世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室:東欧・ロシア史

東欧・ロシア史の疑問(ビザンツ帝国史も入ってます)

Q1 1480年のモスクワ大公国がキプチャク汗国から自立って、「自立」って具体的にどういうことですか。

1A イヴァン3世が都サライに持って行くべき税収をもっていかなくなり、キプチャク汗国から討伐軍が二回来たのですが、二回ともイヴァン3世がこのモンゴル軍を破ってしまったため、キプチャク汗国としてはモスクワ大公国に対してまったく制裁を加えることができなくなり、事実上独立したことを指しています。キプチャク汗国はまだ滅んでいなかったのですが。


Q2 ロシアの「農奴制マニュファクチュア」ってなんですか?

2A ピョートル1世が急激な近代化をするためにマニュファクチュアの経営者に農奴を買う権利をあたえ、農奴という地位の農民にただ働きをさせてでも工業化をすすめようとしたものです。ロシアらしい賃金労働者によらない企業経営です。


Q3 ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」に興味を持ち、色々調べているのですが、とても基本的なようですがいまだに気になっている事があります。
 ギュンター・グラスはなぜ、ドイツ文学者なのですか? グダニスクはポーランドにあって、グラスの母親もポーランドのカシューブ地方出身ですが、ドイツ語で小説を書いているからドイツ文学者なのですか? まだまだ不勉強なのですが、ブリキの太鼓を読んで、ダンツィヒ生まれと本の頭に書いてあったので、ポーランド人作家だと思ったのですが、何で調べてもドイツ人作家グラスと書いてありますよね。グラスってドイツ人なんですか?

3A ギュンター・グラスの本は恥ずかしながらわたしは読んでいません。ただダンツィヒ(グダニスク)生まれ、ということであれば想像はつきます。母がスラヴ系少数民族・カシュバイ人であっても、グラスの父はドイツ人と書いてありますから、混血ということですね。それに歴史的には、ダンツィヒはドイツ人がつくった都市ですし、この都市よりもっと北のロシア領にあるカリーニングラードという都市には終生このまちを離れなかった哲学者としてカントという人物がいました。つまり中世以来バルト海の沿岸線を開拓したのはドイツ人たちでした。リガという、バルト三国のうちのラトビアの首都もドイツ人がつくったものです。もちろんドイツ語が語られているのです。
 ギュンター・グラスが「あなたはいったい何者か」と問われたとき、「半分はポーランド人、半分はドイツ人、そしてまるでユダヤ人」とかれが答えた、という記事も調べてみるとのっています。小さいときからドイツ語で育ったと思われます。あのダンツィヒの地域はもともとドイツ領だったということです。
 なにかの機会に、あるいは本棚にあれば、世界史の教科書でも歴史地図でもいいですが、中世からずっ〜と開いて見られると、ドイツ騎士団領、後にはプロイセン公国、さらに後にはドイツ帝国の領土としてもでてくるはずです。
 いまとちがってポーランドは中世から第一次世界大戦まで海岸をもっていなかったのです。ドイツ人がたくさん住んでいました。


Q4 「(オスマン=トルコの西方進出によって)東欧では西欧輸出向けの農産物を輸出するグーツヘルシャフトが成立」とあるんですけど、具体的にトルコの西方進出がどのようにグーツヘルシャフトの成立に貢献したのかがわからないので、教えてください。

4A オスマン=トルコの西方進出→グーツヘルシャフトが成立……これは間接的な関連です。トルコの西方進出で東地中海がトルコの海になると、トコロテンのように西欧を海外探険「大航海時代」に押し出していき、それとともに商業革命がおきました。それが西欧に商業・工業を発展させ、発展する西欧で穀物・木材(造船のため)の需要を増して、東欧のこれらの商品がそれまでもハンザ同盟、オランダ商人によって運ばれていたのですが、もっと必要性が増してきて(西欧の14〜15世紀は疲弊していたが)、16世紀の西欧に売るための増産と経営を考え、農民の自由を奪ってでも働かせることにした、というものです。
 教科書で見てみると、三省堂は「プロイセンは、大航海時代の経済変動のなかで西欧に穀物を輸出する後進地域となり、土地貴族(ユンカー)が農民にきびしい賦役労働を課す農場領主制(グーツヘルシャフト)とよばれる大規模農業経営が広まっていた。」と書いています。
 山川の『新世界史』では「経済活動の重心が地中海から西北ヨーロッパに移るにつれて,ヨーロッパの内部で東西の分業がうまれた。ネーデルラント・イギリス・フランスが毛織物や奢侈工業製品を輸出する経済的先進地域となるのに対して,ドイツ東部・ポーランドなど東ヨーロッパが西方への穀物輸出国となった。このため東ヨーロッパでは,領主が,それまで身分的に自由な農民を農奴とし,その賦役で輸出用穀物を生産する農場領主制(グーツヘルシャフト)を採用した。」


Q5 「1863年のポーランドの反乱は1861年のロシアの農奴解放と密接な関係に……」という説明をしてくださいましたよね。なんかようわからんかったんですが、もう一回説明してくれませんか。

5A これはロシア領ポーランド側(当時はポーランドの東側はロシア領だった)の農奴も解放してくれ、という要求です。61年のときはロシアでしか農奴解放はされず、ポーランド側は無視されたからです。


Q6 1846年のクラクフ蜂起というのはどんな事件ですか?

6A このポーランド南部にある都市(西方50kmにかのアウシュヴィッツあり)は、当時はオーストリア領であり、その中で自治権をもった事実上の都市国家でした。しかしオーストリアがこの都市を併合するような干渉を強めたため、市民が反オーストリアの蜂起を起こしたものです。蜂起は失敗しオーストリアに併合されます。失敗の理由はこの都市の貴族(シュラフタ)がおこし、農民の解放も唱えたものの農民は信用せず、貴族にたいして逆蜂起したためでした。


Q7 武装中立同盟っていうのはイギリスに対抗するために結成されたんですか? 中立という名前でも?

7A 「対英武装中立同盟」ともいうように対英です。対英の宣戦布告をした国フランス・スペインを除いた中立国の結束です。ロシアのエカテリーナ2世が提唱し、これにスウェーデン・デンマーク・ポルトガル・プロイセンなどが加盟して、対英の戦いに備えたものです。つまり実戦には参加はしないので中立だが、事実上はイギリスを敵視し、もし英軍とこの中立同盟に加わっている国々と一国でも交戦することになれば、一緒になって戦いますよ、というイギリス孤立化をねらった同盟です。戦ってはいないが、アメリカへの支援同盟です。反英諸国が結束して間接的にアメリカ独立を援助したものです。


Q8 どこの本を見ても、1873年の旧三帝同盟も、81年の新三帝同盟も、その解体理由として、「オーストリアとロシアがバルカン問題で対立したため」とあります。でも、旧三帝同盟の場合は、「露土戦争の結果のサン=ステファノ条約が原因」という具体的な事件を明示してあるのに、新三帝同盟の場合は、どこを探しても具体的な背景、事件が書いてありません。具体的には、どんな対立があったのでしょうか?

8A ひとつはブルガリア事件(1885〜87)をめぐる列強間の対立、二つめはブーランジェ事件(1886)です。
 前者はブルガリアの南のトルコ領であった東ルーメリアのブルガリア人が武装蜂起して独立宣言を出し、かつブルガリア公国との統一を求めました。ベルリン条約を破る動きです。ブルガリア公はこの要求を受け入れたのですが、ロシアは反発しました。しかしイギリスがこの統一を支持表明します。この混乱を利用して西どなりのセルビアがブルガリアに宣戦布告をして侵入してきました。それをブルガリア軍は撃退しただけでなく、ベオグラードにまで進撃する勢いでした。そこでセルビアと同盟を結んでいたオーストリア(=ハンガリー二重帝国)がブルガリアに警告を発して侵入を止めさせ、また和解させました。1886年には親露派の軍事クーデタによって公は退位させられ、この後ブルガリアの政治は長く親露派・独立派・反露派の対立がつづき1887年、次の公にオーストリア出身のフェルディナント(在位1887〜1918)が選ばれました。こうした列強間の対立が1886年の段階で、三帝同盟の来年の更新はおぼつかなくなりました。1887年が更新の年でした。
 もうひとつのフランスにおけるブーランジェ事件は、陸軍大臣に「復讐将軍」ブーランジェが任命され(1886)、独仏戦争の危機が訪れました。このとき上の事件もあり、ロシアが三帝同盟を離れフランスを支援するのではないか、という可能性がでてきました。そこでビスマルクは三帝同盟の更新をあきらめて、オーストリアには秘密の二重保障条約をロシアととりきめることで乗り切ることにしました。


Q9 露仏同盟とロシアのシベリア鉄道建設について質問があります。学校の授業で,「ロシアは露仏同盟を背景にフランスから資本を導入し、シベリア鉄道の建設に着工した」と習ったのですが、実際にはシベリア鉄道の建設起工のほうが先ですよね? そうすると、これはまちがいなんでしょうか?

9A ロシアはドイツ帝国なくしては財政的にやっていけないくらいに依存していました。ドイツが引き受けたロシア国債の割合は3/5〜4/5といわれるくらいの依存度です。ロシア帝国のあらゆる事業にドイツ資本が注入されていた、と考えていいようです。それが91年5月に三国同盟が12年間という長期の期限で更新されると(この5月の末にシベリア鉄道建設開始)、反仏・反露の三国同盟に対抗してロシアとフランスは接近し、91年8月から露仏同盟を結成することになりました。シベリア鉄道建設のスタート時点(着工)ではフランス資本ではありません。


Q10 山川出版社『世界史B用語集』p.242の「ソ連の承認」というところに「イギリスのソ連承認〔9〕1924 労働党内閣による。公式承認1号。」とありますが、左側に書いてある「ラパロ条約」のところにドイツとソ連が条約を結んでいるから、ソ連を承認したのはドイツが第1号なのではありませんか?

10A そうです。ドイツが第1号です。念のため、以前の『用語集』にはドイツが第1号とあったはずなのになぜ消してしまったのか、直接山川出版社に問い、ファクスで送ってもらった返事は以下のようなものでした。
 「ご指摘通り、英国が1924年に承認する前に、独ソ両国は1922年のラパロ条約で国交を樹立しております。従いまして『用語集』で古い版ではそうしておりました。しかし、この出来事を以てソ連が国際社会の一員となった、との見方に疑問を呈する説もございます。1例を挙げますと、小社世界歴史体系『ロシア史』3 p129には、「……ラパロ条約をもって当時の国際秩序のアウトサイダー同志の結合であったからである。……」とあります。従いまして、詳しいことは未だ調査中ですが、現行『用語集』ではこの説によって英国を「公式(引用者、この2字に点々が上に付いています)承認第1号」としているものと思われます。この段、記述が安定せず誠に申し訳ございませんが、事情をご理解頂けますと幸甚です。」
 この返事は答えになっていないですね。この返事をハッキリ言えば、こういうことでしょう。国際秩序が英仏中心でうごいているから、英仏が認めないかぎり「公式」ではないのだ、と。これは「この説」などというものでしょうか? 引用文じたいはなにも第1号であることを否定していません。それに国家というものは独立しており、どの国とどういう関係を結ぼうが他国の知ったことではありません。当時の国際秩序に加わっていようと、いまいと、どんな時代でも国家は一国として国家です。公式も正式も、条約を結ぶ段階では、互いに独立した主権国家と認めるから締結されます。「国際社会の一員となった」と見るかどうかを何も問うていません。どこの国が第1号か、という単純な問題です。別の「説もございます」という言い訳は、まちがいをハッキリ認めたくないときに使う常套句です。


Q11 1919年のパリ講和会議の時の西ヨーロッパとソ連との関係のことなのですが、模試の問題で八つの独立国を示す地図を選ぶものがあって、解説にはヨーロッパを東西に分かつ防波堤の役割を果たしたとありました。これはどういう意味ですか? あとソ連が講和条約に不参加だった理由も教えて下さいm(_ _)m

11A 模試を見ていないですが、8つの独立国とは、「ふぇらりポチはゆこ」うというフィンランドから始まって東欧のユーゴスラヴィアまでの国のことですね。これはドイツとソ連の間に壁として築くことで、ソ連の共産主義が西方に伝染しないようにという壁のつもりです。ソ連が講和条約に不参加だった理由というより、もともと呼ばれなかったのです。また革命干渉戦争の最中でもあり、パリ講和会議は革命干渉会議でもありました。


Q12 なんでソ連は1939年にフィンランドに宣戦したんですか。フィンランドじゃないとだめやったんですか。

12A フィンランドはかつてロシア領でした。ナポレオン戦争のときに火事場ドロボー的にとったところです。ウィーン会議でも認められました。ロシア革命とともに離れたのですが、ヒトラーとの独ソ不可侵条約の秘密協定(バルト三国もソ連がとる)にしたがって宣戦布告をし、とりあげたのです。表向きの理由はレニングラードの防衛でした。勝手なものです。


Q13 ベルリン封鎖で西側の通貨改革が実行されるとソ連は東ドイツの経済混乱をおそれて……って、はて「通貨改革」っていかなるもんですか。

13A 「通貨改革」は、西ドイツの三ヶ国占領地域(西ベルリン市も含む)で、1948年に中央銀行としてドイツ・レンダーバンクを設立し、新通貨「ドイツ・マルク」を発行することです。1ドイツ・マルク=10旧ライヒスマルクの割合で交換します。これは東側(ソ連管理区)では使えない貨幣を流通させることです。経済的な独立宣言です。
 終戦直後は、ナチス体制下に流通していたライヒスマルクが完全に信用を失っていて事実上の物々交換の状態でした。タバコが価値尺度と交換手段の役割を果たしていたそうです。大戦中に通貨量が膨張していたにもかかわらず、物は約1938年の半分しか流れていない。これを打開するために上のような新紙幣と旧紙幣の比率で交換することにしたのです。この通貨改革の安定で闇市場はなくなり、店のウィンドウは商品で一杯になったと、当時の首相が証言しています。この決定をソ連は相談を受けていないと反発して、河川・道路・鉄道を遮断する、いわゆる「ベルリン封鎖」に入るのです。3日後にソ連もドイツ・マルク(オスト・マルク、東独マルクともいう)を発行します。


Q14 ポーランドの「連帯」を封じ込めるためにヤルゼルスキ第一書記が「戒厳令をしいた」とある場合の「戒厳令」とはなんですか。

14A 非常(緊急)時に、軍隊に本来もっていない行政権・裁判権をゆだねてしまうことです。軍政とほぼ同じ意味です。連帯の活動は禁止され多くの活動家が逮捕されました(1981年)。歴史的には、フランス革命中の1791年にはじめて出されたそうです。一般に、戦争・内乱の危機や、戦争でもないのに独裁(全体主義)的な政権が頻繁に発布する法令です。世界史の他例としては、1936年の二・二六事件のとき、フィリピンのマルコス大統領の共産主義にたいする対策として(1972年)、1980年韓国の光州事件のとき、1989年の天安門事件のときなどがあります。


Q15 ビザンツ帝国において、テマ制が崩れた理由を教えてください。コロナトゥスは、異民族の侵入によって成り立たなくなったと思っているのですが、屯田兵制が行われているにもかかわらず、軍管区制はなぜ崩れたのでしょうか?

15A テマ制が崩れたのは、屯田兵が委託された土地を売り出したからです。コロヌスが国から土地をもらい自作農になったのですが、それは元々国有地であり、売ってはならないものですが、階級分解がおき、貧しくなったものは売りはらい、それを買い占める者も現れたからです。唐の均田法と同じで、これも売買で崩れました。その代わり、土地を買い占めた大土地所有者にその地方毎の軍事を委ねたため、各地の軍団長の意味がなくなりました。


Q16 第一次世界大戦の敗戦と独立の混乱期にハンガリーではハンガリー革命が起こったが、ホルティがそれによってできたハンガリー=ソヴィエト共和国を圧殺しました。その後、ハンガリーは1930年代からドイツ、イタリアに接近した、と第一学習社の最新世界史図表に書いてあります。
これは、ハンガリーが独裁体制を固めるために接近した、と考えて良いのでしょうか。

16A ハンガリーはトリアノン条約で旧領の71%を取られて戦後のオーストリア=ハンガリー帝国からの独立が認められました。多くの賠償金もかけられたため、戦後からこのことに対する復讐の思いが強く、それは初めは連合国と友好の姿勢を示したホルティとてかわりありません。
 「独裁体制を固めるために接近」というのは当たらないとおもいます。独裁的な傾向は政権を獲得してからずっとあり、ファシズムの研究者たちはだいたい初めから一人のファシストとして説明しています。むしろ領土回復が何よりの願いで当時の勢いのあるドイツと組んだほうが奪回しやすいと予想を立てたものです。ナチスのユダヤ人絶滅政策には批判的でしたから、必ずしもヒトラーに共鳴しているのでもありません。


Q17 1992一橋大第2問について、「40年代のクラクフ、ポズナニの反墺、反独蜂起、60年代の反露農民蜂起」とあるのは何でしょうか?

17A Q6と共通する問題です。ポーランドは現在の国境とちがい、西はプロイセン領で、南はオーストリア領、東はロシア領と分かれていました。反墺はクラクフ市が南端にあることを地図で確かめられるとわかりますが、ここはウィーン会議でオーストリア領になっていて、ポーランド人はオーストリアに対して反旗をひるがえしたのです。一方キー北部にあるポズナニはプロイセンのドイツに対して反旗を翻しました。これは山川の用語集では、次のように解説しています、

ポーランド独立運動 ③ 1846年、南部のクラクフで革命政権が樹立されたが、ロシア・オーストリア・プロイセンの3国軍に鎮圧された。48年には中西部のポズナニで反乱が発生したが、ロシア軍に鎮圧された。

 ロシアは領域では関係がないのですがウィーン体制の憲兵を辞任するニコライ1世が介入しています。

60年代の反露農民蜂起……これは山川の用語集では次のように書いてあります、
 ポーランドの反乱(一月蜂起) ⑨ 1863 アレクサンドル2世の自由主義的改革に乗じて、ロシア領ポーランドのシュラフタ層がおこした反乱。列強からの援助はなく、農民の支持も得られずに鎮圧された。

 ここで、農民の支持も得られず、としているのは間違いで、ウィキペディアの「一月蜂起」を見られたらわかるように農民も参加しています。農民軍の写真が載ってます。
 昨年出た新しい用語集では、
ポーランドの反乱 ⑥ 1863-64 ロシアの「上からの改革」に乗じて、ポーランドの民族主義者がおこした飾起。蜂起は、ロシア軍の徹底的弾圧とポーランドへの農奴解放令発布により、終息した。


Q18 『練習帳』の大問2(啓蒙専制君主)の解答例や構想メモに共通特徴として宗教寛容策がありますが、ロシアではどの様な宗教寛容策が行われたのですか?

18A エカチェリーナ2世の寛容策で知られているのは、何よりロシア正教ではない信仰、つまり異教徒への信仰自由(寛容)です。これはプロイセンのフリードリヒ2世が即位(1740)と同時に発布した信仰寛容令にひとしいものです。また修道院領を世俗化して国家の管理下におき、領内農民の隷属性をなくしました。他には百科全書の出版支援、各種学校・病院・育児院の設立などがあげられます。


Q19 テマ制の目的について、大土地所有の傾向防止と書いてありますが、普通テマ制というとイスラームへの対抗というイメージですが、両方の利点があるということでよろしいのでしょうか。

19A テマ制をしいた皇帝はヘラクレイオス帝ですが、在位が610-641年です。つまりイスラム教ができたばかり(610)でイスラム教はまだアラビア半島を制圧していませんし、613年にササン朝ペルシア帝国によって領域であったシリア・トルコに迫られていて、戦っています。628年にクテシフォンを奪回しています。晩年にイスラム教徒は襲ってきてこの地域は奪われますが、当初はササン朝やブルガール人との戦いのための防衛体制としてテマ制は作られたものです。
 国内で「大土地所有の傾向防止」というのは聖像禁止令の目的でもあって、禁止令に違反する大土地所有者の修道院・教会の領地を奪ってそこをテマ制の領地にして農民を送り込み、結果的に軍備も強化するという目的をもっていました。(同類の疑問が西アジア・アフリカ史にもありますから、参照してください)

疑問教室・20世紀史

現代史(20世紀史)の疑問

Q1 オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908)がパン・スラブ主義とパン・ゲルマン主義の対立を増長させたのはなぜですか?

1A かんたんに言えばオーストリアとロシア(パン・スラブ主義)が領土と勢力圏の拡大をねらっているからです。オーストリアが青年トルコ党革命(1908)のすきをねらった火事場ドロをやったことは、バルカン半島全域にオーストリアの支配がおよぶかもしれない危機とみなし、ロシアは同じスラヴ人同士としてオスマン帝国支配下のスラヴ人を「助ける」という口実で、このオーストリアの南下を阻止したい、ついでにオスマン帝国の領土をそぎたい、という意図です。これはロシア主導のバルカン同盟結成(1912)、バルカン戦争(1912,1913)に発展します。オーストリアが西の海をふさぐかたちで領土をとったことは、西海岸もほしがっていたセルビア人がとくにカッカきています。ロシアはこれを支援します。半島にロシアの影響が増します。


Q2 山川『詳説世界史』 p.293の3行目、「ヴェルサイユ条約の責任を共和国に負わせる反共和勢力……」とあるのですが、具体的に「反共和勢力」って何ですか。

2A 「(ヴァイマル)共和国に負わせる反共和勢力」は20年3月、一部の軍人・右翼政治家が政治家カップを首相として一揆を引き起こし一時的に政府をつくり帝政復活を企図したことがあります。ヒトラーのミュンヘン一揆もそのひとつでしょう。また25年エーベルトの死後に行われた大統領選挙で、保守派の推す大戦中の「英雄」ヒンデンブルクが当選したため、政府もしだいに保守色を強めていくことも国民的な意志でした。さいごには反共和勢力がナチスに結集します。


Q3 第三次産業革命ってなんですか?

3A 原子力の軍事目的の開発をはじめとし、レーダー、ロケット開発とつづいた革命です。それにコンピューター、ロボット、トランシーバー、レーザー、ジェット機なども入ります。つまりは第二次世界大戦末期からの戦後の技術革新をさしています。


Q4 なぜデンマークは一次大戦中に中立を守ったんですか?

4A まず、デンマークだけが中立を保ったのでないことを言わねばなりません。1914年12月にノルウェー、スウェーデンとともにマルメ市で3国の中立宣言がおこなわれています。
 デンマークが当時、社会主義政権であり、中立政策に戦前から積極的であったこともあげられます。デンマーク人にはシュレスウィッヒ・ホルシュタイン問題でドイツ人は嫌であり、反独的な感情は強いのですが、そうはいっても戦争は亡国の危機も生みますので、戦争にはかかわらないほうが国の保障には得策、まして強力なドイツとは戦争は避けた方がいいと考えたようです。といって完全な中立が保てたのでもありませんでした。戦争がはじまると、ドイツはデンマークの海峡に機雷を敷設をしよとし、それを受けいれざるをえませんでした。イギリス海軍に対抗するドイツの戦略です。デンマーク国王はイギリス国王に自国の苦境を訴えてこのことを知らせます。イギリスも理解してデンマークに制裁処置をとりませんでした。それでもデンマークの商船がドイツの機雷に触れて沈没したそうです。


Q5 ヴァイマル共和国時代のドイツで、1923年11月にミュンヘン一揆がヒトラーによって起こされたと思いますが、その政治的背景と歴史的背景について教えてほしいのです。一応自分でも研究はしているのですが、なかなか見つからないので教えてください。

5A アラン・ブロック著『対比列伝・ヒトラーとスターリン』草思社の第一巻を読まれてはいかがですか? そこには実に詳しくミュンヘン一揆のことが書いてあります。


Q6 第一次世界大戦のあとの「ドーズ案」「ヤング案」についてです。1924年の「ドーズ案」ではドイツの賠償金を減額はして「いない」というふうに習いました。講師も、減額を「した」のは「ヤング案」だから、正誤問題でもし「ドーズ案ではドイツの債務金額を減額し……」なんていうものに引っかかるなよ、と言っていました。

6A ロンドンで決まった払い方では、総額1,320億金マルクの支払を年44億ずつとしていたのを、ドーズ案はむこう5年間は過渡期として支払い額を25億と軽減したものです。この案では総額の減額はありません。このドーズ案でも、ドイツの賠償支払いが不可能であることがわかったので、さらに1929年のヤング案では総額を358億マルクと減額し、支払年限59年のうち、第1期37年の間は年額20.5億マルクの支払いと減額し、その後はさらに減少させるというものです。
 講師の、正誤問題でもし「ドーズ案ではドイツの債務金額を減額し・・・」なんていうものに引っかかるなよ、というのはまちがいです。正しくは「債務金額の総額を減額し」で、それだったら引っかかってはいけないでしょう。


Q7 イギリスの選挙法第五回改正は何内閣なのか、用語集に記述がなくてよくわからないのですが、よかったら教えてください。

7A 保守党のボールドウィン内閣(1924〜29)です。この後に労働党のマクドナルド内閣がきます。


Q8 山川出版社『詳説世界史』p.239の「1926年からイギリス連邦という呼称になった」p.253「1931年、ウェストミンスター憲章でイギリス連邦が成立」とあるのですが、1926年の方は名前だけ変わったということですか?

