世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2020

第1問
 次の文章は、ルターがその前年に起こった大規模な反乱について1525年に書いた著作の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

  農民たちが創世記1章、2章を引きあいに出して、いっさいの事物は自由にそして[すべての人々の]共有物として創造せられたものであると言い、また私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称してみても、そんなことは農民にはなんの役にもたちはしない。なぜならモーセは、新約聖書においては発言権をもたないからである。そこには私たちの主キリストが立ちたもうて、私たちも、私たちのからだも財産も挙げてことごとく、皇帝とこの世の法律に従わせておられるからである。彼は「皇帝のものは皇帝にかえしなさい」と言われた。パウロもローマ13章において、洗礼をうけたすべてのキリスト者に、「だれでも上にたつ権威に従うべきである」と言っている。(中略)
 それゆえに、愛する諸侯よ、ここで解放し、ここで救い、ここで助けなさい。領民にあわれみを垂れなさい。なしうるものはだれでも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。そのために死ぬならば、あなたにとって幸いである。
(「農民の殺人・強盗団に抗して」『ルター著作集』第1集第6巻より引用。但し、一部改変)

問1 下線部は「農民たち」によって提出された要求を比喩的に説明したものである。具体的にはどのような要求であったか述べなさい。

問2 「聖書のみ」というルターの主張は、各方面に大きな影響を及ぼした。「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような理由で生じたと考えられるか、述べなさい。

第2問
 20世紀中葉において資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を、19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ、第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して論じなさい。(400字以内)

第3問
 次の文章A,Bを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

A (1860年代において、当時の朝鮮の政権と思想的方向性を同じくする)奇正鎮・李恒老は(中略)攘夷論を開陳した。たとえば奇正鎮は、「洋胡」(西洋諸国)と条約を結べば、儒教の道徳や礼制はたちまちに滅び、「人類」(朝鮮の人間)は禽獣となると危機感を表明した。これは、「邪説」を排撃して「正学」(朱子学)を崇ぶという「衛正斥邪」の内容をさらに拡大して、西洋諸国を夷秋(「洋夷」).禽獣であるとして全面的に排斥し、儒教道徳・礼制、それに支えられた支配体制を維持擁護しようとする主張であった。
 西洋諸国を夷狄・禽獣と視るのは[ ① ]意識によるものであった。(中略)西洋諸国は儒教を否定する「邪教」の国であるから、夷狄あるいはそれ以下の存在である禽獣ということになる。

B (1876年に)李恒老の門人の崔益絃は開国反対上流を呈した。崔益絃は条約調印に反対する理由として五点を挙げたが、そのなかには次のような点があった。
 「日本との交易を通じて、『邪学』が広まり、人類は禽獣に化してしまう。」「内地往来・居住を拒めないから、日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行して、人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる。」「人と『禽獣』の日本人とが和約して、何の憂いもないということはありえない。」
 崔益絃の描く日本人像は、奇正鎮の描いた「洋夷」像と何ら異なるところがない。実際に崔益絃は上疏において、倭(日本)と洋は一心同体であるとする「倭洋一体論」を展開した。
(糟谷憲一「朝鮮ナショナリズムの展開」『岩波講座世界歴史20 アジアのく近代>』より引用。但し、一部改変)

問1 [ ① ]は、17世紀の国際関係の変化を受けて高揚した、自国に対する朝鮮の支配層の意識を表す言葉である。これを記しなさい。
問1 [ ① ]意識がいかなるものであり、どのような背景があったのか、また、それが1860〜70年代にどのような役割を果たしたかについて、それぞれ国際関係の変化と関連付けて述べなさい。
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コメント
第1問
問1 課題は「要求を比喩的に説明したものである。具体的にはどのような要求であったか述べなさい」というものです。下線部の「比喩的」とは「いっさいの事物は,自由にそして[すべての人々の]共有物……私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称」という平等を唱えている部分のことらしい。これは「比喩的」と作問者は形容していますが、「農民たち」の声そのままではないかとおもわれます。農民戦争での「12カ条要求」では第三項目に「キリストは自らの血を流して身分の高いもの、低いものの例外なく解放した給うた。われわれが自由であるべきこと、自由であろうと望むことは聖書に合致している。キリスト教徒としてわれわれを農奴の地位から救い出してくれることはとうぜんである」とあります。また4項目の「貧乏人には鹿や野鳥や魚を捕ることが許されないという習慣をなくし、キリスト者として同じ権利を与えること」も、10項目の「かつて村に属していた牧場や耕地(入会地)を個人が占有しているのを、とりもどせること」は共有・平等の要求でしょう。
 「具体的に」とは、上に引用したものの中にありますが、その他に、聖書に基づく社会の根底からの変革を求めて、牧師選任の自由、農奴制・十分の一税廃止、賦役・地代の軽減、共有地の開放などを掲げています。
 

問2 「「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような埋由で生じたと考えられるか」という難問でした。
 「農民たち」が考える「聖書のみ」という文章が理解しにくいですね。「聖書のみ」はルターの主張であり、農民も「聖書のみ」とどこで主張しているのでしょうか? 史料からは分かりません。「12ヶ条」の12項目目に「以上の箇条が聖書の言葉と一致しないものであれば、その箇条は喜んで撤回する」といっていて、農民たちも聖書に根拠がなければ要求を撤回すると表明しています。印刷によって聖書は広く普及し、とくにプロテスタントは教会で聖書を学ぶことをもっとも重要なこととしていて、カトリックのような儀式を軽視しています。聖書を根拠にすることは農民にとっても当然でした。
 ルターの「聖書のみ」はなによりカトリック教会に対抗する主張でした。教皇に教義の決定権があり、かつプロテスタントが認めない聖書以外の外典や教父たちの著作も聖典あつかいしているのに反対しての主張です。
 しかし「農民たち」が考えているのはカトリックであれプロテスタントであれ、領主という経済的・人格的な支配者に対抗して聖書を利用しています。
 ルターはこの「農民たち」の聖書利用はまちがっていると見なしています。「モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」というのは「創世記」から始まる旧約聖書は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5冊を「モーセ五書」といい、新約聖書で語られることとは別のことを書いているのだ、新しい段階・時代に入っているのであり、創世記は適用できない、と。それが「モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」という文章になります。「主キリスト」は「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)に、神のものは神に返しなさい」(マタイによる福音書」22章15〜22節)と「パウロもローマ13章」の「だれでも上にたつ権威に従うべきである」を根拠に農民の抗議と要求を弾圧すべきこととしています。つまり社会的な改革に聖書を適用すべきではない、お上には従いなさい、ということです。それは領主側に立っての物言いです。
 同じ聖書を根拠に、農民は労働の負担を軽くしてくれ、と要求し、ルターは既存の領主による支配体制は変えるべきではない、という対立になりました。これが「相違」です。さらに進んで「刺し殺し、打ち殺し、絞め殺し」とまで言うようになります。
 この相違が現れた理由は史料からは分かりません。教科書を読んでも理由は書いてありません。詳説世界史では「民衆が直接キリストの教えに接することができるようになった。他方、ルターの説に影響をうけたミュンツァーは、農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争(1524〜25年)を指導して、処刑された。ルター自身、最初は農民蜂起に同情的であったが、やがて、これを弾圧する諸侯の側にまわった」と経過だけ書いています。帝国書院の教科書『新選・世界史』は「しかし農民の反乱がトマス=ミュンツアーの指導のもとに急進化すると, ルターは反乱を抑圧するようはたらきかけたとされる」と弾圧の理由を書いています。しかし相違がなぜ生まれたのか、という点までは書いてありません。
 注でも「ルターが農民戦争を抑圧した理由 ルターは,諸侯の保護を受けており,カトリック教会の腐敗に抗議したが,身分制度など、これまでの社会秩序を破壊することには反対だった。したがって,農民戦争が農奴解放など、社会改革の性格をもつようになると、これに反対した」という説明は相違の理由ではなく、弾圧の理由です。
 「相違」は聖書にたいする姿勢の違いです。相違は双方にもともとありませんでした。なぜなら農民戦争が始まり、「12ヶ条要求」を読んだルターは内容に納得して「シュワーベン農民の十二ヵ条に対する平和勧告」を発表し、領主たちに対して搾取と専制を戒めています。ところが、過激化すると弾圧する側に転向します。農民たちはルターの「九十五ヶ条の論題」に急に刺激されて過激になったのでしょうか? そんなことはありません。イギリスでもフランスでも、14世紀の農民反乱が知られていて、ワット=タイラーの反乱の場合はジョン=ボールが「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」と平等が人間の初めからあるのだという思想をすでに持っています。この問題の農民戦争は1524年ですが、ドイツではブントシュー運動といって4回大規模な蜂起がおきていました。1493年、1502年、1513年、1517年です。1513年のときに農民たちは、教会領の分割、一切の貢租の廃止、没収された共同地の返還などを要求しています。宗教改革以前の出来事です。「12ヵ条」の共同綱領を起草したのはメミンゲン市の革なめし職人セパスチァン=ロッツァーでした。彼は職人でありながら、聖書を熟知しており、俗人説教者でした。
 相違が現れたのはルターの変心と言う他ありません。ある予備校の解答に「「農民たち」が現世の利益のみを追求しているとして,諸侯の鎮圧を支持した」と書いたものがありますが、「現世の利益」ではない、あの世の利益をルターは説いたのでしょうか? であれば、ルターが初めに農民に共鳴したことはどうなるのでしょうか? ルターとて農民が苦しい状況にあることは知っています。現世であろうと放置できないはずです。
 ルターが弾圧の理由付けにしたのは運動の過激化であり、要求自体は妥当と思っていたのですから、平穏のほうが大事と考え、お上に従えと命じました。良くいえば平和を求めたためとも言えないことはないです。この変心の理由は、過激化を薦めたミュンツァーたちが「再洗礼派(アナバプテスト)」であったことも理由にできます。かれらの教義(幼児洗礼・三位一体説の否定)がルターにとっては容れられない信仰内容でした。いわば宗派対立です。
 なおルターの信仰義認や万人祭司という説と関連づけた解答例が見受けられますが、この問題とは特に関連があるともおもえない。この信仰内容と教会組織のあり方は農民とルターの間で対立する問題になっていないからです。
 導入文を読むと一見、旧約聖書と新約聖書を根拠にすることの対立のように見えます。「農民たちが創世記1章、2章を引きあい……モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」と。この旧約と新約の対立だと書いた答案例もネットにはあります。しかしパウロが書いた「ローマ人への手紙」3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」という文章があり、信仰義認論の文章として知られているものですが、ここには「差別」はないとハッキリした表現があります。信徒になる前は何人でもいいわけで、義認される者に差別はないのです。この義認は全ての人間に適用できます。神の前の平等はキリスト教の基本理念の一つです。創世記に「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」という文章があるのでなく、これは古くからの信徒たちの解釈です。キリスト教徒は旧約聖書も新約聖書もセットで聖書ととっています。ルターから新約聖書を重んじるようになったという訳でもありません。結局「ローマ人への手紙」から、ルターにとって都合のいい部分、13章から引いてきて弾圧の根拠にした、ということになります。ルターの限界・弱さ・ずる賢さです。
 史料からは旧約と新約の対立として解答しても許容解としなければならないでしょう。それほど受験生に聖書の知識があるとは思えないし、史料文から判断させるのは無理があり、問題自体に疑問が残ります。

第2問
 課題は「20世紀中葉において資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を,19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ,第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して」でした。主問は前半の「資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程」で、副問は「19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ,第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係」です。副問が具体的な史実をあげつつということです。
 「世界史の展開」としてはイギリスの世界覇権、いいかえれば「パクス=ブリタニカ」の形成が「19世紀後半以降」に目立つのであり、その当時はアメリカは専ら「国内の征服」、というよりインディアンの居住地を奪っていく最中で「フロンティア」を西に移住しつつありました。アメリカの太陽は西から昇っていました。その間、イギリスは中国(アヘン戦争・アロー戦争)、インド(第二次シク戦争・大反乱鎮圧・インド帝国)、エジプト(スエズ運河株買収。ウラービー反乱鎮圧)、カージャール朝半植民地化、アフガン戦争・ビルマ戦争(英緬戦争)、南ア戦争と植民地を拡大しています。
 19世紀末になってインディアンの抵抗が終わり、フロンティアが消滅します。同時に世界一の工業国になりました。この「世界一」は鉄鋼製品の元になる銑鉄の生産量で測ります。といってすぐイギリスに代われたのではありません。投資・金融・貿易・海運の面でまだイギリスが世界一でした。この状態は第二次世界大戦の開始までつづきます。南ア戦争のころから20世紀はアメリカの世紀だといわれ始めしたが、それは第一次世界大戦でハッキリしました。イギリスは債務国になり、アメリカが債権国に変わりました。
 戦後の世界はアメリカの経済で持ちこたえました。ドイツへの資金援助(ドーズ案・ヤング案)、この援助で復興したドイツは英仏に賠償金として払いました。これが世界全体で生産過剰のため大恐慌をきたし、ニューヨークから破綻がはじままり、ファシズムを興起させることになりました。ニューディール政策で復興をはかるも十分な復興にならず、第二次世界大戦がアメリカ経済を救いました。ハワイを別にすれば戦場にならず戦後を迎えた合衆国は並ぶもののない経済力をもった資本主義国家として発展することになりました。大戦末期に金ドルを基軸とした世界経済がブレトン=ウッズにおいて成立します。マーシャル=プランを対ソ的に共産主義化防止策として使い、資金を振りまきました。一方のイギリスは植民地の独立があいつぎ世界から撤退するととなり。アメリカの資金援助で生きていく国に転落しました。
 この問題は、東大の過去問(1996-1)にある「パクス=ブリタニカの盛衰」と類似しています。易問でした。

第3問
問1 史料文は19世紀のものであるのに、空欄[ ① ]は,「17世紀の国際関係の変化」を受けて高揚した、「自国に対する朝鮮の支配層の意識」は何か、という問い。つまり西洋諸国を夷狄(「洋夷」)・ 禽獣と視たように、17世紀の明朝に代わった清朝も夷狄と視ました。史料Bの日本は「倭夷」と呼びました。「倭(日本)と洋は一心同体であるとする「倭洋一体論」」となります。
 史料Bの1行目にある「雀益絃は開国反対上流を呈した」の「流」はさんずい偏になっていますが、8行目の「疏」が正しい漢字です。誤字に気がつかなかったようです。正しくは「疋(ひき)」偏です。

問2 課題は、①小中華意識とは何かの説明、②背景、③1860~70年代にどのような役割を果たしたのか、④それぞれ国際関係の変化と関連付けて、という条件が付いています。
 ①この言葉を知らなかったらアウトですが、用語集には頻度6として載っています。「朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという思想。朝鮮の支配層は.清の征服によって中国は「夷秋化」し.明以降の正統な「中華」を守っているのは自分たちだけであると自負した」と説明しています。用語集のこの語句のすぐ上には「夷狄(いてき)」という項目もあり、「中国で周辺諸民族を呼んだ蔑称。文明化されていない.道徳的に劣った人々とみなす考えが.中国知識人のあいだで一般的であった」と。もともと中国で使っていた表現を朝鮮側で中国(清朝)蔑視の表現として使った、ということです。拙著『世界史論述練習帳new』にも「小中華」を指定語句にした筑波大の問題を解説しています。
 満州族という狩猟民を蔑視したのですが、しかし清朝自体も中国支配において儒教・儒学を国家教学として基本に置いている国であり、実施する科挙も儒学の試験であり、李氏朝鮮はこの清朝に家臣として事大の礼をとっているのに、なぜ、という疑問がわきます。元々の中国では夷(野蛮人)に該当する東北地方出身ということが一つ、また清朝の皇帝は自らを満珠菩薩の化身とみなしていることの二つめが問題です。この満珠菩薩であるとの表れは正式な清朝皇帝がみな数珠を首からかけている図で示されています。しかし朱子学を国学とする朝鮮からすれば仏教は邪教とみなします。

