世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・西欧近世史

西欧近世史の疑問

Q1 近世と近代はいっしょですか?

1A 教科書ではルネサンスや大航海時代の説明からを「近代ヨーロッパ」という題をつけています。つまりほぼ16世紀からを「近代」としています。ところが『詳説世界史』のこの題をつけたすぐ下の囲み記事には、この時代区分をいきなり否定するような説明をしています。「第9章では、15世紀末から17世紀前半の近世・近代初期のヨーロッパをとりあげる。15世紀末から、ヨーロッパ人は海外進出にのりだし……」と「近世」という表現と「近代」とを並列しています。また「第11章 欧米における近代社会の成長」と題したところの説明文では「第11章では、18世紀の後半……これら両革命は、近代市民社会の原理を提起するものであった」と近代市民社会が18世紀後半から始まったことを指摘しています。これはいったいどういうことなのか。学生を混乱させます。実際、2005年度の一橋の問題(「身分制議会」と呼ばれるが、その歴史的な経緯と主な機能、そしてその政治的役割について、特に近代の議会との違いに留意しながら具体的に述べなさい。)を中世の議会と絶対王政の議会とを比較した受験生もいるはずです。しかし絶対王政の議会と比較すると「違い」はあいまいにならざるをえません。
 山川出版社が教師用に出している「詳説世界史・教授資料」の第9章の初めには「ヨーロッパは、近世と呼ばれる15世紀末から18世紀末の時期に、遠洋航海の拡大によって……この時代にヨーロッパは、ルネサンスや大航海、宗教改革、絶対王政、資本主義の発達といった経験を通じて近代世界の主要な要素を準備した」と。この「教授資料」が正しい説明です。ヨーロッパ史学では modern ということばで16世紀以降のすべての時代をくくる名称にしていますが、本来は16世紀(15世紀末)からを「近世」として本格的な「近代」を18世紀末(1760年代)からと表現すべきです。拙著『練習帳』の巻末「基本60字」にはこうした時代区分をハッキリさせています(p.41)。


Q2 大航海時代に伴って生じた「商業革命」「価格革命」という概念についてです。価格革命とは、スペインが新大陸経営に力を傾注し、エンコミエンダ制を強化して、(なかば対価なしという状態で)ポトシ銀山を初めとする銀山から大量の銀を採掘させ、これをヨーロッパにもたらしたことで、銀の価値暴落がおき、物価高騰を引き起こしたものである、と解釈しています。
 いっぽう、商業革命については、理解に困るところがあるので、解説してください。
 なぜ、地中海世界が「没落」したといえるのか、ということです。商業革命とは、相対的な意味で「大西洋沿岸が中心に移った」ということですか? それとも、絶対的に地中海沿岸は商業面で衰退してしまったということですか? 地中海地方が絶対的に衰退した、と仮定します。マムルーク朝がエジプトに介在していたことで東方のモルッカ諸島原産の香辛料というヨーロッパ食文化の必需品は、イスラム商人(カーリミー商人)を経てヨーロッパにもたらされた時点では値段が上がっているはずです。このことに対する不満として「新航路開拓」が進んだ、ととらえることができ、カーリミー商人を介さない形での貿易の運営、即ち東廻りインド貿易路を用いた貿易の運営(つまり地中海都市の東方貿易はすたれる)へと変わっていった、ということぐらいが、地中海⇒大西洋へと中心地が移ったことの背景として
考察できるのですが、以上のような理解でよいでしょうか?

2A 価格革命はOKです。商業革命も基本的にはそれでいいです。ただすぐ地中海商業圏ないしイタリア商人が衰えたのではありません。16世紀にイタリア商業は一時復興したりしますが、ゆっくり衰えていったのは事実です。地中海にはオスマン帝国の船の他に、スペイン・オランダ・英仏の船が入り込んできます。これらの国々との競争に負けていったのです。15世紀までさかえた理由のひとつに造船があったのですが、木材が不足して造船できなくなったためも一因です。繁栄は衰退を準備したともいえます。また不安定な商業に投資するより土地購入に傾いていった点もあげられます。土地で穀物をつくり売る方が安定していると。
 現象的には商業の指導国が「地中海⇒大西洋へと中心地が移った」でいいですが、それ以外に商業圏の変化(中世の地中海・バルト海・北海→全世界、五大陸)もあります。セビーリャ商人とカディス商人を主体とするスペインによる大西洋(西インド)貿易、リスボンのポルトガルを中心とする東洋=東インド貿易という商圏が世界的規模に拡大されたこともさしています。換言すれば、イタリア商人はゆっくり衰えたが、東方貿易が衰えたのではない、ということです。これ以降のことは、Q42 の答えに説明があります。


Q3 重商主義政策というのはどういうものなのかいまいちよく分りません。山川の用語集p.187には、絶対王政下で重商主義政策は行われるとあるのですが、イギリスとかオランダでも絶対王政でなくても重商主義政策が採られたと思うんですが……。

3A 用語集は舌足らずですね。アメリカの13植民地に対してイギリスがおこなった政策、このときは名誉革命後で絶対王政が倒れた後の、議会主権のできている時期の重商主義政策です(用語集p.195)。
 疑問のとおり、重商主義には2つあり、絶対王政のとる重商主義を「王室的」重商主義といい、絶対王政が倒れた後の重商主義を「議会的」重商主義といいます。拙著『練習帳』の巻末「基本60字」p.56下段の4に「イギリスの議会的重商主義を、米大陸への植民地政策を例にして述べよ」という問題があり、右のページにも上にあげた説明を書いています。教科書がつかっていない用語ではありますが。『国富論』を読むとわかるのですが、重商主義とは近世の西欧諸国が経済を管理し、貿易収支の黒字をはかり、輸出を助成し、国内産業を育成した政策です。この定義でわかるように「商」だけ重んずるのでなく、経済全般であることです。かんたんにいえば、国家の経済介入政策です。この政策をとる国家の形態はなんでもいいはずです。ニューディール政策を支持したした経済学者(ケインズたち)がこの重商主義に共鳴していたのもうなずけるものです。東インド会社解散や穀物法廃止によってイギリスは重商主義政策をやっと放棄します。国家の介入をやめる自由主義政策への転換です。このように重商主義は19世紀半ばまでつづいていたのです。


Q4 宗教改革の時に、カール5世はなぜルターに異端的な説のとりやめを要求したのですか?ルターは諸侯や市民や農民の支持をうけていたのだから、教皇側に立つのは不利に思えるのですが。それに、十字軍以後は教皇権は弱体化したのに、わざわざそんなことをする程の結びつきがあったのかが少しよくわからないのですが。

4A カール5世だけでなく、ルターを異端とおもう多くのひとがいました。諸侯や市民や農民の支持をうけていたといっても全部ではありません。教皇権は弱体化していたのは事実ですが、カール5世にはローマ帝国皇帝であるという誇りがつよく、自分が全欧の責任者であるという自覚から、異端問題を解決して全欧に自分の力を示したかった。この自覚はトリエント公会議でも新旧両派を呼んでなんとか和解させようという点にも現れています。旧教徒しか集まらないので、そうはなりませんでしたが。息子のフェリペ2世にはこの自覚がはじめからありませんでした。


Q5 カール5世が、西はイタリア戦争でフランスと争い、東はオスマン帝国の侵入におびえる、という国際情勢のもとで、勝手気ままな政策を行なった(第1回、第2回シュパイエル帝国議会)ので、シュマルカルデン同盟が組織され、戦争が起こったようです。そして、カール5世が勝ったのにもかかわらず、なぜルター派の言い分も取り入れたような形で「アウグスブルクの宗教和議」を取り決めたのですか? 当時のカール5世(ハプスブルク家)としては、カトリック政策を進めたかったはずですから、シュマルカルデン戦争で、ルター派に勝利した以上、ルター派への譲歩は必要なかったはずです。場合によっては、国策に反抗し、国王に抵抗してきた罪でルターが処刑されてもおかしくなかったはずです。だのに、なぜ、アウグスブルクの宗教和議では、ルター派への譲歩が見られたのでしょうか。

5A シュマルカルデン戦争(1546〜47)は皇帝側の勝利になっているのですが、その続きがあります。皇帝側についていた選帝侯が1552年反旗を翻して新教側にまわり、新教側はフランス王アンリ2世と組んで皇帝派と戦い、このときフランス軍がライン川流域を占領するという事態にまでいきました。プロテスタント派が優位の状況です。カトリックのフランスがなんで、という疑問はわきますが、当時の戦いは必ずしも宗教的団結だけでないことは、イタリア戦争でフランソワ1世とカール5世がカトリック同志でありながら長いこと戦いつづいたことでも分かるでしょう。それでカール5世は失意のうちに退位し、弟のフェルディナントに委ねてしまいます。このフェネディナントの下でアウグスブルク和議が結ばれました。


Q6 フランスにユグノーが元々あまり浸透していなかったのは農業主体の国だからでしょうか?

6A 面白い疑問ですね。都市にカルヴァン派は浸透するので、あまり中世都市の発展しなかったフランスには理由のひとつになるでしょう。そういえば産業革命がなかなか進行しなかった、緩慢であった、というのも農業主体だったからでした。きわめて保守的な国なのかも知れません。良くいえば、新しいものには軽々しく付いていかない。


Q7 フランスは旧教国なのに、カトリーヌ=ド=メディシスはどうしてユグノー寛容策をとったのですか?

7A カトリーヌ=ド=メディシスは一貫性のある女性ではありません。はじめは寛容精神で(一般にカトリックの方がプロテスタントより寛容です)、新教も認める立場でしたが、それが挫折すると新教徒の弾圧・抹殺に走り、サン=バルテルミーの虐殺もおこしています。これは西太后が義和団を利用して欧米に宣戦布告をしたものの劣勢になると撤回して、今度は義和団の弾圧を命じたのと似ています。


Q8 山川の教科書の159ページの3行目から8行目なんですが、1522年春という風に明確な時期が分かっているからには何か具体的な出来事があったのですか? 細かいことですが少し気になりました……。

8A ウォルムス国会のルターの英雄的な発言が伝わりながら、その帰途の1521年、ルターがザクセン公の城にかくまわれて1年間近く(21年5月〜22年3月)姿を消したことから、ルターの教説を独自に解釈する者たち(騎士・農民・貴族)が現れ、分派し独自の教義をつくりだしていったようです。そのため城から出てきたルターと対立することになります。ルター派内部の分裂です。


Q9 「宗教改革運動と国民国家の形成との関連」の問題について質問があります。“国民国家”とはどのようなコトをいうのでしょうか。

9A 国民国家とは、教科書『詳解世界史』(三省堂)では「長期にわたる戦争は終わった。この戦争の結果フランスでは諸侯・騎士が勢力を失い、これに対し、国民感情の覚醒と常備軍の設置を背景に王権がさらにのび、シャルル8世のときには絶対主義への道が開かれた」にいくらか記載してある「国民感情の覚醒」の部分です。
 もっと明解に書いているのは山川の教科書『世界の歴史』では「中世末から17〜18世紀にかけて王権が強大になり、絶対主義国家がうまれると、国家の支配・統合機能が格段に強まり、これとともに政治的共同体としての民族あるいは国民(ネーション)が形成された。それは通常有力な中心民族に複数の周辺・少数民族を加えて、政治権力の上からの操作によってつくられることが多い。その際、当時各国で資本主義経済の発展につれてうまれていた全国市場や、市民層が育てた国民文化が政治的統合の基礎になった。……しかし絶対王権は国民を統合の対象として受け身の立場にしかおかなかった。これを逆転させ国民を主権者にしたのが市民革命であり、これとともに一つの政治・法律制度をそなえ、国民に主権者としての権利とともに納税・教育・兵役などの義務をおわせる近代的な国民国家が成立した」と。
 まとめれば、近世に絶対王政が国境・民族・言語・信仰をまとめ、近代になって市民が国家の土台となって下からつくりあげた、ということになります。


Q10 山川の教科書に「グスタフ=アドルフの戦死で和平気分が高まると、仏は公然と参戦したとあります。それはとりあえず、宗教戦争は終わったと仏は見なして、今度は権力争いとして公然と参戦したということでしょうか?

10A 「戦死で和平気分が高まると、仏は公然と参戦」は途中をだいぶ省いた記述です。アドルフは戦死しましたが、スウェーデンが全般では勝利しました。しかしその後の戦闘ではまた旧教側の神聖ローマ帝国・スペインが挽回しています。それで小康状態「平和」になっていたのですが、1630年からスウェーデンが参戦し、このスウェーデンに資金支援をしたフランスとしては、どうしてもハプスブルク家をたたきたい、また領土もほしい、ということで黒幕であったフランスが表立って出てきた、という順です。


Q11 三十年戦争の際、フランスは旧教国でありながら、リシュリューの提案により自国の利益を優先するため新教国側として参戦した、とあるのですが、ここでいう「自国の利益」とはどのようなことをいうのですか?

11A フランスにとってハプスブルク家の台頭はお隣でもあり安閑としておれない。三十年戦争の4回の戦争(ボヘミア戦争、デンマーク戦争、スウェーデン戦争、フランス・スウェーデン戦争)のうち前半二回は神聖ローマ帝国の勝利でした。これを見ておれないフランスは三回目のスウェーデン戦争のときからひそかにスウェーデンを経済支援していて、とうとう四回目にフランスという黒幕がでてきた、ということになります。宗派は同じでもお隣に大国がないことを望んだのです。16世紀のヴァロア朝とハプスブルク家の対立は17世紀のブルボン朝とハプスブルク家の対立として宿命的な戦いをつづけたのです。こうした国威(国家の威信)を保ちたいことの他に、領土の拡大も「自国の利益」目的にはあります。


Q12 主権国家というものが僕にはいまいちわかりません。主権国家体制はヨーロッパで確立されたと書いてありますが、この時期に例えばオスマン帝国など他の地域における主権国家はないのですか?

12A 主権国家のかんたんな定義は、国内最高権力と対外独立が実現している国家のことです。国内で最高の暴力をもち国家以外の、貴族といえども、だれもこれに抗えないほどの権力です。中世の国家では神聖ローマ帝国が代表ですが、これだと皇帝の権力は各小国(領邦と呼んでいるもの)に対して皇帝権は及びません。そこに帝国官僚も入ることができません。皇帝は三十年戦争を待たなくても名目です。前をたどっても1981年の東大の問題にもあったように、実態はカールと伯との個人的な結びつきにすぎないのが西ローマ帝国でした。伯や巡察官はまともな官僚とはいえないものでした。それが官僚を派遣して中央の法と裁きを受けさせるようになれば、主権国家です。
 これだけとれば明清もオスマン帝国も主権国家といえます。ただ対外独立は実現していません。対外的にはどこの国にも従属していない状態でなくてはなりません。しかもそれは他の国々、あるいは列強でもいいのですが認めてもらわないといけません。神聖ローマ帝国はウェストファリア条約で各領邦ごとにこの対外独立、いいかえれば、どこにも属さない、おうかがいをたてなくてもいい外交権をもらいました。英仏などは実質、百年戦争終了の段階でもっていたのですが、やはりウェストファリア会議でそれは確定しました。この会議で外交する場合には、どういう身分のもの同士が話し合うか(領事→大使→外務大臣→首班)、派遣された外交官はその国を代表していなくてはならない、という取決めをしました。アジアの国々はこういう外交の取決めの圏外にあったため主権国家とはいわないのです。日本がワシントンでの条約改正に関する交渉が始まって国務長官フィッシュから使節に対し、天皇の委任状を持っていないので交渉はできないと言われ、やむなく大久保と伊藤は委任状を得るために遠路を帰国し、やっと5ヶ月余後に委任状を携えて戻った、という話は、まだ主権国家として認められていない、また西欧型の外交を知らない日本のすがたを示していました。もちろんこれは欧米の勝手な国家の見方です。当時はしかしこれをルールとしておしつけていったわけです。
 日本国憲法の前文に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」とあるのが主権国家のもうひとつの定義です。
 現代でも、国家の要件を満たすにもかかわらず、国家として承認を得られていない国家も存在します。中華民国(台湾)がそうです。中華民国は主権国家(完全に独立した国家)として国家承認すると、台湾は自分のものだと主張する中華人民共和国と対立することになります。


Q13 ウェストファリア会議がどうして「ヨーロッパ最初の国際会議とされる」のかわかりません。西欧と北欧だけの会議ではありませんか?

13A たしかに戦場となった地域や分割された地域をみると西欧・北欧ですが、ヨーロッパどころか、全世界的に見て近代的な外交のスタートと見られているのです。その理由は、(1)宗教をめぐる戦いで教会はまったく平和をもたらす勢力になりえなかったこと、というより殺戮をあおるものでしかないことが明らかになったことです。宗教抜きの純政治的会議となりました。(2)「外交」というもののはじまりになりました。1644〜48年と時間がかかった理由は、66ヶ国もの代表が集まり会議を開くとして、いったい国を代表する資格はだれにあるのか、どこにどこの国が、どんなテーブルに座るのかをめぐって長い時間を要したのです。このことから、国を代表する専門職としての外交官の身分が確立します。完成はウィーン会議ですが、外交官の職制や儀礼、大使・公使・代理大使の地位、席次は同一階級内では着任順とするなどの外交規則の原型ができます。(3)国家権力を代表するものの集まりであったということが新しい意味をもっていました。傭兵をやとって戦争することが当り前であったとき、最終的に傭兵制をやめ国家総動員体制で戦うことが慣例になっていくはじめでもありました。戦争をおこなうものと政治指導者はかならずしも一緒ではなかった時代から、国家のみが暴力を独占し、暴力装置を独占する主体であることを、結局は、傭兵でも教会でもなく国家(政治権力者)が政治と戦争の主体であることを明らかにする絶対主義時代の会議でもありました。


Q14 ウェストファリア条約で主権国家が確立されたと政経の教科書に書いてあったが、中世のイギリス・フランスなどは主権国家と言わないのですか?

14A 少なくとも、中世末の百年戦争後はいえます。「主権」とは国内の最高権力と対外的独立の二つを意味するので、この二つが備わっていれば主権国家といえます。西欧でいう絶対主義とともに成立しました。百年戦争の結果、フランスからイギリスの領土がなくなり、フランス王はほぼフランス全土の最高権力者になったといえるからです。もちろんまだ完全ではなかったのですが、ローマ教皇を頂点とする教会の上に、封建的な地方権力たる貴族層の上に、身分制議会の上に、ギルドの上に絶対王政は存在することになったからです。これはフランスから追い出されたイギリスが、ばら戦争の後に、並ぶもののない王権を確立したテューダー朝の段階でいえます。レコンキスタを完成してキリスト教的な宗教的王権を樹立したスペインもポルトガルにもいえることです。こうして、主権国家は、まずは君主主権という形をとってスタートしました。


Q15 絶対主義の所に出てくる、主権国家という言葉がどういう意味なのかよくわかりません。どういう国家のことですか?

15A 主権をもつ国家、という意味です。主権とは、対内に(国内に)最高の権力(暴力・武力)をもっていることと、対外的にはどこにも属していない独立国である、という二つの要素をもった国家です。これは中世のようにいろいろな封建関係が結ばれていて、どの領主も中世都市も小さい権力しかもっていない状態から、絶対主義の王権が常備軍と官僚組織・徴税のシステムをととのえて、対内最高権力と対外独立をもつようになったので主権国家ができたといいます。現在はそれがもっと強化されたたくさんの主権国家のあつまりとなっています。植民地・属国だったらこの主権にまだ到達していないことになります。


Q16 三十年戦争後にハンザ同盟は衰退した、というのを読んだことがあります。その後、どうなったのでしょうか?

16A ある事典に明快に述べているものがありました。引用します。  
 15世紀以後、同盟は衰退過程に入る。各都市は内部では商人層の寡頭支配に対するツンフトそのほかからの対立抗争という問題をかかえ、対外的には国家的主権を強める領邦君主と激しく対立することになる。こうして始まる諸都市の弱体化は同盟にも影響し、もともと強固でない組織をいっそうゆるめていった。加えて絶対主義諸国はその重商主義政策を進めるにあたってハンザ商人の特権を奪い、国民国家への展開と国内産業の振興に支えられた外国商人の進出に対する同盟の競争力は弱められた。すでに1441年に同盟はオランダ商人のバルト海航行を認めねばならず、また1487年にはノブゴロドの商館を放棄し、それは1494年に閉鎖された。16世紀になると、同盟はスウェーデン・デンマーク・イギリスでの特権を失い、ブリュージュからも後退した。そして1598年にはロンドンの商館も閉鎖されて、このとき同盟は事実上解体する。最後のハンザ会議はなお1669年に開催されるが、そのあいだに諸都市の領邦国家への服属は進み、三十年戦争以降もハンザ都市の名称と自治権を維持するのは、リューベック・ハンブルク・ブレーメンの3市のみであった。(世界歴史事典)


Q17 ウェストファリア条約は三十年戦争の講和条約で、ロンドン会議はギリシア独立戦争の講和会議なのになぜ、それぞれ無関係なオランダの独立やベルギーの独立の話が出てくるのでしょうか?

17A 無関係ではありません。オランダは三十年戦争のときにスペインと戦争を再開しています。オランダ独立戦争は80年戦争ともいって、1568〜1648年までつづいたと見なします。三十年戦争の前には「休戦」していますが。
 ベルギー・ギリシアの独立はウィーン体制の維持か廃棄かをめぐる問題もかかえていますので、ギリシア独立戦争に参加した英仏露の協議は双方に及んだのです。トルコはアドリアノープル条約で認めているのですが、西欧は西欧で承認をめぐって話し合っていたということです。


Q18 私は高校から第一学習社の「最新世界史図表」を愛用しているのですが、その p.150 に、 第3次英蘭戦争の絵と解説があって、「オランダは陸上でフランスの侵攻を受けて苦戦していた」とあるんですが、これはオランダ侵略戦争のことですかねぇ……?

18A そうです。第三次英蘭戦争は英仏が同時に展開する戦争ですが(フランス側の表現ではルイ14世のオランダ戦争)、イギリスは早く撤退してしまう(1672〜74年)のですが、ルイ14世がしつこくオランダ攻撃(1672〜78年)をやっていたのです。とくに1672年にフランスに国土深く侵入され大きな損失をこうむっています。


Q19 オランダ東インド会社をVOCと略語でいうようですが、何の略かわかりません。

19A オランダ東インド会社の正式名称が「連合ネーデルラント東インド会社」でオランダ語のスペルは
 De Vereenigde Nederlandse Oost-Indishe Compagnie
というものです。「連合(合同)」を意味するのがこの  Vereenigde です。De は冠詞でしょう。英語では Dutch United East India Company とか The United Dutch East Asia Company とつづるそうです。乱立した会社のうち6つを合同したため「United 合同(連合)」がついています。Oost は East です。
 

Q20 清教徒革命の時、スコットランドの「長老派(プレスビタリアン)」が出てきます。この「長老派」と、ピューリタン革命で独立派と対立した「長老派」はどうちがうのか、生徒に分かりやすく説明するにはどうすればいいのでしょうか? 長老教会制度を両者とも主張しているのですよね? 「プレスビタリアンと同じ考えをもつイングランドのカルビン派」という説明は乱暴でしょうか? 教養文庫:世界の歴史6には「政治上の長老派、独立派は宗教上のそれとぴったり一致するものではない」と書かれているのをみて、頭が混乱しています。

20A  「プレスビタリアンと同じ考えをもつイングランドのカルビン派」は正しいです。どちらもPresbyteriansで長老派(プレスビテリアン・チャーチ)と訳しています。長老派とは、教会を信徒が選んだ長老によって経営してもらう、という民主的な組織です。ちがいは、スコットランドの長老派は議会で承認された全国民的な組織であるのに対して、イングランド「ピューリタン革命」での長老派は一部の議員と一部の信徒にしか組織化されていないことです。王政復古の後は多くの信徒・議員が国教徒に改宗(転向)しますから余計少数派になりました。学生に説明するのはこの点だけでいいのではないでしょうか。
 スコットランドの全国組織は、末端の各教会に牧師がおり、そばに教会員から選出された一定数の長老 presbyter がいて運営に共に参加します。それらの教会が地方ごとに長老会を組織し、さらに数地方の長老会をもって大会がつくられ、その上に全国総会がおかれる、という全国的なものです。


Q21 旧教徒のジェームズ2世(旧教徒)の子メアリ2世や妹のアンはなぜ新教徒なのですか?

21A ジェームズ2世は幼少からプロテスタント(新教徒)として育ったのですが、最初の妻が死の前年にカトリック(旧教)に改宗したことの影響から、自分もカトリックたることを公言するようになりました。再婚した後、兄をついで王位にのぼりカトリック化政策を推進します。娘の信仰は実はこの父親でなく、まだ王位にあった兄のチャールズ2世が、弟の子供たち(メアリ2世とアン)は新教の信仰をもつように強く説いたせいだそうです。チャールズ2世はカトリックに同情的に行動し、また臨終の床でカトリックになることを告白した人物。意図は謎のままです。ただ、西欧の親子は、日本のように大学卒業後もくっつきまわるベッタリ親ではなく、まして王となれば直接こどもの養育をするわけでもない、ということを踏まえておかなくてはならないでしょう。貴族の子も早く寄宿舎に入れる、職人の子は徒弟に出す、できるだけ他人のなかに育ったほうが早く大人になるという信念の親とは大部ちがいます。親子の信仰がちがっても構わないと考えているようです。


Q22 山川の詳説世界史p168を参考に見ているんですが、近代においてブルボン家のフランスとハプスブルク家は仲が悪かったようですが、フランスブルボン家のルイ13世、ルイ14世紀はそれぞれスペインのハプスブルク家から妃をもらっています。フランスから見て敵方のハプスブルク家から妃をもらっている理由はなぜですか?政略結婚か何かでしょうか? 参考とされた文献等も教えていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

22A ルイ13世は結婚するスペイン王女アンヌのことは顔も見たことがなく自分の意志ではありませんでした。対立しているスペインとの和平のための政略結婚です。ルイ14世は恋人がありながらスペイン王女マリアとの結婚は、マザランと母親(アンヌ)が決めたことであり受け入れざるをえませんでした。参考になるのは、長谷川輝夫著『聖なる王権ブルボン家』講談社選書メチエ(1700円)です。


Q23 イギリスの話でよく分からないのが、慣習法(コモン・ロー)の話です。法律というと成文法しかイメージできないのですが、成文法ではなくても法律としてうまく機能するのでしょうか。文章化されていないということは、微妙なズレ等が生まれたりもしそうですし。

23A 判例法ともいうように、この判例文は全国で参照され、むしろ判例にしたがって他の裁判も判決を出すように相当規制されます。紛争の解決にあたっては裁判所の先例(判例)を検討することによって結論を導き出すことにしているのです。具体的・融通のきくかたちともいえます。ローマ帝国の法も制定された法もありましたが、判例が準法律のあつかいをうけました。それが煩瑣になったり、矛盾が出てきたため6世紀に『ローマ法大全』による統一見解集を出すことになりました。


Q24 山川から出されている世界史B問題集で「グロティウスは自然法の父」という記述があって答えは「自然法の父」が間違いとかいてあるんですが??

