世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史1987

【1】次の文章は、イギリスの歴史家G・バラグラフの著書『転換期の歴史』の一節である。これを読んで、下記の問いに答えよ。

 「西ヨーロッパは、1000年以上にわたる発展の中で、三度大きな危機を通りぬけてきた。三回とも、ヨーロッパは革命的大混乱をかいくぐったが、その混乱は既存の政治秩序をうち砕いただけでなく、人びとの世界観、神・自然・同胞に対する態度を変えた。そして三度とも、ヨーロッパは弱体化するどころか強化されて立ち現われ、新しい抱負とエネルギーを身につけて新しい課題に立ち向った。まず第一の危機は、1073年教皇グレゴリウス7世の就任にはじまり、半世紀もつづいた。それは醗酵醸成の時代であって、その雄大さにおいてこれと並びうるのは、ヨーロッパ史の他の二つの危機の時代だけである。その一つは、ルターが95カ条のテーゼをヴィッテンベルクの教会の扉にうちつけたとき、すなわち1517年にはじまって、1555年までつづいた。そしてもう一つは、1788年ルイ16世の三部会召集につづく革命の数十年を含む時代で、1815年までつづいた。保守主義者や伝統主義者には、この三つの事件につづく動乱は、あらゆる社会規範の解体を意味し、ヨーロッパ文明のさし迫った凋落を予告するように思われた。しかし、しばしばそうであるように、同時代人のペシミズムは正しくはなかった。古い秩序への攻撃、既存の統制や禁制の弱体化、習慣と伝統の古びた外殻の破砕などは、新しい世界をつくり出し、それまで潜伏し抑えられていた力や衝動が活動する場をつくった。(前川貞次郎、兼岩正夫訳。一部改訳)

 下線の部分で述べられている出来事は、通常「叙任権闘争」とよばれ、教会と国家の関係に根本的な転換をもたらすものであった。この争乱の概要を記し、また、それがいかなる意味で、ヨーロッパ史上、宗教改革、フランス大革命に匹敵するような大変革であったと言いうるのかを説明せよ(400字以内)。

【2】現在の南アフリカでは、先住黒人の他、オランダ系・イギリス系の白人やインド系住民からなる多人種社会の特徴がみられるうえ、人口の多数を占める黒人住民の選挙権や移動の自由を否定する人種差別・隔離(アパルトヘイト)政策が維持されてきた。このような多人種社会が形成された経過と人種差別政策が維持されてきた歴史的原因を400字以内で説明しなさい。

【3】次の問A、Bに答えなさい。
A.中国の北魏王朝のもとで、一時、国教となり、仏教を排撃するほどの影響力をもつにいたった宗教につき、次の問いに答えよ。(合計200字以内)
(1)この宗教の思想的基盤となった古代思想につき、その宇宙観の特徴を簡潔に記せ。
(2)この宗教の形成過程において、後漢末の農民反乱に影響を与えた民間信仰の組織者とその運動の特徴を述べよ。
(3)この宗教の形成過程において流行した「清談」の社会経済的背景につき、土地制度を中心に述べよ。
B.アーリヤ人の進入後の古代インドについて、下記の単語は必ず用いて、説明せよ。なお、これらの単語には、下線を付けること。(200字以内)
リグーヴェーダ、小王国、ガンジス河流域への進出、宗教改革運動、部族集団、ヴァルナ制度
………………………………………

(わたしの解答例)

【1】教会の腐敗を改革するため俗権の叙任権掌握を否定した教皇グレゴリウス7世は、神聖ローマ帝国国内の支配のため叙任権を手放せない皇帝ハインリヒ4世と対立した。皇帝は教皇を廃位させるが逆に破門された。皇帝はカノッサの屈辱を経て破門を解除されたが、この後も内戦ががつづき、授封権は皇帝、叙任権は教皇というヴォルムスの協約で妥協した。これはオットー1世以来の帝国教会政策を破綻させ、皇帝より教皇が下であるという体制を崩壊させ、その後13世紀までつづく教皇権の高まりの契機となり、俗権と教権の分離が始まった。対等な双方の関係は宗教改革では国家が教会を支配する変革になり、帝国では領邦教会制、英国では国教会、仏国では旧教国王による妥協がおこなわれた。フランス革命は宗教を否定する啓蒙思想・理性崇拝をもとに教会財産を没収し、政教分離を法的に定めた。対等・支配・否定という順に宗教は国家に従属する変革が実現した。

【2】経過。ポルトガルから南アフリカ南端をうばったオランダ人はケープ植民地を建設した。このオランダ移民がボーア人として残る。またナントの勅令廃止を逃れてきたユグノー信徒もきた。19世紀初めナポレオン戦争の結果ここはイギリス領となり、英国人がやってきた。そのため北部に移住したボーア人はトランスヴァール共和国やオレンジ自由国をつくる。世紀末からは中国人やインド人苦力が移住してきた。そのため先住民の黒人からの収奪は苛酷なものとなっていった。英人政府は貧しい白人を救い、非白人の反抗を抑えるため種々の差別立法を制定した。第二次大戦後の民族運動に対抗すべく、より強力に人種隔離政策を国是として定めた。維持の原因は、西欧人のもつキリスト教的人種観が根強く、イギリスに伝統的な分割統治策があった。国際的にはレアメタルを得るために先進国による投資の援護があり、西側は冷戦を戦うために政策を否定しにくい状況であった。

【3】A(1)道教では、宇宙の法則は道という概念を唱え、人間はその道にしたがって、道と一体化して生きるべきものと考えた。

(2)黄巾の乱は後漢王朝の命運「青天」の時代はつきて、次は張角が唱えた「太平道」が新たな「黄天」の社会を樹立するとして蜂起した。

(3)清談は大土地所有者である貴族が政界という汚れから離脱したかのような超然とした人物を評価していた。しかし西晋は占田課田法をしきながら、この大土地所有を抑制できなかった。

B インダス川流域の部族集団をやぶってアーリヤ人がこの流域の支配者となると、かれらの宗教は『リグ-ヴェーダ』を聖典としてバラモン教が成立した。かれらがガンジス河流域への進出をはたすと、先住民との差別を徹底するためにヴァルナ制度をもうけ、これがカースト制に発展する。ガンジス川流域では次第に小王国が乱立し、その諸国興亡の中で宗教改革運動がおこり仏教やジャイナ教が成立した。