世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2018

東大世界史2018
第1問
 近現代の社会が直面した大きな課題は、性別による差異や差別をどうとらえるかであった。18世紀以降、欧米を中心に啓蒙思想が広がり、国民主権を基礎とする国家の形成が求められたが、女性は参政権を付与されず、政治から排除された。学問や芸術、社会活動など、女性が社会で活躍する事例も多かったが、家庭内や賃労働の現場では、性別による差別は存在し、強まることもあった。
 このような状況の中で、19世紀を通じて高まりをみせたのが、女性参政権獲得運動である。男性の普通選挙要求とも並行して進められたこの運動が成果をあげたのは、19世紀末以降であった。国や地域によって時期は異なっていたが、ニュージーランドやオーストラリアでは19世紀末から20世紀初頭に、フランスや日本では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。とはいえ、参政権獲得によって、女性の権利や地位の平等が実現したわけではなかった。その後、20世紀後半には、根強い社会的差別や抑圧からの解放を目指す運動が繰り広げられていくことになる。
 以上のことを踏まえ、19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 キュリー(マリー) 産業革命 女性差別撤廃条約(1979) 人権宣言 総力戦 第4次選挙法改正(1918) ナイティンゲール フェミニズム

第2問
 現在に至るまで、宗教は人の心を強くとらえ、社会を動かす大きな原動力となってきた。宗教の生成、伝播、変容などに関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭(1)〜(3)の番号を付して答えなさい。

問(1) インドは、さまざまな宗教を生み出し、またいくつもの改革運動を経験してきた。古代インドでは、部族社会がくずれると、政治・経済の中心はガンジス川上流域から中・下流域へと移動し、都市国家が生まれた。そして、それらの中から、マガダ国がガンジス川流域の統ーを成し遂げた。こうした状況の中で、仏教やジャイナ教などが生まれた。また、これらの宗教はその後も変化を遂げてきた。これに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えなさい。

 (a) 新たに生まれた仏教やジャイナ教に共通のいくつかの特徴を3行以内で記しなさい。
 (b) 仏教やジャイナ教などの新宗教が出現する一方で、従来の宗教でも改革の動きが進んでいた。その動きから出てきた哲学の名称を書きなさい。
 (c) 紀元前後になると仏教の中から新しい運動が生まれた。この運動を担つた人々は、この仏教を大乗仏教と呼んだが、その特徴を3行以内で記しなさい。

問(2) 中国においては、仏教やキリスト教など外来の宗教は、時に王朝による弾圧や布教の禁止を経ながらも、長い時間をかけて浸透した。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

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 (a) 図版1は、北魏の太武帝がおこなった仏教に対する弾圧の後に、都の近くに造られた石窟である。この都の名称と石窟の名称を記し、さらにその位置を図版2のA〜Cから1つ選んで記号で記しなさい。

 (b) 清朝でキリスト教の布教が制限されていく過程を3行以内で記しなさい。

問(3) 1517年に始まる宗教改革は西欧キリスト教世界の様相を一変させたが、教会を刷新しようとする動きはそれ以前にも見られたし、宗教改革開始以後、プロテスタンテイズムの内部においても見られた。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 13世紀に設立されたフランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴を2行以内で記しなさい。
 (b) イギリス国教会の成立の経緯と、成立した国教会に対するカルヴァン派(ピューリタン)の批判点とを、4行以内で記しなさい。

第3問
 世界史において、ある地域の政治的・文化的なまとまりは、文字・言語や宗教、都市の様態などによって特徴づけられ、またそれらの移り変わりに伴って、まとまりの形も変化してきた。下に掲げた図版や地図、資料を見ながら、このような、地域や人々のまとまりとその変容に関する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

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問(1) 10〜13世紀頃のユーラシア東方では、新たに成立した王権が、独自の文字を創出して統治に用いるという事象が広く見られた。図版aは、10世紀にモンゴル系の遊牧国家が創り出した文字である。この国家が、南に接する王朝から割譲させた領域を何というか、記しなさい。

問(2) 13世紀にモンゴル高原に建てられた帝国は、周囲の国家をつぎつぎに併合するとともに、有用な制度や人材を取り入れた。図版bは、この帝国が、滅ぼした国家の制度を引き継いで発行した紙幣であり、そこには、領内から迎えた宗教指導者に新たに作らせた文字が記されている。その新たな文字を何というか、記しなさい。

問(3) 図版cに含まれるのは、インドシナ半島で漢字を基にして作られた文字であり、13世紀に成立した王朝の頃に次第に用いられるようになった。この王朝は、その南方にある、半島東岸の地域に領域を拡大している。漢字文化圏とは異なる文化圏である、その領域にあった国を何というか、記しなさい。

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問(4) 430年、地図中の都市Aの司教は、攻め寄せてきた部族集団に包囲される中、その生涯を閉じた。
 (a) 若い頃にマニ教に関心を示し、その膨大な著作が中世西欧世界に大きな影響を及ぼした、この司教の名前を記しなさい。
 (b) また、この攻め寄せてきた部族集団は数年後には都市Bも征服した。この部族集団名を記しなさい。解答に際しては、(a)・(b)それぞれについて改行して記述しなさい。

問(5) 次の資料は、地図中の都市Cに関する1154年頃の記述である。下線部①は、直前の時期に起きたこの都市の支配者勢力の交替に伴って、旧来の宗教施設[ あ ]が新支配者勢力の信奉する宗教の施設に変化したことを述べている。この変化を1行で説明しなさい。

 アル=カスル地区は、いにしえの城塞地区で、どこの国でもそう呼ばれている。三つの道路が走っており、その真ん中の通りに沿って、塔のある宮殿、素晴らしく高貴な館、多くの[ あ ]、商館、浴場、大商店が立ち並んでいる。残りの二つの通りに沿っても美しい館、そびえ立つ建物、多くの浴場、商館がある。この地区には、①大きな[ あ ]、あるいは少なくともかつて[ あ ]とされた建物があり、今は昔のようになっている
  イドリーシー『遠き世界を知りたいと望む者の慰みの書』(歴史学研究会編『世界史史料2』より、一部表記変更)

問(6) ウルグアイなど南米で勇名を馳せたある人物は、1860年9月に地図中の都市Dに入り、サルデーニャ王国による国民国家建設に大きな役割を果たした。その一方で、彼の生まれ故郷の港町は同年4月にサルデーニャ王国から隣国に割譲され、その新たな国民国家に帰属することはなかった。この割譲された港町の名前を記しなさい。

問(7) 地図中の都市Aを含む地域は近代以降植民地とされていたが、20世紀後半に起きたこの地域の独立運動とそれに伴う政情不安が契機になり、宗主国の体制が転換することになった。この転換した後の体制の名称を記しなさい。

料X
 世界で[ い ]のようにすばらしい都市は稀である。…[ い ]は、②信徒たちの長ウスマーン閣下の時代にイスラームを受容した。…ティムール=ベグが首都とした。ティムール=ベグ以前に、彼ほどに強大な君主が[ い ]を首都としたことはなかった。
   バ一ブル(間野英ニ訳)『バ一ブル=ナーマ』(一部表記変更)

資料Y
 ティムールがわれわれに最初の謁見を賜った宮殿のある庭園は、ディルクシャーと呼ばれていた。そしてその周辺の果樹園の中には、壁が絹かもしくはそれに似たような天幕が、数多く張られていた。…今までお話ししてきたこれらの殿下(ティムール)の果樹園、宮殿などは[ い ]の町のすぐ近くにあり、そのかなたは広大な平原で、そこには河から分かれる多くの水路が耕地の間を貫流している。その平原で、最近、ティムールは自身のための帳幕を設営させた。
    クラヴィホ(山田信夫訳)『ティムール帝国紀行』(一部表記変更)

問(8) 次の図ア〜エのうち、資料X・Yで述べられている都市[ い ]を描いたものを選び、その記号を記しなさい。

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問(9) (a)資料X中の下線部②の記述は正確ではないが、[ い ]を含む地域において、住民の信仰する宗教が変わったことは事実である。この改宗が進行する以前に、主にゾロアスター教を信仰し、遠距離商業で活躍していた、この地域の人々は何と呼ばれるか、その名称を答えなさい。(b)また、下線部②に記されている人物を含む、ムスリム共同体の初期の4人の指導者は特に何と呼ばれるか、その名称を記しなさい。解答に際しては、(a)・(b)それぞれについて改行して記しなさい。

問(10) 資料Xは、もと[ い ]の君主であった著者の自伝である。この著者が創設した王朝の宮廷で発達し、現在のパキスタンの国語となった言語の名称を記しなさい。

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コメント

第1問
 2018年度は異様に長い導入文でした。前段で性差別の長い歴史があったことを述べ、次段では、女性参政権運動があり、実現は19世紀末以降からと述べています。さいごの段落で課題が示されます。このうち次段目の説明は正確ではなく、19世紀の半ばから米国の各州で女性参政権は実現していました。たとえば一橋の過去問(2010)に次のような導入文があります。

女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった。

 この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州とミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州が1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 東大の過去問の類題としては1990年の「第一次世界大戦から1920年代の大衆的政治運動(600字)」が該当します。この大衆の運動の中に女性参政権運動も入っていたからです。
 さて2018年の課題は「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について、具体的に記述しなさい」というものでした。つまり「女性」の「活動」をまず書かなくてはならず、「女性参政権獲得の歩み女性解放運動」も女性・女性が強調されていることです。男性が運動したことでなく、男性が女性に「与えてやった」「認めてやった」参政権でもなく、女性側の活動、女性の獲得運動を書いてほしい、それも「具体的に」ということです
 予備校の解答例がネットで公表されているので、ご覧になり、「女性」側の運動がどれだけ書いてあるか、数えてみるといいでしょう。活躍・運動したのが誰なのか分からない解答例がほとんどです。書いてあるのは、この問題の導入文と同様な女性参政権の歴史・状況・結果で、女性の運動面の具体的事例に乏しいことです。まったく書いてない解答例もあります。課題を素直にとれない反面教師として、書いてはいけない「模範」事例として読むといいでしょう。日本がジェンダー・ギャップ指数で、世界144カ国中114位という現状がこれらの解答例も反映しています。
https://kokai.jp/2017/11/04/男女格差指数2017-日本114位(global-gender-gap-report-2017)/

 しかし指定語句となったキュリー(マリー)やナイティンゲールには活動の広がりがあまりありません。キュリーは完全に個人の研究に没頭していて、女性たちが彼女についていくという「運動」のようなものではありません。女性の国際的地位を上げた一人にはちがいありませんが。
 ナイティンゲールは看護師としてクリミア戦争の地にいき、病院の不衛生さを嘆き、便所掃除から始めて、戦地報告書を提出したことから軍と保健制度の改革につながりました。このことに刺激されてデュナンが赤十字国際委員会を設立します。といって女性の地位向上のための運動になったという訳ではありません。むしろ彼女は統計学の先駆者として学問のほうでの評価が高いひとです。
 なお指定語句の「キュリー(マリー)」はキュリーだけ書いてもいいはずです。他にキュリーは書けませんし、下線を引いておけば指定されたマリーを使ったことの表示になります。どうしもマリーも出題者が書いてほしいのであったら、「マリー=キュリー」と表示したはずです。娘のイレーネ=キュリーのほうが政治運動をおこなったのですが。
 運動指導者といいがたい二人しか女性の名前が指定されていません。東大らしい意地悪い指定語句の出し方です。解答する立場の受験生は、他の運動をおこなった女性の名とともに女性側の運動を列挙していかなくてはなりません。予備校の解答に女性の名前が指定語句以外にわずかしかないのは、この東大のだましに引かかったせいでしょう。
 合格した受験生が、合否がわからない段階で送ってくれた再現答案は以下のものです。問題の趣旨をよくとらえた解答になっています。