24A 追試の問題の文章は「グロティウスは、民族の固有性を重視する歴史法学を打ち立てて、「自然法の父」と呼ばれた。」です。「自然法の父」の部分は正しくても「民族の固有性を重視する歴史法学を打ち立てて」はザヴィニーというドイツ人のことなのでまちがいなのです。またグロティウスも厳密には自然法を初めて考え出したひとではないので、「近代自然法の父」とした方が正確です。


Q25 イギリス市民革命について。最初は清教徒が中心だったのにチャールズ2世が即位(ジェームズ2世か?)すると審査法で「国教徒のみ」とあり、清教徒の立場は?って感じなですが……清教徒はその後どうなったのですか?

25A 清教徒革命のときは、国王が国教徒と組み、非国教徒と対立するのですが、王政復古後は、国王がカトリック側にたち、国教徒と対立する、というちがいのことですね。
 これは王政復古があったときのはじめは、ピューリタンたち非国教徒も国王チャールズ2世を迎えるものの、国王が非国教徒の弾圧をはじめると、多くのピューリタンたちは命が危ないので国教徒に宗旨変え(転向)してしまうのです。議員たちも、長老派など、かつては非国教徒が多かったのに、国教徒の多い議会に変貌しているのです。このことはちゃんと教科書は書いていません。カトリックを復活させようとするチャールズ2世に対して、議会側から国王のカトリック化政策に反対する法案が通ります。 弟のジェイムズ2世は即位前から自分はカトリックだと公言しているものの、この国王の排斥案がトーリー党の反対で通らず、しかたなくカトリック王の就任となります。しかし待てば娘のメアリーは新教徒(国教徒も非国教徒も新教徒です)なので、がまんをすれば、いずれジェイムズ2世は死んで、新教の女王就任になるはずでした。しかしジェイムズ2世に子供が産まれ、それも男の子でしたから、いくら娘のメアリが大人でも、男の子から就任することになり、長いことイギリスではカトリックの支配がつづく可能性がでてきました。それで折れたトーリー党とホイッグ党が組んで、メアリーと旦那のウィリアムを招いた、ということになります(名誉革命)。

 

Q26 ルイ14世が行ったファルツ継承戦争の事で質問なんですけど、ファルツの場所ってどの辺りですか? 

26A フランスの東で、現在ドイツ南西部です。ライン川支流マイン川以南のライン両岸の地域(ラインラント、ライン川流域の意味)です。18世紀の歴史地図でパリの東をまっすぐ横に見ていくと書いてあるはずです。


Q27 問題集に1688〜97年のファルツ戦争にオレンジ公ウィリアムが活躍した。とあったんですけど、このオレンジ公ウィリアムは1581年のネーデルラント連邦共和国の独立に活躍した、あのオレンジ公ウィリアムですか?

27A いいえ。のちのイギリス王ウィリアム3世です。名誉革命のとき妻のメアリ2世とともにイギリスにわたりメアリ2世とともに共同統治者となります。オランダの王様はみな似た名前ばかりです。オレンジ(オランダ語でオラニェ)は王家の名前で、果実のオレンジからきています。オランダのサッカーの色はオレンジ色にしているのは王家を表しています。


Q28 資本=お金ですか?

28A いいえ。たんなるお金ではありません。資本はよりお金を生みだすお金のことです。たんに財布にお金があったり、ラーメンを食べるために支払うだけのお金は資本ではありません。お金をより産みだすためのお金を資本といいます。「元手」とか、貸付けによって利子を獲得するための「元金」とか、営業に必要な「資金」のことです。銀行資本とはたいてい銀行をふくむ金貸し業です。帝国主義時代には、資金を後進国の政府に貸して利子でもうけようという資本のことです。


Q29 山川出版の用語集162ページの第二次ウィーン包囲の説明で、オスマン帝国はロートリンゲン公とポーランド軍に撃退されたとありますが、ウィーンのハプスブルク家は何もしなかったんですか? なぜポーランドなのか分かりません。あとロートリンゲンとはロレーヌのことですか?

29A もちろんウィーンはハプスブルク家の本拠地ですから戦っています。トルコ(オスマン帝国)とは1662年から長い戦いをしていて、この第二次ウィーン包囲と、1699年のカルロヴィッツ条約が最終的なハプスブルク家の勝利となります。用語集は不要な細かい説明をすることがあり、これもその一例です。なぜポーランドなのか……は歴史地図を見られると氷解するはずです。16〜18世紀のポーランドは現在のポーランドとちがってでかい国です。ベラルーシやウクライナももっている大国でした。正確にはリトアニア・ポーランド王国です。分割される前のポーランドの大きさを想起されてもいいでしょう。トルコとも長い国境線をもっていて何度も国境紛争がおきていました。
 ロートリンゲンとはロレーヌのこと……です。ロレーヌを相続したカール(Charles of Lorraine)がフランスから追放されて、神聖ローマ帝国の家臣として仕えていました。このひとは王の居ないポーランドの王候補に二回あげられた人物でもありました。受験上は要らない知識ですが。


Q30 ピューリタン革命の開始年が1640(42)となっている本があるんですけど、どうしてですか? 中学校の参考書なのですが…

30A 長期議会の召集(1640)とともに革命に入ったととるのが研究者では一般的です。高校の教科書が1642年にしているのは内戦が始まった年からです。どちらでも良いとも言えます。山川出版社の最近出た『世界史小辞典』では1640年にしています。いずれこの年代に変わるでしょう。


Q31 ピューリタン革命や名誉革命で生産の自由な発展を妨げる特権が廃止されたと言う記述が山川の『新世界史』にあったのですが、具体的には発展を妨げるどんな特権が廃止されたのですか?

31A 特権廃止の最大のものは封建的土地所有の廃止です。封建的土地所有とは国王が全土をもっているという原則に立つものです。この制度が廃止になると、領主やブルジョアたちは法的に個人的な所有地として自分の土地を認めてもらうことになりました(私有権)。それまでは国王から封土していただいた土地だったのが、国王の承認なしに自由に土地の売り買いが可能になりました。土地も商品のひとつになったのです。またギルド制の廃止、国内関税の廃止などの国内に自由に商品が流通する風通しのいい経済、全国的な市場もできあがりました。ギルド制では個人の発明があると、他の親方たちの脅威になって抑えられてきましたが、その抑止もなくなりました。自由に競争してもいい経済、また創意工夫が開放された経済になりました。


Q32 農奴・ヨーマン・土地所有農民などのちがいはこんなかんじでいいでしょうか。
農奴(地代あり・経済外強制あり、ただし領主裁判権にいたる高度のもの、普通程度の土地保有権)、
農奴解放(地代あり、経済外強制なし、普通程度の土地保有権)、
ヨーマン(地代あり、経済外強制なし、強固な土地保有権)、
ユンカー経営(排他的に土地を所有するので地代なし経済外強制なし、だが旧領主の大農場で副業的に賃金労働)
コロヌス(地代あり、経済外強制あり、ただし土地緊縛はあるが領主裁判権まではいかない、普通程度の土地保有権)

32A 書いてあることはだいたい正しいですが、ヨーマンのところは、(地代あり、経済外強制なし、強固な土地保有権)ですが、18世紀には資本主義的農業経営者になるものと賃金をもらう農業労働者に分化します。
 もうひとつ「ユンカー経営」のところは、ユンカーという経営者のことより、その下ではたらく農民のことですね? つまり(排他的に土地を所有するので地代なし経済外強制なし、だが旧領主の大農場で副業的に賃金労働)は法的にはそうなのですが、「解放」された農民は自分の土地所有権が与えられたものの、実態は旧領主のもとで種々の農奴的扱いをうけつづけました。


Q33 グーツヘルシャフトという経営はいつまでつづいたのですか?

33A 15世紀末から18世紀までです。厳密にプロイセンだけに限ると1807年のプロイセン(シュタイン・ハルデンベルクの)改革までです(この改革以降は「ユンカー経営」と言い換えます)。農奴制をもとにして西欧向けの商品(穀物・材木)をつくる大農地経営をさします。農奴制自体は、古代末から近代の市民革命までつづいた長い長い制度です。グーツヘルシャフトはしかし、中世でなく、近世(16〜18世紀)にあった新しい制度です。しかも西欧の閉鎖的な荘園(自給自足の経済)とはちがった西欧市場めあての経営です。ドイツ語表現だからといってプロイセン(ポーランド北部)にだけあった制度でなく、当時のポーランド・ボヘミア・ハンガリーにもありました。エンゲルスが「再版農奴制」と呼んだものです。一応、次のように西欧との時期のずれを見ておくといいでしょう。
    西欧     東欧
中世: 農奴制    自由農民
近世: 解放へ    農奴制の成立
近代: 市民革命で  解放へ
    解放完成   (ロシアは1861年)
           完成は20世紀の社会主義革命で


Q34 12世紀ルネサンスや、カロリングルネサンス、商業ルネサンスと言いますが、なぜルネサンスというように呼称するのでしょうか? そして、イスラーム世界や、ビザンツ帝国から、古代ギリシアの学問などが流入したことが、ルネサンスに影響したと習ったのですが、それまではイタリアなどではそうした古典研究が行われていなかった、ということなのでしょうか? かつてのギリシアの地に古典が眠っていて、そうした研究は専らビザンツやイスラーム世界でおこなわれていて、それが、十字軍などで西ヨーロッパ世界の人々がそれに触れることとなり、ルネサンスが起こったということなのでしょうか?

34A その通りです。ルネサンスは「復興」ということなので、以前にそうした繁栄期があったことを指しています。
 「12世紀ルネサンス」も「カロリング=ルネサンス」も古代ローマ文明の復興を意味しています。
 「商業ルネサンス」も古代ローマ帝国時代の地中海世界の貿易が再現したことを意味しています。違うのは、古代になかった北海・バルト海も商業圏に入ってきたことです。
 イタリアなどではそうした古典研究が行われていなかった、ということなのでしょうか?……そうです。ゲルマン大移動(4〜6世紀)の頃から正しいラテン語のつづりも忘れられ、わずかに修道院で細々と古典の筆写がおこなわれる程度でした。それが11世紀から大学ができ、この大学や研究所で、とくに12世紀に相当数のアラビア語からラテン語への翻訳、またギリシア語からラテン語への翻訳もあり、またイスラーム・ビザンツからの学者流入もあり、14世紀以降これらをやっと消化して独自の文化をつくりだしたのが、14〜16世紀の「(イタリア)ルネサンス」です。
 教科書には載っていませんが、アッバース朝ルネサンス、宋代ルネサンス、という言い方もあります。前者は古代メソポタミア文明の復興を指し、後者は春秋戦国時代の諸子百家・前漢後漢の文芸などの復興を指しています。


Q35 『センター世界史B各駅停車』のp.252「ユグノー戦争」に下記の記載があります。カトリーヌ=ド=メディシスはユグノー戦争の打開を図るために、ユグノー派の若者を娘と政略結婚させたはずなのに、どうしてユグノーを虐殺したのでしょうか。かえってユグノーとの関係が悪化するのではないでしょうか? それとも、初めからユグノーを虐殺することを目的として、ユグノー派の若者を娘と政略結婚させたのでしょうか?

35A 内戦が長引き、カトリック側が今ひとつ弱いときに、カトリーヌ=ド=メディシスは自分の子どもたちの担っている王家を守りたくて、ユグノーのアンリ4世と組むことが、宗派はちがっても和解の方策になると考えたようです。サン=バルテルミの虐殺はカトリーヌの意図ではなく、過激なカトリック側の貴族たちが起すと、それが次々と虐殺を呼び込んで暴走してしまったようです。


Q36 教科書p202「アジアへの進出でポルトガルにおくれたスペインでは、1492年に女王イサベルが…」とあるのですが、1492年の前にすでにポルトガルはアジア進出を果たしているということでしょうか? 1498年のカリカット到達が最初のアジア進出と認識していました。

36A 1492年の前にすでにポルトガルはアジア進出を果たしているということはないですね。「ポルトガルにおくれた」といっているのは、エンリケ航海王子(1394〜1460)の頃からアフリカ西岸の探検、インド航路開拓を企図したことを指しています。かれは航海学校をつくり、探検家・地理学者・天文学者を集めて王室として推進したことから、スペインは「遅れた」意識をもっていました。


Q37 P139「封建社会が安定し農業生産が増大した結果、余剰生産物の交換が活発になり…」この部分の、余剰生産物の交換を行ってるのは、農奴でしょうか? 領主でしょうか? 農奴は余剰生産物の交換を認められていたのでしょうか? P142「農民は市場で生産物を売り…」の部分は、西暦1300年頃からだと認識しています。

37A 貨幣地代の普及が原因ですね。地代を納める方法として、労働地代→生産物地代→貨幣地代がありますが、領主が貨幣を要求してきたら、貨幣で納めるほかないです。貨幣を農民が得るためには市場に作物を持っていき、それを売って貨幣に換えて、その中から決められた地代を払うことになります。
 しかしこの貨幣地代の段階になると、地代はいくらかと決めて納めさせるので、固定した地代をとる領主は、もう領主というより地主と表現した方がいいような、農民とは経済だけの関係になっていて、「純粋荘園(純粋に経済だけの関係)、つまり「古典荘園(領主・農奴関係)」から地主・小作人関係への転換です。人格的・政治的な支配(領主裁判権)を農民に及ぼさなくなり、その権限はむしろ強化されていく王権が吸収していきます。王権は地方の裁判権を奪っていきます(巡回裁判所、治安判事など)。


Q38 教科書p217「…オランダ・イギリスなどの新興国の攻撃を受けて、その力は低下していった」ここにおいて、オランダが新興国の扱いをされるのはわかるのですが、イギリスが新興国の扱いをされているのはなぜでしょうか?

38A 中世までは羊毛原料の輸出国で植民地にひとしい国でしたが、百年戦争のためフランドルの技術者たちが亡命してきて毛織物工業がおき、毛織物を輸出するくらいに成長してきました。また16世紀の末スペイン艦隊を破り(1588)、海軍国としても台頭しました。


Q39 教科書p224「ヨーロッパは18世紀に再び成長期を迎えるが……」とあるのですが、18世紀の前の成長期とは、16世紀から17世紀前半まで続いていた成長期のことでしょうか?

39A この文章の前に「17世紀の危機」という表現があり、この危機を克服して18世紀の繁栄ということです。推測された通り「16世紀から17世紀前半まで続いていた成長期」が以前の状況です。これらは気候の温暖期、17世紀は寒冷期「小氷河時代」、18世紀は温暖期と関連しています。


Q40 大航海時代がなぜポルトガルとスペインが発端となったか。
「レコンキスタを終えた国」というのは分かるのですが、なぜわざわざ海外へ進出する必要があったのか分かりません。ポルトガルとスペインにとって、宗教的・経済的にどのような利点があったのでしょうか。

40A 宗教的にはカトリック教会がレコンキスタの支援者であり、戦士も商人も「聖戦」をたたかったキリスト教圏拡大の意志をもったひとたちであったこと。経済的には、スーダンの金と奴隷の獲得、アジアとの直接商業の実現をめざす、といった目的があり、目の前にアフリカの大地が見え、その征服に燃えていたことです。


Q41 「肉食の普及に伴う香辛料の需要」についてよく「肉食の普及とともに香辛料の需要が高まり…」との説明がありますが、肉食の普及は誰に対しての普及で(富裕層か農民か)、それはどのようにして進んだのでしょうか。

41A 「肉食の普及」は先史時代から現代まで地域によって違いますが、基本的にどこでもみられた現象なので、富裕・農民に関係なくあることとおもわれますから、回答できません。また香辛料も絶えることなくいつの時代にもあります。ただ西欧側がアジアに求めた商品として17世紀ころまで輸入は盛んでした。ポルトガルがインドで得た香辛料は西欧では60倍に売れたので大儲けできます。ただそれが食材が豊富になったせいか、1650年ごろを境に香辛料がふりかかっていれば御馳走という時代がおわります。供給過剰・暴落もあり香料貿易は衰退します。


Q42 なぜオスマン帝国の台頭によって東方貿易が困難になったのか。東方貿易のルートとして、紅海(アレクサンドリア)、ペルシャ湾(バグダード・コンスタンティノープル)というルートがありますが、オスマン以前も、ティムール朝やマムルーク朝、ビザンツ帝国などの支配下にあったはずです。

42A 教科書(詳説)では「ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)」と書いていますが、東方貿易が衰退したとは書いていません。中心の移動ではあっても、貿易衰退とまでは言いにくいのです。東京書籍の教科書では「フランスの商人にも(トルコ)領内での安全保障、免税、治外法権などの特権(カピチュレーション)を与えた。この特権はやがてイギリスやオランダの商人にも与えられ、西ヨーロッパとの交易がさかんになった。このため、世界の交易網の結節点となった首都イスタンブルは、西方世界最大の都市として繁栄した」と書いてあります。東方貿易は衰えていません。英仏の商館が首都やシリア(アレッポ)に建てられました。「地理上の発見」があって南アフリカ回りで行く航路は開かれません。やはり遠回りなのです。地中海→紅海→インド洋、の古い航路も相変わらず使われていて、ナポレオンがエジプト遠征の目的としてイギリスのインドへの道を塞ぐため、ということでしたが、それはこの古い道のことです。まだスエズ運河も開かれていませんが、このことは地中海→紅海→インド洋のコースが使われつづけたことを示しています。2015年センターの第2問cに次のような文がありました(引用文の中の⑦〜⑨は下線部分を示す記号です。」は下線位置)「アナトリア(小アジア)西部の港町イズミル(スミルナ)は、オスマン帝国の支配下で、17世紀半ば以降、⑦イラン産生糸やアナトリア産綿花」などをヨーロッパヘ輸出する拠点として急速に成長した。国際的な一大商業都市に発展したイズミルには、⑧フランス人、イギリス人などの外国商人」が多数居住した。しかし、ヨーロッパとの商取引を支配したのは、オスマン帝国内の非ムスリム商人であり、特にギリシア人は、綿花輪出において中心的な役割を果たした。⑨オスマン帝国から、ギリシアが独立した」後も、ギリシア人は、トルコ共和国成立期に至るまで、イズミルの商業活動の主要な担い手であり続けた。」と。


Q43 16世紀ごろに宗教改革が起こり、あらゆる地域でルター派とカルヴァン派になり、つまりは信仰義認説を重んじる風潮になっていたなか、なぜ同じ時期に主権国家(絶対王政)が興るのでしょうか? 主権国家体制(絶対主義)は王権神授説を基盤としていることと矛盾しませんか?

43A 信仰義認説はルター個人が新約聖書・ローマ人への手紙を読んでいて閃いた考え方で、それが大学の教授たちを主に広がったものです。権力者側ではないです。
 主権国家は14-15世紀の国家間戦争や内戦を通して次第にできてきたもので、百年戦争で英仏の主権国家体制はでき、スペイン・ポルトガルはレコンキスタを通してできたものです。つまり宗教改革以前です。ドイツは遅れて17世紀の三十年戦争後に主権国家ができました。
 ところが国家(国王)が自己の権力をより高めようとしているときに宗教改革が起きました(16世紀)。この宗教改革は教皇の権威から離れる動きであり、教皇(教会)の権威は全ヨーロッパをおおっていましたから、この権威から離れることで自国の権威を高めることが可能になりました。教会も国王は自己の統制下におく、ということです。フランスはカトリックのままでありながら、国王が教会を統制できるよう努力してきました(ガリカニズム=国家教会主義)。実例としては三部会・アナーニ事件・アヴィニョン移転などがそうで、それが16世紀の宗教改革でもカトリックにとどまりながら、教会を国家の統制下におくことができました。もちろん英国は首長法で国王が英国教会の教皇の地位に就きました(英国国教会)。ドイツは領邦ごとの教会(領邦教会)をつくりました。つまりどの国も教皇の権威から離れることで、国内最高の権威を獲得したのです。
 信仰義認説の新教であれ、それを認めない旧教(カトリック)であれ、教皇から離れる、国家内の問題(宗教問題も)に教皇を介入させないという点ではみな一致しています。教皇でもなく教会でもなく、自己の国王としての権威は神から直接きているのだという主張が王権神授説ですが、これはこの教皇の仲介を拒否した主張です。それまでは、神─教皇(教会)─王、でしたが、神─王─教会、の順に上下を位置づけるものです。
 信仰義認説が教皇のそれまでの権威を否定したように、王権神授説も教皇を否定したもので共通しています。
 教会に加わっているだけで、天国行き(救済)を保障していた教会(教皇)は、義認説によって、教会に参加不参加に関係なく信仰のみで義認(救済される資格)が得られるとする説です。
 国王も教会からでなく自己自身の権威で戴冠したかった。時間はずれますが、ナポレオン1世がローマ教皇を戴冠式に呼びながら、教皇がかぶせようとして差しだした王冠をとりあげて自分の手で自分の頭にのせた絵がダビッドによって描かれています。この姿が王権神授説をよく表わしています。


Q44 かつて東方貿易を独占的に支配していたマムルーク朝が1509年のディウ沖の海戦でポルトガルに敗退し香辛料貿易独占が崩れるという一件で、その頃のヴェネチア東方貿易の状況には何かしら影響を与えなかったのでしょうか?セリム1世がマムルーク朝を征服した時はヴェネチアにも東方貿易独占に打撃があったというのに…

44A ヴェネツィアへのオスマン帝国進出による影響は15世紀には出ています。東地中海にオスマンが進出したことで次第に収益が少なくなり、そのことで東方貿易の危機をどう打開するかをめぐって、イタリア諸都市でシニョーレ制(独裁制)が一般的になったのはそのせいです。フィレンツェはメディチ家、ミラノはヴィスコンティ家という風に。その後は書かれたようなマムルーク朝征服、イエメン占領のようなことでますます悪い状況になります。
 ただ今ほど交通・通信網は早くはないので、影響はゆっくり現れていきました。Q42に、その後の東方貿易についての説明があります。

 

疑問教室・西欧中世史

西欧中世史の疑問

Q1 「国王」と「皇帝」の違いはなんですか。特にヨーロッパのことについてお願いします。

1A カールはフランク王国の王であり、かつ西ローマ帝国の皇帝で両方兼ねます。カール1世まで皇帝は東のローマ皇帝しかいなくて、西側のゲルマン人の王たちは、東の皇帝の家臣の立場をとってきました。それがカール1世の登場で、その実力から東の皇帝に対抗して西側からも皇帝を出そう、ということになり、東の皇帝に軍事的圧力もかけて無理矢理みとめさせています。加冠したレオ3世はカール1世に恩義があって何かお礼をしたかったのです。
 皇帝というのはヨーロッパでは王の中の王です。King of kingsです。王の中のだれが就任してもいいのですが、後の神聖ローマ帝国皇帝が由緒あるヨーロッパの諸王のだれかから、たいていは裏では金が動いて7人の選帝侯が選ぶかたちをとります。フランスの王がなってもいいし、スペイン王がなってもいいのです。イギリスの王が立候補したこともあります。16世紀にフランスのフランソワ1世とスペインのカール5世が立候補してカール5世が皇帝の地位を落札したのは有名です。じっさいには、1438年から消滅する1806年までハプスブルク家がかぶりつづけました。


Q2 ヨーロッパの皇帝とか教皇というのはイマイチわかりにくいです。これはなんですか?

2A 皇帝は「諸王の中の王」という意味で、中国のように始皇帝からはじまる「惶々(こうごう)しい上帝(じょうてい)」という宇宙の神といった意味で皇帝を使いません。ヨーロッパの皇帝の由来はローマ帝国皇帝にあり、以後はその継承者を任じているのです。西欧ではカール大帝やオットー1世が名高いです。古代ローマのコンスタンティヌス帝がそうであったように教会の問題にも介入できる(ニケーア公会議)くらいの教会の保護者も任ずる立場です。ところが次第にローマ教皇が頭をもたげてきて十字軍のように欧州全体を動かすくらいの権威をもってきます。しかも教皇を頂点とするキリスト教会は西欧の土地の3分1を所有している世俗的な面ももった大領主の集団でもあります。奥の手の「破門(はもん)」の権限も世俗の皇帝・王たちにとっては怖い存在でした。この皇帝(世俗のトップ)と教皇(教会=聖界のトップ)のどちらが真の西欧の支配者かをめぐる争いが叙任権(じょにんけん)闘争でした。たぶん教皇がお坊さんのトップなのに何故こんなに偉そうなのだ、と疑問をもっているのかもしれません。教皇は教皇領をもつイタリアの大領主であり陸軍・海軍をもっていますから、むしろ坊主頭の国王と考えたほうが良さそうです。プレヴェザ海戦やレパント海戦に教皇の艦隊がでてくることを想起してください。


Q3 フランクを主とするゲルマン人少数者がラテン人を支配し、カトリック信仰をもっていた……の所で、ゲルマン人が少数者だったのはなぜでしょうか。そしてラテン人はどのくらいいたのか。

3A ローマ帝国という都市も農村も発展したところへ、ライン川・ドナウ川沿いにいた都市をもたない農狩をかねたゲルマン人は数はひとつの大集団民族とて数万人という規模です。歴史書ではだいたい10%前後がゲルマン人の王国の住民比率とみています。90%前後がラテン人(ローマ市民)でした。


Q4 テマ制とプロノイア制はどうちがうのですか?

4A ともにビザンチン帝国の土地制度と結びついた軍事制度ですが、前者は7世紀につくられ、この制度の崩壊とともにできてくるのが11世紀ころからのプロノイア制です。テマ制は、帝国を軍管区(テマ、テーマ)に分け軍隊を駐屯させて、それぞれの区ごとの長官(ストラテゴス)がその地の行政権・軍事権を握っていました。唐の節度使ににています。このテマに兵士を供給するために、兵士に世襲できる「兵士保有地」を与えてて自作農とし、租税負担を軽くして平時は農業に従事させました。コロヌスやスラヴ人移民がこの屯田兵士となります。軍管区制と屯田兵制はセットの制度ですからテマ制を「屯田軍管区制」と訳すものもあります(一橋系の学者による『体系経済学辞典』東洋経済新報社)。しかし唐の府兵制の崩壊が均田法の崩壊とセットであったように、9世紀頃から貴族・豪族による大土地所有が進展し、一方屯田兵は長期の遠征のため没落していき、11世紀にはテマ制は解体しました。代わって登場するのがプロノイア制です。これは功績のあった将軍・貴族・地方有力者に皇帝が国有地とそこの農民とともに貸与し、租税徴収権・用役権を与え、その代償として軍事的奉仕を課す制度です。はじめは一代かぎりだったのが世襲化します。この変化はイスラームの封建制のイクター制とにています。これは発展して地主が農民にたいする支配を強め農奴制を成立させて行きました。また地主の権限が強まり地方分権化します。(プロノイア制については異論もありますが、ここは教科書的な解説です)
 テマ制は自作農民兵にたより、プロノイア制は地主戦士にたよる軍事制度です。


Q5 前々から頭を悩ませていたことなんですが、山川の教科書に、「カール大帝が西ローマ皇帝として戴冠すると、ビザンツ皇帝も聖像崇拝を認めざるをえなくなった」という一文があるのですが、なんで?????の一言なんですが……。
 また、なんで聖像崇拝について、キリスト教が、イスラーム教から非難されらなあかんのですか。イスラーム教に口出しする権利はあるんですか。それだけイスラーム教が当時勢力が強かったってことですか。

5A 大まかには、カールもカールを皇帝に仕立てたローマ教皇も聖像容認の立場であり、和解のためには西欧側の言うことをビザンツは認めざるをえない、ということでしょう。詳しくは、ということは教科書に書いてない事柄ですが、カールはビザンツ帝国領の中にあったヴェネツィアやダルマティアの沿岸を占領しており、もしこれを返還してほしければ皇帝位を認めろ、というヤクザ的圧力をかけていました。それと当時、ビザンツ帝国は女帝イレーネが君臨しており、ローマ教皇はこんな女の皇帝は認められない、東の皇帝は空位である、と。さらにカールは妻が亡くなったこともあり、イレーネとカールというババとジジの結婚話しも教皇はもちだして、旦那であるカールに結局は皇帝位が移るはずですともちかけました。この話しにカールも乗り気で、じゃ、わしの認める聖像をイレーネも認めねばならんと条件をだしました。ビザンツ帝国としては当時ハールーン=アッラシードとカールが同盟関係も結んでいて帝国に南からも圧力がかかっていました。コンスタンティノープルとアーヘンで使節が行き交い、この縁談にイレーネも気が向いたのですがクーデタがおきてイレーネは失脚してしまい、縁談はなかったことになりました。でいったん両国の交渉は切れましたが、ヴェネツィア返還で東側はカールの皇帝位を認めることになります。これらの妥協・譲歩の中にカールの聖像容認も含まれていた、ということです。
 イスラーム教の聖像口出しについて、実は本当のことは分からないのです。一応、いろいろな説を紹介します。
 (1)イスラーム教徒に占領されたトルコ・シリア・エジプトに残っている教会がイスラーム教側から偶像崇拝と非難された。(2)レオン3世の部下で、かれの影響下にいるトルコ地域の軍人が、イスラーム教徒の影響も受けて禁止を求めた。しかし、この説は戦っている相手の批判を受け入れることになり考えにくい。でも教科書にはこの説が書いてある。(3)聖像賛成派の年代記者がレオン3世のことを「親イスラーム教徒」と呼んで蔑視し、イスラーム教徒と結びつけようとして書いたことから生じた後世のひとの誤解であろう。これは、いくらか納得できる説です。(4)イスラーム教徒が占領したところで、タリバンのバーミャン破壊と同じようにキリスト教会の聖像を破壊したことがあり、この影響ともいう。
 726年以前からキリスト教会内に、聖像は偶像崇拝にあたるから破壊すべきだという議論があり、そこへ偶像破壊に使命をもっているイスラーム教徒が入ってきて刺激され、論争にまで発展し、皇帝自身の信仰の熱心さによって破壊を命じたり、いいやと許したりを繰り返した、ということではないでしょうか。


Q6 神聖ローマ帝国とドイツは一緒ですか?

