世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2009

第1問

 次の文章は日本国憲法第二十条である。

  第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2、 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3、 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 この条文に見られるような政治と宗教の関係についての考えは、18世紀後半以降、アメリカやフランスにおける革命を経て、しだいに世界の多くの国々で力をもつようになった。

 それ以前の時期、世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して、解答欄(イ)に20行(600字)以内で論じなさい。その際に、次の7つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 ジズヤ ミッレト 首長法 理藩院 ダライ=ラマ 領邦教会制 ナントの王令廃止

 

第2問

 人口集中地としての都市は、古来、一定地域の中心として人々の活動の重要な場であり続けてきた。それらの都市は、周囲の都市や農村との関係に応じて、都市ごとに異なる機能を果たしてきたが、ある特定の地域や時代に共通する外観や特徴を示す場合もある。以上の点をふまえて、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1) (a)紀元前8世紀のエーゲ海周辺ではポリスとよばれる都市が古代ギリシア人によって形づくられた。ポリスはその後、地中海・黒海沿岸地域にひろがり、その数は1000を超え、ギリシア古典文明を生み出す基盤となった。ポリスはそれぞれが独立した都市国家であったため、ギリシア人は政治的には分裂状態にあったが、他方、(b)文化的には一つの民族であるという共通の認識をもっていた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ポリスの形成過程を2行以内で説明しなさい。
 (b) この共通の認識を支えた諸要素を、2行以内で説明しなさい。

 

(2) 中国においては、新石器時代以来、城壁都市が建設され、やがて君主をいただく国となった。そうした国々を従えた大国のいくつかは、王朝として知られている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b) を付して答えなさい。

 (a) 最古とされる王朝の遺跡が20世紀初頭に発掘された。そこで出土した記録は、王朝の政治がどう行われたかを証言している。その政治の特徴を2行以内で説明しなさい。
 (b) その後、紀元前11世紀に華北に勢力をのばした別の王朝は、首都の移転により時代区分がなされる。移転前と移転後の首都名を挙げ、移転にともなう政治的変化を2行以内で説明しなさい。

 

(3) 西ヨーロッパでは、11世紀ころから商業活動が活発化し、さびれていた古い都市が復活するとともに、新しい都市も生まれた。(a)地中海沿岸や北海・バルト海沿岸の都市のいくつかは、遠隔地交易によって莫大な富を蓄積し、経済的繁栄を享受することになった。(b)また、強い政治力をもち独立した都市のなかには、その安全と利益を守るために、都市どうしで同盟を結ぶところも出てきた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えない。

 (a) 地中海における遠隔地交易を代表する東方交易について、2行以内で説明しなさい。
 (b) 北イタリアに結成された都市同盟について、2行以内で説明しなさい。

 

第3問

 人類の歴史においては、無数の団体や結社が組織され、慈善・互助・親睦などを目的とする団体と並んで、ときには支配勢力と対立する宗教結社・政治結社・秘密結社もあらわれた。このような団体・結社に関する以下の質問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 18世紀末の中国では、世界の終末をとなえる弥勒下生信仰に基づく宗教結社が、現世の変革を求めて四川と湖北との境界地区などで蜂起したが、おもに郷勇などの自衛組織に鎮圧された。この宗教結社がおこした乱の名称を記しなさい。

(2) フランス革命期、ジャコバン派の独裁体制が打倒され、穏和派の総裁政府が樹立されると、革命の徹底化と私有財産制の廃止を要求する一部の人々は、秘密結社を組織して武装蜂起を計画したが失敗し弾圧された。この組織の指導者の名を記しなさい。

(3) 保守的なウィーン体制下、イタリアでは自由と統ーを求める政治的秘密結社がつくられ、数次にわたり武装蜂起と革命を試みたが、1830年代には衰退した。この秘密結社の名称を記しなさい。

(4) ウィーン体制下のロシアでは、青年貴族将校たちが農奴制廃止や立憲制樹立をめざして複数の秘密結社を組織し、皇帝アレクサンドル1世が急死した機会をとらえて反乱を起こしたが、鎮圧された。この反乱の名称を記しなさい。

