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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1983

過去問 -東京大学

第1問

 下記の設問に答えよ。(A)(B)各設問についてそれぞれ8行(1行30字)以内で記せ。

(A)10世紀ころに変動した朝鮮の国内情勢および国際関係について、その変動の前・後を対比しながら述べよ。

(B)16・17世紀の中国に生じた新しい動きについて、経済と思想の分野を中心として述べよ。

 

第2問

 下記の設問に答えよ。(A)(B)各設問についてそれぞれ8行(1行30字)以内で記せ。

(A)オスマン=トルコの西方進出が、16世紀末までの間に、東・西ヨーロッパにおいてひきおこした変動について、政治・経済・文化の側面から述べよ。

(B)1848年の各地の革命をへて19世紀後半に入ったヨーロッパでは、社会・政治の分野で変化が生じた。その重要な諸点について述べよ。(この問題とコメントも『世界史論述練習帳 new』にあり)

 

第3問

 下記の(A)~(J)の文章を読み、1~10の各空欄に適合する文章を、それぞれ指定された文章群からひとつ選び、イ~二の符号で答えよ。解答は答案用紙の(ホ)の欄に記入せよ。

(A)欧米諸国では、現在でも宗教・言語・人種の異なる住民をかかえて、そのため大きな問題に直面したり、独特な政治を行なったりしているところがある。たとえば、

  イ アメリカ合衆国では、第2次世界大戦後、黒人差別の撤廃運動が高まり、ケネディ政権のもとで公民権法が制定された。

  ロ カナダでは,1970年代ケベックで連邦からの分離運動が激化した。それは、ひとつには、18世紀の七年戦争でイギリスがカナダを植民地とする以前、フランスがカナダに進出していたことに由来する。

  ハ ベルギーは,1830年にオランダから独立し、宗教ではプロテスタントが国民の大部分を占めているが、フラマン語系住民とワロン語系住民との間に言語問題をかかえている。

  ニ スイスは、ドイツ語系、フランス語系、イタリア語系などの住民からなっているが、それは、ウィーン会議で独立が認められるまでカントン(州)を中心とした独特な国家形成がなされたことに由来する。

(B)アイルランドでは,18世紀後半以降、民族運動・解放運動がさかんになり、それに対し、イギリス政府は、

  イ 19世紀を通じて、アイルランドの多数派を占めるカトリックがいっさいの公職につくことを認めず、宗教問題で譲歩することを拒否した。

  ロ 19世紀後半、グラッドストンらが中心となって、地代を安定させ小作人が土地を購入する際の条件を緩和するなど、土地制度の一連の改革を試みた。

  ハ 19世紀後半、ディズレーりが首相のとき、自治の拡大を目標として2度にわたり自治法案を成立させようとしたが、いずれも成功しなかった。

  ニ 第1次世界大戦中、完全独立をめざすシン=フェイン党の勢力の増大と反乱をうけて、1922年、アイルランド全域に完全独立を承認した。

(C)第1次世界大戦で多民族国オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、いくつかの後継国家が生まれた。しかし、それらの新独立国も新たな民族問題の種をかかえていた。たとえば、

  イ チェコスロヴァキアでは、チェコスロヴァキア語を母語とする人びとと、とくにズデーテン地方のドイツ人との間に対立があった。

  ロ オーストリアでは、ドイツとの合併を望む声が高まったが、スラヴ系少数民族の反対によって実現しなかった。

  ハ ユーゴスラヴィアは、セルボ=クロアチア語を母語とする人びとと、スロヴェニア人をはじめとする様々な少数民族とからなっていた。

  ニ ハンガリーでは、スラヴ系民族に比べて、少数民族のマジャール人やルーマニア人の地位は低かった。

(D)1982年、イスラエルはレバノンに軍事力をもって侵入し、直接、パレスチナ解放機構(PLO)に打撃を加えようとした。「パレスチナ解放」運動が展開されるに至った歴史的要因は、主として[   ]にある。

  イ 古代からのユダヤ人とアラプ人の反目

  ロ 聖地イェルサレムの回復をかかげた十字軍の派遣

  ハ シオニズム運動とそれを利用したイギリス・アメリカなど強国の政策

  ニ ユダヤ人絶滅をめざしたナチスの政策

(E)インド亜大陸では、諸宗教徒間の問題はイギリスの植民地政策に利用されて、独立運動に大きな影響を及ぼした。また独立後もこの問題は容易に解決できなかった。たとえば、

