世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

『みるみる論述力がつく世界史』 山川出版社

みるみる論述力がつく世界史』 山川出版社、黒河潤二 (編集), 山岡晃 (編集), 湯川晴雄 (編集)

 山川は『改訂版・詳説世界史論述問題集』というのを2008年に出していて、これを絶版にしたのか、新しい論述問題集はこれのようです。この旧版はやたら問題量の多いことで知られていましたが、この新版はぐっと問題量を減らしています(175問→50問)。旧版の批評はこのブログにあります。→http://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2013/08/01/改訂版・詳説世界史論述問題集

 第1部は基本編、第2部は発展編となっていて第1部は歴史用語を入れるだけの問題から始め、それが100字120字と字数が増えていき、200字くらいまで行く、という短文論述問題集となっています。そこには何が問題のポイントか、何点に該当するか、事件の解説もはさみながら説明しています。これが100頁くらい。
 第2部は400字から600字の長文論述問題で、いわゆる大論述といっている問題の解説です。形式は論述解法の手順として、「analyze」問題内容の分析、次に「framing」として「枠組み/見通し」をたてよう、とつづき、さらに「factor」として必要な用語の書き出し表が付いています。さらに「keyword」として、analyzeとframingから絶対はずせないキーワードは何か探そう、と訴えています。最後に「judge」として何を論述問題の要素として書くのか書かないのかの判定をくだす個所があり、これらを踏まえて詳しい構想メモのようなものが付いています。そして「adjust」としてマス目が段落毎に並んでいて、それらを全部あわせたマス目の用紙もそろっています。
 ていねいな作りになっていて、これで勉強してみようかな、という気にさせます。

 第1部の短文論述のところは教科書『詳説世界史』の記事を指摘して、それを利用しながら解答文を仕上げていくのが主で、論述問題でありながら教科書の勉強も兼ねています。意外と教科書は書いていたんだ、という発見もあるでしょう。論述のための勉強はけっきょくこれに尽きる面はあります。短文論述問題であれば、教科書の一段落でデータは済むものもあります。
 といって教科書がすべてを網羅している訳でもないことは、この参考書の解説にも教科書からはみだしたような知識があちこち散りばめられています。教科書だけで徹底していないところが教科書会社の出版物としてどうなのか? また教科書に書いてあるのに、書いてないから書かなくてもいい、ともしている個所もあり一貫性がありません。

 このことを第2部で見てみましょう。この部になると、第1部で必ずあった教科書の記事がまったくなくなります。その示唆もない。第2部は「発展」なので教科書は見るな、ということなのか?

 

p.110[1]「前4世紀までの西アジア諸国の興亡」でじっさいの筑波大の問題(2009年度)は、
 紀元前8〜7世紀のアッシリア帝国の確立から紀元前4世紀のアレクサンドロスの東征までの西アジア世界における広域支配国家の興亡について、以下の語句を用いて400字以内で説明しなさい。
  イッソスの戦い 新バビロニア ダレイオス1世 ニネヴェ メディア

 この問題の解説の中の「judge」に、「ニネヴェに建設された大図書館などを盛り込むかは、字数との相談となる。ただしアッシリアがミタンニ王国から自立していたことや、建国時の首都であるアッシュルなどは、アッシリア帝国が確立する以前の内容なので、記述しても得点にはならない」とあるのが何故か解せない。この問題は「アッシリア帝国の確立から」書き出したらいいので、何も前2000年からある都市国家の時代から説明する必要はないが、「帝国の確立」は歴史家が帝国時代ととっている前8〜7世紀がどんな国家になったかは書かなくてはならないはず。帝国時代はアッシュル市からニネヴェ市に遷都しており、「前7世紀前半に全オリエントを征服した。強大な専制君主であったアッシリア王は、政治・軍事・宗教をみずから管理し、国内を州にわけ、駅伝制を設け、各地に総督をおいて統治した(詳説世界史)」とあり、これが確立した姿です。この全部を書かなくてはいけない訳ではないが、巻末の「模範」答案では「前7世紀に初めてオリエントを統一したのは、都をニネヴェにおくアッシリアだった。最初の世界帝国となったアッシリアは、アッシュルバニパルの治世に最盛期を迎えたが……」とあります。これが「帝国の確立」の姿ですかね。最盛期はむしろ経緯(流れ)の一時期をさしているだけではないでしょうか? 最盛期は「確立」ではないはずです。確立した後の姿ですね、一般に。「judge」が狂っているようです。

 

p.114[2]「古代ギリシア・ローマと西洋中世の軍事制度」でじっさいの京大の問題(2010年度)は、
 古代ギリシア・ローマと西洋中世における軍事制度について、政治的・社会的な背景や影響を含めて、それぞれの特徴と変化を300字以内で説明せよ。
 「古代ギリシア・ローマ」とくくってあるため、1000年間の古代史で共通する点をまとめる必要がありますが、この参考書の解説では、帝政ローマの500年間がスッポリ欠けています。意図的に、ギリシアと合わせるために共和政ローマの500年間とだけセットにして説明し、解答文をつくっています。「変化」も課題である以上、帝政時代の大きな変化を飛ばしたら、変化にならないはずなのに、どうして無視したのか、その説明はどこにもありません。
 また平民没落のため「重装歩兵→傭兵」というが双方に見られるということを書いていますが、しかしギリシアとローマの傭兵はちがいます。ギリシア・ポリスが外国人(別のポリスの人)による一時的な傭兵であり、ローマの自国民志願兵に武器・給与(補償)を与えて長期に(25年)従軍させる常備「傭兵」とを区別していません。
 教科書(詳説)に「コンスタンティヌス帝の改革にもかかわらず、膨大な数の軍隊と官僚をささえるための重税は、あいつぐ属州の反乱をまねいた」とある軍隊は傭兵ではなく常備軍です。これはアウグストゥスがそれまでの志願兵で成り立っていた軍隊を解散させ、30万人の常備軍をつくり、ディオクレティアヌスが70万人に増やした軍団です。これは無視してもいい?
 古代末期にゲルマン人を傭兵にする、といっても、傭兵だけで戦争はできません。主力はあくまで常備の正規軍団です。傭兵を強調しすぎてます。また中世末にも傭兵だと強調していますが、フランスが百年戦争末期に常備軍をつくったことは知らないのでしょうか? 「シャルル7世は大商人と結んで財政をたて直し、常備軍を設置したので、中央集権化はますます進展した。(詳説世界史)」と教科書に書いてあります。これは無視してもいいの?
 「模範」答案では「ギリシア・ロ一マでは、最初は貴族の騎兵が軍事力の中心であったが、商工業の発達を背景に平民が富裕化すると、武器を自弁した平民の重装歩兵が軍隊の中核を担った。平民たちは参政権を求め貴族と平民の法的平等も逹成された。しかし長年の従軍で平民が没落すると、傭兵が軍隊の中心を占め、市民皆兵の原則が崩れた。ー方、西洋中世では、……」と帝政ローマの常備軍をまったく無視しています。

p.120[3]「カール大帝の帝国の成立」でじっさいの一橋大の問題(2009年度)は、
 (導入文省略)
 この文章は、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862-1935年)による『マホメットとシャルルマーニュ』(日本語訳の標題『ヨーロッパ世界の誕生』)からの一節である。ここで述べられる「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか。当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係に言及しながら論じなさい。(400字以内)

 この問題の解説のところに欠けているのは、カール大帝のイベリア半島での戦いです。確かに教科書(詳説)の記事には文章として載っていないのですが、教科書(詳説)の地図には「スペイン辺境伯」とあり、また「カール大帝の征服地」「カール大帝の勢力のおよんだ地域」として色が付いています。またビザンツ帝国との関係では、796年と799年に攻撃をかけており、先の地図でも「カール大帝の勢力のおよんだ地域」として色が塗ってあります。レコンキスタの初期と「カール大帝と騎士たちを描いた『ローランの歌』(東京書籍)」を習う高校生もいるでしょう。
 またビザンツ帝国とカール大帝の版図が対峙した姿も地図に表されています。さらにアッバース朝もビザンツ帝国への攻撃(782)をしており、ビザンツ帝国が屈辱的な和約を結ばされています。
 また「「要素」を「判定」しよう」の表にもアッバース朝のことは何もメモされておらずウマイヤ朝でとどまっていますし、「goal」とある「模範」答案にはまったく言及なしです。812年にはビザンツ帝国はアーヘンの和約でカールの帝位を承認していますが、このことも言及なしです。これで「関係」を説明したことになるでしょうか? 貧相な「模範」答案です。

 

p.138[6]「13〜14世紀モンゴル時代の東西交流の諸相」でじっさいの東大の問題(2015年度)は、
 (導入文省略)
 以上のことを踏まえて、この時代に、東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域において見られた交流の諸相について、経済的および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて論じなさい。解答は、600字以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお、( )で並記した語句は、どちらを用いてもよい。(指定語句→ジャムチ 授時暦 染付(染付磁器) ダウ船 東方貿易 博多 ペスト(黒死病) モンテ=コルヴィノ)

 構成について特に問題はないものの、「goal」の「模範」答案におかしな解答文が見うけられます。
  「ムスリム商人はダウ船を使ってインド洋から中国に至り、東南アジアの香辛料を他地域に運んだ。彼らによってスーフィズムが広まり、東南アジアでのイスラーム化が促進された」
 この解答に誤りはないものの、「広域において見られた交流の諸相」という大きい視野の問題の解答として狭い、という指摘です。教科書(詳説)に「神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム)がさかんになった。12世紀になると、聖者を中心に多くの神秘主義教団が結成され、教団員はムスリム商人の後を追うようにして、アフリカや中国・インド・東南アジアに進出し、各地の習俗をとりいれながらイスラームの信仰をひろめていった」とあります。東南アジアだけスーフィズムによるイスラーム教普及ではなく「アフリカ・中国・インド」もそうだということ。また海路だけでなく陸路もスーフィズム(スーフィ)による布教があったこと。
 もう一つは「西アジアでは中国絵画の影響でミニアチュールが発達した」という解答文のおかしさ。教科書(詳説)では「イル=ハン国に中国絵画が伝えられ、それがイランで発達した細密画(ミニアチュール)に大きな影響をあたえた」とあり、センター試験(2012年度)の文章でも「イラン系の絵画(細密画)もムガル帝国につたわりムガル絵画・ラージプート絵画になりますが、これもイラン系の人々が伝えたものでした」とあるのに、「西アジア」という広い領域で「発達」するはずがありません。細密画を見たことがないのかも知れません。いや教科書(詳説)に2枚カラーで、「ミニアチュール」と題した写真が載っています(p.101119)。そこには人物が描かれており、イスラーム教では偶像崇拝への懸念から人物や動物は描いてはいけないことになっていて、シーア派という血統を大事にする特異な地域に発達したものであって「西アジア」全域ではありません。

 

p.151[8]「清の諸外国への権益の承認と隣接国家との関係改変」でじっさいの京大の問題(2015年度)は以下、
 東アジアの「帝国」清は、アヘン戦争敗戦の結果、最初の不平等条約である南京条約を結び、以後の60年間にあっても、対外戦争を4回戦い、そのすべてに敗れた。清はこの4回の戦争の講和条約で、領土割譲や賠償金支払いのほか、諸外国への経済的権益の承認や、隣接国家との関係改変を強いられたのである。この4回の戦争の講和条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変、および、その結果、清がどのような状況に陥ったのかを、300字以内で説明せよ。

 この解説では、4回の戦争の中に義和団事件も入れています。「義和団事件(義和団戦争と呼ばれることもある)」と書いています。受験生に「戦争」という表現のある教科書や参考書を指摘してもらうといいでしょう。ブログでも書いていることですが、「以後」の中にアヘン戦争も入ります。というのは課題になっているのは戦争のたびに課せられた条約の中身「条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変、および、その結果」について南京条約でどうだったかは問題文には何も書いてないからです。南京条約における「不平等」の内容を書くことから始めなくてはなりません。
 じゃ「60年間」とある以上、義和団事件も入れるのが筋ではないかと言われるかも知れない。1900年のこの事件を待たずとも、日清戦争の後にいわゆる「中国分割」といわれるくらい、清朝政府と列強が次々と条約を結び租借地・鉄道敷設権を決め、その中で日本は清朝と福建省不割譲条約(1898)を結んでいるではありませんか。これらの諸条約は1898〜99年に集中しています。これらは日清戦争の結果として出てきたものです。以下が条約の中身を書いた記事(詳説世界史)です。

 下関条約で日本が遼東半島を獲得すると、フランスとドイツをさそって日本に圧力を加えてこれを清に返還させ(三国干渉)、その代償として清から東清鉄道の敷設権をえた(1896年)。また、ドイツが宣教師殺害事件を口実に98年、膠州湾を租借すると、同年ロシアは遼東半島南部を、イギリスは威海衛・九竜半島を租借し、フランスは99年広州湾を租借した。そのうえ、ロシアは東北地方、ドイツは山東地方、イギリスは長江流域と広東東部、フランスは広東西部と広西地方、日本は台湾の対岸にあたる福建地方での利権の優先権を清に認めさせ、各国の勢力範囲を定めた。

 

p.173[8]「アジア・アフリカの植民地の独立とその後」でじっさいの東大の問題(2012年度)は以下、
 ……植民地独立の過程とその後の展開は、ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する。
 以上の点に留意し、地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい。解答は解答欄(イ)に18行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。(指定語句→カシミール紛争 ディエンビエンフー スエズ運河国有化 アルジェリア戦争 ワフド党 ドイモイ 非暴力・不服従 宗教的標章法(注))

 解説の初めに「地域ごとの差異を考えながら」という条件がついている、と指摘しながら、「judge」には差異を示したメモは何もありません。それぞれをバラバラに書けば自然と差異は現れるのでしょうか?
 巻末の「goal」の「模範」答案は以下のようなものです。

(下線なしで)第一次世界大戦後、エジプトはワフド党を中心に独立したが、イギリスはスエズ運河の駐屯権など保持し続けた。第二次世界大戦後、ナセルがスエズ運河国有化を宣言して経済的従属からの脱却をめざすと、スエズ戦争がおこり、これ以降ナセルはアラプ民族主義の指導的地位を固めた。インドではイギリスの支配にガンディーが非暴カ・不服従運動を展開したが、イギリスはヒンドゥー教徒とムスリムの民族運動の分断を進めた。第二次世界大戦後、インドとパキスタンは分離して独立し、両国の間にはカシミール紛争が勃発した。共産党を中心に独立運動を進めたベトナムでは、第二次世界大戦後にフランスとの間にインドシナ戦争が始まった。ディエンピエンフーの戦いの結果、フランスはペトナムから撤退し、ベトナムは南北に分断されたが、社会主義の拡大をおそれる合衆国の介入によってベトナム戦争がおこった。その後、社会主義国家として自立したペトナムは,80年代以降はドイモイという改革開放路線へと転じた。同じくフランスの植民地支配下にあったアルジェリアは、アルジエリア戦争をへて独立を達成した。独立後、フランスがアルジェリアで同化政策を進めたことで多くの移民がフランスに流入し、民族的·宗教的摩擦が問題となったため、宗教的標章法が制定された。

 この解答文の中に「差異」はどう示されていますか? さーっと読んで分からないでしょう。それは採点官も同じで採点官に差異を探させることになります。これでもう落第ですね。
 「以上の点に留意し」とあるので調べてみましょう。
 「植民地政策の差異」はどう表されていますか? エジプトに関してはイギリス側の政策は何も書いてありません。インドは「ヒンドゥー教徒とムスリムの民族運動の分断を進めた」と書いてあります。ベトナムに対するフランス側の政策も書いてありません。アルジェリアも書いてありません。「社会主義や宗教運動……地域により異なる様相」は書いてありますか? エジプトは思想も宗教も何も書いてありません。インドの社会主義は書いてありません。ベトナムは共産党中心が書いてあります。アルジェリアは思想はなく宗教も不明快です。こんなに書いてなくて政治史に終始すると、この問題は何のためにあったのか分からなくなります。まして差異を探せったって無理ですね。
 これは差異を表すために、比較という作業をやらなくてはならなかったのに怠ってしまった、というか、その方法論がまるでないために沈没してしまったのです。この参考書の題に「論述力」というのが付いていますが、著者たちにないものが受験生に養われるのでしょうか?


p.186[14]「中国の科挙制度」で、でじっさいの京大の問題(2014年度)は以下、
 中国の科挙制度について、その歴史的な変遷を、政治的・社会的・文化的な側面にも留意しつつ、300字以内で説明せよ。
 「judge」のところに、「唐では蔭位の制という科挙によらない任官制度があったことを思い浮かべる人もいるかもしれないが、教科書レベルを超えた知識であるので、ここまで触れる必要はない」と書いています。東京書籍の教科書に「科挙の功罪」と題して「貴族や大官の子弟が恩典で任官できる制度(蔭位・任子の制)も残っていた」と書いてますが、山川にとって東京書籍は眼に入らない、ということでしょうか? 山川の用語集に「蔭位の制 ② 科挙によらずに家柄の官位に従って任官できる制度。高級官僚の子弟に有利であった」と2冊の教科書に載っていて、解説もしています。14年度版の用語集からこの綱目は消えました。しかし門閥貴族の強さを示すデータとして論述対策としては欠かせない用語です。
 

p.192[14]「オランダの世界史における役割」で、じっさいの東大の問題(2010年度)は以下、
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。(指定語句→グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争)

「judge」のところに、構想メモがあり、「盛り込む用語」欄と「オランダの役割」欄とあり、課題の「役割」欄の空白が多すぎます。空白の多さは「役割」があまりない、ということになり、じっさい「模範」答案はそうなっています。
 メモは16世紀から始めていますが「中世末から」とあるのに無視しています。14〜15世紀について何らか書くべきなのに捨てちゃえーということらしい。「模範」答案では「中世末にハプスブルク家の支配下におかれたネーデルラントは、16世紀後半に独立戦争を開始し北部7州がオランダとして独立を達成した。17世紀に商業覇権を握ったオランダは北米に現在のニューヨークニューヨークの原型となる都市を建設」と書いていて結局、中世末にはなんの役割も果たさなかった解答文になっています。オランダだけの一国史を書いても役割は出せません。愚かなこと。役割を書いている文はこの後の
「世界最初の株式会社……首都アムステルダムが商業・金融の中心となったオランダは、学問や出版でもヨーロッパの中心となり、国際法の発展に寄与したグロティウス……列強による東南アジア植民地化の先駆……光栄ある孤立を放棄する契機……ヨーロッパの統合に積極的に貢献」というところが該当しています。

 取り上げなかった問題は、実は流れの問題がほとんどで、ああなってこうなって、という流れの書き方をいくら学んでも「力」は付きません。取っ付きにくい、難解な問題を避けている、という点でも「力」は付きません。問題量を少なくした以上、骨のある問題の解き方を説き明かすべきでした。
 第1編は教科書にこだわっていたのに第2編は教科書にごだわっていないのは何故なのか? むしろ教科書を無視しているような説きかたは修正した方がいいでしょう。もっと教科書にこだわってどこまで解けるか試してみたらいいのに。ま、次の改訂版に期待しましょう。

18.11模試の添削

A模試

問題

 古来、ハンムラビ法典や中国の律に見られるように、為政者が被治者を統治するための手段として法が用いられてきた。しかし、13世紀のイギリスでは、貴族らが国王に大憲章(マグナ=カルタ)を承認させたように、法を通じて為政者の権力を統制しようとする動きが見られた。その後、自然権を国家権力の上位に置く思想が現れ、18世紀のアメリカ独立革命やフランス革命を経て、基本的人権を保障する近代国民国家が、欧米に始まり世界各地に広まった。近代国民国家では、被治者の人権を保護するため、法を通じた国家権力の統制が試みられるようになった。しかし、為政者側の抵抗や恣意的利用などによって、対立を引き起こしたり、限界や挫折を露呈したりすることもあった。以上のことを踏まえて、17世紀後半から1910年代までの世界各地で見られた国家権力に対する法による統制の試みについて、その限界や挫折、問題点にも触れつつ、具体的に記述しなさい。600字以内。
 (指定語句→)権利の章典(1689年)・十月宣言・大統領緊急令・大日本帝国憲法・反連邦派・フランクフルト国民議会・変法運動・ロシア=トルコ革命(露土戦争)
(解答例)
イギリスは名誉革命で権利の章典を定め、議会主権の立憲王政が確立した。アメリカ合衆国は三権分立・連邦主義に立つ成文憲法を定めたが、州権主義に立つ反連邦派との対立が起こった。フランス革命では人権宣言を含む1791年憲法で立憲王政を定めたが、続く憲法で共和政を規定するなど政体は不安定だった。ウィーン体制崩壊後のドイツではフランクフルト国民議会で自由主義者が統一と憲法制定を討議したが挫折し、プロイセン主導の統一後、欽定憲法が成立した。オスマン帝国はミドハト憲法を定めたが、ロシア=トルコ戦争を機に停止しスルタン専制に戻った。青年トルコ革命で憲法は復活したが、政治的混乱は続いた。イラン立憲革命は列強の介入で挫折した。明治日本が定めた大日本帝国憲法は、欽定憲法で天皇の広汎な権限を定めた。ツァーリ専制下のロシアでは日露戦争中に革命が起こり、ツァーリが十月宣言で国会開設と憲法制定を公約したが、のち専制へ戻った。ロシア革命で成立したソヴィエト政権は憲法制定会議を開いたが、ボリシェヴィキ独裁へ至った。日清戦争敗北後の清は変法運動で立憲国家を目指したが挫折し、光緒新政下で憲法大綱を発表したが辛亥革命で滅んだ。中華民国では袁世凱が臨時約法を尊重せず独裁的権力を築き、死後は軍閥抗争が起こった。第一次世界大戦後のドイツは、社会権を保障したヴァイマル憲法を定めたが、大統領緊急令はのちに議会を形骸化させた。

▲ 「試みについて、その限界や挫折、問題点にも触れ」という副問は幅が広すぎて何でもありの解答文が可能です。ある法制には限界、別の法制には挫折、さらに問題点をあげてもいいとなれば、誰が採点者か、どんな採点基準であるかによって、恣意的に採点される可能性があります。
 また近代的な憲法なり法制なりが定められた意義を求めているのでなく、あくまで限界・挫折、いわばマイナス面ばかり書かせることになり、これは何か意味があることなのでしょうか? もちろん憲法には権力の「抑制・制限・縛り・対立・抵抗」という面があり、限界・挫折ばかりを言い立てていくことは、それなりに意味があります。この作問者にそういう観点はあるのか、なさそうです。解答例を見るとわかるように、立憲にかかわる事件の羅列史です。

(解答例) 下のように文章毎に分解して分かることはそのアンバランスです。

1 イギリスは名誉革命で権利の章典を定め、議会主権の立憲王政が確立した。……これは課題の「法による統治」なのでしょうが、「対立・挫折・問題点・限界」は一切書いてありません。書かれた文章の内容だけでも「被治者の人権を保護」にどうなっているのか説明不足です。

2 アメリカ合衆国は三権分立・連邦主義に立つ成文憲法を定めたが、州権主義に立つ反連邦派との対立が起こった。……「対立」は書いてありますが、これだけでいいのか? そんな単純な問題なのか? この作問の意図は2009年度の宗教に関して国家と個人、2017年の古代国家の比較、2018年度の女性参政権に刺激されてのこととおもわれ、思い切った良問です。いろいろな解答文が可能という面でも良問です。ただ下の解答例でも見るように余りに表面的・短絡的な解答内容です。

3 フランス革命では人権宣言を含む1791年憲法で立憲王政を定めたが、続く憲法で共和政を規定するなど政体は不安定だった。……革命は試みの連続だから不安定は当り前ですね。それより独裁化(第一帝政)した点を「挫折・限界」として挙げる方がいいのでは? さすれば「為政者側の抵抗や恣意的利用」の実例となるのではないか?

4 ウィーン体制崩壊後のドイツではフランクフルト国民議会で自由主義者が統一と憲法制定を討議したが挫折し、プロイセン主導の統一後、欽定憲法が成立した。……三月革命と統一を話すためのフランクフルト国民議会、プロイセン国王の帝位拒否で挫折でした。次のプロイセン主導も統一問題が第一の課題で、これでは「法による統制」と少し離れたテーマになるのではないか? 三月革命の場合はどこでも挫折したが、プロイセンはこの時点で独自の三級選挙法を定めていて、1848年革命の中で唯一成功した革命と評価する史家もいます。しかし「三級(財産別選挙権)」には進歩した面と差別的な面とが共存する限界をもっていました。

5 オスマン帝国はミドハト憲法を定めたが、ロシア=トルコ戦争を機に停止しスルタン専制に戻った。青年トルコ革命で憲法は復活したが、政治的混乱は続いた。……これは「為政者側の抵抗……限界や挫折を露呈」の実例になるのでしょう。しかし憲法そのものについての意義はないのでしょうか? アジア初の憲法であり、二院制と市民的自由をかかげた民主的なものでした。ムスリムと非ムスリムの平等をかかげていました。復活後の「政治的混乱」は何に起因するのか説明不足です。現象を描いているだけです。

6 イラン立憲革命は列強の介入で挫折した。……これはこれで史実ですが、一文で書いたことの意味はあるのでしょうか? 要するにこうした事例をたくさん挙げよ、という意図がこの文章で示されています。

7 明治日本が定めた大日本帝国憲法は、欽定憲法で天皇の広汎な権限を定めた。……ここには限界・挫折はないのでしょうか? 何か日本国憲法を否定してこれに帰れ、と唱えている日本会議と自民党に共鳴しているような書き振りです。

8 ツァーリ専制下のロシアでは日露戦争中に革命が起こり、ツァーリが十月宣言で国会開設と憲法制定を公約したが、のち専制へ戻った。ロシア革命で成立したソヴィエト政権は憲法制定会議を開いたが、ボリシェヴィキ独裁へ至った。……これはまた長い解答文です。憲法ができるまでの経緯・背景まで描いており、その上で専制復活、ボリシェヴィキ独裁へとしています。ボリシェヴィキ独裁の限界はないのでしょうか? いやこれが限界と言いたいのか?

9 日清戦争敗北後の清は変法運動で立憲国家を目指したが挫折し、光緒新政下で憲法大綱を発表したが辛亥革命で滅んだ。中華民国では袁世凱が臨時約法を尊重せず独裁的権力を築き、死後は軍閥抗争が起こった。……清朝が滅んだのはこの通りですが、憲法という近代的なものの運命としては、清朝滅亡とか軍閥抗争とかより、憲政の必要性が辛亥革命とその後にも約法復活運動として孫文に、蔣介石に受け継がれることのほうが重要なのではないか?

