世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1973

第1問

 下記の語句はそれぞれA「コロナートゥス制の成立」、B「産業革命の諸条件」と題する二つの短文を作る為に要する語句である。これらの語句につき、下記の設問に答えよ。解答は答案用紙(イ)の所定の欄に記入せよ。

  農業革命 奴隷 営業の自由 移動を禁止 銀行業 農奴 植民地獲得競争 大所領 企業活動 イギリス 自由民 4世紀 海外市場 古代末期のローマ帝国 貨幣経済の衰退 賃労働者

〔設問〕

(1)上記のすべての語句を、A題の短文を作る為の語句と、B題の短文を作る為の語句とに分類せよ。ただし各々の語句は、どちらか一方にのみ分類できるものとする。解答は解答欄(甲)に記されている各語句の下にA・Bの記号で記入せよ。

(2)A・B両題につき、各々、6行以内の文章を作れ。句読点も一字に数える(1行につき、30字のワクが設けられている)。ただしA題の文章には〔設問〕(1)への解答においてAに分類したすべての語句を用いることとし、B題の文章には同様にBに分類したすべての語句を用いることとする。語句の使用の順序は任意とし、同一語句を何度用いてもよい。指定した語句を使用した箇所は下線をつけよ。解答は解答欄(丁)に記入せよ。

 

第2問

 つぎの(1)~(5)の歴史的記述のそれぞれに誤りがあるか。もしあれば、それを指摘し、誤りと思われる理由を明らかにせよ(解答は答案用紙(ウ)の欄に(1)~(5)の番号順にそれぞれ改行して60字以内で記すこと。なお或(あ)る歴史的記述に誤りが多数見いだされた場合には、その中で重要なもの2つだけをとりあげればよい)。またもし誤りがない場合には、その番号の後に「正」とのみ記入せよ。

 

(1)中国内部における漢民族の大規模な移動としては、4世紀の晋の南遷と、11世紀の宋の南遷との2つを挙げることができる。これによって華北の人口の多くが華南に移動し、華南の文化がいちじるしく発達した。これを代表的な文化人についてみても、王羲之・王献之・顧ガイ之・陶潜などは南方の人であり、南宋時代には、それまで文化の低かった福建方面の開発がいちじるしく進み、何人かの著名な人物か出ている。例えば朱熹のごときがそれである。この2つの時期の漢民族の移動は、中国内部における漢民族の文化の普及と平均化とを促したものであるが、その移動が、漢民族が漢民族を圧迫した結果である点も共通している。華北は元来漢文明の起源したところで、ながらくその中心として栄えたが、こうした移動の結果として、華南が文化・経済その他多くの点において華北を凌駕(りょうが)するようになった。

 

(2)現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルをひとまとめにした地域は、「歴史的なシリア」と呼ばれたりする。人々にとっては、ときとして、憧れの土地というものがあるが、この「歴史的なシリア」ほど、久しく、かつ強烈に人々の心をひきつけ、とらえて離さなかった場所はまれである。古くからこの土地への旅行者は数多く、ときには大規模な移住・植民運動も組織された。十字軍にもそれがともない、19世紀末以降のシオニズム運動はまさにそれであった。こうして20世紀においては、とくに西欧から移住した人口のきわだった増大がみられるのである。歴史をつうじて、この土地では、世界各地の人々があいつどうこととなった。イスラム教徒はことさらこの土地に巡礼することはしなかったが、キリスト教徒・ユダヤ教徒の巡礼はみなここを目ざしたのである。トルコ人がこの上地の支配者として現れるかと思えば、スラブ人やアフリカ人が奴隷として連れてこられることもあった。しかし、この土地は人々を受けいれるだけではなかった。フエニキア人が地中海に進出していったのも、ユダヤ人のいわゆる「離散」も、この逆の場合を示している。この土地のこのような性格は、古代において、アッシリアとエジプトとの角逐(かくちく)の場であり、ローマ帝国とイラン人の国家との接点であり、またウマイヤ朝時代に中央アジアからイベリア半島までを見渡す政治的中心となったのち、やがて十字軍戦争の戦場となり、さらにマムルーク朝とモンゴル勢力との境界をなしたというように、この土地が歴史的にたえす「2つの世界」の交錯の場であったこととも関係しているのである。

 

(3)16~18世紀の「新世界」には新しい鉱山業や農園が大きく発展した。その産物は多数あったが、この時代にヨーロッパヘ輸出されたのは、ほとんど銀だけであり、これに対して、ヨーロッパからは毛織物などが輸入された。これら新産業の開発のためには、ヨーロッパからの移民が大きな役割を果したが、しかし同時に、アフリカから来た黒人たちのことも労働力供給源として忘れてはならない。これら黒人たちは、「新世界」につくと商品として売買され、買いとった所有主の意のままに労働を強制され、人格を認められなかったから、世界史上いわゆる「奴隷」の典型的な一例となっている。そこで、アフリカから「新世界」への黒人の輸送も、「奴隷貿易」と呼ばれることが多い。しかし、アフリカから送り出される時をとってみると、その土地の住民が商品として売買される場合はきわめて少なかった。ふつうはヨーロッパ人「奴隷商」がみずから内陸人口を狩り出して、暴力的に連れ去ることが多く、ときには、だまされた黒人が、なかば自発的に移民として出発することもあったのである。

