世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1985

第1問

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、いくつかの戦争が起り、また、世界各地でさまざまな反帝国主義運動が展開された。下記の諸都市と関連することがらを思い浮かべながら、1894年から1910年にいたる時期の反帝国主義運動について、20行(600字)以内で述べよ。なお、下記の都市名を解答文の中で使用する必要はない。解答は解答用紙の(イ)の欄に記入せよ。

  東京 漢城(ソウル) 北京 マニラ カルカッタ テヘラン イスタンブル ハルトゥーム ペテルブルク ハバナ

 

第2問

下記の設問(A)〜(C)に答えよ。解答は解答用紙の(ロ〕の欄を用い、設問の順序に従って記せ。なお、解答の冒頭に(A)〜(C)の符号を付すこと。

設問

(A)中国の科挙制の意義は、その開始から明代に至る間にかなり変化した。この変化について、この間の社会の動きを念頭におきつつ、7行(1行30字)以内で述べよ。

(B)14・15世紀の朝鮮における支配層について、当時の思想動向に関連させながら、3行以内で述べよ。

(C)15・16世紀のインド洋を中心とする東西交通史上の重要事件について、4行以内で述べよ。

 

第3問

 1821年にギリシア独立戦争が始まったとき、当時の西欧の人びとは、西洋文明の源泉である古典ギリシアの文化を築いたギリシア人が、長年の暗黒の中から立ち上がったように感じたのであった。多くの西欧の知識人がギリシア独立運動に身を投じたのも、このような感情の表われであった。しかし、古典ギリシアだけがギリシアの歴史のすべてであるわけではない。ギリシアは、古典文化が衰えた後にも、ローマ、ビザンティン、オスマンなどの帝国支配をつぎつぎに受けていく中で、なお地中海世界の東西を結ぶひとつの接点としての役割を果し続けた。またギリシアは、複雑な近代国際政治の焦点のひとつとしても、しばしば歴史の舞台に登場してきたのである。下記の設問(A)~(H)について、解答用紙の(ハ)の欄を用い、設問の順序に従って解答せよ。

設問

(A)マケドニアが属州化され、コリントも破壊されて、ギリシア世界が名実ともにローマの軍門に降った年に、ローマが地中海に覇権を築く上で決定的な意味をもつもうひとつの出来事が起った。この出来事を簡明に事項名で記せ。

(B)スラヴ人の移動によって、9世紀ごろから、スラヴ世界とビザンティン帝国との間には密接な関係が生じるようになった。スラヴ人は、キリスト教の受容のほかにも、ビザンティン世界からさまざまな文化上の影響を受けた。その事例のひとつを記せ。

(C)ギリシア本土の一部とエ一ゲ海地域の一部とは、13・14世紀には、二つのイタリア都市の支配下に入り、海上貿易の拠点として利用された。この二つのイタリア都市名を記せ。

(D)小アジアに興ったオスマン・トルコは、バルカン半島に進出し、15世紀末にはギリシア本土のほぼ全域をも支配するに至った。オスマン・トルコは征服に際して、領内のギリシア人その他のキリスト教徒の子弟を徴用し、常備軍団として利用した。この軍団の名称を記せ。

(E)16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国は、ギリシア人の多く住む地中海の島々を征服していった。そのひとつであるクレタ島から、キュリアコス=テオトコプーロスという名の画家が出て、スペインに渡り、特異な作風の宗教画家として活躍した。この画家の通称を記せ。

(F)独立をめざすギリシア人の蜂起は、オスマン帝国軍によって抑圧された。しかし、最終的にはオスマン帝国も、1829年のアドリアノープル条約によって、ギリシアの独立を認めるに至った。その背景には、ヨーロッパ列強の力が強く作用していた。ギリシア独立をめぐるこの国際情勢について、4行以内で述べよ。

(G)西欧におけるギリシア独立運動支援の文化的背景には、ロマン主義とギリシア愛好の精神との結びつきが見られた。この風潮の中で、独立軍に参加した西欧の詩人をひとり挙げよ。

(H)独立後のギリシアは、ギリシア人の住む地域を自国の領土に組み入れていく政策をとった。このような政策によって、特にオスマン帝国との間に激しい緊張が生まれ、小規模な衝突は除くとしても、(a)1897年、(b)1912~1913年、(c)1917~1918年、(d)1921~1922年の4回にわたって戦争が起った。この緊張は、その後、トルコ共和国とギリシアとの関係にも尾を引き、近年のキプロス紛争にもつらなっている。上記の(c)および(d)の戦争の終結にあたって結ばれた条約名を、年代順に記せ。

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第1問のコメント

 タバコ・ボイコット運動は1891年なので、この問題の解答に入れてはいけないのではないか、という疑問があります。イランの「タバコ・ボイコット運動」は確かに年代的には課題の時間前ですから無くてもよかったのです。ただ2年間つづいた全国的な騒擾は静になりますが、一部では反国王運動としてつづき、タバコ利権を認めた国王ナーセロッディーン・シャーが、パン・イスラム主義者に暗殺されます(1896)。反帝国主義の指導者アフガーニーの指導を受けた暗殺者でした。これは教科書に書いてないので書けなくてもいいです。しかしわたしは調べてこれを入れて良いと判断しました。

 もう一つ。この運動は「反専制運動」ではないか、という疑問もありますが、次の史料を読まれると、その面も持っていますが、反帝国主義の面もシッカリあることが分かるはずです。タバコ・ボイコット運動に火をつけた新聞記事です。

 

