世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大2010-予備校の答案

東大世界史・2010年各予備校の答案例とわたしの異見。最下段に合格者の解答。下線なしで。

河合塾)出典 http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/t01.html

中世末にバルト海交易に進出したオランダは、近世にかけてエルベ川以東の穀物を西欧へ供給し、東欧を従属下に置いた。16世紀後半にはハプスブルク家に対し独立戦争を行い、旧教に対する新教の宗教戦争を先導し、新教徒の商工業者や文化人を吸収した。独立後はバタヴィア、台湾、長崎を拠点に香辛料貿易とアジア域内貿易に参入し、大西洋交易にも進出してニューヨークの原型を建設するなど商業覇権を確立した。アムステルダムは国際商業・金融の中心となり、この時期にグロティウスは海洋の自由を主張し、三十年戦争に際し国際法を提唱して主権国家体制を秩序づけた。商業覇権は、航海法の制定や英蘭戦争など重商主義により台頭したイギリスに移った。株式会社制度や国債発行などの金融財政システムも、名誉革命後のイギリスに継承された。17世紀末以後のオランダは、東南アジアの諸島部でコーヒーやサトウキビ栽培などの植民地経営を開始しヨーロッパの植民地主義の先駆となった。アフリカ南部のブーア人国家は南アフリカ戦争でイギリスに併合されたが、これを機にイギリスが光栄ある孤立を放棄したことは、第一次世界大戦に向かう同盟外交の契機となった。オランダの植民地帝国は、太平洋戦争でインドネシアを日本に占領された後、戦後の民族独立運動により解体に向かった。こうしたなか主権を超克する欧州統合に当初から参画したオランダは、マーストリヒト条約の調印の場となった。

▲ この解答例は7つの中では一番良いものです。しかし欠点もあります。他の解答例もそうですが、課題になっている「中世末(14-15世紀)」の解答文がないことです。導入文に「中世から……早くから都市と産業が発達」とあるので何らか説明すべきです。

 「中世末にバルト海交易に進出したオランダ」では役割になってないし、中継貿易をして利益をあげたことが「東欧を従属下に置いた」といえない。「従属下」などと、いくらなんでも誇張です。ネーデルラント諸都市が東欧産穀物をさかんに輸入してくれたお陰で東欧貴族たちが領主直営地における穀物の増産に乗り出し、農民の賦役を強化して労働力を確保する必要性がでてきました。農場領主制(グーツヘルシャフト)です。従属下したのは農民であって(再版農奴制)東欧の王朝も支配層の貴族も従属化されたのではありません。かれらは潤っていてその勢力を拡大しています。確かに『近代ヨーロッパの誕生』(講談社選書メチエ)には輸送費の数字をあげて「ポーランドは、西欧、主としてオランダに従属する傾向があった」と書いています。ここでいう「従属」は穀物や材木の輸送(船)をオランダに依存したということであって、それをポーランドだけでなく「東欧」全体にまで及ぼして「従属下」と断定しています。河合塾は誇張の上塗りをしています。利益をあげたポーランドの貴族たちをシュラフタといいますが、かれらが国王のいなくなったのを幸いと互いに選挙しあって国王を決めていて、それを自ら「シュラフタ民主政」とさえ言っていました。貴族の中には国庫収入よりも利益を上げた貴族もいたことが、ポーランド史の専門書には出てきます。

 またこの中継貿易には何より船が必要ですが、船を造るのに必要な木材や、ピッチ(防水剤)、タール(塗料、黒船が黒いのはこのタールのため)などは低地にはなく、ともに東欧からの輸入に頼っていました。オランダも依存しています。

 この部分にかこつけて、夏のオープンに出たから的中したと喜んだコメントが「分析」に載っていますが、夏のオープンの問題はオランダ史ではないし、15世紀だけを異様に注目した、それ自身が問題をかかえた問題でした(詳細はこちら)。それがどうして20世紀まで網羅しなくてはならない受験生にとって「模試の受験者は迷わずに解答にたどりついたであろう」ということになるのか? もちろん役割の問題でもありませんでした。どこが「ズバリ的中」なのか? 誇張しすぎると嘘になります。

 「新教徒の商工業者や……を吸収した」はいいとしても「文化人を吸収した」は導入文に「経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり」のコピーにすぎないから、どういう文化人なのかが書いてあると良かった。それにこれはどういう世界史的役割だと言いたいのか?

 「独立後はバタヴィア……商業覇権を確立」はできてます。

 「国際法を提唱して主権国家体制を秩序づけた」のうち「秩序づけた」は戦争・会議・条約の総体であり、グロティウスの思想を「秩序づけた」とすると誇張です。グロティウスはウェストファリア条約が締結され前の1645年に亡くなっており、秩序が決まる前にこの世にいません。ここは「提唱」や先駆にとどめておきたいものです。日本に国際法を伝えたのもオランダ人でした(西周がオランダ留学で学んで書いた『万国公法』)。この問題はオランダ贔屓(びいき)が課題ではあるものの、誇張しすぎると嘘臭くなります。

 「株式会社制度や国債発行などの金融財政システムも、名誉革命後のイギリスに継承された」もできてます。東インド会社は「世界最初の株式会社として1602年設立」として知られていますから良いとして、「国債発行などの金融財政システム」はカンニング的・ペダンティックな解答です。真似なくていい部分です。それに「継承」は役割としては弱い。

 「ヨーロッパの植民地主義の先駆」は誇張です。コロンブスから始まっていることであり、東南アジアに関しては「16世紀から17世紀の初めにかけて、まずポルトガル、ついでオランダが、東シナ海と南シナ海を結ぶ中継貿易の利益をねらってこの地域に進出し(詳説世界史)」という順です。コーヒー・プランテーションとしては先駆は合ってますが、植民地主義の先駆ではありません。

 「南アフリカ戦争でイギリスに併合されたが、これを機にイギリスが光栄ある孤立を放棄したことは、第一次世界大戦に向かう同盟外交の契機」は回りくどい説明。これは第一次世界大戦までもっていく必要はなく、パクス=ブリタニカを危機に陥らせた、でいい。同盟外交云々は日英同盟を意識してでしょうが、「契機」をいうなら露仏同盟の方が早い。

 「オランダの植民地帝国は、太平洋戦争でインドネシアを日本に占領された後、戦後の民族独立運動により解体に向かった」は日本の役割になってます。

 「条約の調印の場となった」程度で役割か? 弱い。

 全体として経済と政治に偏り、文化面はグロティウスくらいしかない。この文化面の記述が薄いことは下のどの解答例にも該当します。「ヨーロッパの経済や文化の中心」が表せなかった。 

代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/tokyo/zenki/sekaishi/images/kai.pdf

15世紀末からハプスブルク家の支配下に入ったネーデルラントは、16世紀にスペインとの独立戦争を行い、北部7州がオランダとして独立した。オランダは17世紀に通商国家として発展し、アジアでは東インド会社がジャワ島のバタヴィアに拠点を築いて香辛料貿易を独占し、鎖国時代の日本とも長崎の出島を拠点に西欧諸国の中で唯一交易を許された。オランダ出身の法学者グロティウスの『海洋自由論』や『戦争と平和の法』はこうしたオランダの海外進出と国際的地位を擁護したものである。やがてオランダは英蘭戦争に敗れて商業上の覇権を失い、新大陸に建設したニューアムステルダムもイギリスに奪われニューヨークと改称された。またケープ植民地もウィーン会議でイギリス領となり、オランダ系移民の子孫はオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を建設したが南アフリカ戦争によりイギリスに征服された。一方アジアではジャワを中心にオランダ領東インドでの植民地形成を進め、19世紀にはコーヒーなどの商品作物の強制栽培制度を実施して莫大な利益をあげたが、太平洋戦争で日本に占領され、日本の敗戦後はインドネシアとして独立したためオランダの植民地支配は終わりを告げた。第二次大戦後はヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の原加盟国となり、さらにヨーロッパ共同体の創設メンバーとなるなどヨーロッパの統合に積極的に参加し、1992年のマーストリヒト条約によってヨーロッパ連合が発足した。

 ▲流れだけで役割はまったく書かなかった悪答。HPにある分析にも「オランダを軸として世界史の流れを論述する問題……全体の流れに乗せて……歴史の大きな流れ」とあり、問題を読まなかったようです。低点答案の模範。

駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/toudai_zenki/sekai/index.htm

【近現代に比重を置いた解答案】

スペイン=ハプスブルク家のカルヴァン派弾圧に対し、オラニエ公に率いられて北部7州がネーデルラント連邦共和国の独立を宣言し、ウェストファリア条約で認められた。東インド会社を設立してアジア貿易に乗り出し、グロティウスは『海洋自由論』でスペインの海上支配を批判した。17世紀前半には中継貿易で全盛を極めた。しかし英の航海法発布を機に始まる英蘭戦争で敗北。蘭領ニューアムステルダムは、英領ニューヨークとなった。アジアでは、ポルトガルに代わって香辛料貿易を独占し、アンボイナ事件で英を排除、ジャワ島のバタヴィアを拠点に東インド植民地を建設。台湾のゼーランディア城、日本の長崎にも貿易拠点を置いた。19世紀、ナポレオン戦争を経てケープ、セイロン、マラッカなどを英に奪われ、ジャワではコーヒーなど強制栽培制度を導入した。ケープでは、英の支配を嫌うオランダ系の入植者がトランスヴァール共和国などを建国するが、ダイヤモンド利権をめぐる英との南アフリカ戦争に敗れ併合された。20世紀、東インドではサレカット=イスラームなどの民族運動が高揚し、太平洋戦争中の日本軍の占領を経てインドネシアが独立した。第二次世界大戦で本国が戦場となり、最大の植民地を失ったオランダは、欧州統合に活路を求めた。仏・西独・伊・ベネルクス3国で欧州石炭鉄鋼共同体を結成。これが欧州共同体に発展し、冷戦終結後のマーストリヒト条約で欧州連合が発足した。

【前近代に比重を置いた解答案】

15世紀後半にハプスブルク家領となったネーデルラントでは中世以来、商工業が発展、宗教改革後、カルヴァン派が拡大した。フェリペ2世の旧教強制などの抑圧に対しオラニエ公を中心に北部7州がネーデルラント連邦共和国として独立した。17世紀には世界初の株式会社・蘭東インド会社がポルトガルや英を排しバタヴィア、台湾などを拠点に鎖国中の長崎で得た日本銀で中国物産も獲得するなどアジアとの中継貿易を独占、首都アムステルダムは欧州経済の中心となった。蘭独立を国際的に承認したのは三十年戦争後のウェストファリア条約であるが、この戦争中グロティウスは『戦争と平和の法』で国際法の確立を提唱した。新大陸には蘭領ネーデルラントを築いたが、英蘭戦争で喪失し英領ニューヨークとされ、続く英仏との抗争で海上覇権も失った。ナポレオン戦争中に東インド会社は解散、戦後、蘭系ブール人の入植したケープ植民地は英領となった。ブール人の移住地は南アフリカ戦争後に英領南アフリカ連邦に併合されたが、彼らの懐柔のため人種隔離政策が開始された。一方、ジャワではベルギー独立による経済破綻を背景にコーヒーなど商品作物の強制栽培で農民を困窮させた。20世紀初めまでに島嶼部を征服して蘭領東インドを形成したが、太平洋戦争中、スカルノは日本と提携、戦後インドネシアとして独立した。冷戦期の蘭は欧州統合に参画し、同国で調印されたマーストリヒト条約でEUが成立した。

 ▲【近現代に比重を置いた解答案】これも流れに終始していて、「17世紀前半には中継貿易で全盛を極めた」が、いくらか世界史的?

【前近代に比重を置いた解答案】2つの答案を分けた意味がない。比重は等しい。いくらか解答として拾えるところは、「中継貿易を独占、首都アムステルダムは欧州経済の中心となった」だけ。他は上の悪答と同じ。わたしも駿台の講師の一人ではあるものの、ネットの中でものを言っているのであり、この記事を読むのは目に触れた受験生全体に対しての発言のつもりであり、駿台だけという立場はとらないことにしています。どこかの予備校だけ誉めたたえることもしません。今まで添削してきた受験生も駿台以外の学生の方が多かった。ずけずけ物をいう人間に対して寛容な点は駿台経営者の大きいところです……といつまで言えるか(^^;)。もちろん、ここに書いているわたしの異見は、わたし個人の異見であり、眉唾つけながら読んで下さい。冷静な目を。f:id:kufuhigashi2:20130623211406g:plain

東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html

(例1)

15世紀末にハプスブルク家領となったこの地域では、16世紀後半に新教徒がスペインからの独立を宣言し、1648年のウェストファリア条約で国際的に承認された。この間、東インド会社を設立したオランダは、ジャワ島のバタヴィアを拠点に東南アジア商業をおさえ、台湾は鄭成功に奪われたものの長崎で日本と通商した。一方、西インド会社を設立し、北米東岸に現在のニューヨークの原型となるニューアムステルダムを、またアフリカ南端にはケープ植民地を建設した。こうして17世紀にオランダは世界商業の覇権を握った。この時期は文化的にも繁栄し、グロティウスは国際法思想の発展に寄与した。英蘭戦争でイギリスに敗れたものの、首都のアムステルダムは世界金融の中心の地位を保持した。19世紀前半にベルギーが独立して財政難に陥ったオランダは、ジャワ島にコーヒーなどの栽培を強制する強制栽培制度を導入した。20世紀初頭にはスマトラ島のアチェ王国を征服してオランダ領東インドを完成させた。南アフリカ戦争でオランダ系移民の子孫であるブール人は敗れたものの、イギリスの世界覇権は動揺した。太平洋戦争中、日本が占領したオランダ領東インドは、戦後インドネシアとして独立を宣言し、オランダはハーグ協定でこれを認めた。こうして植民地を失ったオランダは、ヨーロッパ統合に活路を見出し、オランダで開催されたEC首脳会談の結果、マーストリヒト条約が採択されてEUが成立した。

(2)

スペインのハプスブルク家の支配下にあったオランダは.フェリベ2世の圧政に対して独立戦争を起こし、1581年ネーデルラント連邦共和国として独立宣言を行い1609年独立を確保した。国際的な独立承認は三十年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約によるが、オランダ人グロティウスはこの戦争の惨禍を見て、自然法思想に基づく国際法確立の必要を説いた。独立後のオランダは海外に進出し、東南アジアにバタヴィアを拠点としたオランダ領東インドを、北アメリカに現在のニューヨークを中心とするニューネーデルラントを築き、鎖国中の日本とも長崎で交易を行うなど、17世紀前半には世界貿易の覇権を握った。しかしその後英蘭戦争に敗北して北アメリカの領土を、ウィーン議定書でセイロン・ケープ植民地をイギリスに奪われた。オランダは1830年からジャワで強制栽培制度を採用してコーヒー、サトウキビ、藍などを生産し大きな利益をあげたが、19世紀末の南アフリカ戦争によりオランダ系プール人の建国したトランスヴァール共和国とオレンジ自由国もイギリスに併合された。オランダ領東インドも太平洋戦争中日本に占領され、戦後はインドネシアとして独立した。しかし20世紀後半になるとオランダは仏・西独・伊などとともに、EECやECなどの原加盟国となり、1992年オランダで調印されたマーストリヒト条約によりECはEUへ発展するなどヨーロッパ統合に大きな役割を果たしている。

(3)

15世紀後半以降、ハプスブルク家の領土となったネーデルラントは、16世紀後半に独立戦争を起こし、北部7州は1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を宣言した。戦争中の1602年にはオランダ東インド会社を設立して、以後マラッカやバタヴィア、長崎の出島などを拠点にアジア貿易を推進し、アンボイナ事件以降は香辛料貿易をほぼ独占するなど、17世紀前半に最盛期を迎えた。アムステルダムがヨーロッパの商業・金融の中心都市となり、同時期には『戦争と平和の法』などを著し、国際法を確立したグロティウスや画家レンブラントなどが出て、文化面でもオランダの黄金期を現出した。しかし、17世紀後半の英蘭戦争を機に海上覇権はイギリスに移り、北アメリカのニューアムステルダムもイギリスに奪われ、ニューヨークと改称された。以後、オランダはインドネシアの経営に集中し、1830年以降ジャワ島に強制裁培制度を導入して、コーヒーや藍などを栽培させて利益を上げたが、現地での米不足等の弊害も招いた。20世紀初頭には南アフリカのオランダ系移民の子孫のブール人が南アフリカ戦争に敗れてイギリスに併合され、20世紀半ぱの太平洋戦争では日本にインドネシアを占領され、戦後に独立を許すなど植民地支配も崩れたが、ヨーロッパ連合を成立させたマーストリヒト条約がオランダで結ばれるなど、オランダはヨーロッパ統合の歩みの中で重要な役割を果たしている。

 ▲ 3つも解答があっても徒労でした。(例1)で拾えるのは「世界商業の覇権を握った……国際法思想の発展に寄与した……イギリスの世界覇権は動揺した」くらい。(例2)で拾えるのは「世界貿易の覇権を握った……ヨーロッパ統合に大きな役割」のところぐらい。(例3)で拾えるのは末尾くらい。答案作成能力が低いですね。

合格者の再現答案

15世紀末からスペインの支配下にあったネーデルランドは16世紀に独立戦争を行い、北部7州が独立した。オランダの独立はスペインハプスブルク家を衰退に向かわせた。17世紀にはアジアで東インド会社が香辛料貿易を独占した。アンボイナ事件で香辛料貿易から排除された英にインドに向かわせるきっかけを与えた。アフリカ奴隷貿易に乗り出し新大陸にニューヨークの元となるニューアムステルダムを建設した。アジアの中継地としてケープ植民地を建設し、オランダ系移民の子孫は南アフリカにおける少数白人支配の契機となった。鎖国時代の日本と長崎の出島を通じて貿易し、西欧の政治事情や医学等を伝え、日本の近代化の基礎をつくった。グロティウスが著した「戦争と平和の法」は国際法の基礎になった。オランダで生まれた株式会社や公立銀行等の制度はイギリスに引き継つがれた。イギリスは英蘭戦争に勝利し商業上の覇権を奪った。19世紀にはジャワを中心にオランダ領東インドでの植民地形成を進め、英仏に先駆けてコーヒーなどの商品作物の強制栽培制度を実施した。19世紀末の南アフリカ戦争でのボーア人の抵抗は英に外交孤立主義を放棄させ日英同盟を結ばせた。太平洋戦争で蘭植民地は日本に占領され戦後はインドネシアとして独立した。第二次世界大戦後、西欧が地域統合を進めていくなかで、各共同体に参加し、20世紀末にはEUを発足させるマーストリヒト条約の締結地を提供し経済統合を進める役割を担った。

東大世界史2010

 第1問

 ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。

 このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争

 

第2問

 アジア各地には古くからそれぞれ独自の知の体系が発展し、それらを支える知識人たちも存在した。そして16世紀以降ヨーロッパの知識・学問に接するようになるなかで、それらは次第に変容していった。アジア諸地域における知識・学問や知識人の活動に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1) 読書人などとよばれた中国前近代の知識人にとって儒学と詩文は必須の教養であった。これらはいずれも漢代までの知的営為の集積を背後にもつ。この集積は時として想起され、現代に至るまでその時々の中国社会に大きな影響を与えることがあった。以下の(a)・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) それまで複数の有力な思想の一つにすぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。

 (b) 唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運について2行以内で説明しなさい。

 

(2) 14世紀半ば、東アジアは元の衰退にともない一時的に混乱した。しかし、1368年に明が建国されると、再び新たな安定の時期を迎え、知識人たちも活発に活動した。1392年に成立した朝鮮(李氏朝鮮)も、明の諸制度を取り入れながら繁栄し、知識人による文化事業が盛んにおこなわれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 最15世紀前半の朝鮮でなされた特徴的な文化事業について2行以内で説明しなさい。
 (b) 明の末期になると、中国の知識人たちは、イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの科学技術に強い関心を示した。その代表的な人物である徐光啓の活動について2行以内で説明しなさい。

 

(3) 18世紀後半以降、ヨーロッパの侵略や圧力にさらされるようになると、アジアの知識人は自国の文化の再生や政治・経済の再建を目指して改革運動をはじめた。かれらは、ヨーロッパの知識を吸収しつつ近代化・西欧化を推進しようとするグループと逆に伝統の本来の姿を復活させようとするグループとに分かれて論争し合い、政治運動も展開した。これらの改革運動に関する以下の(a)~(c)の問いに、冒頭に(a)~(c)を付して答えなさい。

 (a) 西アジアのアラビア半島ではワッハーブ派が勢力を拡大した。この運動について3行以内で説明しなさい。

 (b) インドでは、ラーム=モーハン=口一イが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。

 (c) 中国では、曾国藩・李鴻章などの官僚グループが洋務運動とよばれる改革を進めた。この運動の性格について3行以内で説明しなさい。

 

第3問

 人類は有史以来、司馬遷の『史記』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』、さらにはホイジンガの『中世の秋』などのすぐれた歴史叙述を生みだしてきた。しかし世界史教科書の記述では、文学・哲学の著作や芸術・科学技術の業績と比べて、歴史書の紹介が十分とはいえない。とはいえ歴史書は、それぞれの時代や人々の生き方と分かち難く結び付いている。そこで以下の歴史叙述に関わる文章A・B・Cのなかで、下線を付した部分に関する設問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

A 中世ヨーロッパにおいては神学が重視され、歴史叙述もその影響下にあった。このような思考の枠組を脱し人間のありのままの姿や歴史を見つめようとしたのがルネサンス期の(1)人文主義であり、そこではギリシア・ローマの古典文化が再発見されたのである。その古典期ギリシアでは(2)世界最古の個人による歴史叙述が試みられており、そうした伝統のなかで地中海世界における(3)ローマ興隆史、あるいは建国史を究めようとする歴史家も登場した。やがて古代末期になると、(4)キリスト教の信仰を正当化する歴史叙述も生まれるようになった。

(1) 政治を、宗教や道徳から切りはなして現実主義的に考察したフィレンツェの失意の政治家は『ローマ史論』とともに、近代政治学の先駆となる作品も書いている。この人物の名と作品の名を記しなさい。

(2) それまでは年代記のような記録しかなかったがギリシア人の一人はペルシア戦争の歴史を物語風に叙述し、もう一人はペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述した。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

(3) 前2世紀のローマ興隆を目撃し実用的な歴史書を書いたギリシア人がおり、ローマ建国以来の歴史をつづったアウグストゥス帝治世下のローマ人もいる。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家が現れる一方、神学とともに歴史哲学の書でもある『神の国』を著して後世の人々の信仰や思想に大きな影響をあたえた教父作家も出現した。それぞれの教父作家の名を記しなさい。

 

B アラム文字に由来する突厥文字は中央ユーラシアで活躍した北方遊牧民の最古の文字と見られる。この文字によってオルホン碑文など(5)突厥の君主や歴史に関する貴重な記録が残された。中央ユーラシアから西アジアに目を転じれば、14世紀の(6)アラブの歴史家は『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉を中心に王朝興亡の歴史の法則性を求めたが、その鋭い歴史哲学は、現在でも新鮮な示唆に富んでいる。ほぼ同時期のイランでもイル=ハン国のガザン=ハンの宰相ラシード=アッディーンは、(7)壮大な歴史書をペルシア語で記述したが、それは、ユーラシアの東西をまたにかけて支配したモンゴル帝国の歴史を知る重要史料となっている。

(5) 突厥の歴史は、現在の西アジアのある国につながっている。その国の名を答えよ。また突厥の前に現れた匈奴の最盛期の君主名を記しなさい。

(6) チュニジアに生まれたこの歴史家は、エジプトの大法官などをつとめ、シリアに軍をすすめたティムールと会見したことでも知られる。この人物の名を記しなさい。

(7) この歴史書の名を記しなさい。

C 広大な植民地をかかえるイギリスの20世紀を代表する歴史家として、トインビー(1889-1975)とカー(1892-1982)をあげることができる。トインビーはギリシア・ローマ史の研究者として出発したが、長期化した(8)第一次世界大戦に世界史を見直す手がかりを見出し、40年の歳月をかけて「文明」を構成単位とする全12巻の大著『歴史の研究』を完成させた。カーは外交官となった直後に起きた(9)1917年のロシア革命に大きな衝撃を受け、膨大な史料と対話を重ね、30年以上を費やして10巻におよぶ『ソヴィエト・ロシア史』を完成させた。一方、イギリスの植民地であった(10)インドでも優れた歴史書が書かれた。

(8) 第一次世界大戦の体験から『西洋の没落』を著して西洋文明の衰退を予言し、大きな反響をよんだ歴史家の名を記しなさい。

(9) ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し世界革命論を唱えた人物はだれか。また、ロシア革命を批判したのち、ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策にも反対し、大部の『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家は誰か。これら2人の名を記しなさい。

(10) インドの独立運動に参加し、1947年の独立直後に首相を務めた政治家は、すぐれた歴史認識の持ち主でもあり、獄中で『インドの発見』を書いた。この人物の名を記しなさい。

………………………………………

 

[第1問の解き方

 3月3日の東京大学新聞(入試問題解答号)紙上で、わたしのインタビュー記事に受験生の犯しやすいミスとして、流れを書いてしまいやすい、ということを指摘しましたが(インタビューは2月17日)、本番の26日の試験後に速報としての解答でミスを犯したの予備校の方でした(→こちら)。「役割を書け、といっているのに、なんでこんな答案を書くんやー」という嘆きは採点官にもあったはずです。

(東京大学新聞はこちら→)http://www.utnp.org/2010/03/post_1554.html

 

 これらの答案と受験生が合否の決まっていない段階で寄せてくれた再現答案を比較してみてください。カード(知識)の少ない受験生がカード(知識)をたくさん持っている講師より格段に優れた解答が作れることの実証です。わたしの解答例はこの記事の一番下にあります。

 

 昔は予備校の解答は、今のようにネットで見ることはできないので、わたしは他の予備校に冊子をもらいに行ったり、掲示されているものを写し取るようなことをしてきました。勉強させてもらう、というつもりでしたが、収集してみて分かったのは意味がないということでした。しかしそれが広く公表されていない段階では、どれくらいの違いが解答間にあるかは、わたしのように関心のある者以外は分らなかったのです。しかし今は解答は公表され、いわば、さらされている訳で、いくつかのHPや掲示板・ブログで批判もされるようになりました。

一例→http://zep.blog.so-net.ne.jp/2010-02-28 

二例→http://www.k4.dion.ne.jp/~bridging/yozemi2010.html 

三例→http://www.zkaiblog.com/hi05/archive/933 

四例→http://www.heppokoyuge.com/sub123.html)←リンク切れ

 何もその批判がすべて当たっているという訳ではありませんが、いずれにしろ批判は可能になりました。受験生も自由に見られるようになりました。

 予備校が解答を公表する目的はなにか。これが満点答案ですよ、うちの予備校にくればこれくらい書けるようにしてあげますよ、という教育と宣伝を兼ねたものであるはずで、それぞれの予備校のトップにあたる講師が書いています。それがこの程度ということです。公表することで、かえって予備校の価値を落とし、受験した学生も予備校の「模範」答案を見て、これくらいでいいのかと欺す役割も果たします。弊害の方が大きいのでないでしょうか。

 予備校の解答を受験生とおなじレベルでは見ることができません。

 受験生なら、頭が混乱し、あせりながら30-40分以内で書かなくてはならない論述問題を、講師たちはまわりに教科書・参考書・事典類・ネット検索があり、パソコンで修正しつつ書ける、他の講師とアイディアと批評を出しあうこともできる、3時間以上かけられる、という余裕たっぷりの環境が存在します。また数十年はこの科目を教え、作問し採点してきた、という知識量・体験の差も大きい。それでいて、上のような受験生以下の解答しか書けないのはどうしてか? 受験生は1-3年間しか勉強していないのに、かれらに負けています。頭脳の差といってしまえばそれまでですが、ひどすぎませんか。合否の判定がされる緊張感がないためでしょうか。もっともらしく教室で語っていても実際の答案作成能力が低いと、予備校講師はたんなるおしゃべりに過ぎません。こういう答案しか書けない人たちが模擬試験の問題をつくってます。模試っていかほどのものか推測できるでしょう。

 

 合格した受験生が合否の判らない時期に寄せてくれた受験場での取組みはこうでした。

最初マース川ってどこ?ドキッとする。

無視して読んで、オランダの果たした役割がテーマであると確認。

まずは「役割」にこだわろうと決心。(練習帳にアドバイスがありました)

政治面での役割、経済面(貿易通商史)での役割、文化面での役割

など3分野くらいを柱にして書ければ洗練された答案になるかも、

各分野での役割は、主導的、中心的、先駆的、補助的、補完的、

などの言葉でまとめよう、ともくろむ。

とりあえず構想メモに年表をかいておもいつくままに出来事を書き込む。

各分野に相当する役割を、出来事から抽象化、と意気込むが、

インドネシア侵略くらいになって、筆が止まる。「侵略の果たした役割?」考

え込む。侵略の前例か?おっかけか?おっかけって答案には書けない

気の利いた言葉が浮かばない・・

インドネシアの民族意識高揚か、こじつけっぽいなと悩みはじめる。

役割ってプラスのイメージ、勝つための○○の果たす役割とか・・

どうも侵略にはなじまんような・・・

グロティウスの扱いにも困る。文化面でとりあげるとしても、ほかにも

文化人挙げたほうがいいのか。問題文に「文化の中心」、「多くの人材

が集まり・・」とあるし・・。好きな画家フェルメールでもあげようか?

