世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2020

世界史B (4問題100点)
第1問 (20点)
 6世紀から7世紀にかけて、ユーラシア大陸東部ではあいついで大帝国が生まれ、ユーラシアの東西を結ぶ交通や交易が盛んになった。この大帝国の時代のユーラシア大陸中央部から東部に及んだイラン系民族の活動と、それが同時代の中国の文化に与えた影響について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(28)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A ムスリムと非ムスリムとは、史上、様々に関わり合ってきた。ムスリムと非ムスリムとのあいだには、様々な形態の、数多(あまた)の戦争があった。ムスリム共同体(ウンマ)は、預言者ムハンマドの指揮のもと、彼の出身部族である[ a ]族の多神教徒たちと戦った。正統カリフ時代には、アラビア半島からシリアヘ進出したのち、東は(1)イラク、イラン高原、西は(2)エジプト、北アフリカヘ侵攻し、各地で非ムスリムの率いる軍と干戈(かんか)を交えた。その後も、イスラーム世界のフロンティアで、ムスリムと非ムスリムの政権・勢力間の戦いが度々起こった。たとえば、現在のモロッコを中心に成立した[ b ]朝は、11世紀後半に(3)西アフリカのサハラ砂漠南縁にあった王国を襲撃、衰退させたうえ、イベリア半島でキリスト教徒の軍をも破った。19世紀、(4)中央アジアのあるムスリム国家は、清朝への「聖戦」を敢行した。また、非ムスリムの率いる軍が(5)ムスリムの政権・勢力を攻撃」した例も数多い。
 ただし、ムスリムの政権・勢力は、常に非ムスリムを敵視・排除してきたわけではない。たとえば、初期のオスマン家スルタンたちは、キリスト教徒の君主と姻戚関係を結んだり、キリスト教徒諸侯の軍と連合したりしながら(6)バルカン半島の経略を進めた。その際の敵対の構図は、ムスリム対キリスト教徒という単純なものではなかった。また、16世紀以前のオスマン朝では、君主がムスリムでありながら、重臣や軍人の中に、(7)キリスト教信仰を保持する者が大勢いた。
 ムガル朝では、第3代皇帝アクバル以来、ムスリム君主のもと、非ムスリムに宥和的な政策が採られ、(8)ムスリムのみならず非ムスリムの一部の有力者も、配者層のうちに組み込まれた。彼らは、位階に応じて、俸給の額と、維持すべき騎兵・騎馬の数とを定められた。しかし、第6代皇帝アウラングゼーブは、非ムスリムにたいして抑圧的になり、ヒンドゥー教寺院の破壊さえ命じたと言われる。ただし、一方で彼は、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院群である(9)エローラ石窟を、神による創造の驚異のひとつと称賛した。のち、イギリス統治下のインドでは、(1O)ムスリムと非ムスリムとが協力して反英民族運動を展開することもあった。
 ムスリムと非ムスリムとが盛んに交易を行ってきたことも、両者の交流を語る上で見逃せない。ムスリム海商は、8世紀後半には南シナ海域で活動していたといわれる。9世紀半ばに書かれたアラビア語史料によると、ムスリム海商たちのあいだで、現在の(11)ベトナムは当時、良質の沈香(じんこう)を産することで知られていた。ムスリム海商の活動は、やがて(12)東南アジアにおけるイスラーム化を促した。
 ムスリムと非ムスリムとのあいだには、イスラーム化以外にも、多様な文化的影響があった。イスラーム教とヒンドゥー教との融合によって(13)スィク(シク)教が創始されたことは、その一例である。ムスリムと非ムスリムとは、宗教を異にするが、いつも相互に排他的であったわけではない。その交渉の歴史は、今日の異文化共生を考えるためのヒントに満ちている。


(1) 当時この地に都を置いていた王朝は、642年(異説もある)に起きたある戦いでの敗北によって、ムスリム軍への組織的抵抗を終え、事実上崩壊した。その戦いの名称を答えよ。
(2) この地には、ファーティマ朝時代に創設され、現在はスンナ派教学の最高学府と目されている学院が存在する。この学院が併設されているモスクを何というか。
(3) この王国は、ニジェール川流域産の黄金を目当てにやって来た、地中海沿岸のムスリム商人との、サハラ縦断交易で栄えた。この王国の名称を答えよ。
(4) この国家は後にロシアによって保護国化ないし併合されてロシア領トルキスタンを形成することになるウズベク人諸国家のうち、最も東に位置した。この国家の名称を答えよ。
(5) 2001年、アメリカ合衆国は、当時アフガニスタンの大半を支配していたムスリム政権が、同時多発テロ事件の首謀者を匿(かくま)っていたとして、同政権を攻撃した。この首謀者とされた人物の名前を答えよ。
(6) 19世紀、オスマン朝は、バルカンの領土を次々に失っていった。1878年にはセルビアが独立した。この独立は、オーストリア=ハンガリー帝国やイギリスなどの利害に配慮して締結された、ある条約によって承認された。この条約の名称を答えよ。
(7) オスマン帝国内に居住するキリスト教徒は、自らの宗教共同体を形成し、納税を条件に一定の自治を認められた。このような非ムスリムの宗教共同体のことを何と呼ぶか。
(8) この支配者層を何と呼ぶか。
(9) この石窟の北東にある、アジャンター石窟には、特徴的な美術様式で描かれた仏教壁画が残る。その美術様式は、4世紀から6世紀半ばに北インドを支配した王朝のもとで完成された。この美術様式のことを何と呼ぶか。
(10) この運動の一方を担った全インド=ムスリム連盟の指導者で、後にパキスタン初代総督を務めた人物は誰か。
(11) 9世紀にベトナム中部を支配していたのは何という国か。
(12) 東南アジアをはじめ、ムスリム世界の辺境各地で、イスラーム化の進展に寄与した者としては、ムスリム商人のほか、「羊毛の粗衣をまとった者」という意味の、アラビア語の名称で呼ばれた人々を挙げることができる。彼らは、修行を通じて、神との近接ないし合一の境地に達することを重んじた。このような思想・実践を何と呼ぶか。
(13) この宗教の創始者は誰か。

B 現在、中国の海洋への軍事的進出はめざましい。中国における近代的な海軍の構想は(14)林則徐や魏源らに始まる。林則徐は「内地の船砲は外夷の敵にあらず」と考え、敵の長所を知るために西洋事情を研究した。彼の委嘱により『海国図志』を編集した魏源は、西洋式の造船所の設立と海軍の練成を建議している。
 彼らの構想がただちに実を結ぶことはなかったが、(15)太平天国軍と戦うために
(16)郷勇を率いた曾国藩左宗棠、李鴻章は、新式の艦船の必要性を認識していた。左宗棠の発案により(17)福州に船政局が設立され軍艦の建造に乗り出す一方、船政学堂が開設され人材の育成に努めた。西洋思想の翻訳者として後進に大きな影響を及ぼした(18)厳復もこの学校の出身者である。
 しかし、日本の台湾出兵後にも、(19)内陸部と沿海部のいずれを優先するかという論争が政府内に起きたように、海防重視は政府の共通認識にはなっていなかった。
 そうしたなかで、李鴻章は海軍の重要性を主張し、福州で海軍が惨敗した(20)清仏戦争を経て、1888年に(21)威海衛の地に北洋海軍を成立させた。北洋海軍は(22)外国製の巨艦の購入によって総トン数ではアジア随ーとなり、日本、朝鮮、(23)ロシアなどに巡航してその威容を示した。
 しかし、その一方で軍事費の一部が(24)アロー戦争で廃墟となった庭園の再建に流用され、また政府内には北洋海軍の創建者である李鴻章の力の増大を恐れる者もあって、軍艦購入は中止された。
 そして、(25)日清戦争により、北洋海軍は潰滅した。海軍はやがて再建されて、(26)民国期へと受け継がれ、その存在は国内政局に影響を与えたが、かつての栄光を取り戻すことはなかった。
 1949年に誕生した中国人民解放軍海軍は1950〜60年代に中華民国と台湾海峡で戦い、1974年には西沙諸島(パラセル諸島)で(27)ベトナム共和国と戦った。さらに、1980年には大陸間弾道ミサイルの実験にともなって南太平洋まで航海し、2008年には(28)ソマリア海域の航行安全を確保するために艦船を派遣するなど、アジアの海域や遠洋においてその存在感を高めている。
 現在の人民解放軍海軍にとって、北洋海軍の歴史は日清戦争に帰結する悲劇として反省材料であると同時に、自らのルーツに位置づけられている。20世紀末に就役した練習艦が、福州船政学堂の出身で、日清戦争で戦死した登闘世を記念して、「世昌」と名付けられているのもその表れであろう。


(14) 林則徐が1839年に派遣され、アヘン問題の処理にあたった都市の名を答えよ。
(15) 太平天国の諸政策のうち、土地政策の名を答えよ。
(16) 郷勇が登場したのは、従来の軍隊が無力だったためである。漢人による治安維持軍の名称を答えよ。
(17) 当時定期的に福州に上陸して、北京に朝貢していた国の名を答えよ。
(18) 厳復の訳著の一つに『法意』がある。原著の作者である18世紀フランスの思想家の名を答えよ。
(19) 1871年にロシアに奪われ、1881年に一部を回復した地方の名を答えよ。
(20) フランスのベトナムヘの軍事介入に抗して、劉永福が率いた軍の名を答えよ。
(21) 19世紀末に威海衛を租借した国の名を答えよ。
(22) ドイツ製の戦艦「定遠」などが中国に向けて出航した港は、のちにドイツ革命の発火点となった。その港の名を答えよ。
(23) 北洋艦隊が立ち寄った極東の軍港都市の名を答えよ。
(24) この時この庭園とともに円明園も焼かれた。その設計に加わったイタリア人宣教師の名を答えよ。
(25) 下関条約で、日本に割譲された領土のうち、遼東半島はすぐに返還されたが、そのまま日本の手に残ったのは、台湾とどこか。
(26) 奉天軍閥の首領で、1927年に中華民国陸海軍大元帥に就任したのは誰か。
(27) この国の首都の名を答えよ。
(28) この海域にこれより約600年前に進出した中国船団の司令官の名を答えよ。

第3問 (20点)
 第二次世界大戦末期に実用化された核兵器は、戦後の国際関係に大きな影響を与えてきた。1962年から1987年までの国際関係を、核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み[  ]の中に最も適切な人名を入れ、下線部(1)〜(21)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 戦争には正しい戦争と不正な戦争があるとし、正しい戦争とみなされる理由や条件を考察する理論を正戦論という。西洋における正戦論の起源は古代ギリシア・ローマに遡る。アリストテレスは戦争が正当化される場合として、自己防衛・同盟者の保護の二つに加えて、「自然奴隷」としての(1)バルバロイの隷属化をあげた。共和政末期のローマで執政官であった(2)キケロは、敵の撃退・権利の回復・同盟者の保護のいずれかに加えて宣戦布告を正戦の条件として掲げたが、アリストテレスの自然奴隷説は省いた。
 キケロの世俗的正戦論に宗教的な正当性の議論を付け加えたのが、北アフリカのヒッポ司教であった[ a ]である。元来、キリスト教では隣人愛が説かれ平和が志向されたが、(3)ローマ帝国で公認され、ついで国教となったことで状況は変化した。[ a ]は「神によって命じられた戦争も正しい」と述べ、皇帝の戦争とキリスト教徒の戦争参加を条件付きで容認した。その背景にあったのは北アフリカで問題となってい(4)異端ドナトゥス派を弾圧しようという意図である。
 古代の正戦論は、12世紀の『グラティアヌス教令集』等を経て[ b ]によって引き継がれ体系化された。[ b ]は『神学大全』において、戦争を正当化する条件として君主の権威・正当な事由・正しい意図の三つをあげ、(5)私的な武力行使を否定した。
 中世の正戦論は聖戦の理念と結びついていた。ホスティエンシスらは異教徒の権利を強く否認したが、(6)ローマ教皇インノケンティウス4世らは慎重な立場をとり、対異教徒戦をめぐる議論では後者が優位とされていた。(7)コンスタンツ公会議(1414〜18年)では、ポーランド代表が武力によって異教徒を征服し改宗させようとするドイツ騎士修道会の方法を厳しく批判した。
 だが、西アフリカ沿岸部において探検が進むと、ローマ教皇はキリスト教世界の拡大を念頭に、異教徒に対する戦争を正当化する立場を鮮明にした。1452〜56年の教皇勅書で、西アフリカからインドまでの征服権がポルトガル王および[ c ]王子に与えられ、コロンブスの航海後は西方における征服権がスペインに与えられた。
 新大陸の征服が進行し、(8)エンコミエンダ制が導入されると、アメリカ先住民の権利や征服戦争が議論の的となった。サラマンカ学派の始祖とされる神学者(9)ビトリア」は征服戦争の正当性に疑問を呈したが、神学者(1O)セプルベダは自然奴隷説を援用して征服正当化論を再構築した。さらに17世紀のグロティウスはサラマンカ学派の理論を継承しながらも、自然法を神学から自立させ世俗的自然法のもとで正戦論を展開した。


(1) バルバロイに対置される古代ギリシア人の自称は何か。その名を記せ。
(2) この人物の代表的著作を一つあげよ。
(3) キリスト教はミラノ勅令によって公認された。この勅令を発した皇帝の名を記せ。
(4) ネストリウス派を異端として追放した公会議はどこで開催されたか。その地名を記せ。
(5) 1495年、マクシミリアン1世が招集した帝国議会において永久ラント平和令が布告されフェーデ(私戦)の権利が廃絶された。マクシミリアン1世は何家の出身か。その名を記せ。
(6) この教皇によってモンゴル帝国へ派遣されたフランシスコ(フランチェスコ)会修道士の名を記せ。
(7) この会議の結果について簡潔に説明せよ。
(8) この制度について簡潔に説明せよ。
(9) ビトリアは1533年のインカ皇帝処刑等の報に接してアメリカ征服の正当性に疑義を表明した。インカ皇帝の処刑を命じたスペイン人の名を記せ。
(10) セプルベダの論敵で、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著したのは誰か。その名を記せ。

