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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1981

過去問 -東京大学

第1問

 9〜10世紀における西ヨーロッパ、東ローマ帝国、イスラム世界は、それぞれどのような特色をもっていたか、互いに対比しながら、下記の語句を少なくとも1回は使って、600字以内に述べよ。なお、下記の語句を最初に用いたときに、下線を付せ。

  コルドバ バグダード スラヴ族への布教 外民族の侵入 農耕社会への移行 古典荘園 ムスリム商人 ギリシア語文献の翻訳 コンスタンティノープル 都市文明

 

第2問

 A 16世紀から18世紀はじめまでの間、ムガル帝国の支配がインドの歴史に果たした役割について、政治・経済の面と宗教・文化の面との両面にわたって、300字以内に記せ。(この問題・解答・解説は『世界史論述練習帳 new』本文p.103に掲載)

 B パキスタンの独立に至る経過について、200字以内に記せ。

 

第3問

 つぎの(A)~(J)の文章を読み,1~10の各空欄に適合する文章をそれぞれ指定された文章群から選び,イ~ニの符号で答えよ。解答は答案用紙の(ニ)の欄に記入せよ。

(A)「戦争勃発の恐れが生じた際、関係諸国の労働者階級の義務は,……適当と思われる手段により,戦争阻止のためにあらゆる努力をすることにある。……それにもかかわらず戦争が勃発した場合には,労働者階級は,その即時中止のために介入する義務がある。そして,戦争によって生じた経済的・政治的危機を全力をあげて利用し,人民層を根底から動かして,資本家の支配の没落を早めねばならない。」この文章は,[  1  ]

1 イ 1848年に出版された,マルクス,エングルスの「共産党宣言」の中にある。

  ロ セオドア=ローズヴェルトの提案で開催された,第2回ハーグ平和会議(1907年)の決議の一部である。

  ハ 第2インターナショナルの1907年大会の決議の一部である。

  ニ コミンテルン第7回大会(1935年)の宣言の一部である。

(B)1853年にロシアとトルコとの間で起こったクリミア戦争では,イギリスとフランスがトルコ側に参戦した。それは産業革命を終えた先進資本主義国とおくれた農奴制の国ロシアとの戦いとなった。1年近い籠城戦ののち,1855年セヴァストーポリ要塞は陥落し,ロシアの敗北がきまった。[  2  ]

2 イ この戦争に従軍したトルストイは,その体験にもとづき,この戦争を素材にして長編小説『戦争と平和』を書き上げた。

  ロ 敗北したロシアでは,国の近代化の必要を主張する声か高まり,新帝アレクサンドル2世のもとで農奴解放をはじめとする大改革が断行された。

  ハ ロシアでは,戦後の不安の中で,ツァーリズムに対する批判が強まり,皇帝はナロードニキにより暗殺された。新帝アレクサンドル3世のもとで農奴解放が断行された。

  二 勝ったトルコでも,改革の気運が起こり,オスマン体制より西欧体制への移行をめざしたタンジマートが宣言された。

(C)1857年の世界恐慌に前後して勃発したアロー戦争(第2次アヘン戦争)の後の天津条約および北京条約によって,清朝政府は,[  3  ]

3 イ 香港をイギリスに割譲し,各開港場に外国人税務司を採用した。

  ロ 外国人が自由に国内を旅行して商品を販売することを許す一方,アヘン戦争後から認めてきたアヘンの輸入を禁止した。

  ハ キリスト教を公認したが,その結果,上帝会を中心とする洪秀全らがキリスト教諸国と結んで,清朝に対し反乱を起こすようになった。

  ニ 開港場をふやし,資本主義列強の商品に対し国内通過税免除の特権を認めたので,中国の経済は半植民地的傾向を強めるようになった。

(D)1878年のベルリン会議以降,バルカン・西アジアヘの進出をイギリスによって阻止され,東アジアヘの進出をはかったロシアは,ここでもイギリスと対立した。さらに,清国と日本との間には,1894年,日清戦争が勃発し,朝鮮は戦場となった。このような国際情勢を反映して,下関条約は,[  4  ]

4 イ 日本による朝鮮の保護領化を規定し,またこの条約の結果,日本は列強に先んじて上海などに工場を設立し,中国に対する支配を確立した。

  ロ 朝鮮の独立を確認し,それは,日本が朝鮮を植民地化するための前提となった。他方,この条約は列強の清国に対する帝国主義的進出の道をいっそう拡げるもととなった。

  ハ ロシアの南下を阻止するため日清両国の協力を規定し,列強に対する清国領土の安全が保障されることとなった。

  二 三国干渉のもとで,清国から日本への領土割譲を台湾などに限定し,東アジアの永久平和を確認した。以後,帝国主義諸国間の対立の焦点は南アフリカに移り,ブール戦争が勃発した。

(E)19世紀末,ラテン=アメリカや太平洋地域,中国大陸へ進出をはかっていたアメリカ合衆国は,キューバにおける反スペイン独立運動が激化すると,同地にすでに多額の投資を行なっていたこともあって干渉をくわだて,1898年にはスペインに宣戦を布告して,たちまちにして勝利をおさめた。この米西戦争の結果,[  5  ]