女性の活動で著名なものとして、まずラジウムを発見したキュリー夫人が挙げられる。ストウ夫人は『アンクル=トムの小屋』を書いて、奴隷制に関して社会に大きく影響した。ナイティンゲールはクリミア戦争で献身的な貢献を見せ、その後の赤十字設立に寄与した。女性参政権の歩みや女性解放運動については、まず文学でフェミニズムの風を起こしたイプセンの『人形の家』が挙げられる。また、女性の社会貢献が進むに応じて、これらの運動は高揚した。日本では、産業革命が起きて製糸業などの軽工業の機械化が進むと、女工が酷使されて生産された生糸が日本の主要な輸出品となった。これにより、20世紀初頭には平塚らいてうらによる女性解放運動や、女性参政権要求運動が盛んになった。また、世界大戦もこれらの運動活性化の契機となった。世界大戦は、戦場で戦う男性のみならず、女性も軍需産業に従事して戦争に参加する総力戦であった。そのため、大戦後はイギリスで第4次選挙法改正が行われ女性参政権が認められたことなどに見られるように、女性の地位は確かに向上した。これらの運動は、民衆の動きによるもののみならず、政権が主導して行われた例もあった。洪秀全の拝上帝会は、中国の伝統的なてん足を廃止した。ムスタファ=ケマルは、イスラームの女性抑圧の悪しき伝統を断ち切り、トルコ改革で女性参政権を与えた。女性差別撤廃条約人権宣言は使い方がわかりませんでした。

 女性の活動・運動にあたるものをたどってみましょう。
 初めはフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。その10条に「処刑台にのぼる権利と同様に、演壇にのぼる権利をもたねばならない」と訴え、処刑台のほうにのぼらされました。ただ、これは不可欠なデータとというわけではない。教科書には書いてありませんから。
 次は一橋の問題文にあったアメリカ合衆国の女性参政権獲得運動について書けたら書くといいでしょう。19世紀の半ばから各州毎に運動があり、その成果がみられました。
 パリ=コミューンで女性に参政権が与えられたことがあります。
 また世紀末にイギリス女性の運動は活発になり、その指導者エメリン=パンクハーストの名をあげた教科書もあります。『詳説世界史研究』にも載っています。『未来を花束にして(Suffragette)』という映画にもなり、パンクハーストをメリルストリーブが演じました。「言葉でなく行動を」という過激な運動は、映像終盤の衝撃的なエミリー=デイヴィソンの訴えにもなりました。これは Youtube の記録フィルムでも見ることができます。
https://www、youtube、com/watch?v=-G4fJ9I_wQg
 第一次世界大戦の最中に二つの運動と結果があります。ロシア革命において、1917年2月23日、女工たちが「パンを!」の声をあげて街頭に出たことが革命の発端となり、はじめは軍隊が群衆に発砲して鎮圧につとめましたが、やがて兵士も反乱に寝返っていき、ソヴィェト政府は男女同権の選挙権を認めました。
 もう一つが戦前からの女性たちの運動と、結果として教科書に書いてある第4回選挙法改正(1918)で、イギリスでは30歳以上の女性に選挙権が拡大されました。これが戦後に労働党政権を生みます。
 大戦の影響はいろいろ見られます。「総力戦体制のもとで、女性も軍需工場に動員され、男性の仕事を肩がわりするようになった。また、国家は、戦争にあらゆる力を結集するために、男性にも女性にも国民としての役割を与え、国民として自覚させることを通じて……戦争に協力させることが必要になった。女性参政権は、女性運動の成果ではあったが、世界戦争の時代とも深くかかわっていたのである。(東京書籍)」という記事。工場だけでなく戦場に看護婦・兵士として参加した女性もいました。
 アメリカ合衆国では女性参政権は修正19条で全州に強制されました。ドイツのヴァイマール憲法で女性参政権が認められています。この背景として、ドイツでも19世紀に運動があり、「ドイツ婦人参政権協会」(1902)がアニタ=アウクスブルクによって結成されています。マルクス主義者として活動したローザ=ルクセンブルクは多くの聴衆に呼びかけて戦争中はスパルタクス団をつくり、戦後ドイツ共産党を結成しました。
 トルコの改革でも女性に参政権が与えられました。また女性のチャドル(ヴェール)を廃し、一夫一婦制が樹立されました。トルコにも女性側の運動がありました。
 戦争中から戦後にかけてアジアの民族運動はさかんになりますが、日本でもそうでした。中学生の教科書には次のような記事があります。

 (11)始まりは女一揆 ─米騒動と民衆運動─
米俵のゆくえ
 1918年7月、富山県東水橋町(富山市)の港で、何を運ぶ仕事をする女性たちが、山と積まれた米俵を前に、考え込んでいました。米はたくさんあるのに、なぜ米の値段が上がり続け、こんなに生活が苦しいのか。女性たちは、米が他の地域に運び出されるために、米価が上がるのだと考えました。
 そこで、米商人に、「米をよそ(他県など)へやらんといてくれ」と要求しましたが、聞き入れられません。そのため、数百人の女性たちが、実力で米の船積みを中止させ、安売りを求めて米屋に押しかけました。
 8月、富山県の女性たちの行動が新聞で報道されると、米の安売りを求める運動が広がります。たとえば名古屋では、鶴舞公園に、だれかがよびかけたわけでもないのに、たくさんの人が集まり、多い日は5万人にもなりました。その多くは労働者や職人でした。集まった人びとは、安売りを求めて米屋に向かい、警察官と激しく衝突しました。(『ともに学ぶ人間の歴史』学び社、p.214)
 戦後の1919年のことは、この中学生の教科書では、こう書いてます。

 1919年4月、京城(ソウル)から約100km 離れた並川という町の市場に、およそ3000人の人びとが集まっていました。「3月1日に、京城で独立が宣言された。私たちも独立万歳を叫ぼう」という演説があり、太極旗がふられました。人びとは、いっせいに、「独立マンセー(万歳)」と叫びました。このなかに、女子学生柳寛順(ユグァンスン)も加わっていました。
 柳寛順は、京城で、友だちと3月1日のデモに行こうとしましたが、学校が禁止したため、参加できませんでした。ふるさとの町で、両親といっしょに集会に参加しました。
 日本の憲兵隊が、集まった人びとに向かつて発砲し両親は殺されました。柳寛順も逮捕されて、裁判にかけられ、 翌年10月、刑務所に入れられたまま死亡しました。最後まで、朝鮮独立の意志をすてなかったといわれます。(p.212)

 日本での1919年に関しては以下のように書いてあります。

 平塚らいてう……当時、女性には選挙権も財産権もなく、 自分の意思で結婚する自由もありませんでした。太陽である男性に従い、月のように生きることが、女性のあり方だとされていたのです。『青鞜』は、このような考えや制度を打ち破り、女性の人間としての可能性を開かせようと、よびかけました。
 新聞や雑誌は『青鞜』を激しく非難しましたが、女性たちからは共感の手紙が多く寄せられました。……1919年、平塚らいてうと市川房枝は、女性の社会的地位を向上させるために、女性の団結を訴え新婦人協会をつくりました。(p.216)

 この教科書は中学生用ですが、以上の例のように具体的で分かりやすく、東大がよく出題する民衆運動をていねいに書いていて、東大受験に役に立つ内容であることが分かります。お薦めの教科書です。反日教科書だと産経新聞が泣きわめいていますが、子どもの泣き言にひとしく、無視しましよう。わめく理由は、「慰安婦(日本軍性奴隷被害者)」問題をとりあげたからです。次のような記事があります。

 1991年の韓国の金学順(キムハクスン)の証言をきっかけとして日本政府は、戦時下の女性への暴力と人権侵害についての調査を行った。そして、1993年にお詫びと反省の気持ちをしめす政府見解を発表した。このように、東アジアでも戦時下の人権侵害を問い直す動きがすすんだ。アメリ力・オランダなど各国の議会もこの問題を取り上げた。(p.281)
 同ページに「河野洋平官房長官談話」も載っています。この教科書は文科省の検定を通過した、れっきとした教科書です。

 1920年代の運動として「少女たちの労働争議」もあげています。
 
 1927年、岡谷(長野県)の製糸工場で、労働争議が起こった。労働者たちは、会社に次のような要求を出した。「労働組合に入る自由を認め、組合に入ったととで差別や解雇をしないでほしい」「賃金を上げてほしい」「食事や衛生を改善してほしい」
 会社が要求を認めなかったため、平均17歳の工女たち1213人は、いっせいに労働をやめるストライキに入った。12歳の少女もこれに参加した。会社は、親に連絡して娘を引き取らせ、外に出ていた工女を寄宿舎からしめ出した。多くの工女が解雇されて争議は終わったが、そののち、ほかの工場では食事が改善され、賃金が引き上げられるようになった。(p.215)

 欧州における第二次世界大戦中の運動として、2つ女性の例をあげています。白バラ運動のゾフィー=ショル(21歳)、オランダにおいてドイツ占領軍に対する抵抗運動(レジスタンス)に加わった少女オードリー=ヘプバーン(後の女優)です(p.240〜241)。

 戦後は、世界人権宣言が国連で発表され(1950)、その序文に「基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、……」と外務省のページに載っています。(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
 指定語句の「女性差別撤廃条約(1979)」も外務省のページにあります(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/josi/index.html)。
 世界人権宣言の趣旨に基づき設立された、民間の国際的人権擁護機関(NGO)として「アムネスティ=インターナショナル(1961)があります。女性への差別にたいしても果敢に告発・運動を繰り返しています。(http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/women/)その功績でノーベル平和賞を授与されています(1977)。
 戦後、女性で大統領になった方は増えましたが、それは運動になるのか疑問です。活躍・地位向上の一つではあります。
 日本における男女雇用均等法(1985)が通ったのには、多くの女性弁護士の運動がありました。

 以上の運動にあたるものは総括的にはフェミニズム(女権)運動だといわれもします。ただフェミニズムは一般に戦後の選挙権だけではなく、広く社会全般(政治、文化、宗教、職場、家庭、教育、医療)における女性差別を撤廃しようという運動です。男中心の「近代」社会への批判でもありました。
 1960年代からウーマン・リブ活動といわれるものがアメリカからはじまり、つくられた「女らしさ」を拒否する、性差だけでなく人種・民族・階級の差別のない社会・世界へと市民運動のかたちをとりました。それが国際婦人年世界会議(1975年)を開催するところまで行き、いくつもの都市でこの会議は開かれます。
 アメリカの公民権運動でも女性がきっかけでした。黒人ローザ・パークスさんが、バスの白人席を譲るのを拒んだだめ逮捕され、バス・ボイコット事件となります。これにキング牧師が呼応して大きな運動に発展しました。ローザは米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれます。

 日本では、内閣府男女共同参画局を設けていろいろ提言・勧告をしていますが、実態は世界的にも惨めな状況であることは初めの方で指摘しました。なかなか目覚めない日本人男性。セクハラをめぐる最近の政府の対応も、その遅れを可視化しました。「セクハラ罪という罪はない」の答弁書、政府が閣議決定(2018.5.18)というニュースです。「婦人に参政権を与えたのは失敗だった」とも発言している人物(麻生太郎)なので、これは不思議な発言ではありません。
 
第2問
問(1) 
 (a) 仏教やジャイナ教に共通のいくつかの特徴という問い。共に人生を苦悩ととらえ、この苦悩から解放される道を説きました。バラモンの権威、その祭儀を否定し、それに伴う身分を度外視した信徒の集団を形成しました。クシャトリヤやヴァイシャが信徒となりました。

 (b) 仏教やジャイナ教などの新宗教が出現……その動きから出てきた哲学の名称は、ウパニシャッド哲学。その説くところは焚我一如(ブラフマンとアートマンの一体化)という。苦脳に縛られ、輪廻から抜け出せない解脱の境地らしい。自己陶酔的な逃避思想ではないのか?

