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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1975

第1問(論述問題集は第3問)

 つぎの(A)・(B)の各問に答えよ。解答は答案用紙(ニ)の所定の欄に記入せよ。

(A)つぎのa~eの各文章を読み、解答をア、イ、ウ、……の符号で記入せよ。

a. ペイシストラトス(ビシストラトゥス)が独執権を握ったのは、ポリスの危機を救うためであったと言われるが,この「ポリスの危機」とは、つぎに挙げるア~オのうちのどれか。正しいもの2つを選べ。

 ア.ポリスの民主政治が極端に走り、衆愚政治になってしまった。

 イ.債務を返済できないで奴隷身分に落ち込むような貧困化した市民がふえた。

 ウ.ソロンの改革にもかかわらず、富裕な貴族と平民との対立がなかなか解消せず、外国に領土を奪われるような対外危機も生まれた。

 エ.ペルシアとの戦争で軍艦の漕ぎ手として活躍した無産市民の発言権が増大し、貴族がこれを抑え切れなくなった。

 オ.激化した貴族と平民の対立に対して、負債の帳消しをして市民の奴隷化を防止したり、平民でも財産のある者にはより多くの権利義務を与えるなどの改革が行なわれたが、対立は解消しなかった。

 

b.第1次ポエニ戦争の終結から第3次ポエニ戦争の終結までのおよそ100年間は、ローマがイタリア半島の覇者たるの地位から、スペイン・北アフリカからギリシア地方までをその支配下に収めた地中海の雄たる地位にまで飛躍した、一大興隆期であった。この時期のローマ国内の状態についての記述として、つぎのア~カのうちから、正しいものを2つ選べ。

 ア.ローマ国防の主力をなした農民の重装歩兵が健在で、元老院貴族の権威に対して、これらの農民の意思決定機関であった民会(平民会)の実力は高まった。

 イ.海外での長期の戦争に重装歩兵として従軍した農民の中には、農地経営に行きづまり、土地を手放して無産者となる者か増加した。

 ウ.海外への発展の反面、国内では貧富の差が激しくなり、支配者層も閥族派と平民派にわかれて争った。

 エ.ローマの国威発揚とともにローマの伝統的文化に対する復古的風潮が流行し、ローマ建国叙事詩『アエネーイス』や、リウィウスの『ローマ史』などの作品が生まれた。

 オ.ローマの奴隷制度は最盛期を迎え、奴隷の扱いも苛酷を極めたため、地中海各地に奴隷反乱が起こったが、なかでもイタリア半島に蜂起したスパルタクスの乱は特に甚だしくローマ人を恐怖に陥れた。

 カ.海外領(属州)の総督を勤めた政治家や、海外領の租税徴収を請け負った事業家たちが、大いに私腹を肥やし、その、資金でイタリアの没落した農民の農地を買い集めた。

 

c.ローマ帝国の領土がローマの歴史上最大となった一時期についての記述として、つぎに挙げるア~カのうちから、正しいもの3つを選べ。

 ア.帝国領土が余りにも広大となり、国境への外民族からの圧迫も強いので、帝国領土は4人の皇帝に分けて治められた。

 イ.今日のルーマニアの大部分もすでにローマの領土に組み入れられていた。

 ウ.今日のイラクの1部も、ローマの領土に合まれていた。

 エ.今日のポルトガルのリスボンは、ローマ頓に含まれていなかった。

 オ.当時は「ローマの平和」とたたえられた時代であったが,時の皇帝の治世を通じて、ローマの対外征服戦争は激しく続けられた。

 カ.今日のアイルランドも、すでにたびたびの遠征によってローマ領となっていた。

 

d.ローマ教皇レオ3世がフランク王カール(チャールズ)に皇帝の冠を授けた事件は、西ローマ帝国の復興と呼ばれている。この事件をめぐる記述として、つぎに挙げるア~オのうちから、正しいものを2つ選べ。

 ア.東ローマ皇帝レオ3世の発した偶像禁止令に賛成でなかったローマ教会が,教会の上に立つ東ローマ皇帝から分離し、保護者として別の政治勢力と結ぼうとしたことが、この事件に際しての教皇側の動機の1つだった。

 イ.西ヨーロッパを統合する安定勢力になりつつあったフランク王国が、サクソン族・アヴァール族を討ちロンバルド(ランゴバルド)王国を討ち滅ぼすための精神的権威と大義名分を得ようとすることが、この事件に際してのカール側の動機の1つだった。

 ウ.この事件の当時、フランク王国はサクソン族・アヴァール族と境を接し、スペインには西カリフ国が、イタリアにはロンバルド(ランゴバルド)王国があった。

 エ.この事件によって教皇は政治的には所期の目的を達したが,そのころ教会はかつての時代とは違って経済的に裕福であったため,聖職売買などさまざまな弊害が生じ、クリュニー修道院を中心とする改革運動が激化しつつあった。

