世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史1989

【1】
 次の文章を読んで、下記の問い(ア)、(イ)に答えよ。

 ところで教皇は、ギリシア人と、世襲的なローマ皇帝であるコンスタンティノープルの皇帝とを、彼の意のままに強制することができなかったので、こんな策略を考え出しました。つまり、この皇帝から帝国と称号を奪い、そのころ勇敢で大いに名声をあげていたドイツ人にこれを授与し、それによってドイツ人がローマ帝国の権力を掌握し、これを知行として治めるようにしよう、というわけです。そしてまた事実そうなりました。コンスタンティノープルの皇帝からローマ帝国は奪い去られ、その名前と称号は、私どもドイツ人に帰属せしめられたのです。ドイツ人はこのことによって教皇の下僕となり、いまや教皇がドイツ人の上に建てた第二のローマ帝国が成立するに至りました。なぜなら、あの第一のローマ帝国は、前述のごとく、つとに滅亡していたからです。(ルター「キリスト教会の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与う」成瀬治訳)

(ア)ここでルターが述べている第二のローマ帝国成立についての歴史的事実を述べ、これに関係する西ヨーロッパにおける中世の政治理念について説明せよ(300字)。
(イ)ルターが「教皇の下僕」という言葉で表現した事情は具体的に何を指していたか(100字)。

【2】
 第一次世界大戦前と大戦後とを比較し、日本をとりまく国際状況がどのように変ったかを述べよ(400字)。
 
(この問題のコメントは『世界史論述練習帳 new』p.54-57に構想メモ・解説・解答例を掲載)

【3】
 次の文章を読んで下記の問い(ア)、(イ)、(ウ)に答えよ。

 清政府は全く能無しだ、
 八ケ国軍北京を占領。
 占領されてもまだ足りず、
 売国条約結ぶとは。
 十万両※の賠償を払い、
 そのうえ各国軍は北京に居残る。
 中国の庶民はこれを知り、
 怒りに胸もはりさけんばかりだ。
(伊東昭雄氏の訳による)
 ※この数字は正確ではないが、当時民間ではこのように伝えられていたという。

(ア)上の文はある政治的事件に際して、中国の民衆の間に伝えられた歌の一節である。この事件の原因となった民衆運動の組織と信仰はいかなる性格のものであり、それはどのような情勢に対応して発生したのか(200字)。
(イ)出兵した八ケ国軍の主力を形成したのはどこの国の軍隊か、また、それはどのような国際情勢に起因しているか(100字)。
(ウ)この民衆運動が拡大しつつある頃に終息したアフリカにおける宗教的反乱について記せ(100字)。