 (c) 大乗仏教の特徴。出家僧だけが解脱できるとする考えを否定して一般人も解脱・救済の道があるとする仏教。とくに自己の救済より他人の救済(利他行)に専念する僧侶、これを菩薩といい、この菩薩も仏に近い存在として崇拝します。菩薩は仏陀の弟子、高僧、仏教学者などを指し、わかりにくい。

問(2)
 (a) 図版1は、北魏の太武帝……都の近くに造られた石窟である。この都の名称と石窟の名称……位置を図版2から。
 3代皇帝の太武帝のときは都は平城で、現代の大同にあたります。地図上のBが内蒙古自治区と山西省の境にあたり、燕雲十六州の雲州でもあり、その近郊に雲崗石窟があります。

 (b) 清朝でキリスト教の布教が制限されていく過程。康熙帝が典礼問題を機にイエズス会士だけに制限し、次帝の雍正帝が皇帝継承をめぐる際に雍正帝と反対の立場に立ったことと、広東での会士と民間人の衝突事件を理由に全面禁止しました。雍正帝の理由は書かなくてもいいでしょう。

問(3)
 (a) フランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴。
 「それまで」としてクリュニー修道院を想起してみます。この修道会はベネディクト戒律を厳守することで信頼され、大土地所有者の寄進を受けるようになり、西欧で1200院も増設するほどの支持をあつめました。改革運動の中心でありながら、次第に豪奢な建物になっていきます。二つの修道会はこうした俗化を嫌い、寄進は受けずに托鉢(市民の施し)で生きる道を選びます。大きな荘園と醸造所をかかえた地方ではなく、都市の中で説教と道路・橋の建設工事に邁進する、という働き者の修道士たちでした。

 (b) イギリス国教会の成立の経緯と、成立した国教会に対するカルヴァン派(ピューリタン)の批判点。
 経緯はヘンリ8世が離婚問題を機に首長法で創設し、エリザベス1世が統一法で確立した、と書けばいいでしょう。批判点はあくまで(ピューリタン)の立場からです。国教会は教義面でカルヴァン派を採用しながらも、旧教の儀式・礼服・祭式をそのまま残したため、もっとそれらは簡素にすべきこと、あるいは廃止すべきであり(クリスマスや復活祭は廃止)、国教会の首長(Head)を国王にしたことに対して神こそ首長であるべきで、司教の権限も弱めること、聖職者も結婚を認めるべきである、などでした。

第3問
問(1) 図版aは、10世紀にモンゴル系の遊牧国家が創り出した文字である。この国家が、南に接する王朝から割譲させた領域。……図版a が分からなくても、10世紀・モンゴル系とあれば国家は契丹(遼)しかない。それが北宋から後晋建国を助けて石敬瑭に割譲させた燕雲十六州です。

問(2) 図版b の上段の文字は「至元通行宝鈔」、その左右に縦書きで奇妙な文字、パスパ文字が印字されています。この紙幣の大きさは、タテ30cm、ヨコ21.5cm です。東京銀行のそばに貨幣博物館があり、そこに現物が展示してあります。

問(3) 図版c はチュノム(字喃)ですが、この文字をつくった陳朝が「その南方にある、半島東岸の地域に領域を拡大している。漢字文化圏とは異なる文化圏である、その領域にあった国を何というか」という問い。北ヴェトナムの南、チャンパー(国)です。中国では占城と呼んだ国です。

問(4) 430年、地図中の都市Aの司教は、攻め寄せてきた部族集団に包囲される中、その生涯を閉じた。……ヒッポ市(ヒッポレギウス)です。チュニジアの国境に近いアルジェリア東北部の都市(現アンナバ市)です。ヴァンダル人に攻められ陥落しました。
 (a) 若い頃にマニ教に関心を示し、その膨大な著作が中世西欧世界に大きな影響を及ぼした、この司教の名前……マニ教からの回心を描いた『告白』の著者アウグスティヌスです。

 (b) また、この攻め寄せてきた部族集団は数年後には都市Bも征服した。この部族集団名を記しなさい。……B のカルタゴ市もせめてここを都とし、さらに北のコルシカ島もサルディーニア島も、ローマ市にも侵攻しました。

問(5) 都市C はパレルモ市。「1154年頃の記述」とは、ここにノルマン人が進出してアラブ人を追放したため、それまでのイスラーム教・モスクからキリスト教の教会に変貌したことを指しているはずです。
 1154年は西欧ではプランタジネット朝創始の年(『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)の覚え方では「プランタジネット、い1い1交5信4」)ですが、両シチリア王国も近い年代で1130年(「いい漁師、ト1ト1さん3を0[トトは魚のこと]」)。両シチリア王国は、ノルマン朝の貴族たちがシチリア島を征服し、半島南部のナポリにも根拠をおいてできた親族国家でした。

問(6) 「ウルグアイなど南米で勇名を馳せたある人物」について知らなくても、「1860年9月に地図中の都市Dに入り、サルデーニャ王国による国民国家建設に大きな役割を果たした……」とあればガリバルディの名が浮かぶはず。都市D はナポリ市です。統一戦争はフランス(ナポレオン3世)が助けてくれたためにサヴォイとともにニース港市を割譲しました。

問(7) 宗主国の体制が転換することになった。この転換した後の体制。アルジェリア独立戦争のことです。当時、フランスでは独立戦争といわずテロと叫んでいましたが、今は独立闘争であったことを認めています。映画『アルジェの戦い』は壮絶な殺しあいを描いていました。第四共和政はインドシナ戦争でも苦戦し、アルジェリア戦争でも苦戦していて、アルジェ市のフランス人コロン(植民者)たちがド=ゴールの登場を要請して蜂起したことから第四共和政はつぶれ、第五共和政が成立することになります。この政変はド=ゴールが仕組んだという説があります。

問(8) ティムールの都がサマルカンドだという問題は、センター試験でなんども問われてきた基本的なことです(90、96、01追、04追、06)。地図のアはコンスタンティノープル、地図のウは長安、地図のエはバグダード、と分かれば、見たことがなくても正解は「イ」となります。

問(9) (a)[ い ]を含む地域において、……遠距離商業で活躍していた、この地域の人々。サマルカンド市がアム川とシル川の間にあるソグディアナの住民のことで、ソグド人です。

(b) 初期の4人の指導者は特に何と呼ばれるか。正統カリフ。

問(10) 現在のパキスタンの国語は、ウルドゥー語です。インダス川流域に8世紀以降、多くの民族・兵士が往来したためできた混成語です。

2018合格メール

Aさん 0215 1120
中谷先生こんにちは
津田塾大学を第一志望にしていたAです
本日合格発表があり無事、国際関係学科に合格しました❗️
センター後は英語と国語で手一杯でしたが、
先生の予想問題、そしてこれまでの添削指導のおかげで自信を持って世界史の試験に臨めました。先生なくして合格はなかったです。本当にありがとうございました。
ボロボロになった各駅停車とワンフレーズは試験場でお守りがわりでした☺️これからも大切にします。
本当にありがとうございました。
………………………………………
Bくん 0310 1300
東京大学合格しました!
本当に2年間もずっと添削してくださって、ありがとうございますの一言では表せないくらいの感謝です。
先生のして下さった添削を印刷して大事に使いました。先生の添削がなく、予備校や赤本の薄っぺらい解答しかなかったら、東大世界史の面白さや深みも味わえなかったと思います。
先生の世の中の受験生になるだけ正しいことを教え広めようという、非営利的な姿勢もブログや添削サービスから理解出来て、教育者のあるべき姿だと感じました。
本番でも問題に対して解答することを意識して、使えなかった指定語句も練習帳の通りに処理しました。
本当に先生について行って良かったです。ありがとうございました🙇🙇🙇
………………………………………
Cくん 0310 1302
こんにちは。京都大学法学部に無事合格することが出来ました。
実は私は仮面浪人で、さらに今年文転した身です。
予備校に通わず参考書で勉強していたのですが、先生の世界史論述練習帳はとても学習の役に立ちました。
先生の添削からも学ぶことが多く、合格の一因に必ずなっていると思います。
春から、念願の法学を一生懸命学んできます。本当にありがとうございました。
………………………………………
Dくん 0310 1926
添削でお世話になったDです。
東京大学文科三類、無事に合格することができました。
論述の右も左も分からない状態から、論述練習帳で学び、先生の添削を受け、本当に先生のお陰でこのような結果を残すことができたと思います。
先生の世界史に対する考えに触れることは知的好奇心が高められ、勉強自体を楽しむことができました。本当にありがとうございました。
………………………………………
Eくん 0310 1831
こんばんは
桐朋高校卒業のEです。
東大文科3類、合格していました!
先生の添削はとてもためになり、本番でも役に立ったのですが、肝心の第1問は女性史に関する知識と常識が全く足りず、うまく書くことが出来ませんでしたが、第2問はきちんとポイントを詰めた解答ができたと思います❗
たくさん添削していただきありがとうございました!先生のお陰で、苦手だった世界史が好きになり、面白いと思えるようになりました。本当にありがとうございます❗
………………………………………
Fくん 0515 1332
昨年度添削でお世話になったFです。
報告遅れましたが、無事東京大学文科2類合格しました。
昨日開示がきて、世界史は45点でした。参考になれば幸いです。
本当にありがとうございました!!!

疑問教室

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疑問教室:北アジア・チベット史

北アジア・チベット史の疑問
Q1 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何系と判断しているのでしょうか? 

1A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴はいるのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系ともつかっています。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q2 山川の用語集p.44の「ウイグル」の欄に「マニ教を信仰し……」とあって、同p.142の「回部」の欄には「イスラーム系トルコ族(ウイグル人)」という説明があります。ウイグル人はいつの間にイスラム教徒になったんですか。

2A はじめは安史の乱に唐側を支援して中国に入り、蒙古に帰るときにマニ教僧侶を連れてかえり、それがマニ教を信仰するきっかけでした。そのあとに仏教がはやり、キルギスに押されて西走(840)し、現在の新疆ウイグル自治区に入ってからイスラーム教に触れ、これを信仰するようになります。3回も宗教を変えたという珍しい民族です。現在はイスラーム教徒のままで変わっていません。イスラーム教徒になれば変わる可能性はないでしょう。


Q3 ウイグルの西走と中央アジアのトルコ化にはどういう関係があるのですか?

3A ウイグル人がトルコ人ですから、かれらが移動して住みついた地域は「トルキスタン(トルコ人の住む地)」と呼ばれます。840年にキルギスに追い立てられて西走し、940年にカラ=ハン朝ができてからが「トルコ化」のスタートです。その後、セルジューク朝がすぐ西のシル川下流域ででき、これがイランに、そしてイラクへと南下していって、西アジア一帯のトルコ化につながります。


Q4 ベラサグンってドコらへんですか?

4A カラ=ハン朝の都として出てきます。天山山脈の北側でバルハシ湖の南です。もし吉川弘文館の『標準世界史地図』をもっていたらp23にでていくす。もっていなくても、10世紀頃の歴史地図か12世紀のカラ=キタイ(西遼)の地図を探せばたいてい書いてあるはずです。フス・オルダと名前に変わっている場合もあります。


Q5 ダライ・ラマとパンチェン・ラマと活仏の用語の使い分けはどうなってるのでしょうか? ダライ・ラマもパンチェン・ラマも活仏ですよね? また、パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承するのではないのですか?
 さらに……、実教出版の教科書p309には「(モンゴルでは)その後、活仏の死を機に共和政が宣言され、1924年9月モンゴル人民共和国が成立した」とあります。この場合の活仏とは具体的には誰なのですか? 活仏は一人ではないと思うのですが……。

5A 活仏に4人あり、それに権威の差があるようです。第一はもちろんダライ・ラマで(最高法王ともいいます)、次がパンチェン・ラマ(副法王ともいいます)、ここまでがチベットのラマたち。そして三番目がモンゴルにおけるジェプツンダンパ(ツェブツンダンバ)・フトクト(ホトクト)、四番目が青海におけるシャンジャ・フトクト。このうちの三番目のジェブツンダンバ8世であるボグドゲゲンがボグド・ハーンとして1911年に独立宣言をし、この人が亡くなって共和政に、ということです。一方のチベットのダライ・ラマ(13世トゥプテン・ギャツォ)も1912年に独立宣言をしていますが、現在の第14世テンジン・ギャツォの代に中華人民共和国軍がチベット進駐を行い(1950年)、ダライ・ラマは一度は「チベット自治区準備委員会」に参画しますが、1959年のラサでの反乱を機にインドに亡命し、ダラムサーラに亡命政権を樹立して現在に至っています。ところが10代パンチェン・ラマはチベットにとどまり、チベット人民自治区代表委員をつとめています。つまり中国側に認められた活仏なのです。
 パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承するのではないのですか?  ……政治的には中国が強引にそうしているだけで、宗教的には、これはありえないのではないでしょうか?   モンゴルにおける活仏はいつ現れたのか、という疑問がわきます。ジェプツンダンパの起源は、外モンゴリアでラマ教に帰依した16世紀のアバダイ・ハーンに由来します。17世紀後半にこのハーンの曾孫にボグドゲゲンと呼ばれる活仏が出ます。清朝もこの活仏を保護し、ボグドゲゲンは以後8代続き、1924年に廃止されるまでその地位にありました。(平凡社百科事典の「ラマ教」の項目を参照しました)


