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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1970

過去問 -東京大学

第1問

 以下の〔A〕〔B〕の問に対して、それぞれ指示された方法で答えよ。解答は、〔A〕は答案用紙(ト)、〔B〕は答案用紙(チ)の所定の欄に記入せよ。

〔A〕中国史における官吏任用制度の変遷の大要を、次の語句のすべてを番号順に使用して、300字以内の文章で説明せよ。句読点も1字に数える。

(1)世襲制(2)郷挙里選(3)九品中正

(4)貴族社会(5)試験制度の開始(6)科挙(7)殿試(8)元代(9)明代(10)


[B]次の文章の空欄の中に適当なことばを入れよ。

 イスラム教徒の文化は、西アジアを中心として、アジア各地に興亡した諸王朝や諸国家において発展もし、また、変化もした。始祖マホメットの死後、イスラム教徒は、(1)[   ]を政教の主とあおいで宗教的国家を形成した。(2)[    ]王朝は、バグダッドに都し、長安に都をおいた唐朝とともに、当時の世界文化の1つの頂点となった。この王朝の領域のイランを中心とする部分は、13世紀になると蒙古民族の支配下に入り、(3)[   ]国といわれ、次いで、14世紀の終りには、この国の豪族であった(4)[   ]の帝国によって征服された。 この帝国はインド北部をも勢力下においたが、その子孫と称するバーブルが、インドにムガール帝国を建てた。ムガール帝国の建設は、イランにおける(5)[  ]王朝の建国と同じ16世紀の前半であった。ムガール帝国のシャー・ジャハンが妃のために墓所として建てた(6)[  ]は、インドにおけるイスラム建築の代表で、世界的に有名である。インドはその後、イギリス支配の時代をすごし、第2次世界大戦後に独立したが、その際に、長年にわたるイスラムの影響がはっきりあらわれ、現在、インド共和国とパキスタン=イスラム共和国との二つに分れている。パキスタンの独立は、(7)[   ]を指導者とするイスラム連盟の団結によって、1947年に実現したのである。この1947年の前後の5年間(1945~1949)には、アジア全体にわたって、10数国が独立した。(8)[   ]を初代大統領として1945年に独立したベトナム民主共和国や、第1次世界大戦後はイギリスの委任統治の下にあり、1948年に独立した(9)[   ]共和国がその中に含まれる。 1949年に建国し、1956年に完全に独立した(10)[  ]共和国は、イスラム教徒の勢力の強い東南アジアの1国である。

 

第2問

 次の〔A]、〔B〕、〔C〕各問について答えよ。解答は、〔A〕と〔B〕は答案用紙(リ)、〔C〕は答案用紙(ヌ)の所定の欄に記入せよ。

〔A〕次の文章〔1〕~〔4〕の空欄(1)~(8)の中に適当なことばを入れよ。

 〔1〕共和政下のローマでは、紀元前(1)[   ]世紀の末にグラックス兄弟があいついで(2)[   ]となり、大土地所有者による公有地の占有を制限し、貧しいものに土地を与えて、中・小農民を育成しようとつとめた。

 〔2〕ヨーロッパ諸大学のうち最も古いものとしてボローニャ大学とパリ大学があげられるが、前者はとりわけ(3)[   ]研究の権威として知られ、後者はこれに対(4)[   ]の研究で有名であった。

 〔3〕1648年にドイツ(神聖ローマ帝国)では三十年戦争を終結させる(5)[   ]が結ばれたが、同じころフランスでは、高等法院の反抗に端を発する(6)[   ]の乱がおこった。

 〔4〕1824年以後従来のリパブリカンズは分裂し、その後(7)[   ]を中心とする反ジャクソン派は国民共和党を結成、これに対しジャクソンを支持する勢力は、のちの(8)[   ]の起源である民主共和党へと結集した。

 

〔B〕下記の6つの事項のうちから、1929年に始まる世界恐慌の影響を示すものを2つ選び、所定の解答欄(省略)に頭書の符号(イ)~(へ)で記入せよ。

  (イ)パナマ運河の建設 (ロ)フーヴァー=モラトリアム (ハ)ドーズ案      (ニ)ブロック経済 (ホ)ニュー=ディール (へ)ルール撤兵

 

〔C〕1792年8月10日の王権停止から1794年7月27日に至る、フランス革命の経過を簡単に述べよ。字数に制限はないが、欄外は使わないこと。(字数は500字として練習してみよ──中谷の注)

 

第1問に対する次の解答例を添削せよ(以下の解答例はたくさんの受験生の解答の中から、間違いや不足の部分を取捨選択して組み合わせた混合答案で、誰か一人の特定の答案ではありません)。自分の答案をつくってみてから、下の解答の添削と添削ポイントを読むと力(思考力)がつきます。

周代から春秋戦国を経て秦まで官僚は世襲制であった。前漢武帝が儒教にもとずいた推薦制の郷挙里選を実施し、豪族の子弟を官僚として登用した。これが三国時代の魏になり九品中正がおこなわれ、結果として門閥貴族社会を形成した。この推薦制の弊害が出てきたため隋から試験制度の開始となり貴族を制圧するために使用とした。唐は広く全国から人材を集めるために実施した。黄巣の反乱で貴族が消滅し、形勢戸を官僚とするため宋になると皇帝の最終試験たる殿試を設けたので皇帝独裁制が成立した。元代も中断はありながら科挙を実施した。明代になって科挙を復活した。清代は満漢偶数官制をしき科挙を実施した。1905年科挙が廃止された。(295字)

▲この解答の添削ポイント:

1 「秦まで官僚は世襲制であった」のではない。卿大夫を派遣して地方統治を任せたやり方(封建制)は春秋前半期で終わっています。

2 「唐」がたんに隋を受けたついだのではなく、ある皇帝(who?)から重用され科挙官僚が増えたことを指摘したい。

3 「明代になって科挙を復活」は正しいが、それだけでいいか?

4 「科挙を実施」は正しいがこれだけでいいか?

5 「1905年科挙が廃止」も正しいが、じゃその後、官僚はどのように採用することにしたのか?

 

ヒント1
(東京書籍の記事)明清時代には、中央・地方の国立学校に籍を置き、3段階の学校試験(これを学校試といいます──中谷注)に合格した者(生員)が、省都の貢院での郷試を受けることができた。

ヒント2

センター試験(1997)に次のような誤文がありました。

清朝は、洋務運動期に大規模な官制改革を行い、科挙を廃止して新式学校卒業者を官僚に採用することにした。

 この文章の中で「洋務運動期に大規模な官制改革を行い、科挙を廃止して」は時間的なまちがいですが、後半の「新式学校卒業者を官僚に採用することにした」は1905年以降であれば正しい文章でした。変法期に設立した北京大学(変法の唯一の成果)がすでにあります。