世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2011

京都大学 2011

第1問(20点)
 4世紀から12世紀にかけて、長江下流地域(江南地方)における開発が進み、中国経済の中心は華北地方からこの地域に移動した。この過程を、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B、C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(14)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A インド亜大陸の文明は、インダス川流域の遺跡モエンジョ=ダーロやハラッパーを代表とするインダス文明の時代に始まる。この文明の衰退後、紀元前1500年頃からインド=ヨーロッパ語系のアーリア人が、パンジャーブ地方に進入し始めた。アーリア人の社会組織や宗教文化は『リグ=ヴェーダ』をはじめとするヴェーダ文献の中に記録されている。インドに入ったアーリア人の宗教は(1)バラモン教であり、この教えが基盤となって、その後様々な要素が加わり、歴史的な変遷を経ながら、現代の[ a ]教へとつながっている。
 前6世紀には、ブッダと尊称される[ b ]の説いた仏教と、マハーヴィーラの尊称を持つヴァルダマーナを始祖とする[ c ]教が興った。このふたつの宗教はバラモン教の祭式やヴェーダ聖典の権威を否定した。
 前4世紀に(2)アレクサンドロス大王の東方遠征がインダス川流域にも及び、周辺に混乱が起こった後、(3)ガンジス川流域に首都をおいた[ d ]朝が成立し、(4)アショーカ王の時代に最盛期を迎え、南端部を除くインド亜大陸の全域を支配した。アショーカ王は仏教に帰依し、法(ダルマ)に基づく統治を宣言する詔勅文を石柱や岩壁に刻ませた。アショーカ王の死後、[ d ]朝は衰退し、紀元後1世紀に中央アジアのイラン系民族とされる[ e ]族の勢力がインダス川流域にも及び、[ e ]朝を建てた。この王朝は2世紀半ばの[ f ]王の時代が最盛期で中央アジアからガンジス川中流域までを支配し、仏教を庇護し、(5)首都プルシャプラを中心とする[ g ]地方でも、仏像が製作され始めた。4世紀には[ d ]朝と同じ都市に首都をおいたグプタ朝が勃興し、(6)チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、北インド全域を支配した。グプタ朝の時代には仏教や[ c ]教のほかに[ a ]教が社会に浸透、定着し始め、バラモンの使用する言語であるサンスクリット語の文学作品や、バラモンの特権的な地位を強調した法典である[ h ]が、現在伝えられるような形にまとめられた。
 グプタ朝の滅亡後、7世紀前半にはヴァルダナ朝のハルシャ王が北インドを支配したが、その死後(7)北インドには強力な統一政権の存在しない状況が長く続いた


(1) バラモンは祭儀を司る祭司階級のことであるが、バラモンを最高位とし、クシャトリヤ(王侯、戦士)、ヴァイシャ(農民、牧畜民、商人)、シュードラ(隷属民)などによって構成される古代インドの身分制度を何というか。
(2) アレクサンドロスが前334年東方遠征に出発した目的は、東方のある国を討つためであった。当時その国を支配していた王朝の名を記せ。
(3) [ d ]朝が首都をおいた都市の名を記せ。
(4) この王の時代にスリランカ(セイロン島)へ仏教の布教が行われたという伝説がある。スリランカからさらに東南アジアへ伝えられ、現代でもタイやミャンマー(ビルマ)などの国々に多くの信者を有している部派仏教は何と呼ばれるか。
(5) インド中部において、より古い時期から仏像が製作された、ヤムナー河畔にある都市の名を記せ。
(6) この王の時代に、中国の東晋からインドを訪れて旅行記を著した仏僧の名を記せ。
(7) 8世紀の初め、西方からイスラーム教徒の軍隊がインダス川下流域のシンド(スィンド)地方に侵攻した。当時、西アジアと北アフリカを支配していたアラブ人を中心とするイスラーム教徒の王朝の名を記せ。

B [ i ]王朝の殿前都点検として軍を掌握した趙匡胤は[ i ]の恭帝から禅譲を受けて帝位につき、宋を建国した。唐末以来、地方に軍闘が割拠して中央の政権を弱体化させる状況がつづいていたので、彼は節度使の権限を縮小するほか、軍政を司る枢密院を強化して中央集権化をすすめた。10世紀末から11世紀初頭にかけて、契丹は燕雲十六州を足場として南進をはかり、東にむかっては(8)高麗に攻勢をかけた。[ j ]を都とした西夏も宋にとって脅威の一つであった。こうした情勢のもと、宋の政府は歳入の不足に苦しんだ。王安石は「万言書」として知られる改革案を提起して頭角をあらわし、神宗に登用されると制置三可条例司を設置して(9)「新法」とよばれる一連の政策を実施した
 宋代には海上交易が盛んであり、政府は沿岸の港市に[ k ]司を置いて貿易を管理し、収入の増大をはかった。(10)インド洋方面からイスラームを信奉する商人が多く来航し、東南沿岸部に定住するものもいた。インド文化が優勢であった東南アジアでは港市を中心としてイスラームが浸透し、(11)スマトラ島、ジャワ島、マレ一半島にとどまらず、今日までスルタンの政権がつづいているブルネイが位置する[ l ]島やフィリピン諸島の沿岸部にムスリムの活動がひろがった。


(8) 高麗の建国者は誰か。
(9) 「新法」のうち、差役(徭役)を銭納化するものの名を記せ。
(10) 14世紀前半の北アフリカから中国におよぶ広大な地域の情報を記した旅行記の作者として知られる人物は誰か。
(11) この島の北端近くの港市は、15世紀にその支配者がイスラームに改宗して中国とも交易した。この港市を中心とした国家の名を記せ。

