市民の第一人者を自称した。経済面。中国では鉄製農具の導入以降から共同体経営が崩れ、家族経営の小地主たちが戦国の各国を支えた。ローマは戦争の捕虜が奴隷として売買され、奴隷制立脚のラティフンディウムが発展した。そのため中小農民が没落した。奴隷がローマを支えたため、奴隷労働が要らなくなるような技術革新は抑えられた。中国にはこのような奴隷制は発展しなかった。文化面。七雄君主は諸子を招いて富国強兵を図ったが、法家が集権化に貢献した。また金文から発展した各国の漢字は似通っていて統一とともに秦の小篆にまとめられた。ローマではラテン語を公用語としたが、多くの異言語・異文字と共存した。万民法は市民法以外の法として徐々に整えられたが統一に寄与することはなかった。

2017年度・合格者の再現答案

2017年度再現答案
(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

 

東大第1問
中国では血縁に基づく共同体で構成された邑が連合した邑制国家や、王から封土を与えられて血縁共同体で支配する封建制だった。封建制では一族独自の宗法が定められた。春秋時代以降、周王の権力が弱体化すると、各地を支配した諸侯が中国統一を目指して戦乱を繰り広げた。諸侯は各地で富国強兵を進め、血縁的枠組みが解体されると地縁が優先されると共に、各国毎に貨幣や度量衡、独自の文字などの文化も生まれた。秦は厳格な法による支配を基に富国強兵を進め、各地の諸侯を征圧して統一を達成した。秦は貨幣を半両銭で統一して度量衡も統一した。また、文字も漢字で統一する共に、皇帝を中心とした官僚制を整備、中国の単一国家としての統一を達成した。ローマでは君主が制度上存在しない共和政が敷かれた。また、ローマは対外戦争で中国と異なり、武装自弁した市民が兵力として役割を担い、海外植民地である属州の獲得に貢献した。その結果、ローマは領土を拡大し多民族国家となった。ローマは属州と個別に同盟を結ぶ分割統治を行い、属州は当初市民権を与えられなかったが、同盟市戦争の結果獲得した。相次ぐ戦争と安価な輸入用穀物が原因で市民が没落し、有力者が没落した市民を私兵化した。ローマでは元老院が有力で独裁を許されず、カエサルが独裁を図ったが失敗した。その後オクタウィアヌスが台頭すると市民の中の第一人者として要職を兼任し、多民族国家ローマを治めた。


京大
問1
以前より匈奴は中国の諸国と抗争していたが、前3世紀中国を統一した秦の始皇帝の前に敗北した。しかし間もなく秦が滅ぶと冒頓単于のもとに勢力を回復。前漢の劉邦を白登山の戦いで破ったが、前2世紀武帝が現れると、彼が派遣した将軍に敗れ服属し、西域都護府が設置された。後漢に至るまでこの支配は続き、この間匈奴の中には漢民族と同化する者もいた。三国時代を経て3世紀に晋が中国を統一した。八王の乱の際に匈奴は他の異民族と共に兵力として用いられたのを機に介入するようになり、永嘉の乱で晋を滅ぼし、晋は東遷した。これ以降匈奴は鮮卑・氐などの遊牧民と勢力を争うようになり、五胡十六国時代が始まった。
問3
類似点としては、どの国も既存の社会主義体制に対する批判が起き、資本主義的政策を導入せざるを得なくなった事である。ソ連はペレストロイカ・グラスチノスチを、東欧諸国は民主化を、中国は改革開放政策を、ベトナムはドイモイ政策を行った。相違点としては、ソ連・東欧諸国・ベトナムでは共産党の一党独裁体制が崩壊し、選挙に基づく民主制が導入されたのに対して、中国は天安門事件を起こし独裁体制を維持した事、ソ連・中国では共産党の指導の下改革が行われたのに対し、東欧諸国では民衆が改革を主導した事、ソ連・東欧諸国・ベトナムでは大きな紛争無しに改革が行われたが、中国は天安門事件を引き起こした事である。


阪大
第1問・問2
元が支配していた中国では、商人たちは交鈔と呼ばれる紙幣を使って諸外国と交易を行った。外国からは取引に使われた金銀が流入し、中国国内に銀が流通するようになり、、後の税制改革につながった。両税法から一条鞭法への転換である。商業が盛んになって、実力者が覇権をもつ流動的な社会だった。ユーラシア西方地域では反して、絶対王政がしかれており、生活基盤はギルドを単位としていた。
第2問
達成されたもの。ドゥーマが設置された。スイスに亡命していたレーニンが帰国し、と「平和に関する布告」を交戦国に発布した。民族自決の動きが強まった。続いて第一次五ケ年計画、第ニ次五ケ年計画が行なわれ、と国内産業が発展し、と列強と肩を並べるようになった。また、世界で初めて人口衛星を打ち上げ、その名を世界に知らしめた。課題として残されたもの。二度の世界大戦を終え、アメリカとソ連の間には冷戦構造が形作られた。お互い戦うことはなかったが、諸外国に影響を与えた。キューバにミサイルを設置したことで両国の緊張が高まったが、と後に撤去された。壁崩壊を経て、冷戦構造も一応の収束を見たが、両国は未だに互をけん制し合っている。
第3問(外国語学部)
問1 アメリカ・イギリス戦争でイギリスからのアヘンの物資輸出が止まったことで、かえってアメリカ国内の産業が発達した。南北戦争では奴隷解放宣言が出され、近代化が推進された。
問2 第二次世界大戦の戦勝国となったアメリカは敗戦国から賠償金を請求し、更なる産業の発展があった。ロシアの動きをけん制した。
問3 ヨーロッパ連合国内ではそれぞれの国への行き交いにビザが必要でなく、貨幣経済も統一ている点が、アジア太平洋経済協力と異なっている。

2017合格メール

2017合格メール

こんばんは。Aです。3月8日 19:51
東京外国語大学に合格していました。
本当にお世話になりました。ありがとうございました。
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Bくん 3月9日 22:40
大阪大学 外国語学部 合格しました!
僕はもともと社会そのものが苦手で、覚えるのも辛いくらいでした。
2次試験の科目が数学と世界史で選択だったんですけど、世界史よりも数学の方ができひんっていう消極的な理由でした。
結果、センター世界史の点数は奮いませんでしたが、2次試験であそこまで書けるようになったのは本当に先生のおかげです!感謝してもしきれないです!
1年間で、50枚以上もの答案を見ていただいて、勉強のアドバイスも頂いて、本当に感謝しています。ありがとうございました!
またどこかで会えることを楽しみにしています。
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Cくん 10日 13:12
こんにちは。お久しぶりです。Bです。受験結果の報告をしたくメールしました。
京都大学法学部、合格していました!
数学の失点が痛かっただけに、あれだけ先生に合格の太鼓判を押されても、内心不合格を覚悟していました。それだけに、今回の合格は本当に嬉しかったですし、未だに信じられません!
得点開示はまだですが、数学の失点を、世界史を始めとする他科目が補ってくれたのだと思います。
だとすれば、この合格も全て、中谷先生のご指導・ご添削、そして中谷先生の参考書のおかげです!
本当に、ありがとうございました!
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Dくん 10日18:36

失礼します。添削と授業でお世話になりました、Dです。
無事、東京大学文科3類に合格することができました。
地理の出来があまり芳しくなかった中、世界史で納得できる解答を書けたのが勝因だと思っています。
浪人する前は、ずっと世界史は嫌いだったのですが、中谷先生の本当の世界史を重視した授業のおかげで、いつの間にか世界史が得点源になっていました。
面白い史料やカラーコピーのプリントを用いて授業してくださったのは、中谷先生が初めてでした。毎週、先生の授業が楽しみでした。
中谷先生のサイン入りの世界史論述練習帳は一生の宝物です。
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Eくん 3月11日 9:48
 京都校〇〇で1年間お世話になった者です。
この度、東京大学文化一類に合格しました。
本当にありがとうございました。
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Fさん 3月12日 17:38
先生こんにちは。
無事、一橋大学法学部に合格いたしました!
今年は世界史の傾向がかなり変わってしまい、正直何をどうかいたか記憶にないくらいなので、余裕で合格ではないのですが。
先生には何度も添削していただき、本当に感謝しております。
私が書いたものを生かしつつ、間違いを指摘してくださったり、別の書き方を教えていただいたりでとても勉強になりました。
どうもありがとうございました。
お世話になった先生に合格報告が出来て、ほっとしています。

