世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2010

 第1問

 ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。

 このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 グロティウス コーヒー 太平洋戦争 長崎 ニューヨーク ハプスブルク家 マーストリヒト条約 南アフリカ戦争

 

第2問

 アジア各地には古くからそれぞれ独自の知の体系が発展し、それらを支える知識人たちも存在した。そして16世紀以降ヨーロッパの知識・学問に接するようになるなかで、それらは次第に変容していった。アジア諸地域における知識・学問や知識人の活動に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1) 読書人などとよばれた中国前近代の知識人にとって儒学と詩文は必須の教養であった。これらはいずれも漢代までの知的営為の集積を背後にもつ。この集積は時として想起され、現代に至るまでその時々の中国社会に大きな影響を与えることがあった。以下の(a)・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) それまで複数の有力な思想の一つにすぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。

 (b) 唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運について2行以内で説明しなさい。

 

(2) 14世紀半ば、東アジアは元の衰退にともない一時的に混乱した。しかし、1368年に明が建国されると、再び新たな安定の時期を迎え、知識人たちも活発に活動した。1392年に成立した朝鮮(李氏朝鮮)も、明の諸制度を取り入れながら繁栄し、知識人による文化事業が盛んにおこなわれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 最15世紀前半の朝鮮でなされた特徴的な文化事業について2行以内で説明しなさい。
 (b) 明の末期になると、中国の知識人たちは、イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの科学技術に強い関心を示した。その代表的な人物である徐光啓の活動について2行以内で説明しなさい。

 

(3) 18世紀後半以降、ヨーロッパの侵略や圧力にさらされるようになると、アジアの知識人は自国の文化の再生や政治・経済の再建を目指して改革運動をはじめた。かれらは、ヨーロッパの知識を吸収しつつ近代化・西欧化を推進しようとするグループと逆に伝統の本来の姿を復活させようとするグループとに分かれて論争し合い、政治運動も展開した。これらの改革運動に関する以下の(a)~(c)の問いに、冒頭に(a)~(c)を付して答えなさい。

 (a) 西アジアのアラビア半島ではワッハーブ派が勢力を拡大した。この運動について3行以内で説明しなさい。

 (b) インドでは、ラーム=モーハン=口一イが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。

 (c) 中国では、曾国藩・李鴻章などの官僚グループが洋務運動とよばれる改革を進めた。この運動の性格について3行以内で説明しなさい。

 

第3問

 人類は有史以来、司馬遷の『史記』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』、さらにはホイジンガの『中世の秋』などのすぐれた歴史叙述を生みだしてきた。しかし世界史教科書の記述では、文学・哲学の著作や芸術・科学技術の業績と比べて、歴史書の紹介が十分とはいえない。とはいえ歴史書は、それぞれの時代や人々の生き方と分かち難く結び付いている。そこで以下の歴史叙述に関わる文章A・B・Cのなかで、下線を付した部分に関する設問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

A 中世ヨーロッパにおいては神学が重視され、歴史叙述もその影響下にあった。このような思考の枠組を脱し人間のありのままの姿や歴史を見つめようとしたのがルネサンス期の(1)人文主義であり、そこではギリシア・ローマの古典文化が再発見されたのである。その古典期ギリシアでは(2)世界最古の個人による歴史叙述が試みられており、そうした伝統のなかで地中海世界における(3)ローマ興隆史、あるいは建国史を究めようとする歴史家も登場した。やがて古代末期になると、(4)キリスト教の信仰を正当化する歴史叙述も生まれるようになった。

(1) 政治を、宗教や道徳から切りはなして現実主義的に考察したフィレンツェの失意の政治家は『ローマ史論』とともに、近代政治学の先駆となる作品も書いている。この人物の名と作品の名を記しなさい。

(2) それまでは年代記のような記録しかなかったがギリシア人の一人はペルシア戦争の歴史を物語風に叙述し、もう一人はペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述した。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

(3) 前2世紀のローマ興隆を目撃し実用的な歴史書を書いたギリシア人がおり、ローマ建国以来の歴史をつづったアウグストゥス帝治世下のローマ人もいる。それぞれの歴史家の名を記しなさい。

(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家が現れる一方、神学とともに歴史哲学の書でもある『神の国』を著して後世の人々の信仰や思想に大きな影響をあたえた教父作家も出現した。それぞれの教父作家の名を記しなさい。

 

B アラム文字に由来する突厥文字は中央ユーラシアで活躍した北方遊牧民の最古の文字と見られる。この文字によってオルホン碑文など(5)突厥の君主や歴史に関する貴重な記録が残された。中央ユーラシアから西アジアに目を転じれば、14世紀の(6)アラブの歴史家は『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉を中心に王朝興亡の歴史の法則性を求めたが、その鋭い歴史哲学は、現在でも新鮮な示唆に富んでいる。ほぼ同時期のイランでもイル=ハン国のガザン=ハンの宰相ラシード=アッディーンは、(7)壮大な歴史書をペルシア語で記述したが、それは、ユーラシアの東西をまたにかけて支配したモンゴル帝国の歴史を知る重要史料となっている。

