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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1977

第1問(論述は第3問)

 以下に掲げる(1)~(10)の短文は、いずれもイタリア半島の歴史に関係している。そのおのおのにつき、記述内容の正誤を判定し、誤りを含むと考える短文については、判定の理由を明記せよ。解答は答案用紙の(ロ)の欄を用い、(1)(2)……(10)の順に、短文の番号を付して、正しいと思う文章には「正」と記し、誤りがあると思う文章については2行以内(70字、ただし(9)・(10)のみ60字)でその理由のみを記せ。短文ごとに行を改めることとし、短文番号・数字・括弧ならびに句読点も1字に数える。

 

(1)古代ローマは、その発展の途上で三たびカルタゴと戦っている。紀元前218年に始まった第3回の戦いは、ハンニバル戦争とも呼ばれ、ローマはカルタゴの勇将ハンニバルの侵攻の前に、一時危うかったが、苦戦の末これを破り、カルタゴを完全に滅ぼした。

(2)同盟市戦争を機とするローマの海外進出は、その領域の著しい拡大をもたらしたが、それは他面、国家の中堅である中小農民の疲弊と没落とをまねいた。ローマ共和政を根底からゆるがすこの危機に対応して、カエサル(シーザー)らはいわゆる第1回三頭政治をしき、土地の再分配による農民層の再建を企てたが、失敗におわった。こののちローマは内乱期に突入する。

(3)ローマ文化は、ギリシアのそれにくらべると、土木・建築や法律といった実用性の高い分野で,独創性を発揮したといえるが、そのほか自然科学、歴史、伝記、地理の諸領域でも、すぐれた成果をあげている。そのさい注目されるのはギリシア人の活躍であって、ポリビオス、プルタルコス(プルターク)、ストラボン、プトレマイオスなどが、その代表的な例である。

(4)3世紀末、ディオクレティアヌス帝の時代からローマ帝政は専制的な色彩をつよめる。このドミナートゥス体制は、コンスタンティヌス帝のとき、さらに強化・確立され、共和政期いらいローマの伝統となっていた市民の自由は、ここにまったく姿を消した。ローマ帝国は、こののち395年、テオドシウス帝の死にあたり東西に二分され、イタリアを中心とする西ローマ帝国は,476年、民族移動のさなかに滅亡する。

(5)ゲルマン入の民族移動がおこると、イタリアは西ゴート族、東ゴート族、ロンバルド族の侵入をあいついでうけたが,これらゲルマン諸部族は、いずれもイタリアを通過したのみで,結局イタリアには定着しなかった。

(6)19世紀の統一以前のイタリアでは、ローマを含む中部イタリアに教皇領が拡がっていたが、この教皇領は、8世紀末に東ローマ皇帝がイスラム勢力を討って、その占領地を教皇にささげたことに始まる。

(7)12世紀に、ノルマン人がイタリア半島南部とシチリア(シシリー)島とをあわせて単一国家をうちたてた。その後、19世紀のイタリア統一の時期まで、南イタリアとシチリア島は政治的にあるいは統合され,あるいはそれぞれ別個の王国をなしたが、つぎつぎと交替する外部勢力の支配のもとに引き続きおかれていた。

(8)イタリア=ルネサンス運動は,北イタリア諸都市の経済活動と富に支えられたイタリア人の民族的めざめでもあり、15世紀末に始まったフランス王、ドイツ皇帝、スペイン王のイタリア支配をめざす侵入をはねかえし、力強く花開いた。

(9)19世紀に入って、カルボナリ党や青年イタリア党がイタリア統?運動を展開したが、オーストリア、フランスに鎮圧された。その後、サルディニア王国は、当時の国際関係に巧みに乗じて、イタリア半島の政治的統一をほぼ達成したが、なお国境外の「回復されざるイタリア」の問題か残った。