コメント
【1】 
(ア)二つ要求があります。「第二のローマ帝国成立についての歴史的事実」と「これに関係する西ヨーロッパにおける中世の政治理念」とを説明せよ、ということです。前者は問題文に「皇帝から帝国と称号を奪い……ドイツ人にこれを授与し」とあり、その後でもくりかえして述べてから「第二のローマ帝国が成立」とあります。これはオットーの神聖ローマ帝国のことと推理できます。理念は「神聖ローマ帝国」という奇妙な名称について、教科書では明解に述べてないものの、なんらかの解説を聞いているのではありませんか? ヨーロッパの支配者はローマ皇帝であるべきだ、という考え方です。そのためにローマ帝国の復活、ローマ=カトリック教会の擁護者としての皇帝を復活させる、またそうあるべきだという理念です。もともとドイツ人はゲルマン人であり、古代のローマ帝国外の民族であったにもかかわらず、皇帝を名乗るのはおこがましいことであり、だからこそ、神聖ローマ帝国をその名称にふさわしく実体ともにそなえたものとするため、歴代の皇帝は、機会があればイタリア征服をめざす(イタリア政策)ことになりました。それはこの帝国の統一性が、ビザンツ帝国に対抗するローマ的キリスト教会の統一性に対応していたからです。教皇に戴冠してもらい、教皇に依存しつつ教皇も支配下におこう、という意図があってのことです。
(イ)ルターのことですから、「下僕」にはローマ=カトリック教会と教皇にたいする屈辱感があります。『詳説世界史』の贖宥状の注に「ドイツは政治的に分裂していたため、教皇による政治的干渉や財政上の搾取をうけやすく、「ローマの牝牛」といわれて、贖宥状販売にも好都合であった」とあります。
【2】
 比較の問題です。「第一次世界大戦前と大戦後とを比較し、日本をとりまく国際状況がどのように変ったかを述べよ」と。東大の日本史の過去問にも類題がありました。戦争そのものの解説は一切要りません。戦争の前と後が問題です。もちろん戦前からひきずっているものもあるのですが、ここは「変った」点、すなわち違いを要求されています。これを歴史の流れのように、戦前から戦中・戦後という順に書くと点はありませんよ。もっとも受験産業の「模範」解答はそんなものばかりですが。また「とりまく国際状況」を漠然と書かないで、朝鮮・中国・ロシア・米国・英国とかかわっている国との関係をいちいち戦前と戦後で比較することが必要です。そうした構想メモをつくってから書きだしましょう。
【3】
(ア)事件は歌の中の「八ケ国軍北京を占領」で義和団事件だと判るはずです。「事件の原因となった民衆運動の組織と信仰はいかなる性格のものであり」という点は教科書にあまり記述はありません。「それはどのような情勢に対応して発生したのか」との清末、19世紀末の情勢は充分記述があります。
(イ)「日本とロシア軍を主力とする8カ国の連合軍」と教科書に記載があります。また「それはどのような国際情勢に起因」というのは、この頃、イギリスは、アメリカはどんな問題に直面していたか、という同時代に目がいっていますか? と問うている訳です。
(ウ)スーダンの運動です。
………………………………………
(わたしの解答例)
【1】
(ア)962年オットー1世はイタリアに南下して教皇から皇帝の冠をいただき神聖ローマ皇帝になった。このさい教皇の承認権を皇帝がにぎり、オットーが東フランクですすめていた帝国教会政策をより強化することになった。のちビザンツ皇帝にもこの地位を認めさせ、以後ドイツ王が皇帝となる起源となった。理念。古代ローマ皇帝の継承者であり、かつキリスト教化された帝国の全キリスト教徒の統治者を意味した。この世の終末の日まで教会の保護者、諸民族の支配者、「世界」の権威をとなえた。ここにはキリスト教という宗教によって正当化する権力の理念があり、自己を絶対化しようとするヨーロッパの狭い文明観・世界観があらわれている。

(イ)カトリックでありながら、イギリス人やフランス人のような民族的統一が分裂するドイツにはなく、名目的な皇帝にかわって教皇の権威は大きかった。民衆の教皇尊崇の念もつよく、かえって搾取の対象になっていた。

【2】大戦前においては中国の反日運動は弱かったが朝鮮では一部知識人による義兵運動が展開、日本は武断政治でしめつけた。イギリスとは1902年以来の日英同盟で友好関係にあり、合衆国とは妥協がなりたっていた。ロシアとも日露戦争後の日露協約で妥協しており、日本じしんがこれら欧米列強の帝国主義に追随していた。こうした状況は大戦後一変する。戦中の山東出兵・二十一ケ条要求は中国において全民族的反日運動にむかわせた。朝鮮の執拗な抵抗と三一運動弾圧は全民族的運動に発展し、日本は「文化政治」で対応せざるをえなくなる。イギリスとの同盟は廃棄となり、日本の躍進は合衆国を警戒させ石井・ランシング協定も廃棄となり、英米との関係は対立的なものとなった。戦争中の革命によりロシアの帝政は崩壊し、解放勢力にかわったため、日本はシベリア出兵をおこなった。こうして日本はヴェルサイユ・ワシントン体制の一翼をになって発言権を増大させたが国際的には孤立する結果となった。

【3】(ア)義和拳という武術で訓練した結社で、滅洋のため村ごとに拡大した武装集団である。白蓮教の信仰をもち呪文をとなえると神がのりうつると信じた。情勢。数年前からの天災と飢饉が農民生活を窮乏させ流民がでていた。欧米日の列強が露骨な中国干渉をし、中国を分割する勢力圏の設定をしていた。更に鉄道建設・鉱山開発の利権・特権をとり、中国奥地にまで教会が浸出した。農民は無産化し、手工業者・商人は破産・失業においやられた。

(イ)ロシアと日本。ともに東北・朝鮮に地理的に近く分割をねらっていた。他の世界ではバルカンをのぞいて分割が終了しており、英の南ア戦争、米の「アギナルド反乱」は両国の出兵を容易にしていた。

(ウ)イギリスはアラービ=パシャの反乱を鎮圧した後、スーダンに侵略したが、そこにはムハンマド=アフマドが、みずからをマフディーと称し、イスラムにもとづく聖戦を説き理想国家をつくる運動がおこっていた。