(5) 突厥の歴史は、現在の西アジアのある国につながっている。その国の名を答えよ。また突厥の前に現れた匈奴の最盛期の君主名を記しなさい。

(6) チュニジアに生まれたこの歴史家は、エジプトの大法官などをつとめ、シリアに軍をすすめたティムールと会見したことでも知られる。この人物の名を記しなさい。

(7) この歴史書の名を記しなさい。

C 広大な植民地をかかえるイギリスの20世紀を代表する歴史家として、トインビー(1889-1975)とカー(1892-1982)をあげることができる。トインビーはギリシア・ローマ史の研究者として出発したが、長期化した(8)第一次世界大戦に世界史を見直す手がかりを見出し、40年の歳月をかけて「文明」を構成単位とする全12巻の大著『歴史の研究』を完成させた。カーは外交官となった直後に起きた(9)1917年のロシア革命に大きな衝撃を受け、膨大な史料と対話を重ね、30年以上を費やして10巻におよぶ『ソヴィエト・ロシア史』を完成させた。一方、イギリスの植民地であった(10)インドでも優れた歴史書が書かれた。

(8) 第一次世界大戦の体験から『西洋の没落』を著して西洋文明の衰退を予言し、大きな反響をよんだ歴史家の名を記しなさい。

(9) ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し世界革命論を唱えた人物はだれか。また、ロシア革命を批判したのち、ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策にも反対し、大部の『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家は誰か。これら2人の名を記しなさい。

(10) インドの独立運動に参加し、1947年の独立直後に首相を務めた政治家は、すぐれた歴史認識の持ち主でもあり、獄中で『インドの発見』を書いた。この人物の名を記しなさい。

………………………………………

 

[第1問の解き方

 3月3日の東京大学新聞(入試問題解答号)紙上で、わたしのインタビュー記事に受験生の犯しやすいミスとして、流れを書いてしまいやすい、ということを指摘しましたが(インタビューは2月17日)、本番の26日の試験後に速報としての解答でミスを犯したの予備校の方でした(→こちら)。「役割を書け、といっているのに、なんでこんな答案を書くんやー」という嘆きは採点官にもあったはずです。

(東京大学新聞はこちら→)http://www.utnp.org/2010/03/post_1554.html

 

 これらの答案と受験生が合否の決まっていない段階で寄せてくれた再現答案を比較してみてください。カード(知識)の少ない受験生がカード(知識)をたくさん持っている講師より格段に優れた解答が作れることの実証です。わたしの解答例はこの記事の一番下にあります。

 

 昔は予備校の解答は、今のようにネットで見ることはできないので、わたしは他の予備校に冊子をもらいに行ったり、掲示されているものを写し取るようなことをしてきました。勉強させてもらう、というつもりでしたが、収集してみて分かったのは意味がないということでした。しかしそれが広く公表されていない段階では、どれくらいの違いが解答間にあるかは、わたしのように関心のある者以外は分らなかったのです。しかし今は解答は公表され、いわば、さらされている訳で、いくつかのHPや掲示板・ブログで批判もされるようになりました。

一例→http://zep.blog.so-net.ne.jp/2010-02-28 

二例→http://www.k4.dion.ne.jp/~bridging/yozemi2010.html 

三例→http://www.zkaiblog.com/hi05/archive/933 

四例→http://www.heppokoyuge.com/sub123.html)←リンク切れ

 何もその批判がすべて当たっているという訳ではありませんが、いずれにしろ批判は可能になりました。受験生も自由に見られるようになりました。

 予備校が解答を公表する目的はなにか。これが満点答案ですよ、うちの予備校にくればこれくらい書けるようにしてあげますよ、という教育と宣伝を兼ねたものであるはずで、それぞれの予備校のトップにあたる講師が書いています。それがこの程度ということです。公表することで、かえって予備校の価値を落とし、受験した学生も予備校の「模範」答案を見て、これくらいでいいのかと欺す役割も果たします。弊害の方が大きいのでないでしょうか。

 予備校の解答を受験生とおなじレベルでは見ることができません。

 受験生なら、頭が混乱し、あせりながら30-40分以内で書かなくてはならない論述問題を、講師たちはまわりに教科書・参考書・事典類・ネット検索があり、パソコンで修正しつつ書ける、他の講師とアイディアと批評を出しあうこともできる、3時間以上かけられる、という余裕たっぷりの環境が存在します。また数十年はこの科目を教え、作問し採点してきた、という知識量・体験の差も大きい。それでいて、上のような受験生以下の解答しか書けないのはどうしてか? 受験生は1-3年間しか勉強していないのに、かれらに負けています。頭脳の差といってしまえばそれまでですが、ひどすぎませんか。合否の判定がされる緊張感がないためでしょうか。もっともらしく教室で語っていても実際の答案作成能力が低いと、予備校講師はたんなるおしゃべりに過ぎません。こういう答案しか書けない人たちが模擬試験の問題をつくってます。模試っていかほどのものか推測できるでしょう。

 

 合格した受験生が合否の判らない時期に寄せてくれた受験場での取組みはこうでした。

最初マース川ってどこ?ドキッとする。

無視して読んで、オランダの果たした役割がテーマであると確認。

まずは「役割」にこだわろうと決心。(練習帳にアドバイスがありました)

政治面での役割、経済面(貿易通商史)での役割、文化面での役割

など3分野くらいを柱にして書ければ洗練された答案になるかも、

各分野での役割は、主導的、中心的、先駆的、補助的、補完的、

などの言葉でまとめよう、ともくろむ。

とりあえず構想メモに年表をかいておもいつくままに出来事を書き込む。

各分野に相当する役割を、出来事から抽象化、と意気込むが、

インドネシア侵略くらいになって、筆が止まる。「侵略の果たした役割?」考

え込む。侵略の前例か?おっかけか?おっかけって答案には書けない

気の利いた言葉が浮かばない・・

インドネシアの民族意識高揚か、こじつけっぽいなと悩みはじめる。

役割ってプラスのイメージ、勝つための○○の果たす役割とか・・

どうも侵略にはなじまんような・・・

グロティウスの扱いにも困る。文化面でとりあげるとしても、ほかにも

文化人挙げたほうがいいのか。問題文に「文化の中心」、「多くの人材

が集まり・・」とあるし・・。好きな画家フェルメールでもあげようか?

