世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1980

第1問

 いわゆる「地理上の発見」にともなうヨーロッパ人の海外進出は、世界の諸地域における変化・変動のきっかけとなったとみられている。このできごとの意義を世界史の観点からとらえ、進出をおこなったヨーロッパ、およびそれを受けたアメリカ、アジア等の諸地域における、16世紀末までの変化・変動について、650字以内で述べよ。

 

第2問

下記の文章を読み(1)~(4)の設問にそれぞれ3行以内で答えよ。(各問100字程度)

 古代ギリシアのポリスは、それぞれがひとつの都市であると同時に、独立の国家でもあった。ギリシア本土を中心として地中海および黒海の沿岸一帯に、このような小国家が多数分立していたのが、前8世紀から前4世紀にかけての古代ギリシア人の世界であった。ポリスは古代ギリシアの民主制が展開された場である。ポリスのそのときどきの政治上の決定はすべて市民総会である民会でなされ、裁判も多数の市民の参加の下におこなわれる慣わしであった。われわれはこのようなポリス民主制の完成された姿を、前5世紀ないし前4世紀のアテネに見ることができる。しかしアテネの民主制も、前7世紀後半にはじまる、貴族支配からのながい移行過程の果てに確立された歴史的所産にほかならない。その確立までには、いくつかの画期が認められる。ソロンの改革も、そのうちのひとつに数えられよう。

 ポリス民主制成立の一因として、前7世紀における重装歩兵戦術の創始があげられる。重装歩兵制のなかで平民の役割がしだいに増大していったことが、彼らの政治的発言力を強めるのに貢献したと考えられるからである。

 市民の自由と平等を高度に具現しえたポリス民主制も、それを支えるには、いくつかの条件が必要であった。そのひとつが奴隷制度である。アテネにせよ、スパルタにせよ、奴隷の大量の使役を抜きにして、そこでの市民たちの日常生活も、ポリスの国家としての存立も、ともに語ることができない。さらに最盛期アテネの場合、デロス同盟に対する支配がその民主制を財政的に支える基盤となっている。ここにもポリス民主制の矛盾が認められるが、しかし他面、盟主としてのアテネが同盟諸市を併合し、ポリスの枠を越えてその領域を拡大することは絶えてなかった。

〔設問〕?ソロンの改革が、アテネ民主制の成立史において、どのような意味でひとつの画期とみなされるのか、その理由を述べよ。

(2)スパルタの奴隷制度について、国家のしくみとのかかわりに留意しながら、簡単に説明せよ。

(3)上記の文章を参考として、ギリシアのポリスと共和制期の古代ローマ国家との間に共通に見られる重要な特徴を三つ挙げよ。

(4)上記の文章を参考として、ギリシアのポリスと共和制期の古代ローマ国家との間に認められる重要な相違点をひとつ記せ。

 

第3問

 つぎの(a)~(i)の文章を読み,I~12の各空欄に適合する文章あるい語句を,それぞれ指定された文章群あるいは語句群から選び,イ~二の符号で答えよ。解答は答案用紙の(ニ)A欄に記入せよ。

 

(a)アメリカ合衆国は1917年の10月革命で生まれたボリシェヴィキ政権に対し非友好的な態度をとり,ソ連邦を承認したのは1933年になってからであった。だが,1939年第2次世界大戦が勃発するや,アメリカ合衆国は,[  1  ]

  戦後アメリカ合衆国は東欧問題や原子力問題などを通してソ連邦との対立を深め,1947年のトルーマン=ドクトリンの宣言についで,マーシャル=プランや北大西洋条約機構(NATO)結成等の諸政策により反共封じ込め網の形成をはかった。これに対しソ連邦は,[  2  ]

1 イ 枢軸国と戦うためにソ連邦と同盟関係を結んだものの,軍事援助は与えなかった。

 ロ 独ソ開戦後ソ連邦との協調を重視し,軍事援助に乗りだすとともに,首脳会談で軍事作戦や戦後処理問題に関し協議した。

 ハ はじめソ連邦との協調に努めたものの,対ソ不信感を拭うことはできず,首脳会談でも両国が合意に達したことはなかった。

 ニ 独ソ不可侵条約にもかかわらずソ連邦との協力関係の樹立をばかり,カサブランカ会談ではソ連邦の対日参戦の約束をえた。

2 イ 1947年コミンテルンを組織して共産主義圏の結束の強化をはかるとともに,ワルシャワ条約機構の下に統一軍を編成した。

  ロ 1947年コメコンを結成して共産主義圏の協力関係を強め,ついでコミンフォルムと呼ばれる軍事同盟を作りあげることに成功した。

  ハ ワルシャワ条約機構の下で東欧諸国との協力をはかったが,ハンガリー動乱がおこったため危機感を深め,コミンフォルムを結成した。

  ニ コミンフォルムやワルシャワ条約機構の下で東欧諸国との協力をはかったが,ティトー主義の問題やハンガリー動乱等困難な事態に直面した。

 

