世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2003

*[東京大学]*[過去問]

第1問

 私たちは、情報革命の時代に生きており、世界の一体化は、ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに往きかうだけでなく、情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には、運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。

 歴史を振り返ると、運輸・通信手段の新展開が、大きな役割を果たした例は少なくない。特に、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、有線・無線の電信、電話、写真機、映画などの実用化がもたらされ、視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は、欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えばロイター通信社は、世界の情報をイギリスに集め、大英帝国の海外発展を支えることになった。一方で、世界中で共有される情報や、交通手段の発展によって加速された人の移動は、各地の民族意識を刺激する要因ともなった。

 運輸・通信手段の発展が、アジア・アフリカの植民地化をうながし、各地の民族意識を高めたことについて、下記の9つの語句を必ず1回は用いながら、解答欄(イ)を用いて17行以内で論述しなさい。

  スエズ運河 汽船 バグダード鉄道 モールス信号 マルコーニ 義和団 日露戦争 イラン立憲革命 ガンディー

 

第2問

 人類は、その初期から現代にいたるまでの長い歴史において、先行して存在した多様な文化を摂取、継承したうえで、新たな文化を創造し、次の世代へと伝えてきた。このことに関連する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

 

(A)ヨーロッパ人は、古代ギリシア・ローマの文化をヨーロッパ文化の源流のひとつとみなし、それを古典古代と呼んだ。ギリシアとローマの思想、文化を後のヨーロッパが受容していったことに関連する以下の問いに答えよ。

(1)カロリング朝のフランク王国では、各地から学識ある聖職者が宮廷に招かれ、ラテン語文化が復興した。そのさい、聖書などの写本作成に尽力したイギリス出身の人物の名と、彼を宮廷に招いた王の名を記せ。

(2)平面幾何学を大成させたエウクレイデス(ユークリッド)が、研究活動を行った都市名を記せ。また彼の著作が、アラビア語訳からラテン語に翻訳されたのは、何世紀か。

(3)西欧中世の学問は、アラビア語やギリシア語からラテン語への翻訳活動により飛躍的に発展した。古代の哲学者[ 〔1〕 ]の論理学や自然学の著作の翻訳は、西欧に大きな影響を与え、また彼の著作を注釈したコルドバ生まれの哲学者[ 〔2〕 ]の著作の翻訳も、西欧の学問を発展させた。文中の[ 〔1〕 ]、[ 〔2〕 ]に入る人物の名を記せ。

(4)ルネサンス期のイタリアでは、古代の建築を模倣した教会が多く建てられた。そうした教会建築のうち、フィレンツェで建てられた大聖堂の名と、そのドームを設計した建築家の名を記せ。

(5)イタリア戦争はルネサンス期に半世紀以上にわたってくりひろげられた。この戦争の誘因となったイタリアの政治状況について2行以内で記せ。

(6)ドイツ生まれのある考古学者は、少年時代に愛読した叙事詩中の出来事が史実を反映していると信じて、小アジアのトロヤ(トロイア)を発掘した。この考古学者の名と叙事詩の作者の名を記せ。

 

(B)インドと中国は、古代以来相互に影響をあたえつつ独自の文化をはぐくみ、日本を含む周囲の地域に大きな影響を残してきた。このことに関連する以下の問いに答えよ。

(7)儒教は古代中国におこり、東アジアで広く研究されてきた思想である。漢王朝のときに国教としての地位を築き、宋王朝のときに新しい体系化がなされた。この体系化のさきがけをなした北宋の思想家で、南宋の思想家に影響を与えた人物を一人あげよ。また、この新しい儒教は、その後中国でどのように扱われたか、一行以内でまとめよ。

(8)道教は、仏教に刺激され、民間信仰と神仙思想に古来の[ 〔1〕 ]思想を取り込んでできた宗教である。この思想が説いた内容は、漢字4字で[ 〔2〕 ]と表現できる。

 文中の[ 〔1〕 ]、[ 〔2〕 ]に入る語句を記せ。

(9)グプタ朝時代のインドは、古典文化の黄金期で、サンスクリット文学が栄えた。この時代の王チャンドラグプタ2世の宮廷詩人で、戯曲「シャクンタラー」を残した作者の名をあげよ。また、このころ完成した叙事詩の名前を一つだけあげよ。

