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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2004

第1問

 1985年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。19世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。19世紀に西欧諸国が金本位制に移行するなかで、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、1930年代に、中国が最終的に流通を禁止するまで続いた。

 以上を念頭におきながら、16-18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、16行以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句に下線を付せ。なお、(  )内の語句は記入しなくてもよい。

 グーツヘルシャフト(農場領主制)、一条鞭法、価格革命、綿織物、日本銀、東インド会社、ポトシ、アントウェルペン(アントワープ)

 

第2問

 地中海東岸からアラビア半島にかけての地域で、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という3つの一神教が誕生した。これらの宗教と西アジア・地中海沿岸地域の国家や社会は、密接な関わりを持った。このことに関連する以下の3つの問いに答えよ。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記せ。

(1)新王国時代のエジプトから、ヘブライの民とよばれる人々は、モーセに率いられて脱出し、やがてパレスティナに定住の地を見出したという。前10世紀頃、ソロモン王の時代には栄華をきわめた。その後の数百年の間に、ヘブライ人は独自のユダヤ教を築きあげた。その成立過程について、彼らの王国の盛衰との関わりを考慮しながら、4行以内で説明せよ。

(2)キリスト教世界は8世紀から11世紀にかけて東西の教会に二分された。その2つの教会のいずれか一方と関わりの深いビザンツ帝国と神聖ローマ帝国とでは、皇帝と教会指導者との関係が大きく異なっている。11世紀後半を念頭において、その違いを4行以内で説明せよ。

(3)カリフとは「代理人」の意味で、預言者ムハンマドの没後、その代理としてムスリム共同体(ウンマ)の指導者となった人のことを指す。単一のカリフをムスリム共同体全体の指導者とする考えは近代に至るまで根強いが、政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて4行以内で説明せよ。

 

第3問

 書物の文化は、製作方法の改良や識字率の高まりなどの影響で、時代とともに大きく変化してきた。このような書物の文化の歴史に関連する以下の設問(1)~(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

(1)書物は思想の倉庫であるため、しばしば思想の統制をはかろうとする者たちの破壊の対象となった。秦代の中国で起こった焚書はその典型である。この時、統制をはかろうとした宰相らが依拠していた学派の名前を記せ。

(2)宗教の発展には典籍による教義の研究が大きな役割を果たしている。仏典を求めて、インドヘ渡った玄奘らがその目的を果たしえたのは、教義を研究する僧院がそこにあったからである。この僧院の名称を記せ。

(3)宋代の印刷文化は儒教の典籍を中心としたが、それは科挙制の重要性が増したことと密接に関係していた。朱熹によって重視されたため、科挙試験対策に必修のものとなった経典の総称を記せ。

(4)韓国の海印寺には、13世紀に作られ、ユネスコの世界文化遺産に登録された8万枚をこえる版木がある。この版木による印刷物の名称を記せ.

(5)近代になってから韓国の出版物の多くは、日本の漢字仮名交じりと同様に、漢字ハングル交じりで作成されてきたが、近年ではハングルのみとする傾向が強まっている。このハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか、その名称を記せ。

(6)15世紀中頃のヨーロッパで発明されたこの技術によって、それまでの写本と比べて、書物の値段が大幅に安くなり、書物の普及が促進された。この技術(a)の名称と発明者(b)の名前を(a)、(b)を付して記せ。

(7)1520年代初めにドイツ語に翻訳された聖書を普及させるうえで、印刷工房が大きな役割を果たした。この翻訳を行った人物の名前を記せ。

(8)かつて、書かれる言葉と話される言葉とは区別されるべきものであった。中国においても、20世紀になると、そのような考えを打ち破って、書かれる言葉こそ話される言葉と一致すべきであるとの主張が盛んになった。そのような主張を掲載した代表的な雑誌名を記せ。

(9)1920年代のアメリカ合衆国では、新聞や雑誌の発行部数が急速にのびたが、その背景には大量生産・大量消費時代の到来があった。この時代に導入された代表的な大量生産方式の名称を記せ。

(10)第二次世界大戦中、アメリカ合衆国で新しい技術の開発が始められた。1980年代になると、この技術に基づいてインターネットなどを利用した新しい出版の形態が生み出された。この技術の名称を記せ。

………………………………………

[第1問の解き方

ポイント

 初め問題を見た時点では難しそう、でも指定語句を見て、なんとか書けそう、という問題です。しかし問題の要求に応じた解答はそうかんたんではありません。予備校の解答で、「銀を中心とした世界経済の一体化の流れを」という要求に応じてずっと「銀」を追求したものがどれだけあるか探してみたらいいでしょう。ほとんど西欧列強の覇権史になっていて、いったいこれらのどこが「銀を中心とした世界経済」なのか疑問がわいてくるでしょう(まして18世紀が「金本位制に移行」の準備期であることを書いたものは探せないでしょう)。解答が問題に応じているかどうかの測り方は、解答に題名をつけてみたらいいのです。たいていの解答の題名は16~18世紀の西欧覇権史、ということになります。「一体化」は覇権国史に近くなりますが、「銀」とともに説明しないといけないのです。問題の導入部にも「金融の国際化……大量の銀が世界市場に供給……金本位制に移行」とありますから、この問題は「銀」にこだわらなくてはなりません。