8A そうです。「イギリス帝国(日本では大英帝国ともいいました)」に代わって、1926年のバルフォア宣言は旧植民地たる自治領(ドミニオン)が独立化の傾向をつよめたため、自治領は本国と対等で、国王に対する共通の忠誠によって結ばれる、としました。1931年のウェストミンスター憲章(条例)は、このバルフォア宣言の趣旨を法律化したものです。イギリス本国の承認なしに自由に憲法を制定できることになりました。


Q9 1931年のウェストミンスター憲章で、教科書には、「各自治領は」「国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位が与えられた」とあるんですが、こんなん対等ちゃうやんって思うんですけど……。

9A  1931年のウェストミンスター憲章で、「各自治領は」「国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位が与えられた」とあるのは、本国の承認なしに憲法が制定できると規定しており、内政干渉はまったくできなくなります。たんに英の国王としてあがめるだけです。今でもオーストラリアでこれが問題になっていますよ。英国王がなんでオーストラリアの国王なんや、と。飾りに過ぎないもんを、なんで崇めなあかんのーっ、と。
 ニュース記事「1999年11月6日挙行された豪州国民投票は、オーストラリアがエリザベス女王を国家元首とする現在の立憲君主制から、大統領を元首とする共和制に移行するかどうか、世界とりわけアジア諸国の注目を集めていたが、開票結果は移行を否決した。
   共和制移行     反対 『NO』   約54%
             賛成 『YES』  約45%
 この結果、エリザベス女王を盟主とする(英国以外の)英連邦53ヶ国のうち、15ヶ国が引き続き女王を国家元首とする立憲君主制を維持することとなった」エリザベス女王は、オーストラリアの女王でもあり、オーストラリアでは、総督が女王の代理人として政府の推薦で任命されています。


Q10 世界恐慌の各国別の影響を見るとフランスはその波及が遅いのはなぜでしょうか?「フランスは農業国なんで」というのではいまいち納得できないのですが。

10A 「フランスは農業国なんで」は答えになりませんね。他の西欧の国々と同様に25年くらいまで戦後の回復はできなかったのですが、それがフランスの場合は長引き、1926年からの左派に代わった右派ポアンカレ政権になって回復のきざしがでてきます。この政権は財界の協力を得つつフランの切下げと安定に成功し、インフレをしだいにおさめていきます。また1926〜29年のあいだに、自動車産業など新型重化学工業が成長していき、フランスは戦前の「農業国」から「工業国」へ離脱したといいます。それで1929年に世界恐慌がはじまっても、フランスにまで波及するのは1931年の末からです。このようにフランスは1920年代の復興がおそく、恐慌の少し前くらいからやっと回復してきたため、恐慌の影響はすぐにはあらわれませんでした。しかし周辺の国々がフランスの商品を買ってくれなくなるとじわじわと効いてきます。


Q11 「アイルランドの独立派がエールの名で独立を宣言し、イギリスもこれを承認した」(詳説世界史)んですよね。この1937年の時点でアイルランドは脱・自治領じゃないんですか。というのも、別のところには「エールはイギリス連邦を脱して49年アイルランド共和国となった」とあるから、私が言いたいのは、エールの名で独立を宣言したら、イギリス連邦もなんも関わり無くなったんちゃうの? ということです。

A11 1937年の時点で脱・自治領じゃありません。憲法を自ら制定して実質、独立国家になったのは確かですが、連邦内なのです。もちろん連邦離脱の手前ではあります。離脱は1949年です。


Q12 『社会主義』は『ファシズム・全体主義』と同じ内容・考え方ではないですよね?

12A そうです。必ずしももイコールではないです。
 社会主義の政治体制として全体主義をとることがこれまでのソ連・中国・北朝鮮・東欧にあったということであり、西欧の社会主義のように、多党制と議会政治も認めた、つまり全体主義でないものもあります。ファシズムは30年代に現れ、「社会主義」ということばを使いましたが(国家社会主義ドイツ労働者党のように)、中身は社会主義ではなくたんに労働者の面倒も見ているという「つもり」に過ぎません。


Q13 ナチスの正式名称って「国家社会主義ドイツ労働者党」ですよね?あれれ?ナチスって右翼では……? なぜに党名が社会主義?っていう質問です。

13A 「国家社会主義ドイツ労働者党」右翼でも当時、「社会主義……労働者」と、ある程度の社会的政策(失業・保険・雇用)をとらなければ労働者の支持を受けることができませんでした。初めは不労所得の廃止、利子奴隷制の打破、トラストの国有化、土地改革、地代の廃止など資本家と地主に対決する姿勢を示しています。支持を受けると次第に中間層→資本家・地主に支持をうけるように主張も変えていきました。政治ですから党名は必ずしもホンネを表わしていません。ホンネは最初の「国家」の強化・膨張でした。


Q14 なぜ対独宥和政策をとることが、ヨーロッパにおけるアメリカの干渉を排除することになるのでしょうか?

14A どういう文脈で問われているのか分かりませんが、一応こういうことではないかと、というわたしなりの考えを書いてみます。少なくとも軍事力行使という想定はなく、介入するとしても外交だけと考えられます。連盟には参加しなくてもすべての連盟の委員会にオヴザーヴァーとしてアメリカが参加していました。完全な孤立主義外交をとっていませんでした。
 そしてアメリカ市民の中でもっとも数が多いのはドイツ系であり、ヴェルサイユ条約調印を拒否したように、ドイツいじめにはアメリカは反感をもっています。アメリカも反共産主義であり、ナチスがねらっているのは西欧ではなく東欧・ロシア(共産主義)であり問題はないとアメリカは見ていました。それにナチスによるドイツの復興は恐慌にあえぐアメリカにはもうけになるのでナチスに対して好意的でした。ユダヤ人の強制収容所における殺戮を知りながらなんらのアクションもとっていません。それを批判したチャップリンが共産主義者だと断定され戦後アメリカから追放されています。自動車王のフォードがナチス党への資金援助をしていたことを知りませんか?


Q15 1944年6月のノルマンディー上陸作戦の日をD-Dayと呼ぶそうですが「D」とは何の略でしょうか。決定的(desisive)とかの略ですか?

15A いいえ、コードネーム Debarkation Day (上陸の日)の略語です。これは最初の日だけのコード・ネームですが作戦全体のコードネームは Operation Overlord (大君作戦)でした。


Q16 第二次世界大戦開始のあとにいろんな会談がありますよね?フランスがどれにも参加していないのには何か理由があるんですか?ポツダム協定ではどうして米、英、ソに加えて仏がドイツを分割占有できたんですか?

16A 「フランスがどれにも参加していない」のはフランスがドイツに占領されていて、ヴィシー政府というドイツに協力する政府があったためです。ロンドンに亡命しているド=ゴールは自分を代表に加えないのを歯ぎしりしてくやしがっていました。1944年にはド=ゴールはパリにフラン軍とともに帰ってきました。フランス軍も再建して、戦後体制には、この後から加わることができました。それでもド=ゴールの恨みは大きく、かれが第五共和政を築いてから、NATO脱退を決め、英国をECに加わらせない、という政策をとったのは恨みを晴らしたかったからです。


Q17 西ドイツの通貨改革が東ドイツに経済的混乱をもたらす、と教科書に書いてありますが、具体的にどのような形で混乱を与えるのですか?

17A 西側だけの通貨改革は、東側(ソ連占領区)では使えない通貨であり、事実上の物々交換の状態のところへこれを発行すると、東側に住むひとは、使っている戦前からのライヒスマルクの価値の下落と、物価上昇においつけないからでしょう。西側にとっての、いわば経済的な独立宣言でした。


Q18 1945年7月のイギリスで、労働党が勝利したのはなぜですか? つまりチャーチルはなぜ敗れたのですか?

18A チャーチルは人気のある政治家でしたが、保守党に対する人気は落ちていました。恐慌時の失業、ナチスに対する宥和政策、戦禍などのためです。ドイツの空襲で家を焼かれ地下鉄の底での暮らしはたえがたかった。また労働党の福祉政策や家持ち政策に国民が魅力を感じていました。戦争を勝利に導いている首相であるにもかかわらず国民はチャーチルを捨てたのです。労働党が393議席、保守党が213議席で圧倒的な勝利でした。


Q19 冷戦終結の背景についてです。つまりはゴルビーの登場(新思考外交)などの背景。これはいろいろあるとは思いますが一番の理由は米ソの予算問題でしょうか? 同時にヨーロッパ、日本の経済的台頭も考慮に入れてオーケーですか?
 冷戦の終結までの過程を問う模擬試験で「経済的に大国化した日本や統合して経済力を強化する欧州を前に米・ソは冷戦終結を急いだ。」と締めくくった部分に加点されなかったのです。やや不安だったので。

19A 冷戦はなぜ終わったのか……という問いは、これからも問われていく世界史的な問題です。
 米ソの予算問題……互いに経済的に軍拡が無理なところまできていたのは事実です。
 「ヨーロッパ、日本の経済的台頭も」いいです。なぜなら、西欧・日本と比較してソ連・東欧経済があまりに遅れている、という認識が社会主義を崩壊させたからです。具体的には品質の悪さ、計画経済の破綻、無責任体制などです。倒産のない経済は不健全なものなのに、いつまでも悪い商品を産みつづけたためです。テレビや映画で西側の生活がまるでちがうことを見せつけられていたし、党幹部は西欧の衣服、家具、台所用具を買っていました。
 試験は採点する側の容量とも比例します。採点基準に君の書いた部分がポイントとしてなければ加点してもらえないのです。
 河合塾の模試で隋の科挙を選挙と書いてまちがいと採点されて、なぜときいてきた学生がいました。隋唐の時代は科挙と言わないで、選挙と言っていたので正しいのですが、採点する河合塾の側でそれを知るものがいないとなると、まちがいになるのです。科挙は宋からの名称です。


Q20 教科書に書いてある「54年のパリ協定で主権を回復した」という場合の、主権回復ってどうなることですか?

20A 占領軍による統治が終わり、占領されていた国・民族が、国家として内政・外交の仕事をはじめることです。日本にとってはサンフランシスコ講和条約がそれにあたります。占領軍がにぎっていた全権が主権回復国に返還されます。主権とは、国内における最高権力と対外的独立を意味します。ドイツも日本もそうでしたが、主権回復後に、占領軍とは条約により駐留する基地を与えられ、そのまま残ったのですが、内政・外交に干渉する権利は駐留軍にはありません。ただ日本の場合は日米合同委員会・日米地位協定があり、外交権は事実上アメリカにあります。まだアメリカの属国です。日本州というひともあります。


Q21 ECについての話で、「1960年代後半、イギリスもECへの加盟を強く希望するようになるが、フランス(  )政権がこれに強く抵抗した」とリード文があって、(  )にはド=ゴールが入るんですが、その解説が「ド=ゴールはイギリスの加入は、イギリスとアメリカとの関係からヨーロッパの独自性を損なうという主張で反対した」と。「イギリスとアメリカの関係」っっ?てなんですか?

21A ド=ゴールは第二次世界大戦中に外向的な屈辱を味わいました。戦争指導会議(カサブランカ〜ポツダム会談)にフランスの代表はまったく出席していません。ド=ゴールは要求したのですが受け入れてもらえなかった。確かにフランスは当時ドイツの占領下にありました。この戦争中の屈辱を戦後晴らすべく、独自の外交を展開するのです。イギリスなんてヨーロッパの国でさえない。アメリカの子供にすぎん、と見なしていました。このド=ゴールからすれば親密な米英関係をヨーロッパ外の関係として突き放したかった、ということです。イギリスが、ECへの加盟を1963年と67年に申請しましたが、いずれもド=ゴールの反対にあって失敗に終わっています。ド=ゴールのこうした反米英的な姿勢は、共産圏への接近、核兵器の開発、NATO軍事機構からのフランス軍の引き揚げ、中国承認、アメリカのベトナム介入反対、フランス中心の金本位制の復帰など、フランスの自主独立の外交路線を強力に追求したことで表れています。フランスこそヨーロッパの中心だという誇り(思い上がり、埃に近いもの)を追求したのです。その鼻っぱしの強い姿勢から、ド=ゴール王朝とか、ルイ・ド・ゴールなんて呼んだりしました。


Q22 第一次世界大戦終了後、イギリスでは「労働党が保守党につぐ第二党の地位につき、1924年には労働党党首マクドナルドが自由党と連立内閣を組織した。この政権は短命におわったが」と山川出版社の詳説世界史にあります。大戦後の経済不況のなか、なぜマクドナルド内閣は短命におわってしまったのか教えてください。

22A 1924年にソ連と条約を結んだことがきっかけです。労働党ではない英国共産党の機関誌に、終わったばかりの戦争中に、兵士は争議中の労働者や戦争中の仲間の兵士に銃を向けるな、と呼びかけた論文が掲載されました。このことが戦後問題となり、非国民として告訴した者がいて、労働党がこの告訴を圧力で撤回させた、と保守党が言い立て、これに労働党内閣の一翼をになっていた自由党も賛同したためです。労働党内閣は自由党と労働党の連立でした。保守党が議席数では第一党でしたが、労働党と自由党が連立して数を超えてできた内閣でした。また条約の交渉をめぐって保守党が種々のデマを飛ばして労働党がさもソ連共産党と組んでいるかのように主張したことが、選挙民が労働党に賛同しなくなる要因でした。9ヶ月しか労働党内閣はもちませんでした。反共の気運が強いため、といえます。


Q23 国際連盟と国際連合の議決法には、前者は全会一致制,後者は多数決制という違いがありますよね。ある参考書に(一般的な記述ではありますが……)「第二次世界大戦を防ぐことのできなかった国際連盟の失敗を考え、総会の決議は国際連盟の<全会一致>に対して、国際連合は原則として<多数決>によることとし、さらに米英仏ソ中五大国を常任理事国とする安全保障理事会に、軍事的制裁を含む強力な平和維持の権限を与え、さらに常任理事国5カ国には拒否権を認めた」とあります。理論的には、正しく作用すれば、安全保障理事会の設置や軍事的制裁や拒否権が平和の実現につながるであろうことは理解できるのですが、どうも議決方法の変更は理解できません。
 これはどのような理論で多数決制が採用されたのですか?

23A 連盟の場合、主権国家はそれぞれ対等である、という原則に立って一国一票であり、全会一致で決めるのがふさわしい、と考えての票決方法でした。しかし枢軸国の横暴に対して対応の一致は難しく、一番無難な反対のない最低限の制裁にとどめるという意味での全会一致でした。しかしこれはかえって枢軸国の侵略を容認することになり、戦争の助長になってしまいました。
 連合は連盟よりたくさんの委員会を設け、かつ、連盟より多数の国々の加盟となったため、全会一致では何も決まらない事態を生みます。総会や委員会がみな多数決を採用する理由はここにあります。
 また弱い連盟では平和の維持はできないので、制裁力を強めるためにも、迅速に実行に移すためにも多数決が必要です。何か理論で多数決制が採用されたというより、実際の運用の都合から採用した、という言い方がふさわしいようです。
 しかし大問題の場合は安全保障理事会で討議し、ここだけは全会一致の原則を持たせています。ただしこれは、わずかな大国にしか権利がないことはご存知の通りです。
 ただ、これらがうまく機能しているか、というとそうではない、という結果になってます。


Q24 ベルリン封鎖の原因は、「ソ連が、西側の通貨改革に抗議した」ことだと学びました。西側の通貨改革が、どうしてソ連にとって不都合になるのか、いまひとつ理解できません。
 ウィキペディアの「ベルリン封鎖」の項では、
①ソ連が、6月24日に東側領域の通貨改革を実施すると宣言 ②西側も、6月20日に西側領域の通貨改革を実施すると宣言→西側通貨(ドイツマルク)は、マーシャルプランの保障を受けている→西側通貨が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗
という趣旨の解説がありました。疑問点は以下です。
①そもそも東西両陣営は、「改革」によって、それぞれ「何を何に」かえようとしたのですか。
②Wikipediaにある「西側通貨が力を持つ」とは、どのような事態を指すのですか。また、それがなぜ、東側にとって不都合なのですか。

24A 通貨改革ついては拙著『センター世界史B各駅停車』に次のように説明しています。
 西ドイツの3国占領地域(西ベルリン市も含む)で、1948年に新通貨「ドイツ・マルク」を発行する通貨改革を実施しました。1ドイツ・マルク=(旧通貨)10ライヒスマルクの割合で交換します。これは東側(ソ連占領区)では使えない通貨であり、いわば経済的な独立宣言といっていいものです。終戦直後は、ナチス体制下に流通していたライヒスマルクが完全に信用を失っていて事実上の物々交換の状態でした。タバコが価値尺度と交換手段の役割を果たしていたそうです。この通貨改革によって闇市場はなくなり、店のウィンドウは商品で一杯になったと、当時の首相が証言しています。この決定に対してソ連は相談を受けていないと反発して、河川・道路・鉄道を遮断する、いわゆる「ベルリン封鎖」で対抗しました。ソ連は西ベルリンへの地上接近路をすべて閉鎖し、西ベルリン市民250万人を封鎖状態におきました。交通手段以外にガス、水道などの供給もすべてカットしました。飢えと凍えによって市民を屈伏させ、通貨改革を止めさせ、西ベルリンから英米仏軍を追いだそうと企てたものです。チャーチルは、「これはスターリンの前でどれだけ逆立ちができるかためされているようなもんだ」といいました。
▲通貨改革を実施したのは西側の3国であり、ソ連ではない、ソ連はベルリン封鎖で対抗した
 逆立ちはつづけられました。燃料(石炭)・医薬品・衣料をはこぶ大空輸作戦(「空の架け橋」作戦)がおこなわれました。3分に1機の間隔で大型飛行機がフランクフルトやビスバーデンの空港で荷物を積み込みベルリン空港に着陸しました。1日16000トンの運搬量で、これを320日つづけ、総計160万トンもの物資をはこんだことになります。かつて空爆にも参加していた米軍は、こんどは空輸によってベルリン市民を守る立場にかわりました。

 この説明から推理できますが、ソ連・東ドイツにとっては使えない通貨が西側だけで流通がはじまったため、このことは統一ドイツをどうつくるかの四ヶ国(中心は米ソ)の話し合いを打ち切りにする、ということであり、ハッキリ、ソ連の姿勢(共産党政権づくり)に反対を表明したことになりました。
 ご質問の回答は、
 ① 信用のなくなった貨幣の経済に、信用のある貨幣を流通させる。経済の回復、というのが目的です。それが結果的に政治的独立につながります。
 ② ソ連と東ドイツにとっては、これまでの通貨が無価値になり、貯金していたひとにっとては消えてしまうことにもなりました。
 じっさい、無価値になる旧貨のソ連地区侵入を防ぐためとの説明をして、交通制限がはじまり、東独と全ベルリンでのソ連による通貨改革も発表されました。しかしソ連は新紙幣が間に合わないため、旧貨に証紙を貼ることにし、24日開始を予定します。しかし西側がベルリンの西側地区ではソ連新通貨無効と宣言したので、ソ連は布告で「ベルリンの連合国管理機構はあらゆる意味で消滅した」と宣言したあと、ベルリンの西側地区への送電を停止し、西部ドイツから上記地区への食糧品・石炭の輸送を止めます。つまり「ベルリン封鎖」が始まることになりました。

 

疑問教室・西欧近代史[フランス革命]

西欧近代史〔フランス史〕の疑問

Q1 教科書に「商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた」とフランス革命前のことがでてくるのですが、革命前は経済的に破綻していたから革命がおきたのではないのですか?

1A 革命前のフランス経済を示唆している教科書は『詳解世界史』ですが「(フランスは)18世紀を通じて経済が発展するなかで、新興の商工業ブルジョアや富農層は、自分たちを圧迫・差別し、自由な経済活動を制限する不合理な旧制度に不満をもち、啓蒙主義思想やアメリカ独立革命の影響を強く受けるようになった」とあるように18世紀はフランスにとって大繁栄期なのです。革命の準備段階としての18世紀はブルジョワジーの成長期でした。
 イギリスと比較してフランスの18世紀の経済成長を見てみると、フランスの成長の度合のほうが大きい。イギリスは18世紀に輸出・輸入は2倍に増加していますが、フランスは5倍です。その中身はヨーロッパ貿易が4倍、植民地貿易が10倍増加しています。ただし1770年代までで、80年代になるとイギリスの産業革命(1760年代から開始)の影響がでてきて、フランスの経済は鈍化し、イギリスの経済が急速に伸びてきます。たとえイギリスが13州を失っても米大陸との貿易は伸びていきましたし、アジアとの貿易も拡大していきます。しかしフランスは革命と戦争に入り、かつ植民地の多彩さはイギリスに劣りました。なによりフランスは18世紀全体で工業の発展がないことで、これはイギリスに差をつけられます。フランスにはギルド制が残っていて、イギリスは17世紀に廃止していますから、その差も出てきます。国立銀行(イングランド銀行)の設立は長期低利融資を可能にし、個人のイニシアティブも奨励されたイギリスに対してフランスには産業革命当時のイギリスのような「発明精神の爆発」もなかったのです。


Q2 山川教科書p.210に、「そこで……国民議会は自由主義的な貴族の提案で、封建的特権の廃止を決定した」とあるのですが、「自由主義的な貴族」がどうしてそんなものを提案したのかよくわからないし、唐突な感じがするのですが。

2A 「自由主義的な貴族」とは前文に「保守派の貴族」と対比してあるように、フランス政府の財政が悪化の一途をたどっているので、改革を求める貴族です。かれらはヴェルサイユ宮殿に入れず、地方の高等法院で中央の命令に従わさせられ平常不満をいだいている下級貴族です。高等法院に勤めているので法服貴族ともいいます。それに対して中世以来の中央貴族を帯剣貴族ともいいます。自由主義貴族の中にラファイエットやミラボーたちがいます。それでもこのとき提案した封建的特権身分の廃止は、徹底したものではなく、土地を農民のものにするのに10年分や20年分の地代をすぐ払えばやる、という「貴族」らしいものでした。

 
Q3 教科書p.211に「国内でも反革命の動きが活発になると、共和主義者の勢力が増大し」とあるのですが、反革命の立場の人は、王政を支持しているんじゃないんですか? それなら共和主義者より、むしろ立憲君主主義のフイヤン派が増大するんでは……? 

3A この前の文章に「このころ外国軍が国境にせまり」とあります。貴族は王族を代表として他の国の貴族と親戚関係であるものが多く、外国と通じる面をもっており、亡命した貴族たちが外国軍と一緒にフランスに入ってきて革命を台なしにした、との見方があったためです。貴族は国を裏切るもの、と見ていたのです。また国内の軍人にしても貴族が将校で、「王党派の多い軍部は戦意に欠け」とあるようにフランスのために本当に戦ってくれるかどうか怪しい。マリー=アントワネットはオーストリアから嫁にきています。旦那のルイ16世もオーストリアに助けてもらい革命をつぶそうとしていました。「反革命の立場の人は、王政を支持しているん」ですが、その王がこういう考えなので信用できないのです。フランスの国土を守ってくれるのは革命のグループであると一般の人はみなすようになったのです。


Q4 パリの義勇兵を「国民衛兵」、地方の義勇兵を「連盟兵」っていうのかな? と漠然としたものがありますが、合ってますでしょうか?

4A 推理の通りと思います。疑問の「連盟兵」の連盟の語源とも関係しています。
 1789年のバスティーユ牢獄襲撃前後にできた民兵が、15日に国民衛兵 garde nationale と改名されました。これはしかしパリ市だけではなく、全国の都市で結成されました。パリ市は60区ごとに、地方は村・町ごとに自治組織と自衛軍(国民衛兵)とがつくられていき、地方(83の県)ごとにそれらが集まって「○○○連盟」を名乗っていました。マルセイユ連盟兵・ブレスト連盟兵と。それが1790年の革命一周年の全国大会「連盟祭」をパリで開くことになり、合計1万人ほどの連盟兵が集まり、ここに全国的な連盟兵ができます。各県の連盟兵の中央連絡組織もつくられました。立川公一著『フランス革命』中公新書では、連盟兵とは祭典に召集された国民衛兵を指す、と説明しています(p.61)。これはしかし不正確な説明でしょう。すでに地方で連盟兵ができていましたから。
 ただ兵士の指揮につくのは亡命していない貴族など身分の高いものになる傾向があり、それがそうでないものと対立して割れやすく、ときにパリの国民衛兵と地方から出てきて、連盟祭が終わった後もパリに残った連盟兵と衝突する、ということもおきました。こういうときに(パリ)国民衛兵と(地方)連盟兵の対立という文章がでてくるのでしょう。


Q5 女たちによるベルサイユ行進で皇帝をパリに連れ戻す、と書いてあったのですけど…この行動に何の意味があるのでしょーか(?_?)?