5 イ スペインは,キューバ,メキシコ,フィリピン,グアムをアメリカ合衆国に割譲した。

  ロ アメリカ合衆国は,スペイン領ハワイを正式に併合した。

  ハ アメリカ合衆国は,ハワイ,グアム,フィリピンを結ぶアジア進出の道を開いた。

  ニ キューバ,プエルト=リコは独立したが,事実上,アメリカ合衆国の保護下におかれた。

(F)総力戦と呼ばれた第1次世界大戦では,動員された兵力が6500万,戦死者だけで1000万にのぽったばかりでなく,関係諸国の庶民生活も大きな打撃を受けた。4年をこえるこの戦争の結果,[  6  ]

6 イ 戦勝国イギリスは,ドイツからそのアフリカにおける3つの植民地を得たりしたので、経済強国としての国際的地位がいっそうあがった。

  ロ ロシア,ドイツ,オーストリア=ハンガリーでは革命が起こり,これらの国ぐにの,長い伝統をもつ王朝が滅亡した。

  ハ 三国同盟の一員でありながら協商国側に立って参戦したイタリアは,アビシニアを獲得した。

  ニ アメリカでも,戦争末期から労働争議が頻発し,労働界はウィルソンの14ヵ条に反対した。

(G)1936年、スペイン人民戦線政府に対し,フランコ将軍が反乱を起こすと,ドイツとイタリアが公然とこれを支援した。人民戦線政府の側にはソ連をはじめ世界各国から義勇軍が加わって戦ったが,1939年,フランコ側が勝利をおさめた。このような状況と比較して,中国では,[  7  ]

7 イ 蒋介石の国民政府軍と共産軍との内戦が激化し,国が分裂したのに乗じて,日本が1937年に華北から華中・華南へ戦争を拡大した。

  ロ 西安事件を契機として,中国共産党と民主的知識人が推進していた抗日民族統?戦線が,蒋介石と国民党を参加させて成立した。

  ハ 蒋介石が抗日民族統一戦線を提案し,当初は反対していた共産党もついにこれにこたえ,第2次国共合作が成立した。

  ニ コミンテルンが人民戦線戦術を中国共産党に指示したが、中国共産党は毛汽車の指導のもとに,独自の路線を歩み,蒋介石との戦いに全力をあげた。

(H)1917年のロシア革命以後の世界における資本主義・社会主義両体制の対立は,第2次世界大戦に複雑な性格をあたえ,いわゆる反ファシズム陣営内の矛盾が戦後いちはやく顕在化した。この「冷戦」の状況のなかで,[  8  ]

8 イ 1946年7月,中国で国民党と共産党との内戦が始まり,アメリカは国民政府軍に,ソ達は共産軍に対し,ただちに軍事援助を開始した。

  ロ 1947年,アメリカ国務長官マーシャルが西ヨーロッパの戦勝国に対する経済復興援助計画を提案したのに対抗して,東ヨーロッパ諸国はソ連を中心にコミンフオルムを組織した。

  ハ 1948年2月,チェコスロヴァキアがコミンフォルムを脱退し,F自由化Jの道を歩みはじめた。

  ニ 1950年,朝鮮戦争が勃発すると,翌年,サンフランシスコ講和条約とともに日米安全保障条約が結ばれ,日本におけるアメリカの軍事基地が名実ともに強化された。

( I )第2次世界大戦後も,国際政治上の対立と軍備増強は続いており,核兵器の発達によって人類滅亡の危険は今までになく高まっている。そうした状況の中で,非同盟諸国会議は、植民地主義に反対しつつ世界の平和を求めて独自の役割を果たしてきている。この会議は,[  9  ]

9 イ ティトー,ナセル,スカルノ,ネルーの呼びかけで,1961年にベオグラードで第1回が開かれた。

  ロ 永世中立国スイスとオーストリアとを中心に組織され,1954年にジュネーヴで第1回が開かれた。

  ハ ネルー,周忌来が1954年に合意した「平和5原則」にもとづいて,翌年インドネシアのバンドンで第1回が聞かれた。

  二 東西間の緊張緩和(デタント)を促進すべく,カストロとティトーの呼びかけで,1962年にハバナで第1回が開かれた。

(J)ヴェトナム戦争は,独立を求める民衆のたたかいの前にフランスが敗れ去ったのち,アメリカが1965年に大規模な軍事行動を起こしたことによってはじまった。アメリカ軍は韓国軍などの支援を受け,日本,タイなどの基地を使用した。これに対し,北ヴェトナムと南ヴェトナム解放民族戦線は,ソ連,中国,東ヨーロッパの国ぐにからの軍事援助を受けて戦っていたが,[  10  ]

