世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2019

第1問
 1989年(平成元年)の冷戦終結宣言からおよそ30年が経過した。冷戦の終結は、それまでの東西対立による政治的・軍事的緊張の緩和をもたらし、世界はより平和で安全になるかに思われたが、実際にはこの間地球上の各地で様々な政治的混乱や対立、紛争、内戦が生じた。とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至るが、それらの歴史的起源は、多くの場合、オスマン帝国がヨーロッパ列強の影響を受けて動揺した時代にまでさかのぼることができる。
 以上のことを踏まえ、18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 アフガーニ一 セーヴル条約 ミドハト憲法 ギュルハネ勅令 日露戦争 ロンドン会議(1830) サウード家 フサイン=マクマホン協定

第2問
 国家の歴史は境界線と切り離せない。境界をめぐる争いは絶え間なく起こり、現地の生活を無視して恣意的に境界線が引かれることも頻繁であった。このことを踏まえて、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 19世紀半ば以降、南アジアでは英による本格的な植民地支配が進展した。英領インドを支配する植民地当局は1905年にベンガル分割令を制定したが、この法令は、ベンガル州をどのように分割し、いかなる結果を生じさせることを意図して制定されたのかを3行以内で説明しなさい。

問(2) 太平洋諸地域は近代に入ると世界の一体化に組み込まれ、植民地支配の境界線が引かれた。このことに関連する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

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(a)地図中の太線で囲まれた諸島が、19世紀末から1920年代までにたどった経緯を2行以内で説明しなさい。
(b)ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化について2行以内で説明しなさい。

問(3) 1990年代後半より、中国と韓国の間で、中国東北地方の帰属の歴史的解釈をめぐる対立が生じた。このことに関連する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。
(a)当時の韓国の歴史教科書では、韓国史は「満州と韓半島」を舞台に展開した、とされている。その考え方の根底にある4〜7世紀の政治状況について、2行以内で説明しなさい。
(b)中国は、渤海の歴史的帰属を主張している。その根拠の1つとされる、渤海に対する唐の影響について、2行以内で説明しなさい。

第3問
 歴史上、人の移動によって世界各地の異なる文化が交わり、知識や技術、ものが伝播し、その結果、人々の生活や意識に変化がもたらされた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。
問(1) アレクサンドロス大王の東方遠征によりエジプト、ギリシアからインダス川に至る大帝国が樹立されると、その後300年ほどの間に東西文化の融合が進み、ポリスの枠にしばられない普遍的な立場から価値判断をしようとする考えが生まれてきた。このような考え方を何というか、記しなさい。
問(2) 季節風の発見により活発になったインド洋交易は、各地の産物のみならず、様々な情報ももたらした。1世紀にこの交易に携わったギリシア人が、紅海からインド洋にかけての諸港市やそこで扱われる交易品について記録した書物の名を記しなさい。
問(3) ユーラシアの東西に位置した後漢とロ一マ帝国は、何度か直接の交流を試みた。97年に西方の「大秦」に使者を派遣した後漢の西域都護の名を記しなさい。
問(4) 唐の時代、多くの仏教僧がインドを訪れ、経典や様々な清報を持ち帰った。それらの仏教僧のうち、海路インドを訪れ、インドおよび東南アジアで見聞した仏教徒の生活規範・風俗などを『南海寄帰内法伝』として記録した人物の名を記しなさい。
問(5) ノルマン人は8世紀後半から海を通じてヨーロッパ各地へ遠征し、河川をさかのぽって内陸にも侵入した。彼らの一派が建てたキエフ公国は何という川の流域にあるか。川の名を記しなさい。
問(6) インド洋交易の主役となったムスリム商人は、10世紀以降、アフリカ東岸のモンバサやザンジバルなどに居住した。彼らの活動に伴ってアラビア語の影響を受けて発達し、アフリカ東海岸地帯で共通語として用いられるようになった言語の名を記しなさい。
問(7) 13世紀に教皇の命を受けてカラコルムを訪れた修道士(a)は、旅行記を書き、モンゴル帝国の実情を初めて西ヨーロッパに伝えた。また十字軍への協力を得るため仏王によってモンゴル帝国に派遣された修道士(b)も、貴重な報告書を残している。これらの修道士の名を、冒頭に(a)·(b)を付して記しなさい。
問(8) ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服が、労働力としての酷使や伝染病の伝播によって先住民に災厄をもたらした一方で、アメリカ大陸原産の作物は世界各地に広がつて栽培され、飢饉を減らし、人口の増大を支えるという恩恵をもたらした。これらの作物の名を、2つ記しなさい。
問(9) インドの伝統技術によって生産された、ある植物の花から紡がれ織られた製品は、丈夫で洗濯に強く、染色性にもすぐれていることから、17世紀にはヨーロッパでも人気を博し、さかんに輸入されるようになった。この製品の名を記しなさい。
問(10) 宗教の自由を求めて英から北米大陸に渡ったピューリタンは、入植地をニューイングランドと呼んだ。やがて東部海岸地域に英の13植民地が築かれるが、このうち北部のニューイングランドの植民地の名を2つ記しなさい。

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コメント

第1問
 課題は「18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ」でした。つまり時間が「18世紀半ばから1920年代まで」、テーマが「オスマン帝国の解体過程」、副次的な要求は「帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ」でした。
 まず「18世紀半ば」の段階でのオスマン帝国の領土がどんなものであったかの前提が必要です。導入文に書いてある「支配領域」のことです。教科書では、『詳説世界史B』ならp.195に、『新世界史B』ならp.176に、帝国書院の『新選・世界史B』ならp.179に、実教出版の『高校世界史B』ならp.119に地図が載っています。それぞれ最大版図の時期のもので、「18世紀半ば」では、ピョートル1世にアゾフ市を奪われた(1696)こと、またカルロヴィッツ条約(1699)でハンガリーを失っていること、2点だけは地図に書いてないが、他は「18世紀半ば」でも持っていました。すると一番端の部分は、北アフリカではアルジェリア(なぜモロッコが征服できなかったかはウィキペディアの「サアド朝」を参照)、東はアラビア半島、北ではバルカン半島の西のスロヴェニア、黒海の北岸ではウクライナ南部で、その西方ではベッサラビア(モルダヴィア)の地域が領域になります。
 予備校の「模範」答案では、アルジェリア・チュニジア、クリミア半島以外の黒海北部周辺を書いたものは一例もありませんでした。どうして? 「解体」というのは急激に消滅するのでなく、ゆっくり砕けていく過程が想像されいるはずです。そのためにも「支配領域」が削られていく過程を丹念に描く必要がありました。教科書の地図もちゃんと見ていないため、前提となる「領域」から出発できない。予備校の講師も含めて、これから学ぶひとは地図をよく見て勉強しましょう。

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わたしの授業プリントから



 もう一つの課題として「民族運動や帝国の維持を目指す動き」と2つの要求があり、前者はオスマン帝国自身も自己を守るための「民族」意識の目覚めはあるものの、つまりこれは「維持」にあたるので、ここは主に帝国内諸民族の独立運動のこと。オスマン帝国に対する独立運動が「民族運動」であり、同時にオスマン帝国領をねらう新たな侵略者たる西欧列強に対抗することも課題でした。「民族」側に二つの課題、オスマンからと西欧からの2つの解放運動が必要でした。
 離れていった地域にみな民族運動があるのですが、しかし、民族「運動」らしく描いた解答例は少ないですね。ムハンマド=アリーと、指定語句のアラビア半島のサウード家と、指定語句のフサイン・マクマホン協定にのっかるアラブ人、どの民族とはいえないパン=イスラーム主義を遊説して回ったアフガーニーくらいで、これも指定語句でした。指定語句にないもので民族運動は書けなかったのか? 例年とちがい今年は60字増えたので、書けそうですがね。アルジェリアのアブドゥル=カーディル、エジプトのウラービー、アルバニア人、ユダヤ人、クルド人などです。ユダヤ人の民族運動シオニズムも現在の紛争の要になるものですが、これを書いた解答例も少ない。
 指定語句の多さから、どうしてもオスマン帝国の内政にあたる「帝国の維持を目指す動き」に集中した解答例が多かった。それだったら「とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至る」という過去と現代をつなぐ問題でなくてもよかったのでは?

第2問
 「境界線」の問題は過去問にもありました(1978年)。そこに紛争があり条約が結ばれるから出題しやすいテーマです。
問(1) ベンガル分割令の内容「どのように分割し、いかなる結果を生じさせる意図」を問うています。教科書(詳説世界史)では「イギリスは,ヒンドゥーとイスラームの両教徒を反目させて運動を分断することを意図して,1905年にベンガル分割令を発表した」と意図を書いていますが、「どのように」は書いてありません。東京書籍では双方とも書いていて「イギリスは宗教的な対立を利用して民族運動を分裂させようと,1905年に反英運動の中心であるベンガル州をムスリムの州とヒンドゥー教徒の州に分けるベンガル分割令(カーゾン法)を発表した」とあります。三省堂のは「インド総督カーゾンは、1905年に民族運動がとくに進んでいたベンガル州を、ヒンドゥー教徒の多い西部地域とムスリム(イスラーム教徒)の多い東部地域とに分割して運動を分断した(ベンガル分割令)」とあります。専門書では「地形・言語・経済など多くの点からみて一体をなすベンガルの真中を、なんら特別の必然的理由もなく区切るものであった。たったひとつ、宗派別人口構成からみて、ヒンドゥーの多い地域とムスリムの多い地域を区別する線が、ほぼこの分割線と一致するだけであった(山川『各国史・インド史』)」とあります。この他にベンガルに敷かれていたザミンダーリー制をライヤットワーリー制に変える意図も含まれていました。これは教科書に書いてないので、書けなくてもいいです。

問(2) 
(a)太平洋諸島の「19世紀末から1920年代までにたどった経緯」でした。地図中の引っ込んだ地域にグアム島(米領)があり、他の地域はドイツが取った植民地でした。マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島です。「1920年代まで」ということは第一次世界大戦での変化を書け、ということで、ドイツが失い、日本が委任統治領として取った、ということを書けばできたことになります。ただ、ドイツ領であったビスマルク諸島は英豪の委任統治領になっていますから、すべてのドイツ領が日本のものになったのではありません。

(b)「ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化」は特異な問題でした。もともと英領であったのが1907年に自治領になり、それが「30年代」に入れるとなると、全自治領に該当する新法として、ウェストミンスター憲章(1931)で「完全」な自治、つまり英国本国の承認なしに自主的な憲法制定が可能になりました。自治領優遇により恐慌対策(善隣外交)を円滑にしようとした政策でした。
 今年(2019年)3月15日にニュージーランド、クライストチャーチ市のモスクで50人が死亡した銃乱射事件がおき、この事件に対する首相アーダーンの対応が見事でした。スカーフをかぶり、遺族の話に耳を傾け、有名になりたがっている加害者の名を「名無し」のテロリストと呼び、事件の動画を見ないように呼びかけました。容疑者の人種差別的な「マニフェスト」の所有、配布を禁止しました。憎しみを煽り立てる傾向を抑えようとしていて、こうした姿勢は、愚昧で冷酷なトランプ、ヘイトスピーチを放置する安倍とは対照的です。「事件後すぐの記者会見では、「They are us. 彼ら(殺されたムスリム達)はわたしたち(ニュージーランド国民)だ」と強調し、思いやりや共感、愛を持って対応することを主張し、銃規制と被害者への経済的な支援も公言した。(HUFFPOST、3月26日の記事)」

問(3) 「中国東北地方の帰属の歴史的解釈をめぐる対立」についてでした。不思議なことに京大でも今年の第1問に「マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)の諸民族は国家を樹立し、さらに周辺諸地域に進出することもあれば、逆に周辺諸地域の国家による支配を被る場合もあった。4世紀から17世紀前半におけるマンチュリアの歴史について、諸民族・諸国家の興亡」というテーマが出題されました。

(a)当時の韓国の歴史教科書では、韓国史は「満州と韓半島」を舞台に展開した、とされている。その考え方の根底にある4〜7世紀の政治状況について、です。
 「4世紀」は高句麗の台頭期であり、313年に楽浪郡・帯方郡を併合しています。しかしその後は南部を支配する新羅・百済との三国抗争を展開し、唐と組んだ新羅に北部に押しやられてしまいました。それで先住の靺鞨族(書けない場合は先住民)とともに渤海を建国します。
 「令和」の出典は万葉集だと喧伝していますが、『文選』にも似た表現があり、当時の渡来人にとっては『文選』に学ぶことは教養でした。歌人たちにとっても教養の一つだったでしょう。編者らしい大伴氏の先祖をたどれば高句麗にたどりつくようです。高句麗は今の北朝鮮にあたります……。「国書」? ラクスマンが国書を持って日本を訪れた、ペリーが大統領フィルモアの国書を徳川幕府に提出した、といった場合の国書は外交文書のことです。国産の意味ではなかった。以下にも
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64241

(b) 「渤海に対する唐の影響」についてでした。初めは「震国」と名乗っていた渤海は唐(玄宗)との外交交渉で「渤海」名を認めてもらっています。2代目は唐と対立しましたが3代目以降は唐の文化・制度を真似ていて、都城の制で上京龍泉府をつくり、律令格式・儒教・仏教を受容し、科挙も導入したらしい。

第3問
問(1) 「アレクサンドロス大王の東方遠征……その後300年ほどの間に東西文化の融合が進み、ポリスの枠にしばられない普遍的な立場から価値判断をしようとする考え」という問いは容易でした。世界市民主義(コスモポリタニズム)です。今は拡大して地球市民と訳したりしています。マケドニア王国の支配下はいった各ポリスは自身のポリスの法を執行することができなくなり、マケドニアの命令に従うことになりました。良く取れば、市民はみな平等だということで、地域主義を打破せよ、ということになります。

問(2) 「季節風の発見により活発になったインド洋交易は、……1世紀にこの交易に携わったギリシア人が、紅海からインド洋にかけての諸港市やそこで扱われる交易品について記録した書物」は『エリュトラー海案内記』と言われていて、この海はたぶん今アラビア海のことであろうと見られています。「諸港市やそこで扱われる交易品」はウィキペディアの「エリュトラー海案内記」に地図がのっています。英文のほうが詳細な説明をしています。

問(3) 「97年に西方の「大秦」に使者を派遣した後漢の西域都護の名」とは、班超です。使者は甘英。大秦というローマ帝国には着けなかったようですが、パルティア(安息国)までは到達していて、張騫よりは西方に距離を伸ばしています。

問(4) 「『南海寄帰内法伝』として記録した人物の名」という易問。南の海に寄って帰ってきたので、水っぽい名の義「浄」さん。玄奘の「奘」ではない。

問(5) 「キエフ公国は何という川の流域にあるか。川の名」はドニエプル川。この川沿いにキエフ市があります。現在はウクライナの首都です。少し北に事故をおこしたチェルノブイリ原発があります。

問(6) 「アラビア語の影響を受けて発達し、アフリカ東海岸地帯で共通語として用いられるようになった言語の名」とあるのでスワヒリ語です。現地の言葉であるバントゥー語とアラビア語が混ざってできました。

問(7) 13世紀に教皇の命を受けてカラコルムを訪れた修道士(a)は、旅行記を書き、モンゴル帝国の実情を初めて西ヨーロッパに伝えた。インノケンティウス4世が派遣したプラノ=カルピニです。
 十字軍への協力を得るため仏王によってモンゴル帝国に派遣された修道士(b)……これはルイ9世が派遣したウィリアム=ルブルクです。会ったのがモンケ=ハーンなので、ル(ルイ)ンル(ルブルク)ンモーケ(モンケ)と覚えます。

問(8) 「アメリカ大陸原産の作物は世界各地に広がつて栽培され、飢饉を減らし、人口の増大を支えるという恩恵をもたらした。これらの作物の名」はジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ。

問(9) 「インド……植物の花から紡がれ織られた製品」はキャラコ(キャリコ)。

問(10) 「13植民地が築かれるが、このうち北部のニューイングランドの植民地の名を2つ」は難問・奇問でした。合衆国全体の東北地方の端に存在する6州ですが、マサセチューセッツ州は書けても後は書けなくてもいい。他はメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、ロードアイランド州、コネチカット州の5つ。アメリカのひとが東京の周辺の県名を言えないからといって軽蔑すべきことではないのと同じ。