京大世界史2017

1 (20点)

 中央ユーラシアの草原地帯では古来多くの遊牧国家が興亡し、周辺に大きな影響を及ぼしてきた。中国の北方に出現した遊牧国家、匈奴について、中国との関係を中心にしつつ、その前3世紀から後4世紀初頭にいたるまでの歴史を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

2(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(19)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 梁啓超は、近代中国において多方面で活躍した人物で、史学の分野においては「新史学」を提唱した。大学での講演をもとにして1922年に刊行された『中国歴史研究法』に、彼のいう史学の革新を見て取ることができる。
 彼は、中国の史学は(1)二百年前までは世界で最も発達していたとするが、伝統的な史学を評価していたわけではなく、歴史家[  a  ]が始めた、王朝史(断代史)のスタイルを厳しく批判した。また、(2)唐朝の『晋書』編さんによってそれ以前の「旧著十八家」がすたれたとして、正史の弊害を指摘する。旧来の史書の中でほめたのは、通史である(3)「両司馬」の作品などわずかだった。
 彼が目指したのは、死者への評価を主としてきた旧来の史学を、現に生きている国民の為の新しい史学に改造することだった。具体的には、(4)時代精神の推移の把握」や、(5)史学以外の学問の導入などを主張するとともに、とくに史料の収集・鑑別に注意を払った。文献だけではなく、遺跡・遺物の重要性を説き、(6)5世紀に開削された雲崗石窟や、(7)元代の天文観測器などを例に挙げる。そして、史料保存の必要性を説き、三十年前に外務省にあたる[  b  ]から借覧した、(8)康熙帝の時代にロシアと交わした往復文書の存否に思いを馳せている。また、外国文献のユニークさに注目して、彼が近時の外国人排斥運動にちなんで「千年前の[  c  ]」と呼んだ(9)黄巣軍の外国人殺害がアラビア語の記録に残されている例を挙げる。
 梁啓超の「新史学」は、日本を介して西洋史学の影響を受けており、本書でも西洋の中国研究の進展に注意しているが、日本の研究に対する評価は低い。だが、同時代には国外の中国研究の中心として(10)パリとともに京都を挙げる中国人もいたし、梁自身かつては日本の研究成果を高く評値していたのである。当時の代表的な東洋史家の一人である桑原隲蔵(じつぞう)は本書に対する書評において、日本の研究に対する評価の変化に触れつつ、史料論における欠陥を痛烈に批判した。外国の史料に目を向けるのはよいが、なぜ日本や(11)朝鮮の史料に注目しないのかという指摘は、彼一流の皮肉と言えよう。
 本書さらには梁啓超の学問全体について、中国でもその欠点が指摘されてきたが、彼が個別の学問を越えて近代中国に与えた影響は否定すべくもない。


(1) 梁啓超は清代を学術復興の時代と評する一方、史料の欠乏は清代ほど甚だしいものはないとしている。そうなった理由を簡潔に述べよ。

(2) 唐の太宗は「晋書」において、愛好した書の名人の伝記の賛(末尾のコメント)を自ら著している。その名人の名を答えよ。

(3) 「両司馬」の作品のうち、一つは可馬遷の『史記』である。もう一つの作品名を答えよ。

(4) 梁啓超は、対立するかに見える儒教と仏教の発展に共通項があることを指摘し、六朝隋唐時代にはともに経典注釈が流行したが、宋代に入ると儒教では内容的な「新哲学」がおこり、仏教においてもある宗派が他を庄したとする。その宗派の名を答えよ。

(5) 梁啓超が重視した学問の一つが心理学である。たとえば、ヴェルサイユ条約締結の過ちには戦勝国の首脳の心理が作用したとしている。中国がこの条約に調印できなかった国内事情について簡潔に述べよ。

(6) この石窟はインドの仏教美術の影響も受けている。当時、インド北部を支配していた王朝の名を答えよ。

(7) 元代にイスラーム圏の天文学を取り入れて暦を作ったのは誰か。

(8) 康煕帝の時代にロシアとの間で締結された条約名を答えよ。

(9) 外国人殺害がおきた、南海交易の中心部市の名を答えよ。

(10) フランスで中国研究が盛んになったのは18世紀以降である。盛んになった理由を簡潔に述べよ。

(11) 隲蔵は実例を挙げていないが、康煕帝の時代に南方で起きた出来事に際しての清と朝鮮の関係が、朝鮮史料に豊富に残されているということがある。その出来事とは何か。

B 現在エジプト国民の約1割がキリスト教徒とされ、その起源は非常に古い。キリスト教は3世紀頃までにローマ帝国全土に広まり、エジプトにおいても4世紀末の国教化以前から優勢となっていた。ところが、451年の[  d  ]公会議で単性論や(12)ネストリウス派の主張が退けられると、エジプト・シリアなどで反発がおこった。(13)離脱した者たちは独自に教会を組織し、エジプトにはコプト教会(コプト正教会)が生まれた。コプトとはエジプトのキリスト教徒を指す言葉である。その後コプト教会はときに東ローマ帝国から弾圧された。
 7世紀前半アラビア半島におこったイスラーム国家は、政治力・軍事力を強めて領土を拡大し、第2代正統カリフ[  e  ]の指揮下に(14)エジプト・シリア・イラクを征服して軍営都市を建設した。このときエジプトやシリアのキリスト教徒からは激しい抵抗はなかったという。追害を受けていたコプト教会の信徒たちはイスラーム教徒の支配下で「啓典の民」として安定した法的地位を得ることになった。その後エジプトはウマイヤ朝、アッバース朝、(15)アッバース朝から事実上独立した諸王朝に支配されてイスラーム化が進行し、10世紀後半には(16)シーア派を奉じるファーティマ朝の支配を受けることになった。ファーティマ朝はキリスト教徒やユダヤ教徒に対しておおむね寛容であった。
 12世紀後半にファーティマ朝を滅ぼした[  f  ]朝はスンナ派を復興するとともに十字軍に反撃し、1187年イェルサレムを奪還した。この時期を含む、十字軍とイスラーム勢力との長期的な戦いは、イスラーム王朝の下でときに弾圧されてきたコプト教会の立場をさらに苦しいものとした。13世紀半ばエジプトに侵入した十字軍は、[  f  ]朝にかわったマムルーク朝によって撃退された。このとき頭角を現わした[  g  ]は、(17)1260年モンゴル軍をやぶった後に即位し、マムルーク朝繁栄の礎を築いた。
 16世紀前半にマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国の支配下では、納税を条件にキリスト教徒やユダヤ教徒に慣習と自治が認められた。しかし、この頃すでにコプト教会信徒の人口は、現在と同じくエジプトの総人口の1割程度となっていたようだ。オスマン帝国では強力な中央集権体制がとられたが、18世紀までには[  h  ]制(軍事封土制)が徐々にくずれまたエジプトほかの属州に中央権力が及びづらくなった。(18)18世紀のアラビア半島では預言者ムハンマドの教えに立ちかえる運動や神秘主義教団の改革運動がおこり、19世紀後半にはイスラーム圏全域に広まった
 1805年エジプトではムハンマド=アリーがオスマン帝国から総督に任命された。(19)彼は対外的な軍事行動でオスマン帝国の要請に応える一方、国内では近代化政策をおしすすめた。エジプトは近代的な世俗国家への道を歩み始め、コプト教会の信徒たちはその後アラブ民族運動に積極的に貢献した。