レンブラントのほうが有名か。ユダヤ系の人についても書いたほうがいいのか、

先生の「各駅停車」やHPにあったような・・いろんなことが浮かんでは消えて

いく。欧州経済統合でのオランダの果たした役割にも悩む。中心的なも

のだったかしら、主役は独仏では?知識不安、よくわからない。統合

支援とか補助的役割とかでごまかそうか・・・

どうやら最初の構想でまとめるのはうまくいかなそう・・・15分経過。混

乱。あと20分しかない。とりあえず時系列でまとめよう。A⇒BのAの事

実がオランダがからんだ事実、Aの影響をかいてもいいだろう、役割と

わりきってかけないところは事実だけかいて逃げようと方針転換、

一気にマスを埋め始める・・・

 こうした苦闘のカスでも講師に煎じて飲ましてやりたい。「「役割」にこだわろう」という決意ができるか?

 

 導入文に「中世から現代まで歴史的に重要な役割」とあり、課題文に「世界史における役割について」とあるので役割を書くのがこの問題の要求です。それ以外の何者でもない。1976年度の「鉄道の意義・役割」、1981年の「ムガル帝国の支配がインドの歴史に果たした役割」、2003年の「運輸・通信手段の新展開が、大きな役割」という風に広く長い歴史・テーマを問うときに使われる問題用語です。この役割は意義と言い換えてもいいもので、拙著『世界史論述練習帳new』の「意義をのべよ」の章の末尾に、「意義の問題用語は、かならずしも「意義」という表現だけでなく、「重要性」「役割」「位置づけ」という表現でもでてきます」と説明しています。この章で説明しているように意義・役割は、「長ーい長ーい時間のなかで、ひとつの事件にスポットライトをあてて評価することです」。オランダ史の中で、いくつもの世界史的事件があり(複数の意義)、それらが個々にどう後世の歴史や他国に影響を与えるほど意味をもったものであるかを、誇張でなく強調しつつ書くのが課題です。

 一国史としても、決して一国史の流れでなく、関ったことがらを付け加えながら書くように要求してきた例はたびたびありました。東大の過去問には、2001年度の「エジプト5000年史」、1999年度の「前3世紀~15世紀のイベリア半島史」が代表例ですが、たんなる流れとして歴史を書かせることはなく、何らかの条件が付いていました。このオランダ史も「役割」という条件が付いています。こういう過去問からすれば、流ればかり書いた予備校の解答は不勉強と言わざるを得ません。

 「世界史における役割」というのは漠然としています。どの範囲までが「世界史」なのか。少なくとも一国史でなく、他国・他地域・重大事件に影響を与えた、関係した、ということです。一番狭い「世界史」は2国関係です。ネーデルラント(オランダ・ベルギー)と他国(イギリス・ドイツ・ポーランド・インドネシア・日本など)。つぎは一定の広い地域(西欧・東欧・アメリカ・アフリカ・東アジア・東南アジアなど)。最後は世界全体となります。

 「役割」とは何らかの任務をもった、貢献した、参加した、影響したということであり、それが「主導的な、補助的な、積極的な、先駆的な、先進的な、中心的な」という形容を使えばよい。プラス表現で使えない「植民地主義」の場合は、「負の先駆、否定的、ネガティブな、裏面的な」という表現を使えばいいでしょう。2007年度の農業技術の変化を問うた問題でも、何もかもが増産要因ではなく「凶作による飢饉」の例もあると指摘し、指定語句にアイルランドがありました。

 

 中世末なら、百年戦争の原因としてフランドル(現ベルギー北部)という毛織物工業地帯がありました。ここの争奪が一因です。これは常識的な知識なのに書けた予備校の解答例は皆無でした。ブリュージュ・ガン・イープルなどが工業の発達した都市です。イギリスから原毛を買い、それを製品化してイギリスに輸出していました。イギリスは植民地みたいな原料供給地だったのです。エドワード3世がイギリスと経済関係の深いこのフランドルに上陸すると、低地都市の親方たちは親英の立場をとりエドワード3世と組み、次第にこの地域はイギリスのものとなります。フランス軍もここをねらって進軍したためイギリス軍と激突しました。しかし戦争を逃れてイギリスに亡命してくる者達もあり、イギリス政府は彼らを保護しました。亡命者によって技術が入ってきて、とうとう毛織物を生産する国に変わってきました。それが戦争の末期から原毛が足りないくらいになり、エンクロージュアー(囲い込み)をせざるをえなくなります。イギリスは百年戦争に負けましたが技術を獲得し工業国に変貌したのです(「前期百年戦争……羊毛生産から毛織物生産へと原理的に転換しはじめた……フランドル毛織物職人が戦禍を逃れて大量にロンドン・ヨーク・ウィンチェスター・ブリストル・ノーウィッチなどの諸都市に移住したことは、右の事態と密接に関係している」(『西洋史概説』東京大学出版会)、拙著『センター世界史B各駅停車』p.226)。このイギリス工業の勃興は教科書にないので書けなくても、百年戦争の原因としてのフランドル毛織物工業は書けるはず。

 なおネーデルラントは、15世紀のほとんどはブルゴーニュ公の領土でした(1384-1477)が、世紀末からハプスブルク家のものとなりました。カール5世(カルロス1世)はガンで生まれています。父はハプスブルク家のものでありながら、ブルゴーニュ公位を受けつぎ、母はあの狂ったスペイン王女フアナでした。

 

 文化的にはフランドルからオランダにかけて活躍した画家たちがいます。中世末フランドルにはイタリアにない「油彩(油絵)」の技術がありました。イタリアはテンペラやフレスコが中心でしたが、この技法により鮮やかな色彩効果を生み出すことができます。ルネサンス期ではファン=アイク兄弟、ブリューゲルです。いずれバロック期にはルーベンス、ファン=ダイク、レンブラント、ロイスダール、フェルメールたちが現れます。19世紀にはゴッホが登場します。オランダを含むネーデルラントは絵の世界にとくに輝かしい光彩を放ってきた地域です。これらのことは「ヨーロッパの……文化の中心」の事例としてまとめて書いていいものです。

 知識人としては、何よりロッテルダム生まれのエラスムス(1469-1536)を中世末から近世にかけて生きた人物として挙げていいでしょう。人文主義者エラスムスの文通相手は、西はイベリア半島から東はポーランドまで広がるくらい大きな影響力をもった人でした。『愚神礼賛』で教会批判を始め、ギリシア語原典からラテン語訳して出版した『校訂新約聖書』(1516)は、その中に信仰義認論を見つけたルターが宗教改革の基本理念を見つける役割を果たしました。

 グロティウス(1583-1645)の自然法と国際法は啓蒙思想の基になり、平和のためには自然法にもとづく国際的法秩序の確立が必要だと説き、ヨーロッパ各国の大学の自然法および万民法(国際法)の教科書として広く読まれます。

 他の知識人については、京大の2002年度の解説に書いた記事をここに再録しておきます。

 山本義隆師の著書『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』(現代数学社)に科学者同士の交流が描いてあります。

 科学思想面においてもオランダは、大陸のどの国よりイギリスと密な交流を維持していた。とくにライデン大学は「大陸におけるニュートン主義の普及のための一つの──当面は唯一の──中心」(ピーター・ゲイ)であった。17世紀後半にベーコンとボイルの経験論は、イギリス以上にオランダで評価されていた。ロックも一時オランダに亡命しているし、そのロックにニュートン力学の正しさを請け合ったオランダ人ホイヘンスは、逆にイギリスを訪れ王立協会の会員にもなっている。また、スコットランドの初期ニュートン主義者ピトカリンは1692年に1年間ライデンで講義しているし、逆に、1715年から一年間イギリス大使を勤めた「オランダにおける最初のニュートン主義者」グラーベサンドは、デザギュリエの講義に出席し、またニュートンとも会見し、帰国後ライデン大学で数学と天文学を教えている」と。

 こうした科学者だけでなく思想家・政治家・非国教徒・ユダヤ人にとっての避難所をオランダは提供していました。特にイギリス革命時(1640~90)はそうでした。宗教的差別をしなかったからです。ガリレオはオランダでしか自分の研究書を印刷できませんでした。デカルトもオランダにわたり『方法叙説』『省察録』を出版しています。上記にあるロックはチャールズ2世に追放されて、オランダに亡命し名誉革命で帰国します。光と影の芸術家レンブラントは……スピノザが生まれた家も近くにありました。オランダ東インド会社の株の4分1をユダヤ人がもっていました。1598年にオランダで初めてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられています。

 

 日本にとっては蘭学による知識はロッテルダムの東方貿易会社の探検船リーフデ号(エラスムス号)からはじまりました(1600)。日本に唯一学問と世界情勢を伝えたのはこのオランダでした(『オランダ風説書』、『別段風説書』)。こうした世界情勢の伝達は幕末、オランダ国王の開国勧告につながり(1844)、長崎製鉄所(起工1857)、海軍伝習所(1855)を設置することになり、蒸気船ヤパン号(咸臨丸)、スンピン号(観光丸)の提供となって継承されました。『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社・東洋文庫)の著者カッテンディーケはヤパン号を日本に運んできた艦長でもありました。この人と勝海舟は毎晩のように話し込み、勝は日本の未来像としてオランダを意識していたようです。著書には、各藩が独立しているのに近い状態では単一の利益が追求できない、と国民国家像を説いたことを書いています。オランダは近代的な学問・技術・工業・国家を教えつづけてくれた教師でした。

 地図に興味のあるひとは、メルカトルというフランドル生まれの地図学者を書いてもいいでしょう。彼が考案したメルカトル図法(正角円筒図法)は、羅針盤の使用とともに航海用の地図として重用されます。地球がどんなものか陸の形や海の距離を知るには手探り状態の時代に光明をもたらした図法です。航海士たちはこぞってメルカトル図を使って世界に出て行きました。現在でももっとも使われている図法です。メルカトルは地図帳を出版し(1585-89)、その題名を『アトラス』とギリシア神話の神になぞらえて付け、その後『アトラス』は地図帳の代名詞となりました。

 17世紀からのシノワズリー(中国趣味)はイエズス会士の報告だけではありませんでした。オランダ東インド会社が運んだ陶磁器(景徳鎮・古伊万里・柿右衛門)も刺激剤となり、その需要・模倣からオランダのデルフト陶器、ドイツのマイセン磁器が重要な地場産業として発達し、バロック・ロココ美術に影響を与えたものです。中国趣味といいながら、実は日本の陶磁器の方が影響力をもっていました。清朝の海禁政策のために輸入は滞り、日本の陶磁器でありながら、がまちがえて中国産だととられたり、花の図柄がインドのデザインに似ていることから「インドの花」と呼ばれましたが、長崎から運び出された日本産でした。シノワズリーの内実はジャポニスム(日本趣味・日本心酔)だったのです。鎖国状態の江戸時代、浮世絵の多くが、オランダ東インド会社の商館員や商館長が日本で買い集めて、国へ持ち帰ったもので代々の商館長のコレクションは現在もライデン国立民族学博物館に保管されてます。

 

 政治的経済的には、イギリスの挑戦(英蘭戦争)、フランスの挑戦(南ネーデルラント継承戦争、オランダ戦争)に疲弊させられましたが、この17世紀は海外進出に成功しています。ポルトガル領の奴隷貿易基地エルミナを奪い(1637)、ケープ植民地を築き(1652)、ポルトガル領だったマラッカ(1642)、セイロン(1655)を奪い、ジャワ島に1619年よりオランダが東インド総督をおき、アンボイナ事件(1623)でオランダ人がイギリス商館員を虐殺し、これを契機にオランダがモルッカ諸島の香辛料を独占し、イギリスはインド方面の経営に専念した、というのは名高いところです。短期でしたが台湾にも居座ったことがあります(1624-61)。平戸にオランダ商館がおかれ(1609)、次に長崎に移りました(1641)。これらの拠点をぐるぐる回りながらアジア域内貿易を展開しました。わざわざ不足してきた銀を持ってこなくても中国・日本・その他の国々を回る中継貿易で差額の利益を得る貿易です。オーストラリア(新オランダ)、ニュージーランド(1655)、ジャワ島のマタラム(1677)と占領しており、17世紀を「オランダの世紀」というのも不思議ではありません。

 ピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)たちはまずオランダに立ち寄り、メイフラワー号はオランダの港から出港してプリマスに到達し、アメリカ植民地化の先駆になっています。

 山川用語集の「黒人奴隷」という項目に、「プランテーションの労働力として、輸入酷使されたアフリカ出身の黒人奴隷。北米では、1619年、ヴァージニアに輸入されたのが初めであった」と記事があります。この1619年は一般に教科書の注ではヴァージニアに初めて植民地議会が設けられたことをあげていますが(1619年は「民主主義元年」)、オランダの奴隷船で運ばれた20人の黒人奴隷が北米最初の奴隷でもあり、アフロアメリカン(アフリカ系アメリカ人)のスタートを切ります(拙著『センター世界史・各駅停車』p.423)。そのため1619年は奴隷制元年といいます。他にこの年はアメリカ女性史元年ともいいます。それは植民した男性の結婚相手としてイギリスで応募した女性達が初めて大西洋を渡った年でもあるからです。いろいろな元年でした。

 

 コーヒー・プランテーションの先駆であったことは、小澤卓也『コーヒーのグローバル・ヒストリー 赤いダイヤか黒い悪魔か』(ミネルヴァ書房)に詳しい。

 日本茶の普及に貢献したことは角山栄『茶の世界史──緑茶の文化と紅茶の文化』(中公新書)に詳しい。

 

 19世紀にはベルギーとの関わりが目立ちます。ベルギーは西欧最初の産業革命地であり、オランダからの独立運動はウィーン体制を西方で覆す一因となりました。しかし苦戦したオランダの方は経済的破綻を植民地に負わせ強制栽培制度をジャワ島でおっかぶせました。

 またアフリカ探検を推進したのもベルギーでした。レオポルド2世(位1865~1909)がスタンレーのコンゴ探検を援助し、コンゴ自由国をつくって1885年に王となり、鉱業開発を進めました。これらは「植民地主義」のアフリカに適用した悪しき先駆です。

 20世紀には、しかし、世界平和のための仲介役としては目立った働きをしています。ハーグにおける万国平和会議(1899、1907)の開催、この会議の決定にしたがった国際仲裁裁判所の設立(1901)、第二次世界大戦後の国際司法裁判所(1946)、オランダ南端にあるEUをつくるマーストリヒトの会議と条約、これにより欧州連合(EU)が創設されました。条約内容をより民主化するためのアムステルダム条約(1997)にも粘り強い交渉をおこなっています。またオランダ開催の環境首脳会議(環境サミット)は温暖化抑制をめざす「ハーグ宣言」を採択しました(1989)。マーストリヒト条約は不可欠ですが、他にひとつでも書くといい。

 

 東大の開示成績と予備校がおこなった再現答案の採点と合っているか見比べてみたらいい。開示の点数が低かったのは「役割」が書けなかった分だと悟ったらいいでしょう。今年の第2問・第3問は易しい問題だったのに、自分の得点がなんでこんなに低いんやー? と疑問におもったひとは第1問の配点の高さと、採点の厳しさに気付くべきです。第2問・第3問の配点が20点・20点ではありえない。

 

 東大の問題は幾種類もの解答が書ける良問です。この問題もそうでした。本問題に関連した、拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)の巻末「基本60字」にある問題は、以下の通りです。


p.29-8 16世紀に始まる西ヨーロッパ諸国の東南アジア進出は、この地域における経済のありかたを変えていった。貿易の担い手・貿易品目・生産形態などの変化を述べよ(120字)

p.30-9 アンボイナ事件とその結果について述べよ。

p.30-10 イギリス・フランス・オランダが東南アジアに勢力圏を築いていった過程を19世紀から20世紀初頭にいたるまでを述べよ(150字)。」、

p.38-24 南アフリカのアパルトヘイト政策が1991年まで維持されてきた歴史的原因を説明せよ(100字程度)。

p.54-1 オランダ独立戦争の経緯を説明せよ(120字)。

p,55-2 オランダの経済の特色をイギリスの同時期の経済と比べて説明せよ。

p.56-7 1651年に発布したクロムウェルの航海法の目的と結果を記せ。

 

[第2問の解き方

(1)

 (a) 問いは「儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事」とあるので、董仲舒の進言(建言)と武帝の受け入れ、五経博士の設置の二つがあれば十分な答案です。この出来事を儒学の官学化とも国教化ともいいますが、最近の研究では、国教化は無理で、官学化と弱めた表現を使います。時間をかけて前漢末から後漢にかけて国教化と言える、という評価になってきました。どちらを書いても正解ですが。

 「董仲舒が法家に代わる皇帝の統治理論として儒学の官学化を武帝に建議」(S)と書いてしまうと間違いになります。「法家に代わる」とはなんと不勉強な、儒学史の本を一冊でも読めばそんな解答は出てきません。始皇帝からいきなり武帝になるのなら、こうした文も可能かも知れませんが、前漢が成立して武帝即位まで60年あります。高祖劉邦のときにすでに儒学は復活していて儒学者・叔孫通が朝廷儀礼を制定しています。5代・文帝(位前180-前157)のときに重んじられたのは、儒者の賈誼(かぎ)・韓嬰(かんえい)などでした。受験生は読まなくていいですが『中国思想史』(東京大学出版会)を講師に薦めます。なおこの問題は『世界史論述練習帳 new』(パレード)巻末「基本60字」p.15の3に指定語句「董仲舒 国教化」として載っています。

(b) 問いは「文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運」というもの。古文古学復興運動をおこなった韓愈と柳宗元、魏晉南北朝・隋唐にかけてはやった四六駢儷体(この字が書けないときは、四六体/駢文/駢体文といろいろな書き方があります)に代わって簡潔な文体を追求した、ということです。  

 「古学」は仏教・道教を否定して儒学の復興を望んだことを指します。古学復興はもちろん書かなくていいこと。韓愈(柳宗元)はセンター試験レベルです(出題歴は、91,01,05,09,10)。

(2)

 (a) 「15世紀前半」で戸惑ったひとは年代を覚えなさい、と言っときます。訓民正音で「童1謡4知4る6」が語呂です(『世界史年代ワンフレーズnew』から)。「太宗は鋼活字を鋳造し、朱子学に関する出版を奨励。世宗は朝鮮語を表す音標文字として訓民正音を制定、これは庶民に普及。」(S)の前半はカンニングですから書けなくていい。三省堂の教科書は「1403年に銅活字を鋳造する鋳字所が設置され、多くの歴史書、地理書、農書、医学書が刊行された。第4代世宗は学者に命じて、庶民に分かりやすく朝鮮語を表記する民族文字(ハングル)をつくらせ、1446年、訓民正音の名で公布した。」と書いていますが、珍しい例です。世宗は朝鮮文化の黄金時代で、この国王の文化振興は学術書の発行、世界初の測雨器製作(慶應・法学部2010年出題)、天文観測器、歴史書、地理書などの編纂と幅広い。ソウルの徳寿宮に本を読んでいる世宗の座像がありました。

 訓民正音もセンター試験レベルです(出題歴は、89,97追,99,01,03,10)。

 

(b) 過去問の類題として「明朝末期から清朝前期にかけての時期のイエズス会士への対応と、清朝末期の洋務運動とを例にとり、中国がヨーロッパ文化を受容するにさいして示した態度の特徴を8行以内で述べよ」というのがありました(1989)。下の問(3)が分解して出ています。といって同問が出たというものでもありません。今年の問題の方がずっと易しい。徐光啓について「ヨーロッパの科学技術に強い関心」ということで、マテオ=リッチと協訳『幾何原本』、アダム=シヤールと『崇禎暦書』編纂があります。『農政全書』に西欧のプランテーションの作り方が書いてあるのでこれも挙げてもいいのです。『世界史論述練習帳 new』(パレード)巻末「基本60字」p.21の13,p.22の15に類題が載ってます。

(3)

 (a) 「ワッハーブ派の運動」という課題です。いくつもの内容を満たす必要がありますが、1)預言者ムハンマドの最初の教えに帰れ、という回帰主義、別名原理主義です。2)背景として、イラン人やトルコ人がもたらした神秘主義(スーフィズム)と聖者崇拝によってイスラーム教は堕落した、とみなしたこと(既存の神学派・法学派全体に対する批判も)。3)半島の豪族サウード家の(軍事的)支持があって広がったこと。この3点があれば満点でしょう。他に4)メッカとメディナという二聖都を占領してワッハーブ王国を建設したことがある。5)ワッハーブ王国は、19世紀になって、オスマン帝国の命令でアラビアに出兵したエジプトのムハンマド=アリーによって、一度は滅ぼされた(追放された)。6)トルコ支配に反抗するアラブ民族主義をうながしたこと。7)、巡礼者のネットワークに乗ってイスラーム世界に広がったこと。8)他称はワッハーブ派でも自称はムワッヒドゥーン(「一神論の徒」という意味で、他派を多神教とみなしている)であること、などなど。

 (b) ラーム=モーハン=ロ一イ(ラージャー=ラームモーハン=ローイ、1772-1833)の名前を知らなくても、「女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習」の最たるものはサティ(ー)ということは知っていたでしょう。未亡人の自殺ですが、拒む場合は周りの男たちが無理やり火の中に放り込んで、生きながら火葬する虐殺葬式です。2008年のロイターのニュースに、「ライプール インドのチャッティスガル州にある村で、71歳の女性が現在では禁止されている古い慣習にのっとって夫の火葬中に炎に身を投げ、自殺するという出来事があった。警察が12日に発表した」とありました。

 (c) 「洋務運動……の性格」という課題です。拙著『世界史論述練習帳 new』の巻末付録「基本60字」に、「洋務運動と変法運動の近代化とその限界について述べよ(120字)」という問題文が載っています。答えは「前者は中体西用のもと西欧軍事介入技術の導入を図るが、民間企業の育成がなく、官僚たちは外資依存と私的蓄財に専念し旧体制を変革する意図がなかった。後者は……」となっているのがそのまま解答になります。注に「私的蓄財とは認可権をもつ官僚がもらう賄賂・手数料・世話料のこと」と追記しています。すでに問題文に「曾国藩・李鴻章などの官僚グループ」とあるので「漢人官僚を中心に(K・S)」のような解答は要らないでしょう。

 「詳説」では、「おもな事業としては、兵器工場・紡績工場や汽船会社の設立、鉱山開発や電信事業などがあるー」とあり、「東書」では「民間の資本を国家の管理のもとに利用して、地方の大都市で兵器・紡績・造船・製鉄などの工場を建設し、鉄道の敷設や鉱山の開発をすすめ」とありますから、「表面的な模倣に留まった(Y)」という評価は肯けるものではありません。

 「日清戦争敗北で挫折」と書いているものがありますが、洋務運動は対外戦争に勝つために軍備の近代化をしているのでないことは、李鴻章が言明しています。太平天国のようなでっかい反乱が再びおきたときに、常勝軍のように鎮圧できる軍隊をもちたい、ということです。だから日清戦争で敗北したら即挫折とはならないのです。むしろゆっくりではあれ、中国にとってはこの洋務運動をとおして機械工業がはじまったことを評価すべきでしょう。

 ただ日本の工業化とちがい変則なかたちをとりました。官僚資本主義というやつです。

 これらの(民間)企業の多くは、「官督商弁」という半官半民の経営方式を採用していた。創業にあたって多額の国家資金が貸与され、清朝、直接には洋務派の大官が派遣した官僚が企業の中枢を統轄した。他方、民間から資本を募集し、多額の投資者で経済に通じた民間人に経営させた。これに応じた民間人は、主としては、上海などの開港場で活躍して資金を蓄積していた買弁や塩商などの大商人、また個人としての洋務派官僚で、多くの場合買弁出身者が経営を担当した。……結果としては、八〇年代中期以降、かえって「官」の支配力が強化されて、官僚資本主義の方向をたどり、営業独占権が民間企業を抑圧する事態も生じた。また経営に行き詰まって倒産したり、外国資本に吸収された企業も少なくなかった(『中国近現代史』岩波新書、著者は2人とも東大教授)。

 

第3問

A

(1) 『ローマ史論』で分からなくても「近代政治学の先駆となる作品」で出てくるのではないか。運命の女神に翻弄されないで、この女神の頬をぶちたたいてでも運命を開けと君主を叱咤激励する書です。

(2) 「ペルシア戦争の歴史を物語風に叙述」と「ペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述」という対照的な2人です。

(3) 「前2世紀のローマ興隆を目撃」はカルタゴ炎上を小スキピオに付いていって見た人物です。『ローマ史』を書きました。1世紀経って、その文章の華麗さから「ラテン文学の粋」といわれる『ローマ建国史』を書いた人物。

問(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家……は細かかったか。これはできなくても動じる必要はない。『神の国』は書けなきゃ。

B

(5) この国の歴史教科書の第1ページに「われわれの民族の建国年は552年である」と書いてあります。それは突厥が蒙古高原で建国した年です(『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は「突厥、突然こ5こ5に2」)。

 「突厥の前に現れた」といっても相当前です(陳勝呉広の乱と同年なので、語呂「陳勝・冒頓は、ブ2レ0ーク9」)。「匈奴の最盛期の君主名」は漢字が正しく書けるかどうか。単于の「単」と「于」は下のハネがないのとあるのと。

(6) この設問文が分からなくても、導入文の『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉」で分らなきゃ。

(7) 「宰相ラシード=アッディーンは、壮大な歴史書をペルシア語で記述した」歴史書の名。「蒙古集史」という言い方もあります。

C 

(8) 『西洋の没落』を著した高校教師です。

(9) 「ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し」が分からなくても「世界革命論を唱えた人物」となんとも親切な問い方です。

 「ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策」をとったのがネヴィル=チェンバレン首相でしたが、この首相に、あなたが付き合っている人物は何者か分かっているのか、と歯に衣を着せぬ言い方で批判をした海軍大臣がいました。結果的に首相は自分のあやまちを悟り入院し、この海軍大臣が首相に昇格します。「『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家」は第二次世界大戦は無駄であった、ソ連の支配圏を拡大しただけだと嘆いたひとです。拙著(『センター世界史B各駅停車』)では「チャーチル議員の警告にもかかわらず、内閣(ボールドウィンとネヴィル=チェンバレン)のたびかさなるナチスにたいする宥和政策」と書いています(p.345)。

(10) 「独立直後に首相」とうことは初代首相ということです。『インドの発見』を書いたかどうか知らなくてもできなくてはいけない問題。牢獄で書かれたインド史です。

 第3問は、問4エウセビオス(山川用語集の頻度3)、問8シュペングラー(頻度4)が書けなかったとしても失う点数は2点です。他は書けてほしい問題でした。頻度7-11のセンター・レベルですから。

 予備校の解答例を挙げ、その批判もしました。他人の答案を批判して自分の答案を隠すのは卑怯なので今年に限り自分の解答例も挙げておきます。比較してみてください。他の年度の解答例を挙げてないのは、一度掲載したときに参考書の会社でわたしの解答をまねたもがあったからで、今年だけにします。もっとも『世界史論述練習帳new』(パレード)を買っていただいた方には、他年度の解答例(非公開)をメールで配信しています。

第1問

(例1…経過的)

