世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

欺史作家の『日本国紀』-1

欺史作家の『日本国紀』-1
 一例をあげる。p.327「近代化に大きく貢献した……30年足らずで人口を約2倍に増やした」と書いている。これは『日本国紀』以前に書いた『今こそ、韓国に謝ろう』飛鳥新社にもっと詳しく、次のように述べている(p.47)。 

なんと、朝鮮半島に人口爆発をもたらしてしまったのです。

 併合時、朝鮮人の人口は約1300万人余りでしたが、1942年には2550万人以上にまで膨れ上がってしまいました。ちなみに江戸時代の日本は、260年間かかっても、人口は3倍にも増えていません。わずか30年足らずで約2倍の人口増加というのは世界の歴史でも珍しいことです。
 ……人口の増加も平均寿命の伸びも、自然に起こったものではありません。これらはすべて日本のお節介によって、人為的に引き起こされたものです。

   『今こそ、韓国に謝ろう』ではこの人口増加を誇って何度も言及していて(p.10、146〜149)、さも日本が善政をほどこしやったおかげである、と力説している。
 この「作」家は統計を読むことができず、調べもせず、でたらめな偽説を述べるいる。
 数字の根拠をあげていないが、根拠になっているのは『朝鮮総督府統計年鑑』で、その後の研究も含めて分かっている数字が以下のもの。

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『日本国紀の植民地支配─肯定・賛美を検証する』岩波ブックレット p.31

  「併合時、朝鮮人の人口は約1300万人余り」で、「1942年には2550万人」なら「約2倍」は正しいが、その前に1906年の統計もあり、978万人となっている。つまり1906年から1910年(併合の年)までに335万人増え、1910年から1915年に1596万人になっていて282万人増え、1915年から1920年には1692万人で、増えたのが96万人であり、その後も増え方は100万人前後で、要するに増え方が鈍っている。1906年から1915年までに増えたのが618万人であり、ここが異常なのだ。併合前と併合したばっかりのときが増えすぎていて、「何か変」とおもってもいい数字である。
 表で注意すべきは「男女比率(女100に対する)」という部分。1906年の男女比は女100にたいして117となっていて、不自然な数字である。女を相当数を数えなかったための調査の不備である。だんだんと調査の精度をあげていき、男女比102の比率になったのが1940年の数字だ。
 このように欺史作家がいう「日本支配が人口増加を与えてやった」との主張は怪しい。人口増加説はすでに論破されており、「作家」が無知なだけである。
 上の表をあげた『日本の植民地支配―肯定・賛美論を検証する』 (水野 直樹, 駒込 武他、岩波ブックレット、2001年出版)が何よりの論破である。またscopedogさんのブログ(http://scopedog.hatenablog.com/entry/20081012/1223815346)では、同時期の日本人は1910年が4818万人で、1940年が7193万人。朝鮮と似たような増加率。中華人民共和国の1950年は6億人、2000年は12.7億人になっていて、中国共産党の「善政」であったようだ、とある。
 また「データで見る植民地朝鮮史」
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-population.html
でも詳しく説明している。
 欺作者が「約2倍の人口増加というのは世界の歴史でも珍しいことです」というなら証明してみてほしいものだ。最近の言動からは、「証明」なんてさらさらしないだろう。
 また「人為的に引き起こされたもの」というのなら、それを証明する計画書を示してもらいたい。もちろん増加は日本が意図したから増えたわけではない。当時の日本が考えていたのは増加でなく「朝鮮民族の数は少しずつ減少させることが適切である」で、これは「朝鮮統治施策企画上ノ問題案」という文書にある言葉。貴族院で昭和19年11月18日に企画したもので、確かめたかったら、国立公文書館アジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp)、レファレンスコードB02031286000 の36枚目以降を見よ。ナチスのユダヤ人絶滅計画ほどではないが、周到な減少計画であった。計画の一部は実行している。しかし増加したので減少政策は失敗した。欺作者が誇る「人口増加」は成功例でなく、失策の証明になっている。

駿台大阪校wikiの捏造

駿台大阪校wiki
https://osaka.wicurio.com
というサイトがあり、そこにわたしの紹介が載っています。その「授業」欄に以下のように書いてあります。

授業
前期の初回100人いたはずだか、後期からは6人になった。(2018 京都校)

 わたしは行っていないのに、なぜ駿台大阪校に載っているのかが不思議。それと(2018 京都校)とありますが、10年間ほど前から、わたしが教えている難関国立文系のクラスは定員60人と決められており(少数精鋭とは職員の言い草)、教室もぎしぎし一杯につめても70人くらいしか入らない小さい教室です。なんで100人もはいるのか、空中遊泳しながら受講しているひとがいるのか? その60人のうち40人前後が例年の世界史選択者です。もちろん「6人」に減ったことは一度もなく、4月に入ってきた人数はそのまま受講してきました。私立文系は昨年も今年も4月から10〜20人くらいしか受講しておらず、「100人」がどこから出てきた数字なのか不思議です。
 他のクラスへの出入りが禁止されているのに、こんな数字がどのようにひねり出したのか?
 捏造することに何か意図があるのでしょう。[人物]のところに「現在は第一線を退きつつある」とありますが、「退かせたい」ということでしょう。誰かに嫌われていることを確認することはできます(笑)。
 きっと記事を書いたひとは能力があるでしょう。官僚になって統計不正で貢献できます。ご希望の数字はなんでもでっちあげまっせ。数字は100にしますか? 1000でもいいですよ……。(現在、この捏造くんは、授業の記事を書き換えています)

『練習帳new』への疑問

疑問

「世界史論述練習帳 new」の別冊p.17の「元代の中国文化について、儒学・文学・書画・技術面の発展について60字以内で述べよ。」という問題の解答「儒学では朱子学が普及する。元曲・白話小説がはやり、文人画が完成した。技術ではイスラムの天文暦学・数学・地理が発展した。」についての質問、疑問です。

元代は科挙はあんまり盛んではなく、儒教を身につけた人たちは没落したと習った気がします。だから朱子学も必然的に普及とは真逆に行くと思ってました。なぜ普及したのですか?

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 ご質問、ありがとうございます。
 元代に儒学では朱子学が普及したことは、元末の朱元璋が江南の朱子学を信奉する士大夫たちの協力で明朝を建てたことに表されています。
 宋代に偽学として疎んぜられた朱子学がゆっくり元代に広まりました。元朝が科挙を復活させたとき(1315)に採用したのは朱子学でした。このことを知らないひとが多いです。
 朱元璋は建国前に南京を根拠地にしたときに儒者を10人採用してその意見を聞きながら統一していきました。朱子学を学ぶ「義塾」というものが士大夫たちによってつくられ、この義塾ネットワークが江南で発展しました。それが明朝ができると国教化されることになります。
 「元代には儒者が冷遇された」は確かに科挙を初めは行いませんでしたし、また儒者の一人が「九儒十丐(じゅっかい)」と誇張して儒者を卑下したことからきていますが、実際にはけっこう儒者は重んじられました。『授時暦』の郭守敬も儒者です。モンゴル人は中国統治に中国人を使うのが得策と考え、登用しました。中国人からすれば宋代の比ではないから、「冷遇」でしょうが。儒者が重んじられた例は中公新書『大都の春』を読むと分かります。
 またウィキペディアの「朱子学」では以下のように書いてあります。

朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、慶元の党禁によって弾圧され、朱熹も不遇の晩年を送った。その後、一転して理宗の時代に孔子廟に従祀されることとなり、続く元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。その結果、科挙で唯一採用された朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要かつ十分条件として位置づけられるようになり、反対に科挙から排除された他の学説は一部の「偏屈な人あるいは変わり者」が学ぶものとする風潮が醸成されるようになった。