B およそ5000年前のこと、(11)人類は経済活動を記録するために文字を創案したと考えられている。それだけでなく、為政者の命令を民衆に知らしめるためにも、そして知識を蓄積し後世に伝えるうえでも、文字は革新的な発明品であった。(12)地球上には無文字文明の例も多くあるが、文字の発明は、いくつかの文明の成立と関わっている。
 文字は、さまざまな材質の媒体に記されてきた。(13)古代メソポタミアでは粘土板が、(14)古代エジプトではパピルスが、それぞれ記録媒体として用いられたのだった。
 文字の成り立ちはさまざまである。漢字やラテン文字(ローマ文字)など、国家・民族を越えて文明圏共通の文字となったものや、旧来の文字から新しい文字が考案されることも多々あった。仮名文字や(15)キリル文字などである。
 文字情報の伝達技術は時とともに発展し、それが人類史上のさまざまな変動の呼び水となることがあった。(16)16世紀のドイツにおいて、宗教改革が諸侯だけでなく民衆のあいだにも支持を広げた背景には、こうした技術発展が関わっていた
 18世紀以降、文字情報の伝達媒体として新聞が重きをなすようになった。そして19世紀、技術革新にともない大部数化が進み、新聞社間で販売競争も激化し、民衆の関心をひくために、画像を組み合わせた扇情的な記事で紙面が埋められていくことになる。(17)19世紀末のアメリカ合衆国で、ある国に対する好戦的世論が形成されるが、その要因の一つには、こうした新聞メディアの動向があった。
 19世紀末から20世紀前半の時代に入ると、これまでの文字とならんで、新しい情報伝達手段が重要な地位を占めるようになる。とりわけ第一次世界大戦後アメリカ合衆国を中心にして映画などの大衆文化が広がっていくが、(18)これを促進したものの一つが情報伝達手段の革新であった。
 20世紀後半になると、情報伝達手段にいっそう劇的な変革が生じ、人びとは家にいながらにして世界中の出来事を、大きな時間差なく、あるいは同時にさえ視聴できるようになった。そして、こうした変革が世界政治に影響をおよぼすようにもなる。1960年代から1970年代にかけて、(19)ある戦争の実相が、この新しい情報伝達手段を通じて世界中で知られるようになり、それが国際的な反戦運動をうながす一因になったのである。また一方で、(20)この情報伝達手段によって事実の一部が歪曲(わいきょく)されて広がり、戦争容認世論が強まることもあった
 1980年代以降に生じたIT(情報技術)革命は進化のスピードを速め、今日の人びとは軽量でコンパクトな端末機器を操作することで、家庭内ではもちろんのこと街頭においても、多様な情報を即座に入手し、さらには自身が不特定多数の人びとにむけで情報を簡単に発信できる時代に入った。そして、こうした端末機器が、(21)「アラブの春」と呼ばれる民主化運動に際し、運動への参加を市民に呼びかけるツールとなり、さらには、強権的な政府が管理する報道とは異なる情報を人びとに提供した。


(11) 文字によって記録が残されるようになる以前の時代は、それ以降の、「歴史時代(有史時代)」と呼ばれる時代と区別して、何時代と呼ばれるか。
(12) (ア)インカ帝国で使用された記録・伝達手段は何と呼ばれているか。
(イ)それはどのようなものであったか、簡潔に説明せよ。
(13) 『聖書』の創世記にみえる洪水伝説の原型となったとされる詩文が、粘土板に記され現在に伝わっている。その叙事詩は何と呼ばれるか。
(14) パピルスに記され、ミイラとともに埋葬された絵文書で、当時の人びとの霊魂観が窺(うかが)えるものは何と呼ばれるか。
(15) キリル文字が考案された宗教上の背景を簡潔に説明せよ。
(16) この関わりの内容を簡潔に説明せよ。
(17) アメリカ合衆国は、この世論に押されるかたちで開始した戦争に勝利し、敗戦国にある島の独立を認めさせたうえで、それを保護国とした。その島の名を記せ。
(18) アニメーション映画もこの時代に発展した。世界最初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫』(1937年)を製作した兄弟の姓を答えよ。
(19) この戦争の名を記せ。
(20) 1991年に中東で勃発した戦争の際には、戦争当事国の一方が自然環境を損壊した、と印象づける映像が報道された。この戦争の名を記せ。
(21) 「アラブの春」において、20年以上にわたる長期政権が崩壊した国を二つあげよ。
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コメント
第1問
 易しい部分と難しい部分とがある問題でした。易しいのは前半の「イラン系民族の活動」です。難しいのは後半の「中国の文化に与えた影響」です。「イラン系民族の活動」はソグド商人の活動しかありません。ソグディアナ地方の中心都市サマルカンドを拠点に活動し、とくに中国に行く途中(甘粛省)のオアシス都市に居住地を定めて東西の文物をとりひきした商人たちです。
 教科書(詳説世界史)では「アラム文字から派生した文字としては,……ソグド文字」、安禄山の注に「ソグド人の父と突厥人の母をもつ武官」、トルコ人との関係で「トルコ系のウイグル人は,ソグド商人の協力をえて,豊かな遊牧・オアシス国家を建設した」、トルキスタンの説明として「イスラーム化以前にはソグド人を中心にゾロアスター教が信仰されていた」、オアシスの道の説明として「イラン系のソグド商人は,匈奴・突厥・ウイグルなどの遊牧国家内で交易に従事するとともに,マニ教やソグド文字などを東方に伝えた」と書いてあります。
 時期は「6世紀から7世紀」なので、安禄山という8世紀のひとは書いては書いてはいけませんが(書いているのはK予備校)、魏晉南北朝の末期、南朝の梁・陳の時代で、華北は北魏が東西に分裂し、北周から出た楊堅が陳を滅ぼして中国の再統一(589)を実現し、7世紀初め(618)に唐が隋に代わることになります。則天武后の登場が690年(『ワンフレーズnew』の語呂では「武周ブシュッと録69音0」)です。
 この「イラン系民族の活動」は商人の活動であり、政治的な建国や軍事行動はないのと、また、かれらが仕えた突厥についてあまり字数を費やすのは趣旨から離れます。たとえば「突厥は東西に分裂し、7世紀に東突厥は唐の建国を援助した。しかし太宗が東突厥を服属させ、さらに高宗が西突厥も服属させて唐がユーラシア中央部を支配下におさめた」といった解答例は書きすぎです。トルコ人と中国人の活動ではあってもソグド商人の動きではありません。
 「活動」は何より商業であり、つまりはモノが流通します。それとともにかれらの信じた宗教や作成した文字です。宗教と文字は上の教科書引用文にありました。モノは『詳説世界史』では「交易路をつうじて中国の生糸や絹が西方に」とあり、『新世界史』(山川出版社)では「内陸アジアでは,イラン系のソグド人が,また南方の海路では,アラブ人が中継貿易にたずさわった。唐の絹織物・染織・陶磁器・金銀細工・紙などはこうして世界に広がった」と。
 「同時代の中国の文化に与えた影響」は難問でした。というのは「影響」を書くのが難しいからです。予備校の解答例で影響を書いたものは少ないですね。まず「○○を伝えた」と書いても、伝えた結果、中国側にどんな影響、つまり従来あったものに何らかの変化がないと影響した、とは言えません。マニ教をゾロアスター教を伝えた、文字を伝えた、といってもそれは外来のものがきた、といいうだけです。伝えた後の中国側の変化が必要です。イチローが大リーグに行った、だけでは大リーグ側がどんな影響を受けたのか分かりません。早く走るので内野ゴロでもセーフになるケースが増えると、ショートもサードも安閑としていたらイチローが一塁ベースを越えてしまいます。内野ゴロでも早く投げる、ということが大リーグで広まりました。影響です。また捕球のうまさ、レーザービームといわれた投球でも観衆を唸らせました。それまでホームランバッターばかり尊敬の対象であったのが、走攻守そろった選手こそ尊敬すべきだ、となりました。影響です。なので宗教に関しては、信徒を獲得した、中国の建築様式で三夷教の寺院が建てられた、とまで行けば影響になります。
 予備校の解答例では「国際色豊かな文化」も影響にしていますが、これは概観しただけで何がどう影響したかは不明快な文章です。
 帝国書院の教科書には「国際都市長安」というトピックを立てて、「ササン朝の滅亡でイラン系の人々が多数移住していた。胡服・胡弓やポロ競技などイラン系風俗が流行し、その影響はわが国の正倉院の宝物にもみられる」とあり、東京書籍の教科書では絵の説明として「(左) ササン朝の獅子狩製皿と法隆寺の獅子狩文錦、(右)獅子狩の図柄はオリエン卜に広く見られ、東西交渉を通じて中国や日本にも伝えられた。後ろ向きに弓を射るやり方を、ローマ人は「パルティア人の曲射(パルティアン=ショッ卜)」とよんだ」とあります。『詳説世界史研究』では「ソグド人に代表される西域出身者を胡人と呼び、長安には、西域出身の女性)がもてなす酒場がにぎわい、胡楽(西域音楽) ・胡旋舞(体を旋回させる西域の舞踊)・打毬(だきゅう、ポロ競技)など西域の風俗が流行した。小麦を製粉して食べる風習(胡餅) も西域から伝わって、唐代に定着したものである」と説いています。こうした「風俗」というものになれば庶民にまで影響した、といえるでしょう。
 唐文化へのイラン人の影響については、石田幹之助の『長安の春』 (東洋文庫)が名著として知られています。「隋唐はまさにイラン文化全盛の時代といっても過言ではなく、宗教・絵画・彫刻・建築・エ芸・音楽・舞踊・遊戯等の各部門はもとより、衣食住、ことに衣食の両方面において、広くイラン文化の感化をみることができる(p.163)」と書いています。その具体例を延々と挙げています。たとえば絵画への影響について
「凹凸(おうとつ)画と呼ばれ、陰影を施して遠くより望むと実物が浮き出ているかと思われたというのは明らかにイラン風であったことを証している。敦煌その他西域諸地から発見された仏画類にはその巧拙は別としても手法において尉遅乙僧(うつちいっそう)の凹凸画とはかようなものではないかと思わせる、すこぶるイラン風の匂いの高いものがある。……呉道玄の作品にあってはひとり仏画・人物画等にイラン風の影響があったばかりでなく、山水画にも(p.180)」と。
 教科書や図説によく載っている唐代美人画では、赤い頬紅をしたふっくらとした顔をもち、いろいろな着物を重ね着したすがたが描いてあります。これがイラン風の女性像です。
 しっかり影響を書いている合格者の答案を見てください。→こちら
 
第2問
 全体としては易しい問題。そのうち難問・奇問だけ解説です。
A
問(2) 奇問でした。大学名は教科書に載っていますが、そこのモスクを何というかまでは書いてありません。出題者の神経を問題にしたほうがいい問題でした。アル=アズハル・モスク(アズハル・モスク)に付属するマドラサ(学院・学校)がアズハル大学でした。
B
問(17) これも奇問でしたが、「定期的」「福州に上陸」というのがヒント。19世紀に来るとすれば、一番近い国で朝貢している、と考えたら琉球国が妥当です。台湾は三藩の乱で清朝領になっているので、台湾のすぐ北に位置する琉球が推理できます。
問(18) ヒントは「法」だけです。啓蒙思想家で「法」関係の著書としては『法の精神』というモンテスキューの本があります。それより厳復は知っていますか? 『天演論』=ハクスリー著『進化と倫理』、『原富』=アダム・スミス著『諸国民の富』、『群己権界論』=ジョン・スチュアート・ミル著『自由論』と重要な本を翻訳・出版しています。
問(23) 「ロシアなどに巡航」とロシアに下線があるので、当時のロシアの「極東の軍港都市」としてはムラヴィヨフが造らせた沿海州南端の都市「ウラジヴォストーク(ウラジオストック)」。
問(26) 「奉天軍閥の首領」なら分かっても「1927年に中華民国陸海軍大元帥」といわれても、こういう経歴の人物として教科書は出てきません。趣味的な問いです。「奉天軍閥」だけで張作霖と決めつけるほかないでしょう。


第3問
 課題は「1962年から1987年までの国際関係を、核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ、300字以内で説明せよ」でした。
 時間は「1962年から1987年」と細かく、主問は「国際関係」で、副問は「核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ」でした。 類題として、一橋の2005年第2問に「第二次世界大戦後に「冷たい戦争(冷戦)」という米ソ両体制の対立する時代が形成された背景には、大国による核開発、核保有が大きな役割を果たしている。第二次世界大戦後の冷戦勃発から、1989年のベルリンの壁の崩壊に至るまでの時期を対象に、各国の核保有、各国間の核軍縮の経緯を押さえた上で、この冷戦期の国際政治に核兵器が果たした歴史的役割について述べなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(指定語句→キューバ危機 中距離核兵器全廃条約 封じ込め政策 ワルシャワ条約機構)(400字以内)」というのがありました。時間は京大のより幅があり、核兵器そのものの役割を問うているところは違っていますが、「国際政治」という趣旨は同じです。もちろんヒト引用したからといって、ヒトの過去問を勉強しなさい、と言いたいのではありません、この大学は奇問・狂問が多いので薦められません。

 核兵器の「製造・保有」だけ挙げれば、
 1945 アメリカの原爆実験と投下(広島、長崎)
 1949年 ソ連が原子爆弾の開発
 1952 アメリカが水爆実験
    イギリスの核実験
 1953 ソ連も水爆の保有
 1957 大陸間弾道弾(ICBM)実験(米ソ)
 1960 フランスの核実験
 1964 中国の核実験
 1974 インドの核実験
 1980年代 アメリカの戦略防衛構想

 「国際的な合意」は以下のようになります。
 1963 部分的核実験停止条約
 1968 核拡散防止条約(NPT)
 1970 西独とソ連との武力不行使協定
 1972 戦略兵器制限交渉(第1次)
 1973 核戦争防止協定 
 1979 戦略兵器制限交渉(第2次)
 1981 中距離核戦力(INF)全廃条約(中距離ミサイル全廃条約)の話し合い開始 
 1982 戦略兵器削減条約交渉(第1次)
 1987 中距離核戦力全廃条約の調印

 また冷戦「国際関係」にかかわる重要事件としては以下のものをあげておきます。
 1956 中ソ論争(中ソ対立)
 1969 中ソ国境紛争
 1971 中国の国連代表権交替 
 1972 東西ドイツ基本条約(東方外交)
    ニクソン訪中
 1973 東西ドイツ、国連同時加盟 
 1975 全欧安保協力会議に米ソも参加
 1985 ゴルバチョフのペレストロイカ・新思考外交

