世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2013

第1問

 大西洋からインド洋、太平洋にかけて広がる海を舞台にした交易活動は、17世紀に入り、より活発となり、それにともなって、さまざまな開発が地球上に広く展開されるようになった。それらの開発によって生み出された商品は、世界市場へと流れ込んで人々の暮らしを変えていったが、開発はまた、必要な労働力を確保するための大規模な人の移動と、それにともなう軋轢を生じさせるものであり、そこで生産される商品や生産の担い手についても時期ごとに特徴をもっていた。

 17世紀から19世紀までのこうした開発の内容や人の移動、および人の移動にともなう軋轢について、カリブ海と北アメリカ両地域への非白人系の移動を対象にし、奴隷制廃止前後の差異に留意しながら論じなさい。解答は、解答欄(イ)に18行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 アメリカ移民法改正(1882年) リヴァプール 産業革命 大西洋三角貿易 奴隷州 ハイチ独立 年季労働者(クーリー) 白人下層労働者

 

第2問

 国家と宗教の関わりについての、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 紀元前1世紀に地中海世界を統ーしたローマは、その広大な帝国を統治するために、宗教をさまざまな形で支配政策に組み入れていった。パレスチナの地に生まれてローマ帝国内に信仰を広げたキリスト教は皇帝による宗教政策との関わりで、(a)はじめ激しく迫害されたが、やがて(b)紀元後4世紀前半には国家に受け入れられるようになった。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) キリスト教徒がローマ皇帝に迫害された理由を2行以内で説明しなさい。

(b) キリスト教はローマ皇帝によってどのように公認されたか、その皇帝の名前と公認の理由に触れながら、2行以内で説明しなさい。

 

(2) 中国では魏晋南北朝時代になると、国家との関わりのなかで、今日まで影響力をもつような宗教が現れた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)この時代には、鳩摩羅什が華北で国家の保護を受けて布教するなど、仏教が本格的に広まった。陸路や海路で西域やインドとの間を行き来して、仏教の普及につとめた人々の活動について2行以内で説明しなさい。

(b)北魏では、太武帝の保護を受け、その後の中国で広く信仰される宗教が確立した。その宗教の名称とその特徴、およびその確立の過程について2行以内で説明しなさい。

 

(3)メロヴィング朝フランク王国の急速な勢力拡大の背景には、その基礎を築いた王の改宗があったと考えられている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 他のゲルマン諸部族の王の大部分は、当時どのような宗教を信仰していたか、2行以内で説明しなさい。

(b) このメロヴィング朝の王は、どのような宗教に改宗したのか、この王の名前とともに、2行以内で説明しなさい。

 

第3問

 世界史において少数ながら征服者や支配者となったり、逆に少数ゆえに激しい差別や弾圧を受けたりしながら、さまざまな時代や地域で重要な役割を果たした人々がいた。また、こうした少数派に関わる事象が歴史の流れのなかで大きな意味をもつこともあった。これらをふまえて、以下の質問に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 歴史上、少数の征服者が、異質な文化をもっ多数の土着住民を統治した「征服王朝」は数多く存在する。このような征服者の住民統治策について述べた次の文章①〜③のなかで、誤りを含むものの番号を記しなさい。

 ① スペインは、その中南米やフィリピンの統治で、住民へのカトリックの普及をはかった。
 ② 元は、その中国統治にあたって、科挙試験を一貫して重視し、南人の土大夫層を積極的に登用した。

 ③ 清は儒学の振興につとめる姿勢を示したが、反満・反清的な言論は「文字の獄」などで厳しく取り締まった。

(2) 少数派の宗教的信仰が、国家や既存宗教勢力から異端視され、迫害され、逆に反体制集団の紐帯となっていく場合がある。中国の白蓮教もこのような信仰だった。白蓮教の活動は、南宋から近代にかけて知られているが、14世紀に白蓮教徒が起こしたといわれ、元の支配に終焉をもたらす上で大きな役割を果たした反乱は、何と呼ばれているか。その名称を記しなさい。