京大世界史2019

第1問(20点)
 マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)の諸民族は国家を樹立し、さらに周辺諸地域に進出することもあれば、逆に周辺諸地域の国家による支配を被る場合もあった。4世紀から17世紀前半におけるマンチュリアの歴史について、諸民族・諸国家の興亡を中心に300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A,B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 西アジアで最初の文字記録は、メソポタミア(現在のイラク南部)でシュメール語の楔形(くさびがた)文字によって残された。シュメール人の国家が滅亡した後も、シュメール語は文化言語としてこの地域を支配したセム語系の民族(アムル人)によって継承・学習された。シュメールの文化や言語を受け継いだ古代メソポタミアの社会構造を知る手がかりとなる(1)ハンムラビ法典碑は、アムル人が建てたバビロン第1王朝時代のものである。この王朝は、前2千年紀前半アナトリアに興ったインド=ヨーロッパ語系の言語を使用していた(2)ヒッタイト人の勢力によって滅ぼされた。
 前2千年紀後半になると、(3)アラム人、(4)ヘブライ人、(5)フェニキア人などのセム語系民族の間で表音文字アルファベットの使用が始まり、前1千年紀に入ると、この文字体系が西アジア、ヨーロッパ地域に広まつていった。ギリシア文字の使用は前9〜8世紀に始まり、やがてイタリア半島でもラテン文字が使用されるようになった。前6世紀ペルシアに勃興して(6)西アジアとエジプトにまたがる大帝国を建てた[  a  ]朝では、王の功業などを記録する楔形文字と並んで、行政や商業にはアラム文字が使用されていた。マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の結果、前330年この大帝国は滅亡し、西アジアやエジプトでも一部ではギリシア文字が使用された。古代エジプトで使用されていたヒエログリフが記された(7)ロゼッタ=ストーンは、エジプトを支配していた(8)プトレマイオス朝時代に作成された石碑で、ギリシア語の文章が併記されていたことがヒエログリフ解読の契機となった。
 アラム文字は西アジアや中央アジア地域でその後使用された多くの文字の原型となったが、紀元後7世紀にアラビア半島に興り、その後1世紀余のうちにイベリア半島から中央アジアにまで拡大した(9)イスラーム勢力の支配領域において使用されたアラビア文字は、その最も繁栄した後裔(えい)と呼ぶことが出来よう。アラビア文字は、イスラーム教徒(ムスリム)にとっての聖典『クルアーン(コーラン)』を記す文化的な核心を成す文字とされ、その使用はムスリムの活動範囲と重なって拡大した。イスラームに改宗した(10)イラン系、(11)トルコ系の人々も、アラビア文字の表記をそれぞれの言語に合わせて少しずつ改変して使用した。[  b  ]帝国を廃して成立した(12)トルコ共和国では、1928年からラテン文字に基づくトルコ文字の使用を法律的に義務付けた。中央アジアや(13)アゼルバイジャンで独立したトルコ系民族を主要な構成要素とする諸国の多くも、現代ではラテン文字やキリル文字を基礎とする各国文字を使用している。


(1) この法典碑は1901〜02年にイラン南西部の遣跡スーサで発掘されたものである。当時イラン(国名はペルシア)を支配していた王朝は何か。その名を記せ。
(2) ヒッタイト人の国家は前2千年紀の後半エジプトと外交関係を持ち、それは1887年エジプトで発見された楔形文字によるアマルナ文書にも記録されている。この文書が作成された時代に、従来のアモン神からアトン神へと信仰対象の大変革を行ったとされるエジプトの王は誰か。その名を記せ。
(3) アラム人は大きな国家を形成することなく、シリアの内陸部ダマスクスなどの都市を拠点に交易に従事していたとされる。前1千年紀前半、これらのアラム人を支配下に置き、西アジアで大きな勢力を持つようになった国家は何か。その名を記せ。
(4) 前6世紀、新バビロニア(カルデア)王国の攻撃でヘブライ人の王国(ユダ王国)の首都イェルサレムが陥落、王族や主要な人物はバビロンヘ連行され、捕囚となった。これを行った新バビロニアの王は誰か。その名を記せ。
(5) フェニキア人は海洋民族として活躍した。彼らの活動の根拠地となった現在レバノン領の港市の名を一つ挙げよ。
(6) 前7世紀にカルデアやリュディアと並んで強力となったイラン西部に本拠を置いた国は何か。その名を記せ。
(7) ロゼッタ=ストーンは、ナポレオンの工ジプト遠征の際、イギリス軍の襲来に備えてロゼッタ(ラシード)の城塞を修復中に偶然発見されたものである。1822年にこの石に刻まれた銘文を参照してヒエログリフの解読に成功したフランス人学者は誰か。その名を記せ。
(8) この王朝は前30年ロ一マによって滅ぼされた。ヘレニズム時代、この王朝に対抗してシリアを中心とした西アジアを支配し、前1世紀前半に滅亡した王朝は何か。その名を記せ。
(9) この宗教は南アジアを経て東南アジアヘと伝播し、この地域で多数の信者を獲得するまでになった。1910年代の初め、現在のインドネシアで結成された、この宗教を基盤とする民族運動組織は何か。その名を記せ。
(10) 11世紀の初め、アラビア文字を用いたペルシア語で、神話・伝説・歴史に題材を採った長大な叙事詩『王の書(シャー=ナ一メ)』を書いたイラン東部出身の詩人は誰か。その名を記せ。
(11) この民族の一部は、中央アジアを中心に国際的な交易に従事するイラン系民族と密接な関係を持ち、その民族が用いていたアラム系文字を使用するようになった。そのイラン系民族は何か。その名を記せ。
(12) この国の成立に当たって、アンカラに本拠を置く政府が1923年に第一次世界大戦の連合国と締結し、国境を画定した国際条約は何か。その名を記せ。
(13) 16世紀初頭、現在のイラン領アゼルバイジャン地域で建国し、その後、現在のアゼルバイジャン共和国領まで支配領域を拡大し、十ニイマーム派を奉じた王朝が、16世紀末から首都を置いた都市はどこか。その名を記せ。

B 16世紀半ばをすぎると、明朝は(14)周辺の諸勢力との抗争によって軍事費が増大したため、重税を課すようになり、天災や飢饉なども相侯(あいま)って、各地で反乱が頻発し、次第に支配力を失っていった。1644年、[  c  ]の率いる軍が北京を陥落させると、最後の皇帝であった(15)崇禎帝は自殺し、270年あまり続いた明朝の命運はここに尽きることになった。
 その後中国本土を支配したのは清朝であった。1661年に即位した康熙帝は、呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧した。また、(16)オランダを破り(17)台湾に拠って清に抵抗していた鄭氏政権を滅ぼした。これによって雍正帝・乾隆帝と三代つづく最盛期の基礎が築き上げられた。対外的には、ジュンガルを駆逐してチベットに勢力を伸ばすとともに、東方に進出してきたロシアとのあいだに(18)ネルチンスク条約を結んで国境を取り決めた。また国内では、キリスト教(カトリック)(19)宣教師の一部の布教を禁止したほか、字書や(20)類書(事項別に分類編集した百科事典)の編纂など文化事業を展開した。
 雍正帝のときになると、用兵の迅速と機密の保持を目的に、政務の最高機関である[  d  ]が設置された。1727年にはロシアとキャフタ条約を結び、清とロシアの国境を画定した。
 乾隆帝の時代には、「十全武功」と呼ばれる大遠征が行われた。(21)西北ではジュンガルを滅ぼし、天山以北の草原地帯と以南のタリム盆地を征服した。ー方、南方では台湾・(21)ビルマ(現ミャンマー)・(23)ベトナム・大小両金川(今日の四川省西北部)にも出兵した。これらの遠征は必ずしもすべてに勝利を収めたわけではなく、ビルマ・ベトナムではむしろほとんど敗北に近かったのであるが、それでも清朝はユーラシア東部の大半をおおうような巨大な版図を形成することになった。
 この頃のユーラシア東方世界を考えるとき、注目すべきなのは、チベット仏教が急速に浸透していったことであろう。たとえば1780年、乾隆帝とチベットの活仏パンチェン=ラマ4世の会見が実現すると、元朝の帝師[  e  ]と世祖(24)クビライの関係を再演してみせようとして、パンチェン=ラマはみずからを[  e  ]の転生者と称し、乾隆帝を転輪聖王と称揚した。つまりモンゴル・チベット・東トルキスタン・漢地などをふくむ「大元ウルス」の大領城を「大清グルン」の名のもとにほぼ完全に「復活」させた乾隆帝は、クビライの再来として転輪聖王と認識されたと考えられる。チベット仏教に基づく権威によって王権の正統化が図られたといえよう。
 しかし嘉慶帝・道光帝.咸豊帝の頃になると、清朝の勢力は次第に衰え、19世紀半ば、(25)アヘン戦争とアロー戦争(第二次アヘン戦争)が相次いで発生すると、ヨーロッパ列強との間に南京条約など不平等条約の締結を強いられた。


(14) このような諸勢力のうち、明の北方辺境を侵したモンゴルの君主は誰か。その名を記せ。
(15) この皇帝の祖父の時代、各種の税と労役を一括して銀で納入する方法が広まっていった。この税制は何か。その名を記せ。
(16) 当時オランダがヨーロッパにもたらした中国の陶磁器は世界商品であった。その陶磁器の生産で名高い中国江西省の都市はどこか。その名を記せ。
(17) 台湾は日清戦争の結果、1895年に日本に割譲され、第二次世界大戦後には中国国民党の率いる中華民国政府が移転してきた。2000年には総統選挙によって初の政権交代が行われた。この国民党に代わって政権を担った政党は何か。その名を記せ。
(18) この条約を結んだときのロシア帝国の皇帝は誰か。その名を記せ。
(19) フランス出身でイエズス会に所属し、ルイ14世の命令でこの時期に訪中した宣教師らが測量・作製した中国全土の地図は何か。その名を記せ。
(20) 康熙帝のときに編纂が開始され、雍正帝のときに完成した類書の名を記せ。
(21) 1884年、これらの地に設置された省は何か。その名を記せ。
(22) 18世紀半ばに内陸のビルマ人勢力が建国し、ほぼ現在のミャンマーの国土と等しい領域を支配し、さらにタイのアユタヤ朝を滅ぼした王朝は何か。その名を記せ。
(23) 当時ベトナムでは、北部の鄭氏と中部の阮氏が対立していたが、18世紀後半に起こった反乱によって両者はともに滅亡した。この反乱は何か。その名を記せ。
(24) クビライは日本遠征を行い、その軍には高麗軍も参加していた。現在は朝鮮民主主義人民共和国の南部に位置する高麗の首都はどこか。その名を記せ。
(25) これらの戦争に敗れた清は列強に対して大幅な譲歩を余儀なくされ、国内体制の「改革」をせまられることになった。これを洋務運動という。この運動に見られた、儒教などの精神を温存しつつ西洋の技術を導入するという考えは何か。その名を記せ。

第3問(20点)
 15世紀末以降、ヨーロッパの一部の諸国は、インド亜大陸に進出し、各地に拠点を築いた。16世紀から18世紀におけるヨーロッパ諸国のこの地域への進出の過程について、交易品目に言及し、また、これらのヨーロッパ諸国の勢力争いとも関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 人類は、結婚や相続といった枠組みを通じて、有形無形の財産や権利を受け継いできた。古代ギリシアのポリスでは、参政権は成人男性市民が有し、女性の発言力は家庭内に限られた。これに対して、アテナイの喜劇作家[  a  ]は『女の平和』という作品で、女性たちが性交渉ストライキで和平運動に参画する姿を描き、時事風刺を行った。
 古代ロ一マでは、カエサルの遺言で養子になったオクタウィアヌスが元首政を開始した。そしてこの帝位を継がせる者として、[  b  ]を同じく養子とした。(1)ヘブライ人の王の子孫とされるイエスに対する信仰は、社会的地位において劣るとされた女性や下層民を強くひきつけた。この信仰を中心とするキリスト教は、後の欧州世界を大きく規定した。
 古代末にドナウ川中流のパンノニアを本拠としたフン人の中では、伯父から王位を共同で継承した兄弟王権が成立した。兄ブレダの死後、(2)単独支配者となった王は大帝国を建設したが、その死亡に伴い帝国は瓦解した。東ゴート人は、(3)テオドリックを指導者とし、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。この国はロ一マ由来の制度や文化を尊重したが、後に(4)東ロ一マ皇帝により滅ぼされた。
 フランク王国は、分割相続を慣習とし、カール大帝を継承したルートヴィヒ1世が死亡すると、3人の子の間で闘争が激化し、(5)王国は3つに分割された」。その後、中部フランクが東西フランクに併合され、イタリア・ドイツ・フランスの基礎が築かれた。
 ノルマンディー公国では、フランス貴族との通婚により生まれた次男・三男以下のノルマン騎士が、傭兵や征服者として欧州各地に出かけた。イタリアでは、(6)半島南部とシチリア島の領土を継承した王が、両シチリア王国を誕生させた
 この時期、封建貴族に支配された農奴は、地代として生産物の貢納と、領主の農地を耕作する賦役とを課された上に、結婚税を労働力移動の補償として、死亡税を保有地相続税として支払うなど、(7)多岐にわたる負担を義務づけられた。
 ロ一マ=カトリック教会は、修道士を通じて民衆教化を進めた。教会には、国王や諸侯から土地が寄進され、聖界諸侯が政治勢力となったが、現実的には教会は世俗権力の支配下にあり、また腐敗も進んだ。こうした世俗化や腐敗を批判する教会内部の動きは、フランスのブルゴーニュ地方にあった[  c  ]修道院が中心であった。司教職などを相続や取引の対象とすることや、戒律に反する妻帯慣行も非難の対象であった。
 イングランドでは王位を巡る混乱が生じた。結果的に、フランスのアンジュー伯が(8)ヘンリ2世として即位したが、アキテーヌ女公と結婚しフランス西部を領有するに至り、大陸とブリテン島にまたがる大国が建設された。他方でフランス側では、カペー王家の断絶に伴い、ヴァロア家のフィリップ6世が即位すると、大陸におけるイングランド勢力の一掃を図ったが、これに対してイングランド王(9)エドワード3世は、フランスの王位継承権を主張した
 中世後期のイタリアには、ロ一マ教皇領の北に、コムーネと呼ばれる自治都市が成立した。フイレンツェでは、商人や金融業者などの市民が市政を掌握した。やがて、(1O)有力家系が、その後数世代にわたり寡頭政を敷いた
 北欧では、混乱を平定したデンマークの王女マルグレーテが、ノルウェー王と結婚し、父王と夫との死亡により、デンマークとノルウェー両国の実権を掌握した。さらにスウェーデン王を貴族の要請で追放すると、(11)3国を連合することとなった。これはデンマーク主導による連合王国を意味したが、後にスウェーデンとの連合は解消された。


(1) 『マタイによる福音書』によれば、イエスはヘブライ人の王の子孫とされる。息子ソロモンと共に王国の基礎を築いた王は誰か。その名を記せ。
(2) この王は、カタラウヌムの戦いで西ロ一マ・フランクなどの連合軍に撃退され、イタリアでは教皇レオ1世との会見を経て撤退した。この王の名を記せ。
(3) テオドリックは、フランク王の妹と結婚した。このフランク王はキリスト教(アタナシウス派)に改宗したことで知られるが、その王は誰か。その名を
記せ。
(4) この皇帝はその后テオドラとともに、北アフリカを征服するなど、地中海帝国を再現させた。この皇帝は誰か。その名を記せ。
(5) この王国の分割を決定した条約は何か。その名を記せ。
(6) 伯父と父より継承し、南イタリアとシチリアにまたがるこの王国を作った王は誰か。その名を記せ。
(7) 教会は、農奴からも税として収穫の一部を徴収した。この税は何か。その名を記せ。
(8) ヘンリ2世が開き、2世紀余り続いた王朝は何か。その名を記せ。
(9) エドワード3世がフランスの王位継承権を主張した血縁上の根拠を簡潔に説明せよ。
(10) 金融業で資金を得て、学芸を庇護し、政治権力を維持した一家は何か。その名を記せ。
(11) マルグレーテはデンマークとの国境に近い町に3国の貴族を集め、養子のエーリック7世のもとに3国が連合することを承認させ、その実権を握った。この連合は何か。その名を記せ。

B 世界史の中で19世紀は「ナショナリズムの時代」と言われるように、様々な地域で国民国家の形成が目指された時代だった。しかしそれは同時に、かつてない規模の人々が生地を離れて新天地に向かった「移民の時代」でもあった。エ業化に伴う社会経済的な変動を背景とするこの時代の移民は、(12)16世紀以降盛んになった大西洋を横断する強制的な人の移動と移動先での不自由な労働との対比で、「自由移民」と呼ばれることがある。
 ヨーロッパから海を渡った「自由移民」の代表的な行き先は、アメリカ合衆国(以下、合衆国)であった。合衆国はそもそも移民によってつくられた国であったが、(13)19世紀半ばごろから急拡大した労働力需要は、新たな移民をひきつけ、世紀後半には中国や日本からも多くの移民を迎えた。しかし、(14)これらの新しい移民と旧来の移民やその子孫との間には、摩擦も生まれた。同じころ(15)オーストラリアや南アフリカにも様々な地域から多くの人が移民として向かったが、いずれにおいても白人至上主義の体制が敷かれた。
 19世紀以降の大規模な人の移動を物理的に可能にしたのは、鉄道や蒸気船などの交通手段の発達だった。合衆国では1869年には大陸の東西が鉄道によって結ばれ、大西洋側と太平洋側のそれぞれの港に到来する移民の動きは、国内での移動と連結された。同じころスエズ運河も開通し、地球上の各地はますます緊密に結びつけられるようになった。しかし、こうした陸上および海上の交通網の発達は、人々の自由な移動を推し進めただけではなかった。(16)列強は帝国の拡張や帝国主義的進出のために各地で鉄道建設を進め、原料や商品の輸送のために鉄道を利用するばかりでなく、軍隊を効率的に移動させ抵抗を鎮圧するためにも利用した。それゆえ、(17)鉄道はしばしば、帝国主義に抵抗する民衆運動の標的ともなった
 20世紀に入ると新たに飛行機が発明され、長距離の移動はさらに容易になる。ただし、発明からまもない時期の飛行機の実用化を促したのは、旅客機としての利用ではなく、軍事目的の利用だった。飛行機を使った空中からの爆撃が広範に行われたのは第一次世界大戦中であったが、歴史上最初の空爆は、(18)1911〜12年のイタリア=トルコ戦争においてイタリア軍によって実行された。
 国境を越える人の移動が拡大すると、それぞれの国家は、パスポートを用いた出入国管理の制度を導入して人の動きを管理しようとした。また、(19)大規模な人の移動は感染症の急速な伝播などの危険を増すものでもあったため、各国は港での近代的な検疫体制を整備した。こうした出入国管理や検疫の制度は、その運用の仕方次第で、移民を差別あるいは排斥する手段ともなった。
 このように、19世紀以降に拡大する人の移動とそれを支えた交通手段の発達は、単純に人々の自由な移動の拡大を意味したのではなかった。第二次世界大戦期およびそれに先立つ時期にも、「不自由」な移動は大規模に発生した。その極端な形は、ドイツ国内やドイツの占領地におけるユダヤ人をはじめとする人々の強制収容であったが、「亡命」を余儀なくされ国を出る人々も多数あった。たとえば、(20)著名な物理学者アインシュタインは、この時期に合衆国に亡命した1人である
 (21)第二次世界大戦後も、戦争や内戦により、世界の様々な地域の人が「難民」という形で望まない移動を強いられてきた。アジアでは1970年代後半から80年代に、(22)インドシナ半島で多数の難民が生み出され、多くは合衆国などに向かい、一部は日本にも向かった。
 以上のように見るならば、19世紀以降、今日に至る時代は、大量の「強いられた移動」に特徴づけられた時代とも言えるのである。