10 第一次世界大戦後のドイツは、社会権を保障したヴァイマル憲法を定めたが、大統領緊急令はのちに議会を形骸化させた。……これはめずらしく憲法の内容たる「社会権を保障した」と書き、またもう一つの内容である「緊急令」もあげて、それが議会形骸化につながるとしています。これだけがこの問題の中で異例なものとなっています。

わたしの解答例
 「法を通じて為政者の権力を統制しようとする動き」と「しかし、為政者側の抵抗や恣意的利用などによって、対立」とあるように為政者と国民(被為政者)のせめぎ合いのような問いなので、これは立憲主義(政府・君主の権威・権力を憲法の制限下に置く)は成立したのか、それを政府・君主は阻止したのかの争いと捉えての解答文にしました。理想的には、問題も各国の憲法制定の意義と限界、というストレートな問題にすべきだとおもいます。
 
英国は権利章典によって議会主権が成立し、18世紀には責任内閣制も成立した。ジョージ3世の反動がありながらも定着した。合衆国は独立とともに中央政府をめぐる連邦派と反連邦派の対立を生んだが連邦派の望む憲法を制定した。だが女性・黒人・先住民を排除したため修正を繰り返さねばならなかった。フランス革命は共和政を志向しながら帝政の「ナポレオン法典」で完結し、二月革命で第二共和政が成立しても第二帝政を生んだ。ドイツはフランクフルト国民議会で決めた統一をプロイセン王の拒否に遭い挫折したが、プロイセンは欽定憲法で三級選挙法、さらに帝国憲法で男子普通選挙を実現した。しかし議会主権は成立せず疑似立憲主義のままであった。大日本帝国憲法はこのドイツを模倣し、天皇に統帥権をもたせたため議会政治を有名無実化する危険性をもっていた。清朝の変法運動は挫折したが憲法大綱を発表した。それは中華民国に受け継がれる。トルコは西欧的な市民権と議会政治を導入するミドハト憲法を制定したが、露土戦争を機にスルタン=カリフが停止した。しかし青年トルコが復活する。第一次ロシア革命の十月宣言で立憲政治が実現したかにみえたがドゥーマは閉鎖された。ロシア革命は立憲主義を実現しつつも共産党独裁に陥った。第一次大戦後のドイツ革命でヴァイマル憲法が制定され、社会権を認めた最初の憲法となったが、大統領緊急令という危険分子はファシズムを準備する。


B模試

問題
 (史料省略──長い史料文は過去問に例がないものです。また内容から特に必要ともおもえない)
 以上の点を踏まえて、19世紀前半から20世紀前半にかけて起きた自由貿易や保護貿易などの貿易政策をめぐる対立や衝突とその結果について、経済的・社会的背景も視野に入れながら論じなさい。解答は解答欄(イ)に20行(600字)以内で記し、必ず次の9つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお数字・アルファべットは1マスに2つまで記入してよい。また国名に関しては、英·米など漢字の略字表記でも構わないものとする。
 (指定語句→)帝国主義 ドーズ案 リスト 経済ブロック(プロック経済) 南北戦争 「十四カ条」 産業革命 広州 GATT(関税と貿易に関する一般協定)
 ※経済プロック(プロック経済)とGATT(関税と貿易に関する一般協定)については、どちらかを一方を使用すればよい。

解答例
木綿工業を中心に産業革命が進展した英では、議会に進出した産業資本家を中心に自由貿易を推進、工業製品の翰出拡大を目指した。アジアでは清朝がヨーロッパ諸国との貿易を広州のみに制限し公行が取引を独占していたため、英は貿易制限の打破を目指し、アヘン戦争、アロー戦争で清朝を自由貿易体制に組み込んだほか、オスマン帝国にも自由貿易を強要した。ー方欧米では、後進国がリストの主張した保護貿易で英に対抗、独では普を中心に関税同盟を結成、統ー後のドイツ帝国も保護貿易政策を進め、米も南北戦争で勝利した北部が主導して保護貿易政策を採り、両国とも重化学工業中心の第2次産業革命を実現して急速に工業化、英に迫った。1870年代に大不況が始まると、蒸気船など海運の発達を背景に、列強は新たな資源や資本主義輸出先獲得のため帝国主義政策を展開、その対立から第ー次世界大戦を招いた。大戦中、米大統領ウィルソンは「十四カ条」の中で関税障壁の撤廃を訴えたが戦後、米のドーズ案でヨーロッパ諸国の復興が進むと、米は高関税政策を採り、各国も保護貿易で対抗したため世界貿易が縮小、世界恐慌を招いた。恐慌後、各国では経済ナショナリズムが高まり、英・仏・米は経済プロックを構築して保護貿易政策を採ったが、日・独・伊は対外侵略で打開を図ったため、第二次世界大戦に至った。戦後、米が主導してプレトン=ウッズ体制を形成し、自由貿易を推進するためGATTが成立した。(600字)
▲ (1)「議会に進出した産業資本家を中心に自由貿易を推進」はまちがいです。選挙法改正で産業資本家が選挙権を得たとしても、議員になった訳ではありません。自由貿易の推進は地主議員たちが決めたことであり、産業資本家が議席を得るのは20世紀になってからです。勘違いしているようです。
 (2)課題に「19世紀前半から……貿易政策をめぐる対立や衝突」とあるのに、大陸封鎖令とロシアの封鎖令破りと、対抗してロシア(モスクワ)遺征があるのに書いてないのはどうしてか?
 (3)「米も南北戦争で勝利した北部が主導して保護貿易政策を採り」と何か初めて高関税政策を戦争後に始めたかのように書いていますが、1816年の関税法(20〜25%)、1824年(37%)、1828年(40%)と南北戦争以前から高関税でした。これは20世紀になっても一貫した政策で、「米は高関税政策を採り、各国も保護貿易で対抗したため世界貿易が縮小、世界恐慌を招いた」としていますが、第一次世界大戦後も高関税政策は19世紀と同様に続けたのであり(1925年29%(工業製品35%)『近代国際経済要覧』から、恐慌が起きてからの1930年は40%)、これを世界恐慌に結び付けたのはおかしい。戦後に25年頃から西欧が復興して生産量が上がってきたため生産過剰になり暴落が始まりました。関税政策のためではありません。
 解説(② 19世紀後半〜第ー次世界大戦)では「19世紀に工業生産が世界1位だったイギリスが自由貿易政策を推進した点との対比となるので、きちんと論じたい。しかし.世界1位の工業力を誇るアメリカが保設貿易政策を採ると、各国も保護貿易で対抗せざるを得ないため、結果的に世界貿易の編小を招き、これがアメリカ企業の業績悪化につながつて世界恐慌の一因となった」という風に19世紀から1929年の恐慌期まで一気に説明して高関税政策を「採る」と、何か大きな政策転換のように書いていますが、数字はそれを否定しています。

わたしの解答例
ナポレオン1世の大陸封鎖令は自国産業の保護政策であったが、産業革命を推進した英に対抗できず、英は自由貿易政策を進め、それは西欧各国に工業化を促した。米英戦争は米も工業化の契機となり、1830年代から産業革命が始まった。欧州でも工業化が始まり、対英のためにプロイセンが主導してリストの保護貿易の主張を反映した関税同盟を結成した。英は広州一港しか開かない清朝に戦争をしかけて開国させ、自由貿易を強制した。米は南部の自由貿易と北部の保護貿易の対立があり南北戦争に突き進んだが北部の勝利となり、保護貿易政策を行なった。米独は第二次産業革命を推進し、英を追い上げた。しかし大不況が要因となり、欧米列強は帝国主義政策をすすめ、アジア・アフリカに安い資源・労働力と市場を求めた。日本は江華島事件で韓国を開かせ、英独は建艦競争を繰り広げた。こうした市場争奪戦は第一次世界大戦を招き、大戦中、ウィルソンは「十四カ条」で関税障壁の撤廃を訴えた。独の賠償問題に対して米はドーズ案・ヤング案で援助したため、西欧が復興してくると生産過多となり世界恐慌が勃発、米英仏はブロック経済を、日独伊はファシズムという自国経済圏の拡大を侵略で形成しようとした。それが第二次世界大戦に発展し枢軸国工業地帯の爆撃を敢行した。戦後は自由貿易推進と経済破綻防止のために、GATTと世界銀行を設立し、米ドルを軸にブレトン=ウッズ体制を始めた。


C模試
問題
 大唐帝国を中心に形作られていたユーラシア東部の国際秩序は、10世紀に唐の滅亡をきっかけに大きく変容することになった。中国の北方のみならず他の周辺地城でも、新たに民族が台頭し、またそれまで栄えていた諸国が滅亡して新しい政治勢力に代わった。10世紀から12世紀における日本を除く中国の周辺諸地域の政治的動向について、中国の王朝と周辺諸地域の政治勢力との関係にも触れて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答梱に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
解答例
唐が滅亡し五代十国時代になると、中国の北方では契丹が遼を建国して中国東北地方の渤海を滅ぼし、五代の後晋から燕雲十六州を獲得した。その後、遼は燕雲十六州の奪回をはかった北宋に侵入して澶淵の盟を結び和睦した。中国北西辺境ではタングートが西夏を建国し北宋に侵入した後、和議を結んだ。ついで東北地方に興った女真の金は、北宋と同盟して遼を減ぼし、さらに南下して開封を攻略し北宋を滅ぽした。後に金は江南に成立した南宋を臣下とする和議を結び、淮河を国境とした。ー方、朝鮮半島では新羅に代わって高麗が成立した。ペトナムは中国支配から独立し、その後李朝が樹立され宋軍を撃退した。雲南でも南詔に代わって大理が建国された。
▲ 課題に「中国の王朝と周辺諸地域の政治勢力との関係にも触れて」とあるが、それを書いた箇所は一カ所「南宋を臣下とする」だけ。他の国々との関係、すなわち外交関係はどうなったのか、和議(戦争が終わった後の解決)を結んだとしても、それはどういう外交関係を結んだと書いているのか、書いてない。他の国々は興亡史になっていて外交関係は無視しています。というのは、中国と周辺国との外交関係は冊封体制といって、中国皇帝が世界の君主であり、周辺国は家臣という立場をとる、というのが基本なので、それがどう変わったのか、変っていないのか、が中心的な課題であるからです。ちょうどこの問題の時期がそれが変り始める時期なので、この問題も出題されているはずです。

わたしの解答例
蒙古系の契丹族が遼を建国し、後晋の石敬瑭から燕雲十六州を獲得し、11世紀宋とは澶淵の盟で宋兄遼弟の関係を結んだ、これは北アジアを保ちつつ中国領をもつ征服王朝の初めとなった。12世紀にタングート族の西夏・李元昊とは慶暦の和を結び歳幣を納める約束をしたが、関係は伝統的な冊封体制であった。女真族の金・完顔阿骨打に淮水以北を取られ、歳幣を贈る約束の他に外交関係は金君宋臣の関係であった。これは中国史上初めてのことであった。朝鮮は新羅から高麗に代わり、またベトナムは中国の支配から脱却して李朝大越が成立したが、両国とも伝統的な冊封関係であった。雲南は南詔から大理国に代わったが外交関係は冊封体制であった。

2020年共通テストの解説

 大学入試センターのサイトで問題をダウンロードしてください。
http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00011242.pdf&n=5-04_問題冊子_世界史B.pdf

 下の問題文は文字おこしをしましたが、写真・絵・グラフ(■の記号)は省略しています。わたしの考察記事は「……」の後に書いてます。他は共通テストの原文です。「〇」が正解文です。

世界史B
第1問 私たちは、文献や遺物、遺跡などから過去の歴史を知ることができる。歴史資料に関する次の文章A・Bを読み、下の問い(問1〜6)に答えよ。

A エリさんは、1世紀に中国からもたらされた金印について、パネルを用意して発表した。

 ■金印の表裏・立体写真

 金印は、1784年に、現在の福岡市に属する志賀島の土中から発見された。印文は「漢委奴国王」の5文字。
金印に関係する『後漢書』東夷伝の記事:
 建武中元二年(57年)、倭奴国が貢ぎ物を奉じ、朝賀してきた。使者は大夫であると自称した。(その国は)倭国の極南の界にある。光武帝は印と綬じゅ*とを賜った。
*綬:印を身に帯びる際に用いた組みひも。当時、倭には多くの国があり、それぞれ世襲の王がいた。①『後漢書』は楽浪郡からの距離や方角によって、倭人の居住地の位置を示している」。

「倭奴国が貢ぎ物を奉じ、朝賀してきた」という記述は、倭奴国が光武帝に対して朝貢したことを示している。また、「印と綬とを賜った」ことから、[ ア ]という関係があったことがわかる。漢王朝は、内陸部の諸国とも同様の関係を結ぶことがあった。

 建太:金印の印文は「漢委奴国王」ですが、『後漢書』の記事には「倭奴国」とありますね。「委」と「倭」と文字が違っているのはなぜですか?
 エリ:「倭」の文字の省略形が「委」だとする説があります。『三国志』の倭人についての記述には「奴国」という国名が見えることから、『後漢書』の「倭の奴な国」が金印の「委奴国」と同一だと考えるわけです。この説は、『後漢書』のような中国の正史の記述が正しいとするのですが、現在見ることのできる『後漢書』は宋代以降に印刷されたものです。②出土した金印の文字そのままに読むべきだとする説では、この金印を授けられたのは、『三国志』に見える「伊都国」だと考えられているようです。

問1 下線部①は、金印がもたらされた当時の東アジアの状況を反映していると考えられる。その状況を述べた文として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[1]
 ① 当時、倭の諸国が中国に往来するには、朝鮮半島を経由することが多かった。〇
 ② 光武帝は、外交交渉を担当させる組織として楽浪郡を設置した。
 ③ 当時、倭国は、百済と結んで朝鮮半島に出兵するなどしていた。
 ④ 当時の朝鮮半島における倭人の活動が、「好太王碑」(「広開土王碑」)に記されている。

 「金印がもたらされた当時の東アジアの状況」とは後漢・光武帝の時代、史料にある57年当時の状況ということになります。②は光武帝が楽浪郡を設置したか、ということで前漢武帝の設置(朝鮮4郡の一つ)なので誤り。③これは白村江の戦い(663)になるので、時期が違います。時期(年代)の問題という点では従来と変わらない問い方。④広開土王碑は高句麗王の南部進出を描いているので、三国の興亡戦の中にでてくる出来事で4世紀末から5世紀。これも時期の問題で従来と変わらない。広開土王碑のことは過去問2009年と1997年に出題されていて、1997年の世界史Bの問題は以下、

高句麗の『広開土王(好太王)碑』には、4世紀末の東アジアの動向が記録されている。そこに現れる国の名として正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[13]
 ① 後漢 ② 魏 ③ 隋 ④ 百済

 ……正解の①はこのくどい設問の仕方からなぜ出てくるのか訳がわからない。「倭国の極南の界」「倭人の居住地の位置」ということから朝鮮半島を示唆したつもりなのだろうか? しかし半島を通ったかどうか分からないのに、これを正解にするのはどうか。「多かった」というあいまいな言葉を正解にするのに躊躇せざるをえない。①〜④の文章のどれにも半島を書くことで、半島をめぐる中国・日本の関係史を示したいということらしい。この問題と関係ないですが、わたしは「倭」は日本でなく、半島南部の国と推理しています(一般論ではない)。


問2 文章中の空欄[ ア ]に入れる文として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[2]
 ① 貢ぎ物の代価として、金と絹とを支払う
 ② 皇帝が、外国の王を臣下として冊封する 〇
 ③ 皇帝から、属州の総督に任命される
 ④ 郡国制の中に、倭の地域を取り込む

 ……「[ ア ]という関係があったことがわかる。漢王朝は、内陸部の諸国とも同様の関係を結ぶことがあった」という文章。①は遼金との外交で出てくるのでアウト。②は冊封体制の説明。③ローマ皇帝のこと。「属州」という表現は中国にない。④これも正解ではないか。冊封体制とは、当時の国内の郡国制の拡大版であり、「中に」が中国国内を意味しているのなら誤りですが、意識として全世界が中国領と考えている当時の中国からすれば、これも正解といえます。後漢の時代はもう郡国制ではないと誤解しているひともいますが、しっかり郡国制です。


問3 下線部②の説について、どのような根拠が想定できるか。想定できる根拠として適当でないものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[3]
 ① 印刷が普及するまで書物は手書きで伝えられたため、その過程で文字が変わることがあった。
 ② 『後漢書』は当時の記録そのものではなく、編纂(へんさん)されたものであるため、編者が文字を改めることがあった。
 ③ 使者が口頭で伝えた国名が、中国では異なる漢字によって表記されることがあった。
 ④ 当時、倭国は卑弥呼によって統一されていたため、「倭の奴国」という国名はありえない。〇

 ……①57年当時に印刷術はないから、これは肯ける内容。②はそうか知れない。③これも②と同じ。④卑弥呼は時代が違う。これも年代の問題(『世界史年代ワンフレーズnew(以下『ワン』と略称)』の語呂「ヒミコのツ2ミ3キ9」)。過去問と似て、2012年の問題は以下、

 次の文aとbの正誤の組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[17]
 a 琉球は島津氏に支配されると、中国への朝貢を断絶した。
 b 3世紀に卑弥呼が、魏に朝貢使節を送った。

 この過去問と類似の問題を、新テストの「共通テスト」は史料(資料)とアクティブ・ラーニング風にパネル発表に仕立てて導入文としています。しかしこれらのことは、空欄[ ア ]の戦後は読まなくてはならないが、ほとんど読まなくても解答できる設問です。史料の中で、受験生が注目すべきことは、「57年」という年代だけです(『ワン』の語呂「金印光5全7」)。


B 次の文章は、6世紀のトゥール司教グレゴリウスが著した『歴史十巻』の中の一節である。(引用文は原文を一部省略したり、改めたりしたところがある。)
 王妃クロティルドは、まことの神を認め偶像を放棄するよう、王クローヴィスを説得し続けた。しかし、ある時アラマン人との戦いが起こるまで、どうしても王の心を揺り動かしてその信仰へ向けることはできなかった。(中略)すなわち、次のようなことが起こったのである。双方の軍隊が衝突し、激しく戦闘が行われた。やがて、クローヴィスの軍隊は壊滅しかけた。彼はそれを見て、空をあおぎ、悔恨の念にかられ、涙にかきくれて言った。「イエス=キリストよ。あなたの助力という栄光を切実に懇願します。この敵に私を勝たせてくれるならば、(中略)私はあなたを信じ、あなたの名のもとに洗礼を受けます。というのも、私が助力を嘆願した神々は、私を助けてはくれませんでした。そのため、私の神々は従っている者たちを助けず、信奉者たちへ何の力も及ぼさないと思います」。彼がこのように言った時、アラマン人が背を向けて、逃走し始めた。そして、自分たちの王が殺されたのを見てとると、クローヴィスの権力に服した(中略)。
 そこで王妃は、ランス市の司教である聖レミギウスを密(ひそ)かに呼び寄せ、王に救いの言葉を教え込むように懇願した。司教は王を密かに招き、天と地の創造者であるまことの神を信じ、王や他の者にとって無益な偶像を放棄するよう彼に説き始めた。(中略)最初に王が司教から洗礼を授かることを申し出て、(中略)新しい[ イ ]として洗礼所へ進み出た。洗礼を始める時、神の聖者は雄弁な口調で次こうべのように彼に語りかけた。「シガムベル人*よ、静かに首を垂れなさい。あなたが燃やしたものを崇(あが)め、あなたが崇めていたものを燃やしなさい」。
       *シガムベル人:フランク人の別名。

問4 この文章から読み取れる内容として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[4]
 ① クローヴィスは、ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を受けた。
 ② クローヴィスは、王妃を説得して改宗させようとしたが、拒否され続けた。
 ③ クローヴィスは、神に対し、精神的な救いよりも現実的な力の強さを求めた。〇
 ④ クローヴィスは、レコンキスタの一環としてアラマン人と戦った。

 ……長い史料文ですが、読まなくても正解に到達できます。①は「ローマ皇帝」はカール大帝(800)ではあるまいし、おかしい。②は史料文を読まないと分からないが、判断を保留する。もちろん「拒否され続けた」のではない。③教会の現実的な支援をほっした、ということで正解らしい。④レコンキスタ(8〜15世紀)は時期(年代)の問題で選べない。クローヴィスは5世紀のひとだから(『ワン』「メロン(ヴィング)44杯81」)。


問5 この文章の主題を描いている図版として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[5]

 ■図4枚 ① ②〇 ③  ④

 ……4枚の絵の①はフスの火刑、②が教会関係者から王冠を被せてもらっている絵、③横長の船が右に向かっているノルマン=コンクェストの絵、④百年戦争で大砲(火器)が登場している絵、とみな教科書に載っている有名な絵ばかりです。正解の②はかんたんすぎる。


問6 文章中の空欄[ イ ]に入れる人の名として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[6]
 ① サラディン(サラーフ=アッディーン)
 ② トマス=アクィナス
 ③ コンスタンティヌス 〇
 ④ ディオクレティアヌス

 ……「新しい[ イ ]として洗礼所へ進み出た」として人名を入れる問題。キリスト教になる儀式に我意とする人物として、①イスラーム教徒、③13世紀のひと、④キリスト教徒迫害者として該当しないので、正解は②。


第2問 世界史における人の移動や人口の増減について述べた次の文章A・Bを読み、下の問い(問1〜6)に答えよ。

 A あるクラスの世界史の授業で、人の移動や移住の歴史について班別学習を行った。

問1 久志君の班では、次の地図を見ながら、トルコ系諸王朝の活動についてカードに記入した。その記述として誤っているものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[7]

 ■地図とカード無いの文章は以下、
 ① セルジューク朝の下で、カイロが繁栄した。〇
 ② オスマン帝国は、ウィーン付近まで進攻した。
 ③ トルコ系の勢力は、モンゴル高原から西方に広がった。
 ④ トルコ系の勢力は、インドにも進出した。

 ……カードにして、いかにも発表風に仕立てますが、従来の四択文とおなじです。
 ①地図の左側にある太い線でかこまれたところがセルジューク朝です。出発点が三日月型のバルハシ湖の西、中央アジアと呼んでいるところから出発して西アジア一帯に広がっているからです。ただカイロはファーティマ朝がチュニジアからエジプトに進出してつくり(969『ワン』語呂「不安定、黒96く9」)、その後のアイユーブ朝・マムルーク朝下で繁栄した都市です。セルジューク朝はカイロまで入っていない、領域に入っていないし、矢印もエジプトに到達していません。だからこれが誤り。セルジューク朝が入城したのはバグダードです(『ワン』の語呂「競る塾、ど1の0子5合5格」)。②地図には示されていないが、ウィーン包囲をやってます。③もともとトルコ人は突厥・ウイグルがそうであったように蒙古高原にいました。それがウイグルがキルギスに追撃されて始まったものでした(840)。④デリー=スルタン朝の4王朝がトルコ人です。


問2 エレーナさんの班では、16世紀から20世紀前半の人口移動に関心を持ち、その傾向を示した下の図を見ながら議論した。メンバーの発言の正誤について述べた文として適当なものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[8]

 伸之:インドからあちこちに移民が出ている。移民が増えたのは、19世紀にイギリスで奴隷貿易が廃止された後の労働力として、需要が高まったからだよ。
 エレーナ:東南アジアには、インドだけでなく、中国からも来ている。日本からも、17世紀初期には移民が行っているわね。
 ひとみ:インドからはアフリカにも行っているけど、インドとアフリカ東岸の交流は、ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓によって始まったのね。

 ■地図
 ① 伸之が誤っている。
 ② エレーナが誤っている。
 ③ ひとみが誤っている。〇
 ④ 全員正しい。

 ……③はガマの開拓によって始まったが、間違いというのは分かりますか? 西欧人としては「始まった」といっても、すでにガマ以前に鄭和がアフリカ東岸に来ており、それ以前にムスリム商人たちが来ているからです。いやもっと以前をたどれば、「大秦王安敦の使者」としてローマ商人がヴェトナムに来てます。
 対話しているそれぞれの主張の正誤判定問題ですが、これは四択問題の形を変えたもので、特異なものとは言えません。次のような形にしても同じです。
 ① 伸之───誤  ③ ひとみ──誤
 ② エレーナ─誤  ④ 全員───正


問3 真央さんの班では、現代のオーストラリアへの移民について調べ、下の表について議論した。そこで話題になっている白豪主義の撤廃に至った要因について述べた文として適当なものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[9]

 哲也:オーストラリアは、以前は白人以外の移民を制限していたそうです。現在は、イギリスとその植民地だったところだけでなく、ずいぶんいろいろな国や地域から移民を受け入れているんですね。
 真央:白人以外の移民を制限した、いわゆる白豪主義は、1970年代に撤廃されたのね。
 タン:私はカンボジアの出身ですが、祖父母の世代には、インドシナ半島からオーストラリアに移住した人がたくさんいます。

 ① アジア太平洋経済協力会議(APEC)によって、アジア諸国との結びつきが強まった。
 ② 反植民地主義を掲げるアジア=アフリカ会議を主催した。
 ③ 南アフリカでアパルトヘイトが撤廃された影響を受けた。
 ④ ベトナム戦争によって発生した大量の難民を受け入れた。〇

 ……白豪主義の撤廃という馴染みのない語句に戸惑いを感じたかも知れないが、3人の対話(真央)の中にヒントがあり、難解というものではない。オーストラリアは移民制限を「1970年代に撤廃(厳密には1973年)」とあり、この年代とかかわるものはヴェトナム戦争の終結(1975)とかかわっています。
 ①アジア太平洋経済協力会議(APEC)は1989年に結成されたもの。いやに新しい点をついた難文です。時間的に「1970年代」後ということです。②1955年、③は1991年で「1970年代」後、という時間差の問題でした。こういう時間差問題は従来のセンター試験の常道でした。しかしこの問題は年代としても②を別にすれば細かいものです。
 「白豪主義」という語句は過去のセンター試験には出題されたことがありません。ただアボリジニーという追放された先住民の名での事実上の出題は3回あります(2003,09,15)。
 結局、オーストラリアの国勢調査の表はなぜ必要だったのか、多民族化しているということは分かるが、問題そのものに直接的には無関係です。さも調べ学習をしているという偽装のためでした。


B 次の図は、前4世紀から20世紀末までの2300年余りにわたる中国の人口の推計値を、折れ線グラフにしたものである。このグラフに示されている人口動態は、歴代の王朝交替のたびに人口の増減を繰り返しながら、長期的には人口規模を拡大させてきた中国社会の特質を、よく映し出している。

 ■グラフ
中国の人口の変遷(路遇・滕沢之『中国人口通史』より作成)

問4 グラフ中のア・イの時期と、その時代における人口増加の要因について述べた文との組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[10]

 a 江南地方の開発の進展や米の新種の導入によって、穀倉地帯が形成された。
 b 山地や砂地で栽培できるトウモロコシやサツマイモなどの外来作物が普及し、増加した人口を支える食料源となった。  
 c 農地の囲い込みが行われ、穀物栽培の効率が向上した。
 d 王朝や豪族の主導の下、鉄製農具や牛耕農法の普及によって農地の開拓が進み、農業生産力が高まった。

 ① ア―a
 ② ア―c
 ③ イ―b 〇
 ④ イ―d

 ……文aは江南開発に「米」を挙げていて、占城稲のことだろう、と推理して11世紀頃の宋代。文bは外来作物の栽培と人口増加なので18世紀、教科書(詳説)に「18世紀には政治の安定のもと、中国の人口は急増した。新大陸から伝来したトウモロコシやサツマイモなど、山地でも栽培可能な新作物は、山地の開墾をうながして、人口増をささえた」とある部分で、これがグラフの1661〜1851年間の増加線と合ってます。1993年度のセンター試験にグラフも付いた問題とそっくりです。文dは春秋末の前6世紀から始まり戦国時代にかけての技術革新ですが、グラフの時期は前202〜157年という前漢後漢時代に入っているので、該当しない。これも時間(年代)が分かっておれば判断ができます。歴史の問題の中のグラフなので、年代を覚えていないとグラフの時期が特定できないことになります。これは従来のセンター試験となんか変わらない傾向です。文科省の出題意図では「地図や統計資料から読み取れる情報と歴史的事象を関連付けて考察する力を問う」とありますが、「考察」に値いしますかね?