(5) アメリカ合衆国では南北戦争の結果、黒人奴隷制が廃止されると、南部諸州を中心に白人優越主義を掲げる秘密結社が組織され、黒人に暴力的な迫害を加えた。この秘密結社の名称を記しなさい。

(6) 19世紀後半の朝鮮では、在来の民間信仰や儒仏道の三教を融合した東学が、西洋の文化や宗教を意味する西学に対抗しつつ農民の間にひろまった。東学の信徒たちは1894年に大反乱をおこし、日清戦争の誘因をつくった。この反乱を指導した人物の名を記しなさい。

(7) 日露戦争の時期の東京では、華僑社会とも深いかかわりをもつ中国の革命運動家たちが集まり、それまでの革命諸団体を結集した新たな政治結社を組織した。この政治結社の名称を記しなさい。

(8) 20世紀初めの英領インドでは、ムスリム(イスラーム教徒)の指導者たちにより、ムスリムの政治的権利を擁護する団体が組織された。この団体は、国民会議派と協力した時期もあったがやがてムスリムの独立国家建設を主張するようになった。この団体の名称を記しなさい。

(9) フランス支配下のベトナムではファン=ボイ=チャウらがドンズー(東遊)運動を組織し、日本への留学を呼びかけたが、この運動は挫折した。その後、ファン=ボイ=チャウらは広東に拠点を移し、1912年に新たな結社をつくり、武装革命をめざした。この結社の名称を記しなさい。

(10) 1930年代のビルマ(ミャンマー)では、ラングーン大学の学生などを中心にして民族主義的団体が組織され、やがてアウン=サンの指導下に独立運動の中核となった。この団体の名称を記しなさい。

………………………………………

[第1問の解き方

 論述問題は1字も見逃してはいけない、という教訓が今年の問題でありました。それは「と」という助詞です。課題の「政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか」の中の「と」は、「宗教・宗派」と「それらに属する人々」と並立している語です。前者は団体であり、後者は信徒個人です。導入文の憲法の中にも、「何人に対しても……何人も」は個人を強調しています。信教の自由はまず何より個人の信教の自由です。宗教上の差別を止めることは、血を流した長い歴史の教訓からきています(カメン著『寛容思想の系譜』平凡社が詳しい)。

 この問題を国家と宗教団体との関係だ、とみなした解答しかネットの中にはありません。この「と」を見逃したためです。

 まして「3つの地域の特徴を比較して」という課題に応えてない解答例もあり、いくら指定語句を使って書いても、没になる可能性もあります。これは高校の先生も指摘しています。http://zep.blog.so-net.ne.jp/2009-03-14

 

 「比較」の論述については、拙著『世界史論述練習帳new』(パレード)でも次のようなスキルを紹介しています。

 1 比較は同じ項目で比べる

 2 比較の文章は、比較した内容順に、最初の文に合わせて次の文も書く

 3 ヨコの比較が明快

 といったことです。このことができないために、今年の問題なら、3地域のことを羅列したら「比較」したつもりでいる解答例がたいてい出てきます。羅列と比較はちがうのに分からないみたい。3地域を見比べてみて、それぞれの違いを見つけないと特色も出せません。羅列で終わると、比較は採点官にしてくれ、と課題を預けてしまうことになります。

 

 いつから書き始めるか、という点については導入文に「政治権力は、その支配領域内の」とあるので主権国家・国民国家の現れる16世紀以降が妥当です。これは国家という化け物にちかい存在が現れ、信仰の決定権も握ろうとした宗教改革と絶対王政の形成が連動して現れた16世紀の西欧にとくに該当します。他の地域は16世紀以前と以降とでもあまり変わりがありません。

 この16世紀から書くとして、ある予備校(K)の次のような解答は正しいでしょうか?

  以上のように、西・東アジアでは一元的帝国のもと被支配民の宗教的な多様性が尊重されたが、西ヨーロッパではそれぞれの主権国家群が領内の宗教的統ーを追求した。

  これと似た結論にしているのが『全国大学入試問題正解』(旺文社)の解答で、ここには「国王主導による宗教的統一が図られた。宗教的非寛容を伴った西ヨーロッパに対し、アジアの2帝国であるオスマン帝国と清は、……宗教的寛容策をとった」と見て書いたような答案が載っています。

  まず西欧で検討すると、確かに解答前半にある「主権国家の形成が進み、各国家が教会組織を統制下においた」例は、指定語句の首長法・領邦教会制・ナントの王令廃止の3つが指し示しています。これらは統制・統一の傾向を表しています。しかし、それで西欧の「取り扱っていたか……具体的な実例」を描いたことになるでしょうか? 