(3) ヒンドゥー教は現代の東南アジアでは一部の人々が信仰する少数派の宗教であるが、かつては大きな影響力を有していた。13世紀にジャワに成立し、島嶼部の交易の覇権を握って繁栄した王国も、ヒンドゥー教を信奉し、その文化的優位性をインド世界との結びつきに求めていた。ジャワにおける最後のヒンドゥー王国といわれるこの王国の名称を記しなさい。

(4) 16世紀のムガル帝国では、第3代皇帝の治世下でジズヤが廃止され、人口比では少数であるイスラーム教徒の支配者層と、多数派のヒンドゥー教徒住民との間の融合が模索された。この改革を行った皇帝の名前を記しなさい。

(5) この民族は、その主な居住地域が歴史的な経緯からトルコ、イラク、イラン、シリアなどに国境線で分断されているため、各国における少数派となっている。また、第3回十字軍と戦ったサラーフ=アッディーン(サラディン)も、この民族の出身である。この民族の名称を記しなさい。

(6) 南アフリカ共和国では、白人による少数支配体制のもと、多数派である非白人に対する人種差別と人種隔離の政策が採られていた。このアパルトヘイトに反対する運動に献身し、長い投獄生活を経て1993年にノーベル平和賞を受賞した後に、大統領となった人物の名前を記しなさい。

(7) 近世ヨーロッパでは教会公認の天動説に対して、地動説を唱えた少数の学者たちは自説の撤回や公表回避をしばしば強いられた。そうしたなかで、地動説の主張を曲げずに宗教裁判にかけられ、処刑されたイタリア人学者の名前を記しなさい。

(8) 19世紀末のフランスでは反ユダヤ主義や排外主義の風潮が高まり、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイ容疑で終身刑を宣告された。これに対して彼の無実を主張した自然主義作家の名前を記しなさい。

(9) 1968年チェコスロヴァキアでは民主化を求める動きが高まり、政府も民主化、自由化を推進したが、ソ連を中心とする東欧の5か国は軍事介入し、圧倒的な武力を背景に圧迫を加えてこの民主化の動きを阻止した。「プラハの春」と呼ばれる、この動きを推し進めた政府指導者の名前を記しなさい。

(10) 北アメリカの先住民であるインディアンは白人による圧迫を受けて、しだいに居住地域を限定されるようになった。とりわけアメリカ合衆国大統領ジャクソンは立法によって、ミシシッピ一川以西の保留地に移ることを彼らに強いた。この法の名称を記しなさい。

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[第1問の解き方

 課題は「17世紀から19世紀までのこうした開発の内容や人の移動、および人の移動にともなう軋轢について、カリブ海と北アメリカ両地域への非白人系の移動を対象にし、奴隷制廃止前後の差異に留意しながら」でした。

  昨年につづいてまたもや「差異」という比較の問題でした。昨年(2012年)、出題者は、まったく差異が現れていない解答ばかり見て、うんざりし、配点も予定していたものよりぐっと下げたと見られます。これがトラウマになっていて、今年はもう少し解きやすい問題で「差異」を書かせてみようと、昨年の違和感をぬぐいたいということだったのではないでしょうか(今年は予定通りの採点をしたようで、けっこう厳しい点数になってます)。

 課題文には単に「差異に留意しながら」とあるのでなく、「奴隷制廃止前後」とハッキリ時間を指定して、それ以前と以降を区別して述べるように要求しています。

  しかしネットの答案で差異を表した、といえる答案は皆無です。なぜか?

 「差異」を素直に取れない予備校講師たちは、見たくないものは見られない、聞きたくないものは聞こえない、という強固な性格をおもちです。なぜ見たくないのか、なぜ問題文の全部を見ないのか、その理由は分かりません。歴史の文章はのっぺり流れとして書くのものだから、邪魔すんな、ということかも知れません。知らず知らずのうちにこういう排除作用が頭の中ではたらくのかも知れません。社会学でいう切断操作に似てます。出題者は思考的・構成的な内容を求めていても、それを意図的に無視する働きです。日本人のことを「平たい顔族」とコミック・映画『テルマエ・ロマエ』で呼んでいますが、表面だけでなく頭の中ものっぺりしていて、凹凸を嫌うようです。

 

 「差異」は18世紀まで黒人、19世紀はアジア系という差異だけではありません。「開発の内容や人の移動、および人の移動にともなう軋轢」のどれにも「差異」が関わっています。開発の差異、移動の差異、軋轢の差異です。