レンブラントのほうが有名か。ユダヤ系の人についても書いたほうがいいのか、

先生の「各駅停車」やHPにあったような・・いろんなことが浮かんでは消えて

いく。欧州経済統合でのオランダの果たした役割にも悩む。中心的なも

のだったかしら、主役は独仏では?知識不安、よくわからない。統合

支援とか補助的役割とかでごまかそうか・・・

どうやら最初の構想でまとめるのはうまくいかなそう・・・15分経過。混

乱。あと20分しかない。とりあえず時系列でまとめよう。A⇒BのAの事

実がオランダがからんだ事実、Aの影響をかいてもいいだろう、役割と

わりきってかけないところは事実だけかいて逃げようと方針転換、

一気にマスを埋め始める・・・

 こうした苦闘のカスでも講師に煎じて飲ましてやりたい。「「役割」にこだわろう」という決意ができるか?

 

 導入文に「中世から現代まで歴史的に重要な役割」とあり、課題文に「世界史における役割について」とあるので役割を書くのがこの問題の要求です。それ以外の何者でもない。1976年度の「鉄道の意義・役割」、1981年の「ムガル帝国の支配がインドの歴史に果たした役割」、2003年の「運輸・通信手段の新展開が、大きな役割」という風に広く長い歴史・テーマを問うときに使われる問題用語です。この役割は意義と言い換えてもいいもので、拙著『世界史論述練習帳new』の「意義をのべよ」の章の末尾に、「意義の問題用語は、かならずしも「意義」という表現だけでなく、「重要性」「役割」「位置づけ」という表現でもでてきます」と説明しています。この章で説明しているように意義・役割は、「長ーい長ーい時間のなかで、ひとつの事件にスポットライトをあてて評価することです」。オランダ史の中で、いくつもの世界史的事件があり(複数の意義)、それらが個々にどう後世の歴史や他国に影響を与えるほど意味をもったものであるかを、誇張でなく強調しつつ書くのが課題です。

 一国史としても、決して一国史の流れでなく、関ったことがらを付け加えながら書くように要求してきた例はたびたびありました。東大の過去問には、2001年度の「エジプト5000年史」、1999年度の「前3世紀~15世紀のイベリア半島史」が代表例ですが、たんなる流れとして歴史を書かせることはなく、何らかの条件が付いていました。このオランダ史も「役割」という条件が付いています。こういう過去問からすれば、流ればかり書いた予備校の解答は不勉強と言わざるを得ません。

 「世界史における役割」というのは漠然としています。どの範囲までが「世界史」なのか。少なくとも一国史でなく、他国・他地域・重大事件に影響を与えた、関係した、ということです。一番狭い「世界史」は2国関係です。ネーデルラント(オランダ・ベルギー)と他国(イギリス・ドイツ・ポーランド・インドネシア・日本など)。つぎは一定の広い地域(西欧・東欧・アメリカ・アフリカ・東アジア・東南アジアなど)。最後は世界全体となります。

 「役割」とは何らかの任務をもった、貢献した、参加した、影響したということであり、それが「主導的な、補助的な、積極的な、先駆的な、先進的な、中心的な」という形容を使えばよい。プラス表現で使えない「植民地主義」の場合は、「負の先駆、否定的、ネガティブな、裏面的な」という表現を使えばいいでしょう。2007年度の農業技術の変化を問うた問題でも、何もかもが増産要因ではなく「凶作による飢饉」の例もあると指摘し、指定語句にアイルランドがありました。

 

 中世末なら、百年戦争の原因としてフランドル(現ベルギー北部)という毛織物工業地帯がありました。ここの争奪が一因です。これは常識的な知識なのに書けた予備校の解答例は皆無でした。ブリュージュ・ガン・イープルなどが工業の発達した都市です。イギリスから原毛を買い、それを製品化してイギリスに輸出していました。イギリスは植民地みたいな原料供給地だったのです。エドワード3世がイギリスと経済関係の深いこのフランドルに上陸すると、低地都市の親方たちは親英の立場をとりエドワード3世と組み、次第にこの地域はイギリスのものとなります。フランス軍もここをねらって進軍したためイギリス軍と激突しました。しかし戦争を逃れてイギリスに亡命してくる者達もあり、イギリス政府は彼らを保護しました。亡命者によって技術が入ってきて、とうとう毛織物を生産する国に変わってきました。それが戦争の末期から原毛が足りないくらいになり、エンクロージュアー(囲い込み)をせざるをえなくなります。イギリスは百年戦争に負けましたが技術を獲得し工業国に変貌したのです(「前期百年戦争……羊毛生産から毛織物生産へと原理的に転換しはじめた……フランドル毛織物職人が戦禍を逃れて大量にロンドン・ヨーク・ウィンチェスター・ブリストル・ノーウィッチなどの諸都市に移住したことは、右の事態と密接に関係している」(『西洋史概説』東京大学出版会)、拙著『センター世界史B各駅停車』p.226)。このイギリス工業の勃興は教科書にないので書けなくても、百年戦争の原因としてのフランドル毛織物工業は書けるはず。