問5 グラフ中のX・Yの時期には、人口減少が見られる。その原因や、人口減少という状況に対して取られた対応について述べた文として最も適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[11]

 ① Xの時期は、大規模な反乱をきっかけとして、政治・社会の安定が失われたことが原因の一つと考えられる。〇
 ② Xの時期には、現住地で所有している土地・資産に基づいて課税する税制が導入された。
 ③ Yの時期は、外国遠征の失敗や大運河の建設負担によって反乱が広がり、王朝が倒れたことが原因の一つと考えられる。
 ④ Yの時期には、戦争捕虜を奴隷として使役する大農場経営が行われた。

 ……Xの時期はグラフでは157〜220年で、Yの時期は755〜960年とあるので、それぞれ黄巾の乱と安史の乱とそれ以降となります。①この文は特異な内容を含まず、ああそうですか、という他ないような内容です。②これは両税法(780、『ワン』語呂は「両税法は縄78を0とる」)の説明なので時期が違う。③文から隋の高句麗遠征と大運河建設とわかり、Yの時期(755〜960年)ではない。④これはローマのラティフンディウムの説明だから、アウト。
 この問題を解くのに必要なのは、やはり年代です。


問6 グラフ中のZの時期には、世界の他の地域でも人口減少が見られた。その時期に世界の他の地域で見られた人口減少と関連した社会不安の状況を調べるための資料として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[12]

 ① 強制栽培制度の行われた地域における飢饉(ききん)の発生数の統計
 ② ゲルマン人の移動経路を示した地図
 ③ ラダイト運動(機械打ちこわし運動)の発生件数の推移を示したグラフ
 ④ 三十年戦争におけるドイツの死者数の統計 〇

 ……Zの時期とは1566〜1661年。①は強制栽培制度は1830年だからはずれます(『ワン』の語呂「強制栽培せよ、千1葉8実3を0」)。②ゲルマン人の移動は375年だから地図があってもだめ(『ワン』の語呂「ゲルマン皆37ゴ5ール」)。③ラダイト運動の年代(1811〜17)年代が分からなくても機械打ち壊し運動のことなので産業革命以降ということになり(『ワン』の語呂「産業革命、ど1な7る6音0)、18世紀後半以降でなければならない。これも時間がずれています。従来の時間差問題となんら変わらない。④三十年戦争(『ワン』の語呂「三十年もと1ろ6い1や8」)が正解ですね。


第3問 世界史上の民衆反乱について述べた次の文章A・Bを読み、下の問い(問1〜6)に答えよ。

A 18世紀後半、コサック出身のプガチョフは、自分を、死んだとされていた先帝であるロシア皇帝ピョートル3世であると名乗って、反乱を起こした。当時、うわさ①皇后がこの死に関わっていたという噂が広まっており、他方でピョートル3世は「良きツァーリ」と民衆に信じられていた。そのため、ピョートル3世を名乗る者が多く現れ、プガチョフもその一人であった。プガチョフは、「良きツァーリ」として、農奴の解放を宣言し、多くの民衆をひきつけ、大きな勢力を誇った。プガチョフの乱は政府によって鎮圧されるが、②民衆の力を見せつけることとなった。19世紀のロシアの③ロマン主義作家であるプーシキンは、その作品において、プガチョフを民衆の中から生まれた民衆の指導者として描いている。

問1 下線部1の人物は、ピョートル3世の後に即位し、皇帝となった。その人物の名と事績の組合せとして正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[13]

 ① マリア=テレジア ―クリミア戦争を戦った。
 ② マリア=テレジア ―ポーランド分割に参加した。
 ③ エカチェリーナ2世―クリミア戦争を戦った。
 ④ エカチェリーナ2世―ポーランド分割に参加した。〇

 ……皇后という名でぼかして、マリア=テレジアかエカチェリーナ2世かをあて、その事績も問う問題。といってロシアの話しだからエカチェリーナ2世と分かります。「18世紀後半」フランス革命と同時代に生き、この革命騒動を利用してポーランド分割を実行しています。いくらなんでもクリミア戦争(1853年、『ワン』語呂「栗見や、一1箱85実3」)ではない。なんか『ワンフレーズ』の宣伝ばかりしているみたいになってしまった。いや、従来のセンター試験となんら変わっていないのですよ、ということを言いたいためです。形式は変わったが、中身は不変、ということです。


問2 下線部2に関連して、民衆の政治的な動きを描いた次の図版a〜cが年代順に正しく配列されているものを、下の①〜⑥のうちから一つ選べ。[14]
 ■図 a 圧政の象徴とされる牢獄を、民衆が襲撃した。
  b 皇帝に対して和平と飢餓救済を請願する民衆に、軍隊が発砲した。
  c 傭兵の反乱をきっかけとして、民衆が広く参加する大反乱に発展した。

 ① a → b → c
 ② a → c → b 〇
 ③ b → a → c
 ④ b → c → a
 ⑤ c → a → b
 ⑥ c → b → a

 ……aは教科書によく載っているバスティーユ牢獄襲撃の絵です。説明文の「牢獄」が示唆してます。bは「皇帝」があり雪の中の発砲は、血の日曜日事件ですね。cは「傭兵」がありインド大反乱(セポイの反乱)です。「年代順」という、またまた時間差の問題。1789年、1905年、1857年となり、容易な問題です。


問3 下線部3について述べた文として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[15]

 ① 個性や感情を重視し、歴史や民族文化の伝統を尊重した。〇
 ② 古代ギリシア・ローマの文化を理想とし、調和を重んじた。
 ③ 適者生存を原理とし、人種差別を擁護するのに利用された。
 ④ 光と色彩を重視し、主観的な印象を描いた。

 ……下線部③「ロマン主義」についての正しい文を選ぶ問題。②古典主義、③社会ダーウィニズム、④印象主義。


B 次の資料1〜3は、19世紀のアジア・アフリカで起こった民衆反乱やその指導者に関するものである。(引用文は原文を一部省略したり、改めたりしたところがある。)

資料1
 我等(東学軍)が義を挙げてここに至ったその本意は、(中略)民衆を塗炭の苦しみから救うことにある。内には暴虐な官吏の首をはね、外には横暴な強敵の群を駆逐することにある。両班と富豪の前に苦痛にあえいでいる民衆と、地方官の下に屈辱をなめている小吏らは、(中略)少しもためらうことなく、ただちに立ち上がれ。

資料2
 ファールス地方で、バーブと称するセイイド=アリー=ムハンマドが出現した。(中略)彼は、自らを千年もその出現を待望されたイマーム(イスラーム教の指導者)であると述べ、さらに進んで預言者であるとの主張を行った。(中略)彼は捕らえられて投獄された。(中略)知事が彼をシーラーズからイスファハーンに移し、そこに留めた。

資料3
 愛する者よ、私と私の支援者たちとは、マフディーの位がこの卑しい身である私にもたらされる以前は、あなた(イスラーム教の一派サヌーシー派の指導者)が宗教を復興してくれるのを待望していた。(中略)この手紙があなたに届いたら、あなたの地方において(中略)ジハードを行うか、あるいはわれわれのもとに移住して来なさい。

 ……資料といってもヒントがあり、初めて見ても難しくはないものばかり。資料1は「東学軍」、資料2は「バーブ」教徒の乱、資料3は「マフディー」の乱、となります。東学農民戦争(甲午農民戦争)は日清戦争の一因になるので、日清戦争の年代(『ワン』の語呂「日清焼きそば、人1焼8く9よ4)、バーブ教徒の反乱(ハーブ、一1葉8四4葉8)、スーダンマフディーの乱はエジプトのウラービーの乱と同時に始まります(『ワン』「裏ー火、火1は8灰81」)。

問4 資料1と資料2に関わる反乱が起こる直前のそれぞれの地域の状況について述べた次の文aとbの正誤の組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[16]

 a 資料1:日本との協約によって、外交権を喪失していた。
 b 資料2:2度のイギリスとの戦争によって、その保護国となっていた。

 ① a─正  b─正
 ② a─正  b─誤
 ③ a─誤  b─正
 ④ a─誤  b─誤〇

 ……aは1894年の段階では韓国はまだ外交権を失っていません。失うのは1905年の第ニ次日韓協約(保護条約)によってです。bバーブ教徒の反乱はイラン(カージャール朝)の出来事でありがとうございました。、この「2度のイギリスとの戦争……保護国」はアフガン戦争になり、ちがう国のできごとです。

問5 資料3における「私」を指導者とする反乱が起こった地域の名と、その位置を示す次の地図上のaまたはbとの組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[17]
 ■地図
 ① スーダン  ―a
 ② スーダン  ―b〇
 ③ アルジェリア―a
 ④ アルジェリア―b

 ……スーダンの位置が分かるか、という問題。


問6 資料1〜3に関連して述べた次の文中の空欄[ ア ]に入れる内容として適当なものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[18]
 
 これらの反乱は、列強の政治的・経済的進出や国内の支配層の抑圧のために従来の生活習慣を破壊された民衆が、[ ア ]から起こったものであった。

 ① 既存の伝統的な宗教や文化によりどころを求めたこと 〇
 ② ヨーロッパの政治思想を吸収して政治意識に目覚めたこと
 ③ 民族意識を覚醒させ、国民国家の建設を目指す運動を激化させたこと
 ④ 社会主義思想に基づく経済的・社会的平等の実現を目指したこと

 ……東学・シーア派の分派バーブ教・救い主を意味するマフディーとみな宗教的な反乱でした。


第4問 世界史における家族や家庭について述べた次の文章A・Bを読み、下の問い(問1〜6)に答えよ。

A あるクラスの班別学習で、前近代の君主や最高指導者の地位の継承について調べて資料①〜④の系図を作成し、気付いたことを話し合った。(資料中の丸囲み数字は即位順、=は婚姻関係、片仮名とは男性、平仮名とは女性を示す。)

 史恵:君主や最高指導者の子孫でないと後継者にはなれないのかな。[ ア ]の例だと、先代の息子しか位についていませんね。
 歴彦:そうとも限らないよ。[ イ ]の例では、後継者は男性だけれど、初代と血のつながりのある子孫とは限りません。
 史恵:確かにそうですね。では、女性は君主になれなかったのかな。
 歴彦:①女性に継承権を認めていたり、女性を通じて継承権が子孫に伝えられるという考え方があります。だけど、国や民族によって考え方が違ったので、争いや混乱の元になることがありました。

 資料1 正統カリフの継承図
 資料2 ローマ皇帝の系図
 資料3 カペー朝の 系図
 資料4 モンゴル帝国君主の系図

問1 会話文中の空欄[ ア ]と[ イ ]に入れる語の組合せとして正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[  19]

 ① ア―資料1 イ―資料2
 ② ア―資料1 イ―資料4
 ③ ア―資料3 イ―資料2 〇
 ④ ア―資料3 イ―資料4

 ……[ ア ]の例だと、先代の息子しか、とあるのは単純な系図になっている資料3、資料4モンゴル系図は①②③と続いたのに、④はちがう家に位が盗られているのでダメ、ということで資料3が正解。「[ イ ]の例では、……初代と血のつながりのある子孫とは限りません」
資料②アウグストゥスが1代目、2代目は血のつながりのないティベリウスが位に就いていますから、これが正解。ティベリウスは△になっている「りうぃあ」が離婚した夫の子でアウグストゥスとは血がつながっていません。


問2 下線部①に当てはまる事例について述べた次の文aとbの正誤の組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[20]

 a 西太后が、夫の死後に皇帝に即位して、国号を周と改めた。
 b イングランド王エドワード3世が、母方の血筋を理由として、フランス王位継承権を主張した。

 ① a─正  b─正
 ② a─正  b─誤
 ③ a─誤  b─正 〇
 ④ a─誤  b─誤

 ……「女性に継承権を認めていたり、女性を通じて継承権が子孫に伝えられるという考え方」とあり、a文は「西太后」でなく則天武后のこと、b文は百年戦争の原因として学ぶもの。正しい。資料3の系図は左側のジョン王で切れていますが、これが下までつづいてエドワード3世にまでつながります。


問3 カリフ位について資料1から読み取れる事柄a・bと、イスラーム教の宗派について述べた文あ・いとの組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[21]

カリフ位
 a 正統カリフは、全て預言者ムハンマドと共通の祖先を持っている。
 b カリフ位が世襲になると、カリフは預言者ムハンマドの親族ではなくなった。

 イスラーム教の宗派

 あ アリーの子孫のみが指導者であるべきだとする人々が、スンナ派と呼ばれた。
 い イランでは、サファヴィー朝がシーア派を国教とした。

 ① a―あ  ② a―い 〇
 ③ b―あ  ④ b―い

 ……「カリフ位」ではa文は正しい、みなクライシュ族から出ている親族同士です。b文はムアーウィヤもアッバースもそれぞれ世襲制になりますが、クライシュ族出身であることは変わらない。「宗派」では、「あ」はスンナ派でなくシーア派のまちがい。「い」はこの通りで、シーア派の中でも十二イマーム派としても知られています。


B あるクラスの世界史の授業で、19世紀のイギリス家庭に関連した学習を行っている。以下は、授業中の先生と生徒の会話である。

 先生:この時期のイギリスは、労働者階級と中・上流階級の「二つの国民」が存在していると言われていました。まず、労働者の生活の状況について見てみましょう。労働者家庭の支出に占める食費の内訳(資料5)を見てみると、どのようなことが分かりますか?
 花子:南アメリカ原産の[ ウ ]が出ています。これは、16世紀ごろにヨーロッパに伝わったとされています。収入の多い綿加工熟練労働者よりも、収入の少ない未熟練労働者の方が支出に占める割合が高いですね。
 太郎:私は、紅茶と②砂糖」があることに着目しました。以前、これらは嗜(しこう)品だったので、収入の少ない人たちには手に入らなかったと勉強しましたが、19世紀になると、労働者階級でも消費することができたのですね。
 先生:そうですね。それでは、次の資料を見ましょう。この絵(資料6)は、1846年に描かれた、イギリスのヴィクトリア女王の家族の絵です。これは、③当時の社会の状況と中・上流階級の家族観を表しています」。それは、どのようなものだと思いますか?

資料5 労働者家庭の総支出に対する食費の内訳(1840年ごろ、横線は計上なし)
 ■表
*オートミール:主にえん麦を原料にした粥(かゆ)状の食べ物。(長島伸一『世紀末までの大英帝国』より作成)

資料6
 ■絵

問4 会話文中の空欄[ ウ ]に当てはまる語について説明した文として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[22]

 ① アイルランドでは、この作物の不作から飢饉(ききん)が起こり、大量の移民がアメリカなどに移住することになった。 〇
 ② ヨーロッパでは、肉類の保存などのために珍重されており、その原産地と直接取引することが目指された。
 ③ インドでは、イギリスによる専売制度に反対する運動が行われた。
 ④ オスマン帝国を経由してヨーロッパに伝わり、それを提供する場が市民の社交場となった。

 ……文①は有名な「ジャガイモ飢饉」のことです。正解。ほんとうは小麦が豊作だったので、イギリス政府がアイルランド人に回せばよかったのに、そうしなかったための人為的な被害でした。②香辛料、③塩、④コーヒー。


問5 下線部②に関連して、次の地図は、イギリスへの輸入品のルートを示したものである。砂糖が入ってきた主なルートとして適当なものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[23]
 ■地図
 ① a  ② b 〇 ③ c  ④ d

 ……サトウキビの栽培と砂糖の製造はカリブ海が主たる地域で、そのためここに奴隷も投入されました。それがヨーロッパにもたらされ紅茶文化ができていきます。


問6 下線部3に関連して、当時の社会の状況について述べた文a・bと、当時の家族観について述べた文あ・いとの組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[24]

 当時の社会の状況
 a 国王は「君臨すれども統治せず」を原則とするイギリスでは、王室に、国民生活やイギリス社会の手本を示す役割が期待されていたと考えられる。
 b ドイツ皇帝が打ち出していた世界政策への対応を迫られていたイギリスでは、王室に、イギリスの強さを示す役割が期待されていたと考えられる。

 当時の家族観
 あ この肖像画の背景には、女性が良き妻・母であることを理想とする家族観があると考えられる。
 い この肖像画の背景には、戦争による労働力不足を補うために、女性も工場など家庭の外で働くことが望ましいとする家族観があると考えられる。

 ① a―あ 〇 ② a―い
 ③ b―あ   ④ b―い

 ……「当時の社会の状況と中・上流階級の家族観」を表わす絵ということですが、斜めに手すきがけのようなものを掛けている姿はヴィクトリア女王であり、同様に手すきがけをしている隣の夫はアルバート公であろうと推測できます。ウィキペディアにも「中産階級の模範として」という題の中にこの絵があります。王室と中産階級の「模範」という説明がついています。日本人の中産階級のイメージとイギリスの中産階級のイメージはまるで違うのに、日本語版ではその違いを指摘していません。イギリスの中産階級はマンション1軒をもち、執事ほか使用人を10人くらいかかえるくらいの財力をもつひとたちです。日本の中産階級ならマンションの1室をもつくらいのレベルでしょう。
 さて問題の絵はなにより「19世紀」の絵ということで、文aの責任内閣制(1721)はすでに成立しています。文bのように「女性も工場など家庭の外で」という絵でないことは一目瞭然です。むしろ女性は外で働かないことが理想、という絵です。いや働いている女性の労働の上にこの豊かな働かない妻・母の像が存在します。「当時の家族観」の「あ」にある「良き妻・母」とは働かない女性を指しています。資料5の中にバター・肉・紅茶・砂糖・コーヒーを消費できない「未熟練労働者」女性たちの土台にして気楽な日常を送っています。
 『詳説世界史』には「ヴィクトリア期のイギリス」という章に「19世紀半ばのイギリス中流階級の豊かな暮らし」とある絵があり、それに「母がピアノを弾き,父と子どもたちがうたう。」とキャプションが付いています。


第5問 第一次世界大戦について述べた次の文章A・Bを読み、下の問い(問1〜5)に答えよ。

A ベルリンに住む高校生のトビアスとニコラスは、歴史の授業で文書館を訪れた。そこで第一次世界大戦中のベルリンに関する展示を見て、会話を交わした。

資料1
諸君、余が王宮のバルコニーから国民に対し告げたことを諸君は読んだであろう。余は繰り返して述べよう。余はもはや党派なるものを知らぬ、ただドイツ人あるのみである。(嵐のようなブラボー!)そして、諸君が、党派の違い、地位や宗派の違いなく、苦楽を共にし、生死を共にすることによって、余のもとに団結することを固く決意していることの証(あかし)として、各政党の党首が前に進み出て、余と握手して誓約するよう命じる。

資料2
 1915年6月ベルリン警察長官の「世情報告」
マーガリンは、ますます品薄になり値上がりしています。野菜は、乾燥続きのため、また値上がりしました。その他の食料品は従来の高価格のままです。何らかの値下がりは期待できません。(中略)世間はこのような物価高に苦しんでいるでしょう。とりわけ、戦争の終結が予測できないためです。

資料3
11月4日月曜日、水兵蜂起についてのより正確な知らせがベルリンに届いた。キールでは、11月3日に、反乱した者の投獄から、水兵の暴動が起こり、水兵協議会が結成された。この知らせは、労働者の闘争心を高めるのに非常に有益だった。

 トビアス:係の人の説明では、資料1は、1914年8月に、第一次世界大戦の始まりに際して皇帝が呼びかけた言葉みたいだけど、「余はもはや党派なるものを知らぬ」ってどういう意味だろう。
 ニコラス:[ ア ]みたいだね。人々は開戦を熱狂的に支持したんだね。
 トビアス:だけど、資料2も読むと、その熱狂も、戦争が長期化するとだんだんと冷めてきていることが分かるね。
 ニコラス:それでも、その後3年も戦争が続くんだ。途中でアメリカ合衆国も参戦しているよね。資料3の反乱が全国に広がって、最終的には[ イ ]、①戦争が終わる」んだね。
 トビアス:②この戦争で、それまで世界を支配してきたヨーロッパ諸国は大きな打撃を受けて、代わってアメリカ合衆国が発言力を増すようになった」そうだね。

問1 会話文中の空欄[ ア ]と[ イ ]に当てはまる文の組合せとして適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[25]

 ① ア―ナチ党による一党独裁が行われること
   イ―ボリシェヴィキが権力を奪って
 ② ア―共産党による一党独裁が行われること
   イ―14か条を受け入れて
 ③ ア―どの政党・団体も戦争を支持すること 〇
   イ―皇帝が亡命して
 ④ ア―政党というものが理解できないこと
   イ―ヴァイマル憲法が制定されて

 ……[ ア ]トビアスが「皇帝が呼びかけた」と説明しているのだから、①一党独裁、②一党独裁はありえない。④政党を理解しているからこの発言があるはず。
 [ イ ]は戦争終結のあり方はどれか、①はロシア革命、②十四ヵ条で戦争は終わらない、④憲法の制定で戦争が終わっていない。敗戦してから協議の上に憲法はでています。その前に、ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して終結しています。


問2 下線部1に関連して、第一次世界大戦の結果として定まったヨーロッパの国境を表した地図として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[26]

 ■地図4枚
 ① ② ③ ④ 〇

 ……①第一次世界大戦⑤の地図、②東欧ではチェコスロヴァキアがチェコとスロヴァキアで分離し、バルカン半島西部が細分化していて、ユーゴスラヴィアの分解を表わしているから、20世紀末の地図、③オスマン帝国がバルカン半島に居座っている、イタリアが統一されていない、リトアニア=ポーランド王国の存在(ポーランド分割前)、バルト三国がない、などが見られるので、18世紀前半と推理できます。


問3 下線部②に関連して、当時のアメリカ社会について述べた文a・bと、その様子を表した写真あ・いとの組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[27]

 a アウトバーン(自動車専用道路)建設といった公共事業や軍需工業拡張によって、失業者を減らす政策を行った。
 b 自動車や家電製品の大量生産が可能になり、労働者に普及することで、大量生産・大量消費の時代が到来した。

 ■写真2枚 あ い
 ① a―あ    ② a―い
 ③ b―あ  〇 ④ b―い

 ……文aはヒトラーの政策です。このアウトバーンはオリンピックの聖火リレー用という触れ込みでしたが、侵略ロードになりました。写真「あ」はフォード社「T型フォード」の量産化・低価格化に成功したもの。写真「い」は世界恐慌の結果紙くず化した札束をつみあげて遊んでいる姿です。


B 次の資料は、いずれも第一次世界大戦中の外交に関するものである。

資料4
 1. イギリスは一定の修正を加えて、メッカのシャリーフによって要求されている範囲内すべての地域におけるアラブ人の独立を認め、それを支援する用意がある。
 2. イギリスは外国からのすべての侵略に対して聖地を保全し、その不可侵性を承認する。
 3. 状況が許せば、イギリスはアラブに助言を与え、これらのさまざまな地域におけるもっとも適切と思われる統治形態を設立する援助を行う。
 4. 他方、アラブ側はイギリスだけの助言と指導を仰ぐことを決定し、健全なる統治形態の確立に必要なヨーロッパ人の顧問および官吏はイギリス人であることを承認する。
 5.バグダードおよびバスラの両州に関しては、現地住民の福利の促進と相互の経済的利益を保護するために当該地域を外国の侵略から守るべく、イギリスの地位と利益の観点から特別の行政措置を必要としていることをアラブ側は承認する。(後略)

資料5
 「国王陛下の政府はパレスチナにおいて③ユダヤ人のため民族的郷土(ナショナルホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです。また、パレスチナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティーの市民および信仰者としての諸権利、ならびに他のあらゆる国でユダヤ人が享受している諸権利および政治的地位が侵害されることは決してなされることはないと理解されています。」
 貴下がこの宣言をシオニスト連盟にお知らせいただけましたならば光栄に存じます。
       アーサー=ジェームズ=バルフォア

問4
 (1)資料4と資料5は、相互に矛盾があるため、紛争の原因となったものである。
 資料4または資料5について述べた文として適当なものを、次の①〜⑥のうちから一つ選べ。なお、適当なものは複数あるが、解答は一つでよい。[28]

 ① 資料4は、イギリスとオスマン帝国の間の協定であり、トルコ人の保護を取り決めている。
 ② 資料4は、イギリスとアラブ人勢力の間の協定であり、アラブ人国家の独立を認めている。 〇
 ③ 資料4は、イギリスとフランスが、戦後のオスマン帝国領の処理からロシアを排除しようとしたものである。
 ④ 資料5は、イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言である。
 ⑤ 資料5は、フランス政府がユダヤ人に対して行った宣言である。
 ⑥ 資料5は、イギリス政府がユダヤ人に対して行った宣言である。 〇

