世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2007

*[東京大学]*[過去問]

第1問

 古来、世界の大多数の地域で、農業は人間の生命維持のために基礎食糧を提供してきた。それゆえ、農業生産の変動は、人口の増減と密接に連動した。耕地の拡大、農法の改良、新作物の伝播などは、人口成長の前提をなすと同時に、やがて商品作物栽培や工業化を促し、分業発展と経済成長の原動力にもなった。しかしその反面、凶作による飢饉は、世界各地にたびたび危機をもたらした。 

 以上の論点をふまえて、ほぼ11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。解答は解答欄(イ)に17行(510字)以内で記入し、下記の8つの語句を必ず一回は用いたうえで、その語句の部分に下線を付しなさい。

  湖広熟すれば天下足る アイルランド トウモロコシ  農業革命 穀物法廃止 三圃制 アンデス 占城稲

 

第2問

 歴史上、人々はさまざまな暦を用いてきた。暦は支配権力や宗教などと密接に関連して、それらの地域的な広がりを反映することが多かった。また、いくつかの暦を併用する社会も少なくない。歴史上の暦に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

 

(1) 西アジアにおける暦の歴史を概観すると、(a)古代メソポタミアや古代エジプトで暦の発達が見られ、のちにヨーロッパヘ多大な影響を与えた。また、(b)7世紀にイスラーム教徒は独自の暦を作り出し、その暦は他の暦と併用されつつ広く用いられてきた。近代になって、西アジアの多くの地域には西暦も導入され、複数の暦が併存する状態となっている。

 下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について、3行(90字)以内で説明しなさい。

(b) イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か、2行(60字)以内で説明しなさい。

(2) 現在、私たちが用いている西暦は、紀元前1世紀に古代ローマで作られ、その後ローマ教皇により改良された暦を基礎としている。しかし、ヨーロッパにおいても、時代や地域によって異なる暦が用いられており、しばしば複数の暦が併用された。

 以下の問いに、(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) フランスでは、18世紀末と19世紀初めに暦の制度が変更された。これらの変更について、2行以内で説明しなさい。

(b) ロシアでも、20世紀初めに暦の制度が変更された。この変更について、1行以内で説明しなさい。 

(3) 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元~清代の中国における暦法の変遷について、4行以内で説明しなさい。

 

第3問

 19世紀から20世紀には、世界各地で植民地・領土獲得競争や民族主義運動が広範に展開した。こうした動きに関する以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

 

(1) イギリスは19世紀初めからマレー半島に植民地形成を進め、20世紀初めにはイギリス領マレー植民地が完成した。その中で、海峡植民地として統合された地域内の港市の名称を二つ記しなさい。

(2) 独立後のアメリカ合衆国は領土を徐々に太平洋岸にまで広げ、西部にも多くの人々が移住するようになった。この間、アメリカ先住民は土地を奪われ、居住地を追われた。以下の問いに(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 先住民をミシシッピ川以西の保留地に迫いやることになった「インディアン強制移住法」が制定された当時のアメリカ合衆国大統領は誰か。その名を記しなさい。

 (b) 当時の白人たちは、アメリカの西部への拡大を神から与えられた「使命」と考えていたとされるが、この「使命」を端的に示す用語を記しなさい。

(3) 奴隷貿易がその終焉を迎える中で、北米などの奴隷を解放しアフリカ大陸の開拓地に入植させる試みがなされた。西アフリカでは、アメリカ植民協会によって開拓された解放奴隷の居住地が、19世紀半ばに共和国として独立した。この国の名称を記しなさい。

(4) 19世紀半ばから後半にかけて、アフリカ内陸部における植民地建設にさきがけるかたちで、探検が行われた。こうした探検に従事した探検家の中に、現在までその名をアフリカにおける都市の名称として残しているイギリス人宣教師がいるが、その名を記しなさい。

問(5) エジプトでは1880年代初めに武装蜂起が起こったが、イギリスはこれを制圧してエジブトを事実上の保護下においた。その後、イギリスはスーダンに侵入し、そこでも強い抵抗運動に出会ったが、1899年には征服に成功した。エジプトにおける武装蜂起の指導者名(a)とスーダンでの抵抗運動の指導者の名(b)を、(a)・(b)を付して記しなさい。

(6) ルワンダでは、少数派のツチ人と多数派のフツ人が激しく対立する内戦の中で、1994年には大量虐殺が引き起こされた。この事件の背景には、かつての西欧列強による植民地支配の影響が認められる。19世紀末に現在のルワンダ、ブルンジ、タンザニアを植民地化し、ルワンダではツチ人にフツ人を支配させたヨーロッパの国はどこか。その名称を記しなさい。