(12) (ア) これに先立つ431年の公会議では、ネストリウスが異端とされた。この公会議はどこで開かれたか。都市名を記せ。

(イ) その後ネストリウス派はある王朝の下で活動し、メソポタミアで勢力を拡大した。この王朝の名を記せ。

(13) このような教会は、エジプト・シリア以外でも組織された。かつてソ連に属し、現在、教会の総本山の建造物・遺跡で有名な地域はどこか。現在の国名で記せ。

(14) この頃の征販活動にともなう軍営都市を意味したアラビア語の単語を記せ。カタカナ表記でよい。

(15) アッバース朝のトルコ系軍人がエジプトでトゥールーン朝をおこした頃、中央アジアにはイラン系の王朝が成立した。この王朝の名を記せ。

(16) ファーティマ朝はシーア派の中のイスマーイール派に属したが、現在シーア派最大の宗派は何か。その名を記せ。

(17) このときイル=ハン国君主フラグはモンゴル帝国皇帝の死去にともない前線を離れていた。死去したモンゴル帝国皇帝は誰か。その名を記せ。

(18) 19世紀前半にメッカで創設され、のちにリビアに進出して植民地支配への抵抗の核となった神秘主義教団は何か。その名を記せ。

(19) (ア) ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請に応じてアラビア半島に出兵し、1818年ある王国を一度は滅ぼした。その王国の名を記せ。

(イ) 1839年オスマン帝国でも近代化改革の指針となるギュルハネ勅令が出された。このときのオスマン帝国皇帝の名を記せ。

3(20点)
 社会主義世界は、1980年代に経済面および政治面で大きな変革をせまられた。ソ連、東欧諸国、中国、ベトナムにおける当時の経済体制および、政治体制の動向を、それらの国・地域の類似点と相違点に着目しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

4(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[    ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(16)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答楠に記入せよ。

A 歴史上において、人はしばしば集団をなし、大規模な移動を行ってきた。西洋の前近代においても、移動の顕著な例がいくつも見られる。それらには、強力な武器を持った戦士集団が周囲に拡大するように移動した事例が含まれてはいるものの、生命の安全と生活の糧を得るためにやむなく集団で移動するに至った、近代以降の移民や難民に似た事例も少なくない。
 西洋史上で注目される最初の大規模な移動として、前2000年頃より北方からバルカン半島に南下したギリシア人のケースをあげることができるだろう。彼らは(1)ミケーネ文明の担い手となり、(2)さらに東地中海地域に広く分布して、ポリスと呼ばれる独自の都市国家を多数形成した。また、西方のイタリア半島にも前1000年頃に古代イタリア人が南下したが、その一部であるラテン人がテヴェレ川の河畔に建てた(3)都市国家ローマが、やがて帝国を築くに至った。
 こうした地中海周辺地域での動きとは別に、アルプス山脈の北側では別の移動があった。ヨーロッパの中央部では、前8世紀頃から鉄製の武具を装備した戦士集団が拡大するように東西に移動し、西はイベリア半島、東は小アジアまで達した。彼らは[  a  ]人と総称されるが、前1世紀にローマがアルプス山脈の北にも征服を進めると、ガリア地方に居住する[  a  ]人はその支配下に組み込まれ、次第に同化した。しかし、(4)彼らと接してその北東のゲルマニアに住んでいた人々は、一部はローマ帝国の支配下に置かれたものの、多くは帝国の外に居住し、ローマと交易をしたり、掠奪のために帝国領に侵入したりした。
 4世紀後半になって、東方から[  b  ]人の移動に押されたゴート人が、生命の安全と生活の糧を求めて移動を開始し、ローマ帝国に救いを求めて376年にドナウ川を渡った。しかし、帝国領に入った人々に対してローマ帝国側が苛烈な敢り扱いをしたため、(5)移住者たちは反乱を起こて、ローマ軍を撃破し、皇帝を戦死させるに至った。これ以後、ゲルマニアやその東方に居住していた人々が集団をなして続々と西へ移動を始め、5世紀になるとローマ帝国の西半は大混乱に陥った。
 この大移動の結果、長らくローマ帝国統治下にあった西ヨーロッパでは、政治秩序が大きく変化した。(6)イタリアは東ゴート人が統治する国となり、イベリア半島には西ゴート人が王国を建てた。アルプス山脈の北でも、[  c  ]人の諸集団が(7)ク口一ヴィスによって統合されてガリア北部に王国を形成し、さらに南へと勢力を拡大していった。ブリテン島では、口ーマ帝国の支配が終わった後、島外からの来襲が繰り返されるようになり、アングル人やサクソン人の定住と支配が進んでいった。
 こうした古代の終焉期の大規模な移動によって大きく変化した陸ヨーロッパは、9世紀初めに(8)カール大常によってその大部分が統一された。(9)大帝は、数世紀前よりヨーロッパ中央部に移動して強勢をなしていた遊牧民を制圧してもいる。しかし、この頃、新たな移動が本格化した。ユトランド半島やスカンディナヴィア半島を本拠とするノルマン人は、8世紀後半からヨーロッパの各地に来航し掠奪や交易を行っていたが、次第に内陸部に到達するとともに、定住を開始し、閤家建設も始めたのである。そして、西北フランスにノルマンディ一公国を建て、イングランドをも征服した。シチリアにも王国を建て、ロシアにノヴゴロド国、次いで(10)キエフ公国を建てた。


(1) ミケーネ文明の実態を知ることができるようになったのは、出土した粘土板に書かれた文字をイギリスのヴェントリスらが解読したからである。この文字は何と呼ばれているか。

(2) ギリシア人は方言の違いからいくつかの派に分けられるが、アテネを築き、小アジアの西岸にもポリスを数多く建てた一派は何人と呼ばれるか。

(3) 都市国家ローマは、その初期、イタリア半島の先住民の王によって支配されていた。ローマの国家形成や文化に大きな影響を与えたこの先住民の名を記せ。

(4) 口ーマ人の記録によれば、ゲルマニアの往民は、集団にとって重要な決定をある機関で行っていた。その機関の名を記せ。

(5) この皇帝の敗死後に即位し、ゴート人を帝国領内に定住させて混乱を一時的に収めたローマ皇帝は、キリスト教を帝国の国教とする政策も実施した。この皇帝の名を記せ。