2019年度再現答案


(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)
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東大2019
第1問
帝国は18世紀に露に敗北しクリム=ハン国を奪われた。19世紀初頭にはナポレオンの遠征を撃退したムハンマド=アリーがエジプトで自立した。アフガーニーの提唱したパン=イスラーム主義はワッハーブ派のアラビア半島での国家建設運動を刺激した。東方問題での欧米列強の介入も帝国の解体を促した。ギリシアは英仏露の支援を受けロンドン会議で帝国から独立、2度のエジプト=トルコ戦争後の列強主催の会議では帝国はアリー朝にエジプト総督の世襲を認めた。この間アブデュルメジト1世下の帝国ではギュルハネ勅令発布でタンジマートを開始し富国強兵政策で近代化を進めた。しかし英との通商条約を機に安価な英製品が流入し経済的進出を許し、これもまた帝国の解体を促した。クリミア戦争では帝国は英仏墺の支援で露に勝利したが民衆からの立憲政要求が高まりアブデュルハミト2世はミドハド憲法発布するも、露土戦争勃発で停止された。露土戦争後のベルリン条約ではバルカン三国が独立した。日露戦争での日本の勝利が帝国に伝わると、再び立憲政要求が高揚し青年トルコ革命が起こり、憲法復活で立憲君主制が確立した。帝国は1次大戦で敗北するとセーヴル条約でシリアやイラクなどが英仏の委任統治下となり、フサイン=マクマホン協定に沿って一部がアラブ人の王国として独立した。またワッハーブ派はサウード家と結んでアラビア半島で国家を建設した。対して帝国はケマル=パシャのトルコ革命期に共和政と政教分離が実現して解体が決定的となった。ケマルは不平等条約を改定し、一部領土を奪回、文字、暦革命や女性解放などを行った。
第2問
(1)ヒンドゥー教徒の多い西側とイスラム教徒の多い東側に分割し、両教徒の対立を煽ることで、印全体を支配する英への不満をそらす意図があった。
(2)
(a)ヴィルヘルム2世下の独に植民地化されたが、1次大戦中に日本が占領し大戦で独の敗北後に4カ国条約で日本の統治下となった。
(b)世界恐慌期にブロック経済形成のために英がウエストミンスター憲章を発布したため英の直轄領から自治国へと地位が上がった。
(3)
(a)西晋が弱体化すると高句麗が楽浪郡を占領し、3国が分立した。そのうち新羅が唐と結び高句麗と百済を倒した後に唐を排除した。
(b)唐の都長安の都城の制を模して渤海の都の上京竜泉府が建設され、唐の科挙や儒教、仏教、官僚制、律令制を渤海は取り入れたり。
第3問
(1)世界市民主義
(2)エリュトゥラー海案内記
(3)班超
(4)義浄
(5)ヴォルガ川
(6)スワヒリ語
(7)
(a)プラノ=カルピニ
(b)ルブルック
(8)ジャガイモ、トウモロコシ
(9)キャラコ
(10)ニューヨーク、フィラデルフィア
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一橋2019
第1問
1ハンガリー王国・ポーランド王国、モラヴィア王国。2議会政治。議会では君主は貴族らに免税特権を与える代わりに市民への課税を認めてもらった。イギリスでは、11世紀には王権が強大であったが、ジョン王に発布されたマグナ=カルタがヘンリ3世に無視されると、貴族の反乱が起きその後に身分制議会が開かれた。だが、16世紀ごろから国王は絶対主義的になり、17世紀には国王専制とカトリック政策が行われた。旧教徒らはこれに反発し、2つの革命を経て国王は名目化し議会政治は本格化した。選挙制になり選挙権は拡大し、責任内閣制がとられた。フランスではアナーニ事件を機に三部会が開かれたが、百年戦争以後封建諸侯の関係は整理され絶対王政の幕開けとなった。17世紀以後三部会は開かれなくなる。ルイ14世は財政難に陥ると貴族らを集めて名士会を開いて課税を認めてもらった。仏革命で自由主義貴族に議会政が達成されたが、その後ブルボン王朝は復活した。
(注:11世紀→13世紀、旧教徒→清教徒、ルイ14世→ルイ13世)
第2問
背景は植民地獲得を巡る対立であった。ルイ14世は対外戦争を繰り返した。仏国やスペイン王位継承に乗り出すと、英国はこれに反発し戦争が起こった。北米ではアン女王戦争が起こった。ユトレヒト条約で仏国の王位継承権は認められたが、仏国は英国にハドソン湾など北米の領土を渡した。この頃英国はイングランド銀行を設立して戦争を有利にした。1740年墺継承戦争が勃発すると、北米・インドで英仏は対立した。その後外交革命で仏国はオーストリアと組むと、英国はプロイセンについて七年戦争を戦った。同時期に北米・インドではフレンチ=インディアン戦争、プラッシーの戦いがあった。英国は勝利しパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナとカナダを獲得した。戦費の拡大は英国の植民地への課税を強め米独立革命の契機となった。英国はインドの徴税権を獲得し支配を固めていく。インディアンが条約に参加できなかったことは彼らの権利が認められない風潮を作った。
第3問
1共産党 2五・四運動が契機となって孫文が国民党を結成し、コミンテルンの指導下に中国共産党が成立した。共産党員が国民党に入党することで第1次国共合作が成立する。だが北伐の途上、浙江財閥と組んだ国民党は上海クーデターで共産党と対立し合作は崩壊した。その後張学良が国民党に帰順して北伐は完了した。完了後国民党は共産党を攻撃し共産党は瑞金で中華ソビエト臨時政府を建てた。共産党は大西遷を始める。この頃日本が満州に満州国を建国し中国進出を準備していた。これを受け共産党は八・一宣言で抗日と国共合作を主張した。張学良が蒋介石を監禁してこれらを説くと第二次国共合作が成立した。盧溝橋事件を機に抗日戦争を共に戦ったが太平洋戦争勃発後から合作は崩壊し始め、終了後に国共内戦が再開した。土地改革を実行し民衆の支持を得た共産党が勝利し、49年に国民党が台湾に中華民国を、共産党が中華人民共和国を建国した。(注:第二次国共合作は盧溝橋事件後に成立)
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京大2019
第1問
4世紀、マンチュリアは朝鮮半島の三国の一つである高句麗によって支配されていた。7世紀に高句麗が唐と新羅の連合軍に敗れると、マンチュリアンは新羅の一部となった。しかしその後、大祚栄が高句麗の移民を引き連れて渤海国を経てマンチュリアは渤海に支配された。12世紀には女真人の完顔阿骨打が建てた金がマンチュリアで起こり、金に支配された。13世紀には元が金を滅ぼしたことでマンチュリアは元の支配下に入った。14世紀に元が北方に後退し、明が建てられると、明がマンチュリアを支配した。17世紀には満州人のヌルハチが台頭して明を破った。彼は後金を立ててマンチュリアン支配し、後に中国全土を支配するようになった。
第2問
16世紀にポルトガルのヴァスコダ=ガマが東回り航路でインドに到達し、ゴアを拠点として香辛料貿易が始まった。17世紀初めにイギリスのエリザベス女王によって東インド会社が設立された。イギリスはマドラス、ボンベイ、カルカッタを拠点として綿布を交易した。フランスはルイ14世の時代の財務長官コルベールが東インド会社を再建し、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを拠点とした。18世紀のプラッシーの戦いで勝利したイギリスはインドからフランス勢力を駆逐した。同世紀後半、イギリスでは産業革命が始まり、インド産の綿花の需要が急激に高まった。また、庶民の間で飲茶の風習が広まり、インド産のお茶が輸出された。

