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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2003

【1】 
 15世紀イタリア社会の動向は、オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

【2】
 次の文章は、明治四年(1871年)に日本をたち、世界各国の視察・調査をおこなった使節団がアメリカ合衆国の首都ワシントンで見聞したことを記したものである。これを読んで、下の設問に答えなさい。

売奴ノ存廃ハ、南部ノ棉花耕作ニ関係シ、棉花ノ利益ハ、米英両大国、数千万ノ生活ニ緊切スレハ、西洋人ノ利ニ熱中スル、永ク失フナカラント、売奴ノ束縛ヲ堅鎖シ、黒奴ハ元来奴隷ノ役ニ供スル、一種ノ賎人ナレハ、従来ノ交際ニテ十分ナリト謂ニ至レリ、是ヲ以テ廃奴ノ論党ハ、益其志ヲ粋励シ、終ニ一千八百六十年、大統領選挙ノトキニ至リ、其推服スル所ノ林根氏ヲ挙ルヲ得タリ、…(中略)…然トモ南部終ニ敗レ、六十五年ニ協議シテ、憲法ヲ増加スルニ至リ、黒奴始メテ人間ニ出タレトモ、交際モナク、丁字モナキ愚民ナレハ、…(中略)…但中ニハ早ク自主セル黒人モアリ、現ニ下院ニ撰挙サレタル人傑モアリ、……
        (久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』より)

問1 上記の文章にある廃奴ノ論党の正式名称は何かをまず明示したうえで、その政党が目指した政治は、それまでの他の政党と比べてどのような特徴を持っていたのか、述べなさい。(100字以内)

問2 こうした奴隷制度や奴隷貿易の廃止は、19世紀前半にイギリス、フランスをはじめとして世界的な規模で進行した。近代世界の成立とともに本格化した奴隷貿易は、18世紀にはいると激増し、ヨーロッパの植民地経営には欠かせないものとなったが、なぜこの時期にそのような奴隷に依存した体制が崩れていったのか。奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と、国際的な要因を、カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい。その際、次の語句を用い、使用した語句には下線を引いて明示すること。(300字以内)

 砂糖 トゥサン=ルーヴェルチュール クリオーリョ インディオ
   
(この問題は『世界史論述練習帳new』にもコメントを掲載)

【3】問題A,Bに答えなさい。
A つぎの文中に述べられている19世紀後半に試みられた「二世代の改革」とは、具体的に何を指しているのか。[  ]内の空欄に入るべき適当な言葉(5字以内)を考え、この二つの改革の相違点を説明しなさい。(200字以内)

 19世紀の中頃から20世紀の初めまでの二世代ほどの間に、中国の三千年来の古文化に西洋は止むことのない進撃を加えて、次々に拠点を占領して行った。技術の領域が征服されると、経済や、自然科学や、芸術や、ついには宇宙(天下)に関する古い観念についてまで、次々に譲歩せざるをえなかった。退却につぐ退却を重ねている間に、いつの間にか防御線を守りぬく希望さえ完全に放棄された。その過程でこの二世代の改革の努力は容赦なく粉砕された。…(中略)…彼らの悲劇は、中国の進歩派の努力が、たちまちのうちに時代おくれになっていくその変化の速さの中にあった。1890年代に[  ]を主張することは1910年に共和主義者となること、あるいは1930年に共産主義者であることを告白するより、大きな勇気を必要としたのである。(バラーシュ『中国文明と官僚制』、村松祐次訳に基づいて一部文章を改めた)

B 現代の中東では、多くの戦争と紛争が起きている。その起源は、何百年もの宗教・民族・文明の対立などではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての時代状況にあった。そこで、この時代状況とはどのようなものであったのかを、当時の中東で生じた事件を一つ取り上げる中で、説明しなさい。(200字以内)
 (この問題は『世界史論述練習帳new』にもコメントを掲載)