(6) イタリアに進撃して東ゴート人の王国を建てた王は、口一マ帝国の統治と文化の継承をはかったとされる。この王の名を記せ。

(7) クローヴィスが行った宗教的な措置は、その後の[  c  ]人の国家発展の基礎となった。この措置の内容について、簡潔に説明せよ。

(8) カール大帝は、広大な領土を集権的に統治するためにどのような行政上の措置をとったか。その内容を、役職名を示しつつ、簡潔に説明せよ。

(9) この遊牧民の名を記せ。

(10) キエフ公国に最盛期をもたらしたウラディミル1世は、ギリシア正教を国教とし、ある国の専制君主政治をまねた。ある国とはどこか。

B 16世紀以降、バルト海周辺地域の覇権をめぐって諸国の争いが繰り返された。

 スウェーデンとデンマークの対立によってカルマル同盟は解体し、両国はともにルタ一派を受容しつつ戦争を続けた。[  d  ]を中心都市とする(11)ドイツ騎士団」領でも、騎士団総長がルタ一派に改宗し、1525年にプロイセン公としてカトリックのポーランド国王に臣従した。さらに16世紀後半には口シアも、バルト海への出口を求めて争いに加わった。
 1625年、デンマークは三十年戦争に参戦したが、神聖ローマ帝国の皇帝軍に敗北した。(12)スウェーデンは1630年に参戦し、フランスと同盟を結んで皇帝軍を破った。スウェーデンはデンマークとの戦争でも勝利を重ね、17世紀後半には「バルド海帝国」と呼ばれる権勢を誇った。
 1700年からの北方戦争では、デンマーク、ポーランド、ザクセン、ロシアが同盟してスウェーデンと戦った。スウェーデン国王カール12世は各国の軍を撃破したが、1709年にウクライナのポルタヴァでロシア軍に敗れ、南に敗走して[  e  ]に亡命した。ポーランドやロシアと対立していた[  e  ]は翌年にスウェーデン側に立って参戦するが、スウェーデンの劣勢を挽回するには至らなかった。その後、ロシアによる黒海沿岸の[  f  ]併合に[  e  ]が抗議して1787年にロシアと開戦すると、翌年にはスウェーデンもロシアに宣戦布告している。
 北方戦争の結果、口シアは今日のエストニアとラトヴィアの一部を獲得した。戦争中にロシアは新首都ペテルブルクをバルト海沿岸に建設し、バルト海経由の交易を増大させた。また、1701年にプロイセン公国は王国に昇格したが、国王フリードリヒ1世は[  d  ]で戴冠式を挙行している。その後、ポーランド分割でロシアはリトアニアなどを、プ口イセンは港湾都市[  g  ]などを獲得した。ロシアの発展にバルト梅沿岸在住のドイツ人が大きく関与するようになり、また、(13)プロイセン領[  d  ]の大学からは重要な思想家や作家が輩出した
 (14)1756年に始まる戦争で、スウェーデンは当初中立を保ったが、イギリスによる中立国船舶の掌捕(だほ)政策に抗議し、デンマークとともに武装中立を提唱しのちに対英戦争に参戦した。(15)1780年の武装中立問盟の結成も、1778年にスウェーデンが戦時中の中立国船舶の保護を訴えたことに端を発している。これは国際法における中立国の権利に関する考え方を発展させるきっかけになった。
 フランス革命勃発後、スウェーデンとロシアは革命の波及を恐れ、ともに1805年の第3回対仏大同盟に参加したが、口シアはナポレオン軍との戦闘で敗退を重ね、1807年にフランスと講和を結んだ。その後ロシアは一転してスウェーデン領[  h  ]に侵攻し、[  h  ]は1809年にロシア皇帝が大公を兼任する大公出となった。
 ナポレオンの没落以降、第一次世界大戦までバルト海沿岸をめぐる大きな国境の変更はなかった。(16)第一次世界大戦に際しスウェーデンは中立を維持したが、バルト海南岸はロシアとドイツの戦場となった。口シア革命が勃発すると、バルト3国は口シアから独立した。独立を回復したポーランドも、いわゆるポーランド回廊でバルト海に接することとなり、また[  g  ]は自由都市となった。ドイツ系住民が大多数を占めていた[  g  ]のドイツへの返還要求が、ドイツのポーランドに対する宣戦布告の名目のーつとなった。
 1939年、ソ連は[  h  ]に侵攻し、1940年にはバルト3国を軍事的圧力のもとに併合した。翌年からの独ソ戦でバルト3国の住民は両陣営に分かれて戦うこととなった。[  d  ]とその周辺は、大戦末期の凄惨な包囲戦と戦後のドイツ系住民追放を経てソ連領となり、市名もカリーニングラードと変えられた。


(11) ドイツ騎士団がこの地域の植民を進めたのは、13世紀前半以降である。12世紀末の結成当初の活動目的を答えよ。

(12) スウェーデンとフランスとの同盟は、三十年戦争の性格の変化を端的に示しているといえる。なぜそのようにいえるのか、簡潔に説明せよ。

(13) この大学の総長も務め、『純粋理性批判』などを著した哲学者の名を記せ。

(14) (ア) この戦争の名称を記せ。
(イ) この抗議の思想的根拠として、17世紀オランダの法学者の議論が参照された。『海洋自由論』などを著したこの法学者の名を記せ。

(15) 中立国船舶の航行の自由などを宣言した1780年の武装中立同盟は、誰がどのような目的で提唱したか、簡潔に説明せよ。

(16) (ア) 第一次世界大戦の開戦当初は、多くの国が中立を宣言したが、その後いくつかの国が参戦に転じた。1917年に参戦した国名を一つ挙げよ。

(イ) その後もスウェーデンは独自の外交政策を展開した。スイスは19世紀に国際会議で永世中立を認められている。この会議の名を記せ。

………………………………………

第1問
 問われているのは「匈奴について、中国との関係を中心にしつつ」と、時間は「前3世紀から後4世紀初頭」という容易なものでした。容易なので余り差がつかないものでしたが、きっちりこの関係史をつづると300字オーバーになりそうな問題です。
 前3世紀は始皇帝による中国統一の世紀(前221)ですが、予備校の解答例には前6世紀からあるスキタイの影響を書いたものもあり、これは特に書かなくてはならないデータではありませんでした。「中国との関係を中心に」とあるので、これに集中すべきでしょう。
 前3世紀は統一前の戦国時代の末期でもあり、七雄の北部に位置していた燕・趙・秦はみな匈奴との騎馬戦に備えなくてはなりませんでした。趙がいちばん早く匈奴式の服装「胡服騎射」を採用したことでも知られています。この胡服騎射は、明治天皇が「服制を改め風俗を一新し尚武の国体を立てる」むねの勅諭を出した、とのことですが、この際に議論を主導したのが副島(そえじま)種臣で、この胡服騎射の故事を引き合いに出したらしい(http://www.yohfuku.or.jp/history1.html)。まさに匈奴らしくズボンをはいて「尚武の国体」侵略国に変貌する転機でした。
 長城はなにも匈奴対策が唯一の目的ではなく、七雄同士の戦いの中で各国が造ったものでした。始皇帝は国内の統一を実現すると、匈奴対策にならない長城を壊し、北方の長城だけ残し連結します。当時の長さで「万里」あるようです。
 黄河の中国側のオルドス(河套、かとう)に匈奴が住んでいるので、蒙恬(もうてん)を派遣し、河を越えた北のゴビ砂漠に追いやり、次の戦いに備えて直道(じきどう)という対匈奴の軍事専用道を築いています。
 しかし始皇帝が死ぬと陳勝呉広の乱と同年の前209年(『世界史年代ワンフレーズnew』では「ブ2レ0ーク9する」の語呂)に冒頓単于が父を殺して即位します。こんどは匈奴側の復讐です。西域・オルドスに侵入します。東胡・月氏を合わせて全モンゴル地域を征圧しました。
 前200年に前漢高祖は32万の大軍を率いて匈奴に攻勢をかけました。しかし平城(山西省大同)郊外の白登山で40万の匈奴騎兵部隊の包囲攻撃をうけ、7日間の攻防の末、屈辱的な和議を結んで脱出できました。和議とは、漢から公主をおくる、毎年、絮(わた)・繪(かい、刺繡のある衣、絹織物)・酒・米その他の食料を与える、両者は匈奴を兄とし漢を弟とするという、11世紀初めの宋兄遼弟を逆転させたような匈兄漢弟の関係でした。これが和親策と呼んでいるものの内容です。
 これを七代目の武帝が積極策という軍事行動に転換しました。まず偵察と外交のため張騫を派遣しましたが成功せず、帰国が遅すぎて待ちきれず、衛青・霍去病ら、武帝が愛した貴妃たちの親族に戦闘行動を起こさせ、西に河西四郡、北に朔方(さくほう)郡を設置することに成功します。
 しかし漢も匈奴も疲れ果て、前60年頃、匈奴には内紛が起こって5人もの単于が立ち、残った二人の単于(東西分裂)のうち東の呼韓邪(こかんや)単于が漢の保護を受けることになりました。もう一方の西単于は漢軍に撃たれ、呼韓邪はオルドスに帰還して再びモンゴルに統一をもたらしました。後に公主・王昭君をもらうことになります(前33)。
 紀元後の48年に東匈奴は南北に分裂し、東西分裂のときは東が、こんどは南が中国に服属します。どちらも中国に近い方が服属しています。北匈奴は鮮卑や南匈奴との戦い、さらに後漢班超の征討軍に追い立てられ、西走して2世紀にはヴルガ・フンとなり、4世紀にはゲルマン大移動を起すことにつながりました。
 残った南匈奴は西晋の混乱から八王たちは匈奴他の騎馬兵を雇って軍の強化につとめたため、五胡たちの台頭の契機となりました。そのうちの匈奴で漢の外甥として劉氏を称した匈奴は、永嘉の乱をおこして西晋を滅ぼし、漢国(後の前趙)を建てました。五胡十六国時代の劉氏の他に、北涼の沮渠氏、後趙の石氏らは南匈奴の出身です。