 なおネーデルラントは、15世紀のほとんどはブルゴーニュ公の領土でした(1384-1477)が、世紀末からハプスブルク家のものとなりました。カール5世(カルロス1世)はガンで生まれています。父はハプスブルク家のものでありながら、ブルゴーニュ公位を受けつぎ、母はあの狂ったスペイン王女フアナでした。

 

 文化的にはフランドルからオランダにかけて活躍した画家たちがいます。中世末フランドルにはイタリアにない「油彩(油絵)」の技術がありました。イタリアはテンペラやフレスコが中心でしたが、この技法により鮮やかな色彩効果を生み出すことができます。ルネサンス期ではファン=アイク兄弟、ブリューゲルです。いずれバロック期にはルーベンス、ファン=ダイク、レンブラント、ロイスダール、フェルメールたちが現れます。19世紀にはゴッホが登場します。オランダを含むネーデルラントは絵の世界にとくに輝かしい光彩を放ってきた地域です。これらのことは「ヨーロッパの……文化の中心」の事例としてまとめて書いていいものです。

 知識人としては、何よりロッテルダム生まれのエラスムス(1469-1536)を中世末から近世にかけて生きた人物として挙げていいでしょう。人文主義者エラスムスの文通相手は、西はイベリア半島から東はポーランドまで広がるくらい大きな影響力をもった人でした。『愚神礼賛』で教会批判を始め、ギリシア語原典からラテン語訳して出版した『校訂新約聖書』(1516)は、その中に信仰義認論を見つけたルターが宗教改革の基本理念を見つける役割を果たしました。

 グロティウス(1583-1645)の自然法と国際法は啓蒙思想の基になり、平和のためには自然法にもとづく国際的法秩序の確立が必要だと説き、ヨーロッパ各国の大学の自然法および万民法(国際法)の教科書として広く読まれます。

 他の知識人については、京大の2002年度の解説に書いた記事をここに再録しておきます。

 山本義隆師の著書『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』(現代数学社)に科学者同士の交流が描いてあります。

 科学思想面においてもオランダは、大陸のどの国よりイギリスと密な交流を維持していた。とくにライデン大学は「大陸におけるニュートン主義の普及のための一つの──当面は唯一の──中心」(ピーター・ゲイ)であった。17世紀後半にベーコンとボイルの経験論は、イギリス以上にオランダで評価されていた。ロックも一時オランダに亡命しているし、そのロックにニュートン力学の正しさを請け合ったオランダ人ホイヘンスは、逆にイギリスを訪れ王立協会の会員にもなっている。また、スコットランドの初期ニュートン主義者ピトカリンは1692年に1年間ライデンで講義しているし、逆に、1715年から一年間イギリス大使を勤めた「オランダにおける最初のニュートン主義者」グラーベサンドは、デザギュリエの講義に出席し、またニュートンとも会見し、帰国後ライデン大学で数学と天文学を教えている」と。

 こうした科学者だけでなく思想家・政治家・非国教徒・ユダヤ人にとっての避難所をオランダは提供していました。特にイギリス革命時(1640~90)はそうでした。宗教的差別をしなかったからです。ガリレオはオランダでしか自分の研究書を印刷できませんでした。デカルトもオランダにわたり『方法叙説』『省察録』を出版しています。上記にあるロックはチャールズ2世に追放されて、オランダに亡命し名誉革命で帰国します。光と影の芸術家レンブラントは……スピノザが生まれた家も近くにありました。オランダ東インド会社の株の4分1をユダヤ人がもっていました。1598年にオランダで初めてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられています。

 

 日本にとっては蘭学による知識はロッテルダムの東方貿易会社の探検船リーフデ号(エラスムス号)からはじまりました(1600)。日本に唯一学問と世界情勢を伝えたのはこのオランダでした(『オランダ風説書』、『別段風説書』)。こうした世界情勢の伝達は幕末、オランダ国王の開国勧告につながり(1844)、長崎製鉄所(起工1857)、海軍伝習所(1855)を設置することになり、蒸気船ヤパン号(咸臨丸)、スンピン号(観光丸)の提供となって継承されました。『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社・東洋文庫)の著者カッテンディーケはヤパン号を日本に運んできた艦長でもありました。この人と勝海舟は毎晩のように話し込み、勝は日本の未来像としてオランダを意識していたようです。著書には、各藩が独立しているのに近い状態では単一の利益が追求できない、と国民国家像を説いたことを書いています。オランダは近代的な学問・技術・工業・国家を教えつづけてくれた教師でした。

 地図に興味のあるひとは、メルカトルというフランドル生まれの地図学者を書いてもいいでしょう。彼が考案したメルカトル図法(正角円筒図法)は、羅針盤の使用とともに航海用の地図として重用されます。地球がどんなものか陸の形や海の距離を知るには手探り状態の時代に光明をもたらした図法です。航海士たちはこぞってメルカトル図を使って世界に出て行きました。現在でももっとも使われている図法です。メルカトルは地図帳を出版し(1585-89)、その題名を『アトラス』とギリシア神話の神になぞらえて付け、その後『アトラス』は地図帳の代名詞となりました。

 17世紀からのシノワズリー(中国趣味)はイエズス会士の報告だけではありませんでした。オランダ東インド会社が運んだ陶磁器(景徳鎮・古伊万里・柿右衛門)も刺激剤となり、その需要・模倣からオランダのデルフト陶器、ドイツのマイセン磁器が重要な地場産業として発達し、バロック・ロココ美術に影響を与えたものです。中国趣味といいながら、実は日本の陶磁器の方が影響力をもっていました。清朝の海禁政策のために輸入は滞り、日本の陶磁器でありながら、がまちがえて中国産だととられたり、花の図柄がインドのデザインに似ていることから「インドの花」と呼ばれましたが、長崎から運び出された日本産でした。シノワズリーの内実はジャポニスム(日本趣味・日本心酔)だったのです。鎖国状態の江戸時代、浮世絵の多くが、オランダ東インド会社の商館員や商館長が日本で買い集めて、国へ持ち帰ったもので代々の商館長のコレクションは現在もライデン国立民族学博物館に保管されてます。