Q6 1907年の英露協商で、「イランでの両国の勢力範囲の取り決め、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲」まではわかるけど、なんでいきなり「チベットは中国の主権を認めた」んですか。

6A 英露協商で、チベットでの中国の宗主権を認め内政不干渉を守る……というのは、逆に言えばロシアにチベットに干渉してもらいたくない、ロシアによるチベットの植民地化は困りますよ。それでは中央アジアにぐっとロシアが南下してしまい、英領インドが危なくなる。それよりここは妥協していただいて、ドイツに対抗して手を結びましょう、というものです。実はすでに清朝とチベットのことは互いに内約済みでした。清朝には宗主権というあいまいな外交権をチベットの頭ごなしに英清間で決めています。ダライ・ラマ13世が清朝から完全に独立したがっていることを知っていたので、英軍を派遣して脅しており、また後でチベットとも1904年にラサ条約を結んでその独立性を暗に認めています。こうした二枚舌と刀を使って既成事実をつくっておいてロシアに認めさせたのです。この間の事情抜きに、いきなりチベットの話が出てくるのが教科書っつうものですよ。

疑問教室・アメリカ史

アメリカ史の疑問(ラテンアメリカ史も含む)

Q1 世界史と関係性があるのかわからないのですが、先日、本で「超古代文明」というものがありました。パラパラと覗いてみたのですが、太古の昔には飛行機があったとか、ナスカの地上絵など色々書いておりました。飛行機などは信じれないのですが、ナスカの誕生は非常に気になります。ただ、これらの超古代文明が単なる趣味の世界じゃないかと思うのです。もし、これらが本気で勉強できるのであれば、是非してみたいのですが、やはり趣味の世界なのでしょうか?

1A いいえ。趣味の世界ではないでしょう。古代史の勉強をすればするほど、なぜここまで出来た文明が突然登場するのか不思議です。なにかそれ以前に成熟した文明が存在したのではないか、という疑いをもちます。甲骨文字の前に、文字があったはずとか、恐竜は最近まで生きていたという証拠がでてきたりします。エジプトの文明がなぜ前3000年にあれほどのものができるのか不思議です。天文観測がどうして正確にできるのか、なにか消えた文明の遺産を受け継いでいるのかも知れない、ともおもいます。古代ほど魅力的な世界はないでしょう。たとえ趣味とみられても好きなものを追求することほど生きがいはないですよ。


Q2 用語集の「チチメカ族」のところにアステカ文明などを築いた、とあるのですが、すぐ下に書いてある「アステカ族」がアステカ文明を築いたのではありませんか?

2A 用語集の説明不足です。まちがいではありません。チチメカとは、メキシコ中央高原の住民たちが北方の蛮族につけた呼び名です。「犬の血統」という意味らしい。民族の識別としてではなく漠然と呼んだ呼称です。その「チチメカ族」の一派がアステカ族です。


Q3 居留地の先住民は南北戦争以前に市民権はみとめられていたのですか?

3A 1924年にいたって市民権が認められたものの,白人市民と完全に平等になったわけでもない。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は,救済を宗教に求め,ゴースト・ダンスやサン・ダンスやペヨーテ信仰が流行しました。 

Q4 ウィーン会議ですが、「ブラジルは、ポルトガル王を頂いて……」とありますが、「頂く」ってどういう意味ですか。

4A 「上の者として敬い仕える」という意味です。「主君としていただく」って使います。つまりブラジルの君主です。この部分の教科書は「ポルトガル王子を頂いて独立帝国(1889年以後共和国)となった」とあるところですね。ナポレオンが半島に侵略してきた時ブラジルの王家は植民地のブラジルに逃げました。戦争が終わって帰ったのですが、息子のペドロ君は帰還せず、のこりました。それを幸いにブラジルの地主(クリオーリョ)たちが本国の父王から独立してブラジルだけの君主になってください、とけしかけたのです。ペドロ君は「う〜ん、ぼくちんが王様か、良か、良か、はよう王様になりたかったんだわいな〜っ! 」と感激していると、家来たちが、「いいえ陛下、王様ではござりましぇ〜ん。皇帝になっていたただきとうございますです」。「ななんと……こ・こ・皇帝? 王様よりかっこええだないの〜。うん、なるなる。よきにはからえ。」と言って即位したまいました。戦争なしの親子離別のブラジル帝国の成立です(なおセリフは何弁かわからない言語による創作です)。


Q5 「南アメリカでは19世紀末までイギリスが市場を支配していた」と教科書にありますが、どうして合衆国でなくイギリスなのですか?

5A イギリスのラテンアメリカへの進出のきっかけは1703年のポルトガルとのブラジル貿易を許可したメスエン条約からです。フランスのルイ14世(位1643〜1715)の周辺侵略に対抗する意味で、ポルトガルをオランダ、オーストリアとともに同盟に加えて反フランスの包囲網をつくりました。このメスエン条約はイギリスの毛織物を買ってもらい、ポルトガルのワインを買う、という条約でした。ポルトガル産ワインの輸入関税率をフランス産の3分の2に抑えました。また、1713年のユトレヒト条約締結により、スペインから、その植民地での奴隷貿易独占権(アシエント権)をイギリスにあたえられたため,戦争に勝利したイギリスが新大陸への黒人奴隷貿易を独占します。さらに独立戦争のとき、ラテンアメリカ諸国が戦争の費用をイギリスに金を借りたため、担保としてラテンアメリカの鉱山・農園などがあてられました。そして独立を達成したラテンアメリカ諸国に新たな借款を供与しています。こうしてイギリスはスペインが後退したあとのラテンアメリカに入り込み、ラテンアメリカでこれから起ろうとしていた産業を壊滅させ、市場として組み込んでいきました。19世紀にはモノカルチュアー(単一栽培)経済がつくられます。ブラジルのコーヒー、アルゼンチンの牧畜と小麦、チリの硝石と銅、ベネズエラのカカオ、ボリビアの銅などです。『詳解世界史』に「19世紀の前半のラテンアメリカ諸国は、独立戦争による経済の疲弊によって、どの国も財政破綻にみまわれ、地方勢力間の政争に明け暮れる混乱の時代であった。……また外国資本の積極的な導入による経済開発は、輸出商品作物を中心とする栽培を拡大して国民の食糧生産を犠牲にするほか、経済の対外的従属をまねいた」とある点に進出したのがイギリスでした。


Q6 エンコミエンダ制(委託制)とアシエンダ制はどうちがいますか?

6A エンコミエンダ制は、インディオの土地を奪わず労働を強制し、かれらの収穫を納めます。ただし人格的な拘束はしていません。アシエンダ制はインディオの土地を奪って大土地所有を実現し、インディオを賃労働者にし身分的にも拘束した。これによってプランテーションを経営しました。


Q7 「アメリカ南北戦争の後、黒人と女性に参政権が与えられた」という文章は間違いですよね。解説書には『女性はまだ……」と書いてあるんですけど、黒人についての記述がありません。南北戦争の後で黒人は参政権を得たのですか?

7A 参政権もえました。女性はだめでしたが。女性は白人と同じ1920年の修正19条によってです。1865年に、憲法修正第13条によって黒人は自由の身となりました。1868年には憲法修正第14条によって市民権、1870年には第15条によって選挙権も与えられました。ここまでなら一応法的には、黒人にも白人と同じ権利が与えられたようにみえます。しかし、北軍が南部から撤退してしまうと、1883年には、各州の権限を憲法修正第14条より優先させる最高裁判決が行われて歪められます。さらに1896年には、生活のあらゆる面で白人と黒人を別々にすることが最高裁判決によって認められ、白人の黒人に対するリンチも激増して、差別が南部全体にわたって定着しました。なんと、まあ……というところです。


Q8 アメリカは1919年のドイツと連合国とのヴェルサイユ条約にも調印せずその結果国際連盟不参加となったのですか? 国際連盟加盟にはヴェルサイユ条約調印が必要不可欠ってことですか? ヴェルサイユ条約調印は国際連盟加盟につながるのですか?? ちょっと書いていてこんがらがってきてしまいました。

8A その通りです。推理された通りです。敗戦した各国との条約(ヴェルサイユ条約やトリアノン条約など)には各国とのとりきめについて書いてある前に、必ず連盟規約というのが第一章に付いていて、その後第二章から敗戦した国々の領土をどのように分配するかが書いてあります。つまり規約と条約はセットなのです。ヴェルサイユ条約が一番大事な条約ですから教科書はヴェルサイユ条約のことを書いていますが、どの条約であれすべてに連盟規約が書いてあります。ということは教科書に書いてないから分かりにくいのは当前ですね。


Q9 『練習帳』の「基本60字」の19世紀西欧史の5(60ページ)「アメリカ産業革命〜」という問題に関連して質問がございます。アメリカ産業革命とは、ずばりどのようなものなのでしょうか。私はアメリカ産業革命というと、真っ先に第二次産業革命のことが思い浮かびます。確かに英米戦争ののち、綿工業中心にアメリカの産業がイギリスからある程度独立して産業革命への道が開けた、というのはわかるのですが、アメリカ産業革命はやはり重工業中心の工業革命がメインなのではと思ってしまいます。三省堂の用語事典でもアメリカ産業革命は19世紀後半のことを指していると見受けられます。しかしこの問題の回答を見てみると、私の解釈は間違っているような気がします。私は、イギリスとアメリカの対比を、軽工業と重工業、蒸気中心の技術と電力中心の技術、自由競争と独占資本、といった形でまとめました。これは誤りでしょうか。

9A イギリスとアメリカの対比を、軽工業と重工業、蒸気中心の技術と電力中心の技術、自由競争と独占資本」という特色はそのとおりです。
 わたしもこのアメリカの産業革命をいつに設定するのか諸説があり、分からなくなり、経済史の本を読みあさったことがあります。
『詳説世界史研究』でも以下のように書いてあり、
 アメリカでは19世紀初めから綿工業が発達したが、本格的な産業革命は南北戦争後におこった。ドイツとアメリカの産業革命によって1870年代からイギリスは「世界の工場」としての地位を失った。

 ということで戦争後の産業革命には「本格的」という形容が付いています。開始期については、もっと前のページの南北戦争が始まる前の段階では、次のように書いてあります。
 北部は、産業革命が1840年代以降本絡的に進行することになって、技術・生産の面で進んでいたイギリス本国の工業とは競合する関係にあった。(p.364)

 またここでも「本格的」が付いています。この記述の注には、こう書いてあります。
 注:アメリカの産業革命の開始期については諸説あるが、 1812年の戦争のころから徐々にその姿が現れはじめたので、1815年を産業革命の開始期とする考えもある。しかしこれは木綿工業に機械が導入されたが動力は水力であり、 製鉄、石炭、動力としての蒸気機関の導入は1840年代から南北戦争前夜にかけてであるので、これを開始期とするのが一般的である。

 この注では、1840年代が開始期だといっています。だいたい教科書もそのようです。
 (南北戦争の始まる前の説明として)産業革命がすすみ資本主義の発達した北部は、イギリスに対抗するため保護関税政策と連邦主義を主張し……(詳説世界史)
 アメリカ合衆国では、1810年代の米英戦争のころから機械化がはじまり、南北戦争期に北部で本格化した。(東京書籍)
 東京書籍のはあいまいです。米英戦争中のものはほんの2,3の工場ができた程度なので、開始期というのはどうも無理があります。また、アメリカは広いので、開始としてもそれは北部の東海岸だけでのことであり、西漸運動が続行中というやややこしい面をアメリカは持っています。それで経済史の専門家の書いたものを調べてみると、1830年代に設定するのがどうやら的確だということが分かってきました。