(7) カージャール朝下のイランでは、パン=イスラーム主義の影響の下で、イギリスが持つ利権に抵抗する運動が起こり、民族意識が高揚し、1905年には立憲革命が起こった。この運動に影響を与えた思想家の名(a)と、イギリスが利権を有していた主要な商品作物の名称(b)を、(a)・(b)を付して記しなさい。

(8) アフリカでは西欧列強による植民地化が進んだが、19世紀末にイタリア軍を打ち破り独立を維持した国がある。この国は1936年にムッソリーニ政権下のイタリアに併合されたが、まもなく独立を回復した。この国の名称を記しなさい。

(9) 第一次世界大戦後の東ヨーロッパには、「民族自決」の原則に基づき新しい国民国家が数多く生まれた。だが、その国境線と民族分布は必ずしも一致しておらず、民族紛争の火種を残した。以下の問いに(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ドイツ人が多数居住していたことを理由に、ナチス=ドイツが割譲を要求した、チェコスロヴァキア領内の地域の名称を記しなさい。

 (b) この割譲要求をめぐって、1938年に英・仏・伊・独の首脳によるミュンヘン会談が開催された。このときフランスとともに対独宥和政策をとったイギリス首相の名を記しなさい。

(10) 中国で辛亥革命が起こると、外モンゴルでは中国からの独立を目指す運動が進み、その後ソ連の援助を得て、社会主義のモンゴル人民共和国が成立した。ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について、1行(30字)以内で説明しなさい。

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[第1問の解き方

  課題は農業史ですが、それを「11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義」という要求です。親切なことに、変化の内容を示す文章が導入文にあり、「基礎食糧を提供……耕地の拡大、農法の改良、新作物の伝播」とあり、意義を示唆するのは「人口成長の前提……商品作物栽培や工業化を促し、分業発展と経済成長の原動力」と書いてあります。しかし普及したために「凶作による飢饉」という事態におちいる場合もあると指摘しています。 

 まず 「変化」が課題なので、「耕地の拡大、農法の改良」という変化は前後を書くのが基本です。ただ「新作物の伝播」はそれだけで変化でしょう。指定語句では、トウモロコシと占城稲がそれにあたります。これだけが新作物ではありませんが。ただ「基礎食糧」とあるので穀物になるものでなくてはならないでしょう。 

 この問題はたんなる事象の寄せ集めにすぎない、問題に論理性がない、と嘆くかたもおられましょうが、東大はこういう羅列的な問題は出しています(過去問をご覧あれ→2004,1990)。しかし、農業に関して、なんでもかんでもという問題ではありません。農業の変化がいかに人類に大きな変化をもたらしたかを実証してくれ、という問題ですから良問とわたしはおもいます。それに政治史だけでない世界史を勉強してきたのか、変化と意義をシッカリ書けるかを見るには適切な問題であり、学習の浅深を測る成績票は、きれいなカーブを描いたはずです。 

 東大が農業に関する問題を出したのは、これが初めてではありません。年代順に示すとつぎのような問題が過去にあります。この問題の時間(11~19世紀)に関係しているものだけをあげます。

 

1973年第1問  下記の語句はそれぞれA「コロナートゥス制の成立」、B「産業革命の諸条件」と題する二つの短文を作る為に要する語句である。これらの語句につき、下記の設問に答えよ。解答は答案用紙(イ)の所定の欄に記入せよ。   農業革命 ……

1976年第1問 (B)帝国主義のもとで従属的地位におかれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの社会……(e)アルゼンチン経済の特色は、大土地所有下の農場・牧場がイギリスに輸出するための食肉・小麦を生産しているところにある。イギリス系の鉄道はこれら農牧場をもっぱらブエノスアイレスに結びつけている。その結果アルゼンチン経済の発展は、むしろ妨げられ、ゆがめられているのである。……(g)運河建設のための財政投資はすぐ収益をあげはじめたのに、鉄道建設はいつまでたっても大きな財政負担を残したままだ。こんな状況では、インドのような農業国の統治者は、鉄道より運河の建設に力を入れそうなものだ。……どんどん鉄道が建設されたのに、灌概工事の方はおろそかにされてきたのである。 

1983年第1問 (B)16・17世紀の中国に生じた新しい動きについて、経済と思想の分野を中心として述べよ。 

1989年第3問 (8)「大航海」時代には、アメリカ大陸から新しい消費物資が旧世界に導入されて、人々の生活に変化がおこる一因となった。次のもののうち、原産地アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされたものを三つあげよ。

   コーヒー 砂糖 じゃがいも たばこ とうもろこし 木綿

1991年第2問 (C)唐の半ばから、政情の不安を避け、より安定した生活を求めて、中国の北方から南方に向けて大量の移民が生じ、宋代には南方の人口は北方のそれをこえるようになった。 

 設問  南方での人口増加に関係の深い技術上ならびに経済上の変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