 ……資料4はフサイン・マクマホン協定、資料5は署名にバルフォアとあるのでかれの宣言です。①第一次世界大戦においてオスマン帝国は敵であり、ここと協定を結ぶことはありえない。②アラブ人の代表がフサインなので、彼との約束。これをもとにフサインはオスマン帝国に対抗して軍事行動をおこし、ヒジャーズ王国をつくることになります。③これはサイクス=ピコ協定を指していますが、資料の内容ではない。④アメリカとは組んでいない。⑤フランスでなくイギリス。⑥この通り。


(2) (1)で選んだ答えと最も関連が深い事柄について述べた文を、次の①〜⑥のうちから一つ選べ。[29]
 ① イスラーム同盟(サレカット=イスラム)が結成された。
 ② イスラエルが建国された。 〇
 ③ マラヤ連邦が独立した。
 ④ スエズ運河の国有化を宣言した。
 ⑤ イラク王国が独立した。 〇
 ⑥ レザー=ハーンが、パフレヴィー朝を開いた。

 ……上の問題文で、②を選んだら⑤、⑥を選んだら②が正解。①はインドネシア、③イギリスからの独立し、後にマレーシア連邦になります。④ナセルの政策。⑤イラクもアラブ人の国の一つ。大戦後はイギリスの委任統治領とされ、32年に独立が認められました。⑥大戦後のイラン。


問5 下線部3に関連して、ユダヤ教について述べた文として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[30]
 ① 火を尊び、善悪二元論を唱えた。
 ② 『旧約聖書』と『新約聖書』を聖典としている。
 ③ 輪廻転生の考え方に立ち、そこからの解脱を説いた。
 ④ 神によって選ばれた民として救済されるという、選民思想を持つ。 〇

 ……①ゾロアスター教、②キリスト教、③仏教。


第6問 あるクラスの世界史の授業で、近代オリンピックについてまとめた次のグラフに従って班別学習が行われ、各班がオリンピックと世界史とのつながりを発表した。それぞれの班の発表に関連した下の問い(問1〜6)に答えよ。

■表
(国際オリンピック委員会(IOC)ホームページより作成)

問1 小笠原さんの班は、グラフ中のAに注目し、近代オリンピックのモデルとなった、古代ギリシアのオリンピアの祭典について調べた。この祭典の説明として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[31]
 ① アメン=ラー神が崇拝された。
 ② コロッセウムと称される円形闘技場で開催された。
 ③ バラモンが祭儀を司(つかさど)った。
 ④ デルフォイの神託と並んで重視された。 〇

 ……①エジプトの神、②ローマ、③インド。簡単すぎる。


問2 石井さんの班は、グラフ中のBのオリンピックの参加選手が少ない点に注目し、理由を考えた。考えられる理由について述べた文として適当なものを、次の①〜⑥のうちから二つ選べ。[32]
 ① カトリックとプロテスタントの対立から、戦争が起こったため。
 ② ヨーロッパ諸国の選手にとって、大陸間の移動が容易ではなかったため。 〇
 ③ 同じ時期に、第1回万国博覧会が開催されていたため。
 ④ ビキニ環礁で行われた水爆実験に対し、反対運動が広がったため。
 ⑤ 世界恐慌の影響によって、多くの国が経済不況に陥ったため。 〇
 ⑥ 環境問題が深刻化し、二酸化炭素の排出量が規制されたため。

 ……Bは1932年ロサンゼルス大会。⑤の世界恐慌はすぐおもいつく。①は宗教改革の16〜17世紀。②選手団を運ぶものとして旅客機は第二次世界大戦後にならないとダメだし、汽船は19世紀半ばからあるが高価だった。③1851年のロンドンで開催。④ビキニ水爆実験は第二次世界大戦後の1954年。⑥二酸化炭素による温室効果がおもな原因とされる「地球温暖化」問題は1980年代からで、つい最近のこと。


問3 伊藤さんの班は、グラフ中のCの期間にオリンピックが開催されなかった理由について、戦争が起こったためだと結論づけ、その戦争に関連する国際情勢を説明するために、資料を用意した。その資料として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[33]
■4枚の絵
 ①「バルカン問題」
 ②「できることなら、私は惑星をも併合したい」
 ③「朝鮮という魚を狙う三国」
 ④「ハネムーンはいつまで続くのか?」 〇

 ……1936年から1948年までが空白になっているC期間は第二次世界大戦。①バルカン問題とあるから第一次世界大戦。②セシル=ローズの絵なのでボーア戦争。③日清戦争と三国干渉。④ヒトラーとスターリンの独ソ不可侵条約を皮肉る戯画。


問4 鹿島さんの班は、グラフ中のDのオリンピックを調べるうちに、アフリカ系アメリカ人の選手が人種差別に抗議する姿勢をとった表彰式の写真を見つけた。アメリカ合衆国における人種問題について述べた次の文aとbの正誤の組合せとして正しいものを、下の①〜④のうちから一つ選べ。[34]
 a リンカン大統領による奴隷解放宣言の結果、南北戦争が勃発した。
 b キング牧師が、黒人差別撤廃を求める公民権運動を指導した。

 ① a─正  b─正
 ② a─正  b─誤
 ③ a─誤  b─正 〇
 ④ a─誤  b─誤

 ……文aの「奴隷解放宣」はいつかという問題はセンター試験の過去問でも何度も問われた問題です(96追、02追、05追、00、08)。戦争の途中で発表しています(『ワン』の語呂「南北戦争、銃1悪86い1」、「奴隷解放、自由1や8る6さ3)。勃発の原因ではありません。


問5 高山さんの班は、グラフ中のEのオリンピックの参加選手数が減少したのは、冷戦期のアフガニスタン侵攻が原因だと知った。冷戦について述べた文として適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[35]

 ① イギリスのチャーチルは、東西陣営の境界を「鉄のカーテン」と呼んだ。 〇
 ② ソ連は、アメリカ合衆国の拡大を阻止するため、「封じ込め政策」を採った。
 ③ チェコスロヴァキアの「プラハの春」による自由化は、ソ連に支持された。
 ④ フルシチョフがスターリン批判を行ったことで、東西関係が緊張した。

 ……①名高い演説です(『ワン』語呂「カーテンに一1句9読4む6」)。②米ソのが逆です。③支持がまちがいで弾圧しました。ワルシャワ条約機構の5か国軍が侵入して春を冬に変えました。④緊張でなく「雪解け」に向かいます。


問6 中田さんの班は、グラフ中のFのオリンピックの開会式で、ブラジルの先住民が登場する場面を見て、世界史上の先住民の歴史について興味を持ち、カードにまとめた。その記述として誤っているものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[36]

 ① アメリカ合衆国では、西部開拓にともなって、先住民が、ミシシッピ川以西へと強制移住させられた。
 ② スペインに征服される以前のインカ帝国の先住民は、縄の結び方で情報の記録や伝達を行っていた。
 ③ ニュージーランドは19世紀に植民地化され、先住民のマオリが、イギリスの支配下におかれた。
 ④ フランス革命後のラテンアメリカでは、先住民の子孫であるメスティーソが、独立運動を主導した。 〇

 ……①ジャクソン大統領のインディアン強制移住法(1830)、②キープ。インカ文明は都クスコ、ペルー中心、征服者がピサロと3字。③オーストラリアはアボリジニー(アア)、ニュージーランドはマオリ。「マオリ」はセンター試験の過去問で4回問われています(95追、01、03、09)。④主導したのはクリオーリョ(植民地生まれの白人)。

 まとめ
 (1) 従来は20分くらいで全問が解けたものが、史資料や対話が導入文にたくさん出題されるため、時間がかかることを覚悟しなくてはならない。1問が何ページにもまたがっていることも相まって何度も紙をめくらなくてはならない。
 この試案は、
地図 8
絵(イラスト)12
写真 4
グラフ 2
表 6
会話(討論) 2
史料 8
全体字数(グラフの中の文字は省く、空欄[    ]や解答番号も含む) 14416字

 センター試験(2018年)の場合は、
地図 1
絵(イラスト)1
写真 4
グラフ 1
表 0
会話(討論) 0
史料 0
全体字数 9742字。つまり4674字少ない。グラフ・表の中の字数も数えると、もっと差が出る。
 (2) しかし、いざ問題そのものになると意外と簡単で、旧センター試験の問い方と変わらず、時間差問題が多用されるので、年代を覚えた方が有利である点は変わらない。
 (3) 史資料が問われるからとて、史資料の問題集を買う必要性はない。史資料の決め手も年代だからです。史資料の中に書いてある年代に注目するといい。
 (4) ただ史資料・地図・写真が多用されるので、教科書や副教材の図説の地図・写真・絵はよく見ておくことが必要です。史資料をもとにした適切な問題集があればいいが、今のところ見当たりません。
 (5) センター試験の過去問を解くことも必要です。類題が出題されているからです。
 (6) 文科省の意図を逆撫でするようなことばかり書いてきました。この世界史問題の「ねらい」を読むと、どの問いにも「思考力・判断力・表現力」というのがあり、とくに「表現力」はマークシートの解答法なのに、どうしてこれが試されるのか意味不明です。
 討論・議論を促したいとの意図は問題文からも推測できますが、問題文としての議論形式は途中に自分の意見を挟むこのできない終わった議論であり、意図は空振りになります。

2018夏・模試、その添削

A模試
第1問
 14世紀には、ユーラシア大陸の広範な地域で寒冷化に向かう気候変動が生じ、農業生産の減少などによって飢饉や疫病が生じた。このことは、ユーラシア各地において政治・社会秩序を動揺させる要因の一つとなった。このことは、ユーラシア各地において政治・社会秩序を動揺させる要因の一つとなった。ユーラシア大陸の広範な地域を統合していたモンゴル帝国(大モンゴル国)は解体へと至り、その領域内では、数々の混乱を経て秩序の回復・再形成が図られた。モンゴル帝国解体後の秩序を再建しようとする動きは、地域ごとに様々であった。特にモンゴル帝国領域内の東部と西部でそれぞれ勃興した主要な勢力は、モンゴル時代の権威に対照的ともいえるそれぞれの姿勢をとりつつ政治秩序を整えていった。また、モンゴル帝国の支配が及ばなかった東西の諸地域においても、従来の権威が動揺するなかで、新たな政治権力が台頭する現象が見られた。以上のことを踏まえて、14世紀後半から15世紀初頭にかけてのユーラシア各地の動向を、政治秩序の再編に重点を置いて論じなさい。(600字以内)

(指定語句) 勘合貿易・サマルカンド・南北朝・紅巾の乱・七選帝侯・李成桂・コンスタンツ公会議・大ハーンの権威

解答例(下線なし、以下の解答例もすべて同じ)
モンゴル帝国の西部では、トルコ化したモンゴル系の武将ティムールが西チャガタイ=ハン国から自立した。チンギス=ハン家と婚姻し、大ハーンの権威を利用してモンゴル帝国の再興を企図し、イル=ハン国の旧領を併合して、オスマン帝国を一時的に崩壊させるなど、都のサマルカンドを拠点に中央アジアから西アジアの統合を図った。東部では、元が紅巾の乱で混乱し、明を建てた洪武帝によってモンゴル高原に後退させられた。明は儒教的な華夷秩序の再建を意図した。洪武帝は中書省を廃止して君主独裁体制を完成し、民間貿易を禁じる海禁政策をとり、永楽帝はモンゴル高原に親征し、鄭和に南海遠征を行わせ、朝貢体制を確立した。朝鮮半島では李成桂が高麗に代わり朝鮮を建て、朱子学を官学化し、明の冊封を受けた。日本は鎌倉幕府崩壊後の混乱に天皇位をめぐる対立が絡み、南北朝の動乱下にあった。義満は南北朝を合一し、室町幕府の支配を確立すると、明の冊封を受け勘合貿易を行った。西ヨーロッパでは、ローマとアヴィニョンに教皇が分立し、コンスタンツ公会議で教皇庁は統合されたが、教皇の権威は低下した。神聖ローマ皇帝位をめぐる対立は、七選帝侯による選出を定めた金印勅書で収拾したが、領邦主権が強まり神聖ローマ帝国は分権化した。こうして教皇権・皇帝権が衰え、百年戦争下における黒死病の流行や火砲の普及で封建勢力が没落し、フランスなど各国の王権が伸長した。

添削
 課題は「(モンゴル帝国解体後の秩序を再建しよう……支配が及ばなかった東西の諸地域においても)14世紀後半から15世紀初頭にかけてのユーラシア各地の動向を、政治秩序の再編に重点を置いて」でした。

 解答例を分解して検討します。

1 モンゴル帝国の西部では、トルコ化したモンゴル系の武将ティムールが西チャガタイ=ハン国から自立した。チンギス=ハン家と婚姻し、大ハーンの権威を利用してモンゴル帝国の再興を企図し、イル=ハン国の旧領を併合して、オスマン帝国を一時的に崩壊させるなど、都のサマルカンドを拠点に中央アジアから西アジアの統合を図った。……帝国崩壊後の再編ということなので、これでできてます。受験生としては指定語句の「大ハーンの権威」は利用しにくい誤句だったとおもわれます。「国の再興を企図」したのは事実ですが、とくに中国の征服については途中で死んでしまうので果たせない夢でした。

2 東部では、元が紅巾の乱で混乱し、明を建てた洪武帝によってモンゴル高原に後退させられた。明は儒教的な華夷秩序の再建を意図した。……ほぼ出来ていますが、「元が紅巾の乱で混乱」は変な表現です。乱の以前から、すでに南北に元朝宮廷が対立していました。

3 洪武帝は中書省を廃止して君主独裁体制を完成し、民間貿易を禁じる海禁政策をとり、永楽帝はモンゴル高原に親征し、鄭和に南海遠征を行わせ、朝貢体制を確立した。……「政治秩序の再編」という課題なので、まあまあできていますが、「中書省を廃止して君主独裁体制を完成」はなぜ必要なのか分かりません。元朝も君主独裁体制でした。蒙古帝国崩壊の後をどう再編したのかという課題なので、異民族王朝的なものを払しょくするために中華思想をもつ朱子学の採用や科挙による漢人支配の徹底をあげるべきでした。
 洪武帝とちがって、永楽帝はたんに漢人王朝の復活だけでなく中国側から帝国の復興を試みた点で親征・遠征があります。

3 朝鮮半島では李成桂が高麗に代わり朝鮮を建て、朱子学を官学化し、明の冊封を受けた。……朱子学はいいのですが、「明の冊封」は元朝ともその関係にあったので、どうちがうのか分かりません。仏教を国教としていた高麗に対して朱子学を国教とし廃仏を実行した点や、両班でも文班支配を徹底した点でも高麗とちがう国造りをしたことを書いた方が題意に合うとおもいます。

4 日本は鎌倉幕府崩壊後の混乱に天皇位をめぐる対立が絡み、南北朝の動乱下にあった。義満は南北朝を合一し、室町幕府の支配を確立すると、明の冊封を受け勘合貿易を行った。……日本史もとっていたらこれくらい書けますが、指定語句の勘合貿易と明朝とのつながりを書くのが世界史だけ学んできた受験生の書き方とおもわれます。

5 西ヨーロッパでは、ローマとアヴィニョンに教皇が分立し、コンスタンツ公会議で教皇庁は統合されたが、教皇の権威は低下した。……この後は侵略を受けていない西欧が「西ヨーロッパでは」から多すぎる解答文です。またコンスタンツ公会議は1414年から開かれますが、「15世紀初頭」といった場合は1410年くらいまでを指すのが常識です。指定語句じたいが条件に合っていません。

6 神聖ローマ皇帝位をめぐる対立は、七選帝侯による選出を定めた金印勅書で収拾したが、領邦主権が強まり神聖ローマ帝国は分権化した。こうして教皇権・皇帝権が衰え、……ここは文句なしです。

7 百年戦争下における黒死病の流行や火砲の普及で封建勢力が没落し、フランスなど各国の王権が伸長した。……「フランスなど各国の王権が伸長」は早すぎます。時間が「15世紀初頭」なら英国が戦争で優勢な戦いをしていて、当時のフランス王は英国王が兼ねていました。シャルル7世(在位1422〜61)がオルレアンに孤立して敗北寸前に、ジャンヌ=ダルクによって解放されたのは1429年からでした。「王権が伸長」はまだです。

 この問題と「模範」答案の一番変なところは、モンゴル帝国の侵略を受けたロシア・東南アジア・東欧などの再編について何も書いてないことです。たとえばロシアについて教科書(詳説)では「キプチャク=ハン国では、14世紀なかばころから内紛によって政権の統合がゆるみ、やがてモスクワ大公国がしだいに勢力をのばした」と書いていますが、そうした記事はありません。

わたしの解答例──下線なし)
中国では紅巾の乱を契機に朱元璋が明朝をたて、北元を追放し、漢民族復興をかかげた。朱子学を国学とし、科挙を全面復活した。元朝とちがい海禁を徹底し、朝貢貿易のみを許可した。永楽帝は帝国の復活を試み、漠北親征・大越遠征・鄭和派遣・勘合貿易などの対外政策を進めた。親元派を破った親明派の李成桂が朝鮮を建国、朱子学を国学とし仏教国家からの転換を図った。日本では室町幕府が南北朝内乱を収め統一を実現した。東南アジアでは蒙古来襲を退けたマジャパヒト王国・陳朝が栄え、マラッカ王国が成立した。陳朝後の大越は永楽帝の侵略も退けた。西アジアでは、西チャガタイ=ハン国出身のティムールが、サマルカンドを都に1370年ティムール朝をひらき大ハーンの権威を利用して、イル=ハン国領もあわせた。彼も帝国の再現を試みたが叶わなかった。「タタールのくびき」に置かれたロシアでは、徴税を請け負ったモスクワ大公国が次第に台頭する。また東欧は襲来からの回復を図り、カレル1世(カール4世)はボヘミアの復興につとめプラハ大学を創設、リトアニアのヤゲウォ朝はポーランド王国と合体して、タンネンベルクの戦いに勝ちドイツ騎士団を服属させた。西欧では、金印勅書で七選帝侯の特権と自立を容認したため皇帝の権威は失墜した。コンスタンツ公会議でシスマを解消し、教皇を批判するウィクリフやフスを異端としたが、公会議主義を定めて教皇も公会議の下に位置づけた。
………………………………………
B模試
第1問
 ヨーロッパとアジアの接点、「文明の十字路」に位置しながら、多くの国々の興亡をよそに、ビザンティン帝国は一千年以上にわたって生き延びた。……(中略)……彼ら(引用者注:帝国の支配者)は表面上帝国の伝統・建前を尊重した。ビザンティン帝国が一千年変わることなく続いたように見えるのはそのためである。しかしすでにみたように、彼らはどこまでは建前通りにやってゆけるのか、どこからさきは現実と妥協すべきか、建前は残したままで改革を実行するのにはどうすればよいのかと、そのたびごとに決断を下してきた。危機に対応し、生まれ変わってゆくこと、いいかえれば革新こそが帝国存続の真の条件だったのである。(井上浩一「生き残った帝国ビザンティン」より)

 ビザンツ(ビザンティン)帝国は、その一千年に及ぶ歴史の中でさまざまな勢力の侵入を受けており、時として国家的危機に瀕することもあった。しかし、それらの侵入に対応しながら、ビザンツ帝国は国家を変革しつつ生き延び、政治・経済・文化において大きな歴史的役割を果たした。以上の点を踏まえて、ビザンツ帝国の成立から滅亡にいたるまでに侵入した諸勢力と、ビザンツ帝国がそれらにどう対応したのかに留意して、ビザンツ帝国が政治・経済・文化において世界史上に果たした役割について概観しなさい。(600字以内)

(指定語句) イスラーム・ギリシア語・十字軍・スラヴ人・聖像禁止令・ノミスマ・ユスティニアヌス・ルネサンス

解答例
西ローマ滅亡後、唯一のローマ皇帝後継者となったビザンツ皇帝は、ゲルマン諸王から権威を認められた。6世紀、地中海世界を再統一したユスティニアヌス帝は「ローマ法大全」でローマ法を集大成させ、また中国から養蚕業を導入した。首都コンスタンティノープルは地中海商業の中心として栄え、金貨ノミスマが流通した。帝の死後、ランゴバルド人のイタリア侵入、スラヴ人やブルガール人のバルカン半島侵入、ササン朝との抗争で動揺した帝国は、イスラーム勢力にシリア・エジプトを奪われた。この間に帝国は公用語をラテン語からギリシア語にする一方、テマ制と屯田兵制で防衛に努めた。また皇帝は教会を管轄下に置いたが、8世紀にレオン3世がイスラームに対抗して聖像禁止令を発したことにローマ教皇が反発し、カール戴冠による西欧の自立の要因となった。その後ギリシア化が進んだ帝国がブルガール人やロシア人にキリスト教を布教したことで東欧文化圏が成立し、東西教会の分裂が進んだ。11世紀にノルマン人に南イタリアを奪われ、セルジューク朝の侵入を受けた帝国は教皇に十字軍の派遣を要請したが、ヴェネツィア主導の第4回十字軍の首都占領後、衰退した。この間にプロノイア制の導入やセルビア人などの自立で皇帝権が弱体化し、北イタリア諸都市が地中海商業の中心となった。15世紀に帝国はオスマン朝に滅ぼされたが、イタリアに逃れたビザンツの学者はルネサンスの興隆に寄与した。

添削
 課題は「ビザンツ帝国の成立から滅亡にいたるまでに侵入した諸勢力と、ビザンツ帝国がそれらにどう対応したのかに留意して、ビザンツ帝国が政治・経済・文化において世界史上に果たした役割」でした。

1 西ローマ滅亡後、唯一のローマ皇帝後継者となったビザンツ皇帝は、ゲルマン諸王から権威を認められた。……課題文の「ビザンツ帝国の成立」は用語集では、ローマが東西分裂した395年にしていて、ビザンツ帝国史の専門家はたいてい330年を起年にしています。この解答では西ローマ滅亡(476)からにしています。時間差が大きい。「侵入した諸勢力……どう対応」という課題からいえば、ゲルマン人(西ゴート)の侵入、フン族の侵入にどう対応したかを書かなくてはならないはずです。「皇帝は、ゲルマン諸王から権威を認められた」は帝国側の対応ではありませんね。「侵入→対応」という文章の構成を指示しておきながら、「留意して」と東大がよく使う語句の意味がわからなかったのか。
 「留意」はたんに心に留める、という内面で済むものでなく、問題として出してきている場合は、「必ず書け」という意味になり、かつ解答文全体の構成のあり方を指示しているものでもあります。参考にしたと書いている1999年の「前3世紀〜15世紀末のイベリア半島の歴史」は「古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した。とりわけヨーロッパやアフリカの諸勢力」と外との関係を書くのが課題であり、もう一つ参考にしたという2001年の「エジプト5000年の歴史」は、「1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景、2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動の両方の側面を」と外からと内からの両方の行動を書け、と要求しているのに、この模試ではビザンツ帝国側は「対応」だけになっています。帝国側からの自発的な行動は書かなくていいのか?
 西ゴートとはアドリアノープルの戦い(378)がありながら、押寄せる東ゴートととの戦いをさせるべくローマ同盟軍として、一面では難民として受け入れています。しかしこれは帝国領内に西ゴート人をより侵入させるきっかけとなりました。かれらはイタリア半島に向かい410年にローマ市を陥落させます。

2 6世紀、地中海世界を再統一したユスティニアヌス帝は「ローマ法大全」でローマ法を集大成させ、また中国から養蚕業を導入した。首都コンスタンティノープルは地中海商業の中心として栄え、金貨ノミスマが流通した。……これは帝国史そのもので何かへの対応ではないです。むしろ帝国側が侵入者です。これをなんとか「侵入→対応」にもっていくとすれば、ユスティニアヌス帝の遠征が、ゲルマン人諸国、かつての帝国の侵入者・ゲルマン人の東ゴート・ヴァンダルからの奪還の意味をもっていたし、またかれらが信仰する異端アリウス派を追放して正統派に統一する意味をもっていました。「中国から養蚕業を導入」は突厥の使者がもたらしたものと考えられています。それは突厥とササン朝ペルシア帝国がエフタルを挟撃した後で、突厥とササン朝との交流がうまくいかないため、突厥がササン朝を飛ばして東ローマ帝国にまで足をのばしたためでした。
 こうした解答例からは「侵入→対応」より「世界史上に果たした役割」を書くことに重点を置いています。前者はあまり重視「留意し」なくていいようです(?)。
 「役割」は2010年の「オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割」にも出題された問い方ですが、ここには「侵入→対応」という問いは含まれていません。二つの問い方をミックスしたら、どちらか一方が疎かになる、あるいは偏る問題になってしまいます。

3 帝の死後、ランゴバルド人のイタリア侵入、スラヴ人やブルガール人のバルカン半島侵入、ササン朝との抗争で動揺した帝国は、イスラーム勢力にシリア・エジプトを奪われた。……やっとここで「侵入→対応」の片方が出てきました。

4 この間に帝国は公用語をラテン語からギリシア語にする一方、テマ制と屯田兵制で防衛に努めた。……これが対応です。

5 また皇帝は教会を管轄下に置いたが、8世紀にレオン3世がイスラームに対抗して聖像禁止令を発したことにローマ教皇が反発し、カール戴冠による西欧の自立の要因となった。……これは侵入者はイスラームですね。対応が禁止令、ということになります。「ローマ教皇が反発……自立」も帝国側の対応ではありません。アラブ人の侵入はつづいており、テマ制を強化する意味を禁止令はもっていました。その言及はありません。
 むしろ教科書に書いてないのですが、カールも侵入者です。カールはイタリア東北部の東に位置するスロヴェニアに侵入しており(788)、ビザンツ領であったヴェネツィアも奪い、ビザンツ領であったイタリア半島南部も狙っていました。帝国側がカールの戴冠を一時的なものとしてしか認めなかったのは当然のことでした。

6 その後ギリシア化が進んだ帝国がブルガール人やロシア人にキリスト教を布教したことで東欧文化圏が成立し、東西教会の分裂が進んだ。……「その後ギリシア化が進んだ」は意味不明です。ギリシア化というのは、330年に都を建設したときから始まっており、ローマ法大全もラテン語とギリシア語の2種類つくっている点でも表れており、そしてヘラクレイオス帝のギリシア語公用語化(620)で決定的でした。なぜカール(800)の後にこのことが出てくるのか分からない。
 「ブルガール人やロシア人にキリスト教を布教した」は何に対応したと言いたいのか不明。これは帝国側の政策ですね。スラヴ人諸国の自立に対抗した、とすれば対応らしくなります。自立した国としてブルガリア帝国(第一次)があり、これをバシレイオス2世が征服しています(ブルガリア人殺し)。
 「東欧文化圏が成立し、東西教会の分裂が進んだ」は役割ですかね。役割らしく、東欧を文明化した、と書けばいいのに。政治システム・政教一致の宗教・イコン・モザイク・キリル文字を伝えたのはビザンツでした。「東欧文化圏が成立」では中身がなく空しい。

