世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1974

第1問

 下記の語句を番号を付したまま、その順序どおりに使用しながら、10世紀における東アジア(中国・朝鮮半島・ヴェトナム・日本)の諸国家の興亡・変動を300字以内の文章で説明せよ。句読点も1字に数える。1度使用した語句は、そのあとで、かならずしも順序によらずに、何回使用してもよいが、順序どおり最初に使用したとき、その語句を下線を引いて明示せよ。それ以外のばあいには、番号を付したり、下線を引く必要はない。

 解答は答案用紙(ア)の所定の欄に記入せよ。

(1)朱全忠 (2)五代十国 (3)趙匡胤 (4)耶律阿保機 (5)渤海 (6)燕雲十六州 (7)新羅 (8)王建 (9)ヴェトナム (10)天慶の乱

 

第2問

 つぎのA・Bの各問に答えよ。解答は答案用紙(エ)の所定の欄に記入せよ。

A つぎの(1)~(5)の各文章における選択肢(a)~(c)のうち、正しいものを(a)、(b)、(c〕の符号によって解答欄に記入せよ。

(1) 古代におけるカルタゴは

(a)フェニキア人の植民市で、2度にわたるポエニ戦争によってローマに滅ぼされた。

(b)フェニキア人の植民市で、3度にわたるポエニ戦争によってローマに滅ぼされた。

(c)ギリシア人の植民市で、2度にわたるポエニ戦争によってローマに滅ぼされた。

 

(2) 中世ヨーロッパ都市における同職ギルドは

(a)構成員以外の者の営業を禁止し、構成員についても種々の統制をくわえた。

(b)構成員以外の者の営業を禁止したが、構成員については自由な競争を認めた。

(c)構成員以外の者の営業を放任したが、構成員については種々の恩恵を与えるとともに統制をくわえた。

 

(3) イギリスにおける修道院の解散は

(a)カルヴィニズムの教義にもとづいておこなわれた。

(b)貧民増加の主要な原因となった。

(c)土地所有関係の変動をもたらした。

 

(4) 1789年のフランスの三部会は

(a)王権が特権身分の力に屈したことによって召集された。

(b)王権が第三身分の要求に屈したことによって召集された。

(c)特権身分が第三身分の力に屈したことによって召集された。

 

(5)1848年にアメリカ合衆国がカリフォルニアを獲得したのは

(a)フランスからであった。

(b)メキシコからであった。

(c)イギリスからであった。

 

B. つぎの文章を読み,(1)から(6)までの空欄に適当なことぱを入れよ。また下線部分(7)について下記の設問に答えよ。

  オーストリアは,[ (1) ]がオット1面によって撃退されたのも,この外敵に対する防壁として設けられた辺境碩に起源をもつ。15世紀いらい代々の皇帝を出した[ (2) ]の支配のもとマ,オーストリアは大いに領土を拡大したが,他方では,そのころ東方から進出してきた[ (3) ]によって,しばしば脅かされた。宗教戦争の時代にオーストリア政府はカトリシズムを強制しようとしたため,1618年,その属領の[ (4) ]ブロテスタントの反乱がおこり,[ (5) ]戦争へと発展した。 18世紀後半には,オーストリアは,典型的な(7)啓蒙絶対主義(啓蒙専制主義ともいう)と目される[ (6) ]の治世をむかえた。

 〔(7)についての設問〕

 この啓蒙絶対主義の特色を,17世紀の絶対主義(たとえばルイ14世のフランス)との比較を念頭におきながら,150字以内で記せ。句読点も1字に数える。

 