2019年度合格メール

A くん 8日10:16
今発表があって、一橋合格してました!!
本当にラスト一ヶ月の先生の添削あってのおかげです。
それだけでなく、世界史論述練習帳及び基本60字と本当にお世話になりました。
本当にありがとうございました!
本試は数英がぱっとしなかったので、世界史で差をつけれたと思っています。
それとこれからもブログを続けられるのであれば、予備校との戦いを頑張ってください!自分も夏頃は予備校答案を盲信して勉強していたので、先生の本から書き方を習うまでは世界史は苦手教科だと思いこんでました。夏の模試では東大模試の大論述が4点だった記憶があります(笑)秋から論述練習帳の革新的な書き方(使わない単語は最後に使いませんでしたと記すなど)やメモのとり方を習って知識もついてきて徐々にできるようになっていきました。僕と同じような境遇の受験生には先生の本が届いてほしいです。
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B さん 8日12:22
今まで添削していただきありがとうございました!!無事、第一志望の一橋大学社会学部に合格しました。宅浪のため様々な不安がありましたが、添削を受けて自信をつけることができました。中谷さん著書の世界史論述練習帳についていた基本60字が、試験で大活躍でした!今後も悩んでいる受験生に会う機会があればぜひおすすめしたいと思います。本当にありがとうございました。
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C くん 8日14:14
先生のとても丁寧な添削、解説のおかげで一橋大学経済学部に合格することができました。
本当にありがとうございました。
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D くん 8日15:56
Dです。一橋大学社会学部に合格したので、報告させて頂きます。世界史は中谷先生のご指導のお陰で大きく差をつけることができたと確信しています。本当にありがとうございました。
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E くん 10日12:34
(東大)受かってました。 感謝しかないです 世界史深いなーと感じるようになったのは先生のおかげです ありがとうございます。
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F くん 10日14:17
駿台京都校LAクラスのFです
京都大学法学部合格しました!
先生に教えていただいたことを大学でも存分に活かしたいと思います!
一年間添削してくださってありがとうございました!
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G くん 10日15:56
京都校のGです
京都大学法学部合格しました!
1年間の添削、ありがとうございました。
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H くん 10日18:17
東大文科2類に合格しました!
短い間でしたが添削ありがとうございました!
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I くん 10日19:05
添削でお世話になった I です。東大に無事合格できました。正直自分は世界史の通史が終わるのが遅く、過去問対策も遅れてしまいました。しかし、先生の添削のおかげで、その短い時間の中で大論述のノウハウを学び、本番に活かすことができました。本当にありがとうございました。
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J くん 10日22:48
東京大学文科一類に合格できました。世界史に関しては先生の添削のおかげで質の高い答案を書くことができたのみならず今後に活かせるような知識も身につけることができました。
ありがとうございました。
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K くん 10日22:48
中谷先生、初めまして!
私は中谷先生の授業や添削を受けていた訳でないのですが、中谷まちよの世界史年代ワンフレーズと先生のセンター世界史各駅停車で学んでセンター世界史満点取れて無事理三に合格できました!!!理系ながらセンター世界史各駅停車は色々な脇道のような話があって楽しく学べました!(アヘン戦争でサルに火薬を取り付けた話とか)先生のおかげで東大合格できましたありがとうございます!
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L くん 13日23:27
京都校LAクラスのMです。
京都大学法学部に合格しました!
中谷先生にはとにかく丁寧に採点していただきました。ありがとうございました。
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M くん 20日22:44
東大の第一問を中心に添削をして頂いていたMです。
報告が遅れましたが、無事東京大学に合格し入学する予定となりました。
お忙しい間も添削を頂き、宅浪のなかこれをモチベーションに学習を進めることができました。感謝しております。
これからも中谷先生の尚一層のご活躍に期待しております。
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N くん 4月20日12:36
船橋高校出身のOと申します。
この度、入試結果の報告をさせていただきたく、メールいたしました。報告が遅れてすみません。
一橋大学社会学部に合格しました。
数多くの過去問とその解説を含む先生のブログは僕の合格の大きな助けになりました。
ありがとうございました。

東大世界史2019

第1問
 1989年(平成元年)の冷戦終結宣言からおよそ30年が経過した。冷戦の終結は、それまでの東西対立による政治的・軍事的緊張の緩和をもたらし、世界はより平和で安全になるかに思われたが、実際にはこの間地球上の各地で様々な政治的混乱や対立、紛争、内戦が生じた。とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至るが、それらの歴史的起源は、多くの場合、オスマン帝国がヨーロッパ列強の影響を受けて動揺した時代にまでさかのぼることができる。
 以上のことを踏まえ、18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ、記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 アフガーニ一 セーヴル条約 ミドハト憲法 ギュルハネ勅令 日露戦争 ロンドン会議(1830) サウード家 フサイン=マクマホン協定

第2問
 国家の歴史は境界線と切り離せない。境界をめぐる争いは絶え間なく起こり、現地の生活を無視して恣意的に境界線が引かれることも頻繁であった。このことを踏まえて、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 19世紀半ば以降、南アジアでは英による本格的な植民地支配が進展した。英領インドを支配する植民地当局は1905年にベンガル分割令を制定したが、この法令は、ベンガル州をどのように分割し、いかなる結果を生じさせることを意図して制定されたのかを3行以内で説明しなさい。

問(2) 太平洋諸地域は近代に入ると世界の一体化に組み込まれ、植民地支配の境界線が引かれた。このことに関連する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

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(a)地図中の太線で囲まれた諸島が、19世紀末から1920年代までにたどった経緯を2行以内で説明しなさい。
(b)ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化について2行以内で説明しなさい。

問(3) 1990年代後半より、中国と韓国の間で、中国東北地方の帰属の歴史的解釈をめぐる対立が生じた。このことに関連する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。
(a)当時の韓国の歴史教科書では、韓国史は「満州と韓半島」を舞台に展開した、とされている。その考え方の根底にある4〜7世紀の政治状況について、2行以内で説明しなさい。
(b)中国は、渤海の歴史的帰属を主張している。その根拠の1つとされる、渤海に対する唐の影響について、2行以内で説明しなさい。

第3問
 歴史上、人の移動によって世界各地の異なる文化が交わり、知識や技術、ものが伝播し、その結果、人々の生活や意識に変化がもたらされた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。
問(1) アレクサンドロス大王の東方遠征によりエジプト、ギリシアからインダス川に至る大帝国が樹立されると、その後300年ほどの間に東西文化の融合が進み、ポリスの枠にしばられない普遍的な立場から価値判断をしようとする考えが生まれてきた。このような考え方を何というか、記しなさい。
問(2) 季節風の発見により活発になったインド洋交易は、各地の産物のみならず、様々な情報ももたらした。1世紀にこの交易に携わったギリシア人が、紅海からインド洋にかけての諸港市やそこで扱われる交易品について記録した書物の名を記しなさい。
問(3) ユーラシアの東西に位置した後漢とロ一マ帝国は、何度か直接の交流を試みた。97年に西方の「大秦」に使者を派遣した後漢の西域都護の名を記しなさい。
問(4) 唐の時代、多くの仏教僧がインドを訪れ、経典や様々な清報を持ち帰った。それらの仏教僧のうち、海路インドを訪れ、インドおよび東南アジアで見聞した仏教徒の生活規範・風俗などを『南海寄帰内法伝』として記録した人物の名を記しなさい。
問(5) ノルマン人は8世紀後半から海を通じてヨーロッパ各地へ遠征し、河川をさかのぽって内陸にも侵入した。彼らの一派が建てたキエフ公国は何という川の流域にあるか。川の名を記しなさい。
問(6) インド洋交易の主役となったムスリム商人は、10世紀以降、アフリカ東岸のモンバサやザンジバルなどに居住した。彼らの活動に伴ってアラビア語の影響を受けて発達し、アフリカ東海岸地帯で共通語として用いられるようになった言語の名を記しなさい。
問(7) 13世紀に教皇の命を受けてカラコルムを訪れた修道士(a)は、旅行記を書き、モンゴル帝国の実情を初めて西ヨーロッパに伝えた。また十字軍への協力を得るため仏王によってモンゴル帝国に派遣された修道士(b)も、貴重な報告書を残している。これらの修道士の名を、冒頭に(a)·(b)を付して記しなさい。
問(8) ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服が、労働力としての酷使や伝染病の伝播によって先住民に災厄をもたらした一方で、アメリカ大陸原産の作物は世界各地に広がつて栽培され、飢饉を減らし、人口の増大を支えるという恩恵をもたらした。これらの作物の名を、2つ記しなさい。
問(9) インドの伝統技術によって生産された、ある植物の花から紡がれ織られた製品は、丈夫で洗濯に強く、染色性にもすぐれていることから、17世紀にはヨーロッパでも人気を博し、さかんに輸入されるようになった。この製品の名を記しなさい。
問(10) 宗教の自由を求めて英から北米大陸に渡ったピューリタンは、入植地をニューイングランドと呼んだ。やがて東部海岸地域に英の13植民地が築かれるが、このうち北部のニューイングランドの植民地の名を2つ記しなさい。

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コメント

第1問
 課題は「18世紀半ばから1920年代までのオスマン帝国の解体過程について、帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ」でした。つまり時間が「18世紀半ばから1920年代まで」、テーマが「オスマン帝国の解体過程」、副次的な要求は「帝国内の民族運動や帝国の維持を目指す動きに注目しつつ」でした。
 まず「18世紀半ば」の段階でのオスマン帝国の領土がどんなものであったかの前提が必要です。導入文に書いてある「支配領域」のことです。教科書では、『詳説世界史B』ならp.195に、『新世界史B』ならp.176に、帝国書院の『新選・世界史B』ならp.179に、実教出版の『高校世界史B』ならp.119に地図が載っています。それぞれ最大版図の時期のもので、「18世紀半ば」では、ピョートル1世にアゾフ市を奪われた(1696)こと、またカルロヴィッツ条約(1699)でハンガリーを失っていること、2点だけは地図に書いてないが、他は「18世紀半ば」でも持っていました。すると一番端の部分は、北アフリカではアルジェリア(なぜモロッコが征服できなかったかはウィキペディアの「サアド朝」を参照)、東はアラビア半島、北ではバルカン半島の西のスロヴェニア、黒海の北岸ではウクライナ南部で、その西方ではベッサラビア(モルダヴィア)の地域が領域になります。
 予備校の「模範」答案では、アルジェリア・チュニジア、クリミア半島以外の黒海北部周辺を書いたものは一例もありませんでした。どうして? 「解体」というのは急激に消滅するのでなく、ゆっくり砕けていく過程が想像されいるはずです。そのためにも「支配領域」が削られていく過程を丹念に描く必要がありました。教科書の地図もちゃんと見ていないため、前提となる「領域」から出発できない。予備校の講師も含めて、これから学ぶひとは地図をよく見て勉強しましょう。