 ところが銀という貨幣の流れを説明するにしても、指定語句は必ずしも銀とは直接関係のないものもあります。なかでもグーツヘルシャフト(農場領主制)、綿織物、東インド会社、アントウェルペン(アントワープ)の4つは銀とどうかかわらせたらいいのか。東大はテーマと関係のなさそうな指定語句をもちだしてくるのが得意です。文化史をテーマ(主要求)にしておきながら政治的用語ばかり指定したことがあります。いじわるいのです。指定語句が多ければ、どうしてもそれに受験生が負けて指定語句をつないで説明したら解答になったと錯覚させて、採点はいかにテーマに応じて書いたかで見る、指定語句をつないだだけの解答はばっさり切っていく、というやり方です。

類題

 この問題に類題が二つあります。1980年の過去問「いわゆる「地理上の発見」にともなうヨーロッパ人の海外進出は、世界の諸地域における変化・変動のきっかけとなったとみられている。このできごとの意義を世界史の観点からとらえ、進出をおこなったヨーロッパ、およびそれを受けたアメリカ、アジア等の諸地域における、16世紀末までの変化・変動について、650字以内で述べよ」と関連しています。それと1989年の「18世紀半ばから19世紀半ばにいたる時期について、西ヨーロッパ諸国と中国との通商関係の推移を12行以内で述べよ」があります。この二つの問題をつないだような問題でした。もちろんこの一見やさしそうに見える二つの問題を学生に書かせると(「模範」解答の受験産業の解答も含む)意外とできないものですから、過去問をやっていたらできる、というものではないですが。

 拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)の巻末問題集に【西欧近世】<16世紀>では、問題4に「地理上の「発見」がもたらした世界史にたいする影響をあげよ(180字)。(指定語句)価格革命 一条鞭法」という問題があります。ほかにこの問題に関連しているものをピックアップすると、つぎのようになります。

 <9~10世紀 唐末五代宋>10 明朝の貿易政策について説明せよ。(指定語句)海禁 銀

 13 一条鞭法と地丁銀を説明せよ。(指定語句)地税 銀

 14 商業の発展について、春秋末・唐末五代・明末清初の時期について記せ(90字)。

 10 イギリス・インド・中国間の三角貿易が各国の綿業にあたえた影響ついて説明せよ。(指定語句)キャリコ 南京木綿 

 <中国史との対比・関係>

 9 18世紀後半と19世紀前半にいたる時期について、西欧と中国との通商関係の変化について述べよ。(指定語句)公行 銀(この問題は上にあげた東大過去問でもあります)

時代

 時代の限定「16-18世紀」は政治のしくみからは西欧では絶対王政の時期であり、経済政策の面では重商主義です。導入部にも「世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる」とあり、「発見」以降から二重革命(市民革命と産業革命)の時期までであることが分かります。アジアではオスマン帝国の全盛期、ムガル帝国、明清王朝の、いわば「アジア専制帝国」の並立していた時期です。いやこの時代区分をきみは知っていますか? 時代区分を知っておくことは論述対策としては基本ですが、論述対策の問題集に時代区分を書いたものは『練習帳』以外にありません。これの巻末の「基本60字」の西欧のところを見てもらうと、「近世:1500年頃から1760年頃まで(政治のしくみから絶対主義時代)、前期:16世紀 盛期:17世紀 末期:18世紀中葉まで 近代:1760年代から1870年頃まで」という区分が示してあります。この16~18世紀の重商主義時代は西欧が銀というゲンナマをもってアジアにショッピングに行った時代です。

 書かせてみると16世紀だけしか書けなくて、17・18世紀がほとんどない解答にしがちです(予備校の例はT)。17・18世紀をどれだけ書けるかにかかっていると言ってもいいでしょう。

銀の流れ

 銀の流れは、かんたんにいえば、アメリカからヨーロッパへ、それがアジアに、とくに中国に大量に流れ込み、18世紀末になってアジアから西欧に逆流する、という流れです。もっとかんたんにいえば、東流から西流へ、という変化です。

 このことは教科書の銀にかんする記事で示唆されています。中国史だけでも、というより中国史だけしか記載されていないですが、16世紀(明末)に海から銀(墨銀=メキシコ銀)が入り、「日本銀」の流入がともなったため両税法から「一条鞭法」への転換があったことと、18世紀末からアヘン流入のために銀が流出していくという部分です。