第2問
 今年は第2問と第4問が難化しました。京大らしくない瑣末な問題を問うています。試験も教育の一環であることを忘れたようです。
A
 下線設問(1) 「史料の欠乏は清代ほど甚だしいものはない……そうなった理由」というのですが、変な問いでもあります。考証学という史料を重んずる学問の時代が清朝だったことを想起すると、この問いでいいのか、と思ってしまいます。清朝憎しの梁啓超のプロパガンダか、と疑ってしまいますが、文字の獄を答えざるを得ません。どの王朝でも中国は思想統制をしてきているので、清朝だけに限ったことではないし、清朝の検閲の範囲がどのようなものか、相当詳しいひとでないと分からないことですね。
 空欄a ヒントは後の「王朝史(断代史)」です。司馬遷の紀伝体を踏襲しながら、司馬遷とちがい前漢一代史を書きました。この一王朝史を書くスタイルがこれから正史(国定史書)に受け継がれます。
 設問(4) 「宋代に入ると儒教では内容的な「新哲学」がおこり、仏教においてもある宗派が他を圧したとする。その宗派の名を答えよ。」は教科書(詳説)に「宗教では禅宗が官僚層によって支持され」たものです。京大では朱子学のことを「新」哲学、「新儒学」とも呼ぶのは仏教が入り込んできたからでした。
 設問(5) 「条約に調印できなかった国内事情」は日本が第一次世界大戦に火事場ドロをした地域と、戦争中に袁世凱につきつけた二十一カ条要求の廃止を学生・市民は求めていました。
 設問(6) 「仏教美術の影響」とされているのは、仏像の光背に描かれた炎の文様です。
 空欄b 「三十年前に外務省にあたる[  ]から借覧した」のうち「三十年前」に意味はありません。中国で外務省にあたるものは3つあります。古いのでは礼部、藩部だけの理藩院、1860年にできた総理各国事務衙門(総理衙門)です。このうち「借覧した」内容が「康熙帝の時代」とあれば、礼部です。ネルチンスク条約のときに総理衙門はまだありませんから。
 設問(9) 「黄巣軍の外国人殺害がアラビア語の記録……外国人殺害がおきた、南海交易の中心部市」はアラブ人が来ている都市です。史料は阪大の過去問にありました(2002)。

次に掲げる資料は、ペルシア湾岸のシーラーフ出身の文人、アブー・ザイドが著した『シナ・インド物語第二巻』の一節である。これを読んで、以下の設問に答えよ。
 ( A )という名の人物が、王家の出身ではなく、彼ら[民衆]のあいだから起って旗揚げした。この男は、はじめ狡智と義侠心で世に認められ、やがて武器をとり、掠奪を行ない、多くの不逞の徒が彼のまわりに集まってきた。ついに彼の勢力は強大となり、その数は増加した。このようにして、彼の野望は強く広がり、あまたあるシナの町のなかで、ハーンフーに進撃するようになった。ハーンフーは、アラブ商人たちが赴く町で、海から数日の距離に位置し、大河の岸にある。そこで、その水は淡水である。町の住民は抵抗したので、この男は長期間この町の住民を包囲攻撃した。この事件はヒジュラ暦(ヒジュラを元年とする暦)二六四年に起ったことである。
(藤本勝次訳『シナ・インド物語』関西大学出版広報部、一九七六年、三三頁より)

 この史料の中の「ハーンフー」が広東(広州)です。「……営んでいたイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、合わせて12万人を彼は虐殺したとのことである。虐殺されたこれら4つの宗教の信者数が正確に知られているのは、シナ人が彼らの〔頭〕数で課税しているからである」とあります。
 設問(10) 「フランスで中国研究が盛んになったのは18世紀以降である。盛んになった理由」の18世紀は啓蒙思想の盛んな時期ですが、その刺激はイエズス会士たちが「中国通信」として中国の報告を出しいたからでした。
 設問(11) 「康煕帝の時代に南方で起きた出来事」とあり、康煕帝が自治国の三藩の「乱」を鎮圧して満州人支配を完成したことは教科書の知識として、「清と朝鮮の関係」がひっかかります。要するに服属したている朝鮮と三藩という自治国は同じではないか、という「皮肉」なのでしょうか?

B 空欄d 「単性論」を異端にした公会議は細かいですね。
 設問(12)(イ) 「ネストリウス派はある王朝の下で活動し、メソポタミアで勢力を拡大した。この王朝の名」という問い。ローマ帝国の周辺だということは分かりますが、「ある王朝」となると帝国の周辺に現れ帝国の脅威となったペルシアの王朝です。用語集のネストリウス派のところに「エフェソス公会議で異端とされたキリスト教の一派。ササン朝を中心に東方に伝わり、唐代の中国では景教と呼ばれた。」と説明があります。
 設問(13)(ア) 下線部「離脱した者たちは独自に教会を組織し」も細かい問いです。条件は「エジプト・シリア以外」でソ連領内だった、ということ。用語集の「単性論」には「単性論を信奉する人びとの集団。カルケドン公会議で異端とされたが、6世紀以降、コプト教会(エジプト)・シリア教会・アルメニア教会などを建て、イスラーム勢力の伸張後も独自の活動を展開した」とあります。出題者は凝り過ぎですね。「教会の総本山の建造物・遺跡で有名な地域は」とは修道院のことですが、しかし日本で「有名」ですかね?
 空欄e ウマル、オマルですが、これも細かい人名です。イスラーム史の専門家がいる慶應大がよく出す問題です。用語集(最新版)の頻度で2。
 設問(14) ミスルも細かい。カイロの基になったフスタートが知られています。
 設問(15) 「トゥールーン朝」自体が細かいですが、「アッバース朝……イラン人系の王朝が成立」とあれば、アッバース朝が衰退する9〜10世紀頃だと推測ができたらしめたもの。センター試験でも出るイラン人の王朝とあれば、サーマン(サーマーン)朝とブワイフ朝です。前者が早い(『世界史年代ワンフレーズnew』では「サーマン、花87よ4」という語呂)。
 設問(16) 「現在シーア派最大の宗派は何か」とはイランの宗派は何か、という問いでもあります。イラク南部にも多数のこの派の人たちがいます。十二(12)イマーム派です。これも細かい。頻度1。
 空欄g これも細かい。センター試験では出ないような人名です。頻度2。
 設問(17) 下線部「1260年モンゴル軍をやぶった」時点でフラグが留守で、それはハンが死んだからだ、それは誰、という問いです。これも細かい問い方。フラグはモンケ=ハンやフビライ=ハンの弟になります。
 設問(18) 「19世紀前半にメッカで創設」という新しい教団で、リビア王国を創設します。サヌーシー教団は頻度2。これもまた細かい。
 設問(19) (ア) 「ムハンマド=アリー……ある王国を一度は滅ぼした」というイブン=アブドゥル=ワッハーブがおこした、彼の名のついた王国です。
 (イ) 「1839年……ギュルハネ勅令……オスマン帝国皇帝の名を記せ」これは別名タンジマートと呼んでいる改革で、「ジ……ト」の付いたスルタンです。アブドゥル=メジト1世。ミドハト憲法のときのアブデュル=ハミト2世と間違わないように。
 この第2問Bの難易度を「標準」と分析した予備校がありますが、節穴ですね。それより京大はこの出題者を来年から追放せよ。

第3問
 これは比較の問題でした。次の解答文が「類似点と相違点に着目しつつ」書いた答案かどうか検討してみてください。

ソ連では共産党独裁下で経済が行き詰まり、1985年に登場したゴルバチョフがペレストロイカによる市場経済の導入と政治体制の改革を始めた。東欧諸国では以前からポーランドの「連帯」による運動など、社会主義に対する反発が高まっており、ソ連の改革に後押しされ民主化運動が高揚した。その結果、東欧諸国では1989年に相次いで一党独裁が崩壊し、市場経済と議会制民主主義に移行した。中国では鄧小平による改革・開放路線が進められ、社会主義市場経済が行われてきたが、1989年の天安門事件で民主化を求める運動を弾圧し、共産党独裁が続いた。ベトナムもソ連・中国の改革の影響でドイモイにより市場経済が導入されたが、一党独裁は維持された。