5A この行動に何の意味があるの「行進」はパリからヴェルサイユへ歩いていったことを指しています。パリは食糧危機に陥り、ヴェルサイユなら国王(皇帝でなく国王のはず)だけでなく当時三部会の多くの議員が集まっていて食糧が豊富にヴェルサイユにあると期待して。国王がパリに来れば、食糧は必ずついてまわるはずでしたからパリに連れてきます。国王のことを「パン屋の主人」といっていました。


Q6 フランス革命のことで質問です。フランス革命のところで「反乱」「革命」の違いを「支配者、被支配者、クーデター」の言葉を使って説明しろ!という問題がでました。これに対して良い説明のしかたはありますか?

6A ことばの定義としては、「反乱」は支配者である王朝に対してなんにらかの問題で被支配者が抗議すること、革命は被支配者が支配者を倒して支配者の地位につくこと、クーデタは支配者間の交代です。
 フロンドの反乱のようにかえって絶対王政を強固にしてしまったものがありました。フランス革命では1795年の王党派の反乱があります。これは追い出された側が、総裁政府をたおして巻き返しを図るものでしたが成功していません。被支配者となった王党派が支配者となった政府に抗議して失敗したものでした。
 「クーデター」は支配者・被支配者の交代ではなく支配者間の交代で、大きな変動はありません。ブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、統領政府をつくったナポレオンのものがあります。これはブルジョアとブルジョアの同じ階級間の争いにすぎません。
 「革命」は、ブルジョア層が絶対王政を支えていた王室と貴族層を政権から追いやり、じぶんたちブルジョア層が支配者になることです。そのため大きな社会的・経済的・文化的変動も伴います。革命全体の結果でもあります。


Q7 フランス革命中の「王権の停止」と「王政の廃止」の違いっていうのは、はっきりいって何でしょう?

7A 王権の停止は、現在のルイ16世の王としての権利行使は止める、ということだけで、廃止直前の状態。この決定によって市民は国王に従う必要がないと胸を張って言えるようになった、ということです。「王政の廃止」は共和政への移行を決めたもの。
 なんか言葉遊びみたいですが、状況はこういうことでした。8月10日にパリ市民がサン・タントアーヌの国民衛兵を先頭に、国王夫妻のいるチュイルリー宮へ数万が進撃して、そこを守っていた多数のスイス人傭兵を殺害します(八月十日事件)。また守っていた貴族の兵士との戦いにもパリ市民兵が勝ちます。国王一家は議会に難を逃れましたが、逆に身柄は新パリ市当局に引き渡されます。ここで「王権の停止」が宣言され、パリ市はもう国王の支配下にはなく蜂起した市民のコミューンの指揮下に置かれ、王宮を守っていた王党派の武装解除も断行されました。ヴァルミーの戦勝の届く1792年9月21日、新憲法を作成するために国民公会が招集されます。蜂起コミューンのメンバーがパリ県選出議員となって加わった国民公会は王政の廃止を宣言し、共和政ができあがり……という具合です。


Q8 教科書にフランス革命戦争の説明の中で「他方、フランス軍は攻撃に転じて、ベルギー地方を占領した」とありますが、なんかとってつけたような、浮いた感じがして、つながりがようわかりません……。

8A この前の文章に「しかし王党派の多い軍部は戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍は国内に侵入した。この危機にあたり、王がふたたび外国と結ぼうとしていると考えたパリの民衆は、立法議会のよびかけで全国から集まった義勇軍とともに、8月10日テュイルリー王宮をおそい、議会は王を幽閉して王権を停止し、……」とあります。つまり外国軍の方が経験・装備も豊かで、フランス軍は劣勢な状況でした。これを挽回した、という意味です。「注1 1792年9月20日、義勇軍は国境に近い小村ヴァルミーでプロイセン軍に対し、最初の勝利をおさめた」が挽回のきっかけでした。


Q9 フランス革命期の人権宣言(人間と市民の権利の宣言)には自然権という言葉がよくでてきますが、この時代で意味する自然権、自然法、自然状態とは詳しく、わかりやすくいうとなんなんでしょうか??いまいち分からないので、お教えください。

9A 西欧人の考えた「自然」は神によって人間(アダムとイヴ)が造られたばかりの状態(エデンの園)を指しています。その後に歴史的に次第にいろいろな制約ができていった、いわば人工的な状態に、悪く変化したととる。こうした聖書や教会がみる「自然」の見方がひとつ。独立宣言にある「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」というのが代表例です。きわめて楽観的な人間観です。
 もうひとつ。神ぬきに人間のありのままの状態はなんなのか、それは粗野な生物的で暴力的な存在だ、という見方とがあります。生きるためには他のものを殺してでも生き抜こう、という自然の権利があります。この例がホッブズで、人間が国家や政府を知らない無法状態(自然状態、暴力解放の状態)にあるときには、各人は身の安全のために自然権を行使することになり、そうなると「万人の万人に対する闘争状態」が生じやすく、かえって自分の身の安全が危うくなると述べる。そこでホッブズは、人間は自分で自分の生命を守ることをやめ、つまり自然権を放棄することを国家をつくる条件にしました。
 このように「自然」の見方はちがいますが、いずれも人間の原始的な状態を思考の基本にすえて、その上で、こういう人間が集団としての国家や社会をつくっている、それはどうあるべきか、ということを考えたのが啓蒙思想家たちです。純粋「ありのままの自然」というものはどこにも存在しないのですが、すべての人に通づる人間観をつくりあげよう、そうすればすべての人に通づる法(自然法)も可能だとの理想をもっているのです。


Q10 1979年の都立大学の問題のことですが、
 近代世界においては、どこの国でも旧来の土地制度や農村のしくみを変革することが重要な課題となったが、西ヨーロッパ諸国の場合とアジア諸国の場合とでは、その課題の解決のしかたがかなり異なっている。西ヨーロッパの例として、フランス革命(1789年〜1799年)の場合には、どのような土地制度上の変革がおこなわれたか。
 アジアの例として、中国では、アヘン戦争から中華人民共和国成立の前後にかけて、農村の変革はどのようなかたちで展開したか。
 ……この問題に「土地制度上の変革」とありますがフランスにおいて土地制度は存在してないのではないでしょうか。フランス王朝が封建的特権を含めた土地制度を制定したことはないと思いますが……

10A 「旧来の土地制度や農村のしくみを変革することが重要な課題となった」というのが問題の前提ですから、土地制度はあります。ただ「制度」が政策というかたちで教科書にはのっていないので、これは難しい問題でした。制度は人為的につくる場合と、自然にできてしまう制度とがあります。ここでは後者になります。フランス革命で国民議会やジャコバン政権で改革があったのは知っているはずですが、それは「旧来の土地制度」を否定しているのです。
 教科書では、「自由主義的な貴族の提案で封建的特権の廃止を決定した。(注:この決定により、当時まだ残っていた農奴制・領主裁判権など、農民の人身的隷属を示す封建領主権や、教会におさめる十分の一税は無償で廃止された。しかし生産物や貨幣で領主におさめる貢租の廃止は有償とされたので、農民が土地を獲得して自立するためには多額の支払いを必要とし、実際に貢租から解放された農民は少なかった。)……1793年憲法を制定し、封建的貢租の無償廃止を最終的に確定し(注:また国外への亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が競売に付された。)
 中国の場合も「自然にできてしまう制度」としての大土地所有制がありました。それは農民が没落して佃戸になるという表現で表されています。そこでこの変革は教科書に「農村部で土地改革を指導して支持をかため、47年なかばから人民解放軍によって……中華人民共和国の成立を宣言した。……人民共和国は50年に土地改革法を公布して農民に土地を分配し、」という改革です。


Q11 重層的な土地に対する権利(封建的土地所有)のうち、フランス革命では農奴の、イギリス革命では地主の所有権が認められたということですか?

11A そうです。フランスでは農奴はせまい保有地の私有権(絶対的所有権)が認められました。しかし生活はできないので、地主の土地を借りて小作もしなければなりませんでした。イギリスではヨーマン・農奴の土地保有権はなくなり、農場に残るなら農業労働者しかない状態でした。


Q12 ジャコバン派がキリスト教を禁止する反キリスト教の立場をとった理由はなんでしょうか。また理性の祭典とはどんなものですか?

12A ジャコバン派だけが、反キリスト教的だったのではありません。教会の腐敗、その土地所有、身分としての僧侶階級(第一身分)などにたいする反発は革命以前から大きなものがありました。そこへ啓蒙思想の理性崇拝です。人権宣言の中の権利は信教の自由を保証していますが、それはなにを信じてもいい自由でもあります。ましてローマ教皇がフランス革命反対の立場をとり、対仏大同盟のリーダー的役割をになうことになると、国内の教会は敵に通じた陣営になりました。またローマに赴任していたフランス大使が暗殺される事件(1月)もおきています。
 理性の祭典はとくに1793年11月10日のものが名高く、これは私の知るところ桑原武夫編『フランス革命の研究』岩波書店に詳しい記事があり、それを引用させてもらいます。注や文章の一部を省いています。
 ノートル=ダム寺院の内陣の中央に「山(モンターニュ)」がつくられ、その頂上には「哲学に」という碑文をかかげたギリシア風の神殿がもうけられてある。神殿の入口の四隅には四人の哲学者、ヴォルテール、ルソー、フランクリン、そしてモンテスキューの胸像がたてられている。「山」の中腹にはこれもギリシア風の小さな祭壇があり、「真理」のたいまつがもえている。
 午前十時、国民衛兵の楽隊の演奏するなかを、コミューンとデパルトマンのメンバーが会場に姿をあらわす。そのあとに群衆がつづく。
 一同着席と同時に開会。音楽はつづく。「山」の頂上の神殿の左右に、白衣姿の若い女たちが二組になってあらわれ、山の斜面をゆっくり降りてくる。白衣に三色の帯をしめ、かしわの葉の冠をかぶり、手にたいまつをもった彼女たちは、「理性」の祭壇のそばで交錯する。そして一人ずつ進みでては「真理」の焔のまえで身をかがめ、ふたたび山頂へと斜面をのぼって行く。
 そのとき、神殿のなかから、一人の女性が姿をあらわす。青色のマントに半ばおおわれた純白の長いチュニク(ギリシア風の寛衣)をまとい、赤いボンネットをかぶり、手には黒橿の槍(ピック)をにぎっている。「理性の女神である。扮するはオペラ座の歌手オーブリ嬢(一説にはマイヤール嬢)。彼女は腰をおろし「自由人」の誓いをうける。「自由人」の役を演ずるのは、音楽アカデミーのコーラス隊である。彼らは一せいに女神にむかって腕をさしのべ、讃歌をうたう。
 降りたまえ、おお自由、自然の娘よ。
 人民は不滅の力を回復せり。
 旧き欺瞞くずれおちその華麗なる残骸のうえに
 人民はその手もてなんじの祭壇を再興す(シェニエ作詞、ゴセック作曲)。
 讃歌の合唱がおわると、オーブリ嬢の「理性の女神」は座をはなれ、神殿にもどって行く。そのシキイのところで彼女は立ちどまり、ふりむいて民衆にほほえみかけ、ちょっとした身ぶりをしめす。群衆はこれにわく。「熱狂が破裂する、歓喜の歌となって、永久の忠実を誓うことばとなって」と『レヴォリュション・ド・パリ』紙は報じている(その後、演説が行なわれたらしいが、その演説者の氏名および内容については不明)。これで一おう祭典がおわる。
(翌年の最高存在の祭典については中央公論社『世界の名著 ミシュレ』の中にえがかれています)


Q13 教科書に「理性崇拝の宗教をつくるなど……」とあって下に、「反キリストの立場から……」とあるのですが、これはかなり驚きなんですが、恐怖政治の時代はキリスト教徒も弾圧されたのですか? となると、この世には誰もいなくなってしまう……。そういうロベスピエールはキリスト教徒ではないということですか? それで、別のところに「革命以来フランスと対立関係にあった教皇……」って革命が起こったことでどうして教皇と仲が悪くなってしまうのですか。

13A ノートルダム寺院を理性の寺院にしたように反キリスト教的な面が強くでた革命でした。また教会財産を没収して、これを担保にアシニア紙幣を発行しています。グレゴリオ暦をやめて独自の革命暦をつくったのも反キリスト教的です。一部で、キリスト教会の略奪、破壊行為も生じました。中世以来の封建制と結びついたのが教会であり、これは何より啓蒙思想が批判したものです。しかしローマ・カトリック教への信仰自体は深く国民に根ざしており、急激な非キリスト教化は社会的混乱を生み、革命に対する国民の不信を買い、また対外的に悪影響のおそれがありました。そこでロベスピエールを中心とする公安委員会など他の革命勢力は、この反キリスト教運動に反対し、94年3月、エベール派(反キリスト教運動の中心的グループ)を没落させて運動は消滅していきました。ロベスピエール自身はキリスト教徒ではなかったようですが。


Q14 フランス革命に「プチブル」とありますが、これはどういう勢力の人たちなのでしょうか?

14A 「プチブル」は小(プチ)ブルジョワジーということです。小店主、小企業、農民、学者、職人などの階層のひとびとです。サンキュロットよりいくらか生活がましなひとたちです。


Q15 1796年にナポレオンがイタリア遠征でオーストリア軍を破ったのですが、その時そこにオーストリア軍がイタリアに進駐していたのはなぜですか。

15A 当時イタリアの各国(サルディニア、ピエモンテ、ヴェネツィア、パルマなど)もオーストリア軍を後ろ楯にしてフランスと戦っていました。表向きは大軍のオーストリア軍だけの記述が多いのはいた仕方ないとしても、反仏連合軍として周辺の国々はフランス包囲作戦をとっていたのです(対仏大同盟はイタリア戦役のときは崩れていましたが)。イタリア方面軍の総指揮官ナポレオンは1796年の夏から秋にかけてロンバルディアのオーストリア軍とイタリア諸国を破り、10月17日カンポ・フォルミオの和約を双方で結んでいます。


Q16 テュイルリー宮とは現在のルーブル美術館ですか。

16A いいえ。ナポレオンが宮殿として改修し、ルーブル宮殿(現在の美術館)と接合したのですが、1871年パリ=コミューンで炎上し1882年大部分が取りこわされてしまいました。テュイルリー宮の付属の庭は今も残っており美しい公園になっています。パリ市民の憩いの場です。そこでなんどか私もぼーっとしていたことがあります。


Q17 フランス革命のページで…「政権をにぎったジロンド派内閣は、1792年4月、王にせまってオーストリアに宣戦させた」と書いてあるんですけど、ナゼに宣戦したんですか?

17A 1791年に国王夫妻の逃亡事件(ヴァレンヌ逃亡事件)があり、国王夫妻はパリにつれもどされ幽閉状態にしたのですが、この国王夫妻の危機にたいして、オーストリアとプロイセンが武力干渉を示唆するピルニッツ宣言をだしました。このころからフランスの貴族が亡命しだしたり、この亡命貴族のフランス情報が周辺国に伝わったり、フランスの国境線にオーストリア兵が軍事行動をくりかえすといった緊迫した状態がうまれ、王がオーストリアにまた逃亡したり、オーストリアと裏取引をしないように迫る意味がありました。


Q18 フランス革命の1791年憲法の特色の立憲君主制とはどういう意味ですか?

18A 立憲とは憲法という法律をつくりそれに従った政治をおこなう、ということで国王もこの法律を守らなくてはならなくなり、法の下に国王が位置づけられます。国王の存在を認めた上での法による政治ということです。ただそれでも1791年憲法は国王に多くの権限が残され、普通選挙でもないのですが。


Q19 東大のエジプト史の問題(2001年)を解くときにでてきた疑問です。『詳説世界史』に「ナポレオンは……敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した」と書いてあるのですが、インドとの連絡というのは何ですか? たしか当時のエジプトはオスマン帝国の支配下にあったはず、なぜイギリスはオスマン帝国を通路にしてインド航路を保つことができたのですか? 大航海時代のポルトガルは何故わざわざアフリカをまわったのか……?

19A 西欧の国々にとってスエズ運河開通の前には、インドからの道は3ルートありました。ひとつはポルトガルのはじめた喜望峰まわり。次は紅海・カイロ・アレクサンドリアまわり、もうひとつがペルシア湾・バグダード・アレッポという北まわりです。後者の2ルートは全通路を船だけで行くことは無理があり、積荷をラクダに分散してキャランバンを使わねばなりません。遅くなりますが、それでも喜望峰ルートも時間がかかります。半年から3ヶ月もかかりました。後者の2ルートの場合は、途中にオスマン帝国の関税や仲介者に賄賂をつかませたりしなくてはなりません。喜望峰まわりであればこうした仲介者なしで面倒はありませんが。ナポレオンの意図は紅海・カイロのルートを押さえることでした。それだけでなくエジプトを押さえたら全アフリカがフランスのものになると皮算用をしていました。


Q20 パリコミューンがドイツとの戦争を継続しようとしたのはなぜでしょうか?

20A なにより帝政が崩壊して必然的に共和政の方向がでてきたために、この共和政をパリで守りたい。またヴェルサイユでプロイセン軍と結託しているティエールという保守的な政治家が許せない。第二帝政が軟弱な戦い方で、あっさり負けたことに我慢がならなかった。パリには十分戦えるだけの兵力・弾薬・城壁がある、という確信も手伝いました。二月革命とナポレオン3世のクーデタのために亡命していた人たちルイ=ブランやユゴー、ブランキらが帰国して市内にいました。プロイセンに負けたら自由は無くなるという漠然とした危惧もありました。


Q21 フランスの工業化はなぜ遅れたのですか?

21A 「遅れた」という表現は正しくありません。イギリスがだんとつに早いだけで、欧米の他の国では1830年代からはじまります。ロシアは1860年代から、日本は1890年代からです。むしろその工業化の進み具合がなぜ遅かったのか、という問いの方が適切です。フランスはスタートは遅いといえないが、進行は遅かった。
 工業化は産業革命と同義ですが、この革命にはいくつもの事柄(条件)が備わっていないとできあがらないものです。政治的な規制の排除、資本の蓄積、労働力、原料や資源などです。また機械改良をさかんにおこなう技術者がいないとできません。フランスは革命によって規制を排除し、資本はあるものの、労働力はなく、資源・原料は決定的に不足していました。革命の結果、農民が土地に根付きイギリスのように農村から農民を追い出すエンクロージャーはなく、石炭はとくに欠如し、原料になる綿花をえる植民地を持ちませんでした。イギリスのように民間人が自発的に改良をおこなうような手工業の伝統がなく、上から絶対王政がマニュファクチュアをつくることでフランスの工業ができていて、しかも奢侈品(ぜたいく品、絹・麻織物・ゴブラン織・ガラス工芸)ばかりつくっていました(イギリスの産業革命は綿織物という日用品)。さらに政治的な不安定さがつきまとい、政府の方の後押しもない。


Q21 『詳説世界史』 p.264「ドイツに対する報復の主張や共和政に対する攻撃が、ブーランジェ事件やドレフュス事件となってあらわれた。」とあるのですが、どのへんにどう、そんなものがあらわれているんか全くわからないんですが……しかもなんでフランス人が共和政を攻撃せないかんのですか。

21A 敗戦したことからくる恨みです。「ドイツに対する報復の主張や共和政に対する攻撃」はドイツに報復したいというフランス人の願いがあり、それを実行しない共和国政府に対して軟弱だと非難しているのです。
 ブーランジェ事件はドイツに対する復讐戦争をやるべきだと唱えたブーランジェが権力の座につくクーデタに失敗した事件でした。成功していたらドイツを痛めつける戦争ができたのに寸前のところで失敗したことを残念がっているのです。ドレフュス事件はフランスの軍事機密がドイツにもれた、つまりフランス軍部の失態なのですが、それはただでさえドイツに復讐したいのに、逆にドイツにやられた、と残念がっているのです。


Q22 東京大学の過去問を見直していて2006年度の問題でナポレオン戦争を助長した要因としてナショナリズムがあげられますが、そもそもナショナリズムというのはどういう経緯で生まれたものなのですか?

22A 徴兵制をしいたのはジャコバン派ですが、初めに戦争を望んだのはこの革命側ではなかった。反革命の側、つまり国王自身、亡命貴族、革命のゆきすぎを心配するジロンド派、そして周辺の君主国、中でも親族のオーストリアとプロイセンの脅し(ピルニッツ宣言)、イギリスの対仏大同盟などでした。こうした危機に、戦う意欲のない貴族の指揮する古い軍にたいして、ジャコバン派は「武器をとれ! 革命を守れ!」と叫び、義勇兵もパリに参集し、「ラ=マルセイエーズ」が国歌となります。この歌をはじめに合唱していた兵士は裸足でした! 武器も訓練も不足していましたが戦意(ナショナリズムと言い換えても同義でしょう)というエネルギーだけが熱くふつふつ、です。
 つまり外国軍が入ってきた危機に、じぶんたちの生命を守ろう、という対応がナショナリズムの起源です。かのヴァルミーの戦いのさいは、マルセイユ、ブルターニュその他フランス各地から集まって来ました。彼らは自分の費用で武装するか、それとも誰かの出資によって武装しなければならなかった。緊急の対応であったことが伺えます。国家が武器を支給してくれない。そんな準備もできていない。義勇兵に参加できた者は武器の用意できたブルジョアの子弟でした。貧しい階層の者が出陣するばあいは、商人、工業家、その他の財産家が彼のために献金してくれたら参戦が可能でした。ま、ブルジョアの傭兵になります。
 出撃するとしても、兵站(へいたん)はどうするか。軍需物資、食料の強制徴発をおこないました。これも緊急の処置です。例として、大貴族たるコンデ太公のシャンチイイの領地から、22頭の馬、多数の馬具、テント用の布を徴発したという報告があります。クルセルという貴族の城を捜査して、20ばかりの小銃と馬、馬具を徴発したという報告もあります。このような形で、急ごしらえの義勇兵の装備が整っていきました。
 戦争が長引いたり、平和になったら国家が次の戦争の準備としてナショナリズムを意図的につくりあげる過程がつづきます。外国の脅威を煽り、国歌・国旗の制定、命令語の統一、愛国教育(忠誠心、国に命をささげろ)と。日本もロシアの脅威を煽り、ナショナリズムをかきたて周辺国に侵略しました。
 「国家(国)意識」そのものは長い目でみれば、中世末の反ローマ教皇的なガリカニズム(国家教会主義)があり、絶対王政の際のルイ14世の自然国境説などがありますが、これらは上層のひとたちだけのもので、国民全体に広がるのは革命戦争以降です。

疑問教室・西欧近代史〔仏以外〕

西欧近代史〔仏以外〕の疑問

Q1 なぜ産業革命自体はイギリスばかりで他の国はあまりとりあげていないのですか?