(12) この強制的な人の移動について、欧米では18世紀末から19世紀に入るころに反対の気運が高まる。1807年にそのような移動を廃止したのはどこの国であったか。その名を記せ。
(13) (ア)1840年代から50年代にかけてヨーロッパのある地城は合衆国に向けてとくに大規模に移民を送り出した。この地域とはどこであったか、そしてこの地域が大量の移民を送り出した事情とは何か。簡潔に説明せよ。
(イ) 1840年代後半から移民を多くひきつけた合衆国側の事情について簡潔に説明せよ。
(14) 合衆国におけるこのような動きは1924年の移民法に一つの帰結をみた。この法の内容を簡潔に説明せよ。
(15) これら両国が20世紀初めにイギリス帝国の中で得た地位はどのようなものであったか。その名称を記せ。
(16) ロシアがアジアヘの勢力拡大の手段としたシベリア鉄道はある国の資本援助を受けて建設された。その背景には、その国とロシアの同盟関係があった。この同盟は何か。その名称を記せ。
(17) 19世紀末の中国山東省で生まれ、鉄道の破壊を含む運動を展開した集団は何か。その名を記せ。
(18) この戦争でイタリアが獲得した地域は、今日の何という国に含まれるか。その国名を記せ。
(19) 1918年から翌年にかけて、インフルエンザが世界中で大流行し、多数の人が命を落とした。この時期にこの伝染病を世界規模で急拡大させた要因の一つとして、大規模な人の移動があった。その移動はなぜおきたのか。簡潔に説明せよ。
(20) 第二次世界大戦下の合衆国で活動したアインシュタインはその経験を踏まえ、戦後、哲学者ラッセルらとともに一つの運動を提唱した。この運動は何を目指すものであったか。簡潔に答えよ。
(21) 第二次世界大戦後、イギリスの委任統治の終了を機に急増し、現在も世界で最大規模の難民集団をなす人々は何と呼ばれるか。その名を記せ。
(22) この難民が生まれた背景には、1970年代半ばのベトナムの状況の変化があった。この変化について簡潔に説明せよ。

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第1問
 この問題で一番受験生が困ったのは「マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)」という地名だったでしょう。地図を見ながら世界史を勉強してきたひとには容易でしたが、そうでなければ、「4世紀から」の歴史を想起することは難しく、せいぜい10世紀の契丹(遼)ぐらいしか浮かばなかったという受験生も多いはず。朝鮮史を地図とともに学んでいたら、容易に高句麗が想起できたはずです。高句麗がたんに北朝鮮だけの国でなく、マンチュリアで建国して朝鮮半島に南下している国であるからです。
 高句麗は、マンチュリアに住んでいた夫余(ふよ)族・靺鞨(まっかつ)族も支配下においておいていました。首都になったらしい集安(吉林省)も桓仁(遼寧省)も中国側、つまりマンチュリアにあります。
 前漢・新・後漢と国境紛争をしながら台頭し、三国魏と組んで遼東を支配した公孫(こうそん)氏と戦っています。しかし魏とも戦い、八王の乱以後の西晋の混乱を利用して鴨緑江を越えて楽浪郡と帯方郡を併合しています(313)。
 4〜5世紀の広開土王(好太王、391〜412)のときに百済・新羅・倭(任那)との戦いをし、長寿王(413〜491、79年の在位?)のときに平壌に遷都しました。
 6世紀に平壌を中国式の都城制に見習って造りかえ、世紀末から中国を再統一した隋と国境紛争がおきました。2代煬帝が3回の遠征(612、613、614)を敢行しましたが撃退に成功しています。唐の2代高宗も高句麗に派兵しました(645)が撃退しています。
 唐3代高宗のとき、実権は武后にあったさいに新羅と組んで百済が滅亡し(660)、ついで高句麗も滅亡(668)しました。組んだ新羅と唐との唐羅戦争は新羅の勝利となり、唐は撃退されました。
 滅亡した高句麗の遺民は、マンチュリアに退くも、北朝鮮の半分(大同江以北)と中国東北地方と沿海州(ロシア極東の一部)とを領有する渤海国を建国します(698)。初め国号は「震国」でしたが、唐・玄宗に朝貢して「渤海(郡王)」にしてもらいました(713)。10世紀には遼東に台頭した契丹(遼)に滅ぼされます(926)。この滅亡には諸説があり、そのうちの一つが白頭山の噴火との関係です。ヴェスヴィオ火山の噴火を越える灰が朝鮮半島から日本の東北地方・北海道に降り積もったためで、真の滅亡は939年の噴火の年だという説です。日本から渤海への使節が930年代にも派遣されているので926年滅亡説は変だと。
 いずれにしろ契丹(遼)がマンチュリアとともに中国の燕雲十六州まで南下し(936)、このモンゴル系の契丹を、後にジュルチン(女真族)の金(1115〜1234)が南下して宋と組んで挟み撃ちしました(1125)。完顔阿骨打です。マンチュリアと淮水以北を抑え、猛安謀克制で支配しました。
 13世紀にはチンギス=ハンの攻撃、次いでオゴタイ=ハンが攻撃してきて金は滅亡します。受けついだ元朝もマンチュリアを支配しました。
 元朝を北に追放した明朝はマンチュリアをどうしたのか?  3代永楽帝の漠北親征は外モンゴルへの遠征であり、マンチュリアには及んでない。「五出三犁」と誇ったものの、オイラト・タタールたちは全面戦争を避けたのであり、勝手に永楽帝のほうで誇っているだけです。ウィキペディアの「永楽帝」では「中国東北部へ出兵、黒竜江付近まで進出して女真族を支配下に置いた」と書いてありますが、まるで軍事的な征服であるかのようで、誤解を生む書き方です。建州衛という衛所制に組み込んで間接統治しただけであり、征服して直接支配したのではありません。吉川弘文館の『標準世界史地図』にある「属領」という記載が正しい。平凡社の解説「ヌルガンとし【奴児干都司】には、
1409年(永楽7),黒竜江(アムール川)下流の特林に置かれた明の軍政機関。正式には奴児干都指揮使司という。明代の初め,明の影響力がしだいに中国東北部から沿海地方に浸透していったが,永楽帝の時代,ここに居住する女直族を招諭し,女直の部族長に官職を与えるとともに,〈衛〉と呼ばれる組織に編成した。これらの衛所を統轄するための上級機関として設けられたのが奴児干都司である。明から派遣された兵士が常時500人から2000人駐在し,その影響力はサハリンのアイヌにまでも及んだ」とある。軍事的な征服ではなく、「女直の部族長に官職を与える」(引用終了)
とあるように現地の族長を中国の末端官僚であるかのように偽装して「統治」するというやりかたで、唐の羈縻政策と変わりません。
 16世紀に明朝は衰え、この建州衛のにらみも効かなくなり、女真族は完全に独立していました。17世紀にはこの建州衛の女真(女直)から後金ができて、順治帝のときには中国本土の支配者になっていました。

第2問
A 容易な問題が多いなかで、問(10)の『王書』の詩人名を問うたのは奇問にちかいものでした。2014年版の『世界史用語集』には詩人フィルドゥシーも作品の『シャーナーメ』も頻度4で載るようになりました。日本に現存する最古のペルシア語の文書は1217年(北条義時の時代)に渡来したペルシア語の詩句で、『王書』の1節らしい(岡田恵美子『言葉の国イランと私 世界一お喋り上手な人たち』平凡社)。
B 問(17)も奇問にちかいものでした。古い用語集も新しい用語集も頻度3で載っているものです。むしろ李登輝(頻度5)の名を問うべきでした。

第3問
 第3問は欧米史でありながら、インド進出史ということで、アジア史にひとしい問題でした。時間が「16世紀から18世紀」、テーマは「進出過程」でそれに副問として「交易品目」「ヨーロッパ諸国の勢力争い」があります。欧州列強による「進出」は貿易基地を築くことだけでなく、領土の争奪戦があり、また土地と資源の収奪も含みます。植民地化という観点でいえば、経済的な侵略も含み、英国が最終的な勝利者ということになります。
 16世紀のポルトガルはボンベイ(ムンバイ)・ゴア・ディウ・カナノール・コーチン・ジャフナ・コロンボに貿易基地を築き、香辛料を主に交易しました。
 17世紀のオランダはこのポルトガルの基地を奪うことで進出します。コロンボ・ジャフナ・コーチンを奪い、プリカットにも基地を築きました。交易品はインド産と限定していないので、香辛料はもちろんのこと、日本銀を使い中国の絹織物・生糸・陶磁器を仕入れて西欧に送っています。漆器・毛織物・綿織物・工芸品・武器・火薬・船なども。
 17世紀はオランダの世紀でしたが、フランスも来ています。フランスがポンディシェリ(1672)、シャンデルナゴル(1673)に、イギリスはマドラス(1640)、ボンベイ(1661)、カルカッタ(1686)に基地を築きました。この英仏の争いは、インド東南部をめぐる領地争いとなり、カーナティック(カルナータカ)戦争(1744〜48、1749〜54、1758〜63)が3回も争われ、イギリスが勝ちます。といってどこぞの予備校が書いているようにフランスが完全に駆逐されたのではありません。1954年(20世紀)までフランスはこれらの港町を所有していました。
 イギリスは18世紀に、プラッシーの戦い(1757)、マイソール戦争(1767〜69,80〜84,90〜92,99)、マラーター戦争(1775〜82)と征服戦争に勝利していき、同時に各地の綿織物工場破壊と職人殺害を実行していきました。キャラコの刺激を受けて、その物まね(産業革命)を始めた英国は、戦争で現地工業を破壊することによって市場づくりをしたことになります。
  出口治明が『全世界史 下巻(新潮文庫)』で、
一方で長い間、綿織物をほぼ独占して輸出産業の中心にしてきたインドは、すべてが熟練工による手作業でした。蒸気機関を使った機械との競争になったら、もう勝てるはずがありせん(引用終了)
と書いていますが、機械でつくったことが勝敗を決めたのでなく、英国がインドを征服する過程で綿織物業の工場破壊と技術者殺戮を実行したからです。インドで綿織物を生産できないようにしたことが勝利に、植民地化につながりました。大量生産は機械に負けるとしても高級織物は手作業でも優れたものをつくることができます。
 このことは、英国が中国を征服できず、19世紀全体でも南京木綿(nankeen)に勝てず、この中国産の綿布(土布)が流通したことでも証明されています。

第4問
A 空欄bのティベリウスは細かい。できなくてもいい問題です。用語集に載っていません。キリストを処刑したときの2代目皇帝です。
問(6) 「南イタリアとシチリアにまたがるこの王国を作った王は誰か」のルッジェーロ2世も細かい。用語集で頻度1。一冊の教科書にしか載っていないという意味です。
B
問(14) 1882年の「移民法」は中国人を排除し、1924年の移民法はアジア諸国からの移民を全面的に禁止しました。
問(15) 「20世紀初めにイギリス帝国の中で得た地位」は自治領 Dominion といって、白人支配が確定しているところを順次認めていきました。カナダ、オーストニリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、と。
問(22) 「難民が生まれた背景には、1970年代半ばのベトナムの状況の変化があった。この変化」はもちろんサイゴン陥落(1975)によりベトナム戦争が終結し統一(1976)が北によって実現したため、それを嫌ったひとたちがボートピープルとして大量に脱出したからでした。華僑を主に、100万人を越えるひとたちが、社会主義化と弾圧を逃れて欧米や中国にむかいました。映画『ディア・ハンター』の終わり頃にこの難民の映像が出てきます。
 この問題文は移民と難民をごっちゃ述べていますが、移民と難民の目的・原因はちがいます。わかりますか?
 日本人は移民・難民でできた民族であり、縄文人に一番近いのはバイカル湖の近くに住むブリヤート人で、それにジャワ島地域から北上したもの、弥生人たる中国・朝鮮から亡命・移民してきたものたちの混血です。いやもっと起源をたどれば皆アフリカから出発しています。そういうことは今は分かっているのに、移民・難民を受け入れず、かつ同民族の朝鮮人・中国人を嫌っています。伊勢神宮は新羅のひとたちが造ったのに、「日本精神」の起源のように錯覚しています。なぜこの神宮から朝鮮式土器が出土するのか? 「神宮」という表現自体が朝鮮的な呼び名で、明治になってから、明治神宮・平安神宮と真似していきました。なぜこうも歴史を等閑する「日本人」になってしまったのか?

一橋世界史2019

第1問
 次の文章は、14世紀半ばに書かれた年代記の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 主の生誕より400年あまり、マジャール人がパンノニアに到達してから29年目の年、マジャール人すなわちフン人たぢは、それまで司令官の一人であったペンデグーズの子アッティラを、ローマ人の風習に倣い、一致した意思でもって自らの王に据えた。アッティラは、弟ブダをティサ川からドン川に至る地の太守とし、自らはマジャール人の王にして、大地の怒り、神の鞭と名乗った。(『彩色年代記』より)

問1 10世紀に東ヨーロッパで王国を建てたマジャール人は、この年代記の中で自らをフン人と同ー視し、フン人の王アッティラを自らの起源として位置付けることで、新興勢力である自分たちの由緒を美化した。このマジャール人が建てた王国を含め、カトリックに改宗してこの時期に国家形成した東ヨーロッバの王国を3つ答えなさい。

問2 上に引用した年代紀の記述では、アッティラは、人々の意思で王となったことになっている。ー堂に会した人々(有力者たち)が自らの指導者を選ぶというこの内容は、マジャール人の年代記では『彩色年代記』に先立ち13世紀後半から14世紀にかけて現れた。このことは、西ヨーロッパをはじめとしてヨーロッバ各地で、まさにこの時期に、君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みができたことを反映している。この仕組みとは何か、複数の具体的な事例を挙げ、中世から近代にかけての変化を視野にいれて説明しなさい。

第2問
 第二次百年戦争とも呼ばれるイギリスとフランスとの争いについて、両国の対立の背景および1763年に至るまでの戦いの経緯を説明し、この争いの結末がその後、世界史にどのような影響を及ぼしたかを述べなさい。(400字以内)

第3問
 1960年代後半に書かれた以下の文章を読み、下の問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 国父、孫文先生が革命を唱えて以来、すでに70余年になる。われわれはこの間に絶えず敵と戦闘して何回も失敗を重ね、あるいは無数の勝利を得たが、今日もなお最後の成功を得られず、1949年には空前の大失敗。つまりソ連と[ ① ]とは最も卑劣であくどい手段と、最も残暴な武力をもって中国大陸を占拠したのである。
 このため、われわれは父祖の地を追われて台湾に撤退したが、決して気を落とさず、今日こそ弱から強、危から安へと転換できる機会であると信じている。
 この大難を経験することによって、われわれでさえ敵に屈服せず、死を誓って奮闘すれば、戦うほど強くなり、さらに大きな勝利を獲得することができるのである。なぜならば、われわれの従事している戦争は革命の戦争であり、国家民族のために独立を争い、同胞のために自由と正義を勝ち取るための戦いだからである。
 われわれは革命戦争が必ず勝利をおさめる信念をもって清朝を打倒し、軍閥を消滅し、そして日本帝国主義をうち破った。今日もそれと同じ信念のもとにソ連を打倒し、[ ① ]を消滅しなければならない。
(蒋経国『わが父を語る』より引用。但し、一部改変)

問1 ①に入る語句を記しなさい。
問2 ここで対立する両勢力の関係と1949年に至るその変遷についてまとめなさい。

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第1問
問1 
 課題は「カトリックに改宗してこの時期に国家形成した東ヨーロッバの王国を3つ」でした。10世紀頃の東欧の3国とは、マジャール人、すなわちハンガリー王国を1000年頃に建国しています。オットー1世とレヒフェルトの戦い(955)に敗れて、後にパンノニアに帰還してカトリックに改宗し、アルパート朝を興しました。この王国より早く960年にポーランド王国・ピアスト(ピャスト)朝ができてます。建国年は中国の北宋と同年です。ベーメン(ボヘミア)も9〜11世紀にかけて建国していて、プシェミスル朝が現在のチェコにあたる地域を支配していました。これが神聖ローマ帝国の一領邦となり、選帝侯にもなりました。三つの二つ書けたら合格です。
問2
 課題は「西ヨーロッパをはじめとして……君主と諸身分が合議して国を統治する仕組みができたことを反映している。この仕組みとは何か、複数の具体的な事例を挙げ、中世から近代にかけての変化を視野にいれて説明しなさい」でした。要するに身分制議会について説明しなさい、という問題で、一橋は過去問で問うてきたものです。2005年、1981年がそれです。
 時間が「中世から近代にかけての変化」なので代表的な、つまり教科書にのっている国々、英仏の議会史を説明したらいいです。じっさい身分制議会は英国型と仏国型に分けるのが学会での習わしでもありますから。英国はマグナ=カルタからピューリタン革命、責任内閣制、19世紀の選挙法改正で男子普通選挙になるまで。仏国は三部会からフランス革命、第三共和政の普通選挙まで書けたらいいです。教科書の記事をまとめる程度で解答になります。