コメント
1】 問題文に「ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えた」というのは事実であるとしても、これを書いた教科書はありません。つぎの「この時期多数のギリシヤ人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えた」は教科書にも書いてあります。とすると最後の文章「この東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい」という要求の後半しか答えられない。それがほとんどの学生の反応であったでしょう。また「象牙の塔」的傾向がでてきました。この大学の悪い癖です。学生が書けるかどうかは一切考慮しない。学生が書けないのは無知だと思うらしい。無知なのは出題者なのですが。
 オスマン帝国がバルカン半島に侵入して制圧していく過程はこの問題は要求していません。それを長々と書いた予備校の解答例がありますが、無駄なことです。オスマン帝国の圧力をきっかけとして、「東西キリスト教世界の交流」を書くことが課題であり、「領土縮小を余儀なくされた」受身の側を書けばいいのです。実際に書けるのはオスマン帝国の進出過程ですが、それは課題ではないから、どんなに書きつづっても得点になりません。
 「東西キリスト教世界の交流」の中に、東西教会の合同の働きかけを書いているものが見られますが、これはしかし、学生の書けることがらではありません。予備校の解答もたいていはカンニング答案でしょう。この合同は失敗したのに、成功したかのように書いている参考書さえあります。また、ギリシア正教会の中心はコンスタンティノープルからモスクワに移り、この地が第三のローマと呼ばれるようになった、などとイタリア社会とは無関係なことがらを書いているものもあります。なんでもかんでも書けばいいというものではありません。もちろん、一番の責任は出題者にあるのであって、予備校の解答をうんぬんしてもらちがあきません。
 なにより受験生にとっては、入試問題に対して抗議する道が開かれていません。問題に抗議しないでおとなしく解答をなんとか探さなくては一年間の勉強が無駄になります。一見して奇問とわかるはずですから、他の学生もどうせ書けない、じゃ書けるだけ半分でも書こう、と決断するほかありません。字数は400字となっていても200字でも書けたら充分な解答です。この問題の場合は100字でもいいでしょう
 余談ですが、ある大学の今年の一橋と同じ類の問題にたいして、ある参考書で批判的な解説をしたことがあり、その大学の出題者が高校教師だと名を偽って予備校に、解説の訂正を要求してきたことがあります。その問題は独特の歴史観をおしつける内容のものでしたから、それなりに出題者もじぶんの歴史観に悦に入っていて、それを受験生に課すという愚挙をやったのですが、じぶんの考えがいかに歴史的に無理なことかに気づかず、訂正要求をしてきたものです。その訂正要求の内容から、すぐ出題者とぴんときて、偽りの高校教師に対して、いかに問題がまちがっているか、史実に合わないかを説明してやったことがあります。予備校にもその人物をこのひとでしょう、と確かめると、やはり出題者でした。このひとは博士号をもっているひとで、これからの日本の世界史を導くひとりでしょうが、「象牙の塔」の一員にはかわりありません。学生は愚かな出題者と向き合わねばならない。わからないものはわからないとして、その部分は白紙にしておくのが一番のしっぺ返しでしょう。
 さて書けるのはルネサンスへの影響だけです。「社会」などと一橋のくせみたいな用語をつかっていますが、社会などというほど全体的な影響が書けるはずもありません。