(10)7世紀に入ると、チベットに古代統一王朝が現れた。この王朝の下で、後世に残されるこの地域の文字がはじめて作られ、新たに取り入れた仏教と固有の民間信仰とを融合させた独自の宗教が生まれた。この統一王朝を中国の史書では何と称したか。その名称を漢字で記せ。

 

第3問

 近世から19世紀までに人類は、産業革命とならんで、海上や陸上の交通手段の飛躍的な発展を体験した。その発展は、人や物の大規模な移動をひき起し、世界各地の人びとの暮らしに大きな影響を与えた。しかし交通手段の発展は、その支配をめぐって国際紛争をひきおこす原因ともなった。そこで以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

 

(1)近代以前にあっては航海術の水準は、ヨーロッパもアジアもさほどの違いはなかった。すでに15世紀の明代中国は、インド洋を越えてアフリカ東海岸まで進出するほどの航海術や造船技術を持っていた。その時代に大艦隊を率いて大遠征をおこなった中国の人物の名を記せ。

(2)モンゴル帝国では、首都から発する幹線道路沿いに約10里間隔で駅が設けられ、駅周辺の住民に対して、往来する官吏や使臣への馬や食料の供給が義務づけられていた。この制度によって帝国内の交通は盛んになり、東西文化の交流も促された。この制度の名称を記せ。

(3)1498年に喜望峰を回航したバスコ・ダ・ガマ船団を迎えたのは、マリンディ、モンバサなど、東アフリカの繁栄する商港群であった。それらはインド洋・アラビア海・紅海にまたがって広がるムスリム商人の海上貿易網の西の末端をなしていた。これらムスリム商人が使っていた帆船の名を記せ。

(4)18~19世紀は「運河時代」と呼ばれるように、西ヨーロッパ各地で多くの運河が開削され、19世紀の鉄道時代の開幕まで産業の基礎をなした。ブリッジウォーター運河が、最初の近代的な運河である。それは、イギリス産業革命を代表するある都市へ石炭を運搬するために開削された。その都市の名称を記せ。

(5)1807年に、北米のハドソン川の定期商船として、世界で初めて商業用旅客輸送汽船が建造された。これを建造した人物の名を記せ。また1819年に、補助的ではあったが蒸気機関を用いてはじめて大西洋横断に成功した船舶の名称を記せ。

(6)1869年に開通した大陸横断鉄道を正しく示しているのは、図の(a)~(e)のどれか。1つを選び、その記号を記せ。

f:id:kufuhigashi2:20130618063615g:plain

(7)1883年10月4日にパリを始発駅として運行を開始したオリエント急行は、ヨーロッパ最初の国際列車であり、近代のツーリズムの幕開けを告げた。他方で、終着駅のある国にとっては、その開通はきびしい外圧に苦しむ旧体制が採用した欧化政策の一環であった。オリエント急行の運行開始時のこの国の元首の名と、終着駅のある都市の名を記せ。

(8)アジア地域における大量交通手段は、欧米から技術と資本を導入して建設されることになり、そのためしばしば欧米列強の内政干渉の口実と、経済支配の手段にもなった。欧米列強が清朝末期に獲得した交通手段に関係する権利を一つ、その名称を記せ。

(9)1891年に始まったシベリア鉄道の建設は、日露戦争のさなかの1905年に終った。このシベリア鉄道の起点をウラルのチェリャビンスクとすると、終点のある都市はどこか。その名称を記せ。

(10)ロンドンの地下鉄は1863年に開通したが、蒸気機関を使っていたためにその経路は地表すれすれの浅い路線に限られていた。1890年に画期的な新技術が採用され、テムズ川の川底を横切る新路線が開通した。ひきつづき同じ技術を用いてパリに1900年、ベルリンに1902年、ニューヨークに1904年にそれぞれ地下鉄が設けられた。その画期的な新技術とは何か。その名称を記せ。

