世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史1984

【1】16世紀前半のヨーロッパにおける宗教改革の大きなうねりの中でうまれたイエズス会(ジェズイット教団)は、ヨーロッパの宗教状況の展開に重大な影響を及ぼすとともに、その海外布教活動の過程で、東西文化交流にも大きな役割をはたした。このことに関連して、次の二つの問いに答えよ。(各150字)
(a)この教団が成立する背景とその成立経過を記せ。
(b)東西文化の交流にはたした役割につき、中国の具体例に即して記せ。

【2】イギリスと北アイルランドとの間には現在も紛争がつづいているが、その根は深く、17世紀までさかのぼるという。次にかかげるイギリスの政治家がアイルランドに対してどのような政策をとったかを、300字以内で説明せよ。( )内はその政治家の首相在任期間をしめす。
クロムウェル、ピット(1783-1801、1804-6)、グラッドストーン(1868-74、1880-85、1886、1892-94)、ロイド・ジョージ(1916-22)

【3】次の文は、それぞれ北魏の都・洛陽(〔A〕)および北宋の都・ベン京(開封〔B〕)のありさまを述べた書物から抜粋したものである。両者を比較しながら読んで、下記の問いに答えよ。(引用文は共に入矢義高訳による)
〔A〕洛陽大市の東南には通商・達貨の二里があった。里内の住民は、屠殺と行商をなりわいとし、巨万の産をなしていた。市の南には調音・楽律の二里があった。里内の住民は糸竹(琴と笛)の道と歌が巧みで天下の名演奏はみなここが発祥地であった。市の西には延コ(酉+古)・治ショウ(角+傷の人偏をとった字)の二里があった。里内の住民は多く酒造りを業としていた。市の北には慈孝・奉終の二里があった。里内の住民は棺桶を売るのと霊枢車を賃貸しするのを業としていた。ほかに阜財(ふざい)・金シの二里があり、金もちたちが住んでいた。およそこの十里四方には、さまざまな職人や商人など金儲けの人々が多かった。(楊衒之『洛陽伽藍記』)
〔B〕都の北の盛り場の新封丘門大街は、両側には一般の民家や商店のほかに、禁衛軍の諸部隊の兵営が向いあって、城門まで十里余りも並んでいる。そのほかの町筋や露地は、縦横に数も知れず、とても述べ尽くせない。至るところ門を構えて、それぞれ茶店や居酒屋、芝居小屋や飲食店がある。市中の商売人の家では、食事ごとにそういう飲食店から料理を取って間に合わせ、家には惣菜を用意しないものが多い。……夜間の営業は三更(午前零時頃)まででおしまいになるが、五更(午前四時頃)になると、はやまた店を開ける。繁華な場所になると、朝まで店を閉めない。(孟元老『東京夢華録』)
(1)〔A〕の時期から〔B〕の時期に至る期間には、中国社会の発展の上で大きな変革が進行した。商業経済面における変化を中心に、都市社会の変貌について論述せよ。(200字以内)
(2)〔B〕の時期の農村や地方都市における商業取引きはいかなる形でおこなわれていたか。(50字以内)
(3)(1)と同じ期間内に繁栄をみたアジアの都市(中国と日本の都市を除く)の一つを任意に選び、その都市の通商活動について述べよ。(50字以内

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【3】コメント

(1)課題は「商業経済面における変化を中心に、都市社会の変貌について」です。次の(2)が地方都市の問題(省略)でした。ですから、これは首都になった大都市の変化です。次の解答例を批判しなさい。

解答例

(1)南北朝時代には江南の水稲栽培の発達と華北の乾燥農業の完成による生産の増大を背景に都市と商業の発展がみられたが、都市内部は統制下にあり、商業活動は地域的・時間的に制約されていた。この傾向は唐まで続くが、宋代に入ると江南を中心に地域開発が進み、商品作物が各地に生まれた。市の制限は撤廃され、自由な営業が営まれ、政治都市から商業都市への変貌をしだいにとげていった。

 はじめの部分「南北朝時代には江南の水稲栽培の発達と華北の乾燥農業の完成による生産の増大を背景に都市と商業の発展がみられたが」という農業的背景は不要です。都市が発展する背景は問うていません。問うてないことは書かない。テーマに集中するのが原則です。書くことがなくてマス目を埋めるのに困ったということなら仕方がないですが。

 「都市内部は統制下にあり、商業活動は地域的・時間的に制約されていた。」これは正しい。かんたんには「市制がしかれていた」でいいのです。市制とは、営業の時間と場所のことです。これは論述向きにどうしてもおぼえてほしい用語のひとつです。

 「この傾向は唐まで続くが、宋代に入ると江南を中心に地域開発が進み、商品作物が各地に生まれた。」この農業のことも要らない。

 「市の制限は撤廃され、自由な営業が営まれ、政治都市から商業都市への変貌をしだいにとげていった。」は正しい。下の解答例は、かんたんにすれば、市制がなくなり政治都市から商業都市へ、ということです。内容がうすい。じゃ他になにを書く?

[構想メモ]

(1)  A       B
政治都市       経済都市
坊制市制(時場の制限)坊制市制の消滅
銅貨幣        銅貨幣と紙幣の流通
西域貿易       海上貿易
中小都市       巨大都市の出現
行は同業商店街    行作の結成

(わたしの解答例)
【1】(a)背景は、中世末におきたシスマや、コンスタンツ公会議の公会議主義、教会の腐敗への批判が高まっていたこと。16世紀初めルター派やカルヴァン派の普及によってカトリック教会から離れていく地域が増えていったこと。そこでパリ大学の留学生ロヨラがザビエルたちと神と教皇の戦士として結成し教皇の認可を受けた。
(b)中国には世界地図、時計、天文学、プランテーションなどが伝えられて中国人の世界観を拡大し、中国の陶磁器・漆器・絹織物などの手工業品が西欧に伝わった。その影響でマイセン磁器、ゴブラン織、ロココ庭園がつくられた。孔子の神仏を排除した儒教的政治を啓蒙思想家は理想化し、中国の重農政策は重農主義者を力づけた。

【2】17世紀後半クロムウェルは反革命の地としてアイルランドを征服、土地を没収した。フランス革命の最中、反乱予防策として1801年ピットはアイルランドを正式に併合した。19世紀後半グラッドストーンはアイルランドの小作人の小作権を安定させる目的でアイルランド土地法を発布した。また二度にわたって自治法を議会に提出したが、保守党議員の反対で失敗に終わった。1914年アイルランド自治法がアスキス内閣の下でようやく成立したが、世界大戦開始を理由に実施が延期された。そのため16年イースター蜂起がおこった。ロイド=ジョージは蜂起による逮捕者を釈放し、22年イギリス連邦内の自治領として、アイルランド自由国の成立を承認した。

【3】(1) Aの時期の都市の性格は政治都市であり、お上による坊制市制、すなわち行政区と営業の時間と場所の制限が課されたのにたいし、Bは経済都市に変化し、市制は崩壊した。AとちがいBは100万人をこえる巨大都市に発展、従来の中小の都市に代わった。従来の銅銭にくわえて紙幣が大量発行され、Aの西域貿易より、海上貿易のほうが栄えた。従来の同業商店街としての行はBにおいては各地に分散する同業者の組合としての行作となる。

(2)地方に鎮市草市が生まれ、大都市と小都市、都市と農村の中継地となった。

(3)コンスタンチノープルにはユダヤ人を主としてアジアと欧州をつなぎ香料・毛織物・絹をあつかった。