7 11世紀にノルマン人に南イタリアを奪われ、セルジューク朝の侵入を受けた帝国は教皇に十字軍の派遣を要請したが、ヴェネツィア主導の第4回十字軍の首都占領後、衰退した。……「侵入→対応」はできていますが、衰退は対応ではないですね。客観的事実であり、対応ではありません。対応としてなら、ノルマン人侵入はエーゲ海にも及んでいましたから、その追撃をヴェネツィアに頼んでおり、結果的にヴェネツィアが帝国から自立する理由となりました(1082)。

8 この間にプロノイア制の導入やセルビア人などの自立で皇帝権が弱体化し、北イタリア諸都市が地中海商業の中心となった。15世紀に帝国はオスマン朝に滅ぼされたが、イタリアに逃れたビザンツの学者はルネサンスの興隆に寄与した。……「プロノイア制の導入」は何に対応したものなのか不明です。スラヴ人に土地を奪われ、自作農が土地(国有地)の売り出しをたためテマ制が崩壊した、としっかり書くべきでした。
 文2「地中海商業の中心として栄え」と6世紀のすがたがあり、この文8で「北イタリア諸都市が地中海商業の中心となった」と中世末のすがたがあります。経済における「ビザンツ帝国の世界史上の役割」はこの間はどうだったのか、中世全体の役割が見えてきません。4世紀以降から15世紀までヨーロッパの中で経済の中心であった点をもっと強調すべきでした。金貨は「中世のドル」といわれたように、カール大帝の墓の中から出てくる品物もビザンツの商品ばかりでした。11世紀からの「商業ルネサンス」はビザンツ帝国と関係する商業復活のことであり、東地中海の、つまりはアジアから入ってくる商品の取引に西欧も加わったのであり、ビザンツ帝国の「おこぼれ」をいただいた、といっていいものでした。中世都市はまさにビザンツ帝国の商業とむすびついて発展したすがたでした。こうして点が欠けています。経済的な役割はどこに書いてあるのか?
 またビザンツ帝国の世界史上の「政治」的役割はどこに書いてあるのか分かりません。文化的な役割は東欧文化圏の成立とルネサンスにつながった点なのでしょう。しょぼい内容です。

 ①侵入→対応、②世界史上の役割、という2つの問い方があり、当然それは書き方、構成に反映すべきものですが、どちらが重点になるべきか分からず、「模範」答案も、どちらも不十分な内容になっています。東大は過去にこうした問題文、とくに第1問の中に二重の問いを入れたものを出題したことがありません。「役割」だけにすれば、もっと帝国の世界史上の役割が書ける問題でした。問題として未熟というほかありません。

「侵入→対応」で帝国の1000年史を書くことは無理なので、「役割」だけの問題として書いてみます。ただし指定語句は無視して。
わたしの解答例
政治的な役割。古代ローマ帝国を継承し1000年つづいたため、ナポレオンが教皇を招いて戴冠したように、欧州の支配者はローマ皇帝であるべきだ、という考え「ローマ理念」を欧州に植え付けた。カール1世、オットー1世たち、そしてハプスブルク家の神聖ローマ皇帝、ロシア・ツァーたちが皇帝を名乗った。ゲルマン人諸王たちはあくまでこの東ローマ帝国皇帝の総督として帝国住民に君臨することができた。オットー1世の帝国教会政策はビザンツの皇帝教皇主義を実現しようとする試みであったが、教皇に阻まれて継続できなかった。アラブ人に対してテマ制とプロノイア制によって欧州の東の防波堤となった。経済的な役割。東ローマ帝国領は地中海世界の穀倉たるエジプトをもち、7世紀にアラブ人に奪われるまで繁栄をつづけた。またその金貨ソリッドスは「中世のドル」といわれ高い純度を保ち信用された。ヴェネツィア・ジェノヴァの繁栄はビザンツ帝国の貿易圏に食い込むことで、商業ルネサンスを起こし、中世都市の成立も、帝国の余剰によってもたらされた。絹織物の欧州唯一の生産地としてコンスタンティノープル市が羨望された。文化的な役割。「ローマ法大全」は欧州の法の起源として研究され、その東方正教会もスラヴ人の信仰となり、キリル文字も帝国の布教師が作成し普及させた。東欧の文明化という役割はイコン・モザイク・古典とともに伝わり、現在までスラヴ人を支配している。
………………………………………
C模試

第1問
 地中海世界は、その地理的条件からさまざまな勢力が交錯する場であった。とりわけ、イスラーム教が成立して以降、次第に勢力を拡大したイスラーム諸国家は、地中海世界の西と東の両地域からキリスト教世界へ侵入を繰り返した。この結果、キリスト教世界に多様な変化をもたらすとともに、15世紀には地中海世界の東西両地域において、イスラーム勢力とキリスト教勢力の関係性は対照的ともいえる状況となった。以上のことを踏まえ、8世紀から15世紀にかけて、地中海世界の東西両地域で見られた政治的・社会的変化について論じなさい。(600字以内)

(指定語句)王権の伸張・オスマン帝国・カーリミー商人・カール=マルテル・後ウマイヤ朝・聖像禁止令・セルジューク朝・レコンキスタ

解答例
8世紀にウマイヤ朝がイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼしたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国のカール=マルテルに敗れた。これを契機にカロリング家と教皇が接近したことが、カロリング朝の成立やカールの戴冠を促した。また、東地中海ではウマイヤ朝によるビザンツ帝国への圧迫がレオン3世による聖像禁止令の発布をもたらし、これは東西両教会分裂の背景となった。その後、11世紀に成立したセルジューク朝が領土を広げ、アナトリアに進出してビザンツ帝国を圧迫すると、ビザンツ皇帝がローマ教皇に援軍を要請し、十字軍が始まった。数度の十字軍運動を通じて交易活動が活発化し、エジプトを拠点とするカーリミー商人とヴェネツィアなどによる東方貿易も盛んになったことは、貨幣経済の普及や商業の復活を促すとともに、封建社会が動揺する契機ともなった。さらに、十字軍が失敗に終わったことは、教皇権の衰退や王権の伸張をもたらした。これ以降もイスラーム勢力による圧迫は続き、15世紀半ばにはオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして、勢力を拡大した。一方、イベリア半島ではイスラーム勢力に対するレコンキスタが8世紀以降展開され、11世紀に後ウマイヤ朝が滅んでイスラームの小国家を群立したことは、キリスト教国の勢力伸長を促した。レコンキスタは15世紀末にスペインがナスル朝を滅ぼして完了し、この結果、イスラーム勢力はイベリア半島から駆逐された。

添削
 課題は「(勢力を拡大したイスラーム諸国家は……侵入……この結果、キリスト教世界に多様な変化をもたらす……イスラーム勢力とキリスト教勢力の関係性は対照的ともいえる状況)8世紀から15世紀にかけて、地中海世界の東西両地域で見られた政治的・社会的変化について」でした。この問題は1986年の第1問「キリスト教文化圏としてのヨーロッパは、中世初期から現代にいたるまで、イスラム世界と境を接し、政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた。この観点から、19世紀の前半にいたる両者の交渉や勢力関係の歴史を」との類題です。時間が15世紀で切っている点がちがっています。
 過去問は影響をこうむってきたヨーロッパ側の方に重点のある問題ですが、この模試の課題はハッキリしません。「変化」とは①関係の変化、つまり東西の勢力のどちらが時期によって勢力(侵入)に強弱があったのか、という変化なのか、②欧州側だけの変化なのか、③侵入者であるイスラーム世界側の変化も書くのか、この3点のどれが問われているのかが分かりません。邪道ですが、「模範」答案から類推すると、②と思われます。③を書いた文章はありません。何故かかは分かりません。焦点のハッキリしない問題です。
 他の懸念は「社会的変化」にどれだけのことを含んでいるか、です。解答例で「社会」らしい部分は経済について書いた文4のところでしか見ることができません。これでいいのか? ほとんどが政治史に終始しています。

1 8世紀にウマイヤ朝がイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼしたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国のカール=マルテルに敗れた。これを契機にカロリング家と教皇が接近したことが、カロリング朝の成立やカールの戴冠を促した。……まちがいはありませんが、政治史に集中した内容です。「社会的変化」も書くとすれば、地中海世界南部からのアラブ人の侵入はヨーロッパ世界を包囲することになり、ヨーロッパは孤立した受動的な封建社会を形成する要因となったため、貨幣経済が衰退し自然経済の閉じた社会となります。

2 また、東地中海ではウマイヤ朝によるビザンツ帝国への圧迫がレオン3世による聖像禁止令の発布をもたらし、これは東西両教会分裂の背景となった。……圧迫だけではなく帝国の領土を大幅に奪い、ギリシア語だけ通じる孤立した帝国に変え(帝国のギリシア化)、テマ制・屯田兵制で持ちこたえていきます。イコンが定着し、古典墨守の発展性のない文化空間に閉じ込めました。こうした社会的変化は書いてありません。
 またイスラーム世界側では8世紀のアッバース朝の時期に征服活動は限界に達していて、実に広い世界の支配することになり、カリフは宗教的な権威もおびて聖俗両権の最高位になります(カリフ神授説)。その代わり、多くの多民族信徒をかかえこむことになり、かれら(イラン人・トルコ人)の自立性を養うことになりました。

3 その後、11世紀に成立したセルジューク朝が領土を広げ、アナトリアに進出してビザンツ帝国を圧迫すると、ビザンツ皇帝がローマ教皇に援軍を要請し、十字軍が始まった。……これは東西の関係を書いています。
 しかしトルコ人が自立し、カリフから政治的権力を奪いスルタン位をもらった点、またカリフが3人も鼎立したことも書いてありません。イクター制の普及もあげてありません。地中海世界といってもキリスト教徒だけ住んでいるのではないにもかかわらず、イスラーム側を無視しています。

4 数度の十字軍運動を通じて交易活動が活発化し、エジプトを拠点とするカーリミー商人とヴェネツィアなどによる東方貿易も盛んになったことは、貨幣経済の普及や商業の復活を促すとともに、封建社会が動揺する契機ともなった。……ここは社会的変化になっています。「貨幣経済……封建社会が動揺」と西欧側の変化だけですが。西欧の社会的変化としては他に、中世都市の成立、「12世紀ルネサンス」、大学の設立、スコラ学の完成などがあります。「社会」とは政治以外のことです。

5 さらに、十字軍が失敗に終わったことは、教皇権の衰退や王権の伸張をもたらした。……これは西欧だけの政治的変化・流れです。

6 これ以降もイスラーム勢力による圧迫は続き、15世紀半ばにはオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして、勢力を拡大した。……これはイスラーム側の攻勢が勝っていることを指摘しています。こういう政治史の流れを「変化」というのか? 「イスラーム世界におけるトルコ人の台頭」という社会的変化を示していると指摘すればいいのですが、そうはなっていません。

7 一方、イベリア半島ではイスラーム勢力に対するレコンキスタが8世紀以降展開され、11世紀に後ウマイヤ朝が滅んでイスラームの小国家を群立したことは、キリスト教国の勢力伸長を促した。レコンキスタは15世紀末にスペインがナスル朝を滅ぼして完了し、この結果、イスラーム勢力はイベリア半島から駆逐された。……「対照的」という、バルカン半島とはちがいイスラーム側が負ける状況を説明しています。これも流れですが、これも政治的変化というのか? たんなる流れ・経緯にすぎない。

 問題の焦点がハッキリしないのですが、わたしは「8世紀から15世紀にかけて、地中海世界の東西両地域で見られた政治的・社会的変化について論じなさい」を素直にとり「両地域」の変化を書いてみます。
わたしの解答例
8世紀アッバース朝は西アジア・地中海南部の広大な領域を征服し、カリフは聖俗両権の地位をもった。イラン人・トルコ人信徒も含む多民族帝国は、アラブ民族主義から平等主義の帝国に変った。侵略されたビザンツ帝国はテマ制で対応し、公用語のギリシア語化をすすめ、レオン3世は聖像崇拝禁止令でテマ制を強化した。西欧はカロリング家のカール=マルテルが侵入を食い止めると共に封建制度を始めた。イスラーム側から包囲された西欧は自然経済の社会に閉じ込められる。一方、イスラーム帝国の諸民族は自立してカリフに従わなくなり、10世紀のブワイフ朝は大アミール称号を、11世紀セルジューク朝はスルタン位を認められた。3カリフの鼎立と混乱は、西欧からの十字軍を招くことになり、この軍事行動を船舶で支援したヴェネツィア商人とカーリミー商人を軸とする商業ルネサンスがおきた。この遠隔地商業の発展は西欧に中世都市を出現させ、西欧の学者はイスラーム文明にも目を向けたため大学・「12世紀ルネサンス」を発生させた。バルカン半島にはオスマン帝国が襲い、ビザンツ帝国は滅亡し、半島はイスラーム世界の下、ティマール制とデウシルメ制を敷いた。イベリア半島は後ウマイヤ朝が滅亡するとレコンキスタが本格化し、ナスル朝の陥落は大航海時代を招来した。イスラーム世界から病原菌が浸透した西欧では農奴解放がすすみ、身分制議会の設立とともに王権の伸張が見られた。


D模試

イタリア半島の南方に浮かぶシチリア島は、地中海で最大の面積を誇る島である。ここは1861年にイタリア王国の一部となったが、歴史的には地中海のほぼ中央という重要な場所に位置しているため、古くよりさまざまな勢力の侵入と支配を受けてきた。一方、地中海世界の文化の交差点ともなり、多くの人や物が行き交った。以上のことを踏まえて、前8世紀頃から13世紀にかけてシチリア半島の歴史がどのように展開したのか、その経過について、540字以内。

(指定語句→植民市・属州・ユスティニアヌス・ルッジェーロ2世・フリードリヒ2世・ナポリ王国・イスラーム・東ゴート人)

解答例
前8世紀頃。フェニキア人がパレルモを、ギリシア人がシラクサを植民市とし、商業活動を通してアルファベットや地中海世界の産物がもたらされた。その後、カルタゴに侵入され、前3世紀の第1回ポエニ戦争でローマ初の属州となる。ローマ市民に穀物を供給し、ローマからは道路・橋を備えた都市文化がもたらされ、キリスト教布教でラテン語も浸透する。4世紀にローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となり、5世紀にはヴァンダル人や東ゴート人が侵入。6世紀中頃にユスティニアヌスの治世にビザンツ帝国の支配下に置かれ、ビザンツ文化やギリシア正教が流入し、8世紀以降のイスラーム勢力侵入で灌漑農業などのイスラーム文化がもたらされた。その後、ノルマン人がイスラーム勢力を駆逐すると、12世紀前半にはルッジェーロ2世により両シチリア王国が建国され、ギリシア人やアラブ人も官僚として用いる集権的体制が形成。ノルマン・ギリシア・ビザンツ・イスラーム文化が並存する都市文化が開花し、都パレルモではギリシア語の文献がラテン語に翻訳されて12世紀ルネサンスを迎え、中世都市・大学の設立やスコラ学の完成を見た。その後、神聖ローマ帝国を兼任したフリーリード2世の統治下で繁栄したが、13世紀後半にシチリア王国とナポリ王国に分裂した。(540字)

▲添削
1 前8世紀頃。フェニキア人がパレルモを、ギリシア人がシラクサを植民市とし、商業活動を通してアルファベットや地中海世界の産物がもたらされた。……パレルモとシラクサという二つの都市名をあげて書いていますが、本来はこれらの都市以外に島の西部はフェニキア人が、東部はギリシア人が制圧しました。

2 その後、カルタゴに侵入され、前3世紀の第1回ポエニ戦争でローマ初の属州となる。ローマ市民に穀物を供給し、ローマからは道路・橋を備えた都市文化がもたらされ、キリスト教布教でラテン語も浸透する。……ここは問題なくできてます。ただ「多くの人」が東大の過去問のように「民族」ということであれば、「ラテン(イタリア)人ローマ」としなくてはなりません。またローマ化(都市化)があまり進んだ島ではなく、むしろ奴隷の反乱がおき、ローマが苦境に陥ったことがありました。

3 4世紀にローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となり、5世紀にはヴァンダル人や東ゴート人が侵入。……ここも当り前すぎますが「ゲルマン人であるヴァンダル人……」としなくてはなりません。文化はないですが、書くとすればアリウス派キリスト教があります。

4 6世紀中頃にユスティニアヌスの治世にビザンツ帝国の支配下に置かれ、ビザンツ文化やギリシア正教が流入し、8世紀以降のイスラーム勢力侵入で灌漑農業などのイスラーム文化がもたらされた。……農業も文化であればこれでもいいでしょう。「イスラーム勢力侵入」は7世紀(667)からですが、征服は9世紀(821)のアグラブ朝によります。

5 その後、ノルマン人がイスラーム勢力を駆逐すると、12世紀前半にはルッジェーロ2世により両シチリア王国が建国され、ギリシア人やアラブ人も官僚として用いる集権的体制が形成。……ここも問題なくできてます。

6 ノルマン・ギリシア・ビザンツ・イスラーム文化が並存する都市文化が開花し、都パレルモではギリシア語の文献がラテン語に翻訳されて12世紀ルネサンスを迎え、中世都市・大学の設立やスコラ学の完成を見た。……末尾の文章は島の歴史ですかね? この島でスコラ学が完成って?

7 その後、神聖ローマ帝国を兼任したフリーリード2世の統治下で繁栄したが、13世紀後半にシチリア王国とナポリ王国に分裂した。……分裂より書くべきはフランス人(アンジュー伯シャルル1世)の侵入です。これに対するシチリア島晩鐘事件と戦争もおこりました。

わたしの解答例
前8世紀頃フェニキア人がチュニジアを根拠に島の西部に進出、東部にはギリシア人が植民市を築いた。前者はアルファベット・レバノン杉を、ギリシア人は自然哲学・演劇を伝えた。両民族の争いはラテン人ローマの介入を招き、ローマがフェニキア人を追放して属州とした。水道・闘技場などの実用的な都市文明を咲かせた。ローマの支配に対し島民の奴隷反乱がおき改革を迫った。ゲルマン大移動期にはヴァンダル人が、東ゴート人が来襲しアリウス派を伝えた。6世紀ユスティニアヌス帝のビザンツが来たり正教を布教した。9世紀にはアグラブ朝のアラブ人が襲い、数学・医学・法学・灌漑技術などのイスラーム文明をもたらした。11世紀以降ノルマン人が来襲し、ルッジェーロ2世のもとナポリ王国とシチリア王国を合わせ両シチリア王国が成立した。都のパレルモは「12世紀ルネサンス」の一中心となりアラビア語の文献がラテン語に翻訳された。13世紀神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は集権的な王国を形成した。世紀末にはフランス人が来襲し島民と争った。島は諸文明の坩堝となった。

 

E模試
第3問
 西ヨーロッパでは16世紀初めに宗教改革が開始され、旧教徒と新教徒、あるいは新教徒相互の対立は、主権国家形成期の王権のあり方にも大きい影響を与えた。16世紀後半から17世紀末に至るイギリスとフランスにおける国王の宗教政策が、それぞれの国の政治や経済に及ぼした影響を、300字以内で説明せよ。

解答例
イギリスではテューダー朝のエリザベス1世が統一法を制定して国教会を確立させ、国内の安定に努めた。しかしステュアート朝の成立後、チャールズ1世が国教強制に反発してピューリタン革命が起こり、共和政が成立した。王政復古後にはジェームズ2世のカトリック復興策から名誉革命が起こり、議会主権による立憲王政に移行した。フランスでは新旧両教徒の対立からユグノー戦争が勃発した。ヴァロア朝の断絶後、アンリ4世がブルボン朝を創始して旧教に改宗し、ユグノーの信仰を認めたナントの王令により内戦は終結した。しかし絶対王政を確立したルイ14世がナントの王令を廃止したため、ユグノーの手工業者の亡命を招き、経済は衰退した。

添削
 過去問(1996-3・B)の「16世紀から18世紀にかけてヨーロッパの諸国家は、重商主義政策をとって自国の商工業を保護・育成しようとした。この重商主義政策はイギリスとフランスにおいてどのような形で行われたか、具体的な事実を挙げて、200字以内で論述せよ」という問題と類似しています。ただこの「模範」答案には、「それぞれの国の政治や経済に及ぼした影響を」とありながら、イギリスの経済への言及は何もなく、かつ解説にも「経済への影響については具体的な事項がないことからイギリスについては説明がなくてもかまわない」とあり、だったら何故「それぞれ」があるのか意味不明です。
 だいたい「具体的な事項がない」とは何を言っているのか? 作問者の頭にない、教科書に書いてない、参考書にも書いてない、受験生にもないだろう、と言っているのか不明です。いい加減な問い方です。書いても加点もしないということでしょうか? 問いながら書かなくてもいい、とは、ふざけるな。
 教科書(詳説)には2つの革命の最後にこう書いてあります。「イギリス革命は、資本主義経済の自由な発展をさまたげる特権商人の独占権を廃止するなどして、市民層の立場を強めた」と。独占権とは何か分かりますか? ギルド規制です。革命はこれの廃止をしています。また国内関税の廃止もしました。何より大きいのは封建的土地所有の廃止でした。日本が明治維新のときに地租改正でやったこと、イギリスがインドで実施した近代的土地所有のやり方と同じです。ザミンダーリー制でもライヤットワーリー制でも「イギリスがインドで実施した土地税徴収制度……イギリスがザミンダール(旧来の地主領主)の伝統的権利を近代的土地所有権として認める代わりに、彼らを国家に対する地租納入の直接責任者とする制度」とある近代的土地所有の実現です。
 壊した封建的土地所有とは、国王が全土を持っている(これを上級所有権といいます)、この国王から諸侯たちが領地を封土されている(これを下級所有権といいます)、その土地を農民が領主から借りている(これを保有権といいます)、という三層構造のことです。ほぼ死去しないかぎり世襲できる権利なので、事実上所有していると言っていい権利です。しかしこの三層構造だと勝手に上と下の承認なしに土地の売買はできません。
 革命の結果、この構造を破壊します。誰か一人、たいてい領主が所有権を唯一もって、他のひとの権利を奪います、つまり国王は生きるだけの土地は認められますが、全国土の所有者だという権利は奪われます。農民は土地にたいする権利を奪われ、小作人(小作権だけ)になります。この結果、領主、いまは地主となったこの唯一のひとは他の地主と土地の売買の契約が結べます。一人だけが一つの土地にたいして所有権が主張できる状態を近代的土地所有といいます。すると土地はとうとう商品になります。動き出した不動産です。土地を買って、工場を建てる、農地にする、という土地利用の幅が広がります。これが資本主義(産業革命)の発展に寄与するのです。インドでイギリス人が土地を買い占めることが可能になりました。
 なお、このことについてわたしのブログ「世界史教室」→疑問教室→西欧近代史(仏以外)に、

Q2 なぜ一番初めにイギリスが産業革命に成功したのですか?詳しくおしえて欲しいです。
2A (1) (省略)
 (2) 17世紀の市民革命(清教徒革命と名誉革命)により封建的土地所有の廃止、ギルド制廃止による営業の自由、国内市場の統一など法的規制を排除して自由に流通する経済社会をつくりあげたことも一因です。

 

  一方フランスはルイ14世の工業化政策で上からマニュファクチュア造りに専念し、国家的なギルド規制を強めました。それが王立マニュファクチュア、国立マニュファクチュア、特権マニュファクチュアの3種類のマニュファクチュアのあり方で、国家規制の強い、逆にはいざとなれば国家依存的なフランスの企業ができあがりました。対照的な英仏社会の成立です。

わたしの解答例
英国の宗教改革はヘンリ8世の首長法とエリザベス1世の統一法で国教会が確立した。旧教国と戦うために重商主義政策をとり東インド会社を設立した。17世紀のステュアート朝の国教会強制に対抗して清教徒革命がおき、クロムウェルは航海法を制定した。王政復古後は議会主権となり、封建的土地所有の廃止、ギルドの廃止など資本主義発展の法的規制を取除いた。仏国はユグノー戦争をナントの王令によって沈静化し、絶対王政を基礎づけた。だがルイ13世、ルイ14世はこの王令を守らず後者は廃止した。そのため優れた手工業者・軍人が国外に分散し、経済の弱体化を招いた。それを特権的なマニュファクチュアにギルド規制を課して高級品輸出で対処した。


まとめ
1 模試は予備校の未熟な講師たちが作成した問題と「模範」答案であり、問と答がかみ合ってない場合が多い。問自体に不備があり、当然ながら答も貧相になりやすい。これらの問題と解答を反省材料にしなくていい。偏差値も無視すること。もちろん、これは世界史に限って言っていることです。
2 東大なら過去問が最高の参考書であり、過去問研究に専念すること。もちろん東大の問題が良問ばかり、ということではないが。京大なら過去問の他に、わたしの作成した未出題問題、筑波大学のような類題を解く練習をしよう。