 『詳説世界史』なら「貨幣の流通も活発となり、明初の紙幣や銅銭にかわって銀が主要な貨幣として流通するようになった。ことに日本銀の流入が増加し、ヨーロッパの商人が、中国の産物を買いつけるためにメキシコ銀などを大量に持ちこんだ16世紀以降、ますますさかんになった。……18世紀末からは、中国の茶を本国に、本国の綿製品をインドに、インド産のアヘンを中国に運ぶ三角貿易をおこない利益をあげるようになった。……アヘンの密貿易が急速に増え、大量の銀が国外に流出するようになっていた」とあります(銀貨としないで「銀」とだけ書いているのは中国では銀貨を鋳造しなかったからです。銀はかたまりで流通しました。教科書に馬蹄銀の写真があるでしょう。

アジアはスポンジ

 この16世紀と18世紀のあいだに銀の記述が大抵なくなるのはどうしてでしょうか? ここに銀の流れの秘密があります(『詳説』には「清では、国内商業や外国貿易がますますさかんになり、銀の流入はさらに増加」と17世紀も流入がつづいたことを書いていますが)。

 銀が東流して、それがすぐは西流しないで東に滞留してしまったのはなぜか、アジアに目立った価格革命がおきなかったのはなぜか? という疑問にはいろいろ説があります。

 「アジアはスポンジのように金銀を吸収した。そのなかからヨーロッパに戻ってきた金銀はほんのわずかだった」とスポンジであるといいます(ピーター・バーンスタイン著 鈴木主税訳『ゴールド 金と人間の文明史』日本経済新聞社)。また「墓場」と名づけたりしています。バーンスタインの説明では、アジア人は金銀を所有することに喜びを見出しており、装飾品・宝物として退蔵するとこを趣味としている、と理由をあげています。西欧人のように貨幣としてつかわないからだと。「アジア人から見れば、西洋から入ってくる金と銀は貨幣としての意味がはっきりと認識されていなかったのである。当時も以後も、アジア人は貴金属を他の何かと交換できるものとは思っていなかった。そうではなく、中国、日本、インドでは、貴金属は有用な必需品と見なされていた。つまり、非常に利用価値のあるものだから、支払いの手段として手放すよりも手元にとっておくほうがよいと考えられたのである。金は花嫁を飾りたてるためのものであり、ぴかぴか光る飾りや装飾品であり、そして何よりも蓄財の手段だった」と。もちろん誇張ですが、一理あります。

 また別の本は、インドの例をあげて「ブラック・ホール」(湯浅赳男著『文明の「血液」貨幣から見た世界史』新評論)であるといっています。

16世紀

 この問題は世紀ごとに書いていった方が書きやすいでしょう。世紀ごとの世界史があたまに入っているかどうかの懸念はありますが、なんとかデータをたぐりよせたり、指定語句を敷衍してできそうです。

 とくに16世紀は「発見」のときですから分かりやすい。ほぼどの指定語句もつかえます。グーツヘルシャフト、一条鞭法、価格革命、日本銀、東インド会社、ポトシ、アントウェルペンはどれも16世紀でつかえそうです。とすると、16世紀だけデブの文章ができてしまい、あとは尻すぼみになる危険性がありますから、東インド会社とアントウェルペン、ひとによっては日本銀も17世紀にもっていくことにしてもいいでしょう。問題はどれも銀との関連で書けるか、ですね。

 西欧だけ見るなら、中世以来の南ドイツ、中央ヨーロッパの産銀に代わって新大陸産の銀が圧倒する転換であり、フッガー家のアウグスブルク、ニュルンベルク等の南ドイツ、東方貿易でさかえたメディチ家のイタリアから大西洋岸の諸国(ポルトガル・スペイン・フランス・イギリス・オランダ)に繁栄が移ることでもありました(商業革命)。

 「グーツヘルシャフト」を西欧の銀獲得とのかかわりで説明してるのは『新世界史』くらいしかないようです(新課程の『詳説世界史』には書いてあります、この新課程の執筆者たちが東大の世界史問題の出題者でもあるでしょう)。『新世界史』には「経済活動の重心が地中海から西北ヨーロッパに移るにつれて,ヨーロッパの内部で東西の分業がうまれた。ネーデルラント・イギリス・フランスが毛織物や奢侈工業製品を輸出する経済的先進地域となるのに対して,ドイツ東部・ポーランドなど東ヨーロッパが西方への穀物輸出国となった。このため東ヨーロッパでは,領主が,それまで身分的に自由な農民を農奴とし,その賦役で輸出用穀物を生産する農場領主制(グーツヘルシャフト)を採用した」と記されています。この記述をまとめて「東欧の後背地化」といいます。このことばを『練習帳』のp.101の解答にもつかっています。