1A 産業革命の諸条件(資本、労働力、市場、原料、資源など)が一番早くととのった先駆であるためです。イギリスを説明しておけば、他の国も同じような条件がそろわないと革命がおきないからです。もちろん国ごとに微妙にちがいはあります。先の条件があったり無かったり、不十分だったりするからです。


Q2 なぜ一番初めにイギリスが産業革命に成功したのですか?詳しくおしえて欲しいです。

2A そのことは教科書に必ず書いてあります。下に書くことは補足にすぎません。
 (1)イギリスはどこよりも早く農奴解放を実現した国であること(13〜14世紀)。農奴解放によって土地から自由に出ていってもいい農民が成立しました。ほとんどの国も時代も人間は農民であり、土地ととともに生きてきました。ところがイギリスでは土地から離れてもいい状況が生まれたのです。それを加速したものに囲い込み(エンクロージャー)があります(15〜16世紀)。浮浪者・乞食になったものもいましたが、マニュファクチュア(工場制手工業)の賃金労働者になったものもいます。まだ手工業段階で機械工業ではありませんが、この賃金労働者という存在が新しい農民の変貌した姿なのです。
 (2)17世紀の市民革命(清教徒革命と名誉革命)により封建的土地所有の廃止、ギルド制廃止による営業の自由、国内市場の統一など法的規制を排除して自由に流通する経済社会をつくりあげたことも一因です。
 (3)18世紀の植民地戦争の勝利による原料供給地(原料は植民地で安く入手可能)や市場の獲得は教科書にも書いてあります。書いてないことを追加すれば、リヴァプール港市を中心に奴隷貿易による利益がたんまり蓄えられ、資本(投資するお金)の蓄積になったこともあげられます。
 (4)また産業革命は綿織物でする新興産業であり、中世以来のギルド規制がないこと、綿織物が大衆消費財であり大量生産に向いていることもあげられます。
 (5)ここまではイギリス独自の優越性ですが、これからは逆にイギリス自身によるのでなく、外からの影響で実は産業革命をおこさざるをえなかったという面を指摘します。東インド会社がインドから輸入したキャリコ calico の刺激が大きかったことです。この手織りの綿布は、イギリスが毛織物工業で栄えているところ入ってきたので、脅威になりました。綿布は肌ざわりがよく、染めると毛織物よりずっときれいに染ったからです。あまりに売れるので、毛織物業者が困り、議会に働きかけて、キャリコ輸入禁止法という法律をつくってもらいました(1700年)。それでも売れるのでキャリコ使用禁止法もつくってもらいました(1713年)。それでもよく売れました。また植民地でも西インド・アフリカでも需要がありました。とするとイギリスの毛織物業者も決心して、じゃわしらも、綿織物をつくろう、とインドの物まねを始めたのです。この物まねを産業革命といいます。
 (6)また羊毛より機械にかけやすい、という綿織物の独自の特性もありました。


Q3 ナポレオン=ボナパルトのエジプト遠征で第一回対仏大同盟がイギリス、オーストリア、ロシアにより作られたと書いてあって…何でロシアがこの同盟に参加するのか、理由がわからないんです。

3A ナポレオンの遠征は革命を輸出するものだったからです。征服地にフランス革命の成果(君主政の廃止・憲法・議会・人権)を伝えるものですから、各国の君主は反仏の立場をとったのです。それとナポレオンを倒せるのは大国の軍隊でしかできないからです。


Q4 1815年、四国同盟を結んで、のち、イギリス外相カニングの時に四国同盟から離脱してるんですけど、ナゼですか? 領土の対立とかあったんですか?

4A 四国同盟でも五国同盟になってもイギリスと他の国々との対立はよくおきていました。中南米植民地の独立(1809〜25)、ギリシア独立戦争(1821〜29)をめぐってです。1820年からのスペインでの革命運動でも対立したのですが、イギリスの反対を無視してフランスが派兵してつぶしたことに抗議して離脱しています(1822)。この後も、フランスで七月革命(1830)、ムハンマド・アリーの反乱(1831)でも対立しています。


Q5 フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」と講演した時は、ドイツという国は存在しないのに、何故「プロイセン」でなく「ドイツ」という言葉を使っているのですか?

5A 「ドイツ」というのはもともとドイツ語を話すひとびとを指し、そこから話すひとびとの地域も指していきます。8世紀ころから使われていました。国はなくても「ドイツ」という民族・地域表現はあったのです。東フランク王国がほぼ、その地域に該当します。この東フランク王国は、カール大帝がつくりあげたフランク王国の東部で、9世紀(メルセン条約、870年)に国境が確定します。フランク王国の西部は古代ローマの属州となっていましたが、東部はライン川(ローマ帝国国境線)の東にあったためローマ文化の影響を受けていません。ゲルマン人の言語や文化が保たれた地域だったわけです。具体的には北部からザクセン族、フランケン族、バイエルン族、シュヴァーベン族などのゲルマン諸部族が住んでいたドイツ語地域です。11世紀ころから「ドイツ王国」という名称も使われ、事実上「神聖ローマ帝国」の別名として使われます。したがってドイツ語民族はすでに存在していて統一国家だけがない、という状況、しかもフランス軍に占領されているという屈辱の中での演説は、あるべきと考えている「ドイツ国民」にむかって話していることになります。


Q6 ナポレオン戦争・大陸封鎖令は産業革命期のイギリスになんらかの影響を及ぼさなかったのですか?

6A もちろんあります。(1)産業革命のために都市に人口が流入し、自然増の人口増大もあり、食糧需要が高まっています。そこにフランス革命・ナポレオン戦争のためにヨーロッパから穀物が輸入できない状態になり、穀物価格はどんどん値上がりしています。穀物をつくれば「大儲けできる !」という情勢だから囲い込み(第二次エンクロージャー)が行なわれます。 (2)革命の波及をおそれて、1795年に50人以上の集会の禁止令、1799年に労働者の団結やストを禁止する結社禁止法(団結禁止法)が制定されます。1801年には人身保護法も戦争中は停止されています。 (3)経済一般は戦争ですから、どこでもいつでも見られる現象があります。インフレ、戦費のための新課税、貿易減少、国債の膨張など。しかしもうけた分野もあります。穀物生産の農場だけでなく、武器・軍艦製造の製鉄関連産業です。軍服をつくる繊維業ももうけました。これらの軍需産業のより早く大量に製造したいという要請が、蒸気機関の生産を促しました。米英戦争(1812〜14年)は一時的に米国産の原綿輸入を滞らせましたが、全体としては産業革命刺激剤だったわけです。


Q7 なぜ穀物法が地主を保護し、撤廃により資本家が利益を得るのですか?

7A 穀物法は輸入する穀物に高い関税をかける法です。ナポレオン戦争のときと同じ高価格を平和になってもかけて、戦争中と同様に利益を維持したいのが地主です。しかし高価格の穀物法は労働者への食糧への圧迫となり、かれらを雇っている資本家にたいして賃金が安い、パンが買えないと労働者から攻撃されます。それで穀物法がなくなれば、資本家側は払う賃金を安く抑えることができるのです。


Q8 1827年にギリシア独立に際して、フランスが援助した理由がわかりません。英・ロシアはわかるのですが……。

8A はじめはロシアの干渉が見られ、これを警戒するイギリスが加わり、イギリスがフランスに働きかけて干渉するという順です。この順が、ギリシア支援といいながら、他の国がこれを利用してバルカン半島にのさばってもらいたくない、という意図をフランスは隠しています(1999年春のコソボ紛争ときはロシアが利用してNATOの後で介入してきました)。フランスにとってもナポレオン以来アフリカ征服計画があり、当時のエジプト太守ムハンマド=アリーの軍を育てたのはフランスでした。やはりロシアの南下はフランスにとっても嫌なことだったのです。それに国内にはブルボン朝が復活しながらも自由主義のたかまりがありました。「ギリシアに自由を」という声を政府とて抑えることができません。もうすぐそこに1830年の七月革命が待っています。


Q9 ティルジット条約やヴェルサイユ条約にダンツィヒ市を「自由市」とする、という教科書や参考書に書いてあるこの「自由市」とは一体どういうものを指しているのですか?

9A 独立した都市国家という意味です。どこにも属さない都市だけで政治的権利を行使できる国家です。周辺の強力な国家によってかんたんにつぶされてしまう運命でしたが。


Q10 「インターナショナル」ってものがよく分かりません。労働関係なんですか? 共産主義なんですか?

10A 労働運動の国際的組織をいう意味です。その中身は時期によっていろいろです。歴史的にみて代表的なものとしては、種々の社会主義者が集まった第一インターナショナル(日本語訳としては国際労働者協会)と第二インターナショナル(国際社会主義者大会)の二つ。そして社会主義の中から共産主義者が離れてつくった第三インターナショナル(共産主義インターナショナル、別名コミンテルン)などがあります。1989年の東欧市民革命や1991年ソ連邦解体によって、事実上、国際的な共産主義の運動は崩壊したといっていいでしょう。社会主義の国際的な組織はまだあります。


Q11 「ドイツ」と一言に言うと、19世紀後半に統一された「ドイツ帝国(第二帝国)」のことを指すと思いますが、「第二帝国」より以前のドイツ領土には一体どのような国々があったのですか。たしか、300前後の国が合併などを経てナポレオンの時代には「ライン同盟」なるものが発足したと思うのですが、できれば「ライン同盟」の国々を教えてください。

11A ライン同盟の国々は最終的には39邦になりますが、同盟の主な構成は、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデン・ヘッセン・メックレンブルク・ナッサウ・ベルグなど西・南ドイツの16邦です。このとき同盟成立とともに諸邦はドイツ帝国(神聖ローマ帝国)から離脱し、その結果、帝国は皇帝フランツ2世の解体宣言で名実ともに消滅しました。のちに西北のザクセン・ヴェストファーレン王国などが加わります。オーストリアとプロイセン以外の全ドイツ諸邦が加わり、39邦となりました。


Q12 1976年の東大の問題に関してひとつ質問があるのですが、鉄道が電化したのはいつ頃なのでしょうか?実は解答するときは勘で19世紀後半と書きました。

12A 勘が当たっています。1879年、ドイツのE・W・ジーメンスが初めてベルリンで実用車の試験に成功し、日本では1912年(明治45)、信越本線横川=軽井沢間の碓氷(うすい)峠アプト式歯車軌条区間が電化されたとのことです。


Q13 何の益があって国外投資(資本輸出)なんてするのですか? 資本の輸出だから、儲けゼロでは…?

13A いいえ。欧米のような高い人件費を払わなくても生産してくれる労働者がおり、安い原料や土地があります。これを利用すれば、欧米ですべて調達するより利益は大きいのです。安いところでつくって高いところ(欧米市場)に売るのは利益を産みだす基本です。これは植民地をつくる目的でもあります。


Q14 グラッドストンの小英国主義はどのような考えに基づいて生まれたのですか?

14A 小英国主義は、保守党が好戦的な帝国主義政策を批判する主張です。アイルランド、エジプトなどイギリス帝国各地の紛争に対して人命と費用の重さに苦しんでいたためです。グラッドストンはギリシア古典の研究家でもあり、自由・節約・平和を大事にする性格のひとでした。


Q15 「世界システム」ってなんですか?

15A 山川の『世界の歴史』に結構説明した記事がありました。
〔解説1 近代世界システム〕
 大航海時代以来、西ヨーロッパを中心に発展した経済体制を、われわれは資本主義とよんでいる。資本主義の発展は、重商主義の例が示すように、まずもって国民経済という単位で進行したが、世界史的な立場からもっと大局的にながめるならば、それが根本的にはヨーロッパ世界経済であったことに気づくであろう。この世界経済の基本性格は、できるだけ大きな利潤の実現をめざす市場むけ生産のために成立した世界的な分業体制と規定される。
 ヨーロッパ世界経済は、近代以前の世界システムが、中国やローマなどにみられるような世界帝国のかたちをとったのに対し、政治的な統合を欠く世界的な分業体制という意味で、つまりなによりも経済的な一体性に重点をおいて、「近代世界システム」とよばれる。このシステムはいっきょに成立したものではなく、大航海時代における西ヨーロッパの世界進出とともにはじまり、西欧内部での覇権の交代をともないつつ、現代にいたるまで拡大してきた。その際、世界経済は中核・半周縁および周縁という、三つの構成要素からなっていることに注意しなければならない。まず16世紀のヨーロッパ世界経済では、西欧諸国が中核となり、かつての最先進地域であった地中海地域は半周縁となる。そして、東欧と新大陸はこの世界経済の周縁を形成した。中核地域では、主要な産業であった農業についていえば、資本家的地主に雇用される自由な賃労働が、半周縁では分益小作制が、周縁では奴隷制(アメリカ)や農奴制の遅咲きともよべる強制労働(東北ドイツや東欧)が、労働管理の形態となる。
 以上のような見方は、いささか奇抜にみえるかもしれない。しかし17世紀以降ロシア・トルコ・アジア・アフリカがしだいに近代世界システムにとりこまれ、「第三世界」における低開発が深刻な問題になっている現在、これは世界史のみなおしに有力な手がかりをあたえてくれるであろう。
 また帝国書院の教科書『世界史B』には以下の記事があります。
 キーワード「覇権国家」  近代世界システムでは、中核諸国のうち、圧倒的な経済力をもつ一国が、他の中核諸国との競争に勝ち、覇権(ヘゲモニー)を確立した国家をいう。17世紀中ごろのオランダ、19世紀のイギリス、20世紀後半のアメリカ合衆国の三国がその代表で、いずれも、経済的優位を背景に自由貿易を主張した。
 この世界システム論はウォーラースティンというひとが唱えてはやったものですが、内容はヨーロッパ中心に世界経済がまわったということを言いたいもので、ヨーロッパ中心史観のひとつです。かっこよく世界史がまとまるのでつかうひとは大学でも多くなってきました。しかしこのひとの言っていることは京大の出した『世界資本主義の歴史構造』(河野健二・飯沼二郎編、岩波書店、1970)とあまり変わりません。ウォーラスティンの著書は70年代半ばですから、京大の方が早いです。この中に世界分業体制のこと、中心と周辺のことも書いてあります。わたしはこの本にあるものをもとにして、すでに20年来、駿台でつぎのように説明しています。これは産業革命の歴史的経緯と、その影響という問題に対処するには是非とも必要なことがらです。
(1)核国、イギリス「世界の工場」(2)準辺境国、米独仏露日……自立的国民経済形成 (3)辺境地、ラテン米、アジア、アフリカ、モノカルチャ的一次産品国、競合的在来手工業の衰退、農村共同体の崩壊、原料食料を安く供給し機械製品を高く買う従属国に転落、後進経済の形成
 ただ世界史の展開を理解する理論としての「世界システム論」は明らかに西欧中心史観であり、これでは近世・近代を理解できても、それ以前は世界の連関がなくなることになる、という欠陥をもっています。
 「近代世界システム」ということば自体は世界史の論述のためにとくに知っておかなくてはいけない、というものでもありません。これを知っていていたからとて、東大の銀経済(2004年度)が解けるともおもえません。


Q16 『練習帳』の「基本60字」のp55にある、イギリスの「地主議会」がどういうものなのか教えてください。

16A 地主議会とは、近現代史の目からみて地主だけが議席をもっている議会のことで、当時は産業資本家の議員が一人もいない議会でした。これは19世紀末までつづきます。20世紀になってやっと産業資本家の議員が当選します。庶民院(下院)の議員として活躍した自由党のグラッドストンは、東京3区くらいの土地をもち、そこで働く農業労働者は2500人だということです。これでも中規模の地主です。

疑問教室・西欧近世史

西欧近世史の疑問

Q1 近世と近代はいっしょですか?

1A 教科書ではルネサンスや大航海時代の説明からを「近代ヨーロッパ」という題をつけています。つまりほぼ16世紀からを「近代」としています。ところが『詳説世界史』のこの題をつけたすぐ下の囲み記事には、この時代区分をいきなり否定するような説明をしています。「第9章では、15世紀末から17世紀前半の近世・近代初期のヨーロッパをとりあげる。15世紀末から、ヨーロッパ人は海外進出にのりだし……」と「近世」という表現と「近代」とを並列しています。また「第11章 欧米における近代社会の成長」と題したところの説明文では「第11章では、18世紀の後半……これら両革命は、近代市民社会の原理を提起するものであった」と近代市民社会が18世紀後半から始まったことを指摘しています。これはいったいどういうことなのか。学生を混乱させます。実際、2005年度の一橋の問題(「身分制議会」と呼ばれるが、その歴史的な経緯と主な機能、そしてその政治的役割について、特に近代の議会との違いに留意しながら具体的に述べなさい。)を中世の議会と絶対王政の議会とを比較した受験生もいるはずです。しかし絶対王政の議会と比較すると「違い」はあいまいにならざるをえません。
 山川出版社が教師用に出している「詳説世界史・教授資料」の第9章の初めには「ヨーロッパは、近世と呼ばれる15世紀末から18世紀末の時期に、遠洋航海の拡大によって……この時代にヨーロッパは、ルネサンスや大航海、宗教改革、絶対王政、資本主義の発達といった経験を通じて近代世界の主要な要素を準備した」と。この「教授資料」が正しい説明です。ヨーロッパ史学では modern ということばで16世紀以降のすべての時代をくくる名称にしていますが、本来は16世紀(15世紀末)からを「近世」として本格的な「近代」を18世紀末(1760年代)からと表現すべきです。拙著『練習帳』の巻末「基本60字」にはこうした時代区分をハッキリさせています(p.41)。


Q2 大航海時代に伴って生じた「商業革命」「価格革命」という概念についてです。価格革命とは、スペインが新大陸経営に力を傾注し、エンコミエンダ制を強化して、(なかば対価なしという状態で)ポトシ銀山を初めとする銀山から大量の銀を採掘させ、これをヨーロッパにもたらしたことで、銀の価値暴落がおき、物価高騰を引き起こしたものである、と解釈しています。
 いっぽう、商業革命については、理解に困るところがあるので、解説してください。
 なぜ、地中海世界が「没落」したといえるのか、ということです。商業革命とは、相対的な意味で「大西洋沿岸が中心に移った」ということですか? それとも、絶対的に地中海沿岸は商業面で衰退してしまったということですか? 地中海地方が絶対的に衰退した、と仮定します。マムルーク朝がエジプトに介在していたことで東方のモルッカ諸島原産の香辛料というヨーロッパ食文化の必需品は、イスラム商人(カーリミー商人)を経てヨーロッパにもたらされた時点では値段が上がっているはずです。このことに対する不満として「新航路開拓」が進んだ、ととらえることができ、カーリミー商人を介さない形での貿易の運営、即ち東廻りインド貿易路を用いた貿易の運営(つまり地中海都市の東方貿易はすたれる)へと変わっていった、ということぐらいが、地中海⇒大西洋へと中心地が移ったことの背景として
考察できるのですが、以上のような理解でよいでしょうか?

2A 価格革命はOKです。商業革命も基本的にはそれでいいです。ただすぐ地中海商業圏ないしイタリア商人が衰えたのではありません。16世紀にイタリア商業は一時復興したりしますが、ゆっくり衰えていったのは事実です。地中海にはオスマン帝国の船の他に、スペイン・オランダ・英仏の船が入り込んできます。これらの国々との競争に負けていったのです。15世紀までさかえた理由のひとつに造船があったのですが、木材が不足して造船できなくなったためも一因です。繁栄は衰退を準備したともいえます。また不安定な商業に投資するより土地購入に傾いていった点もあげられます。土地で穀物をつくり売る方が安定していると。
 現象的には商業の指導国が「地中海⇒大西洋へと中心地が移った」でいいですが、それ以外に商業圏の変化(中世の地中海・バルト海・北海→全世界、五大陸)もあります。セビーリャ商人とカディス商人を主体とするスペインによる大西洋(西インド)貿易、リスボンのポルトガルを中心とする東洋=東インド貿易という商圏が世界的規模に拡大されたこともさしています。換言すれば、イタリア商人はゆっくり衰えたが、東方貿易が衰えたのではない、ということです。これ以降のことは、Q42 の答えに説明があります。


Q3 重商主義政策というのはどういうものなのかいまいちよく分りません。山川の用語集p.187には、絶対王政下で重商主義政策は行われるとあるのですが、イギリスとかオランダでも絶対王政でなくても重商主義政策が採られたと思うんですが……。

3A 用語集は舌足らずですね。アメリカの13植民地に対してイギリスがおこなった政策、このときは名誉革命後で絶対王政が倒れた後の、議会主権のできている時期の重商主義政策です(用語集p.195)。
 疑問のとおり、重商主義には2つあり、絶対王政のとる重商主義を「王室的」重商主義といい、絶対王政が倒れた後の重商主義を「議会的」重商主義といいます。拙著『練習帳』の巻末「基本60字」p.56下段の4に「イギリスの議会的重商主義を、米大陸への植民地政策を例にして述べよ」という問題があり、右のページにも上にあげた説明を書いています。教科書がつかっていない用語ではありますが。『国富論』を読むとわかるのですが、重商主義とは近世の西欧諸国が経済を管理し、貿易収支の黒字をはかり、輸出を助成し、国内産業を育成した政策です。この定義でわかるように「商」だけ重んずるのでなく、経済全般であることです。かんたんにいえば、国家の経済介入政策です。この政策をとる国家の形態はなんでもいいはずです。ニューディール政策を支持したした経済学者(ケインズたち)がこの重商主義に共鳴していたのもうなずけるものです。東インド会社解散や穀物法廃止によってイギリスは重商主義政策をやっと放棄します。国家の介入をやめる自由主義政策への転換です。このように重商主義は19世紀半ばまでつづいていたのです。


Q4 宗教改革の時に、カール5世はなぜルターに異端的な説のとりやめを要求したのですか?ルターは諸侯や市民や農民の支持をうけていたのだから、教皇側に立つのは不利に思えるのですが。それに、十字軍以後は教皇権は弱体化したのに、わざわざそんなことをする程の結びつきがあったのかが少しよくわからないのですが。

4A カール5世だけでなく、ルターを異端とおもう多くのひとがいました。諸侯や市民や農民の支持をうけていたといっても全部ではありません。教皇権は弱体化していたのは事実ですが、カール5世にはローマ帝国皇帝であるという誇りがつよく、自分が全欧の責任者であるという自覚から、異端問題を解決して全欧に自分の力を示したかった。この自覚はトリエント公会議でも新旧両派を呼んでなんとか和解させようという点にも現れています。旧教徒しか集まらないので、そうはなりませんでしたが。息子のフェリペ2世にはこの自覚がはじめからありませんでした。


Q5 カール5世が、西はイタリア戦争でフランスと争い、東はオスマン帝国の侵入におびえる、という国際情勢のもとで、勝手気ままな政策を行なった(第1回、第2回シュパイエル帝国議会)ので、シュマルカルデン同盟が組織され、戦争が起こったようです。そして、カール5世が勝ったのにもかかわらず、なぜルター派の言い分も取り入れたような形で「アウグスブルクの宗教和議」を取り決めたのですか? 当時のカール5世(ハプスブルク家)としては、カトリック政策を進めたかったはずですから、シュマルカルデン戦争で、ルター派に勝利した以上、ルター派への譲歩は必要なかったはずです。場合によっては、国策に反抗し、国王に抵抗してきた罪でルターが処刑されてもおかしくなかったはずです。だのに、なぜ、アウグスブルクの宗教和議では、ルター派への譲歩が見られたのでしょうか。

5A シュマルカルデン戦争(1546〜47)は皇帝側の勝利になっているのですが、その続きがあります。皇帝側についていた選帝侯が1552年反旗を翻して新教側にまわり、新教側はフランス王アンリ2世と組んで皇帝派と戦い、このときフランス軍がライン川流域を占領するという事態にまでいきました。プロテスタント派が優位の状況です。カトリックのフランスがなんで、という疑問はわきますが、当時の戦いは必ずしも宗教的団結だけでないことは、イタリア戦争でフランソワ1世とカール5世がカトリック同志でありながら長いこと戦いつづいたことでも分かるでしょう。それでカール5世は失意のうちに退位し、弟のフェルディナントに委ねてしまいます。このフェネディナントの下でアウグスブルク和議が結ばれました。


Q6 フランスにユグノーが元々あまり浸透していなかったのは農業主体の国だからでしょうか?

6A 面白い疑問ですね。都市にカルヴァン派は浸透するので、あまり中世都市の発展しなかったフランスには理由のひとつになるでしょう。そういえば産業革命がなかなか進行しなかった、緩慢であった、というのも農業主体だったからでした。きわめて保守的な国なのかも知れません。良くいえば、新しいものには軽々しく付いていかない。


Q7 フランスは旧教国なのに、カトリーヌ=ド=メディシスはどうしてユグノー寛容策をとったのですか?