ブルージュ・ガンなど毛織物工業で栄えた低地は百年戦争の領土争奪原因となり、この戦争のために英国に亡命した技術者たちは英国の毛織物工業を興した。15世紀末にはハプスブルク家のものとなり、新興市民にカルヴァン派が普及したため、スペインの弾圧を受け、低地の商人たちは闘い、北部は連邦共和国として独立、スペイン帝国を没落させた。三十年戦争の際にはグロティウスが画期的な国際法を提唱した。また宗教に寛容な国家としてウェストファリア条約で承認された。高い造船技術、史上初の公立銀行、デカルト、スピノザなど最高の頭脳を集め、レンブラントを代表とするバロック芸術などをもち17世紀をオランダの世紀とした。かれらは日本では長崎を通して蘭学を伝え、コーヒーや茶を西欧に広め生活を変えた。新大陸にニューアムステルダムを建設したが英国に奪われニューヨークの起源となった。このように先駆的な役割を担ったが負の先駆でもあった。インドネシアの植民地化、ケープ植民地の形成と、現地でのコーヒー・プランテーション、1830年からの強制栽培制度、南アフリカ戦争終結における英国と妥協したアパルトヘイトなどである。20世紀太平洋戦争で日本の侵略を受けた蘭領東インドは、戦後も植民地を維持しようとしたためインドネシア人の民族主義に火をつけた。非植民地化の波の中、結成当初から加盟したECにマーストリヒト条約を結成させ、EUの中心的役割を果たした。

(例2…経済・文化に分けた)

中世末、ヨーロッパ随一の毛織物工業地帯であり、フランドルはイタリアとの航路を開き、それまで繁栄したシャンパーニュ大市という中継地をネーデルラントに移転させた。またハンザ同盟に対抗してバルト海貿易に食い込み、穀物取引は東欧に農場領主制を浸透させた。17世紀の奴隷貿易はアフリカとアメリカを結びつける。オランダ船が連れてきた奴隷20人がアフリカ系米国人の元祖となった。ウォール街の基をつくったのはニューアムステルダムであり、これは世界経済の中心ニューヨークの起源となった。インドネシアを植民地化しコーヒー・ゴムなどのプランテーション経営の面でも先進的であった。ただし19世紀に強制栽培制度をおしつけ、太平洋戦争後も植民地を保持しようとしたため民族運動を喚起した。文化的役割は、絵画の油彩技術を完成させ、中世末にファン=アイク、16世紀にルーベンス、17世紀にレンブラント、19世紀にゴッホを生んだこと。スペイン=ハプスブルク家の弾圧に抗戦し、三十年戦争中グロティウスの国際法を提示して和解の方策をリードした。長崎を通して蘭学を、幕末の日本に蒸気船・鉄工所・国際法など先進的な西欧の技術・学問を伝えた。白人至上の思想は南アフリカ戦争での英国との妥協で確立しアパルトヘイトとなった。だが世界平和の仲介に積極的でもあり、ハーグ万国平和会議を開き、マーストリヒト条約ではEU形成に一定の役割を果たした。

第2問

問(1)

(a)武帝に対して董仲舒が、皇帝を国父とする儒学を官学とするように進言し、武帝はこれを受けて五経博士を置いた。

(b)『文選』の推奨する四六体が普及していたのに対して、韓愈・柳宗元が簡潔な古文復興運動を展開した。 

問(2)

(a)銅活字をつくる鋳字所を設置、世宗は古典編纂につくし、かつ朝鮮民族独自の文字を考案させ「訓民正音」を作成した。

(b)エウクレイデスの『幾何原本』を訳し、西欧のプランテーションも記した『農政全書』や『崇禎暦書』を編集した。

問(3)

(a) 半島東部ネジド地方におきたイスラーム原理主義に立つスンナ派の一派。19世紀初期にはメッカ・メディナを占領する時もあった。サウド家の支持を受け、オスマン帝国から独立した。 

(b)サティー

(c)「中体西用」を方針に官僚が主導した工業化だったが、軍事技術に偏り、統一的な計画はなく、官僚は私的蓄財に専念したため、民族資本の成長ははかどらず、清朝皇帝体制を温存した。

第3問

問(1)マキァヴェリ、君主論

問(2)ヘロドトス、トゥキディデス

問(3)ポリビオス、リウィウス(リヴィウス)

問(4)エウセビオス、アウグスティヌス

問(5)トルコ(共和国)、冒頓単于

問(6)イブン=ハルドゥーン

問(7)集史(蒙古集史)

問(8)シュペングラー

問(9)トロツキー、チャーチル

問(10)ネルー

 

 

東大世界史2009

第1問

 次の文章は日本国憲法第二十条である。

  第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2、 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3、 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 この条文に見られるような政治と宗教の関係についての考えは、18世紀後半以降、アメリカやフランスにおける革命を経て、しだいに世界の多くの国々で力をもつようになった。

 それ以前の時期、世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して、解答欄(イ)に20行(600字)以内で論じなさい。その際に、次の7つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 ジズヤ ミッレト 首長法 理藩院 ダライ=ラマ 領邦教会制 ナントの王令廃止

 

第2問

 人口集中地としての都市は、古来、一定地域の中心として人々の活動の重要な場であり続けてきた。それらの都市は、周囲の都市や農村との関係に応じて、都市ごとに異なる機能を果たしてきたが、ある特定の地域や時代に共通する外観や特徴を示す場合もある。以上の点をふまえて、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1) (a)紀元前8世紀のエーゲ海周辺ではポリスとよばれる都市が古代ギリシア人によって形づくられた。ポリスはその後、地中海・黒海沿岸地域にひろがり、その数は1000を超え、ギリシア古典文明を生み出す基盤となった。ポリスはそれぞれが独立した都市国家であったため、ギリシア人は政治的には分裂状態にあったが、他方、(b)文化的には一つの民族であるという共通の認識をもっていた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ポリスの形成過程を2行以内で説明しなさい。
 (b) この共通の認識を支えた諸要素を、2行以内で説明しなさい。

 

(2) 中国においては、新石器時代以来、城壁都市が建設され、やがて君主をいただく国となった。そうした国々を従えた大国のいくつかは、王朝として知られている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b) を付して答えなさい。

 (a) 最古とされる王朝の遺跡が20世紀初頭に発掘された。そこで出土した記録は、王朝の政治がどう行われたかを証言している。その政治の特徴を2行以内で説明しなさい。
 (b) その後、紀元前11世紀に華北に勢力をのばした別の王朝は、首都の移転により時代区分がなされる。移転前と移転後の首都名を挙げ、移転にともなう政治的変化を2行以内で説明しなさい。

 

(3) 西ヨーロッパでは、11世紀ころから商業活動が活発化し、さびれていた古い都市が復活するとともに、新しい都市も生まれた。(a)地中海沿岸や北海・バルト海沿岸の都市のいくつかは、遠隔地交易によって莫大な富を蓄積し、経済的繁栄を享受することになった。(b)また、強い政治力をもち独立した都市のなかには、その安全と利益を守るために、都市どうしで同盟を結ぶところも出てきた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えない。

 (a) 地中海における遠隔地交易を代表する東方交易について、2行以内で説明しなさい。
 (b) 北イタリアに結成された都市同盟について、2行以内で説明しなさい。

 

第3問

 人類の歴史においては、無数の団体や結社が組織され、慈善・互助・親睦などを目的とする団体と並んで、ときには支配勢力と対立する宗教結社・政治結社・秘密結社もあらわれた。このような団体・結社に関する以下の質問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 18世紀末の中国では、世界の終末をとなえる弥勒下生信仰に基づく宗教結社が、現世の変革を求めて四川と湖北との境界地区などで蜂起したが、おもに郷勇などの自衛組織に鎮圧された。この宗教結社がおこした乱の名称を記しなさい。

(2) フランス革命期、ジャコバン派の独裁体制が打倒され、穏和派の総裁政府が樹立されると、革命の徹底化と私有財産制の廃止を要求する一部の人々は、秘密結社を組織して武装蜂起を計画したが失敗し弾圧された。この組織の指導者の名を記しなさい。

(3) 保守的なウィーン体制下、イタリアでは自由と統ーを求める政治的秘密結社がつくられ、数次にわたり武装蜂起と革命を試みたが、1830年代には衰退した。この秘密結社の名称を記しなさい。

(4) ウィーン体制下のロシアでは、青年貴族将校たちが農奴制廃止や立憲制樹立をめざして複数の秘密結社を組織し、皇帝アレクサンドル1世が急死した機会をとらえて反乱を起こしたが、鎮圧された。この反乱の名称を記しなさい。

(5) アメリカ合衆国では南北戦争の結果、黒人奴隷制が廃止されると、南部諸州を中心に白人優越主義を掲げる秘密結社が組織され、黒人に暴力的な迫害を加えた。この秘密結社の名称を記しなさい。

(6) 19世紀後半の朝鮮では、在来の民間信仰や儒仏道の三教を融合した東学が、西洋の文化や宗教を意味する西学に対抗しつつ農民の間にひろまった。東学の信徒たちは1894年に大反乱をおこし、日清戦争の誘因をつくった。この反乱を指導した人物の名を記しなさい。

(7) 日露戦争の時期の東京では、華僑社会とも深いかかわりをもつ中国の革命運動家たちが集まり、それまでの革命諸団体を結集した新たな政治結社を組織した。この政治結社の名称を記しなさい。

(8) 20世紀初めの英領インドでは、ムスリム(イスラーム教徒)の指導者たちにより、ムスリムの政治的権利を擁護する団体が組織された。この団体は、国民会議派と協力した時期もあったがやがてムスリムの独立国家建設を主張するようになった。この団体の名称を記しなさい。

(9) フランス支配下のベトナムではファン=ボイ=チャウらがドンズー(東遊)運動を組織し、日本への留学を呼びかけたが、この運動は挫折した。その後、ファン=ボイ=チャウらは広東に拠点を移し、1912年に新たな結社をつくり、武装革命をめざした。この結社の名称を記しなさい。

(10) 1930年代のビルマ(ミャンマー)では、ラングーン大学の学生などを中心にして民族主義的団体が組織され、やがてアウン=サンの指導下に独立運動の中核となった。この団体の名称を記しなさい。

………………………………………

[第1問の解き方

 論述問題は1字も見逃してはいけない、という教訓が今年の問題でありました。それは「と」という助詞です。課題の「政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか」の中の「と」は、「宗教・宗派」と「それらに属する人々」と並立している語です。前者は団体であり、後者は信徒個人です。導入文の憲法の中にも、「何人に対しても……何人も」は個人を強調しています。信教の自由はまず何より個人の信教の自由です。宗教上の差別を止めることは、血を流した長い歴史の教訓からきています(カメン著『寛容思想の系譜』平凡社が詳しい)。

 この問題を国家と宗教団体との関係だ、とみなした解答しかネットの中にはありません。この「と」を見逃したためです。

 まして「3つの地域の特徴を比較して」という課題に応えてない解答例もあり、いくら指定語句を使って書いても、没になる可能性もあります。これは高校の先生も指摘しています。http://zep.blog.so-net.ne.jp/2009-03-14

 

 「比較」の論述については、拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)でも次のようなスキルを紹介しています。

 1 比較は同じ項目で比べる

 2 比較の文章は、比較した内容順に、最初の文に合わせて次の文も書く

 3 ヨコの比較が明快

 といったことです。このことができないために、今年の問題なら、3地域のことを羅列したら「比較」したつもりでいる解答例がたいてい出てきます。羅列と比較はちがうのに分からないみたい。3地域を見比べてみて、それぞれの違いを見つけないと特色も出せません。羅列で終わると、比較は採点官にしてくれ、と課題を預けてしまうことになります。

 

 いつから書き始めるか、という点については導入文に「政治権力は、その支配領域内の」とあるので主権国家・国民国家の現れる16世紀以降が妥当です。これは国家という化け物にちかい存在が現れ、信仰の決定権も握ろうとした宗教改革と絶対王政の形成が連動して現れた16世紀の西欧にとくに該当します。他の地域は16世紀以前と以降とでもあまり変わりがありません。

 この16世紀から書くとして、ある予備校(K)の次のような解答は正しいでしょうか?

  以上のように、西・東アジアでは一元的帝国のもと被支配民の宗教的な多様性が尊重されたが、西ヨーロッパではそれぞれの主権国家群が領内の宗教的統ーを追求した。

  これと似た結論にしているのが『全国大学入試問題正解』(旺文社)の解答で、ここには「国王主導による宗教的統一が図られた。宗教的非寛容を伴った西ヨーロッパに対し、アジアの2帝国であるオスマン帝国と清は、……宗教的寛容策をとった」と見て書いたような答案が載っています。

  まず西欧で検討すると、確かに解答前半にある「主権国家の形成が進み、各国家が教会組織を統制下においた」例は、指定語句の首長法・領邦教会制・ナントの王令廃止の3つが指し示しています。これらは統制・統一の傾向を表しています。しかし、それで西欧の「取り扱っていたか……具体的な実例」を描いたことになるでしょうか? 

 イギリスの例でなら首長法があったからとて、国教会に加わらなかったものはたくさんいたのであり、非国教徒の存在なしにピューリタン革命は起きません。議会多数の長老派と少数の独立派は国教会に加わらなかった非国教徒です。

 「ピューリタンの多いジェントリ・都市商工業者・独立自営農民(ヨーマン)のあいだでは政治的・経済的・文化的な不満が一体となり、1628年に議会は権利の請願を出して慣習的な課税決定権を主張した」(山川の教科書『新世界史』)

 それに名誉革命後の1689年に寛容令(信仰自由令)で個人の信仰を認めています。ヴォルテールの『イギリス便り』はフランスには見られないクェーカー教徒(非国教徒の一派)の姿が描かれ、その不思議な人たちをイギリス人は許していると、その国状に感心しています。これは寛容(信仰の自由)を紹介する便りでした。

 領邦教会制のプロイセンでは、フリードリヒ=ヴィルヘルム自身はルター派ですが、経済的に優れた技能をもつユグノーたちをフランス語のパンフレットをつくってばらまき迎え入れました。ベルリン市がいっきにフランス人の多い街になります。拙著『センター世界史B各駅停車』でも「勅令廃止は20万人に及ぶ商工業者を国外に脱出させることになり、「当時最高の技術者・知能集団である時計工のほか、毛織物工業の織り元や職人も……フランスの知的水準の低下のみならず、技術力、生産力の減退をもたらす結果となった」からです」と、角山栄著『時計の社会史』中公新書を引用しています。

 東ドイツの最後の首相の名前はモドロー(ハンス=モドロウ)というひとでしたが、ドイツ語らしくない名前で推測できるように、かれはユグノーの子孫です。「18世紀後半以降……それ以前の時期」とあるので、間に生きた啓蒙専制君主に言及しても良いでしょう。かれらが宗教寛容令を出したことは教科書にも載っています(山川・東京書籍・三省堂)。これはアウグスブルク和議で決めた領邦教会制に対して個人の信仰の自由を認めたものでした。18世紀後半を生きたヨーゼフ2世だけでなく、フリードリヒ2世は即位(1740─18世紀前半)と同時に宗教寛容令を発布しています。

 レコンキスタのところでユダヤ人が追放されたことは知っているでしょう。かれらはどこへ行ったのか考えると迎え入れた国々もあったことが分かります。東欧以外にイタリア諸都市やオランダはユダヤ人を招き信仰を保証しました。レンブラントの家のすぐ近くにアンネ・フランクの家がありました。レンブラントが描いた聖書物語の人物は身近かにたくさんいたユダヤ人がモデルでした。ユダヤ教徒についてイスラム世界で説明した解答はあったが、西欧ではなぜか皆無でした。

 拙著(センター世界史B各駅停車)にスペインの迫害に対して低地南部からカルヴァン派が北部に移住する説明では、こう書いています。

  宗教的自由は、多くの迫害されてきたひとびとをオランダに引きつけることになり、難民の集まるオランダは、アメリカより先に「人種のるつぼ」を実現していました。迫害のひどかったアントワープ市から2万人の市民がアムステルダム市に亡命してきました。その時ユダヤ人も逃げてきたので、東インド会社の株の4分の1をユダヤ人が持っていたのも不思議ではありません。そのためアムステルダムは「オランダのイェルサレム」といわれました。

  そういえば、オランダからアフリカに移住したユグノーたちもいました(これも拙著・前掲書のアフリカ史に記事あり)。それがボーア人を構成し、アパルトヘイトを決めた1948年のマランの由来をたどるとユグノーが出てきます。かれはフランスのプロヴァンス出身のユグノーで1689年にケープ州に移民したジャック・マランの子孫です。これは一橋1987年のアパルトヘイト問題とかかわっています。

  「ドイツ・イギリス・フランス・スペインで迫害されたユダヤ人の多くは寛容な教皇のもとや、かれらの経済的能力を期待した東ヨーロッパにのがれた」と書いている教科書(第一学習社)もあります。キリスト教徒だけがこの問題の範囲ではないはずです。ユダヤ人・ユダヤ教徒・少数派をどう扱ったかも信教自由の問題です。この問題の場合は東欧は書いてはいけませんが、プロイセンはドイツの起源なので書いてもいいでしょう。

 ユダヤ人までて書くのは細かすぎる、とおもう方はヨーロッパにおけるユダヤ人問題を軽く見ています。山川の用語集でも頻度6で「ユダヤ人迫害」が載っていて、あと「ゲットー」「ラテラノ公会議(第4回)」「マラーノ」「スピノザ」「ポグロム」「ハイネ」「ホロコースト」などの用語にユダヤ人のことが書いてあります。無知なひとたちが「些細な」こととみなします。センター試験でも度々出題されていることがらです(1988,91,92,94,98追,99,2000追,01,02,03,04追,05,09)。

 

 これらのことから西欧は統制だけでまとめられないことが判明します。各国の対応はちがっており、一律の規定はできません。問われているのは、英仏独という3国だけでなく「西ヨーロッパ」の全体的傾向です。統制は不徹底であり、迫害された者たちを積極的に受け入れた国・都市もあったことです。個人の信仰の自由を認めた国もありました。さらに三十年戦争後のウェストファリア条約で、個人の自由は啓蒙専制君主の登場まで待たなくてはならないとしても、領邦毎の教会は認める、カルヴァン派も認める、同時に他宗派をもつ領邦・国家の内政不干渉を承認しあったことも想起するといいでしょう。オランダ独立の国際的承認は寛容容認の例となります。

 

 次に、「西・東アジアでは一元的帝国のもと被支配民の宗教的な多様性が尊重された」は正しいでしょうか? 結論の前の解答文では、

  オスマン帝国のスルタンがイスラーム教スンナ派を統治理念として尊重した。ムスリムの優位を前提として、異教徒の信仰はジズヤの負担により認められ、非ムスリムが多数を占める地域ではミッレトを通じた宗教別自治も認められた。

  まちがいどこにもありません。ただ解答文ではオスマン帝国スンナ派だけイスラム世界では唯一言及していますが、この帝国と対立した国はどうなのでしょう? 「西アジア」はオスマンだけではないし、隣接して何度も戦ったシーア派国教のサファヴィー朝のことは無視しない方がいいとおもいます。問題文に「宗派」とあるからです。この問題の課題が「多様性」のあり方をポイントにしている以上、必要でしょう。

 イスラム世界が寛容、というイメージは教科書でつくられていますが、歴史的事実ははたしてどうでしょうか? ジズヤを払えば信仰は何だろうと自由、ということで寛容なのでしょうか? イスラーム教は西欧とちがい個人の信仰の選択権はあるが改宗権はなく、征服の過程で剣をかざしてジズヤを払えば他宗教を認めるという脅迫的なものでした。

 ジスヤは小額ですが、支払いはハラージュと一緒に支払いました。ハラージュは収穫の2-5割の高額で、地方によってちがったようですが、5割が通例で、とくにユダヤ人農民に対しては重税となり農業を捨てて都市民にならざるを得なかった、といわれるくらい搾取されました。

 またこのジスヤは小額でも、イスラーム教徒の支配者に屈服することを示した「屈辱」的なものでした。支払うものたちを「ジズヤの民」とよぶ蔑称もありました。

 西欧とちがい西アジアでは早くからスンナ派とシーア派の戦闘があり、今もつづく激しい対立・内戦が繰り返されてきました。歴史的にもウマイヤ朝のシーア派弾圧、サーマン朝(スンナ派)とブワイフ朝(シーア派)の抗争、ブワイフ朝とセルジュク朝、セルジュク朝とファーティマ朝の対立、ファーティマ朝とアイユーブ朝の交代、オスマン帝国とサファヴィー朝の対立、サファヴィー朝のウズベク族(スンナ派)追放、と延々とつづく対戦があります。他宗派を認めない、という不寛容は歴史的には数限りなくある、といっていいでしょう。征服して支配下においた住民の信仰は信仰税・宗教税といっていいジズヤを払わせても、他の国・王朝との宗教的対立は止むことがなかった。ここには西欧のような内政不干渉の国際的容認がありません。多様性を容認する余裕がありません。

 個人でいえば、デウシルメ制というオスマン帝国の制度は、ギリシア正教徒の子どもたちを強制改宗させてから訓練した名高い史実です。『イスラーム辞典』(岩波書店)のブルガリアの項目に、オスマンの征服の過程で、住民の強制改宗があったことを指摘しています。

  東アジアの解答文はこうです、

  東アジアでは、儒学を統治理念とした歴代皇帝のもとで、被支配民へは宗教的寛容政策がとられた。清朝では藩部を理藩院により間接的に統治し、皇帝がダライ=ラマの保護者となることで、チベット、モンゴルの支持を得ようとした。そのため、チベットでは政教一致体制が存続した。

  チベット、そしてモンゴルはちがうと言いたいのでしょうが、変です。政教一致というのは国家・国王が宗教と深い関係をもっている状態ですが、清朝時代のチベットは国家なのか? もちろんチベット人からすれば「服属」していたのでなく「同盟」を結んだにすぎない対等な国家だったのだ、と主張したいことは理解のできることであり、チベットから中国人は出ていけ、と唱えたいところです。ただ日本の教科書ではチベットは藩部という間接統治地域であり、清朝の支配下にある地域でした。藩部が政教一致だという表現は使いにくい。清朝皇帝がラマ教徒であり、ダライ=ラマも兼ねているというなら別ですが、そんなことはありません。

 清朝皇帝は自らを菩薩の化身「文殊菩薩皇帝」として君臨し、多様性を容認しつつ、政治的な服従は要求・強制する君主でした。ちなみに「文殊」から満州の名は来ているとされ、清朝皇帝たちが朝服を着るさいには白い球の数珠が首に掛かっていました。チベット人、そしてダライ=ラマと同じ仏教徒として分かりあえる仲であり、政治的には清朝皇帝に優越権があり、アショカ王のような「法(ダルマ)の支配」をする君主として臨みました。

 藩部の「自治」の中に宗教的自由、つまり清朝側の内政不干渉があります。イスラーム教の新疆もこの藩部のひとつです。ここも独立国扱いであれば、いわば政教一致の世界で、18世紀までに諸部族を服属させたものの、部族ごとに自治はまかされていました。イスラーム教は政教一致の社会です。なにもチベットだけ「政教一致」をいう必要はないはずです。

  『詳説世界史』の記事をそのまま引用します。

  清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは、中国内地・東北地方・台湾であり、モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が、チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが、新疆ではウイグル人有力者(ベク)が、現地の支配者として存続し、清朝の派遣する監督官とともに、それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず、とくにチベット仏教は手あつく保護して、モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。

  ついでに東京書籍『世界史B』の説明ではこうなっています。どちらが課題に対してふさわしい教科書かは判るでしょう。

  清帝国の広大な版図は、本部(直轄領)と藩部に分けて統治された。本部とは、首都圏の直隷省と地方の各省から構成され、藩部は、つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり、藩部を管理する理藩院が新たに設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が、今日の「中国」という地域名称と重なり、また清朝の風俗や文化が、「中国人」のイメージのもととなった。

  清朝と藩部の関係は、周辺国との関係にも表れています。中国には、漢地仏教・道教・少数民間信仰・チベット仏教・イスラーム教・精霊信仰があり、その周辺諸国では、朱子学朝鮮・仏教の越南・シャーマニズムと仏教・神道の日本などがあり、これらの国々とは宗教的対立がありません。

 キリスト教に関しては、17世紀の典礼問題が起きるまではキリスト教徒の活動を認めており、教皇クレメンス11世が典礼是認派を異端とした(1704)ことから、激怒した康煕帝はイエズス会士以外の布教は禁止し、他会派は国外退去としました(1706)。ここに見られるように清朝は宗教的な自由は認めながら、政治的な反抗勢力になったり、政治的事件を許さなかったということです。

 18世紀前半の広東でキリスト教徒迫害事件が起きると雍正帝はキリスト教の布教を禁止しました(1724、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は、キリスト教はだめなド1ーナ7ツ2よ4)。康熙帝から地位を受け継ぐ交代劇のときにもイエズス会士が参画したという理由もあったようです。

 いずれにしろ東アジアの国々同士は宗教的な対立・戦争はなく、国家間における宗教的相互承認も必要がありませんでした。西アジアと明らかにちがいます。

  同予備校は「西・東アジアでは一元的帝国のもと被支配民の宗教的な多様性が尊重された」という東西共通性の結論でしたが、このような結論にはならないでしょう。

 

 布教という点でも比較することはできます。国家が布教という宗教・宗派の拡大活動をどうとり扱ったのかという点です。西欧は認められていながら戦争によって信仰の決着をつけたために事実上不可能でした。ただし外部への布教・宣教師派遣は妨げられていません。イスラーム教はムスリム共同体を維持しようとする傾向は強く、他宗教の布教は不可能でした。ここも外部への布教は禁止されていませんが宣教師が存在しません。ただし商人がその役割を担ったり、スーフィのように積極的に民衆に布教する宗派もありました。東アジアだけは内外が自由でした。ただ先述のように、政治的な問題になったり、またそう見られた場合は、禁教令が出て、清朝の中国でも日本でも弾圧されました。ただキリスト教はそうなってもイスラーム教・仏教・道教・チベット仏教などの布教は禁止されていません。この問題に対して設定時間内(18世紀前半まで)に典礼問題もあったと思いだせたら、布教は書けたかもしれません。そういう受験生もいました。以下のブログ。

 http://ameblo.jp/we-will-have-tomorrow/entry-10226097598.html

 

 この問題をつくるきっかけは昨年の北京オリンピックとチベット問題であったと推測します。筑波大学でもチベット史が出ました。「18世紀前半までの……東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較」という東大の課題から、現在の中国共産党のチベットに対する扱いが、18世紀以前の清朝に劣ることを示唆した痛烈な中国共産党批判でもあります。
 また自民党の憲法改正案は、この問題の導入文にある二十条の「何人に対しても……何人も」という語句を削除して信教の自由を脅かし、神道回帰を目論んでいます。

 

[第2問の解き方

(1) 

 (a) ポリスの形成過程……という課題です。形成の背景・原因、契機、方法(集住)、確立など何を書いてもいいです。

 背景・原因としては、前9-前8世紀における暗黒時代の終焉、民族移動の終わり、人口増加と集落形成。

 契機としては、先住民の征服のための戦闘・防衛(スパルタ)、諸民族の統合による軍事力の強化、有力貴族の主導による集住(アテネ)。

 方法としては、集落(複数の共同体)の連合(スパルタのように都市を築かず、5つの村が連合する)、集会所(役所)の統合(アテネのように4部族それぞれにあった役所の統合)、住民がアクロポリスの周辺に移住する、いわゆる集住(シノイキスモス)。

 確立としては、先住民の闘いに勝利して奴隷化(スパルタ)、消費者市民の奴隷労働依存(アテネ)、ポリス守護神崇拝施設の建設(スパルタはアルテミス女神、アテネはアテナ女神)など。

  (b) 共通の認識を支えた諸要素……は、教科書に記載が豊富にあり、易問だった。山川の『新世界史』では、

 言語・宗教,ホメロスの詩,デルフィの神託,オリンピアの祭典などを中心にして,ギリシア人は一民族としてまとまっていた。

  ネット内の解答に、異民族をバルバロイと呼んだ、という教科書の記述そのままに書いているものもあるが、これは「要素」にあたらないから要らない。逆に「ホメロスの詩」を書いたものが一つもないのが不思議でした。

(2) 