 「価格革命」は銀革命でもありました。金貨より銀貨が大量にでまわったからです。でまわった結果、銀価の暴落と物価騰貴をまねき、物価が3~5倍も上昇しました。なにより銀を豊富に獲得したスペイン王国がそのために没落も招き入れます。金銀の流入によるスペインのインフレは産業の競争力を弱めることとなり、輸入の増大をひき起してしまったためです。輸入の増大は逆にフランス、イギリス、フランドルといった北西ヨーロッパ諸国の産業の発展をひき起します。しかもこれら諸国の産業の発展はさらに輸入の増大を招いて、スペインをサラ金地獄に落としました。金銀ががっぽり入れば万事めでたしという訳にはいかないようです。

 「ポトシ」は銀山の名前であり、またそれでさかえた町の名前です。スペイン王カルロス1世(カール5世)はポトシに皇帝の町という称号と、「余は豊かなるポトシそのものであり、世界の宝物は余のものであり、余は山々の王であり、諸王の羨望の的である」という銘文を彫り込んだ盾を贈って、感謝の意を表したそうです。駆りだされ酷使されたインディオ(ケチュア人たち)の命とひきかえにさかえた銀山です。

 「一条鞭法」を張居正がはじめたと書いてしまう学生がいますが、そうではなく民間ではじめたものを張居正らの政府が後押しするかたちで浸透させたものです。はじめに浙江、次いで江蘇・江西でおこなわれ、やがて華南・華北の順に一般化していったものです。この両税法からの転換により中国税制史では「役(えき)」という労働による国家への負担消滅が重要です。もちろん銀納によってすべての税を払うというかたちです。

 中国にだけ銀が流入したはずはないと感じるひともいるでしょう。もちろんです。西欧人が新大陸の銀をもってアジアの国々(オスマン帝国、ムガル帝国、明清朝)の物産を買いにきたため一方的に銀はアジアに注がれました。オスマン帝国ではそれほどの変化は見られないものの、ムガル帝国ではルピーという今も貨幣の単位としてつかっているルピー銀貨の源流となります。このあたりは教科書に記述のない部分です(拙著『練習帳』本文p.104の問題に対するp.106の解答に銀流入が書いてあり、それと先に紹介した巻末問題集の【西欧近世】<16世紀>問題4の解答の中に「ルピー銀貨」をあげています)。デリー=スルタン朝の時代までが貨幣の衰退期であったのに対して、「十六、十七世紀はインド史におけるコインの復興の期間となるのである。ムガール帝国より一時的に権力を奪ったシェール・シャーの時代、それまで北インドではほとんど銀分の含まれぬ粗悪なコインが通用していたのであるが、シェール・シャーはこうした事態を一新し、ルピー銀貨(正しくはルーパヤ)と良質な金貨ならびに銅貨の造幣を開始したのである」(湯浅赳男著の前掲書)。

17世紀

 「日本銀」については世界史の教科書も記載しているので、なにも奇異な用語ではありません。センター試験にも出ています(2001年度)。ポルトガル商人はインドのゴアや中国のマカオを本拠地に、大きな船で鉄砲・火薬・生糸・薬などを大量に日本に運んで銀と交換し、その銀で中国の生糸・絹織物などを買いつけたり、東南アジアの胡椒などを直接ヨーロッパに輸入して巨額の利益を得たりしていました。

 もともと日本は朝鮮半島から銀を輸入していましたが、1538年ごろより日本の銀鉱山採掘が盛んとなり、逆転して日本から銀輸出が始まります。16世紀は墨銀が名高いですが、日本も当時の世界の銀生産の3分の1をしめるほどの銀の国だったのです(メキシコ25万kg、欧州15万kg、日本20万kg)。朝鮮船や中国船の来航の目的は日本銀にあり、次いで16世紀は上に書いたポルトガルや、ついで17世紀はオランダも日本銀と中国商品の仲介貿易をおもな内容としていました。オランダは1649年から1668年の間に毎年100万ギルダー以上の銀を日本で入手したらしい(湯浅赳男著の前掲書)。ということは江戸時代は「鎖国」からイメージされる閉鎖的な箱のようなものではなかったのです。銀貨の輸出禁止(寛文8年 (1668年))があっても銀貨流出は止まらなかったのです。