 戦後史もある程度年代を覚えないと正確な解答は書きにくいですね。1945〜1962年の冷戦展開期、1963〜70年代の緊張緩和(デタント)期、1980年代の冷戦終結期とおおまかに区分しておくと、書きやすいでしょう。

第4問
A
(6) これは奇問というより細かい問いです。名高い絶頂期のインノケンティウス3世ではなくインノケンティウス4世という載っている教科書も少ない教皇に派遣された修道士としてプラノ=カルピニが想起できるか。むしろフランス王ルイ9世が派遣したルブルクがモンケ=ハーンに会った、というのを語呂として覚えておくと区別しやすい。ルンルンモーケ、です。
(7) この会議の「結果」とは何を決議したか、ということでしょう。①教皇庁をローマにだけ置くこと、②ウィクリフとフスを異端者とし焚刑にすること、③公会議主義といって、これから教皇は公会議の決定にしたがうこと、という三つでした。②のウィクリフ(1320〜1384)はすでに亡くなっていましたが、墓から死体を掘り出して焚刑の処置をして灰をテームズ川に放っています。異端者は重罪で、火刑にして苦しめてあげないと、あの世でもっと苦しむことになる、という慈悲の心で処刑してあげる、そうです。
B
(21)「アラブの春」において、20年以上にわたる長期政権が崩壊した国を二つあげよ。……これは難問かも知れない。「アラブの春」のニュースをどれだけ追ってきたか、注目してきたかにかかっています。共に独裁者が倒されたという国で、ムバラク(大統領として1981〜2011年)のエジプトと隣の国リビアはカダフィ(ムアンマル・アル=カッザーフィー、最高指導者として、1969〜2011年)です。このカダフィが殴られ殺される場面を YouTube で見ることができます。

2020年度の再現答案

2020年度の再現答案

(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

東大2020
第1問
明代には朝貢体制のもと貿易が行われていたが、大航海時代に入ると、北虜南倭の活動や東南アジア諸国の経済的自立により、海禁とともに朝貢体制が緩んだ。資料Cの通り、琉球は日本と中国に両属していたが、薩摩藩の侵攻や琉球処分により日本に併合された。中国の朝貢国であったベトナムは、資料Bの通りフランスの侵攻を受けたあとも中国を宗主国としていたが、清仏戦争後は仏領に入った。清朝では朝貢貿易が行われていたが、アヘン戦争後の南京条約で公行の廃止と開港をさせられた。中央アジアを清は藩部として管理していたが、ロシアが支配し、露領トルキスタンが形成された。中国は理念上外国を国内の延長とみなしていたが、この頃から外務省である総理衙門を設置した。朝鮮は明に朝貢し、その滅亡後清に服属したが、資料Aの通り小中華として清を夷狄として対抗した。しかし、日清戦争後の下関条約で日本の影響下に入った。マラッカは、明の影響を受けていたが、明衰退後はイスラムの影響を受け、その後ポルトガル、イギリスに占領された。台湾は、清の直轄領であったが、日清戦争後は日本の管理下に入った。日本は、明と朝貢貿易をしていたが、日清戦争後は列強の一員として冊封体制から自立した。

京大2020
第1問
イラン系ソグド人は国際商人としてギリシア人・漢人・イスラム商人などとの交易で活躍した。ソグド人は突厥などの北方民族の保護を受け、シルクロードやオアシスの道を中心に活躍した。ソグド人の活躍によりネストリウス派キリスト教や仏教が中国に広まった。また、コバルト染料が中国に伝わり、後の陶磁器文化の発展につながった。イラン系ササン朝は陸路や海路を支配し、中継貿易で繁栄した。ササン朝美術が中国に伝わり、中国の美術に影響を与えた。ガラス器や織物等の工芸品も中国に伝わり、中国の工芸品のデザインに変化を与えた。ササン朝でマニ教が成立し、中国に伝わり、中国の国際色の強い文化を生み出した。
第3問
1960年代前半にキューバ危機が起こり、アメリカとロシア間での核戦争が起こりそうになったが鎮静した。その後部分的核実験禁止条約が結ばれた。フランスのドゴールは独自外交を進め、条約に締結せず、核兵器を保有した。中国は1950年代後半から始まった中ソ対立や、インドとの領土問題が要因で核兵器を保有した。また、カシミール地方を巡って対立し、両国とも核兵器を製造した。1980年代になるとゴルバチョフがペレストロイカを出し、INF撤廃条約をアメリカなどと締結し、冷戦の終結や、東欧革命の勃発に近づいた。

筑波大2020
第1問
840年にキルギスの攻撃でウイグル人がトルキスタンへ西走した。元々住んでいたイラン系先住民と同化し、トルコ化した。874年にサーマーン朝が成立すると、マムルークという奴隷としてトルコ人を使い、元々マニ教や仏教を信じていたトルコ人のイスラーム化が始まった。アッバース朝もマムルークを使った。また神秘主義教団も布教に貢献した。10世紀にトルコ人が建てたカラ=ハン朝はサーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンを統一し、イスラーム化が加速した。11世紀に入るとトルコ系王朝であるセルジューク朝が建てられた。マムルークが軍事力の中心となり、周辺国家へ侵攻した。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしてバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を与えられた。また1077年には同じトルコ系であるホラズム朝が成立した。(355字)
第2問
白蓮教徒による紅巾の乱が起き、元が滅亡した。1368年に明が成立すると、洪武帝の下で朝貢貿易体制と厳しい海禁政策がしかれた。永楽帝の下では朝貢貿易のさらなる推進とともに北元遠征も繰り返し、北元を滅ぼした。その後オイラトやタタールがモンゴル高原で台頭し、のちに北虜と呼ばれるようになった。彼らは明の朝貢貿易体制の制限などに不満を持ち、たびたび華北に侵入する。1449年にはエセン=ハン率いるオイラトが北京を攻撃した。さらに土木の変を起こし、正統帝を捕らえた。16世紀にはタタールのアルタン=ハンがオイラトを攻撃してモンゴルを支配し、1550年には北京を包囲した。17世紀には満州で女真族が台頭し、周辺地域に勢力拡大を始めた。ホンタイジが内モンゴルやチャハル部を支配下に入れた。明の滅亡後、康熙帝は外モンゴルを占領し、ジュンガルを攻撃した。(368字)
第3問
1386年にヤゲヴォ朝が始まった。カシミール大王の下で全盛期を迎え、ドイツ騎士団と戦った。ユダヤ人入植を進めた。ヤゲヴォ朝の断絶後、ポーランド=リトアニア連合王国が始まった。しかし選挙王制の下で弱体化が進んだ。1772年、93年、95年にはプロイセン・オーストリア・ロシアによってポーランド分割が行われた。しかしフランスでナポレオンが皇帝に即位すると、その下でヨーロッパ征服が行われ、ポーランドもワルシャワ大公国としてフランスの保護下に入った。解放戦争後のウィーン会議では正統主義の一環として、ナポレオン体制以前の旧体制に戻ることが決定された。その中でポーランドはまたオーストラリアなどの保護下に入った。1848年革命時にはハンガリーでも革命が起き、ポーランドにも飛び火したが、ロシアに鎮圧された。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約が結ばれた。(374字)
第4問
1623年のアンボイナ事件以降、イギリス東インド会社はインド経営に専念した。カーナティック戦争を戦い、プラッシーの戦いではフランスとベンガル太守を破った。マラーター同盟やシク教徒を制圧し、南インドを支配した東インド会社は、ザミンダールという在地領主に徴税権を与えるザミンダーリー制という近代的徴税制度を導入した。インドの伝統的村落共同体は崩壊した。インドのキャラコに刺激を受けてイギリス本国で産業革命が起こると、イギリス産の機械製綿布がインドに流入した。これによってインドの綿布産業は崩壊した。19世紀に入るとイギリス本国で自由主義的な声が高まり、東インド会社は独占権の縮小や廃止を迫られ、統治権を持つのみの存在となった。そんな中でインド人の傭兵が会社の待遇に不満を持ち、シパーヒーの反乱を起こした。会社軍が鎮圧したが、これにより東インド会社による統治に限界を感じた本国は、東インド会社を解散させた。(400字)

『東大世界史解答文』の解答例の訂正

2006年の第2問の問(1)

 課題が「16世紀前半まで」となっているのに、解答例には「ムガル帝国によるジズヤの廃止」としています。「前半」を見逃しました。3代目のアクバル帝は1556年に即位していて、ジスヤの廃止は1564年なので、適切な解答文ではありませんでした。
 おわびして、次のように改訂します。

ガズナ朝・ゴール朝が侵入してからイスラームの軍事的侵入があり、デリー=スルタン朝からヒンドゥー教徒にたいして寛容策をとり、ムガル帝国の支配開始で信仰は定着した。文化的には形式的な信仰を排する神秘主義者スーフィーによる布教で一般民に拡大した。

阪大世界史2019

外国語学部以外
 (Ⅰ)(外国語学部の第1問の問4まで同問)
 (Ⅱ)(外国語学部の第2問と同問)
 (Ⅲ)(外国語学部の第3問と同問)

第1問
古典期(前5〜前4世紀頃)アテネの民会決議碑文には、「評議会と民会によって決議された」との定型文が残されている。この時期のアテネの政体は民主政であり市民は、財産の多寡にかかわらず、民会において発言し一票を投ずることができた。これについて以下の問1〜問4に答えなさい。

問1 古典期アテネでは自由なポリス市民に対して、専制君主の支配下にあるオリエントの民衆を隷属的とみなし、蔑視する風潮がみられた。そのような発想のきっかけとなったオリエントの国家との戦争の名前を答えなさい。

問2 オリエントとギリシアの対比は、その後のヨーロッパでも影響力を持ち続けた。図1は1822年にパリで発売されたカレンダーであるが、その上部を飾る二つの戦闘図も、このモチーフを踏襲している。図1が発売された政治的・文化的背景について説明しなさい(70字程度)。

問3 古典期アテネと近現代西ヨーロッパの民主政を、参政権の範囲の変遷と、その行使方法に着目して比較しなさい(160字程度)。

問4 ロ一マでもSPQR(元老院とロ一マの人民)の語が、公文書や貨幣に記されていた。前3世紀から後3世紀までのロ一マの国家体制の変遷を説明しなさい(100字程度)。

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図1 G.ルイ「ギリシア・カレンダー(1823版)」。下は戦闘図の部分拡大図。

第2問
 以下の文章を読み、問1〜問3に答えなさい。
 定着農業が営まれる世界では、土地は、富の主要な源泉だった。このため、各地を支配する政権は、土地から生まれた財貨を手に入れるために意を注ぐとともに、労働力や土地の配分に対しても積極的に関与した。(ⅰ).(ⅱ)はいずれも為政者により発布された命令文を示したものである。

(ⅰ) 毎年春には、各地の寒暖に応じて、通当な時期に農作業を開始させよ。春から秋にかけ、15歳以上の男はみな野良に出て働くこと。[ (ア) ]の季節には、15歳以上の女は[ (ア) ]に精を出せ。10月には、地方官は自らの任地における教化の成果を以て人事評価を受けよ。(中略)このようにして土地は無駄なく耕作され、あぶれ者は皆無となるようにせよ。男はすべて18歳で農地を支給され、税を納めさせること。20歳で兵役に応じ、60歳で役務より免除され、66歳で(政府から与えられた)農地を返納し、納税の義務を免れるようにさせよ。(後略)

(ⅱ) 1. 朕は望む。朕の入り用にあてるために設立された[ (イ) ]は、朕以外のいかなる人間でもなく、すべて朕に役立つことのみをその務めとすることを。
 2. 朕の[ (イ) ]の民を十分に慈しみ、何人たりとも彼らを窮乏に追い込まないこと。
 3. 朕の[ (イ) ]の管理者は[ (イ) ]の民を私用で役使しないこと。彼らに仕事をするよう駆り立てたり、木を切るなどの作業を強制したりしないこと。酒瓶(buticula)や野菜果物、鶏や卵以外、管理者は馬であれ牛であれ豚であれ羊であれ、民からいかなる付け届けも受けないこと。(後略)

 (ⅰ)は6世紀の[ A ]で(ⅱ)は8世紀の[ B ]で各々出されたものであり、いずれもそれぞれの国家体制を反映している。(ⅰ)で述べられる土地制度は[ (ウ) ]制、(ⅱ)のばあいは[ (イ) ]制として知られる。

 このような為政者の発令した諸規定は、土地の保有や分配、あるいは税負担にかかわる「制度」の一部分として、後の時代における政策や国家体制を何らかのかたちで左右するとともに、現在にいたるまで各地の法・経済のあり方に深い刻印を残すこととなった。

問1 空欄[ (ア) ]〜[ (ウ) ]に入れるべき語を以下の(1)〜(10)よりそれぞれ一つずつ選び、記号で答えなさい。

(1)荘園 (2)天朝田畝 (3)エンコミエンダ 
(4)均田 (5)イクター (6)絹生産 (7)綿花栽培
(8)稲作 (9)コルホーズ (10)強制栽培

問2 空欄[ (ウ) ]の土地制度が導入された背景および後代へ与えた影響について、論じなさい(150字程度)。

問3 空欄〜[ (イ) ]が[ B ]において形成された背景、当時の政治制度全般との関係について、以下の語句を使って論じなさい(200字程度)。

 イスラム教徒 領主 軍事

第3問
 次ページの図2は「とても気高く忠誠心に篤いメキシコ市」と題された屏風で、1690年頃にメキシコで作製された。屏風はもともとアジアから輸入された商品だったが、17世紀後半にはメキシコの景観や歴史をモチーフとした屏風が、現地で作製されるようになっていた。また、コロンビアのトゥンハ市にある教会内部の壁面には、17世紀後半に作製された伊万里焼が装飾の一部としてはめこまれている。これらに関連する問1と問2に答えなさい。

問1 スペインのセビーリャにあるインディアス総文書館の税関記録には、1660年代以降、台湾からマニラヘ寄港した商船の積載品の一部として、茶壺や大皿、碗といった日本製磁器に関する情報が記されている。1660年代から1680年代初頭に中南米で日本製磁器が流通した歴史的背景を、以下の語句を使って論じなさい(150字程度)。
  台湾 鄭氏 マニラ