 (a)殷の政治の特徴は、という問い。前文の「出土した記録は……証言している」という特徴です。すると甲骨文字が証言している特徴、ということになります。この場合の「特徴」は『練習帳』で説明しているように、他と比べて違う点、という意味の本格的な特徴でなく、殷王の政治のあり方について知っていること、その内容説明にすぎない「特徴」です。もちろんダメ、ということでなく、次の周と比較して書いてもいでしょう。字数60字では短すぎますが。

  『詳説世界史』なら、こうです。

  殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。

  神権政治と一般にいわれるもので、殷王が焼いた甲骨を占い吉凶判断と政策決定を行う、死後は太陽神になる、との観念をもった神権政治、ということになります。太陽神崇拝のことは殷王が亡くなると、代々の王の諡(おくりな)に10個の太陽(当時は太陽は10個あり、太陽は地下に存在していて毎日1個ずつ昇ってくる、と信じていた!)の名前、甲日・乙日・丙日……癸日が必ず含まれることで判明します。神権政治はエジプト・メソポタミアでも見られるものです。「古代文明のうちもっともはやく成立したオリエント文明では,インダス文明や中国文明と同じく,大河の治水・灌漑にもとづく神権政治がおこなわれ,その政治形態は一部,後世のイスラーム世界にも引きつがれた」(『詳説世界史』)。

  ついでに東京書籍の該当する部分の記述を引用すると、こうです。

 出土した甲骨には,殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 よく東京書籍の方が東大論述に合っている、という根拠のない説が流布していますが、これを見てもその差が判るでしょう。いずれもっと詳しく違いを説明するつもりですが、東京書籍の方が記述のひとつひとつの粗さが見られます。なお、先に周と比較しても良いとしましたが、これは『練習帳』の巻末「基本60字(旧版では「60字問題集」)の中国・政治のところに類題があげてありました。問題文と指定語句は「殷と周の支配体制の違いについて説明せよ。 甲骨 礼」です。

(b) 「前11世紀に……首都の移転……移転前と移転後の首都名を挙げ、移転にともなう政治的変化」という問い。これも易問でした。鎬京から洛邑へ、の漢字が正しく書けるか? 移転前は西周の王室の権威があり氏族的(血縁的)封建制が維持されていた。この体制が崩壊して東周になり、有力諸侯が覇者となって尊王攘夷の下に号令をかけることになり、七雄は統一を競った。つまりは周の求心力はなくなり、その権威に代わる権力追求の時代となった。

(3)

 (a) 東方交易について……というだけで何を書いてもいい。かかわったイタリアの都市名・商品・その性格と影響・活発化の原因・交易の相手などです。

 都市はヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ。商品は東方から香辛料・絹織物・宝石・薬など奢侈品。その性格は遠方から軽くて高い価格のものであったこと。莫大な利益と危険な交易は銀行・保険業を発達させました。原因は十字軍の輸送や東地中海での商業基地の建設です。相手はカイロの王朝とグジャラート商人やカーリミー商人でした。

 この問題の類題は「基本60字」にもありました。「北ドイツの都市と北イタリアの都市のちがいについて、その商業圏と商品から説明せよ。 北海 香辛料」です。

 (b) 北イタリアの都市同盟について……ロンバルディア同盟という名前、ミラノ中心、神聖ローマ皇帝(フリードリヒ1世)の南下に対抗して結成、皇帝軍を破った(1176年のレニャーノの戦い)、自治権を確認させた、くらいで十分すぎる解答です。センター試験2007年度にも、「北イタリアの諸都市は、ロンバルディア同盟を結んで皇帝と争った」(問題番号30)という正文がありました。

 

第3問

 センター試験でもよく出題された結社の問題です。

(1) 「18世紀末……弥勒下生信仰に基づく宗教結社」ということで白蓮教徒の乱です。年代はバブーフ陰謀事件・カージャール朝とともに1796年(『ワンフレーズ』バカ白蓮、十10殴79ろ6)。白蓮教徒の乱が宗教結社のテーマの中でセンター試験で問われた例は、2007年の導入文(宋代以降、弥勒菩薩が地上に降りて人々を救済するという白蓮教が広まり、現体制に対する革命の要素を持つ反乱が頻発する。元末には[ 7 ]が起こり、その中から頭角を現した人物が明朝を開いている。清代には、乾隆帝の退位の年に白蓮教徒の乱が勃発している)、2004追、2000、1999、1993追、1991年に出題。

(2) バブーフもセンター試験必須。2003追、1998、1990年に出題。

(3) イタリアの政治的秘密結社カルボナリもセンター試験必須。2007、2000、1998年に出題。

(4) デカブリストの乱もセンター試験必須。2005、2003、1998年に出題。

(5) これはセンター試験に出題歴がないもので、クー=クラックス=クランという黒人弾圧の秘密テロ結社です。

(6) この人物は、2001年のセンター試験に「19世紀半ば、全ホウ準に指導された太平天国の乱が起こった」と誤文で出題されたことがあります。

(7) 「日露戦争の時期の東京……革命諸団体を結集した新たな政治結社」中国同盟会は、センター試験2005、2003追、2001追、2000、1998、1997、1994年と頻出です。

(8) 「20世紀初め……ムスリムの政治的権利を擁護する団体」全インド=ムスリム連盟もセンター試験2008、2005追、200.、2000、1993追、2001追、1990、1990追と頻出です。

(9) ファン=ボイ=チャウやドンズー(東遊)運動はセンター試験頻出ですが、「1912年に新たな結社」ベトナム(ヴェトナム)光復会は未出題用語です。

(10) アウン=サンの指導下の党については、「ビルマ(ミャンマー)では,第二次世界大戦後にタキン党が結成された」と2004年追試で誤文として出題されたことがあります。

 問(5)(9)(10)の3点を失っても、第2問が容易だったので、まあまあというところです。予備校の模試では第3問に異常に細かい問題を出してきますが、できなくても悩む必要はありません。

(わたしの解答例)

第1問

西欧キリスト教は一神教を保持していたが、16世紀の宗教改革によって新旧に分裂した。この際、英国は首長法による国教会をつくり、ドイツは領邦教会制とし、旧教にとどまるのであれ教皇から離れた君主主導で国家権力と教会が結託した。ルイ14世は寛容を認めたアンリ4世のナントの王令廃止にふみきり個人の自由を否定した。17世紀の三十年戦争で宗教・公会議の権威は崩れて政治的国際会議へ転換した。18世紀前半の啓蒙思想により次第に個人の信仰の自由「寛容」の必要性が認められるようになった。西アジアは一神教のイスラーム教が浸透し、王朝・国家はジスヤを払えば他の宗教でも容認し、その自治をミッレト制で認めた。スンナ派とシーア派の宗派対立はあったが、西欧とちがい個人の信仰の自由は認められた。東アジアでは多神教・多宗派の世界であり、清朝は理藩院でイスラーム教徒の新疆、ラマ教の指導者ダライ=ラマの西蔵や青海を藩部として、その信仰と自治を容認した。個人の信仰の自由も認められた。西欧では北に新教、南欧に旧教が定着し、政教一致であった。西アジアでは同じように自由あったが政教一致のスルタンに従わさせられた。東アジアでは何宗派であれ、儒教的政教一致の皇帝に服従を強いられた。また西欧の宗教キリスト教はその布教が中国でも日本でも禁止された。西欧や東アジアでは聖職者・僧侶は権力と結びついたが、西アジアでは聖職者は存在しない。

第2問

1

(a)暗黒時代が終わり、人や役所・集会を一箇所にあつめる集住をおこなった。人口増加とともに地中海世界一帯に植民市を築いた。

(b)ホメロスの詩を楽しみ、オリンピアの祭典を開き、オリンポス12神の信仰とデルフィの神託に頼り、隣保同盟を結んだ。

2

(a)王が甲骨の占いによって神意うかがう神権政治で、大邑商の下に中小の邑をしたがえ邑制国家であった。 

(b)鎬京から洛邑へ。西周は王室の権威と氏族的封建制が維持されていたが、東周で封建制は崩壊、五覇・七雄が求心力を争った。

(3) 

(a) ヴェネツィアとジェノヴァが覇を競いつつ、ペルシア湾をとおしてカイロの王朝とグジャラート半島を結ぶ交易をした。

(b) 侵入する神聖ローマ皇帝に対してミラノを中心にロンバルディア同盟を結成。周辺の都市を併合し、貴族の住む都市の連合であった。

第3問

 1 白蓮教徒の乱

 2 バブーフ

 3 カルボナリ(炭焼党)

 4 デカブリストの乱

 5 クー=クラックス=クラン(K.K.K)

 6 全ホウ準[ホウ=王+奉]

 7 中国同盟会(中国革命同盟会)

 8 全インド=ムスリム連盟

 9 ベトナム光復会

 10 タキン党

東大世界史2008

第1問

 1871年から73年にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする日本政府の使節団は、合衆国とヨーロッパ諸国を歴訪し、アジアの海港都市に寄航しながら帰国した。その記録『米欧回覧実記』のうち、イギリスにあてられた巻は、「この連邦王国の……形勢、位置、広狭、および人口はほとんどわが邦と相比較す。ゆえにこの国の人は、日本を東洋の英国と言う。しかれども営業力をもって論ずれば、隔たりもはなはだし」と述べている。その帰路、アジア各地の人々の状態をみた著者は、 「ここに感慨すること少なからず」と記している。(引用は久米邦武『米欧回覧実記』による。現代的表記に改めた所もある。)

 世界の諸地域はこのころ重要な転機にあった。世界史が大きなうねりをみせた1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのかについて解答欄(イ)に18行(540字)以内で論述しなさい。その際に、以下の9つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 インド大反乱 クリミア戦争 江華島事件 総理衙門 第1回万国博覧会 日米修好通商条約 ビスマルク ミドハト憲法 綿花プランテーション

 

第2問

 人類の歴史において、領土およびその境界はしばしば政治的な争いや取引の対象となってきた。そして、過去に決められた領土や境界のあり方は、さまざまな形で現代世界の成り立ちに影を投げかけている。領土と境界の画定をめぐる歴史上の出来事に関する以下の三つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1)  1960年代、ソヴィエト連邦と中華人民共和国との間で政治的な対立が深まり、1969年には、アムール川(黒竜江)の支流ウスリー川にある中洲の領有をめぐって武力衝突が発生した。この両河川流域の領土帰属は、19世紀半ばにロシアが清と結んだ二つの条約で定められていた。これら二つの条約が結ばれた経緯とその内容について、4行以内で説明しなさい。

(2)  ゴラン高原をめぐるイスラエルとシリアの係争は、高原の西の境界に関する見解の不一致によっても複雑化している。イスラエルは(a)1923年に定められた境界を、シリアは(b)1967年6月4日時点での実効的な境界を主張している。この背景には、乾燥地帯では特に切実な水資源の奪い合いという問題もある。下線部(a)・(b) に対応する以下の問いに、冒頭に(a). (b) を付して答えなさい。

(a) この境界は、当時のいかなる領域間の境界として定められたものか、2行以内で説明しなさい。

(b) この翌日に勃発した戦争について2行以内で説明しなさい。

(3)  ヨーロッパ連合(EU) の直接の起源となったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) は、 ドイツとフランスの間の領土と資源をめぐる長年にわたる争いの解消と永続的な和解の構築を目指していた。ヨーロッパ議会をはじめとして和解を象徴する諸機関が存在しているアルザスの領有もたびたび独仏対立の一因となってきた。このアルザスの1648年から第一次世界大戦後に至る帰属の変遷について、4行以内で説明しなさい。

 

第3問

 世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。これに関連して、以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1)  アケメネス朝ペルシアでは、王都と地方とを結ぶ道路が「王の道」として整備された。そのうち幹線となったのは、サルディスと王都のーつとを結ぶものであった。その王都の名称を記しなさい。

(2)  「すべての道はローマに通じる」とは名高い格言である。これらの舗装された道は軍道として造られたものであるがその最初の街道はすでに前4世紀末に敷設されている。このローマとカプアとを結ぶ最古の街道の名称を記しなさい。

(3)  中世ヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、キリスト教徒の巡礼の旅が見られるようになった。ローマやイエルサレムと並んでイベリア半島西北部にあり聖地と見なされた都市はどこか。その都市の名称を記しなさい。

(4)  中国産の絹が古くから西方で珍重されたことから、それを運ぶ道は一般にシルクロードとよばれる。この道を経由した隊商交易で、6~8世紀ころに活躍したイラン系商人は何とよばれているか。その名称を記しなさい。

(5)  シルクロードと並ぶ「海の道J は唐代から中国の産品を西に運んだ。絹と並ぶ主要産品の一つは、それに因む「海の道」の別名にも使われている。この主要産品の名称を記しなさい。

(6)  モンゴル帝国では駅伝制度が整備され,ユーラシア大陸の東西を人間や物品がひんぱんに往来した。とくに中国征服後はすべての地域で駅伝制度が完備した。この駅伝制度の名称(a)と,公用で旅行する者が携帯した証明書の名称(b)を,冒頭に(a) ・(b) を付して記しなさい。

(7)  アメリカ合衆国における大陸横断鉄道の建設は移民を労働者として利用しながら進められた。それは西部開拓を促しただけでなく合衆国の政治的・経済的な統ーをもたらすことになった。この鉄道建設が遅れる要因となった出来事の名称を記しなさい。

(8)  オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト2世は各地のムスリム(イスラーム教徒)の歓心を買うために,巡礼鉄道(ヒジャーズ鉄道)を建設したが,ムスリム巡礼の最終目的地はどこであったか。その地名を記しなさい。

(9)  1911年の辛亥革命は,清朝が外国からの借款を得て,ある交通網を整備しょうとしたことへの反発をきっかけとして生じた。この交通網をめぐる清朝の政策の名称を記しなさい。

(10)  世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは,失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後,厳しい統制経済体制をしいて,軍需産業の振興とともに高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。

………………………………………

[コメント]

 配点は20点・20点・20点でしょうか?

 浪人生は開示された自分の答案を見てください。なぜこんなに低い点数なのか、第3問が10題のうち8問正解で、第2問もほとんど正解……これで32点から36点はあり、それに第1問がゼロということはありえない……。しかし君の計算自体がまちがっていると考えたことはありませんか?

 東大の配点は模試の配点のように20点・20点・20点ではないのではないか、という疑問です。合格者と不合格者の開示された点数と、再現してくれた答案をいくつも比較してみて顕れてくるのは、20点・20点・20点ではないのです。今年なら、31点・18点(6×3)・11点という配分でしょう。昨年なら、30点・18点・12点という配点とおもわれます。第3問の比重は小さく、第1問の比重が非常に大きいということです。これは採点基準をつくってみても20点・20点・20点では採点できないこと、問題文に配点が明示されていないことからも推測できます。

 

[第1問の解き方

 この問題を的中したという予備校(K)の掲示を見て笑いころげました。過去問をテキストに載せたらそれで的中とは。すると、このホームページも拙著も多くの予備校の論述テキストも的中になります。いかに浅はかな「的中」か。1979年のは以下の問題です。

 1850年代から1870年代半ばにかけての世界は、さまざまな点で顕著な時代的特徴をもっている。

 これは欧米における科学技術の進歩、経済の発展.国際政治の変化、そして、これらにもとづく欧米と他の地域との関係の新展開のなかに認められる。この時代の特徴を、科学技術、経済、社会、政治の相互連関に留意し、前後の時代をも考慮しながら、600字以内(句読点も1字に数える)で述べよ。解答には、下記の語句を随意の順序で少なくとも1回は用い、また最初に用いたときに下線で明示せよ。

 クリミア戦争 南北戦争 アロー戦争 明治維新 通信手段 鉄道建設 産業資本家 自由貿易 国民国家

  この問題の類題と見たらしい。時間的には「1850年ころから70年代までの間」とあるので50年長くはあっても似ています。書かなくてはならない時代の様子は浮かびます。拙著『世界史論述練習帳』は古い1970年代の問題を載せているため、これを非難してこんな古い問題は要らないよ、と書いている人物がいますが恥を感じたでしょうか? しかし、課題はまるでちがいます。この古い問題は、「時代の特徴を、科学技術、経済、社会、政治の相互連関に留意し、前後の時代をも考慮しながら」という関連づけと前後の比較を問うているのです(前掲書、p.125-127)。しかし今年(2008)の問題は覇者のイギリスにどう組み込まれたか、それにどう対抗したかと問うているのであり、関連や前後の時代比較の問題ではありません。まるで内容がちがう解答になります。

 また、「19世紀中ごろから20世紀50年代までの「パクス・ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について」(1996)を類題だと見たひともいるらしい。今年の問題文に「パクス・ブリタニカ」とあるためらしい。しかし、これは覇者の盛衰だけを問うた問題であり、組み込まれた側の対抗は問うていません。この問題文には示唆はされてはいました(さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った)。この問題は対抗を書けとは要求されていません。時間(30年間)も限定されています。類題と見る感覚の鈍さに、呆れます。まして上の二つの問題の合体みたいな問題と説明している予備校(T)もありますが、問題をもっとよく見ろ、と言いたい。

 

 今年の問題は東大らしい独創的な問題でした。問題そのものの取り方が難しい、というより問い方が曖昧であったため、いろいろな正解が可能な問題でした。その曖昧さとは、

 

 どのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのかについて

 

のうち「組み込まれ」るとはどういうことか、ということと、「また」が並列なのか、それとも前に書いてある「組み込み」にどう対抗したのか、と問うているのか判りにくいことです。この解釈のちがいで構成・内容もちがってきます。

 組み込みは、パクス=ブリタニカ(大英帝国の支配)に組み込まれる、ということはこの英国の植民地となったり半植民地化するか、その恐れのあった国々(日本も)のことととるのがひとつ。とすれば、大英帝国と直接かかわり(戦争・衝突)のあったアジア・アフリカの国々は入れなくてはならない。もしこれだけだととれば、自立的な経済をつくれた国々(独[普]仏露米伊)は組み込みに入らないのではないか、という点。組み込まれなかったすべての国々も入れて、とにかく「パクス」に圧力を感じた国々も入れる、とすれば自立的な経済国も書いてもいい。これは「また」を並列ととる構成になります。

 1 対抗して自立的経済国になった国々(先進国・列強)
 2 組み込まれてしまったが、これに対抗した国々の反抗の事例

 1だけでは得点は少ないはずです。2もいれないと得点は低いでしょう。組み込みがないからです。

 

 ただわたし自身は、組み込みと対抗はセットと読みました。理由は、欧米の先進国を見た後にインド洋周りで帰国する際、引用文にある「アジア各地の人々の状態をみた著者は、 「ここに感慨すること少なからずJ と記し」とある点(この感慨を説明せよ、という課題)、そこから「日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか」という問が出ていることを自然にとれば、上の2だけでいいのではないか、とおもいました。いわば先進国は要らないと。「対抗」は、向かい合う(相対する)二つのものが、互いに勝ちを争うことです。欧米諸国がイギリスと向かい合い、相対した、という歴史的な事実があるでしょうか?

 この時期はイギリスは「光栄ある孤立」外交をしており、欧米列強とは組まないが対立もしない外交を展開していました。イギリスがドイツ帝国やロシア帝国・イタリア王国・アメリカ合衆国にどのような挑戦をしたのでしょうか? まるで「ブリタニカ」が一人勝ちしていて、他の列強ががまんならず対抗的な国内政策をみなとったのだ、ととるのはどうでしょう? 南北戦争や独伊の統一戦争も農奴解放令も皆イギリスに対抗してやったのだ……、というのは粗雑すぎる議論です。それぞれの国のもっている事情を無視した強引な歴史観でしょう。

 いやイギリスの経済力が何よりも大きく、その圧迫下に列強が対抗できる経済力をつけるべく奮闘した時期なのだ、というならば、もうそういう時期ではない、と答える他ありません。問題の時間範囲では1880年まで入るのであり、「1870年代以降、世界的な不況やほかの工業国との競合に直面すると、保守党のディズレーリ首相はスエズ運河会社の株式を買収して1875年運河の経営権をにぎり、露土戦争にも干渉して……」(詳説世界史)と記すように米独の追い上げがきつく第二次産業革命の技術にも出遅れていくのであり、この教科書の記述のようにイギリスの方が対抗手段をとらざるを得なくなってきた時期でもあります。この教科書の初めにある「世界的な不況」とは大不況(1873-96)のことであり、問題の時期と重なっています。

 

 ネットの解答では「イタリアやドイツでは国民統合が進み、ドイツのピスマルクは保護関税法で工業発展をとげ、またロシアも農奴解放令を軸に改革を開始した」(K)とあり、

 「南部は経済的に英国に従属していたが、連邦政府は1861年~65年の南北戦争で対抗し、南部を破って再統一に成功した。英国製品の輸出にさらされたドイツではビスマルクは鉄血政策により統一に成功した」(S)とあり、

 「圧倒的な経済力に対抗して、イタリアが統一されたほか、ドイツでもプロイセン首相ビスマルクの鉄血政策により国家統一が実現し、国民経済の確立・保護が目指された。クリミア戦争に敗れたロシアでは、農奴解放が行われるなど近代化が図られた。アメリカでは綿花プランテーションでの奴隷労働を不可欠とする南部と商工業の発展が進む北部の利害が対立して勃発した。南北戦争に北部が勝利して国家統合を実現し、保護貿易によりイギリスの経済力に対抗した。」(T)とあります。

 これらはすべて要らないとおもいます。いくらなんでも、イギリスの圧迫下に統一戦争や南北戦争・農奴解放をおこなったとは言えないのではないでしょうか? 強引。指定語句のビスマルクやクリミア戦争があることから、類推して、あるいは欺されて、テーマからはずれていながら欧米諸国の近代化も入れた、ということではないか。欧米諸国が「組み込まれた(植民地化・半植民地化・その危機にあう)」ことはないので、この時期の重要な事件を、なんでもかんでもイギリスのせいにしてしまっていいのか? と疑問です。ある予備校(T)のように、採点基準をつくってみても問題がよく分かっていない基準では無意味です。

 合格した受験生たちの再現してくれた答案を見ても、欧米諸国のことは書いていないのではないが、どちらかというと簡略にしていてアジア・アフリカのことに集中しているのが、このわたしの考えを補強するものです。

 

 組み込みとはイギリスの政治的経済的支配の歯車・駒になったことを示さなくてはなりまません。とくに経済的支配の一環・部分・片割れになったことを示す必要があります。

 インドなら「第一次産品の輸入・製品の輸出」(S)では今ひとつです。教科書に書いてあるように、「植民地政府の最大の目的は,より多くの富を効率よく収奪することにあった。最大の収入源は地税であった。……ザミンダーリー制や……ライヤットワーリー制……人びとのなかから1人だけが選ばれて土地所有者とされ,ほかの人びとの従来の権益は無視されたため,それまでの共同体的な人と人との関係が大きく変化……機械製綿布が流入してインド製品を圧倒しはじめ,1810年代末には輸出入が逆転した。こうしてインドは,綿花やアイ・アヘンなどの一次産品を輸出し,イギリスから製品を輸入する立場へと転落した」(詳説世界史)と。拙著『センター世界史B各駅停車』でも徴税を強調しています(p.101)。だがこの近代的土地所有制と徴税に言及した解答はネットでは見られません。また綿花プランテーションをたいてい合衆国でつかっているのですが、合衆国内でも綿花はつかっているのであり、綿花輸出の利益を得ているのは北部の商人です。組み込みとしては弱いですね。工業製品はしっかり保護関税で守っています。南北戦争のときに早い段階でイギリスが中立の立場を打ち出しているのも北部とは対立しない方が利益があると考えたためのようです。メキシコのように干渉していません。

 トルコ(オスマン帝国)なら、「西欧化改革(タンジマート)……ヨーロッパ工業製品の流入は土着産業の没落をうながし,外国資本への従属がかえってすすんだ。」(詳説世界史)と教科書にあります。この「従属」の具体例は、このHP疑問教室→西アジア史→Q20オスマン帝国の半植民地化とは、どのような国によるもので、どのようになされたものなのですか? の答えにあげてあります(→こちら)。

 ネットの解答では何を勘違いしたのか、露土戦争前後の政治史(タンジマート・ビスマルク・ミドハト憲法)を書いて満足しているものがほとんどです(S・Y・T)。組み込みが書けない。

 指定語句のクリミア戦争(1853-56)は組み込みの例として使えばいいでしょう。このクリミア戦争をイギリス側の対露政策として説明した解答もあります(ロシアの南下政策に対しては1854年仏と共にクリミア戦争に介入してこれを破り,インドヘの道に対抗する南下を阻止した──S)。しかしこの問題の課題は対英であって、対露ではないのです。勘違いしています。この戦争でトルコは、英仏サルデーニャの援助下で勝利国になったものの、このときの借金が払えずサラ金地獄に陥ります。ここでロシアの南下失敗を説明しても無意味です。露土戦争(1877-78)も時間の範囲内なので、ここで指定語句のビスマルクも使えば、その調停者「誠実な仲買人」の親英的な調停でトルコはますます苦境に陥ります。サン=ステファノ条約になかったキプロス島がトルコ領からイギリス領になりました。

 

 中国(清朝)は指定語句に総理衙門(総理各国事務衙門)があるため組み込みを書かないでいきなり対抗面を書いたり、「アロー戦争に負けた」で組み込みを書いたつもりでいるもの(S)もあります。「アヘン戦争の敗北は,清朝の威信を地におとした。アヘンの密輸入は公然化し,銀の流出は銀価の高騰に拍車をかけた。」(東京書籍)、「香港の歴史……アヘン貿易と苦力貿易,綿製品取り引きにより莫大な富が蓄積」(清水書院)ということくらい書けないのか。アヘン戦争は時間的に書けませんが、状況はアロー戦争後も変わっていないのです。またイギリス人による海関の管理に言及したものはありません。1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはロバート=ハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはこの人でした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。

 日本におけるイギリスの進出は金銀比価を利用した貿易だけでなく幕末の内紛を利用した武器市場と化しました。長崎のイギリス商人から大砲(アームストロング砲)、鉄砲(ミニエー銃・ゲベール銃)、軍艦(江華島事件の雲揚号はイギリス製)を買い、討幕になったのです。他に機械(採炭・造船・製鉄・紡績など)火薬・自転車・蒸気機関車・時計を買っています。経済的には半植民地状態です。ネットの解答の中で日本の組み込みを書いた答案は皆無です。「日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ」という課題をいつのまにか忘れたようです。呑気なこと。

 日米修好通商条約はイギリスでなくアメリカとの条約(1858)ですが、同内容のものは、露・蘭・仏・英とも結んでいます(安政の五カ国条約)。イギリスの組み込みが課題ですから、この不平等条約については「と同様の条約を英国と結んだ」とでも書いておきます。ただこの条約を結んだとか、「開国した」、「国際貿易に参入」したということでは、どう組み込まれたかが不明ですから、その不平等性(関税自主権の放棄、領事裁判権)か上記のことを書きます。

 

 日本のように組み込まれる危機のあった国としてはタイもあげられます。ラーマ4世(モンクート王、位1851-68)はボーリング条約(タイ・イギリス友好通商条約)という治外法権や関税の制限などを認めた不平等条約をむすび(1855)、翌年,アメリカやフランスとも同様の条約を締結しています。 

 タイとともにエジプトに言及した解答も見つけることはできません。教科書には「近代化を急ぎ,また戦争によって莫大な債務をかかえこんだエジプトは,1860年代からイギリス・フランスの財務管理下におかれ,内政の支配もうけるようになった。」(詳説世界史)と書いてあります。

 アイルランドに言及したものも見つけられません。となりの島はイギリスの財源でした。小麦と労働力です。教科書には、「イギリス人の地主のもとで小作人の地位におかれていたアイルランド人の不満は絶えず,土地の返還と自治権獲得を要求する運動が続いた。」(山川の要説世界史)と。つまり小作料も収穫もイギリス人地主がもっていきます。都市工業の労働力はアイルランドの出稼ぎ労働者に頼っています。