 「アントウェルペン」と「東インド会社」はアムステルダムへの繁栄の移行として同時につかってもいいでしょう。アントウェルペンは16世紀にさかえた都市で、中世商業の中継地としてブルージュからここへ取引と富が移ったことを学ぶでしょう。銀とのかかわりでいえば、南ドイツ産の銀もイタリアに流れていたのがここに集まるようになり、「新大陸」の銀がスペインから、わけのわからない他人の手を経て大量にこの港に持込まれたようです。16世紀中頃この都市に駐在していた英国人グレシャムが、「リスボンで金を買い、それでアントウェルペンの銀を買い、それをまだ地中海世界の影響を受けていない銀高のローマに送って買却する」という投機を目撃しています(湯浅赳男著の前掲書)。しかしこの都市の繁栄は反宗教改革でつぶされます。スペイン軍とスペインがやとった傭兵による略奪・破壊行為からこの都市を捨ててアムステルダムへの脱出がおこなわれたからでした。このあたりを詳しく書いているのがC.P.キンドルバーガー著、中島健二訳『経済大国興亡史 1500-1990』(岩波書店)です。「ブラバンド(アントウェルペンのある地方名……中谷の注)とフランドルを去った人は合わせて10万人にのぼったが、その大部分は商人と熟練職人であった。彼らは自分たちの資本と産業技術の身に付けることができる分をたずさえて、去っていったのである」と。

 「東インド会社」といえばエリザベス1世のつくったイギリスのもの(1600年)、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)のもの(1602年)が名高いですが、資金力は後者が格段に高かったようです。何かの本で10倍と読んだことがあります。この会社の株の4分1は亡命してきたユダヤ人がもっていました。ユダヤ人は信仰の自由を保証したこのオランダに逃れ、1598年にはじめてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)建築が許されました。さらにユダヤ人は銀行・商社・株式取引所を設立し、東西インド会社に投資したのです。

 17世紀の初めに、オランダには14ヶ所の造幣所があり、世紀末には8ケ所にまとめられました。ここで造られた貨幣は信用が高く国際通貨となります。「ライオンダラー」「リクスダーラー」などが知られています。当時、イギリス東インド会社はその東洋貿易のために、毎年、700万から800万ギルダーの銀貨をオランダから購入したそうです(この説明も湯浅赳男著の前掲書)。貨幣そのものがオランダの重要な輸出産業であったと専門家は述べているくらいです。これは18世紀にもつづき、18世紀のイギリスで活躍した金融業者の多くがオランダ人でした。代表的なのはロイズ銀行で、その創設者はオランダ人でした。またイングランド銀行の最大の公債所有者であり、顧客であったのもオランダのひとたちでした。

 日本代理店は http://www.lloydstsb.co.jp/

18世紀

 「綿織物」はいろいろな用途があります。インドのキャラコ(キャリコ、これも細かいデータではありません。センター試験2001年度、2003年度追試に出題歴あり)を東インド会社が銀を対価に輸入したものとして、またこのキャラコに対抗するかたちで産業革命が始められたこととしてつかってもいいでしょう。ヨーロッパ人がアジアの物産で生活をたのしむようになったことを「生活革命」とさえ呼んだりしますが、それは大げさな表現でないことは、唯一詳細に説明している教科書の記述があります。新課程で失われる記事かもしれないのでのせておきます、清水書院の『新世界史A』のコラム記事の抜粋です。「インド=キャラコとイギリス」と題して、

 イギリスとインド=キャラコとの出会いは、東インド会社が設立された1600年以降のことである。ヨーロッパ人がアジアに求めた物産としては,香辛料と絹織物・陶磁器が有名であるが,東インド会社はこのほかにも茶・コーヒー・キャラコなどをもたらし,西インド産の砂糖の流入とあいまって,17世紀後半から18世紀のイギリスに生活革命をひきおこすことになった。キャラコに色鮮やかな文様をプリントしたものを更紗といい,インド更紗は古代ギリシア人にも知られていたが,東インド会社がもちこんだのは,インド西北岸のグジャラート地方の更紗であった。当時のインドはムガル帝国の支配が安定し,伝統技術を生かした綿工業がグジャラート地方,ベンガル地方,東南部のコロマンデル海岸などを中心に発達し,都市や港は活気に満ちていた。

 イギリスでは,インド更紗は女性のドレスや下着,テーブルクロス,ベッドカバーなどに利用された。ヨーロッパの毛織物にくらべて,キャラコは軽くて吸湿性に富み,洗濯も容易なことから大変な人気を博したが,その輸入の増大は伝統産業である毛織物工業を圧迫し,政治問題化していった。そこで,議会は1700年と1720年にあいついでキャラコの輸入と使用を禁止する法律を制定したが,かえってキャラコの需要を高める結果となった。香辛料や茶・コーヒーと同じく,綿花も気候の関係でヨーロッパでは栽培できないが,原料の綿花が安く手に入れば,自前で綿布を織ることができる。そう考えたイギリス人によって,紡績機や織機が次々に発明され,産業革命が開始されたのである。