問2 この屏風の題名には、植民地生まれのスペイン人が故郷に対して抱いた愛着や誇りだけでなく.宗主国スペインとの複雑な関係が暗示されている。このような人々は、18世紀から19世紀初頭にかけてヨーロッパで生まれた思想や欧米各地で起きた革命に刺激されながら、スペインに対して自らの権利拡大を要求する運動を展開した。そのような革命の連鎖について、人物・思想に触れつつ具体的に諭じなさい(150字程度)。

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図2「とても気高く忠誠心に篤いメキシコ市」(部分)
………………………………………

1

(I)古典期(前5~前4世紀頃)アテネの民主政についての設問でした。

1 「自由なポリス市民に対して、専制君主の支配下にあるオリエントの民衆を隷属的……そのような発想のきっかけとなったオリエントの国家との戦争の名前」として教科書に書いてあるのはペルシア戦争です。これはギリシア側から呼んだ表現で、客観的な呼称にするならば「ギリシア・ペルシア戦争」です。この戦争ではないものの、ペロポネソス戦争のさいにペリクレスが演説したときペルシアを批判しつつ自分たちアテネは違うとして「少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」と述べている点でもこれは推理できます。

 

2 11822年にパリで発売されたカレンダーであるが、その上部を飾る二つの戦闘図も、このモチーフを踏襲している。図1が発売された政治的・文化的背景について説明しなさい(70字程度)。……時期がカレンダーに1823年とあり、ギリシア独立戦争でギリシアがオスマン帝国から独立する際の戦闘とおもわれます。

 カレンダーの図を下では「拡大図」としながら小さい絵で分かりにくい。たぶん左の絵が、盾と槍が描いてあるので古代の絵で、右のは刀と鉄砲が描いてあるので近代の戦争画と推測できます。ヨーロッパ対アジアという対立を描いているらしい。

 「鉄砲」が描かれたドラクロワの絵「民衆を導く自由の女神」という七月革命を想起せます。その革命前のフランスの政情を表してもいます。これは国内の背景ですが、国際的な背景とはこのギリシアのオスマン帝国からの独立戦争であり、これを利用して南下政策を試みる西欧・ロシア列強の介入、別名、東方問題と呼んでいるものが表されています。戦闘する両者(ギリシアとオスマン帝国)と、それを利用して帝国に食い込もうとする西欧列強(英仏露)を書けば解答になります。

 文化的な背景は、西欧側がギリシアを自分たちの文明の故郷と考えていて、西欧文明を守ろうとして派兵した、とすればいいでしょう。イギリスのロマン派詩人バイロンが義勇兵として参戦したことが例になります。また自分たちの西欧文明は優れたものであり、オスマン帝国のイスラーム文明・東洋文明は劣ったものだ、怠惰・下劣・暴力的である、と見下した19世紀の西欧における思考(これをオリエンタリズムともいう)を背景にしています。

 もともとヘロドトスがペルシア戦争を西欧対アジアの戦いととらえたことから誤解は始まっていて、ペルシア戦争のさいはギリシア人のマケドニア・テーベ、テッサリア、ロクリスなどのポリスはペルシア側に付いたのであり、ペルシア戦争はギリシアの内戦ともいえるものでした。さらに、マーティン・バナールが『黒いアテナ』で指摘したように、古代ギリシア文明の起源はヨーロッパにあるのではなく、古代エジプトおよびフェニキアの植民地なのであり、女神アテナは、「白い女神」ではなく、「黒かった」という観点が欠けていました。こうした誤解の重層化が、西欧のギリシア支援というものの文化的背景といえます。

 

3 「古典期アテネと近現代西ヨーロッパの民主政」の比較問題ですが、条件が「参政権の範囲の変遷と、その行使方法」というものがくっついています。「古典期アテネ」と古典期が付いた表現の意味が分かりますか? 民主政治全盛期のアテネ、という意味で前5世紀の時期を指しています。ペリクレス時代ともいっている時期です。

 「参政権の範囲」とは、古典期は平民も含む全成人男子が参加することができました。近現代は納税額に応じて高く払っているものにだけ選挙権を認めた制限選挙でしたが、次第に下層まで広げて成人男子全員、そして遅れて女性にも与えていく漸進的過程がありました。

 「行使方法」は古典期はくじ引き(抽選)でだれでも公職に就くことができ、直接民会に参加して意見表明ができました。近現代は代表者が選挙で選ばれ、代議士となって選挙民に代わって意見表明をすることと、職業的な官僚制が発展して代議士(立法者 law maker)を援助するようになりましたが、古典期では官僚制は未発達でした。

 日本の代議士たちが「代議」できる能力がなく、官僚からわたされた紙を読んで済ませている醜態を毎日のようにテレビが写しだしています。稚拙な国会・議員たち、首相以下みなそうだという点がすごいですね。また、そういう代議士を愚昧な国民が選んでいます。愚者の楽園です。

 

4 ロ一マでもSPQR(元老院とロ一マの人民)の語が、公文書や貨幣に記されていた。前3世紀から後3世紀までのロ一マの国家体制の変遷を説明しなさい(100字程度)」という課題。

 前3世紀は、ホルテンシウス法(前287年)ができ、元老院・平民会が共和政ローマを指導している時期です。ところがポエニ戦争(前264~前146)がおき、中小農民の没落が始まって武装自弁できなくなり、共和政の危機におちいるとグラックス兄弟の打開策もうまくいかず、将軍たちが元老院を無視して台頭します。将軍たちの二回の三頭政治の後に元首政なり、3世紀(軍人皇帝時代)の危機から世紀末には専制君主政(ドミナートゥス政)になります。ここまで書けばいいのですが、ポエニ戦争三頭政治元首政専制君主政、という「体制」変遷だけにしぼっても100字でまとめるのは難しい。

 SPQRとは、ラテン語で「Senatus Populusque Romanus(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)の略語だそうですが、Sono porci questi Romani.(このローマ市民どもは豚である)という意味もあるそうで、なんかどっかの国にも適用できそうです。

 

2

1

 空欄ア 「15歳以上の男はみな野良に出て働くこと。[ () ]の季節には、15歳以上の女は[ () ]に精を出せ」と女性の仕事ということなので、(6)絹生産だろうと推定できます。該当しそうな棉花栽培はアメリカの黒人奴隷の仕事でしょう、(8)稲作は男の仕事でしょう。

 空欄イ 「朕の[ () ]の民を十分に慈しみ、何人たりとも彼らを窮乏に追い込まないこと。朕の[ () ]の管理者は[ () ]の民を」とある文章からは経営地を指していると考えられますから、西欧史の(1)荘園だろう、と。西欧史であることは「酒瓶(buticula)」で示唆されています。

 空欄ウ 「6世紀の[ A ]で()8世紀の……土地制度は[ () ]制」とあるので、この時期の土地制度は中国(国家体制)のそれであろう、と考えられ、(4)均田制ですね。

 語群の(2)天朝田畝は太平天国の制度、(3)エンコミエンダはスペインがラテンアメリカで実施した封建制たる委託制度でした。(5)イクターはイスラームの封建制でブワイフ朝から始まったもの。(9)コルホーズはソ連時代の集団農場のこと、ソフホーズが国営農場(覚え方は、ソソ連国)(10)強制栽培はオランダが1830年からジャワ島でおこなった栽培指定と低価格の買収の制度です。

 

2 問いは二つ。「空欄[ () ]の土地制度が導入された背景」と「後代へ与えた影響」です。均田制は北魏が支配している公有地に無所有農民や小農を集めて土地を分配して耕作させ、かれらから租税をとる制度です。どこぞの予備校はこの土地制度を「大土地所有を制限し」と書いていますが、これはまちがった解答です。「制限」とは上限を決めて、それ以上もっている大土地所有者からその土地を奪うことですが、そこまではやっていません。『実況中継』もまちがいを繰りかえしていて、反省がない。すでにいる周辺の豪族の土地を取り上げだしたら戦乱を招くのは必定ですが、そんな粗っぽい政策はとっていません。持っていない農民に土地を分配するのが基本です。また別の予備校の「北魏時代には奴婢や耕牛を給田対象にしたために不徹底に終わった」というのもまちがい。どこが「不徹底」なものか。これは上の「制限」と同じ誤解で、「奴婢や耕牛」をたくさん持っているのは豪族だから豪族に有利な政策とかんちがいしているためです。既に大量に土地をもっている人間により土地を与えることがなぜ対策になるのか、そんな馬鹿なこと、となぜおもわないのか不思議です。制限でなく抑制と書くべきです。

 このブログの均田制の説明を参照されたしhttp://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2013/08/02/NEW_青木世界史B講義の実況中継(1-2 (p.189)

 

3 空欄[ () ]が[ B ]において形成された背景当時の政治制度全般との関係について、以下の語句を使って論じなさい。(指定語句イスラム教徒 領主 軍事)

 封建制度は政治制度とも社会制度ともいえます。これが土地制度と「関係」しているというのは当然のことです。「形成」とあるので、主に910世紀に形成された政治状況を説明したらいいです。

 外敵にあたるものを指定語句の「イスラム教徒」だけあげて済ましている予備校の解答はいかがなものでしょう? この時期はノルマン人(バイキング)とマジャール人の侵入もあり、南からはイスラム教徒が包囲・攻撃しています。孤立した西欧の防衛体制・軍事同盟として築かれたのが封建制度でした。

 他に封建制度の由来としての恩貸地制と従士制、荘園における領主・農奴の関係、史料があげている「朕以外のいかなる人間でもなく、すべて朕に役立つことのみをその務めとする」と不輸不入権(インムニテート)について説明すると解答文ができます。

 

3

1 課題は「日本製磁器に関する情報が記されている。1660年代から1680年代初頭に中南米で日本製磁器が流通した歴史的背景(指定語句台湾 鄭氏 マニラ)というもの。

 難問でした。陶磁器といえば中国・景徳鎮の陶磁器が名高いのですが、それが流通しにくい状況がこの時期(1660年代から1680年代初頭)に生まれています。なぜか? なによりヒントは指定語句の「鄭氏」ですね。明清の交代の激動期でした。鄭成功が復明運動をしていて中国から追放され、オランダの勢力圏であった台湾からオランダを追放します。オランダの基地であったゼーランディア・プロヴィンキアという二つの要塞を奪いました。ドミノです。鄭氏台湾というようになります。それに対して清朝はこの1661年に即位した康熙帝が、遷界令を発動して、台湾の西に位置している福建省を中心に北は山東省から南は広東省まで遷界令をしきます。この「遷界」とは海岸住民の強制移住です。無人化することで、鄭成功が貿易ができないようにし、侵入路と資金源を断つ政策でした。しかし中国製陶磁器の供給停止は東アジア貿易ネットワークに穴ができたことを意味します。肥前陶磁(伊万里焼)の輸出はそれを補うビジネスとなりました。この陶磁器は秀吉の朝鮮出兵の帰りに朝鮮人陶工を連れ帰ったことに起源があり、さらにこの時期に亡命してきた中国人陶工も加わっています。鄭成功は日本・英国(東インド会社)と結び、太平洋・東アジアの貿易を続行します。これがフィリピンを通してラテンアメリカに日本の陶磁器が流れた理由です(大橋康二・坂井隆『アジアの海と伊万里』新人物往来社)

 

2 課題は「このような人々は、18世紀から19世紀初頭にかけてヨーロッパで生まれた思想や欧米各地で起きた革命に刺激されながら、スペインに対して自らの権利拡大を要求する運動を展開した。そのような革命の連鎖について、人物・思想に触れつつ具体的に」という問題。

 問題を換言すれば、独立運動をしたシモン=ボリバルやサン=マルティンたちはどのような欧米思想に影響を受けているのか説明しなさい、という問題です。 

 「18世紀から19世紀初頭にかけてヨーロッパで生まれた思想や欧米各地で起きた革命」とあり、思想は啓蒙思想であり、革命は大西洋革命ともいうアメリカ独立革命とフランス革命です。この思想はイギリスの清教徒革命・名誉革命のさいに発展し、それがフランスにもたらされてより広い分野におよぶ思想に発展しました。シモン=ボリバルは世紀末の革命にゆれるヨーロッパを留学・見聞し、1803年にベネズエラに帰国します。31才でした。サン=マルティンは父がスペイン王国の軍人であり、スペインで育って1811年にアルゼンチンに帰国します。33才でした。二人とも啓蒙思想を学んでの帰国でした。

2019模試(一橋)雑感

A模試
第1問
 次の文章は、8世紀後半にローマの聖職者によって偽造されたと推定されている文書の一部である。この文書を読んで、問いに答えなさい。

 朕は……イタリアまたは帝国の酉側のすべての州と地方と都市を……いと祝福された教皇、我々の父で世界の教皇であるシルヴェステル(1世)に譲与し、そしてそれらを彼及び彼の後継者たちの教皇位の権力と支配に遺贈し、……それが聖なるローマの教会の権利の下に永遠にとどまることを承認する。
……そして属州ビザンツの最高の場所に朕の名において都市が建骰され、そこに朕の帝権が打ち立てられることが適切だと判断した。それは天上の皇帝によって聖職者の首位とキリスト教の頭が設置された所で、地上の皇帝が権力を掌握することは正しくないからである。
(「コンスタンティヌス帝の寄進状」宮松浩憲、久留米大学産業経済研究48巻1号より引用。)

問い この文書は15世紀の人文主義者が偽書であることを証明するまでローマ=カトリック教会で真正文書として扱われ、ローマ教皇レオ3世がフランク王カールを西ローマ皇帝に戴冠する根拠となったと推定されている。また、10世紀後半に確立した神聖ローマ皇帝権に対し、教皇権が対抗していく際にも主要な根拠として使用された。10世紀後半の神聖ローマ皇帝権の確立過程と、10世紀後半から11世紀における教皇権の神聖ローマ皇帝権への対抗を、文書の内容を踏まえ、神聖ローマ皇帝権の帝国の東方地域への展開を視野に入れて説明しなさい。(400字以内)