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わたしの授業プリントから



 もう一つの課題として「民族運動や帝国の維持を目指す動き」と2つの要求があり、前者はオスマン帝国自身も自己を守るための「民族」意識の目覚めはあるものの、つまりこれは「維持」にあたるので、ここは主に帝国内諸民族の独立運動のこと。オスマン帝国に対する独立運動が「民族運動」であり、同時にオスマン帝国領をねらう新たな侵略者たる西欧列強に対抗することも課題でした。「民族」側に二つの課題、オスマンからと西欧からの2つの解放運動が必要でした。
 離れていった地域にみな民族運動があるのですが、しかし、民族「運動」らしく描いた解答例は少ないですね。ムハンマド=アリーと、指定語句のアラビア半島のサウード家と、指定語句のフサイン・マクマホン協定にのっかるアラブ人、どの民族とはいえないパン=イスラーム主義を遊説して回ったアフガーニーくらいで、これも指定語句でした。指定語句にないもので民族運動は書けなかったのか? 例年とちがい今年は60字増えたので、書けそうですがね。アルジェリアのアブドゥル=カーディル、エジプトのウラービー、アルバニア人、ユダヤ人、クルド人などです。ユダヤ人の民族運動シオニズムも現在の紛争の要になるものですが、これを書いた解答例も少ない。
 指定語句の多さから、どうしてもオスマン帝国の内政にあたる「帝国の維持を目指す動き」に集中した解答例が多かった。それだったら「とりわけ、かつてのオスマン帝国の支配領域はいくつかの大きな紛争を経験し今日に至る」という過去と現代をつなぐ問題でなくてもよかったのでは?

第2問
 「境界線」の問題は過去問にもありました(1978年)。そこに紛争があり条約が結ばれるから出題しやすいテーマです。
問(1) ベンガル分割令の内容「どのように分割し、いかなる結果を生じさせる意図」を問うています。教科書(詳説世界史)では「イギリスは,ヒンドゥーとイスラームの両教徒を反目させて運動を分断することを意図して,1905年にベンガル分割令を発表した」と意図を書いていますが、「どのように」は書いてありません。東京書籍では双方とも書いていて「イギリスは宗教的な対立を利用して民族運動を分裂させようと,1905年に反英運動の中心であるベンガル州をムスリムの州とヒンドゥー教徒の州に分けるベンガル分割令(カーゾン法)を発表した」とあります。三省堂のは「インド総督カーゾンは、1905年に民族運動がとくに進んでいたベンガル州を、ヒンドゥー教徒の多い西部地域とムスリム(イスラーム教徒)の多い東部地域とに分割して運動を分断した(ベンガル分割令)」とあります。専門書では「地形・言語・経済など多くの点からみて一体をなすベンガルの真中を、なんら特別の必然的理由もなく区切るものであった。たったひとつ、宗派別人口構成からみて、ヒンドゥーの多い地域とムスリムの多い地域を区別する線が、ほぼこの分割線と一致するだけであった(山川『各国史・インド史』)」とあります。この他にベンガルに敷かれていたザミンダーリー制をライヤットワーリー制に変える意図も含まれていました。これは教科書に書いてないので、書けなくてもいいです。

問(2) 
(a)太平洋諸島の「19世紀末から1920年代までにたどった経緯」でした。地図中の引っ込んだ地域にグアム島(米領)があり、他の地域はドイツが取った植民地でした。マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島です。「1920年代まで」ということは第一次世界大戦での変化を書け、ということで、ドイツが失い、日本が委任統治領として取った、ということを書けばできたことになります。ただ、ドイツ領であったビスマルク諸島は英豪の委任統治領になっていますから、すべてのドイツ領が日本のものになったのではありません。

(b)「ニュージーランドが1920〜30年代に経験した、政治的な地位の変化」は特異な問題でした。もともと英領であったのが1907年に自治領になり、それが「30年代」に入れるとなると、全自治領に該当する新法として、ウェストミンスター憲章(1931)で「完全」な自治、つまり英国本国の承認なしに自主的な憲法制定が可能になりました。自治領優遇により恐慌対策(善隣外交)を円滑にしようとした政策でした。
 今年(2019年)3月15日にニュージーランド、クライストチャーチ市のモスクで50人が死亡した銃乱射事件がおき、この事件に対する首相アーダーンの対応が見事でした。スカーフをかぶり、遺族の話に耳を傾け、有名になりたがっている加害者の名を「名無し」のテロリストと呼び、事件の動画を見ないように呼びかけました。容疑者の人種差別的な「マニフェスト」の所有、配布を禁止しました。憎しみを煽り立てる傾向を抑えようとしていて、こうした姿勢は、愚昧で冷酷なトランプ、ヘイトスピーチを放置する安倍とは対照的です。「事件後すぐの記者会見では、「They are us. 彼ら(殺されたムスリム達)はわたしたち(ニュージーランド国民)だ」と強調し、思いやりや共感、愛を持って対応することを主張し、銃規制と被害者への経済的な支援も公言した。(HUFFPOST、3月26日の記事)」

問(3) 「中国東北地方の帰属の歴史的解釈をめぐる対立」についてでした。不思議なことに京大でも今年の第1問に「マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)の諸民族は国家を樹立し、さらに周辺諸地域に進出することもあれば、逆に周辺諸地域の国家による支配を被る場合もあった。4世紀から17世紀前半におけるマンチュリアの歴史について、諸民族・諸国家の興亡」というテーマが出題されました。

(a)当時の韓国の歴史教科書では、韓国史は「満州と韓半島」を舞台に展開した、とされている。その考え方の根底にある4〜7世紀の政治状況について、です。
 「4世紀」は高句麗の台頭期であり、313年に楽浪郡・帯方郡を併合しています。しかしその後は南部を支配する新羅・百済との三国抗争を展開し、唐と組んだ新羅に北部に押しやられてしまいました。それで先住の靺鞨族(書けない場合は先住民)とともに渤海を建国します。
 「令和」の出典は万葉集だと喧伝していますが、『文選』にも似た表現があり、当時の渡来人にとっては『文選』に学ぶことは教養でした。歌人たちにとっても教養の一つだったでしょう。編者らしい大伴氏の先祖をたどれば高句麗にたどりつくようです。高句麗は今の北朝鮮にあたります……。「国書」? ラクスマンが国書を持って日本を訪れた、ペリーが大統領フィルモアの国書を徳川幕府に提出した、といった場合の国書は外交文書のことです。国産の意味ではなかった。以下にも
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64241

(b) 「渤海に対する唐の影響」についてでした。初めは「震国」と名乗っていた渤海は唐(玄宗)との外交交渉で「渤海」名を認めてもらっています。2代目は唐と対立しましたが3代目以降は唐の文化・制度を真似ていて、都城の制で上京龍泉府をつくり、律令格式・儒教・仏教を受容し、科挙も導入したらしい。

第3問
問(1) 「アレクサンドロス大王の東方遠征……その後300年ほどの間に東西文化の融合が進み、ポリスの枠にしばられない普遍的な立場から価値判断をしようとする考え」という問いは容易でした。世界市民主義(コスモポリタニズム)です。今は拡大して地球市民と訳したりしています。マケドニア王国の支配下はいった各ポリスは自身のポリスの法を執行することができなくなり、マケドニアの命令に従うことになりました。良く取れば、市民はみな平等だということで、地域主義を打破せよ、ということになります。

問(2) 「季節風の発見により活発になったインド洋交易は、……1世紀にこの交易に携わったギリシア人が、紅海からインド洋にかけての諸港市やそこで扱われる交易品について記録した書物」は『エリュトラー海案内記』と言われていて、この海はたぶん今アラビア海のことであろうと見られています。「諸港市やそこで扱われる交易品」はウィキペディアの「エリュトラー海案内記」に地図がのっています。英文のほうが詳細な説明をしています。

問(3) 「97年に西方の「大秦」に使者を派遣した後漢の西域都護の名」とは、班超です。使者は甘英。大秦というローマ帝国には着けなかったようですが、パルティア(安息国)までは到達していて、張騫よりは西方に距離を伸ばしています。