 

 政治的経済的には、イギリスの挑戦(英蘭戦争)、フランスの挑戦(南ネーデルラント継承戦争、オランダ戦争)に疲弊させられましたが、この17世紀は海外進出に成功しています。ポルトガル領の奴隷貿易基地エルミナを奪い(1637)、ケープ植民地を築き(1652)、ポルトガル領だったマラッカ(1642)、セイロン(1655)を奪い、ジャワ島に1619年よりオランダが東インド総督をおき、アンボイナ事件(1623)でオランダ人がイギリス商館員を虐殺し、これを契機にオランダがモルッカ諸島の香辛料を独占し、イギリスはインド方面の経営に専念した、というのは名高いところです。短期でしたが台湾にも居座ったことがあります(1624-61)。平戸にオランダ商館がおかれ(1609)、次に長崎に移りました(1641)。これらの拠点をぐるぐる回りながらアジア域内貿易を展開しました。わざわざ不足してきた銀を持ってこなくても中国・日本・その他の国々を回る中継貿易で差額の利益を得る貿易です。オーストラリア(新オランダ)、ニュージーランド(1655)、ジャワ島のマタラム(1677)と占領しており、17世紀を「オランダの世紀」というのも不思議ではありません。

 ピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)たちはまずオランダに立ち寄り、メイフラワー号はオランダの港から出港してプリマスに到達し、アメリカ植民地化の先駆になっています。

 山川用語集の「黒人奴隷」という項目に、「プランテーションの労働力として、輸入酷使されたアフリカ出身の黒人奴隷。北米では、1619年、ヴァージニアに輸入されたのが初めであった」と記事があります。この1619年は一般に教科書の注ではヴァージニアに初めて植民地議会が設けられたことをあげていますが(1619年は「民主主義元年」)、オランダの奴隷船で運ばれた20人の黒人奴隷が北米最初の奴隷でもあり、アフロアメリカン(アフリカ系アメリカ人)のスタートを切ります(拙著『センター世界史・各駅停車』p.423)。そのため1619年は奴隷制元年といいます。他にこの年はアメリカ女性史元年ともいいます。それは植民した男性の結婚相手としてイギリスで応募した女性達が初めて大西洋を渡った年でもあるからです。いろいろな元年でした。

 

 コーヒー・プランテーションの先駆であったことは、小澤卓也『コーヒーのグローバル・ヒストリー 赤いダイヤか黒い悪魔か』(ミネルヴァ書房)に詳しい。

 日本茶の普及に貢献したことは角山栄『茶の世界史──緑茶の文化と紅茶の文化』(中公新書)に詳しい。

 

 19世紀にはベルギーとの関わりが目立ちます。ベルギーは西欧最初の産業革命地であり、オランダからの独立運動はウィーン体制を西方で覆す一因となりました。しかし苦戦したオランダの方は経済的破綻を植民地に負わせ強制栽培制度をジャワ島でおっかぶせました。

 またアフリカ探検を推進したのもベルギーでした。レオポルド2世(位1865~1909)がスタンレーのコンゴ探検を援助し、コンゴ自由国をつくって1885年に王となり、鉱業開発を進めました。これらは「植民地主義」のアフリカに適用した悪しき先駆です。

 20世紀には、しかし、世界平和のための仲介役としては目立った働きをしています。ハーグにおける万国平和会議(1899、1907)の開催、この会議の決定にしたがった国際仲裁裁判所の設立(1901)、第二次世界大戦後の国際司法裁判所(1946)、オランダ南端にあるEUをつくるマーストリヒトの会議と条約、これにより欧州連合(EU)が創設されました。条約内容をより民主化するためのアムステルダム条約(1997)にも粘り強い交渉をおこなっています。またオランダ開催の環境首脳会議(環境サミット)は温暖化抑制をめざす「ハーグ宣言」を採択しました(1989)。マーストリヒト条約は不可欠ですが、他にひとつでも書くといい。

 

 東大の開示成績と予備校がおこなった再現答案の採点と合っているか見比べてみたらいい。開示の点数が低かったのは「役割」が書けなかった分だと悟ったらいいでしょう。今年の第2問・第3問は易しい問題だったのに、自分の得点がなんでこんなに低いんやー? と疑問におもったひとは第1問の配点の高さと、採点の厳しさに気付くべきです。第2問・第3問の配点が20点・20点ではありえない。

 

 東大の問題は幾種類もの解答が書ける良問です。この問題もそうでした。本問題に関連した、拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)の巻末「基本60字」にある問題は、以下の通りです。


p.29-8 16世紀に始まる西ヨーロッパ諸国の東南アジア進出は、この地域における経済のありかたを変えていった。貿易の担い手・貿易品目・生産形態などの変化を述べよ(120字)

p.30-9 アンボイナ事件とその結果について述べよ。

p.30-10 イギリス・フランス・オランダが東南アジアに勢力圏を築いていった過程を19世紀から20世紀初頭にいたるまでを述べよ(150字)。」、

p.38-24 南アフリカのアパルトヘイト政策が1991年まで維持されてきた歴史的原因を説明せよ(100字程度)。

p.54-1 オランダ独立戦争の経緯を説明せよ(120字)。

p,55-2 オランダの経済の特色をイギリスの同時期の経済と比べて説明せよ。

p.56-7 1651年に発布したクロムウェルの航海法の目的と結果を記せ。

 