 オ.この事件の結果、キリスト教世界はやがてローマ=カトリック教会とギリシア正教会に分裂する道を辿り、文化的にも政治的にも西ヨーロッパが東ヨーロッパとは異なる歩みを明瞭にとることになる。

 

e.第4回十字軍は十字軍の中でも、十字軍の性格がはっきり変質した曲り角とも言われるが,それに関連した当時の状況の記述として、つぎに挙げるア~オのうちから、正しいものを2つ選べ。

 ア.この十字軍は、ヴェネツィア商人の商権拡張策に利用され,聖地奪回の目的をすて、ヴェネツィアの商敵コンスタンティノープルを陥れ、そこにラテン帝国をたてた。

 イ.この十字軍の失敗で時の教皇の権威は失墜し、フランス王フィリップ4世によって教皇庁はアヴィニョンに移された。

 ウ.これ以後、十字軍は二度とふたたび聖地を奪回することはできなかった。

 エ.このころ、インノセント(インノケンティウス)3世のもと、教皇の権威は絶頂に連していた。

 オ.そのころ、ハンザ同盟は数十の加盟市を数えて勢力の絶頂にあり、北海.バルト海を中心にしてめざましい貿易活動を展開していた。

 

(B)つぎのa~eの文章は、或る地域の一時期のでき事について語っているが、地名の部分が空欄になっている。おのおのの文章について設問に答えよ。

 〔設問1〕下記(ア)~(テ)の地名辞の中から空欄に相当する適当な地名をそれぞれ1つ選んで、解答欄〔設問1〕のa~eの下に(ア)、(イ)、(ウ)、………の符号で記入せよ。

 〔設問2〕設問1で解答したおのおのの地名に該当する地域の別の一時期の歴史に問する叙述としてもっとも妥当なものを、下記(ト)~(ヘ)の文章の中からそれぞれ1つ選んで、解答欄〔設問2〕のa~eの下に(ト)、(ナ)、(ニ)、(ヌ)……の符号で記入せよ。

 a. 15世紀初頭、[   ]のフスは、ローマ教会に対する批判を展開し、やがて異端として処刑されたが、その後も彼の支待者たちの反乱が続いた。

 b.1877年の露土戦争のきっかけとなったのは、[   ]の住民のトルコに対する反乱だったが、彼らの独立運動は翌年のベルリン会議で挫折させられた。

 c.アメリカは、[   ]の独立運動を機として、1898年、スペインに宣戦布告し、戦勝の結果、フィリピンなどを獲得した。

 d.ドイツのヴィルヘルム2世は、フランスが[   ]の権益をめぐってイギリスなどと協定を結んだことに干渉し、1905年に示威運動を起こしたが、結局、外交上の孤立を招くことになった。

 e.ベルギーは、それまで同国国王のいわば私有財産だった中央アフリカの植民地[   ]の大部分を、1908年に国家の経営に移した。

  (ア)アルジェリア (イ)ベッサラビア (ウ)ボヘミア  (エ)ボスニア=ヘルツェゴヴィナ (オ)コーカサス (カ)チリ (キ)コンゴ  (ク)キューバ (ケ)ダルマチア (コ)リビア (サ)メキシコ  (シ)モンテネグロ (ス)モロッコ (セ)ナイジェリア (ソ)プエルト=リコ  (タ)ローデシア (チ)セネガル (ツ)シュレージエン(シレジア)  (テ)トランシルヴァニア

 (ト)この地域では、1959年に独裁政権が革命によって打倒され、新しい社会主義政権をめぐって、1962年にはアメリカとソ連邦の間で緊張が極度に高まった。

 (ナ)この地域は、18世紀半ばのオーストリア継承戦争の結果、プロイセン(プロシア)の領有するところとなった。

 (ニ)この地域を含む国家を、ヒトラーは1939年に武力侵略によって解体させた。

 (ヌ)この地域においては、スペインもその一部に権益を有した。1936年、この地で反乱を起こしたフランコ将軍は本土に進撃し、スペイン内乱が始まった。

  (ネ)この地域は、第2次世界大戦後、中央アフリカ連邦に属したが、やがてその北部は1964年に独立してザンビア共和国と称した。

 (ノ)この地域にあった国家は,1912年、バルカン同盟に参加してトルコと戦った。その後、第1次世界大戦を経て、のちのユーゴスラヴィアの一部となった。

 (ハ)この地域では、社全主義を目ざす政権が1973年に軍事クーデターによって崩壊し、新政権はアメリカとの関係の回復に努めた。

 (ヒ)この地域では、レオポルドヴィル(1966年、キンシャサと改称)を首都として、1960年に独立国家が樹立されたが、数年にわたる激しい動乱を経験しなければならなかった。