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清朝皇帝

 こうしたことから朝鮮だけが純粋中華だ、というわけです。④「国際関係の変化と関連付けて」は明清交代です。朝鮮にとって服属する主人の交代です。もちろん服属といっても何もかも服従するのでなく、外交上の上下関係、君臣関係であって、清朝が朝鮮の内政に干渉することはありません。この「服属」を文字どおり採って朝鮮はずっと中国に従ってきた弱小国だとみるひとたちがいます。今年(2020)の東大の第1問の導入文に「中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた」と書いています。お互いの関係でした。中国にとっては周辺国も中国文化を尊び、皇帝の徳をあがめている、世界の中心である、という満足感があり、朝鮮側はこの中心から承認された正統な君主である、と自国内への権威として利用できました。
 朝鮮半島にとって中国は国境を接する国であり、ときに国境紛争がおきています。しかしいつも敗北していたわけではありません。隋の高句麗遠征は高句麗側の抵抗で敗退しており、唐太宗の侵略も失敗しています。新羅は唐軍を追放して版図を統一しています。その後、負けた唐と「服属」の関係をもちました。「服属」は平和のあり方の一つです。遼金の侵入に対抗した戦いでは高麗が勝利して領土を鴨緑江まで拡大しましたが、外交上は「服属」という和平のかたちです。紅巾軍が入ってきたこともありますが、撃退して李氏朝鮮ができています。16世紀末の秀吉の侵略が失敗したことは誰も知っていることです。後金・清朝とは紛争がおきましたが領土の変化はなく「服属」になりました。

 ②背景として、朱子学を奉ずる支配層である官僚たち、朝鮮半島の場合は両班(ヤンバン)がいます。受験資格は両班の子弟にかぎるという中国とはちがい狭いものにしましたが、かれらが朱子学の大義名分論にしたがって生きることを誇りにしています。この誇りが「小中華」という自己認識、儒学的ナショナリズムを主張する背景です。

 ③年代が「1860~70年代」で、この時期に「どのような役割」と問うています。
 この時期は何より外圧が大きい。このことは「④それぞれ国際関係」でもあります。1860年に北京条約で沿海州を割譲されたロシアの船がたびたび朝鮮半島沿岸に出没するようになります。1866年にフランスの船が江華島を占領したが大院君(高宗の父で実権者)は義勇兵を集めて抵抗しフランス艦隊を退散させています。同年アメリカのシューマン号が大同江をのぼり威嚇しますが、平安道観察使の朴珪寿が火攻で応じて挫いています。アメリカ軍はその後なんども襲撃してきますが朝鮮側の反撃が鋭く断念しています。こうした状況下で大院君は「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国、戒我万年子孫(洋夷が侵犯しているのに、戦わないのであれば和することである。和を主とするのは売国の行いである。このことを万年の子孫に戒める)」と書いた斥和碑を、漢城(ソウル)と全国の都会地に建てさせました(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書)。尚武の武国・日本はアメリカの黒船の威力の前にかなわないと和を認めますが、尚文の文国・朝鮮は、和を嫌い徹底抗戦をしています。
 70年代に他国が失敗した侵略に日本が成功します。井上良馨(よしか)という明治の諸戦に海軍として活躍した男は西郷隆盛の征韓論に共鳴して次のような意見書を政府に出していました。
 「朝鮮はわが国にとても必要な土地である。……朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります。日本の強弱は、朝鮮を日本の領地とするかどうか、この一挙にかかっている。……いま朝鮮は国が乱れている。もしこの天が与えたチャンスをはずしてしまい朝鮮を討たないときは、後々悔やむことになるかもしれない。……このチャンスを深く見抜いて、ぜひ早くご出兵になることを希望します」
 かれが雲揚号の艦長となり、江華島に発砲しながら近づいていくと、朝鮮側も発砲してきたので、挑発に乗ってくれた、しめた、となり上陸して戦闘になり35人を殺し、江華府の大砲・文書を奪っています。ペリーによる平和な日本開国とは違ったものになりました。
 井上良馨は明治8年9月29日に出した報告書では、「①測量および諸事検捜かつ当国官吏工面会万事尋問をなさんと、海兵4名、水夫拾人に小銃をもたらし……②ここへ上陸せんと思えども日もいまだ高いため今少し奥に進み帰路上陸に決し……③すぐに距離試しのため40斤を発すれば八分時を後れて彼よりもまた発砲か」と書いていましたが、10月8日の報告書では「①朝鮮から清国牛荘までの航路研究中に清水の補充を必要と考え、海図に水深の記載がある江華島付近に寄航しようとした。②9月20日、端艇に乗り、江華島の第三砲台(日本側呼称)付近で「此辺に上陸良水を請求せんとし右営門及砲台前を航過せんとするや突然、銃砲で発砲された」と違う内容に書き換えています(『史学雑誌』111巻12号、鈴木淳の論文)。後者では初めはなかった「良水」と書き、「発砲された」と受身で書き直しました。改竄(かいざん)です。
 翌年(1876)8隻の軍艦で威圧して調印させたのが日朝修好条規でした。(1)朝鮮の自主独立、(2)釜山・元山・仁川3港の開港、(3)日本公使館領事館の設置、(4)日本人の領事裁判権、(5)無関税貿易という不平等条約でした。
 この時期、朝鮮は小中華思想で満足し、外圧があれば、それに対して抵抗だけで済ましてきた訳ではありません。魏源の『海国図志』の紹介、中国にも日本にも使節を派遣して近代化を学び、製鉄・兵器工場をつくり、軍制改革・行政改革にとりくんでいました。開化政策といいます。しかし日本の方が一歩先んじていたため、火力の差がつき負けました。時間的なわずかな差が勝敗を決しました。それをものすごく差があるかのように誇張して、遅れた朝鮮を野蛮視したのが明治の日本でした。
 この事件について、日本のヘイトスピーカー福沢諭吉は次のように書いています。

 日本にとって今大事なのは欧米諸国との対応であって、アジア諸国と戦おうと和を結ぼうと名誉にも恥にもならない。朝鮮はアジアの一小野蛮国で、その文明は日本に遠く及ばない、貿易をしても、外交関係を持っても利益はない。たとえ、朝鮮から貢ぎ物を持ってきて日本の属国となると言っても喜ぶに足りない。我が国が欧米諸国を制するのに力にならない。ましてや、戦う意味はない。勝っても栄誉にならないし利益もない。今度の事件(江華島事件)は手足にけがを負った程度の朝鮮は小野蛮国だから、このことで深く心配する必要はない」(全集20巻 p.149)。 

 引用された崔益絃(チェイッキョン)の倭洋一体論は、倭洋双方とも尚武の歴史・伝統をもっているので適切な指摘です。条規を結んだ後の朝鮮半島がどうなるか、日本人が何をしでかすのか崔は透視していました。「日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行して、人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる」は秀吉の侵略のときにすでに経験していることでした。
 こうした日本も夷狄「倭夷」と視たと指摘した解答例は予備校のものに無いのは不思議です。史料Bにしっかり書いてあるのに、そうは書きたくなかった、ということでしょうか。

東大世界史2020

第1問
 国際関係にはさまざまな形式があり、それは国家間の関係を規定するだけでなく、各国の国内支配とも密接な関わりを持っている。近代以前の東アジアにおいて、中国王朝とその近隣諸国が取り結んだ国際関係の形式は、その一つである。そこでは、近隣諸国の君主は中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた。しかし、このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる。
 以上のことを踏まえて、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について、朝鮮とベトナムの事例を中心に、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述しなさい。その際、次の6つの語句を必ず一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。また、下の史料A〜Cを読んで、例えば、「〇〇は××だった(史料A)。」や、「史料Bに記されているように、〇〇が××した。」などといった形で史料番号を挙げて、論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい。

 薩摩 下関条約 小中華 条約 清仏戦争 朝貢

史料A
 なぜ、(私は)今なお崇禎(すうてい)という年号を使うのか。清(しん)人が中国に入って主となり、古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。その東方の数千里の国土を持つわが朝鮮が、鴨緑江を境として国を立て、古代の聖王の制度を独り守っているのは明らかである。(中略)崇禎百五十六年(1780年)、記す。

史料B
 1875年から1878年までの間においてもわが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した。そのような使節団を3年ごとに北京に派遣して清に服従の意を示すのが、この宮廷の慣習であった。

史料c
 琉球国は南海の恵まれた地域に立地しており、朝鮮の豊かな文化を一手に集め、明とは上下のあごのような、日本とは唇と歯のような密接な関係にある。この二つの中間にある琉球は、まさに理想郷といえよう。貿易船を操って諸外国との間の架け橋となり、異国の珍品・至宝が国中に満ちあふれている。


第2問
 異なる文化に属する人々の移動や接触が活発になることは、より多様性のある豊かな文化を生む一方で、民族の対立や衝突に結びつくこともあった。民族の対立や共存に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 大陸に位置する中国では、古くからさまざまな文化をもつ人々の間の交流がさかんであり、民族を固有のものとする意識は強くなかった。しかし、近代に入ると、中国でも日本や欧米列強との対抗を通じて民族意識が強まっていった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について、2行以内で記しなさい。

 (b) 清末には、漢民族自立の気運がおこる一方で、清朝の下にあったモンゴルやチベットでも独立の気運が高まった。辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて、3行以内で記しなさい。

問(2) 近代に入ると、西洋列強の進出によって、さまざまな形の植民地支配が広がった。その下では多様な差別や搾取があり、それに対する抵抗があった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。
 

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 (a) 図版は、19世紀後半の世界の一体化を進める画期となった一大工事を描いたものである。その施設を含む地域は、1922年に王国として独立した。どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを4行以内で記しなさい。

 (b) オーストラリアは、ヨーロッパから最も遠く離れた植民地の一つであった。現在では多民族主義・多文化主義の国であるが、1970年代までは白人中心主義がとられてきた。ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを、2行以内で記しなさい。

問(3) 移民の国と言われるアメリカ合衆国では、移民社会特有の文化や社会的多様性が生まれたが、同時に、移民はしばしば排斥の対象ともなった。これに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えなさい。

 (a) 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要を、3行以内で記しなさい。

 (b) アメリカ合衆国は、戦争による領土の拡大や併合によっても多様な住民を抱えることになった。このうち、1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯について、2行以内で記しなさい。

第3問
 人間は言語を用いることによってその時代や地域に応じた思想を生みだし、またその思想は、人間ないし人間集団のあり方を変化させる原動力ともなった。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 古代ギリシアの都市国家では、前7世紀に入ると、経済的格差や参政権の不平等といった問題があらわになりはじめた。ギリシア七賢人の一人に数えられ、前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者に選ばれて、さまざまな社会的・政治的改革を断行した思想家の名を記しなさい。

問(2) この思想集団は孔子を開祖とする学派を批判し、人をその身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える一方で、指導者に対して絶対的服従を強いる結束の固い組織でもあった。この集団は秦漢時代以降消え去り、清代以後その思想が見直された。この思想集団の名を記しなさい。

問(3) キリスト教徒によるレコンキスタの結果、イスラーム教勢力は1492年までにイベリア半島から駆逐された。その過程で、8世紀後半に建造された大モスクが、13世紀にキリスト教の大聖堂に転用された。この建造物が残り、後ウマイヤ朝の首都として知られる、イベリア半島の都市の名を記しなさい。

問(4) 10世紀頃から、イスラーム教が普及した地域では、修行などによって神との一体感を求めようとする神秘主義がさかんになった。その後、12世紀頃から神秘主義教団が生まれ、民衆の支持を獲得した。その過程で、神秘主義を理論化し、スンナ派の神学体系の中に位置づけるなど、神秘主義の発展に貢献したことで知られる、セルジューク朝時代に活躍したスンナ派学者の名を記しなさい。

問(5) 華北では金代になると、道教におけるそれまでの主流を批判して道教の革新をはかり、儒・仏・道の三教の融合をめざす教団が成立した。これは華北を中心に勢力を広げ、モンゴルのフビライの保護を受けるなどして、後の時代まで道教を二分する教団の一つとなった。この教団の名を記しなさい。

問(6) アラビア半島で誕生したイスラーム教は西アフリカにまで広がり、13世紀以降には、ムスリムを支配者とするマリ王国やソンガイ王国などが成立し、金などの交易で繁栄した。両王国の時代の中心的都市として知られ、交易の中心地としてだけではなく、学術の中心地としても栄えたニジェール川中流域の都市の名を記しなさい。

問(7) 清代に入ると、宋から明の学問の主流を批判し、訓詰学・文字学・音韻学などを重視し、精密な文献批判によって古典を研究する学問がさかんになった。この学問は、日本を含む近代以降の漢字文化圏における文献研究の基盤をも形成した。この学問の名を記しなさい。

問(8) 19世紀半ば頃イランでは、イスラーム教シーア派から派生した宗教が生まれ、農民や商人の間に広まった。この宗教の信徒たちは1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名を記しなさい。

問(9) アダム=スミスにはじまる古典派経済学は19世紀に発展し、経済理論を探究した。主著『人口論』で、食料生産が算術級数的にしか増えないのに対し、人口は幾何級数的に増えることを指摘して、人口抑制の必要を主張した古典派経済学者の名を記しなさい。

問(1O) 19世紀から20世紀への転換期には、人間の精神のあり方について、それまでの通念を根本的にくつがえすような思想が現れた。意識の表層の下に巨大な無意識の深層が隠れていると考え、夢の分析を精神治療に初めて取り入れたオーストリアの精神医学者の名を記しなさい。
………………………………………
第1問
 東大としては分かりやすい問題を出題しました。一橋の過去問(2015-3)に引用文の後に「問い 下線①皇帝の名前(乾隆帝)を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明しなさい。(400字以内)」という課題があり似ています。東大の場合は「対外関係の特徴」はすでに導入文に書いてあり、むしろ「崩壊過程(変容)」を「朝鮮とベトナムの事例を中心に」という点が違っています(なお一橋は1998年にも類題を出題していて、これは拙著『世界史論述練習帳new』でも解説しています。p.48)。
 導入文に異議を唱えるひともいそうです。「皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない」という部分です。あるテレビに出演した予備校講師が「朝鮮は歴史において主体性をもったことは一度もない」という趣旨のことを語っていました。「現実と理念」という言い方をこの導入文はしていますが、この講師は「現実と理念」を混同していて、理念が現実(この場合は史実でも可)に勝った見方をしています。なんのことはない、この講師は韓国・朝鮮にたいする蔑視観で歴史を語っているヘイトスピーカーです。
 指定語句の「朝貢」は、そのまま朝貢関係・朝貢貿易という語句でも使用するように、外交上、中国皇帝を上にして周辺国が「臣下の礼をとる形で関係を取り結んだ」のです。儀礼的な関係です。中国皇帝は世界における唯一無二の「天子」という存在であり、天子の恩恵と周辺国君主たちの服従という相互関係は、下賜(かし)と朝貢という儀式的な授受の形をとりました。
 朝貢を政治的な言い換えとして、冊封体制といいます。皇帝から周辺国の君主は自分の地位(官爵、爵位、官号)、国土を認めてもらい、印綬される場合もあります。中国本土は中央集権で支配し、周辺国の支配は印綬した君主に任せる、という前漢・後漢が実施した郡国制の国際版です。
 京都・東山に妙法院という寺があり、ここに明官服類と呼ぶ秀吉が明朝から下賜された服装とその他もろもろの礼服があります。これは明朝使節と会見するために明朝側が用意した服装です。家臣の立場をとらせる儀式のために、「君主」側が家臣のために着るものを用意し、会見のさいにはこれを着てこいという世話のやき過ぎではないか、とおもえる儀礼の重視です。これは朝鮮侵略(壬辰倭乱)が明軍の援軍により三国戦争に発展し、講和をするために明朝側から秀吉を日本国王と認める(冊封する)ために、1596年9月、明の使者(楊方亭・沈惟敬)が大坂城におもむいた出来事です。秀吉に会い、勅諭の伝達、国王としての金印と冠服を授けます。翌日、この冠服を着て明使との饗宴に臨みますが、明使が「なんじを封じて日本国王となす」と告げるだけで、秀吉の願いは無視されたため激怒し講和は決裂した、と伝えられています。「願い」とは、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮王子を人質に、明朝皇女を天皇の妃に、といった横暴なものです。なおこの際、秀吉以外にも配下の徳川家康が都督、毛利輝元・上杉景勝が都督同知、前田玄以が都督検事に任命されており、同じように冠服を授かっています。秀吉のような対決姿勢では儀礼的な外交関係は無理でした。刀を振り回してきた猿が仰々しい礼服を着ても似合いません。
 