第3問

 つぎの文章を読み,後の設問に答えよ。解答は答案用紙(オ)の所定の欄に記入せよ。

  アジア・アフリカの民族運動は,19世紀末の20年間に開花しはじめたといえよう。1894~95年の戦争で日本に敗北し,その結果ヨーロッパ諸国による領土分割の危険にさらされた中国では,民族主義による反撃が開始された。エジプトではパ881~82年アラービー・パシャの反乱が発火した。インドでは、1885年インド国民会議か結成されたが,民族意識がいちじるしくたかまったのは(a)1905年以後である。1878年のベルリン会議で(b)帝国解体の過程かはじまったオスマン帝国では,やがて青年トルコ党が1908年の革命を準備していく。これらは歴史の流れの大きな曲りかどである。ふるい性格の反乱は,インドのセポイの反乱(1857~58年)にしても,1881年チュニジアがフランスの保護領となる前後の(c)北アフリカのサヌーシー派運動にしても,英雄的ではあるが絶望的な抵抗であった。中国の義和団事件が明らかにしたように,(d)武装蜂起によってヨーロッパ人の支配を転覆するという目標は,かならずしも達成の見込みがなかった。あたらしい運動は,内側からの浸蝕によって,外国支配をしだいに消滅させることをめざしたのである。それはまず,民族の過去の偉業を精神的支柱としていた国々におこった。これらの国々は,比較的早い時期にヨーロッパ人との(e)(f)貿易にたいして門戸をひらくことを余儀なくされ,資本主義の衝撃をうけた結果,すでにはげしい(g)社会的変動を経験していた。その他の地域では,19世紀末には,民族運動勃興の条件はまだ十分には熟していなかった。サハラ以南のアフリカでは(h)ヨーロッパの投資がきわだって大きくなるのは第一次世界大戦後であり,民族運動がさかんになるのは1930年代以後である。

 

〔設問〕

(a)1905年とは,ベンガルをめぐって重要な事件がおこった年である。この事件を含めて,18世紀後半から現在にいたるベンガルの歴史をふりかえり,そのなかで重要だと思うことがらを箇条書きの形で4つあげよ。

(b)ベルリン会議では,(ア)セルビア,(イ)モンテネグロ,(ウ)ルーマニアの3国が独立し,(エ)ブルガリアは自治国となり,オーストリア・ハンガリーは(オ)ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を得,イギリスは(カ)キプロスの管理権を得ることがとりきめられた。地図上のアルファベットの文字によって,上記(ア)~(カ)の位置を示せ。

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(c)下記の文章の空欄(ア)~(エ)をうめるために適切な語または数字を記せ。

  チュニジア以西の北アフリカは,アラブの支配下にはいってからも[ (ア) ]人の世界であった。フランスは1830年以降アルジェリアを植民地化したが,モロッコについては,1912年,[ (イ) ]とのあいだでこれを分割して保護領とした。サスーシー派は,1912年以来うちたてられた[ (ウ) ]の植民地支配に抗して,やがて1951年にはリビア王国をきずきあげた。リピアのこの立憲王創は,[ (エ) ]年,革命によって廃止された。

(d)欧米人または欧米系の支配にたいするアジア人・アフリカ人原住民の武装蜂起で,1895~1902年の期間に鎮圧されたもののうち,代表的な例を1つあげよ。

(e)治外法権を主要な内容とするキャビトゥレーション(Capitulations)は,欧米諸国がアジア諸国にたいして不平等条約をおしつける場合に,その原型となった。はじめて西欧諸国とのあいだにキャビトゥレーションをさだめた国の名を記せ。

(f)1840~60年の期間において,中国がヨーロッパ人との貿易に門戸を開くことを余儀なくされていく過程をあらわす条約を4つあげよ。歴史上いいならわされた条約名を締結の順序にしたがって記入すること。

(g)19世紀オランダ領東インドで実施された代表的な経済制度はなんと呼ばれているか。

(h)1880年代以後のアフリカで,ヨーロッパの投資が主としてどのような商品にむけられることになったかを考え,下記の語のなかから適当なものを選んでアルファベットの文字で示せ。2つ以上あるときはアルファベット順にならべること。