7A カトリーヌ=ド=メディシスは一貫性のある女性ではありません。はじめは寛容精神で(一般にカトリックの方がプロテスタントより寛容です)、新教も認める立場でしたが、それが挫折すると新教徒の弾圧・抹殺に走り、サン=バルテルミーの虐殺もおこしています。これは西太后が義和団を利用して欧米に宣戦布告をしたものの劣勢になると撤回して、今度は義和団の弾圧を命じたのと似ています。


Q8 山川の教科書の159ページの3行目から8行目なんですが、1522年春という風に明確な時期が分かっているからには何か具体的な出来事があったのですか? 細かいことですが少し気になりました……。

8A ウォルムス国会のルターの英雄的な発言が伝わりながら、その帰途の1521年、ルターがザクセン公の城にかくまわれて1年間近く(21年5月〜22年3月)姿を消したことから、ルターの教説を独自に解釈する者たち(騎士・農民・貴族)が現れ、分派し独自の教義をつくりだしていったようです。そのため城から出てきたルターと対立することになります。ルター派内部の分裂です。


Q9 「宗教改革運動と国民国家の形成との関連」の問題について質問があります。“国民国家”とはどのようなコトをいうのでしょうか。

9A 国民国家とは、教科書『詳解世界史』(三省堂)では「長期にわたる戦争は終わった。この戦争の結果フランスでは諸侯・騎士が勢力を失い、これに対し、国民感情の覚醒と常備軍の設置を背景に王権がさらにのび、シャルル8世のときには絶対主義への道が開かれた」にいくらか記載してある「国民感情の覚醒」の部分です。
 もっと明解に書いているのは山川の教科書『世界の歴史』では「中世末から17〜18世紀にかけて王権が強大になり、絶対主義国家がうまれると、国家の支配・統合機能が格段に強まり、これとともに政治的共同体としての民族あるいは国民(ネーション)が形成された。それは通常有力な中心民族に複数の周辺・少数民族を加えて、政治権力の上からの操作によってつくられることが多い。その際、当時各国で資本主義経済の発展につれてうまれていた全国市場や、市民層が育てた国民文化が政治的統合の基礎になった。……しかし絶対王権は国民を統合の対象として受け身の立場にしかおかなかった。これを逆転させ国民を主権者にしたのが市民革命であり、これとともに一つの政治・法律制度をそなえ、国民に主権者としての権利とともに納税・教育・兵役などの義務をおわせる近代的な国民国家が成立した」と。
 まとめれば、近世に絶対王政が国境・民族・言語・信仰をまとめ、近代になって市民が国家の土台となって下からつくりあげた、ということになります。


Q10 山川の教科書に「グスタフ=アドルフの戦死で和平気分が高まると、仏は公然と参戦したとあります。それはとりあえず、宗教戦争は終わったと仏は見なして、今度は権力争いとして公然と参戦したということでしょうか?

10A 「戦死で和平気分が高まると、仏は公然と参戦」は途中をだいぶ省いた記述です。アドルフは戦死しましたが、スウェーデンが全般では勝利しました。しかしその後の戦闘ではまた旧教側の神聖ローマ帝国・スペインが挽回しています。それで小康状態「平和」になっていたのですが、1630年からスウェーデンが参戦し、このスウェーデンに資金支援をしたフランスとしては、どうしてもハプスブルク家をたたきたい、また領土もほしい、ということで黒幕であったフランスが表立って出てきた、という順です。


Q11 三十年戦争の際、フランスは旧教国でありながら、リシュリューの提案により自国の利益を優先するため新教国側として参戦した、とあるのですが、ここでいう「自国の利益」とはどのようなことをいうのですか?

11A フランスにとってハプスブルク家の台頭はお隣でもあり安閑としておれない。三十年戦争の4回の戦争(ボヘミア戦争、デンマーク戦争、スウェーデン戦争、フランス・スウェーデン戦争)のうち前半二回は神聖ローマ帝国の勝利でした。これを見ておれないフランスは三回目のスウェーデン戦争のときからひそかにスウェーデンを経済支援していて、とうとう四回目にフランスという黒幕がでてきた、ということになります。宗派は同じでもお隣に大国がないことを望んだのです。16世紀のヴァロア朝とハプスブルク家の対立は17世紀のブルボン朝とハプスブルク家の対立として宿命的な戦いをつづけたのです。こうした国威(国家の威信)を保ちたいことの他に、領土の拡大も「自国の利益」目的にはあります。


Q12 主権国家というものが僕にはいまいちわかりません。主権国家体制はヨーロッパで確立されたと書いてありますが、この時期に例えばオスマン帝国など他の地域における主権国家はないのですか?

12A 主権国家のかんたんな定義は、国内最高権力と対外独立が実現している国家のことです。国内で最高の暴力をもち国家以外の、貴族といえども、だれもこれに抗えないほどの権力です。中世の国家では神聖ローマ帝国が代表ですが、これだと皇帝の権力は各小国(領邦と呼んでいるもの)に対して皇帝権は及びません。そこに帝国官僚も入ることができません。皇帝は三十年戦争を待たなくても名目です。前をたどっても1981年の東大の問題にもあったように、実態はカールと伯との個人的な結びつきにすぎないのが西ローマ帝国でした。伯や巡察官はまともな官僚とはいえないものでした。それが官僚を派遣して中央の法と裁きを受けさせるようになれば、主権国家です。
 これだけとれば明清もオスマン帝国も主権国家といえます。ただ対外独立は実現していません。対外的にはどこの国にも従属していない状態でなくてはなりません。しかもそれは他の国々、あるいは列強でもいいのですが認めてもらわないといけません。神聖ローマ帝国はウェストファリア条約で各領邦ごとにこの対外独立、いいかえれば、どこにも属さない、おうかがいをたてなくてもいい外交権をもらいました。英仏などは実質、百年戦争終了の段階でもっていたのですが、やはりウェストファリア会議でそれは確定しました。この会議で外交する場合には、どういう身分のもの同士が話し合うか(領事→大使→外務大臣→首班)、派遣された外交官はその国を代表していなくてはならない、という取決めをしました。アジアの国々はこういう外交の取決めの圏外にあったため主権国家とはいわないのです。日本がワシントンでの条約改正に関する交渉が始まって国務長官フィッシュから使節に対し、天皇の委任状を持っていないので交渉はできないと言われ、やむなく大久保と伊藤は委任状を得るために遠路を帰国し、やっと5ヶ月余後に委任状を携えて戻った、という話は、まだ主権国家として認められていない、また西欧型の外交を知らない日本のすがたを示していました。もちろんこれは欧米の勝手な国家の見方です。当時はしかしこれをルールとしておしつけていったわけです。
 日本国憲法の前文に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」とあるのが主権国家のもうひとつの定義です。
 現代でも、国家の要件を満たすにもかかわらず、国家として承認を得られていない国家も存在します。中華民国(台湾)がそうです。中華民国は主権国家(完全に独立した国家)として国家承認すると、台湾は自分のものだと主張する中華人民共和国と対立することになります。


Q13 ウェストファリア会議がどうして「ヨーロッパ最初の国際会議とされる」のかわかりません。西欧と北欧だけの会議ではありませんか?

13A たしかに戦場となった地域や分割された地域をみると西欧・北欧ですが、ヨーロッパどころか、全世界的に見て近代的な外交のスタートと見られているのです。その理由は、(1)宗教をめぐる戦いで教会はまったく平和をもたらす勢力になりえなかったこと、というより殺戮をあおるものでしかないことが明らかになったことです。宗教抜きの純政治的会議となりました。(2)「外交」というもののはじまりになりました。1644〜48年と時間がかかった理由は、66ヶ国もの代表が集まり会議を開くとして、いったい国を代表する資格はだれにあるのか、どこにどこの国が、どんなテーブルに座るのかをめぐって長い時間を要したのです。このことから、国を代表する専門職としての外交官の身分が確立します。完成はウィーン会議ですが、外交官の職制や儀礼、大使・公使・代理大使の地位、席次は同一階級内では着任順とするなどの外交規則の原型ができます。(3)国家権力を代表するものの集まりであったということが新しい意味をもっていました。傭兵をやとって戦争することが当り前であったとき、最終的に傭兵制をやめ国家総動員体制で戦うことが慣例になっていくはじめでもありました。戦争をおこなうものと政治指導者はかならずしも一緒ではなかった時代から、国家のみが暴力を独占し、暴力装置を独占する主体であることを、結局は、傭兵でも教会でもなく国家(政治権力者)が政治と戦争の主体であることを明らかにする絶対主義時代の会議でもありました。


Q14 ウェストファリア条約で主権国家が確立されたと政経の教科書に書いてあったが、中世のイギリス・フランスなどは主権国家と言わないのですか?

14A 少なくとも、中世末の百年戦争後はいえます。「主権」とは国内の最高権力と対外的独立の二つを意味するので、この二つが備わっていれば主権国家といえます。西欧でいう絶対主義とともに成立しました。百年戦争の結果、フランスからイギリスの領土がなくなり、フランス王はほぼフランス全土の最高権力者になったといえるからです。もちろんまだ完全ではなかったのですが、ローマ教皇を頂点とする教会の上に、封建的な地方権力たる貴族層の上に、身分制議会の上に、ギルドの上に絶対王政は存在することになったからです。これはフランスから追い出されたイギリスが、ばら戦争の後に、並ぶもののない王権を確立したテューダー朝の段階でいえます。レコンキスタを完成してキリスト教的な宗教的王権を樹立したスペインもポルトガルにもいえることです。こうして、主権国家は、まずは君主主権という形をとってスタートしました。


Q15 絶対主義の所に出てくる、主権国家という言葉がどういう意味なのかよくわかりません。どういう国家のことですか?

15A 主権をもつ国家、という意味です。主権とは、対内に(国内に)最高の権力(暴力・武力)をもっていることと、対外的にはどこにも属していない独立国である、という二つの要素をもった国家です。これは中世のようにいろいろな封建関係が結ばれていて、どの領主も中世都市も小さい権力しかもっていない状態から、絶対主義の王権が常備軍と官僚組織・徴税のシステムをととのえて、対内最高権力と対外独立をもつようになったので主権国家ができたといいます。現在はそれがもっと強化されたたくさんの主権国家のあつまりとなっています。植民地・属国だったらこの主権にまだ到達していないことになります。


Q16 三十年戦争後にハンザ同盟は衰退した、というのを読んだことがあります。その後、どうなったのでしょうか?

16A ある事典に明快に述べているものがありました。引用します。  
 15世紀以後、同盟は衰退過程に入る。各都市は内部では商人層の寡頭支配に対するツンフトそのほかからの対立抗争という問題をかかえ、対外的には国家的主権を強める領邦君主と激しく対立することになる。こうして始まる諸都市の弱体化は同盟にも影響し、もともと強固でない組織をいっそうゆるめていった。加えて絶対主義諸国はその重商主義政策を進めるにあたってハンザ商人の特権を奪い、国民国家への展開と国内産業の振興に支えられた外国商人の進出に対する同盟の競争力は弱められた。すでに1441年に同盟はオランダ商人のバルト海航行を認めねばならず、また1487年にはノブゴロドの商館を放棄し、それは1494年に閉鎖された。16世紀になると、同盟はスウェーデン・デンマーク・イギリスでの特権を失い、ブリュージュからも後退した。そして1598年にはロンドンの商館も閉鎖されて、このとき同盟は事実上解体する。最後のハンザ会議はなお1669年に開催されるが、そのあいだに諸都市の領邦国家への服属は進み、三十年戦争以降もハンザ都市の名称と自治権を維持するのは、リューベック・ハンブルク・ブレーメンの3市のみであった。(世界歴史事典)


Q17 ウェストファリア条約は三十年戦争の講和条約で、ロンドン会議はギリシア独立戦争の講和会議なのになぜ、それぞれ無関係なオランダの独立やベルギーの独立の話が出てくるのでしょうか?

17A 無関係ではありません。オランダは三十年戦争のときにスペインと戦争を再開しています。オランダ独立戦争は80年戦争ともいって、1568〜1648年までつづいたと見なします。三十年戦争の前には「休戦」していますが。
 ベルギー・ギリシアの独立はウィーン体制の維持か廃棄かをめぐる問題もかかえていますので、ギリシア独立戦争に参加した英仏露の協議は双方に及んだのです。トルコはアドリアノープル条約で認めているのですが、西欧は西欧で承認をめぐって話し合っていたということです。


Q18 私は高校から第一学習社の「最新世界史図表」を愛用しているのですが、その p.150 に、 第3次英蘭戦争の絵と解説があって、「オランダは陸上でフランスの侵攻を受けて苦戦していた」とあるんですが、これはオランダ侵略戦争のことですかねぇ……?

18A そうです。第三次英蘭戦争は英仏が同時に展開する戦争ですが(フランス側の表現ではルイ14世のオランダ戦争)、イギリスは早く撤退してしまう(1672〜74年)のですが、ルイ14世がしつこくオランダ攻撃(1672〜78年)をやっていたのです。とくに1672年にフランスに国土深く侵入され大きな損失をこうむっています。


Q19 オランダ東インド会社をVOCと略語でいうようですが、何の略かわかりません。

19A オランダ東インド会社の正式名称が「連合ネーデルラント東インド会社」でオランダ語のスペルは
 De Vereenigde Nederlandse Oost-Indishe Compagnie
というものです。「連合(合同)」を意味するのがこの  Vereenigde です。De は冠詞でしょう。英語では Dutch United East India Company とか The United Dutch East Asia Company とつづるそうです。乱立した会社のうち6つを合同したため「United 合同(連合)」がついています。Oost は East です。
 

Q20 清教徒革命の時、スコットランドの「長老派(プレスビタリアン)」が出てきます。この「長老派」と、ピューリタン革命で独立派と対立した「長老派」はどうちがうのか、生徒に分かりやすく説明するにはどうすればいいのでしょうか? 長老教会制度を両者とも主張しているのですよね? 「プレスビタリアンと同じ考えをもつイングランドのカルビン派」という説明は乱暴でしょうか? 教養文庫:世界の歴史6には「政治上の長老派、独立派は宗教上のそれとぴったり一致するものではない」と書かれているのをみて、頭が混乱しています。

20A  「プレスビタリアンと同じ考えをもつイングランドのカルビン派」は正しいです。どちらもPresbyteriansで長老派(プレスビテリアン・チャーチ)と訳しています。長老派とは、教会を信徒が選んだ長老によって経営してもらう、という民主的な組織です。ちがいは、スコットランドの長老派は議会で承認された全国民的な組織であるのに対して、イングランド「ピューリタン革命」での長老派は一部の議員と一部の信徒にしか組織化されていないことです。王政復古の後は多くの信徒・議員が国教徒に改宗(転向)しますから余計少数派になりました。学生に説明するのはこの点だけでいいのではないでしょうか。
 スコットランドの全国組織は、末端の各教会に牧師がおり、そばに教会員から選出された一定数の長老 presbyter がいて運営に共に参加します。それらの教会が地方ごとに長老会を組織し、さらに数地方の長老会をもって大会がつくられ、その上に全国総会がおかれる、という全国的なものです。


Q21 旧教徒のジェームズ2世(旧教徒)の子メアリ2世や妹のアンはなぜ新教徒なのですか?

21A ジェームズ2世は幼少からプロテスタント(新教徒)として育ったのですが、最初の妻が死の前年にカトリック(旧教)に改宗したことの影響から、自分もカトリックたることを公言するようになりました。再婚した後、兄をついで王位にのぼりカトリック化政策を推進します。娘の信仰は実はこの父親でなく、まだ王位にあった兄のチャールズ2世が、弟の子供たち(メアリ2世とアン)は新教の信仰をもつように強く説いたせいだそうです。チャールズ2世はカトリックに同情的に行動し、また臨終の床でカトリックになることを告白した人物。意図は謎のままです。ただ、西欧の親子は、日本のように大学卒業後もくっつきまわるベッタリ親ではなく、まして王となれば直接こどもの養育をするわけでもない、ということを踏まえておかなくてはならないでしょう。貴族の子も早く寄宿舎に入れる、職人の子は徒弟に出す、できるだけ他人のなかに育ったほうが早く大人になるという信念の親とは大部ちがいます。親子の信仰がちがっても構わないと考えているようです。


Q22 山川の詳説世界史p168を参考に見ているんですが、近代においてブルボン家のフランスとハプスブルク家は仲が悪かったようですが、フランスブルボン家のルイ13世、ルイ14世紀はそれぞれスペインのハプスブルク家から妃をもらっています。フランスから見て敵方のハプスブルク家から妃をもらっている理由はなぜですか?政略結婚か何かでしょうか? 参考とされた文献等も教えていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

22A ルイ13世は結婚するスペイン王女アンヌのことは顔も見たことがなく自分の意志ではありませんでした。対立しているスペインとの和平のための政略結婚です。ルイ14世は恋人がありながらスペイン王女マリアとの結婚は、マザランと母親(アンヌ)が決めたことであり受け入れざるをえませんでした。参考になるのは、長谷川輝夫著『聖なる王権ブルボン家』講談社選書メチエ(1700円)です。


Q23 イギリスの話でよく分からないのが、慣習法(コモン・ロー)の話です。法律というと成文法しかイメージできないのですが、成文法ではなくても法律としてうまく機能するのでしょうか。文章化されていないということは、微妙なズレ等が生まれたりもしそうですし。

23A 判例法ともいうように、この判例文は全国で参照され、むしろ判例にしたがって他の裁判も判決を出すように相当規制されます。紛争の解決にあたっては裁判所の先例(判例)を検討することによって結論を導き出すことにしているのです。具体的・融通のきくかたちともいえます。ローマ帝国の法も制定された法もありましたが、判例が準法律のあつかいをうけました。それが煩瑣になったり、矛盾が出てきたため6世紀に『ローマ法大全』による統一見解集を出すことになりました。


Q24 山川から出されている世界史B問題集で「グロティウスは自然法の父」という記述があって答えは「自然法の父」が間違いとかいてあるんですが??

24A 追試の問題の文章は「グロティウスは、民族の固有性を重視する歴史法学を打ち立てて、「自然法の父」と呼ばれた。」です。「自然法の父」の部分は正しくても「民族の固有性を重視する歴史法学を打ち立てて」はザヴィニーというドイツ人のことなのでまちがいなのです。またグロティウスも厳密には自然法を初めて考え出したひとではないので、「近代自然法の父」とした方が正確です。


Q25 イギリス市民革命について。最初は清教徒が中心だったのにチャールズ2世が即位(ジェームズ2世か?)すると審査法で「国教徒のみ」とあり、清教徒の立場は?って感じなですが……清教徒はその後どうなったのですか?

25A 清教徒革命のときは、国王が国教徒と組み、非国教徒と対立するのですが、王政復古後は、国王がカトリック側にたち、国教徒と対立する、というちがいのことですね。
 これは王政復古があったときのはじめは、ピューリタンたち非国教徒も国王チャールズ2世を迎えるものの、国王が非国教徒の弾圧をはじめると、多くのピューリタンたちは命が危ないので国教徒に宗旨変え(転向)してしまうのです。議員たちも、長老派など、かつては非国教徒が多かったのに、国教徒の多い議会に変貌しているのです。このことはちゃんと教科書は書いていません。カトリックを復活させようとするチャールズ2世に対して、議会側から国王のカトリック化政策に反対する法案が通ります。 弟のジェイムズ2世は即位前から自分はカトリックだと公言しているものの、この国王の排斥案がトーリー党の反対で通らず、しかたなくカトリック王の就任となります。しかし待てば娘のメアリーは新教徒(国教徒も非国教徒も新教徒です)なので、がまんをすれば、いずれジェイムズ2世は死んで、新教の女王就任になるはずでした。しかしジェイムズ2世に子供が産まれ、それも男の子でしたから、いくら娘のメアリが大人でも、男の子から就任することになり、長いことイギリスではカトリックの支配がつづく可能性がでてきました。それで折れたトーリー党とホイッグ党が組んで、メアリーと旦那のウィリアムを招いた、ということになります(名誉革命)。

 

Q26 ルイ14世が行ったファルツ継承戦争の事で質問なんですけど、ファルツの場所ってどの辺りですか? 

26A フランスの東で、現在ドイツ南西部です。ライン川支流マイン川以南のライン両岸の地域(ラインラント、ライン川流域の意味)です。18世紀の歴史地図でパリの東をまっすぐ横に見ていくと書いてあるはずです。


Q27 問題集に1688〜97年のファルツ戦争にオレンジ公ウィリアムが活躍した。とあったんですけど、このオレンジ公ウィリアムは1581年のネーデルラント連邦共和国の独立に活躍した、あのオレンジ公ウィリアムですか?

27A いいえ。のちのイギリス王ウィリアム3世です。名誉革命のとき妻のメアリ2世とともにイギリスにわたりメアリ2世とともに共同統治者となります。オランダの王様はみな似た名前ばかりです。オレンジ(オランダ語でオラニェ)は王家の名前で、果実のオレンジからきています。オランダのサッカーの色はオレンジ色にしているのは王家を表しています。


Q28 資本=お金ですか?

28A いいえ。たんなるお金ではありません。資本はよりお金を生みだすお金のことです。たんに財布にお金があったり、ラーメンを食べるために支払うだけのお金は資本ではありません。お金をより産みだすためのお金を資本といいます。「元手」とか、貸付けによって利子を獲得するための「元金」とか、営業に必要な「資金」のことです。銀行資本とはたいてい銀行をふくむ金貸し業です。帝国主義時代には、資金を後進国の政府に貸して利子でもうけようという資本のことです。


Q29 山川出版の用語集162ページの第二次ウィーン包囲の説明で、オスマン帝国はロートリンゲン公とポーランド軍に撃退されたとありますが、ウィーンのハプスブルク家は何もしなかったんですか? なぜポーランドなのか分かりません。あとロートリンゲンとはロレーヌのことですか?

29A もちろんウィーンはハプスブルク家の本拠地ですから戦っています。トルコ(オスマン帝国)とは1662年から長い戦いをしていて、この第二次ウィーン包囲と、1699年のカルロヴィッツ条約が最終的なハプスブルク家の勝利となります。用語集は不要な細かい説明をすることがあり、これもその一例です。なぜポーランドなのか……は歴史地図を見られると氷解するはずです。16〜18世紀のポーランドは現在のポーランドとちがってでかい国です。ベラルーシやウクライナももっている大国でした。正確にはリトアニア・ポーランド王国です。分割される前のポーランドの大きさを想起されてもいいでしょう。トルコとも長い国境線をもっていて何度も国境紛争がおきていました。
 ロートリンゲンとはロレーヌのこと……です。ロレーヌを相続したカール(Charles of Lorraine)がフランスから追放されて、神聖ローマ帝国の家臣として仕えていました。このひとは王の居ないポーランドの王候補に二回あげられた人物でもありました。受験上は要らない知識ですが。


Q30 ピューリタン革命の開始年が1640(42)となっている本があるんですけど、どうしてですか? 中学校の参考書なのですが…

30A 長期議会の召集(1640)とともに革命に入ったととるのが研究者では一般的です。高校の教科書が1642年にしているのは内戦が始まった年からです。どちらでも良いとも言えます。山川出版社の最近出た『世界史小辞典』では1640年にしています。いずれこの年代に変わるでしょう。


Q31 ピューリタン革命や名誉革命で生産の自由な発展を妨げる特権が廃止されたと言う記述が山川の『新世界史』にあったのですが、具体的には発展を妨げるどんな特権が廃止されたのですか?

31A 特権廃止の最大のものは封建的土地所有の廃止です。封建的土地所有とは国王が全土をもっているという原則に立つものです。この制度が廃止になると、領主やブルジョアたちは法的に個人的な所有地として自分の土地を認めてもらうことになりました(私有権)。それまでは国王から封土していただいた土地だったのが、国王の承認なしに自由に土地の売り買いが可能になりました。土地も商品のひとつになったのです。またギルド制の廃止、国内関税の廃止などの国内に自由に商品が流通する風通しのいい経済、全国的な市場もできあがりました。ギルド制では個人の発明があると、他の親方たちの脅威になって抑えられてきましたが、その抑止もなくなりました。自由に競争してもいい経済、また創意工夫が開放された経済になりました。


Q32 農奴・ヨーマン・土地所有農民などのちがいはこんなかんじでいいでしょうか。
農奴(地代あり・経済外強制あり、ただし領主裁判権にいたる高度のもの、普通程度の土地保有権)、
農奴解放(地代あり、経済外強制なし、普通程度の土地保有権)、
ヨーマン(地代あり、経済外強制なし、強固な土地保有権)、
ユンカー経営(排他的に土地を所有するので地代なし経済外強制なし、だが旧領主の大農場で副業的に賃金労働)
コロヌス(地代あり、経済外強制あり、ただし土地緊縛はあるが領主裁判権まではいかない、普通程度の土地保有権)

32A 書いてあることはだいたい正しいですが、ヨーマンのところは、(地代あり、経済外強制なし、強固な土地保有権)ですが、18世紀には資本主義的農業経営者になるものと賃金をもらう農業労働者に分化します。
 もうひとつ「ユンカー経営」のところは、ユンカーという経営者のことより、その下ではたらく農民のことですね? つまり(排他的に土地を所有するので地代なし経済外強制なし、だが旧領主の大農場で副業的に賃金労働)は法的にはそうなのですが、「解放」された農民は自分の土地所有権が与えられたものの、実態は旧領主のもとで種々の農奴的扱いをうけつづけました。


Q33 グーツヘルシャフトという経営はいつまでつづいたのですか?