6A 地域として現在のドイツとイコールではありません。中世のドイツ王が神聖ローマ皇帝を名乗ることは慣例でしたが、かといって現在とは同じではありません。領域が現在のドイツより広い点がちがいます。ボヘミアという現在のチェコスロヴァキア西部やスイス、北イタリアもその中に入っていました。またネーデルラントやオーストリアなども入っていました。


Q7 「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」とはどういう意味ですか?

7A このことばはピレンヌが書いた『中世都市』(創文社歴史叢書)の第二章に「マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と書いていることからきています。イスラーム教側の包囲がなければ中世の封建社会はありえなかった、という意味です。


Q8 「マホメットなくしてカール大帝なし」ってことばは西欧世界がイスラームの影響を受けたってことだと思いますが、具体的にどういう影響を受けたのですか?

8A かんたんにいえば、イスラーム勢力に包囲されて欧州が閉鎖的な中世社会になったという説です。これはベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌのことばです。「マホメット」でイスラーム教勢力を表現し、「カール大帝」で西欧封建社会を代表させています。この双方のかかわりで中世はなりたっている、いや始まっている、というものです。
 なにか判りにくいですが、実はこのピレンヌの主張には二つの歴史用語があります。ひとつは「古代連続説」、もうひとつが「商業ルネサンス」です。この双方のことばとも関連をもっています。古代連続説とは、古代は一般に476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのですが、ピレンヌはこの時代区分に異議申し立てをしているのです。古代はそんなことで終わったのではない。ゲルマン人の大移動でもない。西ローマ帝国滅亡後も古代的状況はつづき、イスラーム教勢力が7〜8世紀にかけて地中海に押寄せてきてから、中世ははじまった。メロヴィング朝からカロリング朝への転換と重なります。また逆に11世紀以降に十字軍やレコンキスタでイスラーム教勢力に対抗して攻勢に出ることで地中海商業は活況をとりもどし、それが波及して全欧に「商業ルネサンス」がおきた、との説です。つまりヨーロッパをヨーロッパの中だけでみても判らない。イスラーム教勢力との関係で時代区分すべきだ、というのです。
 古代は5世紀に終わったのでないということです。たしかに東ローマ帝国も6世紀までは古代的な要素をもったままでした。ユスティニアヌス帝を「さいごのローマ皇帝」ともいいます。イスラーム側の攻勢に対応して、7世紀には大転換をとげてビザンツ帝国(ギリシア帝国)に変貌します。これらのことは論述向きにおぼえておくと便利です。1992年の一橋大学の第一問、1986年と1995年の東大の第一問などに応用できます。


Q9 西ローマ帝国って、476年にオドアケルに滅ぼされましたよね。じゃあ、山川出版の教科書のp.117の図の下に書いてある「カール大帝の『西ローマ帝国』」って何ですか? 「カール大帝の」ってあるからカールがたてのですか? もしそうだとしたら、レオ3世から帝冠が与えられるまでに、カールはフランク王国の王であり、その西ローマ帝国の皇帝だったということですか?(これらの疑問は友達と話してる時に「なんでカール大帝ってフランク王国やのに大帝っていうんやろう」という話がでたので調べている内にでてきました。)
 カールはフランク王国の王であり、かつ西ローマ帝国の皇帝だったということですか?

9A そうです。両方兼ねます。カール1世まで皇帝は東のローマ皇帝しかいなくて、西側のゲルマン人の王たちは、東の皇帝の家臣の立場をとってきました。800年まではゲルマンの王たちは東の皇帝にたいして「父よ」と呼び、子の立場でしたが、800年からカールは「兄弟」と呼ぶようになります。


Q10 800年にカール大帝にローマ皇帝の帝冠を与えた教皇の名前は、『レオ3世』でも『レオン3世』でも、どっちでも良いのですか?

10A レオ3世はローマ教皇で、レオン3世は東ローマ皇帝をさすので、区別して使うのが慣例です。


Q11 山川の用語集の『聖象禁止令』の項目で、”偶像崇拝を禁止するイスラーム勢力に対抗してだされた”とありますが、ビザンツ文化で『イコン』が存在しているのに、あまり理解出来ません。禁止令は843年解除されたということは、ハールーン=アッラシード亡き後の衰退期ということなのでしょうか。

11A 禁止令は843年解除……これは「ハールーン=アッラシード亡き後の衰退期」というイスラーム教側の事情とは直接関係がありません。小学館の百科辞典には「皇帝レオン4世の没後、皇妃イレーネが787年ニカイアで第7回公会議を開催し、イコン崇敬を公式に宣言し、第一期のイコノクラスムは終結した。しかし、帝国の政治情勢は混乱を続け、813年に登位したレオン5世は、軍隊の意向を無視できず、ふたたびイコノクラスムが始まった。しかし第二期は長続きせず、首都のストゥディオス修道院を中心とする修道院側の抵抗も強かった。そして皇帝テオフィロスの没後、皇妃テオドラが843年に開いた主教会議で、イコン崇敬の復活が公式に宣言された。〈森安達也〉」とビザンツ帝国内の是認派と否定派の争いが終結しました。


Q12 中世ヨーロッパで意味がわからないのですが、843年ヴェルダン条約とか870年のメルセン条約でフランクが分裂して…とかはわかったのですが、しばらくして十字軍あたりになるといつのまにかイギリスやらドイツやらになってしまっているのですが、王国はどうなったのですか? 急に言い方が変わって、話も飛び飛びでわかりません。

12A 教科書は各国史で説明していないから分かりにくいですね。十字軍あたりになるといつのまにかイギリスやらドイツやらになって……ということはありません。英国は600年頃からアングロ=サクソン七王国があり、それは1016年にデーン朝、1066年にノルマン朝でまとまります。フランスはメルセン条約(カロリング朝の分裂)によって確定し、ずっとフランス王国(カペー朝)として登場してきます。ドイツ=神聖ローマ帝国と考えてください。


Q13 西欧世界について。資料集とかには封建制度は政治に分類されていましたが、農耕社会というのはどちらかというと経済です。構想メモを書く時にまず政治、文化、経済などでまとめることを試みましたが、封建制度は農耕社会への移行の中で形成されたものですから、政治と経済とに離して書いていいのか迷いました。そこの引っ掛かりが取れなかったので仕方なく国別に書きました。この引っかかり(もしくは僕の勘違い?)が解消できる説明があればお願いします。

13A 当然の疑問です。両方ともまたがった概念だからです。
 世界史の観点からは、封建制度とは領主と領主の主従関係です。これは狭義の封建制度です。この狭義のほうを世界史は採用しています。人間のなかでは権力のトップにいるひとたち同志、領主と領主の関係です。土地もち同志の防衛同盟です。
 ところがマルクス主義では、領主の下にいる農奴と領主の関係をいいます。古典荘園ともいっているものです。つまりマルクス主義では封建制度は農奴制と言い換えてもいいのです。ひとりの人間がおおくの農民をしばっている、という状態です。領主からすれば守ってやっている、かわりに農民ははたらく、ともいえる政治と経済のミックスした関係です。
 ところがこの二つの見方以外に社会学のものがあり、これは頂点は皇帝・国王から下は農奴・奴隷までの身分の上下関係だけをさして封建制度といっています。この見方は世界史では無視しています。
 これを難しいことばで説明したのが小学館の事典です。「大別して少なくとも三つの用語法を区別しなくてはならない。第一に、レーン(封土)の授受を伴う主従関係をさす場合(狭義の封建制、ないし法制史的封建制概念)。第二に、荘園(しょうえん)制ないし領主制(農奴制)をさす場合(社会経済史的ないし社会構成史的封建制概念)。第三に、前二者をその構成要素とする社会全体をさす場合(社会類型としての封建制概念)」と。
 マルクス主義的には古典荘園は下部構造であり、領主同士の主従関係は上部構造ということになり、一体のもとみなしていいのです。政治で書いても経済のほうで書いても許容される用語です。


Q14 アルビジョワ十字軍とドミニコ修道会の関係がさっぱり分かりません。教えてください。

14A アルビジョア派という異端の他にも12〜13世紀は異端の乱立期でしたので、はじめ破門だけで対処していたのが、数がふえていくと、異端に対抗するために教義のわかる学僧に説教をしてもらったり、異端者を裁判して罪の有無を判定したりする必要性がでてきました。それでドミニコ派(ドミニコ修道会)という、フランチェスコ派より学問的なドミニコ派のほうが、この審問に活躍した、ということです。異端審問の法廷は、1229年のトゥールーズ公会議と1232年のグレゴリウス9世勅書で制度的に確立をみます。これは教皇直属の特設非常法廷で、司教の統制を受けず、逆に司教や世俗権力(皇帝・王・諸侯・騎士)は無条件に協力すべきものとされました。告訴を待たずに活動するという積極的な異端狩りです。拷問が公認され、密告が奨励されました。14世紀、ドミニコ派のベルナール・ギーが著した『(異端)審問官必携(提要)』が審問の方法を確立したものとして知られています。

 

Q15 模試の解答・解説p12問5、上のほうの太文字「……という価格革命の主要な原因となった」とあって、次に、(むろん銀の流入だけが価格革命の原因ではなく、ペストの終息以後ヨーロッパで起こった顕著な人口増加なども物価騰貴の原因として注目される)とありますよね。ペストの流行は1348〜50でしょう。価格革命は16C半ばでしょう。あまりにも時間の間隔が広くないですか? 人口が増えるのにこんなに時間がかかるもんですか。

15A 実は黒死病の後の15世紀の1世紀間全体が人口減少がおきていて、減少はもちろん黒死病の1348年前後が特にひどかったのですが、なんどもその後もおきています。また15世紀の気候が寒く作物もとれなかったことも人口減少の原因らしい。
 16世紀の価格革命と結びつけるのは、そういう学説があったとしても余り説得的ではないので、使わないほうがいいでしょう。経済の流れとして、だれでも判るのは、もの(銀)が増えたら、ものが(銀が)安くなるということと、逆に今までの商品が、銀で買いやすくなり商品価格をあげたということです。
 一応の概算ですがヨーロッパの人口数をあげておきます。
10世紀 3800万人
12世紀 5000万人
13世紀 6000万人
14世紀 8000万人(黒死病流行直前の数字)
15世紀 5000万人 
16世紀 7000万人


Q16 『世界史A・Bの基本演習』の90ページの解説の2行目に「中期11〜13世紀(レコンキスタ・十字軍・東方植民=初期膨張…)」で、「東方植民=初期膨張」はドイツ騎士団の行為の事ですか? あと、「初期膨張」って事は、これ以外に『中期膨張』や「後期膨張」みたいな何かあるのですか?

16A そうです。騎士団だけではありません。騎士団ができたのは12世紀末なので、それより1世紀前(11世紀末)からエルベ川を越えてどんどん植民したドイツの若者たちがいたのです。かれらが最初です。その後に追いかけるように第三回十字軍に失敗して帰ってきた連中が騎士団(正式には騎士修道会)が行きます。
 「初期膨張」は16世紀以降の世界への膨張(地理上の発見)を「本格的膨張」といって、初期のときは膨張といっても西欧の周辺にすぎないので、その西ヨーロッパが全世界へでかけるようになったことを指しています。ヨーロッパ史を膨張史として見る見方です。


Q17  中世イングランドです。ノルマン朝のウィリアム1世が作成した土地台帳「ドゥームズ=デー=ブック」による、ノルマン朝の土地支配は、他のヨーロッパ本土の中世国家と性質を異にしていたといいますが、どういう点がイングランドと欧州本土とでは異なっていたのでしょう?

17A  「イングランドと欧州本土とでは異なっていた」は封建制度のちがいです。七王国(ヘプターキー)を全部征服して、その土地をうばい、家臣に分配・封土しているのは、フランス・ドイツで見られた偽装的な封土ではなく、奪って分配したから実質的な封土である、という点がちがいます。これをドゥームズディ=ブックに記載しています。国王が全土の5分の1もとってしまう、という点でも権力の大きな基盤となり、中世封建制度の西欧のなかでも例のない強力な王権を築けた根拠です。封建制度では王権が弱いのが当り前でした。ばら戦争による反テューダー派貴族の没落も手伝ってはいますが、絶対主義のイギリスには常備軍も官僚制の発達もないのに「絶対主義」とヘンリ7世から言える理由もここにあります。


Q18 わたしの予備校では、東ローマ帝国の最盛期は、ユスティニアヌス大帝の治世時期だと習いました。つまり6Cです。ビザンツ帝国の最盛期を描け、と言われたらユスティニアヌス帝の時期を描けば必要十分かと思いますが。あとは、せいぜいヘラクイオス帝のテマ制、屯田兵制あたりまででしょうか。レオン3世、バシレイオス2世、アレクシオス1世のころは最盛期ではなく、あくまで「中興」に過ぎないと思いますが、いかがでしょうか?

18A 「ビザンツ帝国の最盛期」といったばあい、「東ローマ帝国の最盛期」となっていない点がまずユスティニアヌス帝のときととるのは無理があることです。「ビザンツ帝国」とは、古代的なローマ帝国の継承面が薄れて、ギリシア的な要素がハッキリしたことをさしています。もちろんこのことについて問題文がなにも言及していないのは不親切であるという欠陥を指摘しても、一般にはユスティニアヌス帝のことを歴史家たちは「ローマ帝国の完成」と表現するように、地中海帝国としてのローマを再現した人物とみなします。コロヌス制がつづいていますし、皇帝本人も古代の復活をほこっていました。「最大版図を形成」は全盛期を表現するひとつの指標ですが、しかしこれは今説明したように古代の再現としての版図です。東西分裂をした後もまだギリシア的要素が出てきていない時期です。教科書『新世界史』では「ローマ帝国の延長として繁栄を続けた第1期」と書いている点です。「延長」です。他の山川の教科書では「復興」「回復」ということばをつかって表現しています。いや東ローマとビザンツはたんなる言い換えにすぎないではないか、というのは表面的な総括です。紹介された予備校テキストの「ユスティニアヌス大帝の死後は、東ローマは急激に衰退」とは単純です。失った領土は大きいですが、だからこそギリシア人の住む小アジア・ギリシア本土・イタリア半島南部というギリシア語の通じる世界がかえってできあがり、古代的・ラテン的な東ローマ帝国は、ここにギリシア的要素のつよい「ビザンツ帝国」に変貌したとみなします。学者の中には、もっとこのことを強調して「ギリシア帝国」ともいいます。7世紀から「ビザンツ」帝国に変わったということです。経済的にもコロヌス制にかわって自作農づくりをして、かれらに屯田兵にもなってもらいテマ制が成立しました。このせまくなった領土を回復した9〜10世紀がビザンツ帝国としての最盛期といえます。
 これは明朝の最盛期を永楽帝にもっていくのと似ていて、3代目で、つまり明朝ができたばっかりが最盛期というのはどうもおかしい。後はみな衰退期だとすると、200年をこえる衰退期となります。1368〜1644年間の明朝史は276年間の歴史のうち、明朝らしさがでてきたのは初期だけで、後は衰退といったばあい、あまりにも単純に明朝史を切ったことになります。明朝は前半と後半(16世紀以降)で性格ががらり変わる面をもっています。それを無視してやるのは最大版図にだけ目を向けた政治的な面だけの指摘です。わたしは宮崎市定のように16世紀前半に生きた世宗(嘉靖帝)のころが全盛期とみています。明朝の体制の安定と経済・文化的な面も繁栄した時期です。


Q19 わたしの予備校のテキストに、十字軍の影響、と題して5点が指摘されています。そのうちの「5.」にギリシア古典文化のことが書かれています。間違ったことを書いているのでしょうか?

19A 詳解世界史には「十字軍の時代にヨーロッパに伝えられたアリストテレス哲学をとりいれて体系化されていった」とは書いていますが十字軍がアリストテレス哲学をもたらしたとは書いていません。「時代」と時期が同じだったといっているだけです。テキストの「5.東方貿易を通じて、ギリシア・ローマ古典文化やイスラーム文化が流入した………イタリア=ルネサンスを促進した。」は十字軍そのものではないでしょう? これは影響の影響です。時期は同じですが。十字軍の時代を問うているのではなく、この問題は十字軍「遠征」の意義を問うているのです。十字軍が文化的なものもたらしたことは歴史家も認めるところですが、それは学問的なものではなく(兵士はほとんど文盲でしたし、イスラーム教は多神教で悪魔の宗教とおもってきたひとたちが、なぜ学ぶのでしょうか)、歴史家が「物質文化」といっている、ソファ、シャーベット、築城術、紋章などです。詳説世界史なら「多数の人々が東方とのあいだを往来したため、ヨーロッパ人の視野は広がり、東方の文物が流入した」とぼかして説明しています。三省堂のは「遠征によって、東方との貿易や交流がさかんになったため、貿易港であるイタリアのヴェネツィアなどの都市が繁栄するとともに、イスラーム世界やビザンツ帝国のすすんだ学問・文化が西ヨーロッパにもたらされた」と遠征→貿易・交流→学問・文化としています。遠征→学問・文化ではありません。遠征が直接もたらしたものではないのです。


Q20 『練習帳』の「基本60字」のほうで質問があります。P.47 11「中世都市はその自由を維持するためにどういう方策を採ってきたか」という設問がありますが、これに対する右側の解答の内容は、アルプス以北のドイツの都市という、地域的に限定された姿ではありませんか?
 アルプス以南のイタリア都市は、教科書によれば、諸侯との直接的な武力的抗争を経て自治権を獲得していった、とあります。「中世都市はその自由を維持するためにどういう方策を採ってきたか」では、中世都市一般ということになりませんか?

20A なぜそうするかというと、中世都市は北ドイツの都市で代表・典型とするからです。60字の字数の中で相違点もふくむ解答は無理です。古体の都市の防衛は問われればアテネを代表として書きますが、スパルタはどうしたローマ帝国はどうしたとは書けません。そこまで広げたばあいはそれなりの設問の拡大が必要です。教科書の中世都市の「都市の自治」は北ドイツの都市のことを説明しています。


Q21 ドイツでシュタウフェン朝断絶後に大空位時代になるという説明がありますが、ドイツは神聖ローマ帝国で、さらに時代ごとに〜朝というのがあったということなのですか?シュタウフェンとゆうのが唐突すぎてよくわからなかったのですが。

21A たしかに大空位時代でいきなりでてきます。でもこの王朝は1138年から皇帝位をうけついでいて、名高い皇帝としては第三回十字軍の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭王)、第五回十字軍のときのフリードリヒ2世(18世紀のプロイセン王とはちがうひと)などがいます。


Q22 フリードリヒ2世は用語集にはプロイセン王とありますが、神聖ローマ皇帝とは別なのでしょうか?

22A フリードリヒ2世は第五回十字軍のときの指揮者として神聖ローマ帝国皇帝でした。プロイセン王と同名ですが、時代がまるでちがいます。


Q23 「ギルド独占・ギルド強制により競争からの自由・生業の安泰はある」はどういう意味ですか?

23A 既存の店に規制を守らせることで、その代り店を増やさない、自分たちの店舗で商品は独占し、価格をつりあげたり下げすぎたりしない、バーゲンもしないので、ギルド同士はたがいに共存共栄をはかれます。競争しなくてもいいということは倒産する心配がなく、勝った負けたの資本主義の弱肉強食という荒々しい商売合戦をしなくてもいいということです。そういう意味での「安泰」があります。これでは互いに良い商品をつくって儲けよう、他の会社をつぶしてでもひとり勝ちしようという精神(野心)は要りません。しかしこれでは近代の資本主義には合わないので、市民革命で排除される規制です。


Q24 中世都市の「自由」は普遍性と人権思想を 欠いている……この意味がいまいち分かりません。

24A この「自由」は全世界・全人類にも通じるような自由ではなく、中世都市だけに通じる狭い自由です。すべてのひとは平等な権利を法の前で持っている、という「人権」の考えは、啓蒙思想からくる近代の基本的な考えで、日本の憲法もこれにしたがってつくられています。そういう国も人種もこえた思想ではなかった、と限界を指摘しています。


Q25 ブールジュ宗教令とは、仏の都市ブールジュでシャルル7世のだした国家教会主義、ガリカニズム、ガリア人主義、1438年発布。……こういう解説にあるガリカニズムとはなんですか?

25A ガリア人主義という意味で、この場合のガリア人はフランス人のことです。フランス人中心主義といっていいのですが、フランス国王の決定権を教皇の上にもっていくことです。フランスの教会で問題がおきたときに、その裁定を教皇庁の裁判所にゆだねたりしないようにフランス国内で国王の下で裁かせよう、また聖職者が昇進すると初任給の10分の1を教皇に納めなくてはならないことになっていたのですが、それを納めなくてよい、と。こうしたことに表れるフランス人とフランス国王を主にするやり方をガリカにズムといいます。同じことはイギリス人も持っていたので、イギリスの場合はアングリカニズムといい、いずれこれは国教会の成立につながります。


Q26 中世末にオーストリアのハプスブルク家がネーデルラントを政略結婚で獲得したと教科書にかいてあるんですが、誰と誰の結婚なんですか?

26A 細かいですね。当時ネーデルラントはブルゴーニュ公の領土でした。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1452〜93)の息子マキシミリアン(位1493〜1519)と、ブルゴーニュのシャルル豪胆公の娘マリー(マリー・ドゥ・ブルゴーニュ)との結婚により(1477年)、ブルグンド(ネーデルラント)を得たできごとです。この二人のあいだにフィリップが生まれ、フィリップと狂った母フアナとの子がカール5世です。


Q27 百年戦争の発端が、ノルマンディー公ギョームのイングランド征服に始まるといわれているとおもいますが、なぜ、フランス王フィリップ1世の家臣(家臣といえるかどうかはわかりませんが)であるギョームがイギリスに渡って王朝を打ち立てたのですか?

27A このギョームとは一般に教科書でいうところのウィリアム1世のことです。またイギリスを征服する前はノルマンディー公ウィリアムですが、征服後は王になって1世がつきます。フランスでは家臣で、イギリスでは国王という奇妙なかたちは中世らしさをよくあらわしています。人が国をまたがって領土をもつことは中世ではあたりまえのことでした。
 さて征服の理由ですが、当時のイギリス全体を代表する国王はウェセックス伯ハロルド(1022〜66)でした。このハロルドが王になる前のことでしたが、ノルマンディー海岸で難波したときに助けてやったこと、そしてハロルドが自分ウィリアムに臣従を誓い、そしてウィリアムにイギリス王位を約束して帰国しました。ハロルドがこの約束を破って王位についたことを理由に征服します。このあたりを描いたのがフランスのバイユー修道院にあるタペストリーです。このタペストリーの写真はかならずといっていいほどどの教科書にものっています。ルーヴル美術館にはラテン語・英語訳・フランス語訳のついたミニチュアが売っています。実物の10分の1でミニチュアでも7mあります。
翻訳して説明しているものが下記のホームページにありますのでご覧ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/tapestry.html
 

Q28 山川教科書p122、「西ゴート人は410年ローマを略奪したのち、ガリア西南部とイベリア半島に移動して建国した」
p124 フランク王国が、「6世紀半ば、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼして全ガリアを統一したが…」と、書かれていました。
西ゴート王国は滅亡していないのに、全ガリアを統一という記述に不思議に思ったのですが、この過程で西ゴート王国は、滅ぼされるまではいかなくても、支配権を縮めたという解釈でよろしいでしょうか?

28A そうです。西ゴート王国は初めフランス西南部に国を建てたのですが、クローヴィスに追い立てられて(ガリア=フランスの統一)、スペインに逃げたのです。スペインに行った時点で第二次西ゴート王国というのですが、一般にこの「第二次」を付けないで表現しているため判りにくくなっています。


Q29 ローマ教会とローマ・カトリック教会の間における違い、ギリシア正教会とコンスタンティノープル教会の間における違いがあるのか、それとも同じものと考えて良いのか、を教えて欲しいです。

29A ローマ教会とローマ・カトリック教会の間における違いは、前者が中心・頂点で後者がローマ教会ほか西欧全体の旧教の総称です。この関係は正教でも同じで、コンスタンティノープル教会が中心・頂点で、ギリシア正教会が総称です。ただギリシア正教はロシア正教・セルビア正教などもふくんで全体の総称としても使います。とくに日本では曖昧で、東欧・ロシアも含む正教全体の正式名称は今は「東方正教会 Eastern Orthodoxy Church」といいます。


Q30 教科書p142の「アウクスブルクのフッガー家のように皇帝に融資してその地位を左右したり…」における、その地位とは、フッガー家のことでしょうか?皇帝のことでしょうか?

30A 皇帝です。「地位」は高いもののことを指していて、それを裏で、金で左右するのがフッガー家だという意味です。皇帝が選挙で選ばれるように融資して、結果的に皇帝を傀儡(かいらい、人形、操り人形)化することです。一方、メディチ家のように教皇に融資して教皇を操った例もあります。レオ10世自身がメディチ家のひとでした。


Q31 自治都市と自由都市(帝国都市)は違うものでしょうか? 教科書p140から141にかけて、「各地の都市は次々に自治権を獲得し、自治都市になった」とあるのですが、もし違うとしたら、自由都市は、この記述には当てはまらないということでしょうか?