(10)第一次世界大戦の終結を戦勝国としてむかえたイタリアでは、戦後の激しい経済混乱と社会不安のなかでムッソリーニのファシズム運動が台頭し、1922年のローマ進軍ののち、ムッソリーニは組閣した。彼の政権は1943年まで続く。

 

第2問

 つぎの(A)・(B)の各問に答えよ。解答は、答案用紙(ニ)の(A)・(B)の所定の欄に記入せよ((c)の欄は使用しない)。

(A)つぎの(ア)~(オ)の各文章における選択肢(a)~(c)のうち、正しいものを(a)、(b)、(c)の符号によって解答欄に記入せよ。

(ア)中国の科挙制は、

  (a)戦国時代に官僚制が形成される過程で萌芽し、始皇帝の統一政策の重要な柱の一つとして採用され始めた。

  (b)末代に完成の域に達したが、元代にそのモンゴル人至上主義の立場から全廃され、明代に復活して、20世紀はじめまでつづいた。

  (c)晴代に発足し、唐代に整備され、とくに則天武后は門閥貴族をおさえるために科挙出身官僚を重用した。

(イ)北魏の功田法と唐の均田法とのちがいは、

  (a)前者の目的がもっばら大土地所有の制限にあったのにたいし、後者のそれは租庸調の徴収を主目的としたことにある。

  (b)前者では男女同面積の田を給したのにたいし、後者では女は男の半分としたことにある。

  (c)前者では奴婢や耕牛をも給田の対象としたのにたいし、後者はこれを給田の対象としなかったところにある。

(ウ)新羅は、

  (a)676年、唐の朝鮮における最後の拠点帯方郡を滅ぼして、朝鮮を統一した。
  (b)律令国家として朝鮮の統一を実現したが、地方豪族や貴族はなお強力で、政権は貴族連合体的な性絡を濃厚にもっていた。

  (c)慶州を首都とし、唐の律令制をとりいれて、地方豪族や貴族の伝統的な勢力を解体させ、強固な中央集権的統一国家をつくりあげた。

(エ)カーストとは、

 (a)サンスクリット語起源の言葉である。前期ヴェーダ時代に始まるインドの身分制をあらわす。はじめ、バラモンなど4階層の区分があったが、のち細分化したのであろうといわれている。

 (b)ポルトガル語起源の言葉である。バラモンなど4階層の区分は実はインドではヴァルナという「色」を意味するサンスクリット語であらわされ、アーリア人が非アーリア人を皮膚の色で差別したことに始まる制度だろうといわれている。

 (c)ヒンディー語起源の言葉である。アーリア人によるインド最古の王国のマガダ国において職業により戸籍をバラモンなど4階層の区分に分けたことに始まる制度だろうといわれている。バラモンのみ税役免除であった。

(オ)マホメットの徒弟で女婿のアリーは,656年カリフに就任した。それは、

 (a)この時代において、カリフの就任が選挙制によったためである。

 (b)この時代において、カリフの就任が父子相続制に準ずる世襲制によったためである。

 (c)アリーがラクダの戦いにおいて、前カリフのウスマーンをたおしたためである。

 

(B)つぎの文章を読み、後の設問に答えよ。

 14世紀のアジア大陸の西半分には、オスマン=トルコのバヤジット1世と、[ A ]というふたりの強力な支配者がいた。オスマン帝国は小アジアに建国していらい次第に発達したが、1402年[ A ]にやぶれ、10年にわたる空位時代が続いた。[ A ]の子孫と称するバーブルに率いられて北インドを征服したムガール朝は、アクバルのとき、確固とした基盤を築いた。アクバルの業績の一つは官僚統治機構の整備にあった。(ア)マンサブダールとよばれる官僚はアクバル存命中にはほぼ貨幣で給与を支払われていたが、のちには地税がこれに代り、給与地を給せられるようになった。1707年、[ B ]の死とともに、ムガール帝国の衰退は誰の目にも明らかとなったが、この傾向は[ C ]の侵入により一層促進された。1761年、パーニーパットの戦いに勝利した彼らはデリーをも制圧したのである。