第2問
 課題は「第二次百年戦争とも呼ばれるイギリスとフランスとの争いについて、両国の対立の背景および1763年に至るまでの戦いの経緯を説明し、この争いの結末がその後、世界史にどのような影響を及ぼしたか」で、これは2009年第2問の「18世紀のグローバルな紛争」の焼き直しみたいな問題でした。この過去問にあるような「これらの紛争では先住民や移民など植民地に住む人々や、ヨーロッパの外にある独立諸国が、すでに「主体」として一定の役割を果たしていた」という部分は描かなくてもいいだけ楽かとおもいます。
 背景は植民地争奪戦であり、結末は英国の勝利と獲得地を書き、影響は勝利した英国と敗北した仏国、英国側で勝利したプロイセン王国に分けて書いてもいいでしょう。英国の産業革命、仏国の革命、プロイセンの強国化です。

第3問
問1 空欄は「ソ連と[ ① ]とは最も卑劣……ソ連を打倒し、[ ① ]を消滅しなければならない」と国民党・蔣経国が敵意を剥き出しに語っています。敵は(中国)共産党です。
問2 課題は「両勢力の関係と1949年に至るその変遷」でした。国民党と共産党の対立を結成から、「1949年」の中国から台湾に国民党が追放されるまで書くということで、これも容易な問題でした。
 国民党と共産党ができて第一次国共合作(1924)ができ、孫文の死後、蔣介石が中心になって北伐(26〜28)を敢行、途中の上海クーデタ(1927)で共産党と決裂、北京入城・張作霖爆殺事件で一応の北伐完了。国民党の共産党包囲作戦がはじまり(国共内戦)、そこへ日本軍の満州事変(31)、満州国(32)成立がおき、国民党側からの八・一宣言(35)と西安事件(36)で合作の準備、盧溝橋事件から日中戦争となり第二次国共合作が実現、しかし太平洋戦争がはじまると国民党の共産党への圧迫が加わり、日本撤退(45)後に内先外後再開となり、敗北した国民党は台湾へ(49)となります。

 第1問から第3問まで、一橋らしい詳細で難解な問題がまったくない年でした。昨年の狂問を反省して、こんな問題になったのでしょうか? 毎年こんなだったら良いのに。
 第1問から第3問まで、一橋らしい詳細で難解な問題がまったくない年でした。昨年の狂問を反省して、こんな問題になったのでしょうか? 毎年こんなだったら良いのに。

一橋世界史 2018

 次の文章を読んで、問いに答えない。
 人間は自分の「空間」についてもある一定の意識をもっているが、これは大きな歴史的変遷に左右されるものである。種々さまざまだ生活形態には同じく種々さまざまな空間が対応している。同時代においてさえも日々の生活の実践の場面では、個々の人間の環境はかれらのさまざまな職業によってすでにさまざまに規定されている。大都会の人間は農夫とはちがったふうに世界を考える。捕鯨船乗組員はオペラ歌手とはちがった生活空間をもっており、また飛行家にとって世界と人生は他の人々とは別の光の中に現われるだけでなく、別の大きさ、深み、そして別の地平において現われてくる。
 (中略)クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって新しい土地、新しい海が人間の全体意識の範囲の内に入ってくるたびごとに、歴史的存在の空間、もまた変わってゆく。そして政治的・歴史的な活動の新たな尺度と次元が、新しい学問、新しい秩序が……始まるのだ。この拡大・発展がひじょうに根深くまた思いがけないものであるために、ただ人間の標準や尺度、外的な地平だけでなく、空間概念そのものの構造まで変わってしまうということもある。ここにおいて空間革命ということが問題になりうる。
 (カール・シュミット著、生松敬三/前野光弘訳『陸と海と一世界史的一考察』より引用。但し、一部改変)

問い ヨーロッパの歴史を考えるとき、この文章で述べられるような「空間革命」が11〜13世紀にかけて見られたと考えられる。それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような経済・社会・文化上の変化が生じたか、考察しなさい。(400字以内)


 近代ドイツの史学史に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 総じて言えば、一概に古代経済史研究とは称しても、歴史学派〔経済学〕におけるものと〔近代歴史学の〕古典古代学におけるものとは、研究への志向の契機においても、事象の対象化の方法においても、ひとしからざるものが存するのである。歴史学派経済学はその根本の性格においては依然として経済学なのであって──即ち歴史学ではないのであって──古代にも生活のー特殊価値たる経済を発見せんとすることが最も主要な研究契機を形作ってゐるのに、古典古代学にあっては、経済をもそのうちに含むところの古代世界への親炙が研究契機になってゐる。歴史学派においては全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列することが問題になってゐるのに、古典古代学においては、古代と現代とを本来等質の両世界として、又等質たるべき両世界として表象することが主要問題になってゐる。古典古代学にも発展の理念は存するけれども、それは等質の両世界における、同一律動のそして自界完了的なる発展の理念であって、全ヨーロッパ的、又は全人類的発展の観念ではない。古代の事象は、それが経済世界を構成する方向において対象化せられるのが歴史学派経済学における方法であるのに、古典古代学においては、古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向において対象化せられる。もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう
 (『上原専祿著作集3 ドイツ近代歴史学研究新版』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部について、歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい。(400字以内)


 次の文章は、ある朝鮮人革命家が、アメリカのジャーナリストに語った回想を元に書かれたものである。これを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 先生は、中学校の教室の前に芝居じみた厳粛さで立ち、生涯忘れられない美しい言葉のあふれる演説をした今日それはなんと反語的に響くことか!
 「この日、朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和なデモ行動が行われよう。われわれはただ独立と民主主義を求めるのみだ。誰もわれわれの正当な要求を拒むことはできない。」
 私たちは彼に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。
 デモの途中、町の中で大衆集会が開かれ、そこで新たな独立宣言が読みあげられた。この宣言は国際主義的心情の色彩が濃く、平和精神と万国の国際的信義の擁護とをうたっていた。また中国とインドに共闘の呼びかけを行っているが、①中国は山東半島の一部を日本に引き渡す運びとなった日英の秘密条約が発覚してからそれに応じてきた」。
 私は世界的大運動に重要な役割を演じているような気持ちで、至福千年がついに来たのだと思いこんでいた。しばらくして伝わってきた②ヴェルサイユの裏切り」のショックは大変なもので、私などまるで心臓が裂けてとび出すかと思った。
 (ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌』より引用。但し、一部改変)

問1 この文章全体で描写されている運動と下線①が示す運動について、それぞれの名称を示しなさい。

問2 下線②で示されている会議に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を論じなさい。
………………………………………
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第1問
 過去問1982年の導入文・問題とほぼ同じものでした。ちがうのは300字から400字になっていること、「政治」が「社会」に置き換わったことくらいです。過去問とほぼそっくりな問題を出すということは朝鮮史でも見られますが、この大学の怠慢性を表しているのか、受験生はそれほど古い過去問は解いてこないはずとナメているのか?
 1982年の問い方は以下のものです。このブログの1982年は導入文を省略していますが、ほぼ2018年と同じです。

 中世中期のヨーロッパにおいても著者のいう空間像の変化・空間革命に対応する現象があった。それはどのようなきっかけによるものであったか。またその空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ。

 この問い方は「以前の空間意識と対比しながら」と今年の「変化」という問いかたより明快性を求めているようにとれます。ただ「変化」とはbeforeとafterであり以前の空間から以後の空間と相違をはっきり書くことは変りません。
 また「中世中期」という言葉が分かりにくかったためか、今年は「11〜13世紀」と時期を指示しています。もしかして出題者はかつての受験生だったのかも知れない。中世は300年ずつ分けて前期・中期・後期と区分するのでなく、前期ははじめの500年間を指し、11〜13世紀を中期とし、後の14〜15世紀を末期(後期)とします。この時代区分は拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)でも指摘しています。

 問われているのは「「空間革命」……(1)それはどのようなきっかけによるものだったか、また、結果としてヨーロッパでどのような⑵経済・⑶社会・⑷文化上の変化が生じたか」でした。(1)は十字軍・東方植民・レコンキスタの三個です。ともに軍事行動です。東方植民は過去問2013年度に出題されたテーマであり、『北の十字軍 ヨーロッパの北方拡大』ともいう行動です。これらの軍事行動を初期膨張ともいいます。「きっかけ」は何かが動き出す、ここでは革命がおきる際の勢いを指しているので、たんに気候の温暖化とか、三圃制という技術では弱い「背景」的なものです。
 ⑵⑶⑷はそれぞれ「変化」を書くので、以前と以後を双方とも書けば6つの課題が課せられています。

 ところで空間革命とは何かが気になります。ヒントは導入文にあり、「別の大きさ、深み、そして別の地平……新しい土地、新しい海……、新しい学問、新しい秩序」と書いていて、質的な中身の変化でなく三次元的な広がりを強調しています。
 たとえば次のような解答例があります。

エルベ川以東への東方植民やセルジューク朝の圧力を受けたビザンツ帝国の要請による十字軍遠征、イベリア半島でのキリスト教徒によるレコンキスタが行われ、ノルマン人も南イタリアやシチリア島を征服した。

 これは「きっかけ」にあたる軍事行動そのものですが、さてこの行動の「結果として」どのような「空間革命」が起きたといいたいのでしょうか? 書いてありません。結果として、エルベ川とピレネー山脈とカルパティア山脈の中に閉じ込められていた閉鎖的な空間(before)が、その東部(東欧)に南部(イベリア半島)に東南部(バルカン半島から小アジア・レヴァント)にと広げられ、ヨーロッパが拡大されたヨーロッパ(after)に変貌してきました。
 先の作答者は「きっかけ」と「背景」を混同しているようです。この解答文の前に、「気候が温暖化し、マジャール人ら異民族の活動も止んで社会的安定が訪れると、三圃制など新農業技術の導入もあり、生産力が拡大し人口も増加して」と書いています。この内容は「きっかけ」でなく背景です。
 「きっかけ」と「背景」はどうちがうのでしょう? 前者は、導入文に「クリストファー・コロンブスがコペルニクスの出現を待ってはいなかったと同様に、歴史的な諸力も学問を待ってはいない。歴史の力の新しい前進によって、新たなエネルギーの爆発によって」とあるように何か革命が起きる「前進……爆発」という事件を指しています。「背景」なら学問が該当します。先の解答例の温暖化・三圃制・安定は事件がおきるバックグラウンドや状況のことです。「きっかけ」は「起爆剤・引き金・端緒・呼び水」になるものを指しています。
 次のような解答例はどうでしょうか?

人々の移動が活発化し、都市への人口流入も進んだ。遠隔地商業も発達し、北イタリアのヴェネツィアなどはレヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも貨幣経済が浸透し、定期市も開催され、中世都市は特許状を得て自治権を獲得した。

 これは経済の変化を書いたのでしょうか? またbeforeの空間がどういものかかがはっきりしません。これはafterを書いているのですが、その内容に空間的なものとしては、「都市への人口流入……レヴァント貿易で繁栄した。アルプス以北でも」といった点が該当するにもかかわらず、空間革命としてこれらを説明していません。
 つまり以前に中世都市という空間はなく、この11〜13世紀に農村と都市の二重空間に変貌したのです。また商業空間は地中海世界にほぼ限られていたものが、北海・バルト海・レヴァント(東地中海)もふくむ全欧に広がったのです。
 「人口流入も進ん……貨幣経済が浸透」は空間というよりも質的な変化なので書かなくていいものです。
 また「社会」の変化はどれがそうなのかはっきりしません。経済と社会をいっしよくたにしたのかも知れません。しかしこれでは得点はとりにくい。「社会」と指定されたら、特別に社会の変化はこうだと説明すべきです。どうやら都市への人口流入を社会的変化としているようで、それなら「社会」を書いてから「経済」を書いたという順が、課題文と合っていません。できるだけ、経済空間の革命は……、社会空間の革命は……、という順で説明すべきです。
 「社会」は政治以外のことを書けばいいのですが、すでに「経済」「文化」は別枠になるので、それ以外とすれば、都市と農村、民族、共同体のあり方、などが考えられます。都市と農村の二重構造はすでに説明しました。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人(ビザンツ帝国)に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒の集団が進出して、自己の世界を拡大しました。十字軍は当時は巡礼とみられていましたが、その巡礼が盛んとなり、スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラへ、イェルサレムへと足が伸ばされました。旅行の空間が拡大しています。

 「文化」空間の革命はどうでしょう? 次の解答文はどうでしょう?

イスラーム世界との接点となったパレルモやトレドではギリシア語やアラビア語文献がラテン語に翻訳され、古典古代文化やイスラーム文化が西ヨーロッパに流入してスコラ学などの発展を促し、新知識を求め人々が集まった都市には大学が設立された。

 書いてある内容にまちがいはありませんが、空間として書かれているのは大学だけです。以前の空間は何だったのでしょう? 修道院や宮殿でした。カロリング=ルネサンスの宮殿、クリュニー修道院のような狭い空間に学問は限られていました。それが11〜13世紀に次々と大学が創設され、学問内容もカトリック教会内の狭いものでなくイスラーム文明の広範な学問を取り入れました。このイスラーム文明を受け入れる「12世紀ルネサンス」という翻訳活動もさかんでした。以前はアーヘンの宮殿でラテン語の復活やカロリング小字体で古典の写本をつくることに専念していました。それがアリストテレスという広い学問を導入して、体系的なスコラ学を完成しました。学問領域も神学だけでなく、法学・医学も加わり、練金術も研究されました。
 また都市には、暗いロマネスク様式に代わり、ギルド毎のゴシック様式の教会が建てられ、ステンドグラスの輝く空間が出現しました。
 他人の答案を批判対象にしたので、わたしの答案もあげておきます。批判の対象にしてください。

(わたしの解答例)
きっかけは十字軍・レコンキスタ・東方植民などの遠征である。経済面の商工業空間は地中海商圏だけであったが、革命の結果、北海・バルト海商圏、中継地のシャンパーニュ、フランドル、更にレヴァント地方も含む全欧的な空間に広がった。社会面の以前は、領主・農奴による古典荘園で孤立していたが、革命後は中世都市とギルドが生まれ、農村と都市の二重構造に変った。民族的にはアラブ人・ベルベル人・ギリシア人に包囲されていた西欧は、イスラーム教徒・正教徒を打ち破って、キリスト教徒が自己拡大をとげた。巡礼はサンチャゴ=デ=コンポステラやイェルサレムへと足が伸ばされた。文化面は文字文化が宮廷や修道院の閉鎖的空間に限られていた。「12世紀ルネサンス」による革命後は大学の学問、世俗文学、都市のゴシック寺院に拡大した。神学だけでなく、アリストテレスを軸とした広い学問領域に拡大し、医学も法学も練金術も研究するように変った。

第2問
 一橋の特徴がよく表れた問題です。大学の講義・試験をそのまま高校生・受験生にぶつける、という落差の大きさです。悪くいえば、あまりの鈍感さです。高校生がどういう世界史を学んできたのか考慮せず、自分の学問が高校生にも分かるはずだという、自己陶酔的・自閉症的な問題です。古代経済史研究(近代歴史学)と歴史学派経済学の比較を求められても、近代歴史学による古代経済史研究がどのようなものか教科書には一切書いてないし、「歴史学派経済学」としてリストの名は挙がっていても、それがどのような経済学なのかハッキリしません。

先駆者リストは、古典派経済学とことなり、おくれた発展段階にある国民経済は国家の保護を必要とすると説いて、ドイツ関税同盟の結成に努力した(詳説世界史)
ドイツのリストは、後発資本主義国の立場から、国家による産業の保護育成の必要を唱え、のちの歴史学派経済学の先がけとなった。(東京書籍)

 という二つの教科書では、「国家の保護」は共通した説明をしていますが、前者の「発展段階にある国民経済」、後者の「後発資本主義国の立場」が「歴史学」派のなんらかのヒントにはなっているとまでは推理できます。しかし古代経済史研究がどのようなものか分からない場合、比較のしようもありません。

 近代歴史学についての教科書の記事は、

ランケらが史料の厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた(詳説世界史)
近代歴史学の基礎を固めたランケ(東京書籍)

 これをもとに歴史学派経済学は「史料の厳密な検討によって正確な史実を究明」しない学問なのか……、と疑ってみてもらちの明かないことでしょう。受験生の手元にこれを証明する何があるのでしょうか?
 受験生としてはこの問題に対して白紙で返すのが、一つの抗議の姿勢になります。たぶん白紙の多さに採点したひとたち(教授)も納得したのではないでしょうか? 自分が高校生だったときにこの問題は解けたか? 無理だなあ、という感想になるでしょう。
 それでもなんとか書かなくては、という脅迫の中で、考えるとすれば、導入文の文章しか手がかりはありません。文章を拾ってみると、
 
(1)歴史学派経済学は経済学
  全ヨーロッパ的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する
  全人類的発展の観念
  古代の事象は、それが経済世界を構成する方向
(2)(近代歴史学による)古典古代学は古代世界への親炙が研究契機
  古代と現代とを本来等質の両世界として表象
  自界完了的
  古代の事象はそれが歴史的現実的なる古代を形成する方向

 難解そうな言いまわしがあるけれど、単純化すれば(1)の研究対象は経済学であり、(2)は歴史学なので、ちがうのだ、という馬鹿馬鹿しいくらいの主張です。(1)は経済だけを対象にしていて、(2)は経済も含む古代世界全体を対象にしている、(1)は「古代経済を排列する」とあるように、現代までつづく経済の発展に関心があり、(2)にはそんな関心はない、というものです。