京大世界史2018

世界史B(4問題100点)
第1問(20点)
 内外の圧力で崩壊の危機に瀕(ひん)していた、近代のオスマン帝国や成立初期のトルコ共和国では、どのような人々を結集して統合を維持するかという問題が重要であった。歴代の指導者たちは、それぞれ異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 秦王扇政(えいせい)は、前221年に(1)を滅ぼし「天下一統」を成し遂げると、「王」に代わる新たな称号を臣下に議論させた。丞相らは「泰皇」なる称号を答申したが、(2)秦王はこれを退け「皇帝」と号することを自ら定めた。以来二千年以上の長きにわたって、「皇帝」が中国における君主の称号として用いられることとなった。
 「皇帝」は、唯一無二の存在と観念されるのが通例であるが、歴史上、複数の皇帝が並び立ったことも珍しくない。たとえば「三国時代」である。220年、(3)後漢の献帝から帝位を禅譲された(4)曹丕が魏王朝を開き洛陽を都としたのに対し、漢室の末裔を標榜する[ a ]は成都で皇帝に即位し(蜀)、次いで孫権が江南で帝位に即いた(呉)。魏は263年に魏軍の侵攻により滅亡、呉も280年に滅び、中国は再び単独の皇帝により統治されるに至るが、魂も265年、可馬炎が建てた晋に取って代わられていた。
 晋による統一は八王の乱に始まる動乱の前に潰(つい)え去り、江南に難を避けた華北出身の貴族らが晋の皇族を皇帝と仰ぐ政権を建康に樹立、その後、(5)門閥貴族が軍人出身の皇帝を奉戴する王朝の時代が百数十年の長きにわたって継続した。華北では、「五胡十六国」の時代を経て、(6)鮮卑による王朝が5世紀半ばに華北統ーを果たした
 隋末の大混乱を収拾し中国を統一した唐王朝は、(7)第2代皇帝太宗の時、北アジア遊牧世界の覇者であった東突厭を服属させ、太宗は鉄勒諸部から「天可汗」の称号を奉られた。(8)統一を果たしたチベットに対しては、皇女を嫁がせて関係の安定を図った。
 唐の第3代皇帝高宗の皇后となった(9)武照(則天武后)は、690年、皇帝に即位し国号を「周」と改めた。(10)中国史上初の女性皇帝の誕生である。後継者に指名されたのは彼女が高宗との間にもうけた男子であったが、彼の即位直後、国号は「唐」に復された。
 10世紀後半に中華を再統合した宋王朝は、(11)失地回復を目指して契丹(遼)と対立したが、1004年、両国の間に講和が成立した。「澶淵の盟」と呼ばれるこの和約では、国境の現状維持、宋から契丹に(12)歳幣をおくることなどが取り決められた。両国皇帝は互いに相手を「皇帝」と認め、名分の上では対等の関係となった。
 12世紀前半、女真の建てた金に都を奪われ、(13)上皇と皇帝を北方に拉致された宋では、高宗が河南で即位したものの、金軍の攻撃を受けて各地を転々とした。やがて杭州を行在(あんざい)と定めると、高宗は、主戦派と(14)講和派が対立する中、金との和睦を決断する。この結果、准水を両国の国境とすることが定められたほか、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年貢納品をおくることとなった。


 (1) 戦国時代、斉の都には多くの学者が招かれ、斉王は彼らに支援の手を差し伸べたとされる。「稷下(しょっか)の学士」と称されたこれら学者のうち、「性悪説」を説いたことで知られる人物は誰か。
 (2) このとき彼は、自らの死後の呼び名についても定めている。その呼び名を答えよ。
 (3) この時代、ある宦官によって製紙法が改良された。その宦官の名前を答えよ。
 (4) 彼が皇帝に即位した年に創始された官吏登用制度は何か。
 (5) この時代、対句を用いた華麗典雅な文体が流行する。その名称を答えよ。
 (6) 華北を統一してから約半世紀後、この王朝は洛陽への遷都を行う。この遷都を断行した皇帝は誰か。
 (7) 彼の治世に陸路インドに赴き、帰国後は『大般若波羅蜜多経』などの仏典を漢訳した僧侶は誰か。
 (8) 7世紀前半、チベットを統一した人物は誰か。
 (9) 仏教を信奉した彼女は、5世紀末から洛陽南郊に造営が始められた石窟に、壮大な仏像を造らせた。その仏教石窟の名称を答えよ。
 (10) 皇帝とはならなかったものの、朝廷で絶大な権力を振るった女性は少なくない。このうち、清の同治帝・光緒帝の時代に朝廷の実権を掌握した人物は誰か。
 (11) ここで言う「失地」とは、契丹が後晋王朝の成立を援助した代償として譲渡された地域を指す。その地域は歴史上何と呼ばれているか。
 (12) 歳幣として宋から契丹におくられた品は絹と何か。その品名を答えよ。
 (13) 文化・芸術を愛好し、自らも絵筆をとったことで知られるこの人物が得意とした画風は何と呼ばれているか。
 (14) 高宗を金との和平に導いた講和派の代表的人物とは誰か。

B 現在、中華人民共和国には4つの直轄市が存在する。北京市を除く3つの直轄市にはかつて租界が存在した。
 最も早くに租界が置かれたのは1842年の南京条約によって開港された上海であった。1845年にイギリス租界、1848年にアメリカ租界、1849年にフランス租界が設置され、1854年にはイギリス租界とアメリカ租界が合併して共同租界となった。租界はもともと外国人の居住地であったが、(15)太平天国の乱によって大量の中国人難民が流入したことを契機として、中国人の居住も認められることになった。共同租界には工部局、フランス租界には公董局と呼ばれる行政機関が置かれ、独自の警察組織や司法制度を有していた。租界は中国の主権が及ばず、比較的自由な言論活動が可能であったことから、(16)革命活動の拠点のーつとなった。
 上海は中国経済の中心でもあった。1910年代から1930年代にかけて、上海港の貿易額は全中国の4割から5割を占めた。また、上海には(17)紡績業を中心に数多くの工場が建てられた。上海の文化的繁栄はこうした経済発展に下支えされていた。1937年、日中戦争が勃発すると、戦火は上海にも及び、租界は日本軍占領地域のなかの「孤島」となる。1941年12月、日本軍が上海の共同租界に進駐した。1943年に日本が共同租界を返還すると、(18)フランスもフランス租界を返還し、上海の租界の歴史は幕を閉じた。
 直轄市のうち最も人口が少ない[ b ]市は、1860年の北京条約によって開港され、イギリス、フランス、アメリカが租界を設置した。次いで、(19)日清戦争後の数年間にドイツ、日本、ロシア、(20)ベルギーなどが次々と租界を開設した。この前後の時期、直隷総督・北洋大臣の(21)李鴻章や袁世凱が[ b ]を拠点に近代化政策を相次いで実施した。(22)[ b ]は政治の中心地である北京に近いこともあって、数多くの政治家、軍人、官僚、財界人、文人が居を構えていた。[ b ]には最も多い時には8か国の租界があったが、(23)1917年にはドイツとオーストリア=ハンガリーの租界が接収され、1924年にはソ連、1931年にはベルギーの租界が返還された。さらに、1943年には日本租界を含むすべての租界が中国側に返還された。
 直轄市のうち人口も面積も最大の[ c ]市に租界があったことはあまり知られていない。というのも、[ c ]の租界は、上記の2都市とは違って、政治的、経済的影響力をほとんど持たなかったからである。[ c ]で唯一の租界である日本租界は1901年に設置されたが、1926年になっても[ c ]に居留する日本人は100名余りで、このうち租界に居住していたのは20名余りにすぎなかった。[ c ]の日本人居留民は中国人による租界回収運動により、たびたび引き揚げを余儀なくされた。1937年の3度目の引き揚げ後、国民政府は日本租界を回収した。翌年、(24)国民政府は[ c ]に遷都し、抗戦を続けた。


 (15) (ア) 太平天国軍を平定するために曾国藩が組織した軍隊は何か。
 (イ) 太平天国軍との戦いでウォードの戦死後に常勝軍を指揮し、のちスーダンで戦死したイギリスの軍人は誰か。
 (16) 1921年に上海で組織された政党の創設者の一人で、『青年雑誌』(のちの『新青年』)を刊行したことでも知られる人物は誰か。
 (17) 日本人が経営する紡績工場での労働争議を契機として1925年に起こった反帝国主義運動を何と呼ぶか。
 (18) 日本の圧力を受けてフランス租界を返還した対ドイツ協力政権を何と呼ぶか。
 (19) 日清戦争の契機となった甲午農民戦争は、東学の乱とも呼ばれる。東学の創始者は誰か。
 (20) フランドル(現在のベルギーの一部)出身のイエズス会士で、17世紀半ばに中国に至り、アダム=シャールを補佐して暦法の改定をおこなった人物は誰か。
 (21) (ア) 李鴻章と伊藤博文は朝鮮の開化派が起こしたある政治的事件の処理を巡って1885年に条約を締結した。この政治的事件は何か。
 (イ) (ア)の政治的事件は、対外戦争での清の劣勢を好機と見た開化派が起こしたものである。この対外戦争とは何か。
 (22) この都市の日本租界で暮らしていた溥儀は、満洲事変勃発後に日本軍に連れ出され、1932年に満洲国執政に就任した。それ以前に中国東北地方を支配し、のち西安事件を起こした人物は誰か。
 (23) 中国が連合国側に立って第一次世界大戦に参戦したことがこの背景にある。同年、アメリカも連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。アメリカ参戦の最大の契機となったドイツ軍の軍事作戦は何か。
 (24) (ア) 1938年12月にこの都市を脱出、1940年に南京国民政府を樹立して、その主席に就任した人物は誰か。
 (ィ) 1919年に上海で樹立された大韓民国臨時政府は、1940年にこの都市に移転する。大韓民国臨時政府初代大統領で、1948年に大韓民国初代大統領となった人物は誰か。

 

第3問(20点)
 中世ヨーロッパの十字軍運動は200年近くにわたって続けられた。その間、その性格はどのように変化したのか、また、十字軍運動は中世ヨーロッパの政治・宗教・経済にどのような影響を及ぼしたのか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第4問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A エジプトに、都市[ a ]が建設されたのは紀元前4世紀のことであった。地中海世界の東西南北から文物の集まるこの都市に開設された図書館は名高く、膨大な蔵書を誇った。エジプトがローマ帝国の支配下にあった紀元2世紀半ば、[ a ]で、この知的伝統の上に立って、『天文学大全』でも知られる[ b ]が『地理学』を書いた。同書は天文学と(1)幾何学を用いて地球の形態や大きさを測り平面地図に表現する方法を記し、既知世界の8,000以上の地点を経度・緯度で示した。オリジナルは失われているが、後に(2)ビザンツ帝国で作られた写本には、地図が付されている。
 12世紀の半ばには、(3)コルドバに学んだイドリーシーが、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教の共存する(4)シチリア王国の国王のために、南を上にした数十葉の地図を付した『世界横断を望む者の慰みの書』を著した。[ b ]やラテン語の地理書に加え、この頃すでに数百年の伝統を築いていたアラブの地理学のエッセンスを吸収した成果であったが、キリスト教世界、イスラーム世界双方で影響は限定的だった。
 中世ヨーロッパの地理的世界観をよく表すのは、(5)1300年頃の作とされる、イギリスのヘレフォード図である。中心に聖地を置き、上部にアジア、右下にアフリカ、そして左下にヨーロッパが配される。
 新しいタイプの地図は近世に生み出された。1512年に東フランドルの小都市に誕生したメルカトルは、ルーヴァン大学などで(6)人文主義教育を受けた。1536年には卓越した銅版彫刻の技術を駆使して、(7)地球儀の製作にかかわった。順調に評価を高めていったが、1544年には(8)ルタ一派の異端として一時投獄された。その危機を乗り越え、1569年には、彼の名を後世にとどめることになるメルカトル投影図法による世界地図を発表した。これは、球体を円筒に投影して平面に展開したところに特徴がある。目指す方角を正確に示すこの地図を、彼は、(9)当時世界の海にのりだしていくようになった航海者たちのために作成した。
 1666年、ルイ14世は(10)科学アカデミーを設立し、翌年パリ天文台を建てた。ここで4代にわたり天文台長をつとめたカッシーニ家は、天文学の技術を地図作成に応用し、三角測量によって、内政や軍事に求められるフランス王国の正確な地図を徐々に完成させていった。1793年、こうして作られた地図一式は、カッシーニ家から没収され国有化される。それ以降、カッシーニの地図は、王の版図ではなく単一のフランス「国(国民)」を象徴するものとなり、カッシーニの科学的測地法は他の国々に採用された。地図は、19世紀以降の国民国家や海外植民地帝国の形成に大きな役割を果たし、(11)「ラテンアメリカや「中央アジア」のような新たな地域概念は、現代まで世界認識を規定している。


 (1) この学問の祖と言われる人物の名を記せ。
 (2) 11世紀頃から行われ始め、この社会に大きな変容をもたらしたプロノイア制について、簡潔に説明せよ。
 (3) この地出身のイブン=ルシュドは、ある哲学者の作品に高度な注釈を施したことで知られる。その哲学者の名前を記せ。
 (4) 13世紀末にこの国から分離独立した王国の名を記せ。
 (5) この頃の大きな出来事であるアナーニ事件の概略を説明せよ。
 (6) 「人文主義の王者」とも称せられた、ネーデルラント出身の学者の名を記せ。
 (7) この製作を依頼したのは、東フランドルを含む広大な地域を支配したカトリックの皇帝である。その名を記せ。
 (8) 彼に数年遅れ、1519年にチューリヒで宗教改革を始めた人物の名を記せ。
 (9) この時代に行われたマゼランの大航海が目指した、香料の特産地の名を記せ。
 (10) フランスにおけるアカデミーは1635年設立のアカデミ一=フランセーズをもって嚆矢(こうし)とする。ルイ13世の宰相でこれを設立した人物の名を記せ。
 (11) この呼称は、19世紀後半にアメリカ大陸への進出をねらうフランスで用いられるようになった。1861年にナポレオン3世によってなされた軍事介入の対象となった国の名を(ア)に、この介入を撃退した大統領の名を(イ)に、それぞれ記せ。

B 近現代史家エリック=ホブズボームは、産業革命とフランス革命という「二重の革命」に始まり第一次世界大戦で終わる時代を「長い19世紀」と位置づけた。ホブズボームによれば、「長い19世紀」とは、「二重の革命」を経て経済的・社会的・政治的に力を蓄えていったブルジョワジーという社会階層と、ブルジョワジーの地位向上とその新たな地位を正当化する(12)自由主義イデオロギーの時代であった。
 イギリスの産業革命は、イギリスの対アジア貿易赤字に対応するための輸入代替の動きを大きな契機として始まった。イギリスではそれに先行する時代に、私的所有権が保障され、(13)農業革命が進行するなど、工業化の条件が整っていた。綿工業から始まった産業革命は、19世紀が進むにつれて、鉄鋼、機械など、重工業部門に拡大していった。この過程で、(14)資本家を中心とするブルジョワジーが経済的・社会的な力を強め、新たな中間層の中核を形成する一方、(15)伝統的な中間層の一翼を担った職人属はその少なからぬ部分が没落し、新たな下層である労働者層に吸収されていった
 フランス革命は、貴族層の一部、ブルジョワジー、サンキュロットと呼ばれた都市下層民衆、および農民という、多様な勢力が交錯する複合革命であった。「第三身分」が中核となって結成された議会は、封建的特権の廃止や人権宣言の採択、および立憲君主政の憲法の制定を実現したが、憲法制定後に開催された議会では、(16)立憲君主政の定着を求める勢力がさらなる民主化を求める勢力に敗北した。(17)対外戦争の危機の中で新たに構成された議会の下で、ブルジョワジーとサンキュロットが連携し、王政が廃止された。まもなく急進派と穏健派の間に新たな対立が生じ、急進派が穏健派を排除して恐怖政治のもとで独裁的な権力を行使するようになったが、対外的な危機が一段落し、恐怖政治に対する不満が高まると、(18)権力から排除されていた諸勢力はクーデタによって急進派を排除した。しかし、穏健派が主導する新政府は復活した王党派とサンキュロットの板挟みとなって安定せず、フランスを取り巻く国際情勢が再び緊迫する中で、ナポレオンが台頭する。(19)民法典の編纂(へんさん)や商工業の振興に代表される彼の施策は、おおむねブルジョワジーの利益と合致するものであった
 「二重の革命」の影響は広範囲に及んだ。フランスにおいて典型的に実現されたとされる「国民国家」は、ヨーロッパ内外を問わず政治的なモデルと見なされるようになった。これが近現代の世界におけるナショナリズムの大きな源流のひとつである。(20)1848年にハプスブルク帝国内に噴出した民族の自治や独立を求める動きや、イタリアとドイツの統一国家建設は、「国民国家」という新たな規範がヨーロッパの政治に与えたインパクトを物語るものであった。また、多くの欧米諸国では、国民の権利意識や政治参加を求める主張が強まり、一定程度の民主化が進展した。民主化の潮流は、一方では、(21)労働者層の権利意識を高め、ブルジョワジー主導の自由主義的秩序の変革を目指す社会主義思想の普及につながったが、他方では、拡張的な対外政策への大衆的な支持の高まりや、(22)「国民」とは異質な存在と見なされた集団への差別にもつながった。「長い19世紀」を終わらせることとなる第一次世界大戦は、こうして蓄積されていたナショナリズムのエネルギーの爆発という側面を有した。
 一方、ヨーロッパとアメリカ合衆国で工業化が進展した結果、欧米世界は、世界の他地域に対して圧倒的に強力な経済力と軍事力を獲得していった。(23)欧米以外の多くの地域では、工業化した諸国に経済的に従属する形で経済開発が行われ、19世紀以前とは大きく異なる貿易パターンが出現した。国民国家の建設および工業化を進めた諸国とそれに遅れた諸国との間の力関係は、前者の後者に対する圧倒的な軍事力の行使や、不平等条約として表面化した。(24)19世紀中葉から後半にかけて、欧米以外の諸国における上からの改革の動きは、経済や軍事の面で欧米諸国に追いつくことを大きな目標としていたが、その多くは挫折することとなった。のちにフランス革命前の「第三身分」になぞらえて「第三世界」と呼ばれるようになる地域の多くは、19世紀末までに欧米諸国の植民地や勢力範囲に分割されることとなる。これらの地域に台頭する(25)反植民地主義的ナショナリズムは、ホブズボームが「短い20世紀」と呼ぶ時代の世界史を大きく動かす原動力のひとつとなっていく。


 (12) 主著『経済学および、課税の原理』で、比較優位に基づく自由貿易の利益を説いた人物の名を記せ。
 (13) 18世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスにおいて議会主導で行われた農地改革を何と呼ぶか。
 (14) 1830年代末から1840年代にかけて、イギリスでは、ブルジョワジーがみずからの利益を実現するために、ある法律の廃止を要求する圧力団体を結成し、法律廃止を実現した。この法律の名称を記せ。
 (15) イングランド北・中部の手工業者や労働者が起こしたラダイト運動とは、どのような運動であったか。
 (16) この勢力を何と呼ぶか。
 (17) この議会の名称を記せ。
 (18) この事件を何と呼ぶか。
 (19) 19世紀前半のフランスでは、工業化をめざす政策が採用されたにもかかわらず、実際の工業化の進展は緩慢であった。その理由を述べよ。
 (20) このときに、ある民族集団は、一時的にハプスブルク帝国から独立した政権を樹立した。この民族集団の名を記せ。
 (21) 1886年にアメリカ合衆国で結成された、熟練労働者を中心とする労働組合の名称、を記せ。
 (22) 19世紀末のフランスで発生したある事件は、反ユダヤ主義を反映するものであるとして、ゾラなどの知識人から批判を浴びた。この事件の名を記せ。
 (23) 19世紀前半に、イギリス、インド、中国の間に出現した三角貿易を通じて、イギリスは対アジア貿易で黒字を計上するようになった。この貿易黒字は、どのようにして実現されるようになったのか。イギリスとインドの貿易商品に言及しつつ、簡潔に説明せよ。
 (24) 19世紀後半に清で行われた富国強兵をめざす改革運動を何と呼ぶか。
 (25) 1925年にホー=チ=ミンが結成し、のちにベトナムの独立運動を中心となって担っていく組織の母体となった団体の名称を記せ。

 

コメント

第1問
 課題は「崩壊の危機に瀕していた……異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って」でした。
 危機に対する解体防止策を時間順に書いてくれ、というものでした。4つの人物・団体について、「異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合」したか、をていねいに解説することが求められています。
 ミドハト=パシャにとっての危機は、タンジマート(恩恵改革)の下で西欧的な工業化をすすめていくうち、「土着産業の没落をうながし、外国資本への従属がかえってすすんだ(詳説世界史)」ことでした。クリミア戦争に勝利しながらも、戦費を借りたたために大きな負債が重なりました。またボスニアの反乱に対するオスマン帝国の対応に対してロシアの非難がかまびすしく、戦争も予想される状況でした。この危機をどう打開するかが課題でした。
 あらゆる面での遅れを痛感したミドハト=パシャは、近代的な憲法を制定することで課題の答えにします。近代的な市民の権利をもとに二院制議会と責任内閣制を原則にしました。議会や内閣の権限を拡大することはスルタン権力を規制するものでした。ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等も規定しています。「安倍談話」の中でアジア最初の憲法を日本国憲法と勘違いした表明がありましたが、このミドハト憲法がアジア最初の憲法です。そのようにセンター試験でも出題されました(1998年度問7)。「特定の人々」とは近代化を推進してきた立嫌派です。これに該当する表現としてしは、2014年度に改訂した用語集に「新オスマン人」が加わりました。頻度は少なく2です。説明ではこうあります。

 「新オスマン人」:宗教の違いをこえて「オスマン人」として共存・協力を呼びかけるオスマン主義にたち、自由主義的立憲運動を推進し人々。

 ミドハト=パシャ自身がこれに該当し、反専制・自由主義・立憲を主張する人々のことでした。しかしこの誤句が使えなくてもいでしょう。つまり西欧的な立憲政治を導入すべきと考えていた人々です。

 しかし君主権の強化をねらっていたアブデュルハミト2世は、即位したばかりであり、憲法は容認しながらも、露土戦争が始まったので非常時大権を利用して憲法を停止しました。立憲君主政は、1年2ヶ月しかつづきませんでした。叔父アブデュルアズィズがミドハト=パシャによってクーデターで廃位され、その後を継いだ兄のムラト5世も精神疾患ですぐに退位しました。このような弱い地位をなんとか強力なものにしたいと考えたようです。スルタン=カリフ制を強化することが危機への対応でした。「特定の人々」とは専制政治を支持する保守派です。パン=イスラーム主義(西欧に対抗してムスリムの団結を)を固辞し、皇帝は秘密警察を結成して密告を奨励し、軍部を利用して厳しい弾圧を行ないました。
 
 統一と進歩委員会(青年トルコ党、青年トルコ人)は、憲法復活をねらう知識人・開明的軍部グループの団体です。ロシア第一革命(1905)、イラン立憲革命(1906)という周辺国の立憲の動きが憲法復活を求める運動を促します。またアブデュルハミト2世の軍隊の一部だけ優遇したり、給与遅配、兵器不足など、冷遇に不満をもっているグループ・青年将校たちがおり、かれらが「特定の人々」です。自己の危機を打開するものが憲法の復活でした。サロニカ市の軍が蜂起して、かれらの革命が成功しました。再び立憲君主政となります。

 ムスタファ=ケマルの危機は、モロッコ事件を契機とする伊土戦争、バルカン戦争による領土縮小、そして第一次世界大戦の敗戦です。どの戦争にも参戦して負傷したケマルは、啓蒙思想に心酔した士官学校卒業のエリートで、アブデュルハミト2世の姿勢に反感を持っていました。第一次世界大戦終結とともに、イスタンブールのスルタンに対してセーヴル条約がつきつけられ、帝国の大幅な領土縮小が強制されました。ここに危機は全国民的なものになりました。オスマン帝国議会議員たちはアンカラで大国民議会を開きます。条約で認められた地帯を奪うべくギリシア軍が入ってきました(イズミル出兵)。ギリシア軍に対して、ケマル=パシャ率いる抵抗軍「国民軍」が対抗し勝利します。アンカラ政府は大国民議会で、スルタン制廃止を決議することになりました。イスタンブールとアンカラの二重権力をアンカラに一元化しました。ケマルは議会にカリフ制の廃止も決議させ(1924)、政教分離の新国家体制をつくりあげます。これらは啓蒙思想の実現でした。脱イスラムの動きは、一院制議会、主権在民、任期4年の大統領制、一夫一婦制、女性のチャドルを廃し参政権を認めて女性解放も実現、イスラーム暦やトルコ帽の廃止、文字改革(ローマ字採用)と矢継ぎ早に改革を実行しました(トルコ革命)。セーヴル条約はローザンヌ条約に改訂させました。ここでの「特定の人々」は青年将校に一般の人々も入ります。

第2問 解説省略

第3問
 課題は「(1)性格はどのように変化したのか、中世ヨーロッパの(2)政治・(3)宗教・(4)経済にどのような影響を及ぼしたのか」の4点でした。
 (1)性格は初めは「聖地回復の聖戦」であったものが、どう変化したか、ということでもあり、これは明快に現れるのは第4回十字軍でした。依頼してきたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを陥れて、この都市を略奪し、帝国の所有していた商業基地をうばったことでした。ヴェネツィア商人の意図が第一に完徹された十字軍でした。今もヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の屋上に、そのときの戦利品が秘蔵されています。この第4回からを後期十字軍、第3回までを前期十字軍と区別します。商業的利益が優先し、聖戦でなくなったと、とるからです。この第4回十字軍の後には少年十字軍(1212)といわるものもあり、少年少女たちはムスリムに売り渡されました。
 ただし予備校の解答例にあるように「第6・7回十字軍でのエジプト・チュニジア遠征に見られるように世俗的要素が強まった」のではありません。「第6・7回十字軍」はルイ9世が指揮した十字軍であり、第6回はルイ9世がイェルサレム奪回のために指揮しており、何も世俗性はありません。「エジプトへ」行ったから「世俗的」というのも変なとりかたです。イェルサレムを支配していたのはカイロを都にしているアイユーブ朝であり、第1回十字軍からセルジューク朝とだけ戦ったのでなく、イェルサレムではカイロをつくったファーティマ朝と戦いイェルサレムを奪っていて、その後もアイユーブ朝・マムルーク朝というエジプトの支配者がイェルサレムを領有しており、イェルサレムを確保ししようとしたらエジプト遠征も不可欠であったのです。第7回もチュニジアのスルタンがキリスト教に改宗しそうだというガセネタを信じて指揮したもので、ここにも世俗性はありません。ルイ9世が死後に聖人になったのはこの行動のゆえでした。

 (2)政治への影響
 「中世ヨーロッパ」は西欧だけを考える必要はありません。とくに十字軍は東欧、とくに当時最大の帝国たるビザンツ帝国と関係した軍事行動であり、十字軍兵士は東欧諸国を通過していきました。この問題の類題は 2018年一橋第3問の空間革命があります。この問題文にも「ヨーロッパ」とありますが、東欧・ビザンツ帝国も考慮すると全体像が見えてきます。
 政治面の十字軍の影響は、以前の皇帝権の強い時代(オットー1世の時代)が、11世紀からの叙任権闘争と十字軍の初期の成功で教皇権がたかまっていくことでした。教皇権は宗教だから「政治」に入らないと考える必要はありません。当時の西欧の土地の3分1は教会領であり、そこに指令がだせるトップは教皇であり、たんにイタリア半島にある教皇領だけの領主でありません。ましてインノケンティウス3世のときには英王ジョンを破門にし、仏王フィリップ2世も破門し、ラテン帝国も破門にできる君主でした。ポルトガル伯爵をスペインから独立することを認めるとともに自己の家臣にしました。上記の英仏王も家臣として臣従させることで破門を解きました。皇帝に代わって全欧に軍事行動を呼びかけることのできる唯一の君主でした。十字軍はヨーロッパの最高権限が教皇に存在することを証明したデモンストレーションでした。
 しかし十字軍の失速とともに教皇に呼びかけに応じる各国の王・騎士は少なくなり、パレスティナにも十字軍の基地はなくなりました(1291)。しかしルイ9世のように率先して十字軍を指揮しようとするフランス王の権威はたかまりました。ただこれをもって西欧全体に「国内での中央集権化が進展」(ある予備校の解答)などと書いてはだめです。いくらなんでも絶対主義の時代がすぐ近づいたのではありません。権威がたかまるのと、集権という体制ができるのとはちがいます。教皇・貴族の没落(アナーニ事件・ばら戦争・ブルゴーニュ戦争)と身分制議会(模範議会・三部会)の成立という、14〜15世紀の2世紀がまだ必要です。