 「留意」は心に留めているだけでは採点官は判らないので、文章で表さなくてはなりません。答案の裏を読むことは採点官の仕事ではありません。文章に表して初めて「留意」したことが確認できます(留意についてもっと詳しくは、メールにあります、こちら→)。

 また「奴隷制廃止前後の差異に留意」とあるため、最後の差異に注目せず、奴隷解放史だと勘違いしてしまう可能性もあります。指定語句に「リヴァプール 産業革命 大西洋三角貿易 奴隷州 ハイチ独立」とあるので、余計にこの指定語句に偏った解答をしがちです。

 奴隷解放のことはある程度書かざるをえませんが、これはあくまで「開発・移動・軋轢の差異」を書く中で下位情報として書くのであり、解放史を主にしてはならないのです。

 時間的な「前後」はあまり明快ではありません。ハイチは独立と同時に廃止していますが、これは奴隷自身が独立運動の指導をしている(トゥサン=ルーベルチュール)から当り前としても、ここには啓蒙思想の影響があり、以後のラテンアメリカ独立運動ではブラジルを除いて独立実現=奴隷解放でした。イギリスが奴隷貿易を廃止したのが1807年、植民地における奴隷労働を廃止したのが1833年です。合衆国が廃止したのは1863年の宣言と、法的には65年の修正(補正)13条でした。ほぼ半世紀のタイムラグがありますが、米大陸の全体状況としては19世紀の初めから起きているので、18世紀までと19世紀以降と大まかに区分しておいていいでしょう。

 

 開発の差異は、18世紀まで農場(プランテーションの展開)でタバコやサトウキビを生産していましたが、19世紀は産業革命の進展とともに、都市に生産の中心が移ります。19世紀もプランテーションがなくなったのではないので、それはもっと拡大して原料としての綿花栽培が主になります。他に畜産・羊毛・肥料・製粉・米・砂糖などの生産もするようになります。都市とその周辺では、工場での機械生産、商店の仕事、鉱山(金・銀)採掘、鉄道建設、ダム・橋・道路・港・倉庫の建設、港湾積荷、電信電話網の敷設などが加わります。重労働の仕事に真面目に働くアジア系(中国人・日本人・朝鮮人)は嫌がれました。職場を奪うからです。

 

 次は「人の移動の差異です。

 これには「非白人系の移動を対象」も留意という条件が付いていますが、指定語句にある「白人下層労働者」は17世紀から移動してきた白人(旧白人ともいう)ではなく、「新白人」とも呼ぶ19世紀に移動してきた西欧・東欧・南欧の白人たちです。条件とちがって、この新白人が19世紀の圧倒的な移民でした。

 アジア系の移民が対立するのは旧白人でなく新白人(白人下層労働者)です。ジャガイモ飢饉を逃れてきたアイルランド人、世紀末の地震つづきで避難してきたイタリア人、ロシアの迫害を逃れてきたポーランド人もいますが、非白人としては、ポグログ(ロシアのユダヤ人迫害、ホロコーストの東欧版)を逃れてきたユダヤ人もいます。教科書(詳説)の移民表には非白人系は載っておらず、みな白人ばかりがいかに大量に移民してきたかが記されています。*1

 調べて見ると、世紀末に東欧・南欧からが増えてます。アジア系も増えてますが、全体の中では微々たるものです。問題にすることなのか、というくらい少ないです。日本はアジアなので問題にせざるを得ない面はありますが。それにしても少ない。

 このように「白人下層労働者」は突然あらわれるのではなく、アジア系とともに、いや圧倒的な数でこの白人たちが移民してきて、移民のほんの一部がアジア系であるので、この東欧・南欧人=下層白人労働者(一部は非白人のユダヤ人も含んでいます)についてなんらか書かざるを得ない面があります。

 カリブ海のことやラテンアメリカ全体の移民について教科書はほとんど書いてないので書けませんね。ラテンアメリカはこれも調べて見るとサトウキビ・プランテーションのために中国人・インド人苦力が北米以上に移民しています。*2