 イギリスの例でなら首長法があったからとて、国教会に加わらなかったものはたくさんいたのであり、非国教徒の存在なしにピューリタン革命は起きません。議会多数の長老派と少数の独立派は国教会に加わらなかった非国教徒です。

 「ピューリタンの多いジェントリ・都市商工業者・独立自営農民(ヨーマン)のあいだでは政治的・経済的・文化的な不満が一体となり、1628年に議会は権利の請願を出して慣習的な課税決定権を主張した」(山川の教科書『新世界史』)

 それに名誉革命後の1689年に寛容令(信仰自由令)で個人の信仰を認めています。ヴォルテールの『イギリス便り』はフランスには見られないクェーカー教徒(非国教徒の一派)の姿が描かれ、その不思議な人たちをイギリス人は許していると、その国状に感心しています。これは寛容(信仰の自由)を紹介する便りでした。

 領邦教会制のプロイセンでは、フリードリヒ=ヴィルヘルム自身はルター派ですが、経済的に優れた技能をもつユグノーたちをフランス語のパンフレットをつくってばらまき迎え入れました。ベルリン市がいっきにフランス人の多い街になります。拙著『センター世界史B各駅停車』でも「勅令廃止は20万人に及ぶ商工業者を国外に脱出させることになり、「当時最高の技術者・知能集団である時計工のほか、毛織物工業の織り元や職人も……フランスの知的水準の低下のみならず、技術力、生産力の減退をもたらす結果となった」からです」と、角山栄著『時計の社会史』中公新書を引用しています。

 東ドイツの最後の首相の名前はモドロー(ハンス=モドロウ)というひとでしたが、ドイツ語らしくない名前で推測できるように、かれはユグノーの子孫です。「18世紀後半以降……それ以前の時期」とあるので、間に生きた啓蒙専制君主に言及しても良いでしょう。かれらが宗教寛容令を出したことは教科書にも載っています(山川・東京書籍・三省堂)。これはアウグスブルク和議で決めた領邦教会制に対して個人の信仰の自由を認めたものでした。18世紀後半を生きたヨーゼフ2世だけでなく、フリードリヒ2世は即位(1740─18世紀前半)と同時に宗教寛容令を発布しています。

 レコンキスタのところでユダヤ人が追放されたことは知っているでしょう。かれらはどこへ行ったのか考えると迎え入れた国々もあったことが分かります。東欧以外にイタリア諸都市やオランダはユダヤ人を招き信仰を保証しました。レンブラントの家のすぐ近くにアンネ・フランクの家がありました。レンブラントが描いた聖書物語の人物は身近かにたくさんいたユダヤ人がモデルでした。ユダヤ教徒についてイスラム世界で説明した解答はあったが、西欧ではなぜか皆無でした。

 拙著(センター世界史B各駅停車)にスペインの迫害に対して低地南部からカルヴァン派が北部に移住する説明では、こう書いています。

  宗教的自由は、多くの迫害されてきたひとびとをオランダに引きつけることになり、難民の集まるオランダは、アメリカより先に「人種のるつぼ」を実現していました。迫害のひどかったアントワープ市から2万人の市民がアムステルダム市に亡命してきました。その時ユダヤ人も逃げてきたので、東インド会社の株の4分の1をユダヤ人が持っていたのも不思議ではありません。そのためアムステルダムは「オランダのイェルサレム」といわれました。

  そういえば、オランダからアフリカに移住したユグノーたちもいました(これも拙著・前掲書のアフリカ史に記事あり)。それがボーア人を構成し、アパルトヘイトを決めた1948年のマランの由来をたどるとユグノーが出てきます。かれはフランスのプロヴァンス出身のユグノーで1689年にケープ州に移民したジャック・マランの子孫です。これは一橋1987年のアパルトヘイト問題とかかわっています。