[第2問の解き方

(1)

 (a) 問いは「儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事」とあるので、董仲舒の進言(建言)と武帝の受け入れ、五経博士の設置の二つがあれば十分な答案です。この出来事を儒学の官学化とも国教化ともいいますが、最近の研究では、国教化は無理で、官学化と弱めた表現を使います。時間をかけて前漢末から後漢にかけて国教化と言える、という評価になってきました。どちらを書いても正解ですが。

 「董仲舒が法家に代わる皇帝の統治理論として儒学の官学化を武帝に建議」(S)と書いてしまうと間違いになります。「法家に代わる」とはなんと不勉強な、儒学史の本を一冊でも読めばそんな解答は出てきません。始皇帝からいきなり武帝になるのなら、こうした文も可能かも知れませんが、前漢が成立して武帝即位まで60年あります。高祖劉邦のときにすでに儒学は復活していて儒学者・叔孫通が朝廷儀礼を制定しています。5代・文帝(位前180-前157)のときに重んじられたのは、儒者の賈誼(かぎ)・韓嬰(かんえい)などでした。受験生は読まなくていいですが『中国思想史』(東京大学出版会)を講師に薦めます。なおこの問題は『世界史論述練習帳 new』(パレード)巻末「基本60字」p.15の3に指定語句「董仲舒 国教化」として載っています。

(b) 問いは「文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運」というもの。古文古学復興運動をおこなった韓愈と柳宗元、魏晉南北朝・隋唐にかけてはやった四六駢儷体(この字が書けないときは、四六体/駢文/駢体文といろいろな書き方があります)に代わって簡潔な文体を追求した、ということです。  

 「古学」は仏教・道教を否定して儒学の復興を望んだことを指します。古学復興はもちろん書かなくていいこと。韓愈(柳宗元)はセンター試験レベルです(出題歴は、91,01,05,09,10)。

(2)

 (a) 「15世紀前半」で戸惑ったひとは年代を覚えなさい、と言っときます。訓民正音で「童1謡4知4る6」が語呂です(『世界史年代ワンフレーズnew』から)。「太宗は鋼活字を鋳造し、朱子学に関する出版を奨励。世宗は朝鮮語を表す音標文字として訓民正音を制定、これは庶民に普及。」(S)の前半はカンニングですから書けなくていい。三省堂の教科書は「1403年に銅活字を鋳造する鋳字所が設置され、多くの歴史書、地理書、農書、医学書が刊行された。第4代世宗は学者に命じて、庶民に分かりやすく朝鮮語を表記する民族文字(ハングル)をつくらせ、1446年、訓民正音の名で公布した。」と書いていますが、珍しい例です。世宗は朝鮮文化の黄金時代で、この国王の文化振興は学術書の発行、世界初の測雨器製作(慶應・法学部2010年出題)、天文観測器、歴史書、地理書などの編纂と幅広い。ソウルの徳寿宮に本を読んでいる世宗の座像がありました。

 訓民正音もセンター試験レベルです(出題歴は、89,97追,99,01,03,10)。

 

(b) 過去問の類題として「明朝末期から清朝前期にかけての時期のイエズス会士への対応と、清朝末期の洋務運動とを例にとり、中国がヨーロッパ文化を受容するにさいして示した態度の特徴を8行以内で述べよ」というのがありました(1989)。下の問(3)が分解して出ています。といって同問が出たというものでもありません。今年の問題の方がずっと易しい。徐光啓について「ヨーロッパの科学技術に強い関心」ということで、マテオ=リッチと協訳『幾何原本』、アダム=シヤールと『崇禎暦書』編纂があります。『農政全書』に西欧のプランテーションの作り方が書いてあるのでこれも挙げてもいいのです。『世界史論述練習帳 new』(パレード)巻末「基本60字」p.21の13,p.22の15に類題が載ってます。

(3)

 (a) 「ワッハーブ派の運動」という課題です。いくつもの内容を満たす必要がありますが、1)預言者ムハンマドの最初の教えに帰れ、という回帰主義、別名原理主義です。2)背景として、イラン人やトルコ人がもたらした神秘主義(スーフィズム)と聖者崇拝によってイスラーム教は堕落した、とみなしたこと(既存の神学派・法学派全体に対する批判も)。3)半島の豪族サウード家の(軍事的)支持があって広がったこと。この3点があれば満点でしょう。他に4)メッカとメディナという二聖都を占領してワッハーブ王国を建設したことがある。5)ワッハーブ王国は、19世紀になって、オスマン帝国の命令でアラビアに出兵したエジプトのムハンマド=アリーによって、一度は滅ぼされた(追放された)。6)トルコ支配に反抗するアラブ民族主義をうながしたこと。7)、巡礼者のネットワークに乗ってイスラーム世界に広がったこと。8)他称はワッハーブ派でも自称はムワッヒドゥーン(「一神論の徒」という意味で、他派を多神教とみなしている)であること、などなど。