 インドからすれば、1500年代から1600年代にかけて、綿布と交換に大量の金と銀を輸入したことになります。銀山のあるポトシと港湾都市リマは、中国からの絹や磁器、漆器、宝石用原石、真珠が多く集まることで有名になり、メキシコ人はフィリピンからの綿布や中国からの絹、インドからのキャラコを喜んで身にまとったそうです。

 18世紀の中国では先にもあげたように『練習帳』の「一条鞭法と地丁銀を説明せよ。(指定語句)地税 銀」という問題や、教科書の「清では、国内商業や外国貿易がますますさかんになり、銀の流入はさらに増加」の記述にあるように、一条鞭法から地丁銀に転換しました。前段の盛世滋生人丁の実施 (1713年)から地丁銀(1717年)への簡略化をあげてもいいし、つぎの雍正帝(1722~35)のときに全国に普及したことをあげてもいいでしょう。

 18世紀の銀の流れで無視できないのは金の時代のはじまりであることです。これは教科書からはずれてしまうので書けなくてもいいのですが、金本位制が19世紀にはじまる前提として読んでみてください。ヨーロッパには金がほとんど産出しないので内外取引の決済は銀貨でした(銀本位制)。しだいに非ヨーロッパの金がはいってくることにより金貨も使うようになります(金銀複本位制)。それが金のみを基準とする単本位制=金本位制に次第に変わっていきます。1816年イギリス、1873年ドイツ、1874年オランダ、1878年フフンス、1897年日本、1900年アメリ力合衆国が順に採用しました。これで分かるようにイギリスが一番最初です。それはイギリスが18世紀にブラジルの金をえていたからでした。1703年イギリスがポルトガルとメシュエン(メスエン)条約を結んだことがきっかけです。ポルトガルがイギリスの毛織物製品を買い、イギリスがポルトガルのワインを買うという通商条約です。この条約によってポルトガルに毛織物が入ってきたのですが、それを買うお金はじゅうぶんポルトガルになかったのに買えるようになります。それはちょうどこの頃にポルトガルの植民地ブラジルでゴールドラッシュがはじまったからです。この金を運ぶために発展した港がリオ・デ・ジャネイロです。1690~1770年の期間にブラジルは世界の産金量の半分を産出したそうです。当時の世界で生産される金の大部分を受取ることによって、イギリスの金融業者はその地位を強化し、ヨーロッパの金融センターをアムステルダムからロンドンに移動させることに成功します。メシュエン条約は金の流れをイギリスにもたらしただけでなく、ポルトガルはイギリスにラテンアメリカとの貿易も許可したため、イギリスのラテンアメリカ進出の門も開かれました。

 ブラジルのゴールドラッシュについては、ブラジル大使館の「歴史」に説明があります→ http://www.brasemb.or.jp/brasil/brief/historia.html

 なお銀というテーマを追いつづけて書いた予備校の解答としては(S)の解答例2くらいしかありません。これは大岡さんの解答でしょう。だいたい予備校の解答が「模範」であることはめったにないことです。解答例2はめずらしい。まして受験生の解答は予備校のレベル以下ですよ、ということを言いたいわけではありません。むしろ受験生の方がすぐれた解答をつくることは毎年添削して知っています(わたしの添削のペースは一年間で約1200枚)。教科書だけの知識で、問題を素直にとらえたら、予備校の解答にまさるものをつくることはできます。そうした学生の解答をここで示せないのが残念です。かれらの解答も独立してここで掲載すれば、著作権が発生しますから。わたしの解答はどの大学のもこのHPではのせていませんが、それはある掲示板に自分の解答であるかのように承諾なしでコピーして載せたひとがあり、それを見つけて以来載せないことにしています。いずれにしろ、他人のものを見ないで自分の解答をつくらないかぎり進歩はありません。


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  これはベネッセの「東大合格戦略号」という「東大特講」の宣伝パンフにのっている模範答案です。16行のうち11行が16世紀で占められています。17世紀は銀についてまったく言及しておらず、18世紀は「茶の代価」で終わっています。どこが「スーパー」なのか?

 

[第2問の解き方

 120字の短文論述が3問もこの第2問で課せられたのはひさしぶりです。1997年に5行、3行、3行というのがあり、それ以来となります。これからこれが定着するかは分かりません。この第2問は移り気なところが特徴です。

 