10 イ 中ソ対立の結果,援助が順調にとどかなくなったため,戦力が低下し,1973年,パリ和平協定の調印に応じた。

  ロ 強力な反戦運動がアメリカの内部にも起こり,こうした国際情勢にもたすけられて,1973年,パリ和平協定に調印し,アメリカ軍に撤退をよぎなくさせた。

  ハ この援助が時とともに増大したため,ディエンビエンフーの戦いでアメリカ軍を完敗させ,1973年,パリ和平協定の調印に追い込んだ。

  ニ サイゴンのチュー政権が学生,仏教徒,カトリック信徒のデモで倒されたため,1973年,パリ和平協定を結び,ヴェトナムの南北統一を果たした。
………………………………………

[第1問の解き方

 三つの世界を地域別に書くと、ばらばらな内容になるので、できたら政治は政治で、経済は経済で、文化は文化でまとめたほうが「対比」が明快にでます。いわばテーマ別ヨコの比較です。指定語句では足りない三つの分野の語句をメモしていきます。

(わたしの解答例)

第1問

政治。西欧ではフランク王国がヴェルダン条約・メルセン条約で分裂し、そこへノルマン人・マジャール人・イスラム教徒等の外民族の侵入の中で地方分権的な封建制が成立した。東ローマ帝国だけは統一を維持し、テマ制の下に皇帝教皇主義が保たれていた。西アジアでは、バグダードのアッバース朝、コルドバの後ウマイヤ朝、カイロのファーティマ朝の3カリフが並立し、ブワイフ朝は武断政治を展開、権威の低下と分裂が目立っていた。イクター制も成立した。経済。イクター制の下の農奴と東ローマの自作農は相違していた。西欧は地中海をイスラムに包囲され貨幣は普及せず、農耕社会への移行を余儀なくされ、領主・農奴関係の古典荘園だった。西欧とちがい、東ローマ帝国とイスラム世界では都市が繁栄し貨幣経済であった。東ローマの首都コンスタンティノープルは絹織物工業やイスラム教徒・スラヴ人との交易で繁栄した。ムスリム商人は地中海・北欧・アフリカから東アジアにまで世界的な貿易の担い手であった。文化。西欧には都市文明はなく文化活動は修道院にかぎられ低調であった。コンスタンティノープルはギリシア語の古典研究にいそしんでいた。イスラム世界はこのギリシア語文献の翻訳を通じてその内容を吸収し、多くの哲学・科学・歴史学を発展させた。信仰の普及はどの地域にもみられるが、とりわけ東ローマ帝国による東欧・ロシアへのスラヴ族への布教が目立ち、キエフ公国に及んだ。

第2問

(A)ヴァルダナ朝の滅亡以来、長い分裂がつづいていたがムガル帝国の成立により統一が訪れ、広大な統一領は後の英領インド帝国に継承された。英領からの独立でインド・パキスタンに分離したが、統一はインドで保たれている。従来の自然経済に対して、ムガル帝国期には銀が流入して貨幣経済が浸透し、綿工業都市も発展、そのキャラコはイギリスの産業革命を刺激した。逆に植民地化されるとともにインド綿工業が破壊されたが近代工業への契機にもなった。従来からのヒンドゥー教に加えてイスラム教を定着させ、タージ=マハル廟などのインド・イスラム文化を成立させたが、ムスリム集団の定着は後のパキスタン・バングラデシュ成立につながった。

(B)インド国民会議はヒンドゥー教徒がほとんどでありムスリムには不満であった。1905年の分割令を契機に、翌年に自らの組織・全インド=ムスリム連盟を結成し会議派とは一線を画して行動するようになった。第一次大戦直後は会議派と協調していたが、次第に対立が深まり独自の国家建設を志向するようになった。英印円卓会議でも対立し、第二次大戦後、イスラム教の国家としてインドと分離した東西パキスタンが英国から独立した。

第3問

1.ハ(引用文の中の「戦争勃発……戦争阻止……戦争……危機……資本家の支配の没落を早めねば」というところでも推理できますが、国際的な戦争が近づいているという危機が感じられるときの声明です。1848年当時はヨーロッパ内の紛争はたしかにありますが、戦争という危機までは感じられていません。しかしこの声明も空しく、戦争がはじまると城内(社会主義内部の)平和をいって自国戦争政策に賛成していったのが第二インターナショナルの恥ずかしいすがたでした。一部の社会主義者たちだけが戦争反対をいいつづけました。それがコミンテルンをつくります。) 2.ロ 3.ニ 4.ロ 5.ハ 6.ロ 7.ロ 8.ニ(イの「ソ連はただちに共産軍に対し、軍事援助を開始」はまちがいです。スターリンは毛沢東を援助しませんでした。戦後の中国は蒋介石中心で行け、というのがスターリンの意志でした。1945年にスターリンは蒋介石と中ソ友好同盟条約というのを結んでいます。この時点で中国共産党が蒋介石の国民党に勝てるとはおもっていなかったし、また勝ってほしくない、毛沢東ではない共産党を作り直してからとおもっていました。ティトーと同じように一筋縄ではいかない人物であることを知っていたためです。しかし共産党は勝ってしまったので、この条約を破棄して中ソ友好同盟相互援助条約をしかたなく結んでいます。) 9.イ 10.ロ