答案例
ドイツ王オットー1世は、マジャール人の侵入を撃退し. イタリアに遠征して教皇から空位だった皇帝に戴冠された。以降ドイツ王が皇帝となる慣行が生じ、神聖ローマ帝国が成立した。オットー1世は聖職者の叙任権を確保して教会を王権の統制下に置き統治に活用する帝国教会政策をとり、東部に辺境伯領を設置して東方への伝道を図った。以後の皇帝もその政策を継承し、ベーメンが帝国に編入された。一方教皇は、皇帝からの独立維持を図るポーランド王・ハンガリー王に加冠して提携した。11世紀後半に教皇グレゴリウス7世は、クリュニー修道院の粛正運動に乗じて聖職売買や聖職者の妻帯を禁止し、皇帝による叙任も聖職売買として否定した。皇帝ハインリヒ4世の反発で叙任権闘争が始まると皇帝を破門し、カノッサ事件で屈服させた。この過程で、西ローマ皇帝権がコンスタンティヌス帝により教皇に譲与されたとする寄進状は、教皇権優位の根拠とされた。

▲解答の異常なところは「一方教皇は、皇帝からの独立維持を図るポーランド王・ハンガリー王に加冠して提携した」という部分。これは教科書・参考書には見られない記事です。資料から必然的に出てくる史実でもない。これが一橋の過去問から一橋向きに必須の知識であるというなら頷けるが、過去問にこうした類題は見られない。問いの中にある東欧に関することがらは「神聖ローマ皇帝権の帝国の東方地域」であって教皇がどうしたかではない。解説にはこの教皇の加冠という行為について一切言及していないのはなぜでしょうか?
 もうひとつ疑問になるのは、「11世紀」とあるのに十字軍を提唱したウルバヌス2世のことが何も書いてないことです。一橋の過去問(2002)に叙任権闘争とこの教皇との関わりについて、「十字軍が提唱されたのも、聖地の解放を目指すとともに、ローマ教皇がキリスト教世界の指導者であることを示すためだった」と説いてから、叙任権闘争について書かせています。半田元夫・今野國雄『キリスト教史ⅰ・宗教改革以前』(山川出版社、p.384)に「クレルモン教会会議は第一回十字軍を宣布したことで有名であるが、それに先立ってこの会議は聖職売買の禁止(第六条)、姦淫聖職者の罷免(第九条)、俗人叙任の禁止 (第一五、一六条)、聖職者の国王ないし世俗領主への忠誠宣誓の禁止(第一七条)など二八カ条にわたる決議を採択し、教会改革に新たな段階を画した」とあります。

(わたしの解答例)
オットー1世はスラヴ人を討ち、マジャール人の脅威を取除いた。また世俗の大諸侯の力を削ぐために帝国教会政策を実施し、王領地を聖職者に寄進して諸侯と同等の権利を与え聖職者を味方につけた。それは叙任権を皇帝が掌握して、教会への統制を強めるためであった。かれは教皇ヨハネス12世から神聖ローマ帝国の帝冠をいただいた。一方、クリュニー修道院は「地上の皇帝が権力を掌握すること」に反対しており、聖職者が叙任権を掌握することで、聖権と俗権を分離する運動をはじめた。当時は私有教会制があり、世俗の諸侯が自領地内の教会・修道院にたいして叙任権を行使していたが、これに挑戦した。その意向を受けた教皇グレゴリウス7世が皇帝の叙任権を否定すると、皇帝ハインリヒ4世はカノッサの屈辱を受けたが、後で教皇を追いつめた。しかしクリュニー修道院出身のウルバヌス2世はクレルモン公会議において世俗権力にたいする忠誠禁止を聖職者に説いた。


第2問 次の文拿を続んで、問いに答えなさい。

戦争教書
合衆国上院及び下院へ。イギリスとの関係においてこれまで受けてきた一連の出来事を示す確かな文書を私は議会に伝達します。イギリスが今、従事している戦争は、1803年の対ナポレオン戦争再開を越えるものではなく、あまり重要ではありませんが正されていない過ちを省こうとするものですが、イギリス政府は、独立国であり中立国である合衆国に対して一連の敵対行為を働いています。イギリス艦船は、国際法上、敵国に対して認められる交戦国の権利を行使するという名目ではなく、自国の臣民に対する国内の特権を行使するという名目の下、公海上でアメリカ船に対して侵害行為を続けていて、その下で航海する人員を拘束のうえ連行しています。
……またイギリス艦船は、我々の海岸における安全と権利に対する侵害を行ってきました。彼らは遊弋(よく)して我々の通商を妨害しています。最も悔辱的な口実で、彼らは我々の港湾に対して無法な行動を取り、我々の神聖な領域内で妄りにアメリカ人の血を瀧しました。
(「ジェームズ・マディソン伝記事典」より引用。但し、一部改変)

問い この教書を機に始まった戦争名を明記し、その背景および開戦までの経緯を、アメリカ合衆国成立の時期から述べなさい。また、この戦争が1820年代の合衆国の社会・経済およぴ対外政策に与えた影響について説明しなさい。(400字以内)

答案例
米英戦争。アメリカ合衆国建国後、ワシントン大統領は国内の党派対立緩和を優先してフランス革命に対し中立を維持し、ジェファソン大統領もナポレオン戦争に対し中立を続けた。この間合衆国はヨーロッパとの貿易で利益を上げたが、イギリス・フランスは互いの通商を妨害しようと図り、アメリカ東海岸やカリブ海でアメリカ商船を攻撃した。ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、これに対抗してイギリスが海上封鎖を強化し、港湾の侵略や先住民への支援を行ったため、アメリカ・イギリス間の関係が悪化して米英戦争が勃発した。戦争中はヨーロッパ諸国からの輸入が事実上途絶えたため、北部では綿工業から機械化が進展し、合衆国はイギリスからの経済的自立を実現した。またアメリカ・ナショナリズムが高揚し、州を超えた国内の一体化が進んだ。戦争後モンロー大統領は新旧両大陸間の相互不干渉を唱えるモンロー教書を発表し、合衆国の孤立主義の方針が確立した。

▲ 「党派対立緩和」というかんたんな文では、「アメリカ合衆国成立の時期から」という問いの答えとしては、あまりに軽い扱いです。史料にある「敵対行為」「通商を妨害」というイギリスの行為にたいして、強くあたることのできる政府、つまりは中央集権国家をつくるかどうかは、連邦派・反連邦派で対立があり、わずかな差で連邦派の意見が勝ち、合衆国憲法も成立したはずでした。
 また「綿工業から機械化が進展」が「合衆国はイギリスからの経済的自立を実現した」というのは誇張です。わずかな工場が建てられただけなのに「自立実現」は無理があります。合衆国は第一次世界大戦まで、高関税政策をとり、資金は英国に頼って経済繁栄してきた国であり、自立はできていません。用語集の「アメリカ産業革命」は「1830年代、木綿工業・金属機械工業を中心に産業革命が本格化し、60年代南北戦争によって国内市場が統ーされ、一応、産業革命が完成した」と説明しています。2014年版の用語集では「1830年代から北部の工業化が本格化」と。

(わたしの解答例)
米英戦争。独立革命のさい、通商面でイギリスに負けないように経済統制のできる中央政府をつくる連邦派が反連邦派に勝って合衆国憲法ができた。ところがナポレオン戦争中にイギリスが海上封鎖を行って合衆国の通商を妨害したために、この戦争が勃発した。戦争の終結で講和し、互いの戦争中の領土は返したが、戦争中にイギリス商品の流入がとだえ、合衆国の綿工業の発展が促進された。独立革命時は母国にたいする躊躇が見られたが、この戦争のときはそれがなくなり、対等な国として戦争をたたかう国民主義がおきた。しかし戦争中から始まったラテンアメリカ諸国の独立運動に介入しようとするウィーン体制があり、これをモンロー宣言で拒否した。この宣言は合衆国が欧州に介入しない代わり、西欧がアメリカ大陸に介入するのを拒否する孤立主義で、合衆国の経済を守ろうとするものであった。保護関税政策でイギリスに対抗し、産業革命が本格化する準備をととのえた。


第3問 1885年に書かれた次の文章を続んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり、ーを支那と云ひ、ーを朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本国民に異ならずと雖ども、其人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟(か)、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の辺を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々するの情は百干年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、ーより十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文とて明東漸の風潮に際し、辿(とて)も其独立を維持するの道ある可らず。
(歴史学研究会編「日本史史料4J より引用。)

問1 この文章は前年に朝鮮半島で起こったあるクーデタで、朝鮮の近代化を目指したグループが敗れたことを背景に書かれたものである。このグループの指導者は誰か。
問2 この文章の筆者がこのような主張を展開したのは東アジアにおける歴史的伝統性の維持を模索する中国や朝鮮の為政者の態度が、「固陋」なものにみえたためであろう。1870年代から1895年にかけて中国を中心とした東アジアの歴史的伝統性、即ち国際秩序がどのように推移したかについて説明しなさい。その際下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引くこと。
 
  日清修好条規 琉球 閔氏

答案例
1 金玉均。2 1870年代の清は、欧米諸国とは対等外交を認めて洋務運動による近代化を進めたが、アジア諸国に対する冊封体制は維持しようとした。朝鮮は大院君政権のもと清との冊封関係を維持し、鎖国政策をとった。日本は明治新政府が近代化を進める一方、清・朝鮮に対して対等外交を求め、清とは日清修好条規を結んでこれを実現した。しかし日清両属であった琉球の帰属は解決せず、日本は台湾出兵を経て琉球を沖縄県として編入した。また朝鮮では大院君を排除した閔氏政権に対して江華島事件を起こして日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させ、清から独立させようとした。このため日清間で朝鮮を巡る対立が起こり、壬午軍乱・甲申政変では清による朝鮮への宗主権が維持された。その後甲午農民戦争を機に日清戦争が起こり、敗れた清は日本と下関条約を結び、朝鮮の独立と台湾の割譲を認めた。これにより冊封体制に基づく東アジアの国際秩序は崩壊した。

▲ まちがいはないですが、(日清間で朝鮮を巡る対立が)起こり、(日清戦争が)起こり、と自然発火したかのように「起こり」を繰りかえしている文章が気になります。
 2007年の『詳説世界史』は、

戦いに敗れた清は、翌95年の下関条約で……この結果、日本は大陸侵略の足場を朝鮮にきずくこととなり、極東で南下をめざすロシアとの対立を深めていった。

と書いていましたが、2018年発行の『詳説世界史』は、

戦いに敗れた清は、翌95年の下関条約で……はじめての植民地経営に乗り出した。また、「朝鮮の独立」という名目とは裏腹に、日清戦争後の日本は朝鮮への支配を強めて大陸侵略の足場を築こうとし、極東で南下をめざすロシアと対立を深めていった。

 前者の教科書になかった「「朝鮮の独立」という名目とは裏腹に、日清戦争後の日本は朝鮮への支配を強めて」という語句が加わっています。つまり「対等外交を求め」は名目、つまり嘘で、大陸(中国)進出の足がかりとして朝鮮を植民地化することを初めから狙っていた、ということを明らかにしています。歴史学の進歩がここに反映されています。自然発火したのでなく、能動的に日本が侵略したということです。解答文もそれを反映してほしいものです。せめて教科書に近づいてほしい。
 しかし教科書とて、歴史学の進歩をささやかに示しているだけで、まだまだです。この程度のことは、すでにインドのネルーが1930年代に娘に語っていたことでした。以下。

 中日戦争(日清戦争)……中国にたいして、日本を西洋列強と同等の地位におく条約〔下関条約〕の締結を強要した。朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすヴェールにすぎなかった。(ネルー『父が子に語る世界歴史 4』みすず書房、p.170)

 事実はこうでした。
 参謀本部第二局長の小川又治・陸軍大佐は、二度にわたる清国視察のうえにたち「清国征討対策案」(1887)を書いていました。ここには5年後の戦争開始、作戦、講和内容に奪うべき地名(遼東半島・澎湖島・台湾・揚子江沿岸・杭州湾の舟山群島など)も記していました。参謀本部次長の川上孫六は「このさい支那(中国)を片づけてしまわなくてはならぬ」と言っていました。侵犯行為の計画です。
 明治政府が日清戦争開戦のさいに 「清国及朝鮮国 」の「両国」 を相手にした戦争を考えていました。甲午農民戦争を鎮圧できず、李氏朝鮮が清国に軍隙の派兵を要請したのに対抗して、日本も陸海軍約8000名の兵士を派遣します。表向きは「公使館および居留民保護」でしたが、朝鮮政府は日本兵の撤退を要求してきました。ここで朝鮮と清朝が組むことが予想できます。
 大島公使が考え、日本政府に提案した「開戦の口実」案は、朝鮮王宮を軍事占領し、朝鮮国王を「わが手中におき、軍事的威圧を加えて国王に「我が国の要求に応従」させ、国王から朝鮮に駐留している清国兵を「朝鮮国外に駆逐すること」をわが国に「要請」させる、というものでした。朝鮮政府はこれを拒絶します。ここで朝鮮に対する戦争危機がせまります。この段階では宜戦の対手国は清国と韓国でした。
 当時の参謀本部による「日清戦史草案」では、王宮占領→国王逃亡防止→国王を手込めにする、でした。これを実行して高宗を捕虜同然にしたのですが、戦後に参謀本部が出版した『日清戦史』は、日朝両国軍の衝突は「韓兵より突然射撃を受け」たことによる偶然のできごととする捏造が記されました。
 清軍を追撃して戦争はおわるはずでしたが、計画案では渤海・黄海の制海権、河北省(当時は直隷、北京市・天津市を含む)もとる予定でした。中国のっとり作戦です。じっさい南満州・遼東半島に進軍しました。もともと戦争を朝鮮半島に限定するつもりはありません。まして「朝鮮独立」のためでないことは計画どおりでした。

(わたしの解答例)
1 金玉均。2朝鮮は清国に服属し、琉球は清日に両属していた。日本は中国に服属せず、日清修好条規を結んで対等外交をはじめ、軍事的に琉球を鹿児島県に編入した。漁民殺害を機に台湾に出兵し華夷秩序の解体を試みた。翌年、雲揚号が徴発して江華島を占領し、不平等な日朝修好条規を結ばせた。閔氏がにぎる朝鮮政府を壬午軍乱が倒し大院君が政権を奪回しようとした事件は清朝の介入でついえた。その結果、清朝と朝鮮の関係が密となったが、親日の開化派と親清の事大党という官僚の対立も生まれた。前者が日本の武力をかりたクーデタは失敗した。李朝政府に甲午農民戦争が挑戦すると、政府は清軍に援軍を依頼、日本軍はこれを機に朝鮮宮廷を襲い、高宗を捕らえ日清戦争を起した。つづく農民戦争は弾圧した。下関条約で朝鮮の「独立」を認めさせ、台湾は台湾民主国独立を宣したが日本軍が鎮圧した。さらに親露になった閔妃を日本の外交官が主導して焼殺した。