C 1894年、日本と清とは(12)朝鮮半島への影響力を争って戦端を開いた。翌年、(13)清政府が日本との講和をすすめるという消息が伝わると、中国国内ではこれに反対して戦争継続を求める声があがった。この時、北京に滞在していた[ m ]は同調者を糾合して「公車上書」と呼ばれる建白書を上呈する運動を推進した。1898年、光緒帝に登用された[ m ]は立憲君主制への移行をめざす政治改革に着手したが、慈禧太后(西太后)ら保守派のクーデタによって失脚し、日本に亡命した。
 1905年、清王朝の打倒をめざす人びとが東京で[ n ]会を結成し、革命をめざす運動の高揚をはかった。1911年、武昌蜂起が起こると、朝廷の支配から離脱する動きが各省にひろがり、翌年1月には[ o ]を首都とする臨時政府が成立した。清の朝廷は革命に対処するため[ p ]を起用した。臨時政府側との交渉おいて[ p ]は自分が大総統に就任することを条件として、清の朝廷に統治権を放棄させることを約束し、これを実現した。しかし、その後も政治的な混乱がつづき、[ p ]の急死後には、軍閥が中央の政権掌握と地方の支配とをめぐって相互に争う状況となった。(14)この時期には、中国の伝統や習俗に自省の眼をむけ、新たな精神文化を求めようとする人びとがあらわれた


(12) 朝鮮では日本を牽制するためにロシアに接近する外交政策が模索された。親露政策を推進したことで知られこの戦争の終結後に宮廷内で暗殺された王妃の姓を記せ。
(13) ロシアはこの講和条約によって日本に割譲された地域の一部を清に返還するよう圧力をかけた。清はロシアに鉄道敷設権を与えて関係を深めた。清から得た利権にもとづき、ロシアがチタとウラジオストクとを結ぶ路線として建設した鉄道の名称を記せ。
(14) 文化運動の担い手の一人として、『阿Q正伝』『狂人日記』などの作品を著した文学者は誰か。

第3問(20点)
 アメリカ合衆国は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で主導的な役割を演じながら、国際連盟に参加せず、再び政治的孤立主義に回帰したともいわれる。しかし実際には、アメリカは1920年代の政治的・経済的な国際秩序の形成に重要な役割を果たした。アメリカが関与することによってどのような政治的・経済的な国際秩序が形成されたのか。1921年から1930年までの時期を対象に、具体的な国際的取り決めに触れながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A アルプス山中に源を発し、ドイツ西部を流れて北海に注ぐライン川は、古代から重要な意味を持つ河川であった。アルプスを越えて北方に侵攻したローマは、(1)カエサルのガリア遠征の時期にライン川まで勢力圏を広げた。(2)1世紀の終わり頃になると、ローマはライン川の西岸地域を河口近くまで領有し、属州を設置し統治し始めた。ローマ帝国領はライン川、およびその東側に築かれた防壁で守られ、領内には数多くの都市や要塞が建てられたが、(3)マインツ、ボン、ケルンなど、今日のライン川沿いの主な都市は、その都市としての起源をローマ帝国時代にもっている
 3世紀にローマ帝国が混乱期にはいると、ゲルマン系の部族集団がライン川を越えて帝国領に侵入する事件がしばしば生じた。その後、(4)混乱を克服し帝国再建をめざしたディオクレティアヌス帝のもとで、ライン川地方の安定が一時回復されるものの、4世紀後半以降になると、帝国領の外に居住していたゲルマン系の諸部族が続々とライン川を渡って移住するようになった。(5)多くの部族が長い距離を移動して国を建てた中で、フランク族はライン川から西へ向かったものの大きくは移動せず、(6)ラインの西側を並行して流れるマース川(ムーズ川)までの間の地域を中心に定着し、分立していた小国を統一して王国を形成した。そして、ここからヨーロッパの新しい政治秩序を作り出してゆき、(7)カール大帝の時には近隣諸部族を制圧して、西ヨーロッパの主な部分を統一する大国家になったのである。
 カール大帝の死後、(8)大国家は数度にわたって分割され、マース川付近から東が東フランク王国となったが、ライン川はこの王国の西部を流れる主要河川として、ますますその重要性を増し、中世を通じて(9)ライン沿岸都市は商業で栄えるようになった


(1) カエサルがガリアに遠征できたのは、ポンペイウスとクラッススとともに盟約を結んで、それまで国政に対して大きな権力と権威を行使してきた政治機構の影響力を排除したことによる。この政治機構の名を記せ。
(2) 1世紀終わり頃のローマ帝国の状況を正しく説明した文を、次の(a)〜(d)より1つ選んで、記号で答えよ。
 (a) ギリシア人ポリュビオスが、ローマがいかにして地中海世界の覇権を握ったかを主題とする歴史書を執筆した。
 (b) グラックス兄弟が護民官となって、改革を始めた。
 (c) 帝国政治は比較的安定し、アジア方面との交易など経済活動も活発に行われていた。
 (d) 禁止されていたキリスト教の信仰が公認され、同時に教義の面での争いが激しくなった。
(3) ローマ帝国西部には、ライン沿岸に限らず数多くのローマ風都市が建てられ栄えたが、そうした都市の多くには、フォルムや会堂、劇場や公共浴場とともに、人々の娯楽のために建てられた重要な公共建築物があり、今日でも各地でその遺跡をみることができる。この公共建築物の名を記せ。
(4) ディオクレティアヌス帝は、皇帝権力の強化と神聖化を行うとともに、軍隊の反乱を防ぎ外敵の侵入に効果的に対処するための重要な措置を実施した。この措置の内容についてその要点を簡潔に記せ。
(5) ゲルマン系の諸部族の中で、長い距離を移動して北アフリカに国を建てた部族の名を記せ。
(6) ライン川とマース川(ムーズ川)との中間に位置しカール大帝の重要な宮廷所在地となった都市の名を記せ。
(7) カール大帝は、ゲルマン系の部族が6世紀に北イタリアに建国していた王国を滅ぼした。この王国の名を記せ。
(8) 西フランク王と東フランク王が中部フランク王の領土を分割することを約した870年の条約により後のフランス、ドイツ、イタリアの大まかな枠組みができあがることとなった。この条約の名を記せ。
(9) 13世紀頃に誕生し、ライン沿岸のケルンなども参加した、北ドイツの都市の一大同盟の名を記せ。