 答案を再現してくれた合格者の中にはラテンアメリカに言及したものもありましたが、ネットの中でラテンアメリカを書いた答案を見つけることはできません。わたしの日頃の答案評価は、優れた受験生の答案→予備校の一部の答案→高校教師の答案(旺文社の『正解』など)という順です。後ほど低くなります。後ほど執筆(答案作成)時間は長くなります。30分→3時間から1週間→1月から2月、という時間の長さ。受験生はまったく教科書も参考書も見られない、つまりカンニングできないが、後の人たちほどたくさん調べられます。それがこんな結果になるのは実に不思議です。時間をかけてもカンニングをしてもレベルの低い解答しか作れない。今回の問題にたいする答えもそうでした。ラテンアメリカのことは教科書に書いてあることです。「メキシコ以南のラテンアメリカ諸国は……はやくからアメリカ合衆国の経済進出があり,南アメリカでは19世紀末まで,イギリスが市場を支配していた。」(詳説世界史)と。このことに関しても、疑問教室→アメリカ史→Q5「南アメリカでは19世紀末までイギリスが市場を支配していた。」と教科書にありますが、どうして合衆国でなくイギリスなのですか? の答えを見られたい。

 また過去問(1976)の史料もそのまま組み込みを表わしていました(e アルゼンチン経済の特色は,大土地所有下の農場・牧場がイギリスに輸出するための食肉・小麦を生産しているところにある。イギリス系の鉄道はこれら農牧場をもっぱらブエノスアイレスに結びつけている。その結果アルゼンチン経済の発展は,むしろ妨げられ,ゆがめられているのである。)

 

 対抗は指定語句からは、インド大反乱、江華島事件、総理衙門、ミドハト憲法が使えます。これだけでは少なすぎますが。上に書いた組み込みと対応した順で説明していきます。

 まずインド。「インド大反乱」はネットでは「インド大反乱を鎮圧し,ムガル帝国を消滅させ東インド会社を解散,直接統治を始め……」という風に経過(流れ)として書いているのですが、これで「対抗」を書いたことになるのか? 全国的な反英運動になったこと(詳しくはアワドの反乱・ジャーンシーの反乱)、「旧支配層や旧地主層,農民,手工業者など,イギリスの支配によって没落した多くの層の人々が参加」(東京書籍)を書きたいところです。この大反乱の後に、「藍(あい)の反乱」(1860~61)といってベンガル農民が耕作拒否や工場襲撃などの反英運動をおこないました。また、デカン農民一揆(1875)という高利貸襲撃運動もありました。バネルジー(1845~1925)というイギリスに解雇された官僚が反英の組織「インド人協会」を設立(1876)します。

 経済的な対抗としては、イギリスの鉄道建設からインド側の民間資本(民族資本)による鉄工業の勃興もありますし、綿業・ジュートの工業も起きてきます。このあたりは過去問(1976、h 鉄道に直接関係のない工業部門でも、機械が応用されるようにならざるをえない。そこで、インドにおける鉄道網は、まさに近代工業の糸口となるであろう)の史料を利用します。1854年にパールスィー(ペルシア人)商人がボンベイに綿紡績工場を設立したのが最初です。これらのことを書いた答案も皆無です。

 トルコの場合は一時的ではありますが、ミドハト憲法の制定(1876-78)があります。他に、パン(汎)=イスラーム主義もあります。これはアフガーニー(1838~97)やムハンマド=アブドゥフ(1849~1905)が担いました。「ヨーロッパ諸国の進出と領土の分割をめぐる覇権争い(「東方問題」)の激化は,西アジア諸国の民衆に民族の自覚をうながし,イスラーム教徒としての連帯の必要性を痛感させた。各地で民族主義とパン=イスラーム主義を説いたアフガーニーの思想は,エジプトのウラービー運動やイランのタバコ=ボイコット運動に大きな影響をあたえた。」(詳説世界史)と教科書にもあります。もっともタバコ・ボイコット運動は1890年代なので運動そのものは書けません。しかしウラービーの運動はウラービー革命として1879-82年の運動として見る見方もあり、書いても時間的なまちがいではありません。もっともウラービー=パシャの「反乱」という蜂起は1881年になるのでアウトです。

 中国の場合は、総理衙門を設置した(1861)と書けばそれで「対抗」したことにはなりません。北京条約(1860)で外国公使の駐在が決まり、英仏の要請(強要)もあってつくった欧米諸国との外交事務専門の新官庁です。この官庁の中にイギリス課、フランス課、ロシア課、アメリカ課などと部署も設けられました。この新官庁の名前だけ書いても対抗にはならないはずです。むしろこの官庁が軸になって洋務運動(1862-90年代)を展開したことが対抗になります。この洋務運動は中国にとっての工業化であり、機械工業の始まりです(小島・丸山共著『中国近現代史』岩波新書 p.35──2人の著者は東大教授)。日清戦争で敗戦したから挫折したというほど柔なものではありません。日清戦争後もこの機械工業は発展します。また官僚と買弁(ばいべん、外国商人の下請けを行ない中国国内での売買の代行者)による資本も育ってきます。

 ある受験生が社会の試験が終わって、となりの受験生が「利権回収運動カンペキだぜ」といって誇っていて、これって自滅ですね、と報告してきました。利権回収運動は「1904年、清朝から粤漢線の敷設権を得ていたアメリカの企業が、南端の一部分を敷設しただけで、株の三分の二をベルギー資本に売却し、これが同線の主要部を建設することになった。これに対して、広東、湖南、湖北で抗議の世論が沸騰し、ついで外国資本に握られた鉄道と鉱山の利権を回収し、自力で建設・経営しようとする運動が各地に起こってきた」(小島・丸山共著の前掲書 p.67)とあるように20世紀初めからです。教科書でも辛亥革命の直前のところで書いています(詳説世界史)。

 民間では、太平天国の乱(1850-64)が反英対抗運動といっていいでしょう。教科書「アヘン戦争による多額の出費と賠償金の負担は,重税となって民衆を苦しめ,また広東貿易の体制が一変して華中や華北に貿易の中心が移ったため失業者がふえ,不満が爆発して太平天国の動乱がおこった。」(山川の新世界史)のように、アヘン戦争以降の中国民衆への圧迫がこの乱をおこしています。淮水流域の捻軍(ねんぐん)とも合流しています。

 日本の対抗策は江華島事件という指定語句に表わされています。明治維新(1868)という新体制への転換そのものも対抗策です。新国家として登場した日本は、さらに欧米の植民地や保護国になるかもしれない危機から逃れるため、主権をもった独立国家として国際的に認知されることが必要でした。そのために史料文の遣欧使節があり、不平等条約の改正が課題でした。また周辺の国々は中国と冊封体制の下にあり、まず琉球(沖縄)を廃藩置県とともに鹿児島県の管轄下に置きます(1871)。さらに琉球廃藩・沖縄県設置を断行して(1879、琉球処分)清朝への朝貢関係を切ります。その間、琉球島民が台湾に漂着して殺害されたことから日本が出兵して、琉球が日本領であることを示す示威行為もありました(1874)。これは最初の海外派兵でした。これに激しく反発したイギリスが交渉役になり、宗主国清朝から賠償金50万両を日本に支払うことで日本軍が撤兵します。もうひとつの朝貢国である李氏朝鮮にたいしては雲揚号よる徴発(江華島事件)から始めて日朝修好条規(1876)をむすび開国させます。これは不平等条約であり、かつ無関税の貿易権もとります。日本の危機を朝鮮におしつけて解消しようとしています。

 

 タイの危機にたいする対抗策は明治天皇とほぼ同じ在位であったラーマ5世による近代化政策(チャクリ改革)に現れています。地方の独立的な藩王・知事たちの権限をけずり、県郡町村の地方制度で中央集権国家にしあげ、近代的軍隊・学校・病院・郵便局をつくり、奴隷制を廃止しアヘンを厳禁しました。全国の交道路網も整備しました。英仏の圧迫に抵抗したとしても領土は削られ、なんとか独立を維持しました。

 アイルランドは教科書によく書いてあります。「アイルランドではジャガイモ飢饉以来、アメリカへの移民が急増するようになった。1858年、彼らは急進的な秘密結社フェニアンを結成し、アイルランドの自治をイギリスに要求した。これに対し、グラッドストーン内閣は、……」(三省堂)と。細かいですが、イギリス議会の議員集団として「アイルランド国民党」(1874~1918)が結成され、アイルランドの自治権獲得をめざしました。

 ラテンアメリカの対抗例としては、乏しいデータの中で教科書があげているのはフアレス(メキシコ大統領、任1861~72年)の改革とメキシコ干渉です。拙著『各駅停車』ではこう書いています。

インディオの血も混じった革新派のフアレスです。軍隊と教会の権限を削り、男子普通選挙権、大統領直接選挙などを憲法で決めていくと、保守派は別の政府をつくって対抗しますが、フアレスの改革派が勝ちます。しかし西欧諸国からの借金が返せないため、貸している側のイギリス・スペイン・フランスの武力干渉をうけることになりました。これは西欧側からの表現で「メキシコ出兵」で、ナポレオン3世はメキシコを植民地化しようと他の国々が撤退してもしつこく軍を残しましたが失敗します。

 

 選挙権差別に対する黒人の反乱(1865、ジャマイカ反乱/ジャマイカ事件/モラント湾の反乱──エリック・ウィリアムズ著・田中浩訳『帝国主義と知識人』岩波書店)と虐殺があります。これは教科書に書いてない事件です。

  対抗例としては、他に南アフリカの差別と分断に対して反英ズールー戦争、オーストラリアでの土地略奪に対するマオリ族の抵抗などもあります。これらは細かいので書けるひとは極少でしょう。

 

[第2問の解き方

問(1) 1978年の第2問に、以下のような問題がありました(こちら)。

 (A)つぎの河川が境界線とされるに至った経過と、これをめぐる現代国際政治上の争点とを(ア)、(イ)、(ウ)についてそれぞれ3行(1行は35字)以内に要約して述べよ。

(ア)アムール川(黒竜江)・ウスリー川
(イ)ヨルダン川
(ウ)オーデル川・ナイセ川

  問い方や字数はちがいますが、これは類題といっていいでしょう。今年の問(1)は(ア)、問(2)は(イ)に該当します。

  「1969年には、アムール川(黒竜江)の支流ウスリー川にある中洲の領有をめぐって武力衝突が発生した」という事件は、中ソ国境紛争(珍宝島事件/ダマンスキー島事件)として知られています。「19世紀半ばにロシアが清と結んだ二つの条約」は2年差で、アロー戦争の仲介をしたロシアと清朝の国境条約です。国境条約としてはネルチンスク条約・キャフタ条約に次ぐ3・4番目のものです(カタカナの字数が少なくなる)。1858年の条約では、黒竜江以北をロシア領とし、沿海州は両国の「共有(共同管理)」と規定しました。ところが再開したアロー戦争の再仲介で、1860年に結びなおした条約で、沿海州は完全にロシアが取得しました。この年からロシアはウラジヴォストーク市(東方[ウォストーク]を征服せよ[ウラジ]という意味のロシア語)の建設をはじめます。日露戦争でバルティック艦隊はここをめざして日本海に入りました。日本では「浦潮/浦塩」という漢字をあてました。日本は、ここからシベリア出兵をおこないます。

 ネットの解答例の中には初めの愛琿条約で沿海州が共同管理になったことを指摘しない解答があります(K・S)が、これは満点にならない書き方です。「両河川流域の領土帰属……二つの条約」と問うているのですから。

 

(2)

 (a)1923年に定められた境界──当時のいかなる領域間の境界として定められたものか。これはセンター試験レベルです。トルコとの戦後が改訂されて結ばれた条約です(拙著の前掲書、p.158-9、ここに地図と解説)。委任統治領として北のシリアをとるフランスと南のパレスティナをとるイギリスとの境界線です。

(b)1967年6月4日」時点での実効的な境界──翌日に勃発した戦争。これもセンター試験レベルです。「ゴラン高原 Golan」って知ってますか? 地図で確かめてください。シリア南西部の高原です。戦略上の要地で、1967年にイスラエルが占領したところです。他に第三次中東戦争でイスラエルが占領した3地域をあげなさい、と問われて答えられますか。これはセンター試験レベルです(前掲書、p.166の地図、p.168に覚え方)。

 

問(3) アルザスの1648年から第一次世界大戦後に至る帰属の変遷、という問題は京大(1999)でも出題されました。

独仏国境に位置するアルザス・ロレーヌ地方の住民は、両国が戦火を交えるたびに国籍の変更を迫られた。19世紀半ばから今日までの独仏関係を中心に、この地方の歴史を300字以内で説明せよ。

 この東大の問題は、時期が前のほうにずれていること、ロレーヌ(ドイツ語ではロートリンゲンLothringen)のない点がちがっています。1648年を起点にしたためロレーヌは入れにくいからです。アルザスは全部ではないものの、この年の条約でフランス領になっていますが、ロレーヌは1736年までロレーヌ公爵領であり、1766年に完全にフランス領となり、1871年普仏戦争に敗れたフランスは,ロレーヌをドイツに割譲しています。

 ドイツとフランスの間を骰子(さいころ)のように振り転がされた地方です。この骰子がどちらに転がったかを5つつづればいい。1フランス領→2普仏戦争でドイツ領→3第一次世界大戦でフランス領です。先も書けば、第二次世界大戦中にドイツ領となり、戦後はフランス領の順です。アルザスといっても日本人に馴染みはないですが、クリスマス・ツリーのはじまったところらしく、またシュワイツァー博士、ワイラー映画監督、ドレフュス事件のドレフュス家などがここの出身です。

 

第3問

(1) 解答の「スサ」はセンター試験レベルです(過去問では01追、98追、97、92)。ハンムラビ法典の発掘地としても知られています。

(2) 「アッピア街道」もセンター試験レベルです(05追)。教科書に写真がのっていて、この街道を歩く感じを味わいたいひとはのためのサイトもあります(→ http://www.italyguides.it/us/roma/roman_roads/rome_ancient_via_appia.htm)。

(3) 「サンチャゴ=デ=コンポステラ」はセンター試験レベルではありませんが、昨年(2007)のセンター世界史B第1問Aの導入文・写真にありました(こちら)。そこに「イベリア半島北西部のガリシア地方に位置するサンティアゴ=デ=コンポステラは、1)キリスト教の重要な巡礼地の一つで……」とあります。用語集では頻度2で、できなくてもいい問題でした。

(4) 「6~8世紀ころ(隋唐)に活躍したイラン系商人」が「ソグド(商)人」であることもセンター試験レベルです(04、00、96、92、90)。

(5) 「陶磁の道」は用語集にものっていますが、三上 次男著『陶磁の道─東西文明の接点をたずねて─』岩波新書は壮大な東西交易史で面白い本です。陶磁器はセンター試験レベルであることは言うまでもありません(06、03追、01追、00追、99、98、95、90)。

(6) (a) ジャムチ(姑赤、たんせき)もセンター試験レベルです(08、02追、00、95追)。ただし

(b)牌符(牌子)というパスポートはセンター試験に出題歴がありません。用語集では頻度7で高くなってきました。

(7) これは面白い設問ですが、完成が1869年(スエズ運河と同年、『世界史年代ワンフレーズ new』(パレード)運河・鉄道で人1869ット)ということから推理できるのは「南北戦争」しかないでしょう。横断鉄道の建設計画は、1840年代からあり、とくにオレゴン(1846)領有と米墨戦争によってカリフォルニア(1848)獲得となってから,大陸横断鉄道建設の必要が叫ばれます。南北戦争(1861-65)中の1862年に議会で承認されて、翌年から建設が始まり、途中から戦争が終わった軍人も労働力となり、中国人労働者(苦力)もアイルランド人移民も加わり完成したのが1869年でした。

(8) 「ムスリム巡礼の最終目的地」これも昨年(2007)のセンター試験に地図が出ていました。

(9) これもセンター試験レベルです(01追、94、89)。センター試験は、どれも鉄道国有化と辛亥革命が関連づけた問題でした。

(10) 「アウトパーン」はセンター試験に出題歴がありません。聖火ランナーが走るための道路でもありました。第二次大戦のときに、このアウトバーンが軍事利用され第三帝国への道ともなります。

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問

問(1)スサ/シューシュ 問(2)アッピア街道 問(3)サンチャゴ=デ=コンポステラ 問(4)ソグド(商)人 問(5)陶磁器 問(6) (a) ジャムチ(姑赤) (b)牌符(牌子) 問(7)南北戦争 問(8)メッカ/マッカ

問(9)幹線鉄道固有化 問(10) アウトバーン

東大世界史2007

*[東京大学]*[過去問]

第1問

 古来、世界の大多数の地域で、農業は人間の生命維持のために基礎食糧を提供してきた。それゆえ、農業生産の変動は、人口の増減と密接に連動した。耕地の拡大、農法の改良、新作物の伝播などは、人口成長の前提をなすと同時に、やがて商品作物栽培や工業化を促し、分業発展と経済成長の原動力にもなった。しかしその反面、凶作による飢饉は、世界各地にたびたび危機をもたらした。 

 以上の論点をふまえて、ほぼ11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。解答は解答欄(イ)に17行(510字)以内で記入し、下記の8つの語句を必ず一回は用いたうえで、その語句の部分に下線を付しなさい。

  湖広熟すれば天下足る アイルランド トウモロコシ  農業革命 穀物法廃止 三圃制 アンデス 占城稲

 

第2問

 歴史上、人々はさまざまな暦を用いてきた。暦は支配権力や宗教などと密接に関連して、それらの地域的な広がりを反映することが多かった。また、いくつかの暦を併用する社会も少なくない。歴史上の暦に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

 

(1) 西アジアにおける暦の歴史を概観すると、(a)古代メソポタミアや古代エジプトで暦の発達が見られ、のちにヨーロッパヘ多大な影響を与えた。また、(b)7世紀にイスラーム教徒は独自の暦を作り出し、その暦は他の暦と併用されつつ広く用いられてきた。近代になって、西アジアの多くの地域には西暦も導入され、複数の暦が併存する状態となっている。

 下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について、3行(90字)以内で説明しなさい。

(b) イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か、2行(60字)以内で説明しなさい。

(2) 現在、私たちが用いている西暦は、紀元前1世紀に古代ローマで作られ、その後ローマ教皇により改良された暦を基礎としている。しかし、ヨーロッパにおいても、時代や地域によって異なる暦が用いられており、しばしば複数の暦が併用された。

 以下の問いに、(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) フランスでは、18世紀末と19世紀初めに暦の制度が変更された。これらの変更について、2行以内で説明しなさい。

(b) ロシアでも、20世紀初めに暦の制度が変更された。この変更について、1行以内で説明しなさい。 

(3) 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元~清代の中国における暦法の変遷について、4行以内で説明しなさい。

 

第3問

 19世紀から20世紀には、世界各地で植民地・領土獲得競争や民族主義運動が広範に展開した。こうした動きに関する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

 

(1) イギリスは19世紀初めからマレー半島に植民地形成を進め、20世紀初めにはイギリス領マレー植民地が完成した。その中で、海峡植民地として統合された地域内の港市の名称を二つ記しなさい。

(2) 独立後のアメリカ合衆国は領土を徐々に太平洋岸にまで広げ、西部にも多くの人々が移住するようになった。この間、アメリカ先住民は土地を奪われ、居住地を追われた。以下の問いに(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 先住民をミシシッピ川以西の保留地に迫いやることになった「インディアン強制移住法」が制定された当時のアメリカ合衆国大統領は誰か。その名を記しなさい。

 (b) 当時の白人たちは、アメリカの西部への拡大を神から与えられた「使命」と考えていたとされるが、この「使命」を端的に示す用語を記しなさい。

(3) 奴隷貿易がその終焉を迎える中で、北米などの奴隷を解放しアフリカ大陸の開拓地に入植させる試みがなされた。西アフリカでは、アメリカ植民協会によって開拓された解放奴隷の居住地が、19世紀半ばに共和国として独立した。この国の名称を記しなさい。

(4) 19世紀半ばから後半にかけて、アフリカ内陸部における植民地建設にさきがけるかたちで、探検が行われた。こうした探検に従事した探検家の中に、現在までその名をアフリカにおける都市の名称として残しているイギリス人宣教師がいるが、その名を記しなさい。

問(5) エジプトでは1880年代初めに武装蜂起が起こったが、イギリスはこれを制圧してエジブトを事実上の保護下においた。その後、イギリスはスーダンに侵入し、そこでも強い抵抗運動に出会ったが、1899年には征服に成功した。エジプトにおける武装蜂起の指導者名(a)とスーダンでの抵抗運動の指導者の名(b)を、(a)・(b)を付して記しなさい。

(6) ルワンダでは、少数派のツチ人と多数派のフツ人が激しく対立する内戦の中で、1994年には大量虐殺が引き起こされた。この事件の背景には、かつての西欧列強による植民地支配の影響が認められる。19世紀末に現在のルワンダ、ブルンジ、タンザニアを植民地化し、ルワンダではツチ人にフツ人を支配させたヨーロッパの国はどこか。その名称を記しなさい。

(7) カージャール朝下のイランでは、パン=イスラーム主義の影響の下で、イギリスが持つ利権に抵抗する運動が起こり、民族意識が高揚し、1905年には立憲革命が起こった。この運動に影響を与えた思想家の名(a)と、イギリスが利権を有していた主要な商品作物の名称(b)を、(a)・(b)を付して記しなさい。

(8) アフリカでは西欧列強による植民地化が進んだが、19世紀末にイタリア軍を打ち破り独立を維持した国がある。この国は1936年にムッソリーニ政権下のイタリアに併合されたが、まもなく独立を回復した。この国の名称を記しなさい。

(9) 第一次世界大戦後の東ヨーロッパには、「民族自決」の原則に基づき新しい国民国家が数多く生まれた。だが、その国境線と民族分布は必ずしも一致しておらず、民族紛争の火種を残した。以下の問いに(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ドイツ人が多数居住していたことを理由に、ナチス=ドイツが割譲を要求した、チェコスロヴァキア領内の地域の名称を記しなさい。

 (b) この割譲要求をめぐって、1938年に英・仏・伊・独の首脳によるミュンヘン会談が開催された。このときフランスとともに対独宥和政策をとったイギリス首相の名を記しなさい。

(10) 中国で辛亥革命が起こると、外モンゴルでは中国からの独立を目指す運動が進み、その後ソ連の援助を得て、社会主義のモンゴル人民共和国が成立した。ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について、1行(30字)以内で説明しなさい。

………………………………………

[第1問の解き方

  課題は農業史ですが、それを「11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義」という要求です。親切なことに、変化の内容を示す文章が導入文にあり、「基礎食糧を提供……耕地の拡大、農法の改良、新作物の伝播」とあり、意義を示唆するのは「人口成長の前提……商品作物栽培や工業化を促し、分業発展と経済成長の原動力」と書いてあります。しかし普及したために「凶作による飢饉」という事態におちいる場合もあると指摘しています。 

 まず 「変化」が課題なので、「耕地の拡大、農法の改良」という変化は前後を書くのが基本です。ただ「新作物の伝播」はそれだけで変化でしょう。指定語句では、トウモロコシと占城稲がそれにあたります。これだけが新作物ではありませんが。ただ「基礎食糧」とあるので穀物になるものでなくてはならないでしょう。 

 この問題はたんなる事象の寄せ集めにすぎない、問題に論理性がない、と嘆くかたもおられましょうが、東大はこういう羅列的な問題は出しています(過去問をご覧あれ→2004,1990)。しかし、農業に関して、なんでもかんでもという問題ではありません。農業の変化がいかに人類に大きな変化をもたらしたかを実証してくれ、という問題ですから良問とわたしはおもいます。それに政治史だけでない世界史を勉強してきたのか、変化と意義をシッカリ書けるかを見るには適切な問題であり、学習の浅深を測る成績票は、きれいなカーブを描いたはずです。 

 東大が農業に関する問題を出したのは、これが初めてではありません。年代順に示すとつぎのような問題が過去にあります。この問題の時間(11~19世紀)に関係しているものだけをあげます。

 

1973年第1問  下記の語句はそれぞれA「コロナートゥス制の成立」、B「産業革命の諸条件」と題する二つの短文を作る為に要する語句である。これらの語句につき、下記の設問に答えよ。解答は答案用紙(イ)の所定の欄に記入せよ。   農業革命 ……

1976年第1問 (B)帝国主義のもとで従属的地位におかれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの社会……(e)アルゼンチン経済の特色は、大土地所有下の農場・牧場がイギリスに輸出するための食肉・小麦を生産しているところにある。イギリス系の鉄道はこれら農牧場をもっぱらブエノスアイレスに結びつけている。その結果アルゼンチン経済の発展は、むしろ妨げられ、ゆがめられているのである。……(g)運河建設のための財政投資はすぐ収益をあげはじめたのに、鉄道建設はいつまでたっても大きな財政負担を残したままだ。こんな状況では、インドのような農業国の統治者は、鉄道より運河の建設に力を入れそうなものだ。……どんどん鉄道が建設されたのに、灌概工事の方はおろそかにされてきたのである。 

1983年第1問 (B)16・17世紀の中国に生じた新しい動きについて、経済と思想の分野を中心として述べよ。 

1989年第3問 (8)「大航海」時代には、アメリカ大陸から新しい消費物資が旧世界に導入されて、人々の生活に変化がおこる一因となった。次のもののうち、原産地アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされたものを三つあげよ。

   コーヒー 砂糖 じゃがいも たばこ とうもろこし 木綿

1991年第2問 (C)唐の半ばから、政情の不安を避け、より安定した生活を求めて、中国の北方から南方に向けて大量の移民が生じ、宋代には南方の人口は北方のそれをこえるようになった。 

 設問  南方での人口増加に関係の深い技術上ならびに経済上の変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

1994年第2問 (A)18世紀イギリスでは、農村社会に大きな変化が起こり、それが工業化にも一定の影響を与えた。この変化について、3行以内で記せ。 

1995年第3問 (F)人々の移動には、人々の流出を生み出すプッシュ要因と流入をうながすプル要因となる出来事が顕著に認められる場合がある。以下の場合の移動の主な要因と考えられる出来事を記せ。

 設問(11)1840年代後半のアイルランドからの流出

  拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)には、これらのうち第1問・第2問のコメントがのっています。またコラム(p.80)の「気候による影響」という文章の中に関連する内容が述べてあります。 

 さらに巻末付録『基本60字』に今年の問題に関連する短問が5問あります。 

p.12「8 唐末五代宋の農業の技術的発展について説明せよ。 (指定語句→)占城稲 田植え」、

p.12「11 明末の江南と湖広の経済について説明せよ。 手工業 穀倉」、

p.45「2 三圃制とはどんな農法か,またそれは農村にどのような変化をもたらしたのか(120字)。 休耕地 村落共同体」、

p.46「7 11世紀以降の農業生産力の上昇について、その技術的理由を説明せよ。 重量有輪犁 水車」、

p.58「7 産業革命と同時に進行した農業革命について述べよ。 資本主義 農業労働者」。

 

 ちなみに山川の『詳説世界史論述問題集』には、この問題に関する箇所は、湖広熟すれば天下足るの説明(p.50)だけであり、11世紀の唐末五代宋の農業、また欧州の11世紀と18世紀の農業の変化に関する問題はまったく載っていません。たくさん問題が載っていても、たった1問でした。ましてZ会『段階式・世界史論述トレーニング』には1問もありませんでした。

  さて、どういう構成で書くか。合格した受験生が受験場で、この問題が何を言いたいのか、初めは分かりづらかったが構想メモを書き出したら、意外やカンタン、きわめてローカルな問題だと気がついたそうです(これが構想メモの効用です)。書くデータが多すぎて削除するのに苦労した、とも。さてそのローカルさとは中国と欧州です。

 構成の第一は、時間順に書いていく(11世紀の中国と西欧→16世紀の新作物の伝播→18世紀の西欧農業革命→19世紀の飢饉)、第二は地域別で書く(西欧・中国)、第三は導入文にある論点をそのまま反映させていく構成です。つまり、「(変化)耕地の拡大・農法の改良・新作物の伝播→(意義)人口成長・商品作物栽培・工業化・分業発展・経済成長・凶作による飢饉」という構成が考えられます。西アジア・南アジアについては書くデータがないので、無視する他はないようです。もちろんアメリカ産の農作物はインド洋をゆくポルトガルの船で運ばれていますから、それは途中、寄航したしところに伝わっていきました。たとえば、「カボチャ」はアメリカ原産でありながら、ポルトガルが日本に伝えたもので、カンボジアに生じたものと誤解して名づけられたものです。また「ジャガイモ」はオランダ船で平戸に渡来したのですが、それはインドネシア・ジャワのジャガトラから入ってきたとのことで、この名前があるそうです。 