 (フ)この地域を、オーストリアは1908年に併合し、それによって生じた問題は第1次世界大戦の導火線に連なっていった。

 (ヘ)この地域では、とくに1950年代より民族解放運動が盛んになり、1962年、フランスからの独立という目的を達成した。

 

第2問

 つぎの(A)、(B)の各問に答えよ。解答は答案用紙(ホ)の所定の欄に記入せよ。

(A)つぎの文を読んで下記の設問a~hに答えよ。

  インドとローマ帝国との間のアラビア海を通っての交易は、紀元1世紀中葉に、[ (イ) ]急激に増大した。『エリュトゥラー海案内記』という1世紀に書かれたギリシア語の航海書や、紀元2世紀のアレクサンドリアの天文学者である[ (ロ) ]の著作には、当時のインドについてのかなり正確な記事が存在している.そして実際に、インド、とくに(ハ)デカン高原以南の半島部から、多量のローマの金貨・陶器・ガラス製品など地中海沿岸からもたらされた商品が出土している。インドの港からは、胡椒その他の(ニ)香辛料、真珠・象牙・宝石などの奢侈品、綿布などが積み出され、この貿易が両地域の経済・文化に及ぼした影響は少なからぬものがあった。

  他方、インドと東南アジア諸地域との間の交易もその当時から行われていたが、その関係は単に経済的なものではなく、東南アジアでは、もたらされたインド文化によって社会の発展がうながされ、国家が形成されるようになった。インド人が商船に乗ってやってきて、土地の女王と結婚して国を治めるようになったことを伝える(ネ)扶南の建国説話は、その間の事情をよく物語るものといえよう。7・8世紀頃になると絹織物を求めて中国に向う[ (ヘ) ]商人の船も姿を見せるようになり、東南アジア各地の(ト)国家は強力となって,(チ)大規模な建造物も出現するようになってきた。その時代の文化は、(リ)インド文化の強い影響を示すと同時に、各民族の独自性をも示すようになっており、真朧の碑文には、それまでのサンスクリット語だけのものに加えて、[ (ヌ) ]語を用いたものも出現するようになった。

設 問

a.空欄(イ)にもっとも適当と思われる句を下記の3つのうちから選び、番号で解答せよ。

  1.北インドにマウリヤ朝が成立すると

  2.エフタル民族が陸路を妨害するようになると

  3.季節風を利用する航法が普及するようになると

b.空欄(ロ)、(ヘ)、(ヌ)にもっとも適当と思われることばを入れよ。

c.下線(ハ)の部分に関連して、当時デカン高原に中心をもち、ローマ帝国と通商関係をもった王朝名を挙げよ。

d.下線(ニ)の部分に関連して、のちに香料諸島として知られるようになった東南アジアの諸島の名を挙げよ。

e.下線(ホ)の部分に関連して,扶南と同じ頃、その東、インドシナ半島東部にあってインド文化の影響を強くうけた国の名を挙げよ。

f.下線(ト)の部分に関連して、7~14世紀の頃、スマトラのパレンバンを中心に栄えた国の名を挙げよ。

g.下線(チ)の部分に関連して、現在のカンボジアの地に、12世紀に建造された寺院の名を挙げよ。

h.下線(リ)の部分に関連して、仏教と並んで影響を与えたインドの宗教の名を挙げよ。

 

(B)以下の問題a~eを読み、それぞれの設問に答えよ。

 a.中国には現在,50数種の少数民族がそれぞれの自治区・自治州・自治県等を構成して居住し、その総人口は5000万に近い。漢民族とこれら少数民族との融和をめざし、20世紀初頭以降「五族共和」がうたわれた。五族とは漢族のほか何族をいうか。漢字で答えよ。

