世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1993

第1問

 現在、世界は冷戦の終わりを迎えている。第二次世界大戦後、長期にわたって世界史の流れに大きな影響を与えた冷戦は、世界の各地域で異なった現われかたをした。冷戦下の深刻な問題の一つが分裂国家の出現であったが、これまでにヴェトナムとドイツの二つの分裂国家が統合されている。この二つの分裂国家の形成から統合への過程を、冷戦の展開と関連づけて略述せよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に20行以内(600字)で記せ。また、使用した語句には下線を付せ。

  ゴルバチョフ  ジュネーヴ会議  封じこめ政策  平和共存  ベルリンの壁

 

第2問

 世界史上における宗教的少数派と中央権力の関係について、下記の設問(A)~(C)に答えよ。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(C)の符号をつけよ。

(A) イスラム世界における少数派としてシーア派がある。10世紀のイスラム世界で成立したシーア派の王朝名を二つあげよ。つぎに改行して、これら二つの王朝がスンナ派のアッバース朝カリフにどのように対応したかを、それぞれ2行以内で記せ。

(B) 16世紀にネーデルラントがスペインに対して反乱を起こした原因の一つに、宗教上の争いがあった。ネーデルラントが反乱を起こしてから、独立を宣言するまでの経過に、宗教上の争いがどのように関係していたかを、5行以内で記せ。

(C)清朝は義和団事件に際して、列強と交戦し、敗北して北京議定書を結んだ。民間宗教結社の流れをくむ義和団と清朝との関係について、義和団事件の時期を中心に、3行以内で記せ。

 

第3問

 ローマ帝国および秦漢帝国は、ともに世界帝国の名にふさわしい巨大な支配体制を築いた。それだけに両帝国の解体は、それぞれの世界の内外に大きな変動をもたらした。この事情に関する次の(A)と(B)との文章を読み、下線部についての各設問に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(9)の番号を付して記せ。

 (A) 古代ローマは、地中海沿岸地域をその強大な軍事力によって征服し.世界帝国へと発展した。しかし、内政の破綻やゲルマン民族の侵入などによって、5世紀には西のローマ帝国が減亡した。西ヨーロッパ世界では、西のローマ帝国の滅亡後、移動してきたゲルマン諸部族の国家が分立した。だがゲルマン諸部族は、(1)必ずしも現地のローマ系住民と融合できたわけではなく、それらの国家は権力基盤が弱体で、大半が短命に終った。しかしそのなかで、故地を離れず着実に発展したフランク王国が、古代ローマの遺産であるキリスト教思想、古典文化の伝統、(2)帝国の理念を採り入れ、西ヨーロッバに新しい政治体制をつくりあげた。

 いっぽう東のローマ帝国は、ビザンツ帝国として生きながらえ、6世紀には一時的にではあるが、(3)地中海沿岸のほぼ全城を制圧するほど強大になった。ビザンツ帝国では、古代ローマ以来の専制君主制が受け継がれ、(4)皇帝は政治と宗教の両面における最高権力者であった。また皇帝による中央集権的な支配を維持すべく、7世紀には(5)独特の行政制度がつくられた。

設問

(1) 融合できなかった理由の一つに宗教的な問題がある。それは何か。1行で記せ。

(2) 「帝国の理念」の復活は、とりわけビザンツ帝国からの独立を願う教皇庁にとって、重要な問題であった。この復活を企てた教皇の名を記せ。

(3) このときビザンツ帝国に滅ぼされたゲルマン部族の国家を二つあげよ。

(4) ビザンツ帝国でのこうした政治と宗教のありかたを何と呼ぶか。

(5) こうした制度を何と呼ぶか。

 

 (B)  東アジアの世界帝国は、専制主義的中央集権国家として出現した。秦漢帝国である。この帝国の末期には、耕作地の造成や維持管理がゆき届かなくなり、農民たちは(6)宗教結社にたよりつつ、為政者の交替を求める反抗を始めた。この活動は、やがて全国的な規模での大反乱に発展し、その嵐の中で秦漢帝国は崩壊した。中国はその後、晋朝の一時期をのぞいて、長い分裂の時代に入った。この時代、華北の畑作地帯では、南下した北方の遊牧・狩猟系の諸民族の一つである(7)鮮卑族によって専制主義の体制が再建された。いっぽう稲作地帯の江南では、大土地所有者による荘園の経営が発達し、(8)一部の貴族層が、(9)政府の要職を独占した。しかしこの江南でも、基本的には専制支配の体制が保たれたのであり、中国では、西ヨーロッパ世界とは違った歴史の展開がみられた。

設問

(6) この反抗を導いた宗教結社の名を一つあげよ。

(7) 華北における農業生産の復興は、平均主義に立つ土地制度が基礎となっている。485年にこの土地制度を実施した皇帝は誰か。またこの皇帝は、華北での政権を確立するために遷都を行なっている。どこからどこに遷都したのか。この二つの都の名を、旧と新の順序であげよ。

(8) この貴族層が主導した江南の文化を総称して何と呼ぶか。

(9) この結果を生んだ当時の官吏登用制度を何と呼ぶか。

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[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「ヴェトナムとドイツの二つの分裂国家が統合されている。この二つの分裂国家の形成から統合への過程を」です。副問(副次的要求)は「冷戦の展開と関連づけて」です。この副問は指定語句が国際的に書かざるをえない語句になっており、容易な問題になっています。確かに問題文の序文にあたるところで「異なった現われかたをした」とありますが、次の本格的な要求文のところでは、「異なった」ことを示せという比較の要求がありません。要求してもいい訳ですが、そうすると難問化します。避けたのでしょう。過去に「朝鮮戦争とヴェトナム戦争の原因・国際的影響・結果について、両者を比較しながら」という問題がありました(1987年度)。こうした問い方でないことがわかるはずです。

 [第2問の解き方

 (A)易問です。年号を覚えていないとぱっとは分からないかも知れません。年号を覚えているとすぐ出てくるはず。ファーティマ朝が909年にチュニジアに建国。これがエジプトに入りカイロをつくったのが969(黒雲ふってわく)年です。ブワイフ朝が945年にバグダードに入城しています(急進ごんじ(軍事)政権ブワイフ朝)。

(B)「宗教上の争い」というものがどの程度、いやできるだけしつこく追いかけて記述できるかがポイントです。ベルギーとなる南部がはじめからカトリックが多かったという、まちがった前提から書かないように。もともとはベルギーという都市(ブリージュ、ガン、イープル、アントワープ)の発展したところに、カルヴァン派が多かったのです。だからこそスペインによる新教徒弾圧はベルギーにはげしく、南部から北部にむかって逃亡していくひとひどがおおくなりました。アントワープをスペインは焼き討ちしました。結果的に北部が新教徒に多い地域になってしまいます。はじめから北部が新教徒の多い地域だったのではありません。

(C)「清朝との関係」とは西太后の対応が揺れうごい点がちゃんと書けるかがポイントです。義和団を利用して宣戦布告をしても情勢が思わしくなくなると裏切って、連合軍と組んで弾圧せよと命じます。。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問  

(1)ゲルマン人はアリウス派の異端信仰、住民は正統派であったため。 (2)レオ3世 (3)ヴァンダル王国、東ゴート王国 (4) 皇帝教皇主義 (5) テマ制 (6)太平道 (7)孝文帝、平城、洛陽 (8)六朝文化 (9)九品官人法