31A どちらも同じです。自治はその都市の市参事会が自ら運営できるので「自治」都市といい、自由も皇帝以下の諸侯から特許状によって認められているので「自由」都市と言います。「帝国」は皇帝から特許状を得ているので呼ぶ呼び方です。特許状によって皇帝や諸侯から自由を得るかわりにわずかですが代金を払います。といって隷属しているのではないので諸侯と同じ地位をもっています。国家に近い権利の保障をされています。


Q32 山川『世界史小辞典』で、コムーネ、を調べてみたら、叙任権闘争により教皇、皇帝ともに権威を失墜した、と書いてありました。叙任権闘争では、教皇が力を増大させ、皇帝が力を失ったと間違って認識していました。叙任権闘争で、教皇がどう権威を失墜させたのでしょうか?

32A 山川の辞典の内容は「皇帝と教皇が叙任権闘争で互いに権威を失墜させたので、両者の任命する都市領主(伯、司教)の地位も弱化した」とある部分ですね。イタリアの場合は皇帝党と教皇党で争い、長い分裂と抗争を繰り返したため、かえって各都市が自立する機会になりました。しかし神聖ローマ帝国(ドイツ)の場合は、皇帝はオットー1世のときに帝国教会政策をとり、はじめは皇帝が強かったのが叙任権闘争の結果、次第に教皇の地位が高まりだし、インノケンティウス3世で頂点となりました。しかし十字軍失敗・アナーニ事件・コンスタンツ公会議・ウィクリフの批判などで失墜し、皇帝は大空位・金印勅書で失墜しました。この二つの巨頭の失墜によって西欧では各国の君主が自立していきます。


Q33 貨幣地代が広まるのは封建社会が崩れ始めた1300年頃からだと認識していたのですが、11-12世紀に、すでに貨幣経済だけでなく、貨幣地代も発達していたのでしょうか?

33A 広がったのは1300年前後からで、それもイギリスだけです。15世紀にはフランスでも広がりますが不徹底でした。イギリスは小さい島であり、貨幣の普及が早かったこと、もともと農奴が少なかったことなどが理由として挙げられます。


Q34 十字軍の派遣を決定したクレルモン公会議ですが、なぜ開催地がクレルモンなのでしょうか? ローマ教皇ウルバヌス2世に救援要請がきたのだから、ローマでやればいいと思ったのですが…

34A ウルバヌス2世はクレルモンの近くで生まれたフランス人の教皇です。ドイツはどうしても皇帝との争いが起きやいこと、クレルモンで大聖堂(ノートルダム・デュ・ポール大聖堂)が完成に近づいていて、そこで演説がしてみたかったこと、らしいです。岩波新書の『十字軍』が参考になります。


Q35 中世や近代では、荘園制やグーツヘルシャフトというような農業面に関して複雑に思える情報が多くあるのですが、中でも農業を営む人々、つまり、
古代ギリシア・ローマの農奴やコロヌス、
中世ヨーロッパのヨーマンや
近代ヨーロッパのユンカーなど、
ほぼ地域で区別しているという感じで本質理解せずただ暗記してしまっている状態なのですが、このような農業に従事する人々の差異について教えていただけないでしょうか?

35A 古代ギリシア・ローマの農奴やコロヌス……古代に「農奴」は一般にいないです。自由農民か奴隷かのどちらかです。スパルタの奴隷(ヘロット)は、奴隷ではなく農奴だという説はありますが。教科書の説ではありません。
 ローマ時代の3世紀にはコロヌス制ができますが、これは小作人です。地主から土地を借りて、借り賃の地代を払わなくてはならない農民です。ですが農奴のように移動・職業選択・結婚の自由がない存在ではなく、自由が認められていました。次第にドミナートゥスになると移動の自由は制限されていきます。
 中世ヨーロッパのヨーマン……ヨーマンの前に、上のコロヌス制の小作人(小作農)が移動の自由はなく、職業選択の自由もなく、結婚も領主の認可が必要、という状態の農民を農奴といいます。これはノルマン人・マジャール人の侵入を避けるために封建制ができる9世紀くらいからハッキリしてくる農民の状態です。
 この農奴の地位にありながら財力を蓄えた農民の中に、流亡・逃亡・破綻した農民を雇って経営者的な豊かな農民になったものをヨーマン(自営農民)といいます。イギリスで中世末以降に現れるひとびとです。事実上解放された自由農民です。
 近代ヨーロッパのユンカー……これはドイツ語圏で使う表現ですが、地主制のことです。ユンカーは英語のヤングにあたり、若い土地の経営者を指すことばから、次第にドイツの地主を指すことばになり、その下で働く農民は上の農奴ど同じです。この経営のあり方をグーツヘルシャフト(農場領主制/農奴制大農経営)といいます。しかし1807年のプロイセン改革で農奴解放がおこなわれ、それ以降は「ユンカー経営」と言いかえるようにしています。もう農民は農奴ではなくなったからです。


Q36 カール4世が金印勅書を発布した時、七選帝候を定めましが、なぜ?諸侯4、司教3なのですか?司教4人、諸侯3人ではないんですか? 自分の仮説、①1292年のアッコン陥落、②大空位時代は教皇が起こしたから、③司教の力を抑えるため。この内どれが答えですか?

36A 有力諸侯(大領主)が選挙人(選帝侯)で、聖職・世俗は無関係です。聖職者は同時に大領主でもありましたから。勅書の内容に、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権などがあることからも推測できます。また聖界諸侯筆頭の地位にあるのがマインツ大司教で、選帝侯会議を召集し選挙管理もしており、この大司教は神聖ローマ帝国大宰相の最高官職を持っていました。トリエール大司教はブルゴーニュ王国大宰相を、ケルン大司教はイタリア王国大宰相の上級官職を兼ねていました。つまり聖職者たちは政治の中枢に就いてもいるのです。日本の大名たちの側に僧侶が政治・軍事の顧問として就いているのと似ています。 


Q37 センター試験の問題で、同職ギルドには親方のみが加入でき徒弟や職人は加入できないという趣旨の文章があったのですが、用語集には、同職ギルドの構成員は経営者である親方・徒弟・職人の3つの階級に分かれる、と書いてあります。親方の項目のところには同職ギルドの正式な構成員という記述があるのですが。この記述では、徒弟や職人も構成員であると見受けられるのですが、それは加入はしているということ、とは違うのでしょうか?

37A センター試験の「同職ギルドには、親方のほか、徒弟や職人も加入した」が間違いであるのは、ギルドが親方のクラブであり、職人・徒弟はたいてい親方の家に住み込みで働いている雇われた人であるからです。親方の下にいるのですから「構成員(メンバー)」ではあっても、下働きをさせられている人間であり、一人前と認められていないのです。技能的には親方が最も優れた作品をつくることができ、次に職人、下っ端に徒弟という順ですが、親方が経営者であり、職人が独立して店をもつことはできますが、非常に制限されたものでした。というのはギルドに親方として加入するには、加入金の他に親方全員を招宴する多額の費用が必要であり、高額なものだったそうです。
 たとえると、学生たちが集まって教室は構成されていますが、教室の経営は学生代表ではなく担任教師(親方)が経営・管理します。中谷が担任教師であれば、中谷が親方で中谷教室といっていい一ギルドを形成しています。この親方だけが職員会議(中世都市の場合は市参事会という親方だけが集まる市役所会議)に出席できます。とにかく中谷親方はいばりちらしているのです。
 中世都市では、鍛冶屋・金物屋・パン屋などの職業別の組合(ギルド)があり、このギルドのメンバーでないかぎり、都市内では仕事をしてはいけないことになっていて、換言すれば何らかのギルドの親方の下にいないと仕事はできません。一つのギルドは独自の守護聖人や教会を持っていて、ギルド毎に冠婚葬祭もおこないます。小さい教室(ギルド)がいくつも集まって学校(都市)を構成しています。

疑問教室・西欧古代史

西欧古代(ギリシア・ローマ)史の疑問

Q1 ミケーネ文明はドーリア人の南下に加えて海の民の攻撃があって崩壊したのでしょうか? 山川の教科書には海の民とミケーネ文明に関連する記述がないのですが、別の山川の文献にはそれをほのめかすようなことが書いてありました。どちらなのでしょうか?

1A 詳解世界史(三省堂)には「ミケーネ文明は崩壊した」の注に「ミケーネ文明崩壊の原因については、これまで、おくれて南下したドーリス人の攻撃によるものと考えられてきた。しかし、近年はむしろ、この時期に出没した「海の民」の攻撃を受けて滅ぼされたとする説が注目を浴びつつある」
 センター試験(1993年度)でも「前12世紀ころになると、3)「海の民」と呼ばれる混成の外来民族の襲来や、ギリシア人の別な一派の南下などの民族移動の結果、ミケーネ文明の諸王国は滅亡した」とあります。


Q2 新聞で「ローマ時代の平均寿命は22歳だった」ということが書いてあるコラムを読みました。それを読んで、ギリシアの民主政治が完成した時、参政権は「成年男子」に限られていたことを思い出しました。今まで「成年男子」という記述を見て「20歳以上の男子」という意味だと思っていました。ギリシアの成年って何歳ですか?

2A アテネは18歳です。スパルタは20歳です。平均寿命というのは幼児死亡率が高すぎるためそうなってしまう数字で、子供を「生き抜いた」人は長生きして50〜60歳まで生きています。ペイシストラトスもアイスキュロスも70歳くらい、ペリクレスは66歳まで生きています。ペイシストラトスの長男のヒッピアスは、アテネ市を追放されて、復讐のためにペルシア軍の先導役としてマラトンに上陸した(前490年)、という話しは名高いものですが、あるとき笑ったら歯が全部抜けた、といわれています。ヒッピアスはもう70歳でしたから。日本の明治時代の平均寿命も30歳くらいです。明治の人の伝記を読むと兄弟が小さいときに死ぬ場面がよくでてきます。現代より身近に「死」があったのです。


Q3 陣形について勉強を始めようと思っているのですが、日本では、戦国時代に陣形は使われたと思うのですが、世界史では、「陣形」というものはあるのですか。あったらどういう風に使われたのかを教えてください。

3A 陣形として世界史の中で名高いのは、レウクトラの戦い(前371)でテーベの将軍エパメイノンダスが考え出した「斜線陣」によるスパルタに対する勝利です。他はインターネットの中に地図で陣形を描いたものがたくさんあるはずです。Military History で検索すればたくさん出てきます。


Q4 イデア論について40字で説明せよ(By慶応大〈商〉)。答えを見てもいまいち意味がわかりません。イデア論ってなんですか?

4A イデアについて答えられない場合は、「プラトンが唱えた理論」でいいです。もう少しつっこんで「プラトンが理想とした価値」。40字なくても正しければ答えないよりいいです。もっとつっこんで、「プラトンが究極的価値とみなした真善美のかたち」or「時間・空間のちがいによっては変化することのない善そのもの」or「絶えず流動変化していると見える世界はイデアの影であり、真の理想的な価値がひそんでいる」と。たとえば。描いた見えるかたちの丸い円には太さ、厚みなどがあり、ところによって鉛筆で書き損じたため太かったりしますが、その見えるかたちは無視して完全な丸として計算します。その場合、完全な丸は見えないのに見えているかのようにしています。人間のものを見る行為の中に完全さを知っているかのように動きます。この完全なかたちがイデアです。この世に完全な四角も三角形もないのですが、あるかのように計算します。なぜか人間は知らず知らずのうちにイデアという完全形を知っているから。

Q5 『世界史用語集』のアウグストゥスのところに「内乱後の秩序を回復し、市民=戦士の原則を復活」とありますが、これはアウグストゥスが常備軍を設置したことと矛盾しませんか?

5A 用語集のまちがいでしょう。「市民=戦士の原則」は自費で装備をととのえる武装自弁の原則でもあるのですが、こういう市民の義務としての兵役はマリウスの兵制改革(前106)ですたれています。土地を失い都市に入りこんだ無産市民から志願兵をつのり、武器をかれらに支給して連れていくことになっています。これらは、もう慣例になっており、かれらに多くの戦利品を与えられるものが有力者となっていくという過程です。前31年に「内乱の一世紀」が終ったときは、60もの軍団からなる大部隊にふくれあがっていました。元首政をはじめたアウグストゥスはこれを28軍団に減らして常備軍としました。この常備軍の兵士は、従軍の期間が20年と定められ、年に900セスナルティウスの給料を支払うことになっています。こういうものが「市民=戦士の原則を復活」とは……。元首政が共和政の要素を含んでいる、という点の拡大解釈でしょう(注:今の用語集にはこの文はありません)。


Q6 今日コンスタンティヌス帝が「コロヌスの転職の制限を実施した」と習ったんですが、これってコロヌスに限られた話じゃないですよね。 コロヌスは山川によると「隷属的」な小作人なんですよね。じゃあ、コロヌスも奴隷も一緒ちゃうのん???って思うんですが。。。。なんか要するに私はコロヌスと奴隷と中世の農奴の違いがわからんようです。

6A 「自由民」は奴隷でないという意味です。転職の制限を実施した……すべての職業です。奴隷は人格が否定されていて自由はまったくありません。奴隷自身が道具・財産のひとつであり売り買いされます。自分が働いて収穫したものも自分のものではありません。
 コロヌスは土地に縛られた移動の自由のない自由人です。売り買いまではされません。人格が認められています。農奴も移動の自由がありませんが、領主裁判権の下にあり、コロヌスよりもっと自由がなく拘束されている人々です。ただし奴隷のように売り買いまではされません。自分が働いてえた収穫は半分くらいは自分のものになります。これは中世の荘園の中の農民のすがたです。
 このように移動・人格・生産物で比べるとハッキリしてきます。
 奴隷→農奴→コロヌスと自由度が増します。
 ただし歴史的な成立の順番は、奴隷→コロヌス→農奴ですが。


Q7 古代末期のローマというのは具体的にいつのことを言っているのですか? 古代末期ってのはローマ帝国が東西に分裂する前までってことですか?

7A ローマ帝国史は二分して前期帝政、後期帝政といいますが、前期は前1世紀から3世紀(軍人皇帝時代)まで、後期はドミナートゥス制から西ローマ帝国滅亡までです。この後期帝政のことを「古代末期」といいます。「古代」はローマ史に限れば前500年(前509)の共和政から始まり、500年の西ローマ帝国滅亡(476年)まで約1000年間の歴史をもっています。この1000年間の中で「古代末期」は4〜5世紀のことです。


Q8 325年のニケーア公会議において「父なる神と子なるキリストの同質」を説くアタナシウスの説が、これらに加えて精霊(原文のママ、正しくは聖霊)をも同質とする三位一体説として確立され正統派と改めて確認されたのは381年のコンスタンティノープル公会議においてではないでしょうか。

8A そのとおりです。「確立された」のは。しかし三位一体説の原型はニケーア公会議で出されており、それを後で「確認」したという順です。教科書でもニケーア公会議の説明のところで、「アタナシウスの説は、のちに三位一体説として確立した」(詳説世界史)「のちに三位一体説として完成されるアタナシウスの説が正統と認められ」(詳解世界史)
と書いています。だからニケーア公会議の段階で書いてもいいのです。わたしの解答例の中では「確立」ということばは使っていません。「ニケーア公会議で三位一体説をとるアタナシウス派を正統とし……」となっています。


Q9 城攻めの時使われた攻城兵器は、大概古代ローマ帝国に由来するもののようですが、歴史的に初めて登場する、ローマ由来ではない兵器はtrebuchetとかいうもので間違いありませんか?
 昨日、映画ロード・オブ・ザ・リングを見てきましたが、クライマックスは攻城兵器でした。弾丸を撃ち込むのや、はしごを城にかけて攻めたり、城の門をぶち抜くのだったりです。弾丸や大きい矢を打ち込むのがtrebuchetかと思います。あまり知りません。日本ではなぜ、こういった兵器が使われなかったのでしょうか?

9A わかりません。城の構造とかかわりがあるのではないでしょうか? 高い壁になっていて、それも分厚すぎる壁をこわすことは容易ではなかったでしょう。日本でも投弾帯(とうだんたい)という石や土の弾丸を投げつける武器はあったようです。ローマ型の台をつけた装置ではなく、手で振り回すだけのものですが。


Q10 問題集の答えにポリビオスの著したローマ史では混合政体がローマの強みだと主張されているらしいんですが、それは複合政体と同義ですか? あとエウセビオスやカラカラ帝の父であるセプティミウス=セヴェルスは私大ではでますか?

10A 混合政体と複合政体と同義です。王政=独裁官、貴族政=元老院、民主政=民会という三つのちがう声を代表する機関があったからです。エウセビオス、カラカラ帝の父であるセプティミウス=セヴェルスは私大で……出ます。前者は関関同立、早稲田・慶応・法政に出ています。後者は軍人皇帝時代のスタートを切るので出ます。関学・近畿・早稲田・慶応・法政に出ています。


Q11 ギリシア・ローマ時代、市民が重装歩兵となって従軍したのは従軍=参政という構図から、これを『民兵一致』とするのは間違いでしょうか? 山川の用語集にも市民=戦士制ともありますし。

11A 世界史のばあいは民兵一致という表現で出てくるのは、中国史の屯田制や府兵制などでつかいます。つまりこれは土地をもらった代償として義務を負わされたものです。農民であるものがときに兵士になる、という意味です。政治的な権利はありません。たとえ参戦しても政治にはノータッチです。ところが西欧のばあいは、おっしゃるとおり武装自弁の原則にたって、市民権が代償としてあたえられます。これは権利として投票権・被選挙権にむすびつきます。中国のばあいは食糧は農民も用意しますが、武器はたいてい国家が用意します。この点も西欧のばあいは自分で武器を用意できるものだけが参戦できます。経済の格差がそのまま軍隊の地位に反映します。つまり馬を用意して養うくらいの豊かなもの、馬は大食いですからね、位は高いのです。かんたんな武器しか用意できないものは、日本でいう二等兵にしかなれません。しかし中国のばあいは、地位の高い低いは農民にはなく、一律低いのです。指揮官に地位の差はあれ、これは一般の農民ではないのです。専門的な軍人です。ですから、西欧史にかんしては「民兵一致」はふさわしくないおもいます。


Q12 貨幣経済の進展についてです。
 「ペロポネソス戦争中におけるギリシャで貨幣経済が進展した」と用語集などに書いてありますが、その理由はなんでしょうか? 私は、長引く戦争のために農地が荒廃し、農作物がとれなくなったために、物々交換が不可になったためかなぁ…と考えました。しかし、「中世ヨーロッパにおける貨幣経済の進展は農業生産の増大による余剰生産物の発生で経済活動が促されたため」と用語集にかいてありました。となると、私の推測は間違いですよね……わかりません。

12A 確かに迷うような記事が書いてあります。教科書でも「このたえまない戦争で農業は荒廃し、ポリス社会は大きく変質していった。貨幣経済の浸透によって貧富の差が激しくなり、土地を失う市民が続出したため、傭兵の使用が流行して、市民みずからがポリスをまもる原則はくずれた。(旧詳説世界史)」と書いてあります。
 ペロポネソス戦争の前にある「用語集」の貨幣の使用、すぐ下のスパルタという用語の記事も見られたら、貨幣の登場は前6世紀くらいからリディアから伝わって流通しているのに、わざわざまたペロポネソス戦争のときに貨幣経済の浸透を言うのか、という点です。これはスパルタという独特の都市国家が貨幣を使用していなかったためです。全ギリシアというわけでなく、大きい都市国家のスパルタとそれに似た都市国家のことです。商業が発展して他のポリスとの交流がさかんになるとスパルタの厳しい体制を嫌がる市民が出てくるので、他のポリスとの関係がないように、貨幣も鉄の棒を代わりにつかっていました。鉄では価値がないと他のポリスの商人もスパルタと商取り引きはしない、というスパルタが意図して閉鎖的社会をつくっていたのです。閉鎖的であることが可能な農業の収穫があり自給自足ができた珍しい都市国家でもあったからです。豊かな農業があれば商業が生まれ、そして流通をスムーズにするために貨幣という手段も盛んになるのが、どこの社会でも見られるはずですが、それを無理に抑えていたのがスパルタでした。
 それがペロポネソス戦争という他のポリスとの長い戦争の中ではどうしても他の地域に行かざるをえず、実際勝ってアテネを一時支配します。すると閉鎖的であったスパルタは他のポリスのあり方=貨幣経済を知るようになり、またスパルタはもともと兵士をになう市民の数が少なく参戦できるものが少なくっていったため傭兵を雇いました。これは貨幣による戦争です。戦闘員の市民が少なくなり(市民数は、前480年に8000人、前371年に2000人、前242年に700人)、貨幣経済とともに市民間の貧富差も出てくると、貨幣でなんとか都市国家を維持しなくてはならなくなり、ギリシアにもともとあった貨幣経済の中に飲み込まれていったのです。
 「農業は荒廃」はギリシア本土のすがたですが、当時は地中海全域との関係ができあがっていて、農産物がなければ輸入したらよく、どこでもポリスの最大の輸入品は小麦でした。オリーヴ・葡萄のように痩せた土地でもできるものを輸出して穀物を輸入するというのが基本的な貿易のありかたでした。「荒廃」の理由は戦争の武器のためにたくさんの木を燃やしたためとも考えられています。環境破壊です。アテネのオリンピックのときにギリシアの映像がテレビでよく出てきましたが、かぼそい木々しか生えていないすがたは今も変っていません。中国でも戦国時代の森林伐採は武器の製造や青銅器をつくる燃料として燃やしたために、保水の力のなくなった自然のために黄河の洪水もおきてきた、と見ています。
 中世ヨーロッパにおける貨幣経済の進展……関連が……これは背景に農業の発展があり(三圃制・重量有輪犁・水車・風車の技術の進展)、その結果として人口増加があり、都市ができ、全欧的商業(商業ルネサンス)があり、十字軍をとおしてより遠方の物産に興味をいだいた結果です。どこの世界でも基本的には農業の発展は商業(貿易)を生む、といえます。中国でも春秋末、唐末五代、明末清初の3回が農業の発展があり、その上で商業の全国的な活動が見られる時期です。


Q13 帝政ローマ時代に、ローマは南インドのサータヴァーハナ朝と季節風貿易を行って、ローマはインドから綿や香辛料を輸入し、その対価として金銀を輸出していましたが、金銀の国外流出がローマの財政悪化を招き、衰退の原因を作ったそうですが、、、何故金銀の国外流失が財政悪化につながるのかがわかりません。国内にある金属(金)の量が国内の財政に影響を及ぼすメカニズムはどのようなものですか?(金本位制もこのメカニズムと同じ理屈で理解できるのでしょうか?金本位制もいまいちよくわからないのですが…)

13A 確かに分かりにくいですね。金銀の流出だけが衰退原因という訳ではないけれど、一因としては言えます。基本的に金銀というそれ自身に価値のあるものを国家が失いはじめると、必要なためにそれでも貨幣を発行していくことになり、発行する貨幣の価値が落ちていきます。紙幣なら余計ですが(元朝の交鈔)、ローマ帝国は「貨幣を増発したために通貨の質が下がって物価が上がり、とりわけ帝国西部で商業活動はおとろえ、都市は没落した(詳解世界史の記述)」となります。「通貨の質が下がって」は悪鋳といいます。金貨・銀貨の金や銀の含有量が少なくなることです。「物価が上がり」の理由は、金や銀の含有量が少なくなって、貨幣それ自身の価値が落ちるため、むしろ金貨銀貨で給料をもらより物でもらったほうがいい、という傾向になります。この含有量の少なくなる点は、お持ちなら『各駅停車』の194ページに載っていますから見てください。
 信用のない貨幣より、貨幣で買うはずの物の値段(物価)の方が上がってきます。物の値段が上がることは交換・売買をとどこおらせ、かつ物々交換になると流通は貨幣による取り引きのときより遅くなります。また何も物の豊かな都市・市場に行かなくても安い現物のとれる田舎でいいことになります。これは都市を衰退させます。しだいに貨幣経済でなく自然経済(貨幣のない経済)に変ってきます。
 金本位制も推理のとおり基本的に同じです。金そのものをもっていないかぎり金を単位とする取り引きはできません。銀本位だった時代から金本位に変わっていく流れについては、このブログの過去問→東大→2004年度の第1問の解説にありますから読んで下さい。


Q14 ローマ史でいうところの「東方属州」とはどこを指すのですか?

14A 東西に分裂する(395年)ときの東西と一緒です。分裂する以前から東方・西方という表現をつかっています。つまり東方属州は東地中海の沿岸でもあって、ぐるりと「コ」の字のかたちで、バルカン半島・トルコ・シリア・パレスティナ・エジプト・リビア東部が入ります。
 

Q15 4世紀に「ヨーロッパ全体の商業活動が衰退して、西方属州の都市没落が進んだ」理由がわからないので、教えてください。 

15A これは専制君主政が都市に重税をかけたことと関係しています。都市の市参事会員がその都市の税額にたいして責任を負わされ、払えない市民の肩代わりもされられました。それで有力市民が都市を捨て、農村の地主として生きる道をえらびます。また、貨幣が西方では悪鋳されて価値がなくなり、物価が上昇します。具体的には、銀貨は260年頃にはアウグストゥス帝のころに比べて、銀の含有量が60%も減少していき、さらに270年頃には4%しか銀を含まないものになります。物価は260年の物価が305年には20倍にはねあがっていました。なので取り引きが物々交換になり、しだいに自然経済の方にむかわざるをえません。
 しかし東方属州ではソリッドス金貨、「中世のドル」といわれた金貨の金の含有量が98%を下らなかったといいます。わたしも一枚もっていますがピカピカに光っています。東方は都市が繁栄しつづけます。この差は人工数に表れていて、ユスティニアヌス帝が生きていたとき、ローマ市の人口が500人、コンスタンチノープル市は50万人でした。


Q16 山川の詳説世界史で「そのためローマ帝政後期になると、彼らはドナウ川下流域まで広がり…」ここにおけるローマ帝政後期とはいつからを指すのでしょうか。自分は、ここでのローマ帝政を前27年から395年までと考えて、ローマ帝政後期を軍人皇帝の時代体と考えたのですが、この解釈で合ってるでしょうか?

16A いいえ。帝政後期とはドミナートゥスからです。軍人皇帝時代まではまだ共和政的な要素が保たれていたので、専制君主政からです。この時期には元老院はローマ市の市役所に成り下がり、イタリアも属州の一つになります。


Q17 デロス同盟についてです。AとBのどちらが正しい認識ですか?
A アテネがデロス同盟をつくり、それに反発してスパルタがペロポネソス同盟をつくった。
B アテネがつくったデロス同盟に当初入っていたスパルタは、その同盟内でアテネに反発し、デロス同盟を脱退してペロポネソス同盟をつくった。
要するに、スパルタは当初デロス同盟に入っていたかどうかということです。

17A AでもBでもありません。ペロポネソス同盟は前550年にできていて、ペルシア戦争以前からあります。デロス同盟はペルシア戦争の後の前477年にできました。

疑問教室:西アジア・アフリカ史

西アジア・アフリカ史の疑問

Q1 ウルナンム法典は世界最古の楔形文字法典であって、世界最古の法典じゃないのですか? あと、イシン王朝のリピト=イシュタル王が編纂した法典の名前の書き方は『リピト=イシュタル法典』じゃなく、『リピットイシュタール法典』と書いても良いですか? 名前の間にある『=』や『・』は抜かして書いても良いのですよね?