1994年第2問 (A)18世紀イギリスでは、農村社会に大きな変化が起こり、それが工業化にも一定の影響を与えた。この変化について、3行以内で記せ。 

1995年第3問 (F)人々の移動には、人々の流出を生み出すプッシュ要因と流入をうながすプル要因となる出来事が顕著に認められる場合がある。以下の場合の移動の主な要因と考えられる出来事を記せ。

 設問(11)1840年代後半のアイルランドからの流出

  拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)には、これらのうち第1問・第2問のコメントがのっています。またコラム(p.80)の「気候による影響」という文章の中に関連する内容が述べてあります。 

 さらに巻末付録『基本60字』に今年の問題に関連する短問が5問あります。 

p.12「8 唐末五代宋の農業の技術的発展について説明せよ。 (指定語句→)占城稲 田植え」、

p.12「11 明末の江南と湖広の経済について説明せよ。 手工業 穀倉」、

p.45「2 三圃制とはどんな農法か,またそれは農村にどのような変化をもたらしたのか(120字)。 休耕地 村落共同体」、

p.46「7 11世紀以降の農業生産力の上昇について、その技術的理由を説明せよ。 重量有輪犁 水車」、

p.58「7 産業革命と同時に進行した農業革命について述べよ。 資本主義 農業労働者」。

 

 ちなみに山川の『詳説世界史論述問題集』には、この問題に関する箇所は、湖広熟すれば天下足るの説明(p.50)だけであり、11世紀の唐末五代宋の農業、また欧州の11世紀と18世紀の農業の変化に関する問題はまったく載っていません。たくさん問題が載っていても、たった1問でした。ましてZ会『段階式・世界史論述トレーニング』には1問もありませんでした。

  さて、どういう構成で書くか。合格した受験生が受験場で、この問題が何を言いたいのか、初めは分かりづらかったが構想メモを書き出したら、意外やカンタン、きわめてローカルな問題だと気がついたそうです(これが構想メモの効用です)。書くデータが多すぎて削除するのに苦労した、とも。さてそのローカルさとは中国と欧州です。

 構成の第一は、時間順に書いていく(11世紀の中国と西欧→16世紀の新作物の伝播→18世紀の西欧農業革命→19世紀の飢饉)、第二は地域別で書く(西欧・中国)、第三は導入文にある論点をそのまま反映させていく構成です。つまり、「(変化)耕地の拡大・農法の改良・新作物の伝播→(意義)人口成長・商品作物栽培・工業化・分業発展・経済成長・凶作による飢饉」という構成が考えられます。西アジア・南アジアについては書くデータがないので、無視する他はないようです。もちろんアメリカ産の農作物はインド洋をゆくポルトガルの船で運ばれていますから、それは途中、寄航したしところに伝わっていきました。たとえば、「カボチャ」はアメリカ原産でありながら、ポルトガルが日本に伝えたもので、カンボジアに生じたものと誤解して名づけられたものです。また「ジャガイモ」はオランダ船で平戸に渡来したのですが、それはインドネシア・ジャワのジャガトラから入ってきたとのことで、この名前があるそうです。 

 問題がたんなる事象の羅列にすぎない問題ではないか、といぶかりながら、受験生の多くは第一の時間順、つまり流れ的に書いていったでしょう。どれを選ぶにしろ「変化」「意義」が出せるように意識的に書いていくことが求められます。変化はこうこう、その意義はこうこう、と素直に書いたらいいのです。どうだったでしょうか? ただ事象を羅列していくだけで、どう変化したのか「前後」が分からないものや、指定語句をつかって事象の解説にすぎないものでは得点は望めません。ネットの中の解答はこういう類いのものばかりです。どれが変化か、意義かと問いながら読んでみると欠陥が見えてきます。 

 変化は前後を書くのが基本、と先に書きました。そう書かないと得点できない問題は、上に過去問としてあげた1991年第2問のときもそうでした。「技術上ならびに経済上の変化を」と問われて、「水田農法が進み、低湿地や山麓の辺地が水田に造成され、早稲、特に日照りに強い占城米が輸入され普及、二毛作も興り、“蘇湖熟すれば天下足る”といわれた。茶など商品作物も盛んとなった」(赤本)という答えは新しくなった技術は分かりますが、何からの変化なのか前のことは分かりません。これに対して、「技術:休耕法にかわる田植え、占城稲の導入、二毛作、石炭の使用、水利田など。経済:華北にかわり江南が穀倉になり、銅銭に紙幣が加わり、市制崩壊で政治都市は経済都市に変貌した。」と書けば何から何への変化なのかが分かります。この中でも、「占城稲の導入、二毛作、石炭の使用、水利田」は新しい技術なのと前が充分説明できないことなので書いてありません。次善の策です。しかし書けることがらは、できるだけ前後とも書いたほうがいいのです。 