  差異としては、奴隷→苦力ですが、ここには強制と自発性のちがいがあり、19世紀は苦力(中国系移民)だけでなく、「非白人」の日本人・インド人・ユダヤ人などもプラスします。行った先の職場もプランテーションの農場でなく、都市の中の職場や工事現場・鉱山・港湾です。*3

 なお指定語句になっているクーリーは「年季労働者」と意訳してありますが、他に「苦力/出稼苦力/契約雇用農/低賃金契約労働者/底辺労働者」といろいろあります。華僑のように古く13世紀から商業に携わる中国人(華人)とちがい、時間的に19世紀後半から20世紀前半までの時間の限られた中で肉体労働力として危ない契約の下で出稼ぎをしたひとびとです。*4

 

 こうした人の移動がもたらす「軋轢」は、18世紀までは白人奴隷主と黒人奴隷の間にありました。酷使、鞭打ち、強姦、逃亡、拷問、裁判、処刑といろいろ。

 19世紀になると、新白人の到来、世紀末には非白人の到来が、たんなる白黒の軋轢だけでは済まないものになっていきます。まずラテンアメリカではハイチの独立運動そのものが軋轢の例となり、ラテンアメリカではこの独立の成功から他の地域でも独立運動が起こり、どこでも奴隷解放をかかげてスペインから独立します。ポルトガル領のブラジルだけは皇帝制となり奴隷制も1888年まで維持しました。

 北米は独立後、南部に奴隷制が広がり、南部はコットン・キングダム(綿花王国)といわれるくらいに奴隷制に立脚した生産が行なわれました。それが次第に奴隷制を州毎に廃止していった北部(ペンシルベニア州、1780年が初め)と対立し、奴隷制の認められた奴隷州と自由州の間に対立が深まります。これも軋轢例です。妥協(ミズーリ協定、カンザス=ネブラスカ法)があり、裁判(ドレッド・スコット事件)があり、蜂起があり(ジョン=ブラウンの蜂起)、地下鉄道(その一員がストウ夫人)もありました。とうとう南北戦争で決着します。戦中の奴隷解放宣言(1863)と戦後の補正13条によって、黒人奴隷は解放されました(「修正」でなく「補正」は飛田茂雄著『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』中公新書に賛同しているため)。230年間憲法を改正しない合衆国は、南北戦争という約80万人の戦死者・戦病死者の犠牲の上に「13条」という増補をしました。

 しかしこれで終わりではありません。戦後の南部では、シェアクロッパー(小作人)となった黒人たちは、農園主(プランター)の下で、耕作用具や生活必需品を農園主や商人から前借りし、収穫物の半分を農園主に支払う過酷な農民として生きることになります。政治的にも、得たはずの投票権を奪われていきます。人頭税(ポールタックス、選挙人登録のときに、係官に人頭税受取証書を提出させる)を払わない、「読み書き能力試験」(登録時に示された憲法の一節を読解させる)にパスできない、という理由でした。この他、南部諸州では乗物・学校・ホテル・レストランなどでホワイトとブラックの差別がおこなわれ、それを各州が州憲法で定めていきました。公民権の剥奪と総称されるものです。「第2級市民への転落」とも呼ばれます。

 私的な暴力(リンチ)をふるう団体も南北戦争直後にできます(1865)。メンバーがおよそ50万人という秘密の軍隊、憎悪の組織「KKK」です。KKK以外にも「白椿騎士団」「黒十字架騎士団」「白人同朋団」などもありました。KKKは敗戦した南部の軍人たちが結成したもので、白いガウンですっぽり身をつつみ、町のどこからも見える丘の上に白い十字架を立て、それに火をつけ、荒馬に乗って黒人奴隷のいる地域を走りまわる暴走族でした。黒人たちの投票日の襲撃、殺人・強姦・暴行、学校焼き討ち、公開処刑をし、これを警察は黙認するという状況でした。18世紀までの奴隷時代の白人主人の扱いより過酷なものになりました。1892年に「黒人たちは、解放以来、他のいかなる時期よりも、今もっともひどく取り扱われている」と書いている知識人がいます(猿谷要著『アメリカ黒人解放史』サイマル出版社)。

 