  「ドイツ・イギリス・フランス・スペインで迫害されたユダヤ人の多くは寛容な教皇のもとや、かれらの経済的能力を期待した東ヨーロッパにのがれた」と書いている教科書(第一学習社)もあります。キリスト教徒だけがこの問題の範囲ではないはずです。ユダヤ人・ユダヤ教徒・少数派をどう扱ったかも信教自由の問題です。この問題の場合は東欧は書いてはいけませんが、プロイセンはドイツの起源なので書いてもいいでしょう。

 ユダヤ人までて書くのは細かすぎる、とおもう方はヨーロッパにおけるユダヤ人問題を軽く見ています。山川の用語集でも頻度6で「ユダヤ人迫害」が載っていて、あと「ゲットー」「ラテラノ公会議(第4回)」「マラーノ」「スピノザ」「ポグロム」「ハイネ」「ホロコースト」などの用語にユダヤ人のことが書いてあります。無知なひとたちが「些細な」こととみなします。センター試験でも度々出題されていることがらです(1988,91,92,94,98追,99,2000追,01,02,03,04追,05,09)。

 

 これらのことから西欧は統制だけでまとめられないことが判明します。各国の対応はちがっており、一律の規定はできません。問われているのは、英仏独という3国だけでなく「西ヨーロッパ」の全体的傾向です。統制は不徹底であり、迫害された者たちを積極的に受け入れた国・都市もあったことです。個人の信仰の自由を認めた国もありました。さらに三十年戦争後のウェストファリア条約で、個人の自由は啓蒙専制君主の登場まで待たなくてはならないとしても、領邦毎の教会は認める、カルヴァン派も認める、同時に他宗派をもつ領邦・国家の内政不干渉を承認しあったことも想起するといいでしょう。オランダ独立の国際的承認は寛容容認の例となります。

 

 次に、「西・東アジアでは一元的帝国のもと被支配民の宗教的な多様性が尊重された」は正しいでしょうか? 結論の前の解答文では、

  オスマン帝国のスルタンがイスラーム教スンナ派を統治理念として尊重した。ムスリムの優位を前提として、異教徒の信仰はジズヤの負担により認められ、非ムスリムが多数を占める地域ではミッレトを通じた宗教別自治も認められた。

  まちがいどこにもありません。ただ解答文ではオスマン帝国スンナ派だけイスラム世界では唯一言及していますが、この帝国と対立した国はどうなのでしょう? 「西アジア」はオスマンだけではないし、隣接して何度も戦ったシーア派国教のサファヴィー朝のことは無視しない方がいいとおもいます。問題文に「宗派」とあるからです。この問題の課題が「多様性」のあり方をポイントにしている以上、必要でしょう。

 イスラム世界が寛容、というイメージは教科書でつくられていますが、歴史的事実ははたしてどうでしょうか? ジズヤを払えば信仰は何だろうと自由、ということで寛容なのでしょうか? イスラーム教は西欧とちがい個人の信仰の選択権はあるが改宗権はなく、征服の過程で剣をかざしてジズヤを払えば他宗教を認めるという脅迫的なものでした。

 ジスヤは小額ですが、支払いはハラージュと一緒に支払いました。ハラージュは収穫の2-5割の高額で、地方によってちがったようですが、5割が通例で、とくにユダヤ人農民に対しては重税となり農業を捨てて都市民にならざるを得なかった、といわれるくらい搾取されました。

 またこのジスヤは小額でも、イスラーム教徒の支配者に屈服することを示した「屈辱」的なものでした。支払うものたちを「ジズヤの民」とよぶ蔑称もありました。

 西欧とちがい西アジアでは早くからスンナ派とシーア派の戦闘があり、今もつづく激しい対立・内戦が繰り返されてきました。歴史的にもウマイヤ朝のシーア派弾圧、サーマン朝(スンナ派)とブワイフ朝(シーア派)の抗争、ブワイフ朝とセルジュク朝、セルジュク朝とファーティマ朝の対立、ファーティマ朝とアイユーブ朝の交代、オスマン帝国とサファヴィー朝の対立、サファヴィー朝のウズベク族(スンナ派)追放、と延々とつづく対戦があります。他宗派を認めない、という不寛容は歴史的には数限りなくある、といっていいでしょう。征服して支配下においた住民の信仰は信仰税・宗教税といっていいジズヤを払わせても、他の国・王朝との宗教的対立は止むことがなかった。ここには西欧のような内政不干渉の国際的容認がありません。多様性を容認する余裕がありません。