 この変化を中国の場合で見てみましょう。 

 たとえば、「田植え農法の普及、早熟な占城稲の導入などで江南地方の農業生産は上昇し、商業の発達をうながした」と書いて変化が表れていますか?  これを、火耕水耨(かこうすいどう)に代わる田植え、囲田湖田による水田の拡大、占城稲が導入されて二年三毛作も可能となり漕運米は唐の3倍に増えた、と書けば変化が表れているでしょう。火耕水耨は田植えの前の農法です。休耕地をおかないと翌年畑が使えないので、「休耕法にかわる田植え」と書いてもいいです。「囲田湖田」は別解としてウ(土+于)田をあげてもいいでしょう。干拓の方法です。「漕運米(そううんまい)」は政府に納める米のことです。宋代の江南は唐代の3倍の収穫を納めることができました。 

 16世紀は明末です。ネットの解答には「明代」と不用意なことばをつかっています(?ヨビ)が、明代約300年間ぜんぶが変化ではありません。明末(清初)という語句を知らないのか?  明末のときは指定語句「湖広熟すれば天下足る」があり、農法の変化でなく地域の変化がありました。ですから、江南(長江下流域)から湖広(中流域)への変化は書けるでしょう。それがどんな意義をもっているのか書いた解答例は少ないです。11世紀の変化による意義も書いたものを見つけるのが難しい。 

 また16世紀にアメリカ産の新農作物が入ってきますが、それがすぐ栽培されて人口増加になったとまちがいを書いているものも見うけられます。たとえば「16世紀には新大陸の新奇作物が普及し、中国ではトウモロコシやサツマイモが導入されて人口が増大した」(?ヨビ)という解答です。栽培が本格化するのは17~18世紀になってからです。たとえば教科書(東京書籍)に「17世紀ごろから、アメリカ大陸からの輸入作物のうち、トウモロコシが華北一帯で、甘藷が江南で広く栽培されるようになり、甘藷は琉球をとおして日本にも伝わった」とあります。「この間にはいってきたアメリカ大陸原産の甘藷・ジャガイモ・トウモロコシ・落花生・タバコなどは急速に普及して、中国の農業形態を多様化し、増加する人口を支えた。」とある『詳解世界史』(三省堂)は雍正帝・乾隆帝期(両帝とも18世紀)の説明のところで書いています。

 「11世紀から」の中国と欧州、とあったらどんな時代であったか、パッとイメージが浮かびますか? 中国なら宋が、しかし欧州の11世紀は? 別の合格者は、この11世紀で、すぐ拙著『センター世界史B 各駅停車』の記事が印象深かったので思いだした、とメールをくれました。「光があふれ、人口がふえてきた」という題の11~13世紀の変化を述べた解説です(p.210)。 

 

 では欧州を見ましょう。西欧がどうしても主ですが、東欧・ロシアについて書いてもいいです。 

 まず11世紀の変化といえば、三圃制や有輪犂の普及、と書いてしまいますが、これだけで農法のどんな変化になるんじゃ? 半分しか解答になりません。  

 セーヌ・ライン川間で7~8世紀にはじまった三圃制は以前の穀草式や二圃制に代わったのであり、これが11世紀に西欧で普及し、15世紀までにドイツ人によって東欧・ロシアに伝わります。穀草式とはゲルマンの農法で、穀物をつくった後の畑は捨てて草ぼうぼう生やしてほったらかしにする乱暴な農法です。一定の地域をつかいきったら他の畑を耕す。同じ土地をつかいつづけるという一般的農法はかれらにはなかったのです。二圃制は秋蒔小麦と休閑とを繰り返すものです。ぜんたいで600エーカーの土地面積として2つに分けると、半分の300エーカー分が収穫になります。休耕地の300エーカーはなにもしないでほっとくのではなく、ここに家畜を放牧してウンチをしてもらい、また雨の後に土地を耕して水分を保たせるためです。少なくとも2~3回の土の掘り起こしをしなくてはならずシンドイ。休閑地がもっともエネルギーの投入される場所です。それが同じ面積の土地を3つに分ける三圃制だと、200×2=400エーカー分の収穫になり、後の200エーカーが休耕地ですが、2回耕すとして400エーカー分の労働力で済むのです。二圃制と三圃制の差が分かりましたか? 三圃制では余った労働力で耕地の拡大に励めます。

 重量有輪犁(有輪重量犂)は軽量犂と比べて深耕することができました。粘土質の堅くて耕しにくいヨーロッパにふさわしい。ただし重量犂をひっぱるのには2~4頭の牛、牛は遅いので、後では4~8頭の馬を使用しました。が、これだけの頭数は単一の家族の資力では養えず、となりの農家の家畜も貸してもらわないとできません。いや、いくつもの農家で出し合っていかないとできない。だから農民は村落共同体を形成します。これが意義のひとつであり、また生産の拡大は人口増加に、そしてヨーロッパ全体の「大開墾時代」の到来となります。