………………………………………

[第1問の解き方

 予備校の解答を見て糠(ぬか)喜びを味わった学生もいるでしょう。予備校の解答に疑問を感じた学生もいるはず。疑問を感じた学生は正常です。

 さて、問題の要求を正確につかまえることが肝心です。それが予備校でもできない。

 この問題には二つの要求があり、次のように言い換えることができました。

 1「運輸・通信手段の発展が」→植民地化をうながし

 2「運輸・通信手段の発展が」→民族意識を高めた この二つを書くことが課題。

 ところが予備校の解答は、いやたぶん多くの受験生も次のようにとらえたはずです。

 1「運輸・通信手段の発展が」→植民地化をうながし→(植民地化の結果・影響として)民族意識を高めた→さまざまな抵抗をした、と。

 つまり2が書けない。列強だけが手段を使ったと書いています。

 ある予備校の解答では数例の解答をあげていても、2の部分はほんの10字程度しか書けておらず(T)、まったく言及していないものもあります。そもそも問題をまったく理解できなかった予備校の解答もあります。「手段」と「民族」の関係が分からないため、いくら解答例をたくさん並べても無駄でした。よく書けているのは予備校(K)でしょう。不十分な点はあるものの問題を理解できたのはここだけでした。問題を理解するといっても、何も深読みをしなくてはならない訳ではなく、文章をそのまま素直にとるだけのことですが……。2の答え方が分からないため避けた、というのが実状かもしれません。

 しかし過去問を知っているはずの予備校としてはなさけないことです。「はず」であって過去問を研究している講師は実は非常に少ない(センター試験という基本的なものでさえ、研究しているひとは、わたしの周りには一人しかいません。予備校は「しゃべり」でなんとかやれますし、学生もだまされやすい集団です。経営者も学生さえ集めれば講師の授業内容や質は問わない世界です。調理師免許をもっている料理人の料理のほとんどがまずい料理であるように、予備校とて一般の世界と何も変わらない、ということです)。

 

 実はこの問題を見て、ピンときた方々もいたはずです。とくに進学校の高校教師の中にはおられるでしょう。過去問1982年の第1問の移動問題と1976年の鉄道問題の混合です。前者の問題は『世界史論述練習帳new』(パレード)にのせる予定でしたが紙幅の都合で削ってしまいました。解答だけはこの参考書の p.19~20 のコラム(ここだけの話)「解答用紙の使い方」に解答例としてのせています。二つの問題は良問です。良問とは応用が効く問題で、いろいろな問題に対処する力を養ってくれる、という意味です。わたしは授業でみっちり学生に教えました。

  センター試験の文章にこの問題に近いものが載っています。

(1)産業革命は、人やものの流れを加速させる一つのきっかけとなった。技術革新による産業の発展は、原料や労働力の大量輸送の必要性を高め、交通・輸送手段の発達を促したのである。19世紀には、蒸気機関を動力源とした鉄道や汽船の普及が見られた。貿易の拡大や人の大量移動(移民)はもとより、19世紀末~20世紀初頭の帝国主義の時代における植民地獲得競争や海外進出も、こうした交通・輸送手段の発達に支えられていた。鉄道が19世紀の資本主義国の経済発展と深く結び付いたように、20世紀に入って大量生産が可能となった自動車という交通・輸送手段は、アメリカ合衆国の繁栄と深く結び付いていた。(1999年度本試験)

(2)19世紀になると、インド洋を媒介として、南アジアからの労働者の大規模な移動が始まった。ガンディーは、22年間南アフリカに滞在して、弁護士としてインド人移民労働者の権利を守るために尽力していた。マレー半島の英領マラヤ植民地のように、南アジアから労働者を組織的に誘致して、新しい産業の労働力を確保する植民地政府も現れた。インド洋沿岸に新たな国民国家が多数出現した後も、国境を越えた労働者の移動は常態化している。……(2001年度本試験)

(3)16世紀ごろから貿易で発展したスマトラ島西北端の[   ]は、東南アジアのイスラム教徒がメッカ巡礼に向かう出航地の一つであった。イスラム教徒のメッカヘのあこがれは強く、聖地としてばかりでなく、宗教知識を学ぶ場としても重視された。また世界各地からイスラム教徒が集まるメッカは、情報交換の場でもあった。交通事情が大幅に改善された19世紀後半、巡礼者は急増し、メッカには東南アジア出身者の居留地も発展した。東南アジアのイスラム教徒は、イスラム世界の中で帝国主義列強に脅かされた地域の状況や、イスラム改革運動の動きをここで知ることができた。[   ]のオランダに対する抵抗運動も、メッカが情報発信地となって各地に伝えられた。(2002年度追試)

 

 これらの運輸・交通手段をつくった欧米側だけでなく、植民地化されたアジア・アフリカの人々も利用したことが示されています。このセンター試験の文章の中だけでも、「手段」たる「鉄道や汽船」「自動車」、「民族」側としては「労働力」「労働者」「移民労働者」「出稼ぎ」「巡礼者」とあり、「高める」例として「権利を守るため」「改革運動」「抵抗運動」「情報交換」「情報発信」とあります。