 時間が「15世紀頃から19世紀末」で、主問は「アジアの伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容」、副問は「朝鮮とベトナムの事例を中心に」でした。
 「近代における変容」とは19世紀の変容とおなじです。18世紀、いや19世紀の前半までつづいた「伝統的な国際関係」は、どう変化したかという問いでした。
 朝鮮の事例は、史料Aに「古代の聖王の制度は彼らのものに変えられてしまった。……わが朝鮮が、……古代の聖王の制度を独り守っている」と儀礼の外交を続けながらも、17世紀に相手が明朝から清朝に変わったため、指定語句の「小中華」思想をもつようになります。夷秋化した中国の清朝も儒教を尊重するものの、皇帝たちは満珠菩薩の生まれかわりと自己認識をしていて、朝鮮からすれば朱子学でない仏教は邪教とみなします。中国の支配者が清朝に代わっても「聖王の制度」の使者として、日本には通信使を送り、中国文化の正統な継承者として中国文明を教えにきました。近代になると、西洋は洋夷であり、日本も倭夷と見なします。これらの夷(野蛮人)に対して自己を守るありかたを「衛正斥邪」と呼びました。
 これらは理念面での説明です。現実は指定語句「下関条約」にあるように、日清戦争という侵略行為があり、その前に江華島事件と日朝修好条規もあります。もちろん「15世紀頃から」なので遡って14世紀末にできた李氏朝鮮が明朝との関係について言及してから、日本との関係にもってきます。
 中国では紅巾の乱が背景となって明朝が成立しましたが、紅巾軍は高麗時代の朝鮮領内にも入り、1362年に開城を陥落させたこともあり、この紅巾軍を追撃して李成桂が台頭します。李成桂は朱子学を奉じ、明朝とは朝貢関係を築きます。上に書いた秀吉の侵略のさいは明軍の援助を受けることで国土の保持になりましが、やたら食糧を請求する明軍に悩まされ、「援軍」だったかどうか怪しいらしい。李朝は北京に朝貢使を派遣し、大きな見返りを得ました。中国王朝への朝貢は、中国側が倍返ししてくれるので経済的利益が大きいので止められない。
 清朝を名のる前の女真族・後金のさいは、伉礼(こうれい、対等の礼)による交隣関係でしたが、清朝と改称して中国を支配すると事大の礼をとります。ホンタイジが鴨緑江を越えて、国王は江華島に逃げたが、降伏して事大の礼をとることになりました(1636)。領土を奪われてはいないものの、君臣関係という和平のかたちをとりました。朝鮮ではこれを「丙子胡乱」と呼んでいます。「胡」ですから蔑視表現です。これから毎年、北京に燕行使という朝貢の使節を派遣することになりました。
 この儀礼関係を破壊したのが明治日本でした。「朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります」と意見書を出していた井上良馨が雲揚号艦長となって朝鮮を挑発し、江華島を占領しました。水の補充は後になって国際的非難を避けるための言い訳でした(『史学雑誌』111巻12号 鈴木淳の論文)。つづく武力の脅威を背景に日朝修好条規(江華条約)を結ばせます。そこには「朝鮮の自主独立」が書いてありますが、これは清朝から離す意図と、日本がコントロールしたいという二重の意図が込められています。
 この段階から「条約関係」というヨーロッパで成立した主権国家同士の関係が東アジアにも波及した、と解答しているものがあります(S,T予備校)。教科書(『現代の世界史A』p.110)でも、アヘン戦争のところで「東アジアの各地域は外国の圧力のもと、1870年代頃までにいわゆる「開国」をおこなって、新しい条約体制へと移行していった」と書いています。条約関係であれ条約体制であれ、これは対等な国家同士の関係を表す表現としては頷けるものの、アジアと欧米列強との関係を説明する場合にはふさわしい語句とはおもえません。この時期の関係をつくったのは武力・暴力であり、城壁だけでなく人間も粉砕する火力・砲弾です。もちろんこの時期ではない時期も戦争はありますが、これほどの圧倒的な力の差がなく、全土を占領するところまで行かなければ共存の道、すなわち兄弟か君臣かの関係を結んで和平にいたりました。こうした関係が許されない、支配か被支配かのどちらかしかない関係が迫られました。条約関係という語句が示唆する対等な国家同士というイメージからは隔たったすがたです。条約調印を迫られた国にとっては必ず不平等条約でした。対等なんてありません。植民地化です。帝国は被征服地を隷属させ、その資源を奪う野獣になります。なぜこういう語句を安易に使うのか? 欧米と中国の関係は南京条約(1842)から不平等条約撤廃の1943年まで主権国家同士の対等な条約関係ではありませんでした。

 しかし出題者側の意図は指定語句に「条約」を加えているので、上で否定した考えで出しているだろう、とは推理できました。
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400138205.pdf
「地理歴史(世界史)」の出題意図に「理念上階層的な関係である朝貢・冊封関係が、形式上は対等な主権国家間で結ばれる条約(不平等条約を含む)や近代国際法に基づく関係に取って代わられる過程」と。

 理念上階層的な関係である朝貢・冊封関係が、形式上は対等な主権国家間で結ばれる条約(不平等条約を含む)や近代国際法に基づく関係に取って代わられる過程を史料と結びつけながら説明することを求めました。

 しかしこの考えを改めなくてはならないですね。出題者側に対して言っていることです。この時期に「対等」はないのですから。
 日清戦争でも日本側の行動は暴力的でした。甲午農民戦争が全州和約で終息したため、日清両軍の派兵は無意味になり、そのため内政改革を求めることにしましたが、清朝は内乱は鎮静し、内政改革は朝鮮政府の仕事であるから日本軍は撤退せよ、と求めてきました。それに対する日本側の対応は開戦の決定でした。王宮を占領して国王捕虜とし、清軍追放を日本に依頼させるという工作をします。国王は中立宣言をしますが、無視して仁川の清朝海軍の攻撃をはじめ上陸します。秋になって農民は日本軍にたいして再蜂起します(第二次農民戦争)。遼東半島にも進撃して旅順虐殺事件もおこしました。台湾に関しては、下関条約で認められても、その時点では台湾は台湾民主国独立宣言を出していましたが、これに樺山資紀(すけのり)が戦闘をいどみ日本領にしてしまいました。台湾征服戦争と呼ばれます。台湾人1万4000人が殺害されました。下関条約でも朝鮮の「独立」が書かれますが、日本軍の駐留する下では無意味になります。儀礼外交は砲弾によって破られ支配─被支配の関係に変容しました。
 
 史料Bは「わが国(フランス)の総督や領事や外交官たちの眼前で、フエの宮廷は何のためらいもなく使節団を送り出した」という部分に、ベトナムでは従来の朝貢関係が維持されていたことを示しています。この儀礼外交の時期が「1875年から1878年」とあるので、清仏戦争(1884〜85)が待っています。それまで、つまり15世紀の中越関係をたどれば、黎朝大越(1428〜1789)も明朝に服属し、西山朝(1773)を経て、阮朝(1802)も服属しました。阮朝成立に貢献したフランスが仏越戦争に勝利してサイゴン条約(1862)、そしてユエ条約(1883、1884)を結んで獲得すると、清朝が宗主権を唱えて清仏戦争に発展しました。結果、敗北した清朝は天津条約でフランスの宗主権を認めた、ということになります。教科書的な話ではないのですが、「戦争(清仏戦争)全体は必ずしも負けていたわけではないのに、李鴻章は清朝のために自分の郷勇を使いたくなく、「負けたことにしてくれ」とフランスに頼み、和平に走りました。日本の朝鮮半島への圧力が強くなっていたことも背景として存在しました」と拙著『センター試験・各駅停車』で書いてます。清朝の強さの理由は、洋務運動の効果が現れていた、といわれます。事情はどうあれ、ここに仏領インドシナ連邦が成立します(1887〜1945)。

 史料cでは琉球が朝鮮・明朝・日本と関係していたこと、そのうち明朝・日本との関係を指して「二つの中間」と両属関係であったことも示しています。位置的にも「諸外国との間の架け橋」であると貿易立国であることを書いています。2016年に沖縄教育委員会は、ローマ帝国(3〜4世紀)とオスマン帝国(17世紀)の金属製の貨幣(コイン)計5点(ローマが4点)が出土したと発表しました。古くからの貿易立国であることが証拠だてられました。
 ここに日本の暴力が加わります。1609年、薩摩藩の島津氏が約3000名の兵を率いて奄美大島、ついで沖縄本島に上陸し、首里城に進軍しました。琉球側は抵抗したが敗れます。この時の戦いは山下文武『琉球軍記薩琉軍談』(南方新社)に「鉄砲三百挺が一度に打ち続けたところ百千の雷が一度に落ちたかのように黒煙は天をおおい音は地に轟き渡った」と攻撃のようすを描いています。抵抗する琉球側の部将のことばも記されていて、「賤奴がいわれもない戦を起し、当国へ乱入してきた事は憎きに余りあることだ。琉球国で万夫不当と言われた私が、将軍千戸候泰物という者である。倭賊の奴等に手並を見せて仕わそう」と。ここに日本・薩摩を「賤奴」「倭賊」と蔑視した表現がつかわれています。首里を訪れると赤い「守礼門」という竜宮城の門のようなものが建っていて門の上に「守禮之邦」と大書してあります。平和にくらしてきた琉球のひとたちが、乱世の戦場を勝ち抜けてきた尚武の日本国と戦うには、その武器と残忍性に勝てる訳がありません。平和に生きる生き方の一つが禮(礼)を尊び、礼を交わし、尚文であった琉球。それと日本とでは対照的でした。この日本の尚武の観念、いいかえれば「強い男」を発揮せねばならない、攻撃的であれ、暴力をエスカレートせよ、という理念は20世紀までつづきました。東條英機の『戦陣訓』(1941)には「尚武の伝統に培(つちか)ひ、武徳の涵養(かんよう)、技能の練磨に勉むべし」と。いや21世紀にも陸上自衛隊のエンブレムを見れば継承されていて、かれらが何を誇りにしているかは、刀が示しています。
https://www.mod.go.jp/gsdf/about/mark/index.html
 さて薩摩に攻められて以降、琉球王国は薩摩藩への貢納を義務づけられ、江戸に使節を派遣しなければならなくなりました。その後、明朝に代わった清朝にも朝貢をつづけ、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を発展させました。
 また19世紀にはアメリカと琉米条約 (琉球米国修好条約、1854)をペリーと結んでおり、フランスと琉仏修好条約(1855)を、オランダと琉蘭修好条約(1859)を締結しています。琉球王は初め条約締結を拒否しましたが、日米和親条約の締結を知りペリーの要求を受け入れることにしました。アメリカ議会は翌年これを批准しており、正式に独立国としての扱いをしました。しかし3条約とも明治政府が没収します(1874)。この没収ももちろん武力によります。琉球処分官の松田道之が約600人の兵で、首里城の明け渡しを要求し、琉球藩の廃止して沖縄県の設置を強行しました。

 課題が「朝鮮とベトナムの事例を中心に」と副問にありながら、史料cも含めて「論述内容の事例として、それぞれ必ず一度は用いなさい」とあり、二つ以外も挙げていいとしています。琉球だけでなく、清朝と周辺国との関係は儀礼的な関係としては理藩院が管轄した蒙古・青海・西蔵(チベット)・新疆の4藩部があり、これらも間接統治地域でありそれぞれの首長を認可して、清朝の官職を与えて自治を許した点は儀礼的な関係です。蒙古ではジャサク、回部ではベグ、西蔵ではダライ=ラマかパンチェン=ラマの従来からの支配認め、中央では理藩院をおいて管轄したとしても、基本的に不干渉主義でした。合格者の再現答案では、トルキスタンのことを書いていますが(→こちら)、琉球と同様に中国がかかわったところは書いてもいいのです。

第2問
問(1)(a) 「漢の武帝の時代、中国の北辺の支配をめぐり激しい攻防を繰り返した騎馬遊牧民国家の前3世紀末頃の状況について」という時間のずれた問いです。武帝は前141〜前87年のひと。つまり前2世紀後半から前1世紀にかけての皇帝です。しかし問いは「前3世紀末頃」とあり、これだと冒頓単于と前漢の建国者・劉邦の対立があった時代です。始皇帝が死んで1年目に陳勝呉広の乱がおき、同年に冒頓単于が即位します(前209年、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂「陳勝・冒頓はブ2レ0ーク9」)。父(頭曼単于──書けなくていい)を殺して蒙古の支配者となり、内蒙・東北にいた東胡や敦煌の月氏など黄河の北・西にいた部族を制圧し、オアシス都市を支配下におきました。劉邦はこれを撃つべく派兵したものの包囲されて危機に陥り、兄弟の関係を結んで和平としました。兄が冒頓単于です。これは白登山の戦いといわれるものです(前200)。

 (b)「辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて」……盲点をついたような問題です。
 教科書(詳説)では「中華民国は、清朝の領有していた漢・満・モンゴル・チベット・ウイグルの諸民族が居住する地域をその領土としたが、辛亥革命を機に周辺部では独立に向かう動きがおこり、1911年には外モンゴルが独立を宣言し、13年にはチベットでダライ=ラマ13世が独立を主張する布告を出した。しかし24年にソヴィエト連邦の影響のもとモンゴル人民共和国を成立させた外モンゴルをのぞき、その他の地域は中華民国のなかにとどまった」と書いています。

問(2)(a) 図版は「19世紀後半……その施設を含む地域は、1922年に王国として独立」とあるのでスエズ運河が推理できます。課題は「どこで何が造られたかを明らかにし、その完成から20年程の間のその地域に対するイギリスの関与とそれに対する反発とを」で易問でした。完成は1869年でアメリカの大陸間鉄道と同年(『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「運河・鉄道で、ひと1は8ロ6ケ9ット」)です。この運河の株買収と反発したウラービー(オラービー)の乱(1881)があり、イギリス軍に鎮圧されます。

 (b) 課題は「オーストラリア……ヨーロッパ人の入植の経緯と白人中心主義が形成された過程とを」です。経緯も過程も流れです。クックの到達(1770)、その後は英領の流刑植民地(1788)、先住民のアボリジニ(アボリジナル・オーストラリアン)を虐殺・追放して牧羊地を広げ、金鉱発掘(1850年代)もあり、白人たちの入植が増加し、オーストラリアを白人で独占する方針、すなわち先住民とアジア系移民を制限する白豪主義を採ります(1870年代〜1970年代)。なおアボリジニもアメリカのインディオと同様に西欧人の到来で主に天然痘に免役がなく人口大減少(90%)がおきました。白豪主義というオーストラリア型のアパルトヘイト政策について、2008年にオーストラリア政府はアボリジニに謝罪をしました。
https://www.afpbb.com/articles/-/2350297

問(3)(a) 課題は「1920年代のアメリカ合衆国では、移民や黒人に対する排斥運動が活発化した。これらの運動やそれに関わる政策の概要」でした。移民排斥運動としては、イタリア人移民への差別事件としてサッコ・ヴァンゼッティ事件(1927年死刑)があり、KKK(産経ではなく、クークラックスクラン)による黒人リンチ、日本人漁業禁止令や児童の修学拒否・隔離・転校強制などがあります。政策としては、移民法(1924)があり、南欧・東欧系の移民割り当て(第一次世界大戦前の80%削減)、アジアからの移民は全面禁止でした。

(b)課題は「1846年に開始された戦争の名、およびその戦争の経緯」でした。年代は米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)を示しています(『世界史年代ワンフレーズnew』語呂「米が墨を、一1番8白46くする」)。すでにスペインから独立している白人の国を白人の合衆国が「膨張の天命(明白な使命)」と唱えて征服します。経緯としては10年前にメキシコ領に合衆国市民が入って独立宣言をし、1845年に合衆国が併合してしまう、という暴挙に、国境の川をめぐる争いから戦争に発展しました。合衆国が勝ち、グアダルーペ・イダルゴ条約を結び、すでに取っているテキサスとともにカリフォルニア、ニューメキシコ(さらにワイオミング、ネバダ、ユタ、アリゾナ、コロラドの大半)も取りました。

第3問
問(1) 「前6世紀初頭のアテネで貴族と平民の調停者」とあればソロン。
問(2) 「身分や血縁に関係なく任用しかつ愛するよう唱える」とあれば兼愛を唱えた墨家。
問(3) 「後ウマイヤ朝の首都」コルドバ。
問(4) 「神秘主義を理論化……スンナ派学者」は少々細かいがガザーリー。
問(5) 「金代になると、……道教の革新」とあれば全真教。「全真教」はいつできた? 「金真教」とおぼえる。
問(6) 「中心的都市……ニジェール川中流域の都市」はトンブクトゥ。
問(7) 「精密な文献批判によって古典を研究する学問」は考証学。問(2)の墨家を発見した。
問(8) 「1848年にカージャール朝に対して武装蜂起したが鎮圧された。この宗教の名」はバーブ教(『世界史年代ワンフレーズnew』』「ハーブ、一葉四葉」)。
問(9) 「主著『人口論』」ならマルサス。
問(1O) 「夢の分析」とあればフロイト。それまでヒステリーは女性特有の病気とみなしていたのですが、第一次世界大戦が終わって帰国した兵士たちの異様な行動を観察して、男性もヒステリーにかかることを見つけます。当時は Shell Shock (戦争後遺症、砲弾ショック、戦場ショック、戦争神経症) と呼ばれた症状です。今ならPTSD(心的外傷後ストレス障害)と表現するもの。帰還兵の症状は下の動画で見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=IWHbF5jGJY0
 日本人もこの症状はあり、NHKの「ETV特集 アンコール「隠されたトラウマ〜精神障害兵士8000人の記録」
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259620/index.html
は日中戦争での実状を千葉県の国府台陸軍病院・国立下総療養所と中国・太原の陸軍病院の記録と映像で詳説しています。数が数えられない知的障害者を500人も徴兵しました。狂った日本軍のすがたです。