 山川の各国史シリーズ『アメリカ史』に次の記事があります、途中省略が多いですが、年代に注目して、
 1830年代以降のアメリカは、イギリスとはかなり異なる仕方で、独自の産業革命を展開しはじめていた。……30年代以後の北部全体の資本主義を保証した。……。マサチュセッツ州では、1820年代に、はやくも、株式会社の綿工場が60社以上設立され、10パーセントから20パーセントにいたる配当を行なっていた。この傾向は30年代にいたって一層顕著となった。1830年代には115の綿工業株式会社が設立され、約2580万ドルの(授権)資本が投下され、……1830年当時すでに1000万人を大きく超える広大な国内市場を占有して、粗綿布を中心に、大量の綿製品を生産する、……合衆国の本格的な産業革命は1840年代・50年代に、アメリカを「世界の工場」といわれたイギリスにせまる世界第二の産業資本主義国にのし上げたが、……(p.136)

 別の経済史の本では、
早くも1820年代より家内工業などの急速な衰退がおこり、これと前後して近代工業が目覚ましく発展しはじめている。(『概説西洋経済史』有斐閣選書、p.215)
 ……東部の商工業および金融業の発展(都市化)だけに注目すれば、アメリカ産業革命は早くも1830年代末から1840年代に完成期にはいり……第1期は建国から1830年代半ばまで.第2期は1830年代半ばから南北戦争まで.第3期は南北戦争から1870年代末まで。(『講座 西洋経済史』同文館、p.149〜150)
 アメリカの産業革命は1840〜1860年の期間にその「離陸」を完了し、南北戦争後に産業資本は確立したとかんがえられている……1830年においてすでにイギリスについでアメリカ綿工業は世界第2位の地位にのしあがっており、綿花の人口1人当たりの消費量についてはイギリスを追い抜いてすでに世界ーにたっしている。(『図説新版西洋経済史』学文社 p.106-107)

 おおよそ
開始期は1830年代ですが、「本格的」と付ける場合は、40年代から60年代まで幅がある、という結論です。この場合はもちろん綿工業です。南北戦争前後から重工業の発展があるのはいうまでもありません。


Q10 プレゼンで世界史について発表することになり、わからないことがあったのでメールをしました。【質問】なぜアメリカは2つの大戦中にイギリスを支援し続けたのですか?

10A 第一次世界大戦のときは、1917年にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言し、指定する航路外の船舶を無警告で攻撃した。このためアメリカはドイツと外交関係を断絶し、4月ドイツに宣戦した。このときイギリス船籍のルシタニア号が撃沈され、乗客1,198名が死亡しましたが、その中にアメリカ市民犠牲者が128名いました。(ウィキペディアの「ルシタニア(客船)」も見てください。絵は→http://www.mapsofworld.com/on-this-day/january-31-1917-germany-resumes-unrestricted-submarine-warfare)(ドイツ側の潜水艦は→U-boat Campaign (World War I)、下に無制限地域を示す地図もあります)

第二次世界大戦では、1941年3月武器貸与法によってイギリス・ソ連などに武器や軍需品をおくり、反ファシズム諸国支援の姿勢を明確にした。このことにより、事実上アメリカは参戦したことになります。それが本格的には、12月8日、日本軍はハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲し、マレー半島(コタバル)に軍を上陸させて、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争に突入した。……この内、コタバルの方が真珠湾奇襲より早いです。ウィキペディアで「真珠湾攻撃」を見て、船艦の沈む写真を見せたらいいでしょう。ここに真珠湾の地図も付いてます。

 まとめとして、
 (1)二つの大戦に共通するのは、船の沈没であること、(2)攻撃はドイツと日本という独裁的な軍事国家であること、(3)共に勝利に貢献したこと、が挙げられます。(4)共に「自由」を犯す国を打倒するという目的で参戦したこと。(5)どちらも戦争の途中から参戦していること、(6)イギリスや西欧を故郷にしている人々が合衆国の大半を占めているため、心情を同じくする者を支援しやすいこと。国民の支持もあること。「イギリス」だけ支援した、ということはないです。イギリスがアメリカから一番近いのでそう思ってしまいますが、支援した国々は一国だけではないです。第一次世界大戦のときは英仏、第二次世界大戦のときは全ヨーロッパとアジアの中国・東南アジア・インド・オーストラリアと支援しています。

疑問教室:東欧・ロシア史

東欧・ロシア史の疑問(ビザンツ帝国史も入ってます)

Q1 1480年のモスクワ大公国がキプチャク汗国から自立って、「自立」って具体的にどういうことですか。

1A イヴァン3世が都サライに持って行くべき税収をもっていかなくなり、キプチャク汗国から討伐軍が二回来たのですが、二回ともイヴァン3世がこのモンゴル軍を破ってしまったため、キプチャク汗国としてはモスクワ大公国に対してまったく制裁を加えることができなくなり、事実上独立したことを指しています。キプチャク汗国はまだ滅んでいなかったのですが。


Q2 ロシアの「農奴制マニュファクチュア」ってなんですか?

2A ピョートル1世が急激な近代化をするためにマニュファクチュアの経営者に農奴を買う権利をあたえ、農奴という地位の農民にただ働きをさせてでも工業化をすすめようとしたものです。ロシアらしい賃金労働者によらない企業経営です。


Q3 ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」に興味を持ち、色々調べているのですが、とても基本的なようですがいまだに気になっている事があります。
 ギュンター・グラスはなぜ、ドイツ文学者なのですか? グダニスクはポーランドにあって、グラスの母親もポーランドのカシューブ地方出身ですが、ドイツ語で小説を書いているからドイツ文学者なのですか? まだまだ不勉強なのですが、ブリキの太鼓を読んで、ダンツィヒ生まれと本の頭に書いてあったので、ポーランド人作家だと思ったのですが、何で調べてもドイツ人作家グラスと書いてありますよね。グラスってドイツ人なんですか?

3A ギュンター・グラスの本は恥ずかしながらわたしは読んでいません。ただダンツィヒ(グダニスク)生まれ、ということであれば想像はつきます。母がスラヴ系少数民族・カシュバイ人であっても、グラスの父はドイツ人と書いてありますから、混血ということですね。それに歴史的には、ダンツィヒはドイツ人がつくった都市ですし、この都市よりもっと北のロシア領にあるカリーニングラードという都市には終生このまちを離れなかった哲学者としてカントという人物がいました。つまり中世以来バルト海の沿岸線を開拓したのはドイツ人たちでした。リガという、バルト三国のうちのラトビアの首都もドイツ人がつくったものです。もちろんドイツ語が語られているのです。
 ギュンター・グラスが「あなたはいったい何者か」と問われたとき、「半分はポーランド人、半分はドイツ人、そしてまるでユダヤ人」とかれが答えた、という記事も調べてみるとのっています。小さいときからドイツ語で育ったと思われます。あのダンツィヒの地域はもともとドイツ領だったということです。
 なにかの機会に、あるいは本棚にあれば、世界史の教科書でも歴史地図でもいいですが、中世からずっ〜と開いて見られると、ドイツ騎士団領、後にはプロイセン公国、さらに後にはドイツ帝国の領土としてもでてくるはずです。
 いまとちがってポーランドは中世から第一次世界大戦まで海岸をもっていなかったのです。ドイツ人がたくさん住んでいました。


Q4 「(オスマン=トルコの西方進出によって)東欧では西欧輸出向けの農産物を輸出するグーツヘルシャフトが成立」とあるんですけど、具体的にトルコの西方進出がどのようにグーツヘルシャフトの成立に貢献したのかがわからないので、教えてください。

4A オスマン=トルコの西方進出→グーツヘルシャフトが成立……これは間接的な関連です。トルコの西方進出で東地中海がトルコの海になると、トコロテンのように西欧を海外探険「大航海時代」に押し出していき、それとともに商業革命がおきました。それが西欧に商業・工業を発展させ、発展する西欧で穀物・木材(造船のため)の需要を増して、東欧のこれらの商品がそれまでもハンザ同盟、オランダ商人によって運ばれていたのですが、もっと必要性が増してきて(西欧の14〜15世紀は疲弊していたが)、16世紀の西欧に売るための増産と経営を考え、農民の自由を奪ってでも働かせることにした、というものです。
 教科書で見てみると、三省堂は「プロイセンは、大航海時代の経済変動のなかで西欧に穀物を輸出する後進地域となり、土地貴族(ユンカー)が農民にきびしい賦役労働を課す農場領主制(グーツヘルシャフト)とよばれる大規模農業経営が広まっていた。」と書いています。
 山川の『新世界史』では「経済活動の重心が地中海から西北ヨーロッパに移るにつれて,ヨーロッパの内部で東西の分業がうまれた。ネーデルラント・イギリス・フランスが毛織物や奢侈工業製品を輸出する経済的先進地域となるのに対して,ドイツ東部・ポーランドなど東ヨーロッパが西方への穀物輸出国となった。このため東ヨーロッパでは,領主が,それまで身分的に自由な農民を農奴とし,その賦役で輸出用穀物を生産する農場領主制(グーツヘルシャフト)を採用した。」


Q5 「1863年のポーランドの反乱は1861年のロシアの農奴解放と密接な関係に……」という説明をしてくださいましたよね。なんかようわからんかったんですが、もう一回説明してくれませんか。

5A これはロシア領ポーランド側(当時はポーランドの東側はロシア領だった)の農奴も解放してくれ、という要求です。61年のときはロシアでしか農奴解放はされず、ポーランド側は無視されたからです。


Q6 1846年のクラクフ蜂起というのはどんな事件ですか?

6A このポーランド南部にある都市(西方50kmにかのアウシュヴィッツあり)は、当時はオーストリア領であり、その中で自治権をもった事実上の都市国家でした。しかしオーストリアがこの都市を併合するような干渉を強めたため、市民が反オーストリアの蜂起を起こしたものです。蜂起は失敗しオーストリアに併合されます。失敗の理由はこの都市の貴族(シュラフタ)がおこし、農民の解放も唱えたものの農民は信用せず、貴族にたいして逆蜂起したためでした。


Q7 武装中立同盟っていうのはイギリスに対抗するために結成されたんですか? 中立という名前でも?

7A 「対英武装中立同盟」ともいうように対英です。対英の宣戦布告をした国フランス・スペインを除いた中立国の結束です。ロシアのエカテリーナ2世が提唱し、これにスウェーデン・デンマーク・ポルトガル・プロイセンなどが加盟して、対英の戦いに備えたものです。つまり実戦には参加はしないので中立だが、事実上はイギリスを敵視し、もし英軍とこの中立同盟に加わっている国々と一国でも交戦することになれば、一緒になって戦いますよ、というイギリス孤立化をねらった同盟です。戦ってはいないが、アメリカへの支援同盟です。反英諸国が結束して間接的にアメリカ独立を援助したものです。


Q8 どこの本を見ても、1873年の旧三帝同盟も、81年の新三帝同盟も、その解体理由として、「オーストリアとロシアがバルカン問題で対立したため」とあります。でも、旧三帝同盟の場合は、「露土戦争の結果のサン=ステファノ条約が原因」という具体的な事件を明示してあるのに、新三帝同盟の場合は、どこを探しても具体的な背景、事件が書いてありません。具体的には、どんな対立があったのでしょうか?

8A ひとつはブルガリア事件(1885〜87)をめぐる列強間の対立、二つめはブーランジェ事件(1886)です。
 前者はブルガリアの南のトルコ領であった東ルーメリアのブルガリア人が武装蜂起して独立宣言を出し、かつブルガリア公国との統一を求めました。ベルリン条約を破る動きです。ブルガリア公はこの要求を受け入れたのですが、ロシアは反発しました。しかしイギリスがこの統一を支持表明します。この混乱を利用して西どなりのセルビアがブルガリアに宣戦布告をして侵入してきました。それをブルガリア軍は撃退しただけでなく、ベオグラードにまで進撃する勢いでした。そこでセルビアと同盟を結んでいたオーストリア(=ハンガリー二重帝国)がブルガリアに警告を発して侵入を止めさせ、また和解させました。1886年には親露派の軍事クーデタによって公は退位させられ、この後ブルガリアの政治は長く親露派・独立派・反露派の対立がつづき1887年、次の公にオーストリア出身のフェルディナント(在位1887〜1918)が選ばれました。こうした列強間の対立が1886年の段階で、三帝同盟の来年の更新はおぼつかなくなりました。1887年が更新の年でした。
 もうひとつのフランスにおけるブーランジェ事件は、陸軍大臣に「復讐将軍」ブーランジェが任命され(1886)、独仏戦争の危機が訪れました。このとき上の事件もあり、ロシアが三帝同盟を離れフランスを支援するのではないか、という可能性がでてきました。そこでビスマルクは三帝同盟の更新をあきらめて、オーストリアには秘密の二重保障条約をロシアととりきめることで乗り切ることにしました。


Q9 露仏同盟とロシアのシベリア鉄道建設について質問があります。学校の授業で,「ロシアは露仏同盟を背景にフランスから資本を導入し、シベリア鉄道の建設に着工した」と習ったのですが、実際にはシベリア鉄道の建設起工のほうが先ですよね? そうすると、これはまちがいなんでしょうか?