 このことを教科書では、 

 「1000年ころから農業生産は飛躍的に増大する。それは、農業における技術革新の結果で、これにより大開墾運動が展開されて耕地が拡大された。それとともに集村化がおこり、村落共同体が強化された。(新世界史)」 

 「11~12世紀の農業生産力の増大と人口の急激な増加は、西欧世界の拡大運動を引きおこした。内に向かっては、大開墾運動がおき、アルプス高地への開墾もおこなわれた。外に向かっては、ドイツ人が東方植民運動をおこし、イベリア半島ではイスラム勢力に対して再征服運動(レコンキスタ)がおこされた。(詳解世界史)」 

 

 「大開墾時代」といわれるくらいヨーロッパの森が切り開かれ耕地が拡大し、それとともに人口が増加し、初期膨張(十字軍・レコンキスタ・東方植民)の人材を提供しました(意義)。ヨーロッパの畑はこの時期に開かれたものから成り立っています。しかしこの畑の広さは日本人には想像できないくらい大きいものです。拙著『センター世界史B 各駅停車』では、「ヨーロッパを旅行すると、どこまでもどこまでもつづく畑の風景にあきれはてます。日本人のような山と海が接する島国からきた旅行者には不思議な風景に映ります。」と書いています。これはロワール川沿いをずっと汽車で行って、どこまでも広がる畑の風景、というより大海原のように広い畑、と形容したほうがいいくらいの大地を見たための記事です。日本だったら左右が山か海、という風景がつづくのとちがっています。 

 しかし三圃制には限界がありました。中世農業の諺「飼料がなければ家畜がない。家畜がなければ肥料がない。肥料がなければ収穫がない……」これは人糞をつかわず、家畜のウンチだけを肥料にしていることと、なにより寒く痩せた土地における収穫の少なさを表現していて、1粒を種としてまいて収穫は2~3粒しかできず、来年度のためには1粒は食べてはいけない(メソポタミアでは76.1粒、エジプトでは誇張ではあるもののヘロドトスによれば200~300粒です、なんとヨーロッパの収穫率が悪いことか!)。人間の食べる小麦も充分なく、家畜にやるえさ(飼料)も少ない。そのため西欧のひとびとは、18世紀までおかゆに野菜を浮かべたものを食べていて、小麦のパンや肉はあまり食べられなかったのです。 

 一時しのぎになったのが、アメリカ産の新農産物です。ただし中国と同様に16世紀に入ってきても、栽培が本格化するのは18世紀の後半からです。その前では三十年戦争(1618~48)のときに傭兵のオランダ人がもちこみ飢餓のドイツ人を救った作物だそうです。さらに七年戦争(1756~63)は「ジャガイモ戦争」といわれるくらいにジャガイモがかかわっています。フリードリヒ2世は国内に奨励しただけでなく、確保したシュレジエンにこれを植えつけ、スウェーデンでは帰国した兵士がこれを伝え、フランスでもプロイセンの捕虜となったパルマンチェが食糧としてのジャガイモを知り、これを持ち込んだとのこと。かれはマリー=アントワネットにジャガイモの花束を贈ったそうです。するとマリー=アントワネットはジャガイモの白い花を髪に飾って見せびらかしたたことから貴族の間に流行するようになったとか。宝石の首飾り事件が尾を引いてギロチンにかかる前のことです。ジャガイモの花では首は飛びません。

 この18世紀の後半からが農業革命といわれる農法の変革がおきます。16世紀のエンクロージャーも農業革命といいますが、16世紀には技術革新がありません。18世紀のは技術革新がともないました。ノーフォーク農法(輪裁式農法、四圃制、4年周期農法、改良三圃制)といわれるものです。カブとクローバーという家畜の飼料になるものが増える農法です。カブは地下深くの栄養をとるだけで表面を痩せさせることはなく、クローバーは表層に窒素をたくわえてくれるので土地は肥えます。もう休耕地をおかなくてもよくなりました。カブ・クローバー・小麦・大麦と輪裁することで家畜の飼料がぐっと増えました。これにジャガイモもトウモロコシも飼料として加わり、冬に飼料がなく牛を殺してベーコンという保存食料に変えなくても、1年中飼育することができ、初めて新鮮な生肉も食べられるようになったのです。西欧人はなにかいつも生肉を食べてきたのではないか、というイメージがありますが、血のしたたる肉を食べだして200年しかたっていないのです。食生活の変化は大きい(意義)。 