(b)第2次世界大戦後,ドイツは米・英・仏・ソの4カ国に占領された。冷戦状況のもとで,1949年,西にドイツ連邦共和国,東にドイツ民主共和国が成立したが,連合国軍の駐留は続いた。朝鮮は,[  3  ]

3 イ ポツダム宣言に従い,連合国に占領され,1948年,大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立してからも,米ソ両国軍の駐留が続いた。

  ロ カイロ宣言によってもその自由と独立が尊重されており,日本の降伏とともに植民地の状態からの解放を達成した。しかし,冷戦状況のもとで,大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とに分裂を余儀なくされた。

  ハ 日本が連合国に降伏するとともに独立を回復したが,1950年に始まった朝鮮戦争の結果,大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とに分裂した。

  ニ ヤルタ宣言に従い,米ソ2カ国に占領され,1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが成立してからも,板門店だけは米ソ両国の共同管理下に置かれた。

 

(c)こんにち,ヴェトナム・ラオス・カンボジアをあわせたインドシナ地域が政治的にどのように編成されるべきか,ということが重大な問題となっている。しかも,そのことは,この地域が隣接の中国やタイといかなる関係をもつべきか,ということとも深く関連している。このような形でこの地域のあり方が問われるようになったのは,歴史的には,[  4  ]

4 イ 秦の始皇帝や漢の武帝による征服からはじまった中国のヴェトナム支配にまでさかのぼる。

  ロ 扶南や林邑(チャンパ)といった王国が形成され,インド文化と中国文化とが接触・交錯する地域がうまれてからのことである。

  ハ タイにおこったスコタイ王朝やアユタヤ王朝の軍事的圧力のもとで,この地域に,高地民族を含む複雑な民族構成が生じてきたことから発する。

  二 清仏戦争やフランス・タイ条約によって,フランスがこの地域を支配するようになってからのことである。

 

(d)1978~79年,イランの民衆が立ちあがって王政をきびしく批判したのは,1960年代以降国王がすすめていた「白色革命]のなかで,[  5  ]こととも関係があろう。

5 イ アケメネス王朝に代表される古代イラン帝国の伝統が強調されたわりには,イスラム教の伝統が軽視された。

  ロ 古代以来のゾロアスター教の伝統を評価して,中世イスラムの伝統を無視した。

  ハ イランの過去を彩るいっさいの伝統を否定して,西欧化にはしった

  ニ スンナ派(スンニー)に対するシーア派の独自の立場が忘れられていた。

 

(e)1956年のスエズ動乱(第2次中東戦争)は,スエズ運河を国有化したエジプトに対して,イスラエル・イギリス・フランスが攻撃をくわえたものであった。この3国の武力行動に対して,[  6  ]

6 イ アメリカ合衆国は大統領選挙の年にあたっていたので,背後からこれを支援した。

  ロ ソ連邦はハンガリーでの反ソ暴動を強引に鎮圧したうえで,エジプト支持の行動を示唆した。

  ハ スエズ運河を利用する国ぐにの多くは,これに暗黙の支持を示した。

  ニ イラクは,バグダード条約機構に属したにもかかわらず、エジプトを支持した。

 

(f) 第2次世界大戦後,ナミピア(南西アフリカ)の地位をめぐって,これを統治する南アフリカと国際連合との対立が生じたが,さらに1960年代以降になると,これに加えて南西アフリカ人民組織(SWAPO)の独立運動が激化した。南アフリカのナミビア支配は,[  7  ]

7 イ 17世紀のオランダ人入植以来の伝統を練ぐものであった。

 ロ 1910年,南アフリカ連邦が成立するとともに確立した。

 ハ ドイツ領だったこの地域を,第1次世界大戦中,南アフリカが占領したときからはじまった。

 ニ 第2次世界大戦中に確立した。

 

(g)第2次世界大戦後,ラテンアメリカ諸国は全体としていわゆる自由主義陣営に組みこまれたが,ナショナリズムの気運もいちじるしい高まりを示した。1959年に成功を収めたキューバ革命も,政治の民主化のみならず外国資本の支配的力の排除を企図しており,アメリカ合衆国に大きな衝撃を与えた。そこでアメリカ合衆国は,[  8  ]

8 イ 進歩のための同盟と呼ばれる援助政策をうちだし,それが失敗に終わるや,キューバに対して武力侵攻をおこなった。

 ロ いかなる武力侵攻にも反対しつつ,社会改革の必要性を強調した進歩のための同盟という援助政策を推進して,多大の成果を収めた。

 ハ 経済的圧力や武力侵攻の支援を試みた後,進歩のための同盟という援助政策に着手し,革命が他の地域に波及するのを防ごうとした。

 ニ キューバの孤立化をはかったが,ラテンアメリカ諸国の支持がえられなかったので単独でキューバを海上封鎖し,ミサイル危機をひきおこした。

 

(h)[  9  ]の大部分は,1885?99年にドイツの植民地とされ,1920年には,第1次世界大戦中にそこを占領した[  10  ]の委任統治下に置かれた。1947年にそこを信託統治領とした[  11  ]は,その一部のビキニ環礁で原水爆実験をおこない,住民や日本の漁船乗組員に被害を与えた。近年,住民の自決権要求が高まりつつある。