 白人の大量到来は、先住民(インディアン、インディオ)への圧力も従来よりも増します。ジャクソン大統領の「インディアン強制移住法」(1830)、ホームステッド法(1862)とともに白人の西部熱は高くなり、インディアンは西部に追い立てられていきます。この年、スー族の反乱がおき、指導者ジェロニモの逮捕で終わりました(1866)。「インディアンー般土地割当法」というインディアンを農民にする法が制定されました(1877)。フロンティアの消滅はインディアンの抵抗が終わったことを告げています(1890)。土地を盗られ、狭い土地に隔離されていきました。これは白人が追いやった移動であり軋轢です。

 白人ではないが白人(とくにロシア、ポーランド)に追い立てられてアメリカに亡命してきたユダヤ人がいます。全世界のユダヤ人の43パーセントが住んでいる合衆国は世界でもっともユダヤ人の多い国です。それでいてユダヤ人は合衆国の総人口のわずか2.5パーセントにすぎません。初めは行商や小売商人として働きはじめ、優秀な頭脳のゆえに、その子弟の中から富豪になるものも出てきました。今や全米で最も裕福な400人の大富豪の26パーセントを占めるまでになります(佐藤唯行著『アメリカのユダヤ人迫害史』集英社新書)。旧移民たるアイルランド人が新参のユダヤ人を迫害しています。これも白人と非白人の軋轢として書いていいものです。18世紀までには見られなかった軋轢です。

 さて今や非白人は合衆国人口の36%を占めていて、この移民の結果が、経済的には今ひとつの成績でも、2期目のオバマの当選を確実にしました。昨年の大統領選で非白人の8割がオバマに投票しました。国勢調査局の予測では、30年後に白人は人口の半数を割りこむとのことです。21世紀の終わりには白人は少数派になっているでしょう。

 19世紀まで存在した奴隷制はもうなくなった、と思いやすいですが、現在でも地球に2700万人の奴隷がいます。奴隷を使用することで挙げている利益は130億ドルと告発し、奴隷解放運動をしている団体もあります(https://www.freetheslaves.net)。

 ちなみに移民に関する日本の政策は知ってますか? 日本における外国人労働者の人口は1%、韓国3%、台湾4.2%、シンガポール37.7%です。日本は閉鎖的です。

 

*1 1820-50年間にアジア系は0%で、その間の欧州人の移民は89-92%です。1851-60年のアジア系は1.6%(欧州人94.4%、内東欧・南欧人は1.6%)、1861-70年はアジア系2.8%(欧州人89.2%、内東欧・南欧人は6.2%)、1871-80年のアジア系は4.4%(欧州人80.8%、内東欧・南欧人は14.7%)、1881-90年のアジア系は1.3%(欧州人90.3%、内東欧・南欧人は29.1%)、1891-1900年のアジア系は2%(欧州人91.6%、内東欧・南欧人は60.6%)です(出典:Department of Homeland Security (2003), Yearbook of Immigration Statistics 2002.)。

*2 たとえばジャマイカというサトウキビ・プランテーションの労働力となったのは黒人が大半(90.9%)で、移民としてはインド系(1.3%)、中国系(0.2%)でした。残りはムラート(白人と黒人の混血、7.3%)が埋めてます。

*3 高橋是清は、留学したつもりが貿易商に学費・渡航費を着服され、ホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインし、農園主に売られて、牧童や葡萄園で奴隷同然の生活を強いられたという体験をしています(中公文庫『高橋是清自伝』)。

*4 苦力解放に尽くした日本人外交官のことは、菊池寛の『大衆明治史』で読めます。

http://tncs.world.coocan.jp/TMeijiS2.pdf

 日中戦争とともに日本政府が苦力(中国人)の強制連行を行った、との記事。→http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-03/shishi_05-03-05-03-03-01.htm

 [第2問の解き方

(1) (a) キリスト教徒がローマ皇帝に迫害された理由という問い。迫害は1世紀から3世紀まであり、下線部の「(a)はじめ激しく迫害」のはじめは長いです。その初めのネロ帝と終わりのディオクレティアヌス帝の間は約250年あります。ネロ帝の理由はローマ大火の責任をかぶせたことであり、またキリスト教という新興宗教を近親相姦と幼児誘拐を行う「反社会的集団」という理由でした。軍人皇帝時代の皇帝たちは自己の不安定な地位を皇帝崇拝を強制することで維持しようとしたためで、ディオクレティアヌス帝はその頂点でした。エウセビオスの『教会史』は皇帝の勅令を以下のように記しています、