 

(4)18世紀末からオーストラリアに向けてイギリス人移民が送り出されはじめたが、19世紀に牧羊業・鉱山業が発展すると、この地の植民地は急激な成長をみせ、この世紀半ばすぎには、ついにイギリス帝国内の自治領としての地位をもつオーストラリア連邦が誕生した。ちょうど中国に太平天国の乱が、インドにセポイの反乱が起っている時のことであった。その後、オーストラリアはアメリカ合衆国・イギリス・ドイツ・フランスなどとともに南太平洋の諸島の分割に加わり、ニュージーランドやニューギニア東部を領有することになった。これに対して、アメリカ合衆国は、あらたに領土に加えたハワイを基地として幕末の日本に開国を迫り、世紀末の米西戦争によってフィリピン・グアムを支配下に収め、1899年にはヘイの門戸開放宣言によって中国への関心の強さを示した。その他、イギリス・ドイツ・フランスなども、つぎつぎに南太平洋の諸群烏の領有権を主張し、19世紀末までに太平洋地域の諸島は列強によって分割領有されることとなった。このような形勢のなかで、太平洋諸攻城に対する移住民もしだいに数を増した。ハワイヘの日本人移民も、すでにこのころから現れている。

 

(5)16・17世紀以降の世界史でも、民族ないし国民の一部が,母国を離れて新しい土地に移住する例は多い。しかし、19世紀に入るまで、アジア諸国民の移民の例は少なかった。ところが、19世紀の前半、イギリス帝国内の奴隷制が廃止され、奴隷貿易の世界的な縮小がみられるころ、中国・インドなどからの移民かにわかに登場してきたのである。この場合、移住先が東南アジア方面に集中したことは注目に値する。中国人にとって東南アジアは地理的にも近く、関係か深かったから、ここに移住していわゆる「華僑」となるものが多かった。インド人にとっても、この方面は仏教伝播を通じてなじみの深い土地だったから、多くのインド移民がここへ住みついた。この背景には、19世紀中頃から急激に東南アジアにゴム園が発展したという大きな事実がある。ここに生み出された労働力需要に応ずるために、多数の移民がこの方面に入植したのであった。東南アジア以外のアジア・アフリカ地域への移民がまれであった理由も、東南アジアにおけるゴム園の急発展によるこの労動力需要の大きさに求むべきであろう。

 

第3問

 次のA・Bの各問に答えよ。解答は答案用紙(エ)の欄に、1~10の順に記入せよ。

A 次の文章1~5は、束アジア史上で活躍した王朝・国家の衰退・滅亡についてきまざまな立場からのべたものである。それぞれの文章をよく読み、衰退・滅亡した王朝・国家の首都としてもっとも適当な地名を、各文章につき一つずつ下記の語群からえらび、その記号で答えよ。

 

1. 閏(うるう)11月、文天祥らを捕える。12月、来年度の暦を高麗にたまわる。翌年正月、蒙古漢軍都元帥のひきいる軍兵が崖山に至り、この国の軍隊をおおいに破る。2月、皇帝が臣僚と水に入り、溺死する。同月、日本征討のため、戦船の建造を命じる。

2. さきの高句麗遠征の失敗にかんかみ、高宗はこの国から討伐することにし、左武衛大将軍らに命じ、水陸軍十万の兵を送った。彼らはこの国をおおいに打ち破り、国王ら多数の捕虜を都につれ還った。この国はもと5部にわかれていて,37郡・76万戸を統治していたが、ここに至り、この地に熊津・馬韓など5都督府が置かれることになった。

3. 正月、魏王がみまかり、その子の丕(ひ)がその位をひきつぐ。10月、皇帝は位を魏王に譲る。翌年、ついに天下が三分する。

4. 宋が政治を誤ったので、天はその祀(まつり)を絶ってしまった。それに代ったこの国はわれわれと種類が異なるものどもであるが、天命によって統治してから百年以上もすぎた。だがこのような不当なことは永く続くはずもなく、天はまたその命を絶ってしまった。しばらく華・夷の対立か続いてきたが、朕(ちん)はあの蕃人どもを追いはらい、中国の領土を回復し、今年正月皇帝となったのである。

5. 10月、都の周辺地域ですら他人の領土となり、国勢もすっかり弱化したので、降伏すべきかどうか、もはや決断をせまられるにいたった。翌11月、国王はついに帰服を決意し、官人らを従えて、住みなれた都を後にした。華美な車馬の列は30余里も続き、やがて王建が定めた新しい都に入っていった。

 語群

 ア.長安 イ.洛陽 ウ.平壌 エ.大都 オ.寧波 カ.臨安 キ.ベン京(開封) ク.シ(さんずい偏+四)ヒ(さんずい偏+比)(扶余) ケ.開京(開城) コ.金城(慶州) サ.平城(大同) シ.建康(南京)