 (b) ラーム=モーハン=ロ一イ(ラージャー=ラームモーハン=ローイ、1772-1833)の名前を知らなくても、「女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習」の最たるものはサティ(ー)ということは知っていたでしょう。未亡人の自殺ですが、拒む場合は周りの男たちが無理やり火の中に放り込んで、生きながら火葬する虐殺葬式です。2008年のロイターのニュースに、「ライプール インドのチャッティスガル州にある村で、71歳の女性が現在では禁止されている古い慣習にのっとって夫の火葬中に炎に身を投げ、自殺するという出来事があった。警察が12日に発表した」とありました。

 (c) 「洋務運動……の性格」という課題です。拙著『世界史論述練習帳 new』の巻末付録「基本60字」に、「洋務運動と変法運動の近代化とその限界について述べよ(120字)」という問題文が載っています。答えは「前者は中体西用のもと西欧軍事介入技術の導入を図るが、民間企業の育成がなく、官僚たちは外資依存と私的蓄財に専念し旧体制を変革する意図がなかった。後者は……」となっているのがそのまま解答になります。注に「私的蓄財とは認可権をもつ官僚がもらう賄賂・手数料・世話料のこと」と追記しています。すでに問題文に「曾国藩・李鴻章などの官僚グループ」とあるので「漢人官僚を中心に(K・S)」のような解答は要らないでしょう。

 「詳説」では、「おもな事業としては、兵器工場・紡績工場や汽船会社の設立、鉱山開発や電信事業などがあるー」とあり、「東書」では「民間の資本を国家の管理のもとに利用して、地方の大都市で兵器・紡績・造船・製鉄などの工場を建設し、鉄道の敷設や鉱山の開発をすすめ」とありますから、「表面的な模倣に留まった(Y)」という評価は肯けるものではありません。

 「日清戦争敗北で挫折」と書いているものがありますが、洋務運動は対外戦争に勝つために軍備の近代化をしているのでないことは、李鴻章が言明しています。太平天国のようなでっかい反乱が再びおきたときに、常勝軍のように鎮圧できる軍隊をもちたい、ということです。だから日清戦争で敗北したら即挫折とはならないのです。むしろゆっくりではあれ、中国にとってはこの洋務運動をとおして機械工業がはじまったことを評価すべきでしょう。

 ただ日本の工業化とちがい変則なかたちをとりました。官僚資本主義というやつです。

 これらの(民間)企業の多くは、「官督商弁」という半官半民の経営方式を採用していた。創業にあたって多額の国家資金が貸与され、清朝、直接には洋務派の大官が派遣した官僚が企業の中枢を統轄した。他方、民間から資本を募集し、多額の投資者で経済に通じた民間人に経営させた。これに応じた民間人は、主としては、上海などの開港場で活躍して資金を蓄積していた買弁や塩商などの大商人、また個人としての洋務派官僚で、多くの場合買弁出身者が経営を担当した。……結果としては、八〇年代中期以降、かえって「官」の支配力が強化されて、官僚資本主義の方向をたどり、営業独占権が民間企業を抑圧する事態も生じた。また経営に行き詰まって倒産したり、外国資本に吸収された企業も少なくなかった(『中国近現代史』岩波新書、著者は2人とも東大教授)。

 

第3問

A

(1) 『ローマ史論』で分からなくても「近代政治学の先駆となる作品」で出てくるのではないか。運命の女神に翻弄されないで、この女神の頬をぶちたたいてでも運命を開けと君主を叱咤激励する書です。

(2) 「ペルシア戦争の歴史を物語風に叙述」と「ペロポネソス戦争の歴史を客観的・批判的に叙述」という対照的な2人です。

(3) 「前2世紀のローマ興隆を目撃」はカルタゴ炎上を小スキピオに付いていって見た人物です。『ローマ史』を書きました。1世紀経って、その文章の華麗さから「ラテン文学の粋」といわれる『ローマ建国史』を書いた人物。

問(4) キリスト教最初の『教会史』を書いた教父作家……は細かかったか。これはできなくても動じる必要はない。『神の国』は書けなきゃ。

B

(5) この国の歴史教科書の第1ページに「われわれの民族の建国年は552年である」と書いてあります。それは突厥が蒙古高原で建国した年です(『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は「突厥、突然こ5こ5に2」)。

 「突厥の前に現れた」といっても相当前です(陳勝呉広の乱と同年なので、語呂「陳勝・冒頓は、ブ2レ0ーク9」)。「匈奴の最盛期の君主名」は漢字が正しく書けるかどうか。単于の「単」と「于」は下のハネがないのとあるのと。

(6) この設問文が分からなくても、導入文の『歴史序説(世界史序説)』を書いて都市民と遊牧民との交渉」で分らなきゃ。

(7) 「宰相ラシード=アッディーンは、壮大な歴史書をペルシア語で記述した」歴史書の名。「蒙古集史」という言い方もあります。

C 

(8) 『西洋の没落』を著した高校教師です。

(9) 「ロシア革命の指導者の一人で『ロシア革命史』を著し」が分からなくても「世界革命論を唱えた人物」となんとも親切な問い方です。

 「ヒトラーの政権が成立すると対ドイツ宥和政策」をとったのがネヴィル=チェンバレン首相でしたが、この首相に、あなたが付き合っている人物は何者か分かっているのか、と歯に衣を着せぬ言い方で批判をした海軍大臣がいました。結果的に首相は自分のあやまちを悟り入院し、この海軍大臣が首相に昇格します。「『第二次大戦回顧録』を残したイギリスの政治家」は第二次世界大戦は無駄であった、ソ連の支配圏を拡大しただけだと嘆いたひとです。拙著(『センター世界史B各駅停車』)では「チャーチル議員の警告にもかかわらず、内閣(ボールドウィンとネヴィル=チェンバレン)のたびかさなるナチスにたいする宥和政策」と書いています(p.345)。