 A.ココア B.あい(藍)C.牛肉 D.金 E.ダイヤモンド F.奴隷

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[第一問の解き方]
  10世紀の興亡を書くのは容易ですが、変動という10世紀に含まれた前後の時代の大きな変化はなかなか書きにくい。つまり貴族政治から武断政治へ、地方から中央へ、封建的・分権的なありかたが中央への集権化という大きなうねり〔変動〕があります。中国・朝鮮はとくにこの傾向が見られます。この時期のヨーロッパやイスラム世界のように分裂の傾向がますます顕著になる傾向とは逆です。

 日本史は知らないというひとに。「天慶の乱」は山川の『詳説日本史』ではこうなっています。「10世紀に地方政治が大きく変質していくなかで、各地に成長した豪族や有力農民は、勢力を拡大するために武装し、弓矢を持ち、馬にのって戦う武士となった。彼らは、家子とよばれる一族や郎党などの従者をひきいて、たがいに闘争をくりかえし、ときには国司に反抗した。

 やがてこれらの武士たちは地方の豪族を中心に連合体をつくった。とくに辺境の地方では、旧来の大豪族や、任期終了後もそのまま任地に土着した国司の子孫などが多く、彼らを中心に大きな武士団が成長しはじめた。なかでも関東地方は、古くから蝦夷征討の基地であり、また良馬を産したところから、武士の成長が著しかった。

 関東の地にはやくから根をおろした桓武平氏のうち、平将門は下総を根拠地にして一族と私闘をくりかえすうちに、国司に反抗していた豪族と手を結び、 939(天慶2)年に反乱をおこした(平将門の乱)。将門は常陸・下野・上野の国府をせめ落とし、関東の大半を征服して新皇と称するに至ったが、同じ関東の武士の平貞盛・藤原秀郷らによって討たれた。」

 

(わたしの解答例)

第1問

中国では唐の貴族が没落し(1)朱全忠が後梁を建国、(2)五代十国時代を始めた。宋を建てた(3)趙匡胤は五代皇帝たちの権力を吸収し、文人によって皇帝独裁官僚制を形成した。内蒙古で建国した契丹族は(4)耶律阿保機のもとに北朝鮮や中国東北の(5)渤海を滅ぼし、次いで(6)燕雲十六州を後晉から獲得し、浸透王朝に代わる征服王朝の登場となった。朝鮮では(7)新羅の統一が崩れ(8)王建により高麗が新たな統一者となった。貴族に代わり豪族・武人の支配がはじまった。五代十国の混乱の機会に丁朝大越ができ(9)ヴェトナムでは中国支配から独立を達成した。日本では藤原純友や平将門が 10)天慶の乱をおこし中央の貴族にかわる地方武士の台頭が明らかとなった。

第2問

A(1)b (2)a (3)c (4)a (5)b

B(1)マジャール人 (2)ハプスブルク (3)オスマン帝国 (4)ボヘミア (5)三十年 (6)ヨーゼフ2世

C 啓蒙絶対主義は多民族の帝国を築き、工業も市民階級も未成熟であった。国際的には産業革命、米仏市民革命の脅威がせまっていた。そのため工業育成・農奴解放・宗教寛容策をうちだした。ルイ14世は民族問題をもたず、革命の圧力はなく、農奴解放はせずナントの勅令を廃止した。だが農奴制と議会政治の不在は共通する。

第3問

(a)東インド会社がベンガル地方の徴税権獲得、ベンガル分割令、パキスタンの独立、東パキスタンがバングラデシュとして独立。

(b)(ア)G (イ)I (ウ)E (エ)F (オ)H (カ)N

(c)(ア)ベルベル (イ)スペイン (ウ)イタリア (エ)1969

(d)義和団事件(アギナルドの乱/フィリビン・アメリカ戦争) 

(e)オスマン帝国 

(f)南京条約、望厦条約、黄埔条約、愛琿条約 

(g)強制栽培制度 (h)A、D、E