33A 15世紀末から18世紀までです。厳密にプロイセンだけに限ると1807年のプロイセン(シュタイン・ハルデンベルクの)改革までです(この改革以降は「ユンカー経営」と言い換えます)。農奴制をもとにして西欧向けの商品(穀物・材木)をつくる大農地経営をさします。農奴制自体は、古代末から近代の市民革命までつづいた長い長い制度です。グーツヘルシャフトはしかし、中世でなく、近世(16〜18世紀)にあった新しい制度です。しかも西欧の閉鎖的な荘園(自給自足の経済)とはちがった西欧市場めあての経営です。ドイツ語表現だからといってプロイセン(ポーランド北部)にだけあった制度でなく、当時のポーランド・ボヘミア・ハンガリーにもありました。エンゲルスが「再版農奴制」と呼んだものです。一応、次のように西欧との時期のずれを見ておくといいでしょう。
    西欧     東欧
中世: 農奴制    自由農民
近世: 解放へ    農奴制の成立
近代: 市民革命で  解放へ
    解放完成   (ロシアは1861年)
           完成は20世紀の社会主義革命で


Q34 12世紀ルネサンスや、カロリングルネサンス、商業ルネサンスと言いますが、なぜルネサンスというように呼称するのでしょうか? そして、イスラーム世界や、ビザンツ帝国から、古代ギリシアの学問などが流入したことが、ルネサンスに影響したと習ったのですが、それまではイタリアなどではそうした古典研究が行われていなかった、ということなのでしょうか? かつてのギリシアの地に古典が眠っていて、そうした研究は専らビザンツやイスラーム世界でおこなわれていて、それが、十字軍などで西ヨーロッパ世界の人々がそれに触れることとなり、ルネサンスが起こったということなのでしょうか?

34A その通りです。ルネサンスは「復興」ということなので、以前にそうした繁栄期があったことを指しています。
 「12世紀ルネサンス」も「カロリング=ルネサンス」も古代ローマ文明の復興を意味しています。
 「商業ルネサンス」も古代ローマ帝国時代の地中海世界の貿易が再現したことを意味しています。違うのは、古代になかった北海・バルト海も商業圏に入ってきたことです。
 イタリアなどではそうした古典研究が行われていなかった、ということなのでしょうか?……そうです。ゲルマン大移動(4〜6世紀)の頃から正しいラテン語のつづりも忘れられ、わずかに修道院で細々と古典の筆写がおこなわれる程度でした。それが11世紀から大学ができ、この大学や研究所で、とくに12世紀に相当数のアラビア語からラテン語への翻訳、またギリシア語からラテン語への翻訳もあり、またイスラーム・ビザンツからの学者流入もあり、14世紀以降これらをやっと消化して独自の文化をつくりだしたのが、14〜16世紀の「(イタリア)ルネサンス」です。
 教科書には載っていませんが、アッバース朝ルネサンス、宋代ルネサンス、という言い方もあります。前者は古代メソポタミア文明の復興を指し、後者は春秋戦国時代の諸子百家・前漢後漢の文芸などの復興を指しています。


Q35 『センター世界史B各駅停車』のp.252「ユグノー戦争」に下記の記載があります。カトリーヌ=ド=メディシスはユグノー戦争の打開を図るために、ユグノー派の若者を娘と政略結婚させたはずなのに、どうしてユグノーを虐殺したのでしょうか。かえってユグノーとの関係が悪化するのではないでしょうか? それとも、初めからユグノーを虐殺することを目的として、ユグノー派の若者を娘と政略結婚させたのでしょうか?

35A 内戦が長引き、カトリック側が今ひとつ弱いときに、カトリーヌ=ド=メディシスは自分の子どもたちの担っている王家を守りたくて、ユグノーのアンリ4世と組むことが、宗派はちがっても和解の方策になると考えたようです。サン=バルテルミの虐殺はカトリーヌの意図ではなく、過激なカトリック側の貴族たちが起すと、それが次々と虐殺を呼び込んで暴走してしまったようです。


Q36 教科書p202「アジアへの進出でポルトガルにおくれたスペインでは、1492年に女王イサベルが…」とあるのですが、1492年の前にすでにポルトガルはアジア進出を果たしているということでしょうか? 1498年のカリカット到達が最初のアジア進出と認識していました。

36A 1492年の前にすでにポルトガルはアジア進出を果たしているということはないですね。「ポルトガルにおくれた」といっているのは、エンリケ航海王子(1394〜1460)の頃からアフリカ西岸の探検、インド航路開拓を企図したことを指しています。かれは航海学校をつくり、探検家・地理学者・天文学者を集めて王室として推進したことから、スペインは「遅れた」意識をもっていました。


Q37 P139「封建社会が安定し農業生産が増大した結果、余剰生産物の交換が活発になり…」この部分の、余剰生産物の交換を行ってるのは、農奴でしょうか? 領主でしょうか? 農奴は余剰生産物の交換を認められていたのでしょうか? P142「農民は市場で生産物を売り…」の部分は、西暦1300年頃からだと認識しています。

37A 貨幣地代の普及が原因ですね。地代を納める方法として、労働地代→生産物地代→貨幣地代がありますが、領主が貨幣を要求してきたら、貨幣で納めるほかないです。貨幣を農民が得るためには市場に作物を持っていき、それを売って貨幣に換えて、その中から決められた地代を払うことになります。
 しかしこの貨幣地代の段階になると、地代はいくらかと決めて納めさせるので、固定した地代をとる領主は、もう領主というより地主と表現した方がいいような、農民とは経済だけの関係になっていて、「純粋荘園(純粋に経済だけの関係)、つまり「古典荘園(領主・農奴関係)」から地主・小作人関係への転換です。人格的・政治的な支配(領主裁判権)を農民に及ぼさなくなり、その権限はむしろ強化されていく王権が吸収していきます。王権は地方の裁判権を奪っていきます(巡回裁判所、治安判事など)。


Q38 教科書p217「…オランダ・イギリスなどの新興国の攻撃を受けて、その力は低下していった」ここにおいて、オランダが新興国の扱いをされるのはわかるのですが、イギリスが新興国の扱いをされているのはなぜでしょうか?

38A 中世までは羊毛原料の輸出国で植民地にひとしい国でしたが、百年戦争のためフランドルの技術者たちが亡命してきて毛織物工業がおき、毛織物を輸出するくらいに成長してきました。また16世紀の末スペイン艦隊を破り(1588)、海軍国としても台頭しました。


Q39 教科書p224「ヨーロッパは18世紀に再び成長期を迎えるが……」とあるのですが、18世紀の前の成長期とは、16世紀から17世紀前半まで続いていた成長期のことでしょうか?

39A この文章の前に「17世紀の危機」という表現があり、この危機を克服して18世紀の繁栄ということです。推測された通り「16世紀から17世紀前半まで続いていた成長期」が以前の状況です。これらは気候の温暖期、17世紀は寒冷期「小氷河時代」、18世紀は温暖期と関連しています。


Q40 大航海時代がなぜポルトガルとスペインが発端となったか。
「レコンキスタを終えた国」というのは分かるのですが、なぜわざわざ海外へ進出する必要があったのか分かりません。ポルトガルとスペインにとって、宗教的・経済的にどのような利点があったのでしょうか。

40A 宗教的にはカトリック教会がレコンキスタの支援者であり、戦士も商人も「聖戦」をたたかったキリスト教圏拡大の意志をもったひとたちであったこと。経済的には、スーダンの金と奴隷の獲得、アジアとの直接商業の実現をめざす、といった目的があり、目の前にアフリカの大地が見え、その征服に燃えていたことです。


Q41 「肉食の普及に伴う香辛料の需要」についてよく「肉食の普及とともに香辛料の需要が高まり…」との説明がありますが、肉食の普及は誰に対しての普及で(富裕層か農民か)、それはどのようにして進んだのでしょうか。

41A 「肉食の普及」は先史時代から現代まで地域によって違いますが、基本的にどこでもみられた現象なので、富裕・農民に関係なくあることとおもわれますから、回答できません。また香辛料も絶えることなくいつの時代にもあります。ただ西欧側がアジアに求めた商品として17世紀ころまで輸入は盛んでした。ポルトガルがインドで得た香辛料は西欧では60倍に売れたので大儲けできます。ただそれが食材が豊富になったせいか、1650年ごろを境に香辛料がふりかかっていれば御馳走という時代がおわります。供給過剰・暴落もあり香料貿易は衰退します。


Q42 なぜオスマン帝国の台頭によって東方貿易が困難になったのか。東方貿易のルートとして、紅海(アレクサンドリア)、ペルシャ湾(バグダード・コンスタンティノープル)というルートがありますが、オスマン以前も、ティムール朝やマムルーク朝、ビザンツ帝国などの支配下にあったはずです。

42A 教科書(詳説)では「ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心は地中海から大西洋にのぞむ国ぐにへ移動した(商業革命)」と書いていますが、東方貿易が衰退したとは書いていません。中心の移動ではあっても、貿易衰退とまでは言いにくいのです。東京書籍の教科書では「フランスの商人にも(トルコ)領内での安全保障、免税、治外法権などの特権(カピチュレーション)を与えた。この特権はやがてイギリスやオランダの商人にも与えられ、西ヨーロッパとの交易がさかんになった。このため、世界の交易網の結節点となった首都イスタンブルは、西方世界最大の都市として繁栄した」と書いてあります。東方貿易は衰えていません。英仏の商館が首都やシリア(アレッポ)に建てられました。「地理上の発見」があって南アフリカ回りで行く航路は開かれません。やはり遠回りなのです。地中海→紅海→インド洋、の古い航路も相変わらず使われていて、ナポレオンがエジプト遠征の目的としてイギリスのインドへの道を塞ぐため、ということでしたが、それはこの古い道のことです。まだスエズ運河も開かれていませんが、このことは地中海→紅海→インド洋のコースが使われつづけたことを示しています。2015年センターの第2問cに次のような文がありました(引用文の中の⑦〜⑨は下線部分を示す記号です。」は下線位置)「アナトリア(小アジア)西部の港町イズミル(スミルナ)は、オスマン帝国の支配下で、17世紀半ば以降、⑦イラン産生糸やアナトリア産綿花」などをヨーロッパヘ輸出する拠点として急速に成長した。国際的な一大商業都市に発展したイズミルには、⑧フランス人、イギリス人などの外国商人」が多数居住した。しかし、ヨーロッパとの商取引を支配したのは、オスマン帝国内の非ムスリム商人であり、特にギリシア人は、綿花輪出において中心的な役割を果たした。⑨オスマン帝国から、ギリシアが独立した」後も、ギリシア人は、トルコ共和国成立期に至るまで、イズミルの商業活動の主要な担い手であり続けた。」と。


Q43 16世紀ごろに宗教改革が起こり、あらゆる地域でルター派とカルヴァン派になり、つまりは信仰義認説を重んじる風潮になっていたなか、なぜ同じ時期に主権国家(絶対王政)が興るのでしょうか? 主権国家体制(絶対主義)は王権神授説を基盤としていることと矛盾しませんか?

43A 信仰義認説はルター個人が新約聖書・ローマ人への手紙を読んでいて閃いた考え方で、それが大学の教授たちを主に広がったものです。権力者側ではないです。
 主権国家は14-15世紀の国家間戦争や内戦を通して次第にできてきたもので、百年戦争で英仏の主権国家体制はでき、スペイン・ポルトガルはレコンキスタを通してできたものです。つまり宗教改革以前です。ドイツは遅れて17世紀の三十年戦争後に主権国家ができました。
 ところが国家(国王)が自己の権力をより高めようとしているときに宗教改革が起きました(16世紀)。この宗教改革は教皇の権威から離れる動きであり、教皇(教会)の権威は全ヨーロッパをおおっていましたから、この権威から離れることで自国の権威を高めることが可能になりました。教会も国王は自己の統制下におく、ということです。フランスはカトリックのままでありながら、国王が教会を統制できるよう努力してきました(ガリカニズム=国家教会主義)。実例としては三部会・アナーニ事件・アヴィニョン移転などがそうで、それが16世紀の宗教改革でもカトリックにとどまりながら、教会を国家の統制下におくことができました。もちろん英国は首長法で国王が英国教会の教皇の地位に就きました(英国国教会)。ドイツは領邦ごとの教会(領邦教会)をつくりました。つまりどの国も教皇の権威から離れることで、国内最高の権威を獲得したのです。
 信仰義認説の新教であれ、それを認めない旧教(カトリック)であれ、教皇から離れる、国家内の問題(宗教問題も)に教皇を介入させないという点ではみな一致しています。教皇でもなく教会でもなく、自己の国王としての権威は神から直接きているのだという主張が王権神授説ですが、これはこの教皇の仲介を拒否した主張です。それまでは、神─教皇(教会)─王、でしたが、神─王─教会、の順に上下を位置づけるものです。
 信仰義認説が教皇のそれまでの権威を否定したように、王権神授説も教皇を否定したもので共通しています。
 教会に加わっているだけで、天国行き(救済)を保障していた教会(教皇)は、義認説によって、教会に参加不参加に関係なく信仰のみで義認(救済される資格)が得られるとする説です。
 国王も教会からでなく自己自身の権威で戴冠したかった。時間はずれますが、ナポレオン1世がローマ教皇を戴冠式に呼びながら、教皇がかぶせようとして差しだした王冠をとりあげて自分の手で自分の頭にのせた絵がダビッドによって描かれています。この姿が王権神授説をよく表わしています。


Q44 かつて東方貿易を独占的に支配していたマムルーク朝が1509年のディウ沖の海戦でポルトガルに敗退し香辛料貿易独占が崩れるという一件で、その頃のヴェネチア東方貿易の状況には何かしら影響を与えなかったのでしょうか?セリム1世がマムルーク朝を征服した時はヴェネチアにも東方貿易独占に打撃があったというのに…

44A ヴェネツィアへのオスマン帝国進出による影響は15世紀には出ています。東地中海にオスマンが進出したことで次第に収益が少なくなり、そのことで東方貿易の危機をどう打開するかをめぐって、イタリア諸都市でシニョーレ制(独裁制)が一般的になったのはそのせいです。フィレンツェはメディチ家、ミラノはヴィスコンティ家という風に。その後は書かれたようなマムルーク朝征服、イエメン占領のようなことでますます悪い状況になります。
 ただ今ほど交通・通信網は早くはないので、影響はゆっくり現れていきました。Q42に、その後の東方貿易についての説明があります。

 

疑問教室・西欧中世史

西欧中世史の疑問

Q1 「国王」と「皇帝」の違いはなんですか。特にヨーロッパのことについてお願いします。

1A カールはフランク王国の王であり、かつ西ローマ帝国の皇帝で両方兼ねます。カール1世まで皇帝は東のローマ皇帝しかいなくて、西側のゲルマン人の王たちは、東の皇帝の家臣の立場をとってきました。それがカール1世の登場で、その実力から東の皇帝に対抗して西側からも皇帝を出そう、ということになり、東の皇帝に軍事的圧力もかけて無理矢理みとめさせています。加冠したレオ3世はカール1世に恩義があって何かお礼をしたかったのです。
 皇帝というのはヨーロッパでは王の中の王です。King of kingsです。王の中のだれが就任してもいいのですが、後の神聖ローマ帝国皇帝が由緒あるヨーロッパの諸王のだれかから、たいていは裏では金が動いて7人の選帝侯が選ぶかたちをとります。フランスの王がなってもいいし、スペイン王がなってもいいのです。イギリスの王が立候補したこともあります。16世紀にフランスのフランソワ1世とスペインのカール5世が立候補してカール5世が皇帝の地位を落札したのは有名です。じっさいには、1438年から消滅する1806年までハプスブルク家がかぶりつづけました。


Q2 ヨーロッパの皇帝とか教皇というのはイマイチわかりにくいです。これはなんですか?

2A 皇帝は「諸王の中の王」という意味で、中国のように始皇帝からはじまる「惶々(こうごう)しい上帝(じょうてい)」という宇宙の神といった意味で皇帝を使いません。ヨーロッパの皇帝の由来はローマ帝国皇帝にあり、以後はその継承者を任じているのです。西欧ではカール大帝やオットー1世が名高いです。古代ローマのコンスタンティヌス帝がそうであったように教会の問題にも介入できる(ニケーア公会議)くらいの教会の保護者も任ずる立場です。ところが次第にローマ教皇が頭をもたげてきて十字軍のように欧州全体を動かすくらいの権威をもってきます。しかも教皇を頂点とするキリスト教会は西欧の土地の3分1を所有している世俗的な面ももった大領主の集団でもあります。奥の手の「破門(はもん)」の権限も世俗の皇帝・王たちにとっては怖い存在でした。この皇帝(世俗のトップ)と教皇(教会=聖界のトップ)のどちらが真の西欧の支配者かをめぐる争いが叙任権(じょにんけん)闘争でした。たぶん教皇がお坊さんのトップなのに何故こんなに偉そうなのだ、と疑問をもっているのかもしれません。教皇は教皇領をもつイタリアの大領主であり陸軍・海軍をもっていますから、むしろ坊主頭の国王と考えたほうが良さそうです。プレヴェザ海戦やレパント海戦に教皇の艦隊がでてくることを想起してください。


Q3 フランクを主とするゲルマン人少数者がラテン人を支配し、カトリック信仰をもっていた……の所で、ゲルマン人が少数者だったのはなぜでしょうか。そしてラテン人はどのくらいいたのか。

3A ローマ帝国という都市も農村も発展したところへ、ライン川・ドナウ川沿いにいた都市をもたない農狩をかねたゲルマン人は数はひとつの大集団民族とて数万人という規模です。歴史書ではだいたい10%前後がゲルマン人の王国の住民比率とみています。90%前後がラテン人(ローマ市民)でした。


Q4 テマ制とプロノイア制はどうちがうのですか?

4A ともにビザンチン帝国の土地制度と結びついた軍事制度ですが、前者は7世紀につくられ、この制度の崩壊とともにできてくるのが11世紀ころからのプロノイア制です。テマ制は、帝国を軍管区(テマ、テーマ)に分け軍隊を駐屯させて、それぞれの区ごとの長官(ストラテゴス)がその地の行政権・軍事権を握っていました。唐の節度使ににています。このテマに兵士を供給するために、兵士に世襲できる「兵士保有地」を与えてて自作農とし、租税負担を軽くして平時は農業に従事させました。コロヌスやスラヴ人移民がこの屯田兵士となります。軍管区制と屯田兵制はセットの制度ですからテマ制を「屯田軍管区制」と訳すものもあります(一橋系の学者による『体系経済学辞典』東洋経済新報社)。しかし唐の府兵制の崩壊が均田法の崩壊とセットであったように、9世紀頃から貴族・豪族による大土地所有が進展し、一方屯田兵は長期の遠征のため没落していき、11世紀にはテマ制は解体しました。代わって登場するのがプロノイア制です。これは功績のあった将軍・貴族・地方有力者に皇帝が国有地とそこの農民とともに貸与し、租税徴収権・用役権を与え、その代償として軍事的奉仕を課す制度です。はじめは一代かぎりだったのが世襲化します。この変化はイスラームの封建制のイクター制とにています。これは発展して地主が農民にたいする支配を強め農奴制を成立させて行きました。また地主の権限が強まり地方分権化します。(プロノイア制については異論もありますが、ここは教科書的な解説です)
 テマ制は自作農民兵にたより、プロノイア制は地主戦士にたよる軍事制度です。


Q5 前々から頭を悩ませていたことなんですが、山川の教科書に、「カール大帝が西ローマ皇帝として戴冠すると、ビザンツ皇帝も聖像崇拝を認めざるをえなくなった」という一文があるのですが、なんで?????の一言なんですが……。
 また、なんで聖像崇拝について、キリスト教が、イスラーム教から非難されらなあかんのですか。イスラーム教に口出しする権利はあるんですか。それだけイスラーム教が当時勢力が強かったってことですか。

5A 大まかには、カールもカールを皇帝に仕立てたローマ教皇も聖像容認の立場であり、和解のためには西欧側の言うことをビザンツは認めざるをえない、ということでしょう。詳しくは、ということは教科書に書いてない事柄ですが、カールはビザンツ帝国領の中にあったヴェネツィアやダルマティアの沿岸を占領しており、もしこれを返還してほしければ皇帝位を認めろ、というヤクザ的圧力をかけていました。それと当時、ビザンツ帝国は女帝イレーネが君臨しており、ローマ教皇はこんな女の皇帝は認められない、東の皇帝は空位である、と。さらにカールは妻が亡くなったこともあり、イレーネとカールというババとジジの結婚話しも教皇はもちだして、旦那であるカールに結局は皇帝位が移るはずですともちかけました。この話しにカールも乗り気で、じゃ、わしの認める聖像をイレーネも認めねばならんと条件をだしました。ビザンツ帝国としては当時ハールーン=アッラシードとカールが同盟関係も結んでいて帝国に南からも圧力がかかっていました。コンスタンティノープルとアーヘンで使節が行き交い、この縁談にイレーネも気が向いたのですがクーデタがおきてイレーネは失脚してしまい、縁談はなかったことになりました。でいったん両国の交渉は切れましたが、ヴェネツィア返還で東側はカールの皇帝位を認めることになります。これらの妥協・譲歩の中にカールの聖像容認も含まれていた、ということです。
 イスラーム教の聖像口出しについて、実は本当のことは分からないのです。一応、いろいろな説を紹介します。
 (1)イスラーム教徒に占領されたトルコ・シリア・エジプトに残っている教会がイスラーム教側から偶像崇拝と非難された。(2)レオン3世の部下で、かれの影響下にいるトルコ地域の軍人が、イスラーム教徒の影響も受けて禁止を求めた。しかし、この説は戦っている相手の批判を受け入れることになり考えにくい。でも教科書にはこの説が書いてある。(3)聖像賛成派の年代記者がレオン3世のことを「親イスラーム教徒」と呼んで蔑視し、イスラーム教徒と結びつけようとして書いたことから生じた後世のひとの誤解であろう。これは、いくらか納得できる説です。(4)イスラーム教徒が占領したところで、タリバンのバーミャン破壊と同じようにキリスト教会の聖像を破壊したことがあり、この影響ともいう。
 726年以前からキリスト教会内に、聖像は偶像崇拝にあたるから破壊すべきだという議論があり、そこへ偶像破壊に使命をもっているイスラーム教徒が入ってきて刺激され、論争にまで発展し、皇帝自身の信仰の熱心さによって破壊を命じたり、いいやと許したりを繰り返した、ということではないでしょうか。


Q6 神聖ローマ帝国とドイツは一緒ですか?

6A 地域として現在のドイツとイコールではありません。中世のドイツ王が神聖ローマ皇帝を名乗ることは慣例でしたが、かといって現在とは同じではありません。領域が現在のドイツより広い点がちがいます。ボヘミアという現在のチェコスロヴァキア西部やスイス、北イタリアもその中に入っていました。またネーデルラントやオーストリアなども入っていました。


Q7 「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」とはどういう意味ですか?

7A このことばはピレンヌが書いた『中世都市』(創文社歴史叢書)の第二章に「マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」と書いていることからきています。イスラーム教側の包囲がなければ中世の封建社会はありえなかった、という意味です。


Q8 「マホメットなくしてカール大帝なし」ってことばは西欧世界がイスラームの影響を受けたってことだと思いますが、具体的にどういう影響を受けたのですか?

8A かんたんにいえば、イスラーム勢力に包囲されて欧州が閉鎖的な中世社会になったという説です。これはベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌのことばです。「マホメット」でイスラーム教勢力を表現し、「カール大帝」で西欧封建社会を代表させています。この双方のかかわりで中世はなりたっている、いや始まっている、というものです。
 なにか判りにくいですが、実はこのピレンヌの主張には二つの歴史用語があります。ひとつは「古代連続説」、もうひとつが「商業ルネサンス」です。この双方のことばとも関連をもっています。古代連続説とは、古代は一般に476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのですが、ピレンヌはこの時代区分に異議申し立てをしているのです。古代はそんなことで終わったのではない。ゲルマン人の大移動でもない。西ローマ帝国滅亡後も古代的状況はつづき、イスラーム教勢力が7〜8世紀にかけて地中海に押寄せてきてから、中世ははじまった。メロヴィング朝からカロリング朝への転換と重なります。また逆に11世紀以降に十字軍やレコンキスタでイスラーム教勢力に対抗して攻勢に出ることで地中海商業は活況をとりもどし、それが波及して全欧に「商業ルネサンス」がおきた、との説です。つまりヨーロッパをヨーロッパの中だけでみても判らない。イスラーム教勢力との関係で時代区分すべきだ、というのです。
 古代は5世紀に終わったのでないということです。たしかに東ローマ帝国も6世紀までは古代的な要素をもったままでした。ユスティニアヌス帝を「さいごのローマ皇帝」ともいいます。イスラーム側の攻勢に対応して、7世紀には大転換をとげてビザンツ帝国(ギリシア帝国)に変貌します。これらのことは論述向きにおぼえておくと便利です。1992年の一橋大学の第一問、1986年と1995年の東大の第一問などに応用できます。


Q9 西ローマ帝国って、476年にオドアケルに滅ぼされましたよね。じゃあ、山川出版の教科書のp.117の図の下に書いてある「カール大帝の『西ローマ帝国』」って何ですか? 「カール大帝の」ってあるからカールがたてのですか? もしそうだとしたら、レオ3世から帝冠が与えられるまでに、カールはフランク王国の王であり、その西ローマ帝国の皇帝だったということですか?(これらの疑問は友達と話してる時に「なんでカール大帝ってフランク王国やのに大帝っていうんやろう」という話がでたので調べている内にでてきました。)
 カールはフランク王国の王であり、かつ西ローマ帝国の皇帝だったということですか?