(10) 「独立直後に首相」とうことは初代首相ということです。『インドの発見』を書いたかどうか知らなくてもできなくてはいけない問題。牢獄で書かれたインド史です。

 第3問は、問4エウセビオス(山川用語集の頻度3)、問8シュペングラー(頻度4)が書けなかったとしても失う点数は2点です。他は書けてほしい問題でした。頻度7-11のセンター・レベルですから。

 予備校の解答例を挙げ、その批判もしました。他人の答案を批判して自分の答案を隠すのは卑怯なので今年に限り自分の解答例も挙げておきます。比較してみてください。他の年度の解答例を挙げてないのは、一度掲載したときに参考書の会社でわたしの解答をまねたもがあったからで、今年だけにします。もっとも『世界史論述練習帳new』(パレード)を買っていただいた方には、他年度の解答例(非公開)をメールで配信しています。

第1問

(例1…経過的)

ブルージュ・ガンなど毛織物工業で栄えた低地は百年戦争の領土争奪原因となり、この戦争のために英国に亡命した技術者たちは英国の毛織物工業を興した。15世紀末にはハプスブルク家のものとなり、新興市民にカルヴァン派が普及したため、スペインの弾圧を受け、低地の商人たちは闘い、北部は連邦共和国として独立、スペイン帝国を没落させた。三十年戦争の際にはグロティウスが画期的な国際法を提唱した。また宗教に寛容な国家としてウェストファリア条約で承認された。高い造船技術、史上初の公立銀行、デカルト、スピノザなど最高の頭脳を集め、レンブラントを代表とするバロック芸術などをもち17世紀をオランダの世紀とした。かれらは日本では長崎を通して蘭学を伝え、コーヒーや茶を西欧に広め生活を変えた。新大陸にニューアムステルダムを建設したが英国に奪われニューヨークの起源となった。このように先駆的な役割を担ったが負の先駆でもあった。インドネシアの植民地化、ケープ植民地の形成と、現地でのコーヒー・プランテーション、1830年からの強制栽培制度、南アフリカ戦争終結における英国と妥協したアパルトヘイトなどである。20世紀太平洋戦争で日本の侵略を受けた蘭領東インドは、戦後も植民地を維持しようとしたためインドネシア人の民族主義に火をつけた。非植民地化の波の中、結成当初から加盟したECにマーストリヒト条約を結成させ、EUの中心的役割を果たした。

(例2…経済・文化に分けた)

中世末、ヨーロッパ随一の毛織物工業地帯であり、フランドルはイタリアとの航路を開き、それまで繁栄したシャンパーニュ大市という中継地をネーデルラントに移転させた。またハンザ同盟に対抗してバルト海貿易に食い込み、穀物取引は東欧に農場領主制を浸透させた。17世紀の奴隷貿易はアフリカとアメリカを結びつける。オランダ船が連れてきた奴隷20人がアフリカ系米国人の元祖となった。ウォール街の基をつくったのはニューアムステルダムであり、これは世界経済の中心ニューヨークの起源となった。インドネシアを植民地化しコーヒー・ゴムなどのプランテーション経営の面でも先進的であった。ただし19世紀に強制栽培制度をおしつけ、太平洋戦争後も植民地を保持しようとしたため民族運動を喚起した。文化的役割は、絵画の油彩技術を完成させ、中世末にファン=アイク、16世紀にルーベンス、17世紀にレンブラント、19世紀にゴッホを生んだこと。スペイン=ハプスブルク家の弾圧に抗戦し、三十年戦争中グロティウスの国際法を提示して和解の方策をリードした。長崎を通して蘭学を、幕末の日本に蒸気船・鉄工所・国際法など先進的な西欧の技術・学問を伝えた。白人至上の思想は南アフリカ戦争での英国との妥協で確立しアパルトヘイトとなった。だが世界平和の仲介に積極的でもあり、ハーグ万国平和会議を開き、マーストリヒト条約ではEU形成に一定の役割を果たした。

第2問

問(1)

(a)武帝に対して董仲舒が、皇帝を国父とする儒学を官学とするように進言し、武帝はこれを受けて五経博士を置いた。

(b)『文選』の推奨する四六体が普及していたのに対して、韓愈・柳宗元が簡潔な古文復興運動を展開した。 

問(2)

(a)銅活字をつくる鋳字所を設置、世宗は古典編纂につくし、かつ朝鮮民族独自の文字を考案させ「訓民正音」を作成した。

(b)エウクレイデスの『幾何原本』を訳し、西欧のプランテーションも記した『農政全書』や『崇禎暦書』を編集した。

問(3)

(a) 半島東部ネジド地方におきたイスラーム原理主義に立つスンナ派の一派。19世紀初期にはメッカ・メディナを占領する時もあった。サウド家の支持を受け、オスマン帝国から独立した。 

(b)サティー

(c)「中体西用」を方針に官僚が主導した工業化だったが、軍事技術に偏り、統一的な計画はなく、官僚は私的蓄財に専念したため、民族資本の成長ははかどらず、清朝皇帝体制を温存した。

第3問

問(1)マキァヴェリ、君主論

問(2)ヘロドトス、トゥキディデス

問(3)ポリビオス、リウィウス(リヴィウス)

問(4)エウセビオス、アウグスティヌス

問(5)トルコ(共和国)、冒頓単于

問(6)イブン=ハルドゥーン

問(7)集史(蒙古集史)

問(8)シュペングラー

問(9)トロツキー、チャーチル

問(10)ネルー