世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1986

第1問

 キリスト教文化圏としてのヨーロッパは、中世初期から現代にいたるまで、イスラム世界と境を接し、政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた。この観点から、19世紀の前半にいたる両者の交渉や勢力関係の歴史を、600字以内で記述せよ。なお、解答文では、下記の語句を少なくとも1回は使用し、最初に用いたときに下線をほどこせ。解答は答案用紙の(イ)の欄に記入すること。

  グラナダ 近代科学 オスマン帝国 1820年代 ハンガリー ウマイア朝
  レパントの海戦 東方問題 ビザンティン帝国 十字軍

 

第2問

 下記の設問に答えよ。〔 〕内に用語の指示がある場合は、それらを少なくとも1回は使用すること。解答は答案用紙の(ロ)の欄を用い、冒頭に(A)~(C)の符号を付して、それぞれ5行以内で記せ。

設問

(A)ナポレオン戦争およびこれに続くウィーン体制の成立は、南北アメリカにいかなる影響を及ぼし、またどのような動きをひき起こしたか。

(B)19世紀半ば以降、各国植民地に中国・インドからの労働力の移動が増大した。その理由、移動先、ならびに従事した仕事の内容について述べよ。

(C)中国は長期の抗日戦を通じて国際的地位を高め、国連五大国の一つとなったが、その民族運動の内部には戦争後期から戦後にかけて大きな変化が起こり、中華人民共和国が成立した。どのような変化が起こったか、その経過について述べよ。

  〔重慶 政治協商会議 土地改革〕

 

第3問

 以下の三つの文章(A)、(B)、(C)は、古代ギリシア・ローマ、インドおよび中国における歴史の発展の大筋について、それぞれの世界の特徴を明らかにしながら述べたものである。下線部(1~9)に応じた設問(1)~(9)につき、解答欄(ハ)を用いて答えよ。なお、解答は設問ごとに行を改めて記せ。

 

(A)古代ギリシアは、オリエント文明の周辺に位置する、二次的文明の世界である。しかし、そこに開花したのは、オリエントには見られない、自由な市民たちから成る都市国家と(1)批判精神にあふれた文化とであった。イタリア半島に、やや遅れて形成された共和政ローマの社会と文化も、(2)ギリシアとほぼ同じあり方を示し、オリエントや中国、インドなどとは異なる様相を呈している。しかしながらローマは、その対外的発展にともない、しだいに都市国家の枠組を越えて、ついには共和政から帝政への転換を行い、(3)3世紀末以降、むしろオリエントの専制国家に近い支配体制を生み出すにいたっている

 

設問

(1)このような精神を体現し、人間と社会のあるべき姿を人々に問いかけつつ、自由に論じた代表的な哲学者の名を挙げよ。また、彼の人格と思想は同時代の誰の筆によって後世に伝えられたか、その著作家の名も併せて記せ。

(2)しかしローマでは、共和政末期にいたるまで貴族による政治的支配が事実上つづいたので、ギリシアにくらべると、そこでの民主政は不徹底のままに終わった。このような事実を端的に表わすローマの国政運営上の特徴を一つ選び、1行以内で略述せよ。

(3)この過程について、改革を行った2人の皇帝の名を挙げながら、4行以内で説明せよ。

 

(B)(4)いくつかの有名な都市遺跡の存在にもかかわらず、インド古代文明は全体としてギリシア・ローマの文明ほど都市的なものではなかった。海岸線から奥深い、農業・牧畜を基本にした生活から、人々は自然の力をほめたたえ、人間の物質的な欲望に制限を加えんとする内省的な文明を誕生させた。それは具体的には宗教や哲学に結実しただけでなく、宗教との結びつきのなかから(5)科学を発展させ、やがて政治の分野でも、(6)高い政治理想にもとづく政策を遂行する統一帝国をインド亜大陸に完成させたのである。

 

設問

(4)これらの都市遺跡の名を二つ記せ。

(5)古代インド人が果たした自然科学の発展における貢献を二つ挙げよ。

(6)ここで言われた政策とは何であるか。この政策を採用した「神々に愛された者」の別称で知られる支配者の名を挙げつつ、1行以内で略述せよ。

 