1A 「世界最古の楔形文字法典であって、世界最古の法典」でもイコールです。『リピト=イシュタル法典』じゃなく、『リピットイシュタール法典』でもいいです。『=』や『・』はどちらでもいいし、なくてもいいです。


Q2 「前88−前63 ミトリダテスの反乱」と 「171−138 ミトラダテス1世」のつながりはあるんですか?

2A 関係はとくにありません。前者は小アジア(現トルコの西部)のポントス王国の王の名前で、後者はパルティア王国(現のイラン)の王です。名前のMithrida Mithrada はよく似ていますが、これはこのイランから西は地中海一帯に広がっていた神の名前ミトラ神(ミトラ教)からきています。


Q3 質問(というよりミニサイズの添削?)お願いします。 まずハンムラビ法典に関して、「この法典はどのような原則にたって制定されているか(40字程度)」という問いに対して「「目には目を、歯には歯を」に見られる同害復讐法と身分によって罪の重さが違うという原則。(43字)」と書きました。 また、死者の書について、『この文書の性格と内容を50字以内で簡略に』という問いに対して「パピルスに書かれた、死後の世界や現世の行いが死後に反映するという発想を表すもの(45字)」としました。それぞれ評価していただけますか?

3A ハンムラビ法典は満点です。死者の書は、「性格」の答えになっていても、「内容」にまで入り込んでいないので半分でしょう。内容としては、神々への賛歌、死者の再生復活に必要な教え、死者を邪悪なものから守る呪文、などどれでも一つ書けたら良かった。


Q4 古代エジプトでアメンホテプ4世がテル=エル=アマルナに遷都したあとツタンカーメンが都を元にもどす先はテーベですか? メンフィスですか? 細かいですけど、山川の用語集と三省堂の問題がくいちがっているので。

4A テーベに都をもどしますが、ほとんどメンフィスに居ました。古代・中世では都は王の居る場所でもあるので、どちらでもいいのです。どちらかを問うこと自体が悪問です。アケメネス朝の都がスサでもペルセポリスでもどちらでもいいのと同じです。


Q5 メソポタミアの神権政治のところに「エジプトのものとは違う」と授業を聞いて、自分で注釈を入れてあるんですが、実際にどこがどう違うのですか?

5A 「エジプトのものとは違う」は、エジプトの王は God king ですが、メソポタミアは Priest kig です。つまりエジプト王は神そのものとして君臨し、メソポタミアの王はあくまで神官・司祭、たんなる王という地位にあり、宗教的な承認はしますから神権政治ですが、明らかにエジプトの王権は強く、メソポタミアの王権は弱いのです。メソポタミア北部アッシリア地方の王は上位に占星術師がおり、南部のバビロニア地方の王は政治家としての能力しか認められていません。


Q6 オリエントに鉄製農具はいつから使用されたのですか? なにかオリエントは武器で中国は農具のイメージが強いのですが?

6A たしかに。教科書の知識だけで、けっこう鋭い質問になっています。ヒッタイト帝国が製鉄の発明国として名高く、この帝国の崩壊が製鉄の技術を拡散させる契機となった。これは教科書の知識です。たいていの専門家の書いたものには、武器だけでなく、農具としても、この前12世紀以降につくられた、と書いています。しかしどんな鉄製農具があるのかと、調べてみてもなかなか農具の証拠写真も記載も出てきません。どうやら武器としての鉄は前12世紀以降オリエントの諸国で見られるものの、農具の記録なり実物はあまり出土していないようです。イスラエルには前1000年頃の短剣が出土しています。武器はナイフとしても使えますが……。エジプトは前900年頃の斧(おの)の記録があるものの一般の農具としての鉄はアッシリア帝国の支配後になるそうです。もう少し調べて分かったらお知らせします。

 

Q7 ササン朝がサトラップ制とあり ますが、教科書には書いてなかった気がするのですが、これはアケメネス朝との関係から推測して書くものなのですか?

7A ササン朝はアケメネス朝の復活を意図した王朝であり、この属州制もそのひとつでした(他に王号のシャーも)。アレクサンドロスもこれをまねた制度を全土でしき、ササン朝にうけつがれました。ササン朝では名称はしだいにちがうものに変りましたが、総督を派遣して全権をにぎらせて属州を統治させる、という方法は変わりません。イスラームではアミール(司令官、総督)が担当します。イスラームではジズヤ・ハラージュ(もともと二つともペルシア語)という税制をしいていますが、これも実はササン朝の制度を名称とともにそっくりまねたものです。という風にふりかえると、アケメネス朝の制度が後々の西アジアの帝国支配の基礎であったことになります。


Q8 イェルサレムがユダヤ教やキリスト教の聖地だというのは判りますが、なぜイスラム教徒にとっても聖地なのですか?

8A 夢が原因です。開祖ムハンマド(マホメット)があるとき夢を見て、夜の旅(ミーラージユと言います)をしたというのです。聖なる礼拝堂(メッカのカーバ神殿)から、天使ガブリエルに連れられ翼つきの天馬にのって遠隔の礼拝堂(これははじめ分からなかったのに、イェルサレムと後に決まりました)に行き、そこから光のはしごにのって昇天し、神にあってひれ伏した、と伝えられているためです。この伝説を信じるイスラム教徒の正統カリフ(ムハンマドの後継者)2代目ウマルが、イェルサレムを征服したおりに、昇天の出発点とされた岩を「発見」して、礼拝したと伝えています。さらにムアーウィヤ(ウマイヤ朝の創始者)がここでカリフを名乗りはじめ、かつ礼拝堂(モスク、アクサー・モスク)を建てました。さらに後のカリフがユダヤ教・キリスト教の聖地の場所で、この岩を囲むように「岩のドーム」という8角形のドームを築きました。天馬をつないだといわれる場所にもモスクが建てられています !
 今はメッカにむかってイスラム教徒は礼拝をしていますが、最初はこのイェルサレムにむかって礼拝をしていたのです。ウマイヤ朝のときにはメッカを別のカリフを名乗る人物に奪われたこともあり、イェルサレムを巡礼地にしたこともあります。


Q9 山川の『詳説世界史研究』(1995年 初版)のp.151などを見ると、「最後の預言者」というコラムに「イスラムの教えによれば、人類は元来ひとつの共同体であったが、争いによって分裂してしまった。そこで神は各々の共同体に預言者を遣わし、人々を正しい道に導こうとした。アダム・ノア・アブラハム・モーセ・ダヴィデ・ソロモン・イエスなどがこれらの預言者に相当し、ムハンマドは最後に現れた最もすぐれた預言者であるとされる。」とあります。ここで、たとえばモーセは、ヤーヴェ(ヤハウェ)から十戒を授かった預言者ですよね。ムハンマドは「最後の預言者」だって自ら称したらしいですが、彼がいう「預言者」にはモーセなんかも含めた上で、自分が「最後」だって言ってるんでしょうか?
 それならアッラーの神とヤーヴェって同じ神のことを言ってるの? って疑問を持つのは変ですか? いったいムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教の神をどうとらえているのでしょう?
 ムハンマドは「アッラーが遣わした最後の預言者だ」って言っているのか、「ヤーヴェとかアッラーとか様々な神々が遣わした最後の預言者だ」って言っているのか、どう理解すればいいのでしょうか?

9A セム語族のユダヤ人もアラブ人も神は唯一神ということは変りません。神の名の呼び方がいろいろと変っても(ユダヤ教の神でもヤーヴェ、エホバだけでなく20種類くらい呼び方があります)唯一神という考えをもっています。しかしその唯一神が、アダムからはじめて、いろいろな人(預言者)に言葉を預(あず)けてきたけれど(モーセも預言者ととります。イエスもキリスト教徒のように神の子とはとらず、イスラム教では預言者のひとりとみなしています)、ムハンマド(マホメット)に最後の言葉(預言)を与えた、もうこれ以上は預言(神の言葉)はだれにも明らかにしないよ、というとらえかたです。マホメットも旧約聖書・新約聖書のことばを神の預言と認めるけれども、それは限界のある不十分な言葉だった、いま自分に下された神のことばが最高なのだ、かつ最後なのだと言っているのです。そしてかってセム語族の宗教を完成したアブラハムの宗教は、その後だんだん堕落したとみなし、マホメットがアブラハム時代の純粋な宗教にもどすのだと主張しています。


Q11 『練習帳』の知識編p50・問10の答に、「啓典の民はジズヤとハラージュを払えば信仰は認められた」
とありますが、それ以外の宗教の場合はこれと扱いがどのように異なりますか?

11A 政権・王朝次第です。ウマイヤ朝下のゾロアスター教徒や、ムガル帝国ではヒンドゥー教徒がジズヤ(人頭税、宗教税)を払わずに済む融和政策をとっています。


Q12 ウマイヤ朝期、非アラブ人は自由に好きな宗教を信仰できたのですか?

12A 自由に好きな、は条件つきです。ジズヤ・ハラージュを払えばです。ジズヤはイスラム教徒でないものだけに課す税金ですから制裁のひとつでしょう。完全な自由はないです。


Q13 スルタンという称号がいろんなところに出てくるのは変です。トゥグリル=ベクが最初でカリフからもらうものではありませんか? 

13Q 確かに、トゥグリル=ベクが最初でカリフからもらった人物ですが、最初に名乗った人物ではありません。イスラム史上初めてスルタンを称したのはガズナ朝のマフムード (位998〜1030年) で「ガズナのスルタン」と唱えました。なにもアッバース朝に反抗するつもりはなく、カリフの権威を認めています。正式に、アッバース朝のカリフからいただいたのはトゥグリル=ベクです。以後主としてスンナ派イスラム王朝の、トルコ、イラン、インドなどに君臨したものが名乗ります。支配者、王、力を意味するアラビア語で、かならずしもカリフから称号をもらわなくても名乗ったのです。山川出版社の『世界史B用語集』の「スルタン」の項目の説明ように「イスラム世界の世俗君主の称号。トゥグリル=ベクが最初」です。


Q14 『練習帳』の「知識編」の50ページ12番で、イスラム文化の特色について述べよ。の解答のところに王侯貴族が担い手で、宮廷文化といってよいと書いてありますが、どういうことなのか良く分かりません。東京書籍の教科書の113pに「商人の町メッカに生まれたイスラーム教は、公平な取引など商人の倫理を重んじていて、支配者が商業を規制したり、人やもの、情報の自由な移動を規制することをゆるさなかった」とあるので、支配者が多額の税をとって贅沢をしているようなイメージのある宮廷文化というのが良く分かりません。

14A 確かにイスラームの宮廷のことを教科書はあまり書いていません。ただ宮廷におけるカリフやスルタンのぜいたくな生活は名高いものです。それはとくに『千夜一夜物語』の中にアッバース朝時代のカリフや貴族たちのハレム(日本でいう大奥)の情景によく描かれています。その中のひとつでは宮廷に1年の月数に従い12の宮殿があり、各宮殿に30の部屋があり、合計360の部屋にはそれぞれ1人ずつの側室が住み、王は各側室に年に一夜のみを割り当てていたとあります。
 拙著『各駅停車』にもあげていますが、「ハールーンの豊かさは、息子の結婚式に黄金の玉を招待客に投げあたえ、臣下の礼服のために金貨40万枚を払ったエピソードで知られています!」と書いています。カリフやスルタンが臣下に金銀をばらまき、庶民のための福祉施設をつくったり、モスクを建立することは人気とりにも必要な行為でした。他にマドラサ(学院)、キャラバンサライ、ハンマーム(公衆浴場)なども建てました。
 アッバース朝でなくても、スペインのアルハンブラ宮殿、オスマン帝国のトプカプ宮殿、アイバクのクトゥブ=ミナール、アクバルの5回の遷都のたびの宮殿建設、シャー=ジャハーンのタージ=マハル廟と巨大な建築物が目立ちますが、これらはみな王(カリフやスルタン)たちが建てさせたものです。イスラーム文化の最大の特色は建築にあり、というくらい建築物にはイスラームを代表する文様・絵画 (ミニアチュール) ・陶磁器・ガラスが装飾され、この宮廷に図書館が設けられて学者たちが王の前で講義をしたり議論をしたりしました。アルハンブラ宮殿の蔵書数は40万冊と数えられています。イスラーム文化の特色として都市文化(東大なら都市文明)といいますが、その中心に宮廷があった、ということです。


Q15 用語集のイスマーイール派のところに、「13Cモンゴル軍に滅ぼされた」とあるのですが、なにか王朝が滅びたかのように書いてあるのはなぜですか? イスマーイール派を信奉したファーティマ朝はアイユーブ朝が滅ぼしたのではないですか?

15A たしかにこれだけの説明では判りにくいですね。実は、11世紀末にイスマーイール派に内紛が起こり、ファーティマ朝と断絶したニザール派という一派ができます。このニザール派の根拠地となったイランのエルブルズ山脈中のアラムートの要塞が侵入してきたモンゴルによって陥落したことをいっています。エジプトのイスマーイール派は残っているのです。このニザール派は多数の要人を暗殺したことで知られ(セルジューク=トルコの名宰相ニザーム・アル・ムルクを暗殺)、ニザール派と接触した十字軍によってヨーロッパに伝えられます。正統派のイスラム教徒がシリア地方のニザール派に対して、かれらのことを軽蔑的に「ハシーシー(大麻野郎)」と呼んだことから、アッサシーノassassino(イタリア語)、アサシンassassin(英語)などになったらしい。
 『東方見聞録』(教養文庫)には概略つぎのような記述があります。山の中の城の中には『コーラン』に出てくる天国のような楽園が造られている。美しい庭園があり、せせらぎには、葡萄酒、牛乳、蜂蜜、清流が流れ、入園者を喜ばすために多くの美女が配されている。山の老人は刺客(アシシン)を仕立てる為に、近くから12〜20歳の若者を集めて来る。若者は薬で眠らされ、この庭に連れ込まれる。目覚めた若者は自分が天国にいるようだと感じる。美女たちは満足のいくまで接待する。再び眠らされ、我に返った時に、老人が暗殺を指令し、その報酬として、天国での生活を約束した。こうして老人は意のままに誰でも殺すことができた。
 日本の特攻隊員が飛ぶまえに売春婦と遊んだ、という田舎でわたしが聞いた話しと似ています。


Q16 「七イマーム派」とか「十二イマーム派」もありますよね? イマームの頭につく数字はどういう意味があるのでしょうか?

16A アリーを第一代目のイマーム(指導者、スンナ派のようにカリフ称号をつかわない)として、7番目の血のつながった後継者です。この7番目のイスマイールという人物までがアリーの正統な後継者、後は認めないという立場です。12番目がサファヴィー朝からつづく現在のイランのシーア派(十二イマーム派)のことで、7番目以降もつづき、12番目のムハマド=ムンタザルがいずれイラン人を救いに地上に降りてくる、ということになっています。


Q17 サファヴィー朝とオスマン帝国の比較が頻出のようですが宗教以外にありますか。

17A どこの大学でも「頻出」とは思えません。とくサファヴィー朝は。
 <オスマン帝国>        <サファヴィー朝>
 長期王朝(1299〜1922)    中期王朝(1501〜1736)
 スルタン・カリフという称号、に対してシャー(くわしくはシャーハン・シャーイェ)が王号。
 多民族(印欧語族、アラブ人、ベルベル人)支配、に対して主にペルシア人(印欧語族)だけを支配
 独自のイスラム的集権化、に対して西欧の絶対主義に学んだ
 領土は末期に大幅に縮小、に対してあまり縮小せず政権交代


Q18 用語集で“ホルムズ島”の項目を引いて見ますと、「ペルシア湾口にあり、1515年ポルトガルが占領したが、1622年イランが奪回した」と載っているんですが、『ニュービジュアル版 新詳世界史図説』浜島書店 1993年11月1日発行 1999年2月1日印刷という資料集の p.71“17世紀の世界”というところにはホルムズ 1507〜1622(ポ) と載っているんです。どちらが本当なのでしょうか? 1515年か1507年か?

18A わたしは前者の1515年の方をとりたいと思います。「1507〜1622(ポ)」は吉川弘文館の「増補版・標準世界史地図」にも同じ年代がのっていますが。
 エンサイクロペディア・ブリタニカ・コムではアルブケルケの説明で、次のように書いています。
 Africa and build a fortress on the island of Socotra to block the mouth of the Red Sea and cut off Arab trade with India. This done (August 1507), Albuquerque captured Hormuz (Ormuz), an island in the channel between the Persian Gulf and the Gulf of Oman, to open Persian trade with Europe. His project of building a fortress at Hormuz had to be abandoned because of differences with his captains, who departed for India. Albuquerque, though left with only two ships, continued to raid the Persian and Arabian coasts.
 ホルムズのところでは次のように書いています。
 In 1514 the Portuguese captured Hormuz and built a fort. For more than a century the island remained Portuguese, but the rise of the English locally and the Persian shah's resentment of Portuguese occupation culminated, in 1622, in Hormuz' capture by joint Anglo-Persian forces.

 年代が1514年になっている点がちと違っています。これは確かめようがありませんが、アルブケルケが二度ホルムズ攻略をしていて、一回目は仲たがいもあり放棄され、次回は成功しています。ちゃんと要塞を築けたときに「占領」し、植民地化がはじまったととっていいので、この1515年がいいのではないでしょうか? ローリーがヴァージニア植民をしても何度も失敗して結局成功しませんでした。ジェームズ・タウン建設からがヴァージニア植民地のはじまりとみなします。


Q19 聖地管理権についてよくわかりません。即ち、教科書には16世紀以降はフランスが保有していたとありますが、それ以前はどこが管理していたのでしょうか(ビザンツ帝国?)また、聖地の管理とは具体的に何をするのでしょうか?少なくともこの時代はイスラムの勢力下にイェルサレムがあるわけですから管理しようにもイスラム側が許可しないとおもわれますがいかがでしょうか。

19A それ以前はどこが管理……主なものをあげますと、ローマ帝国(→ビザンツ帝国)領から614 年にササン朝の侵入で破壊されましたが、638年正統カリフ時代のウマルによる入城から再建され、1071年セルジューク朝、1098年ファーティマ朝、1099年十字軍、1187年アイユーブ朝(サラディン)、1517年オスマン帝国と支配者が変転しました。16世紀にオスマン帝国がカピトレーション(治外法権・商業上の特権)でフランスに管理権を与えた、という順です。
 聖地の管理とは具体的に何をする……イェルサレム市内のキリスト教徒(カトリックもギリシア正教徒も)の住む地域と諸教会、西欧からのキリスト教徒巡礼者の管理・保護のために外交官・兵士をおくことです。イスラム教徒たるオスマン帝国の支配下にあって、キリスト教徒はその信仰と自治は許可されています(ミッレト制といいます)から。


Q20 オスマン帝国の半植民地化とは、どのような国によるもので、どのようになされたものなのですか?

20A オスマン帝国はクリミア戦争で勝利国にはなりますが、実はサラ金地獄にも入ります。借金が返せなくて借金をくり返しました。そこで1881年に欧州諸国で「オスマン債務管理局」がつくられ帝国の財政を直接管理することになります。英仏独伊蘭墺の各債権国とオスマン銀行との代表7名からなる委員会を構成し、トルコの租税・関税の徴収権をえた機関です。タバコはフランス資本の会社が独占します。ドイツの銀行、ロスチャイルドの銀行が利子を吸収しました。鉄道はイギリスと後にドイツ(バグダード鉄道敷設権)、小アジアの農業も国際市場に組み込まれていきました。都市の港湾施設、水道、電気、都市ガス、市電などの公共施設、銀行や加工工場建設の機会も西欧企業にあたえました。商会・劇場・カジノ・居酒屋にも西洋人が進出します。こうして鉱山・鉄道・銀行・公共事業などの財政組織・基幹産業のほとんどすべてを外国系特権企業の手にゆだねてしまい、経済的には完全にヨーロッパ諸国の植民地となっていました。


Q21 (1)どうしてフランスがアリーを支援したのですか。
(2)オスマン帝国スルタンの『宗主権』のもとに……」とありますよね。主権やら宗主権やらわけがわからなくなってしまいました
(3)「フランスがエジプト、ロシアがトルコを援助したためにイギリスが干渉し……」とは?

21A (1)(3)は共に「インドへの道」を邪魔するものは排除したいというイギリスの基本的な政策から来ています。フランスはイギリスを邪魔したいし、イギリスは邪魔されたくない、というインドへの地中海・アラビア海にでる船の道をめぐる攻防です。インド(先は中国も)との貿易はイギリスにとって大きな利益でしたから。フランスはナポレオン1世のエジプト遠征にもあったようにエジプトを支配できたら、ここを起点に全アフリカを植民地化できると踏んでいました。またインドへの船の道でもイギリスを通さないこともできます。スエズ運河はまだできていませんが、やはり南アフリカまわりではあまりに遠いので。
(2)強国が弱国に圧力をかけるとき、とくに外交権を牛耳っているときに使います。保護国化(外交権をうばう)という言い方とほぼ同じです。アリーは太守(総督)という地位のままであることは変わらないのですが、内政権は列国にロンドン会議で認められましたが、外交権(宗主権)はまだトルコにあることになっています。それで第一次世界大戦がはじまるとこの外交権(宗主権)をイギリスがうばい、エジプトがトルコから完全に離れます。しかし今度はイギリスの外交権(宗主権)の下になる、ということです。エジプトにとっては、これからはトルコでなくイギリスが外交上、またすでに軍隊も来ていますので、対決の相手になります。


Q22 1907年の英露協商で、「イランでの両国の勢力範囲の取り決め、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲」まではわかるけど、なんでいきなり「チベットは中国の主権を認めた」んですか。

22A 英露協商で、チベットでの中国の宗主権を認め内政不干渉を守る……というのは、逆に言えばロシアにチベットに干渉してもらいたくない、ロシアによるチベットの植民地化は困りますよ。それでは中央アジアにぐっとロシアが南下してしまい、英領インドが危なくなる。それよりここは妥協していただいて、ドイツに対抗して手を結びましょう、というものです。実はすでに清朝とチベットのことは互いに内約済みでした。清朝には宗主権というあいまいな外交権をチベットの頭ごなしに英清間で決めています。ダライ・ラマ13世が清朝から完全に独立したがっていることを知っていたので、英軍を派遣して脅しており、また後でチベットとも1904年にラサ条約を結んでその独立性を暗に認めています。こうした二枚舌と刀を使って既成事実をつくっておいてロシアに認めさせたのです。この間の事情抜きに、いきなりチベットの話が出てくるのが教科書というものですよ。


Q23 OPECとOAPECのちがいがわかりません。それぞれどんな特徴をもっているんですか?

23A OPEC(石油輸出国機構)は石油産油国でつくったもので(1960年)、石油資源を産油国で守ろうとし意図してつくられました。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は1968年に第三次中東戦争でアラブ側が大敗北したため、石油で欧米側に反撃をかけようと政治的な意図でアラブ人の国だけの参加でつくられた団体です。石油を産出していないエジプトやシリアも加盟しているのはそのためです。加盟メンバーを見てもちがいが分かるでしょう。OPECはイラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、ベネズエラ、カタール、インドネシア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル(92年脱退)、ガボン。OAPECはクウェート、サウジアラビア、リビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、イラク、エジプト、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、バーレーン、リビアです。後者はみなアラビア半島周辺の国々にかぎられています。


Q24 イスラエルという国は、イスラエル国かイスラエル共和国かどちらが正しいのですか?

24A 正しいのはイスラエル国です。『世界史B用語集』(山川出版社・旧版)には「イスラエル共和国」という項目があり、その中の説明文に「……現在の国名はイスラエル国」とありますが、これはまちがいです。イスラエルは国名を変更したかのように書いていますが、建国以来変更したことはありません。イスラエル大使館に直接電話で聞いて確かめています。変更したことがありますか、ときくと、そんなことはありません、というのが大使館員の答えでした。これは多くの用語集の源泉になっている『世界史小辞典』(山川出版社・旧版)に、「イスラエル共和国」という項目があり、やはりまちがっているためです。『大学入試・世界史新用語集B』(あすとろ出版)、『新版・必携世界史用語』(実教出版)などもまちがっています。99年度の西南学院大学の法・神・文学部の第4問に「……年にイスラエル共和国を建国した」という問題文がありますが、これは毎年見られるまちがいです。 


Q26 イラン立憲革命の所をやっている時に思ったのですけど、どうして‘立憲’したがるのですか? また、イギリス・ロシアはどうして立憲を食い止めるのですか?

26A 立憲君主政は当時のアジアの国家としては国家強化の手段と考えられ、君主が憲法という苦い薬を飲めばなんとか国家の強化、国民の声よく代表した君主政府を示すはずでした。日本もそうでした。全国民を代表して政治をとりおこなっている名目がなりたつはず。英露の反対はこれらのことがらが国民を結束させ、君主を中心にして反帝国主義の闘争をおこしては困るからでした。自分たちは立憲君主政をたもち民主主義を実現しながら、それがアジアでもおこなわれることは嫌ったのです。あくまで未開なアジアは自分たちの市場・原料供給地にとどめておきたかった。民主主義は西欧だけでいい、という考えです。


Q27 第四代の正統カリフであるアリーがハワーリジュ派に殺され、ムアーウィヤがカリフになってウマイヤ朝を建てたとき、都をダマスクスにおいた理由を教えてください。山川出版社の世界史B用語集には、アリーが殺された理由はムアーウィヤとの戦いで妥協的な態度をとったから、とありムハンマドに反発しているわけでないので都をムハンマドの聖遷したメディナからわざわざ都を変える必要がないと思ったのですが…

27A もともとダマスクスに総督(アミール)として赴任していた都市であり(640)、兄も総督の地位にあってダマスクスを根拠にビザンツ帝国との戦いを任されていました。それが兄が亡くなり、同族ウマイヤ家の3代カリフたるウスマーンが暗殺されて、アリーが擁立されたため、ウマイヤ家のためにアリーと戦うことになりました。自らもカリフを名乗ってアリーと戦ったのに、勝敗はつかずアリーが暗殺されたのを機会に、ダマスクスで再びカリフを名乗ったのです(661)。もともと馴染みのある軍事拠点という場所でした。


Q28 大アミールの称号はブワイフ朝が、スルタンの称号はセルジューク朝がそれぞれアッバース朝カリフから授けられましたが、この二つの称号に違いはあるのでしょうか。山川出版社世界史B用語集をみてもいまいちよくわかりません。

A28 用語集では、大アミール amir ⑧ カリフによって全イスラーム世界の軍事指導権・統治権を与えられた者の称号。この設置により、アッバース朝のカリフの指導権は名目のみとなった。
スルタン sultan ⑪ イスラーム世界の世俗君主の称号。セルジューク朝のトゥグリル=ベクが最初に用い、以後スンナ派王朝で使用された。
 前者は「アミール(総督)の主(頭)」というのが原義で、あくまで官僚のトップのような意味です。この時点ではまだカリフに政治的権威が保たれています。しかしスルタンは「支配者」が原義で、政治的権限を全部渡したことを意味します。カリフはこの時点で宗教的な権威しかないことを意味しました。ブワイフ朝の君主はシーア派であったこともあり、完全には政治権限を渡さなかったが、セルジューク朝はスンナ派であり、安心して渡した、ともいわれます。


Q29 イスラームの六信五行はいままでなんとなく覚えていたのですが、よく考えるとなぜ五行に布教が含まれていないのかが不思議に思いました。その理由を教えてください。

A29 五行は信徒個人が守るべき戒めであり、布教はかならずしもだれでもやれるものではありません。使命感をいだいたひとがするものです。キリスト教には宣教師(布教師)がいますが、しかし宣教師だけが布教するのではなく一般信徒もします。イスラム教の場合も商人・神秘主義者・法学者たちがしています。


Q30 イスラーム神秘主義に関する文章として正しいものを3つ選べという問題で、
ア 聖者崇拝の傾向が強かった
イ 偶像崇拝の傾向が強かった
ウ シーア派神学者の保護を受けることが多かった
エ スンナ派神学者の保護を受けることが多かった
オ アフリカや東南アジアのイスラーム化に貢献した
カ トルコのメヴレヴィー教団は旋舞により、神との合一を目指そうとした
という選択肢があり、答えはア、オ、カでした。
ここで、二つ疑問が浮かびました。
①アの選択肢について、神秘主義は神との合一を目指すものだから聖者を神に見立てた、という考え方であっているか?
②ウ、エの選択肢について、神秘主義は神学者の保護を受けていないとしたら、ガザーリーはなぜスンナ派神学に神秘主義の要素を導入したのか?