問(4) 「『南海寄帰内法伝』として記録した人物の名」という易問。南の海に寄って帰ってきたので、水っぽい名の義「浄」さん。玄奘の「奘」ではない。

問(5) 「キエフ公国は何という川の流域にあるか。川の名」はドニエプル川。この川沿いにキエフ市があります。現在はウクライナの首都です。少し北に事故をおこしたチェルノブイリ原発があります。

問(6) 「アラビア語の影響を受けて発達し、アフリカ東海岸地帯で共通語として用いられるようになった言語の名」とあるのでスワヒリ語です。現地の言葉であるバントゥー語とアラビア語が混ざってできました。

問(7) 13世紀に教皇の命を受けてカラコルムを訪れた修道士(a)は、旅行記を書き、モンゴル帝国の実情を初めて西ヨーロッパに伝えた。インノケンティウス4世が派遣したプラノ=カルピニです。
 十字軍への協力を得るため仏王によってモンゴル帝国に派遣された修道士(b)……これはルイ9世が派遣したウィリアム=ルブルクです。会ったのがモンケ=ハーンなので、ル(ルイ)ンル(ルブルク)ンモーケ(モンケ)と覚えます。

問(8) 「アメリカ大陸原産の作物は世界各地に広がつて栽培され、飢饉を減らし、人口の増大を支えるという恩恵をもたらした。これらの作物の名」はジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ。

問(9) 「インド……植物の花から紡がれ織られた製品」はキャラコ(キャリコ)。

問(10) 「13植民地が築かれるが、このうち北部のニューイングランドの植民地の名を2つ」は難問・奇問でした。合衆国全体の東北地方の端に存在する6州ですが、マサセチューセッツ州は書けても後は書けなくてもいい。他はメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、ロードアイランド州、コネチカット州の5つ。アメリカのひとが東京の周辺の県名を言えないからといって軽蔑すべきことではないのと同じ。

京大世界史2019

第1問(20点)
 マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)の諸民族は国家を樹立し、さらに周辺諸地域に進出することもあれば、逆に周辺諸地域の国家による支配を被る場合もあった。4世紀から17世紀前半におけるマンチュリアの歴史について、諸民族・諸国家の興亡を中心に300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A,B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 西アジアで最初の文字記録は、メソポタミア(現在のイラク南部)でシュメール語の楔形(くさびがた)文字によって残された。シュメール人の国家が滅亡した後も、シュメール語は文化言語としてこの地域を支配したセム語系の民族(アムル人)によって継承・学習された。シュメールの文化や言語を受け継いだ古代メソポタミアの社会構造を知る手がかりとなる(1)ハンムラビ法典碑は、アムル人が建てたバビロン第1王朝時代のものである。この王朝は、前2千年紀前半アナトリアに興ったインド=ヨーロッパ語系の言語を使用していた(2)ヒッタイト人の勢力によって滅ぼされた。
 前2千年紀後半になると、(3)アラム人、(4)ヘブライ人、(5)フェニキア人などのセム語系民族の間で表音文字アルファベットの使用が始まり、前1千年紀に入ると、この文字体系が西アジア、ヨーロッパ地域に広まつていった。ギリシア文字の使用は前9〜8世紀に始まり、やがてイタリア半島でもラテン文字が使用されるようになった。前6世紀ペルシアに勃興して(6)西アジアとエジプトにまたがる大帝国を建てた[  a  ]朝では、王の功業などを記録する楔形文字と並んで、行政や商業にはアラム文字が使用されていた。マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の結果、前330年この大帝国は滅亡し、西アジアやエジプトでも一部ではギリシア文字が使用された。古代エジプトで使用されていたヒエログリフが記された(7)ロゼッタ=ストーンは、エジプトを支配していた(8)プトレマイオス朝時代に作成された石碑で、ギリシア語の文章が併記されていたことがヒエログリフ解読の契機となった。
 アラム文字は西アジアや中央アジア地域でその後使用された多くの文字の原型となったが、紀元後7世紀にアラビア半島に興り、その後1世紀余のうちにイベリア半島から中央アジアにまで拡大した(9)イスラーム勢力の支配領域において使用されたアラビア文字は、その最も繁栄した後裔(えい)と呼ぶことが出来よう。アラビア文字は、イスラーム教徒(ムスリム)にとっての聖典『クルアーン(コーラン)』を記す文化的な核心を成す文字とされ、その使用はムスリムの活動範囲と重なって拡大した。イスラームに改宗した(10)イラン系、(11)トルコ系の人々も、アラビア文字の表記をそれぞれの言語に合わせて少しずつ改変して使用した。[  b  ]帝国を廃して成立した(12)トルコ共和国では、1928年からラテン文字に基づくトルコ文字の使用を法律的に義務付けた。中央アジアや(13)アゼルバイジャンで独立したトルコ系民族を主要な構成要素とする諸国の多くも、現代ではラテン文字やキリル文字を基礎とする各国文字を使用している。


(1) この法典碑は1901〜02年にイラン南西部の遣跡スーサで発掘されたものである。当時イラン(国名はペルシア)を支配していた王朝は何か。その名を記せ。
(2) ヒッタイト人の国家は前2千年紀の後半エジプトと外交関係を持ち、それは1887年エジプトで発見された楔形文字によるアマルナ文書にも記録されている。この文書が作成された時代に、従来のアモン神からアトン神へと信仰対象の大変革を行ったとされるエジプトの王は誰か。その名を記せ。
(3) アラム人は大きな国家を形成することなく、シリアの内陸部ダマスクスなどの都市を拠点に交易に従事していたとされる。前1千年紀前半、これらのアラム人を支配下に置き、西アジアで大きな勢力を持つようになった国家は何か。その名を記せ。
(4) 前6世紀、新バビロニア(カルデア)王国の攻撃でヘブライ人の王国(ユダ王国)の首都イェルサレムが陥落、王族や主要な人物はバビロンヘ連行され、捕囚となった。これを行った新バビロニアの王は誰か。その名を記せ。
(5) フェニキア人は海洋民族として活躍した。彼らの活動の根拠地となった現在レバノン領の港市の名を一つ挙げよ。
(6) 前7世紀にカルデアやリュディアと並んで強力となったイラン西部に本拠を置いた国は何か。その名を記せ。
(7) ロゼッタ=ストーンは、ナポレオンの工ジプト遠征の際、イギリス軍の襲来に備えてロゼッタ(ラシード)の城塞を修復中に偶然発見されたものである。1822年にこの石に刻まれた銘文を参照してヒエログリフの解読に成功したフランス人学者は誰か。その名を記せ。
(8) この王朝は前30年ロ一マによって滅ぼされた。ヘレニズム時代、この王朝に対抗してシリアを中心とした西アジアを支配し、前1世紀前半に滅亡した王朝は何か。その名を記せ。
(9) この宗教は南アジアを経て東南アジアヘと伝播し、この地域で多数の信者を獲得するまでになった。1910年代の初め、現在のインドネシアで結成された、この宗教を基盤とする民族運動組織は何か。その名を記せ。
(10) 11世紀の初め、アラビア文字を用いたペルシア語で、神話・伝説・歴史に題材を採った長大な叙事詩『王の書(シャー=ナ一メ)』を書いたイラン東部出身の詩人は誰か。その名を記せ。
(11) この民族の一部は、中央アジアを中心に国際的な交易に従事するイラン系民族と密接な関係を持ち、その民族が用いていたアラム系文字を使用するようになった。そのイラン系民族は何か。その名を記せ。
(12) この国の成立に当たって、アンカラに本拠を置く政府が1923年に第一次世界大戦の連合国と締結し、国境を画定した国際条約は何か。その名を記せ。
(13) 16世紀初頭、現在のイラン領アゼルバイジャン地域で建国し、その後、現在のアゼルバイジャン共和国領まで支配領域を拡大し、十ニイマーム派を奉じた王朝が、16世紀末から首都を置いた都市はどこか。その名を記せ。