9A ロシアはドイツ帝国なくしては財政的にやっていけないくらいに依存していました。ドイツが引き受けたロシア国債の割合は3/5〜4/5といわれるくらいの依存度です。ロシア帝国のあらゆる事業にドイツ資本が注入されていた、と考えていいようです。それが91年5月に三国同盟が12年間という長期の期限で更新されると(この5月の末にシベリア鉄道建設開始)、反仏・反露の三国同盟に対抗してロシアとフランスは接近し、91年8月から露仏同盟を結成することになりました。シベリア鉄道建設のスタート時点(着工)ではフランス資本ではありません。


Q10 山川出版社『世界史B用語集』p.242の「ソ連の承認」というところに「イギリスのソ連承認〔9〕1924 労働党内閣による。公式承認1号。」とありますが、左側に書いてある「ラパロ条約」のところにドイツとソ連が条約を結んでいるから、ソ連を承認したのはドイツが第1号なのではありませんか?

10A そうです。ドイツが第1号です。念のため、以前の『用語集』にはドイツが第1号とあったはずなのになぜ消してしまったのか、直接山川出版社に問い、ファクスで送ってもらった返事は以下のようなものでした。
 「ご指摘通り、英国が1924年に承認する前に、独ソ両国は1922年のラパロ条約で国交を樹立しております。従いまして『用語集』で古い版ではそうしておりました。しかし、この出来事を以てソ連が国際社会の一員となった、との見方に疑問を呈する説もございます。1例を挙げますと、小社世界歴史体系『ロシア史』3 p129には、「……ラパロ条約をもって当時の国際秩序のアウトサイダー同志の結合であったからである。……」とあります。従いまして、詳しいことは未だ調査中ですが、現行『用語集』ではこの説によって英国を「公式(引用者、この2字に点々が上に付いています)承認第1号」としているものと思われます。この段、記述が安定せず誠に申し訳ございませんが、事情をご理解頂けますと幸甚です。」
 この返事は答えになっていないですね。この返事をハッキリ言えば、こういうことでしょう。国際秩序が英仏中心でうごいているから、英仏が認めないかぎり「公式」ではないのだ、と。これは「この説」などというものでしょうか? 引用文じたいはなにも第1号であることを否定していません。それに国家というものは独立しており、どの国とどういう関係を結ぼうが他国の知ったことではありません。当時の国際秩序に加わっていようと、いまいと、どんな時代でも国家は一国として国家です。公式も正式も、条約を結ぶ段階では、互いに独立した主権国家と認めるから締結されます。「国際社会の一員となった」と見るかどうかを何も問うていません。どこの国が第1号か、という単純な問題です。別の「説もございます」という言い訳は、まちがいをハッキリ認めたくないときに使う常套句です。


Q11 1919年のパリ講和会議の時の西ヨーロッパとソ連との関係のことなのですが、模試の問題で八つの独立国を示す地図を選ぶものがあって、解説にはヨーロッパを東西に分かつ防波堤の役割を果たしたとありました。これはどういう意味ですか? あとソ連が講和条約に不参加だった理由も教えて下さいm(_ _)m

11A 模試を見ていないですが、8つの独立国とは、「ふぇらりポチはゆこ」うというフィンランドから始まって東欧のユーゴスラヴィアまでの国のことですね。これはドイツとソ連の間に壁として築くことで、ソ連の共産主義が西方に伝染しないようにという壁のつもりです。ソ連が講和条約に不参加だった理由というより、もともと呼ばれなかったのです。また革命干渉戦争の最中でもあり、パリ講和会議は革命干渉会議でもありました。


Q12 なんでソ連は1939年にフィンランドに宣戦したんですか。フィンランドじゃないとだめやったんですか。

12A フィンランドはかつてロシア領でした。ナポレオン戦争のときに火事場ドロボー的にとったところです。ウィーン会議でも認められました。ロシア革命とともに離れたのですが、ヒトラーとの独ソ不可侵条約の秘密協定(バルト三国もソ連がとる)にしたがって宣戦布告をし、とりあげたのです。表向きの理由はレニングラードの防衛でした。勝手なものです。


Q13 ベルリン封鎖で西側の通貨改革が実行されるとソ連は東ドイツの経済混乱をおそれて……って、はて「通貨改革」っていかなるもんですか。

13A 「通貨改革」は、西ドイツの三ヶ国占領地域(西ベルリン市も含む)で、1948年に中央銀行としてドイツ・レンダーバンクを設立し、新通貨「ドイツ・マルク」を発行することです。1ドイツ・マルク=10旧ライヒスマルクの割合で交換します。これは東側(ソ連管理区)では使えない貨幣を流通させることです。経済的な独立宣言です。
 終戦直後は、ナチス体制下に流通していたライヒスマルクが完全に信用を失っていて事実上の物々交換の状態でした。タバコが価値尺度と交換手段の役割を果たしていたそうです。大戦中に通貨量が膨張していたにもかかわらず、物は約1938年の半分しか流れていない。これを打開するために上のような新紙幣と旧紙幣の比率で交換することにしたのです。この通貨改革の安定で闇市場はなくなり、店のウィンドウは商品で一杯になったと、当時の首相が証言しています。この決定をソ連は相談を受けていないと反発して、河川・道路・鉄道を遮断する、いわゆる「ベルリン封鎖」に入るのです。3日後にソ連もドイツ・マルク(オスト・マルク、東独マルクともいう)を発行します。


Q14 ポーランドの「連帯」を封じ込めるためにヤルゼルスキ第一書記が「戒厳令をしいた」とある場合の「戒厳令」とはなんですか。

14A 非常(緊急)時に、軍隊に本来もっていない行政権・裁判権をゆだねてしまうことです。軍政とほぼ同じ意味です。連帯の活動は禁止され多くの活動家が逮捕されました(1981年)。歴史的には、フランス革命中の1791年にはじめて出されたそうです。一般に、戦争・内乱の危機や、戦争でもないのに独裁(全体主義)的な政権が頻繁に発布する法令です。世界史の他例としては、1936年の二・二六事件のとき、フィリピンのマルコス大統領の共産主義にたいする対策として(1972年)、1980年韓国の光州事件のとき、1989年の天安門事件のときなどがあります。


Q15 ビザンツ帝国において、テマ制が崩れた理由を教えてください。コロナトゥスは、異民族の侵入によって成り立たなくなったと思っているのですが、屯田兵制が行われているにもかかわらず、軍管区制はなぜ崩れたのでしょうか?

15A テマ制が崩れたのは、屯田兵が委託された土地を売り出したからです。コロヌスが国から土地をもらい自作農になったのですが、それは元々国有地であり、売ってはならないものですが、階級分解がおき、貧しくなったものは売りはらい、それを買い占める者も現れたからです。唐の均田法と同じで、これも売買で崩れました。その代わり、土地を買い占めた大土地所有者にその地方毎の軍事を委ねたため、各地の軍団長の意味がなくなりました。


Q16 第一次世界大戦の敗戦と独立の混乱期にハンガリーではハンガリー革命が起こったが、ホルティがそれによってできたハンガリー=ソヴィエト共和国を圧殺しました。その後、ハンガリーは1930年代からドイツ、イタリアに接近した、と第一学習社の最新世界史図表に書いてあります。
これは、ハンガリーが独裁体制を固めるために接近した、と考えて良いのでしょうか。

16A ハンガリーはトリアノン条約で旧領の71%を取られて戦後のオーストリア=ハンガリー帝国からの独立が認められました。多くの賠償金もかけられたため、戦後からこのことに対する復讐の思いが強く、それは初めは連合国と友好の姿勢を示したホルティとてかわりありません。
 「独裁体制を固めるために接近」というのは当たらないとおもいます。独裁的な傾向は政権を獲得してからずっとあり、ファシズムの研究者たちはだいたい初めから一人のファシストとして説明しています。むしろ領土回復が何よりの願いで当時の勢いのあるドイツと組んだほうが奪回しやすいと予想を立てたものです。ナチスのユダヤ人絶滅政策には批判的でしたから、必ずしもヒトラーに共鳴しているのでもありません。


Q17 1992一橋大第2問について、「40年代のクラクフ、ポズナニの反墺、反独蜂起、60年代の反露農民蜂起」とあるのは何でしょうか?

17A Q6と共通する問題です。ポーランドは現在の国境とちがい、西はプロイセン領で、南はオーストリア領、東はロシア領と分かれていました。反墺はクラクフ市が南端にあることを地図で確かめられるとわかりますが、ここはウィーン会議でオーストリア領になっていて、ポーランド人はオーストリアに対して反旗をひるがえしたのです。一方キー北部にあるポズナニはプロイセンのドイツに対して反旗を翻しました。これは山川の用語集では、次のように解説しています、

ポーランド独立運動 ③ 1846年、南部のクラクフで革命政権が樹立されたが、ロシア・オーストリア・プロイセンの3国軍に鎮圧された。48年には中西部のポズナニで反乱が発生したが、ロシア軍に鎮圧された。

 ロシアは領域では関係がないのですがウィーン体制の憲兵を辞任するニコライ1世が介入しています。

60年代の反露農民蜂起……これは山川の用語集では次のように書いてあります、
 ポーランドの反乱(一月蜂起) ⑨ 1863 アレクサンドル2世の自由主義的改革に乗じて、ロシア領ポーランドのシュラフタ層がおこした反乱。列強からの援助はなく、農民の支持も得られずに鎮圧された。

 ここで、農民の支持も得られず、としているのは間違いで、ウィキペディアの「一月蜂起」を見られたらわかるように農民も参加しています。農民軍の写真が載ってます。
 昨年出た新しい用語集では、
ポーランドの反乱 ⑥ 1863-64 ロシアの「上からの改革」に乗じて、ポーランドの民族主義者がおこした飾起。蜂起は、ロシア軍の徹底的弾圧とポーランドへの農奴解放令発布により、終息した。


Q18 『練習帳』の大問2(啓蒙専制君主)の解答例や構想メモに共通特徴として宗教寛容策がありますが、ロシアではどの様な宗教寛容策が行われたのですか?

18A エカチェリーナ2世の寛容策で知られているのは、何よりロシア正教ではない信仰、つまり異教徒への信仰自由(寛容)です。これはプロイセンのフリードリヒ2世が即位(1740)と同時に発布した信仰寛容令にひとしいものです。また修道院領を世俗化して国家の管理下におき、領内農民の隷属性をなくしました。他には百科全書の出版支援、各種学校・病院・育児院の設立などがあげられます。


Q19 テマ制の目的について、大土地所有の傾向防止と書いてありますが、普通テマ制というとイスラームへの対抗というイメージですが、両方の利点があるということでよろしいのでしょうか。

19A テマ制をしいた皇帝はヘラクレイオス帝ですが、在位が610-641年です。つまりイスラム教ができたばかり(610)でイスラム教はまだアラビア半島を制圧していませんし、613年にササン朝ペルシア帝国によって領域であったシリア・トルコに迫られていて、戦っています。628年にクテシフォンを奪回しています。晩年にイスラム教徒は襲ってきてこの地域は奪われますが、当初はササン朝やブルガール人との戦いのための防衛体制としてテマ制は作られたものです。
 国内で「大土地所有の傾向防止」というのは聖像禁止令の目的でもあって、禁止令に違反する大土地所有者の修道院・教会の領地を奪ってそこをテマ制の領地にして農民を送り込み、結果的に軍備も強化するという目的をもっていました。(同類の疑問が西アジア・アフリカ史にもありますから、参照してください)

疑問教室・20世紀史

現代史(20世紀史)の疑問

Q1 オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908)がパン・スラブ主義とパン・ゲルマン主義の対立を増長させたのはなぜですか?