 なお引用文の福沢諭吉という扇動家が、甲申事変の黒幕として失敗したことを棚に上げて、「改進の辺を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々するの情は百干年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ」という中韓を蔑視した文章は、当時の日本人の傲慢さをよく表していています。日本自体もこの文章内容と同じであったのに、西欧化という点で時間的に遅れた国々を「辿(とて)も其独立を維持するの道ある可らず」との極論は、視野の狭さを示しています。同時に大陸進出という強欲を隠しています。出題者も「「固陋」なものにみえたためであろう」と福沢の主張に賛同しているような書き方をしています。いかがなものか。

 

B模試
第1問・第2問
 史料がたくさん載っている問題ですが、3問どれも特に読まなくては解けない問題ではなく、なぜこれほどの史料が必要であったのか疑問がのこります。一橋の過去問にもこれほどの史料を読ませた問題はないですね。史料を出した場合は、もっと設問と密接な関連をもっていましたが、どれも密接度は薄い。次の第3問もそうでした。

第3問 次の史科を読んで、問いに答えなさい。
史料1〕アメリカの駐清公使による朝鮮問題についての考察(1906年刊)
 朝鮮半島をはさんで、中国と日本は向き合っている。もし、朝鮮が独立国家であれば、日本は朝鮮が望む以上にその内政に干渉し、清はそれに対して腹を立てる権利もなかったであろう。しかし、もし朝鮮が清の属国であれば朝鮮は日本との関係について清にお伺いを立てねばならなくなる。他方、日本は、アメリカが日本の開国に果たしたのと同じ役割を朝鮮に対して担えるという漠然とした考えをもっていたようだ。われわれの日本における成功は驚くべきことであり、またアメリカは日本のために偉大で、強い政府を作った。ある東方の国家が他の東方の国家に対して、アメリカが日本にしたのと同じ役割を果たすという考えが、感情的に日本を魅了しているようである。この問題全体の根本は、要するに朝鮮が清の朝貢国であるか否か、ということである。
 (歴史学研究会編「世界史史料9』より引用)

史料2〕日本の外交官小村寿太郎による極東情勢についての考察(1900年)
 英国は南阿戦役(※注:ブール戦争)で、政府も人民も植民地防御問題に余程(よほど)頭を悩ましたようです。ところが今度の北京事変(※注:義和団事件)で、一層その度を増し来た。英国は実際今度東洋で僅々(きんきん)一万の兵も纏(まと)めることも独力では出来なかった。金ばかりあってもイザというときには、あの通り何の役にも立ちません。どうしても東洋問題は、日本を差し置いては何事も出来ぬと、英国は明らかに今度覚って来たでしょう。これからです。いよいよ日本が世界の舞台に出て仕事の出来るのは。日本の兵隊は初めて文明国の兵隊と肩をならべて戦い、勇気のあること、規律の正しいこと、決して欧米の兵隊に劣らぬことを証明した。諸外国は初めて日本の恐るべきことを悟ったでしょう。……(中略)……何時でも日本が戦争するときは、一度に敵を打ち破って置いて、後は外交の力でやるようにしなければ駄目です。(外務省編『小村外交史』上より引用。但し、一部改変)

史料3〕日本の外務省調書「アジア局関係問題を中心として見たる太平洋会議方針」(1921年7月)
 要乃国際管理(※注:列強による中国の国際共同管理案)はあるいは支那および列国に対し諸提案者の高唱するが如き福利を招来するやも計られず。然れども国際管理は哲学上の議論にあらず。……今回の華府(※注:ワシントン)会議においては北京政府を相手として交渉するの外なきも、現在の中央政府は甚だ無力なること……支那の現状とさきに「パプリック・レジャー(※注:フィラデルフィアで発行されていた新聞の名称)」の発表案に対する支那の世論とに顧み、支那の一般的国際管理案の実行は不可能なるは勿論なり。……従って目下実行しうるべき案は(イ)支那を本位として支那人の自尊心を偽つけざる方式においてすること。(口)地方督軍等の利益に急激なる変化及ぼさず、彼らより激烈なる反対を招かざる程度のものとなること。(ハ)外国援助による改善の道程を除々たらしむること。(二)従ってこれを小仕掛にし、なるべく目立たぬ方法によることを要す。
(酒井一臣「近代日本外交とアジア太平洋秩序Jより引用。但し、一部改変)
 上の文章は、19世紀後半から1920年代初めにかけての、日本の外交に関する史料である。〔史料l〕は19世紀後半の朝鮮半島情勢について、〔史料2〕は義和団事件期の極東をめぐる国際情勢について、〔史料3〕では第一次世界大戦後のアジア・太平洋に関する会議に向けての日本の外務省の方針が記されている。

問い 史料を参考に、19世紀後半から1920年代初めまでの時期において、欧米列強の東アジア進出に対し日本がどのように対抗し、また、日本の東アジア進出に対し列強がどのように対応したのかについて述べなさい。その際、次の語句を必ず用い、その語句に下線を引きなさい。国名はわかる範囲で漢字の略記を使用して構わない。(400字以内)

 樺太・千島交換条約 日英同盟 日米修好通商条約

解答例(下線なし)
アロー戦争で清を破った英仏は北京条約で自由貿易や対等外交を強要、同時期露も沿海州まで進出した。米との交渉で開国した日本は、日米修好通商条約などの不平等条約で自由貿易に組み込まれ、国内不満から明治維新に至った。日本は清と対等な国交を結ぴ、露との樺太・千島交換条約などで国境を定めた。江華島事件で開国させた朝鮮に進出すると宗主国の清と対立、日清戦争に勝利して遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。清の弱体化から列強が中国を分割すると、米は門戸開放宣言で牽制した。義和団事件後、露の満州占領を警戒して日英同盟が成立、日本は英の支援で日露戦争に勝利し韓国併合を進めた。第一次世界大戦で独に宣戦した日本は青島を占領、中国に二十ーか条要求を承認させた。戦後のワシントン会議では四か国条約で日英同盟を解消し、九か国条約に基づく日中間の条約で日本が山東権益を中国に返遠、米英が日本の勢力拡大を抑えた。

▲ 分解コメント
1 アロー戦争で清を破った英仏は北京条約で自由貿易や対等外交を強要、同時期露も沿海州まで進出した。
……課題で「欧米列強の東アジア進出に対し日本がどのように対抗し……列強がどのように対応」というものであるにかかわらず、これは日本とは直接関係のないことがらを書いています。次文の前提として書いたのでしょうが、次文には、この列強の進出がどう日本に響いたのか関連付けた文がありません。日本への圧力になったということを言いたいのであれば、「列強はアロー戦争で自由貿易や対等外交を強要、露も沿海州まで迫った」として、その上で次文ではこれに対抗する日本の体制変革につなげたら良かった。

2 米との交渉で開国した日本は、日米修好通商条約などの不平等条約で自由貿易に組み込まれ、国内不満から明治維新に至った。
……「米との交渉」はアロー戦争のように日本も植民地化の危機を迎えていると「交渉=脅迫」されており、開国と不平等条約は国内分裂をきたし、薩長による明治維新に帰結した、と文1との関連づけをすべきでした。

3 日本は清と対等な国交を結ぴ、露との樺太・千島交換条約などで国境を定めた。
……「清と対等な国交」は解説文にあるように日清修好条規(1871)のことですが、じっさいにはそれを破って台湾出兵(1874)をおこない、ロシアとは樺太千島交換条約(1875)で国境の画定、というより大国同士の領土拡大をしました。幕末から征韓論のわきたつ日本は、国内の抗争を外に向けるべく対外進出の機会をねらっていきます。台湾出兵が欠けています。

4 江華島事件で開国させた朝鮮に進出すると宗主国の清と対立、日清戦争に勝利して遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。
……ここは日本側の侵略と列強の対応が表されています。ただ「開国」は西欧に見習った不平等条約のおしつけであり、「朝鮮の自主独立」は言葉だけの虚偽的なものでした。また台湾をとり、日清修好条規に書いてある「両国は互いの「邦土」への「侵越」を控える」をもう破ってしまいました。「干渉」を受けたのも仕方ないことでした。三国の公使が外務省を訪れ、「日本が遼東半島を領有するのは、直ちに清国の首都北京を脅かすものであるばかりか、朝鮮の独立を有名無実にするものであるから、永く東洋平和を害することになるので、よろしくこれを放棄せられたい」と言ってきました。

5 清の弱体化から列強が中国を分割すると、米は門戸開放宣言で牽制した。
……この中国分割になにも日本が関わっていないようなものになっていますが、日本は福建省不割譲条約を結んでいます(1898)。これも欠けています。

6 義和団事件後、露の満州占領を警戒して日英同盟が成立、日本は英の支援で日露戦争に勝利し韓国併合を進めた。
……ここは問題なくできてますが、義和団事件については、8ヶ国出兵の中では主力であったこと(〔史料2〕で力を示したことが日英同盟につながります)、北京議定書で駐兵権を獲得していることを追記してもいいはずです。〔史料2〕にある「規律の正しい」は真っ赤なウソです。略奪・放火・殺戮・強姦は他国と同様にやっていました。これは書かなくていいことですが。
 露から南満州鉄道をとりあげています。また桂・タフト協定(1905)で韓国にたいする優越権を合衆国に認めさせています。

7 第一次世界大戦で独に宣戦した日本は青島を占領、中国に二十ーか条要求を承認させた。
……ここは日本の侵略のすがただけで特に問題はありません。

8 戦後のワシントン会議では四か国条約で日英同盟を解消し、九か国条約に基づく日中間の条約で日本が山東権益を中国に返還、米英が日本の勢力拡大を抑えた。
……ここも問題なくできています。

(わたしの解答例 ──下線なし)
列強はアロー戦争で自由貿易を強要、露も沿海州まで迫った。脅威に感じた日本は、米国による開国と日米修好通商条約で国内に分裂をきたし、薩長による明治維新に帰結した。対抗して清と日清修好条規を結び、台湾出兵を行ない、露と樺太・千島交換条約を結んだ。幕末からの征韓論を実行し朝鮮を開国した。ここに鉄道・通信施設を建設して中国をねらった。東学農民戦争を利用して日清戦争をおこし、遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。列強による中国分割に日本も相乗り福建省を勢力圏とした。義和団事件で日本は最大の軍を派遣し、議定書により莫大な賠償金と駐兵権を獲得した。英国はこの軍事力を利用しようと日英同盟を結んだ。この同盟を基盤に日本は日露戦争を戦い、桂・タフト協定で米国に韓国に対する優越権を認めさせた。第一次大戦中に青島を占領し、袁政府に二十一カ条要求をつきつけたが、戦後の九ヶ国条約で抑制された。

2019年夏の模試(東大・京大)雑感

A模試
 第一次世界大戦前後、最後の中華帝国である清朝や、ロ一マ帝国の理念を継承した諸地域、例えばオーストリア・ロシアにおいて、「皇帝」位が相次いで消滅した。このことは、古代から続いた長い伝統の断絶を意味した。
 ユーラシア大陸の東西において、秦漢帝国・ロ一マ帝国に始まる「皇帝」の権威は、民族移動の混乱や抗争によって帝国分裂の危機に直面しながらも、様々な勢力によって継承されていった。古代における集権的な帝国統治は、その後に強化されていく地域がある一方で、分権的な性格をみせていく地域もあった。「皇帝」の権威は、特定の教理や教学と結びつくことで一層高められ、帝国とその周辺に及ぶ広域秩序を形成することもみられた。こうした一連の動きは、17〜18世紀頃までに、地域ごとの特色のある形で収斂していくことになった。
 以上のことを踏まえ、14世紀半ばからの「皇帝」の権威の展開について、権威を支えた理念や帝国統治のあり方、皇帝位の担い手などに言及しつつ、それぞれの地域ごとに特色ある形で収斂するまでを記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 一世一元の制 ウェストファリア条約 カール5世 金印勅書 正教会 大編纂事業 朝鮮王朝 農奴制の強化

解答例──下線なし)
14世紀、元を駆逐した朱元璋は明を興した。「華夷の別」を重視する朱子学を官学とし、一世一元の制を定め、中書省を廃止して六部を皇帝直属とするなど皇帝独裁体制を完成した。永楽帝は南海遠征を通じ朝貢貿易を促進させ、儒教理念に基づく中華秩序の再編を図った。17世紀に満州で自立した女真の後金は国号を清と改め、朝鮮王朝を属国とした。李自成の乱で明が滅ぶと中国本土に進出し、皇帝として明の官僚機構や冊封体制を継承しつつ、モンゴル・チベットなどを藩部として間接統治し、大編纂事業を行い中華文明の保護者ともなった。神聖ロ一マ帝国では、皇帝カール4世が金印勅書を発布し七選帝侯に皇帝選出権を認めた結果、領邦の自立が進んだ。15世紀以降皇帝位はハプスブルク家が事実上世襲し、16世紀にカトリックの擁護者として皇帝権威の復興を図ったカール5 世は、宗教改革を進めるプロテスタント諸侯に対抗したが、アウクスブルクの和議で領邦教会制を認め、権威は動揺した。17世紀の三十年戦争では、ウェストファリア条約で帝国内の領邦主権が承認され、皇帝の支配権はハプスブルクの家領に限定された。キプチャク=ハン国から自立したモスクワ大公イヴァン3世は、東ロ一マ帝国滅亡を背景に皇帝位の継承を主張し、16世紀にイヴァン4世はツァーリを君主の称号として正式に定め、正教会の主宰者として東方キリスト教世界に君臨した。17世紀に成立したロマノフ朝は、ピョートル1世のもとユーラシア東方までの領域支配を固めつつ、バルト海に進出し、官僚制の導入や農奴制の強化を通じ皇帝専制体制を強化した。