 さて、ソ連の改革がまず書いてあり、「ソ連の改革に後押しされ民主化運動が高揚した。その結果、東欧諸国では……一党独裁が崩壊し、市場経済と議会制民主主義に移行した」というのは正しい内容ですが、さてソ連共産党も崩壊したのかどうか明解に書いてありません。下の中国とベトナムは「共産党独裁が続いた……一党独裁は維持された」と書いてあります。
 またソ連も「民主化運動が高揚した」のかどうかも分かりません。「ゴルバチョフがペレストロイカ」とは上からの改革ですね。政府主導なら東欧の民主主義運動は、下からの運動なのでソ連との「相違点」のはずですが、それも特に指摘してありません。またソ連は民主化したのでしょうか? 当のゴルバチョフ自身が2011年に「ロシアの民主主義は中途半端」と批判しています(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5594)。旧ロシア共産党(現・ロシア連邦共産党)は1995,96年の下院選挙で第一党になっていて、その勢いは衰えていません。いまはプーチンの保守的な「統一ロシア」という与党に接近しています。「1980年代……動向」とあるので、最近のことは書かなくてもいいのですが、ペレストロイカが徹底していないことは否めません。
 中国も「天安門事件で民主化を求める運動」があった点は東欧との類似点ですが、東欧はそのまま突き進みましたが、中国のは弾圧された点は東欧との相違点になります。ベトナムにおける運動は知られていません。ソ連と同様に上からの改革である点が類似点です。4つも比較させる問題なので、三つが類似、一つが相違という場合もあります。この問題の場合、とくに東欧の相違が際だっています。

第4問
A
 設問(1) 「ヴェントリスらが解読した……文字は何と呼ばれているか」で線文字Bですが、「Bビエントリス」と覚えるといいです。
 設問(2)〜(7)(9)(10) 容易。
 空欄a〜c 容易。
 設問(8) 「カール大帝は、広大な領土を集権的に統治するためにどのような行政上の措置をとったか。その内容を、役職名を示しつつ、簡潔に説明せよ」でした。教科書(詳説)の文章そのまま引用すれば「カールは広大な領土を集権的に支配するため、全国を州にわけ、地方の有力豪族を各州の長官である伯に任命し、巡察使を派遣して伯を監督させた」が解答文です。この後の文章「こうしてフランク王国は、ビザンツ帝国にならぶ強大国となった」は誇張としか言いようがありません。ルーブル美術館にカールの騎馬像がありますが、あれは誰も皇帝という存在は知らないから、「わしが皇帝じゃーッ」と宣伝しないといけなくらい無名の存在であることを示しています。伯(グラーフ)や巡察使(ミッシ)はカールに協力してくれた地方の有力者に褒美として職名を与えたのであり、アーヘン宮廷から派遣した官僚ではありません。だいたい「皇帝」位はカールの側が東の皇帝に認めてもらったと錯覚しているようです(渡辺金一『中世ローマ帝国』岩波新書、p.64)。またカール1世の死後、帝国はまたたくまに分裂することでも「帝国」支配が偽装であったことを明らかにしています。

B 
 空欄d 「ドイツ騎士団」正式名ドイツ騎士修道会の首都を問うた奇問。用語集頻度ゼロ。
 設問(11) 「ドイツ騎士団……結成当初の活動目的」は東京書籍の教科書の注に「聖地の守備や巡礼者の保護のために結成された」と書いています。
 設問(12) 「スウェーデンとフランスとの同盟は、三十年戦争の性格の変化を端的に示しているといえる。なぜそのようにいえるのか」とあり、スウェーデン他の北欧諸国がみなルター派であることを知っていても、またフランスの参戦理由(領土・ハプスブルク家没落)を知っていても書けます。
 空欄e 「ウクライナのポルタヴァでロシア軍に敗れ、南に敗走」とあり、南の黒海周辺を支配した国を推理すればトルコ(オスマン帝国)が浮かぶはず。
 空欄f これも南の黒海周辺に突き出ている半島と周辺地域。エカチェリーナ2世が取ってセバストポリ軍港を築くことになります。
 空欄g いずれヒトラーが第二次世界大戦直前に要求する港湾都市、軍港でもあります。
 設問(13) この大学の総長も務め、『純粋理性批判』などを著した哲学者の名を記せ。……容易。「純粋」が付けばカント。
 設問(14) (ア) この戦争の名称「1756年に始まる戦争」とあるので、七年戦争ですね(『ワンフレーズ』の語呂は「七年、人1七7殺56す」)。
 (イ) 『海洋自由論』の著者は容易。
 設問(15) 問いは「武装中立同盟……目的」です。これも容易。
 空欄h ロシアの北の隣国。
 設問(16) (ア) 「第一次世界大戦……1917年に参戦した」のは、英国船ルシタニア号撃沈事件がおき、米国人128名が犠牲となったのがきっかけ。
 (イ) 「スイスは19世紀に国際会議で永世中立……会議」とはナポレオン戦争終結会議。

一橋世界史2017


 16世紀半ばに書かれた次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 あらゆる商品の価格は、その必要性が非常に高く、かつ提供される量が少ないときには上昇する。貨幣もまた、それ自体で売買され、かつあらゆる契約取引の対象となる以上は一つの商品であり、したがってその価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される。実際にフランスではスペインよりも貨幣の量が少なく、パン、布、労働力の値段がスペインよりもはるかに低い。またスペインでも、貨幣の量が少なかった時代には、インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代よりはるかに安い値段で商品や労働が提供されていた。
(マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)より引用。但し、一部改変)

問い この文章中で述べられている現象が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

 

 黒人奴隷制に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ユネスコが1994年に奴隷貿易、奴隷制の記憶を掘り起こす「奴隷の道」プロジェクトを開始して以降、21世紀に入り、環大西洋世界の奴隷貿易に再び注目が集まっている。国連総会では、①ハイチ革命」200周年にちなみ、2004年を「奴隷制に対する闘いとその廃止を記念する国際年」とすると宣言され、また1807年に世界に先駆けて奴隷貿易を禁止したイギリスでは、200周年を前に首相が「遺憾の意」を表明した。
 下の表は、16世紀以降の環大西洋圏の地域別奴隷輸入数を示したものだが、従来、大西洋奴隷貿易は、英仏などヨーロッパ諸国を起点にアフリカとカリブ海域を結ぶ、主に北大西洋で展開された三角貿易に関心が向けられてきた。だが、表からもわかるとおり、最も多くの奴隷を輸入したのはポルトガルの植民地、ブラジルであり、近年の研究では、②ラテンアメリカ地域」、とりわけブラジルとアフリカを直接結ぶ南大西洋の奴隷貿易について、その独自のメカニズムに関心が集まっている。

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問1 15世紀末にスペイン、ボルトガルの両国が定めた、支配領域の分界線を定めた条約を何というか。

問2 下線部①にあるハイチ革命を契機に、南北アメリカ大陸における奴隷貿易廃止、奴隷解放の流れは加速した。最後に奴隷制が廃止されたのは、最も多くの黒人奴隷を受け入れてきたブラジル(1888年)であった。この19世紀の南北アメリカ大陸で達成された奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか簡潔に答えよ。(100字以内)

問3 下線部②にあるラテンアメリカ地域では、1810〜20年代に多くの国々が独立した。その独立運動は、いかなる契機から始まり、どのような人々により担われ、独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか、述べなさい。(275字以内)


 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 われわれが海を渡り、最初に到着した町はザイトゥーンの町であった。そこは壮大にして、規模の大きな町であり、カムハー織り(錦紗)やビロード織りの布地(緞紗)がそこでは製造されており、それらはその町に由来する名で知られている。その布地は、ハンサー織りやハンバーリク織りよりも上等である。
 そこの停泊港は、世界の数ある港のなかでも最大規模の港の一つ、否、間違いなく最大のものであり、私は実際にその港で、約100艘の大型ジャンクを見た。さらに小型船に至っては、多くて数え切れないほどであった。そこの港は陸地に入り込んだ海からの大きな入江で、やがてその海は大河と混じり合う。この町は、他のすべてのシナ地方と同じく、住民のための果樹園、田畑と屋敷が町の真ん中にあって、ちょうど、我が国のスィジルマーサの町とよく似ており、他ならぬこのために、彼らの町は規模が大きくなっている。
 (イブン・バトゥータ著、家島彦一訳注『大旅行記』より引用。但し、一部改変)