京大世界史2020

世界史B (4問題100点)
第1問 (20点)
 6世紀から7世紀にかけて、ユーラシア大陸東部ではあいついで大帝国が生まれ、ユーラシアの東西を結ぶ交通や交易が盛んになった。この大帝国の時代のユーラシア大陸中央部から東部に及んだイラン系民族の活動と、それが同時代の中国の文化に与えた影響について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(28)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A ムスリムと非ムスリムとは、史上、様々に関わり合ってきた。ムスリムと非ムスリムとのあいだには、様々な形態の、数多(あまた)の戦争があった。ムスリム共同体(ウンマ)は、預言者ムハンマドの指揮のもと、彼の出身部族である[ a ]族の多神教徒たちと戦った。正統カリフ時代には、アラビア半島からシリアヘ進出したのち、東は(1)イラク、イラン高原、西は(2)エジプト、北アフリカヘ侵攻し、各地で非ムスリムの率いる軍と干戈(かんか)を交えた。その後も、イスラーム世界のフロンティアで、ムスリムと非ムスリムの政権・勢力間の戦いが度々起こった。たとえば、現在のモロッコを中心に成立した[ b ]朝は、11世紀後半に(3)西アフリカのサハラ砂漠南縁にあった王国を襲撃、衰退させたうえ、イベリア半島でキリスト教徒の軍をも破った。19世紀、(4)中央アジアのあるムスリム国家は、清朝への「聖戦」を敢行した。また、非ムスリムの率いる軍が(5)ムスリムの政権・勢力を攻撃」した例も数多い。
 ただし、ムスリムの政権・勢力は、常に非ムスリムを敵視・排除してきたわけではない。たとえば、初期のオスマン家スルタンたちは、キリスト教徒の君主と姻戚関係を結んだり、キリスト教徒諸侯の軍と連合したりしながら(6)バルカン半島の経略を進めた。その際の敵対の構図は、ムスリム対キリスト教徒という単純なものではなかった。また、16世紀以前のオスマン朝では、君主がムスリムでありながら、重臣や軍人の中に、(7)キリスト教信仰を保持する者が大勢いた。
 ムガル朝では、第3代皇帝アクバル以来、ムスリム君主のもと、非ムスリムに宥和的な政策が採られ、(8)ムスリムのみならず非ムスリムの一部の有力者も、配者層のうちに組み込まれた。彼らは、位階に応じて、俸給の額と、維持すべき騎兵・騎馬の数とを定められた。しかし、第6代皇帝アウラングゼーブは、非ムスリムにたいして抑圧的になり、ヒンドゥー教寺院の破壊さえ命じたと言われる。ただし、一方で彼は、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院群である(9)エローラ石窟を、神による創造の驚異のひとつと称賛した。のち、イギリス統治下のインドでは、(1O)ムスリムと非ムスリムとが協力して反英民族運動を展開することもあった。
 ムスリムと非ムスリムとが盛んに交易を行ってきたことも、両者の交流を語る上で見逃せない。ムスリム海商は、8世紀後半には南シナ海域で活動していたといわれる。9世紀半ばに書かれたアラビア語史料によると、ムスリム海商たちのあいだで、現在の(11)ベトナムは当時、良質の沈香(じんこう)を産することで知られていた。ムスリム海商の活動は、やがて(12)東南アジアにおけるイスラーム化を促した。
 ムスリムと非ムスリムとのあいだには、イスラーム化以外にも、多様な文化的影響があった。イスラーム教とヒンドゥー教との融合によって(13)スィク(シク)教が創始されたことは、その一例である。ムスリムと非ムスリムとは、宗教を異にするが、いつも相互に排他的であったわけではない。その交渉の歴史は、今日の異文化共生を考えるためのヒントに満ちている。


(1) 当時この地に都を置いていた王朝は、642年(異説もある)に起きたある戦いでの敗北によって、ムスリム軍への組織的抵抗を終え、事実上崩壊した。その戦いの名称を答えよ。
(2) この地には、ファーティマ朝時代に創設され、現在はスンナ派教学の最高学府と目されている学院が存在する。この学院が併設されているモスクを何というか。
(3) この王国は、ニジェール川流域産の黄金を目当てにやって来た、地中海沿岸のムスリム商人との、サハラ縦断交易で栄えた。この王国の名称を答えよ。
(4) この国家は後にロシアによって保護国化ないし併合されてロシア領トルキスタンを形成することになるウズベク人諸国家のうち、最も東に位置した。この国家の名称を答えよ。
(5) 2001年、アメリカ合衆国は、当時アフガニスタンの大半を支配していたムスリム政権が、同時多発テロ事件の首謀者を匿(かくま)っていたとして、同政権を攻撃した。この首謀者とされた人物の名前を答えよ。
(6) 19世紀、オスマン朝は、バルカンの領土を次々に失っていった。1878年にはセルビアが独立した。この独立は、オーストリア=ハンガリー帝国やイギリスなどの利害に配慮して締結された、ある条約によって承認された。この条約の名称を答えよ。
(7) オスマン帝国内に居住するキリスト教徒は、自らの宗教共同体を形成し、納税を条件に一定の自治を認められた。このような非ムスリムの宗教共同体のことを何と呼ぶか。
(8) この支配者層を何と呼ぶか。
(9) この石窟の北東にある、アジャンター石窟には、特徴的な美術様式で描かれた仏教壁画が残る。その美術様式は、4世紀から6世紀半ばに北インドを支配した王朝のもとで完成された。この美術様式のことを何と呼ぶか。
(10) この運動の一方を担った全インド=ムスリム連盟の指導者で、後にパキスタン初代総督を務めた人物は誰か。
(11) 9世紀にベトナム中部を支配していたのは何という国か。
(12) 東南アジアをはじめ、ムスリム世界の辺境各地で、イスラーム化の進展に寄与した者としては、ムスリム商人のほか、「羊毛の粗衣をまとった者」という意味の、アラビア語の名称で呼ばれた人々を挙げることができる。彼らは、修行を通じて、神との近接ないし合一の境地に達することを重んじた。このような思想・実践を何と呼ぶか。
(13) この宗教の創始者は誰か。

B 現在、中国の海洋への軍事的進出はめざましい。中国における近代的な海軍の構想は(14)林則徐や魏源らに始まる。林則徐は「内地の船砲は外夷の敵にあらず」と考え、敵の長所を知るために西洋事情を研究した。彼の委嘱により『海国図志』を編集した魏源は、西洋式の造船所の設立と海軍の練成を建議している。
 彼らの構想がただちに実を結ぶことはなかったが、(15)太平天国軍と戦うために
(16)郷勇を率いた曾国藩左宗棠、李鴻章は、新式の艦船の必要性を認識していた。左宗棠の発案により(17)福州に船政局が設立され軍艦の建造に乗り出す一方、船政学堂が開設され人材の育成に努めた。西洋思想の翻訳者として後進に大きな影響を及ぼした(18)厳復もこの学校の出身者である。
 しかし、日本の台湾出兵後にも、(19)内陸部と沿海部のいずれを優先するかという論争が政府内に起きたように、海防重視は政府の共通認識にはなっていなかった。
 そうしたなかで、李鴻章は海軍の重要性を主張し、福州で海軍が惨敗した(20)清仏戦争を経て、1888年に(21)威海衛の地に北洋海軍を成立させた。北洋海軍は(22)外国製の巨艦の購入によって総トン数ではアジア随ーとなり、日本、朝鮮、(23)ロシアなどに巡航してその威容を示した。
 しかし、その一方で軍事費の一部が(24)アロー戦争で廃墟となった庭園の再建に流用され、また政府内には北洋海軍の創建者である李鴻章の力の増大を恐れる者もあって、軍艦購入は中止された。
 そして、(25)日清戦争により、北洋海軍は潰滅した。海軍はやがて再建されて、(26)民国期へと受け継がれ、その存在は国内政局に影響を与えたが、かつての栄光を取り戻すことはなかった。
 1949年に誕生した中国人民解放軍海軍は1950〜60年代に中華民国と台湾海峡で戦い、1974年には西沙諸島(パラセル諸島)で(27)ベトナム共和国と戦った。さらに、1980年には大陸間弾道ミサイルの実験にともなって南太平洋まで航海し、2008年には(28)ソマリア海域の航行安全を確保するために艦船を派遣するなど、アジアの海域や遠洋においてその存在感を高めている。
 現在の人民解放軍海軍にとって、北洋海軍の歴史は日清戦争に帰結する悲劇として反省材料であると同時に、自らのルーツに位置づけられている。20世紀末に就役した練習艦が、福州船政学堂の出身で、日清戦争で戦死した登闘世を記念して、「世昌」と名付けられているのもその表れであろう。


(14) 林則徐が1839年に派遣され、アヘン問題の処理にあたった都市の名を答えよ。
(15) 太平天国の諸政策のうち、土地政策の名を答えよ。
(16) 郷勇が登場したのは、従来の軍隊が無力だったためである。漢人による治安維持軍の名称を答えよ。
(17) 当時定期的に福州に上陸して、北京に朝貢していた国の名を答えよ。
(18) 厳復の訳著の一つに『法意』がある。原著の作者である18世紀フランスの思想家の名を答えよ。
(19) 1871年にロシアに奪われ、1881年に一部を回復した地方の名を答えよ。
(20) フランスのベトナムヘの軍事介入に抗して、劉永福が率いた軍の名を答えよ。
(21) 19世紀末に威海衛を租借した国の名を答えよ。
(22) ドイツ製の戦艦「定遠」などが中国に向けて出航した港は、のちにドイツ革命の発火点となった。その港の名を答えよ。
(23) 北洋艦隊が立ち寄った極東の軍港都市の名を答えよ。
(24) この時この庭園とともに円明園も焼かれた。その設計に加わったイタリア人宣教師の名を答えよ。
(25) 下関条約で、日本に割譲された領土のうち、遼東半島はすぐに返還されたが、そのまま日本の手に残ったのは、台湾とどこか。
(26) 奉天軍閥の首領で、1927年に中華民国陸海軍大元帥に就任したのは誰か。
(27) この国の首都の名を答えよ。
(28) この海域にこれより約600年前に進出した中国船団の司令官の名を答えよ。

第3問 (20点)
 第二次世界大戦末期に実用化された核兵器は、戦後の国際関係に大きな影響を与えてきた。1962年から1987年までの国際関係を、核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み[  ]の中に最も適切な人名を入れ、下線部(1)〜(21)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 戦争には正しい戦争と不正な戦争があるとし、正しい戦争とみなされる理由や条件を考察する理論を正戦論という。西洋における正戦論の起源は古代ギリシア・ローマに遡る。アリストテレスは戦争が正当化される場合として、自己防衛・同盟者の保護の二つに加えて、「自然奴隷」としての(1)バルバロイの隷属化をあげた。共和政末期のローマで執政官であった(2)キケロは、敵の撃退・権利の回復・同盟者の保護のいずれかに加えて宣戦布告を正戦の条件として掲げたが、アリストテレスの自然奴隷説は省いた。
 キケロの世俗的正戦論に宗教的な正当性の議論を付け加えたのが、北アフリカのヒッポ司教であった[ a ]である。元来、キリスト教では隣人愛が説かれ平和が志向されたが、(3)ローマ帝国で公認され、ついで国教となったことで状況は変化した。[ a ]は「神によって命じられた戦争も正しい」と述べ、皇帝の戦争とキリスト教徒の戦争参加を条件付きで容認した。その背景にあったのは北アフリカで問題となってい(4)異端ドナトゥス派を弾圧しようという意図である。
 古代の正戦論は、12世紀の『グラティアヌス教令集』等を経て[ b ]によって引き継がれ体系化された。[ b ]は『神学大全』において、戦争を正当化する条件として君主の権威・正当な事由・正しい意図の三つをあげ、(5)私的な武力行使を否定した。
 中世の正戦論は聖戦の理念と結びついていた。ホスティエンシスらは異教徒の権利を強く否認したが、(6)ローマ教皇インノケンティウス4世らは慎重な立場をとり、対異教徒戦をめぐる議論では後者が優位とされていた。(7)コンスタンツ公会議(1414〜18年)では、ポーランド代表が武力によって異教徒を征服し改宗させようとするドイツ騎士修道会の方法を厳しく批判した。
 だが、西アフリカ沿岸部において探検が進むと、ローマ教皇はキリスト教世界の拡大を念頭に、異教徒に対する戦争を正当化する立場を鮮明にした。1452〜56年の教皇勅書で、西アフリカからインドまでの征服権がポルトガル王および[ c ]王子に与えられ、コロンブスの航海後は西方における征服権がスペインに与えられた。
 新大陸の征服が進行し、(8)エンコミエンダ制が導入されると、アメリカ先住民の権利や征服戦争が議論の的となった。サラマンカ学派の始祖とされる神学者(9)ビトリア」は征服戦争の正当性に疑問を呈したが、神学者(1O)セプルベダは自然奴隷説を援用して征服正当化論を再構築した。さらに17世紀のグロティウスはサラマンカ学派の理論を継承しながらも、自然法を神学から自立させ世俗的自然法のもとで正戦論を展開した。


(1) バルバロイに対置される古代ギリシア人の自称は何か。その名を記せ。
(2) この人物の代表的著作を一つあげよ。
(3) キリスト教はミラノ勅令によって公認された。この勅令を発した皇帝の名を記せ。
(4) ネストリウス派を異端として追放した公会議はどこで開催されたか。その地名を記せ。
(5) 1495年、マクシミリアン1世が招集した帝国議会において永久ラント平和令が布告されフェーデ(私戦)の権利が廃絶された。マクシミリアン1世は何家の出身か。その名を記せ。
(6) この教皇によってモンゴル帝国へ派遣されたフランシスコ(フランチェスコ)会修道士の名を記せ。
(7) この会議の結果について簡潔に説明せよ。
(8) この制度について簡潔に説明せよ。
(9) ビトリアは1533年のインカ皇帝処刑等の報に接してアメリカ征服の正当性に疑義を表明した。インカ皇帝の処刑を命じたスペイン人の名を記せ。
(10) セプルベダの論敵で、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著したのは誰か。その名を記せ。

B およそ5000年前のこと、(11)人類は経済活動を記録するために文字を創案したと考えられている。それだけでなく、為政者の命令を民衆に知らしめるためにも、そして知識を蓄積し後世に伝えるうえでも、文字は革新的な発明品であった。(12)地球上には無文字文明の例も多くあるが、文字の発明は、いくつかの文明の成立と関わっている。
 文字は、さまざまな材質の媒体に記されてきた。(13)古代メソポタミアでは粘土板が、(14)古代エジプトではパピルスが、それぞれ記録媒体として用いられたのだった。
 文字の成り立ちはさまざまである。漢字やラテン文字(ローマ文字)など、国家・民族を越えて文明圏共通の文字となったものや、旧来の文字から新しい文字が考案されることも多々あった。仮名文字や(15)キリル文字などである。
 文字情報の伝達技術は時とともに発展し、それが人類史上のさまざまな変動の呼び水となることがあった。(16)16世紀のドイツにおいて、宗教改革が諸侯だけでなく民衆のあいだにも支持を広げた背景には、こうした技術発展が関わっていた
 18世紀以降、文字情報の伝達媒体として新聞が重きをなすようになった。そして19世紀、技術革新にともない大部数化が進み、新聞社間で販売競争も激化し、民衆の関心をひくために、画像を組み合わせた扇情的な記事で紙面が埋められていくことになる。(17)19世紀末のアメリカ合衆国で、ある国に対する好戦的世論が形成されるが、その要因の一つには、こうした新聞メディアの動向があった。
 19世紀末から20世紀前半の時代に入ると、これまでの文字とならんで、新しい情報伝達手段が重要な地位を占めるようになる。とりわけ第一次世界大戦後アメリカ合衆国を中心にして映画などの大衆文化が広がっていくが、(18)これを促進したものの一つが情報伝達手段の革新であった。
 20世紀後半になると、情報伝達手段にいっそう劇的な変革が生じ、人びとは家にいながらにして世界中の出来事を、大きな時間差なく、あるいは同時にさえ視聴できるようになった。そして、こうした変革が世界政治に影響をおよぼすようにもなる。1960年代から1970年代にかけて、(19)ある戦争の実相が、この新しい情報伝達手段を通じて世界中で知られるようになり、それが国際的な反戦運動をうながす一因になったのである。また一方で、(20)この情報伝達手段によって事実の一部が歪曲(わいきょく)されて広がり、戦争容認世論が強まることもあった
 1980年代以降に生じたIT(情報技術)革命は進化のスピードを速め、今日の人びとは軽量でコンパクトな端末機器を操作することで、家庭内ではもちろんのこと街頭においても、多様な情報を即座に入手し、さらには自身が不特定多数の人びとにむけで情報を簡単に発信できる時代に入った。そして、こうした端末機器が、(21)「アラブの春」と呼ばれる民主化運動に際し、運動への参加を市民に呼びかけるツールとなり、さらには、強権的な政府が管理する報道とは異なる情報を人びとに提供した。