 東アジアに目を転ずると、16世紀後半、ポルトガル・スペインが東アジア海域で活動していた当時、中国社会に生じた新しい動きがまず目をひく。この時期、[ D ]地方の都市・農村で綿織物・絹などの商品生産が発展し始め、(イ)これに関連して各種の新しい技術書が刊行された。(ウ)この時代以降、農村にまで貨幣として銀が流通し、全国的な規模の取引が展開し、都市には新しい商工業者の団体が生まれた。この都市を基盤にして庶民的な文芸が開花し、思想の分野でも、伝統的な権威や通念を批判し男女平等をすら主張した[ E ]ような思想家が出現していた。(エ)16世紀末、朝鮮に侵入した豊臣秀吉の軍隊にたいし、明は李朝を援助して戦った。その軍費をまかなう必要もあって重税を課したことから、中国では17世紀に入ると反乱が統発し、1644年李自成の率いる農民反乱軍によって明は滅亡した。この間に満州におこった(オ)清朝がやがて中国を統一し、17世紀後半から18世紀にかけて、東アジアに大帝国を形成した

(1)空欄Aに適切な語を記入せよ。

(2)下線部(ア)に関し、つぎの選択肢(a)~(d)のうち正しいもの一つを(a)、(b)、(c)、(d)の符号によって記入せよ。

 (a)任命された官僚はほとんどムガール貴族であり、給与地に住みついて大土地所有者となった。彼らの中央権力への反抗はマラータ連合の諸侯に代表されるが、これがムガール帝国衰退の一つの原因となった。

 (b)官僚の任命は公正な試験によるのがたてまえであったが、実際には売官が行われ、またカーストの高低を基準にして任命されたので、低いカーストの人びとの間に不満がたかまった。農民層を構成するこれらの人びとが反乱を組織してゆき、ムガール帝国衰退の一つの原因をつくった。

 (c)官僚は給与地を3、4年以内に所替えさせられるため、みずからは都市に住みつつ代官を派遣し、短期間にできるだけ地租を徴収しようとして農民を圧迫した。そのため在地の農民・地主層から反乱がおこりはじめ、ムガール帝国衰退の?つの原因となった。

 (d)官僚機構をつうじて徴収された地租は、戦争や大規模建造物の造営に浪費されて生産過程に再び投入されることはなかった。アクバルが愛妃を悼んで建てたタージ=マハールの美しさの陰に農民の不満がたかまっていったのが、ムガール帝国衰退の一つの原因であった。

(3)空欄Bに適切な語を記入せよ。

(4)空欄Cに適切な語を記入せよ。

(5)空欄Dに適切な語を記入せよ。

(6)下線部(イ)に関し、生産技術を図入りで解説した、明末の技術書の書名を一つあげよ。

(7)下線部(ウ)に関し、当時海外から中国にもたらされた銀の産地のうち、メキシコ以外の国を一つあげよ。

(8)空欄Eに適切な語を記入せよ。

(9)下線部(エ)に関し、この戦争で活躍した朝鮮の代表的な武将を1名あげよ。

(10)下線部(オ)に関し、清朝がチベット、モンゴリア、新疆などを統治するために設けた中央の官庁の名称をあげよ。

 

第3問

 日本、朝鮮、中国、ロシア(ソ連)は、近代・現代の世界史において、さまざまな関係をとりむすんできた。その関係は、これらの国々の歴史に深刻な影響を及ぼした。とくに1905年と1919年とは、これら4国間の関係にとって重要な転機となった時点である。この2時点間の関連に留意しながら、それぞれの時点における4国間の関係を、国内の重要な動きとかかわらせて論せよ。解答には、下記の語句を随意の順序で、全解答を通じ少なくとも1回は用い、また最初に用いたときに、その語句をわくで囲んで明示せよ。解答は、1905年については(1)、1919年については(2)と最初に番号を付し、合計754字以内につづけて記入せよ。数字・括弧・句読点も1字に数える。