 下線部の「もしかくの如き観察が──多数の異例は別として──一般的に下されうるものとすれば、古代経済に関する論争が単に史料の技術的操作の辺にのみ存するものではない所以と、論争のよって来るところの精神史的・文化史的深所とをも、同時に理解しうるわけであらう」は分かりにくい文章です。「論争」ってどんな「古代経済に関する」論争があったのか日本の高校生が知っているのでしょうか? もし経済学部の大学生に聞いたら知っている学生は何人いるでしょうか?
 導入文のどこにも精神的・文化史的な説明がありません。この下線部を根拠にして、課題文は「歴史学派経済学と近代歴史学の相違とはいかなるものであり、また、それはどのようにして生じたのか、両者の成立した歴史的コンテクストを対比させつつ考察しなさい」は難題・奇問・狂問です。歴史的コンテクスト(歴史的背景)の「対比」といっても同じ「近代」の中での対比です。

 導入文をもとに、それを受験生なりに説明してみることの他、手だてはないようです。「導入文の解説」が問題なの? ということに疑問に感じつつも、やっみることにします。

歴史学派経済学は全欧的経済発展上の然るべき位置に古代経済を排列する、ということを課題にしており、ギリシア・ローマの歴史はドイツ近代の歴史につながる土台として位置づけようとした。そこには啓蒙思想の影響がみられ、たんなる過去の過ぎ去った歴史とはとらず、連続した全人類的発展の観念をもち、古代の事象は、それが経済世界を構成する方向性をもったものととらえる。とくに歴史学派は当時の経済問題の解決策の一つとして古代史を論争の対象にしていた。そこにはどのような政策が現今の問題を解決するかという実践的な課題をかかえていた。しかし近代歴史学による古典古代学は、古代世界そのものが研究の契機であり対象である。古代は古代として現代と切り離して考察の対象としており、人類史の初期事象として考えるような連続性は意識しておらず、古代は古代で完結した、現代とは必ずしも関連性をもった歴史とはみなしていない。まして政策的な課題を自己の課題としてはいない。

 といったことになるでしょう。
 しかし、これでいいのか、晴れないので、導入文の原文を読んでみることにしました。
 導入文の「総じて言えば」で始まる論文の題は『歴史的経済派の古代経済史研究』というもので、たくさんのドイツ人歴史家の著書・論文を紹介しています。だが、この問題の課題である「近代歴史学」との比較をしている部分はありません。ランケのことを述べた個所もなくて、ただ歴史学派の古代研究を解説してから、結論として、いきなり、「総じて言えば、」と近代歴史学との比較論に入っています。出題者はこの導入文を大学の講義で解説しているのかも知れませんが、受験生には知りようもありません。
 歴史学派経済学の中にマックス=ヴェーバーを入れて、彼について結構書いてありますが、ヴェバーはヴェーバー独自の法制史・社会史の研究があり、古代研究の一面を提示しています。しかし、受験生がこのヴェーバーを使えるとはおもえません。
 またアダム=スミスとフリードリヒ=リストの相違点を明解に書いていますが、これは経済学と経済学の英独間の論争であり、ここで問題になっている古代経済史論争ではありません。
 受験生の立場にたてば、リストとランケでしか「歴史学派経済学と近代歴史学の相違……対比させつつ考察しなさい」の解答は出せそうにありません。ところが上原專祿がこの論文に書いているようにリストは「主著『政治経済の国民的体系』が問題になる限りにおいては、古代経済について関説するところは極めて少い(p.42)」「古代経済に積極的関心を示して居らない(p.51)」のです。
 こういう論文を元にこの問題が出題されること自体が異常というほかありません。
 ランケが「厳密な検討によって正確な史実を究明する近代史学を基礎づけた」と言ったとしても、その著作を読んだひとは、そうは受けとらないはずです。西欧至上主義に毒されていて、上原專祿も別の論文でビスマルクの考えに近いことを説明しています。こうなると、どういう対比が可能なのか、ますます怪しいことになります。リストもドイツ優遇の政策をとるべきと唱えた人物で、共通性が多いといわねばなりません。
 予備校の解答例をネットでご覧ください。「対比」にはならず、共通点を書いています。どこがどう対比されているのか作答者たちも訳がわからなくなったようです。たいていどちらも国家の保護・国民固有の歴史・国民国家の強調(ナショナリズム)などとを書いていて、対比になっていません。

第3問
問1 「描写されている運動」と「下線①が示す運動」の名称。
 引用文の「朝鮮独立の宣言……平和なデモ行動」とあるので朝鮮の三一運動(三・一独立運動)と推理できます。また山東利権(二十一カ条要求の一部)をめぐる同時期の中国の運動として五四運動(五・四運動)が想起できます。

問2 下線②で示されている会議(ヴェルサイユの裏切り)に言及しつつ、両運動の背景および、展開過程、意義を、という課題。三一運動と五四運動の双方とも背景・展開・意義を書かなくてはならないので、6個の要求があります。予備校の解答例では、両国に共通する国際的な背景を書いていても、双方でちがう背景もあるのに書いていません。どれが意義に当たるのか明快な説明もありません。採点官にこれがそうだろうなあ、と推測させるものになっています。課題文のように、背景は……、展開は……、意義は……、と書くのが望ましい。自分の解答を明解にします。

 共通する国際的な背景が「ヴェルサイユの裏切り」、つまり十四ヵ条の民族自決が適用されなかったこと、二十一カ条廃棄が認知されなかったことですが、その他にロシア革命、東欧諸国独立のニュース、アジア諸国の独立運動のニュースがありました。裏切られた、といっても東欧諸国は18年の段階で独立運動と独立宣言を行っていて、パリ講和会議の承認をまっていたのですが、アジアでは戦争中に独立宣言を出したところはないので、遅れた運動であったこと、アジアの独立を認める考えが西欧列強にこの段階ではなかったことも考慮すると、「裏切り」は無理な表現ともとれます。
 しかしロシア革命の影響は大きく、各地でソヴィエト政権ができる情勢でした。北京大学の李大釗はロシア革命を「庶民の勝利」とマルクス主義研究会をつくりました。これが後の共産党に発展します。

 朝鮮の背景は、19世紀末からの義兵闘争がありながら、日本軍は韓国を併合して植民地化していました。すでに過酷な武断支配が10年つづいていて、その間、約2万人の義兵を殺害しています。「保安法」「新聞紙法」「出版法」「朝鮮笞刑令」などによって言論・集会・結社という市民的な自由を奪い、「三人以上集会スルヲ許サレズ」という圧迫を加えていました。
 経済面では、「土地調査令」「森林令」などの法令により莫大な国有地や民有地を略奪し、東洋拓殖株式會社という土地売買の会社を皇室・財閥によって設立し、これを日本人移民に安く払い下げる事業をすすめました。日本人地主は1909〜15年の間に692人から6969人に増えます(朴慶植『朝鮮三・一独立運動』平凡社)。「日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった」といわれました(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店)。
 文化的には、「朝鮮教育令」(1911)を公布し、日本語の使用を強制し、朝鮮の歴史、地理を教科目からなくしました。書堂(私立学校)に対する規制をきびしくし、法令違反にたいしては学校閉鎖を断行したため、1910年に1973校あったのが、19年には742校となり、学生数も8万余から3万8千余に減ってしまいました(朴慶植・前掲書)。
 1919年1月幽閉されていた高宗が突如死去しました。日本人による毒殺とみられています。

 展開過程は、まず1月からのパリ講和会議の開催にともない、日本に留学していた学生たちが独立宣言書を書いて日本政府・朝鮮総督府・各国大使館などに送り、2月8日にYMCA会館で留学生大会を開き、独立宣言書を読んで「大韓独立万歳」を叫びました。逮捕される者が増えていきましたが、韓国内に刺激をあたえ、パゴダ公園で独立宣言書が読まれてデモ活動に入りました。すると日本から帰国するものたち(約360人)も加わり、全国的な運動に発展しました。学生・市民・農民・工場労働者・儒生・宗教家・官吏(両班)など全階層が参加します。
 非暴力(無抵抗主義)の原則としてデモをしましたが、日本側の対応は銃殺でした。弾圧による朝鮮人の死者は、日本側の発表で7509名、負傷者1万5849名、被逮捕者4万6306名、被焼却民家715戸、同教会47、同学校2となっていますが、実数は数倍になるでしょう。まるで戦場で掃討作戦をおこなったような弾圧です。
 なかでも韓国で知られていて日本で知られていない殺戮は「水原提巌里」のものです。

 4月15日午後、日本軍一中尉〔有田俊夫ー引用者〕の指揮する一隊が水原郡の南方の提巌里〔郷南面ー引用者〕に入り、村民に諭示することがあると称してキリスト教徒および天道教徒30余人を教会に集合させた。そして教会の窓や戸を堅く閉ざし、ほしいままに兵隊は教会堂内に射撃を加えた。堂内の一婦人が抱いていた幼児を窓の外にだし、「私は殺されてもこの子の命は助けてほしい」とたのんだが、日本兵はその子の頭を突き剌して殺した。堂内の人々もほとんど死傷した。日本兵はさらに放火して教会堂を焼いた。洪某が傷を負って窓外にとびだしたところ日本兵はこれを射殺した。康某の妻は夜着(よぎ)でからだをつつみ、かきねの下にかくれたが、日本兵は銃剣で突き殺し、夜着をかぶせて焼いた。また洪夫人が火を消そうとしたところを射殺され、幼児2人もまた殺された。また1人の若い婦人はその夫を救おうとしてやってきて殺された。こうして教会堂内で殺されたものぱ22人、教会の庭で死んだものは6人で屍体は焼却された。日本兵はまた采巌里(ママ)の民家31戸に放火したが、火は8面15村落317戸に延焼し、死者は39人に達した。さらに近隣の村落で連日銃撃、焼却、殴打などの蛮行がおこなわれ、死者は千余人にのぼった。(朴殷植『朝鮮独立運動の血史1』p.212〜213)

 この半島の運動は、波及して上海に大韓民国臨時政府の設立に、朝鮮人が多く住む中国東北地方の間島や沿海州で活動につながりました。また日本側の軍事的な鎮圧は、この後に起きた関東大震災時における朝鮮人虐殺に連動しました。1919年当時、朝鮮で政務総監の水野錬太郎、警察局長の赤地濃、憲兵司令官の石光真臣、京畿道憲兵分隊長の甘粕正彦は、23年には日本に帰国していて、内相・警視総監・東京南部警備司令官・憲兵大尉となり治安の中心でした。日本で殺戮を再現する面々です。

 三一運動の意義は、第一に軍事的な弾圧にもかかわらず、全階層・全民族がこぞって参加したため、それまでの儒生や元兵士による義兵闘争とちがい非暴力の運動を展開したこと。第二に、周辺地域の運動にも影響をあたえました。とくに中国領内に亡命して伝えたものたちがいて、5月7日におこなうはずのものが「五四」運動に早まりました。第三に、日本は武断政治を文化政治に転換して、いくらか朝鮮語の新聞・雑誌の発行、社会.労働団体の結成などを認めました。

 中国の背景は、辛亥革命への失望があり、軍閥が割拠していて中国の行く末を多くのひとが心配していました。北京大学長の蔡元培は革新的な学者を招いて大学改革を実施しており、「新文化運動」がおこっていて、白話運動に共鳴した魯迅の『狂人日記』が発表されました。また陳独秀は雑誌『新青年』を発行し孔子を否定して「デモクラシーとサイエンス」先生に学ぼうと呼びかけていました。経済面では、第一次世界大戦間に欧米企業が後退したため、紡績、製粉、マッチ、タバコ、石鹸などの軽工業を中心に、民族産業が戦争中に発展しました。労働者の数も戦争中に60万人から200万人に一気に増えました。しかし長時間労働が課せられ、結社、集会、ストは刑罰で禁止されていました。戦争中に二十一カ条要求が日本からつきつけられ、それを容認した北京政府や日本から懐を暖めてもらっている軍閥への反発が強まっていました。
 運動の展開過程は、本来二十一カ条要求を受けて入れた「国恥」記念日たる5月7日に大規模デモを予定していたのが、北京大学の学生が4日に天安門広場で「二十一ヵ条を取消せ」「青島を返せ」「売国賊を懲罰せよ」とプラカードをかかげて市内をデモ行進したことが波及し、売国奴宅の襲撃、警察との衝突に発展、逮捕される学生もいました。逮捕のニュースは市民にも、全国の都市にも衝撃をあたえ、ストが頻発することになりました。これを受けて北京政府はヴェルサイユ条約の調印拒否、売国奴とされて高官の罷免を決めました。初めて女性たちも街頭に出てデモをした運動でした。
 意義は、5月4日を今も「青年節」として祝っているように、学生を中心に、いわゆる「大衆」、権力も金もない学生、市民、商人、労働者が運動の主体となり、それまで一部革命家・民族資本家たちの活動であったのが、そうではないひとひどが生活の場でたちあがったこと。第二に、排除すべきは、中国を圧迫する日本・英国などの帝国主義列強であること、その状態を許す古い勢力たる軍閥の打倒しなくてはならないこと、そのことを志向する中国国民党と共産党の結成されたこと、などです。

 上の解説を参考に、君の解答をつくってみてください。

京大世界史 2018

世界史B(4問題100点)
第1問(20点)

 内外の圧力で崩壊の危機に瀕(ひん)していた、近代のオスマン帝国や成立初期のトルコ共和国では、どのような人々を結集して統合を維持するかという問題が重要であった。歴代の指導者たちは、それぞれ異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 秦王扇政(えいせい)は、前221年に(1)を滅ぼし「天下一統」を成し遂げると、「王」に代わる新たな称号を臣下に議論させた。丞相らは「泰皇」なる称号を答申したが、(2)秦王はこれを退け「皇帝」と号することを自ら定めた。以来二千年以上の長きにわたって、「皇帝」が中国における君主の称号として用いられることとなった。
 「皇帝」は、唯一無二の存在と観念されるのが通例であるが、歴史上、複数の皇帝が並び立ったことも珍しくない。たとえば「三国時代」である。220年、(3)後漢の献帝から帝位を禅譲された(4)曹丕が魏王朝を開き洛陽を都としたのに対し、漢室の末裔を標榜する[ a ]は成都で皇帝に即位し(蜀)、次いで孫権が江南で帝位に即いた(呉)。魏は263年に魏軍の侵攻により滅亡、呉も280年に滅び、中国は再び単独の皇帝により統治されるに至るが、魂も265年、可馬炎が建てた晋に取って代わられていた。
 晋による統一は八王の乱に始まる動乱の前に潰(つい)え去り、江南に難を避けた華北出身の貴族らが晋の皇族を皇帝と仰ぐ政権を建康に樹立、その後、(5)門閥貴族が軍人出身の皇帝を奉戴する王朝の時代が百数十年の長きにわたって継続した。華北では、「五胡十六国」の時代を経て、(6)鮮卑による王朝が5世紀半ばに華北統ーを果たした
 隋末の大混乱を収拾し中国を統一した唐王朝は、(7)第2代皇帝太宗の時、北アジア遊牧世界の覇者であった東突厭を服属させ、太宗は鉄勒諸部から「天可汗」の称号を奉られた。(8)統一を果たしたチベットに対しては、皇女を嫁がせて関係の安定を図った。
 唐の第3代皇帝高宗の皇后となった(9)武照(則天武后)は、690年、皇帝に即位し国号を「周」と改めた。(10)中国史上初の女性皇帝の誕生である。後継者に指名さ
れたのは彼女が高宗との間にもうけた男子であったが、彼の即位直後、国号は[唐」に復された。
 10世紀後半に中華を再統合した宋王朝は、(11)失地回復を目指して契丹(遼)と対立したが、1004年、両国の間に講和が成立した。「澶淵の盟」と呼ばれるこの和約では、国境の現状維持、宋から契丹に(12)歳幣をおくることなどが取り決められた。両国皇帝は互いに相手を[皇帝」と認め、名分の上では対等の関係となった。
 12世紀前半、女真の建てた金に都を奪われ、(13)上皇と皇帝を北方に拉致された宋では、高宗が河南で即位したものの、金軍の攻撃を受けて各地を転々とした。やがて杭州を行在(あんざい)と定めると、高宗は、主戦派と(14)講和派が対立する中、金との和睦を決断する。この結果、准水を両国の国境とすることが定められたほか、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年貢納品をおくることとなった。


 (1) 戦国時代、斉の都には多くの学者が招かれ、斉王は彼らに支援の手を差し伸べたとされる。「稷下(しょっか)の学士」と称されたこれら学者のうち、「性悪説」を説いたことで知られる人物は誰か。
 (2) このとき彼は、自らの死後の呼び名についても定めている。その呼び名を答えよ。
 (3) この時代、ある宦官によって製紙法が改良された。その宦官の名前を答えよ。
 (4) 彼が皇帝に即位した年に創始された官吏登用制度は何か。
 (5) この時代、対句を用いた華麗典雅な文体が流行する。その名称を答えよ。
 (6) 華北を統一してから約半世紀後、この王朝は洛陽への遷都を行う。この遷都を断行した皇帝は誰か。
 (7) 彼の治世に陸路インドに赴き、帰国後は『大般若波羅蜜多経』などの仏典を
漢訳した僧侶は誰か。
 (8) 7世紀前半、チベットを統一した人物は誰か。
 (9) 仏教を信奉した彼女は、5世紀末から洛陽南郊に造営が始められた石窟に、壮大な仏像を造らせた。その仏教石窟の名称を答えよ。
 (10) 皇帝とはならなかったものの、朝廷で絶大な権力を振るった女性は少なくない。このうち、清の同治帝・光緒帝の時代に朝廷の実権を掌握した人物は誰か。
 (11) ここで言う「失地」とは、契丹が後晋王朝の成立を援助した代償として譲渡された地域を指す。その地域は歴史上何と呼ばれているか。
 (12) 歳幣として宋から契丹におくられた品は絹と何か。その品名を答えよ。
 (13) 文化・芸術を愛好し、自らも絵筆をとったことで知られるこの人物が得意とした画風は何と呼ばれているか。
 (14) 高宗を金との和平に導いた講和派の代表的人物とは誰か。