 アイルランドのジャガイモ飢饉は約110万人が餓死したといわれる災害でした。1845年から1849年はヨーロッパ全体が寒冷であり、ジャガイモは寒さに弱い。とくにアイルランドに入ってきた種類は病害に弱いものでした。小麦はとれたそうですが、これはイギリス人がもっていってしまい、アイルランド人の口には入ってこないため、人災的飢饉となったものです。しかし冷害は全欧にあり、イギリス本国でも影響がでてきてコブデン・ブライトの運動はあっても、穀物法を廃止しないと本国でも餓死者が増えることになり撤廃にふみきった、ということです。この冷害は1848年革命(二月革命・三月革命)の背景でもあります(負の意義、正の意義か?)。今の日本でもジャガイモは生のままでは輸入できないことになっていて、ゆでてマッシュにした冷凍品だけです。国が指定したジャガイモ(馬鈴薯)の原種をつくる専用の農場があり、そこでウイルスのついていない種を作って管理し、ジャガイモ生産農家に配布するようになっています。 

 穀物法について、1815年発布とか、輸入穀物に高関税をしくという内容だとか、マンチェスターの企業家コブデンやブライトらが反穀物法同盟をつくって運動したたとか、いろいろこの指定語句について書く必要はありません。飢餓が穀物法廃止をイギリスに迫った、くらいでじゅうぶんです。 

 指定語句をいちいち説明して書け、というアドバイスをある模試の採点講評で書いてありましたが、そんなのは無視することです。そのアドバイスは「答案は読む相手に対し自分が内容を理解していることをアピールするものなのであるから、常識的なことだからといって暗黙の前提として論述するのでなく、最低限度の説明はするべきである」と。これはこの模試の採点の仕方が、指定語句をどう説明しつつ書いたかをいちいち加点ポイントにしているからで、東大がそういう採点をするとはおもえない。指定語句8つで今年なら41字あり、この語句になんらかの説明を20~30字くらいずつ加えるとすれば41字プラス160~240字くらいは必要であり、それだけで200~240字くらいになるでしょう。この穀物法廃止なら、1815年に地主優遇のために制定した法は産業資本家の反対運動もあり、という説明にすると説明文だけで32字あります。こういう無駄なことはしなくていい。東大の問題が、広くて大きいテーマの性格をもっていることから考えて、指定語句が正しい文脈でつかってあればよく、指定語句のひとつひとつについてどういう説明文を付けたかで加点していくという採点方法はとらないとおもうからです。模試で高得点をとりたければ説明しつつ書けばよく(模試は指定語句にこだわれば、点数はかせげます。模試については採点方法だけでなく、問題そのものに問題があることを「E判定でも」で書いています)、しかし、それを本番ではつかわないことです。模試と本番は別とこころえよ。合格した受験生の再現答案(掲載停止)を見てもこのことは確認できます。

 今年の問題なら、変化をいくつあげられるか、それが変化として正しく書いてあるか、その変化とともに意義が書いてあるか、意義の内容は変化からすんなり導き出せる意義になっているか、であり、これこそ採点の基本になるものです。もちろん指定語句は必要な歴史用語の一部にすぎず、指定にない歴史事象も入れないと完結しないのが東大の問題の特色ですから、指定語句だけにこだわった解答は避けるべきです。

 

[第2問の解き方] 

(1)(a) 「古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について」とあり、この二つの地域の暦を比較することを明快には要求していません。双方に共通する背景を書けてもいいし、ちがいを書いてもいいとわたしはおもいます。 

 ただし、メソポタミアの暦について、占星術とともに暦が発達したかのように書いている解答(?ヨビ・?ヨビ)には賛同できません。また「後に農作業、占星術を行うため閏月を入れ」(?ヨビ)という解答にも賛成できません。この問題は暦の発達の「背景」を問うているのであり、占星術(天体の運行と人間や国家の運命との照応関係、中国なら讖緯説・天人感応説)という星占いは相当あとになって発展したもので、すでに暦ができてしまってからのものです。シュメールでは占星術は確かめられず、バビロン第一王朝(前1800年頃)に萌芽は認められるものの、ハッキリしてくるのはアッシリア帝国(前8~前7世紀)や、この帝国滅亡後の新バビロニア王国(前7~前6世紀)からです。日蝕・月蝕のときに国王に災いが降るため、農村に隠れろと占星術師から命じられ、身代わりの(影武者)王をたてた、という面白い話(三笠宮崇仁編『古代オリエントの生活』河出書房新社)はアッシリア帝国のものです。これよりもっと前の前の前2900年頃のラガシュ市では「羊に大麦・水を運ぶ月」「牛を登録する月」のような豊作業や、「ナンシュ女神の麦芽を食べる祭りの月」「ニンギルス神の大麦を食べる祭りの月」のような農業にかかわる月が月名に入っている」(小林登志子著『シュメル』中公新書)ように農事暦として発展したのが背景です。 

 なによりエジプトは太陽暦、メソポタミアは太陰暦と記すのが第一、その上でこの2種の暦のつくりかた、つまり前者はナイル川の定期的洪水を測るために、後者は月の満ち欠けをもとに農作業の時期を知るために作成した、と。ちがいを表わすとすれば、太陽暦は季節をよく反映したが、太陰暦はずれが生じるため閏年を設けた、と。「1年は354日で、30日からなる大の月と29日の小の月を交互に置いていた。暦と実際の季節との間のずれを調整するために閏年(うるうどし)が置かれた。閏年は1年が13月であった。(前掲書『シュメル』)」と説明されています。