1A かんたんに言えばオーストリアとロシア(パン・スラブ主義)が領土と勢力圏の拡大をねらっているからです。オーストリアが青年トルコ党革命(1908)のすきをねらった火事場ドロをやったことは、バルカン半島全域にオーストリアの支配がおよぶかもしれない危機とみなし、ロシアは同じスラヴ人同士としてオスマン帝国支配下のスラヴ人を「助ける」という口実で、このオーストリアの南下を阻止したい、ついでにオスマン帝国の領土をそぎたい、という意図です。これはロシア主導のバルカン同盟結成(1912)、バルカン戦争(1912,1913)に発展します。オーストリアが西の海をふさぐかたちで領土をとったことは、西海岸もほしがっていたセルビア人がとくにカッカきています。ロシアはこれを支援します。半島にロシアの影響が増します。


Q2 山川『詳説世界史』 p.293の3行目、「ヴェルサイユ条約の責任を共和国に負わせる反共和勢力……」とあるのですが、具体的に「反共和勢力」って何ですか。

2A 「(ヴァイマル)共和国に負わせる反共和勢力」は20年3月、一部の軍人・右翼政治家が政治家カップを首相として一揆を引き起こし一時的に政府をつくり帝政復活を企図したことがあります。ヒトラーのミュンヘン一揆もそのひとつでしょう。また25年エーベルトの死後に行われた大統領選挙で、保守派の推す大戦中の「英雄」ヒンデンブルクが当選したため、政府もしだいに保守色を強めていくことも国民的な意志でした。さいごには反共和勢力がナチスに結集します。


Q3 第三次産業革命ってなんですか?

3A 原子力の軍事目的の開発をはじめとし、レーダー、ロケット開発とつづいた革命です。それにコンピューター、ロボット、トランシーバー、レーザー、ジェット機なども入ります。つまりは第二次世界大戦末期からの戦後の技術革新をさしています。


Q4 なぜデンマークは一次大戦中に中立を守ったんですか?

4A まず、デンマークだけが中立を保ったのでないことを言わねばなりません。1914年12月にノルウェー、スウェーデンとともにマルメ市で3国の中立宣言がおこなわれています。
 デンマークが当時、社会主義政権であり、中立政策に戦前から積極的であったこともあげられます。デンマーク人にはシュレスウィッヒ・ホルシュタイン問題でドイツ人は嫌であり、反独的な感情は強いのですが、そうはいっても戦争は亡国の危機も生みますので、戦争にはかかわらないほうが国の保障には得策、まして強力なドイツとは戦争は避けた方がいいと考えたようです。といって完全な中立が保てたのでもありませんでした。戦争がはじまると、ドイツはデンマークの海峡に機雷を敷設をしよとし、それを受けいれざるをえませんでした。イギリス海軍に対抗するドイツの戦略です。デンマーク国王はイギリス国王に自国の苦境を訴えてこのことを知らせます。イギリスも理解してデンマークに制裁処置をとりませんでした。それでもデンマークの商船がドイツの機雷に触れて沈没したそうです。


Q5 ヴァイマル共和国時代のドイツで、1923年11月にミュンヘン一揆がヒトラーによって起こされたと思いますが、その政治的背景と歴史的背景について教えてほしいのです。一応自分でも研究はしているのですが、なかなか見つからないので教えてください。

5A アラン・ブロック著『対比列伝・ヒトラーとスターリン』草思社の第一巻を読まれてはいかがですか? そこには実に詳しくミュンヘン一揆のことが書いてあります。


Q6 第一次世界大戦のあとの「ドーズ案」「ヤング案」についてです。1924年の「ドーズ案」ではドイツの賠償金を減額はして「いない」というふうに習いました。講師も、減額を「した」のは「ヤング案」だから、正誤問題でもし「ドーズ案ではドイツの債務金額を減額し……」なんていうものに引っかかるなよ、と言っていました。

6A ロンドンで決まった払い方では、総額1,320億金マルクの支払を年44億ずつとしていたのを、ドーズ案はむこう5年間は過渡期として支払い額を25億と軽減したものです。この案では総額の減額はありません。このドーズ案でも、ドイツの賠償支払いが不可能であることがわかったので、さらに1929年のヤング案では総額を358億マルクと減額し、支払年限59年のうち、第1期37年の間は年額20.5億マルクの支払いと減額し、その後はさらに減少させるというものです。
 講師の、正誤問題でもし「ドーズ案ではドイツの債務金額を減額し・・・」なんていうものに引っかかるなよ、というのはまちがいです。正しくは「債務金額の総額を減額し」で、それだったら引っかかってはいけないでしょう。


Q7 イギリスの選挙法第五回改正は何内閣なのか、用語集に記述がなくてよくわからないのですが、よかったら教えてください。

7A 保守党のボールドウィン内閣(1924〜29)です。この後に労働党のマクドナルド内閣がきます。


Q8 山川出版社『詳説世界史』p.239の「1926年からイギリス連邦という呼称になった」p.253「1931年、ウェストミンスター憲章でイギリス連邦が成立」とあるのですが、1926年の方は名前だけ変わったということですか?

8A そうです。「イギリス帝国(日本では大英帝国ともいいました)」に代わって、1926年のバルフォア宣言は旧植民地たる自治領(ドミニオン)が独立化の傾向をつよめたため、自治領は本国と対等で、国王に対する共通の忠誠によって結ばれる、としました。1931年のウェストミンスター憲章(条例)は、このバルフォア宣言の趣旨を法律化したものです。イギリス本国の承認なしに自由に憲法を制定できることになりました。


Q9 1931年のウェストミンスター憲章で、教科書には、「各自治領は」「国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位が与えられた」とあるんですが、こんなん対等ちゃうやんって思うんですけど……。

9A  1931年のウェストミンスター憲章で、「各自治領は」「国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位が与えられた」とあるのは、本国の承認なしに憲法が制定できると規定しており、内政干渉はまったくできなくなります。たんに英の国王としてあがめるだけです。今でもオーストラリアでこれが問題になっていますよ。英国王がなんでオーストラリアの国王なんや、と。飾りに過ぎないもんを、なんで崇めなあかんのーっ、と。
 ニュース記事「1999年11月6日挙行された豪州国民投票は、オーストラリアがエリザベス女王を国家元首とする現在の立憲君主制から、大統領を元首とする共和制に移行するかどうか、世界とりわけアジア諸国の注目を集めていたが、開票結果は移行を否決した。
   共和制移行     反対 『NO』   約54%
             賛成 『YES』  約45%
 この結果、エリザベス女王を盟主とする(英国以外の)英連邦53ヶ国のうち、15ヶ国が引き続き女王を国家元首とする立憲君主制を維持することとなった」エリザベス女王は、オーストラリアの女王でもあり、オーストラリアでは、総督が女王の代理人として政府の推薦で任命されています。


Q10 世界恐慌の各国別の影響を見るとフランスはその波及が遅いのはなぜでしょうか?「フランスは農業国なんで」というのではいまいち納得できないのですが。

10A 「フランスは農業国なんで」は答えになりませんね。他の西欧の国々と同様に25年くらいまで戦後の回復はできなかったのですが、それがフランスの場合は長引き、1926年からの左派に代わった右派ポアンカレ政権になって回復のきざしがでてきます。この政権は財界の協力を得つつフランの切下げと安定に成功し、インフレをしだいにおさめていきます。また1926〜29年のあいだに、自動車産業など新型重化学工業が成長していき、フランスは戦前の「農業国」から「工業国」へ離脱したといいます。それで1929年に世界恐慌がはじまっても、フランスにまで波及するのは1931年の末からです。このようにフランスは1920年代の復興がおそく、恐慌の少し前くらいからやっと回復してきたため、恐慌の影響はすぐにはあらわれませんでした。しかし周辺の国々がフランスの商品を買ってくれなくなるとじわじわと効いてきます。


Q11 「アイルランドの独立派がエールの名で独立を宣言し、イギリスもこれを承認した」(詳説世界史)んですよね。この1937年の時点でアイルランドは脱・自治領じゃないんですか。というのも、別のところには「エールはイギリス連邦を脱して49年アイルランド共和国となった」とあるから、私が言いたいのは、エールの名で独立を宣言したら、イギリス連邦もなんも関わり無くなったんちゃうの? ということです。

A11 1937年の時点で脱・自治領じゃありません。憲法を自ら制定して実質、独立国家になったのは確かですが、連邦内なのです。もちろん連邦離脱の手前ではあります。離脱は1949年です。


Q12 『社会主義』は『ファシズム・全体主義』と同じ内容・考え方ではないですよね?

12A そうです。必ずしももイコールではないです。
 社会主義の政治体制として全体主義をとることがこれまでのソ連・中国・北朝鮮・東欧にあったということであり、西欧の社会主義のように、多党制と議会政治も認めた、つまり全体主義でないものもあります。ファシズムは30年代に現れ、「社会主義」ということばを使いましたが(国家社会主義ドイツ労働者党のように)、中身は社会主義ではなくたんに労働者の面倒も見ているという「つもり」に過ぎません。


Q13 ナチスの正式名称って「国家社会主義ドイツ労働者党」ですよね?あれれ?ナチスって右翼では……? なぜに党名が社会主義?っていう質問です。

13A 「国家社会主義ドイツ労働者党」右翼でも当時、「社会主義……労働者」と、ある程度の社会的政策(失業・保険・雇用)をとらなければ労働者の支持を受けることができませんでした。初めは不労所得の廃止、利子奴隷制の打破、トラストの国有化、土地改革、地代の廃止など資本家と地主に対決する姿勢を示しています。支持を受けると次第に中間層→資本家・地主に支持をうけるように主張も変えていきました。政治ですから党名は必ずしもホンネを表わしていません。ホンネは最初の「国家」の強化・膨張でした。


Q14 なぜ対独宥和政策をとることが、ヨーロッパにおけるアメリカの干渉を排除することになるのでしょうか?

14A どういう文脈で問われているのか分かりませんが、一応こういうことではないかと、というわたしなりの考えを書いてみます。少なくとも軍事力行使という想定はなく、介入するとしても外交だけと考えられます。連盟には参加しなくてもすべての連盟の委員会にオヴザーヴァーとしてアメリカが参加していました。完全な孤立主義外交をとっていませんでした。
 そしてアメリカ市民の中でもっとも数が多いのはドイツ系であり、ヴェルサイユ条約調印を拒否したように、ドイツいじめにはアメリカは反感をもっています。アメリカも反共産主義であり、ナチスがねらっているのは西欧ではなく東欧・ロシア(共産主義)であり問題はないとアメリカは見ていました。それにナチスによるドイツの復興は恐慌にあえぐアメリカにはもうけになるのでナチスに対して好意的でした。ユダヤ人の強制収容所における殺戮を知りながらなんらのアクションもとっていません。それを批判したチャップリンが共産主義者だと断定され戦後アメリカから追放されています。自動車王のフォードがナチス党への資金援助をしていたことを知りませんか?


Q15 1944年6月のノルマンディー上陸作戦の日をD-Dayと呼ぶそうですが「D」とは何の略でしょうか。決定的(desisive)とかの略ですか?

15A いいえ、コードネーム Debarkation Day (上陸の日)の略語です。これは最初の日だけのコード・ネームですが作戦全体のコードネームは Operation Overlord (大君作戦)でした。


Q16 第二次世界大戦開始のあとにいろんな会談がありますよね?フランスがどれにも参加していないのには何か理由があるんですか?ポツダム協定ではどうして米、英、ソに加えて仏がドイツを分割占有できたんですか?

16A 「フランスがどれにも参加していない」のはフランスがドイツに占領されていて、ヴィシー政府というドイツに協力する政府があったためです。ロンドンに亡命しているド=ゴールは自分を代表に加えないのを歯ぎしりしてくやしがっていました。1944年にはド=ゴールはパリにフラン軍とともに帰ってきました。フランス軍も再建して、戦後体制には、この後から加わることができました。それでもド=ゴールの恨みは大きく、かれが第五共和政を築いてから、NATO脱退を決め、英国をECに加わらせない、という政策をとったのは恨みを晴らしたかったからです。


Q17 西ドイツの通貨改革が東ドイツに経済的混乱をもたらす、と教科書に書いてありますが、具体的にどのような形で混乱を与えるのですか?