B 16世紀半ばをすぎると、明朝は(14)周辺の諸勢力との抗争によって軍事費が増大したため、重税を課すようになり、天災や飢饉なども相侯(あいま)って、各地で反乱が頻発し、次第に支配力を失っていった。1644年、[  c  ]の率いる軍が北京を陥落させると、最後の皇帝であった(15)崇禎帝は自殺し、270年あまり続いた明朝の命運はここに尽きることになった。
 その後中国本土を支配したのは清朝であった。1661年に即位した康熙帝は、呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧した。また、(16)オランダを破り(17)台湾に拠って清に抵抗していた鄭氏政権を滅ぼした。これによって雍正帝・乾隆帝と三代つづく最盛期の基礎が築き上げられた。対外的には、ジュンガルを駆逐してチベットに勢力を伸ばすとともに、東方に進出してきたロシアとのあいだに(18)ネルチンスク条約を結んで国境を取り決めた。また国内では、キリスト教(カトリック)(19)宣教師の一部の布教を禁止したほか、字書や(20)類書(事項別に分類編集した百科事典)の編纂など文化事業を展開した。
 雍正帝のときになると、用兵の迅速と機密の保持を目的に、政務の最高機関である[  d  ]が設置された。1727年にはロシアとキャフタ条約を結び、清とロシアの国境を画定した。
 乾隆帝の時代には、「十全武功」と呼ばれる大遠征が行われた。(21)西北ではジュンガルを滅ぼし、天山以北の草原地帯と以南のタリム盆地を征服した。ー方、南方では台湾・(21)ビルマ(現ミャンマー)・(23)ベトナム・大小両金川(今日の四川省西北部)にも出兵した。これらの遠征は必ずしもすべてに勝利を収めたわけではなく、ビルマ・ベトナムではむしろほとんど敗北に近かったのであるが、それでも清朝はユーラシア東部の大半をおおうような巨大な版図を形成することになった。
 この頃のユーラシア東方世界を考えるとき、注目すべきなのは、チベット仏教が急速に浸透していったことであろう。たとえば1780年、乾隆帝とチベットの活仏パンチェン=ラマ4世の会見が実現すると、元朝の帝師[  e  ]と世祖(24)クビライの関係を再演してみせようとして、パンチェン=ラマはみずからを[  e  ]の転生者と称し、乾隆帝を転輪聖王と称揚した。つまりモンゴル・チベット・東トルキスタン・漢地などをふくむ「大元ウルス」の大領城を「大清グルン」の名のもとにほぼ完全に「復活」させた乾隆帝は、クビライの再来として転輪聖王と認識されたと考えられる。チベット仏教に基づく権威によって王権の正統化が図られたといえよう。
 しかし嘉慶帝・道光帝.咸豊帝の頃になると、清朝の勢力は次第に衰え、19世紀半ば、(25)アヘン戦争とアロー戦争(第二次アヘン戦争)が相次いで発生すると、ヨーロッパ列強との間に南京条約など不平等条約の締結を強いられた。


(14) このような諸勢力のうち、明の北方辺境を侵したモンゴルの君主は誰か。その名を記せ。
(15) この皇帝の祖父の時代、各種の税と労役を一括して銀で納入する方法が広まっていった。この税制は何か。その名を記せ。
(16) 当時オランダがヨーロッパにもたらした中国の陶磁器は世界商品であった。その陶磁器の生産で名高い中国江西省の都市はどこか。その名を記せ。
(17) 台湾は日清戦争の結果、1895年に日本に割譲され、第二次世界大戦後には中国国民党の率いる中華民国政府が移転してきた。2000年には総統選挙によって初の政権交代が行われた。この国民党に代わって政権を担った政党は何か。その名を記せ。
(18) この条約を結んだときのロシア帝国の皇帝は誰か。その名を記せ。
(19) フランス出身でイエズス会に所属し、ルイ14世の命令でこの時期に訪中した宣教師らが測量・作製した中国全土の地図は何か。その名を記せ。
(20) 康熙帝のときに編纂が開始され、雍正帝のときに完成した類書の名を記せ。
(21) 1884年、これらの地に設置された省は何か。その名を記せ。
(22) 18世紀半ばに内陸のビルマ人勢力が建国し、ほぼ現在のミャンマーの国土と等しい領域を支配し、さらにタイのアユタヤ朝を滅ぼした王朝は何か。その名を記せ。
(23) 当時ベトナムでは、北部の鄭氏と中部の阮氏が対立していたが、18世紀後半に起こった反乱によって両者はともに滅亡した。この反乱は何か。その名を記せ。
(24) クビライは日本遠征を行い、その軍には高麗軍も参加していた。現在は朝鮮民主主義人民共和国の南部に位置する高麗の首都はどこか。その名を記せ。
(25) これらの戦争に敗れた清は列強に対して大幅な譲歩を余儀なくされ、国内体制の「改革」をせまられることになった。これを洋務運動という。この運動に見られた、儒教などの精神を温存しつつ西洋の技術を導入するという考えは何か。その名を記せ。

第3問(20点)
 15世紀末以降、ヨーロッパの一部の諸国は、インド亜大陸に進出し、各地に拠点を築いた。16世紀から18世紀におけるヨーロッパ諸国のこの地域への進出の過程について、交易品目に言及し、また、これらのヨーロッパ諸国の勢力争いとも関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 人類は、結婚や相続といった枠組みを通じて、有形無形の財産や権利を受け継いできた。古代ギリシアのポリスでは、参政権は成人男性市民が有し、女性の発言力は家庭内に限られた。これに対して、アテナイの喜劇作家[  a  ]は『女の平和』という作品で、女性たちが性交渉ストライキで和平運動に参画する姿を描き、時事風刺を行った。
 古代ロ一マでは、カエサルの遺言で養子になったオクタウィアヌスが元首政を開始した。そしてこの帝位を継がせる者として、[  b  ]を同じく養子とした。(1)ヘブライ人の王の子孫とされるイエスに対する信仰は、社会的地位において劣るとされた女性や下層民を強くひきつけた。この信仰を中心とするキリスト教は、後の欧州世界を大きく規定した。
 古代末にドナウ川中流のパンノニアを本拠としたフン人の中では、伯父から王位を共同で継承した兄弟王権が成立した。兄ブレダの死後、(2)単独支配者となった王は大帝国を建設したが、その死亡に伴い帝国は瓦解した。東ゴート人は、(3)テオドリックを指導者とし、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。この国はロ一マ由来の制度や文化を尊重したが、後に(4)東ロ一マ皇帝により滅ぼされた。
 フランク王国は、分割相続を慣習とし、カール大帝を継承したルートヴィヒ1世が死亡すると、3人の子の間で闘争が激化し、(5)王国は3つに分割された」。その後、中部フランクが東西フランクに併合され、イタリア・ドイツ・フランスの基礎が築かれた。
 ノルマンディー公国では、フランス貴族との通婚により生まれた次男・三男以下のノルマン騎士が、傭兵や征服者として欧州各地に出かけた。イタリアでは、(6)半島南部とシチリア島の領土を継承した王が、両シチリア王国を誕生させた
 この時期、封建貴族に支配された農奴は、地代として生産物の貢納と、領主の農地を耕作する賦役とを課された上に、結婚税を労働力移動の補償として、死亡税を保有地相続税として支払うなど、(7)多岐にわたる負担を義務づけられた。
 ロ一マ=カトリック教会は、修道士を通じて民衆教化を進めた。教会には、国王や諸侯から土地が寄進され、聖界諸侯が政治勢力となったが、現実的には教会は世俗権力の支配下にあり、また腐敗も進んだ。こうした世俗化や腐敗を批判する教会内部の動きは、フランスのブルゴーニュ地方にあった[  c  ]修道院が中心であった。司教職などを相続や取引の対象とすることや、戒律に反する妻帯慣行も非難の対象であった。
 イングランドでは王位を巡る混乱が生じた。結果的に、フランスのアンジュー伯が(8)ヘンリ2世として即位したが、アキテーヌ女公と結婚しフランス西部を領有するに至り、大陸とブリテン島にまたがる大国が建設された。他方でフランス側では、カペー王家の断絶に伴い、ヴァロア家のフィリップ6世が即位すると、大陸におけるイングランド勢力の一掃を図ったが、これに対してイングランド王(9)エドワード3世は、フランスの王位継承権を主張した
 中世後期のイタリアには、ロ一マ教皇領の北に、コムーネと呼ばれる自治都市が成立した。フイレンツェでは、商人や金融業者などの市民が市政を掌握した。やがて、(1O)有力家系が、その後数世代にわたり寡頭政を敷いた
 北欧では、混乱を平定したデンマークの王女マルグレーテが、ノルウェー王と結婚し、父王と夫との死亡により、デンマークとノルウェー両国の実権を掌握した。さらにスウェーデン王を貴族の要請で追放すると、(11)3国を連合することとなった。これはデンマーク主導による連合王国を意味したが、後にスウェーデンとの連合は解消された。