 個人でいえば、デウシルメ制というオスマン帝国の制度は、ギリシア正教徒の子どもたちを強制改宗させてから訓練した名高い史実です。『イスラーム辞典』(岩波書店)のブルガリアの項目に、オスマンの征服の過程で、住民の強制改宗があったことを指摘しています。

  東アジアの解答文はこうです、

  東アジアでは、儒学を統治理念とした歴代皇帝のもとで、被支配民へは宗教的寛容政策がとられた。清朝では藩部を理藩院により間接的に統治し、皇帝がダライ=ラマの保護者となることで、チベット、モンゴルの支持を得ようとした。そのため、チベットでは政教一致体制が存続した。

  チベット、そしてモンゴルはちがうと言いたいのでしょうが、変です。政教一致というのは国家・国王が宗教と深い関係をもっている状態ですが、清朝時代のチベットは国家なのか? もちろんチベット人からすれば「服属」していたのでなく「同盟」を結んだにすぎない対等な国家だったのだ、と主張したいことは理解のできることであり、チベットから中国人は出ていけ、と唱えたいところです。ただ日本の教科書ではチベットは藩部という間接統治地域であり、清朝の支配下にある地域でした。藩部が政教一致だという表現は使いにくい。清朝皇帝がラマ教徒であり、ダライ=ラマも兼ねているというなら別ですが、そんなことはありません。

 清朝皇帝は自らを菩薩の化身「文殊菩薩皇帝」として君臨し、多様性を容認しつつ、政治的な服従は要求・強制する君主でした。ちなみに「文殊」から満州の名は来ているとされ、清朝皇帝たちが朝服を着るさいには白い球の数珠が首に掛かっていました。チベット人、そしてダライ=ラマと同じ仏教徒として分かりあえる仲であり、政治的には清朝皇帝に優越権があり、アショカ王のような「法(ダルマ)の支配」をする君主として臨みました。

 藩部の「自治」の中に宗教的自由、つまり清朝側の内政不干渉があります。イスラーム教の新疆もこの藩部のひとつです。ここも独立国扱いであれば、いわば政教一致の世界で、18世紀までに諸部族を服属させたものの、部族ごとに自治はまかされていました。イスラーム教は政教一致の社会です。なにもチベットだけ「政教一致」をいう必要はないはずです。

  『詳説世界史』の記事をそのまま引用します。

  清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは、中国内地・東北地方・台湾であり、モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が、チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが、新疆ではウイグル人有力者(ベク)が、現地の支配者として存続し、清朝の派遣する監督官とともに、それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず、とくにチベット仏教は手あつく保護して、モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。

  ついでに東京書籍『世界史B』の説明ではこうなっています。どちらが課題に対してふさわしい教科書かは判るでしょう。

  清帝国の広大な版図は、本部(直轄領)と藩部に分けて統治された。本部とは、首都圏の直隷省と地方の各省から構成され、藩部は、つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり、藩部を管理する理藩院が新たに設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が、今日の「中国」という地域名称と重なり、また清朝の風俗や文化が、「中国人」のイメージのもととなった。

  清朝と藩部の関係は、周辺国との関係にも表れています。中国には、漢地仏教・道教・少数民間信仰・チベット仏教・イスラーム教・精霊信仰があり、その周辺諸国では、朱子学朝鮮・仏教の越南・シャーマニズムと仏教・神道の日本などがあり、これらの国々とは宗教的対立がありません。

 キリスト教に関しては、17世紀の典礼問題が起きるまではキリスト教徒の活動を認めており、教皇クレメンス11世が典礼是認派を異端とした(1704)ことから、激怒した康煕帝はイエズス会士以外の布教は禁止し、他会派は国外退去としました(1706)。ここに見られるように清朝は宗教的な自由は認めながら、政治的な反抗勢力になったり、政治的事件を許さなかったということです。