17A 西側だけの通貨改革は、東側(ソ連占領区)では使えない通貨であり、事実上の物々交換の状態のところへこれを発行すると、東側に住むひとは、使っている戦前からのライヒスマルクの価値の下落と、物価上昇においつけないからでしょう。西側にとっての、いわば経済的な独立宣言でした。


Q18 1945年7月のイギリスで、労働党が勝利したのはなぜですか? つまりチャーチルはなぜ敗れたのですか?

18A チャーチルは人気のある政治家でしたが、保守党に対する人気は落ちていました。恐慌時の失業、ナチスに対する宥和政策、戦禍などのためです。ドイツの空襲で家を焼かれ地下鉄の底での暮らしはたえがたかった。また労働党の福祉政策や家持ち政策に国民が魅力を感じていました。戦争を勝利に導いている首相であるにもかかわらず国民はチャーチルを捨てたのです。労働党が393議席、保守党が213議席で圧倒的な勝利でした。


Q19 冷戦終結の背景についてです。つまりはゴルビーの登場(新思考外交)などの背景。これはいろいろあるとは思いますが一番の理由は米ソの予算問題でしょうか? 同時にヨーロッパ、日本の経済的台頭も考慮に入れてオーケーですか?
 冷戦の終結までの過程を問う模擬試験で「経済的に大国化した日本や統合して経済力を強化する欧州を前に米・ソは冷戦終結を急いだ。」と締めくくった部分に加点されなかったのです。やや不安だったので。

19A 冷戦はなぜ終わったのか……という問いは、これからも問われていく世界史的な問題です。
 米ソの予算問題……互いに経済的に軍拡が無理なところまできていたのは事実です。
 「ヨーロッパ、日本の経済的台頭も」いいです。なぜなら、西欧・日本と比較してソ連・東欧経済があまりに遅れている、という認識が社会主義を崩壊させたからです。具体的には品質の悪さ、計画経済の破綻、無責任体制などです。倒産のない経済は不健全なものなのに、いつまでも悪い商品を産みつづけたためです。テレビや映画で西側の生活がまるでちがうことを見せつけられていたし、党幹部は西欧の衣服、家具、台所用具を買っていました。
 試験は採点する側の容量とも比例します。採点基準に君の書いた部分がポイントとしてなければ加点してもらえないのです。
 河合塾の模試で隋の科挙を選挙と書いてまちがいと採点されて、なぜときいてきた学生がいました。隋唐の時代は科挙と言わないで、選挙と言っていたので正しいのですが、採点する河合塾の側でそれを知るものがいないとなると、まちがいになるのです。科挙は宋からの名称です。


Q20 教科書に書いてある「54年のパリ協定で主権を回復した」という場合の、主権回復ってどうなることですか?

20A 占領軍による統治が終わり、占領されていた国・民族が、国家として内政・外交の仕事をはじめることです。日本にとってはサンフランシスコ講和条約がそれにあたります。占領軍がにぎっていた全権が主権回復国に返還されます。主権とは、国内における最高権力と対外的独立を意味します。ドイツも日本もそうでしたが、主権回復後に、占領軍とは条約により駐留する基地を与えられ、そのまま残ったのですが、内政・外交に干渉する権利は駐留軍にはありません。ただ日本の場合は日米合同委員会・日米地位協定があり、外交権は事実上アメリカにあります。まだアメリカの属国です。日本州というひともあります。


Q21 ECについての話で、「1960年代後半、イギリスもECへの加盟を強く希望するようになるが、フランス(  )政権がこれに強く抵抗した」とリード文があって、(  )にはド=ゴールが入るんですが、その解説が「ド=ゴールはイギリスの加入は、イギリスとアメリカとの関係からヨーロッパの独自性を損なうという主張で反対した」と。「イギリスとアメリカの関係」っっ?てなんですか?

21A ド=ゴールは第二次世界大戦中に外向的な屈辱を味わいました。戦争指導会議(カサブランカ〜ポツダム会談)にフランスの代表はまったく出席していません。ド=ゴールは要求したのですが受け入れてもらえなかった。確かにフランスは当時ドイツの占領下にありました。この戦争中の屈辱を戦後晴らすべく、独自の外交を展開するのです。イギリスなんてヨーロッパの国でさえない。アメリカの子供にすぎん、と見なしていました。このド=ゴールからすれば親密な米英関係をヨーロッパ外の関係として突き放したかった、ということです。イギリスが、ECへの加盟を1963年と67年に申請しましたが、いずれもド=ゴールの反対にあって失敗に終わっています。ド=ゴールのこうした反米英的な姿勢は、共産圏への接近、核兵器の開発、NATO軍事機構からのフランス軍の引き揚げ、中国承認、アメリカのベトナム介入反対、フランス中心の金本位制の復帰など、フランスの自主独立の外交路線を強力に追求したことで表れています。フランスこそヨーロッパの中心だという誇り(思い上がり、埃に近いもの)を追求したのです。その鼻っぱしの強い姿勢から、ド=ゴール王朝とか、ルイ・ド・ゴールなんて呼んだりしました。


Q22 第一次世界大戦終了後、イギリスでは「労働党が保守党につぐ第二党の地位につき、1924年には労働党党首マクドナルドが自由党と連立内閣を組織した。この政権は短命におわったが」と山川出版社の詳説世界史にあります。大戦後の経済不況のなか、なぜマクドナルド内閣は短命におわってしまったのか教えてください。

22A 1924年にソ連と条約を結んだことがきっかけです。労働党ではない英国共産党の機関誌に、終わったばかりの戦争中に、兵士は争議中の労働者や戦争中の仲間の兵士に銃を向けるな、と呼びかけた論文が掲載されました。このことが戦後問題となり、非国民として告訴した者がいて、労働党がこの告訴を圧力で撤回させた、と保守党が言い立て、これに労働党内閣の一翼をになっていた自由党も賛同したためです。労働党内閣は自由党と労働党の連立でした。保守党が議席数では第一党でしたが、労働党と自由党が連立して数を超えてできた内閣でした。また条約の交渉をめぐって保守党が種々のデマを飛ばして労働党がさもソ連共産党と組んでいるかのように主張したことが、選挙民が労働党に賛同しなくなる要因でした。9ヶ月しか労働党内閣はもちませんでした。反共の気運が強いため、といえます。


Q23 国際連盟と国際連合の議決法には、前者は全会一致制,後者は多数決制という違いがありますよね。ある参考書に(一般的な記述ではありますが……)「第二次世界大戦を防ぐことのできなかった国際連盟の失敗を考え、総会の決議は国際連盟の<全会一致>に対して、国際連合は原則として<多数決>によることとし、さらに米英仏ソ中五大国を常任理事国とする安全保障理事会に、軍事的制裁を含む強力な平和維持の権限を与え、さらに常任理事国5カ国には拒否権を認めた」とあります。理論的には、正しく作用すれば、安全保障理事会の設置や軍事的制裁や拒否権が平和の実現につながるであろうことは理解できるのですが、どうも議決方法の変更は理解できません。
 これはどのような理論で多数決制が採用されたのですか?

23A 連盟の場合、主権国家はそれぞれ対等である、という原則に立って一国一票であり、全会一致で決めるのがふさわしい、と考えての票決方法でした。しかし枢軸国の横暴に対して対応の一致は難しく、一番無難な反対のない最低限の制裁にとどめるという意味での全会一致でした。しかしこれはかえって枢軸国の侵略を容認することになり、戦争の助長になってしまいました。
 連合は連盟よりたくさんの委員会を設け、かつ、連盟より多数の国々の加盟となったため、全会一致では何も決まらない事態を生みます。総会や委員会がみな多数決を採用する理由はここにあります。
 また弱い連盟では平和の維持はできないので、制裁力を強めるためにも、迅速に実行に移すためにも多数決が必要です。何か理論で多数決制が採用されたというより、実際の運用の都合から採用した、という言い方がふさわしいようです。
 しかし大問題の場合は安全保障理事会で討議し、ここだけは全会一致の原則を持たせています。ただしこれは、わずかな大国にしか権利がないことはご存知の通りです。
 ただ、これらがうまく機能しているか、というとそうではない、という結果になってます。


Q24 ベルリン封鎖の原因は、「ソ連が、西側の通貨改革に抗議した」ことだと学びました。西側の通貨改革が、どうしてソ連にとって不都合になるのか、いまひとつ理解できません。
 ウィキペディアの「ベルリン封鎖」の項では、
①ソ連が、6月24日に東側領域の通貨改革を実施すると宣言 ②西側も、6月20日に西側領域の通貨改革を実施すると宣言→西側通貨(ドイツマルク)は、マーシャルプランの保障を受けている→西側通貨が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗
という趣旨の解説がありました。疑問点は以下です。
①そもそも東西両陣営は、「改革」によって、それぞれ「何を何に」かえようとしたのですか。
②Wikipediaにある「西側通貨が力を持つ」とは、どのような事態を指すのですか。また、それがなぜ、東側にとって不都合なのですか。

24A 通貨改革ついては拙著『センター世界史B各駅停車』に次のように説明しています。
 西ドイツの3国占領地域(西ベルリン市も含む)で、1948年に新通貨「ドイツ・マルク」を発行する通貨改革を実施しました。1ドイツ・マルク=(旧通貨)10ライヒスマルクの割合で交換します。これは東側(ソ連占領区)では使えない通貨であり、いわば経済的な独立宣言といっていいものです。終戦直後は、ナチス体制下に流通していたライヒスマルクが完全に信用を失っていて事実上の物々交換の状態でした。タバコが価値尺度と交換手段の役割を果たしていたそうです。この通貨改革によって闇市場はなくなり、店のウィンドウは商品で一杯になったと、当時の首相が証言しています。この決定に対してソ連は相談を受けていないと反発して、河川・道路・鉄道を遮断する、いわゆる「ベルリン封鎖」で対抗しました。ソ連は西ベルリンへの地上接近路をすべて閉鎖し、西ベルリン市民250万人を封鎖状態におきました。交通手段以外にガス、水道などの供給もすべてカットしました。飢えと凍えによって市民を屈伏させ、通貨改革を止めさせ、西ベルリンから英米仏軍を追いだそうと企てたものです。チャーチルは、「これはスターリンの前でどれだけ逆立ちができるかためされているようなもんだ」といいました。
▲通貨改革を実施したのは西側の3国であり、ソ連ではない、ソ連はベルリン封鎖で対抗した
 逆立ちはつづけられました。燃料(石炭)・医薬品・衣料をはこぶ大空輸作戦(「空の架け橋」作戦)がおこなわれました。3分に1機の間隔で大型飛行機がフランクフルトやビスバーデンの空港で荷物を積み込みベルリン空港に着陸しました。1日16000トンの運搬量で、これを320日つづけ、総計160万トンもの物資をはこんだことになります。かつて空爆にも参加していた米軍は、こんどは空輸によってベルリン市民を守る立場にかわりました。

 この説明から推理できますが、ソ連・東ドイツにとっては使えない通貨が西側だけで流通がはじまったため、このことは統一ドイツをどうつくるかの四ヶ国(中心は米ソ)の話し合いを打ち切りにする、ということであり、ハッキリ、ソ連の姿勢(共産党政権づくり)に反対を表明したことになりました。
 ご質問の回答は、
 ① 信用のなくなった貨幣の経済に、信用のある貨幣を流通させる。経済の回復、というのが目的です。それが結果的に政治的独立につながります。
 ② ソ連と東ドイツにとっては、これまでの通貨が無価値になり、貯金していたひとにっとては消えてしまうことにもなりました。
 じっさい、無価値になる旧貨のソ連地区侵入を防ぐためとの説明をして、交通制限がはじまり、東独と全ベルリンでのソ連による通貨改革も発表されました。しかしソ連は新紙幣が間に合わないため、旧貨に証紙を貼ることにし、24日開始を予定します。しかし西側がベルリンの西側地区ではソ連新通貨無効と宣言したので、ソ連は布告で「ベルリンの連合国管理機構はあらゆる意味で消滅した」と宣言したあと、ベルリンの西側地区への送電を停止し、西部ドイツから上記地区への食糧品・石炭の輸送を止めます。つまり「ベルリン封鎖」が始まることになりました。