(C)中国の古代文明は、他の諸文明の影響をあまり受けることなく、生来の個性を成長させていた。殷周時代から(7)秦漢時代にかけての「邑制国家から専制国家へ」、あるいは「(8)封建から(9)郡県へという国家体制と支配制度の発展にしても、それは、黄土地帯という独特な風土に根ざした中国固有のものであったといえる。

 

設問

(7)唐の柳宗元は、その『封建論』の一節で、「漢の天下を有(たも)つや、秦の(木偏+王、ゆがみ)を矯(ただ)し、周の制に(ぎょう人偏+旬、したが)い、海内を剖(さ)きて宗子を立て、功臣を封ず」と述べている。ここに言われる漢の制度とは何か。この制度はやがてある事件を契機に、実質上廃止された。その事件とは何か。各々事項名を記せ。

(8)中国の「封建」はどのような点で中世ヨーロッパの封建制(フューダリズム)と相違するか。2行以内で説明せよ。

(9)ちなみに明末清初の激動期には、清の支配に抵抗する立場から「郡県」の当否を論じた学者もあらわれ、実学としての古典研究がさかんとなる。このような学風をおこした学者を1人挙げよ。この学風をうけ、やがて厳密な文献批判を重んじる学問が発達した。この学問は何と呼ばれるか。

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[第1問の解き方

 「ヨーロッパ」が東ヨーロッパも含まれていることに注意です。つまりバルカン半島での双方の対立があります。ビザンツ帝国との対立・影響を省いてしまわないように。オスマン帝国は書かざるをえませんが。

 注意しなくてはいけないのは、たんなる異宗教間の対立史ではだめだ、ということ。「ヨーロッパは、……接し、政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた。この観点から……」とあるのでヨーロッパ側の影響の方に重点を置いて書いていくことです。

[第2問の解き方

(A)一部だけ書いて満足しない「構想メモ」は以下のようになるでしょう。

ナポレオン戦争→北米:米英戦争(海陸)、木綿工業の発端、国民主義

       →南米:本国の危機と独立戦争の勃発

ウィーン体制→北米:モンロー宣言(対西欧・露)

      →南米:独立戦争の継続・イギリスの援助(軍事・経済)による達成─→イギリスに従属

 問題文は短いが、よく読むことが必要です。「ナポレオン戦争 and ウィーン体制の成立は」「南 and 北」アメリカに影響・動き──という問いです。戦争と体制をごっちゃにしないで、戦争で北米にこうこう、南米でこうこう、と説明した後に体制成立で北米ではこうこう、南米ではこうこう、と書く。

(B)労働力移動の理由:

欧米は奴隷制廃止による植民地労動力の需要

中国は人口増加、地主制(半植民地化)拡大による農民没落、海禁の廃止

インドは農村共同体の崩壊モノカルチュア(単一栽培経済)化の拡大による旧来の社会の破壊と貧困

移動先:東南アジア、南アフリカ、中南米(カリブ海)、太平洋の島々

仕事:鉄道、道路建設、鉱山、プランテーション

(C) 問題文がわかりにくい。「戦争後期」とは、まず戦争は「抗日戦」日中戦争(1937~45)であり、その後期は1941年末の太平洋戦争勃発から45年まで。戦後にかけては、もちろん1949年の中華人民共和国の成立まで。かんたんには40年代のことです。「民族運動の内部には……大きな変化」というのは何を指しているのか、はじめはピンときません。ただ最終的に「中華人民共和国が成立した」とあるので、共産党が勝利した、それ以前は国共合作、国民党と……とかんがえると、民族運動の主導権が国民党から共産党に変わることだろうと推測できます。変化の主因は土地改革。教科書では「国民党の支配は内部の腐敗や汚職がめだち、経済も悪化したため、民衆の批判をあびた。一方、中国共産党は毛沢東の指導のもとに新民主主義論をとなえ、農村部で土地改革を指導して支持をかため(詳説世界史)」という部分です。