問い ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を論じなさい。(400字以内)

………………………………………

第1問
 史料の文「その価格は貨幣の需要が大きく供給が少なければ上昇する。また、貨幣が不足している国では、貨幣が豊富にある国よりもあらゆる商品や労働が安価に提供される……インド[新大陸のこと]の発見によって国中に金銀があふれた時代」とは価格革命の説明だと推理できます。神学者マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』(1556年)という出版年もそれを示唆しています。
 課題は「現象(価格革命)が、スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響」でした。
 つまりスペイン本国と他の国に与えた影響の双方を書かなくてはならない、ということです。新大陸から大量の金銀を獲得したことでスペインはどうなったのか、それが流入しなくなるとどうなったのか、他のヨーロッパの国々はどんな影響を受けたのか、ということです。後者は教科書に必ず書いてある一般的なことを書けばいいですね。たとえば、詳説世界史ならこうです。

 1545年に発見されたポトシ銀山など、ラテンアメリカの銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2〜3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命とよばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃をうけた。
 西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。

 これだけで254字です。受験場でこれだけキッチリ書けないので、200字くらいとします。また「ヨーロッパ」とあれば西欧と東欧の双方も含むことも注意です。詳説世界史の記事はその前に商業革命のことも書いてあり、これも含めることができます。記事は以下、

 大航海時代の到来とともに、世界の一体化がはじまった。ヨーロッパ商業は世界的広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場をひらくことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。

 盗み取ったり、強制的に採掘させて獲得した銀でアジアに買い物に出かけたことが「世界商業圏の形成」になりました。五大陸間貿易の開始という言い方もあります。
 スペイン史の「盛」は書けても「衰」は意外と難しいかも知れません。たんに銀の流入が止まった、だけでは衰退理由になりません。
 また「17世紀」についてどれだけスペイン史が書けるか。予備校の解答例を見て、17世紀に該当する内容を書いたものはどれだけあるでしょう?
 17世紀のスペイン史にとってオランダ(低地)の独立承認にいたるまで、鎮圧費の負債が大きくなりすぎて休戦し(1609)、さらに三十年戦争の開始(1618)とともにオランダとの再戦になり、これでも赤字を増やしました。戦後の1647年(三十年戦争は1646年に事実上終わっています)、53年、6O年、62年と不払い宣言を出しています。
 ポルトガルを併合したのが1580年でしたが、1640年にはポルトガル王国は復活して、スペインからすれば失い「太陽の沈む国」になります。スペインの横暴に嫌気がさして、イギリスの援助を得てスペインからの分離独立を実現します。
 このポルトガルをまだ持っていた時期と失う時機に、躍進してきたオランダにポルトガルの基地が奪われました。マラッカはポルトガルが1511年に王国を滅ぼしましたが、次世紀にオランダが1619年に占領します。アフリカ西岸のエルミナもポルトガルが築いた奴隷貿易の最大の基地でしたが(1482)、1637年にオランダが乗っ取ります。セイロン(現スリランカ)は1505年に築いた貿易基地でしたが、1658年にオランダに奪われました。またサファヴィー朝アッバース1世によってホルムズ島からポルトガルは追放され(1622)、オマーン・マスカットも彼に奪われました。こうして大西洋とインド洋の重要な拠点を失っていきます。

 詳しい『詳説世界史研究』ではスペインの衰退について、こう書いています(p.302)。

スペインの繁栄は長くは続かなかった。その担い手であったムスリムを追放したことがおもな原因となって、毛織物工業などの手工業が衰退してしまったことも、スペインの経済的没落の一因であった。
 1588年にはスペインの誇った無敵鑑隊(アルマダ)が、へンリ8世の宗教改革以来、宗教問題やアメリカの領有権をめぐって対立の続いていたイギリスの海軍に大敗し政治・軍事的にも衰退にむかった。このような衰退過程を決定的にしたのは、17世紀初頭になって、アメリカからの銀の流入が激減したことである。また1640年には、 イギリスの援助をうけたポルトガルが、ブラガンサ朝のもとに再独立を果たした。

 この引用文の初めに書いてある「担い手であったムスリムを追放」を不思議におもひとがいるかも知れません。レコンキスタとともに追放したのではないかと。留まる者はキリスト教への改宗を強制されました。かれらをモリスコと呼びますが、改宗してもキリスト教徒との共存が難しく、多くの軋轢(あつれき)が起きていました。とうとう当時の国王フェリペ3世は、モリスコ追放を承認しました(16O9)。約30万人が半島から脱出します。かれらモリスコは優秀な農民や手工業者であったため、米とサトウキビの栽培が著しく減少し、小麦も不足し、カスティーリャやイタリアのサルデーニャから輸入せざるをえなくなります。かれらだけでなくても、スペイン人自身が17世紀の再流行したペストや凶作、諸戦争の徴兵と戦死、またアメリカへの移住、などでも減少しました。

 このうち17世紀のベストとは、1647〜52年の黒死病の流行で、125万人がスペイン全体で死亡したとみられる数です。セビリア市だけで13万人が病死しています。


第2問
問1 易問でした。調印された都市はスペイン北部にあり、ポルトガルの国境に近い。

問2 課題は「奴隷解放の歴史のなかで、ハイチとアメリカ合衆国の2つのケースだけは、他とは異なる特徴があったが、それはどのようなものだったか(100字以内)」でした。
 過去問(2003)に類題がありました。「奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と、国際的な要因を、カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい(指定語句→砂糖 トゥサン=ルーヴェルチュール クリオーリョ インディオ)」です。

 過去問は奴隷貿易全般がテーマでしたが、今年の問題はハイチと合衆国と限定して、「他とは異なる特徴」という比較の問題です。「奴隷解放の歴史」と問われても、「異なる特徴」をすぐには思いつかないものです。構想メモをつくって比べてみないとハッキリしません。ただ「他とは異なる」といっても、この「他」はラテンアメリカ全体なので、ハイチはその一国として共通点もあります。3者(ラテンアメリカ・ハイチ・合衆国)の比較が必要です。そこからハイチと合衆国の特殊性(相違点)はどこにあるのか探る、という仕事です。それもたった100字でという字数が苦しい。
 予備校の解答例を見ると、どれもラテンアメリカの奴隷解放がどんなものだったかを書かず、ハイチと合衆国を書いただけでは「特徴(相違点)」が分からないままです。下の設問・問3と重なっているため、それは避けたのかも知れませんが、これはこれで完答すべきです。