9A そうです。両方兼ねます。カール1世まで皇帝は東のローマ皇帝しかいなくて、西側のゲルマン人の王たちは、東の皇帝の家臣の立場をとってきました。800年まではゲルマンの王たちは東の皇帝にたいして「父よ」と呼び、子の立場でしたが、800年からカールは「兄弟」と呼ぶようになります。


Q10 800年にカール大帝にローマ皇帝の帝冠を与えた教皇の名前は、『レオ3世』でも『レオン3世』でも、どっちでも良いのですか?

10A レオ3世はローマ教皇で、レオン3世は東ローマ皇帝をさすので、区別して使うのが慣例です。


Q11 山川の用語集の『聖象禁止令』の項目で、”偶像崇拝を禁止するイスラーム勢力に対抗してだされた”とありますが、ビザンツ文化で『イコン』が存在しているのに、あまり理解出来ません。禁止令は843年解除されたということは、ハールーン=アッラシード亡き後の衰退期ということなのでしょうか。

11A 禁止令は843年解除……これは「ハールーン=アッラシード亡き後の衰退期」というイスラーム教側の事情とは直接関係がありません。小学館の百科辞典には「皇帝レオン4世の没後、皇妃イレーネが787年ニカイアで第7回公会議を開催し、イコン崇敬を公式に宣言し、第一期のイコノクラスムは終結した。しかし、帝国の政治情勢は混乱を続け、813年に登位したレオン5世は、軍隊の意向を無視できず、ふたたびイコノクラスムが始まった。しかし第二期は長続きせず、首都のストゥディオス修道院を中心とする修道院側の抵抗も強かった。そして皇帝テオフィロスの没後、皇妃テオドラが843年に開いた主教会議で、イコン崇敬の復活が公式に宣言された。〈森安達也〉」とビザンツ帝国内の是認派と否定派の争いが終結しました。


Q12 中世ヨーロッパで意味がわからないのですが、843年ヴェルダン条約とか870年のメルセン条約でフランクが分裂して…とかはわかったのですが、しばらくして十字軍あたりになるといつのまにかイギリスやらドイツやらになってしまっているのですが、王国はどうなったのですか? 急に言い方が変わって、話も飛び飛びでわかりません。

12A 教科書は各国史で説明していないから分かりにくいですね。十字軍あたりになるといつのまにかイギリスやらドイツやらになって……ということはありません。英国は600年頃からアングロ=サクソン七王国があり、それは1016年にデーン朝、1066年にノルマン朝でまとまります。フランスはメルセン条約(カロリング朝の分裂)によって確定し、ずっとフランス王国(カペー朝)として登場してきます。ドイツ=神聖ローマ帝国と考えてください。


Q13 西欧世界について。資料集とかには封建制度は政治に分類されていましたが、農耕社会というのはどちらかというと経済です。構想メモを書く時にまず政治、文化、経済などでまとめることを試みましたが、封建制度は農耕社会への移行の中で形成されたものですから、政治と経済とに離して書いていいのか迷いました。そこの引っ掛かりが取れなかったので仕方なく国別に書きました。この引っかかり(もしくは僕の勘違い?)が解消できる説明があればお願いします。

13A 当然の疑問です。両方ともまたがった概念だからです。
 世界史の観点からは、封建制度とは領主と領主の主従関係です。これは狭義の封建制度です。この狭義のほうを世界史は採用しています。人間のなかでは権力のトップにいるひとたち同志、領主と領主の関係です。土地もち同志の防衛同盟です。
 ところがマルクス主義では、領主の下にいる農奴と領主の関係をいいます。古典荘園ともいっているものです。つまりマルクス主義では封建制度は農奴制と言い換えてもいいのです。ひとりの人間がおおくの農民をしばっている、という状態です。領主からすれば守ってやっている、かわりに農民ははたらく、ともいえる政治と経済のミックスした関係です。
 ところがこの二つの見方以外に社会学のものがあり、これは頂点は皇帝・国王から下は農奴・奴隷までの身分の上下関係だけをさして封建制度といっています。この見方は世界史では無視しています。
 これを難しいことばで説明したのが小学館の事典です。「大別して少なくとも三つの用語法を区別しなくてはならない。第一に、レーン(封土)の授受を伴う主従関係をさす場合(狭義の封建制、ないし法制史的封建制概念)。第二に、荘園(しょうえん)制ないし領主制(農奴制)をさす場合(社会経済史的ないし社会構成史的封建制概念)。第三に、前二者をその構成要素とする社会全体をさす場合(社会類型としての封建制概念)」と。
 マルクス主義的には古典荘園は下部構造であり、領主同士の主従関係は上部構造ということになり、一体のもとみなしていいのです。政治で書いても経済のほうで書いても許容される用語です。


Q14 アルビジョワ十字軍とドミニコ修道会の関係がさっぱり分かりません。教えてください。

14A アルビジョア派という異端の他にも12〜13世紀は異端の乱立期でしたので、はじめ破門だけで対処していたのが、数がふえていくと、異端に対抗するために教義のわかる学僧に説教をしてもらったり、異端者を裁判して罪の有無を判定したりする必要性がでてきました。それでドミニコ派(ドミニコ修道会)という、フランチェスコ派より学問的なドミニコ派のほうが、この審問に活躍した、ということです。異端審問の法廷は、1229年のトゥールーズ公会議と1232年のグレゴリウス9世勅書で制度的に確立をみます。これは教皇直属の特設非常法廷で、司教の統制を受けず、逆に司教や世俗権力(皇帝・王・諸侯・騎士)は無条件に協力すべきものとされました。告訴を待たずに活動するという積極的な異端狩りです。拷問が公認され、密告が奨励されました。14世紀、ドミニコ派のベルナール・ギーが著した『(異端)審問官必携(提要)』が審問の方法を確立したものとして知られています。

 

Q15 模試の解答・解説p12問5、上のほうの太文字「……という価格革命の主要な原因となった」とあって、次に、(むろん銀の流入だけが価格革命の原因ではなく、ペストの終息以後ヨーロッパで起こった顕著な人口増加なども物価騰貴の原因として注目される)とありますよね。ペストの流行は1348〜50でしょう。価格革命は16C半ばでしょう。あまりにも時間の間隔が広くないですか? 人口が増えるのにこんなに時間がかかるもんですか。

15A 実は黒死病の後の15世紀の1世紀間全体が人口減少がおきていて、減少はもちろん黒死病の1348年前後が特にひどかったのですが、なんどもその後もおきています。また15世紀の気候が寒く作物もとれなかったことも人口減少の原因らしい。
 16世紀の価格革命と結びつけるのは、そういう学説があったとしても余り説得的ではないので、使わないほうがいいでしょう。経済の流れとして、だれでも判るのは、もの(銀)が増えたら、ものが(銀が)安くなるということと、逆に今までの商品が、銀で買いやすくなり商品価格をあげたということです。
 一応の概算ですがヨーロッパの人口数をあげておきます。
10世紀 3800万人
12世紀 5000万人
13世紀 6000万人
14世紀 8000万人(黒死病流行直前の数字)
15世紀 5000万人 
16世紀 7000万人


Q16 『世界史A・Bの基本演習』の90ページの解説の2行目に「中期11〜13世紀(レコンキスタ・十字軍・東方植民=初期膨張…)」で、「東方植民=初期膨張」はドイツ騎士団の行為の事ですか? あと、「初期膨張」って事は、これ以外に『中期膨張』や「後期膨張」みたいな何かあるのですか?

16A そうです。騎士団だけではありません。騎士団ができたのは12世紀末なので、それより1世紀前(11世紀末)からエルベ川を越えてどんどん植民したドイツの若者たちがいたのです。かれらが最初です。その後に追いかけるように第三回十字軍に失敗して帰ってきた連中が騎士団(正式には騎士修道会)が行きます。
 「初期膨張」は16世紀以降の世界への膨張(地理上の発見)を「本格的膨張」といって、初期のときは膨張といっても西欧の周辺にすぎないので、その西ヨーロッパが全世界へでかけるようになったことを指しています。ヨーロッパ史を膨張史として見る見方です。


Q17  中世イングランドです。ノルマン朝のウィリアム1世が作成した土地台帳「ドゥームズ=デー=ブック」による、ノルマン朝の土地支配は、他のヨーロッパ本土の中世国家と性質を異にしていたといいますが、どういう点がイングランドと欧州本土とでは異なっていたのでしょう?

17A  「イングランドと欧州本土とでは異なっていた」は封建制度のちがいです。七王国(ヘプターキー)を全部征服して、その土地をうばい、家臣に分配・封土しているのは、フランス・ドイツで見られた偽装的な封土ではなく、奪って分配したから実質的な封土である、という点がちがいます。これをドゥームズディ=ブックに記載しています。国王が全土の5分の1もとってしまう、という点でも権力の大きな基盤となり、中世封建制度の西欧のなかでも例のない強力な王権を築けた根拠です。封建制度では王権が弱いのが当り前でした。ばら戦争による反テューダー派貴族の没落も手伝ってはいますが、絶対主義のイギリスには常備軍も官僚制の発達もないのに「絶対主義」とヘンリ7世から言える理由もここにあります。


Q18 わたしの予備校では、東ローマ帝国の最盛期は、ユスティニアヌス大帝の治世時期だと習いました。つまり6Cです。ビザンツ帝国の最盛期を描け、と言われたらユスティニアヌス帝の時期を描けば必要十分かと思いますが。あとは、せいぜいヘラクイオス帝のテマ制、屯田兵制あたりまででしょうか。レオン3世、バシレイオス2世、アレクシオス1世のころは最盛期ではなく、あくまで「中興」に過ぎないと思いますが、いかがでしょうか?

18A 「ビザンツ帝国の最盛期」といったばあい、「東ローマ帝国の最盛期」となっていない点がまずユスティニアヌス帝のときととるのは無理があることです。「ビザンツ帝国」とは、古代的なローマ帝国の継承面が薄れて、ギリシア的な要素がハッキリしたことをさしています。もちろんこのことについて問題文がなにも言及していないのは不親切であるという欠陥を指摘しても、一般にはユスティニアヌス帝のことを歴史家たちは「ローマ帝国の完成」と表現するように、地中海帝国としてのローマを再現した人物とみなします。コロヌス制がつづいていますし、皇帝本人も古代の復活をほこっていました。「最大版図を形成」は全盛期を表現するひとつの指標ですが、しかしこれは今説明したように古代の再現としての版図です。東西分裂をした後もまだギリシア的要素が出てきていない時期です。教科書『新世界史』では「ローマ帝国の延長として繁栄を続けた第1期」と書いている点です。「延長」です。他の山川の教科書では「復興」「回復」ということばをつかって表現しています。いや東ローマとビザンツはたんなる言い換えにすぎないではないか、というのは表面的な総括です。紹介された予備校テキストの「ユスティニアヌス大帝の死後は、東ローマは急激に衰退」とは単純です。失った領土は大きいですが、だからこそギリシア人の住む小アジア・ギリシア本土・イタリア半島南部というギリシア語の通じる世界がかえってできあがり、古代的・ラテン的な東ローマ帝国は、ここにギリシア的要素のつよい「ビザンツ帝国」に変貌したとみなします。学者の中には、もっとこのことを強調して「ギリシア帝国」ともいいます。7世紀から「ビザンツ」帝国に変わったということです。経済的にもコロヌス制にかわって自作農づくりをして、かれらに屯田兵にもなってもらいテマ制が成立しました。このせまくなった領土を回復した9〜10世紀がビザンツ帝国としての最盛期といえます。
 これは明朝の最盛期を永楽帝にもっていくのと似ていて、3代目で、つまり明朝ができたばっかりが最盛期というのはどうもおかしい。後はみな衰退期だとすると、200年をこえる衰退期となります。1368〜1644年間の明朝史は276年間の歴史のうち、明朝らしさがでてきたのは初期だけで、後は衰退といったばあい、あまりにも単純に明朝史を切ったことになります。明朝は前半と後半(16世紀以降)で性格ががらり変わる面をもっています。それを無視してやるのは最大版図にだけ目を向けた政治的な面だけの指摘です。わたしは宮崎市定のように16世紀前半に生きた世宗(嘉靖帝)のころが全盛期とみています。明朝の体制の安定と経済・文化的な面も繁栄した時期です。


Q19 わたしの予備校のテキストに、十字軍の影響、と題して5点が指摘されています。そのうちの「5.」にギリシア古典文化のことが書かれています。間違ったことを書いているのでしょうか?

19A 詳解世界史には「十字軍の時代にヨーロッパに伝えられたアリストテレス哲学をとりいれて体系化されていった」とは書いていますが十字軍がアリストテレス哲学をもたらしたとは書いていません。「時代」と時期が同じだったといっているだけです。テキストの「5.東方貿易を通じて、ギリシア・ローマ古典文化やイスラーム文化が流入した………イタリア=ルネサンスを促進した。」は十字軍そのものではないでしょう? これは影響の影響です。時期は同じですが。十字軍の時代を問うているのではなく、この問題は十字軍「遠征」の意義を問うているのです。十字軍が文化的なものもたらしたことは歴史家も認めるところですが、それは学問的なものではなく(兵士はほとんど文盲でしたし、イスラーム教は多神教で悪魔の宗教とおもってきたひとたちが、なぜ学ぶのでしょうか)、歴史家が「物質文化」といっている、ソファ、シャーベット、築城術、紋章などです。詳説世界史なら「多数の人々が東方とのあいだを往来したため、ヨーロッパ人の視野は広がり、東方の文物が流入した」とぼかして説明しています。三省堂のは「遠征によって、東方との貿易や交流がさかんになったため、貿易港であるイタリアのヴェネツィアなどの都市が繁栄するとともに、イスラーム世界やビザンツ帝国のすすんだ学問・文化が西ヨーロッパにもたらされた」と遠征→貿易・交流→学問・文化としています。遠征→学問・文化ではありません。遠征が直接もたらしたものではないのです。


Q20 『練習帳』の「基本60字」のほうで質問があります。P.47 11「中世都市はその自由を維持するためにどういう方策を採ってきたか」という設問がありますが、これに対する右側の解答の内容は、アルプス以北のドイツの都市という、地域的に限定された姿ではありませんか?
 アルプス以南のイタリア都市は、教科書によれば、諸侯との直接的な武力的抗争を経て自治権を獲得していった、とあります。「中世都市はその自由を維持するためにどういう方策を採ってきたか」では、中世都市一般ということになりませんか?

20A なぜそうするかというと、中世都市は北ドイツの都市で代表・典型とするからです。60字の字数の中で相違点もふくむ解答は無理です。古体の都市の防衛は問われればアテネを代表として書きますが、スパルタはどうしたローマ帝国はどうしたとは書けません。そこまで広げたばあいはそれなりの設問の拡大が必要です。教科書の中世都市の「都市の自治」は北ドイツの都市のことを説明しています。


Q21 ドイツでシュタウフェン朝断絶後に大空位時代になるという説明がありますが、ドイツは神聖ローマ帝国で、さらに時代ごとに〜朝というのがあったということなのですか?シュタウフェンとゆうのが唐突すぎてよくわからなかったのですが。

21A たしかに大空位時代でいきなりでてきます。でもこの王朝は1138年から皇帝位をうけついでいて、名高い皇帝としては第三回十字軍の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭王)、第五回十字軍のときのフリードリヒ2世(18世紀のプロイセン王とはちがうひと)などがいます。


Q22 フリードリヒ2世は用語集にはプロイセン王とありますが、神聖ローマ皇帝とは別なのでしょうか?

22A フリードリヒ2世は第五回十字軍のときの指揮者として神聖ローマ帝国皇帝でした。プロイセン王と同名ですが、時代がまるでちがいます。


Q23 「ギルド独占・ギルド強制により競争からの自由・生業の安泰はある」はどういう意味ですか?

23A 既存の店に規制を守らせることで、その代り店を増やさない、自分たちの店舗で商品は独占し、価格をつりあげたり下げすぎたりしない、バーゲンもしないので、ギルド同士はたがいに共存共栄をはかれます。競争しなくてもいいということは倒産する心配がなく、勝った負けたの資本主義の弱肉強食という荒々しい商売合戦をしなくてもいいということです。そういう意味での「安泰」があります。これでは互いに良い商品をつくって儲けよう、他の会社をつぶしてでもひとり勝ちしようという精神(野心)は要りません。しかしこれでは近代の資本主義には合わないので、市民革命で排除される規制です。


Q24 中世都市の「自由」は普遍性と人権思想を 欠いている……この意味がいまいち分かりません。

24A この「自由」は全世界・全人類にも通じるような自由ではなく、中世都市だけに通じる狭い自由です。すべてのひとは平等な権利を法の前で持っている、という「人権」の考えは、啓蒙思想からくる近代の基本的な考えで、日本の憲法もこれにしたがってつくられています。そういう国も人種もこえた思想ではなかった、と限界を指摘しています。


Q25 ブールジュ宗教令とは、仏の都市ブールジュでシャルル7世のだした国家教会主義、ガリカニズム、ガリア人主義、1438年発布。……こういう解説にあるガリカニズムとはなんですか?

25A ガリア人主義という意味で、この場合のガリア人はフランス人のことです。フランス人中心主義といっていいのですが、フランス国王の決定権を教皇の上にもっていくことです。フランスの教会で問題がおきたときに、その裁定を教皇庁の裁判所にゆだねたりしないようにフランス国内で国王の下で裁かせよう、また聖職者が昇進すると初任給の10分の1を教皇に納めなくてはならないことになっていたのですが、それを納めなくてよい、と。こうしたことに表れるフランス人とフランス国王を主にするやり方をガリカにズムといいます。同じことはイギリス人も持っていたので、イギリスの場合はアングリカニズムといい、いずれこれは国教会の成立につながります。


Q26 中世末にオーストリアのハプスブルク家がネーデルラントを政略結婚で獲得したと教科書にかいてあるんですが、誰と誰の結婚なんですか?

26A 細かいですね。当時ネーデルラントはブルゴーニュ公の領土でした。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(在位1452〜93)の息子マキシミリアン(位1493〜1519)と、ブルゴーニュのシャルル豪胆公の娘マリー(マリー・ドゥ・ブルゴーニュ)との結婚により(1477年)、ブルグンド(ネーデルラント)を得たできごとです。この二人のあいだにフィリップが生まれ、フィリップと狂った母フアナとの子がカール5世です。


Q27 百年戦争の発端が、ノルマンディー公ギョームのイングランド征服に始まるといわれているとおもいますが、なぜ、フランス王フィリップ1世の家臣(家臣といえるかどうかはわかりませんが)であるギョームがイギリスに渡って王朝を打ち立てたのですか?

27A このギョームとは一般に教科書でいうところのウィリアム1世のことです。またイギリスを征服する前はノルマンディー公ウィリアムですが、征服後は王になって1世がつきます。フランスでは家臣で、イギリスでは国王という奇妙なかたちは中世らしさをよくあらわしています。人が国をまたがって領土をもつことは中世ではあたりまえのことでした。
 さて征服の理由ですが、当時のイギリス全体を代表する国王はウェセックス伯ハロルド(1022〜66)でした。このハロルドが王になる前のことでしたが、ノルマンディー海岸で難波したときに助けてやったこと、そしてハロルドが自分ウィリアムに臣従を誓い、そしてウィリアムにイギリス王位を約束して帰国しました。ハロルドがこの約束を破って王位についたことを理由に征服します。このあたりを描いたのがフランスのバイユー修道院にあるタペストリーです。このタペストリーの写真はかならずといっていいほどどの教科書にものっています。ルーヴル美術館にはラテン語・英語訳・フランス語訳のついたミニチュアが売っています。実物の10分の1でミニチュアでも7mあります。
翻訳して説明しているものが下記のホームページにありますのでご覧ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/tapestry.html
 

Q28 山川教科書p122、「西ゴート人は410年ローマを略奪したのち、ガリア西南部とイベリア半島に移動して建国した」
p124 フランク王国が、「6世紀半ば、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼして全ガリアを統一したが…」と、書かれていました。
西ゴート王国は滅亡していないのに、全ガリアを統一という記述に不思議に思ったのですが、この過程で西ゴート王国は、滅ぼされるまではいかなくても、支配権を縮めたという解釈でよろしいでしょうか?

28A そうです。西ゴート王国は初めフランス西南部に国を建てたのですが、クローヴィスに追い立てられて(ガリア=フランスの統一)、スペインに逃げたのです。スペインに行った時点で第二次西ゴート王国というのですが、一般にこの「第二次」を付けないで表現しているため判りにくくなっています。


Q29 ローマ教会とローマ・カトリック教会の間における違い、ギリシア正教会とコンスタンティノープル教会の間における違いがあるのか、それとも同じものと考えて良いのか、を教えて欲しいです。

29A ローマ教会とローマ・カトリック教会の間における違いは、前者が中心・頂点で後者がローマ教会ほか西欧全体の旧教の総称です。この関係は正教でも同じで、コンスタンティノープル教会が中心・頂点で、ギリシア正教会が総称です。ただギリシア正教はロシア正教・セルビア正教などもふくんで全体の総称としても使います。とくに日本では曖昧で、東欧・ロシアも含む正教全体の正式名称は今は「東方正教会 Eastern Orthodoxy Church」といいます。


Q30 教科書p142の「アウクスブルクのフッガー家のように皇帝に融資してその地位を左右したり…」における、その地位とは、フッガー家のことでしょうか?皇帝のことでしょうか?

30A 皇帝です。「地位」は高いもののことを指していて、それを裏で、金で左右するのがフッガー家だという意味です。皇帝が選挙で選ばれるように融資して、結果的に皇帝を傀儡(かいらい、人形、操り人形)化することです。一方、メディチ家のように教皇に融資して教皇を操った例もあります。レオ10世自身がメディチ家のひとでした。


Q31 自治都市と自由都市(帝国都市)は違うものでしょうか? 教科書p140から141にかけて、「各地の都市は次々に自治権を獲得し、自治都市になった」とあるのですが、もし違うとしたら、自由都市は、この記述には当てはまらないということでしょうか?

31A どちらも同じです。自治はその都市の市参事会が自ら運営できるので「自治」都市といい、自由も皇帝以下の諸侯から特許状によって認められているので「自由」都市と言います。「帝国」は皇帝から特許状を得ているので呼ぶ呼び方です。特許状によって皇帝や諸侯から自由を得るかわりにわずかですが代金を払います。といって隷属しているのではないので諸侯と同じ地位をもっています。国家に近い権利の保障をされています。


Q32 山川『世界史小辞典』で、コムーネ、を調べてみたら、叙任権闘争により教皇、皇帝ともに権威を失墜した、と書いてありました。叙任権闘争では、教皇が力を増大させ、皇帝が力を失ったと間違って認識していました。叙任権闘争で、教皇がどう権威を失墜させたのでしょうか?

32A 山川の辞典の内容は「皇帝と教皇が叙任権闘争で互いに権威を失墜させたので、両者の任命する都市領主(伯、司教)の地位も弱化した」とある部分ですね。イタリアの場合は皇帝党と教皇党で争い、長い分裂と抗争を繰り返したため、かえって各都市が自立する機会になりました。しかし神聖ローマ帝国(ドイツ)の場合は、皇帝はオットー1世のときに帝国教会政策をとり、はじめは皇帝が強かったのが叙任権闘争の結果、次第に教皇の地位が高まりだし、インノケンティウス3世で頂点となりました。しかし十字軍失敗・アナーニ事件・コンスタンツ公会議・ウィクリフの批判などで失墜し、皇帝は大空位・金印勅書で失墜しました。この二つの巨頭の失墜によって西欧では各国の君主が自立していきます。


Q33 貨幣地代が広まるのは封建社会が崩れ始めた1300年頃からだと認識していたのですが、11-12世紀に、すでに貨幣経済だけでなく、貨幣地代も発達していたのでしょうか?