 18世紀前半の広東でキリスト教徒迫害事件が起きると雍正帝はキリスト教の布教を禁止しました(1724、『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は、キリスト教はだめなド1ーナ7ツ2よ4)。康熙帝から地位を受け継ぐ交代劇のときにもイエズス会士が参画したという理由もあったようです。

 いずれにしろ東アジアの国々同士は宗教的な対立・戦争はなく、国家間における宗教的相互承認も必要がありませんでした。西アジアと明らかにちがいます。

  同予備校は「西・東アジアでは一元的帝国のもと被支配民の宗教的な多様性が尊重された」という東西共通性の結論でしたが、このような結論にはならないでしょう。

 

 布教という点でも比較することはできます。国家が布教という宗教・宗派の拡大活動をどうとり扱ったのかという点です。西欧は認められていながら戦争によって信仰の決着をつけたために事実上不可能でした。ただし外部への布教・宣教師派遣は妨げられていません。イスラーム教はムスリム共同体を維持しようとする傾向は強く、他宗教の布教は不可能でした。ここも外部への布教は禁止されていませんが宣教師が存在しません。ただし商人がその役割を担ったり、スーフィのように積極的に民衆に布教する宗派もありました。東アジアだけは内外が自由でした。ただ先述のように、政治的な問題になったり、またそう見られた場合は、禁教令が出て、清朝の中国でも日本でも弾圧されました。ただキリスト教はそうなってもイスラーム教・仏教・道教・チベット仏教などの布教は禁止されていません。この問題に対して設定時間内(18世紀前半まで)に典礼問題もあったと思いだせたら、布教は書けたかもしれません。そういう受験生もいました。以下のブログ。

 http://ameblo.jp/we-will-have-tomorrow/entry-10226097598.html

 

 この問題をつくるきっかけは昨年の北京オリンピックとチベット問題であったと推測します。筑波大学でもチベット史が出ました。「18世紀前半までの……東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較」という東大の課題から、現在の中国共産党のチベットに対する扱いが、18世紀以前の清朝に劣ることを示唆した痛烈な中国共産党批判でもあります。
 また自民党の憲法改正案は、この問題の導入文にある二十条の「何人に対しても……何人も」という語句を削除して信教の自由を脅かし、神道回帰を目論んでいます。

 

[第2問の解き方

(1) 

 (a) ポリスの形成過程……という課題です。形成の背景・原因、契機、方法(集住)、確立など何を書いてもいいです。

 背景・原因としては、前9-前8世紀における暗黒時代の終焉、民族移動の終わり、人口増加と集落形成。

 契機としては、先住民の征服のための戦闘・防衛(スパルタ)、諸民族の統合による軍事力の強化、有力貴族の主導による集住(アテネ)。

 方法としては、集落(複数の共同体)の連合(スパルタのように都市を築かず、5つの村が連合する)、集会所(役所)の統合(アテネのように4部族それぞれにあった役所の統合)、住民がアクロポリスの周辺に移住する、いわゆる集住(シノイキスモス)。

 確立としては、先住民の闘いに勝利して奴隷化(スパルタ)、消費者市民の奴隷労働依存(アテネ)、ポリス守護神崇拝施設の建設(スパルタはアルテミス女神、アテネはアテナ女神)など。

  (b) 共通の認識を支えた諸要素……は、教科書に記載が豊富にあり、易問だった。山川の『新世界史』では、

 言語・宗教,ホメロスの詩,デルフィの神託,オリンピアの祭典などを中心にして,ギリシア人は一民族としてまとまっていた。

  ネット内の解答に、異民族をバルバロイと呼んだ、という教科書の記述そのままに書いているものもあるが、これは「要素」にあたらないから要らない。逆に「ホメロスの詩」を書いたものが一つもないのが不思議でした。

(2) 

 (a)殷の政治の特徴は、という問い。前文の「出土した記録は……証言している」という特徴です。すると甲骨文字が証言している特徴、ということになります。この場合の「特徴」は『練習帳』で説明しているように、他と比べて違う点、という意味の本格的な特徴でなく、殷王の政治のあり方について知っていること、その内容説明にすぎない「特徴」です。もちろんダメ、ということでなく、次の周と比較して書いてもいでしょう。字数60字では短すぎますが。