 問題がたんなる事象の羅列にすぎない問題ではないか、といぶかりながら、受験生の多くは第一の時間順、つまり流れ的に書いていったでしょう。どれを選ぶにしろ「変化」「意義」が出せるように意識的に書いていくことが求められます。変化はこうこう、その意義はこうこう、と素直に書いたらいいのです。どうだったでしょうか? ただ事象を羅列していくだけで、どう変化したのか「前後」が分からないものや、指定語句をつかって事象の解説にすぎないものでは得点は望めません。ネットの中の解答はこういう類いのものばかりです。どれが変化か、意義かと問いながら読んでみると欠陥が見えてきます。 

 変化は前後を書くのが基本、と先に書きました。そう書かないと得点できない問題は、上に過去問としてあげた1991年第2問のときもそうでした。「技術上ならびに経済上の変化を」と問われて、「水田農法が進み、低湿地や山麓の辺地が水田に造成され、早稲、特に日照りに強い占城米が輸入され普及、二毛作も興り、“蘇湖熟すれば天下足る”といわれた。茶など商品作物も盛んとなった」(赤本)という答えは新しくなった技術は分かりますが、何からの変化なのか前のことは分かりません。これに対して、「技術:休耕法にかわる田植え、占城稲の導入、二毛作、石炭の使用、水利田など。経済:華北にかわり江南が穀倉になり、銅銭に紙幣が加わり、市制崩壊で政治都市は経済都市に変貌した。」と書けば何から何への変化なのかが分かります。この中でも、「占城稲の導入、二毛作、石炭の使用、水利田」は新しい技術なのと前が充分説明できないことなので書いてありません。次善の策です。しかし書けることがらは、できるだけ前後とも書いたほうがいいのです。 

 この変化を中国の場合で見てみましょう。 

 たとえば、「田植え農法の普及、早熟な占城稲の導入などで江南地方の農業生産は上昇し、商業の発達をうながした」と書いて変化が表れていますか?  これを、火耕水耨(かこうすいどう)に代わる田植え、囲田湖田による水田の拡大、占城稲が導入されて二年三毛作も可能となり漕運米は唐の3倍に増えた、と書けば変化が表れているでしょう。火耕水耨は田植えの前の農法です。休耕地をおかないと翌年畑が使えないので、「休耕法にかわる田植え」と書いてもいいです。「囲田湖田」は別解としてウ(土+于)田をあげてもいいでしょう。干拓の方法です。「漕運米(そううんまい)」は政府に納める米のことです。宋代の江南は唐代の3倍の収穫を納めることができました。 

 16世紀は明末です。ネットの解答には「明代」と不用意なことばをつかっています(?ヨビ)が、明代約300年間ぜんぶが変化ではありません。明末(清初)という語句を知らないのか?  明末のときは指定語句「湖広熟すれば天下足る」があり、農法の変化でなく地域の変化がありました。ですから、江南(長江下流域)から湖広(中流域)への変化は書けるでしょう。それがどんな意義をもっているのか書いた解答例は少ないです。11世紀の変化による意義も書いたものを見つけるのが難しい。 

 また16世紀にアメリカ産の新農作物が入ってきますが、それがすぐ栽培されて人口増加になったとまちがいを書いているものも見うけられます。たとえば「16世紀には新大陸の新奇作物が普及し、中国ではトウモロコシやサツマイモが導入されて人口が増大した」(?ヨビ)という解答です。栽培が本格化するのは17~18世紀になってからです。たとえば教科書(東京書籍)に「17世紀ごろから、アメリカ大陸からの輸入作物のうち、トウモロコシが華北一帯で、甘藷が江南で広く栽培されるようになり、甘藷は琉球をとおして日本にも伝わった」とあります。「この間にはいってきたアメリカ大陸原産の甘藷・ジャガイモ・トウモロコシ・落花生・タバコなどは急速に普及して、中国の農業形態を多様化し、増加する人口を支えた。」とある『詳解世界史』(三省堂)は雍正帝・乾隆帝期(両帝とも18世紀)の説明のところで書いています。

 「11世紀から」の中国と欧州、とあったらどんな時代であったか、パッとイメージが浮かびますか? 中国なら宋が、しかし欧州の11世紀は? 別の合格者は、この11世紀で、すぐ拙著『センター世界史B 各駅停車』の記事が印象深かったので思いだした、とメールをくれました。「光があふれ、人口がふえてきた」という題の11~13世紀の変化を述べた解説です(p.210)。 

 

 では欧州を見ましょう。西欧がどうしても主ですが、東欧・ロシアについて書いてもいいです。 

 まず11世紀の変化といえば、三圃制や有輪犂の普及、と書いてしまいますが、これだけで農法のどんな変化になるんじゃ? 半分しか解答になりません。  

 セーヌ・ライン川間で7~8世紀にはじまった三圃制は以前の穀草式や二圃制に代わったのであり、これが11世紀に西欧で普及し、15世紀までにドイツ人によって東欧・ロシアに伝わります。穀草式とはゲルマンの農法で、穀物をつくった後の畑は捨てて草ぼうぼう生やしてほったらかしにする乱暴な農法です。一定の地域をつかいきったら他の畑を耕す。同じ土地をつかいつづけるという一般的農法はかれらにはなかったのです。二圃制は秋蒔小麦と休閑とを繰り返すものです。ぜんたいで600エーカーの土地面積として2つに分けると、半分の300エーカー分が収穫になります。休耕地の300エーカーはなにもしないでほっとくのではなく、ここに家畜を放牧してウンチをしてもらい、また雨の後に土地を耕して水分を保たせるためです。少なくとも2~3回の土の掘り起こしをしなくてはならずシンドイ。休閑地がもっともエネルギーの投入される場所です。それが同じ面積の土地を3つに分ける三圃制だと、200×2=400エーカー分の収穫になり、後の200エーカーが休耕地ですが、2回耕すとして400エーカー分の労働力で済むのです。二圃制と三圃制の差が分かりましたか? 三圃制では余った労働力で耕地の拡大に励めます。

 重量有輪犁(有輪重量犂)は軽量犂と比べて深耕することができました。粘土質の堅くて耕しにくいヨーロッパにふさわしい。ただし重量犂をひっぱるのには2~4頭の牛、牛は遅いので、後では4~8頭の馬を使用しました。が、これだけの頭数は単一の家族の資力では養えず、となりの農家の家畜も貸してもらわないとできません。いや、いくつもの農家で出し合っていかないとできない。だから農民は村落共同体を形成します。これが意義のひとつであり、また生産の拡大は人口増加に、そしてヨーロッパ全体の「大開墾時代」の到来となります。

 このことを教科書では、 

 「1000年ころから農業生産は飛躍的に増大する。それは、農業における技術革新の結果で、これにより大開墾運動が展開されて耕地が拡大された。それとともに集村化がおこり、村落共同体が強化された。(新世界史)」 

 「11~12世紀の農業生産力の増大と人口の急激な増加は、西欧世界の拡大運動を引きおこした。内に向かっては、大開墾運動がおき、アルプス高地への開墾もおこなわれた。外に向かっては、ドイツ人が東方植民運動をおこし、イベリア半島ではイスラム勢力に対して再征服運動(レコンキスタ)がおこされた。(詳解世界史)」 

 

 「大開墾時代」といわれるくらいヨーロッパの森が切り開かれ耕地が拡大し、それとともに人口が増加し、初期膨張(十字軍・レコンキスタ・東方植民)の人材を提供しました(意義)。ヨーロッパの畑はこの時期に開かれたものから成り立っています。しかしこの畑の広さは日本人には想像できないくらい大きいものです。拙著『センター世界史B 各駅停車』では、「ヨーロッパを旅行すると、どこまでもどこまでもつづく畑の風景にあきれはてます。日本人のような山と海が接する島国からきた旅行者には不思議な風景に映ります。」と書いています。これはロワール川沿いをずっと汽車で行って、どこまでも広がる畑の風景、というより大海原のように広い畑、と形容したほうがいいくらいの大地を見たための記事です。日本だったら左右が山か海、という風景がつづくのとちがっています。 

 しかし三圃制には限界がありました。中世農業の諺「飼料がなければ家畜がない。家畜がなければ肥料がない。肥料がなければ収穫がない……」これは人糞をつかわず、家畜のウンチだけを肥料にしていることと、なにより寒く痩せた土地における収穫の少なさを表現していて、1粒を種としてまいて収穫は2~3粒しかできず、来年度のためには1粒は食べてはいけない(メソポタミアでは76.1粒、エジプトでは誇張ではあるもののヘロドトスによれば200~300粒です、なんとヨーロッパの収穫率が悪いことか!)。人間の食べる小麦も充分なく、家畜にやるえさ(飼料)も少ない。そのため西欧のひとびとは、18世紀までおかゆに野菜を浮かべたものを食べていて、小麦のパンや肉はあまり食べられなかったのです。 

 一時しのぎになったのが、アメリカ産の新農産物です。ただし中国と同様に16世紀に入ってきても、栽培が本格化するのは18世紀の後半からです。その前では三十年戦争(1618~48)のときに傭兵のオランダ人がもちこみ飢餓のドイツ人を救った作物だそうです。さらに七年戦争(1756~63)は「ジャガイモ戦争」といわれるくらいにジャガイモがかかわっています。フリードリヒ2世は国内に奨励しただけでなく、確保したシュレジエンにこれを植えつけ、スウェーデンでは帰国した兵士がこれを伝え、フランスでもプロイセンの捕虜となったパルマンチェが食糧としてのジャガイモを知り、これを持ち込んだとのこと。かれはマリー=アントワネットにジャガイモの花束を贈ったそうです。するとマリー=アントワネットはジャガイモの白い花を髪に飾って見せびらかしたたことから貴族の間に流行するようになったとか。宝石の首飾り事件が尾を引いてギロチンにかかる前のことです。ジャガイモの花では首は飛びません。

 この18世紀の後半からが農業革命といわれる農法の変革がおきます。16世紀のエンクロージャーも農業革命といいますが、16世紀には技術革新がありません。18世紀のは技術革新がともないました。ノーフォーク農法(輪裁式農法、四圃制、4年周期農法、改良三圃制)といわれるものです。カブとクローバーという家畜の飼料になるものが増える農法です。カブは地下深くの栄養をとるだけで表面を痩せさせることはなく、クローバーは表層に窒素をたくわえてくれるので土地は肥えます。もう休耕地をおかなくてもよくなりました。カブ・クローバー・小麦・大麦と輪裁することで家畜の飼料がぐっと増えました。これにジャガイモもトウモロコシも飼料として加わり、冬に飼料がなく牛を殺してベーコンという保存食料に変えなくても、1年中飼育することができ、初めて新鮮な生肉も食べられるようになったのです。西欧人はなにかいつも生肉を食べてきたのではないか、というイメージがありますが、血のしたたる肉を食べだして200年しかたっていないのです。食生活の変化は大きい(意義)。 

 アイルランドのジャガイモ飢饉は約110万人が餓死したといわれる災害でした。1845年から1849年はヨーロッパ全体が寒冷であり、ジャガイモは寒さに弱い。とくにアイルランドに入ってきた種類は病害に弱いものでした。小麦はとれたそうですが、これはイギリス人がもっていってしまい、アイルランド人の口には入ってこないため、人災的飢饉となったものです。しかし冷害は全欧にあり、イギリス本国でも影響がでてきてコブデン・ブライトの運動はあっても、穀物法を廃止しないと本国でも餓死者が増えることになり撤廃にふみきった、ということです。この冷害は1848年革命(二月革命・三月革命)の背景でもあります(負の意義、正の意義か?)。今の日本でもジャガイモは生のままでは輸入できないことになっていて、ゆでてマッシュにした冷凍品だけです。国が指定したジャガイモ(馬鈴薯)の原種をつくる専用の農場があり、そこでウイルスのついていない種を作って管理し、ジャガイモ生産農家に配布するようになっています。 

 穀物法について、1815年発布とか、輸入穀物に高関税をしくという内容だとか、マンチェスターの企業家コブデンやブライトらが反穀物法同盟をつくって運動したたとか、いろいろこの指定語句について書く必要はありません。飢餓が穀物法廃止をイギリスに迫った、くらいでじゅうぶんです。 

 指定語句をいちいち説明して書け、というアドバイスをある模試の採点講評で書いてありましたが、そんなのは無視することです。そのアドバイスは「答案は読む相手に対し自分が内容を理解していることをアピールするものなのであるから、常識的なことだからといって暗黙の前提として論述するのでなく、最低限度の説明はするべきである」と。これはこの模試の採点の仕方が、指定語句をどう説明しつつ書いたかをいちいち加点ポイントにしているからで、東大がそういう採点をするとはおもえない。指定語句8つで今年なら41字あり、この語句になんらかの説明を20~30字くらいずつ加えるとすれば41字プラス160~240字くらいは必要であり、それだけで200~240字くらいになるでしょう。この穀物法廃止なら、1815年に地主優遇のために制定した法は産業資本家の反対運動もあり、という説明にすると説明文だけで32字あります。こういう無駄なことはしなくていい。東大の問題が、広くて大きいテーマの性格をもっていることから考えて、指定語句が正しい文脈でつかってあればよく、指定語句のひとつひとつについてどういう説明文を付けたかで加点していくという採点方法はとらないとおもうからです。模試で高得点をとりたければ説明しつつ書けばよく(模試は指定語句にこだわれば、点数はかせげます。模試については採点方法だけでなく、問題そのものに問題があることを「E判定でも」で書いています)、しかし、それを本番ではつかわないことです。模試と本番は別とこころえよ。合格した受験生の再現答案(掲載停止)を見てもこのことは確認できます。

 今年の問題なら、変化をいくつあげられるか、それが変化として正しく書いてあるか、その変化とともに意義が書いてあるか、意義の内容は変化からすんなり導き出せる意義になっているか、であり、これこそ採点の基本になるものです。もちろん指定語句は必要な歴史用語の一部にすぎず、指定にない歴史事象も入れないと完結しないのが東大の問題の特色ですから、指定語句だけにこだわった解答は避けるべきです。

 

[第2問の解き方] 

(1)(a) 「古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について」とあり、この二つの地域の暦を比較することを明快には要求していません。双方に共通する背景を書けてもいいし、ちがいを書いてもいいとわたしはおもいます。 

 ただし、メソポタミアの暦について、占星術とともに暦が発達したかのように書いている解答(?ヨビ・?ヨビ)には賛同できません。また「後に農作業、占星術を行うため閏月を入れ」(?ヨビ)という解答にも賛成できません。この問題は暦の発達の「背景」を問うているのであり、占星術(天体の運行と人間や国家の運命との照応関係、中国なら讖緯説・天人感応説)という星占いは相当あとになって発展したもので、すでに暦ができてしまってからのものです。シュメールでは占星術は確かめられず、バビロン第一王朝(前1800年頃)に萌芽は認められるものの、ハッキリしてくるのはアッシリア帝国(前8~前7世紀)や、この帝国滅亡後の新バビロニア王国(前7~前6世紀)からです。日蝕・月蝕のときに国王に災いが降るため、農村に隠れろと占星術師から命じられ、身代わりの(影武者)王をたてた、という面白い話(三笠宮崇仁編『古代オリエントの生活』河出書房新社)はアッシリア帝国のものです。これよりもっと前の前の前2900年頃のラガシュ市では「羊に大麦・水を運ぶ月」「牛を登録する月」のような豊作業や、「ナンシュ女神の麦芽を食べる祭りの月」「ニンギルス神の大麦を食べる祭りの月」のような農業にかかわる月が月名に入っている」(小林登志子著『シュメル』中公新書)ように農事暦として発展したのが背景です。 

 なによりエジプトは太陽暦、メソポタミアは太陰暦と記すのが第一、その上でこの2種の暦のつくりかた、つまり前者はナイル川の定期的洪水を測るために、後者は月の満ち欠けをもとに農作業の時期を知るために作成した、と。ちがいを表わすとすれば、太陽暦は季節をよく反映したが、太陰暦はずれが生じるため閏年を設けた、と。「1年は354日で、30日からなる大の月と29日の小の月を交互に置いていた。暦と実際の季節との間のずれを調整するために閏年(うるうどし)が置かれた。閏年は1年が13月であった。(前掲書『シュメル』)」と説明されています。

(b) 「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」とは、ヒジュラ暦の欠陥は何か、という問いでもあります。教科書の巻頭に、「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた。(詳説世界史)」、「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い。(東京書籍)」と説明があるものです。このヒジュラ暦が古代の太陰暦とちがうのは閏年をおかないことです。そのため毎年10~12日のずれができ、季節の循環と一致しません。これでは遊牧をふくむ農作業には不適切なため太陽暦を用いざるをえず、農作物をとるのが原則のハラージュ(地租)も地域によって小差はあれ太陽暦で徴収されています。イスラーム教徒がつかう暦にも両方の暦が記されている理由はここにあります(→http://www.islamicacademy.org/html/General/USA_2005.htm)。またいろいろな暦の比較表は『世界史小辞典・改訂版』(山川)が便利です。これは用語集の元になっている辞典です。

(2) (a) 「18世紀末」は革命暦(共和暦)であり、「19世紀初め」はナポレオンが元(グレゴリウス暦、グレゴリオ暦、グルゴリー暦)にもどしたこと(1806)を指しています。革命暦に変えたいという意気込みは、国民公会における演説に表れています(河野健二編『資料フランス革命』岩波書店)。 

フランス人民が再生し、共和国が確立されたために、キリスト教紀元の改革の問題が必然的に生じてきた。王がわれわれを虐げていた年月を、われわれが生きてきた時間として数えることはもはやできなかったのである。われわれの暦は、その各ページが王座と教会の偏見、また両者の欺瞞でもって汚れていた。諸君はこの暦を改め、別の暦に取ってかえた。……無知の妄想を理性にもとづいた現実で、また聖職者の威信を自然の真理で取ってかえる必要がある。

 と、いかも啓蒙思想と反キリスト教のにおいがぷんぷんする演説です。秋からはじまる暦は、葡萄月、霧月(ブリュメール)、霜月、冬は雪月、雨月、風月(ヴァントーズ)、春は芽月、花月、牧草月、夏は収穫月、熱月(テルミドール)、実月ときれいな呼び名でした。なにか日本の古い陰暦のようです。しかしこの暦は農民には馴染みがなく、カーライルが「全ヨーロッパが震撼した」というくらいのショックを与えたようで拒絶反応がでてきます。 

(b) 「20世紀初め」は革命の結果、古いロシア暦(ユリウス暦)をナポレオンと同じようにグレゴリウス暦に改定しました。ロシアはピョートル1世がユリウス暦を採用した(1700)まま、20世紀までつかいました。その結果、18世紀に11日、19世紀に12日、20世紀に13日おくれることになりました。1917年のロシア革命が二月(三月)革命と十月(十一月)革命とふたつ呼び方のある所以(ゆえん)です。  

 

問(3) 「元~清代の中国における暦法の変遷」についてという問いに教科書で答えられるのは、元の授時暦と明末の崇禎暦書の二つです。ネットの中には明の大統暦や清の時憲暦をあげてあるものもがありますが、これは「模範」にはならないでしょう。4行(120字)も書けなくても差のつく問題とはおもえません。用語集にも二つはのっていません。新課程版の存在を確かめてはいませんが、山川の『世界の歴史』にはのっていました。コラムとして「暦の歴史」を設け、こう書いています。

元代につくられた授時暦はすぐれていて明の大統暦にうけつがれ、清代にはヨーロッパの天文暦数をもとに時憲書が制定されたが、清末まで基本的に大きな変化はなかった。1912年中華民国が成立すると、はじめてグレゴリオ暦を採用した。

 

第3問 

(1) 「海峡植民地」の港市名を二つ、という問題。北からペナン・マラッカ・シンガポールの3つのうち2つということです。易問でした。 

(2)(a) 「インディアン強制移住法」の大統領です。西部劇のカウボーイであり、かつ奴隷貿易業者でもあった白人至上主義の大統領です。アメリカらしい。  

(b) 「使命」を示す用語 Manifest Destiny は、以前は「明白な使命」でしたが、最近は研究者のあいだでは「膨張の天命」が使われています。これもかつてはルーズベルトと呼んでいた名前を、いまはローズヴェルトと言い換えているように、代る運命にある用語です。どの合衆国大統領もこの「天命」観を捨てることがないため、世界のいたるところのひとびとが迷惑をこむっています。天命観のない大統領はいつ現われるのでしょうか? 

(3) 「北米などの奴隷を解放しアフリカ大陸の開拓地に入植させる試み」という言い方はかっこういいが、実際は追放に近いといわれています。西海岸にあるリベリアは合衆国の星条旗とそっくりの国旗をもっています。その裏には合衆国のタイヤ会社ファイアストン社が控えています(拙著『各駅停車』 p.173)。今はブリジストン社の小会社となっていて、リベリアの黒人たちに対する強制労働で訴えられています。以下のブログです。自由(リベリア)とは程遠い状況がそこにはあります。 http://sankenbunritsu.blog-city.com/060326.htm 

(4) アフリカ内陸部を探検した人物といえば、リヴィングストンとスタンリーがいます。「宣教師」とあれば前者ですね。その名の都市があるかどうかは知らなくても。 

(5)(a) 「1880年代初めに武装蜂起……武装蜂起の指導者名」とは「アラービー=パシャの反乱」という名で学ぶ人物。用語集では「ウラービー」とだけでも出ています。パシャはなくてもよくなった。

(b)スーダンでの抵抗運動の指導者の名、同時期に始まりながら、20年近くつづいたマフディー王国の指導者ムハンマド=アフマドです。イギリス兵たった48人が16,000人のマフディー兵を殺します。機関銃の登場でした(拙著・前掲書 p.165)。 

(6) 難問でした。アフリカ東部の国々です。「タンザニア」でドイツと分かればしめたもの。ドイツ人は少数部族は砂漠に追いつめて皆殺しにして滅ぼしていきましたが(ナチスではありません。19世紀末のこと)、第一次世界大戦に敗北したため失います。ルワンダとブルンジはベルギー領に、タンザニアはイギリス領となりました。とくに「少数派のツチ人と多数派のフツ人が激しく対立」を煽(あお)ったのはベルギーの差別政策でした。これが20世紀末に虐殺の谷となります。映画「ホテル・ルワンダ」で描かれました。 

(7) (a)1905年には立憲革命運動に影響を与えた思想家の名は、パン=イスラーム主義の唱道者として出てきます。アフガーニーの反帝国主義と専制否定の主張は孫文に似ています。問(5)のウラービーの運動や、イランのタバコ・ボイコット運動を啓蒙しました。

 (b)イギリスが利権を有していた主要な商品作物の名称とは、タバコです。このことも前掲書ではこう書いています「タバコ利権とは、イラン全土におけるタバコの製造・販売・輸出の権利です。当時イランに滞在していた反帝国主義運動の指導者アフガーニーが追放されると、タバコ=ボイコット運動という反対運動がおこります(1891)。運動を前にしてカージャール朝政府はタバコ利権の譲渡を白紙にもどすことを決定します。そのかわり大きな賠償金をイギリスにとられることになりました。」(p.161) 

(8) 「19世紀末にイタリア軍を打ち破り」はアドワの戦い(1896)です。ヨーロッパの国をやっつけた最初の国は日本ではありません(日露戦争)。イタリア軍を追い出したのはエチオピア人です。もっと前にアフガニスタン人によるイギリス追放(第一次アフガン戦争、1838~42)があります。よく「日露戦争は、有色人種が初めて白色人種に勝った戦争」とぼけ老人たちはのたまうが世界史を知らなすぎます。 

(9) 拙著・前掲書ではこう説明しています。 

 チェコスロヴァキアの西北にドイツ人300万人が住むズデーテン地方があり、この地方のドイツ人がドイツへの編入を求めていました。この地方は石炭の産地で製鉄もさかんであり、世界でもっとも優秀な武器の生産会社スコダ社があります。この問題についてイギリス首相ネヴィル=チェンバレンは独(ヒトラー)・伊(ムッソリーニ)仏(ダラディエ)の首脳とミュンヘン会談を開き、その要求を認める宥和政策をおこないました。ここには当事国のチェコスロヴァキアの代表も東方の国ソ連も代表も呼ばれませんでした。それどころかズデーテンを獲得したヒトラーはこれで満足せず、半年後には約束をふみにじってチェコスロヴァキアを分離・解体しました(1939)。(p.343) 

(10) 「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」詳説世界史では、「ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。」とあります。東京書籍の教科書にはモンゴルがどうなったのか記載がいっさいありません。

 東大の世界史には東京書籍、などという証明もない俗説を信じるなかれ。その俗説例は『東大合格への世界史』→こちら。

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。 

第3問 (1)マラッカ・シンガポール (2)(a)ジャクソン (b)膨張の天命(明白な天命、マニフェスト=ディスティニー) (3)リベリア (4)リヴィングストン (5)(a)ウラービー(オラービー、アラービー=パシャ) (b)ムハンマド=アフマド (6)ドイツ (7)(a)アフガーニー (b)タバコ (8)エチオピア (9)(a)ズデーテン (b)ネヴィル=チェンバレン (10)共産党独裁をやめ自由選挙をおこない、国名をモンゴル国とした(社会主義を放棄し一党独裁を廃止して市場経済に転換した)。 

東大世界史2006

第1問

 近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し,民主主義が成長した反面,各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは,国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし,対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方,国際法を制定したり,国際機関を設立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。

 このように戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて,解答欄(イ)に17行(510字)以内で説明しなさい。その際に,以下の8つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。 

 ウェストファリア条約 『戦争と平和の法』 ナショナリズム 国際連盟 総力戦

 平和に関する布告 十四ヵ条 徴兵制

  この問題についての簡単なコメントは『世界史論述練習帳 new』資料「東・京・一・筑」に掲載。

 

第2問

 インド洋世界の中心に位置するインド亜大陸は,古来,地中海から東南アジア・中国までを結ぶ東西海上交通の結節点をなし,また,中央ユーラシアとも,南北にのぴる陸のルートを通じてつながりを持ち続けてきた。以上の背景をふまえて,次の3つの設問に答えなさい。解答にあたっては,解答欄(ロ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1)インド亜大陸へのイスラームの定着は海陸両方の経路から進行した。そのうち,カイバル峠を通るルートによる定着過程の,10世紀末から16世紀前半にかけての展開を,政治的側面と文化的側面の双方にふれながら4行以内で説明しなさい。

(2)インド洋地域で,イギリスやフランスの東インド会社は,インド綿布を中心にした貿易活動から植民地支配へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を,フランスとの関係に留意して4行以内で説明しなさい。

(3)ヨーロッパ列強にとって,インドにつらなるルートの重要性が増していくなかで,ヨーロッパとインド洋を結ぶ要衝であるエジプトは,次第に国際政治の焦点となっていった。18世紀末から20世紀中葉にいたるエジプトをめぐる国際関係について,以下の語句のすべてを少なくとも1回用いて,4行以内で説明しなさい。

 ナポレオン スエズ運河 ナセル

 

第3問

 世界史上,政治的な統合のあり方は多様であった。帝国や同盟的連合など,その形態には,近代の国民国家とは異なるさまざまな特徴がみられた。こうした政治的な統合の諸形態に関連する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は,解答欄(ハ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 鉄製の武器や戦車の使用で強大化したアッシリアは,前7世紀にオリエント全土を支配する大帝国を築いた。その首都の名(a)を,(a)の記号を付して記しなさい。また,その位置として正しいもの(b)を地図上の(ア)~(オ)の中から選び,(b)の記号を付して記しなさい。

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(2) 地中海と黒海を結ぶ要衝の地にあるイスタンブールは,起源をたどれば前7世紀に[ (a) ]人によって建設された都市であった。文中の[ (a) ]に入る語と,この都市の建設当初の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(3) 中国の春秋時代には,覇者と呼ばれる有力者が「尊王攘夷」を唱えて盟約の儀式を主宰したといわれる。「尊王攘夷」とは何のことか。ここでいう「王」とは何かを含めて,1行以内で説明しなさい。

(4) ローマ帝国の首都ローマには各地の属州からさまざまな物資がもたらされ,その繁栄を支えた。なかでもエジプトはローマの穀倉として重要であった。このエジプトを属州とする際にローマが倒した王朝の名を記しなさい。