 この語句に押し切られて「オスマントルコの進出はイタリア各都市共和国の分立傾向を助長した。ヴェネツィアは……ジェノヴァは……」と貿易をめぐる都市間抗争を解答しているものもありますが、これはもっと前の十字軍の時代(11世紀)からはじまっていることであり、まして「15世紀……ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行っ」た結果ではありません。塩野七海の『コンスタンティノープル陥落』というつまらない本を我慢して読んでも、イタリアの都市間でかけひきはあるものの、それが都市や、それ以前の社会を変えるほどのなにかを見つけることはできません。「オスマントルコ進出は」という解答文が問題を正確に読んでいないことを示唆しています。けっして「オスマントルコ進出の影響を書けと要求していないのです。「オスマントルコの進出に伴うこの東西……」とオスマントルコの進出がきっかけであることに気がついていません。
 またオスマン帝国の進出と、それに押されてスペイン・ポルトガルが「発見」にでかけるという大きな流れはあるものの、これはイタリア史ではありません。イタリアの航海士たちが「発見」に協力しているのですが、しかしそれは「イタリア社会に与えた影響」とはいえない。
 それまでレヴァント(東地中海)貿易で繁栄してきたイタリアの都市が衰えた、といえるものの、じゃこれは15世紀の「ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴……東西キリスト教世界の交流」の影響ですか、と問い返せば無理なことがわかります。オスマントルコ進出の影響ではなく、「東西キリスト教世界の交流……影響」を問うているのです。たぶん出題者がいかに狭いことを問うているか気づいていないのです。
 まともな解答になるのは、実は教科書『詳説世界史』(山川)の「ヒューマニスト(人文主義者)」の注に「ギリシア・ローマの古典研究の発展には、オスマン帝国の脅威を前にビザンツ帝国の学者たちがイタリアに移り、ギリシア語の知識を広めたことが大きな刺激となった」とある短い記述です。2003年度版の新しい教科書でも同じ内容が注としてのっています。
 これをいくらか解説的に説明するとこうなります。コンスタンツ公会議(1414)は教科書にもでてくる重要な公会議ですが、その後にフィレンツェでコシモ=デ=メディチの要請もあり1439年に公会議がこの町で開かれます。コンスタンツ公会議で決まった公会議主義(教皇より公会議の決定を上とする)の中にこのフィレンツェの公会議もありました。この公会議のテーマは公会議主義と東西両教会の合同の是非を問うことでした。後者のテーマについては問題文にあるように皇帝みずからやってきたのですが、合同のことは決着がつきません。しかし皇帝のお供としてついてきた学者スコラリウス、ベッサリオン、ゲミストゥスらも合同問題について、古典を引用しながら討議にくわわりました。するとこの討議につかわれた古典なり論理なりは西欧の知識人には未知のものであり、合同は失敗したものの、その知識に聴衆者たちが感動してしまうのです。この西欧側の反応に気がついたビザンツの学者は、プラトンとアリストテレスのちがいについて説明する入門書を出版します。その内容についてビザンツの別の学者が批判をする、それにまた反論する、という風に議論が沸騰し、古代の哲学者たちのちがいをめぐる論争が流行します。ここでゲミストゥスがコシモにプラトン・アカデミー(アカデミア・プラトニカ)をつくってはどうかと提案します。賛同したコシモはさっそくつくります。コシモ自身がプラトンに傾倒していました。フィレンツェ郊外のコシモの別荘は、プラトンの学園アカデミアもアテネの郊外にあり、それにならい、そこまでいく途中の散策路はみどりの濃い庭園と古代の彫刻を配置する、というつくりになっていました。古典資料をあつめて図書館をつくり、翻訳をすすめます。孫のロレンツォ=デ=メディチもこれをうけつぎ「ルネサンスの保護者」となります。アカデミーといっても学校ではなく、サロンです。教養人たちが集まって食事をし、その後でプラトンの著書を読んだり、それについて出席者が意見をのべ、ときにテーマを設けて議論したり、詩作したり、紀要を発行したり、懸賞金つきの論文を募集したり、といったものです。これが古典研究からはじまるルネサンスの学問的な刺激となりました。1453年にコンスタンティノープルが陥落したら、またまた古典学者がイタリアに亡命してきてギリシア語学習熱をかきたてることになります。