 b.漢民族と北方民族との対立抗争は、秦漢帝国と[    ]との対抗以来、東アジア史の重要な要素であった。空欄に適当な語を入れよ。

 c.つぎの6件の出来事を年代の古い順に番号で並べよ。

  1.靖康の変

  2.タングート族が勃興し国を大夏(西夏)と号する

  3.クビライ=カン(忽必烈汗)が都を現在の北京の地に遷す

  4.セン淵の盟

  5.突獣碑文の建立

  6.ワンヤン=アクダ(完顔阿骨打)が会寧府に都し帝位に登る

 d.タングート(甲)とワンヤン=アクダ(乙)の種族系統はそれぞれつぎのどれにあたるか。番号で答えよ。

  1.アーリア 2.トルコ  3.モンゴル 4.ツングース  5.チベット  6.マライ

 e. 宋代に関するつぎの8個の短文のうち、あやまりのないものを選び、番号で答えよ。

  1.北末時代は五代のなごりで武人が政治的に大きな発言権を有したが、南宋に至り文官の優位が確立した。

  2.北宋は遼・西夏に年々莫大な歳幣を送ったが、南宋も元・高麗に進貢した。

  3.北宋では銅銭が空前の規模で大量鋳造されたが、南宋では銅銭鋳造額が減少し、会子という紙幣がひろく流通した。

 4.王安石の新法は江南の農村の実情に適応しようとした改革であったが、北宋の滅亡により旧法党が政権をにぎり、その施行がはばまれた。

 5.殴陽脩・蘇軾らの散文は唐代の韓愈・柳宗元らにならったスタイルで、近世に至るまで士大夫の文章の模範とされた。

 6.仏教(とくに禅)の影響などで抽象的思索を深めた新儒学の流れは、南宋の朱熹により大成され、李氏朝鮮や近世日本にも大きな影響をおよぼした。

 7.南宋では臨安をはじめ都市が繁栄し、民衆の愛好する「水餅伝」・「三国志演義」などの小説が印刷されてひろまった。

8.南宋では「桃鳩図」などの作品で名高い徽宗皇帝をはじめ、梁楷・牧ヨクなど日本にも名作の伝わる画家が輩出した。

 

第3問

 イギリスの進出のもとで、19世紀におけるインド・中国の歴史がどのようになっていったかを述べよ。解答には、下記の語群のそれぞれの語を随意の順序で少なくとも一回は用い、かつその語に下線を引いて明示せよ。文字(数字を含む)は1ます1字を書き入れ、括弧・句読点も1字に数える。解答は600字以内で記入せよ。

 三角貿易 太平天国 南京条約 東インド会社 産業革命 インド帝国 公行 セポイの反乱

………………………………………

わたしの解答例

第1問

(A)aウ、オ(イは「貧困化した市民がふえた」ということであれば、これを解消するためにソロンの改革が起されましたから。ウはソロンの改革の後を説明していて、ペイシストラトスが対立しているものの、平民の立場でクーデタをやり僭主になります。ウについて「外国に領土を奪われる」ことはなかった……確かにこのデータは教科書にのっていませんが、危機だけなら都市間抗争の絶え間ないギリシアでは予想できることです。) bイ、カ cイ、ウ、オ(領土はドナウ川までではなく、ドナウ川を越えたところにルーマニアがあります。また最大版図形成のときはトラヤヌス帝(100年頃)ですから文章は四国分割統治はディオクレティアヌス帝からです。) dア、オ(エのクリュニー修道院は910年の設立でカール戴冠の後です。オ…「文化的に」違うとはいえない……これは程度問題ですが、ヨーロッパの中でなら正教とはちがうととるでしょう。西のラテン語、東のギリシア語、西の絵画・彫刻、東のイコン、西では僧はひげをはやしてはいけないが、東は許可、というつまらないことも。) eア、エ

(B)aウ、ニ bエ、フ cク、ト dス、ヌ eキ、ヒ

第2問

(A)a3  b(ロ)プトレマイオス(ハ)ムスリム(ヌ)クメール  cサータヴァーハナ朝  dモルッカ諸島   eチャンパー  fシュリーヴィジャヤ  gアンコール=ワット  hヒンドゥー教

(B)a満、蒙、回、蔵  b匈奴  c542613  d甲5 乙4  e3、5、6

第3問

産業革命による大量製品をアジアに販売するため、英国は三角貿易を展開した。軍事力も使いインドのキャラコ産業を破壊し機械制の綿布を売り、中国では南京木綿の抵抗をうけたためにアヘンを売った。その結果、インドはマラータ同盟・シク教国などの抵抗は鎮定され、かつ手工業と自給村落が崩壊した。セポイの反乱をきっかけに反英大反乱となったが東インド会社軍に鎮圧された。英国はムガル帝国を廃止し会社を解散して直接統治をはじめ、77年には女王を皇帝とするインド帝国を成立させ支配体制を強化した。85年に招集されたインド国民会議は、はじめは親英的な地主・知識人による会議であったが反英的になっていく。中国はアヘン密売を止めない英国に挑戦して敗北した。その結果、南京条約によって公行が廃止され五港開港・自由貿易を強制された。さらに仏国と組んだ英国に敗北し、天津・北京条約で利権を認めた。銀貨高騰は地丁銀の重税化となり民衆の貧窮が深刻化し、漢人は太平天国の乱をおこして清朝打倒をはかったが英人の指揮する常勝軍に敗北した。鎮圧に加わった漢人官僚は洋務運動をおこなったが、工業化はすすまず、清仏戦争・日清戦争の賠償金も英国を主とする外国借款でまかなった。清朝は租借地を許し、英国資本を主に鉄道建設がおこなわれ、海関は英人が牛耳った。この危機に対して宮廷で変法運動がおこり、民間では義和団事変がおきた。賠償金の分配は英人が行った。