B ルイ14世は1643年、幼くしてフランス王となった。この時フランスは、(10)スウェーデンなどの新教国陣営に加わって三十年戦争を戦っており、即位の翌年にはフライブルクでの激戦の結果、バイエルン選帝侯の軍隊に勝利した。三十年戦争は、1648年に(11)ヴェストファーレン(ウエストフアリア)条約が結ぼれて終結した。同じ年、フランスでは[ a ]の乱が勃発、混乱は6年におよんだが、宰相マザランによって鎮圧された。1661年にマザランが没すると、ルイ14世は親政を開始する。国王の権力は神に由来し、いかなるものもそれを制約することができないとする(12)王権神授説を奉じ、フランスの絶対主義王政を樹立することになる。
 王は財務総監としてコルベールを登用した。コルベールは(13)重商主義的な経済政策を実施して、官僚機構の整備や軍隊の増強に必要な財政の基盤をつくった。この強大な軍事力は、ルイ14世の領土拡大政策において発揮されることになる。1667年、ルイ14世はスペイン王の死去に乗じ、スペイン領であった南ネーデルラントの領有権を主張して軍を進攻させた。これに脅威をおぼえたオランダは、交戦中であった(14)イギリスとの戦争を停止し、逆に同盟を結んでフランスと対峙した。そのオランダにも、フランスは1672年以降侵略を企てたが不成功に終った。
 さらに1688年には、隣接するファルツ選帝侯領の継承権を主張するフランスと、ルイ14世の覇権主義に反対してアウクスブルクで同盟を結んだ諸国との間で、ファルツ継承戦争(大同盟戦争)が始まる。同年イギリスで名誉革命が起こり、オランダのオラニエ公ウィレムが(15)イギリス王として即位した。その結果イギリスも同盟に参加することになる。イギリスとフランスとの衝突は植民地にも飛び火し、この後1世紀以上つづく、英仏の海外における対立抗争の発端となった
 1700年には、スペイン=ハプスブルク家のカルロス2世が死去し、ルイ14世の孫がフェリペ5世として即位した。これに反対し、オーストリア、イギリス、オランダが同盟してフランス・スペインに宣戦を布告した。スペイン継承戦争といわれるこの戦争は(16)ユトレヒト条約でようやく終結をみる。この条約で、ブルボン家によるスペイン王位継承は承認されたが、フランスによるスペインの併合は認められず、スペイン領の南ネーデルラントやナポリ王国はオーストリアに割譲され、全体としてはフランス・スペインにとって失うものが多かった。ルイ14世の侵略戦争はこうしてフランスの財政を逼迫させた。また1685年に[ b ]を廃止したため、商工業者に多かった新教徒が国外に亡命してフランス産業の停滞を招いた。


(10) 三十年戦争に新教徒の保護を名目として参戦したスウェーデンの国王の名を記せ。
(11) ヴェストファーレン条約がその後のドイツ・オーストリア地域に与えた政治的影響について簡単に記せ。
(12) ルイ14世の時代に『世界史叙説』などを著してこの説の主唱者となった人物の名を記せ。
(13) コルベールが実施した経済政策のうち主なものを1つ記せ。
(14) この戦争は、オランダが北米大陸に建設した都市をイギリスが征服したことがきっかけで起きた。建設当時のこの都市の名を記せ。
(15) ウィリアム王戦争と呼ばれるこの時の戦争は北米大陸の英仏植民地間の戦闘であった。第2次英仏百年戦争と呼ばれるこの後の抗争で、両国が領土の支配や勢力の優位をめぐって戦った北米大陸以外の地域を2つあげよ。
(16) イギリスはこの条約でアシエントと呼ばれる、大西洋地域における交易の独占権をスペインから獲得した。この交易が対象としたのは何か。

C 近世以降のバルカン半島では国境の移動が繰り返され、19世紀になると新しい国家が生まれるようになった。
 1683年の第2次包囲を最後にオスマン帝国が都市[ c ]を脅かすことはなくなり、(17)1699年のカルロヴィッツ条約で広大な領域がハプスブルク家の支配下に入った。18世紀には、ベオグラード周辺をオーストリアが一時領有したこともある。ロシアも1774年のキュチュク=カイナルジャ条約でオスマン帝国領内に居住する[ d ]の保護権を獲得し、これを口実にバルカン半島各地に領事館を設置している。(18)エカチェリーナ2世はコンスタンティノープルを首都とする「ギリシア帝国」の創設を計画し、ヨーゼフ2世にも協力を要請している
 ギリシアに特別な眼を向けていたのは、宗教を同じくするロシアだけではない。特に18世紀後半以降、古代ギリシアはヨーロッパが参照すべき理想的過去のーつとして重視され、ギリシア人は高度な文明を生み出した人々の子孫とみられるようになっていた。こうした考えはギリシア人自身にも影響を与え、独立運動が出現するようになる。1821年から始まる独立戦争では、著名なロマン派詩人[ e ]などさまざまな人物が義勇軍に身を投じたり、戦争募金に応じるなどして熱烈に独立運動を支援した。(19)ロシアなど3か国の政府は、当初はギリシア独立に対して積極的支援を行わなかったが、結局1827年に共同でオスマン帝国・エジプト連合艦隊を撃破するなどして独立に手を貸すこととなった。ただし新生ギリシア王国に居住するギリシア人は、ギリシア人全体の一部に過ぎず、ギリシア政府はその後も領土拡張を模索している。
 ベオグラードを首都とするセルビアも、1804年の第1次蜂起、1815年の第2次蜂起後に自治公国の地位を獲得し、1878年には[ f ]やモンテネグロとともに独立国となった。さらに(20)1908年にはブルガリアも完全独立している。しかしセルビアや[ f ]はオーストリアとの間に領土問題を抱えており、第一次世界大戦ではオーストリアと交戦することになる。