(b) 「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」とは、ヒジュラ暦の欠陥は何か、という問いでもあります。教科書の巻頭に、「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた。(詳説世界史)」、「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い。(東京書籍)」と説明があるものです。このヒジュラ暦が古代の太陰暦とちがうのは閏年をおかないことです。そのため毎年10~12日のずれができ、季節の循環と一致しません。これでは遊牧をふくむ農作業には不適切なため太陽暦を用いざるをえず、農作物をとるのが原則のハラージュ(地租)も地域によって小差はあれ太陽暦で徴収されています。イスラーム教徒がつかう暦にも両方の暦が記されている理由はここにあります(→http://www.islamicacademy.org/html/General/USA_2005.htm)。またいろいろな暦の比較表は『世界史小辞典・改訂版』(山川)が便利です。これは用語集の元になっている辞典です。

(2) (a) 「18世紀末」は革命暦(共和暦)であり、「19世紀初め」はナポレオンが元(グレゴリウス暦、グレゴリオ暦、グルゴリー暦)にもどしたこと(1806)を指しています。革命暦に変えたいという意気込みは、国民公会における演説に表れています(河野健二編『資料フランス革命』岩波書店)。 

フランス人民が再生し、共和国が確立されたために、キリスト教紀元の改革の問題が必然的に生じてきた。王がわれわれを虐げていた年月を、われわれが生きてきた時間として数えることはもはやできなかったのである。われわれの暦は、その各ページが王座と教会の偏見、また両者の欺瞞でもって汚れていた。諸君はこの暦を改め、別の暦に取ってかえた。……無知の妄想を理性にもとづいた現実で、また聖職者の威信を自然の真理で取ってかえる必要がある。

 と、いかも啓蒙思想と反キリスト教のにおいがぷんぷんする演説です。秋からはじまる暦は、葡萄月、霧月(ブリュメール)、霜月、冬は雪月、雨月、風月(ヴァントーズ)、春は芽月、花月、牧草月、夏は収穫月、熱月(テルミドール)、実月ときれいな呼び名でした。なにか日本の古い陰暦のようです。しかしこの暦は農民には馴染みがなく、カーライルが「全ヨーロッパが震撼した」というくらいのショックを与えたようで拒絶反応がでてきます。 

(b) 「20世紀初め」は革命の結果、古いロシア暦(ユリウス暦)をナポレオンと同じようにグレゴリウス暦に改定しました。ロシアはピョートル1世がユリウス暦を採用した(1700)まま、20世紀までつかいました。その結果、18世紀に11日、19世紀に12日、20世紀に13日おくれることになりました。1917年のロシア革命が二月(三月)革命と十月(十一月)革命とふたつ呼び方のある所以(ゆえん)です。  

 

問(3) 「元~清代の中国における暦法の変遷」についてという問いに教科書で答えられるのは、元の授時暦と明末の崇禎暦書の二つです。ネットの中には明の大統暦や清の時憲暦をあげてあるものもがありますが、これは「模範」にはならないでしょう。4行(120字)も書けなくても差のつく問題とはおもえません。用語集にも二つはのっていません。新課程版の存在を確かめてはいませんが、山川の『世界の歴史』にはのっていました。コラムとして「暦の歴史」を設け、こう書いています。

元代につくられた授時暦はすぐれていて明の大統暦にうけつがれ、清代にはヨーロッパの天文暦数をもとに時憲書が制定されたが、清末まで基本的に大きな変化はなかった。1912年中華民国が成立すると、はじめてグレゴリオ暦を採用した。

 

第3問 

(1) 「海峡植民地」の港市名を二つ、という問題。北からペナン・マラッカ・シンガポールの3つのうち2つということです。易問でした。 

(2)(a) 「インディアン強制移住法」の大統領です。西部劇のカウボーイであり、かつ奴隷貿易業者でもあった白人至上主義の大統領です。アメリカらしい。  

(b) 「使命」を示す用語 Manifest Destiny は、以前は「明白な使命」でしたが、最近は研究者のあいだでは「膨張の天命」が使われています。これもかつてはルーズベルトと呼んでいた名前を、いまはローズヴェルトと言い換えているように、代る運命にある用語です。どの合衆国大統領もこの「天命」観を捨てることがないため、世界のいたるところのひとびとが迷惑をこむっています。天命観のない大統領はいつ現われるのでしょうか? 