33A 広がったのは1300年前後からで、それもイギリスだけです。15世紀にはフランスでも広がりますが不徹底でした。イギリスは小さい島であり、貨幣の普及が早かったこと、もともと農奴が少なかったことなどが理由として挙げられます。


Q34 十字軍の派遣を決定したクレルモン公会議ですが、なぜ開催地がクレルモンなのでしょうか? ローマ教皇ウルバヌス2世に救援要請がきたのだから、ローマでやればいいと思ったのですが…

34A ウルバヌス2世はクレルモンの近くで生まれたフランス人の教皇です。ドイツはどうしても皇帝との争いが起きやいこと、クレルモンで大聖堂(ノートルダム・デュ・ポール大聖堂)が完成に近づいていて、そこで演説がしてみたかったこと、らしいです。岩波新書の『十字軍』が参考になります。


Q35 中世や近代では、荘園制やグーツヘルシャフトというような農業面に関して複雑に思える情報が多くあるのですが、中でも農業を営む人々、つまり、
古代ギリシア・ローマの農奴やコロヌス、
中世ヨーロッパのヨーマンや
近代ヨーロッパのユンカーなど、
ほぼ地域で区別しているという感じで本質理解せずただ暗記してしまっている状態なのですが、このような農業に従事する人々の差異について教えていただけないでしょうか?

35A 古代ギリシア・ローマの農奴やコロヌス……古代に「農奴」は一般にいないです。自由農民か奴隷かのどちらかです。スパルタの奴隷(ヘロット)は、奴隷ではなく農奴だという説はありますが。教科書の説ではありません。
 ローマ時代の3世紀にはコロヌス制ができますが、これは小作人です。地主から土地を借りて、借り賃の地代を払わなくてはならない農民です。ですが農奴のように移動・職業選択・結婚の自由がない存在ではなく、自由が認められていました。次第にドミナートゥスになると移動の自由は制限されていきます。
 中世ヨーロッパのヨーマン……ヨーマンの前に、上のコロヌス制の小作人(小作農)が移動の自由はなく、職業選択の自由もなく、結婚も領主の認可が必要、という状態の農民を農奴といいます。これはノルマン人・マジャール人の侵入を避けるために封建制ができる9世紀くらいからハッキリしてくる農民の状態です。
 この農奴の地位にありながら財力を蓄えた農民の中に、流亡・逃亡・破綻した農民を雇って経営者的な豊かな農民になったものをヨーマン(自営農民)といいます。イギリスで中世末以降に現れるひとびとです。事実上解放された自由農民です。
 近代ヨーロッパのユンカー……これはドイツ語圏で使う表現ですが、地主制のことです。ユンカーは英語のヤングにあたり、若い土地の経営者を指すことばから、次第にドイツの地主を指すことばになり、その下で働く農民は上の農奴ど同じです。この経営のあり方をグーツヘルシャフト(農場領主制/農奴制大農経営)といいます。しかし1807年のプロイセン改革で農奴解放がおこなわれ、それ以降は「ユンカー経営」と言いかえるようにしています。もう農民は農奴ではなくなったからです。


Q36 カール4世が金印勅書を発布した時、七選帝候を定めましが、なぜ?諸侯4、司教3なのですか?司教4人、諸侯3人ではないんですか? 自分の仮説、①1292年のアッコン陥落、②大空位時代は教皇が起こしたから、③司教の力を抑えるため。この内どれが答えですか?

36A 有力諸侯(大領主)が選挙人(選帝侯)で、聖職・世俗は無関係です。聖職者は同時に大領主でもありましたから。勅書の内容に、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権などがあることからも推測できます。また聖界諸侯筆頭の地位にあるのがマインツ大司教で、選帝侯会議を召集し選挙管理もしており、この大司教は神聖ローマ帝国大宰相の最高官職を持っていました。トリエール大司教はブルゴーニュ王国大宰相を、ケルン大司教はイタリア王国大宰相の上級官職を兼ねていました。つまり聖職者たちは政治の中枢に就いてもいるのです。日本の大名たちの側に僧侶が政治・軍事の顧問として就いているのと似ています。 


Q37 センター試験の問題で、同職ギルドには親方のみが加入でき徒弟や職人は加入できないという趣旨の文章があったのですが、用語集には、同職ギルドの構成員は経営者である親方・徒弟・職人の3つの階級に分かれる、と書いてあります。親方の項目のところには同職ギルドの正式な構成員という記述があるのですが。この記述では、徒弟や職人も構成員であると見受けられるのですが、それは加入はしているということ、とは違うのでしょうか?

37A センター試験の「同職ギルドには、親方のほか、徒弟や職人も加入した」が間違いであるのは、ギルドが親方のクラブであり、職人・徒弟はたいてい親方の家に住み込みで働いている雇われた人であるからです。親方の下にいるのですから「構成員(メンバー)」ではあっても、下働きをさせられている人間であり、一人前と認められていないのです。技能的には親方が最も優れた作品をつくることができ、次に職人、下っ端に徒弟という順ですが、親方が経営者であり、職人が独立して店をもつことはできますが、非常に制限されたものでした。というのはギルドに親方として加入するには、加入金の他に親方全員を招宴する多額の費用が必要であり、高額なものだったそうです。
 たとえると、学生たちが集まって教室は構成されていますが、教室の経営は学生代表ではなく担任教師(親方)が経営・管理します。中谷が担任教師であれば、中谷が親方で中谷教室といっていい一ギルドを形成しています。この親方だけが職員会議(中世都市の場合は市参事会という親方だけが集まる市役所会議)に出席できます。とにかく中谷親方はいばりちらしているのです。
 中世都市では、鍛冶屋・金物屋・パン屋などの職業別の組合(ギルド)があり、このギルドのメンバーでないかぎり、都市内では仕事をしてはいけないことになっていて、換言すれば何らかのギルドの親方の下にいないと仕事はできません。一つのギルドは独自の守護聖人や教会を持っていて、ギルド毎に冠婚葬祭もおこないます。小さい教室(ギルド)がいくつも集まって学校(都市)を構成しています。

疑問教室・西欧古代史

西欧古代(ギリシア・ローマ)史の疑問

Q1 ミケーネ文明はドーリア人の南下に加えて海の民の攻撃があって崩壊したのでしょうか? 山川の教科書には海の民とミケーネ文明に関連する記述がないのですが、別の山川の文献にはそれをほのめかすようなことが書いてありました。どちらなのでしょうか?

1A 詳解世界史(三省堂)には「ミケーネ文明は崩壊した」の注に「ミケーネ文明崩壊の原因については、これまで、おくれて南下したドーリス人の攻撃によるものと考えられてきた。しかし、近年はむしろ、この時期に出没した「海の民」の攻撃を受けて滅ぼされたとする説が注目を浴びつつある」
 センター試験(1993年度)でも「前12世紀ころになると、3)「海の民」と呼ばれる混成の外来民族の襲来や、ギリシア人の別な一派の南下などの民族移動の結果、ミケーネ文明の諸王国は滅亡した」とあります。


Q2 新聞で「ローマ時代の平均寿命は22歳だった」ということが書いてあるコラムを読みました。それを読んで、ギリシアの民主政治が完成した時、参政権は「成年男子」に限られていたことを思い出しました。今まで「成年男子」という記述を見て「20歳以上の男子」という意味だと思っていました。ギリシアの成年って何歳ですか?

2A アテネは18歳です。スパルタは20歳です。平均寿命というのは幼児死亡率が高すぎるためそうなってしまう数字で、子供を「生き抜いた」人は長生きして50〜60歳まで生きています。ペイシストラトスもアイスキュロスも70歳くらい、ペリクレスは66歳まで生きています。ペイシストラトスの長男のヒッピアスは、アテネ市を追放されて、復讐のためにペルシア軍の先導役としてマラトンに上陸した(前490年)、という話しは名高いものですが、あるとき笑ったら歯が全部抜けた、といわれています。ヒッピアスはもう70歳でしたから。日本の明治時代の平均寿命も30歳くらいです。明治の人の伝記を読むと兄弟が小さいときに死ぬ場面がよくでてきます。現代より身近に「死」があったのです。


Q3 陣形について勉強を始めようと思っているのですが、日本では、戦国時代に陣形は使われたと思うのですが、世界史では、「陣形」というものはあるのですか。あったらどういう風に使われたのかを教えてください。

3A 陣形として世界史の中で名高いのは、レウクトラの戦い(前371)でテーベの将軍エパメイノンダスが考え出した「斜線陣」によるスパルタに対する勝利です。他はインターネットの中に地図で陣形を描いたものがたくさんあるはずです。Military History で検索すればたくさん出てきます。


Q4 イデア論について40字で説明せよ(By慶応大〈商〉)。答えを見てもいまいち意味がわかりません。イデア論ってなんですか?

4A イデアについて答えられない場合は、「プラトンが唱えた理論」でいいです。もう少しつっこんで「プラトンが理想とした価値」。40字なくても正しければ答えないよりいいです。もっとつっこんで、「プラトンが究極的価値とみなした真善美のかたち」or「時間・空間のちがいによっては変化することのない善そのもの」or「絶えず流動変化していると見える世界はイデアの影であり、真の理想的な価値がひそんでいる」と。たとえば。描いた見えるかたちの丸い円には太さ、厚みなどがあり、ところによって鉛筆で書き損じたため太かったりしますが、その見えるかたちは無視して完全な丸として計算します。その場合、完全な丸は見えないのに見えているかのようにしています。人間のものを見る行為の中に完全さを知っているかのように動きます。この完全なかたちがイデアです。この世に完全な四角も三角形もないのですが、あるかのように計算します。なぜか人間は知らず知らずのうちにイデアという完全形を知っているから。

Q5 『世界史用語集』のアウグストゥスのところに「内乱後の秩序を回復し、市民=戦士の原則を復活」とありますが、これはアウグストゥスが常備軍を設置したことと矛盾しませんか?

5A 用語集のまちがいでしょう。「市民=戦士の原則」は自費で装備をととのえる武装自弁の原則でもあるのですが、こういう市民の義務としての兵役はマリウスの兵制改革(前106)ですたれています。土地を失い都市に入りこんだ無産市民から志願兵をつのり、武器をかれらに支給して連れていくことになっています。これらは、もう慣例になっており、かれらに多くの戦利品を与えられるものが有力者となっていくという過程です。前31年に「内乱の一世紀」が終ったときは、60もの軍団からなる大部隊にふくれあがっていました。元首政をはじめたアウグストゥスはこれを28軍団に減らして常備軍としました。この常備軍の兵士は、従軍の期間が20年と定められ、年に900セスナルティウスの給料を支払うことになっています。こういうものが「市民=戦士の原則を復活」とは……。元首政が共和政の要素を含んでいる、という点の拡大解釈でしょう(注:今の用語集にはこの文はありません)。


Q6 今日コンスタンティヌス帝が「コロヌスの転職の制限を実施した」と習ったんですが、これってコロヌスに限られた話じゃないですよね。 コロヌスは山川によると「隷属的」な小作人なんですよね。じゃあ、コロヌスも奴隷も一緒ちゃうのん???って思うんですが。。。。なんか要するに私はコロヌスと奴隷と中世の農奴の違いがわからんようです。

6A 「自由民」は奴隷でないという意味です。転職の制限を実施した……すべての職業です。奴隷は人格が否定されていて自由はまったくありません。奴隷自身が道具・財産のひとつであり売り買いされます。自分が働いて収穫したものも自分のものではありません。
 コロヌスは土地に縛られた移動の自由のない自由人です。売り買いまではされません。人格が認められています。農奴も移動の自由がありませんが、領主裁判権の下にあり、コロヌスよりもっと自由がなく拘束されている人々です。ただし奴隷のように売り買いまではされません。自分が働いてえた収穫は半分くらいは自分のものになります。これは中世の荘園の中の農民のすがたです。
 このように移動・人格・生産物で比べるとハッキリしてきます。
 奴隷→農奴→コロヌスと自由度が増します。
 ただし歴史的な成立の順番は、奴隷→コロヌス→農奴ですが。


Q7 古代末期のローマというのは具体的にいつのことを言っているのですか? 古代末期ってのはローマ帝国が東西に分裂する前までってことですか?

7A ローマ帝国史は二分して前期帝政、後期帝政といいますが、前期は前1世紀から3世紀(軍人皇帝時代)まで、後期はドミナートゥス制から西ローマ帝国滅亡までです。この後期帝政のことを「古代末期」といいます。「古代」はローマ史に限れば前500年(前509)の共和政から始まり、500年の西ローマ帝国滅亡(476年)まで約1000年間の歴史をもっています。この1000年間の中で「古代末期」は4〜5世紀のことです。


Q8 325年のニケーア公会議において「父なる神と子なるキリストの同質」を説くアタナシウスの説が、これらに加えて精霊(原文のママ、正しくは聖霊)をも同質とする三位一体説として確立され正統派と改めて確認されたのは381年のコンスタンティノープル公会議においてではないでしょうか。

8A そのとおりです。「確立された」のは。しかし三位一体説の原型はニケーア公会議で出されており、それを後で「確認」したという順です。教科書でもニケーア公会議の説明のところで、「アタナシウスの説は、のちに三位一体説として確立した」(詳説世界史)「のちに三位一体説として完成されるアタナシウスの説が正統と認められ」(詳解世界史)
と書いています。だからニケーア公会議の段階で書いてもいいのです。わたしの解答例の中では「確立」ということばは使っていません。「ニケーア公会議で三位一体説をとるアタナシウス派を正統とし……」となっています。


Q9 城攻めの時使われた攻城兵器は、大概古代ローマ帝国に由来するもののようですが、歴史的に初めて登場する、ローマ由来ではない兵器はtrebuchetとかいうもので間違いありませんか?
 昨日、映画ロード・オブ・ザ・リングを見てきましたが、クライマックスは攻城兵器でした。弾丸を撃ち込むのや、はしごを城にかけて攻めたり、城の門をぶち抜くのだったりです。弾丸や大きい矢を打ち込むのがtrebuchetかと思います。あまり知りません。日本ではなぜ、こういった兵器が使われなかったのでしょうか?

9A わかりません。城の構造とかかわりがあるのではないでしょうか? 高い壁になっていて、それも分厚すぎる壁をこわすことは容易ではなかったでしょう。日本でも投弾帯(とうだんたい)という石や土の弾丸を投げつける武器はあったようです。ローマ型の台をつけた装置ではなく、手で振り回すだけのものですが。


Q10 問題集の答えにポリビオスの著したローマ史では混合政体がローマの強みだと主張されているらしいんですが、それは複合政体と同義ですか? あとエウセビオスやカラカラ帝の父であるセプティミウス=セヴェルスは私大ではでますか?

10A 混合政体と複合政体と同義です。王政=独裁官、貴族政=元老院、民主政=民会という三つのちがう声を代表する機関があったからです。エウセビオス、カラカラ帝の父であるセプティミウス=セヴェルスは私大で……出ます。前者は関関同立、早稲田・慶応・法政に出ています。後者は軍人皇帝時代のスタートを切るので出ます。関学・近畿・早稲田・慶応・法政に出ています。


Q11 ギリシア・ローマ時代、市民が重装歩兵となって従軍したのは従軍=参政という構図から、これを『民兵一致』とするのは間違いでしょうか? 山川の用語集にも市民=戦士制ともありますし。

11A 世界史のばあいは民兵一致という表現で出てくるのは、中国史の屯田制や府兵制などでつかいます。つまりこれは土地をもらった代償として義務を負わされたものです。農民であるものがときに兵士になる、という意味です。政治的な権利はありません。たとえ参戦しても政治にはノータッチです。ところが西欧のばあいは、おっしゃるとおり武装自弁の原則にたって、市民権が代償としてあたえられます。これは権利として投票権・被選挙権にむすびつきます。中国のばあいは食糧は農民も用意しますが、武器はたいてい国家が用意します。この点も西欧のばあいは自分で武器を用意できるものだけが参戦できます。経済の格差がそのまま軍隊の地位に反映します。つまり馬を用意して養うくらいの豊かなもの、馬は大食いですからね、位は高いのです。かんたんな武器しか用意できないものは、日本でいう二等兵にしかなれません。しかし中国のばあいは、地位の高い低いは農民にはなく、一律低いのです。指揮官に地位の差はあれ、これは一般の農民ではないのです。専門的な軍人です。ですから、西欧史にかんしては「民兵一致」はふさわしくないおもいます。


Q12 貨幣経済の進展についてです。
 「ペロポネソス戦争中におけるギリシャで貨幣経済が進展した」と用語集などに書いてありますが、その理由はなんでしょうか? 私は、長引く戦争のために農地が荒廃し、農作物がとれなくなったために、物々交換が不可になったためかなぁ…と考えました。しかし、「中世ヨーロッパにおける貨幣経済の進展は農業生産の増大による余剰生産物の発生で経済活動が促されたため」と用語集にかいてありました。となると、私の推測は間違いですよね……わかりません。

12A 確かに迷うような記事が書いてあります。教科書でも「このたえまない戦争で農業は荒廃し、ポリス社会は大きく変質していった。貨幣経済の浸透によって貧富の差が激しくなり、土地を失う市民が続出したため、傭兵の使用が流行して、市民みずからがポリスをまもる原則はくずれた。(旧詳説世界史)」と書いてあります。
 ペロポネソス戦争の前にある「用語集」の貨幣の使用、すぐ下のスパルタという用語の記事も見られたら、貨幣の登場は前6世紀くらいからリディアから伝わって流通しているのに、わざわざまたペロポネソス戦争のときに貨幣経済の浸透を言うのか、という点です。これはスパルタという独特の都市国家が貨幣を使用していなかったためです。全ギリシアというわけでなく、大きい都市国家のスパルタとそれに似た都市国家のことです。商業が発展して他のポリスとの交流がさかんになるとスパルタの厳しい体制を嫌がる市民が出てくるので、他のポリスとの関係がないように、貨幣も鉄の棒を代わりにつかっていました。鉄では価値がないと他のポリスの商人もスパルタと商取り引きはしない、というスパルタが意図して閉鎖的社会をつくっていたのです。閉鎖的であることが可能な農業の収穫があり自給自足ができた珍しい都市国家でもあったからです。豊かな農業があれば商業が生まれ、そして流通をスムーズにするために貨幣という手段も盛んになるのが、どこの社会でも見られるはずですが、それを無理に抑えていたのがスパルタでした。
 それがペロポネソス戦争という他のポリスとの長い戦争の中ではどうしても他の地域に行かざるをえず、実際勝ってアテネを一時支配します。すると閉鎖的であったスパルタは他のポリスのあり方=貨幣経済を知るようになり、またスパルタはもともと兵士をになう市民の数が少なく参戦できるものが少なくっていったため傭兵を雇いました。これは貨幣による戦争です。戦闘員の市民が少なくなり(市民数は、前480年に8000人、前371年に2000人、前242年に700人)、貨幣経済とともに市民間の貧富差も出てくると、貨幣でなんとか都市国家を維持しなくてはならなくなり、ギリシアにもともとあった貨幣経済の中に飲み込まれていったのです。
 「農業は荒廃」はギリシア本土のすがたですが、当時は地中海全域との関係ができあがっていて、農産物がなければ輸入したらよく、どこでもポリスの最大の輸入品は小麦でした。オリーヴ・葡萄のように痩せた土地でもできるものを輸出して穀物を輸入するというのが基本的な貿易のありかたでした。「荒廃」の理由は戦争の武器のためにたくさんの木を燃やしたためとも考えられています。環境破壊です。アテネのオリンピックのときにギリシアの映像がテレビでよく出てきましたが、かぼそい木々しか生えていないすがたは今も変っていません。中国でも戦国時代の森林伐採は武器の製造や青銅器をつくる燃料として燃やしたために、保水の力のなくなった自然のために黄河の洪水もおきてきた、と見ています。
 中世ヨーロッパにおける貨幣経済の進展……関連が……これは背景に農業の発展があり(三圃制・重量有輪犁・水車・風車の技術の進展)、その結果として人口増加があり、都市ができ、全欧的商業(商業ルネサンス)があり、十字軍をとおしてより遠方の物産に興味をいだいた結果です。どこの世界でも基本的には農業の発展は商業(貿易)を生む、といえます。中国でも春秋末、唐末五代、明末清初の3回が農業の発展があり、その上で商業の全国的な活動が見られる時期です。


Q13 帝政ローマ時代に、ローマは南インドのサータヴァーハナ朝と季節風貿易を行って、ローマはインドから綿や香辛料を輸入し、その対価として金銀を輸出していましたが、金銀の国外流出がローマの財政悪化を招き、衰退の原因を作ったそうですが、、、何故金銀の国外流失が財政悪化につながるのかがわかりません。国内にある金属(金)の量が国内の財政に影響を及ぼすメカニズムはどのようなものですか?(金本位制もこのメカニズムと同じ理屈で理解できるのでしょうか?金本位制もいまいちよくわからないのですが…)

13A 確かに分かりにくいですね。金銀の流出だけが衰退原因という訳ではないけれど、一因としては言えます。基本的に金銀というそれ自身に価値のあるものを国家が失いはじめると、必要なためにそれでも貨幣を発行していくことになり、発行する貨幣の価値が落ちていきます。紙幣なら余計ですが(元朝の交鈔)、ローマ帝国は「貨幣を増発したために通貨の質が下がって物価が上がり、とりわけ帝国西部で商業活動はおとろえ、都市は没落した(詳解世界史の記述)」となります。「通貨の質が下がって」は悪鋳といいます。金貨・銀貨の金や銀の含有量が少なくなることです。「物価が上がり」の理由は、金や銀の含有量が少なくなって、貨幣それ自身の価値が落ちるため、むしろ金貨銀貨で給料をもらより物でもらったほうがいい、という傾向になります。この含有量の少なくなる点は、お持ちなら『各駅停車』の194ページに載っていますから見てください。
 信用のない貨幣より、貨幣で買うはずの物の値段(物価)の方が上がってきます。物の値段が上がることは交換・売買をとどこおらせ、かつ物々交換になると流通は貨幣による取り引きのときより遅くなります。また何も物の豊かな都市・市場に行かなくても安い現物のとれる田舎でいいことになります。これは都市を衰退させます。しだいに貨幣経済でなく自然経済(貨幣のない経済)に変ってきます。
 金本位制も推理のとおり基本的に同じです。金そのものをもっていないかぎり金を単位とする取り引きはできません。銀本位だった時代から金本位に変わっていく流れについては、このブログの過去問→東大→2004年度の第1問の解説にありますから読んで下さい。


Q14 ローマ史でいうところの「東方属州」とはどこを指すのですか?

14A 東西に分裂する(395年)ときの東西と一緒です。分裂する以前から東方・西方という表現をつかっています。つまり東方属州は東地中海の沿岸でもあって、ぐるりと「コ」の字のかたちで、バルカン半島・トルコ・シリア・パレスティナ・エジプト・リビア東部が入ります。
 

Q15 4世紀に「ヨーロッパ全体の商業活動が衰退して、西方属州の都市没落が進んだ」理由がわからないので、教えてください。 

15A これは専制君主政が都市に重税をかけたことと関係しています。都市の市参事会員がその都市の税額にたいして責任を負わされ、払えない市民の肩代わりもされられました。それで有力市民が都市を捨て、農村の地主として生きる道をえらびます。また、貨幣が西方では悪鋳されて価値がなくなり、物価が上昇します。具体的には、銀貨は260年頃にはアウグストゥス帝のころに比べて、銀の含有量が60%も減少していき、さらに270年頃には4%しか銀を含まないものになります。物価は260年の物価が305年には20倍にはねあがっていました。なので取り引きが物々交換になり、しだいに自然経済の方にむかわざるをえません。
 しかし東方属州ではソリッドス金貨、「中世のドル」といわれた金貨の金の含有量が98%を下らなかったといいます。わたしも一枚もっていますがピカピカに光っています。東方は都市が繁栄しつづけます。この差は人工数に表れていて、ユスティニアヌス帝が生きていたとき、ローマ市の人口が500人、コンスタンチノープル市は50万人でした。


Q16 山川の詳説世界史で「そのためローマ帝政後期になると、彼らはドナウ川下流域まで広がり…」ここにおけるローマ帝政後期とはいつからを指すのでしょうか。自分は、ここでのローマ帝政を前27年から395年までと考えて、ローマ帝政後期を軍人皇帝の時代体と考えたのですが、この解釈で合ってるでしょうか?

16A いいえ。帝政後期とはドミナートゥスからです。軍人皇帝時代まではまだ共和政的な要素が保たれていたので、専制君主政からです。この時期には元老院はローマ市の市役所に成り下がり、イタリアも属州の一つになります。


Q17 デロス同盟についてです。AとBのどちらが正しい認識ですか?
A アテネがデロス同盟をつくり、それに反発してスパルタがペロポネソス同盟をつくった。
B アテネがつくったデロス同盟に当初入っていたスパルタは、その同盟内でアテネに反発し、デロス同盟を脱退してペロポネソス同盟をつくった。
要するに、スパルタは当初デロス同盟に入っていたかどうかということです。

17A AでもBでもありません。ペロポネソス同盟は前550年にできていて、ペルシア戦争以前からあります。デロス同盟はペルシア戦争の後の前477年にできました。