A30 ①聖者を神に見立てた、が合ってます。もともとどの宗教にも聖者(きびしい修行を果たした人、僧侶、聖職者)はあります。イスラーム教は偶像禁止なので、イスラーム教普及以前の聖者をとりこむためにも、聖者がその代わりになるようです。
 ②「スンナ派神学者の保護を受けることが多かった」がまちがいというのは、「少なかった」なら正しいということです。少数でも、ガザーリーのような神学者は何人か知られています。イスラーム神秘主義(スーフィズム)にわたしは詳しくはありませんが、一般論的な説明はこうです。
 神秘主義とは神との合一という体験、だれも確証できない本人だけの内面の深さを大事にしている、ということです。それは個人的なことですが、それはしかし破壊力をもっていすます。既存の専門用語をつかい、学問的体系を確立してきた法学・神学へ根本的な疑念をもちこむからです。そんなもの一つも大事じゃないじゃん、ということです。ゴータマ=シッダールタがバラモン教の教説・戒律を無視したように、キリストがユダヤ教の戒律に厳格なパリサイ派を批判したように、信仰・宗教の根本は教義でも戒律でもないでしょう? 神との一体感こそ信仰の本質だと、と突っ込むことです。ルターがカトリックの教義・慣行・儀式にたいして、それ聖書のどこに書いてあるの? と突っ込んでいるように元々の教典・体験に帰ることです。ルターが神秘主義の影響を受けていることは専門家には知られていることです。信仰義認論はまさに神秘主義的な主張です。
 ガザーリーの主張は読んだこともなく、知らないでのでこういう説明しかできません。


Q31 ナチスによりユダヤ人虐殺が行われたことが、戦後ユダヤ人がイスラエルを建国したことや中東戦争が起こったことの火種として考えられるのはなぜですか。

A31 戦後、ユダヤ人の虐殺が明らかになるにつれ、ユダヤ人の要求ととともにイスラエルという国家の建設は必要だという認識を加盟国に持たせたからです。ウィキペディアの「パレスチナ分割決議」という項目を見られると分かりますが、そこにある提案6に「ヨーロッパに存在する25万人近くの虐げられたユダヤ人に対し、国連は何らかの手立てを緊急に手配する」という文が載っています。


Q32 一橋2006-1について。地中海世界というのはどこまでを指すのですか?

A32 ①地中海の周囲全部でしょう。イベリア半島・南フランス・イタリア・ギリシア・バルカン半島・小アジア・シリア・パレスティナ・北アフリカ全域です。②ただ広くとる場合はこうした沿岸線だけでなく北アフリカとヨーロッパ全域を指します。問題の地中海世界は後者とみていいはずです。オットー1世の本拠地は沿岸ではないドイツなので。

疑問教室・南・東南アジア史

南・東南アジア史の疑問

Q1 インダス文明って、インドの文明じゃなく、パキスタンの文明なんですか?

1A 両方とも正解です。現在の国境からはインダス川はパキスタンにありますからパキスタンの文明といえますが、過去には現在のような国境はできていませんからインド亜大陸の文明という点からはインドの文明です。教科書もインドの文明として書いています。


Q2 バラモン教とマヌ法典は関係があるのですか?

2A うすいですが関係はあります。バラモン教や、これの亜流であるヒンドゥー教徒たちの生活のあり方はどうあるべきか説明した教訓・戒律的なものがマヌ法典です。女を盗むものは来世では熊に生まれ変わるよ、という調子です。バラモンの教義内容に深くかかわるようなものではなく、バラモン中心の四種姓=カースト体制維持に貢献したとは言えます。


Q3 ヴァルナとカーストの違いを教えてください。

3A 前者はカースト制度の元になった4階層(4身分制)をあらわし、後者はこの4階層がさらに職業別に3000をこえる身分制に複雑化したものをさしています。このジャーティとよばれる制度を、後に15世紀末からきたポルトガル人が自国の身分にあたる用語であるカスタをあてたためカースト制と呼ばれるようになった、ということです。


Q4 ブッダもシャカもゴータマ=シッダールタも仏も菩薩(ぼさつ)も、みんな一緒なのですか? ちがいはなんですか?

4A ブッダ(仏陀)は、サンスクリット語で「目覚めた人」「真理を悟った人」「覚者」という意味で、仏教の開祖たるゴータマ=シッダールタをもともと指していません。真理を悟った聖者の意味でした。ただ、仏教徒にとっては最初の覚者であり、また仏教徒はその境地を求めるため、修行者の達成目標としてブッダがあります。大乗仏教の場合は崇拝・帰依(きえ)の対象としても仏(ほとけ、ぶつ)があります。また日本のように死者・先祖をそのまま仏(ほとけ)という言いかたもします。
 シャカはゴータマの出身種族の名シャカ族(シャーキャ族)からきています。だからゴータマ=シャーキャムニ(釈迦牟尼、釈迦族出身の聖者)という呼びかたもあります。「釈尊(しゃくそん)」もこの派生で、「釈迦族の尊者」の意味です。
 ゴータマ=シッダールタのゴータマは姓、シッダールタが名です。
 菩薩は、小乗仏教では、覚者になる直前のシッダールタをさし、大乗仏教では、覚者になる直前のすぐれた人物、徳のすぐれた人物、悟りを開いた人物などをさし、シッダールタ以外の人物や想像の存在で、この世で衆生済度(しゅじょうさいど、万人の救済)を実践する救済者とあがめられ、実際上は神に近い存在にまでまつりあげられています。観世音(かんぜおん)菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、阿弥陀(あみだ)菩薩、弥勒(みろく)菩薩などの名で知られています。


Q5 『サンスクリット語は古代インドの文語。民衆語に対して「完成された雅語」』と山川の用語集に書いてあったのですけど、とゆーことは、『古代インドはインダス文字とサンスクリット語の2つを持っていて、「インダス文字が民衆語」で、「サンスクリット語が格式高い言葉」だった』とのことですか?

5A いいえ。文字と言語とはちがいます。インダス文字は解読されていない文字で、この文明が滅びるとともに使用されません。その後はちがう文字(ブラフミー文字など)が使われ、時代によって流行る言語によって文字もいろいろ変化したのです。サンスクリット語はアーリア人種の使用言語です。土着の民衆語ムンダ系・ドラヴィダ系言語と区別して、「古代インド=アーリア語」とも呼ぶそうです。ヴェーダに使用された「ヴェーダ梵語(サンスクリット)」は、前7〜後8世紀ごろ「古典梵語(これが典型的サンスクリット)」に変化し、現代にいたるまで学術語としても使用されています。


Q6 グプタ様式の仏像はあるのですか?

6A あります。アジャンタ・エローラに描いたり彫ってあるものがそうです。雲崗石窟の仏像はガンダーラ様式とグプタ様式の二つともあるとのことです。それが龍門石窟になると中国様式に変化したといいます。


Q7 <東京大学1994年度第1問>の解答例に対する質問です。題意は「モンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について論ぜよ」とありますが、陳朝がチュノムを作字したというの入れてもよろしいのでしょうか?というのも、確かにモンゴルの進出に起因しているんでしょうが、チュノムは独自の民族文字と聞いたものですから・・・「融合」や「衝突」のどちらにも該当しない気がするんですが。もし、この文字を書かせたいのなら、問題は「そこにみられた衝突・融合とそれがもたらした影響に触れながら論ぜよ」となるのではないでしょうか?僕はそこ
が一番この問題で引っ掛かるんです!

7A たとえばニッポニカという百科事典には「なお,字喃の起源については諸説があり定かではないが,中国の元朝の侵略を撃退して民族主義が高揚した陳(チャン)朝には字喃で書かれた詩すなわち国語詩が盛んにつくられ,阮詮(グエン=トゥエン)の「披沙集」や朱文安(チュ=ヴァン=アン)の「国語詩集」などが代表作である。」とあります。文化的な対抗意識ですから「民族」の面の「衝突」の例として描いてあってもいいはずです。
 それと「独自の」といっても字喃を実際に見られたらわかりますが、漢字とほとんど変わりません。中国文化との「融合」の例でもあります。問われているのは、モンゴル人の文化の融合・衝突ではありません。モンゴル人が広大な帝国を築いたために、従来にはなかった文化間の交流がうまれ、それが「衝突」になったり「融合」になったりしたものです。


Q8 「イスラーム化」とは「イスラーム帝国の支配」をさすのか。それとも「地域のイスラム教化」をさすのか? 調べると、「インドではイスラーム教改宗者は少なかった」と書いてありました。

8A あいまいなことばなので双方解釈できます。一般には後者の「地域のイスラーム教化」でしょう。中央アジアがイスラーム化した、というばあいは中央アジアのひとびとがイスラム教を信じた、と説明するときに使います。しかし問題の「インドのイスラーム化」という問いならば、支配の拡大のほうが主でしょう。というのはヒンドゥー教が前提である世界で、イスラーム化がイスラム教浸透とはとりにくいからです。また現在からの目もあります。イスラーム教徒はそれほど多くないのを知っているので、イスラーム教パキスタン成立の背景はなにか、ということであってインド全体がイスラーム教浸透とはとりにくいからです。これきイスラーム化の初期の動きのことです。
 インドのイスラーム化とは長い時間(8〜17世紀)をかけた影響です。「化」の指標になるのは三つ、①イスラム政権の支配下に入ること(上の問い)、②イスラーム教信徒が増えること、③イスラーム教との融合文化ができることです。


Q9 ガズナ朝やゴール朝はインドの侵略に成功していながら、なぜデリー=スルタン朝からが「インドの」イスラム王朝なのですか? またゴール朝はイラン系ですか?

9A 前二者はアフガニスタンを根拠(ガズナもゴールも首都名)にしたので、インドの王朝とはいいません。デリー=スルタン朝はまさにインドに首都をおいているのでインドの最初のイスラム教政権とみなします。奴隷朝の創始者クトゥブ=ウッディーン=アイバクはゴール朝の部将でインドを任されていたのですが、主人のムハンマド=ゴーリーが暗殺されたのを機にデリーで独立します。

詳説世界史(山川) アフガニスタンにトルコ人のガズナ朝とゴール朝が建設されてからである。
詳解世界史(三省堂) トルコ系のガズナ朝とゴール朝の軍が、カイバル峠を通って北西部インドヘの侵入をくり返した。
新世界史(山川) トルコ人のガズナ朝とイラン系のゴール朝が勢力をもつようになると侵入は本格化し
改訂版 詳説世界史(山川) トルコ系のガズナ朝と、ガズナ朝から独立したイラン系とされるゴール朝の両イスラーム勢力は、
用語集(山川) イラン系と称するゴール朝

とまあ、いろいろです。同じ山川出版社のものでも二つあるというのが変ですが、従来よりはイラン系が多くなってきたというところです。このように断定しにくいのは、建国者が○○○系であったとハッキリしている場合は、そのまま○○○系とするようです。しかしその部下たちは全部非○○○系だったらどうするのか、という疑問もわきます。当時の王朝は基本的にいろいろいな民族・部族のよせあつめである場合が多く、判然としないのが普通です。「称する」はティムールがチンギスの子孫やと言ったという、この嘘つきの嘘をそのまま信じていいのかどうかも考慮すると、決めがたい。ただ授業では、トルコ人の一連の移動期の中にこれらの王朝も登場するので、いまのところトルコ人としておく、と話しています。
 学問的な結論は、断定できない。どちらでもいい。入試でどちらで出てきても年代や説明文で判断する。もし何系か、と問うた大学には受かっても行かない(-_-;)。そんな問題を出すこと自体が不見識だからです。


Q10 先生の参考書に「キャラコはイギリスの産業革命を刺激した」とありますが、これは少し言いすぎだと思うのですが…。

10A イギリスにキャラコ論争というのがあり、だから英和辞典にのっているくらいの単語 calico です。1700年ちょうどにイギリスではキャラコ輸入禁止法が成立し、それでも入ってくるので1720年にはキャラコ使用禁止法ができるくらいにイギリスにとっては脅威の商品でした。清水書院の教科書に次のようなコラムがありますので、お読みください。
[ コラム25 インド=キャラコとイギリス ]
 物の名には地名に関わるものが多い。日本でも小麦粉のことを,アメリカ産ということでメリケン粉と称したが,同様の例は外国にもある。イギリスでインド産綿布のことを,積み出し港のカリカットの名をとってキャラコ(キャリコ)とよんだのもその一つである、なお,カリカットといえば,1498年に,ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが到達した港市でもある。
 イギリスとインド・キャラコとの出会いは、東インド会社が設立された1600年以降のことである。ヨーロッパ人がアジアに求めた物産としては,香辛料と絹織物・陶磁器が有名であるが,東インド会社はこのほかにも茶・コーヒー・キャラコなどをもたらし,西インド産の砂糖の流入とあいまって,17世紀後半から18世紀のイギリスに生活革命をひきおこすことになった。キャラコに色鮮やかな文様をフリントしたものを更紗といい,インド更紗は古代ギリシア人にも知られていたが,東インド会社がもちこんだのは,インド西北岸のグジャラート地方の更紗であった。当時のインドはムガル帝国の支配が安定し,伝統技術を生かした綿工業がグジャラート地方,ベンガル地方,東南部のコロマンデル海岸などを中心に発達し,都市や港は活気に満ちていた。
 イギリスでは,インド更紗は女性のドレスや下着,テーブルクロス,ベッドカバーなどに利用された。ヨーロッパの毛織物にくらべて,キャラコは軽くて吸湿性に富み,洗濯も容易なことから大変な人気を博したが,その輸入の増大は伝統産業である毛織物工業を圧迫し,政治問題化していった。そこで,議会は1700年と1720年にあいついでキャラコの輸入と使用を禁止する法律を制定したが,かえってキャラコの需要を高める結果となった。香辛料や茶・コーヒーと同じく,綿花も気候の関係でヨーロッパでは栽培できないが,原料の綿花が安く手に入れば,自前で綿布を織ることができる。そう考えたイギリス人によって,紡績機や織機が次々に発明され,産業革命が開始されたのである。


Q11 1905年のベンガル分割令の狙いについて先生は二点挙げいらしたんですが、一つ目のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離、これは教科書にも載っていてよくわかるんですが、二つ目の税制についてようわからんかったので、もう一回説明してもらえませんか……

11A ザミンダーリー制という、ザミンダールという地方の大領主に徴税を任せる方法(手数料がこの領主の懐に入ります)と、ライヤットワーリー制(ライヤットは農民のことで、イギリス側の徴税官が農民から直接徴税する)と二つあり、北部では前者、南部では後者の税制がしかれていました。ベンガルも前者だったのですが、後者のより税収のあがるものに変えようとしたのです。


Q12 山川の教科書p.300の10行目、「大戦中から反英的な姿勢を見せていた全インド=イスラム連盟……」とあるのですが、何が契機となって全インド=イスラム連盟はそんな姿勢をとるようになったんですか。Z会の問題集のリード文にその説明がしてあるんですが、ようわからんし……

12A 全インド=ムスリム連盟の反英性は、第一次世界大戦にイギリスが同じイスラム教の信仰をもつトルコと戦っていることの不満がありました。カリフの運命はどうなるのか、という不安もありました。また自治を約束しておきながら、具体的にどうするのか具体案が何も示されないことの不満。また戦争が長引き多くのインド兵が亡くなったことの不満も。最初の信仰を別にすれば、他はヒンドゥー教徒と同じ不満であり運動を提携してやれるようになったのです。戦争直後は共闘できたと言えます。しかし自治を求めていくとイスラム教徒がその将来の自治国の中で少数派になることは目に見えているので次第に自己主張するようになり、また離れていきます。全インド=ムスリム連盟は1940年にヒンドゥー教徒とは分離した「イスラーム国の樹立」を決議しています。


Q13 イギリスの東インド会社は1858年に解散してインドを直接統治してるのに、インド帝国ができるまでに約20年もかかってるのには何か理由があるんですか?

13A 20年間の意味はあまりありません。インド自体よりイギリスの方で女王を皇帝にしたてる王位称号法ができてイギリス国王兼インド皇帝を名のるようになった、というのが実状です。この形式をだんだん下に降していって、皇帝・帝国への功績ありと認められたインド人にさまざまの名誉称号をおくることでインド人の忠誠心を養うためでした。親英的なインド人を官僚として雇い、帝国の組織にインド人を組み込んでいくのも目的です。国際的な背景は、ロシアの南下にそなえて防衛体制を強化するためでもありました。


Q14 新インド統治法(1935)で自治を認められますが、自治領になるということとは違うのはなぜですか?

14A 新インド統治法の自治は地方の州の自治だけです。インド全体の決定権は英国にありました。つまり全体はイギリス人総督が自由に州知事を任免できます。州の決定もくつがえせます。中央政府はイギリスが握りますから外交権もイギリスが行使します。各自治領では住民の選挙よる代表が集まる州政府(官僚)によって統治されます。イギリスは白人支配のはっきりしているオーストラリア・南アフリカのようなところしかこの完全な自治権(dominion 自治領)は認めませんでした。この自治領は第一次大戦後は外交権も獲得し独立国に等しくなりました。


Q15 ベトナム戦争では北をソ連と中国が支援していますが、その頃ソ連と中国の関係は悪くないのですか?

15A 悪いです。中国は表向きは支援表明をしましたが実際にはほとんど支援の物資も武器も送らなかったようです。北爆(1965)が始まっても、その後に文化大革命(1966-76)があり、中国も支援どころではなかったのです。またこの間、米日と結んだ中国は信用ならないものでした。ソ連は援助しましたが、それほどの量ではなく、ヴェトナムはほぼ独力で勝利した、といっていいようです。ソ連にとってヴェトナムはあまり意味のない地域だったためです。社会主義国同士は冷たいものです。


16Q 「南ヴェトナム解放民族戦線」のことを「ベトコン」と呼ぶのは差別表現であり使ってはいけないと先生に言われたことがありますが、どうしてなのかよく分かりませんでした。なぜなのですか?

16A 「ベトコン(ヴェトコン Viet Cong、Vietcong)」と表現しても差別になりません。すでに解散した組織であり、この表現によって今は誰も差別を感じませんから。ヴェトナムのホーチミン・ルートのヴェトナム人観光案内が外国人向けに使ってもいる表現です。確かにはじめは内実がわからず、南ヴェトナム解放民族戦線を純粋にゴ=ディン=ディエムという南の独裁者に対抗して南だけでつくられた民族主義者らの自由を求めた組織であると信じられていました。この時期、アメリカがこれをヴェトナムのコミュニスト(共産主義者)と決めつけて呼んだアメリカ側からの蔑称表現でもありました。しかしこれは今は的をえた表現であったことが判ってきています。
 「1959年、ベトナム労働党中央委員会の第15回会議で解放戦線の結成を決定したのでしたね」という問いに対して、ファン・バン・ドン元首相が「そうです。同時に、南の全人民を動員して抵抗運動に立ち上がらせることも決定しました。それは一斉蜂起運動です」と。結成の決定は労働党つまり共産党が1959年1月13日に秘密裏におこないました。この組織の結成年は一般に1960年となっていますが、くわしくは1960年12月20日です。約2年かけて南での結成に動いたということです(『社会主義の20世紀』第5巻・日本放送出版会)。メンバーの多くが共産党員であるにもかかわらず隠して参加したことは歴史家たちも認めるところです。
 ベトコンという用語を説明すべき語句としてあげている主なものをあげると、大修館の辞書『GENIUS』、『国語辞典』(集英社)、『広辞林』『ハイブリッド新辞林』(共に三省堂)、『京大新編東洋史辞典』(東京創元社)、『世界史小辞典』(山川出版社)、『詳解世界史用語事典』(三省堂)の索引では、「南ヴェトナム解放民族戦線」に括弧を付けて(ベトコン)と入れています。
 教科書も内実が分かるにしたがって説明文を変えてきています。「反政府の南ヴェトナム解放民族戦線が結成された」(詳説世界史、山川出版社、昭和56年版)、「北の支援をえて、1960年12月に、南ヴェトナム解放民族戦線を結成した」(詳解世界史、三省堂、平成7年版)、「ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)の支援を受けて、60年ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に南ヴェトナム解放民族戦線が結成され」(詳説世界史、山川出版社、1997年版)という具合です。君の先生は学生運動に加わったことがあり、いまもその時の頭のまま時間が経過していない方なのでしょう。


Q17 ソンミ村虐殺事件とはどのような事件でしょうか?

17A 1968年3月、アメリカの海兵隊が南のソンミ村を襲い、無抵抗の農民500人を虐殺した事件で、虐殺が明るみにでると、米国内でベトナム反戦運動が高まる契機となり、テト攻勢(1968)とともにジョンソン政権にダメージとなりました。


Q18 シンガポールはマレー連合州、マラヤ連邦に加盟していたのでしょうか。

18A 前者はいいえ、です。シンガポールは海峡植民地の一部として連合州(1895)とは別個に存続しました。第二次世界大戦後、海峡植民地は解体され、ペナンもマラッカも海峡植民地から離れてマラヤ連邦(1957)に含められましたが、シンガポールは単一のイギリス植民地でした。それが1963年、マレーシア連邦の結成に一州として参加します。このマレーシア連邦から65年に独立する、という過程です。


Q19 ヒンドゥー教の基礎となっているカースト制が東南アジアにも定着したという話は調べても見つける事が出来ませんでした。なぜ?

19A 確かに。カースト制度はアーリア人がインドの先住民を差別するためにつくったものですから、東南アジアにアーリア人が入れば、つくったかも知れません。しかしこの侵入はありませんでした。


Q20 カースト制無しにヒンドゥー教は機能したものなのでしょうか?

20A まずカースト制度というのは長い時間をかけて出来たもので、インド商人が東南アジアに入っていく2〜4世紀のころ、カースト制度(2種類あり、ヴァルナ制とジャーティ制、前者が4身分、後者が職業別に3000種類)といっているものはジャーティ制のことで、東南アジアに商人が入った頃でもまだインドにこのジャーティ制はできていませんでした。まだできあがっていないものは入ってこれない、ということです。ましてヴァルナ制という上から順にバラモン・クシャトリア・ヴァイシャの上位3身分はどれもアーリア人です。
 機能面は多神教の東南アジアに別の神々としてヒンドゥー教の神々や物語が入ってきました。つまり東南アジアにはヒンドゥー教の根本経典たるヴェーダが入ってきていない、という欠点もありました。多神教の一つとして機能し、また物語は演劇・舞踊・影絵として今も生きてます。
 また職業別の複雑なジャーティ制は都市の発達した地域でできあがったものなので、人口の少ない東南アジアの地域には育ちようがなかった、という環境もあります。


Q21 『練習帳』別冊「基本60字」の32ページの16世紀のムガル帝国の支配体制についての問題です。解答ではマンサブダールが徴税権を持っていて給与は与えないと書いてあります。しかし私の持っている『タペストリー』という資料集にはマンサブダール制は皇帝が軍人・役人に俸給を与え、皇帝が農民から直接地租を徴収するという図が載っています(写真を添付しました)。これらは矛盾していると思うのですがどちらが正しいのでしょうか。

21A 添付された図のアクバル帝にマンサブダール制とあり、皇帝が「任免・俸給」を「軍人・役人(官位をもつ)」に与えることになっています。「俸給」が具体的に何を意味しているのかが、ハッキリしません。さも皇帝が農民から徴集した現金を給付するような図になっていますが、これはまちがいです。給金をあたえるのでなく、徴税権を給与代わりに与えるもので、じっさいに農民から徴集するのは軍人・役人たちです。徴税する土地のことをジャーギール(地)といいますので、土地の所有権はないけれど、そこの収穫物をとりあげる権利(地租の徴税権)をもらうのです。

 ジャーギール(地)は位階(マンサブ)に比例して与えられたので、ジャーギールダール制はマンサブダール制と表裏一体であり、マンサブダール(マンサブ保有者)はジャギールダールでもあったのです。

 東大系の学者が編集した『イスラーム辞典』(岩波書店)はマンサブダールのところで次のように書いてます。

マンサブダールはマンサブ(職責)に応じて、俸給額と維持すべき騎兵軍団の規模とを定められた。俸給は現金給付ないし地税の分与であったが、ほとんどの場合、後者が行われた。これがジャーギールであり、その保持者をジャーギルダールという。

 またジャーギールのところでは、

高官・武将が土地から受取るべき一定の税収権、およびその土地。アクバル時代中期にムガル官僚制が整備され、マンサブを得たマンサブダール個人の給与やその保持すべき兵士・騎馬の手当は、一定の土地から上がる税収でまかなわれるとととなった。現金で給与・手当を支払われるマンサプダールは少なく、大部分のものは数か所に分散した土地から上がる税収が、給与・手当に見合うようになっていた。

 と書いてます。つまりはイクター制と同じです。割り当てられた土地の税収が給与になるということです。言い方を換えれば、地方官僚(総督)は徴税官を兼ねる、ということで、役人の数を少なくする方法でもあります。
 右側の図のジャーギール制はなにか勘違いした図です。アウラングゼーブ帝の変化は徴税請負制を始めたことです。徴税請負制は一定の地域を一人の大領主(ザミーンダール)に任せて徴収する制度ですが、これは官僚による(中央集権的)支配がうまくいかなくなった時に生まれてくるもので、アッバース朝でもムガル帝国でも衰退期に現れるものです。中央に入ってくる税収は全額の20%ですが、入らないよりマシ、という制度です。これをとくにジャーギール制とは言いません。


Q22 山川の「詳説世界史B」P.290の「インド大反乱とインド帝国の成立」という章で「19世紀前半のインドは、税負担の増加による経済的疲弊がすすみ、沈滞した状況が続いた。19世紀後半にはいると、“世界的な経済活動の回復”と連動して、インドにおいても少しずつ経済回復の動きがみられるようになった」とあります。ここでの“世界的な経済活動の回復”という記述がよくわからないのですがこれはどういうことなのでしょうか?