2
問1 これは易問です。共和党について民主党とのちがい「他の政党と比べてどのような特徴(このこの特徴はちがいの意味)」を表すように説明すればいいでしょう。 それは南北対立の争点です。完全に民主党と共和党が対立したわけではないものの、あえて対立点をハッキリさせれば、次のようになります。
 政党:北部は共和党、南部は民主党
 国家体制:北部は中央集権(連邦主義、連邦政府の権限強化)、南部は州権主義(地方分権)
 支持基盤:北部は商工業者、南部はプランター(資本を土地投機と奴隷売買に向け工業に向けず)
 経済:北部は工業、機械生産、賃金労働、南部はモノカルチュア、綿花栽培、奴隷労働
 奴隷制:北部は反対(西部への自由州拡大を支持)、南部は支持(奴隷州の拡大支持)
 関税政策:北部は高い関税政策、南部は自由貿易
     
問2 予想していた問題のひとつです。一橋の性格からして奴隷貿易かラテン・アメリカの社会・政治構造を出したくなるでしょう。課題は「奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と、国際的な要因を、カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい。」です。奴隷貿易と奴隷制の発展は学んでいても廃止の過程はあまり学ばないのではないかとおもいます。指定語句の「トゥサン=ルーヴェルチュール」が細かい。もしこの語句がつかえない場合は「トゥサン=ルーヴェルチュールは使えなかった」と書き、その上でトゥサン=ルーヴェルチュールの下に線を引いておく。
 「奴隷貿易の」「盛」と「衰」の「背景にある政治的・経済的な要因」というややこし問い方。これは「奴隷貿易盛衰の政治的・経済的要因」と言い換えた場合とどうちがうのか? あまりちがいはないでしょう。「背景」ということによって遠景にあたるあいまいなことを書いても採点してくれるということなのか。背景と要因はほとんど同じことを問うています。あっさり「奴隷貿易盛衰の政治的・経済的要因」のほうがスッキリしました。
 奴隷貿易については京大の2001年度の問題に「16世紀から19世紀前半にかけてヨーロッパが海外に膨張していく過程で、新しい性格を持つ奴隷制が広がっていった。近代奴隷制と呼ばれるものである。この奴隷制の拡大に関わった国々を明示しつつ、近代奴隷制の特徴と展開過程を300字以内で説明せよ」という類似のものがあります(これは拙著の『練習帳』にものっています)。一橋が奴隷貿易に限っている点は京大の問題とはちがいます。奴隷制は奴隷貿易だけでなく、奴隷労働もはいります。売られた現地でどう酷使されたかも「奴隷制」は含んでいます。京大の問題の困難さは「近代」をどうそれ以前と対比して出せるかですが、一橋の困難さは「政治的……要因」もあり、「カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として」と地域を限定していることでしょう。
 時間は「奴隷貿易の廃止は、19世紀前半に……世界的な規模で進行した」ということと、奴隷貿易の廃止だけを問うているのか、と思いきや「奴隷貿易の衰の背景」と「盛(さか)」んになった時期のことも書かせようということらしい。