 シベリア 民族自決 義兵運動 中国革命同盟会 満州 大正デモクラシー

………………………………………

わたしの解答例

第1問

(1)ハンニバル戦争は第二回ポエニ戦争のことであり、カルタゴが完全に滅亡するのは紀元2世紀半ばに始まった第三回ポエニ戦争においてである。

(2)海外進出はポエニ戦争による。同盟市戦争は半島内の内乱である。土地分配はマリウスの兵制改革からはじまっていた。グラックス兄弟の改革にもあった。

(3)正  (4)正

(5)東ゴート族はオドアケルの王国を倒して建国し、ロンバルド族は東ローマ帝国を破り建国をしており、それぞれ半島に定着をしている。

(6)教皇領の起源はカロリング朝の小ピピンが8世紀半ばにロンバルド王国を破り、その一部のラヴェンナ地方を寄進したことに由来する。

(7)正

(8)14世紀よりルネサンスが始まったが、15世紀末~16世紀のフランスと神聖ローマが侵入したイタリア戦争により都市は荒されルネサンスは衰退した。

(9)正  (10)正

第2問

(A)(ア)c (イ)c (ウ)b (エ)b (オ)a

(B)(1)ティムール (2)c(a「ほとんどムガル貴族」がまちがい。既住のザミンダールやペルシア人の官僚に使っている。「マラータ連合の諸侯」とムガル貴族とは同じではない。後者はヒンドゥー教徒。b試験がない。カースト制のを基準にするとイスラーム教徒は排除されるからありえない。dタージ=マハル廟はアクバル帝ではなくシャー=ジャハーン帝の妃の墓。) (3)アウラングゼーブ (4)アフマド(アフマド=ドュラニ、ドュラニ朝) (5)江南 (6)天工開物 (7)日本 (8)李贄 (9)李舜臣 (10)理藩院

第3問(わくで囲まず下線にしてあります)

(1)日本は満州・朝鮮の支配権をめぐる日露戦争に勝ち、ポーツマス条約で朝鮮での優越、旅順大連の租借、南満州鉄道の利権を承認された。朝鮮からは第二次日韓協約で外交権をうばい、翌年統監府を設置した。朝鮮の儒者・農民はこれに反対しゲリラ的な義兵運動をくりひろげたが鎮圧された。ロシアでは日露戦争により経済の混乱が深まり血の日曜日事件を機に労働者兵士農民の第一革命が勃発し、ツァーリ政府はこのためポ一ツマス条約を締結し以後革命を弾圧した。ロシア第一革命の影響は中国人民族主義者にも及び、孫文らは東京で三民主義にもとづく中国革命同盟会を結成し、日本人の中に協力するものがあった。この年を境に日本の朝鮮・中国への圧力が本格化した。日本はその後1910年に日韓併合を行い、15年には中国に二十一カ条要求を強要した。一方、第一次世界大戦中のロシア革命とウィルソンの民族自決は、各地の解放運動に大きな刺激となった。(2)日本はパリ講和会議で列強に二十一カ条の承認を求め、シベリア出兵でソビエト政権打倒をはかった。ロシアはコミンテルン結成とカラハン宣言で中国への影響をつよめた。朝鮮の民衆は民族自決に影響され三・一運動をおこして日本に独立を要求した。これに刺激された中国の学生・市民・労働者は五・四運動によって二十一カ条とパリ講和会議に反対し、軍閥政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるをえなくなった。孫文はこの五・四運動を見てそれまでの秘密結社・中華革命党を解散し公開政党として中国国民党を組織し、ソビエトに接近した。日本政府は三・一独立運勤を鎮圧したもののシベリア出兵に失敗、民衆はロシア革命と民主主義高揚に影響され、、普選を要求する大正デモクラシーを展開した。1919年は日本の進出に対する批判がつよまった年であった。