(5) イスラーム教徒は,ムハンマドの布教開始から1世紀もたたないうちに,広大なイスラーム帝国を樹立した。しかしその後,しだいに地域的な王朝が分立していった。イベリア半島では,8世紀後半に,[ (a) ]を王都とする王朝が出現し,独自のイスラーム文化を開花させた。文中の[ (a) ]に入る都市の名と,この王朝の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(6) 遊牧民族の国家は,諸軍事集団の連合体という性格が強く,君主(ハン)の選定や遠征の決定など重要な事項が有力者の合議によって定められた。チンギス=ハンの即位の際にも開かれたこのような会議をモンゴル語で何と呼ぶか,記しなさい。

(7) 帝政時代の中国の政治体制は中央集権的な官僚統治体制と言われるが,皇帝の一族や勲功のあった者に「王」の称号を与えて領地を世襲的に統治させることもしぱしぱ見られた。明代初期に燕王として北平に封ぜられ,のち反乱を起こして皇帝の位を奪った人物は誰か。皇帝としての通称でその名を記しなさい。

(8) 13世紀後半に,ドイツは皇帝のいない「大空位時代」を迎えた。その後,有力諸侯を選帝侯とし,彼らの選挙によって皇帝を選ぶ原則が定められた。その原則を定めた文書の名(a)と,それを定めた皇帝の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(9) 中世ヨーロッパでは,ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が,宗教的な普遍権威として存在していた。だが中世後期になると,各国の地域的な独立性が増して教皇の権威は弱まり,3人の教皇が並立する「教会大分裂」が生じた。

 この「教会大分裂」を克服して,新たな教皇を選んだ会議の名称(a)と,このときに異端として火刑に処せられた人物の名(b)を,(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(10) プロテスタント系佳民が多かったネーデルラント北部では,16世紀後半に入ると,支配者のスペイン王フェリペ2世が大規模な宗教迫害を行なった。それに対して北部7州は,同盟を結んで反乱を起こし,最終的には連邦制の国家を形成するにいたった。このときに,北部7州が結んだ同盟の名称を記しなさい。

………………………………………

[第1問の解き方

1 素直さ

 助長と抑制の問題なんて、なんか病気か犯罪の治療みたいですね。

 薬は、出血を抑制するものと助長するものがある、とか、ゲームは性犯罪を助長する、いや性犯罪抑制につながるとか、チアリーダーが競技中に腹部を見せることは少女らに摂食障害を助長する可能性があるとか……そこまで言うか、と主に病気に関係してみられることばです。最近は、いじめを助長してしまう指導力不足の教師の入り口を抑制すべきだと教育界が病気にかかったかのように見られています。

 さて、この問題は戦争という人間の悪性遺伝子が発症した病気についてです。三つの戦争を助長したものと、抑制となったものを書くことですが、なかなか問題を素直に読むことはむつかしいようです。

 

 問題に対してどうしたら正解に近づけるかは、問題そのものをどれだけ素直に、ありのまま読めるか、にかかっています。相手の投げてきた球のラインを素直に見つめないと、バットに当たりません。問題を見る前の思いこみや、問題の一部だけ取り出しただけのとらえ方は空振りになる危険性が出てきます。そうした危険な傾向を「助長」するような解答が参考書やネットに出ています。

 素直に応えた受験生の答案をわたしはたくさんもっています。かれらの書いた答案にも著作権があり公表できないのが残念ですが、参考書やネットにある答案のような恥ずかしいものとは違い、格段に上をいく答案です。その優れた点は、知識の豊富さではなく、問題を素直に読んで、そのまま素直に解答する、という実にシンプルなものです。

 

 素直でない例としては、たとえば、解答の書き出しだけ見ても、

 

ドイツの宗教内乱から国際戦争となった三十年戦争は、宗教戦争であると同時に、フランス王家対ハプスプルク家のヨーロッパの覇権をかけた戦争でもあった

 

 これは何を言わんとしているのかハッキリしません。「宗教内乱から国際戦争となった」は助長なのか? 助長でなく原因・発展過程を書いたといってもいいものです。また「フランス王家対ハプスプルク家のヨーロッパの覇権をかけた戦争」は戦争の性格・内容をいっているのは分かるが、これは助長なのか? まさか抑制ではあるまい。こうしたぼかした(ぼけた)文章が解答になっているのは他でもみられます。

 導入文に書いてある文章の一部をとって、曲解してしまう解説・解答もあります。たとえば、ある予備校の資料にはこの問題について「近年、国家概念に関する出題が増加している。本問は主権国家体制の変遷を戦争の視点から捉えた問題で、特にフランス革命から第一次世界大戦にかけてナショナリズムに関する記述を求めている」とコメントがあり、そのことは解答にも表わされています。なにも主権国家やナショナリズムだけ問うているのではないのに……。首を90度に傾けざるを得ない説明です。これは別の予備校でもみられ、その解答の初めには、「ヨーロッパの主権国家体制下では、宗教的対立や勢力範囲設定をめぐる相互の対立が深まり」とあります。ヨーロッパが問題ではなく三十年戦争が問題であり、まして神聖ローマ帝国には戦争勃発当時に主権国家はどこにも存在しません。こりゃ、どないしたんじゃろか?

 この問題を比較の問題と勘違いしたものもあります(→ https://www.52school.com/infsr/servlet/g9.is.gakusyuadvice.CollegeInfo?page=1120_11)。
「どのように現われたか」と問うているだけであり、「3つを比較しつつ」とも「比べながら」とも「相違点に留意しながら」とも要求していません。ここまでくると首は180度傾きます。この問題を比較問題にできないことはないものの、それでは白紙答案のオンパレードになります。

 

 問題の要求は、「戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて」で、指定語句「8つを必ず一度は用い、下線を付せ」が事務的要求です。導入文には「主権国家……民主主義が成長……民主化が国民意識の高揚……国際法を制定したり、国際機関を設立……」とある程度ヒントになることを示しています。ただこの政治用語で中身が埋まるはずはなく、用語は付け足ししなくては応えたことにはなりません。前述の資料では、東大は問題文に解答がほとんど書いてあるのですよ、とのたまうくらい脳天気ですが、東大を甘くみています。東大を甘く見るところは偉い ! パチパチ。たしかにここの解答は、導入文をちょっと解説したみたいな、せこい解答になっています。そんなもんで受かるかいな。

 また指定語句について「8つの指定語句のうち4つは第一次世界大戦関連であることから、三十年戦争とフランス革命はできるだけコンパクトにまとめて、第一次世界大戦に重きをおいた構成にしたい」などとアドバイスしているものもあり、なんでそんな無駄なアドバイスをせなあかんのか、と、こんどは360度回転してひっくり返りました。指定語句から解答のあり方を想定するのはあやまちの元です。指定語句にしばられてはいけない、問題は問題文にあり、これは鉄則ですぞ。どうやら、この問題を3つの戦争の物語を書けばいいのだと勘違いをしたようです。問題文の要求より指定語句に注意がいってはならないのです。

 

 素直に読んで応える、ということは、戦争ごとに、助長したのは……、抑制したのは……、と書くことです。シンプルで明快ではありませんか。

 

2 時期

 ただ問題自体に少しあいまいさがあり、どうにでも書ける面があります。そのあいまいさは容量の大きさともとれ、良問ともいえます。この問題は採点している最中にも議論になったのではないかと予想できます。「助長」は「抑制」の不備ととれば、何を戦争の前後にもっていけばいいのか、どこまでの時間設定で書けばいいのか、原因と助長とどうちがうのか、いろいろ迷う問題でした。また戦争への助長と戦争拡大の助長かも迷うところでした。わたしは過去問の戦争の問題からは、どちらでも取れる採点をしたと推測しています。

 まず「傾向が……3つの時期にどのように現れたのか」という場合の「時期」は戦争の初めと終わりの時間なのか、時期ということばは戦争の直前・直後も含むのか、というあいまいさがあります。時期をそのままとれば戦争の初めと終わりでいいのですが、「助長したり、あるいは戦争を抑制したりする」は実は戦争の前と後にもあり、またそう考えないと変です。戦争が始まってから戦争を「助長したり」する傾向が「現れた」というのは、ありえることとしても、ー般に戦争になるまで、どんどん熱くなっていって勃発、ということになるはずで、助長は戦争前が何より言うべきことがらでしょう。もちろん戦争が始まってから、よりそれを拡大する助長傾向も出てきます。それも書けばいいでしょう。また「抑制」傾向も戦争が終わって、もうこんな戦争はやりたくない、じゃどないする、と反省する中から出てくるものです。指定語句の国際連盟はその代表でしょう。しかし戦争の途中や末期から、もうやめようぜ、という声なり、終結せざるをえない出来事や、終戦にもっていくような事件なり、抵抗なりがでてきます。途中の抑制は指定語句の『戦争と平和の法』がそうであり、終わってからは国際連盟がそうです。上り坂と下り坂は、戦争の初めと終わりでパチッと決まるものではないでしょう。三十年戦争はいちおう1648年で終わることになっているものの、実際は45年で戦闘は終わっていて、会議が長引いて条約は48年までかかった、というのが実状でした。また第一次世界大戦が終わっても、ヒジャーズ王国の独立戦争、ギリシア・トルコ戦争や第三次アフガン戦争がつづきました。これらの戦争は、まさにこの大戦があったからこそ終戦の末期や直後からおきた戦争でした。

 構成としては、助長<(戦争勃発)→助長→抑制>(戦争終結)→抑制 という山のようなカーブを想定します。戦争のフル・コースです。

 

3 三十年戦争

 上で三十年戦争当時に神聖ローマ帝国には主権国家はなかった、と書きましたが、これは教科書にも書いてあります。戦争が終わってから主権国家に領邦(帝国内の小国家)は昇格するのであり、戦争前ではありません。

 

 神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成がおくれていた。1618年……三十年戦争は1648年のウェストファリア条約で終結し、ヨーロッパの主権国家体制は確立された。ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認され……詳説世界史

 

 こうした常識があるにもかかわらず、「三十年戦争は国益を追求する主権国家間の国際戦争となり、傭兵による常備軍によって被害が拡大した。グロティウスは『戦争と平和の法』で国際法の必要を唱え、戦争を終結させたウエストファリア条約は国家主権の不可侵を確認し、国際法に基づく主権国家体制を確立した。」と。「主権国家の国際戦争……主権国家体制を確立」と初めと終わりに矛盾があることに気がついていません。大人だったが、戦争が終わって大人になった、みたいな。なんじゃ、これ。

 初めの主権国家はフランスなど、すでに主権が成立している国のことを指している、というのなら、戦争は帝国内で始まったのであり(ボヘミア新教徒の反乱)、周辺の国の参加は後からだよ、ということを言わねばなりません。1618年にはじまった戦争にデンマークが参加するのは1625年からです。フランスは1635年からです。これでは助長を書いたことにはなりません。助長は外からきた、と言いたいのであれば、帝国内の助長を書かなかったことになります。

 

 戦争前に戦争にいたるまでの危機を醸成したものはなにより、アウグスブルクの和議の不備であり、その後もずっと新旧の宗教対立を持続させて西蘭(オランダ独立戦争)の対立にうけつがれ、この戦争は1609年に一応の休戦になったものの、三十年戦争が開始すると再燃します。

 つまり、なにより宗教対立(がずっとくすぶっていたこと)を書かねば解答にならない(教科書に「ドイツでは、アウグスブルクの和議が成立したあとも、宗教対立がつづいていた。1618年、ベーメンのプロテスタントが、ハプスブルク家の宗教政策に反旗をひるがえし、これを機に三十年戦争がはじまった。……「東京書籍」)。直前のきっかけは、ボヘミア新教徒の反乱です。それをもっと細かくいえば、窓外事件です。ボヘミア王として赴任したフェルディナントがプロテスタントの弾圧を始めたため、ボヘミアの貴族は彼を廃位し、国王の側近をプラハ王宮の窓から突き落として殺し、つづいてこれが武装反乱に発展したものです。ここにあるのも宗教対立。ウェストファリア条約の第5条に書いてあるのも宗教対立です(帝国の両宗派の選帝侯、諸侯、等族の間に存在していた不平不満が大部分当該戦争の原因および動機であったので、彼らのために以下のことを協約し、調停する……)。

 さらに戦争に突入して、助長としてあげられるのは傭兵です。拙著『センター世界史B 各駅停車』から引用すると「傭兵隊長ワレンシュタインはその代表です。かれはボヘミアの貧乏貴族でしたが、20代のはじめに老けた未亡人と結婚し、この未亡人がすぐ亡くなってくれて(^_^;)、かれのもとにその豊かな財産がのこされます。この財産で武器・軍靴・軍服・火薬などの軍需品をすべて自分の領地内で製造し、4万人の兵士をかかえた戦争企業家でした。ワレンシュタインの力が増大するのを皇帝側がおそれたため、最終的にかれはイギリス人・アイルランド人の傭兵の手で暗殺されます。傭兵は戦争がなくなると失業するので、この失業期間はかつての敵・味方の区別なく食糧を挑発し、手当たりしだいに略奪・拷問・強姦・虐殺・放火をしました。(p.258~259)」

 抑制としては指定語句『戦争と平和の法』をあげざるをえません。これは戦争中の1625年に刊行されたグロティウスの作品です。この本で、戦争のさなかにおいても従うべき戦争法がある、国家間にさえも「万民法」や絶対的な「自然法」などは有効であり、宣戦や戦闘や講和において、これらの法が遵守されなければならない、と説きます。

 また戦争末期から条約の内容が論ぜられ、戦争抑制の項目が加えられました。全体としては領土配分やないかともいえますが、しかし、カルヴァン派容認にみられる「寛容=信仰の自由」の進歩、主権国家(集権的装置・暴力)の成立、帝国に対する周辺国フランス・スウェーデンの介入などです。これらは火種にもなりますが、戦争が終わった時点では抑制のためのものでした。

 

4 フランス革命戦争

 解答例のどの部分が「助長」なのか、「抑制」なのか、問いながら「模範」答案を読んでみるといいです。採点官もそのように読むのですから。ところがどちらも書いてない答案が見られます。たとえば、

 

 フランス革命戦争では国民を国家に統合する国民国家形成に先行したフランスが、徴兵制による国民軍で一時ヨーロッパを席巻した。各国は反仏ナショナリズムの高揚を背景にこれに対抗したため、戦争は君主の戦争から国民の戦争となって規模が拡大した……この答案のどこが「助長」なのか確定できますか? にぶいわたしには分かりません。

 指定語句の「徴兵制」と「ナショナリズム」をここで使うのでまちがいないものの、「助長」の説明として使っていません。それはこの解答例だけでなくても、他でも見られます。

 

革命防衛のために徴兵制が実施された、

孤立したフランスは徴兵制を導入して国民軍を建設し、

義勇軍が活躍したが、後に徴兵制が実施され国民軍による戦争継続体制が作られた、

徴兵制による国民軍が作られ、ナショナリズムが高揚して戦争は激化した、

革命戦争が勃発したが、その過程で近代最初の徴兵制をしいた、

ジャコバン政権が徴兵制を実施して国民軍隊を創設し、戦争は国民戦争化した、

……これらは徴兵制がしかれた、ということは言っていても、戦争をどう「助長」したということなのでしょうか? どれも迷答です。「戦争継続体制」がいくらか答えかな……とおもいますが、徴兵制=継続体制は助長ですかね。

 また、徴兵制をしいたから戦争は激しくなったのでしょうか? 逆でしょう。徴兵制をしいたのはジャコバン派ですが、初めに戦争を望んだのはこの革命側ではなかった。反革命の側、つまり国王自身、亡命貴族、革命のゆきすぎを心配するジロンド派、そして周辺の君主国、中でも親族のオーストリアとプロイセンの脅し(ピルニッツ宣言)、イギリスの対仏大同盟などでした。こうした危機に、戦う意欲のない貴族の指揮する古い軍にたいして、ジャコバン派は「武器をとれ! 革命を守れ!」と叫び、義勇兵もパリに参集し、「ラ=マルセイエーズ」が国歌となります。この歌をはじめに合唱していた兵士は裸足でした! 武器も訓練も不足していましたが戦意(ナショナリズムと言い換えても同義でしょう)というエネルギーだけが熱くふつふつ、です。この義勇兵の後に徴兵制はできあがります。

 このエネルギーに戦術・武器をもたせて君主国に対抗させたのがナポレオンでした。これまでの君主・貴族・傭兵による戦争は逃亡・脱走・一騎討ち・裏切り・寝返りが通常でしたが、国民軍は突撃・白兵戦・追撃をいとわない、いわば、しつこい戦闘をおこなう、それだけ死傷者も激増する戦い方をします(クラウゼヴィッツ著『戦争論 中』(岩波文庫、p.10に「その激烈性をむき出しにし」とある)。絶対君主を打倒した市民たちが、この市民の民主主義国家・革命政府を守るために戦闘的なナショナリズムに燃え、国民軍に身を投じていったのです。クラウゼヴィッツが『戦争論 下』(p.288)で、古代からの戦争のありようを振り返りながら、「戦争は知らぬまに国民の本分となっていた。しかも、各自が国民の一員であるという自覚をもつ三千万の国民の事業になっていたのである」と近代の戦争の特色を説明しました。

 助長は、反革命側の煽動です。またそれに対抗して革命を守るためにたちあがった市民・国民のナショナリズムでしょう。またアメリカ独立革命の成功も刺激としてあげることができます。かのヴァルミーの戦いのときにはアメリカ独立革命のときに海を渡った義勇兵が参戦していました。

 「抑制」がすっぽり欠けている解答例もあります。ウィーン会議の勢力均衡・正統主義ぐらい書けよ、といいたいところです。意外や、保守的なウィーン体制は第一次世界大戦までの「100年の平和」をつくりました。1848年で体制は崩壊したとしても、その後も全欧を巻き込む戦争はありませんでした。抑制としては他に、神聖同盟と四国同盟によって民族運動を抑制しようとしたこと、また中立国スイスの創設もあげていいでしょう。ささやかであっても、戦争拒否国を国際的に容認することは戦争の抑制です。

 

5 第一次世界大戦

 フランス革命戦争からこの大戦まで一気にリンクして関連づけをした解答があります。

 

ウィーン体制崩壊後は各国は国民国家の建設を目標とし、初等教育などを通じてナショナリズムを育成し帝国主義の対立を激化させた。そのため生じた第一次世界大戦は……

 

とナショナリズムでつないでいます。これでいくと、第一次世界大戦の助長は、フランス革命戦争と変らないことになります。ナショナリズム→帝国主義→第一次世界大戦、というつながりです。しかしこの間100年もたっています。帝国主義→第一次世界大戦のリンクはいいとして、ナショナリズム→帝国主義はつながるでしょうか? またこのリンクはなぜ必要だったのでしょうか? つなぐことなど要らんでしょう。3つの戦争ごとに「3つの時期にどのように現れたのか」を書けばいいのです。素直に、素直に、です。

 いきなり第一次世界大戦から始めるとして、次のような解答は、どのあたりが「助長」なのでしょうか?

 

第一次世界大戦は、各国が挙国一致体制のもと戦争遂行にすべてを動員する総力戦となった。……

20世紀前半におこった第一次世界大戦は、帝国主義段階の列強が独占資本の利益のため展開した世界分割競争が主要因であり、……

1914年に始まった第一次世界大戦は戦争の歴史の転換点を画した。それは、国家のすべての資源を傾けて遂行する総力戦であり、その結果として戦争は長期化し、被害は甚大なものとなるに至った。……

バルカン半島でのオーストリアとセルビアの対立から始まった第一次世界大戦は……

 

 分かったひとは手をあげてください……。沈黙。

 答えはありませんか? そうです。答えがないのが正解で~す。

 まず指定語句の「総力戦(戦争のシステム化)」は助長なのか? 第一次世界大戦は、初めっから総力戦だったのではありません。クリスマスまでには終わるはずだったのが、長期化したために、国を挙げての総力戦にならざるをえなくなったのであり、どちらかといえば結果であり、戦争の性格です(猪口邦子著『戦争と平和』東京大学出版会に「戦争は一旦はじまれば開戦時の予想を欺く独自のエスカレーション力学の虜となって、人間の予見の愚かさのみを明らかにする場合が多い」と。p.91)。総力戦を、まるで助長したかのように使うのはまちがいですね。

 さいごの答案の「オーストリアとセルビアの対立から始まった」はサライェヴォ事件のことでしょうが、いわば直接の契機になったものです。「助長」としてはいかがなものでしょう? 原因・契機を問うているのではないから、助長は戦争へ向かわせた、もっと長期的な、そうそうかんたんに消火できないドロドロしたマグマをみつけてこないとダメですね。やはりバルカン半島の民族主義でしょう。火薬庫といわれ、今もくすぶっています。民族浄化というおそろしい言葉が使われて。

 戦争の直前における助長を考がえれば、こうしたバルカン半島の民族紛争、それに戦争前の秘密外交(の放置、三帝同盟・三国同盟・三国協商はみな秘密協定だった)・世紀末の民主主義の浸透(英独仏における普通選挙の拡大)・武器の発達(とくに機関銃)・英独の建艦競争・帝国主義の格差(遅れたドイツ帝国の野心、その世界政策と3B政策、日本の中国への野心)などです。

 このうち世紀末から第一次世界大戦前の民衆におけるナショナリズムの高揚については、井野瀬久美恵著『大英帝国はミュージック・ホールから』(朝日選書395)が素晴しい読み物です。

 

 戦争中の「助長」としては、英仏の中東に対する野心(サイクス=ピコ協定)、列強内の軍需景気があります。また敵国に対する人種差別的な政府の宣伝=プロパガンダで、敵意を故意にかきたてる政策をとります。イギリスの新聞は、ドイツ人は民主主義に敵対するフン族・野獣・劣勢な知性、とののしりました。クラウゼヴィッツの時代にはなかった宣伝戦です。戦場に取材した新聞記者は司令部のいいなりで、塹壕を陽気に描き、累々たる死者については沈黙します。ボリシェヴィズムの治療薬は弾丸とあおり、ニューヨーク・タイムズはボリシェヴィキは崩壊寸前・崩壊したと91回も虚偽の報道をつづけました(フィリップ=ナイトリー著『戦争報道の内膜』時事通信社)。東大は第一次世界大戦中のこうした宣伝ポスターの収集でも知られています。教科書の中には19世紀末に、「新聞は世論形成に重要な役割をもつようになり,政治の動向にも大きな影響をあたえるようになった」と書いているものもあります(山川の『高校世界史』)。宣伝・煽動による世論誘導は今や商売(Amazonのランキング操作はその一例)と同様に不可欠な政治の手段に発展しています。

 戦争中の抑制としては、列強内の食糧危機、物価高騰はロシア革命に発展し、この革命政権による帝国主義批判、秘密条約の暴露、「平和に関する布告(1917)」、これに対抗したウィルソンの14ヶ条(1918)、社会主義運動の拡大、反戦運動(ロマン=ロラン、ラッセル、ジョレス、ローザ=ルクセンブルクなど)などをあげることができます。この中でもロシア革命は戦時中に産まれ、その危機対策がそのまま政治体制となって1989年まで引きずっていくことになります。いや、プーチンはまだその闇から抜けでていないようです。

 戦後の抑制は、集団安全保障のための国際連盟の結成と、ここに見られる国家主権の制限(自由に戦争を行なわないように主権国家に集団で圧力をかける)、一連の軍縮会議や国境問題をめぐる会議(ロカルノ)があり、時間がだいぶ経ってからでしたがパリ不戦条約もあります。

 ここまでわたしが書いた内容は詳しすぎます。こんなに書かなくていいのです。教科書に書いてあることで充分解ける問題でした。公表されている答案としては、Yの解答例2が優れたものと、わたしは評価します。最低は……? どうでもいいことです。なにしろYの解答例で合格者の最低レベルですから。この問題を解いて合格した学生が、「予備校の速報より自分の解答の方が良い!ってゆう変な自信もありました。」とメールをくれましたが、この高3生のいうとおりです。

 

[第2問の解き方

問(1) 課題のテーマは「イスラームの定着」、時間が10世紀末~16世紀、副次的要求は「政治的・文化的側面の双方にふれながら」です。

 政治的なイスラームの定着とは、イスラーム教政権が根付くことでしょう。これはガズナ朝の世紀末からのインド侵入(17回も侵入を繰り返したマフムード)、そして16世紀のムガル帝国の支配確立までです。ガズナ朝とゴール朝はジハードでしたが、その後のデリー=スルタン朝は安定した支配を模索しました。ムガル帝国もこの寛容策を継承しましたから、イスラーム教は定着します。

 文化的なイスラームの定着とはイスラーム教信仰の拡大ということです。ヒンドゥー教とその文化との「融合」までは求められていません。が、しかし。以下がネットにある解答の一部。融合は要らないのに。素直でないなあ。

 

ペルシア文化の影響でウルドゥー語が成立し

伝統的ヒンドゥー文化と融合したインド=イスラーム文化が生まれ

ナーナクもその影響をうけてシク教を創始した

ミニアチュールのムガル絵画などインド=イスラーム文化が成立した

 

 こんなこと書くより、デリー=スルタン朝の宗教寛容政策やスーフィの活動をあげるとよい。それが信徒を増やした要因、結果としてイスラームの定着となるのだから。また、インド西海岸の商人居留地を通しても信仰は広まりますが、これは書かなくてもいい。

 デリー=スルタン朝の寛容については、都市の占領とともにヒンドゥー教徒の下層民を城内に入れ、かれらから徴兵したそうです(『世界の歴史14』中央公論社 p.95)。政権側としては利用を考え、一方のヒンドゥー教徒はこれをチャンスと考え脱却を望んでの改宗です。それが官僚として多数のインド・ムスリム(ヒンドゥー教からの改宗者)を登用することにも現われました(前掲書 p.62)。

 

(2) 課題は「18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を,フランスとの関係に留意して」というもの。時間が「18世紀半ば頃」だけに限られていて、「植民地化過程」という時間のかかることがらを問うているのに変な問い方です。でも時間は守らなきゃならない。「フランスとの関係」はフランスとの戦いとおなじことです。速報の中には、マラータ戦争やシク戦争をあげたものがありましたが、マラータ戦争は18世紀末で、シク戦争は19世紀になってからですからダメです。

 「18世紀半ば」とあれば関係するできごとは、

1744~63年のカルナータカ戦争というインド東海岸をめぐる英仏の戦い

この時期のデュプレー(フランスのインド総督、1742~54)の活躍

この総督が帰国してから、1757年のプラッシーの戦いで、クライヴ率いる会社軍がフランス・ベンガル連合軍に勝利

イギリス東インド会社がベンガル(・ビハール・オリッサ)の地税徴収権を獲得し、ベンガル知事をおいたこと

征服地におけるイギリスの司法施行と近代的土地所有制の実施などがもあります。

 

(3) 時間は「18世紀末から20世紀中葉」で、主要求は「エジプトをめぐる国際関係」、指定語句が3つ(ナポレオン スエズ運河 ナセル)でした。これだけの字数でこれだけの長い時間のものを書かせるのは異様です。

 以前にも5000年間のエジプト史を18行で書かせる問題がありました(2001)。なにかこの出題者に、採点してみて不満があり、再度だしてみようということになったのか? 「インド亜大陸と東西海上交通」という主題には、あまり合わない問題です。エジプトはどちらかといえばインド洋と結びついているというよりは、地中海世界との方が密です。出題に疑問を出している場合ではないものの、なにか変と受験生もおもったのではないでしょうか? ナポレオンは第1問とも重なってますよ。

 データは豊富にあります。ただし国際関係にこだわらなくてはならない。

 ナポレオンのエジプト遠征・上陸(1798)、イギリスとのアブキール湾の戦いで敗北(1798)

 メフメト=アリーの太守就任(1805)とオスマン帝国との確執→2回のエジプト=トルコ戦争(エジプト事件ともいう、1833、39 東方問題)→事実上の独立(メフメト・アリー朝の成立 1840)

 スエズ運河建設(1869)→会社株をイギリスが買収(1875)

 アラービ=パシャ(ウラービー/オラービー)の反乱(運動)鎮圧(1881~82)

 イギリスがエジプトを保護国化(1914)

 ワフド党の独立運動(1918)→独立(1922)、スエズ運河地帯とスーダンは外して

 イギリス・エジプト条約(英エ条約)でエジプト王国完全独立(1936)、連盟に加盟

 アラブ連盟結成(1945)

 第一次中東戦争の敗北(1948)→エジプト革命(1952)でメフメト・アリー朝から共和政へ

 第二革命でナセル政権(1954)