 政治的要因は、古くは異教徒は奴隷として売ってもかまわないというカトリックの教義があり、奴隷制と人身売買を法で保証していた、という点があります。憲法に明記しなくとも制度としてできていったのを政府・国家は容認していたという経緯があります。この点はなんらかひとこと言及すれば「盛」の政治的理由にはなります。もっとも、この点を書いた予備校の答案はひとつもありませんでした。みな「衰」=廃止のところで国家とのかかわりを書いているだけです。
 「衰」の政治的要因は、法前平等の啓蒙思想があり、宗教家の非人道的との批判がくわわり、なによりフランス革命をきっかけに黒人が蜂起して黒人の国をつくったハイティ(ハイチ)の独立運動が刺激となり、ラテンアメリカ各地で奴隷たちが蜂起した結果でした。ラテンアメリカの独立運動はほとんど黒人の蜂起を伴っており、ほとんどが奴隷解放をかかげています。
 「サン・ドマング」とフランスがよんだハイティには4万人の白人と2万8000人の混血および自由黒人、45万2000人の黒人奴隷がいたらしい。黒人奴隷の多くはアフリカから連れてこられたものたちです。またその子孫です。奴隷たちはアフリカ伝来のブードー教の僧侶に扇動されて蜂起し反乱がはじまりました。プランテーションを襲い、破壊し、白人の家族を虐殺しました。この中からトゥサン(指定語句のトゥサン=ルーヴェルチュール)のような指導者があらわれました。この勢いに押されて白人プランターたちは白人と同様の投票権を与えることにしました。1801年のトゥサンがつくった憲法で奴隷制を廃止しています。公職における人種差別も禁止しました。この憲法のコピーを見たナポレオン1世は激怒し、2万人のフランス軍をおくったのですが、戦闘より黄熱病で1日で数百人が死ぬという惨事となり1803年に撤退しました。トゥサン自身はナポレオン軍の撤退の前に裏切られて捕まえられ、本国に送られてアルプスの監獄で獄死しました。裏切りは仲間から、というのが世界史でも身近でもみられます。ステンカ=ラージンもフセインの息子たちも。
 黒人によるハイティの反乱はヴェネヅエラにも波及し、1795年奴隷制廃止をもとめる黒人たちは、減税を要求する労働者とともに反乱をおこしました。地主を手当たり次第に殺害しています。その指導者は自由黒人のホセ・レオナルド・チリノとホセ・カリダー・ゴンザレスでフランス革命の思想とハイチの反乱の影響をうけていたのです。
 シモン=ボリバル(代表的なクリオーリョ)もはじめは奴隷制廃止をみとめなかったのですが、これらの勢いから後では認めています。
 メキシコ(ヌエバ・エスパニャ)は本国スペインがナポレオン1世によって王政が倒されたのを契機に、司祭のイダルゴが大衆を扇動し、8万人にふくれていきましたが、このイダルゴの主張の中に奴隷制廃止、原住民への土地の返還がもられていました。しかしイダルゴに協力していたクリオーリョは反乱に恐れをなし、イダルゴに反撃するように変わっていきますが……。
 イダルゴと同じメキシコでより組織的な独立運動をおこなった司祭ホセ・マリア・モレロスも人間の平等、原住民の貢納や奴隷制の廃止、土地改革をかかげていました。
 アルゼンチンのブエノスアイレスではまだ独立宣言をしていないものの、独立運動の指導者は1813年以降生まれた奴隷については奴隷の身分からの解放を唱っていました(1810年)。
 サン=マルチンの援助で独立したチリは、1810年、原住民の貢納の廃止、奴隷貿易の禁止、チリで奴隷の子として生まれた者は奴隷の身分から解放するという政策をはじめます。
 ペルーでもマルチンはリマに入城し護民官となり(1821年)、ただちに奴隷の解放、原住民の貢納やエンコミエンダなどの強制賦役制度の廃止、スペイン人の国外追放と財産の没収をすすめました。
 遅いのはブラジルでした。ブラジルは1850年に奴隷貿易を廃止しましたが、その後奴隷制をめぐる議論がさかんとなり、黒人たちも農園の脱走を試み、1888年議会は奴隷制廃止を決議しています。
 長々と実例をあげたのは、ブラジルを別にすれば、独立運動と奴隷解放のむすびつきがいかに強かったかを示したいからです。

 経済的要因の「盛」の部分は指定語句の「砂糖」で示唆されています。1990年度の第2問に「17世紀から19世紀のヨーロッパにおいて砂糖と茶の消費習慣が広がったこととヨーロッパ諸国の対外関係とはどのように結びついていたか、史実にそくして具体的に述べよ(400字)」と砂糖の問題が過去問にあります。
 砂糖にかんしては、山川の教科書『要説世界史』に三角貿易を説明する中で「南アメリカや西インド諸島へ植民した白人たちは,ヨーロッパへ輸出する商品作物(砂糖・コーヒー・タバコなど)の大農園(プランテーション)を経営し,労働力としてインディオや黒人などを使った。奴隷の供給源となったアフリカ西海岸には,ヨーロッパから武器・雑貨が輸出され,その見返りに黒人が奴隷として新大陸へおくられ,新大陸からは砂糖やインド=アイ〔藍、染料のこと…中谷の注〕・タバコなどがヨーロッパへもたらされた」とあります。
 砂糖栽培のためにだけ奴隷をつかったのでないことは、別の教科書で「カリブ海諸島では砂糖,ブラジルでは砂糖,ついでコーヒーのプランテーションでおもに使われた。」(世界の歴史)と書いています。またジャマイカ島はスペインがもっていたのをイギリスがうばい棉花栽培につかっています。このジャマイカの棉花がイギリスの初期の産業革命の原料を提供しています。インドでも合衆国でもなくジャマイカです。
 経済的要因の「衰」の部分は、奴隷という労働力の能率の悪さ、国際的な砂糖価格の低落、貿易業の中心はラテンアメリカからの綿花の輸入と工場製綿織物の輸出に転換しつつあったこと。