 それはディオクレティァヌスの治世の第一九年目、……いたる所に勅令が公示された。それは教会の倒壊と諸書の焼却とを命じ、また、もしキリスト教の主張に固執するならば、名誉ある地位を持つ者は公権を奪われ、帝室に仕える者は自由を奪われる旨を宣していた。我々に対する最初の勅令はこのようなものであった。まもなく別の勅令が加わり、あらゆる地域ごとに教会の長たち全員をまず投獄すべきこと、その後にはあらゆる手段を尽くして彼らに供犠行為(ローマの神々の祭祀──中谷注)を強要すべきことが命じられた。(岩波・世界史史料1)

(b) 皇帝の名前は、コンスタンティヌス帝とかんたんですが、公認の理由は教科書(詳説)では「キリスト教は帝国全体に拡大を続け、ついにはこれを禁じればもはや帝国の統一が維持されないことが明らかとなったため、コンスタンティヌス帝は 313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した」と政治的な意図が書いてあります。この勅令は破壊した教会財産の返還・補償も命じています。勅令は歴史的意義の高いもので、キリスト教だけでなくキリスト教を含むすべての宗教の信仰の自由(西欧史の「寛容」)を保障するものでした。これはアケメネス朝のキュロス2世の寛容令(http://en.wikipedia.org/wiki/Cyrus_Cylinder)に次ぐ画期的なものです。

 

(2) (a)陸路や海路で西域やインドとの間を行き来して、仏教の普及につとめた人々の活動、という問いでした。鳩摩羅什があげてあるので、これ以外ということでは仏図澄と法顕をあげるといいでしょう。他に達磨、竺法護(筑波大で出題)などもいますが無理をする必要はないです。

(b)北魏時代の宗教の名称とその特徴、およびその確立の過程、でした。昨年の京大の問題でも出題されました(仏教・道教の発展および両者が当時の中国の政治・社会・文化に与えた影響)。東大は影響まで要らないかんたんな問題です。不可欠なデータは、特徴は現世利益・不老長生を求めること、お札・薬の効用を説くこと、源流としての神仙思想・老荘思想・陰陽五行説があり、太武帝の保護と寇謙之の教団確立です。

 

(3)(a) フランク族以外のゲルマン諸部族の信仰です。正統派でない異端のアリウス派について書けばいい。つまりコンスタンティヌス帝が議長となって開いたニケーア公会議でアタナシウス派が正統となり、この派が異端とされました。付けたすなら、異端信仰の内容としてイエスを神性をもたない人間として評価したことを書く。三位一体説を否定した……。

(b) 改宗した宗派は、アタナシウス派なので、これを2行(60字)で説明するとなれば、(a)の解答と重複しないように、三位一体説(父なる神、子なるキリストおよび聖霊は、三つでありながらしかも同一であるという説)を説明するか、ニケーア公会議で決着は付かなかったが最終的にローマ(・カトリック教会)の信仰となったアタナシウス派と説明するか。

 

第3問

(1) センター試験風の問い方です。正誤判定もセンターレベルです。「元は、南人の土大夫層を積極的に登用した」の内、「積極的」を取ればまちがいではない。郭守敬の例で分かるように、元朝の宮廷で士大夫は活躍していました。『大都の春』(中公新書)を読むとそれがよく分かります。

(2) 「白蓮教徒」と首謀者を表しているので、「紅」巾の乱です。

(3) 条件はヒンドゥー教の国であり、ジャワ島の国であることです。「13世紀」というモンゴルの世紀もヒントになります。侵攻してきた元寇を撃退したひとたちがつくった王朝です。覚え方は「マジャパヒンドゥー」と王国名とヒンドゥー教をくっつけることと、年代ゴロは「マジャパイト、ひと1覆29面3」(『世界史年代ワンフレーズnew』)です。