B 現在、中華人民共和国には4つの直轄市が存在する。北京市を除く3つの直轄市にはかつて租界が存在した。
 最も早くに租界が置かれたのは1842年の南京条約によって開港された上海であった。1845年にイギリス租界、1848年にアメリカ租界、1849年にフランス租界が設置され、1854年にはイギリス租界とアメリカ租界が合併して共同租界となった。租界はもともと外国人の居住地であったが、(15)太平天国の乱によって大量の中国人難民が流入したことを契機として、中国人の居住も認められることになった。共同租界には工部局、フランス租界には公董局と呼ばれる行政機関が置かれ、独自の警察組織や司法制度を有していた。租界は中国の主権が及ばず、比較的自由な言論活動が可能であったことから、(16)革命活動の拠点のーつとなった。
 上海は中国経済の中心でもあった。1910年代から1930年代にかけて、上海港の貿易額は全中国の4割から5割を占めた。また、上海には(17)紡績業を中心に数多くの工場が建てられた。上海の文化的繁栄はこうした経済発展に下支えされていた。1937年、日中戦争が勃発すると、戦火は上海にも及び、租界は日本軍占領地域のなかの「孤島」となる。1941年12月、日本軍が上海の共同租界に進駐した。1943年に日本が共同租界を返還すると、(18)フランスもフランス租界を返還し、上海の租界の歴史は幕を閉じた。
 直轄市のうち最も人口が少ない[ b ]市は、1860年の北京条約によって開港され、イギリス、フランス、アメリカが租界を設置した。次いで、(19)日清戦争後の数年間にドイツ、日本、ロシア、(20)ベルギーなどが次々と租界を開設した。この前後の時期、直隷総督・北洋大臣の(21)李鴻章や哀世凱が(22)[ b ]を拠点に近代化政策を相次いで実施した。(22)[ b ]は政治の中心地である北京に近いこともあって、数多くの政治家、軍人、官僚、財界人、文人が居を構えていた。[ b ]には最も多い時には8か国の租界があったが、(23)1917年にはドイツとオーストリア=ハンガリーの租界が接収され、1924年にはソ連、1917年にはベルギーの租界が返還された。さらに、1943年には日本租界を含むすべての租界が中国側に返還された。
 直轄市のうち人口も面積も最大の[ c ]市に租界があったことはあまり知られていない。というのも、[ c ]の租界は、上記の2都市とは違って、政治的、経済的影響力をほとんど持たなかったからである。[ c ]で唯一の租界である日本租界は1901年に設置されたが、1926年になっても[ c ]に居留する日本人は100名余りで、このうち租界に居住していたのは20名余りにすぎなかった。[ c ]の日本人居留民は中国人による租界回収運動により、たびたび引き揚げを余儀なくされた。1937年の3度目の引き揚げ後、国民政府は日本租界を回収した。翌年、(24)国民政府は[ c ]に遷都し、抗戦を続けた


 (15) (ア) 太平天国軍を平定するために曾国藩が組織した軍隊は何か。
 (イ) 太平天国軍との戦いでウォードの戦死後に常勝軍を指揮し、のちスーダンで戦死したイギリスの軍人は誰か。
 (16) 1921年に上海で組織された政党の創設者の一人で、『青年雑誌』(のちの『新青年』)を刊行したことでも知られる人物は誰か。
 (17) 日本人が経営する紡績工場での労働争議を契機として1925年に起こった反帝国主義運動を何と呼ぶか。
 (18) 日本の圧力を受けてフランス租界を返還した対ドイツ協力政権を何と呼ぶか。
 (19) 日清戦争の契機となった甲午農民戦争は、東学の乱とも呼ばれる。東学の創始者は誰か。
 (20) フランドル(現在のベルギーの一部)出身のイエズス会士で、17世紀半ばに中国に至り、アダム二シヤールを補佐して暦法の改定をおこなった人物は誰か。
 (21) (ア) 李鴻章と伊藤博文は朝鮮の開化派が起こしたある政治的事件の処理を巡って1885年に条約を締結した。この政治的事件は何か。
 (イ) (ア)の政治的事件は、対外戦争での清の劣勢を好機と見た開化派が起こしたものである。この対外戦争とは何か。
 (22) この都市の日本租界で暮らしていた博儀は、満洲事変勃発後に日本軍に連れ出され、1932年に満洲国執政に就任した。それ以前に中国東北地方を支配し、のち西安事件を起こした人物は誰か。
 (23) 中国が連合国側に立って第一次世界大戦に参戦したことがこの背景にある。同年、アメリカも連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。アメリカ参戦の最大の契機となったドイツ軍の軍事作戦は何か。
 (24) (ア) 1938年12月にこの都市を脱出、1940年に南京国民政府を樹立して、その主席に就任した人物は誰か。
 (ィ) 1919年に上海で樹立された大韓民国臨時政府は、1940年にこの都市に移転する。大韓民国臨時政府初代大統領で、1948年に大韓民国初代大統領となった人物は誰か。

第3問(20点)
 中世ヨーロッパの十字軍運動は200年近くにわたって続けられた。その間、その性格はどのように変化したのか、また、十字軍運動は中世ヨーロッパの政治・宗教・経済にどのような影響を及ぼしたのか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A エジプトに、都市[ a ]が建設されたのは紀元前4世紀のことであった。地中海世界の東西南北から文物の集まるこの都市に開設された図書館は名高く、膨大な蔵書を誇った。エジプトがローマ帝国の支配下にあった紀元2世紀半ば、[ a ]で、この知的伝統の上に立って、『天文学大全』でも知られる[ b ]が『地理学』を書いた。同書は天文学と(1)幾何学を用いて地球の形態や大きさを測り平面地図に表現する方法を記し、既知世界の8,000以上の地点を経度・緯度で示した。オリジナルは失われているが、後に(2)ビザンツ帝国で作られた写本には、地図が付されている。
 12世紀の半ばには、(3)コルドバに学んだイドリーシーが、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教の共存する(4)シチリア王国の国王のために、南を上にした数十葉の地図を付した『世界横断を望む者の慰みの書』を著した。[ b ]やラテン語の地理書に加え、この頃すでに数百年の伝統を築いていたアラブの地理学のエッセンスを吸収した成果であったが、キリスト教世界、イスラーム世界双方で影響は限定的だった。
 中世ヨーロッパの地理的世界観をよく表すのは、(5)1300年頃の作とされる、イギリスのヘレフォード図である。中心に聖地を置き、上部にアジア、右下にアフリカ、そして左下にヨーロッパが配される。
 新しいタイプの地図は近世に生み出された。1512年に東フランドルの小都市に誕生したメルカトルは、ルーヴァン大学などで(6)人文主義教育を受けた。1536年には卓越した銅版彫刻の技術を駆使して、(7)地球儀の製作にかかわった。順調に評価を高めていったが、1544年には(8)ルタ一派の異端として一時投獄された。その危機を乗り越え、1569年には、彼の名を後世にとどめることになるメルカトル投影図法による世界地図を発表した。これは、球体を円筒に投影して平面に展開したところに特徴がある。目指す方角を正確に示すこの地図を、彼は、(9)当時世界の海にのりだしていくようになった航海者たちのために作成した。
 1666年、ルイ14世は(10)科学アカデミーを設立し、翌年パリ天文台を建てた。ここで4代にわたり天文台長をつとめたカッシーニ家は、天文学の技術を地図作成に応用し、三角測量によって、内政や軍事に求められるフランス王国の正確な地図を徐々に完成させていった。1793年、こうして作られた地図一式は、カッシーニ家から没収され国有化される。それ以降、カッシーニの地図は、王の版図ではなく単一のフランス「国(国民)」を象徴するものとなり、カッシーニの科学的測地法は他の国々に採用された。地図は、19世紀以降の国民国家や海外植民地帝国の形成に大きな役割を果たし、(11)「ラテンアメリカ」や「中央アジア」のような新たな地域概念は、現代まで世界認識を規定している。


 (1) この学問の祖と言われる人物の名を記せ。
 (2) 11世紀頃から行われ始め、この社会に大きな変容をもたらしたプロノイア制について、簡潔に説明せよ。
 (3) この地出身のイブン=ルシュドは、ある哲学者の作品に高度な注釈を施したことで知られる。その哲学者の名前を記せ。
 (4) 13世紀末にこの国から分離独立した王国の名を記せ。
 (5) この頃の大きな出来事であるアナーニ事件の概略を説明せよ。
 (6) 「人文主義の王者」とも称せられた、ネーデルラント出身の学者の名を記せ。
 (7) この製作を依頼したのは、東フランドルを含む広大な地域を支配したカトリックの皇帝である。その名を記せ。
 (8) 彼に数年遅れ、1519年にチューリヒで宗教改革を始めた人物の名を記せ。
 (9) この時代に行われたマゼランの大航海が目指した、香料の特産地の名を記せ。
 (10) フランスにおけるアカデミーは1635年設立のアカデミ一=フランセーズをもって嚆矢(こうし)とする。ルイ13世の宰相でこれを設立した人物の名を記せ。
 (11) この呼称は、19世紀後半にアメリカ大陸への進出をねらうフランスで用いられるようになった。1861年にナポレオン3世によってなされた軍事介入の対象となった国の名を(ア)に、この介入を撃退した大統領の名を(イ)に、それぞれ記せ。

B 近現代史家エリック=ホブズボームは、産業革命とフランス革命という「二重の革命」に始まり第一次世界大戦で終わる時代を「長い19世紀」と位置づけた。ホブズボームによれば、「長い19世紀」とは、「二重の革命」を経て経済的・社会的・政治的に力を蓄えていったブルジョワジーという社会階層と、ブルジョワジーの地位向上とその新たな地位を正当化する(12)自由主義イデオロギーの時代であった。
 イギリスの産業革命は、イギリスの対アジア貿易赤字に対応するための輸入代替の動きを大きな契機として始まった。イギリスではそれに先行する時代に、私的所有権が保障され、(13)農業革命が進行するなど、工業化の条件が整っていた。綿工業から始まった産業革命は、19世紀が進むにつれて、鉄鋼、機械など、重工業部門に拡大していった。この過程で、(14)資本家を中心とするブルジョワジーが経済的・社会的な力を強め、新たな中間層の中核を形成する一方、(15)伝統的な中間層の一翼を担った職人属はその少なからぬ部分が没落し、新たな下層である労働者層に吸収されていった
 フランス革命は、貴族層の一部、ブルジョワジー、サンキュロットと呼ばれた都市下層民衆、および農民という、多様な勢力が交錯する複合革命であった。「第三身分」が中核となって結成された議会は、封建的特権の廃止や人権宣言の採択、および立憲君主政の憲法の制定を実現したが、憲法制定後に開催された議会では、(16)立憲君主政の定着を求める勢力がさらなる民主化を求める勢力に敗北した。(17)対外戦争の危機の中で新たに構成された議会の下で、ブルジョワジーとサンキュロットが連携し、王政が廃止された。まもなく急進派と穏健派の間に新たな対立が生じ、急進派が穏健派を排除して恐怖政治のもとで独裁的な権力を行使するようになったが、対外的な危機が一段落し、恐怖政治に対する不満が高まると、(18)権力から排除されていた諸勢力はクーデタによって急進派を排除した。しかし、穏健派が主導する新政府は復活した王党派とサンキュロットの板挟みとなって安定せず、フランスを取り巻く国際情勢が再び緊迫する中で、ナポレオンが台頭する。(19)民法典の編纂(へんさん)や商工業の振興に代表される彼の施策は、おおむねブルジョワジーの利益と合致するものであった
 「二重の革命」の影響は広範囲に及んだ。フランスにおいて典型的に実現されたとされる「国民国家」は、ヨーロッパ内外を問わず政治的なモデルと見なされるようになった。これが近現代の世界におけるナショナリズムの大きな源流のひとつである。(20)1848年にハプスブルク帝国内に噴出した民族の自治や独立を求める動きや、イタリアとドイツの統一国家建設は、「国民国家」という新たな規範がヨーロッパの政治に与えたインパクトを物語るものであった。また、多くの欧米諸国では、国民の権利意識や政治参加を求める主張が強まり、一定程度の民主化が進展した。民主化の潮流は、一方では、(21)労働者層の権利意識を高め、ブルジョワジー主導の自由主義的秩序の変革を目指す社会主義思想の普及につながったが、他方では、拡張的な対外政策への大衆的な支持の高まりや、(22)「国民」とは異質な存在と見なされた集団への差別にもつながった。「長い19世紀」を終わらせることとなる第一次世界大戦は、こうして蓄積されていたナショナリズムのエネルギーの爆発という側面を有した。
 一方、ヨーロッパとアメリカ合衆国で工業化が進展した結果、欧米世界は、世界の他地域に対して圧倒的に強力な経済力と軍事力を獲得していった。(23)欧米以外の多くの地域では、工業化した諸国に経済的に従属する形で経済開発が行われ、19世紀以前とは大きく異なる貿易パターンが出現した。国民国家の建設および工業化を進めた諸国とそれに遅れた諸国との間の力関係は、前者の後者に対する圧倒的な軍事力の行使や、不平等条約として表面化した。(24)19世紀中葉から後半にかけて、欧米以外の諸国における上からの改革の動きは、経済や軍事の面で欧米諸国に追いつくことを大きな目標としていたが、その多くは挫折することとなった。のちにフランス革命前の「第三身分」になぞらえて「第三世界」と呼ばれるようになる地域の多くは、19世紀末までに欧米諸国の植民地や勢力範囲に分割されることとなる。これらの地域に台頭する(25)反植民地主義的ナショナリズムは、ホブズボームが「短い20世紀」と呼ぶ時代の世界史を大きく動かす原動力のひとつとなっていく。


 (12) 主著『経済学および、課税の原理』で、比較優位に基づく自由貿易の利益を説いた人物の名を記せ。
 (13) 18世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスにおいて議会主導で行われた農地改革を何と呼ぶか。
 (14) 1830年代末から1840年代にかけて、イギリスでは、ブルジョワジーがみずからの利益を実現するために、ある法律の廃止を要求する圧力団体を結成し、法律廃止を実現した。この法律の名称を記せ。
 (15) イングランド北・中部の手工業者や労働者が起こしたラダイト運動とは、どのような運動であったか。
 (16) この勢力を何と呼ぶか。
 (17) この議会の名称を記せ。
 (18) この事件を何と呼ぶか。
 (19) 19世紀前半のフランスでは、工業化をめざす政策が採用されたにもかかわらず、実際の工業化の進展は緩慢であった。その理由を述べよ。
 (20) このときに、ある民族集団は、一時的にハプスブルク帝国から独立した政権を樹立した。この民族集団の名を記せ。
 (21) 1886年にアメリカ合衆国で結成された、熟練労働者を中心とする労働組合の名称、を記せ。
 (22) 19世紀末のフランスで発生したある事件は、反ユダヤ主義を反映するものであるとして、ゾラなどの知識人から批判を浴びた。この事件の名を記せ。
 (23) 19世紀前半に、イギリス、インド、中国の間に出現した三角貿易を通じて、イギリスは対アジア貿易で黒字を計上するようになった。この貿易黒字は、どのようにして実現されるようになったのか。イギリスとインドの貿易商品に言及しつつ、簡潔に説明せよ。
 (24) 19世紀後半に清で行われた富国強兵をめざす改革運動を何と呼ぶか。
 (25) 1925年にホー=チ=ミンが結成し、のちにベトナムの独立運動を中心となって担っていく組織の母体となった団体の名称を記せ。
………………………………………

コメント

第1問
 課題は「崩壊の危機に瀕していた……異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合することで、国家の解体を食い止めようとした。オスマン帝国の大宰相ミドハト=パシャ、皇帝アブデュルハミト2世、統一と進歩委員会(もしくは、統一と進歩団)、そしてトルコ共和国初代大統領ムスタファ=ケマルが、いかにして国家の統合を図ったかを、時系列に沿って」でした。
 危機に対する解体防止策を時間順に書いてくれ、というものでした。4つの人物・団体について、「異なる理念にもとづいて特定の人々を糾合」したか、をていねいに解説することが求められています。
 ミドハト=パシャにとっての危機は、タンジマート(恩恵改革)の下で西欧的な工業化をすすめていくうち、「土着産業の没落をうながし、外国資本への従属がかえってすすんだ(詳説世界史)」ことでした。クリミア戦争に勝利しながらも、戦費を借りたたために大きな負債が重なりました。またボスニアの反乱に対するオスマン帝国の対応に対してロシアの非難がかまびすしく、戦争も予想される状況でした。この危機をどう打開するかが課題でした。
 あらゆる面での遅れを痛感したミドハト=パシャは、近代的な憲法を制定することで課題の答えにします。近代的な市民の権利をもとに二院制議会と責任内閣制を原則にしました。議会や内閣の権限を拡大することはスルタン権力を規制するものでした。ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等も規定しています。「安倍談話」の中でアジア最初の憲法を日本国憲法と勘違いした表明がありましたが、このミドハト憲法がアジア最初の憲法です。そのようにセンター試験でも出題されました(1998年度問7)。「特定の人々」とは近代化を推進してきた立嫌派です。これに該当する表現としてしは、2014年度に改訂した用語集に「新オスマン人」が加わりました。頻度は少なく2です。説明ではこうあります。