  『詳説世界史』なら、こうです。

  殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。

  神権政治と一般にいわれるもので、殷王が焼いた甲骨を占い吉凶判断と政策決定を行う、死後は太陽神になる、との観念をもった神権政治、ということになります。太陽神崇拝のことは殷王が亡くなると、代々の王の諡(おくりな)に10個の太陽(当時は太陽は10個あり、太陽は地下に存在していて毎日1個ずつ昇ってくる、と信じていた!)の名前、甲日・乙日・丙日……癸日が必ず含まれることで判明します。神権政治はエジプト・メソポタミアでも見られるものです。「古代文明のうちもっともはやく成立したオリエント文明では,インダス文明や中国文明と同じく,大河の治水・灌漑にもとづく神権政治がおこなわれ,その政治形態は一部,後世のイスラーム世界にも引きつがれた」(『詳説世界史』)。

  ついでに東京書籍の該当する部分の記述を引用すると、こうです。

 出土した甲骨には,殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 よく東京書籍の方が東大論述に合っている、という根拠のない説が流布していますが、これを見てもその差が判るでしょう。いずれもっと詳しく違いを説明するつもりですが、東京書籍の方が記述のひとつひとつの粗さが見られます。なお、先に周と比較しても良いとしましたが、これは『練習帳』の巻末「基本60字(旧版では「60字問題集」)の中国・政治のところに類題があげてありました。問題文と指定語句は「殷と周の支配体制の違いについて説明せよ。 甲骨 礼」です。

(b) 「前11世紀に……首都の移転……移転前と移転後の首都名を挙げ、移転にともなう政治的変化」という問い。これも易問でした。鎬京から洛邑へ、の漢字が正しく書けるか? 移転前は西周の王室の権威があり氏族的(血縁的)封建制が維持されていた。この体制が崩壊して東周になり、有力諸侯が覇者となって尊王攘夷の下に号令をかけることになり、七雄は統一を競った。つまりは周の求心力はなくなり、その権威に代わる権力追求の時代となった。

(3)

 (a) 東方交易について……というだけで何を書いてもいい。かかわったイタリアの都市名・商品・その性格と影響・活発化の原因・交易の相手などです。

 都市はヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ。商品は東方から香辛料・絹織物・宝石・薬など奢侈品。その性格は遠方から軽くて高い価格のものであったこと。莫大な利益と危険な交易は銀行・保険業を発達させました。原因は十字軍の輸送や東地中海での商業基地の建設です。相手はカイロの王朝とグジャラート商人やカーリミー商人でした。

 この問題の類題は「基本60字」にもありました。「北ドイツの都市と北イタリアの都市のちがいについて、その商業圏と商品から説明せよ。 北海 香辛料」です。

 (b) 北イタリアの都市同盟について……ロンバルディア同盟という名前、ミラノ中心、神聖ローマ皇帝(フリードリヒ1世)の南下に対抗して結成、皇帝軍を破った(1176年のレニャーノの戦い)、自治権を確認させた、くらいで十分すぎる解答です。センター試験2007年度にも、「北イタリアの諸都市は、ロンバルディア同盟を結んで皇帝と争った」(問題番号30)という正文がありました。

 

第3問

 センター試験でもよく出題された結社の問題です。

(1) 「18世紀末……弥勒下生信仰に基づく宗教結社」ということで白蓮教徒の乱です。年代はバブーフ陰謀事件・カージャール朝とともに1796年(『ワンフレーズ』バカ白蓮、十10殴79ろ6)。白蓮教徒の乱が宗教結社のテーマの中でセンター試験で問われた例は、2007年の導入文(宋代以降、弥勒菩薩が地上に降りて人々を救済するという白蓮教が広まり、現体制に対する革命の要素を持つ反乱が頻発する。元末には[ 7 ]が起こり、その中から頭角を現した人物が明朝を開いている。清代には、乾隆帝の退位の年に白蓮教徒の乱が勃発している)、2004追、2000、1999、1993追、1991年に出題。