(1) 『マタイによる福音書』によれば、イエスはヘブライ人の王の子孫とされる。息子ソロモンと共に王国の基礎を築いた王は誰か。その名を記せ。
(2) この王は、カタラウヌムの戦いで西ロ一マ・フランクなどの連合軍に撃退され、イタリアでは教皇レオ1世との会見を経て撤退した。この王の名を記せ。
(3) テオドリックは、フランク王の妹と結婚した。このフランク王はキリスト教(アタナシウス派)に改宗したことで知られるが、その王は誰か。その名を
記せ。
(4) この皇帝はその后テオドラとともに、北アフリカを征服するなど、地中海帝国を再現させた。この皇帝は誰か。その名を記せ。
(5) この王国の分割を決定した条約は何か。その名を記せ。
(6) 伯父と父より継承し、南イタリアとシチリアにまたがるこの王国を作った王は誰か。その名を記せ。
(7) 教会は、農奴からも税として収穫の一部を徴収した。この税は何か。その名を記せ。
(8) ヘンリ2世が開き、2世紀余り続いた王朝は何か。その名を記せ。
(9) エドワード3世がフランスの王位継承権を主張した血縁上の根拠を簡潔に説明せよ。
(10) 金融業で資金を得て、学芸を庇護し、政治権力を維持した一家は何か。その名を記せ。
(11) マルグレーテはデンマークとの国境に近い町に3国の貴族を集め、養子のエーリック7世のもとに3国が連合することを承認させ、その実権を握った。この連合は何か。その名を記せ。

B 世界史の中で19世紀は「ナショナリズムの時代」と言われるように、様々な地域で国民国家の形成が目指された時代だった。しかしそれは同時に、かつてない規模の人々が生地を離れて新天地に向かった「移民の時代」でもあった。エ業化に伴う社会経済的な変動を背景とするこの時代の移民は、(12)16世紀以降盛んになった大西洋を横断する強制的な人の移動と移動先での不自由な労働との対比で、「自由移民」と呼ばれることがある。
 ヨーロッパから海を渡った「自由移民」の代表的な行き先は、アメリカ合衆国(以下、合衆国)であった。合衆国はそもそも移民によってつくられた国であったが、(13)19世紀半ばごろから急拡大した労働力需要は、新たな移民をひきつけ、世紀後半には中国や日本からも多くの移民を迎えた。しかし、(14)これらの新しい移民と旧来の移民やその子孫との間には、摩擦も生まれた。同じころ(15)オーストラリアや南アフリカにも様々な地域から多くの人が移民として向かったが、いずれにおいても白人至上主義の体制が敷かれた。
 19世紀以降の大規模な人の移動を物理的に可能にしたのは、鉄道や蒸気船などの交通手段の発達だった。合衆国では1869年には大陸の東西が鉄道によって結ばれ、大西洋側と太平洋側のそれぞれの港に到来する移民の動きは、国内での移動と連結された。同じころスエズ運河も開通し、地球上の各地はますます緊密に結びつけられるようになった。しかし、こうした陸上および海上の交通網の発達は、人々の自由な移動を推し進めただけではなかった。(16)列強は帝国の拡張や帝国主義的進出のために各地で鉄道建設を進め、原料や商品の輸送のために鉄道を利用するばかりでなく、軍隊を効率的に移動させ抵抗を鎮圧するためにも利用した。それゆえ、(17)鉄道はしばしば、帝国主義に抵抗する民衆運動の標的ともなった
 20世紀に入ると新たに飛行機が発明され、長距離の移動はさらに容易になる。ただし、発明からまもない時期の飛行機の実用化を促したのは、旅客機としての利用ではなく、軍事目的の利用だった。飛行機を使った空中からの爆撃が広範に行われたのは第一次世界大戦中であったが、歴史上最初の空爆は、(18)1911〜12年のイタリア=トルコ戦争においてイタリア軍によって実行された。
 国境を越える人の移動が拡大すると、それぞれの国家は、パスポートを用いた出入国管理の制度を導入して人の動きを管理しようとした。また、(19)大規模な人の移動は感染症の急速な伝播などの危険を増すものでもあったため、各国は港での近代的な検疫体制を整備した。こうした出入国管理や検疫の制度は、その運用の仕方次第で、移民を差別あるいは排斥する手段ともなった。
 このように、19世紀以降に拡大する人の移動とそれを支えた交通手段の発達は、単純に人々の自由な移動の拡大を意味したのではなかった。第二次世界大戦期およびそれに先立つ時期にも、「不自由」な移動は大規模に発生した。その極端な形は、ドイツ国内やドイツの占領地におけるユダヤ人をはじめとする人々の強制収容であったが、「亡命」を余儀なくされ国を出る人々も多数あった。たとえば、(20)著名な物理学者アインシュタインは、この時期に合衆国に亡命した1人である
 (21)第二次世界大戦後も、戦争や内戦により、世界の様々な地域の人が「難民」という形で望まない移動を強いられてきた。アジアでは1970年代後半から80年代に、(22)インドシナ半島で多数の難民が生み出され、多くは合衆国などに向かい、一部は日本にも向かった。
 以上のように見るならば、19世紀以降、今日に至る時代は、大量の「強いられた移動」に特徴づけられた時代とも言えるのである。


(12) この強制的な人の移動について、欧米では18世紀末から19世紀に入るころに反対の気運が高まる。1807年にそのような移動を廃止したのはどこの国であったか。その名を記せ。
(13) (ア)1840年代から50年代にかけてヨーロッパのある地城は合衆国に向けてとくに大規模に移民を送り出した。この地域とはどこであったか、そしてこの地域が大量の移民を送り出した事情とは何か。簡潔に説明せよ。
(イ) 1840年代後半から移民を多くひきつけた合衆国側の事情について簡潔に説明せよ。
(14) 合衆国におけるこのような動きは1924年の移民法に一つの帰結をみた。この法の内容を簡潔に説明せよ。
(15) これら両国が20世紀初めにイギリス帝国の中で得た地位はどのようなものであったか。その名称を記せ。
(16) ロシアがアジアヘの勢力拡大の手段としたシベリア鉄道はある国の資本援助を受けて建設された。その背景には、その国とロシアの同盟関係があった。この同盟は何か。その名称を記せ。
(17) 19世紀末の中国山東省で生まれ、鉄道の破壊を含む運動を展開した集団は何か。その名を記せ。
(18) この戦争でイタリアが獲得した地域は、今日の何という国に含まれるか。その国名を記せ。
(19) 1918年から翌年にかけて、インフルエンザが世界中で大流行し、多数の人が命を落とした。この時期にこの伝染病を世界規模で急拡大させた要因の一つとして、大規模な人の移動があった。その移動はなぜおきたのか。簡潔に説明せよ。
(20) 第二次世界大戦下の合衆国で活動したアインシュタインはその経験を踏まえ、戦後、哲学者ラッセルらとともに一つの運動を提唱した。この運動は何を目指すものであったか。簡潔に答えよ。
(21) 第二次世界大戦後、イギリスの委任統治の終了を機に急増し、現在も世界で最大規模の難民集団をなす人々は何と呼ばれるか。その名を記せ。
(22) この難民が生まれた背景には、1970年代半ばのベトナムの状況の変化があった。この変化について簡潔に説明せよ。