 9 イ 西イリアン ロ ミクロネシア  ハ サモア諸島  ニ ポリネシア

 10 イ オランダ  ロ オーストラリア  ハ 日本   ニ アメリカ合衆国

 11 イ イギリス  ロ アメリカ合衆国  ハ インド  ニ フランス

 

(i) 現在に至るまで苦難の道を歩んできた女性解放運動は,その過程でさまざまの成果を挙げている。そのひとつに婦人参政権の獲得があり,その最も早い例が19世紀末のニュージーランドに見られる。欧米諸国の場合,20世紀にはいってから1920年代にかけてそれが実現した国が多いが,日本では1946年のことであった。ヨーロッパでも[  12  ]のように,男女平等の普通選挙が第2次世界大戦後に初めて実施されたところもある。

  12 イ ドイツ  ロ ソ連邦 ハ フランス  ニ イギリス

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わたしの解答例

第1問

 (この問題は『世界史論述練習帳new』本文p.93に構想メモと解答例)

世界貿易が開始され、それまで新大陸はインディオ、インド洋はムスリム、東シナ海や東南アジアは華僑の市場であったが、どこにも西欧人が進出してきた。西欧の沿岸線都市が、それまでの地中海のイタリア都市に代わって繁栄する商業革命がおきる。またスペイン人が新大陸からもたらした銀は、西欧での銀価暴落・物価騰貴という価格革命を招き、領主層の没落という当時の傾向を促進した。絶対王政は流入する金銀によって常備軍・官僚を養い重金主義を展開した。問屋制家内工業とマニュファクチュアが新たな工業経営として登場し資本主義が発展した。東欧は農業地帯としてとどまり、商工業の発展する西欧にたいする後背地となった。アメリカ大陸ではインディオの文明が破壊され、西欧人のもたらす病気・鉱山労働の酷使によって人口も減少した。スペイン植民地ではエンコミエンダ制によるインディオの貢納と、カトリックへの教化がすすめられた。新大陸の労働力としてアフリカの黒人奴隷を供給する奴隷貿易がはじめられた。そのアフリカでは奴隷貿易を商う沿岸諸国が栄え、従来の内陸貿易国が衰えた。南アジアでは銀が流入してルピー銀貨がつくられ綿織物工業がさかえた。東南アジアではフィリピンがスペインの支配下にはいりカトリック化した。東アジアではマカオにポルトガルが基地を設け、明朝には銀が流入、そのため両税法が一条鞭法に転換した。商人とともにイエズス会士もやってきて西欧合理主義が伝った。日本には鉄砲・火薬や中国の生糸などを日本の銀と交換する南蛮貿易がおこった。

第2問

(1)-1 かれは、借財のために市民間に存在した支配・隷属の関係を、帳消しによって平民の隷属化を防止した。以後非ギリシア人の奴隷制が発達する。また市民を収益によって4等級に分けて国政参加の権限を定め貴族制を廃止した。

(1)-2 かれは、血統による貴族政治を廃止し、収入の多寡により権利義務を定める財産政治を定め、下層民の政治参加の道を開いた。また市民の債務を帳消しにし債務奴隷を禁止して、民主制の基盤たる市民団の解体を防いだ。

(2)スパルタは,半島南西部の先住民を征服してヘロットという奴隷にしたてたが、なんども奴隷の反乱に悩まされたため、この奴隷抑圧のために市民を強固な軍人に育てあげる必要性があり、市民間の平等と軍事訓練に意を注いだ。

(3)政治の単位は都市国家であり、王制貴族制が否定されていた。市民皆兵と武装自弁の原理のもとに、中小農民の重装歩兵が軍事力の中核をなした。市民は生産に従事せず、大量の奴隷の生産活動が国家と社会を支えた。

(4)-1 ギリシアでは市民平等の原則にたって民会を最高決定機関とする民主政が実現したが、ローマでは元老院の貴族が種々の民会を指導する共和政にとどまった。前者は孤立した都市国家のまであったが、後者は帝国を形成した。

(4)-2 ギリシアでは貴族制が維持できなかったが、ローマの貴族は、巧みに平民と妥協を重ね、富裕平民をノビレスとして取込み実権を握り続けた。ギリシアよりローマでは法律、法の解釈、法律家の発展が見られた。

第3問

1.ロ(ニは独ソ不可侵条約が破られて独ソ戦がはじまってから米国のソ連援助がはじまる。) 2.二 3.ロ 4.ニ(イの内容はヴェトナムだけであり、他の2国は無関係。上の問題文にあげられた3国はみなフランスの植民地になるところだからニがふさわしい。) 5.イ 6.ロ 7.ハ 8.ハ(「進歩のための同盟」とはケネディの1961年にラテンアメリカ諸国に求めた同盟です。ニは「支持がえられなかったので」という理由でキューバ危機の原因としていますが、ミサイル基地を偵察機が発見して急に危機になったのであり、支持の有無とは無関係です。) 9.ロ 10.ハ 11.ロ 12.ハ