(11) 文字によって記録が残されるようになる以前の時代は、それ以降の、「歴史時代(有史時代)」と呼ばれる時代と区別して、何時代と呼ばれるか。
(12) (ア)インカ帝国で使用された記録・伝達手段は何と呼ばれているか。
(イ)それはどのようなものであったか、簡潔に説明せよ。
(13) 『聖書』の創世記にみえる洪水伝説の原型となったとされる詩文が、粘土板に記され現在に伝わっている。その叙事詩は何と呼ばれるか。
(14) パピルスに記され、ミイラとともに埋葬された絵文書で、当時の人びとの霊魂観が窺(うかが)えるものは何と呼ばれるか。
(15) キリル文字が考案された宗教上の背景を簡潔に説明せよ。
(16) この関わりの内容を簡潔に説明せよ。
(17) アメリカ合衆国は、この世論に押されるかたちで開始した戦争に勝利し、敗戦国にある島の独立を認めさせたうえで、それを保護国とした。その島の名を記せ。
(18) アニメーション映画もこの時代に発展した。世界最初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫』(1937年)を製作した兄弟の姓を答えよ。
(19) この戦争の名を記せ。
(20) 1991年に中東で勃発した戦争の際には、戦争当事国の一方が自然環境を損壊した、と印象づける映像が報道された。この戦争の名を記せ。
(21) 「アラブの春」において、20年以上にわたる長期政権が崩壊した国を二つあげよ。
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コメント
第1問
 易しい部分と難しい部分とがある問題でした。易しいのは前半の「イラン系民族の活動」です。難しいのは後半の「中国の文化に与えた影響」です。「イラン系民族の活動」はソグド商人の活動しかありません。ソグディアナ地方の中心都市サマルカンドを拠点に活動し、とくに中国に行く途中(甘粛省)のオアシス都市に居住地を定めて東西の文物をとりひきした商人たちです。
 教科書(詳説世界史)では「アラム文字から派生した文字としては,……ソグド文字」、安禄山の注に「ソグド人の父と突厥人の母をもつ武官」、トルコ人との関係で「トルコ系のウイグル人は,ソグド商人の協力をえて,豊かな遊牧・オアシス国家を建設した」、トルキスタンの説明として「イスラーム化以前にはソグド人を中心にゾロアスター教が信仰されていた」、オアシスの道の説明として「イラン系のソグド商人は,匈奴・突厥・ウイグルなどの遊牧国家内で交易に従事するとともに,マニ教やソグド文字などを東方に伝えた」と書いてあります。
 時期は「6世紀から7世紀」なので、安禄山という8世紀のひとは書いては書いてはいけませんが(書いているのはK予備校)、魏晉南北朝の末期、南朝の梁・陳の時代で、華北は北魏が東西に分裂し、北周から出た楊堅が陳を滅ぼして中国の再統一(589)を実現し、7世紀初め(618)に唐が隋に代わることになります。則天武后の登場が690年(『ワンフレーズnew』の語呂では「武周ブシュッと録69音0」)です。
 この「イラン系民族の活動」は商人の活動であり、政治的な建国や軍事行動はないのと、また、かれらが仕えた突厥についてあまり字数を費やすのは趣旨から離れます。たとえば「突厥は東西に分裂し、7世紀に東突厥は唐の建国を援助した。しかし太宗が東突厥を服属させ、さらに高宗が西突厥も服属させて唐がユーラシア中央部を支配下におさめた」といった解答例は書きすぎです。トルコ人と中国人の活動ではあってもソグド商人の動きではありません。
 「活動」は何より商業であり、つまりはモノが流通します。それとともにかれらの信じた宗教や作成した文字です。宗教と文字は上の教科書引用文にありました。モノは『詳説世界史』では「交易路をつうじて中国の生糸や絹が西方に」とあり、『新世界史』(山川出版社)では「内陸アジアでは,イラン系のソグド人が,また南方の海路では,アラブ人が中継貿易にたずさわった。唐の絹織物・染織・陶磁器・金銀細工・紙などはこうして世界に広がった」と。
 「同時代の中国の文化に与えた影響」は難問でした。というのは「影響」を書くのが難しいからです。予備校の解答例で影響を書いたものは少ないですね。まず「○○を伝えた」と書いても、伝えた結果、中国側にどんな影響、つまり従来あったものに何らかの変化がないと影響した、とは言えません。マニ教をゾロアスター教を伝えた、文字を伝えた、といってもそれは外来のものがきた、といいうだけです。伝えた後の中国側の変化が必要です。イチローが大リーグに行った、だけでは大リーグ側がどんな影響を受けたのか分かりません。早く走るので内野ゴロでもセーフになるケースが増えると、ショートもサードも安閑としていたらイチローが一塁ベースを越えてしまいます。内野ゴロでも早く投げる、ということが大リーグで広まりました。影響です。また捕球のうまさ、レーザービームといわれた投球でも観衆を唸らせました。それまでホームランバッターばかり尊敬の対象であったのが、走攻守そろった選手こそ尊敬すべきだ、となりました。影響です。なので宗教に関しては、信徒を獲得した、中国の建築様式で三夷教の寺院が建てられた、とまで行けば影響になります。
 予備校の解答例では「国際色豊かな文化」も影響にしていますが、これは概観しただけで何がどう影響したかは不明快な文章です。
 帝国書院の教科書には「国際都市長安」というトピックを立てて、「ササン朝の滅亡でイラン系の人々が多数移住していた。胡服・胡弓やポロ競技などイラン系風俗が流行し、その影響はわが国の正倉院の宝物にもみられる」とあり、東京書籍の教科書では絵の説明として「(左) ササン朝の獅子狩製皿と法隆寺の獅子狩文錦、(右)獅子狩の図柄はオリエン卜に広く見られ、東西交渉を通じて中国や日本にも伝えられた。後ろ向きに弓を射るやり方を、ローマ人は「パルティア人の曲射(パルティアン=ショッ卜)」とよんだ」とあります。『詳説世界史研究』では「ソグド人に代表される西域出身者を胡人と呼び、長安には、西域出身の女性)がもてなす酒場がにぎわい、胡楽(西域音楽) ・胡旋舞(体を旋回させる西域の舞踊)・打毬(だきゅう、ポロ競技)など西域の風俗が流行した。小麦を製粉して食べる風習(胡餅) も西域から伝わって、唐代に定着したものである」と説いています。こうした「風俗」というものになれば庶民にまで影響した、といえるでしょう。
 唐文化へのイラン人の影響については、石田幹之助の『長安の春』 (東洋文庫)が名著として知られています。「隋唐はまさにイラン文化全盛の時代といっても過言ではなく、宗教・絵画・彫刻・建築・エ芸・音楽・舞踊・遊戯等の各部門はもとより、衣食住、ことに衣食の両方面において、広くイラン文化の感化をみることができる(p.163)」と書いています。その具体例を延々と挙げています。たとえば絵画への影響について
「凹凸(おうとつ)画と呼ばれ、陰影を施して遠くより望むと実物が浮き出ているかと思われたというのは明らかにイラン風であったことを証している。敦煌その他西域諸地から発見された仏画類にはその巧拙は別としても手法において尉遅乙僧(うつちいっそう)の凹凸画とはかようなものではないかと思わせる、すこぶるイラン風の匂いの高いものがある。……呉道玄の作品にあってはひとり仏画・人物画等にイラン風の影響があったばかりでなく、山水画にも(p.180)」と。
 教科書や図説によく載っている唐代美人画では、赤い頬紅をしたふっくらとした顔をもち、いろいろな着物を重ね着したすがたが描いてあります。これがイラン風の女性像です。
 しっかり影響を書いている合格者の答案を見てください。→こちら
 
第2問
 全体としては易しい問題。そのうち難問・奇問だけ解説です。
A
問(2) 奇問でした。大学名は教科書に載っていますが、そこのモスクを何というかまでは書いてありません。出題者の神経を問題にしたほうがいい問題でした。アル=アズハル・モスク(アズハル・モスク)に付属するマドラサ(学院・学校)がアズハル大学でした。
B
問(17) これも奇問でしたが、「定期的」「福州に上陸」というのがヒント。19世紀に来るとすれば、一番近い国で朝貢している、と考えたら琉球国が妥当です。台湾は三藩の乱で清朝領になっているので、台湾のすぐ北に位置する琉球が推理できます。
問(18) ヒントは「法」だけです。啓蒙思想家で「法」関係の著書としては『法の精神』というモンテスキューの本があります。それより厳復は知っていますか? 『天演論』=ハクスリー著『進化と倫理』、『原富』=アダム・スミス著『諸国民の富』、『群己権界論』=ジョン・スチュアート・ミル著『自由論』と重要な本を翻訳・出版しています。
問(23) 「ロシアなどに巡航」とロシアに下線があるので、当時のロシアの「極東の軍港都市」としてはムラヴィヨフが造らせた沿海州南端の都市「ウラジヴォストーク(ウラジオストック)」。
問(26) 「奉天軍閥の首領」なら分かっても「1927年に中華民国陸海軍大元帥」といわれても、こういう経歴の人物として教科書は出てきません。趣味的な問いです。「奉天軍閥」だけで張作霖と決めつけるほかないでしょう。


第3問
 課題は「1962年から1987年までの国際関係を、核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ、300字以内で説明せよ」でした。
 時間は「1962年から1987年」と細かく、主問は「国際関係」で、副問は「核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ」でした。 類題として、一橋の2005年第2問に「第二次世界大戦後に「冷たい戦争(冷戦)」という米ソ両体制の対立する時代が形成された背景には、大国による核開発、核保有が大きな役割を果たしている。第二次世界大戦後の冷戦勃発から、1989年のベルリンの壁の崩壊に至るまでの時期を対象に、各国の核保有、各国間の核軍縮の経緯を押さえた上で、この冷戦期の国際政治に核兵器が果たした歴史的役割について述べなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(指定語句→キューバ危機 中距離核兵器全廃条約 封じ込め政策 ワルシャワ条約機構)(400字以内)」というのがありました。時間は京大のより幅があり、核兵器そのものの役割を問うているところは違っていますが、「国際政治」という趣旨は同じです。もちろんヒト引用したからといって、ヒトの過去問を勉強しなさい、と言いたいのではありません、この大学は奇問・狂問が多いので薦められません。

 核兵器の「製造・保有」だけ挙げれば、
 1945 アメリカの原爆実験と投下(広島、長崎)
 1949年 ソ連が原子爆弾の開発
 1952 アメリカが水爆実験
    イギリスの核実験
 1953 ソ連も水爆の保有
 1957 大陸間弾道弾(ICBM)実験(米ソ)
 1960 フランスの核実験
 1964 中国の核実験
 1974 インドの核実験
 1980年代 アメリカの戦略防衛構想

 「国際的な合意」は以下のようになります。
 1963 部分的核実験停止条約
 1968 核拡散防止条約(NPT)
 1970 西独とソ連との武力不行使協定
 1972 戦略兵器制限交渉(第1次)
 1973 核戦争防止協定 
 1979 戦略兵器制限交渉(第2次)
 1981 中距離核戦力(INF)全廃条約(中距離ミサイル全廃条約)の話し合い開始 
 1982 戦略兵器削減条約交渉(第1次)
 1987 中距離核戦力全廃条約の調印

 また冷戦「国際関係」にかかわる重要事件としては以下のものをあげておきます。
 1956 中ソ論争(中ソ対立)
 1969 中ソ国境紛争
 1971 中国の国連代表権交替 
 1972 東西ドイツ基本条約(東方外交)
    ニクソン訪中
 1973 東西ドイツ、国連同時加盟 
 1975 全欧安保協力会議に米ソも参加
 1985 ゴルバチョフのペレストロイカ・新思考外交

 戦後史もある程度年代を覚えないと正確な解答は書きにくいですね。1945〜1962年の冷戦展開期、1963〜70年代の緊張緩和(デタント)期、1980年代の冷戦終結期とおおまかに区分しておくと、書きやすいでしょう。

第4問
A
(6) これは奇問というより細かい問いです。名高い絶頂期のインノケンティウス3世ではなくインノケンティウス4世という載っている教科書も少ない教皇に派遣された修道士としてプラノ=カルピニが想起できるか。むしろフランス王ルイ9世が派遣したルブルクがモンケ=ハーンに会った、というのを語呂として覚えておくと区別しやすい。ルンルンモーケ、です。
(7) この会議の「結果」とは何を決議したか、ということでしょう。①教皇庁をローマにだけ置くこと、②ウィクリフとフスを異端者とし焚刑にすること、③公会議主義といって、これから教皇は公会議の決定にしたがうこと、という三つでした。②のウィクリフ(1320〜1384)はすでに亡くなっていましたが、墓から死体を掘り出して焚刑の処置をして灰をテームズ川に放っています。異端者は重罪で、火刑にして苦しめてあげないと、あの世でもっと苦しむことになる、という慈悲の心で処刑してあげる、そうです。
B
(21)「アラブの春」において、20年以上にわたる長期政権が崩壊した国を二つあげよ。……これは難問かも知れない。「アラブの春」のニュースをどれだけ追ってきたか、注目してきたかにかかっています。共に独裁者が倒されたという国で、ムバラク(大統領として1981〜2011年)のエジプトと隣の国リビアはカダフィ(ムアンマル・アル=カッザーフィー、最高指導者として、1969〜2011年)です。このカダフィが殴られ殺される場面を YouTube で見ることができます。

2020年度の再現答案

2020年度の再現答案

(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

東大2020
第1問
明代には朝貢体制のもと貿易が行われていたが、大航海時代に入ると、北虜南倭の活動や東南アジア諸国の経済的自立により、海禁とともに朝貢体制が緩んだ。資料Cの通り、琉球は日本と中国に両属していたが、薩摩藩の侵攻や琉球処分により日本に併合された。中国の朝貢国であったベトナムは、資料Bの通りフランスの侵攻を受けたあとも中国を宗主国としていたが、清仏戦争後は仏領に入った。清朝では朝貢貿易が行われていたが、アヘン戦争後の南京条約で公行の廃止と開港をさせられた。中央アジアを清は藩部として管理していたが、ロシアが支配し、露領トルキスタンが形成された。中国は理念上外国を国内の延長とみなしていたが、この頃から外務省である総理衙門を設置した。朝鮮は明に朝貢し、その滅亡後清に服属したが、資料Aの通り小中華として清を夷狄として対抗した。しかし、日清戦争後の下関条約で日本の影響下に入った。マラッカは、明の影響を受けていたが、明衰退後はイスラムの影響を受け、その後ポルトガル、イギリスに占領された。台湾は、清の直轄領であったが、日清戦争後は日本の管理下に入った。日本は、明と朝貢貿易をしていたが、日清戦争後は列強の一員として冊封体制から自立した。

京大2020
第1問
イラン系ソグド人は国際商人としてギリシア人・漢人・イスラム商人などとの交易で活躍した。ソグド人は突厥などの北方民族の保護を受け、シルクロードやオアシスの道を中心に活躍した。ソグド人の活躍によりネストリウス派キリスト教や仏教が中国に広まった。また、コバルト染料が中国に伝わり、後の陶磁器文化の発展につながった。イラン系ササン朝は陸路や海路を支配し、中継貿易で繁栄した。ササン朝美術が中国に伝わり、中国の美術に影響を与えた。ガラス器や織物等の工芸品も中国に伝わり、中国の工芸品のデザインに変化を与えた。ササン朝でマニ教が成立し、中国に伝わり、中国の国際色の強い文化を生み出した。
第3問
1960年代前半にキューバ危機が起こり、アメリカとロシア間での核戦争が起こりそうになったが鎮静した。その後部分的核実験禁止条約が結ばれた。フランスのドゴールは独自外交を進め、条約に締結せず、核兵器を保有した。中国は1950年代後半から始まった中ソ対立や、インドとの領土問題が要因で核兵器を保有した。また、カシミール地方を巡って対立し、両国とも核兵器を製造した。1980年代になるとゴルバチョフがペレストロイカを出し、INF撤廃条約をアメリカなどと締結し、冷戦の終結や、東欧革命の勃発に近づいた。