 解答の手始めとして、<1>指定語句にある「手段」をつくって植民地化を推進したものと、民族運動の側で逆利用したものとに分ける構想メモがひとつ。

 <2>手段(鉄道・汽船・通信・運河)毎に列強と植民地(半植民地)側の利用のしかたを説明する、もうひとつの構想メモもつくれます。

  <1>指定語句だけで振り分けると、

 帝国主義側:バグダード鉄道 モールス信号 マルコーニ 汽船

  その実例としての 義和団 日露戦争 

 民族運動の側:ガンディー スエズ運河 イラン立憲革命

 (スエズ運河・汽船・イラン立憲革命などは、どちらの側でも使えますが、受験生の知識によって振り分けたらいいでしょう。迷っても、どちらかに無理にでも分けた方が明快です。受験は思いっ切り、決断を必要とします。制限時間も課題ですから。ただし、これら指定語句は、単につなぎ合わせたら良いという課題ではありません。あくまで手段(の発展)との関連で説明しなくてはなりません。予備校の愚を犯さないように。)

 <2>指定語句にプラスしたい語句は( )に

 鉄道:バグダード鉄道(3B政策)、(シベリア鉄道→)日露戦争、(民族運動側の利用・破壊)

 汽船:(大量商品・軍隊の輸送)義和団(8ヶ国出兵)、(民族運動側)ガンディー(留学・亡命)(出稼ぎ・巡礼) 

 通信:(商品価格・反乱情報)モールス信号 マルコーニ (民族運動側の情報)イラン立憲革命

 運河:スエズ運河(パナマ運河←─無くてもいい、運輸の短期化)……「汽船」といっしょに使ってもいい

 

 植民地(半植民地)の側がどう手段を利用したかの知識は、受験生にあまりないでしょう。上記の(民族運動側の利用・破壊)(留学・亡命)(出稼ぎ・巡礼)は想起できないのではないか。東大の過去問を勉強していたら容易なことですが、ここは使いにくそうなものを簡単にコメントしておきます。

 「バグダード鉄道」だけでなく、鉄道は手段そのものであり、一般の旅客輸送だけでなく、市場を内陸に拡大し、港湾への輸送、反乱鎮圧軍を迅速に派遣する軍用鉄道でもありました。路線周囲の鉱山・森林の開拓が伴ったので、鉄道を敷くことは鉄道周辺を勢力圏にすることでした。しかし民族運動の側としは、東大の過去問にエジプトの例があげてあるように「各地で鉄道が切断された。駅や電信設備を襲撃して破壊する、村民こぞってレール・枕木・電柱を運び去る、そして復旧作業のイギリス軍を攻撃する、というように。しかし他方、民衆が鉄道を制圧し活用することもあった。ただ乗りで列車の屋根まであふれた大衆が、停車駅ごとに周辺の村々の村民と大交歓集会をひらいていった、……」と。

 「モールス信号」の有線電信から「マルコーニ」の無線電信へ手段が発展し、世界各地の市場価格・反乱情報を伝えました。

 問題文の導入部に「ロイター通信社」のことがわざわざ出てきます。ロイター通信社は今回のイラク戦争でも頻繁に名前が出てきたので、これは一体どういう組織なのかと疑問に思われたひともいるでしょう。世界のメディアにニュースを提供するニュースの元締めです。全世界に特派員を豊富に派遣していますから、派遣する余裕のない新聞社・テレビ局がこのロイターと契約してニュースをもらっているのです。いや、契約して買っているのです。小学館の事典では、ロイターのことを「イギリスの国際通信社。多角的な事業を展開する。おもな業務は、金融市場向けグローバル情報提供、ニュースの配信、金融取引の仲介、リスク管理サービス、ビジネス情報の提供など。一次産品に関する価格指数であるロイター指数も同社の作成になる」と説明しています。1851年に設立されたこの通信社は、クリミア戦争(1853~56年)の情報を刻々と伝え、リンカーン大統領暗殺(1865年)の報をいち早くヨーロッパへ伝えたことでも知られています。また上の説明のように単なる通信社ではなく、イランのカージャール朝政府に食い込み、ペルシア銀行を設立(1889年)して送金の手続きもおこなっていました。すでにロイターは鉄道敷設権、鉱産物採掘権などの広範な利権ももらった(1872年)人物でした。ホームページは以下のアドレスです。ここに通信社の歴史がのっています。