(2) バブーフもセンター試験必須。2003追、1998、1990年に出題。

(3) イタリアの政治的秘密結社カルボナリもセンター試験必須。2007、2000、1998年に出題。

(4) デカブリストの乱もセンター試験必須。2005、2003、1998年に出題。

(5) これはセンター試験に出題歴がないもので、クー=クラックス=クランという黒人弾圧の秘密テロ結社です。

(6) この人物は、2001年のセンター試験に「19世紀半ば、全ホウ準に指導された太平天国の乱が起こった」と誤文で出題されたことがあります。

(7) 「日露戦争の時期の東京……革命諸団体を結集した新たな政治結社」中国同盟会は、センター試験2005、2003追、2001追、2000、1998、1997、1994年と頻出です。

(8) 「20世紀初め……ムスリムの政治的権利を擁護する団体」全インド=ムスリム連盟もセンター試験2008、2005追、200.、2000、1993追、2001追、1990、1990追と頻出です。

(9) ファン=ボイ=チャウやドンズー(東遊)運動はセンター試験頻出ですが、「1912年に新たな結社」ベトナム(ヴェトナム)光復会は未出題用語です。

(10) アウン=サンの指導下の党については、「ビルマ(ミャンマー)では,第二次世界大戦後にタキン党が結成された」と2004年追試で誤文として出題されたことがあります。

 問(5)(9)(10)の3点を失っても、第2問が容易だったので、まあまあというところです。予備校の模試では第3問に異常に細かい問題を出してきますが、できなくても悩む必要はありません。

(わたしの解答例)

第1問

西欧キリスト教は一神教を保持していたが、16世紀の宗教改革によって新旧に分裂した。この際、英国は首長法による国教会をつくり、ドイツは領邦教会制とし、旧教にとどまるのであれ教皇から離れた君主主導で国家権力と教会が結託した。ルイ14世は寛容を認めたアンリ4世のナントの王令廃止にふみきり個人の自由を否定した。17世紀の三十年戦争で宗教・公会議の権威は崩れて政治的国際会議へ転換した。18世紀前半の啓蒙思想により次第に個人の信仰の自由「寛容」の必要性が認められるようになった。西アジアは一神教のイスラーム教が浸透し、王朝・国家はジスヤを払えば他の宗教でも容認し、その自治をミッレト制で認めた。スンナ派とシーア派の宗派対立はあったが、西欧とちがい個人の信仰の自由は認められた。東アジアでは多神教・多宗派の世界であり、清朝は理藩院でイスラーム教徒の新疆、ラマ教の指導者ダライ=ラマの西蔵や青海を藩部として、その信仰と自治を容認した。個人の信仰の自由も認められた。西欧では北に新教、南欧に旧教が定着し、政教一致であった。西アジアでは同じように自由あったが政教一致のスルタンに従わさせられた。東アジアでは何宗派であれ、儒教的政教一致の皇帝に服従を強いられた。また西欧の宗教キリスト教はその布教が中国でも日本でも禁止された。西欧や東アジアでは聖職者・僧侶は権力と結びついたが、西アジアでは聖職者は存在しない。

第2問

1

(a)暗黒時代が終わり、人や役所・集会を一箇所にあつめる集住をおこなった。人口増加とともに地中海世界一帯に植民市を築いた。

(b)ホメロスの詩を楽しみ、オリンピアの祭典を開き、オリンポス12神の信仰とデルフィの神託に頼り、隣保同盟を結んだ。

2

(a)王が甲骨の占いによって神意うかがう神権政治で、大邑商の下に中小の邑をしたがえ邑制国家であった。 

(b)鎬京から洛邑へ。西周は王室の権威と氏族的封建制が維持されていたが、東周で封建制は崩壊、五覇・七雄が求心力を争った。

(3) 

(a) ヴェネツィアとジェノヴァが覇を競いつつ、ペルシア湾をとおしてカイロの王朝とグジャラート半島を結ぶ交易をした。

(b) 侵入する神聖ローマ皇帝に対してミラノを中心にロンバルディア同盟を結成。周辺の都市を併合し、貴族の住む都市の連合であった。

第3問

 1 白蓮教徒の乱

 2 バブーフ

 3 カルボナリ(炭焼党)

 4 デカブリストの乱

 5 クー=クラックス=クラン(K.K.K)

 6 全ホウ準[ホウ=王+奉]

 7 中国同盟会(中国革命同盟会)

 8 全インド=ムスリム連盟

 9 ベトナム光復会

 10 タキン党