 (3)宗教への影響
 教皇の浮沈は上の政治で扱ったので、他の宗教面の影響を考えます。なにより十字軍が当時は「巡礼」の一つであったのように、巡礼熱が西欧全体に広がっていて、「開墾運動、オランダの干拓、エルベ川以東への東方植民、イベリア半島の国土回復運動、巡礼の流行などがそれである。なかでも大規模な西ヨーロッパの拡大が、十字軍であった。……この間、聖地への巡礼の保護を目的として、ドイツ騎士団などの宗教騎士団が各地で活躍した。(詳説世界史)」と。また東京書籍では「十字軍とその影響」という章で「キリスト教が庶民の世界にまで広まるとともに、ローマ、イェルサレム、サンティアゴ=デ=コンポステラなどへの聖地巡礼がさかんになった。ところが、キリスト教の聖地の一つであるイェルサレムは、……」と書いてます。
 しかし宗教的な情熱は、他の宗教への排他的な運動にもむすびつきました。ユダヤ人迫害です。ユダヤ人は中世都市の一角ゲットーに隔離され、胸にユダヤ人の星マークを付けたり、ユダヤ人はキリスト教徒を告発したり,不利な証言をしたりしてはならない,キリスト教徒を食事に招待したり、また結婚したりできない、キリスト教徒を農奴その他として雇用することもできない、と2度のラテラノ公会議で(第3回1179,第4回1215)決定されました。これらは今もつづくユダヤ人迫害の起源です。
 また「北の十字軍」といわれる東方植民は、この問題の十字軍と連動してスラヴ人地帯への征服と布教がおこなわれました。たとえば北ドイツの諸侯は第2回十字軍に参加するかわりに、北方の異教徒(スラヴ人のこと)に対する十字軍を起こさせてほしいという要請に教皇は認可を与えています(1147)。異教徒であるがためにスラヴ人の多くの諸民族が虐殺され、子供は奴隷化され、ドイツ人の植民地にされました。現在のポーランドから南はウクライナの地帯までドイツ人騎士・商人・修道士たちが蹂躙していきました。
 教会建築では、イスラーム建築のもつポインテッドアーチという尖った屋根をつくることがはやり、ロマネスク様式をゴシック様式に変えました。どこまでも高く高く伸びようとする「石の森」といわれるゴシック教会が高さを競って建てられました。

 (4)経済への影響
 何より十字軍の後半はイタリア商人の利益が追求されたように、地中海世界におけるイタリア商人の地位が高まります。ヴェネツィアとジェノヴァが覇をきそい、とくに前者がイタリア半島から東地中海(レヴァント)貿易の覇者となりました。カイロのマムルーク朝との貿易は、インドのグジャラート半島(港ディウ)との交易につながっていました。地中海とペルシャ湾を結ぶ「東方貿易」は西欧商業の復興「商業ルネサンス」と呼ばれるほどに全欧にまたがる広域経済に発展しました。地中海世界が起点となり、北の北海・バルト海の交易圏、シャンパーニュを中心に途中の中継地交易圏も生まれました。
 しかしこの地中海を軸とするヨコの交易の発展は、それまでスカンディナヴィア半島とウクライナ、バグダードにいたるタテの交易を衰えさせ、東欧・ロシア諸国の分裂をきたすことになりました。さらに13世紀にモンゴル人の来襲がおき、都市の破壊と略奪がおきました。東欧は14〜15世紀の「名君の世紀」になって回復してきます。

第4問 解説省略
………………………………………
解答例
第2問
A
a 劉備
問 1荀子 2始皇帝 3蔡倫 4九品官人法 5四六駢儷体(四六体) 6孝文帝 7玄奘 8ソンツェン=ガンポ 9龍門石窟 10西太后 11燕雲十六州 12銀 13院体画 14秦檜
B b 天津 c 重慶
問 15ア 廂軍 イ ゴードン 16陳独秀 17五・三〇運動 18ヴィシー政府 19崔済愚 20フェルビースト 21 ア 甲申事変 イ 清仏戦争 22張学良 23無制限潜水艦作戦 24 ア 汪兆銘(汪精衛)イ 李承晩

第4問
A a アレクサンドリア b プトレマイオス
1エウクレイデス 2貴族・将軍たちに軍事奉仕の代償に、国有地の管理を容認したが、分権化の要因となる。3アリストテレス 4ナポリ王国 5仏王フィリップ4世の聖職者課税に反対した教皇ボニファティウス8世を逮捕し、釈放後憤死せしめた事件 6エラスムス 7カール5世 8ツヴィングリ 9モルッカ諸島 10リシュリュー 11ア メキシコ イ フアレス
B 12リカード 13第2次囲い込み(エンクロージュア) 14穀物法 15ナポレオン戦争中におきた機械打ち壊し運動 16フイヤン派 17国民公会 18テルミドールの反動(9日のクーデタ) 19農業社会として安定していて、中小農民が多く、囲い込みが起こらなかったから 20マジャール人 21アメリカ労働総同盟(AFL)  22ドレフュス事件 23イギリス綿製品を買わない中国に対してインド産アヘンを密輸出することで得た銀で中国茶を買っても、銀が残った。24洋務運動 25ヴェトナム青年革命同志会

2017阪大世界史

第1問(共通)
 次の文章は、フィレンツェの商人であったフランチェスコ・ペゴロッティが1330年頃に編纂した『商業の手引』の一部である。これを読んで、下の問1〜問2に答えなさい。

 中国はきわめて多数の都市や町を含む地方である。なかでも、特別な都市すなわち首都があり、そこには多くの商人が集まり、交易量も膨大である。その都市はカンバリクと呼ばれる。(中略)
 1人の商人が、通訳1人・召使い2人を連れて、25.000フロリン金貨に相当する品物を持っていくと、中国までの途上で60〜80ソンミ*の銀を支出すると見積もられる。節約すれば支出はそれ以上にならない。また、中国からタナ*に戻る際の費用は、生活費や召使いへの賃金さらにその他の諸経費を含めて、荷駄獣1頭につき5ソンミもしくはそれ以下である。銀1ソンモは5フロリン金貨に換算できる。(中略)ジェノヴァやヴェネツィアから中国へ旅しようとするなら、麻布を持っていくとよい。ウルゲンチ*に行けばこれらをうまく売ることができる。ウルゲンチでは銀塊を買い、これを持って、他のものは買わずに進むとよい。(中略)
  商人が中国まで運んできた銀はすべて、中国の君主がとりあげて彼の金庫にしまってしまう。そして銀を持ってきた商人には、引き換えに紙幣が与えられる。この紙幣は黄色い紙で、中国の君主の印が捺されている。この紙幣はバーリシュと呼ばれ、これで絹織物やその他、買いたい品物を買うことができる。この国のすべての人々は、この紙幣を受け取るよう定められている。」(中略)中国では、銀1ソンモで3枚から3枚半のダマスク絹が入手でき、また同様に銀1ソンモで3枚半から5枚のナシジ織を購入できる。

 *ソンミ:ソンモの複数形。ソンモは約370gの銀塊をさし、貨幣単位としても使われた。
 *タナ:黒海北岸の都市
 *ウルゲンチ:中央アジアの都市

問1. この書物が編纂された当時のイタリアの政治状況について、地域差やさまざまな政治・宗教勢力に注意しながら、説明しなさい(150字程度)。

問2. 引用史料の下線部で述べられているシステムが当時の中国経済に与えた影響について、前後の時代やユーラシア西方地域との相違点などにも注意しながら、説明しなさい(250字程度)。

第2問(共通)
 2017年は、ロシア革命(十一月革命)が起こってから100周年にあたる。ロシア革命は、生産手段を公有化した最初の社会主義革命であった。ロシア革命とその結果成立したソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)によって、何が達成され、何が課題として残されたのか。次の用語をすべて使って説明しなさい(300字程度)。

 民族自決 五カ年計画 冷戦 人工衛星

第3問〔文学部のみ〕
 次に示す図1は、紀元後2世紀頃のガンダーラ地域で制作されたと考えられる仏像である。また図1の矢印で指示した囲み部分を拡大したものが図2であり、ギリシア神話に登場する英雄ヘラクレスを表わしたものと考えられている。このような像がつくられた歴史的背景を文化交流と仏教の発展という二つの側面に注目しながら、説明しなさい(200字程度)。

f:id:kufuhigashi2:20200627133603p:plain
第3問〔外国語学部のみ)
 太平洋(the Pacific Ocean)とは、南米大陸を越えたマゼランがグアム島へ至る航海の際に嵐に遭わなかったことから「平穏な海(Mare Pacificum)」と名付けたことに由来する。この世界最大の大洋にはオーストラリア大陸をはじめ、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアに区分される島々が点在する。今日では「環太平洋地域(the Pacific Rim)」という地域概念が生まれ、アジア太平洋経済協力(APEC)や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)のように、太平洋を囲む国家間で協力が進展しつつある。下の問1〜問3に答えなさい。

問1. ヨーロッパにおいて太平洋という地域のイメージは探検家の業績から刺激されることとなった。ボリネシアの島々を探検して現地の人々と交流し、現地の情報をヨーロッバヘ伝えた人物について、当てはまるものの記号をすべて記入しなさい。

 ア、コロンブス  イ、タスマン  ウ、クック
 エ、アムンセン(アムンゼン)

問2. もともと大西洋国家であったアメリカ合衆国は、今日の環太平洋地域における協力を主導している。アメリカ合衆国は、太平洋を囲む地域に対してどのように政治的な発言力を有するようになったか。1860年代〜90年代と1940年代後半〜80年代のそれぞれの過程についてその時期に起きた戦争と関連させながら説明しなさい(それぞれ80字程度)。
………………………………………
コメント
第1問
問1. 課題は「当時(1330年頃)のイタリアの政治状況について、地域差やさまざまな政治・宗教勢力に注意しながら」でした。
 課題そのものが解答を示唆しています。つまり「さまざまな政治・宗教勢力」に分裂していて、「政治状況」は統一には程遠い状況であったということです。これについてはたいてい教科書にそれを示す地図が載っています。とくに「ルネサンス時代のイタリア」(詳説世界史、p.205)として、北部には西にサヴォイ王国、そのすぐ南にミラノ公国、ジェノヴァ共和国があり、東北部にはヴェネツィア共和国、中部にはフィレンツェ公国、ボローニャ公国やシエナ共和国が割拠しています。そして中部には帯のようにローマ教皇領があり、南部は最大の国たる両シチリア王国があります。この状況は統一される19世紀までほとんど変わらないで分裂したままでした。このモザイク状態の半島で、「政治……勢力」としては、都市間と都市内部で皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の抗争が起きています。またこれらの都市国家がコムーネという名で呼ばれるように、貴族や大商人らが周辺の中小都市や農村も支配下におく自治的な経営をしていて、皇帝から特許状をもらっています。「宗教勢力」たるローマ教皇は、1303年のアナーニ事件、アヴィニョンに教皇庁が移る「教皇のパビロン捕囚」とシスマ(教会大分裂、1378〜1417)を体験しています。これらの一部を書けば解答になります。

問2. 課題は「システムが当時の①中国経済に与えた影響について、②前後の時代やユーラシア西方地域との相違点などにも注意しながら」でした。
 難問です。下線部は紙幣しか使えない元朝の方針が「中国経済に与えた影響」という経済学のような問題です。紙幣はどれたけでも刷ることができ、一方で無価値な紙幣とちがい、価値のある銀塊を元朝政府は独り占めにしてしまう、というこの「システム」はどんな影響を与えたか、という問いでした。
 紙幣はそれ自身は無価値ですが「買いたい品物を買うことができる」という疑似価値が付けられていて、本物の銀と同等の機能を果たしています。すると「中国の君主の印が捺されている」という根拠があれば、信用の印なので、軽い紙幣だけで経済は回ることができる、ということで、流通を盛んにする、という影響が考えられます。また銀塊を独占する元朝政府に富をもたらし、ますます信用の度合が増します。豊かな中国の品物が中国を軸にして周辺にも遠隔の地にも行き渡る、と考えられます。
 しかしながら、「国教とされたラマ教の保護にも巨費が投じられ、その財源をうるために交鈔の乱発・塩税の増徴・新しい税目の設置などがくり返されて民衆の生活は疲弊した(詳解世界史)」と豊かな銀塊を湯水のように使いだすと、紙幣「交鈔」の信用度も落ちてしまい、紙幣の紙くず化が進行します。
 阪大の教師たちが著した『市民のための世界史』には、次のように書いてあります。

 帝国全域で銀を基本的な貨幣として取引がおこなわれ、それを補うために紙幣(交紗)も発行された。陸海のネットワークの結節点として建設された首都の大都には莫大な財貨が集中し、集まった富はモンゴル王侯から御用商人への投資などにより帝国全土に循環した。……朱元璋(洪武帝・在位1368〜98年)は、多くのモンゴル人を服属させただけでなく、民衆を職業別に区分し編成する方法(注)、紙幣の使用などにおいて、元朝の遺産を引き継いだ。(注:ただし元朝と違い、銀の裏付けがなかったため、15世紀には価格が暴落し、使われなくなっていった。)

 明朝も実は紙幣を発行します。ある予備校(K)の解答文では「明では、紙幣は使用されなくなったが、銀をもとにした貨幣制度は引き続いて実施された」とありました、まるで発行されなかったかのようにも採れます。ちゃんと紙幣を印刷して発行しています。明朝前半は流通していました。わたしその1枚を持っています。もう500年前のものなので紙が黒ずんでいて読めないので、ネットにある画像を貼りつけておきます。上段に「大明通行宝鈔」と印字されているのが判読できますか? この「大明」が明朝を指しています。

f:id:kufuhigashi2:20200627133743j:plain
 なおこの問題は「影響」を問うているのに、たんに貨幣の歴史的流れを書いている答案例(O)があります。それではだめです。宋代の銅銭・紙幣から紙幣一本の元朝、そして明朝の銀流通と。これ書いて何の応答になっているのか?

 ② 西方地域との相違点は、紙幣がないことです。紙幣だけ流通させるというやり方は西方にはなく金貨・銀貨・銅貨を発行して流通させています。それは秤量(ひょうりょう)貨幣といって、重さと質で価値を測って流通する貨幣です。金貨は金そのものでなくても、金に近い価値で流通する、いわば「現生(げんなま)」です。それ自身に価値があります。ビザンツ帝国の金貨ソリドゥス金貨のように純度98%というのもあり、ローマ帝国末期の純度30%という偽金に近いものもあります。
 西方、とくにイスラーム世界の貨幣については2003年度センター試験・世界史B・追試の第3問・Bに次の記事がありました。

イスラム世界では7世紀に即位したカリフ・アブド・アルマリクの統治下で初めて貨幣改革(通貨統一)がなされ、独自のディーナール金貨、ディルハム銀貨などが発行された。この金貨はビザンツ金貨・銀貨やササン朝ペルシア銀貨を継承するものであった。この貨幣改革によって、広域にわたる経済活動が促進された。また改革の際に、貨幣の図案からは、偶像崇拝を禁ずるイスラム教の教義に従って図像が取り除かれ、『クルアーン(コーラン)』の一節や支配者名など、アラビア文字中心の図案に変更された。さらに、この改革が発達を促進した貨幣経済の下で、アター制が展開したが、徴税機構の混乱などから、イクター制がこれに取って代わった。

第3問
 課題は「ロシア革命とその結果成立したソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)によって、何が達成され、何が課題として残されたのか(指定語句→民族自決 五カ年計画 冷戦 人工衛星)」でした。これを(300字程度)で書く。
 「達成」というプラス面と「課題」という達成できなかったマイナス面とを書け、という課題です。
 こういう問題の場合にソ連史を流れとして書いてしまわないこと。指定語句がさも流れを書かないと完結しないような出し方をしているのに注意です。
 あれもこれも書けませんが、列挙してみましょう。
 達成。①ロマノフ朝を倒して共和政国家をつくります。
 ②後で崩れるとしても市民的な自由を認めています。つまり民主主義です。ロシア革命はたんに社会主義革命というだけでなく、それまで果たされなかった民主主義革命、あるいはブルジョワ革命もやらなくてはならなかったのです。1905年の第一ロシア革命のさいにいったん憲法制定・国会開設とまでいき選挙も行われたのに、ストルイピンが改悪していきました。ああ、なんか「流れ」に吸収されそうな文章になりました。気をつけなくては。つまり市民的な自由である、言論・集会・結社・信仰の自由を認めました。男女平等も実現しました。
 ③社会主義としては、土地の国有化と、その使用を農民に許可する、というかたちにしました。つまり大土地所有者がいなくなりました。大企業も国有化します。いずれ中小企業も国有化しますが、戦時共産主義のさいに中小企業は私営にもどしますが、大企業は国有化のままでした。④五か年計画によって、農業国を集団化と重工業化によって工業国(工業中心の国)に変えました。
 ⑤民族自決も実現しました。あくまで各民族国家の連合・連邦というかたちにしました。表向きでしたが。
 課題は限界でもあり、失敗でもあります。ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(情報公開)をやらねばならなかった、という切り換えで初期の革命時の政策が実現しなかったことを証明しています。いや実現しなかった、というよりその反対のものをつくりあげた、といったほうが正確です。
 上の達成したはずの①共和政・②民主主義は共産党独裁、いや個人独裁に堕落していき、専制君主政にひとしい体制になりました。とくに民主主義は否定されました。人権を否定し、反体制のひとびとを逮捕・投獄・強制移住・強制収容所(ラーゲリ/グラーグ)送りといった監獄社会、巨大粛清マシーン(ソルジェニーツィンの『収容所群島』)をつくりあげました。五か年計画のさいに意図的に「富農」をつくることで、社会主義国には富農は要らず、貧農の味方であることを偽装しました。富農とされた者たちは銃殺か強制移住が課され、強引に人減らしが実行されます。移住した者たちには死が待っていて、死ぬために移住させられました。ソ連は全土に476カ所の強制収容所とその支部・牢獄を土台にして経営した国家でした。ソ連崩壊後も秘密警察の一員であり、保安庁長官であったプーチンはこの体制の傾向を引き継いでいます。
 ③④ 社会主義は、土地、機械、道具、原材料という「生産手段」を国有化します。少なくともソ連は国家が経済のすべてを統制するので、国有化した以上、市場で売買されないので、「(市場)価格」が存在しません。なので生産手段を使った事業の採算を判断できません。となれば非効率にならざるをえず、貧困が広がり、経済「成長」が阻害されます。本多勝一の『新ソビエト紀行』には次のような話が載っています。

 ホテルで昼食をとっていたときビタリクが言った——「ロシアは豊かですねえ。革命以来70余年間ああいうふうに盗んだり私物化したりしても、なんとかやってこれたんだから」。
 彼は食堂の従業員たちが帰ってゆくところを見て言っているのだ。ケーキだのパイだのお茶の葉だのを、手に手に袋に入れて出てゆく。
 「あれは堂々と盗んで出てくるんです。全員が日常的にやっているもんだからお互いさまで、かくす必要がないんですね。ときには民衆が普通では買えないものを安く手に入れるということもあるけど、たいていは泥棒です」
 月給200ルーブルでは絶対的に生活できないので、それぞれがこのように職場で泥棒やアルバイトや私物化をやって帰り、友人・同僚・親類といったコネの社会、つまりは「計画経済の裏側」の世界で物々交換して助けあう。ということになると、泥棒や私物化の可能な職業ほど人気が高く、逆にそれが困難になるほど人気がなくなる。前者の典型のひとつが食堂の従業員や国営食料品店だ。とくに食料品店の場合、自分たちの分をまず確保した上で、2番目にヤミに流す分、第3にようやく公式に売る分、という順序なので、庶民の中では食品店従業員が最も金持ちとされている。……計画経済は略奪的な完全放任無計画経済がその実態に近いことになろう。

 ⑤レーニンは『平和に関する布告』で交戦国と「民族自決に基づく無併合・無賠償」をアピールしました。そしてソ連は共和国・自治共和国の連邦というかたちをとったので民族自決は実現しました。しかしこれらの諸国は共産党の下部組織として位置づけられ従属しているのが実状でした。宗教(正教・イスラーム教)は弾圧され、民族自決が封印されていきます。レーニンは『国家と革命』の中で中央集権を批判し、民族自決は「民族の政治的分離独立の権利」を指していました。だが一方でレーニンは政治家としては中央集権論者でもありました。結局、著書やアピールで理想論を唱えても、それを自ら裏切っていったのが実状でした。このことは東欧諸国を従属的な「衛星国」にして、その自治性を否定していった経緯からも明らかです。反ソの動きはたいてい軍事的な鎮圧で応じました(東ベルリン暴動、ハンガリー暴動、プラハの春)。
 指定語句の「人工衛星」が大事なのは、1957年10月ソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功したが、何も宇宙開発ができる、という点ではなく、衛星を飛ばす技術であるロケットを空でなく敵に打ち込める、という点にあります。大陸間弾道弾(ICBM) の開発につながった点です。冷戦の深刻化です。

第3問〔文学部のみ〕
 課題は「このような像がつくられた歴史的背景を文化交流と仏教の発展という二つの側面に注目しながら」でした。①文化交流と②仏教の発展について書くことです。
 ① なんか仏像と「英雄ヘラクレスを表わしたものと考えられている」は違和感があります。この関連が分からなくても、一応「交流」の史実は答えられるでしょう。つまりアレクサンドロス大王の東方遠征、それによるヘレニズム文化の東伝、それがアフガニスタンにすでにあったインド文化、とくに仏教と融合して、初めて仏像が造られた、融合の時期はインドではクシャーナ朝の保護をうけた大乗仏教普及期でもあった、という内容です。
 なお「英雄ヘラクレス」は仏教では仏教を守ってくれる執金剛神(しゅこんごうじん)という武神に変身します。仏教はいろんなものを吸収するお化けみたいなところがあります。
 ②「仏教の発展」はこの融合面が教義にも表れてきます。それまでの小乗仏教(上座部仏教)では出家した僧侶だけが救済(解脱、悟りの世界)に入れる、自己救済に専念する修行的な仏教でした。それが出家しなくても、在家のままで救済される。衆生済度(しゅじょうさいど)といって、生きとし生けるものすべてが救済される、大きな乗りものに乗れますよ、という意味をこめて大乗仏教ともいいます。それが北伝仏教として中国・朝鮮・日本へと伝わっていきました。またブッダだけでなく、他人のために苦行をするする修行者を菩薩(ブッダに近い仏)として信仰する菩薩信仰も広がり、崇めるものが増加します。多神的な仏教です。

第3問〔外国語学部のみ)
問1. 「ボリネシアの島々を探検して現地の人々と交流し、現地の情報をヨーロッバヘ伝えた人物」を選べ、という問題。コロンブスはキューバまで行ったが中南米を越えて太平洋には入っていません。またアムンゼンは南極に到達した探検家です。するとタスマニア島・ニュージーランド・フィジー島を回ったタスマン、ベーリング海峡からニュージーランドまで探検しハワイ島まで、ほぼ太平洋全域を回ったクックが該当します。

問2. 「アメリカ合衆国は、今日の環太平洋地域における協力を主導している。アメリカ合衆国は、太平洋を囲む地域に対してどのように政治的な発言力を有するようになったか。①1860年代〜90年代と②1940年代後半〜80年代のそれぞれの過程についてその時期に起きた戦争と関連させながら説明しなさい(それぞれ80字程度)。
 ①これは想像力をかきたてる問題です。アメリカが「環太平洋地域」でなにをしたか、というので、90年代の米西戦争でグアム・フィリピン領有、ハワイの併合、ジョン=ヘイの門戸開放宣言はすぐ浮かぶでしょう、ただ60年代は浮かぶか? 想起できない場合は東アジア、つまり中国・日本・朝鮮の地図を描いてみる。するとこの3地域にも何かしてないか……、と想像してみる。アロー戦争中の太平天国の乱で常勝軍を創設したのはアメリカのウォードでした。それを英国人ゴードンが受け継ぎます。もっと少し前に日本にペリーの黒船が沖縄(ここで琉米修好条約を締結)から日本にのぼり、日米修好通商条約を1858年に結び、これは60年にワシントン会議で批准書の交換をしています。アメリカ側の全権はハリスだったのでハリス条約ともいいます。1865年にアメリカは英仏、オランダとともに兵庫開港要求事件をおこします。開港したはずの日本は鎖国に戻りがちなため安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件です。なんとか1868年に神戸港が開き、鳥羽・伏見の戦いで逃げる徳川慶喜をアメリカの軍艦イロコイ号で江戸まで脱出させています。
 少し細かいが、(ジェネラル・)シャーマン号が、1866年に朝鮮半島(羊角島)に近づいて朝鮮農民から反撃をうけて撤退しています。江華島でも交戦しています(1867)。

 ②1940年代後半〜80年代
 40年代はアジア・太平洋戦争で米国は、東アジア・東南アジア一帯を侵略した日本軍の撃退に成功します。原爆を落としてトドメを差しました。
 40年代の末の1950年から朝鮮戦争を展開します。表向きは国連軍でしたが米国が主導します。鴨緑江に近づくと中国が参戦します。日本の自衛隊の起源もできます。米軍の基地は沖縄に集中するようになります。
 またこの1950年からベトナムへの介入を始めます。フランスは54年のジュネーヴ休戦協定で撤退しますが米軍が肩代わりをすることになり、75年まで泥沼にはまります。その間、ニクソン訪中があり中国とは国交交渉を始めます。米中国交正常化はやっと1979年に実現します。台湾(中華民国)・韓国・フィリピン・日本・オーストラリアなどと軍事同盟を結び中国・ベトナムに対する包囲網を築きました(米華相互防衛条約・米韓相互防衛条約・米比相互防衛条約・日米安全保障条約・太平洋安全保障条約・東南アジア条約機構など)。 