http://about.reuters.com/

 通信社の歴史について興味があれば、里見脩著『ニュース・エージェンシー』 <中公新書>がいいでしょう。

 「マルコーニ」についてはセンター試験で「マルコーニによる無線電信の発明は、情報伝達に新時代をもたらした」という正しい文章で出ています(2000年)。マルコーニはイタリア人ですが英国に渡って(1896年)、無線電信ネットワークを提案しました。これは海底ケーブルの有線電信と比べて3倍のスピード、50分の1のパワー、5%のコストで帝国内の通信を可能にするという画期的なものでした。「大英帝国」政府は充分これを利用しました。

 「イラン立憲革命」は民族運動の側でも使えます。ただし、日露戦争の日本勝利が刺激となりイラン立憲革命が起こった──という使い方をすると、まちがいではないとしても問題のテーマからはずれ、手段の発展抜きに民族運動を説明したことになります。これは過去問の問題文が指摘しているように、油田の出稼ぎ労働者が「石油のため、20世紀初めには多数の東洋人労働者を集める国際色豊かな町となった。……革命運動でも、バクー在住のイラン人の役割は大きかった」という文脈での使い方です。つまり国外のイラン人は、王朝の腐敗・無能をあばき、イランの後進性と進歩の必要性を熱く論ずる新聞や本を発行しました。これはまさに通信手段の発展とかかわります。実際、革命運動が大きくなってくると、出稼ぎのイラン人石油労働者やグルジア人革命家がタブリーズ蜂起を支援するために次々と駆けつけました。

 「ガンディー」について予備校(K)は「ガンディーは映像メディアも巧みに利用して非暴力不服従運動への民衆動員や国際世論の支持獲得を実現した。」と書いていますが、これは学生に書けない解答です。間違いではないですが。たとえば、以下には数多くの新聞写真がのっています。

http://www.gandhiserve.org/cgi-bin/if/imageFolio.cgi?direct=Publications&img=20

 このような学生に書けないものではなくて、過去問の「イギリスに留学して法律を学び弁護士となったガンディーは、1893年から20年間も南アフリカにあって、その地のインド人の地位向上のために活動した。彼の非暴力抵抗の思想の原型はこの活動の中でうみ出された」という文章のように世界的な活動が可能であったのは運輸手段(汽船)の発展によることを示せばいいでしょう。それにガンディーがイギリスに学び、南アフリカで弁護士活動をしたことは多くの教科書が言及しています(清水書院、山川出版社、三省堂など)。先に引用したセンター試験の(2)にも書いてあります。

 

 事務的な要求の面では、字数が17行(510字)、指定語句数が9つは、過去に例がありません。指定語句に下線を付せ、という指示がないのは過去に例はありますが(1972年、1974年、1986年の第2問C、1991年)、最近では珍しい。ある参考書には「下線を引けとの指示がなくても引いておくのが常識」とあるそうですが、どうして「常識」なのでしょうか? 非常識です。問題は指示されたことを、そのとおりに応えることが課題です。余計なことを書くことは減点の対象です。もしそうでなければ、下線を引け、とあっても引かなくてもいいことになります。下線ごとき細かいことは採点外だろう、採点を甘く、というのが受験生の願いでしょうが、採点官の立場からすれば、この程度のことがちゃんとできないようでは、あがっているなあ、クールに対処できていない、……官僚養成大学としては失格と判断するでしょう。

 

[第2問の解き方

 問題の出し方は、昨年度のややこしい問い方を止めて元に帰りました。昨年のように、解答は簡単なことなのに、凝って、ややこしい問い方にしても良問とは言えないでしょう。

(A)

(1) カロリング・ルネサンスといわれるもの(当時は「ローマ文明の復興」)に出てくる必須の人物です。「聖書などの写本作成に尽力した」かどうかは知らなくても「イギリス出身」で分かるはず。アルクィン、アルクイン、アルクイヌス(Alcuin、Alcuinus)です。 「彼を宮廷に招いた王の名」は西ローマ皇帝を名乗る人物です。

(2) ヘレニズム文化の例として出てくる人物です。ヘレニズム文化の中心都市はどこ? という問と同じです。「アラビア語訳からラテン語に翻訳された」という現象自体を「12世紀ルネサンス」といいます。「12世紀ルネサンス」という語句は論述向きにも知らなくてはならないもの。1986年、1995年、1999年度の第1問に使うべき語句です。