▲皇帝という称号はヨーロッパ・ロシア、中国で使うのは確かです。しかしイスラーム世界ではどうなのか? インドのムガル帝国(アクバル帝)でもオスマン帝国(スレイマン大帝)でも使います。スルタンやシャーに「皇帝」の訳をあてることもあります。
 「模範」答案では中国・神聖ローマ帝国・ロシアだけに限定して書いていますが、そのような限定の指示は問題文のどこにも見当たらない。導入文のはじめのところで「中華帝国……諸地域、例えばオーストリア・ロシア」と書いてありますが、3段落目の本格的な問いの中には「それぞれの地域ごとに」とあり、この「それぞれ」がどこを指しているのか不明です。皇帝をいただいた国々ということなのでしょうが、はてそれはどこ?
 この課題文の前文では「ユーラシア大陸の東西において、秦漢帝国・ローマ帝国…に始まる…」と書いてあってどこにも限定した地域名は指定されていません。どうやら、指定語句から類推しろ、ということらしい。
 一世一元の制・大編纂事業・朝鮮王朝は中国、ウェストファリア条約・カール5世・金印勅書は神聖ローマ帝国、正教会・農奴制の強化はロシア、となります。しかし指定語句は指定語句であり、問題(課題)そのものではありません。40年ほど前の東大の過去問にそういう指定語句から類推させて書かせる問題はありましたが、最近のではまったくありません。じじいが作ったのか。
 また求められている解答は、皇帝権威・権力の強化か分権か、支配の理念ですが、「模範」答案の内容は冗長で不要な文章が多い。たとえば「満州で自立した女真の後金は国号を清と改め……李自成の乱で滅ぶと中国本土に進出し、……宗教改革を進めるプロテスタント諸侯に対抗したが、アウグスブルク和議で領邦教会制を認め、権威は動揺した……キプチャク=ハン国から自立した……17世紀に成立したロマノフ朝は、ピョートル1世のもとユーラシア東方までの領域支配を固めつつ、バルト海に進出し」などが不要です。
わたしの解答例──下線なし)
東アジアでは明朝が中書省を廃止して六部を直轄し、内閣に補佐させる皇帝独裁体制を築いた。一世一元の制、衛所制によって皇帝権を強化した。この体制は清朝にも受けつがれ雍正帝の段階で内閣に代わり軍機処が支配の中枢となった。朝鮮王朝や大越など周辺国は冊封体制に組み込み、征服した周辺民の地域は藩部としてその首長を官僚の末端に位置づけた。支配の理念は儒教であり、共に朱子学を国教とし、大編纂事業期に文字の獄で思想統制に努めた。南アジアではデリー=スルタン朝期にムスリムが定着、ムガル帝国はジスヤを廃止して回印共存の理念を強化した。しかし17世紀にジズヤを廃止しイスラーム化をすすめたため分権的な傾向をもたらした。西アジアではオスマン帝国が台頭し、スンナ派の盟主としてアッバース朝以来のカリフ政治を継承した。18世紀にはスルタン=カリフ制となり政教一致の体制を築いた。ロシアではコンスタンティノープル陥落を受けてビザンツ皇帝位はモスクワに遷ったとし、東方正教会の盟主であり、かつ絶対的なツァーリズムを形成した。しだいに農奴制を強化し、18世紀には農奴の売買まで認めた。中欧の神聖ローマ帝国では、14世紀に金印勅書が定められて皇帝は選挙制となり、同時に選帝侯の大幅な内政権が認められた。その権利は小領邦にも拡大された。皇帝位はハプスブルク家が受けつぐようになり、カール5世がその全盛期をきずいた。17世紀の三十年戦争は帝国を分裂させ、ウェストファリア条約により、皇帝の独占的権利であった外交権を領邦に与えたため、領邦は主権国家となった。

B模試
 次の文章は、14世紀半ばにフィレンツェの商人によって書かれたとされる商業の手引きの一部である。

 中国へ旅をする商人たちに必要なこと
 第ーに髯を剃らずに長く伸ばしている方がよい。そしてタナ※では通訳を雇うべきである……通訳の外にクマニア語に通じているもの二人、召使に雇った方がよい。……タナから中国までの道中は、実際に通った商人がいうには日中であろうが夜間であろうが、絶対に安全である。……中国は沢山の都市や町を含む地方である。その中でも特別な都市、すなわち首都は、沢山の商人たちが集り、交易量もはなはだ大きいもので、その名をカンバレクと呼ぶ。……ジェノワやヴェネツィアから出発し、上記の都市に行き、さらに中国まで旅するものは誰でも麻布をもっていくべきである。オルガンチ※を訪ればそこで売ることができるからだ。オルガンチでは銀のソンミ※を買い、何も他のものを購入せずにそれをもって進んだ方がよい。……どんな銀でも、商人たちが中国まで持って行くと、中国の君主はそれを取り上げ彼の金庫の中にしまってしまうだろう。そしてその引き換えに銀をもってくる商人に紙幣をくれるのである。これは黄色をした紙幣で、前述の君主の印が押してありバリシと呼ばれている。この金で絹や他のどんな商品でも買うことができる。この国の人々はすべて、これを受け取るように決められているのである。……
 (ペゴロッティ『商業指南』、田中英道・田中俊子訳)
※タナ 「ターナ」とも。南ロシアを流れるドン川がアゾフ海に注ぐ地に、北イタリア商人が建てた商業都市。
※オルガンチ アラル海の南にあった商業都市。
※銀のソンミ 銀のインゴット(かたまり)のこと。

 この手引きからは、いわゆる「モンゴル時代」の全盛期における広域の交通・商業ネットワークの一端をうかがい知ることができる。そしてこの時代に銀が、あたかも経済活動を活性化させる血液のようにユーラシアの大部分を循環し、国際通貨としての地位を確立させたことは、16世紀後半〜17世紀前半に大量の銀が供給されたときに進んだ世界経済の一体化の基礎になったと考えられる。
 以上を念頭におきながら、13世紀後半〜14世紀前半のユーラシアにおける銀を中心とする経済・商業の状況と16世紀後半〜17世紀前半に世界規模で起こった銀を中心とする経済・商業の状況を対比しながら概観しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお( )で併記した語句は、どちらかー方を用いて解答すること。

 価格革命 ガレオン貿易(アカプルコ貿易)泉州 ジャムチ 日本銀 東方貿易(レヴァント貿易)農場領主制(グ一ツヘルシャフト) ムスリム商人

解答例──下線なし)
モンゴル帝国はジャムチにより陸上交通路を整備し、銀を中心とする貨幣制度を整えたため、ムスリム商人が遠隔地交易で活躍した。元は銀納税制を始めるとともに、銀との交換を保証した紙幣である交鈔を発行して銀を集め、宗主国として諸ハン国に銀を下賜した。紙幣の流通で不要とされた銅銭は日本などに輸出され、経済活動を刺激した。さらに元は華南の泉州などの海港都市と華北の大都を結ぶ大運河と海運を整備し、海上交易を活性化させた。このため銀は、泉州などに来航するムスリム商人を経由して元に環流した。西方ではイタリア商人が黒海経由でモンゴルの陸上交通路とつながり、また地中海では東方貿易でムスリム商人と南ドイツ産の銀とアジア産の絹や香辛料を交易した。16世紀にはポルトガル・スペイン船が直接アジアに来航した。中国商人と結ぶポルトガル商人は日本銀と明の生糸の中継交易を行った。17世紀前半にはオランダ商人がこれに参入し、日本からも朱印船が東南アジアに渡航し、日本銀で中国商人と交易した。またスペインはマニラを拠点とし、メキシコ銀を太平洋経由でマニラに運び、明の絹などと交換するガレオン貿易を行った。スペインがポトシ産の銀をヨーロッパに流入させると、価格革命と呼ばれる物価騰貴が起こった。西欧では主に新大陸を市場として商工業が発達し、エルベ川以東では農民の賦役を強化し西欧向けの穀物を生産する農場領主制が広まり、国際的分業が進んだ。
▲ 「対比しながら」という語句を安易に使ってしまったようです。どこにも対比した跡が見られません。「13世紀後半〜14世紀前半のユーラシア」と「16世紀後半〜17世紀前半に世界規模」の二つの時期の「経済・商業の状況」で対比するという課題です。違いは「ユーラシアと世界規模」で空間的に違うことは示されていても、その中身、とくに銀経済が違うという前提の問題です。解説文では表で示しながらも、どこにも対比になっている表がありません。たんに語句を二つの時期にあてはめているだけです。対比は違いを表す思考法なので、対比表ができて当り前なのですが、内容が伴っていません。

 東大で「対比しながら/しつつ」という課題で出題した過去問は以下のようなものがあります。
 1991年第1問 西アジアを中心にして、これに続く10世紀から17世紀にかけてのイスラム世界における政治体制の変化を簡潔に述べ、次いでこれと対比しつつ同時代の西ヨーロッパ世界、南アジア世界における政治体制の変化を略述せよ。
 1983年第1問 (A)10世紀ころに変動した朝鮮の国内情勢および国際関係について、その変動の前・後を対比しながら述べよ。
 1981年 9〜10世紀における西ヨーロッパ、東ローマ帝国、イスラム世界は、それぞれどのような特色をもっていたか、互いに対比しながら。
 1972年第2問 (A)古代ギリシアのポリスにおける、政治的・社会的な自由の歴史的意義とその特質を、古代オリエント世界および近代市民社会と対比しつつ、100字程度で記せ。

 「対比」とは辞書では、「二つのものを並べ合わせて、違いやそれぞれの特性を比べること。(デジタル大辞泉)」「複数個のものを異同を明らかにするためにくらべること(日本国語大辞典)」などとあるように、違いを明確にするための方法であり、違いを叙述することです。
 「対比」という語句を使わないで、違いを求めた問題は東大に多いです。2017年の古代帝国(秦漢とローマ)、2013年の米大陸の開発・軋轢の差異、2012年の植民地政策と独立運動の差異、1998年の18〜19世紀合衆国とラテンアメリカの対照性、1997年の帝国解体過程の比較、などです。
 この模試の問題は、過去問2015年の13〜14世紀モンゴル時代と2004年の16〜18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の二つを抱き合わせた問題でした。
 二つの時代を前半と後半に分けて書いても、それは羅列であって「対比」したことになりません。それでいいのなら第2問のように(a)・(b)に分けて書けばよいはずです。二つの時期を流れとして書いてしまったため、対比したかどうかは採点官に違いを探してください、と預けたかっこうになります。真面目に問題文をとって対比して書いた受験生は、その部分が無駄になりました。本番では無駄になりませんが。

わたしの解答例──下線なし)
13後半から14世紀前半の経済・商業。中国国内に新運河を建設し港湾も整備、銀を土台に紙幣を流通させる商業環境をつくった。モンゴル帝国内にジャムチを敷き、各ハン国間の通商も活発になった。泉州は東洋第一の港として栄えた。西欧でも商業ルネサンスがおき、東方貿易でイスラーム世界とつながりムスリム商人が陸路・海路にラクダが、ダウ船とジャンク船が行き交った。流通した銀は南ドイツと中国が産地であり、それほど大量ではなかった。ところが16世紀後半〜17世紀前半の経済・商業では銀はポトシ銀山を代表とする新大陸産のものと日本銀が大量に世界に流通した。西欧はインディオの帝国を破壊し、マラッカ王国を滅ぼして金銀を獲得した。それは明清の税を一条鞭法・地丁銀に変え、ムガル帝国にルピー銀貨を発行させ、欧州では価格革命を起こした。そのため東欧は農場領主制が普及し、西欧の商工業を支える後背地となった。商品を運ぶ手段も、大砲を装備したガレオン船によるアカプルコ貿易もはじまり、列強は東インド会社・西インド会社などをつくり海外に貿易基地を建設しだした。大西洋では奴隷貿易も始まり、港のリヴァプールは資本を蓄積した。このように前者の時期は商業のネットワークはつくったが各地の経済構造を変えることはなかった。後者の時期には経済構造を大きく変える変動を招来した。とくに西欧では資本主義の発展に寄与し、アジア・アフリカは従属の端緒となった。

C模試
 19世紀初頭のナポレオンによる大陸制覇とその後の保守的な国際体制の成立は、イギリスを始めとする諸国の多様な動きを生じさせ、そのことがヨーロッパのみならずアメリカ大陸に大きな政治的・経済的な変動を引き起こした。
 1810年代から1820年代にかけてイギリスの採った対外政策が、ヨーロッパおよび南北アメリカ大陸での政治的動きとどのように関わったかについて、それがアメリカ大陸に与えた経済的影響にも留意しつつ300字以内で説明せよ。

解答例
イギリスはナポレオンが発した大陸封鎖に対し海上封鎖で通商を妨害したが、反発したアメリカ合衆国がアメリカ=イギリス戦争を起こし、これを機にアメリカ合衆国は経済的自立を果たした。イギリスはナポレオンを破ると、その後成立した保守反動的なウィーン体制の支柱である四国同盟に参加した。しかしギリシア独立戦争が勃発すると、イギリスはフランスやロシアとともにギリシアを支援してオスマン帝国を破り、ギリシアの独立が実現した。またラテンアメリカの独立運動では、イギリスは外相カニングのもと自由貿易主義の立場から独立を支持したが、独立後は経済進出を進めた結果、ラテンアメリカ諸国のイギリスに対する経済的従属が強まった。

 この問題の類題は、東大過去問1986年第2問です。

 ナポレオン戦争およびこれに続くウィーン体制の成立は、南北アメリカにいかなる影響を及ぼし、またどのような動きをひき起こしたか。

 今回のようにイギリスの対外政策に的をしぼった点は違うが、欧州と米大陸への影響といった点は同類の問題です。
 解答文の問題点は3つ。
 第一文の末尾「経済的自立を果たした」のところ。かつて合衆国の産業革命がこの米英戦争の最中であったとの説があり、これは今は否定されているのに、受験の世界では生きている説です。山川の『用語集』を見たらわかるように(以下)、今は1830年から、という説が経済史の本でも通例見られる年代です。

アメリカ産業革命 ⑤ イギリス製品に対する保護関税政策で北部の工業が発達し、豊富な資源と労働力不足が農業工業の機械化を進めた。1830年代、木綿工業金属機械工業を中心に産業革命が本格化し……