(17) この時ハプスブルク帝国領となり、第一次世界大戦終結まで帝国の一部であった地域の名を1つ記せ。
(18) エカチェリーナ2世ら啓蒙専制君主が構想した政策の多くは「ギリシア帝国」計画のように計画のままに終わり、あるいは失敗した。しかしヨーゼフ2世が施行した政策の一部はフランス革命を先取りしたものとして評価されることもある。そのような政策のうち1つを簡潔に記せ。
(19) (ア) 3か国のうち2つはロシアとフランスである。残り1つの国名を記せ。
 (イ) 3か国が当初独立戦争支援に消極的であった理由を、簡潔に説明せよ。
(20) 独立の直接のきっかけとなった旧支配国における事件の名称を記せ。
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○2010 1 4〜12世紀の江南開発(300) 2 古代インド・10〜11世紀東アジア 3 1921年から1930年までの合衆国の関与(300) 4 古代中世のライン川・ルイ14世の治世・バルカン半島近現代史
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コメント
第1問
  課題は「4世紀から12世紀にかけて、長江下流地域(江南地方)における開発が進み、中国経済の中心は華北地方からこの地域に移動した。この過程を」でした。江南開発史という中国史としてはありきたりのテーマです。完全に経済史なのですが、意外や政治史(王朝の興亡と首都、乱)に集中した解答を予備校の解答に見ることになります。予備校の解答の文章の政治に関するところに下線を引いていくと、残った経済史がわずかしか書いてないことに気がつきます。あれ? となります。やってみてください。この政治史の部分が少ない解答が良答です。予備校が地方に校舎を建てて営業して学生をよく集めて利益をあげた、というのが経済史であって、その間、中央の経営者が交代した、部長が左遷された、ということは書かなくてもいいのです。王朝名は時間表現代わりに使ってもいいですが、なくてもよく、一切王朝名なしで○○世紀でも書けます。この問い方自体がそうしたものを示唆しています、「4世紀から12世紀にかけて」と。
  といって1世紀毎に必要なのではない。『世界史論述練習帳new』(パレード)で時代区分とともに経済史の時代区分も載せているように、9〜10世紀の「唐末五代宋」がこの問題に該当する最も重要な時期になります。教科書や参考書の記事をピックアップしていくと、

  4世紀(西晋・五胡十六国)……戦乱のなかで土地を失った多くの農民は、故郷をすてて流浪し、あるいはひろい土地をもつ豪族のもとに隷属した(詳説世界史)。
  民衆は、自営の集団や結社に加わったり、あるいは豪族に庇護を求めたりしながら、兵乱の少ない江南や四川にむけて移住の波をおこした。三国の分立や南朝の成立は、こうした辺地の開発にかかわっている(新世界史)。

  4〜6世紀(南北朝)……諸王朝は、農民の生活を安定させ、税収の確保をはかろうと、積極的な土地政策をうちだした。魏の屯田制や北魏の均田制などは、国家が土地所有に介入して農民に土地をあたえようとする政策であったが、その効果は一部にとどまった。華北からの人口流入にともなって長江中・下流域では人口が急増し、開発がすすんだ。大きな荘園をもつ貴族は、多数の隷属民を従え、穀物、野菜や畜産・水産物、手工業製品などを自給する総合的な経営をおこなった(詳説世界史)。
  三国の魏の屯田制、西晋の占田・課田法、北魏の均田制は、いずれも豪族が囲い込む農民や土地を国の手にとりもどす政策であった。いずれにしても、中国の南北で過疎地や未開地の開発が進み、地方に産業がおこる下地がこのころにつくられてきた(新世界史)。

  7〜8世紀(隋唐)……文帝の子煬帝のとき完成した大運河は、南北朝時代に開発のすすんだ江南を華北と結びつける、中国史上はじめての南北の交通幹線であった(詳説世界史)。2代の煬帝は大運河を完成して中国の南北を結ぶ大動脈とした(新世界史)。 

  9〜10世紀(唐末五代宋)……唐末から宋にかけて人口は急増し、1億をこえた。この時代に開発が進んだ江南の各地では、移住者をうけいれて農地がおおいに開け、ことに長江下流域のデルタ部は南宋の末までに穀倉地帯となり、「蘇湖熟すれば天下足る」といわれた(注)。新しい財政制度と富国強兵策のもとで、国が商業をはじめあらゆる財源の利用をめざし、商業への直接の統制をゆるめたことも、この発展の一つの原因となった。(注 低湿地や山麓の辺地が水田に造成され、早稲、とくに日照りに強い占城米が輸入されて普及し、二毛作もおこり、商業作物(桑・茶・サトウキビ・アイ<藍>など)もとりいれられた)(新世界史)。