(3) (2)のつづきです。「古代の哲学者[ 〔1〕 ]の論理学や自然学」と「自然学」もあげてあり、「彼の著作を注釈したコルドバ生まれの哲学者[ 〔2〕 ]」と関連するのはアリストテレスしかいません。この時期、アリストテレスという巨人は自然学・形而上学の万学を網羅しているため、膨大な翻訳と、それを消化することが大きな仕事になりました。「アリストテレスの論理学以外の著作は、中世後期の学者達に広範な自然科学の百科事典を提供した」ほどでした(ジョン・マレンボ著、加藤雅人訳『後期中世の哲学1150~1350』勁草書房)。

 「コルドバ」はこのアリストテレス翻訳の中心地でした。このアリストテレス哲学はイスラム教神学にも応用され、研究されました。このルシュドの研究書をラテン語に翻訳しつつ紹介したのがパリ大学のアルベルトゥス=マグヌス、その弟子トマス=アクィナスがアリストテレスを学んでスコラ哲学を完成する。このつながりは私大でもよく出題されます。東大の過去問(1987年)にも問われています。東大文学部の講義内容に「イスラム学演習:イブン・ルシュドの哲学擁護の書『自滅の自滅』のVan Den Berghによる英訳 と注釈をテキストとして読みながら、イスラム哲学とギリシャ哲学の関係、イブン=ルシュドと先行する哲学者(イブン・シーナ-、ファーラービーなど)との関係、イスラム神学と哲学の論争点などについて考察する」とあります。

(4) 細かい問題。ブルネレスキとブラマンテの区別ができるかどうか、サンタ=マリア大聖堂(サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂、花のドーム、花のドゥオーモ、Duomo - Cathedral of Santa Maria dei Fiori)の写真は教科書には載っていないでしょう。全部を見ていないので確かではありませんが。

 以下の写真でこの建物の異様さが見て取れるでしょうか。

http://www.arch.mcgill.ca/prof/sijpkes/arch374/winter2001/sfarfa/ensayo1.htm

 この巨大建築物は、目の前にすると、その白さでど胆を抜かれます。なぜこれが500年以上も前の建物なのか。ほんとかいなあ、と疑問と感嘆にとらわれます。この建築と建築家ブルネレスキについて、ちょうど作問の頃の昨年6月にすぐれた著書が出版されました。ロス・キング著、田辺希久子訳『天才建築家 ブルネレスキ フイレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか』(東京書籍)です。これによるとブルネレスキは頭の大きい小柄(1m53cm)な人物で、目覚まし時計をはじめてつくった時計職人・金細工でもあったことが書いてあり、中世・ルネサンス時代のエピソードもよく載っています。専門的な本でありながら面白い本です。ブルネレスキを描いたものではないが、ケン=フォレットの『大聖堂(上~下)』(新潮文庫)は大河ドラマ風ですが、建築家の一族を描いた面白い読み物です。これも教会建築の描写がすばらしい。

 なお「大聖堂」と「大」がつくのは司教以上の地位の聖職者がそこに居ないと「大」をつけて呼ばないのがカトリックのならわしらしい。「大」型という意味ではない。

問(5) 『詳説世界史』では「ルネサンス時代のイタリアは、多くの都市共和国・諸侯国・教皇領に分裂した小国際社会を形成し、抗争がたえなかった。このような分裂状態は列強の介入をさそい、15世紀末から16世紀なかばころまで、イタリア戦争とよばれる覇権争いが続いた。」と問と答えそのままに書いてあります。イタリアが統一、あるいは同盟して外敵に当たれる状況になかったということです。モンゴル人の遠征の大成功も侵略した地域に強大な統一国家がない状況が幸いしました。問題は「政治状況」ですが、ねらいはイタリアの富です。

問(6)  簡単すぎる問題。大歓迎。

 (B)

(7)北宋の思想家としては、周敦頤・程 (景+頁、こう)・程頤(ていい)などの宋学前期を構成する思想家があり、朱熹は程頤の学派に属する李 (人偏+同、りとう)に師事しました。広くは司馬光もあげられます。朱熹は『資治通鑑綱目』を書いているからです。