  イ シーク教の発生の地であり、19世紀前半までシーク王国がさかえたパンジャーブは、インドとパキスタンの分離独立に際して、諸宗教徒間の争いによって東西に分割された。

  ロ 1885年に成立したインド国民会議(派)はヒンドゥー教徒の政治会議であって、イスラム教徒の参加が許されなかったため、1906年、イスラム教徒は全インド=ムスリム連盟を結成した。

  ハ カシミールでは、藩王がイスラム教徒で、住民の多くがヒンドゥー教徒であったため、インド・パキスタン両国は独立後その帰属をめぐって争った。

  ニ 1971年、ベンガルのイスラム教徒はアワミ連盟を中心として反乱し、インド連邦から分離してバングラデシュを建国した。

(F)東南アジアでは、欧米諸国の植民地支配に対して独立運動が進められ、その際、民族や宗教の相違によって引きおこされる複雑な問題にも対処しなければならなかった。たとえば、

  イ フィリピンでは、アギナルドがイスラム教徒の民衆を結集し、1898年の米西戦争の際、アメリカを支持して独立運動を進めたが、カトリックの知識階層はスペインを支持して、これに対立した。

  ロ インドネシアでは、イスラム同盟(サリカット=イスラム)が民族運動の団結の基礎をつくったが、結成当初には華人(華僑)に反撥する側面をもっていた。

  ハ ビルマでは、華人(華僑)が経済面でイギリス人とビルマ人との間に介在する存在であったために、1930年代以後、ビルマ人はインド人と組んで華人と衝突を繰り返した。

  ニ 1946年に結成されたマラヤ連合では、マラヤ人に特権的な市民権を与えたが,華人(華僑)とインド人とから反対を受けたため、1957年に独立したマラヤ連邦では全国民に平等な市民権を与えることになった。

(G)日本は、3次におよぶ日韓協約をもって韓国の主権を奪い、1910年、いわゆる「日韓併合」を行なって朝鮮の植民地化を進めた。[ 7 ]

7 イ これに対し、辛亥革命に呼応して三・一運動が展開され、それが朝鮮民族解放運動の出発点をなした。

  ロ これに対し、ヴェルサイユ条約は、民族自決の見地から、朝鮮人の自治を原則として承認した。

  ハ 日中戦争期以後、同化政策が一層強められ、創氏改名などを通じて、朝鮮人の民族的個性・伝統文化が抑圧された。

  ニ 太平洋戦争の開始後、朝鮮人にも徴兵制が施行され、それとともにすべての朝鮮人の成年男子に帝国議会選挙権が与えられた。

(H)中国の辺境地方および周辺諸国では,19世紀後半以後、清朝の衰微と欧米列強の進出とによって大きな変化が生まれた。

  イ チベットは清朝に服属していたが、イギリスとロシアの圧迫を受けるようになり、1895年、イギリスは日清戦争における清朝の虚をついてチベットに出兵した。

  ロ 東トルキスタンでは、イスラム教徒の反乱を機として、ロシアとイギリスがその影響力を強めようとしたが、清朝は反乱の鎮圧に成功して、1882年、新疆省を設置した。

  ハ ヴエトナムは、フランスの進出を利用して、宗主国の清朝から脱却をはかり、1884年、清仏戦争に際して一時独立を実現した。

  ニ モンゴリアでは、ロシアの影響が次第に強まり、やがて1911年の辛亥革命を機として、その全域にモンゴル人民共和国が成立した。

(I)南部アフリカでは、早くから白人が植民活動を行なった。

  イ 19世紀初め、イギリスが植民地を獲得する以前には、ブール(ブーア)人とよばれるポルトガル系白人が植民活動を行なっていた。

  ロ 19世紀後半、イギリスの植民者は内陸への進出をはかり、南阿戦争(ブール戦争)をへて、1910年、南アフリカ共和国という独立国が樹立された。

  ハ 南アフリカ共和国は、国内ではアパルトヘイト(人種隔離政策)を続けており、対外面では孤立主義的な政策をとり、1970年代にアンゴラをばじめとして黒人支配の国が成立したときも軍事介入を行なわなかった。