  12世紀(南宋)……宋の南渡以来、江南の開発がすすみ、中国経済の中心は長安を中心とする西北から、東南の江蘇・浙江・福建などの地域へと移動した。長江下流地域では囲田(注1)などが造成され、集約的な稲作(注2)がおこなわれるようになった。また陶磁器や茶・絹など特産品の集中生産が各地でおこり、それらを結びつける海運・河運がめざましく発達した。(注1 湿地帯の土地を堤防でかこみ、干拓してつくられた田をいう。注2 あらたな耕地にはひでりに強い早稲種の占城稲が導入され、収穫の安定化がはかられた)(詳説世界史)。 

  これだけ執拗に教科書の記事を引用したのは、なにも王朝名を用いて政治史を説明してから経済史に入らなくても、経済史だけで書くことはたくさんありますよ、ということを言いたいためです。とくに唐末五代の農業技術の変化について詳しい説明を『詳説世界史研究』がしています。

五代以来、江南のデルタ地帯を中心に、低湿地を堤防で囲んで干拓した圩田・囲田と呼ばれる水利田が、王朝や在地の地主用の主導で造成された。また灌漑するために、竜骨車という足踏み式ポンプも使用されるようになった。水稲栽培技術にも革新があり、苗代つくりによる移植法(田植えのこと─中谷の注)や施肥(せひ)など、集約的水稲栽培の基本形態が完成された(注 これ以外にも、クリークの泥の客土法や正条植え、多数回の除草などがおこなわれた)。

  引用しましたが、『詳説世界史研究』はとくに要らないです。上記の教科書だけでも300字から溢れだしてしまいそうです。京大の問題は教科書の内容で十分書けます。


第2問
A 古代インド史です。文章はまるで教科書そっくりで、かつての京大らしい斬新な見方を打ち出した論説はなく、平易な文章でありながら含蓄のある見解を述べたものでもない、つまらないものです。しかし受験生としてはこれで助かります。とくに文章を読む力など必要はないのですから。おい、これ知ってるかい、というセンター試験並の基本問題集です。

 空欄と設問の解説は文章に出てくる順にします。
問(1) 4階級を説明した後で「古代インドの身分制度を何というか」という問い。カースト制ではありませんよ。この制度の元になった制度のことです。インドの威張り方の順なので、「い・ばるな」と覚えます(拙著『センター世界史B各駅停車』p.89)。

欄[a] 「バラモン教……その後様々な要素が加わり……現代の[ a ]教へ」とあるので、インドの宗教は何? という問です。ただしこの宗教は現代にできたのではなく、インドに定着しだしたのはグプタ朝期であり、教科書では「インド古典文化の黄金期」として述べています。

空欄[b] 仏陀の本名は何? ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味らしい。それにしては弟子がつくったキノコの料理にあたって腹痛で死んだという弱い牛でした。

空欄[c] もうひとつバラモン教の権威を否定したマハーヴィラの宗教は何ですか? ジャイナ(ニガンタ派の修行の完成者を意味する「勝者」)さんの興した宗教という意味です。仏教と同じくインドらしい徹底した無神論の宗教です。不殺生と無所有の教えはガンディーに影響を与えました。京大のガンディーといっていい小出裕章(京都大学原子炉実験所助教)先生は、原発に関する国会証言の中で、ガンディーの墓地の碑文に書かれている「7つの社会的な罪」をあげました。理念なき政治/労働なき富/良心なき快楽/人格なき学識 /道徳なき商業 /人間性なき科学/献身なき信仰、の7つ。「理念なき政治」は原発を推進してきた自民党、「人格なき学識/人間性なき科学」は原発を推進した国立大学の物理・医学部の教授たち、「道徳なき商業」は東電、を指しているとわかる指摘でした。

問(2) 「ある国」のヒントは「前334年……インダス川流域」まで支配していた帝国のことです。前330年ダレイオス3世が暗殺され、ペルセポリスが陥落してこの帝国は崩壊します。紀元後のササン朝(226〜651)ではありませんよ。

問(3) 後の文「[d]朝」の首都は? 現在パトナと呼んでいる都市です。グプタ朝もここを首都にします。

空欄[d] アショーカ王の王朝です。建国者は日本ではチャンドラグプタといって「1世」を付けないでグプタ朝の建国者と区別していますが、英語では、Chandragupta Maurya といいます。

問(4) 「タイやミャンマー(ビルマ)などの国々に多くの信者を有している部派仏教は」という問です。「部派」というのはゴータマの初期仏教がいろいろな派に分かれたことを指していて、たくさんあるのですが、教科書の大まかな分け方では、大衆部仏教と上座部仏教の二つです。伝播から南伝仏教であり、大乗に対して蔑称の小乗仏教であり、言語からはパーリ教です。

空欄[e] この王朝のヒントは「中央アジアのイラン系民族……インダス川流域……仏教を庇護し、(5)首都プルシャプラ」とあるので45年に樹立された、くしゃみしているような名前の王朝です。

空欄[f] クシャナ朝の「2世紀半ば……最盛期」といっても教科書ではこの王朝の王はこのひとしか書いてありません(130〜170年頃)。首のとれた遊牧民らしい姿の彫像が印象的なひとです。いやに大きい足は左右に張っていて、いかにもカニのような歩き方をしたのかも、と疑わせるような人物です。

問(5) 「インド中部において、より古い時期から仏像が製作された、ヤムナー河畔にある都市の名」というプルシャプラとは無関係な飛躍設問です。用語集の頻度3の説明では「デリー南方160kmにある古代都市。1〜4世紀中頃の純インド風仏像彫刻で知られる」とあり、それだったらガンダーラ美術も同時期であり、設問の文章と矛盾します。しかしこれは用語集の説明の不備で、マウリヤ朝時代の仏像が知られていて、カニシカ王はここを副都にしています。これはできなくても良い奇問でした。私大でも解答として要求されたケースは最近でもありません。文章中に述べてあるだけで空欄の解答でないのは、2001年の立教、語群にあっても解答ではない例は、法政の2004年と2008年、上智の2005年、立教の1997年のものがありました。京大のこの問題は珍しいケースです。頻度3まで覚えなきゃ、とがんばる必要はありません。せいぜい1点のためにどれだけ無駄な時間を費やさなくてはならないか。京大はセンター・レベルと割り切るべし。