22A p.256に「産業革命は大陸諸国にも広がり、近代工業への移行が開始された。1848年革命とクリミア戦争後、列強諸国が国内問題に専念するあいだ、イタリア・ドイツは統一国家樹立に成功し、19世紀後半には新しい形で列強体制が復活した。一方、ヨーロッパの干渉を排除したアメリカ合衆国は南北戦争後産業の急速な成長と太平洋岸までの開拓をはたした。」
 この時期のことです。1848年革命で混乱はありますが、それが終わるとヨーロッパ全体が政治的な騒乱は少なくなり、とくに1850年代は鉄道ブームといわれヨーロッパ中に鉄道が敷かれ、流通が盛んになり、また1870年まで産業革命の全欧で展開しました。独伊とも国内統一は鉄道を敷きながら実現しました。つまり産業革命の進展と国内統一が同時進行した、ということです。
 『詳説世界史』のp.244の下の表をご覧になると、1851年の人口増加があげてあります。イギリスはすでに1830年頃には産業革命は完成しましたが(完成とは、当時の技術で手工業は機械工業に変わった)、他の国々にこれが普及します。1844年にイギリスは機械の輸出を解禁しましたから、この先進国・イギリスの機械を買って他国がイギリスに追いつけと機械化をすすめた時期でもありました。これらが50年代以降の繁栄につながりました。1851年にロンドンで第一回万国博覧会、パリでは1855年に第二回万国博覧会が開かれています。これは当時の経済発展を示す陳列場でした。
 『国際経済入門』(東洋経済新報社)という本には、「1800-1913年の間……同期間の一人当り貿易の伸び率は10年間に平均33%であった。ことに1840-70年の伸び率は、貿易全体をとっても、一人当りをとっても、最高であった。この結果、世界全生産高に対する世界貿易額(輸出入合計額)の比率は著しく上昇した」という風に書いています。


Q23 アショーカ王の磨崖碑、石柱碑の位置についてですが、山川教科書p57の地図を見ると、これらは、国境にあるのですが、異民族対策のためもありますか?または、川の辺りにあるから、水脈の目印か?または、マイルストーン的なものですか?

23A 支配領域を示しています。置かれた場所は古代の通商路や巡礼地に一致する、という説明(ウィキペディア)も同じです。ハンムラビ法典の発掘地スサもバビロン第一王朝からすれば辺境地ですが、そこまで支配したことを示しています。


Q24 2006年度東大過去問の第二問の(1)が要求する文化的側面について:スーフィーの活動というのは、問題の要求する「カイバル峠を通るルートによる」定着過程に入るのでしょうか? 『世界史アカデミア』や山川『詳説世界史』などを参照いたしましたが、記載がございませんでした。むしろ、帆船がスーフィーの活動に貢献した、といった記載がありました。

24A イエス、が回答です。以下の記事は主に東大系の学者が編集した『イスラーム辞典』(岩波書店)を利用しました。
理由① カイバル峠(アフガニスタンとパキスタンの国境線)を通って、ということは(イラン→)アフガニスタン・パキスタン・北インドへというルートになります。スーフィーの中心地の一つがヘラート市でした。アフガニスタンの西部にある都市です。ここで活躍したスーフィーの神秘主義者としてアンサーリー=アブドウッラー(1005-89)という人物が知られています。
理由② アム川の北シル川の下流域にホラズム(パキスタンの西)という地方があります。そこにナジュムッディーン・クブラー(1145-1220)という著名なスーフィーがいました。スーフィー教団の一つしてクブラヴィー教団の名祖であり、はじめハディース学者として各地を遍歴して学んだのですが、その途中でスーフィーとなり、ホラズムに戻って没するまで同地で過した、とあります。
理由③ 上と同じシル川の近くの都市テュルキスタン(トルキスタン)市には、12世紀のスーフィー聖者ヤサヴィー(1103-1166)の聖廟があります。
理由④ ブハラ市というアム川中流の都市(イブン=シーナーの生地)にナクシュバンド(1318-89)という人物がいます。著名なスーフィーでイスラーム世界全域に広がるナクシュパンディ教団の名祖でもあります。かれの死後はブハラの守護聖者として尊崇されるようになりました。
理由⑤ デリー=スルタン朝はカイバル峠を通過して南下したトルコ人が、インド北部に建設した諸王朝でしたが、この時期にイスラーム教が浸透します。かれらの寛容策もさることながら、スーフィーたちの活動もあり浸透しました。
理由⑥ パンジャーブ地方(パキスタン北部)におきたシク教が偶像祭祀を禁止し、苦行やカースト制度を否定したのは、スーフィーの影響とされます。また、グルドゥワーラー(シク教寺院)での祈りの後、信徒たちが一堂に会食する、ランガルという習慣がありますが、どれも平等意識のシンボルとしてスーフィーたちの始めたものだそうです。
 これらのことから、カイバル峠を通ってスーフィー(人と主義)が普及したことは否めない、とおもいます。もちろん海路は商人たちの通路でもあり、海路から伝わったことは当然あることでしょう。しかし陸路も否めないはずです。

疑問教室・朝鮮史

朝鮮史の疑問
Q1 高麗では10世紀に武人、豪族に代わって両班が台頭したとありますが12世紀末に軍人(武人)が政治の実権を握ると教科書に書いてありますが両班が衰えてしまったのですか?
武臣と武人はちがうのですか?

1A 高麗は科挙を採用しますが、科挙の合格者たる両班はまだ実権をにぎっていません。科挙を採用しても新羅以来の有力者・貴族の子弟でなければ官吏になる道は閉ざされていました。さらに高麗政府の信仰は仏教(禅宗)であり儒教ではなかったのです(『高麗版大蔵経』)。
王建は豪族連合政権として出発したため、4代目の光宗(位949〜975)になって豪族・軍人を抑制するために科挙を始めました。しかし5代目の景宗(位975〜981)になると、豪族たちは合格した高官たちを殺し、豪族の子弟を高官にして実権を握り、高官は恩蔭(朝鮮では恩叙といいました)といって無試験で高官になれるようにしました。表向き文班の支配ですが、中身は豪族で、これらが特権層になるので韓国の教科書では高麗を「貴族社会」と説明しています。この表向き文治主義の支配も12世紀には武班(武人)に奪われることを日本の教科書はどれも書いています。つまり中国的な文官支配はほぼなかったといっていいのです。日本の専門家も高麗時代は李朝で両班の支配が確立するまでの過渡期ととらえています。旗田という朝鮮史の専門家は高麗は新羅と李氏朝鮮の間に位置する「未熟な官人国家」と呼んでいます。荒巻著『世界史の見取り図』(ナガセ)の中には、高麗の科挙採用を、「新たな支配層となる科挙官僚=両班が登場します」として両班支配ができたかのように書いてしまっています。そのことを後でも、「李氏朝鮮の支配層は両班です。高麗と変らないんだね」と念を押しています。これは、まちがいです。
 武臣と武人は同じです。武班でも同じです。ただ高麗時代はまだ武科挙(武術・戦術の試験)はなく、文人だけの科挙しかなかったようです。文科挙に合格した者が官僚になる機会は生まれました。儒教の伝統で文班がいばりだすと武人としては我慢ならなかったのでしょう。


Q2 『論述練習帳』の知識篇の朝鮮史の3番に、日本は不平等な日朝修好条規を強制して開国させ、従属関係に変えたと書いてありますが、どのような点から従属関係といえるのですか?教えてください。

2A 日朝修好条規の、「第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」と書きながら、この第一款と矛盾する「不平等」とされるものは、(1)日本の領事裁判権(第10款)、(2)無関税(日朝往復書翰)、(3)開港場における日本貨幣の使用(付録第7款)の三つです。第一款にしてもねらいは何も平等に朝鮮とこれからつきあいましょうという確認ではなく、中国の支配を排除することがホンネです。だから日清戦争の下関条約でも、日朝修好条規に反発していた中国に対して、まず何よりも、第一条でこのこと(朝鮮自主)をくりかえさねばなりませんでした。日本の軍艦6隻を江華島に突き付けて結ばせた条約が平等であるはずはありません。 


Q3 なんで朝鮮の政権が上海に樹立されるるんですか。ある解説に「大韓民国臨時政府の初代大統領に就任したのは若き李承晩で上海で樹立宣言が行われたが、戦後の大韓民国にはつながらなかった。」と。ん〜っわかったようなわからんような……。

3A 当時は日本の植民地だったからです。亡命地でつくったということでしょう。三・一独立運動に刺激されて、国内外の独立運動家たちが上海に参集してつくった亡命政府です。李承晩はこの臨時政府の国務総理に推され、ついで大統領にも就任します。またワシントンに臨時政府欧米委員部を開設しています。外から、日本の支配を認めないぞ、いずれわたしたちの時代が来るのだと待ち構えていたわけです。


Q4 一橋1992年の第3問(イ)で、「05年から抗日義兵闘争が激化」と先生の解答にありますが、旺文社の『世界史事典』には、「1905年の第二次日韓協約以来の日本の対韓植民地政策に対する朝鮮官民の反抗が、1907年の韓国軍解散を契機に激化し」とありました。

4A どちらで書いても問題ないです。というのは義兵闘争は19世紀末からあり、それは併合後も続いてたので、どこで「激化」を言うかは諸説あるからです。大学教授は「諸説」を知っていますから、どちらで書いても可としてくれます。

 東京書籍の教科書では、
1905年ソウルに韓国統監府を設置して、露骨な内政干渉を開始した。そのため韓国では義兵闘争(反日武装闘争)が激化した。1907年に日本が韓国の軍隊を解散させる(第3次日韓協約)と、義兵闘争は全国に広がり……

 山川の用語集では、
反日義兵闘争 ⑨ 朝鮮民衆の反日武装闘争。閔妃殺害事件後の1896年に初期義兵闘争がおこった。1905年以降にふたたびおこり、07年の朝鮮軍解散の強制でいっそう激化した。朝鮮全土に広がり、ほぼ10年間各地でゲリラ戦を展開して、日本の統治を困難にした。

 2014年に出た新用語集では次のように書き換えています、
義兵闘争 ⑦ 朝鮮民衆の反日武装闘争。朝鮮では、1895年の閔妃暗殺と開化派政権による断髪令への反発から、翌年、各地で儒学者を指導者とする義兵闘争がおこった。一般民衆をも指導者とする義兵闘争は1905年の斡国保護国化後に始まり、07年の第3次日韓協約による韓国軍解散に抗して兵士が合流し、全土で14年頃まで統いた。

 ここには激化ということばはありませんが、指導者が誰かということに重点をおいた説明になってます。


Q5 植民地化した朝鮮の近代化のために、多額の日本の資金を投入したので、それを返してほしい、という講師がいましたが、先生はどうおもわれますか?

5A 「朝鮮の近代化のために」というところが怪しいですね。植民地にした国のために、という目的は植民地化した国の第一の目的であるはずがないでしょう。イギリスはインドを第一に考えて植民地化したおもいますか? フランスはアルジェリアの近代化のために植民地化したのですか? どこも自国のためでしょう? 「植民地」は自国に利益をもたらすはずとして植民地化する、という当たり前のことが分かりませんか?
 次のサイトに朝鮮近代化と日本の関係について説明しています。お読み下さい。

Q&A 4 日韓関係・植民地支配 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任 - 東アジアの永遠平和のために

疑問教室・中国〔明朝以降〕

Q38 明清間に貿易の発展と農民の没落が東南アジアへの移民につながったとありますが、農民はどうして没落したのですか?

38A 経済発展はすべてのひとが豊かになることを約束しません。発展のためにアップ・ダウンが激しくなるのが人間の世界です。二つ原因があります。
 まず明朝の里甲制の崩壊があります。里甲制の中では、たとえ土地所有に格差があっても負担(里甲正役雑役といいます)は同額となっており、それは小土地所有者に重くのしかかります。納税ができなくなると、土地を牛を妻を売りにだすことになり、とうとう逃亡か自殺かという末路が待っていました。小作人になったとして、1年の収穫は家族が1年分くっていくぐらいしか取れないのに、小作料は半分以上というきびしさです。副業の棉花栽培・養蚕(ようさん)・絹織物などを兼業してなんとかしのいでいる。棉花も一部は地主に小作料として取られ、残りを棉花商人に売るのです。綿糸をつくるものは綿糸を売り、その金で棉花を買ってかえる、という自転車操業(働いただけしか収入がない)です。蓄積する余裕がありせん。農民はますます商人への依存度を深め、ピンはねされる額も多くなっていきます。農民は商人たちを「殺荘」と呼びました。また国家への負担がこれに加わります。「税や徭役を銀で換算し、一括して納入する一条鞭法が普及し、これが農村の商品生産に拍車をかけた。農民は銀を手にいれるために商人への依存を強め、……農民の生産を圧迫して中小農民の没落をまねくとともに、地主への土地の集中をうながした。」(詳解世界史)。この銀納のために不利な条件であっても生産物を銀に交換しました。収穫物・土地を担保にしてでも借りねばならないものもおり、結果として収穫物・土地もとりあげられます。


Q39 軍機処と理藩院はどうちがうのですか?

39A 軍機処は参謀(さんぼう)部(作戦・用兵の計画を協議する機関)でありジュンガル部を討伐するために雍正帝(ようせいてい)が設けた軍需房(ぐんじゅぼう)が発展したものです。ただ後に内閣の上にだんだん位置づけられ、内閣に代わる組織として内政問題も話す実質皇帝の諮問(しもん)機関(アドヴァイス機関)、かつ国政の最高機関となります。内閣や六部の大官から任用された4〜5人の軍機大臣がでむいて皇帝のもとで下問(かもん)に答えたものです。ここでも満漢偶数官制の原則は保たれたらしい。
 理藩院はそこまで上昇することはなく、あくまで藩部(はんぶ、間接統治地区である蒙古・新疆(しんきょう)・青海・西蔵(せいぞう、チベットのこと))を統括するための外務省です。はじめはホンタイジ(清の2代目の太宗)が蒙古を平定して蒙古衙門(もうこがもん)を設けたのが起源です。1638年に理藩院と改称されます。1659年には礼部(外交と教育を担当)の管轄下にはいり、1661年には独立の官庁となります。1861年に設けられた総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)は欧米との外交をあつかう官庁で、藩部とはまた別の外務をあつかうことになりました。


Q40 教科書によると「蒙古衙門が後に理藩院になった」とあったんですけど、ホンタイジの頃に作られた蒙古衙門と乾隆帝の頃の理藩院とでは、名前が違うだけなんですか? あと、理藩院は誰の頃に作られたか?ってな質問の答えって、乾隆帝。でイイんですか?

40A 蒙古衙門がのちに理藩院と名前を変えます。はじめはチャハル部を平定して、そこだけを管理するためにつくった役所です。のちに4藩部(蒙古・青海・新疆 ・西蔵)の四つを統括します。
 理藩院は誰の頃に作られたかの答えはホンタイジです。
 立命館の問題に「理藩院は藩部を治める役所という意味で、1638年に設置されたが、当時の藩部は今日のどこにあったか。地域名を記せ。」というのがあります。つまり「1638年」はホンタイジの期間です。ホンタイジで理藩院ということばを使って出題しています。


Q41 清の時代に、女真人が辮髪を漢民族に強制してましたが、辮髪って、髪の毛が足りなかったらどうしてたんでしょうか???
資料集とか教科書とか見たら、めちゃくちゃ髪がないとできそうも無い髪型なんですが。
相撲の大銀杏は、髪がたりなくて結えなくても、そのせいで引退ということはないらしいですが。

41A 面白い質問ですね。
 魯迅のいろいろな小説の中には、かつらを使ったという話しは出てきます。足りない分を結んで追加することもできますし、頭のうすい人でも天辺がうすいだけで、周辺の髪の毛は普通人と同じように生えるはずですから大丈夫だったのでは……と想像しますが、知りません。次の辮髪のことを詳しく書いているHPでお尋ねになられではどうでしょう?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/benpatu/bebebebenpatu.html


Q42 中国人宣教師によって中国からヨーロッパにあたえた影響について、①朱子学→啓蒙思想 ②科挙→文官任用制度 ③シノワリズムの流行 ④中国美術→ロココ美術へ影響を与えた これ以外にもあるのでしょうか? あと飲茶の風習もこのときにつたわったのですか?

42A 他には、ライプニッツは易経の内容から単子論をおもいついたとのこと、ヴォルテールが孔子崇拝(理性的性格)をしたことも有名です。ケネーは中国は農業を重視している知り、それに刺激をうけて重農主義を唱えたとのことです。また陶磁器はマイセン磁器として模倣されます。 ロココ宮殿にシナ風庭園がつくられたことも影響です。茶はイエズス会士ではありません。名誉革命のときにオランダ(日本と貿易)からメアリ2世とウィリアム3世の夫婦がイギリスの宮廷にもちこんでからです。もちろん18世紀にイエズス会士が茶について言及はしているとおもいますが。
 清水書院の教科書の記事に次のようなものがありました。
コラム21 中国と西欧の文化交流
 アジア・アフリカ諸国は、19世紀以降になると、ヨーロッパの軍事力の侵略的脅威に直面し、西洋化を軍事面からうけいれざるをえなくなる。軍事面から始まった西洋化は、制度・政治・社会・思想などの変革に進む。しかし、アヘン戦争が始まる前の中国とヨーロッパは、文化面で互いに刺激しあう関係を保ってきた。
 明末、マカオを基地としたイエズス会の宣教師マテオ・リッチは、科挙を通じて官僚となる知識階層(士大夫)に、数学・暦法等の自然科学の知識を紹介して信頼を得、キリスト教が中国で布教できる道をひらいた。明の高官徐光啓など改宗した士大夫は、自然科学の本を漢訳し、当時近代自然科学を確立しつつあった西欧の科学知識を伝えた。以来、学才優れた宣教師が明末清初に訪れ、暦法を司る天文台の長官に抜擢され、ユークリッド幾何学などの数学、医学・鋳砲術・機械学・地図・絵画・音楽を宮廷に伝えた。康煕帝、乾隆帝は彼らの才能を愛した。乾隆帝が新疆征服を記念して宣教師カスティリオーネらに戦勝図を描かせ、それをパリで銅版印刷させたことなどは当時の中国と西欧の緊密な文化交流を示す一例である。しかし、宣教師のもたらした知識も宮廷内にとどまり、近代的な社会発展の方へとは結びつかなかった。
 一方、ヨーロッパには宣教師が多くの報告書を書き、マルコ・ポーロ以来情報が閉ざされてきた中国を紹介する本が出版されるようになった。フランスを初めとする絶対主義の宮廷・サロンでは、中国への憧れからシノワズリー(シナ趣味)が流行した。ただし、江戸時代の浮世絵が印象派に大きな衝撃を与え、美術の新主張(ジャポニスム)を生んだような影響にはいたらなかった。また、中国・日本陶磁器への需要・模倣からオランダのデルフト陶器、ドイツのマイセン磁器が重要な地場産業として発達した。それ以上に、理性と倫理性を説く孔子の中国思想が、理性を重んじた当時の中心思想である啓蒙思想にあい通じ、ドイツ人哲学者ライプニッツや、フランスの啓蒙思想家の大立者ボルテールらの哲学・思想形成に少なからず影響を及ぼした。


Q43 清朝の支配に打撃を与えたイスラーム教徒の反乱って何すか?

43A 問題文にはどんな時間設定がされているのでしょうか? もう少し設問の周辺の文章があれば特定できます。というのは清朝時代のイスラーム教徒の乱はたくさんあり、大きくは西方と南部でありました。甘粛丁国棟の乱(1648〜49、順治5〜順治6)、1781年(乾隆46)と1784年(乾隆49)の甘粛新教徒の乱、道光年間(1821〜50)に頻発した雲南回民の乱、1854〜73年(咸豊4〜同治12)の雲南回民、いわゆるパンゼー(Panthay)の乱、1862〜77年(同治1〜光緒3)の陝西・甘粛・新疆にまたがる反乱、そして1895〜96年(光緒21〜光緒22)の甘粛でのサラール族・回民の反乱がおもなものです。


Q44 「清の時代、銀は便宜上馬蹄形であった。」という記述がありました。この時代の銀は秤量貨幣として重量を一定にした通称「馬蹄銀」という形態での流通が一般的でした。「馬蹄銀」と一口に言っても重量、形状は様々であり一般の感覚の「馬蹄形」とは異なります。いずれも銀を精錬し、検定マークの極印を打ち込んだものでした。何故、馬蹄形にする必要があるのでしょうか。

44A 今ひとつハッキリしません。形の由来はどうやら製造過程と関係しているようです。
 小学館のニッポニカには以下のような部分があります。
 「清代には分銅形の中がへこみ両側の耳とよばれる部分が高くなって馬蹄形が多くなった。これは、坩堝(るつぼ)の中で銀を溶かし攪拌(かくはん)して皺曲(しゅうきよく)をつくり……」と。
 このつくり方にあるようです。さらに、上から製造所の印が押されていますが、この印を押すときにへこみができて周りが盛り上がるのではないか、と見ています。また重さを調整するためにハサミで耳にあたる部分を切り取るのにも便利だったのではないか……。推測にすぎません。もしもっとハッキリしたことが分かればお伝えします。


Q45 南京木綿ってなんですか?

45A  三角貿易の南京木綿は中国で生産されている綿布で、南京港から輸出された商品であることから「南京木綿 nankeen 」と呼ばれました。孫文が「三民主義」の中で土布(どふ、中国で生産された土着の布)と言っているものです。これが安くて強い布であるため、イギリスの綿布を中国人は買ってくれない。でかい中国市場に期待をかけていたのはマンチェスター(産業革命の中心都市)を主とする綿工業の人たちでしたからガックリしていました。貿易業者も綿布を売って、その代金で茶を買って帰るというわけにはいかなかった。それでアヘンの登場となったのです。この後のアロー戦争でえた、より多くの港の開放でも結局イギリスの綿布はこの南京木綿のために売れません。なんとか売れたのは綿布という製品でなく、綿糸という原料にちかいもので、この綿糸は、機械で作ったもののほうが強くもあり次第に中国原産のものより売れだします。


Q46 予備校では、乾隆帝の『広州1港に限定』も経済上の問題という従来の考え方に加えて、典礼問題の一環としても習いました。つまり、雍正帝がキリスト教布教を全面禁止した後、それでも宣教師たちは今度は商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教していたということから、乾隆帝は宣教師らの排外を徹底する意味合いもあり、広州一港に貿易港を限定し、かつ政府管理下の によって監視した、ということでした。おかしいでしょうか?

46A 宣教師の「商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教」は確かめようがありません。中央公論の最新版の解説書には広州一港に限定した理由を、慣習的に広州に来ていた外国船(一番の客は東インド会社船)は関税のほかに広州役人の手数料やつけ届けがばか高くて嫌になり、負担の軽い寧波の港に行ったりしたため、広州役人が訴えたのと、あちこちの港に外国船が自由に出入りするのは治安上よくないということで広州一港に限定した、と説明しています。


Q47 中国の関税自主権はいつ、何の条約で奪われたのですか?

47A 1843年の 虎門寨追加条約によってです。


Q48 上海の租界の支配は「フランス」とあったのですけど、いつイギリスからフランスへ代わったのですか?

48A 上海には各国の租界があり、イギリスだけもっていたのではありません。日本ももっていました。


Q49 この問題文は、「イギリスの進出のもとで、」と、句読点で区切られてはいますが、条件が、19世紀の印・中の歴史の推移という要求に付加されています。なので、清仏戦争・日清戦争・変法運動・義和団事件は、条件である、イギリスの進出のもととは言い難くありませんか。仮に上記の語句が必要ならば設問は「列強の進出のもとで」とあるべきだと思います。

49A たしかにそのような疑問を抱くのは自然です。ただこの条件はあくまで副問であることです。比重はイギリスにはなく、進出された側の歴史がどうなったのかが主問であり、イギリス進出史を書けとの要求ではないことです。両国に共通するイギリスの進出がきっかけ(契機)となって両国はどうなっていったのか、ということです。すべての19世紀の両国の歴史をイギリスとかかわらせよ、という要求の問題ではない、ということです。もしそうであれば、イギリスの進出は両国の歴史とどう「関係」したのか、という問題でいいはずです。もっとイギリスと両国が対等な関係史であれば、疑問のとおりでいいとおもいます。
 それでもしつこくイギリスと中国との「関係」を追求してみてもいいです。インドの場合はイギリスの植民地になりましたからイギリスの進出のもとにあることは明らかですが、中国の場合は明らか、と言うほどではありません。アヘン戦争・アロー戦争はハッキリしていますが。ただ教科書には書いてないですが、いくつかの事例をあげます。
 アヘン戦争以前のアヘンの流入・銀流出は前提としておきますが、この主たる国はイギリスです。これは教科書に書いてあります。
 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリスでした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。清末には李鴻章と対立しましたが。
 太平天国の乱を鎮圧したのは事実上イギリス(ゴードン)でした。これがきっかけで洋務運動、つまり常勝軍をつくりたいという運動がおきます。洋務をあつかう役所として総理各国事務衙門 (総理衙門) が新設されました(1861年)が、 この新設衙門が軍機処などの従前の政治機構を超える地位を占めていきます。 洋務運動の技術の技師と機械はイギリスにたより、その経費は海関からきていました。総税務司ハートは総理衙門の下にいて使われる立場でしたが、実際はこの衙門(役所)から自立していました。
 香港島からはじまる香港形成が19世紀末まであり、このHongkongがアヘンの輸入・銀流出の相変わらずの基地となり、苦力の出発地でもありました。中国に対する最大の投資国もイギリスでした。投資対象はとくに鉄道です。鉄道は中国分割の最大の手段でした。それとともに鉄道附属地(Railway zone)という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域の設定も認められていました。この附属地の鉱山・港湾の開発もやりました。清朝の借金した最大の貸し手がイギリスでした。
 清仏戦争・日清戦争の賠償金もイギリスを中心とする外国借款でまかないました。
 義和団事件に対する賠償金をあつめ管理・分配をしたのは総税務司ハートです。清朝は「洋人の朝廷」と皮肉られましたが、その洋人とはイギリス人のことでした。


Q50 アヘン戦争後イギリスは、中国に対して南京条約を結んで中国南部の港の開港などを認めさせるとともに、翌年の虎門寨追加条約で協定関税などをも認めさせ、中国に対する貿易の拡大を目指しました。しかしイギリスは、「戦後の交易でも…期待したほどの利益はあがらず、不満をいだい」た(『新課程詳説世界史』p.p.253-254)ためにアロー戦争を起こした、と教科書には説明があります。この部分は、アヘン戦争後にイギリスの機械織りの綿織物製品などが中国に流入したものの、中国ではあまり売れなかったので、これを打開するためにイギリスが中国への更なる戦争に踏み切ったことを意味した文であると小生は理解しております。
 しかし一方で、同じイギリスが植民地化したインドにおいては、よく知られておりますように19世紀前半以降イギリスの機械織綿布がインド製品を圧倒して、インドの綿織物手工業が壊滅的な打撃を受けております。
 こうした中国とインドの相違はどこにあるのか、すなわち、なぜインドでは国内の綿織物手工業が壊滅するほどにイギリスの機械織り綿製品がどんどん流入したのに、アヘン戦争後の中国ではイギリスの機械織り綿製品があまり売れなかったのか、その理由を知りたいというのが質問の内容です。

50A わたしはこの理由をつぎのように説明しています。
 インドではなによりイギリスはインド産の綿布に高関税をかけて輸出を阻止する政策をとったこと、また機械による大量生産品に手織りのインド製品は対抗できないこと、また征服した土地における綿織物工場を破壊したり、腕の良い技術者の腕を文字どおり切っていったり、などの理由で、インド綿工業を壊滅させた、と。『詳解世界史』に「世界に冠たる織物の町」として知られたダッカの人口は15万から3万に激減した。インド総督ベンティンクは、1834年「織工たちの骨がインド平原を白色に化している」と本国に報告している、という記事がのっています。
 中国ではインドのような征服戦争はできませんでしたし、なにより中国にはイギリスに対抗できる南京木綿(ナンキーン nankeen)があり、安価でもあったため、イギリスの商品を中国人は買う気もおこらなかった。綿糸という機械でつくった方が強くていいものができるので綿糸は次第に中国産を圧倒していくが、綿布は結局20世紀にはいっても勝てなかった、ということです。
 だいぶ前に読んだ本ですが、加藤祐三著『イギリスとアジア−近代史の原画』岩波新書にこうしたことが書いてあったはずです。


Q51 太平天国の乱に乗じてアロー戦争…とありますが教科書では両者の関係について書かれていません。アロー戦争の勝因に太平天国の乱は関係していたのでしょうか? あと太平天国の乱では清朝側に常勝軍として欧米の義勇軍が参加していましたがその中にはゴードンという英人も参加していましたが、一方で同時期にはアロー戦争で英は清朝と戦争をしていました。一方では清を助け、もう一方では清と戦争するということに矛盾を感じるのですがどういうことでしょうか? 