 まして「果たした」という表現はそれが完成したかのような表現になっています。そうではなく対外関係が破綻したため商人は貿易ができなくなり、その分を木綿工業をつくることで埋め合わせようとしたのであり、わずかな工場ができただけでした。本格的には1830年代です。第一次世界大戦の最中にやっと債権国になるように、それまでイギリスの資金に依存して工業化していくのが合衆国の工業化のあり方です。『詳説世界史研究』(山川出版社)のように「アメリカ合衆国の経済的自立が始まり,ニューイングランド地方を中心に木綿工業の進展がみられた」というのが的確な説明です。やっと「始まり」に注目。果たした、ではない。
 第二の疑義は、「対外政策が、ヨーロッパ……での政治的動きとどのように関わったか」という問に対して四国同盟参加とギリシア独立しか書いてないことです。「関わ」りがどの程度のことを指しているのか不明ですが、広く「ヨーロッパ……影響」ととれば、もっと多くデータを挙げるべきです。イギリスだけの影響ではないものの、ナポレオン没落後も開放的な自由主義の動きはつづきました。その中にイギリス自身もあり、奴隷貿易の廃止(1807)、団結禁止法廃止(1824)、審査法廃止(1828)、カトリック教徒解放法(1829)、選挙権拡大運動と自由主義の運動が展開し、それらは他のヨーロッパ諸国にも影響しました。
 第三の疑義は、「独立後は経済進出を進めた結果、ラテンアメリカ諸国のイギリスに対する経済的従属が強まった」のところ。これはミスです。戦争前からイギリスはラテンアメリカに進出しています。ポルトガルと締結した通商条約であるメシュエン条約(1703)はラテンアメリカ進出のきっかけとなったものでした。戦争中も進出しています。なにより大陸封鎖令のためラテンアメリカはイギリスしか貿易相手はなく、じっさい英国の商品輸出は対欧州と対中南米を、1805〜11年で見ても、ほぼ同額で推移していて、戦後もあまり変動がない(外山忠著「ラテン・アメリカ市場への英・米の進出 : 1820年代から第 1次大戦前まで」北海道大学・経済学研究 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31290/1/24(2)_P235-292.pdf)。
軍事的にはイギリス軍がブエノスアイレス(アルゼンチンの首都)を占領する(1806)ということもやっています。

わたしの解答例
対仏大同盟の盟主として海戦・陸戦を戦い、フランス革命政府を屈服させた。四国同盟に加わったが、神聖同盟に加わらないことでラテンアメリカ独立革命への干渉拒否の立場を堅持した。欧州では自由主義運動に影響を与えた。国内のラダイト運動、国外でのブルシェンシャフト運動、スペイン立憲革命、カルボナリ運動、デカブリストの乱、ギリシアのトルコからの独立戦争などである。ラテンアメリカへは独立革命が継続し、20年代に実現した。戦争中からイギリスは市場として進出していたが戦後も市場化・原料供給地化をすすめた。北米の合衆国とは米英戦争がおき、それは合衆国の国民主義を起し、経済的自立の契機を与えたため木綿工業が興った。

欺史作家の『日本国紀』─2

 p.326に「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」とある。
 「収奪型」でない植民地経営などあるものか。

(1)棉花
「欧米諸国のような収奪型」としては英国のインド支配が典型である。イントがたとえ「豊富」であっても、英国の都合の良いようにつくり変えるていった。つまり、在来手工業を破壊し、英国工業のための原料供給地化・食糧供給地化・英国商品のために市場化する、そのため農業は混栽を止めさせてモノカルチャー(単一栽培)を強制していく、というやり方である。またインドへの課税が最大の収入源で、現地の地主勢力を温存し、下のものに重税を課けて土地を奪っていく。
 教科書(詳説世界史)では次のように書かれている。

 植民地政府の最大の目的は、より多くの富を効率よく収奪することにあった。最大の収入源は地税であった。その徴収に関しては、政府と農民とのあいだを仲介するものに徴税をまかせ、その仲介者に土地所有権をあたえるザミンダーリー制や、仲介者を排除して農民(ライヤット)に土地保有権をあたえ、農民から直接に徴税するライヤットワーリー制などが実施された。

 植民地下の朝鮮を旅した中野正剛は次のような記事を書いている。→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953853 (これは朝日新聞の記者をしていたとき[1909-1916]に書いたものとおもわれ、後に『我が観たる満鮮』政教社として出版、大正4年(1915)、p.23〜26)

 由来韓國時代より綿は全羅南道の特産物……総督府も日本全國に於て適産地なき棉花の栽培が、全南に於て好成績なるを見るより頗る興味を催し百方之が奨励に力を盡せり。今や総督府は全南の九分九厘……原料を悉く外國に仰がざる可からざるは、國家の経済を憂ふる者の常に遺憾となす所なり。今総督府が其管轄區内に棉花の適産地あるを知りて、熱狂して栽培の奨励をなすは、是れ實に國を思ふの至情なり。……又棉花の産出増加せしと共に、著るしく蔬菜雑殻の産出を減じ、農民の生活に不便を来せしは、何人も疑はざる所なり。然れども此等は利の害を償ひて餘りあるを以て、多く悲しむに足らすとするも、全南を以て全然棉花の單一作地とするの不可なきや否やは、大いに考慮せざる可らず。由来棉は暖地の産物にして、如何に之を朝鮮にて奨励するも、到底印度に於けるが如き好成績を収入め得べきに非ず況んや歳によりて早寒の憂あるをや。又朝鮮は地勢上自作自給の小農に適し、決して満洲の如く、或單一なる生産をなし、貿易によりて生活するに適せざるを知らざる可らざるなり。
 以上の説、或いは一半は杞憂ならん。然れども総督府が棉花栽培の奨励より一歩を進めて、例の官権万能主義を振廻し、棉花販売施設を行ふに至りでは、吾人は農民に代りて、其弊に堪へざるを訴えざる可からず。
………………………………………
 これを読んで分かるように、日本で栽培がうまくいかない棉花栽培が「全南」ではうまくいく、「熱狂」している日本人にとってい良いが、朝鮮農民にとっては単一栽培を強制されて「不便……堪へざる」状態だと訴えている。インドと同じやり方だ。
 これは次のような文章に現れている。この文章は綿業だけではないが、朝鮮を造り替えるために、綿業が大きい比重を占めたことがわかる。

 三井系統の南北綿業・郡是製糸・東洋製糸・小野田セメント、三菱系統の朝鮮重工業、ニチメン (日本綿花)系統の朝鮮綿花・全南道是製糸、鍾紡系統の鍾淵紡績、片倉系統の片倉製糸、東拓系統の朝鮮煉炭、浅野系統の浅野セメントスレートなどの14の工場が設立された。この数字は以前と比較してはるかに多く、この時進出した大資本の大部分が1930年代にも朝鮮工業の発達を主導していく資本系統となった。(許粹烈『植民地期朝鮮の開発と民衆』明石書店、p.117)

  また米国が真珠湾奇襲の後に「日本の戦略的概観」という調査記録をつくっていて(1942年)、その経済について「対外依存の日本経済」と題して、「朝鮮の綿・毛・石炭・米」と記されている(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社新書、p.103)。朝鮮からの収奪なしに日本の経済が立ちゆかないことをアメリかは知っていた。

(2)コメ
 農業でいえば何より「産米増殖計画」について日本史・世界史を学んでいたら知っているだろう。朝鮮半島の米がなければ日本の食卓を維持することはできなかった。山川の『日本史用語集』ではこう説明している。

 日本国内の人口増加と工業化・都市化による米需要の増大や米騒動で露呈された食糧危機に対応するため、植民地朝鮮で行おうとしたコメの大増産計画。1920年から灌漑施設の拡充、耕地整理の強行による安価なコメの内地移出を目指す(「内地」とは日本のこと──中谷の注)。

 コメに関しては、「供出」という名の収奪も盛んに盛んに行なわれた。『百萬人の身世打鈴』(前田憲二他、東方出版)はこの供出の証言に満ちている。一例をあげる。呉昞權(取材日・1997年9月9日、本藉・全羅南道光州市、現住所・同左、生年月日・1922年1月23日、取材者・沢沼紀子と李義削)さんの証言(p.88)。

 その当時はお米は全部供出させられるので、貧しい人はみんな困っていました。お米は貴重ですから、みんな少しでもとっておきたいから隠しておくんですね。そうすると、警察から人がやって来て、土の中に隠しているかどうか、地面を叩いて調べたり、家中を調ぺたりされて、見つかると、牢屋に入れられたり、拷問を受けたりしました。わたしもそういう光景を見たことがあります。全部供出してしまったら、後は配給になるんです。

 もう一人の高成春(女性)(1996年1月1〜3月、本籍・済州島、現住所・東京、生年月日・1916年10月1日、取材日・菅沼紀子と趙顕洙)さんの証言(p.320)。

 日本人の支配として今でもはっきりと目に焼きついているのは、供出の強制のことだ。芋だとか、豚、牛だとか、何でも持っているものは供出の命令がきて、それに逆らうと殺された。わたしの伯父さん、伯母さんがそうだった。年二回ぐらい、供出を迫られ、良いものは何でも出させられた。わたしの伯母さんの家(お父さんのお兄さんの妻)では警察が10人ばかりやって来て、金目のものから食べ物まで何―つ残らないほど取られてしま った。

(3)土地
 土台となる土地の収奪は東洋拓殖会社(略称は東拓)がやったことも学ぶだろう。併合後の土地調査によって農民に所有地の申告をさせ、日本式の書類に不備があったり申告しない場合、その土地をとりあげる。所有権の設定されていない国有地の農民は代々耕作権をもっていたが、それも取りあげ、これらの土地は日本の国策会社である東拓を設立して吸収した。また日本人地主の小作人への地代、全国民にたいする直接税・間接税の高騰も土地を放棄させる原因となり土地を奪った。日本人が1人移民すると、5人の朝鮮人が流民になった、といわれるほどであった(林えいだい『清算されない昭和』岩波書店、p.24)。

 1910〜35年の間に、日本人所有耕地面積は6万9000町歩から45万2000町歩に6.5倍に増加したし、田面積は4万3000町歩から31万2000町歩に7.3倍、畑面種は2万7000町歩から14万町歩に5.2倍増大した。日帝時代を通じて朝鮮の耕地面積はほとんど変わらなかったので、日本人所有地の急増は朝鮮の耕地に日本人の占める割合が急増したことを意味する。(許粹烈、前掲書、p.296)

(4)課税
 収奪の典型例は英国のインド政策と同じで、課税は徹底していた(朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配・上』青木書店、p.279)。

1 国税──地税、市街地税、営業税、鉱産税、鉱区税、酒税、所得税
2 地方税──地税附加税、市街地税附加税、戸税、家屋税、車輛税、漁業税、不動産取得税、屠場税、屠畜税、市場税
3 府面費──府税(市街地税附加税、所得税附加税、家屋税附加税、車輛税附加税、戸別税、営業税等)
 面費(地税割または市街地税割、漁業割、鉱業割、雑税割、営業割、林野割など)
4 その他──学校費(地税または市街地税附加金、営業割、戸税附加金、家屋税附加金)
 農会費(会費割および地税割)、水利組合費、各種農業組合費

 秋になると、これらの税と借金取りがやってきた。かれらのことを朝鮮農民たちは「鬼」と形容していた。流民にならざるを得ない農民たちは、半島南部のひとたちは主に日本に、北部のひとたちは中国東北に向かった。

(5)金
 また「資源が豊富ではなかった」は「作家」の無知である。
 鉱山資源が豊富だったことは、ウィキペディアの「朝鮮民主主義人民共和国の鉱業」という記事にある。

日本統治時代
 朝鮮半島における鉱業権出願の件数は韓国併合の前年の1909年から急増し、……朝鮮でも1916年に鉱業権の出願数が前年の3.8倍、1917年にはさらにその2倍に増加している。なお、1906年から1919年までの出願件数のうち、日本人は66%を占め、朝鮮人が37%、その他外国人が3%となっている。

 つまり日本人は鉱山資源を求め、「出願」したのだ。朝鮮半島は金の産地として古くから知られていた。

 日本書紀「神代・上」に「素戔嗚尊曰「韓鄕之嶋、是有金銀。……」(すさのをのみことのたまわく「韓鄕(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金(こがね)銀(しろかね)有り。)と(岩波文庫『日本書紀 巻第一』p.100)。ここを中公クラシックス版では「韓郷の島には、金銀が満ちている」と訳している(p.53)。
 文禄・慶長の役で朝鮮に侵攻した加藤清正は、咸鏡道の檜億銀山で銀を製錬し、豊臣秀吉に献上したという。

 「北朝鮮は黄金の国?」という論文(https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/06_01_02.pdf)には次のような記事がある。

 1986年(明治29年)のアメリカ人グループによる平安北道雲山郡下の鉱物採掘権取得後は,ロシア・ドイツ・イギリス・日本・フランス・イタリアが,時のコリア政府に競って申請し,鉱山開発に着手した。

 列強が「競って申請」するほどであったのだ。

 日本のドロボーたちの会話を紹介しよう。『東洋文化研究』2号(2000年3月、学習院大学)に朝鮮総督府の高官であった穂積真六郎(1914〜41年、理財課長〜殖産局長)と大野録一郎(1936〜42、政務総監)がインタビューアーの宮田節子・朴宗根・姜徳相にたいして応えている場面(p.75〜76)。

宮田 それから、先生(大野のこと)の時期になって鉱山なんかで問題になるのは金(きん)の問題がすごく出てきますね。何回も何回も、金の問題。
大野 そうそう。金はまあ非常にね、金はとにかく非常にとれましたね。
穂積 これもだけどね。金に困って、整理したのは田中さんになってからじゃない?
大野 ああ、その、整理したのはあるんですか、あと。それは知りません。私どもの時分はは掘らせたほうだから。「25トンにする」と議会政治で大見得を切ったんだけど、出なかった。
穂積 75トン。
大野 うーん。
富田 そうそう。
朴宗根 日本全体の産金額の何%ぐらいだったんですか、それは。
大野 朝鮮のほうがむしろ多いぐらいだったね。あれは……。
穂積 あれはね。実際に金は多いし、それは産金増産計画というのは朝鮮が75トンにして内地は55トンにするという……。
姜徳相 李承晩が「金を返せ」なんていうことを言っているけど(笑)、金を返せ……。

 奪ったものは他にもあるが、おいおい説明していくつもりだ。「資源が豊富ではなかった……メリットがなかった」という文章には、他人の家をのぞいて盗れるものはないか探っている、戦前の日本人と変らぬ卑しい目付きがある。
 「朝鮮半島は…」ではなく、豊富でないのは日本である。戦争を起せば資源が枯渇することが分かっていたので、「収奪」に行ったのは日本ではないか。なにを勘違いしているのか?