 「新オスマン人」:宗教の違いをこえて「オスマン人」として共存・協力を呼びかけるオスマン主義にたち、自由主義的立憲運動を推進し人々。

 ミドハト=パシャ自身がこれに該当し、反専制・自由主義・立憲を主張する人々のことでした。しかしこの誤句が使えなくてもいでしょう。つまり西欧的な立憲政治を導入すべきと考えていた人々です。

 しかし君主権の強化をねらっていたアブデュルハミト2世は、即位したばかりであり、憲法は容認しながらも、露土戦争が始まったので非常時大権を利用して憲法を停止しました。立憲君主政は、1年2ヶ月しかつづきませんでした。叔父アブデュルアズィズがミドハト=パシャによってクーデターで廃位され、その後を継いだ兄のムラト5世も精神疾患ですぐに退位しました。このような弱い地位をなんとか強力なものにしたいと考えたようです。スルタン=カリフ制を強化することが危機への対応でした。「特定の人々」とは専制政治を支持する保守派です。パン=イスラーム主義(西欧に対抗してムスリムの団結を)を固辞し、皇帝は秘密警察を結成して密告を奨励し、軍部を利用して厳しい弾圧を行ないました。
 
 統一と進歩委員会(青年トルコ党、青年トルコ人)は、憲法復活をねらう知識人・開明的軍部グループの団体です。ロシア第一革命(1905)、イラン立憲革命(1906)という周辺国の立憲の動きが憲法復活を求める運動を促します。またアブデュルハミト2世の軍隊の一部だけ優遇したり、給与遅配、兵器不足など、冷遇に不満をもっているグループ・青年将校たちがおり、かれらが「特定の人々」です。自己の危機を打開するものが憲法の復活でした。サロニカ市の軍が蜂起して、かれらの革命が成功しました。再び立憲君主政となります。

 ムスタファ=ケマルの危機は、モロッコ事件を契機とする伊土戦争、バルカン戦争による領土縮小、そして第一次世界大戦の敗戦です。どの戦争にも参戦して負傷したケマルは、啓蒙思想に心酔した士官学校卒業のエリートで、アブデュルハミト2世の姿勢に反感を持っていました。第一次世界大戦終結とともに、イスタンブールのスルタンに対してセーヴル条約がつきつけられ、帝国の大幅な領土縮小が強制されました。ここに危機は全国民的なものになりました。オスマン帝国議会議員たちはアンカラで大国民議会を開きます。条約で認められた地帯を奪うべくギリシア軍が入ってきました(イズミル出兵)。ギリシア軍に対して、ケマル=パシャ率いる抵抗軍「国民軍」が対抗し勝利します。アンカラ政府は大国民議会で、スルタン制廃止を決議することになりました。イスタンブールとアンカラの二重権力をアンカラに一元化しました。ケマルは議会にカリフ制の廃止も決議させ(1924)、政教分離の新国家体制をつくりあげます。これらは啓蒙思想の実現でした。脱イスラムの動きは、一院制議会、主権在民、任期4年の大統領制、一夫一婦制、女性のチャドルを廃し参政権を認めて女性解放も実現、イスラーム暦やトルコ帽の廃止、文字改革(ローマ字採用)と矢継ぎ早に改革を実行しました(トルコ革命)。セーヴル条約はローザンヌ条約に改訂させました。ここでの「特定の人々」は青年将校に一般の人々も入ります。

 

第3問(20点)
 課題は「(1)性格はどのように変化したのか、中世ヨーロッパの(2)政治・(3)宗教・(4)経済にどのような影響を及ぼしたのか」の4点でした。
 (1)性格は初めは「聖地回復の聖戦」であったものが、どう変化したか、ということでもあり、これは明快に現れるのは第4回十字軍でした。依頼してきたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを陥れて、この都市を略奪し、帝国の所有していた商業基地をうばったことでした。ヴェネツィア商人の意図が第一に完徹された十字軍でした。今もヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の屋上に、そのときの戦利品が秘蔵されています。この第4回からを後期十字軍、第3回までを前期十字軍と区別します。商業的利益が優先し、聖戦でなくなったと、とるからです。この第4回十字軍の後には少年十字軍(1212)といわるものもあり、少年少女たちはムスリムに売り渡されました。
 ただし予備校の解答例にあるように「第6・7回十字軍でのエジプト・チュニジア遠征に見られるように世俗的要素が強まった」のではありません。「第6・7回十字軍」はルイ9世が指揮した十字軍であり、第6回はルイ9世がイェルサレム奪回のために指揮しており、何も世俗性はありません。「エジプトへ」行ったから「世俗的」というのも変なとりかたです。イェルサレムを支配していたのはカイロを都にしているアイユーブ朝であり、第1回十字軍からセルジューク朝とだけ戦ったのでなく、イェルサレムではカイロをつくったファーティマ朝と戦いイェルサレムを奪っていて、その後もアイユーブ朝・マムルーク朝というエジプトの支配者がイェルサレムを領有しており、イェルサレムを確保ししようとしたらエジプト遠征も不可欠であったのです。第7回もチュニジアのスルタンがキリスト教に改宗しそうだというガセネタを信じて指揮したもので、ここにも世俗性はありません。ルイ9世が死後に聖人になったのはこの行動のゆえでした。

 (2)政治への影響。
 「中世ヨーロッパ」は西欧だけを考える必要はありません。とくに十字軍は東欧、とくに当時最大の帝国たるビザンツ帝国と関係した軍事行動であり、十字軍兵士は東欧諸国を通過していきました。この問題の類題は 2018年一橋第3問の空間革命があります。この問題文にも「ヨーロッパ」とありますが、東欧・ビザンツ帝国も考慮すると全体像が見えてきます。
 政治面の十字軍の影響は、以前の皇帝権の強い時代(オットー1世の時代)が、11世紀からの叙任権闘争と十字軍の初期の成功で教皇権がたかまっていくことでした。教皇権は宗教だから「政治」に入らないと考える必要はありません。当時の西欧の土地の3分1は教会領であり、そこに指令がだせるトップは教皇であり、たんにイタリア半島にある教皇領だけの領主でありません。ましてインノケンティウス3世のときには英王ジョンを破門にし、仏王フィリップ2世も破門し、ラテン帝国も破門にできる君主でした。ポルトガル伯爵をスペインから独立することを認めるとともに自己の家臣にしました。上記の英仏王も家臣として臣従させることで破門を解きました。皇帝に代わって全欧に軍事行動を呼びかけることのできる唯一の君主でした。十字軍はヨーロッパの最高権限が教皇に存在することを証明したデモンストレーションでした。
 しかし十字軍の失速とともに教皇に呼びかけに応じる各国の王・騎士は少なくなり、パレスティナにも十字軍の基地はなくなりました(1291)。しかしルイ9世のように率先して十字軍を指揮しようとするフランス王の権威はたかまりました。ただこれをもって西欧全体に「国内での中央集権化が進展」(ある予備校の解答)などと書いてはだめです。いくらなんでも絶対主義の時代がすぐ近づいたのではありません。権威がたかまるのと、集権という体制ができるのとはちがいます。教皇・貴族の没落(アナーニ事件・ばら戦争・ブルゴーニュ戦争)と身分制議会(模範議会・三部会)の成立という、14〜15世紀の2世紀がまだ必要です。

 (3)宗教への影響
 教皇の浮沈は上の政治で扱ったので、他の宗教面の影響を考えます。なにより十字軍が当時は「巡礼」の一つであったのように、巡礼熱が西欧全体に広がっていて、「開墾運動、オランダの干拓、エルベ川以東への東方植民、イベリア半島の国土回復運動、巡礼の流行などがそれである。なかでも大規模な西ヨーロッパの拡大が、十字軍であった。……この間、聖地への巡礼の保護を目的として、ドイツ騎士団などの宗教騎士団が各地で活躍した。(詳説世界史)」と。また東京書籍では「十字軍とその影響」という章で「キリスト教が庶民の世界にまで広まるとともに、ローマ、イェルサレム、サンティアゴ=デ=コンポステラなどへの聖地巡礼がさかんになった。ところが、キリスト教の聖地の一つであるイェルサレムは、……」と書いてます。
 しかし宗教的な情熱は、他の宗教への排他的な運動にもむすびつきました。ユダヤ人迫害です。ユダヤ人は中世都市の一角ゲットーに隔離され、胸にユダヤ人の星マークを付けたり、ユダヤ人はキリスト教徒を告発したり,不利な証言をしたりしてはならない,キリスト教徒を食事に招待したり、また結婚したりできない、キリスト教徒を農奴その他として雇用することもできない、と2度のラテラノ公会議で(第3回1179,第4回1215)決定されました。これらは今もつづくユダヤ人迫害の起源です。
 また「北の十字軍」といわれる東方植民は、この問題の十字軍と連動してスラヴ人地帯への征服と布教がおこなわれました。たとえば北ドイツの諸侯は第2回十字軍に参加するかわりに、北方の異教徒(スラヴ人のこと)に対する十字軍を起こさせてほしいという要請に教皇は認可を与えています(1147)。異教徒であるがためにスラヴ人の多くの諸民族が虐殺され、子供は奴隷化され、ドイツ人の植民地にされました。現在のポーランドから南はウクライナの地帯までドイツ人騎士・商人・修道士たちが蹂躙していきました。
 教会建築では、イスラーム建築のもつポインテッドアーチという尖った屋根をつくることがはやり、ロマネスク様式をゴシック様式に変えました。どこまでも高く高く伸びようとする「石の森」といわれるゴシック教会が高さを競って建てられました。

 (4)経済への影響
 何より十字軍の後半はイタリア商人の利益が追求されたように、地中海世界におけるイタリア商人の地位が高まります。ヴェネツィアとジェノヴァが覇をきそい、とくに前者がイタリア半島から東地中海(レヴァント)貿易の覇者となりました。カイロのマムルーク朝との貿易は、インドのグジャラート半島(港ディウ)との交易につながっていました。地中海とペルシャ湾を結ぶ「東方貿易」は西欧商業の復興「商業ルネサンス」と呼ばれるほどに全欧にまたがる広域経済に発展しました。地中海世界が起点となり、北の北海・バルト海の交易圏、シャンパーニュを中心に途中の中継地交易圏も生まれました。
 しかしこの地中海を軸とするヨコの交易の発展は、それまでスカンディナヴィア半島とウクライナ、バグダードにいたるタテの交易を衰えさせ、東欧・ロシア諸国の分裂をきたすことになりました。さらに13世紀にモンゴル人の来襲がおき、都市の破壊と略奪がおきました。東欧は14〜15世紀の「名君の世紀」になって回復してきます。

鈍感なひとたち

 『世界史年代ワンフレーズnew』についてのレビューを見ると極端に分かれる様子が見られます。好評と不評の二つです。不評のひとたちの文句を見てみると、その鈍感さに気がつきます。
 たとえば、

(1)velvet zone→「年号暗記の最大の傑作」と題して、
私は改訂前のものを使っていましたが、強烈な印象と共に暗記していくこの本で入試はかなり助けられました。

 というレビューがある一方で、

(2)クラウディウス(カントに変更?)→「著者にしか意味が分からない」と題して、
 無理やりすぎて、覚えられません。
 アケメネス朝が滅んだ年は前330年ですが、
 アケメ、メメノー(メメノーの部分が330)
 、、は?って感じです。

(3)佳乃→「これのどこが語呂なんだ・・・?」と題して、
語呂に無理がある。これのどこがごろなんだ? 覚えにくい。 笑えない下品なフレーズでモラルを疑う。
語感がかなり悪い。そもそも意味を持たない語呂にどんな得があるのか・・・。

(4)メガマック→「語呂にこじつけが多すぎます」と題して、
例えば、
・前7000年、新石器時代開始…新石器7000円
・前18世紀頃、ハンムラビ王…ハンムラビ1ハン
・前108年、楽浪郡(朝鮮4郡)…楽、天馬
・8年、王莽の新成立…おも〜いや
・45年、クシャーナ朝…クシャーミ4個

このような意味不明な語呂合わせが半分以上あります。
果たして将来世界史を深く学ぼうと思った場合、上記のような陳腐な語呂合わせを継続して使っていきたいと思うでしょうか?
世界史の語呂合わせにはやはり、歴史の因果関係が組み込まれた語呂の方が体系的であり、長期記憶にも残りやすいのです。

(5)katuo007→「これのどこがいいんですか?」と題して、
現役の予備校世界史講師です。
これのどこがいいんですか?
受験業界の方も勧めていらっしゃる方がいるようですが、この業界、自分では読まず、解かず、考えず教える偽狂師が大勢います。読まず、解かず、考えずで口から出まかせで勧める口車に乗らないようにしましょう。現役の世界史講師が断言します。ちゃんと中身を見てから買いましょう!

(6)藤森→「全く使えません!」と題して、
数字の読みにも無理があり(1を棒→ぼと読むなど)
語呂と出来事が全く関係なくて、覚えられません

 このような不評の原因はどこにあのか? 一つ考えられるのは鈍感さです。鈍感さの因子は①語感のなさと、②新しいものに付いていけない、の二つでしょう。自分のこうした鈍感さに気がつかず、著者にそれをぶつけている、というのが実状です。

 ①語感のなさは、(2)(4)(6)のひとたちに見られます。(2)の例では、
 アケメ、メメノー(メメノーの部分が330)
としていますが、本文にはそんな語句はなく、下のように「あけ目、目目ノー」であり、前に書いてある前550年のアケメネス朝成立の「あけ目、光5光5王0」を受けていて、成立と滅亡がセットになっているものです。カタカナに直して、いかにも訳のわからない語呂であるように仕立てています。こういうの捏造といいます。わざわざアケメネス朝の創始者キュロス2世のイラストと「目」のイラストも入れて、「あけ目」はアケメネス朝のことですよ、と示しているのに気がつかないようです。また「あけ目、目目ノー」というリズミカルな調子も気がつかないようです。語感がない、というのはこういことです。
 

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  また(6)のひとは(1を棒→ぼと読むなど)は無理がある、と書いていますが、いったい「1」は一本の棒を象形化したもので、古来原始的な表示であり、なにが無理なのか意味不明です。表紙の裏に本書の語呂のルールが挙げてあり、そこに示してある数字の読み方は従来にない画期的なものです。他の語呂本の少なさと比べてみるとよい。 

新しいものに付いていけない、のは(3)(5)(6)のひとたちに見られます。(3)では「下品なフレーズでモラルを疑う」といい、語呂にモラルを求めています。語呂の価値は「短く、覚えやすく」であり、モラルを求める気が知れません。わたしが勤めたことのある大阪の私立高校で「耶律阿保機──アホは黄9色16」とある語呂について「アホは倫理的に使えない」と言われたことがあり、呆れ果てました。
 また(4)でも(6)でも見られるように、語呂に「こじつけ」という言い方をしていますが、「こじつけ」でない語呂ってあるんですかね? 
 また語呂とはこういうものだという通念があります。それは年号から入って出来事に行く、という従来の覚え方です。(5)(6)に見られる違和感の表明に隠れているのはこの通念です。
 序文に書いてあることを読まなかったのか、真っ先に書いてあるのは「年代→歴史用語」ではないということです。つづけて「年代→歴史用語 という順で覚えるのがこれまでの想起の仕方でした。しかし、これは覚えにくいし、回りくどい。入試問題文では、たいてい年代が問題文になくて、まず歴史用語(事件・王朝)の書かれた文章から、それはさていつだったのかと考え、いったん覚えてきた「年代→歴史用語」に帰らなくてはならない」と。それを「歴史用語→年代 このように2段階にしただけで、記憶のステップが少なくなり、受験に合ったスッキリした覚え方になります」と書いています。こうした従来の覚え方を逆転させた本書に馴染めないで、古い覚え方にこだわっているのでしょう。通念から抜け出せない。自分の鈍感さが短い文章にも表れていることに気がつかない。

『みるみる論述力がつく世界史』 山川出版社

みるみる論述力がつく世界史』 山川出版社、黒河潤二 (編集), 山岡晃 (編集), 湯川晴雄 (編集)

 山川は『改訂版・詳説世界史論述問題集』というのを2008年に出していて、これを絶版にしたのか、新しい論述問題集はこれのようです。この旧版はやたら問題量の多いことで知られていましたが、この新版はぐっと問題量を減らしています(175問→50問)。旧版の批評はこのブログにあります。→http://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2013/08/01/改訂版・詳説世界史論述問題集

 第1部は基本編、第2部は発展編となっていて第1部は歴史用語を入れるだけの問題から始め、それが100字120字と字数が増えていき、200字くらいまで行く、という短文論述問題集となっています。そこには何が問題のポイントか、何点に該当するか、事件の解説もはさみながら説明しています。これが100頁くらい。
 第2部は400字から600字の長文論述問題で、いわゆる大論述といっている問題の解説です。形式は論述解法の手順として、「analyze」問題内容の分析、次に「framing」として「枠組み/見通し」をたてよう、とつづき、さらに「factor」として必要な用語の書き出し表が付いています。さらに「keyword」として、analyzeとframingから絶対はずせないキーワードは何か探そう、と訴えています。最後に「judge」として何を論述問題の要素として書くのか書かないのかの判定をくだす個所があり、これらを踏まえて詳しい構想メモのようなものが付いています。そして「adjust」としてマス目が段落毎に並んでいて、それらを全部あわせたマス目の用紙もそろっています。
 ていねいな作りになっていて、これで勉強してみようかな、という気にさせます。

 第1部の短文論述のところは教科書『詳説世界史』の記事を指摘して、それを利用しながら解答文を仕上げていくのが主で、論述問題でありながら教科書の勉強も兼ねています。意外と教科書は書いていたんだ、という発見もあるでしょう。論述のための勉強はけっきょくこれに尽きる面はあります。短文論述問題であれば、教科書の一段落でデータは済むものもあります。
 といって教科書がすべてを網羅している訳でもないことは、この参考書の解説にも教科書からはみだしたような知識があちこち散りばめられています。教科書だけで徹底していないところが教科書会社の出版物としてどうなのか? また教科書に書いてあるのに、書いてないから書かなくてもいい、ともしている個所もあり一貫性がありません。

 このことを第2部で見てみましょう。この部になると、第1部で必ずあった教科書の記事がまったくなくなります。その示唆もない。第2部は「発展」なので教科書は見るな、ということなのか?