 

B 次の文章を読み、6から10までの空欄に適当なことばを入れよ。ただし、6には地域名または国名を、7と8とには都市名を、9には省名を、10には国名を入れること。

 1919年、朝鮮では三一運動が起り、中国では五四運動が起った。このころインドにおいても民族運動がさかんになるか、その指導者となったガンディーは、1893年から1915年まで[ (6) ]に滞在して、その地のインド入に対する抑圧とたたかっていたのであり、そのときの経験がインドにおける運動に役立ったと思われる。

 さて、五回運動当時の中国においては、孫文はすでに広東から[ (7) ]に来ており、革命運動の再出発を考えていた。魯迅は[ (8) ]に住み、文学創作活動をしていたけ狂人日記」の発表は1918年であるに毛沢東は郷里の[ (9) ]において、学生運動、あるいは、初期的な革命運動をしていた。ひとり郭沫若は、[ (10) ]にあって、医学を学ぶかたわら、文学創作活動をも始めていたのであった

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(わたしの解答例)

第1問  

(1)農業革命─B 奴隷─A 営業の自由─B 移動を禁止─A 銀行業─B 農奴─A 植民地獲得競争─B 大所領─A 企業活動─B イギリス─B 自由民─A 4世紀─A 海外市場─B 古代末期のローマ帝国─A 貨幣経済の衰退─A 賃労働者・─B

(2)(A)奴隷労働によって経営していた大所領では、奴隷制がゆきづまると奴隷を解放して小作農とし、一方で没落した自由民との両者が合わさったコロヌスが農業生産の主要な担い手となった。4世紀初め勅法によってコロヌスの移動を禁止したためコロヌスの上に立つ大所領経営が古代末期のローマ帝国に普及した。この自給自足的な経営は貨幣経済の衰退を促し、コロヌスは農奴の起源となった。

(B)農業革命賃労働者をつくり食糧を提供し、重商主義の法規制はイギリス革命によって解消され、営業の自由が実現した。革命後に創設されたイングランド銀行などの銀行業が資金提供で企業活動を支えた。また植民地獲得競争の勝利は広大な海外市場と原料の棉花も提供してくれた。なにより植民地インドからキャラコが輸入されて毛織物工業を脅かしたことが技術改良を重ねさせた。


第2問 (解答とコメント)

(1)11世紀ではなく南宋の成立は1127年ですから12世紀のまちがい。文章中の「華南」は「華中」か「江南」でなくてはならい。華北は黄河流域、華中は長江流域、華南は珠江(河口に広東あり)です。漢民族が漢民族→異民族(遊牧民・狩猟民・北アジア民族)が漢民族でなくてはならない。

(2)「20世紀」のあとの「とくに西欧から移住した」は東欧のまちがい。アッシリア→ヒッタイト。

(3)「ほとんど銀だけ」とあるが、西インド諸島などではプランテーションによりサトウキビ・タバコ・コーヒーを栽培しをヨーロッパへ輸出していた。「ヨーロッパからの移民」の他にインディオの労働も。「ふつうはヨーロッパ人「奴隷商」がみずから内陸人口を狩り出して」はすべてまちがい。ヨーロッパ人は奴隷を買うが、売るのは黒人国家で、狩り出してくるのは黒人たち。黒人が黒人をつかまえて白人に売っていた。こういう黒人を売る黒人国家として知られているのはヨルバ、ダホメー、アシャンティが知られてます。

(4)「中国に……セポイの反乱が」とあるが、これらは19世紀半ばで、オーストラリア連邦が成立するのは20世紀初頭である。「ニュージーランドやニューギニア東部を領有」とあるが、これらはイギリスの植民地であり、オーストラリアは領有していない。ハワイ領有と米西戦争も順序が逆。他に末尾の、ハワイへの日本人移民の最初は「元年者」という言い方があるよに世紀末ではなく、会津藩のひとたちが1868年にハワイに渡った。

(5)「仏教伝播を通じてなじみが深く」とあるが、むしろヒンドゥー教。他に、中国人は19世紀になってから東南アジアに移民した、というより16世紀の海禁緩和(1567年)から多くなっていること。「アフリカ地域への移民がまれ」はまちがい。「ガンディーは、南アフリカでのインド人移民への差別撤廃運動に勝利して1915年に帰国し、熱狂的な歓迎をうけていた。」と詳説世界史の注にあるように南アフリカに行っています。


第3問 
A 1 カ(勝利した元朝の都。問題は「衰退・滅亡した王朝」とあるので南宋の都)  

2 ク(アも勝利した唐になっています。負けたのは百済、その都・クは細かい)  3 イ  

4 エ(シは南朝の斉ととったのかも知れません。資料文の「宋が政治を誤った……われわれと種類が異なるもの……華・夷の対立……蕃人ども追い払い」から元朝のこと、都はエ)  

5 コ(勝利国の都です、敗戦したのは新羅、その都はコ。)

B (6)南アフリカ (7)上海 (8)北京  (9) 湖南(省)  (10)日本(福岡の九州大学医学部)