空欄[g] 「地方でも、仏像が製作され始めた」とあるので、これがガンダーラです。

問(6) 「この王(チャンドラグプタ2世)の時代に、中国・東晋からインドを訪れて旅行記を著した仏僧の名」がパッと読んで分からなくても、中国人なのでこの王に「超日王」と漢字を当てていることを想起するといい。渡印僧でインドの王に漢字を当てた(もう一つが戒日王)ことで知られているのは法顕と玄奘です。「日」が付いている僧が正解。

空欄[h] 「バラモンの特権的な地位を強調した法典」は内容が恐ろしい。読んでみなはれ(岩波文庫)。とてもマヌけたものではありませんよ。

問(7) 「8世紀の初め」とは711年のことで、この年はイスラーム教軍がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島の西ゴート王国を破った年でもあり、イスラーム世界が空間的にもっとも拡大した時期でした。661年にできて750年にアッバース朝にダマスクスから追放される王朝です。

B 
空欄[i] 宋の前の王朝は何ですか、という問い。五代さいごの王朝です。中国の統一王朝の前は必ず「周」です。秦の前は東周、隋の前は北周、宋の前は後周(こうしゅう)。

問(8) 高麗の建国者は、王が建てた、という易問です。

空欄[j] 西夏の都は興慶(府)で、現在の寧夏回族自治区にある銀川(ぎんせん)市。明代には寧夏と呼ばれました。

問(9) 「新法」のうち、差役(徭役)を銭納化するものは、「役」の字の付いたものを想起すればいい。募役法しかない。

空欄[k] 「沿岸の港市……貿易を管理」は玄宗が714年に広東に於いたのが最初。今は康熙帝の改名以来、海関といってます。

問(10) 「14世紀前半の北アフリカから中国におよぶ広大な地域の情報を記した旅行記の作者」は元朝末『三大陸周遊記』は誰が書いたか、という問。「北アフリカ」もヒント。モロッコの旅行家としても問われます。イスラーム教徒として真面目で、そして、だらしない男の記録。読むと納得するはず。

問(11) この島「スマトラ島」の「北端近くの港市」という日本語は分かりにくい。北端近くとは北端でなく、北端に近い南側の港市? それとも北端からすぐ近くの北の地域の港市? スマトラ島って西から東に向かって斜めの長い島なので、北端はアチェーあたりなのか、それとも南端の北にあるマラッカ海峡を隔てた北側のマラッカ市かシンガポール市か。後の文「15世紀にその支配者がイスラームに改宗して中国とも交易」からは1400年頃にできて、「改宗」がその後にあるとすればマラッカ王国が近い解答のようです。なら、スマトラ島でなく、後のマレー半島に下線を引いてこの設問があるべきでした。予備校の解答はアチェ王国としたものもありますが、アチェ王国は15世紀末(1496)にできているのと、建国の前に支配層はイスラーム教徒であり、「改宗」していないので、これはまちがいでしょう(S,T,Y)。
 センター試験(2002年追試)でアチェーかを問う問題では「16世紀ごろから貿易で発展したスマトラ島西北端」と「西北端」という表現にしています。西北端ならアチェしかない。
 マラッカ王国の成立年代はいろいろあり、14世紀末頃(1376、東南アジア歴史文化事典)、1400年頃(岩波・世界史年表)、1402年(ウィキペディア)とあります。帝国書院の『新選・世界史B』には「15世紀にはマラッカ王国の王家がイスラームを受け入れ、これをきっかけにイスラームが各地に広まった」と書いてます。清水書院の『世界史B』も「15世紀にマラッカ国王は、イスラームに改宗してムスリム商人を引きつけ、東南アジアにおける一大勢力となった」と書いてます。やはりマラッカ王国が妥当な解答です。設問文の「支配者がイスラームに改宗して中国とも交易」という文脈に合ってます。

空欄[l] 「ブルネイが位置する」があるので、これはボルネオ島ですね。

C 
(12) 「暗殺された王妃の姓」は漢字が正しく書けるかどうか。角田房子『閔妃暗殺』(新潮文庫)の詳細な事件解説を読まれたし。最近の本では和田春樹『日露戦争 上』に、暗殺を目撃していたサバーチンの手記がのってます(p.186)。

(13) 「圧力」は三国干渉です。「ロシアがチタとウラジオストクとを結ぶ路線として建設した鉄道」は中国側の表現で東清(東支那)鉄道です。

空欄[m] 問題文の前後の文脈からこれは変法運動であり、それが戊戌の政変に転じることがらであると推理できます。「光緒帝に登用された」といっても実は直訴はなんども出していながら科挙に合格していなかったため受け取ってもらすえず、合格して(1895)ようやく読んでもらえました。