(4) ジズヤ廃止の皇帝は「悪張る」みたいな名前です。

(5) 国をもたない2800万人のひとたちのことです。トルコ東部・イラク北部・イラン西北部にまたがって暮らしいるひとびとです。第一次世界大戦後に国ができるはずでしたが、ケマルが虐殺しています。「数十万」といわれるものの、どれほどの数か分かりませんが、2011年にトルコ共和国首相エルドアンは1930年代の虐殺について謝罪の表明をしています。イラクのフセインは18万人殺したそうです。このクルド人は日本に難民として避難してきても一人として認定されたものはいません。外務省はトルコ政府の追放に協力してしています。

(6) 「長い投獄生活」27年間「を経て1993年にノーベル平和賞を受賞した後に、大統領となった人物」というセンター試験でも出題された方です(2009、03追)。

(7) 「地動説の主張を曲げずに宗教裁判にかけられ、処刑されたイタリア人学者」もセンター試験で出題されました(2005追)。

問(8) 「ドレフュス大尉……彼の無実を主張した自然主義作家」は『居酒屋』『ナナ』の作家で、かれもセンター試験レベルです(1999、2000、03)。

(9) 「「プラハの春」と呼ばれる、この動きを推し進めた政府指導者」もセンター・レベルです(2000追、03追)。

(10) 「大統領ジャクソンは立法によって、ミシシッピ一川以西の保留地に移ることを彼らに強いた。この法」もセンター・レベルです(1989追、98追、2000追、04追、07)。第3問対策はほとんどセンター試験の勉強がそのまま活きてきます。

(わたしの解答例)

第1問 
開発面では18世紀まではプランテーションという市場向けの大農場経営で、栽培したのはサトウキビ・タバコなどの農産物であった。19世紀以降は綿花・小麦・コーヒーの栽培、鉱山・鉄道・港湾・機械と産業革命の進展に伴い変化した。人の移動は、18世紀までは主にアフリカからの強制的な移動、奴隷貿易であり、この大西洋三角貿易リヴァプール港は栄えた。19世紀以降は自発的な移民であり、南米からの白人移民以外ではアジア系の移民がカリブ海と北米の農園や鉄道建設に従事した。中でも中国人・インド人からなる年季労働者(クーリー)が増えた。軋轢は、18世紀までは主に白人主人と黒人奴隷に見られ、これは18世紀末からの独立運動に発展し、ハイチ独立が初めとなって19世紀にはラテンアメリカ全土で独立と奴隷解放が実現した。北米での軋轢は、対先住民で団結していた合衆国が、奴隷州と自由州の対立となり南北戦争で北部白人が勝利した。世紀末に移民してきた東欧・南欧人が白人下層労働者となって西欧白人と対立し、アジア系移民とも対立した結果、アメリカ移民法改正(1882年)が生まれた。黒人と先住民に対する抑圧は、18世紀までより組織的で暴力的なものに発展した。前者の例はKKKで、後者の例はアパッチ族の降伏とフロンティアの消滅である。
第2問
(1)(a)近親結婚や子どもを誘拐してその血をすすっているとの噂、ローマの神々と皇帝の崇拝を拒否したため。
(1)(b)コンスタンティヌス帝が発布したミラノ勅令によって公認された。皇帝が対立皇帝との戦っているときに十字架を見て戦勝したことが発端であった。
(別解)ミラノ勅令でコンスタンティヌス帝が公認した。前帝の迫害失敗でキリスト教の公認なしに統一は保てないと判断したため。
(2)(a)仏図澄は亀茲から西域を通って訪中し、弟子道安の弟子・慧遠が白蓮社を創設した。法顕は陸路インドに向い海路で帰国し仏教の律をもたらした。
(2)(b)道教。後漢の民間信仰に始まり、寇謙之が道観・道蔵などを制定した。現世利益と不老長生を望み、お札・薬などの効用を尊ぶ。
(3)(a)ドナウ川以北にいた東ゲルマン人はニケーア公会議で異端とされ追放されたアリウス派を信仰した。
(3)(b)クローヴィスは公会議で正統となったアタナシウス派に改宗した。キリストを神の子と認める三位一体説を正統とする信仰。

第3問
(1) 2 (2) 紅巾の乱 (3) マジャパイト王国 (4) アクバル (5) クルド人 (6) マンデラ (7) ブルーノ (8) ゾラ (9) ドプチェク (10) インディアン強制移住法