 スエズ運河国有化→第二次中東戦争(1956)→国有化に成功

 シリアと合邦してアラブ連合共和国(1958 ~61)

 こんなに書けない。指定語句3つ「ナポレオン スエズ運河 ナセル」にかかわることははずせないから、これと間のできごとをおもいっきり取捨選択して入れ込む。

 

第3問

 第2問も容易な問題でしたが、この第3問は特別に優遇問題・上げ底の問題でした。受験生のレベルが下がってきているとの認識なのか、いやに易しいものにしてしまいました。

(1) 「前7世紀にオリエント全土を支配する大帝国」と誇張して表現されるこの帝国は、西アジア最初の世界帝国となったアッシリアであることはすぐ分かるでしょう。「誇張して」というのは、この帝国は小アジアのリディアを征服できていないし、ましてやペルシアのほとんどを得られなかったからです。ホントは「オリエント全土」でなく農業の豊かなメソポタミアとエジプトを得た、ということです。厳密な「オリエント全土」はアケメネス朝ペルシア帝国にしか該当しないですね。「最初」の帝国は誇張されがちです。(a)その首都の名前は、前8世紀から帝国になる前のアッシュール市ではなく、アッシュール市より上流にあるニネヴェ。「帝国」の首都とあれば帝国になってからのこの都市にあてることが通説です。その位置はどこかと問うています。アッシリアという表現が、ティグリス=ユーフラテス川の上流を指す地方名でもあることを知っていたら容易でした。ときに東大は地図をよくだしますが、教科書の地図をよく見ながら勉強してください。東京書籍の地図は見にくい。山川の詳説世界史を薦めます。地図の(ア)はミレトスかサルディス(サルデス)、(ウ)はバビロン、(エ)はスサ(スーサ)、(オ)ペルセポリスです。

(2) 「前7世紀に[ (a) ]人によって建設された都市」とあり、答えのギリシア人がつくった当時は何といったか、という易問です。(b)はもちろん「ビザンティオン」。

(3) 尊王攘夷の説明をせよ、という問題です。だれを御旗に、だれを敵としたか、の説明でもあります。血迷っても「天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ない」と書いてはいけない。これは中国史。スローガンの先輩は中国です。

(4) アクティウムの海戦で敗北したクレオパトラの王朝は何? という問題です。

(5) (a)コルドバについては、1981年・1999年に指定語句として、2003年の第2問(3)に問題文「コルドバ生まれの哲学者[ 〔2〕 ]」とイブン=ルシュドの都市として出題されています。スペインのどこらへんにあるか知らない受験生は地図、地図 ! (b)アッバース朝から追放されて逃れてきた王朝名。

(6) 集会の意味。1206年の集会では、21人の氏族長と40数人の兄弟たちが家族とともに集まり、有力者には30人の美女を与える約束をさせられてハンとなっています。けっしてこの段階でハンの地位が安泰ではなかったことは、即位後の内輪もめにあらわれています(岡田英弘著『チンギス・ハーン』集英社 p.109~113)。

(7) 「燕王」とは北京の王、という意味で、36人の男子のひとりとしてオヤジ(朱元璋)に見込まれ、北の守り手として派遣されていた人物。「反乱を起こして」とは靖難の変のこと。かれのもとにはモンゴルに帰還しなかったモンゴル兵がたむろしていた、とのことです。

(8) 金印勅書を金印「刺書」と書く学生もいます。小泉首相が派遣したチルドレン公認書のことではありません。

(9) 中世をしめくくる重要な会議ですね。召集者は(8)の皇帝を父としたジギスムントです。若くハンガリー王として出発し、神聖ローマ帝国皇帝ともなり、(b)の人物の土地ボヘミアを親父からうけついだものでもあります。この公会議(宗教会議はカトリックではつかわない用語)で教皇は、公会議の決定に従わなくてはならない、と定められ(これを公会議主義という)、教皇権が最低におちたすがたです。

(10) スペイン継承戦争の和約としても、この都市の名前は出てきます。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問

(1)(a)ニネヴェ (b)(イ)

(2)(a)ギリシア (b)ビザンティオン

(3)周王(周本家)を尊び、異民族(夷狄)を撃退する。

(4)プトレマイオス朝

(5)(a)コルドバ (b)後ウマイヤ朝

(6)クリルタイ

(7)永楽帝

(8)(a)金印勅書(黄金文書) (b)カール4世

(9)(a)コンスタンツ公会議 (b)フス(ヤン=フス)

(10)ユトレヒト同盟

東大世界史2005

第1問

 人類の歴史において、戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に、それを乗り越えて平和と解放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。

 第二次世界大戦は1945年に終結したが、それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており、これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし、国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく、米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。たとえば、中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢力争いが激化するなど、戦後の冷戦につながる火種が存在していた。

 第二次世界大戦中に生じた出来事が、いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのかについて、解答欄(イ)に17行以内で説明しなさい。その際に、以下の8つの語句を必ず一度は用い、その語句の部分に下線を付しなさい。なお、EECに付した(  )内の語句は解答に記入しなくてもよい。

  大西洋憲章 日本国憲法 台湾 金日成 東ドイツ EEC(ヨーロッパ経済共同体) アウシュヴィッツ パレスチナ難民

 

第2問

 ギリシア人はみずからをヘレネスとよび、その国土をヘラスとよんでいた。アレクサンドロス大王の東征以後、ギリシア風の文化・生活様式はユーラシア西部に広く普及し、その後の世界にも大きな足跡を残している。このヘレニズムとよばれる文明の影響に関連する以下の3つの問いに答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

 

(1) オリエントあるいは西アジアに浸透したヘレニズム文明は、さらにインドにも影響を及ぼしている。とりわけ、1世紀頃から西北インドにおいてヘレニズムの影響を受けながら発達した美術には注目すべきものがある。その美術の特質について、3行以内で説明しなさい。

(2) ギリシア語が広く共通語として受容されたことは、その後の古代地中海世界における学問・思想のめざましい発展を促すことになった。それらはやがてイスラーム世界にも継承されている。このイスラーム世界への継承の歴史について、中心となった都市をとりあげながら、3行以内で説明しなさい。

(3) ビザンツ世界やイスラーム世界と異なり、中世の西ヨーロッパは古代ギリシアやヘレニズムの文明をほとんど継承しなかった。ギリシア・ヘレニズムの学術文献が西ヨーロッパに広く知られるようになるのは、12世紀以降である。これらの学術文献はどのようにして西ヨーロッパに伝わったのか。3行以内で説明しなさい。

 

第3問

 人間はモノを作り、交換し、移動させながら、生活や文化、他者との関係を発展させてきた。こうした人間とモノとの関わり、モノを通じた交流の歴史に関連する以下の設問(1)~(9)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(9)の番号を付して記しなさい。

 

(1) 鉄製武器を最初に使用したことで知られるヒッタイトの滅亡は、製鉄技術が各地に広まる契機となった。ヒッタイトを滅ぼした「海の民」の一派で、製鉄技術をパレスチナに伝えた民族の名称(a)と、この民族を打ち破って、この地を中心に王国を発展させた人物の名(b)を、(a)・(b)の記号を付して記しなさい。﷯

(2) 文字の種類や書体と、書写の道具や材料との間には密接な関係がある。図版Aは紀元前8世紀のアッシリアの壁画に描かれた書記の図で、おのおの左手に粘土(a)とパピルス(b)を持ち、2つの公用語で記録をとっている。それぞれの材料に記された文字の名称を、(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

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(3) 古代中国では、広域的交易網が活発に利用されるにつれ、図版Bに示したような中国史上最初の金属貨幣が出現した。この種の貨幣を用いていた国家は複数あり、覇権を争っていた。その複数の国家のうちから任意の3つを選び、その名称を漢字で記しなさい。

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(4) 古代より西方ではパピルスや羊皮紙などが書写材料として用いられていた。一方、中国では漢の時代のある宦官が、高価な絹や、かさばる竹簡・木簡に代わって、樹皮や麻くず、魚網を混ぜ合わせた比較的良質な紙を作ったとされている。この人物の名を記しなさい。

(5) 前近代の社会では、動物や人間も消耗品的なモノの一種として扱われることが少なくなかった。南インドには、この地で繁殖することのむずかしい軍用の動物が、アラビアやイランから海路で継続的に輸入された。この動物の名称(a)と、この交易について13世紀に記録を残したイタリア商人の名(b)を、(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

(6) 図版Cは画家ヤン・ファン・アイクが1434年に﷯制作した油彩画で、これにはネーデルラントの都市ブリュージュ(ブルッヘ)に派遣されたメディチ家の代理人とその妻の結婚の誓いが描かれている。この時代のネーデルラントは、イタリア諸都市と並んで、この絵の中にも描かれているあるモノの生産で栄えたが、やがてその生産の中心はイギリスヘ移っていった。この製品の名称を記しなさい。

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(7) 人々はさまざまな農具を開発し、工夫をこらし﷯て自然に働きかけ、耕地を増やしてきたが、中国では、そうした営みが書物の形で提供され、やがて膨大な蓄積を誇るようになった。図版Dに示したのは、明代の農書に掲載された道具で、起源は古い。古代以来の蓄積と内外の新しい知見をまとめて成ったこの農書の名称(a)と、その編者の名(b)を、(a)・(b)の記号を付して記しなさい。

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(8) アジア各地よりヨーロッパに輸出された陶磁器は、食器としての用途の他に美術品としてもおおいに人気を博し、模倣品の製作を促した。図版Eはそのうちの1つで、明が滅びて中国からの輸入が激減した17世紀の後半に、代替品として生まれたデルフト焼の皿である。このモデルとなった中国陶磁器の生産中心地の都市名を漢字で記しなさい。

(9) ロンドンやパリのような都市では、17世紀頃か﷯ら、海外のプランテーションなどで生産された飲食物が流行し、それらをたしなむ社交場が出現した。18世紀に入ると、そこには学者や文人、商人たちが多く集まり、政治を語り、芸術を論じた。またそこでの情報交換を通じて、身分を越えた世論の形成が促された。この社交場の名称を記しなさい。

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………………………………………

[第1問の解き方

 論述問題は知識があれば良く(換言すれば、『詳説世界史論述問題集』で満遍なく知識吸収的な論述問題を解く)、後は問題の要求通り書くのはそんなに難しいことではない、と受験生も教師たちも予備校講師もおもっているようです。知識があってもどうしようもない問題が今年の問題でした。それはネット上に公表されている諸解答(4例)を見てもわかることです。いかにひどい解答を書いているか、確かめるといいでしょう。これから確かめ方を教えます。

 問題は「第二次世界大戦……戦後の冷戦につながる火種が存在していた。第二次世界大戦中に生じた出来事が,いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのかについて」書くことでした。

 このかんたん明瞭な問いをより単純化すれば、

 戦争中の出来事火種)→戦後のありかた火事

 ということです。公表されている「模範」答案の確かめ方は、戦争中の出来事(火種)がどれだけ書いてあるか、その部分に下線を引いてみる、という作業だけです。その結果、戦争中の出来事(火種)はほとんど書いてなくて戦後史ばかり書いているため、双方の関連(リンク)がまったく分からないことが判明します。白痴的な答案です。

 ある解答は、指定語句の「大西洋憲章(戦争中の出来事)」をつかい、戦後の国際平和機構を構想……戦後の国際連合に結実した、と書いています。しかしこれは問題文に「さまざまな戦後構想が練られており,これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし,国際連合の成立」と説明済みのものであり、これで得点できるためには、大西洋憲章以外のことか、大西洋憲章発表当時の情勢を書くかして補強しないと点数はもらえません。問題を解説しても得点にならないことは言うまでもありません。後は指定語句の「アウシュヴィッツ(戦争中)」をつかい、イスラエルを建国した、と戦後につなげています。得点になるのはここだけで、20点満点でせいぜい2点です。なんとも粗末な答案で、不合格者の「模範」答案はかくあれかし、という見本です。

 この問題は「第二次世界大戦中に生じた出来事」が戦後に「影響を与えたのか」ということですから、出来事→影響、というパターンができていればいいのです。この二つがどれだけつなげられるかかがポイントです。

 解答例のように戦争中の出来事が二つしか書いてない、というのは、下に表わしたように、指定語句だけで左と右に振り分けてみても左の大戦中の出来事は二つあり、書かざるをえないのです。が、それだけだと、この問題の課題に応えたことになりません。 

 導入文にあまりにも親切な文章があります。「中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢力争いが激化するなど,戦後の冷戦につながる火種が存在していた」と。火種を探しなさい、その上で戦後の対立につながるような説明をしなさい、ということです。

 いくら戦後史を指定語句をつかって書いていても、それが「大戦中」の出来事と関連づけていなければ無意味な解答になるのです。戦中と戦後のラインがつながっていなくてはいけない。火種は大きくなって炎となり、火事となる、という発展の説明が必要です。

 東大の指定語句のいじわるさでもありますが、語句は戦後の出来事(火事)に集中しているのです。「大戦中の出来事(火種)」を探してこい、という課題です。

 

<大戦中の出来事> → <1950年代までの影響>
大西洋憲章
            日本国憲法   
            台湾
            金日成 
アウシュヴィッツ   →パレスチナ難民
            東ドイツ
            EEC(ヨーロッパ経済共同体)

  構想メモをつくれば、すぐ判明することですが、左の出来事だけで「大戦中の出来事(火種)」を満たせるはずはないのです。大戦(中)のことは教科書では8ページ(新課程・詳説世界史の場合)も書いてあり、充分すぎるほどのデータがあります。東京大学の問題は教科書に書いてある知識をいかに縦横につかえるかにかかっています。受験企業の「速報」を書くにも作答者たちは教科書を見たはずで、なんで「模範」答案がこんなに貧しいのかが不思議です。

 もちろん愚劣な答案を書いてしまう理由は明らかです。つまり、指定語句にひっぱられ、指定語句さえ使えばもう要求に応えたと錯覚し、問題文に書いてある問題そのものを素直につかめない、ということです。ま、根本的な欠陥といっていいでしょう。「模範」解答はそれぞれの受験企業のトップが書いていて、その企業の代表であり、顔のはずですが、なんともはや……。

 教科書に書いてあって、この問題に生かせるデータは以下のものです。

 第二戦線問題(独伊との北アフリカ戦線、ノルマンディー上陸)、ポーランド解放問題、レジスタンスにおける共産党の働き(フランス共産党、チトーのパルチザン闘争、ヴェトミン、中国の抗日民族統一戦線)、ヤルタ会談における戦後処理と対立、太平洋戦争、米軍による日本の都市無差別爆撃・原爆、ソ連の対日宣戦と朝鮮半島南下などです。

 なお「大戦中の仏独の対立」という解答例がありますが、第二次世界大戦は独仏がほとんど戦わず、かんたんにフランスが占領された戦争であり、第一次世界大戦の両国の激戦と勘違いしているものもあります。あまりにかんたんにフランス第三共和政が降伏したので、ドイツ軍のロンメル将軍は、フランス攻撃を「フランス旅行」とあざ笑っていました。その後もフランスはドイツに協力するヴィシー政府が南半分を管轄し、他は44年までドイツの占領下にあったのです。もしレジスタンスという抵抗運動を国と国の対立として「仏独の対立」とした場合はおかしいでしょう。フランス軍の主力はイギリスに亡命していきましたから。

 

 1986年度の過去問に今回の問題文に解説している問題そのものがありました。

 中国は長期の抗日戦を通じて国際的地位を高め、国連五大国の一つとなったが、その民族運動の内部には戦争後期から戦後にかけて大きな変化が起こり、中華人民共和国が成立した。どのような変化が起こったか、その経過について述べよ。〔指定語句→重慶 政治協商会議 土地改革〕

 また金沢大の1983年の問題に類題がありました。

 20世紀は戦争の世紀と呼ばれるくらいに戦争の頻発した世紀であった。中でも20世紀の戦争を特徴づけたのは第一次世界大戦であった。そこで、この戦争が、ヨーロッパとアジアの国々にどのような変化をもたらしたかを、大戦中の主要なできごとをあげて論述しなさい。(540字以内)

 この問題の模範解答が出版されていますが、できごとはわずかしか書かないで戦後史を書く、というアホな解答です。

 

[第2問の解き方

(1)

 ガンダーラ「美術の特質について」という特色を書く問題でした。拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)の巻末問題に「ガンダーラ美術とグプタ美術の違いを説明せよ(指定語句:ヘレニズム文化、純インド)」というのがあります。

 また方法編には、特色(特徴/特質)問題は、かんたんには、そのことについて「内容を説明しなさい(知っていることをなんでも書きなさい)」という問いであることが多い、と説明しています。本来、特色は「ほかのものと違って(すぐれて)いる点」(『新明解国語辞典』)というのが定義です。比較の思考が入っているのですが、この問題の場合は比較する対象が示されていません。

 特質を、もちろん定義に合う内容で書いた方がベターではありますが、書けそうもなかったら次善の策として、なんでも書くことです。ヘレニズム文明をつたえたバクトリア王国、ペシャワールを中心に、クシャーナ朝下でつくられた、ギリシア的要素の濃い仏像、仏像を史上初めて制作といったことがらです。ただこれでは美術そのものの特質に到達していない解答ではあります。

 どうするか。ガンダーラ美術といっても比較する対象はインドの他の仏像(グプタ様式の仏像)か中国・日本などの仏像を想定して書くのが本来の「特質」の表し方です。後者の対象になる仏像の特色は、全体が静かに目を閉じて瞑想している姿であり、髪の毛は巻き貝のような丸々の集まりであったり、剃って禿であったり、からだに密着した薄い衣か、真っ裸です。それに対してガンダーラ美術の仏像は、前者のようなシンメトリ(左右対称)なすがたをしておらず、今にも歩き出しそうな行動的な斜めの姿勢をもち、長い髪の毛はカールしており、厚く着ている衣も波うつ襞(ひだ)が見られます。こうした内容が本当は特質です。

 また教科書も問題もヘレニズム文明(ギリシア文明)の影響のつよいことをあげていますが、最近の研究ではヘレニズムの影響を受けたローマの立像の影響の方が強いとみなしています。もし知っていたらローマ文化の影響もあげていいでしょう。

(2) 

 「古代地中海世界における学問・思想……イスラーム世界にも継承されている。このイスラーム世界への継承の歴史について」でした。

 拙著『世界史論述練習帳new』の巻末問題に「イスラム文明の世界史的役割について述べよ(90字)。  指定語句→西欧 ルネサンス」という問題はこれに関連していました。つまり古代ギリシア・ローマの学問はゲルマン人の闊歩する中世で失われていき、逆にイスラーム世界が吸収していき、その後で西欧側が「12世紀ルネサンス」によって再発見する(問3)、という過程です。この前半が問われています。9世紀(830年)にバグダードでバイト=アル=ヒクマ(智恵の館)という翻訳機関をつくって古典(ギリシア語)の組織的翻訳(アラビア語)につとめました。ここでアルキメデス、プラトン、アリストテレスの著作が翻訳されます。それが教科書では表の中にある外来(異民族起源)の学問です。これと自民族起源(固有)の学問との二つが融合した普遍的な文明をつくりあげています。

 古代史との流れとしては、アレクサンドリア他のローマ帝国の都市で研究がつづけられ、キリスト教の普及とともにササン朝ペルシア帝国の支配下でうけつがれ、ササン朝の後継者といっていいイスラーム世界に伝えられました。

(3)

 これは12世紀ルネサンスの説明を求めた問題ともとることができます。このルネサンスは翻訳という事業だけをさした狭いことばではありませんが、その重要なひとつであることは変りません。

 またまた引用すれば、拙著の巻末に「イタリア・ルネサンスがおきた要因を述べよ。  指定語句→大商人 都市」という解答の要因例としてあげています。論述では必須の用語といっていいでしょう。センター試験でも1995年度の追試に出題されています。

 「学術文献はどのようにして西ヨーロッパに伝わったのか」という問いに対しては、十字軍の影響であったかのように書いた答案がありますが、いったい十字軍という無知な集団がどういう学問的な貢献をしたというのか、考えたらおかしいと気がついてもいいはずです。たしかに教科書では「十字軍をきっかけに東方との交流がさかんになる12世紀には,ビザンツやイスラーム圏からもたらされたギリシアの古典が,ギリシア語やアラビア語から本格的にラテン語に翻訳されるようになり,それに刺激されて学問や文芸も大いに発展した。これを12世紀ルネサンスという。」とありますが、よく注意して読めば、「十字軍をきっかけに東方との交流……12世紀には」と同時代であることを指摘しているだけで、十字軍がアラビア語の文献をもたらしたとは書いてないことです。ましてこの場合の「ビザンツやイスラーム圏」の後者はパレスティナではありません。イスラーム教政権のあったイベリア半島、南イタリアです。前者はレコンキスタをやりながら奪ったトレドで東方学院をつくって翻訳をはじめ、後者はノルマン人が進出してアラブの遺産をうけつぎ、ナポリ王国・両シチリア王国をつくり、その都パレルモで翻訳したものです。後はイスラーム圏ではないビザンツから入ってきます。これは商人がもたらす書籍であり、どうにしろ十字軍ではありません。ちなみに十字軍がもたらした文化的なものといえば、築城術であり、家具であったり、シャーベットであったりと学問ではない異国趣味的なものです。

 トレドやパレルモは細かいとおもうかもしれませんが、過去問には指定語句として出しています。1987年の「イベリア半島の中世史は異文化間の摩擦と交流と混淆の歴史……設問(3)このことについて次の語句を参考として4行以内で説明せよ。イブン・ルシュド トレド」と。また1998年度の問題文に「スペインのトレドでは、12世紀になると、科学や哲学の書物が活発に翻訳された。こうした翻訳書がパリなどに流入することで、中世スコラ学は飛躍的に発展した。この場合、主として何語から何語へ翻訳されたのかを記せ。」という設問がありました。また2003年度の第2問に「平面幾何学を大成させたエウクレイデス(ユークリッド)が、研究活動を行った都市名を記せ。また彼の著作が、アラビア語訳からラテン語に翻訳されたのは、何世紀か。」という問いも出ています(解答はアレクサンドリア、12世紀)。

 パレルモにしても1986年度のイスラーム世界と中世キリスト教世界との関係史の過去問に書いてもいいものでした。また1981年度の過去問には、「ギリシア語文献の翻訳」が指定されています。

 

第3問

(1)(a)「海の民」の一派で,製鉄技術をパレスチナに伝えた民族の名称、とは細かい。パレスティナ人、旧約聖書ではペリシテ人、別名カナーン人です。勘違いしやすいのは現在のパレスティナ人とはちがう民族であることです。現在のひとたちは正統カリフ時代にやってきたアラブ人のことです。パレスティナ人という純粋な民族はおらず、現在パレスティナという地に住んでいるアラブ人のことです。 (b)「民族(パレスティナ人)を打ち破って,この地を中心に王国を発展させた人物の名」はパレスティナ人(かれらの代表ゴリアテ)との戦いで勝利した旧約聖書のダヴィデ(ダビデ)がふさわしいでしょう。教科書の写真にのっているミケランジェロの彫刻ダヴィデは投石機でこれからゴリアテの額に石をなげつける直前のすがたを写しています。

(2)(a)「前8世紀のアッシリアの壁画」で粘土に記した文字、といえば楔形文字しかない。またパピルスとあればエジプトの文字ということになりますが、はたしてアッシリア帝国はエジプトのことばと言語を必要とし公用語にしたのでしょうか? 受験企業の答えはみなエジプトの文字にしていますが、それだとアッシリア帝国がエジプトを征服するのは前671年、この問題は「前8世紀のアッシリア」なのだから、それ以前から公用語だったことになる。まさか。当時のメソポタミアに広がっていて公用語たりうるのは商人アラム人のアラム文字しか考えられない。実際、アッシリア帝国はアラム商人を保護しましたし、外国人を積極的に登用し、宰相にアラム人(アフカルという人物)がいたことが知られています。

 この推測のとおり、この同じ図版をのせた中央公論社『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史─1)に、図の注として「二つの言語で書かれた。書紀は二人一組になり、一人は粘土板にアッカド語(これはもちろん楔形文字──中谷の注)、もう一人は羊皮紙にアラム語を書いた。」とあり、東大の設問のミスなのか、それとも絵からはどちらの紙なのか判別しにくいのかもしれない。羊皮紙とあるべきところをパピルスにしてしまい、受験生に迷いをあたえたようです。ただ、書き写す材料がパピルスであれ、羊皮紙であれ、前8世紀のアッシリア帝国で神聖文字・神官文字はありえないことに変わりはありません。この絵がのっているインターネットのページは以下のアドレスです。

http://www.ezida.com/commentaires.htm

(3)戦国七雄の中から南の楚だけをのぞいて3つの国名を書けばいい(……と説明していたのですが、それはまちがいではないか、という指摘があり、その指摘のとおりなので訂正します。蟻鼻銭は貝貨だけだとおもい、銅製のものも造られていたことを知りませんでした。わたしの無知でした。)

(4)「比較的良質な紙」ということで蔡倫の名前が正しく書けたらいい。現在の中国では最古の紙は前漢景帝の時代(呉楚七国の乱があった)の紙が出土していますが、紙の質は悪くぼけぼけのものです。

(5)(a)「軍用の動物が,アラビアやイランから海路で継続的に輸入」はなにか、という難問です。「アラビア」から馬かラクダかと迷うところです。ラクダをインドで使っているというイメージはないので、ここは決断して馬にしておきましょう。もちろん答えとして正しいことは(b)マルコ=ポーロ著『東方見聞録(世界の記述)』で確かめることができます。インドのある国にいったときの記事で、次のように書いてあります。

この国は馬を産しないので、これを買うために、国富の大部分がついやされている。キスやホルムズ、ドファル、ソエル、アデンなどの商人は軍馬その他の馬をあつめ、この国やその兄弟(同じく国王である)の領地へもってくる。ここでは一頭金百サッギオ、すなわち銀で百マルクにも売れ、しかも需要が多い。実はこの王もその兄弟も、毎年二千頭以上は買いたいのだ。二千頭買いこんでも、年末には死んでしまって、百頭くらいしか生きのこらないからである。これは管理がわるいからで、この地方の住民は馬の取り扱いかたを全く知らない。獣医さえここにはいない。……

 と嘆きながら書いています(教養文庫)。

 教科書『新世界史(新課程)』山川出版社に交易ルートとともに各地の産物図がのっていて、アラビア半島には「馬」と書いてあります。

(6)毛織物工業地帯としてのフランドルを知っているか、という問題です。百年戦争でまっさきに戦場になり、職人たちがイギリスに移ってきて根付き、それが、いままで羊毛原料を輸出してフランドルの毛織物を買っていた植民地的イギリスを工業国に変貌させるきっかけでした。百年戦争の後半からエンクロージャーが展開するのも牧羊のためと学んだのはそのことです。イギリスはこの戦争で敗北したが技術を獲得しました。

(7)明代の農書とあるので、(a)農政全書(b)徐光啓は易問。

(8)これも中国陶磁器の生産中心地では景徳鎮がすぐ出てきます。

(9)「ロンドンやパリのような都市で……社交場の名称」であれば、コーヒー=ハウス(カフェ)となる。旧課程ではこれはのっていなかったから平等性を欠くと指摘した参考書がありますが、そんなことはない。旧課程の『新世界史』(山川出版社)には「啓蒙思想と社会」と題して、

都市の文化サークル,貴族の客間で開かれるサロン,ロンドン市民のあいだにはやった喫茶店(コーヒーハウス)のような社交機関がこの時期から発達しはじめたことが,政府から独立した「世論」という観念をうみ,これが政治の流れを変えはじめた。

 と書いていました。また清水書院の新世界史A(旧課程)のコラム記事にも次のように書いてありました。

17世紀半ばにイギリスでコーヒーハウスがあらわれているから,茶とほぼ同じ時期といえる。……コーヒーハウスはさまざまな階層の市民が集まり,情報交換の場にもなった。

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問
 問(1)(a)ペリシテ人、(b)ダヴィデ(ダビデ)

 問(2)(a)楔形文字、(b)アラム文字
 問(3)秦・燕・斉・韓・魏・趙・楚の中から3つ
 問(4)蔡倫
 問(5)(a)馬、(b)マルコ=ポーロ
 問(6)毛織物
 問(7)(a)『農政全書』、(b)徐光啓
 問(8)景徳鎮
 問(9)カフェ(コーヒーハウス)