筑波大2020
第1問
840年にキルギスの攻撃でウイグル人がトルキスタンへ西走した。元々住んでいたイラン系先住民と同化し、トルコ化した。874年にサーマーン朝が成立すると、マムルークという奴隷としてトルコ人を使い、元々マニ教や仏教を信じていたトルコ人のイスラーム化が始まった。アッバース朝もマムルークを使った。また神秘主義教団も布教に貢献した。10世紀にトルコ人が建てたカラ=ハン朝はサーマーン朝を滅ぼし、東西トルキスタンを統一し、イスラーム化が加速した。11世紀に入るとトルコ系王朝であるセルジューク朝が建てられた。マムルークが軍事力の中心となり、周辺国家へ侵攻した。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしてバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を与えられた。また1077年には同じトルコ系であるホラズム朝が成立した。(355字)
第2問
白蓮教徒による紅巾の乱が起き、元が滅亡した。1368年に明が成立すると、洪武帝の下で朝貢貿易体制と厳しい海禁政策がしかれた。永楽帝の下では朝貢貿易のさらなる推進とともに北元遠征も繰り返し、北元を滅ぼした。その後オイラトやタタールがモンゴル高原で台頭し、のちに北虜と呼ばれるようになった。彼らは明の朝貢貿易体制の制限などに不満を持ち、たびたび華北に侵入する。1449年にはエセン=ハン率いるオイラトが北京を攻撃した。さらに土木の変を起こし、正統帝を捕らえた。16世紀にはタタールのアルタン=ハンがオイラトを攻撃してモンゴルを支配し、1550年には北京を包囲した。17世紀には満州で女真族が台頭し、周辺地域に勢力拡大を始めた。ホンタイジが内モンゴルやチャハル部を支配下に入れた。明の滅亡後、康熙帝は外モンゴルを占領し、ジュンガルを攻撃した。(368字)
第3問
1386年にヤゲヴォ朝が始まった。カシミール大王の下で全盛期を迎え、ドイツ騎士団と戦った。ユダヤ人入植を進めた。ヤゲヴォ朝の断絶後、ポーランド=リトアニア連合王国が始まった。しかし選挙王制の下で弱体化が進んだ。1772年、93年、95年にはプロイセン・オーストリア・ロシアによってポーランド分割が行われた。しかしフランスでナポレオンが皇帝に即位すると、その下でヨーロッパ征服が行われ、ポーランドもワルシャワ大公国としてフランスの保護下に入った。解放戦争後のウィーン会議では正統主義の一環として、ナポレオン体制以前の旧体制に戻ることが決定された。その中でポーランドはまたオーストラリアなどの保護下に入った。1848年革命時にはハンガリーでも革命が起き、ポーランドにも飛び火したが、ロシアに鎮圧された。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約が結ばれた。(374字)
第4問
1623年のアンボイナ事件以降、イギリス東インド会社はインド経営に専念した。カーナティック戦争を戦い、プラッシーの戦いではフランスとベンガル太守を破った。マラーター同盟やシク教徒を制圧し、南インドを支配した東インド会社は、ザミンダールという在地領主に徴税権を与えるザミンダーリー制という近代的徴税制度を導入した。インドの伝統的村落共同体は崩壊した。インドのキャラコに刺激を受けてイギリス本国で産業革命が起こると、イギリス産の機械製綿布がインドに流入した。これによってインドの綿布産業は崩壊した。19世紀に入るとイギリス本国で自由主義的な声が高まり、東インド会社は独占権の縮小や廃止を迫られ、統治権を持つのみの存在となった。そんな中でインド人の傭兵が会社の待遇に不満を持ち、シパーヒーの反乱を起こした。会社軍が鎮圧したが、これにより東インド会社による統治に限界を感じた本国は、東インド会社を解散させた。(400字)

『東大世界史解答文』の解答例の訂正

2006年の第2問の問(1)

 課題が「16世紀前半まで」となっているのに、解答例には「ムガル帝国によるジズヤの廃止」としています。「前半」を見逃しました。3代目のアクバル帝は1556年に即位していて、ジスヤの廃止は1564年なので、適切な解答文ではありませんでした。
 おわびして、次のように改訂します。

ガズナ朝・ゴール朝が侵入してからイスラームの軍事的侵入があり、デリー=スルタン朝からヒンドゥー教徒にたいして寛容策をとり、ムガル帝国の支配開始で信仰は定着した。文化的には形式的な信仰を排する神秘主義者スーフィーによる布教で一般民に拡大した。

阪大世界史2019

外国語学部以外
 (Ⅰ)(外国語学部の第1問の問4まで同問)
 (Ⅱ)(外国語学部の第2問と同問)
 (Ⅲ)(外国語学部の第3問と同問)

第1問
古典期(前5〜前4世紀頃)アテネの民会決議碑文には、「評議会と民会によって決議された」との定型文が残されている。この時期のアテネの政体は民主政であり市民は、財産の多寡にかかわらず、民会において発言し一票を投ずることができた。これについて以下の問1〜問4に答えなさい。

問1 古典期アテネでは自由なポリス市民に対して、専制君主の支配下にあるオリエントの民衆を隷属的とみなし、蔑視する風潮がみられた。そのような発想のきっかけとなったオリエントの国家との戦争の名前を答えなさい。

問2 オリエントとギリシアの対比は、その後のヨーロッパでも影響力を持ち続けた。図1は1822年にパリで発売されたカレンダーであるが、その上部を飾る二つの戦闘図も、このモチーフを踏襲している。図1が発売された政治的・文化的背景について説明しなさい(70字程度)。

問3 古典期アテネと近現代西ヨーロッパの民主政を、参政権の範囲の変遷と、その行使方法に着目して比較しなさい(160字程度)。

問4 ロ一マでもSPQR(元老院とロ一マの人民)の語が、公文書や貨幣に記されていた。前3世紀から後3世紀までのロ一マの国家体制の変遷を説明しなさい(100字程度)。

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図1 G.ルイ「ギリシア・カレンダー(1823版)」。下は戦闘図の部分拡大図。

第2問
 以下の文章を読み、問1〜問3に答えなさい。
 定着農業が営まれる世界では、土地は、富の主要な源泉だった。このため、各地を支配する政権は、土地から生まれた財貨を手に入れるために意を注ぐとともに、労働力や土地の配分に対しても積極的に関与した。(ⅰ).(ⅱ)はいずれも為政者により発布された命令文を示したものである。

(ⅰ) 毎年春には、各地の寒暖に応じて、通当な時期に農作業を開始させよ。春から秋にかけ、15歳以上の男はみな野良に出て働くこと。[ (ア) ]の季節には、15歳以上の女は[ (ア) ]に精を出せ。10月には、地方官は自らの任地における教化の成果を以て人事評価を受けよ。(中略)このようにして土地は無駄なく耕作され、あぶれ者は皆無となるようにせよ。男はすべて18歳で農地を支給され、税を納めさせること。20歳で兵役に応じ、60歳で役務より免除され、66歳で(政府から与えられた)農地を返納し、納税の義務を免れるようにさせよ。(後略)

(ⅱ) 1. 朕は望む。朕の入り用にあてるために設立された[ (イ) ]は、朕以外のいかなる人間でもなく、すべて朕に役立つことのみをその務めとすることを。
 2. 朕の[ (イ) ]の民を十分に慈しみ、何人たりとも彼らを窮乏に追い込まないこと。
 3. 朕の[ (イ) ]の管理者は[ (イ) ]の民を私用で役使しないこと。彼らに仕事をするよう駆り立てたり、木を切るなどの作業を強制したりしないこと。酒瓶(buticula)や野菜果物、鶏や卵以外、管理者は馬であれ牛であれ豚であれ羊であれ、民からいかなる付け届けも受けないこと。(後略)

 (ⅰ)は6世紀の[ A ]で(ⅱ)は8世紀の[ B ]で各々出されたものであり、いずれもそれぞれの国家体制を反映している。(ⅰ)で述べられる土地制度は[ (ウ) ]制、(ⅱ)のばあいは[ (イ) ]制として知られる。

 このような為政者の発令した諸規定は、土地の保有や分配、あるいは税負担にかかわる「制度」の一部分として、後の時代における政策や国家体制を何らかのかたちで左右するとともに、現在にいたるまで各地の法・経済のあり方に深い刻印を残すこととなった。

問1 空欄[ (ア) ]〜[ (ウ) ]に入れるべき語を以下の(1)〜(10)よりそれぞれ一つずつ選び、記号で答えなさい。

(1)荘園 (2)天朝田畝 (3)エンコミエンダ 
(4)均田 (5)イクター (6)絹生産 (7)綿花栽培
(8)稲作 (9)コルホーズ (10)強制栽培

問2 空欄[ (ウ) ]の土地制度が導入された背景および後代へ与えた影響について、論じなさい(150字程度)。

問3 空欄〜[ (イ) ]が[ B ]において形成された背景、当時の政治制度全般との関係について、以下の語句を使って論じなさい(200字程度)。

 イスラム教徒 領主 軍事

第3問
 次ページの図2は「とても気高く忠誠心に篤いメキシコ市」と題された屏風で、1690年頃にメキシコで作製された。屏風はもともとアジアから輸入された商品だったが、17世紀後半にはメキシコの景観や歴史をモチーフとした屏風が、現地で作製されるようになっていた。また、コロンビアのトゥンハ市にある教会内部の壁面には、17世紀後半に作製された伊万里焼が装飾の一部としてはめこまれている。これらに関連する問1と問2に答えなさい。

問1 スペインのセビーリャにあるインディアス総文書館の税関記録には、1660年代以降、台湾からマニラヘ寄港した商船の積載品の一部として、茶壺や大皿、碗といった日本製磁器に関する情報が記されている。1660年代から1680年代初頭に中南米で日本製磁器が流通した歴史的背景を、以下の語句を使って論じなさい(150字程度)。
  台湾 鄭氏 マニラ

問2 この屏風の題名には、植民地生まれのスペイン人が故郷に対して抱いた愛着や誇りだけでなく.宗主国スペインとの複雑な関係が暗示されている。このような人々は、18世紀から19世紀初頭にかけてヨーロッパで生まれた思想や欧米各地で起きた革命に刺激されながら、スペインに対して自らの権利拡大を要求する運動を展開した。そのような革命の連鎖について、人物・思想に触れつつ具体的に諭じなさい(150字程度)。

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図2「とても気高く忠誠心に篤いメキシコ市」(部分)
………………………………………

1

(I)古典期(前5~前4世紀頃)アテネの民主政についての設問でした。

1 「自由なポリス市民に対して、専制君主の支配下にあるオリエントの民衆を隷属的……そのような発想のきっかけとなったオリエントの国家との戦争の名前」として教科書に書いてあるのはペルシア戦争です。これはギリシア側から呼んだ表現で、客観的な呼称にするならば「ギリシア・ペルシア戦争」です。この戦争ではないものの、ペロポネソス戦争のさいにペリクレスが演説したときペルシアを批判しつつ自分たちアテネは違うとして「少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」と述べている点でもこれは推理できます。

 

2 11822年にパリで発売されたカレンダーであるが、その上部を飾る二つの戦闘図も、このモチーフを踏襲している。図1が発売された政治的・文化的背景について説明しなさい(70字程度)。……時期がカレンダーに1823年とあり、ギリシア独立戦争でギリシアがオスマン帝国から独立する際の戦闘とおもわれます。

 カレンダーの図を下では「拡大図」としながら小さい絵で分かりにくい。たぶん左の絵が、盾と槍が描いてあるので古代の絵で、右のは刀と鉄砲が描いてあるので近代の戦争画と推測できます。ヨーロッパ対アジアという対立を描いているらしい。

 「鉄砲」が描かれたドラクロワの絵「民衆を導く自由の女神」という七月革命を想起せます。その革命前のフランスの政情を表してもいます。これは国内の背景ですが、国際的な背景とはこのギリシアのオスマン帝国からの独立戦争であり、これを利用して南下政策を試みる西欧・ロシア列強の介入、別名、東方問題と呼んでいるものが表されています。戦闘する両者(ギリシアとオスマン帝国)と、それを利用して帝国に食い込もうとする西欧列強(英仏露)を書けば解答になります。

 文化的な背景は、西欧側がギリシアを自分たちの文明の故郷と考えていて、西欧文明を守ろうとして派兵した、とすればいいでしょう。イギリスのロマン派詩人バイロンが義勇兵として参戦したことが例になります。また自分たちの西欧文明は優れたものであり、オスマン帝国のイスラーム文明・東洋文明は劣ったものだ、怠惰・下劣・暴力的である、と見下した19世紀の西欧における思考(これをオリエンタリズムともいう)を背景にしています。

 もともとヘロドトスがペルシア戦争を西欧対アジアの戦いととらえたことから誤解は始まっていて、ペルシア戦争のさいはギリシア人のマケドニア・テーベ、テッサリア、ロクリスなどのポリスはペルシア側に付いたのであり、ペルシア戦争はギリシアの内戦ともいえるものでした。さらに、マーティン・バナールが『黒いアテナ』で指摘したように、古代ギリシア文明の起源はヨーロッパにあるのではなく、古代エジプトおよびフェニキアの植民地なのであり、女神アテナは、「白い女神」ではなく、「黒かった」という観点が欠けていました。こうした誤解の重層化が、西欧のギリシア支援というものの文化的背景といえます。

 

3 「古典期アテネと近現代西ヨーロッパの民主政」の比較問題ですが、条件が「参政権の範囲の変遷と、その行使方法」というものがくっついています。「古典期アテネ」と古典期が付いた表現の意味が分かりますか? 民主政治全盛期のアテネ、という意味で前5世紀の時期を指しています。ペリクレス時代ともいっている時期です。

 「参政権の範囲」とは、古典期は平民も含む全成人男子が参加することができました。近現代は納税額に応じて高く払っているものにだけ選挙権を認めた制限選挙でしたが、次第に下層まで広げて成人男子全員、そして遅れて女性にも与えていく漸進的過程がありました。

 「行使方法」は古典期はくじ引き(抽選)でだれでも公職に就くことができ、直接民会に参加して意見表明ができました。近現代は代表者が選挙で選ばれ、代議士となって選挙民に代わって意見表明をすることと、職業的な官僚制が発展して代議士(立法者 law maker)を援助するようになりましたが、古典期では官僚制は未発達でした。

 日本の代議士たちが「代議」できる能力がなく、官僚からわたされた紙を読んで済ませている醜態を毎日のようにテレビが写しだしています。稚拙な国会・議員たち、首相以下みなそうだという点がすごいですね。また、そういう代議士を愚昧な国民が選んでいます。愚者の楽園です。

 

4 ロ一マでもSPQR(元老院とロ一マの人民)の語が、公文書や貨幣に記されていた。前3世紀から後3世紀までのロ一マの国家体制の変遷を説明しなさい(100字程度)」という課題。

 前3世紀は、ホルテンシウス法(前287年)ができ、元老院・平民会が共和政ローマを指導している時期です。ところがポエニ戦争(前264~前146)がおき、中小農民の没落が始まって武装自弁できなくなり、共和政の危機におちいるとグラックス兄弟の打開策もうまくいかず、将軍たちが元老院を無視して台頭します。将軍たちの二回の三頭政治の後に元首政なり、3世紀(軍人皇帝時代)の危機から世紀末には専制君主政(ドミナートゥス政)になります。ここまで書けばいいのですが、ポエニ戦争三頭政治元首政専制君主政、という「体制」変遷だけにしぼっても100字でまとめるのは難しい。

 SPQRとは、ラテン語で「Senatus Populusque Romanus(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)の略語だそうですが、Sono porci questi Romani.(このローマ市民どもは豚である)という意味もあるそうで、なんかどっかの国にも適用できそうです。

 

2

1

 空欄ア 「15歳以上の男はみな野良に出て働くこと。[ () ]の季節には、15歳以上の女は[ () ]に精を出せ」と女性の仕事ということなので、(6)絹生産だろうと推定できます。該当しそうな棉花栽培はアメリカの黒人奴隷の仕事でしょう、(8)稲作は男の仕事でしょう。