 

p.110[1]「前4世紀までの西アジア諸国の興亡」でじっさいの筑波大の問題(2009年度)は、
 紀元前8〜7世紀のアッシリア帝国の確立から紀元前4世紀のアレクサンドロスの東征までの西アジア世界における広域支配国家の興亡について、以下の語句を用いて400字以内で説明しなさい。
  イッソスの戦い 新バビロニア ダレイオス1世 ニネヴェ メディア

 この問題の解説の中の「judge」に、「ニネヴェに建設された大図書館などを盛り込むかは、字数との相談となる。ただしアッシリアがミタンニ王国から自立していたことや、建国時の首都であるアッシュルなどは、アッシリア帝国が確立する以前の内容なので、記述しても得点にはならない」とあるのが何故か解せない。この問題は「アッシリア帝国の確立から」書き出したらいいので、何も前2000年からある都市国家の時代から説明する必要はないが、「帝国の確立」は歴史家が帝国時代ととっている前8〜7世紀がどんな国家になったかは書かなくてはならないはず。帝国時代はアッシュル市からニネヴェ市に遷都しており、「前7世紀前半に全オリエントを征服した。強大な専制君主であったアッシリア王は、政治・軍事・宗教をみずから管理し、国内を州にわけ、駅伝制を設け、各地に総督をおいて統治した(詳説世界史)」とあり、これが確立した姿です。この全部を書かなくてはいけない訳ではないが、巻末の「模範」答案では「前7世紀に初めてオリエントを統一したのは、都をニネヴェにおくアッシリアだった。最初の世界帝国となったアッシリアは、アッシュルバニパルの治世に最盛期を迎えたが……」とあります。これが「帝国の確立」の姿ですかね。最盛期はむしろ経緯(流れ)の一時期をさしているだけではないでしょうか? 最盛期は「確立」ではないはずです。確立した後の姿ですね、一般に。「judge」が狂っているようです。

 

p.114[2]「古代ギリシア・ローマと西洋中世の軍事制度」でじっさいの京大の問題(2010年度)は、
 古代ギリシア・ローマと西洋中世における軍事制度について、政治的・社会的な背景や影響を含めて、それぞれの特徴と変化を300字以内で説明せよ。
 「古代ギリシア・ローマ」とくくってあるため、1000年間の古代史で共通する点をまとめる必要がありますが、この参考書の解説では、帝政ローマの500年間がスッポリ欠けています。意図的に、ギリシアと合わせるために共和政ローマの500年間とだけセットにして説明し、解答文をつくっています。「変化」も課題である以上、帝政時代の大きな変化を飛ばしたら、変化にならないはずなのに、どうして無視したのか、その説明はどこにもありません。
 また平民没落のため「重装歩兵→傭兵」というが双方に見られるということを書いていますが、しかしギリシアとローマの傭兵はちがいます。ギリシア・ポリスが外国人(別のポリスの人)による一時的な傭兵であり、ローマの自国民志願兵に武器・給与(補償)を与えて長期に(25年)従軍させる常備「傭兵」とを区別していません。
 教科書(詳説)に「コンスタンティヌス帝の改革にもかかわらず、膨大な数の軍隊と官僚をささえるための重税は、あいつぐ属州の反乱をまねいた」とある軍隊は傭兵ではなく常備軍です。これはアウグストゥスがそれまでの志願兵で成り立っていた軍隊を解散させ、30万人の常備軍をつくり、ディオクレティアヌスが70万人に増やした軍団です。これは無視してもいい?
 古代末期にゲルマン人を傭兵にする、といっても、傭兵だけで戦争はできません。主力はあくまで常備の正規軍団です。傭兵を強調しすぎてます。また中世末にも傭兵だと強調していますが、フランスが百年戦争末期に常備軍をつくったことは知らないのでしょうか? 「シャルル7世は大商人と結んで財政をたて直し、常備軍を設置したので、中央集権化はますます進展した。(詳説世界史)」と教科書に書いてあります。これは無視してもいいの?
 「模範」答案では「ギリシア・ロ一マでは、最初は貴族の騎兵が軍事力の中心であったが、商工業の発達を背景に平民が富裕化すると、武器を自弁した平民の重装歩兵が軍隊の中核を担った。平民たちは参政権を求め貴族と平民の法的平等も逹成された。しかし長年の従軍で平民が没落すると、傭兵が軍隊の中心を占め、市民皆兵の原則が崩れた。ー方、西洋中世では、……」と帝政ローマの常備軍をまったく無視しています。

p.120[3]「カール大帝の帝国の成立」でじっさいの一橋大の問題(2009年度)は、
 (導入文省略)
 この文章は、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862-1935年)による『マホメットとシャルルマーニュ』(日本語訳の標題『ヨーロッパ世界の誕生』)からの一節である。ここで述べられる「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか。当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係に言及しながら論じなさい。(400字以内)

 この問題の解説のところに欠けているのは、カール大帝のイベリア半島での戦いです。確かに教科書(詳説)の記事には文章として載っていないのですが、教科書(詳説)の地図には「スペイン辺境伯」とあり、また「カール大帝の征服地」「カール大帝の勢力のおよんだ地域」として色が付いています。またビザンツ帝国との関係では、796年と799年に攻撃をかけており、先の地図でも「カール大帝の勢力のおよんだ地域」として色が塗ってあります。レコンキスタの初期と「カール大帝と騎士たちを描いた『ローランの歌』(東京書籍)」を習う高校生もいるでしょう。
 またビザンツ帝国とカール大帝の版図が対峙した姿も地図に表されています。さらにアッバース朝もビザンツ帝国への攻撃(782)をしており、ビザンツ帝国が屈辱的な和約を結ばされています。
 また「「要素」を「判定」しよう」の表にもアッバース朝のことは何もメモされておらずウマイヤ朝でとどまっていますし、「goal」とある「模範」答案にはまったく言及なしです。812年にはビザンツ帝国はアーヘンの和約でカールの帝位を承認していますが、このことも言及なしです。これで「関係」を説明したことになるでしょうか? 貧相な「模範」答案です。

 

p.138[6]「13〜14世紀モンゴル時代の東西交流の諸相」でじっさいの東大の問題(2015年度)は、
 (導入文省略)
 以上のことを踏まえて、この時代に、東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域において見られた交流の諸相について、経済的および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて論じなさい。解答は、600字以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお、( )で並記した語句は、どちらを用いてもよい。(指定語句→ジャムチ 授時暦 染付(染付磁器) ダウ船 東方貿易 博多 ペスト(黒死病) モンテ=コルヴィノ)

 構成について特に問題はないものの、「goal」の「模範」答案におかしな解答文が見うけられます。
  「ムスリム商人はダウ船を使ってインド洋から中国に至り、東南アジアの香辛料を他地域に運んだ。彼らによってスーフィズムが広まり、東南アジアでのイスラーム化が促進された」
 この解答に誤りはないものの、「広域において見られた交流の諸相」という大きい視野の問題の解答として狭い、という指摘です。教科書(詳説)に「神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム)がさかんになった。12世紀になると、聖者を中心に多くの神秘主義教団が結成され、教団員はムスリム商人の後を追うようにして、アフリカや中国・インド・東南アジアに進出し、各地の習俗をとりいれながらイスラームの信仰をひろめていった」とあります。東南アジアだけスーフィズムによるイスラーム教普及ではなく「アフリカ・中国・インド」もそうだということ。また海路だけでなく陸路もスーフィズム(スーフィ)による布教があったこと。
 もう一つは「西アジアでは中国絵画の影響でミニアチュールが発達した」という解答文のおかしさ。教科書(詳説)では「イル=ハン国に中国絵画が伝えられ、それがイランで発達した細密画(ミニアチュール)に大きな影響をあたえた」とあり、センター試験(2012年度)の文章でも「イラン系の絵画(細密画)もムガル帝国につたわりムガル絵画・ラージプート絵画になりますが、これもイラン系の人々が伝えたものでした」とあるのに、「西アジア」という広い領域で「発達」するはずがありません。細密画を見たことがないのかも知れません。いや教科書(詳説)に2枚カラーで、「ミニアチュール」と題した写真が載っています(p.101119)。そこには人物が描かれており、イスラーム教では偶像崇拝への懸念から人物や動物は描いてはいけないことになっていて、シーア派という血統を大事にする特異な地域に発達したものであって「西アジア」全域ではありません。

 

p.151[8]「清の諸外国への権益の承認と隣接国家との関係改変」でじっさいの京大の問題(2015年度)は以下、
 東アジアの「帝国」清は、アヘン戦争敗戦の結果、最初の不平等条約である南京条約を結び、以後の60年間にあっても、対外戦争を4回戦い、そのすべてに敗れた。清はこの4回の戦争の講和条約で、領土割譲や賠償金支払いのほか、諸外国への経済的権益の承認や、隣接国家との関係改変を強いられたのである。この4回の戦争の講和条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変、および、その結果、清がどのような状況に陥ったのかを、300字以内で説明せよ。

 この解説では、4回の戦争の中に義和団事件も入れています。「義和団事件(義和団戦争と呼ばれることもある)」と書いています。受験生に「戦争」という表現のある教科書や参考書を指摘してもらうといいでしょう。ブログでも書いていることですが、「以後」の中にアヘン戦争も入ります。というのは課題になっているのは戦争のたびに課せられた条約の中身「条約に規定された諸外国への経済的権益の承認と、清と隣接国家との関係改変、および、その結果」について南京条約でどうだったかは問題文には何も書いてないからです。南京条約における「不平等」の内容を書くことから始めなくてはなりません。
 じゃ「60年間」とある以上、義和団事件も入れるのが筋ではないかと言われるかも知れない。1900年のこの事件を待たずとも、日清戦争の後にいわゆる「中国分割」といわれるくらい、清朝政府と列強が次々と条約を結び租借地・鉄道敷設権を決め、その中で日本は清朝と福建省不割譲条約(1898)を結んでいるではありませんか。これらの諸条約は1898〜99年に集中しています。これらは日清戦争の結果として出てきたものです。以下が条約の中身を書いた記事(詳説世界史)です。

 下関条約で日本が遼東半島を獲得すると、フランスとドイツをさそって日本に圧力を加えてこれを清に返還させ(三国干渉)、その代償として清から東清鉄道の敷設権をえた(1896年)。また、ドイツが宣教師殺害事件を口実に98年、膠州湾を租借すると、同年ロシアは遼東半島南部を、イギリスは威海衛・九竜半島を租借し、フランスは99年広州湾を租借した。そのうえ、ロシアは東北地方、ドイツは山東地方、イギリスは長江流域と広東東部、フランスは広東西部と広西地方、日本は台湾の対岸にあたる福建地方での利権の優先権を清に認めさせ、各国の勢力範囲を定めた。

 

p.173[8]「アジア・アフリカの植民地の独立とその後」でじっさいの東大の問題(2012年度)は以下、
 ……植民地独立の過程とその後の展開は、ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する。
 以上の点に留意し、地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい。解答は解答欄(イ)に18行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。(指定語句→カシミール紛争 ディエンビエンフー スエズ運河国有化 アルジェリア戦争 ワフド党 ドイモイ 非暴力・不服従 宗教的標章法(注))

 解説の初めに「地域ごとの差異を考えながら」という条件がついている、と指摘しながら、「judge」には差異を示したメモは何もありません。それぞれをバラバラに書けば自然と差異は現れるのでしょうか?
 巻末の「goal」の「模範」答案は以下のようなものです。

(下線なしで)第一次世界大戦後、エジプトはワフド党を中心に独立したが、イギリスはスエズ運河の駐屯権など保持し続けた。第二次世界大戦後、ナセルがスエズ運河国有化を宣言して経済的従属からの脱却をめざすと、スエズ戦争がおこり、これ以降ナセルはアラプ民族主義の指導的地位を固めた。インドではイギリスの支配にガンディーが非暴カ・不服従運動を展開したが、イギリスはヒンドゥー教徒とムスリムの民族運動の分断を進めた。第二次世界大戦後、インドとパキスタンは分離して独立し、両国の間にはカシミール紛争が勃発した。共産党を中心に独立運動を進めたベトナムでは、第二次世界大戦後にフランスとの間にインドシナ戦争が始まった。ディエンピエンフーの戦いの結果、フランスはペトナムから撤退し、ベトナムは南北に分断されたが、社会主義の拡大をおそれる合衆国の介入によってベトナム戦争がおこった。その後、社会主義国家として自立したペトナムは,80年代以降はドイモイという改革開放路線へと転じた。同じくフランスの植民地支配下にあったアルジェリアは、アルジエリア戦争をへて独立を達成した。独立後、フランスがアルジェリアで同化政策を進めたことで多くの移民がフランスに流入し、民族的·宗教的摩擦が問題となったため、宗教的標章法が制定された。

 この解答文の中に「差異」はどう示されていますか? さーっと読んで分からないでしょう。それは採点官も同じで採点官に差異を探させることになります。これでもう落第ですね。
 「以上の点に留意し」とあるので調べてみましょう。
 「植民地政策の差異」はどう表されていますか? エジプトに関してはイギリス側の政策は何も書いてありません。インドは「ヒンドゥー教徒とムスリムの民族運動の分断を進めた」と書いてあります。ベトナムに対するフランス側の政策も書いてありません。アルジェリアも書いてありません。「社会主義や宗教運動……地域により異なる様相」は書いてありますか? エジプトは思想も宗教も何も書いてありません。インドの社会主義は書いてありません。ベトナムは共産党中心が書いてあります。アルジェリアは思想はなく宗教も不明快です。こんなに書いてなくて政治史に終始すると、この問題は何のためにあったのか分からなくなります。まして差異を探せったって無理ですね。
 これは差異を表すために、比較という作業をやらなくてはならなかったのに怠ってしまった、というか、その方法論がまるでないために沈没してしまったのです。この参考書の題に「論述力」というのが付いていますが、著者たちにないものが受験生に養われるのでしょうか?


p.186[14]「中国の科挙制度」で、でじっさいの京大の問題(2014年度)は以下、
 中国の科挙制度について、その歴史的な変遷を、政治的・社会的・文化的な側面にも留意しつつ、300字以内で説明せよ。
 「judge」のところに、「唐では蔭位の制という科挙によらない任官制度があったことを思い浮かべる人もいるかもしれないが、教科書レベルを超えた知識であるので、ここまで触れる必要はない」と書いています。東京書籍の教科書に「科挙の功罪」と題して「貴族や大官の子弟が恩典で任官できる制度(蔭位・任子の制)も残っていた」と書いてますが、山川にとって東京書籍は眼に入らない、ということでしょうか? 山川の用語集に「蔭位の制 ② 科挙によらずに家柄の官位に従って任官できる制度。高級官僚の子弟に有利であった」と2冊の教科書に載っていて、解説もしています。14年度版の用語集からこの綱目は消えました。しかし門閥貴族の強さを示すデータとして論述対策としては欠かせない用語です。
 

p.192[14]「オランダの世界史における役割」で、じっさいの東大の問題(2010年度)は以下、
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。(指定語句→グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争)

「judge」のところに、構想メモがあり、「盛り込む用語」欄と「オランダの役割」欄とあり、課題の「役割」欄の空白が多すぎます。空白の多さは「役割」があまりない、ということになり、じっさい「模範」答案はそうなっています。
 メモは16世紀から始めていますが「中世末から」とあるのに無視しています。14〜15世紀について何らか書くべきなのに捨てちゃえーということらしい。「模範」答案では「中世末にハプスブルク家の支配下におかれたネーデルラントは、16世紀後半に独立戦争を開始し北部7州がオランダとして独立を達成した。17世紀に商業覇権を握ったオランダは北米に現在のニューヨークニューヨークの原型となる都市を建設」と書いていて結局、中世末にはなんの役割も果たさなかった解答文になっています。オランダだけの一国史を書いても役割は出せません。愚かなこと。役割を書いている文はこの後の
「世界最初の株式会社……首都アムステルダムが商業・金融の中心となったオランダは、学問や出版でもヨーロッパの中心となり、国際法の発展に寄与したグロティウス……列強による東南アジア植民地化の先駆……光栄ある孤立を放棄する契機……ヨーロッパの統合に積極的に貢献」というところが該当しています。

 取り上げなかった問題は、実は流れの問題がほとんどで、ああなってこうなって、という流れの書き方をいくら学んでも「力」は付きません。取っ付きにくい、難解な問題を避けている、という点でも「力」は付きません。問題量を少なくした以上、骨のある問題の解き方を説き明かすべきでした。
 第1編は教科書にこだわっていたのに第2編は教科書にごだわっていないのは何故なのか? むしろ教科書を無視しているような説きかたは修正した方がいいでしょう。もっと教科書にこだわってどこまで解けるか試してみたらいいのに。ま、次の改訂版に期待しましょう。