(1) 問題は「ユダヤ教を築きあげた。その成立過程について、彼らの王国の盛衰との関わりを考慮しながら」という政治史と関連してのユダヤ教成立史です。

 ユダヤ教成立はいつでしょうか? 一般に、バビロン捕囚が解かれた後、というのが通説です。たとえば教科書『詳解世界史』(三省堂)では「のちにバビロンから帰国した人びとは、イェルサレムに神殿を再建し、祭儀と神の律法を基礎にすえたユダヤ教を確立した」とあります。新課程の『高校世界史』(山川出版社)でも「こうした民族的苦難のなかで,ヘブライ人は唯一の神ヤハウェへの信仰をかたくまもり,約50年後に許されて帰国すると,イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し,ユダヤ教を確立した」と。『新編 東洋史辞典』京大東洋史辞典編集会議編は「前517年イェルサレムに神殿を再建し、祭儀中心のユダヤ教が成立した」と明快に年代をあげて説明しています。なおバビロン市にだけ連れていかれたわけではないので「バビロン捕囚」は正しくなく、本当は「バビロニア捕囚」であるべきという(石田友男著『ユダヤ教史』山川出版社)。

 ただ『新世界史』(山川出版社)は「彼らは捕囚地で出身部族のこだわりをすて,12部族の一つであるユダ族を中心に唯一神ヤハウェの信仰のもとに団結した。ユダヤ人とユダヤ教の名はそこからおこった」と捕囚中に宗教のもとができたことを示唆しています。「団結」とは、律法に従うことでユダヤ人としてのアイデンティティ(自覚)を得、異教徒と区別するために割礼(男性性器の一部を切除すること)を儀式とし、安息日(労働をしない土曜日)を守り、シナゴーグ(教会堂)で礼拝し律法を学ぶことです。これらのユダヤ教徒たる条件がそなわってパレスティナに帰還してユダヤ教ができたというわけです。キュロス2世の帰還命令(旧約聖書の「エズラ記」第1章)はあっても帰還はうまくいかなかったようで、ダレイオス1世のときの(第二次)帰還(前520年)が成功して4万2360人が帰れたようです(ポール・ジョンソン著『ユダヤ人の歴史』徳間書店)。

 「彼らの王国の盛衰との関わりを考慮」とありますから、まずサウル、ダビデ、ソロモンと3代つづいたヘブライ王国が分裂したこと、北にはイスラエル王国、南にはユダ王国ができ、北のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ(前722年)、南のユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼされ(前586年)と時間差はあれど共に坂をころげ落ちていきました。この間、預言者が現れ、警告を発したものの空しく亡国・離散・強制連行・強制労働・迫害・虐殺という苦難をなめることになったのですが、それがユダヤ人の民族的結束の必要性をせまり、民族性を保つための教義(選民思想・救世主)と方法(信徒のシナゴーグでの集会・聖書=律法を学ぶ)も持たせました。アケメネス朝の保護下にユダヤ教は成立します。ほぼ政治史の流れで書ける易問でした。

 

(2) 比較の問題です「ビザンツ帝国と神聖ローマ帝国とでは、皇帝と教会指導者との関係が大きく異なっている。11世紀後半を念頭において、その違いを4行以内で説明せよ」と。

 「11世紀後半」といってもビザンツの皇帝権は変わりがありませんから、神聖ローマ皇帝が叙任権闘争でどれくらい弱体化しているのか書けないと「(大きく異なっている)違い」がでてきません。どこかの予備校のように、たんに「叙任権闘争が起こった(発展した)」ではどうしようもありません。それで「ビザンツ帝国」皇帝とどうあり方がちがうのか説明が必要です。

 もちろんかんたんな問題で、ビザンツ帝国皇帝は政教両権を掌握し、神聖ローマ帝国皇帝は聖(教)界には権限が限られていた、ということです。教皇という教会組織のトップが厳然として存在していたからです。教皇は皇帝の叙任権を否定しており、それは11世紀後半に決着がつかなかったとしても結果的には教皇側の意図どおりになります。またレコンキスタに援軍・献金をして闘争を支援し、十字軍を唱導・派遣したのも教皇でした。明らかに皇帝より教皇が西欧の政治を動かしていたのです。

 

(3) 問(2)と類似問題です。「政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて」といやに具体的な問い方です。時代の「7世紀前半」は正統カリフ時代であり、「11世紀後半」はアッバース朝が衰退し、ブワイフ朝が10世紀にバグダードに入ってきたのを、この「11世紀後半」にはセルジューク朝が入ってきてブワイフ朝を追放し、トゥグリル=ベクがスルタン称号をもらった世紀でした。

 「違いを3つあげて」とありますから、この問題文にあるように、[1]7世紀前半は「政治権力者」であったのが、「11世紀後半」には宗教的権威のみになったこと、[2]カリフの数が一人だったのが、11世紀前半は三人だったのが後ウマイヤ朝の滅亡(1031年)で二人になったこと、[3]初め選挙制であったのが、世襲制になったこと、と三つあげることができます。

 [1]にかんしては、予備校の解答はすべてまちがっています。カリフが「7世紀前半」において、政教両権を掌握していた、政教両面の指導者であった、と書いています。きっと解答を書いている講師たちは学生にまちがったことを教えているのでしょう。8世紀のアッバース朝になって獲得するカリフの権限と混同しています。