 空欄イ 「朕の[ () ]の民を十分に慈しみ、何人たりとも彼らを窮乏に追い込まないこと。朕の[ () ]の管理者は[ () ]の民を」とある文章からは経営地を指していると考えられますから、西欧史の(1)荘園だろう、と。西欧史であることは「酒瓶(buticula)」で示唆されています。

 空欄ウ 「6世紀の[ A ]で()8世紀の……土地制度は[ () ]制」とあるので、この時期の土地制度は中国(国家体制)のそれであろう、と考えられ、(4)均田制ですね。

 語群の(2)天朝田畝は太平天国の制度、(3)エンコミエンダはスペインがラテンアメリカで実施した封建制たる委託制度でした。(5)イクターはイスラームの封建制でブワイフ朝から始まったもの。(9)コルホーズはソ連時代の集団農場のこと、ソフホーズが国営農場(覚え方は、ソソ連国)(10)強制栽培はオランダが1830年からジャワ島でおこなった栽培指定と低価格の買収の制度です。

 

2 問いは二つ。「空欄[ () ]の土地制度が導入された背景」と「後代へ与えた影響」です。均田制は北魏が支配している公有地に無所有農民や小農を集めて土地を分配して耕作させ、かれらから租税をとる制度です。どこぞの予備校はこの土地制度を「大土地所有を制限し」と書いていますが、これはまちがった解答です。「制限」とは上限を決めて、それ以上もっている大土地所有者からその土地を奪うことですが、そこまではやっていません。『実況中継』もまちがいを繰りかえしていて、反省がない。すでにいる周辺の豪族の土地を取り上げだしたら戦乱を招くのは必定ですが、そんな粗っぽい政策はとっていません。持っていない農民に土地を分配するのが基本です。また別の予備校の「北魏時代には奴婢や耕牛を給田対象にしたために不徹底に終わった」というのもまちがい。どこが「不徹底」なものか。これは上の「制限」と同じ誤解で、「奴婢や耕牛」をたくさん持っているのは豪族だから豪族に有利な政策とかんちがいしているためです。既に大量に土地をもっている人間により土地を与えることがなぜ対策になるのか、そんな馬鹿なこと、となぜおもわないのか不思議です。制限でなく抑制と書くべきです。

 このブログの均田制の説明を参照されたしhttp://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2013/08/02/NEW_青木世界史B講義の実況中継(1-2 (p.189)

 

3 空欄[ () ]が[ B ]において形成された背景当時の政治制度全般との関係について、以下の語句を使って論じなさい。(指定語句イスラム教徒 領主 軍事)

 封建制度は政治制度とも社会制度ともいえます。これが土地制度と「関係」しているというのは当然のことです。「形成」とあるので、主に910世紀に形成された政治状況を説明したらいいです。

 外敵にあたるものを指定語句の「イスラム教徒」だけあげて済ましている予備校の解答はいかがなものでしょう? この時期はノルマン人(バイキング)とマジャール人の侵入もあり、南からはイスラム教徒が包囲・攻撃しています。孤立した西欧の防衛体制・軍事同盟として築かれたのが封建制度でした。

 他に封建制度の由来としての恩貸地制と従士制、荘園における領主・農奴の関係、史料があげている「朕以外のいかなる人間でもなく、すべて朕に役立つことのみをその務めとする」と不輸不入権(インムニテート)について説明すると解答文ができます。

 

3

1 課題は「日本製磁器に関する情報が記されている。1660年代から1680年代初頭に中南米で日本製磁器が流通した歴史的背景(指定語句台湾 鄭氏 マニラ)というもの。

 難問でした。陶磁器といえば中国・景徳鎮の陶磁器が名高いのですが、それが流通しにくい状況がこの時期(1660年代から1680年代初頭)に生まれています。なぜか? なによりヒントは指定語句の「鄭氏」ですね。明清の交代の激動期でした。鄭成功が復明運動をしていて中国から追放され、オランダの勢力圏であった台湾からオランダを追放します。オランダの基地であったゼーランディア・プロヴィンキアという二つの要塞を奪いました。ドミノです。鄭氏台湾というようになります。それに対して清朝はこの1661年に即位した康熙帝が、遷界令を発動して、台湾の西に位置している福建省を中心に北は山東省から南は広東省まで遷界令をしきます。この「遷界」とは海岸住民の強制移住です。無人化することで、鄭成功が貿易ができないようにし、侵入路と資金源を断つ政策でした。しかし中国製陶磁器の供給停止は東アジア貿易ネットワークに穴ができたことを意味します。肥前陶磁(伊万里焼)の輸出はそれを補うビジネスとなりました。この陶磁器は秀吉の朝鮮出兵の帰りに朝鮮人陶工を連れ帰ったことに起源があり、さらにこの時期に亡命してきた中国人陶工も加わっています。鄭成功は日本・英国(東インド会社)と結び、太平洋・東アジアの貿易を続行します。これがフィリピンを通してラテンアメリカに日本の陶磁器が流れた理由です(大橋康二・坂井隆『アジアの海と伊万里』新人物往来社)

 

2 課題は「このような人々は、18世紀から19世紀初頭にかけてヨーロッパで生まれた思想や欧米各地で起きた革命に刺激されながら、スペインに対して自らの権利拡大を要求する運動を展開した。そのような革命の連鎖について、人物・思想に触れつつ具体的に」という問題。

 問題を換言すれば、独立運動をしたシモン=ボリバルやサン=マルティンたちはどのような欧米思想に影響を受けているのか説明しなさい、という問題です。 

 「18世紀から19世紀初頭にかけてヨーロッパで生まれた思想や欧米各地で起きた革命」とあり、思想は啓蒙思想であり、革命は大西洋革命ともいうアメリカ独立革命とフランス革命です。この思想はイギリスの清教徒革命・名誉革命のさいに発展し、それがフランスにもたらされてより広い分野におよぶ思想に発展しました。シモン=ボリバルは世紀末の革命にゆれるヨーロッパを留学・見聞し、1803年にベネズエラに帰国します。31才でした。サン=マルティンは父がスペイン王国の軍人であり、スペインで育って1811年にアルゼンチンに帰国します。33才でした。二人とも啓蒙思想を学んでの帰国でした。

2019模試(一橋)雑感

A模試
第1問
 次の文章は、8世紀後半にローマの聖職者によって偽造されたと推定されている文書の一部である。この文書を読んで、問いに答えなさい。

 朕は……イタリアまたは帝国の酉側のすべての州と地方と都市を……いと祝福された教皇、我々の父で世界の教皇であるシルヴェステル(1世)に譲与し、そしてそれらを彼及び彼の後継者たちの教皇位の権力と支配に遺贈し、……それが聖なるローマの教会の権利の下に永遠にとどまることを承認する。
……そして属州ビザンツの最高の場所に朕の名において都市が建骰され、そこに朕の帝権が打ち立てられることが適切だと判断した。それは天上の皇帝によって聖職者の首位とキリスト教の頭が設置された所で、地上の皇帝が権力を掌握することは正しくないからである。
(「コンスタンティヌス帝の寄進状」宮松浩憲、久留米大学産業経済研究48巻1号より引用。)

問い この文書は15世紀の人文主義者が偽書であることを証明するまでローマ=カトリック教会で真正文書として扱われ、ローマ教皇レオ3世がフランク王カールを西ローマ皇帝に戴冠する根拠となったと推定されている。また、10世紀後半に確立した神聖ローマ皇帝権に対し、教皇権が対抗していく際にも主要な根拠として使用された。10世紀後半の神聖ローマ皇帝権の確立過程と、10世紀後半から11世紀における教皇権の神聖ローマ皇帝権への対抗を、文書の内容を踏まえ、神聖ローマ皇帝権の帝国の東方地域への展開を視野に入れて説明しなさい。(400字以内)

答案例
ドイツ王オットー1世は、マジャール人の侵入を撃退し. イタリアに遠征して教皇から空位だった皇帝に戴冠された。以降ドイツ王が皇帝となる慣行が生じ、神聖ローマ帝国が成立した。オットー1世は聖職者の叙任権を確保して教会を王権の統制下に置き統治に活用する帝国教会政策をとり、東部に辺境伯領を設置して東方への伝道を図った。以後の皇帝もその政策を継承し、ベーメンが帝国に編入された。一方教皇は、皇帝からの独立維持を図るポーランド王・ハンガリー王に加冠して提携した。11世紀後半に教皇グレゴリウス7世は、クリュニー修道院の粛正運動に乗じて聖職売買や聖職者の妻帯を禁止し、皇帝による叙任も聖職売買として否定した。皇帝ハインリヒ4世の反発で叙任権闘争が始まると皇帝を破門し、カノッサ事件で屈服させた。この過程で、西ローマ皇帝権がコンスタンティヌス帝により教皇に譲与されたとする寄進状は、教皇権優位の根拠とされた。

▲解答の異常なところは「一方教皇は、皇帝からの独立維持を図るポーランド王・ハンガリー王に加冠して提携した」という部分。これは教科書・参考書には見られない記事です。資料から必然的に出てくる史実でもない。これが一橋の過去問から一橋向きに必須の知識であるというなら頷けるが、過去問にこうした類題は見られない。問いの中にある東欧に関することがらは「神聖ローマ皇帝権の帝国の東方地域」であって教皇がどうしたかではない。解説にはこの教皇の加冠という行為について一切言及していないのはなぜでしょうか?
 もうひとつ疑問になるのは、「11世紀」とあるのに十字軍を提唱したウルバヌス2世のことが何も書いてないことです。一橋の過去問(2002)に叙任権闘争とこの教皇との関わりについて、「十字軍が提唱されたのも、聖地の解放を目指すとともに、ローマ教皇がキリスト教世界の指導者であることを示すためだった」と説いてから、叙任権闘争について書かせています。半田元夫・今野國雄『キリスト教史ⅰ・宗教改革以前』(山川出版社、p.384)に「クレルモン教会会議は第一回十字軍を宣布したことで有名であるが、それに先立ってこの会議は聖職売買の禁止(第六条)、姦淫聖職者の罷免(第九条)、俗人叙任の禁止 (第一五、一六条)、聖職者の国王ないし世俗領主への忠誠宣誓の禁止(第一七条)など二八カ条にわたる決議を採択し、教会改革に新たな段階を画した」とあります。

(わたしの解答例)
オットー1世はスラヴ人を討ち、マジャール人の脅威を取除いた。また世俗の大諸侯の力を削ぐために帝国教会政策を実施し、王領地を聖職者に寄進して諸侯と同等の権利を与え聖職者を味方につけた。それは叙任権を皇帝が掌握して、教会への統制を強めるためであった。かれは教皇ヨハネス12世から神聖ローマ帝国の帝冠をいただいた。一方、クリュニー修道院は「地上の皇帝が権力を掌握すること」に反対しており、聖職者が叙任権を掌握することで、聖権と俗権を分離する運動をはじめた。当時は私有教会制があり、世俗の諸侯が自領地内の教会・修道院にたいして叙任権を行使していたが、これに挑戦した。その意向を受けた教皇グレゴリウス7世が皇帝の叙任権を否定すると、皇帝ハインリヒ4世はカノッサの屈辱を受けたが、後で教皇を追いつめた。しかしクリュニー修道院出身のウルバヌス2世はクレルモン公会議において世俗権力にたいする忠誠禁止を聖職者に説いた。


第2問 次の文拿を続んで、問いに答えなさい。

戦争教書
合衆国上院及び下院へ。イギリスとの関係においてこれまで受けてきた一連の出来事を示す確かな文書を私は議会に伝達します。イギリスが今、従事している戦争は、1803年の対ナポレオン戦争再開を越えるものではなく、あまり重要ではありませんが正されていない過ちを省こうとするものですが、イギリス政府は、独立国であり中立国である合衆国に対して一連の敵対行為を働いています。イギリス艦船は、国際法上、敵国に対して認められる交戦国の権利を行使するという名目ではなく、自国の臣民に対する国内の特権を行使するという名目の下、公海上でアメリカ船に対して侵害行為を続けていて、その下で航海する人員を拘束のうえ連行しています。
……またイギリス艦船は、我々の海岸における安全と権利に対する侵害を行ってきました。彼らは遊弋(よく)して我々の通商を妨害しています。最も悔辱的な口実で、彼らは我々の港湾に対して無法な行動を取り、我々の神聖な領域内で妄りにアメリカ人の血を瀧しました。
(「ジェームズ・マディソン伝記事典」より引用。但し、一部改変)

問い この教書を機に始まった戦争名を明記し、その背景および開戦までの経緯を、アメリカ合衆国成立の時期から述べなさい。また、この戦争が1820年代の合衆国の社会・経済およぴ対外政策に与えた影響について説明しなさい。(400字以内)

答案例
米英戦争。アメリカ合衆国建国後、ワシントン大統領は国内の党派対立緩和を優先してフランス革命に対し中立を維持し、ジェファソン大統領もナポレオン戦争に対し中立を続けた。この間合衆国はヨーロッパとの貿易で利益を上げたが、イギリス・フランスは互いの通商を妨害しようと図り、アメリカ東海岸やカリブ海でアメリカ商船を攻撃した。ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、これに対抗してイギリスが海上封鎖を強化し、港湾の侵略や先住民への支援を行ったため、アメリカ・イギリス間の関係が悪化して米英戦争が勃発した。戦争中はヨーロッパ諸国からの輸入が事実上途絶えたため、北部では綿工業から機械化が進展し、合衆国はイギリスからの経済的自立を実現した。またアメリカ・ナショナリズムが高揚し、州を超えた国内の一体化が進んだ。戦争後モンロー大統領は新旧両大陸間の相互不干渉を唱えるモンロー教書を発表し、合衆国の孤立主義の方針が確立した。

▲ 「党派対立緩和」というかんたんな文では、「アメリカ合衆国成立の時期から」という問いの答えとしては、あまりに軽い扱いです。史料にある「敵対行為」「通商を妨害」というイギリスの行為にたいして、強くあたることのできる政府、つまりは中央集権国家をつくるかどうかは、連邦派・反連邦派で対立があり、わずかな差で連邦派の意見が勝ち、合衆国憲法も成立したはずでした。
 また「綿工業から機械化が進展」が「合衆国はイギリスからの経済的自立を実現した」というのは誇張です。わずかな工場が建てられただけなのに「自立実現」は無理があります。合衆国は第一次世界大戦まで、高関税政策をとり、資金は英国に頼って経済繁栄してきた国であり、自立はできていません。用語集の「アメリカ産業革命」は「1830年代、木綿工業・金属機械工業を中心に産業革命が本格化し、60年代南北戦争によって国内市場が統ーされ、一応、産業革命が完成した」と説明しています。2014年版の用語集では「1830年代から北部の工業化が本格化」と。

(わたしの解答例)
米英戦争。独立革命のさい、通商面でイギリスに負けないように経済統制のできる中央政府をつくる連邦派が反連邦派に勝って合衆国憲法ができた。ところがナポレオン戦争中にイギリスが海上封鎖を行って合衆国の通商を妨害したために、この戦争が勃発した。戦争の終結で講和し、互いの戦争中の領土は返したが、戦争中にイギリス商品の流入がとだえ、合衆国の綿工業の発展が促進された。独立革命時は母国にたいする躊躇が見られたが、この戦争のときはそれがなくなり、対等な国として戦争をたたかう国民主義がおきた。しかし戦争中から始まったラテンアメリカ諸国の独立運動に介入しようとするウィーン体制があり、これをモンロー宣言で拒否した。この宣言は合衆国が欧州に介入しない代わり、西欧がアメリカ大陸に介入するのを拒否する孤立主義で、合衆国の経済を守ろうとするものであった。保護関税政策でイギリスに対抗し、産業革命が本格化する準備をととのえた。


第3問 1885年に書かれた次の文章を続んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり、ーを支那と云ひ、ーを朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本国民に異ならずと雖ども、其人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟(か)、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の辺を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々するの情は百干年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、ーより十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文とて明東漸の風潮に際し、辿(とて)も其独立を維持するの道ある可らず。
(歴史学研究会編「日本史史料4J より引用。)

問1 この文章は前年に朝鮮半島で起こったあるクーデタで、朝鮮の近代化を目指したグループが敗れたことを背景に書かれたものである。このグループの指導者は誰か。
問2 この文章の筆者がこのような主張を展開したのは東アジアにおける歴史的伝統性の維持を模索する中国や朝鮮の為政者の態度が、「固陋」なものにみえたためであろう。1870年代から1895年にかけて中国を中心とした東アジアの歴史的伝統性、即ち国際秩序がどのように推移したかについて説明しなさい。その際下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引くこと。
 