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わたしの解答例

第1問

7〜9世紀はイスラム側の攻勢であった。ウマイア朝は西欧内部にまで進出し地中海を制圧した。それは西欧に封建制・荘園制を成立させる一因となった。攻撃をうけたビザンティン帝国は屯田軍管区制で対応し、聖像禁止令でイスラム側の批判をかわした。帝国は11〜13世紀には西欧とともに攻勢にでる。西方のレコンキスタの本格化と東方の十字軍運動がその例であり、教皇権は一時盛期を迎えた。西方ではグラナダ陥落によって運動は完了した。それとともにイスラム文献の翻訳「十二世紀ルネサンス」は大学設立やスコラ哲学の完成につながった。14〜16世紀中葉ではイスラム側が反転してくる。オスマン帝国はバルカンに進出、フランスはこの帝国とカピトゥレーションを結び、カール5世にたいする反ハプスブルク体制をつくった。このため新旧対立の宗教改革はその対立が緩和された。進出をうけたバルカン半島にはデウシルメ制とミッレト制がしかれ諸宗派・民族の火薬庫を形成することになった。プレヴェザ海戦・レパントの海戦とつづくオスマン帝国の地中海進出は「発見」の背景となり西欧人の世界進出を促した。文化的にはビザンツ学者の逃避、イタリア商人の地主化がイタリア・ルネサンス発展の要因となり、近代科学に継承された。17世紀末からは西欧が反撃し、ハンガリーを奪還したオーストリアや、1820年代のギリシア独立戦争や東方問題にかかわった英仏の介入が深くなる。

注:一般にはウマイ「ヤ」朝とつづるが指定語句は「ウマイア朝」となっていたのでこのまま使います。

第2問

(A)戦争は英米戦争をひきおこし米国に国民主義と木綿工業を勃興させた。戦後の体制の新大陸に干渉しようとする策動に対してモンロー宣言を発表し孤立主義外交を鮮明にした。南米では戦争中に本国から独立の動きが生まれ、戦後の闘争の結果、独立を達成した。英国の援助を受けたことから経済的には英国に従属することになった。

 

(B)理由は、インド・中国ともに人口増加があり、インドの植民地化による農村の荒廃、中国における地主制の拡大が離村者を生みだした。移入側の欧米植民地には奴隷制廃止から労働力不足をきたしていた。移動先は東南アジア、南アフリカ、新大陸、オーストラリアなど。仕事は鉱山の採掘、農園労働、森林伐採など。

(C)重慶の国民党と延安の共産党の第二次合作は、戦争後期に国民党が共産党を弾圧したため事実上崩壊した。抗日戦と解放区の減租運動は共産党への支持を集め、戦後の政治協商会議が決めた停戦は守られず再内戦となった。その間、共産党は中国土地法大綱で地主制を廃止する土地改革で国民党の基盤を崩し、内戦に勝利した。

第3問

(1)ソクラテス、プラトン(アリストファネスにもソクラテスに関する著作はあるものの、『ソクラテスの弁明』『パイドン』などプラトンという弟子の著作に頻繁に出演しているので、プラトンの方がベターでしょう。)

(2)立法議決権以外の政治的決定権は元老院が握っていた。(あらゆる民会の議決したものを批准する権利をもつ元老院の存在)

(3)ディオクレティアヌス帝は軍人皇帝時代の混乱を平定するために皇帝崇拝を強制し官僚や軍隊の任免権をもった。続いてコンスタンティヌス帝が官僚制度を確立して帝国支配を行った。また人民の職業選択や移住の自由を制限した。(ディオクレティアヌス帝は常備軍を拡大し、臣下には跪拝礼を課し、冠を初めてかぶり官僚制を整備した。コンスタンティヌス帝は前任者のキリスト教迫害をやめてキリスト教の神による恩寵説を受け入れ、職業・ギルドを固定し、農民の移動も禁止した。)

(4)モヘンジョ=ダロ(モエンジョ=ダーロ)、ハラッパー (5)ゼロの観念、十進法 (6)アショカ王は仏教の法理念を活かしてダルマ政治をおこなった(生命の尊厳・寛容など人間の普遍的倫理「ダルマ」を政治や外交に反映させようとつとめた)。(7)郡国制、呉楚七国の乱

(8)西欧の封建制は血のつながりがなく君臣間に双務的契約がある。中国は本家分家の氏族性的性格が強く、契約がなかった。

(9)黄宗羲、考証学