 「新しい儒教」新儒学(Neo-Confucianism)ともいう「儒教は、その後中国でどのように扱われたか」は国家がどう扱ったか、という問です。かれの生きた南宋では偽学として退け、元朝になって科挙が一時的にも復活したときに採用され、明清では国学(国家教学)として扱われました。過去問(1987年)に「宋代に朱熹によって大成された宋学は、後世の中国歴代王朝で儒教の正統な学派とされ、また近隣諸国でも官学として受けいれられていった。その理由と思われるところを述べよ。」という別の問題があります。

 元朝は儒教を蔑視したのではないか、と思われるむきは、儒学者の誇張であって実際は宮廷にも朱子学者(郭守敬)はいましたから、浅薄な見方です。平凡社百科事典の「朱子学」の項目では「その晩年の〈偽学の禁〉によって絶学の淵に立たされたが、各地に散在した門人の活躍によってしだいに社会的地歩を固めてゆき、ついに元の延祐元年(1314)、朱熹の定めた経典解釈が科挙の標準的テキストに採用される。これより元・明・清にわたる600余年のあいだ、朱子学は国家教学の座を専有するのである。」と説明しています。

 『世界史論述練習帳』の巻末問題に「元代の中国文化について、儒学・文学・書画・技術面の発展について述べよ。(指定語句→)朱子学 元曲 」という問題があり、「儒学では朱子学が普及する。元曲・白話小説がはやり、文人画が完成した。技術面ではイスラムの天文暦学・数学・地理が発展した」と答えています。南宋期に排斥された学問は元朝の時代に士大夫に普及します。

(8) 道教の源流を問う問題。『詳説世界史』に「仏教の隆盛に刺激されて、このころ道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説をとり入れてできたもので、北魏の寇謙之は新天師道をはじめ、国家宗教として教団の形成につとめた」とあります。老荘思想ともいう道家の根本的な考え方に「無為自然」があります。諸子百家のところで学ぶ語句です。

(9) 戯曲「シャクンタラー」の概要は次のホームページで知ることができます。

http://www1.odn.ne.jp/aaj25640/sakunta.htm

 「完成した叙事詩」はもともと紀元前に原型ができてグプタ朝期に完成したものとみなされているものです。二つあり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』。手ごろにその面白さを紹介したものが、山際素男著『マハーバーラタ インド千夜一夜物語』(光文社新書)です。物語に見られる想像力の幅の大きさに、面食らい、呆れかえります。

(10) 統一王朝の王はソンツェンガンポです。当時の中国の王朝は唐。唐の大宗(李世民)から文成公主という名前の皇族が王の長子に降嫁して(640年)外交関係をもち、長子の没後にソンツェンガンポ王と再婚しています。この国を唐ではなんと呼んだか、という問。「拓跋」の名前に発音が似ていて、その由来が云々される国名です。

 

[第3問の解き方

(1) 「15世紀の明代」「大艦隊」といえば鄭和。「鄭」の漢字が正しく書けるか。最近ある研究者によると、この大艦隊は1421年から1423年にかけて世界一周に成功し、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達したという。これを伝える記事のひとつ「人類初の世界一周は中国人?」は以下。

http://tanakanews.com/c0502china.htm

 (2) 駅伝制ですが、歴史の名称はできるだけ具体的であるほうがいいので、ここはジャムチか站赤(制)がいいでしょう。マルコ=ポーロが感嘆して書いている制度です。「義務」付けられた周辺の住民(站戸)にとっては大変な負担でした。

 (3) 細かいですが、センター試験でも出ました。「インド洋の航海は、伝統的に、ダウ船と呼ばれる帆船で行われてきた」(2001年本試験)。クウェートの国章にはダウ船が描いてあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/クウェートの国章

アラブのダウ船〔Dhow〕の絵・写真がのっている二つのサイトは以下。

http://hempmuseum.org/SUBROOMS/HEMP%20SAILING%20SHIPS.htm

http://www.specialproductions.com/gallery/sec_pages/Sambuk.htm

 (4) 「イギリス産業革命を代表するある都市へ石炭」でマンチェスターがすぐ出てくるでしょう。Bridgewater Canal の歴史は以下に写真とともに述べてあります。

http://freespace.virgin.net/tony.smith/mining.htm

マンチェスターとのつながりを地図で示しながら解説しているのは以下。

http://www.thewaterweb.net/Canals/Briwater/Briwater.htm

運河に船を浮かべ、それに石炭を満載して、船の先に結びつけた紐を引くのが馬でした。運河の両脇に馬の走れる道(horse-tramway 馬用の路面軌道)をつけた独特のものです。 