(3) 「北米などの奴隷を解放しアフリカ大陸の開拓地に入植させる試み」という言い方はかっこういいが、実際は追放に近いといわれています。西海岸にあるリベリアは合衆国の星条旗とそっくりの国旗をもっています。その裏には合衆国のタイヤ会社ファイアストン社が控えています(拙著『各駅停車』 p.173)。今はブリジストン社の小会社となっていて、リベリアの黒人たちに対する強制労働で訴えられています。以下のブログです。自由(リベリア)とは程遠い状況がそこにはあります。 http://sankenbunritsu.blog-city.com/060326.htm 

(4) アフリカ内陸部を探検した人物といえば、リヴィングストンとスタンリーがいます。「宣教師」とあれば前者ですね。その名の都市があるかどうかは知らなくても。 

(5)(a) 「1880年代初めに武装蜂起……武装蜂起の指導者名」とは「アラービー=パシャの反乱」という名で学ぶ人物。用語集では「ウラービー」とだけでも出ています。パシャはなくてもよくなった。

(b)スーダンでの抵抗運動の指導者の名、同時期に始まりながら、20年近くつづいたマフディー王国の指導者ムハンマド=アフマドです。イギリス兵たった48人が16,000人のマフディー兵を殺します。機関銃の登場でした(拙著・前掲書 p.165)。 

(6) 難問でした。アフリカ東部の国々です。「タンザニア」でドイツと分かればしめたもの。ドイツ人は少数部族は砂漠に追いつめて皆殺しにして滅ぼしていきましたが(ナチスではありません。19世紀末のこと)、第一次世界大戦に敗北したため失います。ルワンダとブルンジはベルギー領に、タンザニアはイギリス領となりました。とくに「少数派のツチ人と多数派のフツ人が激しく対立」を煽(あお)ったのはベルギーの差別政策でした。これが20世紀末に虐殺の谷となります。映画「ホテル・ルワンダ」で描かれました。 

(7) (a)1905年には立憲革命運動に影響を与えた思想家の名は、パン=イスラーム主義の唱道者として出てきます。アフガーニーの反帝国主義と専制否定の主張は孫文に似ています。問(5)のウラービーの運動や、イランのタバコ・ボイコット運動を啓蒙しました。

 (b)イギリスが利権を有していた主要な商品作物の名称とは、タバコです。このことも前掲書ではこう書いています「タバコ利権とは、イラン全土におけるタバコの製造・販売・輸出の権利です。当時イランに滞在していた反帝国主義運動の指導者アフガーニーが追放されると、タバコ=ボイコット運動という反対運動がおこります(1891)。運動を前にしてカージャール朝政府はタバコ利権の譲渡を白紙にもどすことを決定します。そのかわり大きな賠償金をイギリスにとられることになりました。」(p.161) 

(8) 「19世紀末にイタリア軍を打ち破り」はアドワの戦い(1896)です。ヨーロッパの国をやっつけた最初の国は日本ではありません(日露戦争)。イタリア軍を追い出したのはエチオピア人です。もっと前にアフガニスタン人によるイギリス追放(第一次アフガン戦争、1838~42)があります。よく「日露戦争は、有色人種が初めて白色人種に勝った戦争」とぼけ老人たちはのたまうが世界史を知らなすぎます。 

(9) 拙著・前掲書ではこう説明しています。 

 チェコスロヴァキアの西北にドイツ人300万人が住むズデーテン地方があり、この地方のドイツ人がドイツへの編入を求めていました。この地方は石炭の産地で製鉄もさかんであり、世界でもっとも優秀な武器の生産会社スコダ社があります。この問題についてイギリス首相ネヴィル=チェンバレンは独(ヒトラー)・伊(ムッソリーニ)仏(ダラディエ)の首脳とミュンヘン会談を開き、その要求を認める宥和政策をおこないました。ここには当事国のチェコスロヴァキアの代表も東方の国ソ連も代表も呼ばれませんでした。それどころかズデーテンを獲得したヒトラーはこれで満足せず、半年後には約束をふみにじってチェコスロヴァキアを分離・解体しました(1939)。(p.343) 

(10) 「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」詳説世界史では、「ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。」とあります。東京書籍の教科書にはモンゴルがどうなったのか記載がいっさいありません。

 東大の世界史には東京書籍、などという証明もない俗説を信じるなかれ。その俗説例は『東大合格への世界史』→こちら。

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。 

第3問 (1)マラッカ・シンガポール (2)(a)ジャクソン (b)膨張の天命(明白な天命、マニフェスト=ディスティニー) (3)リベリア (4)リヴィングストン (5)(a)ウラービー(オラービー、アラービー=パシャ) (b)ムハンマド=アフマド (6)ドイツ (7)(a)アフガーニー (b)タバコ (8)エチオピア (9)(a)ズデーテン (b)ネヴィル=チェンバレン (10)共産党独裁をやめ自由選挙をおこない、国名をモンゴル国とした(社会主義を放棄し一党独裁を廃止して市場経済に転換した)。