  日清修好条規 琉球 閔氏

答案例
1 金玉均。2 1870年代の清は、欧米諸国とは対等外交を認めて洋務運動による近代化を進めたが、アジア諸国に対する冊封体制は維持しようとした。朝鮮は大院君政権のもと清との冊封関係を維持し、鎖国政策をとった。日本は明治新政府が近代化を進める一方、清・朝鮮に対して対等外交を求め、清とは日清修好条規を結んでこれを実現した。しかし日清両属であった琉球の帰属は解決せず、日本は台湾出兵を経て琉球を沖縄県として編入した。また朝鮮では大院君を排除した閔氏政権に対して江華島事件を起こして日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させ、清から独立させようとした。このため日清間で朝鮮を巡る対立が起こり、壬午軍乱・甲申政変では清による朝鮮への宗主権が維持された。その後甲午農民戦争を機に日清戦争が起こり、敗れた清は日本と下関条約を結び、朝鮮の独立と台湾の割譲を認めた。これにより冊封体制に基づく東アジアの国際秩序は崩壊した。

▲ まちがいはないですが、(日清間で朝鮮を巡る対立が)起こり、(日清戦争が)起こり、と自然発火したかのように「起こり」を繰りかえしている文章が気になります。
 2007年の『詳説世界史』は、

戦いに敗れた清は、翌95年の下関条約で……この結果、日本は大陸侵略の足場を朝鮮にきずくこととなり、極東で南下をめざすロシアとの対立を深めていった。

と書いていましたが、2018年発行の『詳説世界史』は、

戦いに敗れた清は、翌95年の下関条約で……はじめての植民地経営に乗り出した。また、「朝鮮の独立」という名目とは裏腹に、日清戦争後の日本は朝鮮への支配を強めて大陸侵略の足場を築こうとし、極東で南下をめざすロシアと対立を深めていった。

 前者の教科書になかった「「朝鮮の独立」という名目とは裏腹に、日清戦争後の日本は朝鮮への支配を強めて」という語句が加わっています。つまり「対等外交を求め」は名目、つまり嘘で、大陸(中国)進出の足がかりとして朝鮮を植民地化することを初めから狙っていた、ということを明らかにしています。歴史学の進歩がここに反映されています。自然発火したのでなく、能動的に日本が侵略したということです。解答文もそれを反映してほしいものです。せめて教科書に近づいてほしい。
 しかし教科書とて、歴史学の進歩をささやかに示しているだけで、まだまだです。この程度のことは、すでにインドのネルーが1930年代に娘に語っていたことでした。以下。

 中日戦争(日清戦争)……中国にたいして、日本を西洋列強と同等の地位におく条約〔下関条約〕の締結を強要した。朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすヴェールにすぎなかった。(ネルー『父が子に語る世界歴史 4』みすず書房、p.170)

 事実はこうでした。
 参謀本部第二局長の小川又治・陸軍大佐は、二度にわたる清国視察のうえにたち「清国征討対策案」(1887)を書いていました。ここには5年後の戦争開始、作戦、講和内容に奪うべき地名(遼東半島・澎湖島・台湾・揚子江沿岸・杭州湾の舟山群島など)も記していました。参謀本部次長の川上孫六は「このさい支那(中国)を片づけてしまわなくてはならぬ」と言っていました。侵犯行為の計画です。
 明治政府が日清戦争開戦のさいに 「清国及朝鮮国 」の「両国」 を相手にした戦争を考えていました。甲午農民戦争を鎮圧できず、李氏朝鮮が清国に軍隙の派兵を要請したのに対抗して、日本も陸海軍約8000名の兵士を派遣します。表向きは「公使館および居留民保護」でしたが、朝鮮政府は日本兵の撤退を要求してきました。ここで朝鮮と清朝が組むことが予想できます。
 大島公使が考え、日本政府に提案した「開戦の口実」案は、朝鮮王宮を軍事占領し、朝鮮国王を「わが手中におき、軍事的威圧を加えて国王に「我が国の要求に応従」させ、国王から朝鮮に駐留している清国兵を「朝鮮国外に駆逐すること」をわが国に「要請」させる、というものでした。朝鮮政府はこれを拒絶します。ここで朝鮮に対する戦争危機がせまります。この段階では宜戦の対手国は清国と韓国でした。
 当時の参謀本部による「日清戦史草案」では、王宮占領→国王逃亡防止→国王を手込めにする、でした。これを実行して高宗を捕虜同然にしたのですが、戦後に参謀本部が出版した『日清戦史』は、日朝両国軍の衝突は「韓兵より突然射撃を受け」たことによる偶然のできごととする捏造が記されました。
 清軍を追撃して戦争はおわるはずでしたが、計画案では渤海・黄海の制海権、河北省(当時は直隷、北京市・天津市を含む)もとる予定でした。中国のっとり作戦です。じっさい南満州・遼東半島に進軍しました。もともと戦争を朝鮮半島に限定するつもりはありません。まして「朝鮮独立」のためでないことは計画どおりでした。

(わたしの解答例)
1 金玉均。2朝鮮は清国に服属し、琉球は清日に両属していた。日本は中国に服属せず、日清修好条規を結んで対等外交をはじめ、軍事的に琉球を鹿児島県に編入した。漁民殺害を機に台湾に出兵し華夷秩序の解体を試みた。翌年、雲揚号が徴発して江華島を占領し、不平等な日朝修好条規を結ばせた。閔氏がにぎる朝鮮政府を壬午軍乱が倒し大院君が政権を奪回しようとした事件は清朝の介入でついえた。その結果、清朝と朝鮮の関係が密となったが、親日の開化派と親清の事大党という官僚の対立も生まれた。前者が日本の武力をかりたクーデタは失敗した。李朝政府に甲午農民戦争が挑戦すると、政府は清軍に援軍を依頼、日本軍はこれを機に朝鮮宮廷を襲い、高宗を捕らえ日清戦争を起した。つづく農民戦争は弾圧した。下関条約で朝鮮の「独立」を認めさせ、台湾は台湾民主国独立を宣したが日本軍が鎮圧した。さらに親露になった閔妃を日本の外交官が主導して焼殺した。

 なお引用文の福沢諭吉という扇動家が、甲申事変の黒幕として失敗したことを棚に上げて、「改進の辺を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々するの情は百干年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ」という中韓を蔑視した文章は、当時の日本人の傲慢さをよく表していています。日本自体もこの文章内容と同じであったのに、西欧化という点で時間的に遅れた国々を「辿(とて)も其独立を維持するの道ある可らず」との極論は、視野の狭さを示しています。同時に大陸進出という強欲を隠しています。出題者も「「固陋」なものにみえたためであろう」と福沢の主張に賛同しているような書き方をしています。いかがなものか。

 

B模試
第1問・第2問
 史料がたくさん載っている問題ですが、3問どれも特に読まなくては解けない問題ではなく、なぜこれほどの史料が必要であったのか疑問がのこります。一橋の過去問にもこれほどの史料を読ませた問題はないですね。史料を出した場合は、もっと設問と密接な関連をもっていましたが、どれも密接度は薄い。次の第3問もそうでした。

第3問 次の史科を読んで、問いに答えなさい。
史料1〕アメリカの駐清公使による朝鮮問題についての考察(1906年刊)
 朝鮮半島をはさんで、中国と日本は向き合っている。もし、朝鮮が独立国家であれば、日本は朝鮮が望む以上にその内政に干渉し、清はそれに対して腹を立てる権利もなかったであろう。しかし、もし朝鮮が清の属国であれば朝鮮は日本との関係について清にお伺いを立てねばならなくなる。他方、日本は、アメリカが日本の開国に果たしたのと同じ役割を朝鮮に対して担えるという漠然とした考えをもっていたようだ。われわれの日本における成功は驚くべきことであり、またアメリカは日本のために偉大で、強い政府を作った。ある東方の国家が他の東方の国家に対して、アメリカが日本にしたのと同じ役割を果たすという考えが、感情的に日本を魅了しているようである。この問題全体の根本は、要するに朝鮮が清の朝貢国であるか否か、ということである。
 (歴史学研究会編「世界史史料9』より引用)

史料2〕日本の外交官小村寿太郎による極東情勢についての考察(1900年)
 英国は南阿戦役(※注:ブール戦争)で、政府も人民も植民地防御問題に余程(よほど)頭を悩ましたようです。ところが今度の北京事変(※注:義和団事件)で、一層その度を増し来た。英国は実際今度東洋で僅々(きんきん)一万の兵も纏(まと)めることも独力では出来なかった。金ばかりあってもイザというときには、あの通り何の役にも立ちません。どうしても東洋問題は、日本を差し置いては何事も出来ぬと、英国は明らかに今度覚って来たでしょう。これからです。いよいよ日本が世界の舞台に出て仕事の出来るのは。日本の兵隊は初めて文明国の兵隊と肩をならべて戦い、勇気のあること、規律の正しいこと、決して欧米の兵隊に劣らぬことを証明した。諸外国は初めて日本の恐るべきことを悟ったでしょう。……(中略)……何時でも日本が戦争するときは、一度に敵を打ち破って置いて、後は外交の力でやるようにしなければ駄目です。(外務省編『小村外交史』上より引用。但し、一部改変)

史料3〕日本の外務省調書「アジア局関係問題を中心として見たる太平洋会議方針」(1921年7月)
 要乃国際管理(※注:列強による中国の国際共同管理案)はあるいは支那および列国に対し諸提案者の高唱するが如き福利を招来するやも計られず。然れども国際管理は哲学上の議論にあらず。……今回の華府(※注:ワシントン)会議においては北京政府を相手として交渉するの外なきも、現在の中央政府は甚だ無力なること……支那の現状とさきに「パプリック・レジャー(※注:フィラデルフィアで発行されていた新聞の名称)」の発表案に対する支那の世論とに顧み、支那の一般的国際管理案の実行は不可能なるは勿論なり。……従って目下実行しうるべき案は(イ)支那を本位として支那人の自尊心を偽つけざる方式においてすること。(口)地方督軍等の利益に急激なる変化及ぼさず、彼らより激烈なる反対を招かざる程度のものとなること。(ハ)外国援助による改善の道程を除々たらしむること。(二)従ってこれを小仕掛にし、なるべく目立たぬ方法によることを要す。
(酒井一臣「近代日本外交とアジア太平洋秩序Jより引用。但し、一部改変)
 上の文章は、19世紀後半から1920年代初めにかけての、日本の外交に関する史料である。〔史料l〕は19世紀後半の朝鮮半島情勢について、〔史料2〕は義和団事件期の極東をめぐる国際情勢について、〔史料3〕では第一次世界大戦後のアジア・太平洋に関する会議に向けての日本の外務省の方針が記されている。

問い 史料を参考に、19世紀後半から1920年代初めまでの時期において、欧米列強の東アジア進出に対し日本がどのように対抗し、また、日本の東アジア進出に対し列強がどのように対応したのかについて述べなさい。その際、次の語句を必ず用い、その語句に下線を引きなさい。国名はわかる範囲で漢字の略記を使用して構わない。(400字以内)

 樺太・千島交換条約 日英同盟 日米修好通商条約

解答例(下線なし)
アロー戦争で清を破った英仏は北京条約で自由貿易や対等外交を強要、同時期露も沿海州まで進出した。米との交渉で開国した日本は、日米修好通商条約などの不平等条約で自由貿易に組み込まれ、国内不満から明治維新に至った。日本は清と対等な国交を結ぴ、露との樺太・千島交換条約などで国境を定めた。江華島事件で開国させた朝鮮に進出すると宗主国の清と対立、日清戦争に勝利して遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。清の弱体化から列強が中国を分割すると、米は門戸開放宣言で牽制した。義和団事件後、露の満州占領を警戒して日英同盟が成立、日本は英の支援で日露戦争に勝利し韓国併合を進めた。第一次世界大戦で独に宣戦した日本は青島を占領、中国に二十ーか条要求を承認させた。戦後のワシントン会議では四か国条約で日英同盟を解消し、九か国条約に基づく日中間の条約で日本が山東権益を中国に返遠、米英が日本の勢力拡大を抑えた。

▲ 分解コメント
1 アロー戦争で清を破った英仏は北京条約で自由貿易や対等外交を強要、同時期露も沿海州まで進出した。
……課題で「欧米列強の東アジア進出に対し日本がどのように対抗し……列強がどのように対応」というものであるにかかわらず、これは日本とは直接関係のないことがらを書いています。次文の前提として書いたのでしょうが、次文には、この列強の進出がどう日本に響いたのか関連付けた文がありません。日本への圧力になったということを言いたいのであれば、「列強はアロー戦争で自由貿易や対等外交を強要、露も沿海州まで迫った」として、その上で次文ではこれに対抗する日本の体制変革につなげたら良かった。

2 米との交渉で開国した日本は、日米修好通商条約などの不平等条約で自由貿易に組み込まれ、国内不満から明治維新に至った。
……「米との交渉」はアロー戦争のように日本も植民地化の危機を迎えていると「交渉=脅迫」されており、開国と不平等条約は国内分裂をきたし、薩長による明治維新に帰結した、と文1との関連づけをすべきでした。

3 日本は清と対等な国交を結ぴ、露との樺太・千島交換条約などで国境を定めた。
……「清と対等な国交」は解説文にあるように日清修好条規(1871)のことですが、じっさいにはそれを破って台湾出兵(1874)をおこない、ロシアとは樺太千島交換条約(1875)で国境の画定、というより大国同士の領土拡大をしました。幕末から征韓論のわきたつ日本は、国内の抗争を外に向けるべく対外進出の機会をねらっていきます。台湾出兵が欠けています。

4 江華島事件で開国させた朝鮮に進出すると宗主国の清と対立、日清戦争に勝利して遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。
……ここは日本側の侵略と列強の対応が表されています。ただ「開国」は西欧に見習った不平等条約のおしつけであり、「朝鮮の自主独立」は言葉だけの虚偽的なものでした。また台湾をとり、日清修好条規に書いてある「両国は互いの「邦土」への「侵越」を控える」をもう破ってしまいました。「干渉」を受けたのも仕方ないことでした。三国の公使が外務省を訪れ、「日本が遼東半島を領有するのは、直ちに清国の首都北京を脅かすものであるばかりか、朝鮮の独立を有名無実にするものであるから、永く東洋平和を害することになるので、よろしくこれを放棄せられたい」と言ってきました。

5 清の弱体化から列強が中国を分割すると、米は門戸開放宣言で牽制した。
……この中国分割になにも日本が関わっていないようなものになっていますが、日本は福建省不割譲条約を結んでいます(1898)。これも欠けています。

6 義和団事件後、露の満州占領を警戒して日英同盟が成立、日本は英の支援で日露戦争に勝利し韓国併合を進めた。
……ここは問題なくできてますが、義和団事件については、8ヶ国出兵の中では主力であったこと(〔史料2〕で力を示したことが日英同盟につながります)、北京議定書で駐兵権を獲得していることを追記してもいいはずです。〔史料2〕にある「規律の正しい」は真っ赤なウソです。略奪・放火・殺戮・強姦は他国と同様にやっていました。これは書かなくていいことですが。
 露から南満州鉄道をとりあげています。また桂・タフト協定(1905)で韓国にたいする優越権を合衆国に認めさせています。

7 第一次世界大戦で独に宣戦した日本は青島を占領、中国に二十ーか条要求を承認させた。
……ここは日本の侵略のすがただけで特に問題はありません。

8 戦後のワシントン会議では四か国条約で日英同盟を解消し、九か国条約に基づく日中間の条約で日本が山東権益を中国に返還、米英が日本の勢力拡大を抑えた。
……ここも問題なくできています。

(わたしの解答例 ──下線なし)
列強はアロー戦争で自由貿易を強要、露も沿海州まで迫った。脅威に感じた日本は、米国による開国と日米修好通商条約で国内に分裂をきたし、薩長による明治維新に帰結した。対抗して清と日清修好条規を結び、台湾出兵を行ない、露と樺太・千島交換条約を結んだ。幕末からの征韓論を実行し朝鮮を開国した。ここに鉄道・通信施設を建設して中国をねらった。東学農民戦争を利用して日清戦争をおこし、遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。列強による中国分割に日本も相乗り福建省を勢力圏とした。義和団事件で日本は最大の軍を派遣し、議定書により莫大な賠償金と駐兵権を獲得した。英国はこの軍事力を利用しようと日英同盟を結んだ。この同盟を基盤に日本は日露戦争を戦い、桂・タフト協定で米国に韓国に対する優越権を認めさせた。第一次大戦中に青島を占領し、袁政府に二十一カ条要求をつきつけたが、戦後の九ヶ国条約で抑制された。