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第1問
 この問題で一番受験生が困ったのは「マンチュリア(今日の中国東北地方およびロシア極東の一部)」という地名だったでしょう。地図を見ながら世界史を勉強してきたひとには容易でしたが、そうでなければ、「4世紀から」の歴史を想起することは難しく、せいぜい10世紀の契丹(遼)ぐらいしか浮かばなかったという受験生も多いはず。朝鮮史を地図とともに学んでいたら、容易に高句麗が想起できたはずです。高句麗がたんに北朝鮮だけの国でなく、マンチュリアで建国して朝鮮半島に南下している国であるからです。
 高句麗は、マンチュリアに住んでいた夫余(ふよ)族・靺鞨(まっかつ)族も支配下においておいていました。首都になったらしい集安(吉林省)も桓仁(遼寧省)も中国側、つまりマンチュリアにあります。
 前漢・新・後漢と国境紛争をしながら台頭し、三国魏と組んで遼東を支配した公孫(こうそん)氏と戦っています。しかし魏とも戦い、八王の乱以後の西晋の混乱を利用して鴨緑江を越えて楽浪郡と帯方郡を併合しています(313)。
 4〜5世紀の広開土王(好太王、391〜412)のときに百済・新羅・倭(任那)との戦いをし、長寿王(413〜491、79年の在位?)のときに平壌に遷都しました。
 6世紀に平壌を中国式の都城制に見習って造りかえ、世紀末から中国を再統一した隋と国境紛争がおきました。2代煬帝が3回の遠征(612、613、614)を敢行しましたが撃退に成功しています。唐の2代高宗も高句麗に派兵しました(645)が撃退しています。
 唐3代高宗のとき、実権は武后にあったさいに新羅と組んで百済が滅亡し(660)、ついで高句麗も滅亡(668)しました。組んだ新羅と唐との唐羅戦争は新羅の勝利となり、唐は撃退されました。
 滅亡した高句麗の遺民は、マンチュリアに退くも、北朝鮮の半分(大同江以北)と中国東北地方と沿海州(ロシア極東の一部)とを領有する渤海国を建国します(698)。初め国号は「震国」でしたが、唐・玄宗に朝貢して「渤海(郡王)」にしてもらいました(713)。10世紀には遼東に台頭した契丹(遼)に滅ぼされます(926)。この滅亡には諸説があり、そのうちの一つが白頭山の噴火との関係です。ヴェスヴィオ火山の噴火を越える灰が朝鮮半島から日本の東北地方・北海道に降り積もったためで、真の滅亡は939年の噴火の年だという説です。日本から渤海への使節が930年代にも派遣されているので926年滅亡説は変だと。
 いずれにしろ契丹(遼)がマンチュリアとともに中国の燕雲十六州まで南下し(936)、このモンゴル系の契丹を、後にジュルチン(女真族)の金(1115〜1234)が南下して宋と組んで挟み撃ちしました(1125)。完顔阿骨打です。マンチュリアと淮水以北を抑え、猛安謀克制で支配しました。
 13世紀にはチンギス=ハンの攻撃、次いでオゴタイ=ハンが攻撃してきて金は滅亡します。受けついだ元朝もマンチュリアを支配しました。
 元朝を北に追放した明朝はマンチュリアをどうしたのか?  3代永楽帝の漠北親征は外モンゴルへの遠征であり、マンチュリアには及んでない。「五出三犁」と誇ったものの、オイラト・タタールたちは全面戦争を避けたのであり、勝手に永楽帝のほうで誇っているだけです。ウィキペディアの「永楽帝」では「中国東北部へ出兵、黒竜江付近まで進出して女真族を支配下に置いた」と書いてありますが、まるで軍事的な征服であるかのようで、誤解を生む書き方です。建州衛という衛所制に組み込んで間接統治しただけであり、征服して直接支配したのではありません。吉川弘文館の『標準世界史地図』にある「属領」という記載が正しい。平凡社の解説「ヌルガンとし【奴児干都司】には、
1409年(永楽7),黒竜江(アムール川)下流の特林に置かれた明の軍政機関。正式には奴児干都指揮使司という。明代の初め,明の影響力がしだいに中国東北部から沿海地方に浸透していったが,永楽帝の時代,ここに居住する女直族を招諭し,女直の部族長に官職を与えるとともに,〈衛〉と呼ばれる組織に編成した。これらの衛所を統轄するための上級機関として設けられたのが奴児干都司である。明から派遣された兵士が常時500人から2000人駐在し,その影響力はサハリンのアイヌにまでも及んだ」とある。軍事的な征服ではなく、「女直の部族長に官職を与える」(引用終了)
とあるように現地の族長を中国の末端官僚であるかのように偽装して「統治」するというやりかたで、唐の羈縻政策と変わりません。
 16世紀に明朝は衰え、この建州衛のにらみも効かなくなり、女真族は完全に独立していました。17世紀にはこの建州衛の女真(女直)から後金ができて、順治帝のときには中国本土の支配者になっていました。

第2問
A 容易な問題が多いなかで、問(10)の『王書』の詩人名を問うたのは奇問にちかいものでした。2014年版の『世界史用語集』には詩人フィルドゥシーも作品の『シャーナーメ』も頻度4で載るようになりました。日本に現存する最古のペルシア語の文書は1217年(北条義時の時代)に渡来したペルシア語の詩句で、『王書』の1節らしい(岡田恵美子『言葉の国イランと私 世界一お喋り上手な人たち』平凡社)。
B 問(17)も奇問にちかいものでした。古い用語集も新しい用語集も頻度3で載っているものです。むしろ李登輝(頻度5)の名を問うべきでした。

第3問
 第3問は欧米史でありながら、インド進出史ということで、アジア史にひとしい問題でした。時間が「16世紀から18世紀」、テーマは「進出過程」でそれに副問として「交易品目」「ヨーロッパ諸国の勢力争い」があります。欧州列強による「進出」は貿易基地を築くことだけでなく、領土の争奪戦があり、また土地と資源の収奪も含みます。植民地化という観点でいえば、経済的な侵略も含み、英国が最終的な勝利者ということになります。
 16世紀のポルトガルはボンベイ(ムンバイ)・ゴア・ディウ・カナノール・コーチン・ジャフナ・コロンボに貿易基地を築き、香辛料を主に交易しました。
 17世紀のオランダはこのポルトガルの基地を奪うことで進出します。コロンボ・ジャフナ・コーチンを奪い、プリカットにも基地を築きました。交易品はインド産と限定していないので、香辛料はもちろんのこと、日本銀を使い中国の絹織物・生糸・陶磁器を仕入れて西欧に送っています。漆器・毛織物・綿織物・工芸品・武器・火薬・船なども。
 17世紀はオランダの世紀でしたが、フランスも来ています。フランスがポンディシェリ(1672)、シャンデルナゴル(1673)に、イギリスはマドラス(1640)、ボンベイ(1661)、カルカッタ(1686)に基地を築きました。この英仏の争いは、インド東南部をめぐる領地争いとなり、カーナティック(カルナータカ)戦争(1744〜48、1749〜54、1758〜63)が3回も争われ、イギリスが勝ちます。といってどこぞの予備校が書いているようにフランスが完全に駆逐されたのではありません。1954年(20世紀)までフランスはこれらの港町を所有していました。
 イギリスは18世紀に、プラッシーの戦い(1757)、マイソール戦争(1767〜69,80〜84,90〜92,99)、マラーター戦争(1775〜82)と征服戦争に勝利していき、同時に各地の綿織物工場破壊と職人殺害を実行していきました。キャラコの刺激を受けて、その物まね(産業革命)を始めた英国は、戦争で現地工業を破壊することによって市場づくりをしたことになります。
  出口治明が『全世界史 下巻(新潮文庫)』で、
一方で長い間、綿織物をほぼ独占して輸出産業の中心にしてきたインドは、すべてが熟練工による手作業でした。蒸気機関を使った機械との競争になったら、もう勝てるはずがありせん(引用終了)
と書いていますが、機械でつくったことが勝敗を決めたのでなく、英国がインドを征服する過程で綿織物業の工場破壊と技術者殺戮を実行したからです。インドで綿織物を生産できないようにしたことが勝利に、植民地化につながりました。大量生産は機械に負けるとしても高級織物は手作業でも優れたものをつくることができます。
 このことは、英国が中国を征服できず、19世紀全体でも南京木綿(nankeen)に勝てず、この中国産の綿布(土布)が流通したことでも証明されています。

第4問
A 空欄bのティベリウスは細かい。できなくてもいい問題です。用語集に載っていません。キリストを処刑したときの2代目皇帝です。
問(6) 「南イタリアとシチリアにまたがるこの王国を作った王は誰か」のルッジェーロ2世も細かい。用語集で頻度1。一冊の教科書にしか載っていないという意味です。
B
問(14) 1882年の「移民法」は中国人を排除し、1924年の移民法はアジア諸国からの移民を全面的に禁止しました。
問(15) 「20世紀初めにイギリス帝国の中で得た地位」は自治領 Dominion といって、白人支配が確定しているところを順次認めていきました。カナダ、オーストニリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、と。
問(22) 「難民が生まれた背景には、1970年代半ばのベトナムの状況の変化があった。この変化」はもちろんサイゴン陥落(1975)によりベトナム戦争が終結し統一(1976)が北によって実現したため、それを嫌ったひとたちがボートピープルとして大量に脱出したからでした。華僑を主に、100万人を越えるひとたちが、社会主義化と弾圧を逃れて欧米や中国にむかいました。映画『ディア・ハンター』の終わり頃にこの難民の映像が出てきます。
 この問題文は移民と難民をごっちゃ述べていますが、移民と難民の目的・原因はちがいます。わかりますか?
 日本人は移民・難民でできた民族であり、縄文人に一番近いのはバイカル湖の近くに住むブリヤート人で、それにジャワ島地域から北上したもの、弥生人たる中国・朝鮮から亡命・移民してきたものたちの混血です。いやもっと起源をたどれば皆アフリカから出発しています。そういうことは今は分かっているのに、移民・難民を受け入れず、かつ同民族の朝鮮人・中国人を嫌っています。伊勢神宮は新羅のひとたちが造ったのに、「日本精神」の起源のように錯覚しています。なぜこの神宮から朝鮮式土器が出土するのか? 「神宮」という表現自体が朝鮮的な呼び名で、明治になってから、明治神宮・平安神宮と真似していきました。なぜこうも歴史を等閑する「日本人」になってしまったのか?