 国際的な要因の「盛」の部分は、ラテンアメリカに領土をもたない国々も奴隷貿易で利益をえたいと進出してきたこと。オランダ、イギリス、フランスなどがカリブ海に進出し、鉱山・砂糖きび・タバコ・棉花などの大農園(プランテーション)経営が確立したこと。西欧の絶対主義国家がきそって重商主義政策とり、各国とも大西洋三角貿易をおこなったこと。イギリスの例ではメスエン条約(1701年)を結んで以降ポルトガル領のブラジル市場に進出してきました。
 国際的な要因の「衰」の部分は、この「盛」とかかわっています。三角貿易(その中心に奴隷貿易があります)でさかえたリバプール市のように膨大な利潤をもたらした結果、資本は蓄積され、銀行をとおして背後にあるマンチェスター市の企業家たちに資金が流れ、棉花という原料も砂糖とともに入ってきて、産業革命をおこしたことです。前述の砂糖に代わる工業製品の輸出はなにもイギリスだけでなく欧米先進国の傾向でした。また政治的な国際的要因として、1800年前後の時期がフランス革命とナポレオン(フランス革命拡大)戦争とともに独立運動・市民革命・啓蒙思想がひろがっていったこともあげることができます。

3
A 要求は二つ、空欄に適語(5字以内)と、「二つの改革の相違点」を答えることです。
 空欄は空欄の前後、この場合は後の文章がヒントです。「1890年代に[  ]を主張することは1910年に共和主義者となること、あるいは1930年に共産主義者であること」と。主張の内容とは変法運動のもっともねらうところは何であったか、ということです。西欧的な表現では立憲君主政(立憲君主制)、中国風には「保皇立憲」です。引用されているバラーシュの『中国文明と官僚制』(みすず書房)には「立憲帝制」という訳語があてられています(p.49)。この本は中国の官僚たち、士大夫・読書人といわれるひとたちが、いかに大きな権限をにぎって中国社会を牛耳っていたのかを見事に描いています。受験生は読む必要はありませんが、中国史の名著としておぼえておいてください。
 「19世紀の中頃」の洋務運動と「1890年代に[  ]を主張する」変法運動の「相違点」はなんとか書けそうです。しかし相違点を明解に出せるかどうかは難しいものです。比較して「相違点」を表すあらわし方を知らないからです。また表す以前に、相違点を明解にする方法を知らないことでしょう。拙著の『世界史論述練習帳new』(パレード)にこれらは書いてありますから構想メモのつくりかたをぜひ学んでください。比較のしかたを学んでいないと、予備校の解答(K、S、T、Y)のように、たんなる流れに陥りやすいですよ。つまり洋務運動→日清戦争で挫折→変法運動という流れです。そこに相違点は表されているのか? 解答を分解したら相違点はわずかしか書いてないことが判明するでしょう。また比較しているテーマがかみあっていないことも明らかになります。