『アフタル』紙記事1890年11月11日号 ……イラン国王の意向に基づく利権供与によって、イラン全土で生産されたタバコとその売買が、独占的にひとつの手に委ねられることとなった。……こうした事柄は、れまで、どこであろうと目にしたことはなく、この限られた検討からも言えることは、イランのタバコの輸出のすべてが外国の一会社の手に委ねられるということであり、その事の重要性は如何なる想像をも超えているということである。

……イランのようなタバコの生産が国家の富の重要部分を成すような国にあっては、独占規定が実施されるような場合には、その利権は国内に限られるべきであり、その輸出に関しては如何なる規定からも自由であるべきなのだ。至高なるオスマン政府のタバコ独占利権に関する勅令でさえ、この点に関しては配慮がなされているのである。ところが誠に残念なことに、イランの政府関係者たちはこの点を無視し、輸出の自由に関しては何らの方策も講じてはいないのである。この一事からしても明らかであるが、イラン政府関係者は、独占利権保有者の声明とは裏腹に、オスマン帝国のタバコ独占利権の内容からは、何ら学んではいないのである。(世界史史料9 岩波書店)

 英文のウィキペディアの記事では、次のように書いています。

The boycott was one of the first times the Iranian religious elite succeeded in forcing the government to retreat from a policy, and was seen as a demonstration that "the Shia ulama were Iran's first line of defense" against colonialism。

 

[第2問の解き方

(A)「社会の動き」をどれだけ入れられるかが課題。つまり形勢戸と郷紳をどう入れるか、にかかっています。

(B)「14・15世紀の朝鮮における支配層」とは高麗から李氏朝鮮への転換です。高麗は「モンゴル民族による支配」があったもののモンゴル人は紅巾の乱がおきる前から分裂していて高麗に圧力はかけられない状態でした。元朝が滅びても内蒙に北元が存在しましたから、朝鮮半島が李氏朝鮮に変っても、新王朝の明朝につくか親元派となるかの抗争になり親明派の李成桂が勢力争いに勝った。仏教を国教としていた高麗で科挙は行われていたの両班はできていたのですが、あくまで支配層にはなれず下級官僚でした。初めは貴族・豪族の支配です。李氏朝鮮になって両班支配が確立します。こうした高麗と李氏朝鮮の対比が必要。

(C)西から東への到来ばかり書いてしまいやすい。東からの鄭和も、そうすれば「東西交通史」になります。知っていたらディヴ沖海戦をあげてもいい。

 

わたしの解答例

第1問

東アジアでは、第二次日韓協約を強要した日本帝国主義の侵略にたいし朝鮮で反日武装闘争たる義兵運動がおこなわれ、義兵のひとり安重根は伊藤博文を暗殺した。半植民地と化していた中国では、1899年から民間信仰の発展した義和拳教団が中心となって列強の建設した教会・鉄道を襲った。翌年には北京を占領したため、8カ国連合軍の出兵を招き、西太后は一時これを支持して列強に宣戦布告をしたことがある。東南アジアのフィリピンでは、米西戦争後の米国による併合に対抗してアギナルドの「反乱」があり、米国を苦しめた。フランス領インドシナ連邦では、越南維新会のファン=ボイチャウが中心となって日本に留学する東遊運動が行われた。南アジアでは、イギリス帝国主義にたいして、国民会議派がベンガル分割令に反対してカルカッタ大会をひらき、スワラジ・スワデシなど四大綱領を採択し大衆的反帝国主義運動をおこなった。西アジアでは、イランがイギリスの利権獲得に怒りタバコ・ボイコット運動を推進、利権回収に至った。またアフガニーらの反帝国主義を鼓吹する啓蒙遊説がなされた。アフリカのスーダンでは、マフディー教徒による建国を阻止しようとするイギリスにたいして果敢な武装闘争を展開したため、その進出を停滞させた。西欧では、アイルランドにシン=フェイン党が結成され、支配者のイギリスにたいして経済的・政治的自立を求めたが、しだいに武装闘争に発展していった。

第2問

(A)隋代導入の科挙は、推薦制から応募制への転換という意義をもち、唐代でも拡充されたが、蔭位の制は門閥貴族に有利な面を残した。だが武后の科挙官僚の採用から重要度が増し、唐末五代に貴族が没落し、宋代に皇帝臨席の殿試が創始され、庶民地主の形勢戸が台頭し官僚となったことで、科挙は文治主義に基づく君主独裁を支える意義を有すに至った。元代科挙は意義が著しく低下するも、明は科挙を整え君主独裁体制を確立、科挙は郷紳の台頭をもたらした。

(B)高麗の支配層は豪族であり、しだいに両班が台頭した。仏教を国教とし、元朝の侵入時には大蔵経を印行した。李氏朝鮮に代わり、国教は朱子学に転換したため支配層は両班となり、仏教を排斥した。

第3問

(A)ポエニ戦争に勝利 (B)キリル文字 (C)ジェノヴァ、フィレンツェ (D)イェニチェリ (E)エル=グレコ(宗教画家というのがミソです。クレタ島出身でありながらスペインで活躍した画家でギリシア人と名乗る人物。)

(F)エジプトはシリアの領有権を求めオスマン帝国を支援しロシアは不凍港や肥沃な土地を求めて南下政策をとっていたためギリシアを支援した。ロシアの南下により自国の植民地支配に影響が及ぶことを懸念したイギリスとフランスもギリシアを支援する側にたった。

(G)バイロン (H)セーヴル条約、ローザンヌ条約