空欄[n] 「1905年、清王朝の打倒をめざす人びとが東京で」とあるので孫文を総理とし結成したものです。

空欄[o] 孫文は、この都市にかつて都をおいて明朝をおこした朱元璋の墓に詣でて、モンゴル人を追放したように満州族を追放したと報告をしています。

空欄[p] 孫文が臨時大総統の地位を譲った人物で、「急死」になるひと。

問(14) 『阿Q正伝』『狂人日記』の著者は漢字が正しく書けるか。


第3問
  課題は「アメリカが関与することによってどのような政治的・経済的な国際秩序が形成されたのか。1921年から1930年までの時期を対象に、具体的な国際的取り決めに触れながら」でした。じっさい連盟に参加していなくても参加しているのと変わりませんでした。それを拙著『センター世界史B各駅停車』では「表向き連盟に参加しなかったことになっていますが、連盟のどの委員会にも合衆国のオヴザーヴァーが臨席していました」と書いてます。といっても当時の西欧側の雰囲気は合衆国を軍事資源として考えてはいても世界体制を構築する国家としては未熟であり、まだ青年の合衆国に大人の秩序に加わって欲しいとは西欧首脳はおもってもいなかった。しかし200万の大軍を派遣し、経済力ですでに並ぶもののない力をもっていた合衆国を西欧は甘く見ていたといえます。 

  問題としては易問でした。第一次世界大戦後の世界からは教科書は合衆国中心に説明していて、あり余るくらいのデータがあって、削除することに苦労するくらいです。
 たとえばワシントン会議だけで、以下のように記事があります(詳説)。

 1921〜22年、アメリカ合衆国大統領ハーディングの提唱で、合衆国・イギリス・フランス・日本など9カ国が参加するワシントン会議がひらかれた。会議では、合衆国・イギリス・日本・フランス・イタリアの五大国間で主力艦の保有トン数と保有比率を定めた海軍軍備制限条約、中国の主権尊重・領土保全を約束した九カ国条約、太平洋諸島の現状維持を求めた合衆国・イギリス・フランス・日本の四カ国条約が結ばれた。また、日英同盟は解消された。ワシントン会議で決まったアジア・太平洋地域の国際秩序を、ヴェルサイユ体制に対してワシントン体制とよび、この両体制が1920年代の国際秩序の柱となった。

  戦後の西欧もこの合衆国にぶら下がって生きていました。その辺りの記事は以下。

 アメリカ合衆国の協力で賠償支払いの緩和と資本導入に成功して、経済をたて直し、国際協調外交を推進した。(注 各国経済界の専門家の提案(ドーズ案)をうけて、連合国はドイツの賠償支払い額を当面軽減し、アメリカ資本によるドイツ経済復興を決めた。1929年、総額を圧縮し、支払期間も延長した最終支払い案(ヤング案)が決定され、……)

 日本の九条のもとになった不戦条約については以下の記事がありります。

 1928年、フランスのブリアン外相と合衆国のケロッグ国務長官の提唱で、不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)が15カ国(のち63カ国)によって調印され、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないことがちかわれた。なお、ワシントン会議で残された補助艦の制限も30年のロンドン会議でまとまり、合衆国・イギリス・日本間での保有比率が決定した。

 世界恐慌のことは言及しなくていいでしょう。この問題は「秩序形成」までを問うているのであり、秩序崩壊を問うているのではないからです。


第4問
問(1) 「盟約」を一般に三頭政治と呼んでいるもの。「それまで国政に対して大きな権力と権威を行使してきた政治機構」とあるので共和政を導いてきた終身議員の集まりです。フォロ・ロマーノに降りていくと、左手に今でもその建物が残ってます。

問(2) 「1世紀終わり頃のローマ帝国の状況」についてセンター試験のような問い方です。
 (a) 「ポリュビオスが、ローマがいかにして地中海世界の覇権を握ったか」とはポエニ戦争のローマ帝国を描いているので、ポエニ戦争(前264〜前146、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂では、「二2浪6し4一1知4る6」)はいつだったか、という年代の問題でもあります。
 (b) 「グラックス兄弟が護民官となって、改革を始めた」も年代の問題。前掲書の語呂では「グラグラで倒1産3さ3」。これも紀元前2世紀。
 (c) 「帝国政治は比較的安定」はパックス=ロマーナ(ローマの平和)といい、五賢帝の時代が代表。語呂は「賢9六6、言1わ8れ0」で96〜180年。
 (d) 「キリスト教公認」はミラノ勅令だから、313年(語呂はミラノ、ミドミ♪)。センター試験でも必須の年代ばかりです。

問(3) 「娯楽のために建てられた重要な公共建築物」で、前に書いてある「フォルムや会堂、劇場や公共浴場」以外のものは、剣闘士(グラディエーター)が戦うのを見る場と言い換えてもいい。

問(4) 「ディオクレティアヌス帝は、……軍隊の反乱を防ぎ外敵の侵入に効果的に対処するための重要な措置」とは、4人の皇帝が抱き合っているような彫刻で示されている四分統治(四帝分治制(テトラルキア)。他に解答としては、国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に、それぞれの首都(宮廷)を置いたたこと、軍政と民政を分けたこと、もあげられます。

問(5) 「ゲルマン系の諸部族の中で、長い距離を移動して北アフリカに国を建てた部族」はセンター試験でも問われています。正文で「ゲルマン人の一部は、この海峡(ジブラルタル)を渡って移動し、北アフリカに進出した。(2000)」「建国した地域の名の組合せとして正しいもの 2)ヴァンダル族─北アフリカ(2002)」と。

問(6) 川の位置が分からなくても「カール大帝の重要な宮廷所在地」とあれば、ドイツ西端の都市しかない。ここでカロリング=ルネサンスが花咲いたところ。すぐ西にオランダのマーストリヒト市があります。アーヘンはラテン語の「アクア(水)」に由来しここに鉱泉が出ることから名付けらたらしい。

問(7) ピピンは東部をとりラヴェンナ寄進となったが、まだ西部は残っており、息子のカール大帝が都パヴィアを陥落させました。北イタリアのポー川流域全体をいう地名としても民族名は残っています。