(5) これも「ハドソン川の定期商船」「蒸気機関を用いて」で人物名はなんとか想起できそうです。ただし蒸気機関車のスティーヴンソンとまちがえやすい。フルトンです。2000年度のセンター試験で双方とも名前が出ていて区別ができるか問うています。フルトンが単なる造船だけの人でないことは以下のホームページが紹介しています。

http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/181001.html

 次の「大西洋横断に成功した船舶の名称」は細かい。ハドソン川を航行した(1807年)したのは「クラーモント号」でしたが。この船はサヴァンナ号といいます。以下に絵があります。

http://www.hhpl.on.ca/GreatLakes/scripts/Page.asp?PageID=352

 問(6) 大陸横断鉄道は国境線をはずしていけば、知らなくても多分(c)が選べます。『詳説世界史』の地図にものってはいますが。(a)と(e)はカナダとメキシコの国境線であり、その近くの(b)と(d)は国境線に近すぎます。

大陸横断鉄道が完成したときの写真は次にあります。

http://cprr.org/ 

 このHPの中に、大陸横断鉄道の地図があり、1870年発行の地図がのっています。

http://cprr.org/Museum/Maps/

(7) 趣味的な問題。「1883年」とあるから、ミドハト憲法(1876年発布、77年停止、1908年復活)のときのスルタン、アブドュル=ハミト(位1876~1909)です。タンジマートのアブドュル=メジト1世(位1839~61)とまちがえないように。「終着駅」はオスマン帝国の首都です。

オリエント急行の日本語ホームページは以下。

http://www.orient-express.co.jp/top.html

 それより「1883年……近代のツーリズムの幕開けを告げた」という文章はなんなのか? 一般に「近代のツーリズム」はトマス=クックから始まるはずで、「1883年」を「幕開け」とは理解しがたい。若いバプティスト教会の牧師トマス=クックが禁酒運動の一貫として特別貸し切り列車をしたてててからではないか。とくに万国博覧会を見せるために一般向けの団体旅行をはじめるようになってからではないか。

(8) 鉄道をしく権利をなんというか。

 (9) 北京条約(1860年)で獲得した沿海州の最南端につくった町。次に地図があります。JAPANの西です。

http://geography.miningco.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http://www.lib.utexas.edu/maps/commonwealth.html

(10) 「蒸気機関を使って」いない鉄道は何で走るようになったか、「地表すれすれの浅い路線に限られていた……テムズ川の川底を横切る新路線」は何かという問。帝国書院の『高等世界史B』には「市電(1900年ごろ、マルセイユ) パリの地下鉄建設(1900年開業)都市交通の発達19世紀には大都市の発展にともない都市交通が発達し、鉄道馬車・蒸気市街鉄道が生まれた。1881年にはベルリンで市街電車(市電)が、1890年にはロンドンで電車による地下鉄が登場し、まもなく欧米諸国の大都市もそれにつづいた。この結果、都市の人々の生活圏と通勤圏が大きく拡大した」という記述があります。答えは正確には、地下の電車です。ロンドンでは tube、パリではMetro、ニューヨークではsubwayと呼んでいるものです。

次のホームページにニューヨークの工事中の写真がでています。

http://www.pbs.org/wgbh/amex/technology/nyunderground/abprogram.html

 (わたしの解答例)

第1問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第2問

(1)アルクィン、カール1世

(2)アレクサンドリア、12世紀

(3)アリストテレス イブン=ルシュド

(4)サンタ=マリア大聖堂(サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂、花のドーム)、ブルネレスキ

(6)シュリーマン、ホメロス

(5)多くの都市共和国・諸侯国・教皇領に分裂し、たがいに抗争がたえなかったから。

(7)周敦頤、程コウ(景+頁)、程頤、司馬光のうちだれか一人。 南宋期には偽学とされたが元朝で普及し、明清の官学となった。

(8)老荘 無為自然

(9)カーリダーサ、ラーマーヤナ(マハーバーラタ)

(10)吐蕃

第3問

(1)鄭和 (2)站赤(ジャムチ) (3)ダウ(船) (4)マンチェスター (5)フルトン、サヴァンナ号 (6)(c)

(7)アブデュル=ハミト2世、イスタンブール

(8)鉄道敷設権 (9)ウラディヴォストーク (10)地下の電車