世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1992

*[東京大学]*[過去問]

第1問 (○の中に数字を入れた記号はOSにより表示できないので、〔 〕の中に数字を入れて示します、1字分のつもりです)

  今日の地球は、ほとんどが独立した主権をもつ国家によっておおわれている。このように国際社会が主権国家によって構成される状態を、主権国家体制と呼ぶことができるが、それは歴史的に形成されたものであった。右ページの、〔1〕南北アメリカ、〔2〕東ヨーロッパ、〔3〕東南アジア、を中心とする概略図は、白い部分が主権国家体制のもとにある地域を表している、これら三組の地図は、主権国家により構成される国際関係の発展にとって画期をなした三つの世界的変動の、それぞれの前後の時期の変化を示したものである。この三組の地図に示された変化の特色に注目して、主権国家体制がそれぞれの段階でいかなる新しい展開を示したかを、20行以内(600字)で論ぜよ。解答は解答用紙の(イ)の欄に記入せよ。 

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第2問

 17世紀から19世紀初頭までの間における、世界的な規模での商業上の覇権争いと植民地争奪戦とについて、下記の設間(A)~(D)に答えよ。解答は解答用紙の(ロ)の欄を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(D)の符号を付けよ。

 (A)17世紀に、オランダとイギリスはアジアにおいても香辛科貿易をめぐって抗争したが、その抗争を示す事件の名称とその事件の結果とを、3行以内で記せ。

 (B) 1651年にクロムウェルは航海法(航海条令)を発布したが、その航海法の目的と結果とを、3行以内で記せ。

 (C) 七年戦争の時期に、イギリスとフランスは新大陸およびアジアで植民地をめぐって抗争したが、その抗争の経緯と結果とについて、5行以内で記せ。

 (D) 1806年にナポレオン1世は大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布したが、その大陸封鎖令の目的と結果とを、3行以内で記せ。

 

第3問 

 東西の世界を結ぶ貿易や交易が実現される背景には、各世界独自の文明と、それぞれの政治・経済の面での動因とがあった。このような事情に関する以下の各設問について、解答用紙(ハ)の欄を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(15)の番号をつけて答えよ。

 

(A)中国の伝統的な対外貿易は、中華思想にもとづいて、他国に対する恩恵とされ、国家の統制のもとにおかれていた。

 設問(1) この独特の国家的な貿易様式を何というか。

 設問(2) 唐代には、南海貿易の繁栄にともない、貿易事務をつかさどる役所が設けられた。その役所とは何か。

 設問(3) 宋代には、江南の開発にともない、東アジア諸国や、のちにはヨーロッパにまで輸出されて、それらの国ぐにの生活習慣に影響を及ぼすことになる作物の栽培が盛んになった。その作物は何か。

 設問(4) 明代初期には、日本との貿易もふくめて、海上貿易が一段と進展した。その事情について、以下の三つの用語をすべて使って、2行以内で記せ。

  鄭和  勘合貿易  倭寇

 設問(5) 中国が対等な「外国」の存在を認めたのは、のちの清朝になってからであるが、この事情を象徴する新設の外交機関は何か。

 

(B) 7世紀から形成されはじめたイスラム世界は、イベリア半島から中央アジアにまで広がるに至り、海上でも、インド洋から東南アジアをへて南中国沿岸部に達する交易ネットワークをつくり出した。

 設問(6) 中国から中央アジアをへてヨーロッパに達する陸の交易路では、隊商(キャラバン)貿易が栄えた。中国から西方に送りだされた代表的な商品の名を一つ記せ。

 設問(7) 13世紀に入ると、新たに台頭した(a)非ムスリムの遊牧民族が、より西方にあって(b)ムスリム化しつつあった別の遊牧民族を圧倒し、この交易路を支配下においた。これら二つの民族の総称を、それぞれ(a)、(b)の符号を付して記せ。

 設問(8) 海の交易路は、中国からの高価な工芸品などを主要な交易品として繁栄した。その工芸品の代表的なものを一つ記せ。

 設問(9) この海の交易路における中継貿易をとおして、15世紀には、マレー半島先端部にムスリム系の港市(港湾都市)が栄えた。この港市名を記せ。

 設問(10) 陸海の東西交易路をムスリムが掌握したことに対抗して、15世紀末にはポルトガル人がインド洋に進出し、これより16世紀にかけて、海上のムスリムの交易ネットワークの分断をはかった。このとき、インド西岸でポルトガル人が中心的拠点とした都市はどこか。その都市名を記せ。

 設問(11) まもなくポルトガル人は、東南アジアでも、この地でのムスリムの交易ネットワークを分断しつつ、中国南部に至る自らの交易ルートの確立をめざした。中国南部でポルトガル人が拠点とした港市名を記せ。

 

(C)ヨーロッパ諸国のアジアへの進出と、18世紀以後のイギリスの経済的変動は、アジアの社会にも大きな変化をもたらした。

 設問(12) 次の表中の商品(a)は何か。また表中の商品(b)は、輸出先の地城で重要な政治的変化をもたらす契機となった。この(b)とは何か。それぞれ(a)、(b)の符号を付して記せ。