問3 課題は「その独立運動は、(1)いかなる契機から始まり、(2)どのような人々により担われ、(3)独立後にはどのような経済政策がとられたのか。また、このラテンアメリカの独立運動のなかで、(4)ブラジルの独立にはどのような特徴があったのか」と4つもあります。
 (1) 本国(スペインとポルトガル)のあるヨーロッパがナポレオン戦争に巻き込まれ、スペインはフランス軍の占領下におかれました。ポルトガルはフランス軍に侵入されイギリス軍の援助でなんとか切り抜けたものの、その脅威があり、国王と親族はブラジルに逃れてきた、という本国の危機が何よりあげられます。また植民地の中の白人地主のクリオーリョ(クリオージョ)の中にヨーロッパに留学したり、啓蒙思想の影響を受けた地主層がいたこと、かれらが本国(イベリア半島)から派遣し、徴税している半島者(ペニンスラール)に反感をもっていたこと、などがあげられます。
 (2) 担手は何よりクリオーリョたちです。本国の国王─副王─半島出身の官僚(ペニンスラール)─クリオーリョ─メスティーソ─インディオ─黒人、という階層構造のうち、トップの副王・官僚を追放するのが独立戦争で、白人からの白人の解放だったことが特異です。また同じスペイン人がたくさんのスペイン人の国々をつくったため、国民国家の形成に失敗した、ともいいます。シモン=ボリバルの「大(グラン)コロンビア共和国」構想は失敗しました。それぞれの国境は植民地時代の行政区分がそのまま反映しました。
 (3) 植民地時代の農業モノカルチャー経済(コーヒーや砂糖)は変わらず、欧米を市場とする鉱業も変化がありません。欧米のような工業化を目標にせず、もっぱら欧米の工業製品市場にして利益をあげることを支配層は考えました。少しはあったマニュファクチュアは欧米工業製品に負けていき、農業も工業も、むしろ植民地時代より欧米経済とのリンクが深化しました。
 土地はインディオの共有地を地主たちが取りあげ、分配して大土地所有者が低賃金労働者の安い労働力をつかって利益をあげていく構造ができあがります(アシエンダ制)。
 (4) ブラジルは亡命してきた国王夫妻が本国に帰還した後、帰国しなかった息子のペドロ(ペードロ)がクリオーリョにたきつけられて独立し、しかも皇帝を名乗るという親子喧嘩で実現します。他の独立国のような戦闘もなく、また他国は独立と同時に奴隷解放もしますが、ブラジルだけは1888年まで奴隷労働制を維持しました。

第3問
 課題は「ザイトンとも称されたザイトゥーンの都市名を漢字で答えた上で、当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係を」でした。
 もしザイトゥーンがなんという都市か浮かばなかったとしたら、「11〜13世紀の国際関係」に集中する他はないです。ただ泉州そのものはセンター試験頻出の都市ではあります。2015年第2問の導入文は以下。

泉州は、唐代中頃から、南海貿易の中心となった港の一つである。泉州には、様々な出自・信仰を持つ外来商人が住み着いた。ここを拠点に長年にわたって胡椒(こしよう)貿易に関わった蒲寿庚(ほじゅこう)も、アラブ系もしくはペルシア系ムスリム商人とされている。元朝は、蒲寿庚の持つムスリム商人の貿易ネットワークを利用して、南海諸国に対し朝貢を勧誘して貿易を促進した。このことは商船の誘致にもつながり、13世紀、泉州は東アジア海域とインド洋方面との結節点として、繁栄した。

 「11〜13世紀」という漠然とした時間設定なので、この時期の中国・インド・イスラーム世界の王朝を思い浮かべてみるといいでしょう。その上で、それぞれの経済についてメモしていきます。「当該都市を取り巻く11〜13世紀の国際関係」といっても中国史だけではないはずで、この記事を書いたイブン=バトゥータ自身がモロッコ出身で、中国に来る前はデリー=スルタン朝のインドに寄ってから来ています。つまりはインド洋を軸にすえて東西を広く網羅した解答文です。

 中国の11世紀は北宋、12世紀に南宋、13世紀に元朝が現れます。北宋はとくに陶磁器・絹・銅銭の生産で知られていました。教科書(詳説)に「宋代の中国では、青磁や白磁など陶磁器の生産がさかんとなり、絹や銅銭とともにジャンク船によって各地に輸出された。中国商人による交易の範囲は、東シナ海から南シナ海・インド洋にまでおよび、陶磁器を主要な交易品とするこのルートは陶磁の道ともよばれる」とある部分です。
 11世紀のインドはチョーラ朝が栄え、「11世紀にスリランカやスマトラに進出し、インド半島から東のインド洋の覇権を握り、また南インドの水田開発をすすめて繁栄した。この王朝のもとで南インドのヒンドゥー文明が確立した(東京書籍)」とあります。11世紀は世界史としては膨張の世紀と知られ、何も十字軍だけでなくレコンキスタ本格化、東方植民があり、商業ルネサンスが開始された時期でもありました。その勢いは13世紀のマルコ=ポーロ訪中までつづきました。西アジアのイスラーム世界ではアッバース朝の衰退が目立ち、代わってカイロを建設したファーティマ朝が貿易保護政策をとり、次第にバグダードに代わってカイロがイスラーム世界の商業の中核となっていきます。
 西アジアでは「セルジューク朝以降、……地中海とインド洋を結ぶ商業活動は活発におこなわれた。ムスリム商人は、奴隷や香辛料の交易にたずさわるばかりでなく、中国・インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラーム教の伝播にも大きな役割をはたした」とあります。
 またアフリカ東岸にもイスラーム世界ができて、インド洋貿易の一翼を担うようになります。「10世紀以降、その南のマリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワなどの海港都市にムスリム商人が住みつき、彼らによるインド洋貿易の西の拠点として繁栄した。やがてこの海岸地帯では、アラビア語の影響をうけたスワヒリ語が共通語としてもちいられるようになった。さらにその南方、ザンベジ川の南では11世紀ころから鉱産資源とインド洋貿易によってモノモタパ王国などの国ぐにが活動し、その繁栄ぶりはジンバブエの遺跡によく示されている」と。

 12世紀は東アジアでは金が南下し、西夏が西域を占拠してシルクロードの道をおさえ、南宋はこれら征服王朝下で苦しみながら、経済は「江浙熟すれば天下足る」といわれる繁栄をしていました。日本との日宋貿易(私貿易)として、敦賀・博多に来た宋人が高麗も含めた三国間貿易をおこなっていました。公貿易としては、平忠盛・平清盛による貿易振興政策がありました。インドの12世紀もチョーラ朝は東西交易の要でした。次第に東南アジアでもインドから来るダウ船がイスラーム教の普及ととともに商品を運んできました。「ダウ船とよばれるムスリム商人の船は、インド西海岸のカリカットやスーラトでインドの物産を積みこんでペルシア湾沿岸の諸港市に陸あげし、ここから陸路カスピ海南岸沿いにすすんでコンスタンティノープルやシリアの諸港に運ばれた。いっぽう、南インドの諸港からインド洋を西に横断した船は、アラビア半島の南をぬけて紅海沿岸に陸あげし、陸路、カイロを経由してアレクサンドリアやシリアの諸港に物資を運んだ(東京書籍)」と実に東西とも幅広い活動をしています。12世紀の西アジアの中心は上の記事の通り、やはりカイロで、「アイユーブ朝やマムルーク朝は、豊かな農業生産に加えて東西貿易の利益を独占し、首都カイロはイスラーム世界の経済・文化の中心地として繁栄をきわめた。このころインド洋と地中海を結ぶ交易活動をになったのは、カーリミー商人とよばれるムスリムの商人グループであった」(詳説世界史)とあります。

 13世紀はモンゴルの世紀「パックス=タタリカ(モンゴルの平和)」です。中国・北アジアではモンゴル帝国が現れ、イントではデリー=スルタン朝、カイロにはアイユーブ朝からマムルーク朝に交代します。
 『詳説世界史』の中国を中心に書かれた記事はこうです。

 元の時代には、中国もモンゴル帝国の広域的な交易網のなかに組みこまれ、長距離商業が活発となった。モンゴル帝国は、初期から交通路の安全を重視し、その整備や治安の確保につとめ、さらに駅伝制を施行した。その結果、おもにムスリム商人の隊商によって、東アジアからヨーロッパにいたる陸路貿易がさかんにおこなわれた。海上貿易も、宋代に引きつづいて発展し、杭州・泉州・広州などの港市が繁栄した。江南と大都を結ぶ南北の交通としては、大運河が補修され新運河もひらかれたほか、長江下流から山東半島をまわって大都にいたる海運も発達した。貨幣としては、銅銭・金・銀がもちいられていたが、やがて交鈔が政府から発行された。この紙幣は多額の取引や輸送に便利であったため、元の主要な通貨となった。不要となった銅銭は日本などに流出して貨幣経済の発達をうながした。

 西アジアについては上の12世紀の記事にもマムルーク朝(1250〜1517)という貿易保護政策をとった王朝のことが書かれています。日本と中国の貿易でも元寇のために一時は絶えましたが、その後は復活してきます。

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