 正統カリフ時代にカリフが政治的権限しかもっていないことは、教科書では『新世界史』だけが「彼の死後、教団は分裂の危機に見舞われたが、カリフ(代理)が選ばれ、預言者としてのムハンマドのもっていた政治権力を継承して教団を統率し、危機は回避された」と書いています。

 出題者と考えられる佐藤次高の最近の著書『イスラームの国家と王権』(岩波書店)にも「ムハンマドは、神の言葉を預かる預言者としての宗教的な権限と、ムスリムの集合体であるウンマを統率する政治的な権限とをあわせもっていた。この二つの権限のうち、アブー・バクル(初代カリフ……中谷の注)が第二の政治的権限だけを継承したことは明らかである」と。嶋田襄平著『イスラムの国家と社会』(岩波書店)でも「ウンマにおけるアブー=バクルの地位は、本質的に、非日常的事態に対処すべき部族の長のそれと変わりなく、かれは預言者マホメットの代理といっても、マホメットの併せ持った宗教・政治の両権限のうち、政治的権限だけを代行するものであった。要するにカリフ制度は、すぐれて軍事的・政治的制度だったのである」と。拙著『練習帳』には、次のような問題をあげています、

 11 ウマイヤ朝を変革した改革は「アッバース革命」といわれるが、どういう点で変革したのか述べよ。

 14 10~11世紀における、イスラム世界の転換について述べよ。(指定語句)カリフ シーア派

 

第3問

(1)「統制をはかろうとした宰相らが依拠していた学派の名前を記せ」という易問です。商鞅・韓非・李斯と秦を強国に育てた諸子百家のなかでも、もっとも政治的貢献度のたかい、以後2千年の中国王朝体制をつくりあげたひとたちの学派です。

(2)「玄奘らが……僧院の名称」という、これも易問です。教師数2,000、学生数10,000 が学ぶ国際的な仏教大学です。

(3)「朱熹によって重視されたため、科挙試験対策に必修のものとなった経典の総称を記せ」とは朱子学で重視した経典はなんですか、という問といっしょです。これもセンター試験的な易問です。

(4)「13世紀に作られ」という高麗がモンゴル人の侵入を受けて江華島にのがれ、退散祈願をした、「8万枚をこえる版木……印刷物の名称」は「高麗(版)」「八萬(八万)」を付けても付けなくてもいいでしょう。今年のセンター試験追試にも「韓国海印寺に保管されている大蔵経の版木」の図がでていました。つぎに版木をもった僧の姿が写っています。朝鮮の位置にあるのは変ですが。

http://www.kansaikorea.org/v2/Facts_about_Korea/facts_about_korea2.php

(5)「ハングルは15世紀の制定当時、どのように呼ばれていたのか」も易問です。センター試験では1989年、97年追試、99年、2001年、2003年と頻出のデータです。

(6)「15世紀中頃」もセンター試験では「13世紀」「14世紀」「16世紀」と年代がよく問われていてどれもまちがいです。今年の追試にもそのままそっくり出題されています。もしかして追試の出題者とこの第3問の出題者は同一人物だったりして。

(7)「1520年代初めにドイツ語に翻訳された聖書」で分からなかったら世界史は勉強しなおさなくっちゃ、というくらいの易問です。センター試験ではこれの同問が4回もでています。

(8)「話される言葉」白話運動です。「そのような主張を掲載した代表的な雑誌名」は胡適の「文学改良芻議」という論文をのせた雑誌で陳独秀のはじめたものです。白話運動もセンター試験では4回でています。

(9)「大量生産方式」ということばは、センター試験94年の追試の問題文に「20世紀に入ると、大量生産方式と大衆消費社会が生み出され、自動車や電気製品の発達が人々の生活を豊かにした」として出たことがあります。清水書院の教科書に「コラム41 モダン・タイムス」というのがあり、そこに「ちょびひげに山高帽,だぶだぶのズボンにス……毎日,ベルトコンベアーの流れ作業のなかでナットをしめる仕事についている」という文章に表われていました。

(10)この問に対して「電子出版/電子書籍」という解答を出した速報がありました。問題をちゃんと読んでいないためです。問は「第二次世界大戦中、アメリカ合衆国で新しい技術」とあり、それが今は「新しい出版の形態……この技術の名称を記せ」であって「新しい出版の形態」は何かとは問うていないのです。解答は「第二次世界大戦中……技術」でなくてはなりません。それは今きみが見ている技術です。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問

(1)法家 (2)ナーランダー僧院 (3)四書 (4)(高麗版)大蔵経 (5)訓民正音 (6)(a)活版印刷(b)グーテンベルク (7)ルター (8)新青年 (9)ベルトコンベア方式(流れ作業方式/オートメーション方式) (10)コンピューター