設問(13) 19世紀半ばのインド大反乱(セポイの反乱)についての記述として適当なものを、次の⒜〜⒝のうちから選んで符号で答えよ。
(a)この時期には、すでにインドでも近代的な綿工業や鉄鋼業が発展しており、民族資本の要求もこの反乱の背後にあった。
(b)この反乱では、国産品愛用が重要なスローガンとなった。
(c)非イスラム教徒に対する人頭税(ジズヤ)を課したことがヒンドウー教徒を怒らせて、この反乱の原因の一つとなった。
(d)この反乱では、イギリス支配のもとで権利を失った旧来の支配層も重要な役割を果たした。
(e)19世紀前半は、イギリスなどから海外への資本輸出が最も盛んだった時期で、この反乱はこれに対する反発でもあった。

設問(14) 19世紀前半頃より、オランダがジヤワにおいて、コーヒーやさとうきび等の作物を獲得するために採った制度の名は何か。

設問(15) 東南アジアでは、ゴムなどのプランテーションや錫などの生産が拡大するが、国外からの労働者が多数そこで働いた。これらの国外からの労働者の主な供給地域となった国のうち、一つを挙げよ。

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[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「この三組の地図に示された変化の特色に注目して、主権国家体制がそれぞれの段階でいかなる新しい展開を示したか」です。このうちの「変化」は左右の2枚の地図上に示されています。左から右への変化をよく見て、他の2枚の地図の変化と比較しながら(比較しないと、「特色(=他とのちがい)」も判りません)、この地図は(あるいは、この時期の)変化はこうこうだったが、それとちがい次の地図(時期)では、こんな「新しい」展開があったと述べることです。「新しい」というのは、前とはちがう変化が起きているということを示す必要があるということです。ところが学生に書かせてみると、地図ごとにそれぞれの変化、たいてい独立の過程を書くだけで、いったい、それぞれにどういう特色があるのか、なにが他の地図と比べて「新しい展開」なのか、さっぱり触れられない答案ばかりです。出版されている参考書も同じです。たんに、それぞれの変化を書きなさいであれば、なにも地図まで必要ではありせん。18~19世紀のアメリカ大陸、第一次世界大戦前後の東欧、第二次世界大戦後の東南アジアのそれぞれについて主権国家の成立を述べよ、でいいはずです。なんでまた、6枚もの地図が必要だったのか? 見つめて(「注目して」)考えることを要求し、特色をつかみだす能力を診断しようとしている問題です。

わたしの解答例

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。この参考書に載っている第1問の4種類の解答例のうちレベル1の解答例を下に示します。


図〔1〕では西欧植民地であったアメリカ大陸が独立した。憲法は、人間の自由・平等、圧政に対する反抗という近代民主政治の基本原理をもち、合衆国は連邦主義と大統領制・連邦議会・最高裁判所の三権分立の政体となった。ラテンアメリカも共和政で、奴隷制を廃止し、近代的な憲法を制定した。ただしクリオーリョの大地主の支配があり、憲法と社会との乖離は大きい。モンローがアメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉をとなえたため、ウィーン体制はこれらの独立運動に干渉することができなかった。多民族であったが大きな混乱もなく国造りができた。図〔2〕では東欧が独立した。原理は民族自決であり、旧帝国内の諸民族が独立した。しかし少数民族問題をかかえて国内のまとまりを欠いていた。議会政治ははやくから混乱し、民主政治を維持できた国は少なかった。むしろ過激な民族主義や強権的独裁政治で国民を統合しようとした。ただ従来の勢力均衡に代わる集団安全保障の国際連盟ができて、主権国家の動きを制限する国際体制を築いた点は新しい。図〔3〕は東南アジアの独立である。この地域への日本の侵略・抗日戦、そして戦前からの西欧諸国に対する抵抗運動も重なって、この地で独立闘争が展開した。どこも共和政になったが社会主義も原理として採用されている点が新しい。この闘争を背後から中ソという社会主義大国が支援し、米国が旧勢力を支援して冷戦という二極体制がこの地域で展開した。

第2問

(A)アンボイナ事件。イギリスが撤退しインド経営に専念した。またオランダは香料貿易を独占した。しかし賠償を要求するイギリスとの対立が深まり英蘭戦争の遠因となった。 

(B)中継貿易を主とするオランダに打撃を与え、イギリスの重商主義を徹底するため。3回にわたる英蘭戦争がおこりイギリスが勝利した。以後海上における覇権をイギリスに奪われることになった。 

(C)まず新大陸でフレンチ=インディアン戦争が勃発、イギリスはフランスの拠点ケベックを攻略して勝利し、パリ条約でカナダとルイジアナを獲得した。インドでは、東インド会社の書記クライヴが活躍、プラッシーの戦いでフランスとベンガル土侯の連合軍を破り、ベンガル地方を獲得しムガル皇帝から地税徴収権を認可された。 

(D)イギリス経済に打撃をあ与えるため大陸諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランス産業のために大陸市場を確保するのが目的。結果はかえって各国の経済を圧迫し、ナポレオンの大陸支配を動揺させた。

第3問 

(1)朝貢貿易 (2)市舶司 (3)茶 (4)倭寇制圧を条件に室町幕府と明との間で勘合貿易の制度が確立され、鄭和一行の南海諸国歴訪ににより朝貢貿易国が増加した。 (5)総理各国事務衙門 (6)絹 (7)(a)モンゴル族 (b)トルコ族 (8)陶磁器 (9)マラッカ (10)ゴア (11)マカオ (12)(a)綿布 (b)アヘン (13)d (14)強制栽培制度 (15)中国(インド)