問3. 「ヨーロッパでは1993年にヨーロッパ連合(EU)が発足した。アジア太平洋経済協力と比較した場合ヨーロッパ連合に見られる協力の特徴はどのような点にあったか」という問い。
 この問題の類題は、一橋の過去問(2015年第2問)「ECとASEANの比較(400字)」があります。阪大の問題はアジア太平洋経済協力(APEC)なので、ASEANより広い国々を集めています。
 共通点は広域な超国家的な協力機構であり、後で加盟国を増やしていった点、平和維持に貢献しているも共通しています。この問題集の「特徴」は相違点と同じ意味なので、この共通点は要りません。
 ヨーロッパ連合(EU)はその結束性が強く、国家を越えた組織として各国の法を越えた法・議会・裁判所・通貨などをもち、事実上国境のない世界をつくっています。それに対してアジア太平洋経済協力(APEC)は政治的な独立は維持し、主に経済的な協力機構として機能しています。政治的な声明は出しても拘束力はありません。

 

一橋世界史2018


 次の文章を読んで、問いに答えない。
 人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまだ生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。
 (中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の空間もまた変わってゆく。そして政治的・歴史的な活動の新たな尺度と次元が、新しい学問、新しい秩序が……始まるのだ。この拡大・発展がひじょうに根深くまた思いがけないものであるために、ただ人間の標準や尺度、外的な地平だけでなく、空間概念そのものの構造まで変わってしまうということもある。ここにおいて空間革命ということが問題になりうる。
 (カール・シュミット著、生松敬三/前野光弘訳『陸と海と一世界史的一考察』より引用。但し、一部改変)

問い ヨーロッパの歴史を考えるとき、この文章で述べられるような「空間革命」が11〜13世紀にかけて見られたと考えられる。それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察しなさい。(400字以内)


 近代ドイツの史学史に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 総じて言えば、一概に古代経済史研究とは称しても、歴史学派〔経済学〕におけるものと〔近代歴史学の〕古典古代学におけるものとは、研究への志向の契機においても、事象の対象化の方法においても、ひとしからざるものが存するのである。歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであって──即ち歴史学ではないのであって──古代にも生活のー特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機を形作ってゐるのに、古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機になってゐる。歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐるのに、古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として、又等質たるべき両世界として表象することが主要問題になってゐる。古典古代学にも発展の理念は存するけれども、それは等質の両世界における、同一律動のそして自界完了的なる発展の理念であって、全ヨーロッパ的、又は全人類的発展の観念ではない。古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学における方法であるのに、古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう
 (『上原専祿著作集3 ドイツ近代歴史学研究新版』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部について、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい。(400字以内)


 次の文章は、ある朝鮮人革命家が、アメリカのジャーナリストに語った回想を元に書かれたものである。これを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 先生は、中学校の教室の前に芝居じみた厳粛さで立ち、生涯忘れられない美しい言葉のあふれる演説をした──今日それはなんと反語的に響くことか!
 「この日、朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和なデモ行動が行われよう。われわれはただ独立と民主主義を求めるのみだ。誰もわれわれの正当な要求を拒むことはできない。」
 私たちは彼に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。
 デモの途中、町の中で大衆集会が開かれ、そこで新たな独立宣言が読みあげられた。この宣言は国際主義的心情の色彩が濃く、平和精神と万国の国際的信義の擁護とをうたっていた。また中国とインドに共闘の呼びかけを行っているが、中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた
 私は世界的大運動に重要な役割を演じているような気持ちで、至福千年がついに来たのだと思いこんでいた。しばらくして伝わってきたヴェルサイユの裏切りのショックは大変なもので、私などまるで心臓が裂けてとび出すかと思った。
 (ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌』より引用。但し、一部改変)

問1 この文章全体で描写されている運動と下線①が示す運動について、それぞれの名称を示しなさい。

問2 下線②で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を論じなさい。

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コメント

第1問
 過去問1982年の導入文・問題とほぼ同じものでした。ちがうのは300字から400字になっていること、「政治」が「社会」に置き換わったことくらいです。過去問とほぼそっくりな問題を出すということは朝鮮史でも見られますが、この大学の怠慢性を表しているのか、受験生はそれほど古い過去問は解いてこないはずとナメているのか?
 1982年の問い方は以下のものです。このブログの1982年は導入文を省略していますが、ほぼ2018年と同じです。

 中世中期のヨーロッパにおいても著者のいう空間像の変化・空間革命に対応する現象があった。それはどのようなきっかけによるものであったか。またその空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ。

 この問い方は「以前の空間意識と対比しながら」と今年の「変化」という問いかたより明快性を求めているようにとれます。ただ「変化」とはbeforeとafterであり以前の空間から以後の空間と相違をはっきり書くことは変りません。
 また「中世中期」という言葉が分かりにくかったためか、今年は「11〜13世紀」と時期を指示しています。もしかして出題者はかつての受験生だったのかも知れない。中世は300年ずつ分けて前期・中期・後期と区分するのでなく、前期ははじめの500年間を指し、11〜13世紀を中期とし、後の14〜15世紀を末期(後期)とします。この時代区分は拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)でも指摘しています。

 問われているのは「「空間革命」……(1)それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような⑵経済・⑶社会・⑷文化上の変化が生じたか」でした。(1)は十字軍・東方植民・レコンキスタの三個です。ともに軍事行動です。東方植民は過去問2013年度に出題されたテーマであり、『北の十字軍 ヨーロッパの北方拡大』ともいう行動です。これらの軍事行動を初期膨張ともいいます。「きっかけ」は何かが動き出す、ここでは革命がおきる際の勢いを指しているので、たんに気候の温暖化とか、三圃制という技術では弱い「背景」的なものです。
 ⑵⑶⑷はそれぞれ「変化」を書くので、以前と以後を双方とも書けば6つの課題が課せられています。

 ところで空間革命とは何かが気になります。ヒントは導入文にあり、「別の大きさ、深み、そして別の地平……新しい土地、新しい海……、新しい学問、新しい秩序」と書いていて、質的な中身の変化でなく三次元的な広がりを強調しています。
 たとえば次のような解答例があります。

エルベ川以東への東方植民やセルジューク朝の圧力を受けたビザンツ帝国の要請による十字軍遠征、イベリア半島でのキリスト教徒によるレコンキスタが行われ、ノルマン人も南イタリアやシチリア島を征服した。

 これは「きっかけ」にあたる軍事行動そのものですが、さてこの行動の「結果として」どのような「空間革命」が起きたといいたいのでしょうか? 書いてありません。結果として、エルベ川とピレネー山脈とカルパティア山脈の中に閉じ込められていた閉鎖的な空間(before)が、その東部(東欧)に南部(イベリア半島)に東南部(バルカン半島から小アジア・レヴァント)にと広げられ、ヨーロッパが拡大されたヨーロッパ(after)に変貌してきました。
 先の作答者は「きっかけ」と「背景」を混同しているようです。この解答文の前に、「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して」と書いています。この内容は「きっかけ」でなく背景です。
 「きっかけ」と「背景」はどうちがうのでしょう? 前者は、導入文に「クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって」とあるように何か革命が起きる「前進……爆発」という事件を指しています。「背景」なら学問が該当します。先の解答例の温暖化・三圃制・安定は事件がおきるバックグラウンドや状況のことです。「きっかけ」は「起爆剤・引き金・端緒・呼び水」になるものを指しています。
 次のような解答例はどうでしょうか?

人々の移動が活発化し、都市への人口流入も進んだ。遠隔地商業も発達し、北イタリアのヴェネツィアなどはレヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも貨幣経済が浸透し、定期市も開催され、中世都市は特許状を得て自治権を獲得した。

 これは経済の変化を書いたのでしょうか? またbeforeの空間がどういものかかがはっきりしません。これはafterを書いているのですが、その内容に空間的なものとしては、「都市への人口流入……レヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも」といった点が該当するにもかかわらず、空間革命としてこれらを説明していません。
 つまり以前に中世都市という空間はなく、この11〜13世紀に農村と都市の二重空間に変貌したのです。また商業空間は地中海世界にほぼ限られていたものが、北海・バルト海・レヴァント(東地中海)もふくむ全欧に広がったのです。
 「人口流入も進ん……貨幣経済が浸透」は空間というよりも質的な変化なので書かなくていいものです。
 また「社会」の変化はどれがそうなのかはっきりしません。経済と社会をいっしよくたにしたのかも知れません。しかしこれでは得点はとりにくい。「社会」と指定されたら、特別に社会の変化はこうだと説明すべきです。どうやら都市への人口流入を社会的変化としているようで、それなら「社会」を書いてから「経済」を書いたという順が、課題文と合っていません。できるだけ、経済空間の革命は……、社会空間の革命は……、という順で説明すべきです。
 「社会」は政治以外のことを書けばいいのですが(拙著『世界史論述練習帳new』のコラム「社会とはなに?」を参照)、すでに「経済」「文化」は別枠になるので、それ以外とすれば、都市と農村、民族、共同体のあり方、などが考えられます。都市と農村の二重構造はすでに説明しました。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人(ビザンツ帝国)に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒の集団が進出して、自己の世界を拡大しました。十字軍は当時は巡礼とみられていましたが、その巡礼が盛んとなり、スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラへ、イェルサレムへと足が伸ばされました。旅行の空間が拡大しています。

 「文化」空間の革命はどうでしょう? 次の解答文はどうでしょう?

イスラーム世界との接点となったパレルモやトレドではギリシア語やアラビア語文献がラテン語に翻訳され、古典古代文化やイスラーム文化が西ヨーロッパに流入してスコラ学などの発展を促し、新知識を求め人々が集まった都市には大学が設立された。

 書いてある内容にまちがいはありませんが、空間として書かれているのは大学だけです。以前の空間は何だったのでしょう? 修道院や宮殿でした。カロリング=ルネサンスの宮殿、クリュニー修道院のような狭い空間に学問は限られていました。それが11〜13世紀に次々と大学が創設され、学問内容もカトリック教会内の狭いものでなくイスラーム文明の広範な学問を取り入れました。このイスラーム文明を受け入れる「12世紀ルネサンス」という翻訳活動もさかんでした。以前はアーヘンの宮殿でラテン語の復活やカロリング小字体で古典の写本をつくることに専念していました。それがアリストテレスという広い学問を導入して、体系的なスコラ学を完成しました。学問領域も神学だけでなく、法学・医学も加わり、練金術も研究されました。
 また都市には、暗いロマネスク様式に代わり、ギルド毎のゴシック様式の教会が建てられ、ステンドグラスの輝く空間が出現しました。
 他人の答案を批判対象にしたので、わたしの答案もあげておきます。批判の対象にしてください。

(わたしの解答例)
きっかけは十字軍・レコンキスタ・東方植民などの遠征である。経済面の商工業空間は地中海商圏だけであったが、革命の結果、北海・バルト海商圏、中継地のシャンパーニュ、フランドル、更にレヴァント地方も含む全欧的な空間に広がった。社会面の以前は、領主・農奴による古典荘園で孤立していたが、革命後は中世都市とギルドが生まれ、農村と都市の二重構造に変った。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒が自己拡大をとげた。巡礼はサンチャゴ=デ=コンポステラやイェルサレムへと足が伸ばされた。文化面は文字文化が宮廷や修道院の閉鎖的空間に限られていた。「12世紀ルネサンス」による革命後は大学の学問、世俗文学、都市のゴシック寺院に拡大した。神学だけでなく、アリストテレスを軸とした広い学問領域に拡大し、医学も法学も練金術も研究するように変った。

第2問
 一橋の特徴がよく表れた問題です。大学の講義・試験をそのまま高校生・受験生にぶつける、という落差の大きさです。悪くいえば、あまりの鈍感さです。高校生がどういう世界史を学んできたのか考慮せず、自分の学問が高校生にも分かるはずだという、自己陶酔的・自閉症的な問題です。古代経済史研究(近代歴史学)と歴史学派経済学の比較を求められても、近代歴史学による古代経済史研究がどのようなものか教科書には一切書いてないし、「歴史学派経済学」としてリストの名は挙がっていても、それがどのような経済学なのかハッキリしません。

先駆者リストは、古典派経済学とことなり、おくれた発展段階にある国民経済は国家の保護を必要とすると説いて、ドイツ関税同盟の結成に努力した(詳説世界史)
ドイツのリストは、後発資本主義国の立場から、国家による産業の保護育成の必要を唱え、のちの歴史学派経済学の先がけとなった。(東京書籍)

 という二つの教科書では、「国家の保護」は共通した説明をしていますが、前者の「発展段階にある国民経済」、後者の「後発資本主義国の立場」が「歴史学」派のなんらかのヒントにはなっているとまでは推理できます。しかし古代経済史研究がどのようなものか分からない場合、比較のしようもありません。

 近代歴史学についての教科書の記事は、

ランケらが史料の厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた(詳説世界史)
近代歴史学の基礎を固めたランケ(東京書籍)

 これをもとに歴史学派経済学は「史料の厳密な検討によって正確な史実を究明」しない学問なのか……、と疑ってみてもらちの明かないことでしょう。受験生の手元にこれを証明する何があるのでしょうか?
 受験生としてはこの問題に対して白紙で返すのが、一つの抗議の姿勢になります。たぶん白紙の多さに採点したひとたち(教授)も納得したのではないでしょうか? 自分が高校生だったときにこの問題は解けたか? 無理だなあ、という感想になるでしょう。
 それでもなんとか書かなくては、という脅迫の中で、考えるとすれば、導入文の文章しか手がかりはありません。文章を拾ってみると、
 
(1)歴史学派経済学は経済学
  全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する
  全人類的発展の観念
  古代の事象は、それが経済世界を構成する方向
(2)(近代歴史学による)古典古代学は古代世界への親炙が研究契機
  古代と現代とを本来等質の両世界として表象
  自界完了的
  古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向

 難解そうな言いまわしがあるけれど、単純化すれば(1)の研究対象は経済学であり、(2)は歴史学なので、ちがうのだ、という馬鹿馬鹿しいくらいの主張です。(1)は経済だけを対象にしていて、(2)は経済も含む古代世界全体を対象にしている、(1)は「古代経済を排列する」とあるように、現代までつづく経済の発展に関心があり、(2)にはそんな関心はない、というものです。

 下線部の「もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう」は分かりにくい文章です。「論争」ってどんな「古代経済に関する」論争があったのか日本の高校生が知っているのでしょうか? もし経済学部の大学生に聞いたら知っている学生は何人いるでしょうか?
 導入文のどこにも精神的・文化史的な説明がありません。この下線部を根拠にして、課題文は「歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい」は難題・奇問・狂問です。歴史的コンテクスト(歴史的背景)の「対比」といっても同じ「近代」の中での対比です。

 導入文をもとに、それを受験生なりに説明してみることの他、手だてはないようです。「導入文の解説」が問題なの? ということに疑問に感じつつも、やっみることにします。

歴史学派経済学は全欧的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する、ということを課題にしており、ギリシア・ローマの歴史はドイツ近代の歴史につながる土台として位置づけようとした。そこには啓蒙思想の影響がみられ、たんなる過去の過ぎ去った歴史とはとらず、連続した全人類的発展の観念をもち、古代の事象は、それが経済世界を構成する方向性をもったものととらえる。とくに歴史学派は当時の経済問題の解決策の一つとして古代史を論争の対象にしていた。そこにはどのような政策が現今の問題を解決するかという実践的な課題をかかえていた。しかし近代歴史学による古典古代学は、古代世界そのものが研究の契機であり対象である。古代は古代として現代と切り離して考察の対象としており、人類史の初期事象として考えるような連続性は意識しておらず、古代は古代で完結した、現代とは必ずしも関連性をもった歴史とはみなしていない。まして政策的な課題を自己の課題としてはいない。

 といったことになるでしょう。
 しかし、これでいいのか、晴れないので、導入文の原文を読んでみることにしました。
 導入文の「総じて言えば」で始まる論文の題は『歴史的経済派の古代経済史研究』というもので、たくさんのドイツ人歴史家の著書・論文を紹介しています。だが、この問題の課題である「近代歴史学」との比較をしている部分はありません。ランケのことを述べた個所もなくて、ただ歴史学派の古代研究を解説してから、結論として、いきなり、「総じて言えば、」と近代歴史学との比較論に入っています。出題者はこの導入文を大学の講義で解説しているのかも知れませんが、受験生には知りようもありません。
 歴史学派経済学の中にマックス=ヴェーバーを入れて、彼について結構書いてありますが、ヴェバーはヴェーバー独自の法制史・社会史の研究があり、古代研究の一面を提示しています。しかし、受験生がこのヴェーバーを使えるとはおもえません。
 またアダム=スミスとフリードリヒ=リストの相違点を明解に書いていますが、これは経済学と経済学の英独間の論争であり、ここで問題になっている古代経済史論争ではありません。
 受験生の立場にたてば、リストとランケでしか「歴史学派経済学と近代歴史学の相違……対比させつつ考察しなさい」の解答は出せそうにありません。ところが上原專祿がこの論文に書いているようにリストは「主著『政治経済の国民的体系』が問題になる限りにおいては、古代経済について関説するところは極めて少い(p.42)」「古代経済に積極的関心を示して居らない(p.51)」のです。ならばリストが言及していない古代経済について、さも言及したかのように作文をすることになります。
 こういう論文を元にこの問題が出題されること自体が異常というほかありません。
 ランケが「厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた」と言ったとしても、その著作を読んだひとは、そうは受けとらないはずです。西欧至上主義に毒されていて、上原專祿も別の論文でビスマルクの考えに近いことを説明しています。こうなると、どういう対比が可能なのか、ますます怪しいことになります。リストもドイツ優遇の政策をとるべきと唱えた人物で、共通性が多いといわねばなりません。
 予備校の解答例をネットでご覧ください。「対比」にはならず、共通点を書いています。どこがどう対比されているのか作答者たちも訳がわからなくなったようです。たいていどちらも国家の保護・国民固有の歴史・国民国家の強調(ナショナリズム)などとを書いていて、対比になっていません。

第3問
問1 「描写されている運動」と「下線①が示す運動」の名称。
 引用文の「朝鮮独立の宣言……平和なデモ行動」とあるので朝鮮の三一運動(三・一独立運動)と推理できます。また山東利権(二十一カ条要求の一部)をめぐる同時期の中国の運動として五四運動(五・四運動)が想起できます。

問2 下線②で示されている会議(ヴェルサイユの裏切り)に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を、という課題。三一運動と五四運動の双方とも背景・展開・意義を書かなくてはならないので、6個の要求があります。予備校の解答例では、両国に共通する国際的な背景を書いていても、双方でちがう背景もあるのに書いていません。どれが意義に当たるのか明快な説明もありません。採点官にこれがそうだろうなあ、と推測させるものになっています。課題文のように、背景は……、展開は……、意義は……、と書くのが望ましい。自分の解答を明解にします。

 共通する国際的な背景が「ヴェルサイユの裏切り」、つまり十四ヵ条の民族自決が適用されなかったこと、二十一カ条廃棄が認知されなかったことですが、その他にロシア革命、東欧諸国独立のニュース、アジア諸国の独立運動のニュースがありました。裏切られた、といっても東欧諸国は18年の段階で独立運動と独立宣言を行っていて、パリ講和会議の承認をまっていたのですが、アジアでは戦争中に独立宣言を出したところはないので、遅れた運動であったこと、アジアの独立を認める考えが西欧列強にこの段階ではなかったことも考慮すると、「裏切り」は無理な表現ともとれます。
 しかしロシア革命の影響は大きく、各地でソヴィエト政権ができる情勢でした。北京大学の李大釗はロシア革命を「庶民の勝利」とマルクス主義研究会をつくりました。これが後の共産党に発展します。

 朝鮮の背景は、19世紀末からの義兵闘争がありながら、日本軍は韓国を併合して植民地化していました。すでに過酷な武断支配が10年つづいていて、その間、約2万人の義兵を殺害しています。「保安法」「新聞紙法」「出版法」「朝鮮笞刑令」などによって言論・集会・結社という市民的な自由を奪い、「三人以上集会スルヲ許サレズ」という圧迫を加えていました。
 経済面では、「土地調査令」「森林令」などの法令により莫大な国有地や民有地を略奪し、東洋拓殖株式會社という土地売買の会社を皇室・財閥によって設立し、これを日本人移民に安く払い下げる事業をすすめました。日本人地主は1909〜15年の間に692人から6969人に増えます(朴慶植『朝鮮三・一独立運動』平凡社)。「日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった」といわれました(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店)。
 文化的には、「朝鮮教育令」(1911)を公布し、日本語の使用を強制し、朝鮮の歴史、地理を教科目からなくしました。書堂(私立学校)に対する規制をきびしくし、法令違反にたいしては学校閉鎖を断行したため、1910年に1973校あったのが、19年には742校となり、学生数も8万余から3万8千余に減ってしまいました(朴慶植・前掲書)。
 1919年1月幽閉されていた高宗が突如死去しました。日本人による毒殺とみられています。

 展開過程は、まず1月からのパリ講和会議の開催にともない、日本に留学していた学生たちが独立宣言書を書いて日本政府・朝鮮総督府・各国大使館などに送り、2月8日にYMCA会館で留学生大会を開き、独立宣言書を読んで「大韓独立万歳」を叫びました。逮捕される者が増えていきましたが、韓国内に刺激をあたえ、パゴダ公園で独立宣言書が読まれてデモ活動に入りました。すると日本から帰国するものたち(約360人)も加わり、全国的な運動に発展しました。学生・市民・農民・工場労働者・儒生・宗教家・官吏(両班)など全階層が参加します。
 非暴力(無抵抗主義)の原則としてデモをしましたが、日本側の対応は銃殺でした。弾圧による朝鮮人の死者は、日本側の発表で7509名、負傷者1万5849名、被逮捕者4万6306名、被焼却民家715戸、同教会47、同学校2となっていますが、実数は数倍になるでしょう。まるで戦場で掃討作戦をおこなったような弾圧です。
 なかでも韓国で知られていて日本で知られていない殺戮は「水原提巌里」のものです。

 4月15日午後、日本軍一中尉〔有田俊夫ー引用者〕の指揮する一隊が水原郡の南方の提巌里〔郷南面ー引用者〕に入り、村民に諭示することがあると称してキリスト教徒および天道教徒30余人を教会に集合させた。そして教会の窓や戸を堅く閉ざし、ほしいままに兵隊は教会堂内に射撃を加えた。堂内の一婦人が抱いていた幼児を窓の外にだし、「私は殺されてもこの子の命は助けてほしい」とたのんだが、日本兵はその子の頭を突き剌して殺した。堂内の人々もほとんど死傷した。日本兵はさらに放火して教会堂を焼いた。洪某が傷を負って窓外にとびだしたところ日本兵はこれを射殺した。康某の妻は夜着(よぎ)でからだをつつみ、かきねの下にかくれたが、日本兵は銃剣で突き殺し、夜着をかぶせて焼いた。また洪夫人が火を消そうとしたところを射殺され、幼児2人もまた殺された。また1人の若い婦人はその夫を救おうとしてやってきて殺された。こうして教会堂内で殺されたものぱ22人、教会の庭で死んだものは6人で屍体は焼却された。日本兵はまた采巌里(ママ)の民家31戸に放火したが、火は8面15村落317戸に延焼し、死者は39人に達した。さらに近隣の村落で連日銃撃、焼却、殴打などの蛮行がおこなわれ、死者は千余人にのぼった。(朴殷植『朝鮮独立運動の血史1』p.212〜213)

 この半島の運動は、波及して上海に大韓民国臨時政府の設立に、朝鮮人が多く住む中国東北地方の間島や沿海州で活動につながりました。また日本側の軍事的な鎮圧は、この後に起きた関東大震災時における朝鮮人虐殺に連動しました。1919年当時、朝鮮で政務総監の水野錬太郎、警察局長の赤地濃、憲兵司令官の石光真臣、京畿道憲兵分隊長の甘粕正彦は、23年には日本に帰国していて、内相・警視総監・東京南部警備司令官・憲兵大尉となり治安の中心でした。日本で殺戮を再現する面々です。

 三一運動の意義は、第一に軍事的な弾圧にもかかわらず、全階層・全民族がこぞって参加したため、それまでの儒生や元兵士による義兵闘争とちがい非暴力の運動を展開したこと。第二に、周辺地域の運動にも影響をあたえました。とくに中国領内に亡命して伝えたものたちがいて、5月7日におこなうはずのものが「五四」運動に早まりました。第三に、日本は武断政治を文化政治に転換して、いくらか朝鮮語の新聞・雑誌の発行、社会.労働団体の結成などを認めました。

 中国の背景は、辛亥革命への失望があり、軍閥が割拠していて中国の行く末を多くのひとが心配していました。北京大学長の蔡元培は革新的な学者を招いて大学改革を実施しており、「新文化運動」がおこっていて、白話運動に共鳴した魯迅の『狂人日記』が発表されました。また陳独秀は雑誌『新青年』を発行し孔子を否定して「デモクラシーとサイエンス」先生に学ぼうと呼びかけていました。経済面では、第一次世界大戦間に欧米企業が後退したため、紡績、製粉、マッチ、タバコ、石鹸などの軽工業を中心に、民族産業が戦争中に発展しました。労働者の数も戦争中に60万人から200万人に一気に増えました。しかし長時間労働が課せられ、結社、集会、ストは刑罰で禁止されていました。戦争中に二十一カ条要求が日本からつきつけられ、それを容認した北京政府や日本から懐を暖めてもらっている軍閥への反発が強まっていました。
 運動の展開過程は、本来二十一カ条要求を受けて入れた「国恥」記念日たる5月7日に大規模デモを予定していたのが、北京大学の学生が4日に天安門広場で「二十一ヵ条を取消せ」「青島を返せ」「売国賊を懲罰せよ」とプラカードをかかげて市内をデモ行進したことが波及し、売国奴宅の襲撃、警察との衝突に発展、逮捕される学生もいました。逮捕のニュースは市民にも、全国の都市にも衝撃をあたえ、ストが頻発することになりました。これを受けて北京政府はヴェルサイユ条約の調印拒否、売国奴とされて高官の罷免を決めました。初めて女性たちも街頭に出てデモをした運動でした。
 意義は、5月4日を今も「青年節」として祝っているように、学生を中心に、いわゆる「大衆」、権力も金もない学生、市民、商人、労働者が運動の主体となり、それまで一部革命家・民族資本家たちの活動であったのが、そうではないひとひどが生活の場でたちあがったこと。第二に、排除すべきは、中国を圧迫する日本・英国などの帝国主義列強であること、その状態を許す古い勢力たる軍閥の打倒しなくてはならないこと、そのことを志向する中国国民党と共産党の結成されたこと、などです。

 上の解説を参考に、君の解答をつくってみてください。