世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史1986

【1】ヨーロッパとロシアは、中世から近代にいたる間に周辺部の諸民族・諸国家から何回かにわたって大きな影響をうけている。スカンディナヴィア半島の諸民族・諸国家がヨーロッパとロシアに及ぼした政治的、社会的影響について9世紀から11世紀および17世紀から18世紀初頭の二つの時期に分けで記述せよ。前者については新しい社会関係を生むきっかけとなった事情、後者については政治的、社会的秩序の変化に着目して答えること(400字以内)。
 
【2】近代ヨーロッパにおける科学・技術の発達についてつぎの問いに答えよ(合計400字以内)。
(1)17世紀のヨーロッパで近代科学の方法に哲学的基礎づけを与えた哲学者2人をあげ、その思想の特徴をのべよ。
(2)19世紀ヨーロッパにおいて大きな業績を残した自然科学者3人をあげ、その業績の意義と、それがどういう技術の発達に貢献したかを、簡単に説明せよ。
 
【3】下の文章を読んで、問い(1)、(2)に答えよ(合計400字以内)。
 西アジアの一部の国では、社会生活のある種の西欧化を志向する近代化の初期の試みが、おそくとも19世紀前半以来見られたが、かかる試みは20世紀に入るとさらに大きく進展し、この地域の他の国にも広まっていった。しかしながら、イスラム社会の基層部には、かかる西欧化的近代化に反対し、原初の純粋なイスラムヘの回帰を主張する「イスラム原理主義」の強い流れもあって、これは時に組織的な政治勢力として台頭し、この種の近代化の動きを挫折させてしまうこともある。
(1)第一次世界大戦後の西アジアにおいて、西欧化的近代化の点で最も代表的と思われる一国を挙げ、その国の両次大戦間の近代化諸政策をのべよ。
(2)第二次世界大戦後の西アジアにおいて、rイスラム原理主義」を中心とする革命運動が西欧化的近代化を挫折させてしまった一例を挙げ、その経緯を記せ。
………………………………………
コメント
【1】(構想メモ)

9〜11世紀→社会関係:西に封建制成立を促進            

  露に少数民族支配/国家の初め 

17〜18世紀初→西に三十年戦争介入→領邦国家の確立と荒廃、二元(普墺)主義へ

  露に農奴制と近代化を促進

(封建制度は政治制度であって「社会」ではないのではないか、と考えるむきもあるでしょう。岩波の国語辞典では「主君から給与された土地がもとになってピラミッド型の主従関係が結ばれてできた社会上の制度。一般に中世の社会に現れた」と。三省堂の『新明解国語辞典』では、こうした政治的説明のほかに、「上下の従属関係を重んじて、個人の自由や権利を認めない様子」と、いくらか閉鎖的な人間関係を説明しています。これらは歴史の説明としては一番広い見方です。政治でも社会でもいい、ということです。

 世界史の観点からは、封建制は主従関係という人間のなかでは権力のトップにいるひとたち同志、領主と領主の関係です。土地もち同志の防衛同盟です。マルクス主義では、領主の下にいる農奴と領主の関係をいいます(古典荘園)。ひとりの人間がおおくの農民をしばっている、という状態です。領主からすれば守ってやっている、かわりに農民ははたらく、ともいえる関係です。この関係は経済的には、使用しているのは領主であり、使用されているのは農民です。ひとつの経済の単位でもあるわけです。小学館の事典では「大別して少なくとも三つの用語法を区別しなくてはならない。第一に、レーン(封土)の授受を伴う主従関係をさす場合(狭義の封建制、ないし法制史的封建制概念)。第二に、荘園(しょうえん)制ないし領主制(農奴制)をさす場合(社会経済史的ないし社会構成史的封建制概念)。第三に、前二者をその構成要素とする社会全体をさす場合(社会類型としての封建制概念)」と。

 ノルマン人侵入が政治的には封建制度成立を促し、経済的には「商業ルネサンス」を準備した、という二つの影響をおぼえてください。封建制度とむすびついている古典荘園(領主・農奴関係)にも言及するといいです。)

 

(わたしの解答例)
【1】9〜11世紀のノルマン人の欧州全域への侵入は、西欧の諸侯たちに防衛のための封建制度をつくらせた。それと共に領主と農奴の関係たる古典荘園が形成された。ビザンツ帝国はノルマン人追放のためヴェネツィア艦隊に救助を求めたことから、ヴェネツィアが地中海を経済的に支配する遠因となった。またかれらの定着と商業活動は全欧的な商業の復活「商業ルネサンス」の準備となった。ロシアは少数ルス人のスラヴ人支配が実現し、中東への商業路となった。17世紀の三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国の都市・農村を荒廃させ、皇帝権は有名無実と化し、帝国内の領邦君主たちが主権を獲得した。またスイス・オランダの独立、カルヴァン派が認められた。しかしハンザ同盟の繁栄も失われた。スウェーデン王国がバルト海の覇権をにぎっていたが、海域諸国との北方戦争の結果、勝利したロシアが海域に進出し、西欧の技術導入による富国強兵をはかり、農奴制を強化した。

【2】(1)「われ思う、ゆえにわれあり」とデカルトはすべてのものの存在を疑いつつも、疑っている主体の自分の存在だけは疑うことができないとして、自已から出発して演繹法によって世界の存在を証明した。これは合理主義の基礎となり啓蒙思想へと発展した。フランシス=べーコンは、多くの事実を集めそのなかから法則を発見する帰納法をとなえた。かれは学問の進歩の障害は偶像であるとみなし、その排除を説き、英国経験論の基礎となった。(2)マイヤーやヘルムホルツがエネルギー転換装置の典型であった蒸気機関の研究から、「エネルギー保存の法則」を発見し、熱力学を発展させ蒸気機関の効率化に貢献した。リービヒによる有機化合物の分析法は、化学産業を発展させる基礎となった。とくに化学肥料の生産に結びついた。ファラデーの電気分解・電磁誘導・ファラデー効果などの法則は、電気を動力として使えるようにする電気産業に応用されるようになった。

【3】(1)トルコ。第一次世界大戦に敗戦し、大幅に領土を失った。そこをついたアンカラ政府は、1922年にスルタン制の廃止を決定し、共和政を宣言してケマルを初代の大統領に選出した。かれは、政治と宗教の分離とトルコ民族主義を基本理念とし、教育制度の整備、アラビア文字をローマ字にかえ、ヴェール着用を廃止し、参政権を与えて婦人の地位の向上を図ったが土地改革はなかった。(2)イランは、国王パフレヴィー2世は反対派をきびしく弾圧する一方、上からの近代化である「白色革命」を実行した。急速な工業化とイラン独自の社会に合わない政策であったために農村に打撃をあたえ、貧富の差はかえって増大した。国王の独裁に反対する運動が全国に広がり、1979年、国王は亡命し、パリから帰国したシーア派指導者ホメイニを軍部も支持した。このイラン=イスラム共和国の原理主義は政教一致をかかげ厳しい法を施行した。