問(8) 870年の条約は、ヴェルダン条約(843)とメルセン条約(870)はいっしょに「早84う三3つに離87れ0ろ」って覚えます(『ワンフレーズ』)。

問(9) 「13世紀頃に誕生……ケルンなども参加した」かどうか分からなくても「北ドイツの都市の一大同盟」とあればハンザ同盟しかない。

B
問(10) ルター派のスウェーデン国王は、グスタフ2世でもグスタフ=アドルフでもいい。軍事改革をおこなってスウェーデンをヴァイキング時代と同様の野蛮な国家にしたてた人物です。

問(11) ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約の政治的影響はいろいろあります。神聖ローマ帝国の有名無実化、領邦国家の確立、ドイツにも主権国家成立などです。ただ「領邦に主権を認めたことにより領邦国家の分立を招き」という解答(Y)はだめです。「分立」はすでに中世以来のことで、「招」いたのではありません。金印勅書・アウグスブルク和議があり、そしてこの条約によって内政・外交が全面的に領邦のものとなったので「主権」国家の成立です。ドイツ統一が2世紀遅れた、ともいわれる小国家乱立です。詳説なら「神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成がおくれていた。……ウェストファリア条約で終結し、ヨーロッパの主権国家体制は確立された」という説明が正しい。領邦絶対主義という表現を使う学者もいます。

空欄[a] 「同じ年、フランスでは……乱が勃発」とあるのでウェストファリア条約の1648年に起きた事件です。呼び名は子どもパチンコ(投石具)名からきています。

問(12) 『世界史叙説』のことは知らなくても、ルイ14世のときの王権神授説を唱えたのは誰か、という問。ボシュエ。国家主権論のボーダンと間違わないように(「ボー大な国家主権論」と覚える)。ボシュエは、「神は国王を使者としており、国王を通じて人びとを支配している」と述べているそうな。王権の神聖性を聖書を通して説教する宮廷教師でもありました。

問(13) 「コルベールが実施した経済政策」とあって、「東インド会社の再建(王立マニュファクチュアの設立)」は正しいが、マニュファクチュアに関してなぜ「王立」なのかは疑問です。用語集に載っているからそうしている、といえばそれまでですが、実は王立(出資金は全部宮廷の費用から)、国立(王宮と民間で半々)、特権(民間が全額)という3種類のマニュファクチュアがあり、どれを書いてもいいのです。重商主義といっても、重「商」主義だけでなく、重工主義政策(産業保護主義)もとっている、ということです。

問(14) 「米大陸に建設した都市をイギリスが征服」というアメリカ発の戦争がヨーロッパに波及して第二次英蘭戦争になった戦争です。ニューヨークと改名される都市のことです。

問(15) 「北米大陸以外の地域」とは、この百年戦争の中に七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)のときの地中海世界とインドでの争奪地、アフリカ南端があったからです。プラッシーの戦いはカーナティック戦争の一環でもあり、ベンガル(・ビハール・オリッサ)州の地税徴収権を得、事実上この地域の地主になりました。また地中海世界ではジブラルタル市、ミノルカ島があり、ナポレオン戦争までが百年戦争なので、ケープも獲得しています。「地域」とは曖昧な表現で、こういう具体的な地名をあげるのか、それとも予備校の解答のように「北米大陸」という前の表現に合わせ、「地域」といいながら大陸名をあげるのがいいのか、よくわからない設問文です。大陸名を要求したいなら大陸名を書け、と指示すればいい。

問(16) 「アシエント……交易が対象」と細かい設問です。奴隷供給契約のことですが、用語集では頻度2のデータです。出来なくても心配は要らない。たった1点です。

空欄[b] 「ルイ14世……1685年……フランス産業の停滞を招いた」とあれば、アンリ4世で発布、ルイ14世で廃止というナントの勅令です。語呂は「ド1ル6箱85捨てた」で。

C 
空欄[c] 「1683年の第2次包囲」とあるのでウィーンです。包囲の付いた世界史名称はこれしかないです。

問(17) カルロヴィッツ条約は、オーストリアがハンガリーを獲得した条約です。センター試験にもこの条約は出ました(2002)。

空欄[d] 「1774年のキュチュク=カイナルジャ条約」を知らなくても、「オスマン帝国領内に居住する[ d ]の保護権」とあればムスリムではない宗派の信徒を指すことばで、当然ながらロシアと同じ信仰をもつひとびとのことです。

問(18) 「ヨーゼフ2世が施行した政策」とは、詳説では「宗教面での寛容政策や農奴解放」と二つあげられていて、東京書籍は「信教の自由(宗教寛容令)や修道院の解散、さらに貴族の免税特権の廃止」と三つあげてます。

空欄[e] ギリシア独立戦争で義勇兵となったのはイギリスの「ロマン派詩人」で、センター試験では4回も出ています(1988,91,98,2004)。

問(19) (ア) 独立戦争支援3ヶ国「ロシアとフランス」以外なので、英国。

問(19) (イ) 「当初独立戦争支援に消極的であった理由」は細かい。しかし、これは現代にも通じる問いです。独立を支援すると自分とこの民族の自立もうながすことになり、またウィーン体制そのものも民族紛争に巻き込まれやしないかと懸念が走ります。ロシアのチェチェン、中国のウイグル自治区。トルコのクルド人地区があるため、余所の国の民族自決にはおいそれと拍手喝采はできない、という事情があります。大国意識の肥大したこれらの国々にとって民族自決は反乱・騒動・攪乱にすぎません。

問(20) 「1908年にはブルガリアも完全独立」と関連して「旧支配国における事件」はこの1908年に起きた出来事(語呂は「青年、徳19男0や8」)。

-+ ブルガリア、セルビア以外の国で「オーストリアと交戦する」ことになるのはどこか。ドナウ川を隔ててブルガリアの北に位置し、セルビアの東に位置している国です。ローマ帝国時代にダキアと呼んだところ。