  ニ 北ローデシアは,1964年にザンビア共和国として独立した。一方、南ローデシアでは、長い間白人の少数支配が続けられていたか、1980年、ジンバブエとして独立した。

(J)スペインとポルトガルによって植民地化されたラテン=アメリカでは、白人の植民者と原注のインディオ(インディヘナ)や、奴隷として強制連行された黒人との間の混血が進んだ。

  イ その結果、北アメリカと異なり、インデブオや黒人が差別されるような状態は生じなかった。

  ロ 19世紀前半、ラテン=アメリカ諸国の独立運動を推進したのは、白人とインディオの混血(メスティーソ)および白人と黒人の混血(ムラート)の人びとであった。

  ハ 1910年にはじまるメキシコ革命では、サパタのような革命家が、インディオ独自の要求を掲げた。

  ニ スペイン・ポルトガルの文化が浸透し、インディオ固有の言語・文化は完全に消滅した。

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第1問の解き方] 

(A)

<国際:中国・北アジア>  <朝鮮>

               新羅:律令制、骨品制

 (907)唐の滅亡      ←朝貢    貴族

  五代十国 (916)契丹  (918)高麗、官僚集権制、文班

           ↓

           渤海の台頭←対決・朝貢

 (960)北宋        ←朝貢

   征服王朝(金元)    ←朝貢

(B)経済では、銀流入と税制の変化、湖広穀倉、江南の工業化、客商(かくしょう)、海禁緩和、階級分解、新大陸の物産流入。文化では四大奇書、陽明学と考証学、実学、イエズス会士、赤絵など。

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わたしの解答例

第1問

(A)新羅は律令体制をとり、独特の身分制度たる骨品制をしく貴族社会であった。10世紀に新羅による統一政権は崩れて分裂し、新たに王建が高麗を建国した。それは中国の唐滅亡と五代十国の分裂に呼応し、中国の宋と高麗が新たな王朝となった。外交は唐に朝貢する藩属国であった。代わった高麗は律令を維持し骨品制を廃止したが、貴族・豪族は残り、武人政権がつづき、科挙を導入してから次第に文班が台頭する。唐代の外交とちがい宋にくわえ遼・金・元朝という征服王朝との二重外交に対応しなくてはならなかった。

(B)経済。江南に絹・木綿・陶磁器などの手工業が発展し、マニュファクチュアを採用する職種も出現した。また藍・茶・棉花などの商品作物栽培も盛んとなり穀倉は湖広に移った。新安・山西商人は全国を商圏とし、各地に会館公所を設けた。この発展に促され墨銀・日本銀が流入し、銀納の一条鞭法がは始まった。思想。朱子学への批判が実践性を強調する陽明学に、この陽明学への批判と、イエズス会士のもたらす西欧科学の合理主義は実証性を強調する考証学の成立をうながした。士大夫の中にも実学を尊ぶ傾向も生まれた。

第2問

(A)政治。ビザンツ帝国がほろび東欧南部はイスラム教オスマン帝国が支配することになった。西欧ではフランスとオスマンとがカピトレーションをむすび、反ハプスブルク包囲網をきずいた。経済。東欧南部ではイスラム教による徴税・人材徴発がおこり、北部は西欧輸出向け農産物を輸出するグーツヘルシャフトが成立した。西欧の商業革命を後押しした。文化。東欧ではコンスタンティノープルが占領されてイスタンブールとなったため、正教の本山はモスクワに遷った。西欧ではビザンツの学者が移住しルネサンスを刺激した。

(B)社会。都市が工業化した。イギリスの技術が西欧にひろまり産業革命が進行、工業都市が大発生し、都市に人口が集中した。身分・階級面では、貴族から大ブルジョアが社会の担い手となり、さらにプロレタリアートが結束して労働組合・社会主義政党を結成してブルジョアに対抗する構図ができた。政治。後進資本主義国では国民主義が独伊のように国内統一戦争を展開し、荒々しく実現した。先進資本主義国では政治的自由主義が達成されたが、ナポレオン3世に見られるような現実主義外交と海外進出・帝国主義も推進された。

第3問

A.ロ B.ロ C.ハ D.ハ E.イ F.ロ G.ハ H.ロ I.ニ J.ハ(イ 差別が生じなかった、ということはありません。教育は一切ほどこされず、独立運動して民主的な憲法を定めましたが文盲のインディオ・黒人は政治に参加できませんでした。)