51A アロー戦争の勝因に太平天国の乱は直接的には関係していません。もともと軍事的な面で清朝は英仏に対抗できる状態ではありませんから太平天国がなくても勝てません。ただ内乱で困惑しているところを突いたという点は英仏に有利な状況であったでしょう。
 太平天国は1850〜64年で、アロー戦争が1856〜60年という風に間にはさまっています。太平天国をキリスト教的な運動とみなして天国側に参加した西欧人もいました。英仏全体としては中立の立場でした。しかし60年の北京条約で英仏の有利が確定し、そのことを太平天国側も認めるか打診すると、認めない、という回答だったので、中立を止めて弾圧という態度をハッキリさせ常勝軍を使います。


Q52 太平天国は中国的キリスト教とはいえないのでしょうか。だとしたらその理由は、短期間で勢力を失って根付かなかったことや、中国のなかでも異端視されたことにもとめられるのでしょうか。

52A いいえ。内容はキリスト教の影響(洪秀全をキリストの弟とみなす、偶像の否定、男女平等)を受けていますからキリスト教の面はもっていました。一方で中国的性格をもちつづけたのは君主政であり、井田法の復活をねらって天朝田畝制度を云々する点、エホバを上帝と言い換えたりするところです。側室を数人持つとかいうことも。


Q53 軍閥とは軍事産業の会社が国の機能を果たすような組織なのですか? 軍閥が各地に分立している状態とはどのような状態ですか? イメージがつかみにくいのですが……。

53A 会社ではありません。各地に派遣されている軍隊が独立した国のようになった場合をいいます。皇帝や袁世凱のような命令する人物がいなくなると、頭のとれた手足が自立して、実質地方の独立した支配者になり、徴税もして軍隊を養うのです。五代十国時代の節度使たちが各地で皇帝を名乗りだしたのも軍閥といいます。20世紀初めの軍閥は直接的には清朝の滅亡によりますが、起源をたどれば、太平天国の乱のときの地方の自衛軍(郷勇)にまでゆきつきます。湘軍・淮軍が起源です。


Q54 中国内閣は幹線鉄道の国有化を進め地方有力者は民営鉄道建設を進めたと教科書に書いてあるのですが幹線鉄道国有化によって生じる不利益とは何ですか? 国有化を猛反対する基本的な理由がいまいちよくわからないのですが。

54A 国有化は清朝に金がないからウソです。このあたりは拙著の『センター世界史B 各駅停車』で、「革命の原因は幹線鉄道国有化問題でした。西南部の郷紳(官僚出身の地方豪族・豪商)たちが資金をだして民営の鉄道にするはずが、清朝は金がないにもかかわらず国有化すると宣言したのです。実際には鉄道を担保に列強から借金するのが目的でした。この売国政策に対して民族資本家だけでなく、あらゆる階層が反対しました」と。用語集の「幹線鉄道国有化」の下に「四国借款団」とあるのが借金の黒幕です。


Q55 日清戦争の際に旅順虐殺事件が起こりましたがなぜ虐殺が旅順で行われたのか教えてください。後なぜ日本軍は虐殺をしたのかも教えてください。

55A なぜが二つ。第一のなぜは、日清戦争の最中に日本軍が兵士でない市民2万人を殺害したことを指しています。これは日本兵が戦死したことに対する日本側の復讐として行なわれました。第二のなぜは日本軍の特色に関する質問です。
 原田啓一著『日清・日露戦争』岩波新書に「1894年9月、大本営は旅順半島攻略のため第二軍を編成した。……11月21日未明頃から旅順攻撃を始め、正午頃には周囲の砲台等を占領した。午後以降市街と付近の掃討作戦が始まる。そこで捕虜や、婦女子や老人を含む市民を虐殺する事件が起きた。25日頃まで市街の掃討が続き、同時に旅順から金州方面に脱出しようとする敗残兵の掃討も行われた。これらを「旅順虐殺事件」と捉えるのは、戦闘と掃討戦の両方で、捕虜を取る意志がほとんどなく(計232人のみ、『戦役統計』)、軍人と民間人を無差別に殺害する例が多く、捕虜や負傷兵の殺害もあり敗残兵捜索のための村落焼き討ちも行われるなど、容赦ない残酷な戦闘であったことが、参加した兵士らや内外のジャーナリスト、観戦武官などにより明らかであることによる」と記しています(p.75〜76)。
 もっと具体的な様子は、一ノ瀬敏也著『旅順と南京』(文春新書)では、従軍した日本兵の『関根日記』を次のように引用しながら説明しています。

関根たち戦闘部隊が旅順を陥落させた翌22日、丸木は土城子から旅順市街地に入った。彼は「清の敗兵成るか身なりの様子では分からねど、捕縛され山景あるいハ畑中なぞニて首打たるる者数しれず」などと、旅順市街地及びその近辺での破壊殺裁の様相を丹念に記録している。彼自身、徴発(=略奪)に出かけた先の農家に隠れていた負傷清兵が逃げようとするところを「多勢かけきたり、メチャメチャに切り倒」したり、あるいは翌23日連行してきた清兵を「すぐさま中へ引入れ首はねたり」など、無抵抗の敵兵殺害に直接立ち会っている(p.99)。

 第二の疑問のなぜは、「虐殺」は戦争にかならず伴うものですが、とくに残虐性は日本軍の中世からの伝統です(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。


Q56 三国干渉以後、列強が中国を争って分割しているなか、アメリカは大きく”出遅れていた”という表現が教科書にあり、この対策として国務長官ジョン・ヘイは「門戸開放宣言」を出し、ヘイの3原則「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を打ち出した、と記憶しています。実際にこの3原則というのはそれぞれどんな内容なのでしょうか。山川の用語集では、この3つについては記述がないのです。

56A  門戸開放について……『高校世界史』という山川の教科書には「当時、アメリカは太平洋に進出し、中国市場への参加を欲していた。このため国務長官ジョン=ヘイは、1899年に中国の門戸開放・機会均等を、翌1900年には領土保全を各国に提案した。各国はこれに同意し、中国分割の手をゆるめたので、アメリカはでおくれていた中国市場への進出を実現することができた。」と書いています。
 日本史の教科書には「国務長官ジョン=ヘイの門戸開放提議を日本をふくむ列国に通告し、各国の勢力範囲内での通商の自由を要求した。」とあります。
 つまり米国は、政治的には領土を中国で得られない代わりに、それぞれの現存する勢力範囲を認めつつも、どこでも経済的交流は閉ざさないでほしい(これが門戸開放)、
 そして経済(貿易)上の壁(関税や港税、鉄道運賃面)にかんしてはどこでも平等なあつかい(等しい関税、運賃)にしてほしい(これが機会均等)、
 勢力範囲は認めるが、中国の領土にかんしてはこれ以上一切どの国も手をつけないでほしい(これが領土保全)。一国だけが中国(清朝)領のどこかをのっとって植民地しないでほしい、という呼びかけです。中国を一国で独占しないでほしいと言いたいわけです。
 これらの内容は、ワシントン会議(1921-22)の九ヵ国条約の中で、はじめて正式に成文化されました。しかし日本は満州国をつくり閉鎖的な経済をはじめたため、条約に違反したと米国が責めてきて対立が深まっていきます。


Q57 参考書によって義和団事件の発生の年代が微妙に違うんですが……1900年と1899の年のどっちなんでしょうか?

57A たしかに二つありますね。世界史では1899年、日本史や他の国では1900年とするようです。
 理由はこうです。
 反キリスト教運動である仇教(きゅうきょう)運動の団体である「義和団」という呼称は、1899年ごろ生まれ山東省からはじまります。つまりこの時点ではまだ列強とは対立していなくて、清朝との対決、いわば内乱です。義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であったことも、いつからはじまったと言えるか正確に決まらない理由です。 
 1899年秋に清軍を破ってから、以後勢力は急激に増大するのですが、1899年の末に袁世凱の徹底した弾圧を受けて山東省の義和団は下火になり、1900年春に義和団は河北(北京市のある省)に中心が移ります。とうとう義和団は北京に入城して全北京市を支配下におくという状態になって、列強の軍隊との対決に入っていきます。一般に日本史では、この1900年からとし、中国史では1899年の発端からをいっています。


Q58 「鉄道敷設などの利権を獲得しようとしていた欧米諸国は、争って自国の勢力範囲拡張にのりだした」とありますが、鉄道を敷設することと「勢力範囲拡張」がどう結びついているのかよくわかりません。

58A 鉄道を敷いたところが勢力圏というのが当時の考え方でした。実際、鉄道を敷く権利とともに、鉄道周辺の土地・山・川(これを「鉄道付属地」といいます)を利用する権利も意味しましたから。鉄道の経営・管理だけでなく、沿線の鉱山・森林・商業・電信などの経営も伴っていました。税関を設けて関税をとり軍隊の駐留・輸送もできます。「満州では1906(明治39)年に関東都督府を旅順におき、ついで長春・旅順間の旧東清鉄道および鉄道沿線の炭坑などを経営するために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。(山川出版社『詳説日本史』)」


Q59 1900年頃の列国の中国分割は1921年の九ヶ国条約で解消されるのですか?

59A 解消されません。1942年の国民政府にたいして連合軍諸国が不平等条約の撤廃をしてからです。


Q60  清が滅んだのは1911年ですか? 1912年ですか?

60A 1912年です。辛亥革命は前年ですが宣統帝退位は翌年2月でした。


Q61 山川のp.309の14行目「国民政府は英・米の援助で……軍閥の力が弱められ……実質的統一はうながされた」なんでやねん!!!って感じです。

61A 軍閥が弱められたのは経済面です。銀を中心に流通している経済のところへ大恐慌がおこり銀という、それ自身が価値をもつものの取り合いがはじまります。中国の銀を外国(とくにアメリカ)が買い占めようとしたので、銀がなくなると中国の経済の信用はがた落ちになるため、銀流出を防止しなくてはならない。そこで一部(4大)銀行だけが発行する紙幣だけを唯一の通貨とし、銀の取引を禁止しました。銀を国有化し銀の流通を禁止します。この4大銀行は浙江財閥の銀行で蔣(外字なし)介石を支援している銀行でもあり、英米の援助も強力に行なわれたため、「法幣」による通貨統一は蔣介石中心の経済体制をつくりあげました。するとこれまで銀に頼り銀を使ってきた軍閥も一般庶民も、銀が使えなくなり、インフレから身を守る手段としての銀を奪われてしまったのと同じになります。これは軍閥の力を経済的に弱めることになりました。


Q62 北伐というのがありますが、なぜそれを始めたのですか?あと、北伐の後に国民党は共産党を弾圧したとありますが、国共合作はどうなったのですか?

62A 各地に軍閥と呼んでいる暴力的な親分たちがいて、これが中国を五代十国時代の節度使皇帝たちのように中国を分割し、その地方毎に税金をとって地方国家のような状態でした。これを破って中国をまとめ、政党政治の新しい政治体制をつくるには、これら軍閥を破る軍事行動(北伐)が必要でした。「北伐の後に国民党は共産党を弾圧し」ではなく1927年に上海クーデタで共産党を弾圧し、合作はつぶれ、翌年に国民党だけで北伐を完成した後は、共産党攻撃に専念していきます。


Q62 Z会の「実力をつける100題」で、「中国経済界の浙江財閥も、国共合作に終止符を打とうと蔣介石に圧力をかけた」という文があるのですが、なんで財閥が「国共合作に終止符を打とう」とするんかわかりません……。

62A これ時期的に北伐をはじめて上海クーデタを説明するところででてくる表現ですね。五・三十事件で労働者の力が示されただけでなく、その後も各地で労働者・農民の運動(ストライキ・土地略奪)がおきたため、産業・金融にかかわる人々が安全な都市に逃げ出すという状態になりました。とくに南の企業が上海に逃避してきました。それは中国経済全体の停滞につながります。共産党と組んで中国の統一をと望んでいた資本家も、これは「行きすぎ」と写り、北伐をやりながら共産党殺しを展開する蔣介石に期待し、浙江財閥は蔣介石に軍資金を提供しました。


Q63 「満州事変で日本軍は内モンゴルを占領した」とあったのですが、本当ですか? 地図を見ても内モンゴルまで侵略してなかったのです。あと、内モンゴル占領は内モンゴル全体という意味ですか?

63A いえ全体であるはずがありません。広すぎます。中国に近い東部だけです。日本国内では「満蒙」(東北三省に内蒙古東部を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だと言っていたようにわずかですが侵略しています。


Q64 溥儀の「執政」って、どんな体制ですか。 

64A これは「元首」としたものもあります。首相でもいいのです。政権のトップの地位です。英語ではChief Executive とつづっています。世界史では他にローマのコンスルを執政官と訳したり、1795年のフランス革命中の統領政府(5人の統領)を執政政府と言うこともあります。日本史では「政務をとる人。特に(徳川時代の)老中。家老」を指すことで、ちょっと将軍・王・皇帝より低い地位をさしますが、その代わり、将軍より実務を行うひとだということになります。溥儀さんは、もちろん名前だけのトップですが。


Q65 1927年蔣介石が南京国民政府を立てた。とあるんですが、じゃー1912年に立てられた南京の中華民国はどーなったんですか?

65A 中華民国という名前だけは残っていても、都の南京に袁世凱は来ないで北京に居つづけました。北京で中華民国を廃止して新たな王朝づくりをはじめたのですが、それに失敗しました。そうすると中華民国は宙に浮いてしまったようになり、この後は各地の軍閥の政府と、この全体を表現する虚像の中華民国とが共存します。その中で、「1927年蔣介石が南京国民政府」もあります。外からは中華民国といいつづけ(それ以外に名前がいいようがないこともあり)、蔣介石が改めて南京に都をおき政府をつくったことになります。国の名前(中華民国)と実際(国民政府)に行政を遂行する政府とがかみあっていないのです。


Q66 山川の用語集に、張学良が「第二次世界大戦後、共産党政権の成立の際に台湾に逃れ、蔣介石から長らく自宅軟禁にされた…」と書いてあったのですが、張作良は紅軍と手を組んだにも関わらず、なぜ共産党政権を嫌がったのでしょうか?張作良はあくまで抗日意識が強かっただけで、共産党支持者ではなかったということでしょうか。しかし、台湾に逃れれば、(以前、西安事件の際に監禁した)蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測できたのではないか、と思いました。何故でしょうか?

64A 張学良は何も共産主義に共鳴していたのではなく、中国が日本にのっとられないように、共産党と組むことが必要だとおもっていました。というのは、蔣介石は共産党が心臓の病、日本は皮膚の病、とみなしていて、何より共産党を追放することが第一の課題とおもっていました。しかし張学良からすると中国人同士の戦いをつづけているとオヤジ(張作霖)を日本人に殺されたこともあり、日本がますます中国人同士の内戦を利用して領土を中国に拡大してくる、これはなんとしてでも阻止したい。ところが日本の恐ろしさを知らない蔣介石は反共の戦いばかりつづけている、という危機感から西安事件をおこしました。延安から周恩来に来てもらって3者の和解が、つまり中国人同士の国共対立は止めることにしました。このことを蔣介石は終生くやしがっていて、張学良を囚人として台湾に連れて行き、死後も息子の蔣経国にもうけつがれ、1990年まで幽閉されていました。張学良は2001年10月、ハワイにて100歳で死去しました。
 「蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測」……もちろんしていたとおもいます。ただし中国を救うためにはやむを得ないと覚悟していたのです。政治的なことは何時ひっくり返るか分かりませんし、またおもったよりひどい苦境においこまれることもあります。張学良は自分のしたこと(西安事件)を誇りにおもっていたはずです。代償を払わされましたが。しかし代償なしに大きなことはできませんし……。


Q65 「南京国民政府財政部長として、経済建設の中心人物となった、ハーバード大学卒業生」の名前は何ですか?

65A 宋子文です。用語集にはのっていません。わたしがつくった立命館用語集の現代版の3の42の番号に「28年11月の中国中央銀行の設立、中国中央銀行の総裁に就任したのは誰か。」と問い、答えが宋子文になっています。▲(立命館用語集で無視の印)を付けたようにだれも答えられない人名です。わたしのもっている事典には「妹の宋慶齢、朱美齢は各々孫文、蔣介石の夫人。国民党要人として財政部門、対米接渉の任にあたるなど、蔣介石政権の後援者であった。1915年(民国4)、ハーバード大学を卒業。1928〜31年(民国17〜民国20)、行政院副院長と財政部長を兼職。」とあります。


Q66 国民党を台湾に追放した中国共産党は、どうして香港からイギリスを追放しなかったのですか? 全中国の解放をなしとげたのであれば、容易にできたように思うのですが……。

66A 密約があったためです。1945年、日本の無条件降伏とともに、蔣介石はイギリスに返還を求めました。イギリスは合法性を主張して拒否しました。軍事的に蔣介石の国民政府が香港を占拠する前に、フィリピンにいたイギリス軍300兵が香港に入ってしまいます。国民政府は四川の重慶にいたこともあり素早いうごきは無理でもありました。実は香港の近くに中国人の大部隊1万2000兵がいました。共産党の「東江縦隊」です。ここで周恩来が「中英密約」を提案しイギリスが受けいれます。条件は、香港内における共産党の合法的地位と新聞、出版の自由、中国と香港の往来の自由、共産党幹部の武装許可などです。イギリス人数名がかつて共産党に救助されたこともあり受け入れざるをえない面もありました。ここに周恩来のイギリスを長期的に利用する案が成立しました。戦後の国共内戦のときにも、香港は軍需物資・医薬品・食糧を延安にはこぶ供給基地となります。この密約話は譚(たん)ろ(王偏に路)美(み)著『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)にのっています。この密約成立には、密約にとどまらず、中国共産党の内部抗争ほか、いろいろなものが含まれたできごとであったことが説かれています。


Q67 中華人民共和国史にでてくる「互助組」とか「合作社」ってなんですか?

67A 農業集団化の過程にあったときの段階的なグループ名です。誕生したばかりの中華人民共和国は地主が持っていた土地を農民に分配しましたが、小農(小規模農家、貧農といってよい農民)ばかりができてしまいます。人口の多さのためです。それで農作業を効率よく集団で行わせるため農家を「互助組」という組織にし、役畜・農具・家具を4〜7戸で共同使用することを進めました。土地の私有制は変えないままの協同組織です。それをひと回り大きい10〜40戸による「初級合作社」、さらに大きい平均160〜170戸の「高級合作社」に組織していきます。さらに58年頃から合作社をまたまた集団化して「人民公社」という3000〜5000戸のでかい村に仕上げました。


Q68 現代中国に関する疑問があります。教えてください。
(1) 党首席(現・総書記)、国家主席、首相はどのように役割を分担(?)しているのか。そもそも中国の政治体制自体がよくわかりません。
(2) 後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画していたのか。
(3) 毛は何故、反文革分子とされた人に対して糾弾大会を開いたのみで、スターリンのように銃殺するなどの措置をとらなかったのか。
(4) 中越戦争で一体誰が得をしたのか。

68A (1)学生からよく訊かれる質問のひとつです。
 党主席(首席でなく)(現・総書記)は中国共産党のトップ、国家主席は行政府のトップ、その下で実務をおこなうのが首相で、正式には国務総理(国務院総理)といいます。この国務院総理は、国家主席の提案(推挙)に基づいて全国人民代表大会(国会にあたる)が選出・決定します。
 国家主席が元首(大統領)にあたるのですが、実際は共産党のトップである総書記が国家主席を兼ねていて、最高の権力者です。江沢民は中央軍事委員会主席も兼ねているので、それこそ並ぶものののない地位です。
 中国の最高の行政機関は国務院(中央人民政府)であり、その構成は、国務院総理(首相)、副総理若干名、国務委員若干名、各部部長……とならびます。首相は全国人民大会に責任を負う責任内閣制になっています。
 共産党と行政府(国務院)との関係は密接です。国家主席も国務総理(首相)も中央政治局といわれる共産党の主要メンバーであるからです。共産党の実行組織として国務院があるといっていいでしょう。
 毛沢東もはじめは共産党主席と国家主席を兼ねて出発しました。ところが大躍進の失敗で共産党主席の地位はもちながら、もうひとつの国家主席の地位は劉少奇に譲ったことがありました。これが問題。二つの首ができてしまった。するといままで劉少奇はなんでも毛に相談してきたのが、毛におうかがいをたてなくなり、これを毛は我慢ならず、文革によって国家主席の地位をもぎとったのです。老害というやつです。この辺りの同志抗争は、『毛沢東の私生活』(文春文庫)がいちばん面白い読み物とおもいます。

(2)「後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画」はわたしも分かりません。毛沢東万歳ばかり叫ぶ林彪が大好きだったために毛は林を後継者にしたからです。わたしがもっている『毛沢東語録』の序文にも林彪の毛賛美がのっています。林彪ののった飛行機が撃墜されたというのも怪しく、先の『私生活』はあわてて飛び立ったため不十分なガソリンが切れて墜落したといっています。
 日本の中国現代史家たちによれば、「事件の基本的性格は、文化大革命期の軍官僚と党官僚・行政官僚の対立、という図式においてとらえることができ、林彪ら軍官僚は、その劇的な政治的・軍事的緊張のただなかで、ついに失墜せざるをえず、そうした政治的内戦の血なまぐさい結果が「毛沢東暗殺計画」として描かれているように思われる。」(中島峰雄)とのことです。

(3)「糾弾大会を開いたのみ」でなぜ銃殺でなかったのか、ということですが、この大会のあとに拷問がまっています。拷問で劉少奇が死に追いやられ、精神病になったものは数知れず、というのが現実であったことを考えると、それほど差がないのではないでしょうか? 拷問の具体例と、それを生き抜いた女性の『上海の長い夜』(原書房、上下。文庫は朝日文庫で出版)という記録は稀有の伝記でもあります。

(4)中越戦争で「得をした」のはヴェトナム側ではないでしょうか。
 というのは、中国としては、かつての皇帝政治の名残りとしてまだ周辺地域(チベット、新疆。北朝鮮など)に支配を及ぼしており、この戦争の結果、ヴェトナムへの影響力を失い、ソ連(当時としてはソ連)圏に入ってしまったことを認めたくやしい戦争であったにちがいありませんから。ヴェトナムとしてはこの戦争でハッキリ中国との断絶を言い渡したことになるからです。ヴェトナムからみれば、ベトナム戦争中からの中国の急速な対米接近と大国主義的政策に対する強い不信があったはずです。中国軍は近代戦に慣れたヴェトナム軍によって多大の損害を強いられ、自主的に撤退せざるをえませんでした。


Q69 中国の全国人民代表大会の『大会』ってどういう意味ですか? マラソン大会とかの「大会」とは意味が異なりますよね?
「機関」程度の意味なのかな、とは思ったんですが。教えて下さい。

69A 世界史でも1924年の国民党第一回全国大会を「一全大会」と略称して、出てきます。日本の国会にあたるのがこの大会です。それでいえば「機関」です。地方から積み上げてきて全国大会で決定するというやり方の意味をとれば、マラソンの全国大会とそう変わらないでしょう。スターリン批判のは「ソ連共産党第20回大会」でした。ペレストロイカでも「国内では、1988年にソヴィエト型民主主義が修正され、翌年複数候補者制選挙による連邦人民代議員大会・連邦最高会議制が実行され、90年には強力な権限を持つ大統領制も導入されて、ゴルバチョフが大統領に就任した。」と大会がでてきます(詳説世界史)。
 ある組織のもっとも重要な「会合」を意味し、それがアテネの民会のように三権を兼ねた大事なものであったように定期的な機関にもなっています。平凡社の百科事典では「全国人民代表大会」のことを「中華人民共和国における最高の国家権力機関。人民代表大会制度は、資本主義諸国における議会制度とは異なり、すべての国家権力を人民の代表機関に集中する民主集中制を採用し、三権の分立を否定している。つまり議事機関であると同時に執行機関でもある全国人民代表大会は,3級からなる各地方行政レベルに設置された地方各級人民代表大会の頂点に立つ。」とあります。
 なお http://www.moftec.or.jp/jp/china5_1.htm に詳しくこの機構の権限・経緯が書いてあります。


Q70 清の地丁銀制について、東京書籍「世界史B」に下記の記述があります(p.213 注釈16)。
 ……丁銀の廃止は国庫の充実を誇ったものであるが、人口増に比して耕地がふえないという現実に即したものだった。この「人口増に比して耕地がふえない」のならば、なぜ丁銀を廃止したのでしょうか。税収増を望む国家にとって、「丁銀廃止」は不利な政策ではありませんか。「丁銀を強化して、地銀を廃止する」ほうが理屈にあうと思うのですが…

70A 丁銀(人頭税)廃止といっても、富農には丁銀を地銀に含めて(組みこんで)払わせますから、完全な廃止ではありません。問題なのは小農・貧農の丁銀です。
 中国は大家族なので、一家に数家族も住んでいるという場合があり、5人の丁人(成人男子)が住んでいても全員が払うのでなく、2人だけ1人だけという事例があり、中には役人に賄賂を払って一切払わない家もありました。豊かであればあるほど賄賂が払えますから、貧農には加重になります。この不公平さが問題。貧民に丁銀を支払わせる傾向となり、不作の年には子どもを人買いに売らざるを得ないといった悲惨な状況に陥っています。
 丁銀の支払いを嫌がって逃亡する者もあり、すると土地がほったらかしになり収穫は得られず、徴税もできないという問題。
 逃亡しない場合、支払いができない農民は土地を売り、佃戸(小作人)になりますが、佃戸から徴税は出来なくなります。中国税制の基本は(大・小)地主に課税することですから、課税対象が減るという問題。
 18世紀はとくに清朝中国のベビーブームであり、次男三男の逃亡・移住先は周辺の辺境地や蒙古・チベットになり、漢人との民族的な衝突がおきやすい、という問題。
 以上のような問題があり、丁銀は廃止の方向に向かいました。税の軽減は必ずしも税収の減少とはなりません。重税のほうが没落(佃戸化)・逃亡がおき、かえって得るべき地銀が入ってこなくなる可能性があります。


Q74 アロー戦争の講和条約について質問があります。用語集を見ると、外国公使北京駐在は天津条約で定められたことになっています。しかし、センター過去問の2008年の世界史A追試で、外国公使北京駐在が北京条約で決まったという選択肢が正解になっています。どちらの条約で決まったのでしょうか。

74A 天津条約でいったん決まった事柄は、戦争が再開したため、改めて結び直しています。そのためです。天津条約に書いてあったことが北京条約でも再確認されたからです。じっさい天津・北京条約とくっつけていう表現もあります。