    洋務運動        変法運動
背景  太平天国の乱での苦戦  清仏・日清戦争の敗戦
    常勝軍の活躍 
    (国内農民反乱)   (対外戦争)
方針  中体西用        保皇立憲
    (技術だけの導入)  (憲法・議会などの政治体制の導入)
推進者 漢人官僚(郷紳層)   光緒帝・少壮学者
拠点  地方都市        宮廷
内容  企業(鉄・武器・造船・ 改革案のみ
    鉱山開発)など近代的 (北京大学の創設だけ成果)
    軍需産業の育成
    1862~94年      103日と短期(百日維新) 
結果  官僚は以後も重職    戊戌の政変で推進派の亡命・処刑・幽閉
    日清戦争敗北で挫折(←わたしは賛同しないが)
    工業化(産業革命)の開始
限界  推進者は高官      皇帝・高官に権力なし
    改良主義のとどまる   革命否定
    (体制保全)      (微温的な体制変革) 

 この全部を書けなくてもいいです。このうちの4分の1でも解答になります。
 共通点も書け、と問われたらどうでしょう? あります。西欧が模範であること、教育機関の設立・留学生派遣、政府主導の上からの近代化政策、西洋の哲学・思想・宗教などの学習は第二次的なものとされた、という諸点です。もちろん書く必要はないものの比較すると出てくるものです。
 結果のところで、「日清戦争敗北で挫折(←わたしは賛同しないが)」としているのは、洋務運動は対外戦争に勝つために軍備の近代化をしているのでないことは、李鴻章が言明しているからです。太平天国のようなでっかい反乱が再びおきたときに、常勝軍のように鎮圧できる軍隊をもちたい、ということです。だから日清戦争で敗北したら即挫折とはならないのです。むしろゆっくりではあれ、中国にとってはこの洋務運動をとおして機械工業がはじまったことを評価すべきでしょう。通説には反しますが。

B 時間とテーマは「19世紀末から20世紀初頭」「時代状況……当時の中東で生じた事件を一つ取り上げ」ですが、「宗教・民族・文明の対立などではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての時代状況にあった」とハーバード大学のハンチントン教授が書いた『文明の衝突』(集英社、原題は The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order です)に反論するかたちの設問になっています。
 限定されている地域が「中東で生じた」とあるのにドレフュス事件をあげた予備校の解答があります。没です。また「事件を一つ」といっているのに時代状況を漫然と(失神、前後不覚のように)述べていて、いったいどれが取り上げられた事件なのか分からないのもあります。いやほとんどの答案がそうです。なぜそんな、あいまいな答えを出しているのか。予備校の看板を降したら……とすすめたくなります。
 どんな事件を選択するかが迫られていて、それによって優劣がきまりそうです。事件とは、もっと具体的には問題文の「多くの戦争と紛争」なのですから、それに該当しそうなものをあげたらいいでしょう。
 考えられるのは、アラービ=パシャの反乱(1881~82)、マフディーの反乱(1882~98)、タバコ・ボイコット運動(1891)、イラン立憲革命(1905)、青年トルコ革命(1908)などでしょう。自分だったらどれが書けるかで選んだらいい。「20世紀初頭」は第一次世界大戦前までにするのが常識的な時間設定です。
 また「時代状況」とは西欧の進出であり、それにどう対処するか迫られている状況は(A)の中国史と同じです。
 たとえば、タバコ・ボイコット運動とウラマーの関係を書いた次の文章はすばらしいものです。こんなに長く引用するとクレームが来そうですが、推奨の意味で引用します。いやこれも新課程の教科書改訂で消えていく運命にあるので貴重な記事でした。
 「19世紀後半,財政難に直面したイランのカージャール朝は,外国人に利権を譲渡することによって,これに対処しようとした。1890年,イギリスの会社にタバコ利権をあたえたのもその一例である。その結果,イラン全土におけるタバコの加工・販売・輸出はすべてこのタバコ会社の管理のもとにおかれることになった。
 これに対して,ウラマー(イスラム教の宗教指導者)や商人のあいだで激しい反対運動がおこった。1891年には,イスファハーンのウラマーが,ヨーロッパ人によってあつかわれているタバコは「不浄である」と宣言し,その支持者たちはバーザールで水タバコのきせるをこわしてまわった。運動は首都テヘランをはじめイラン全土に広がり,シーア派最高指導者の禁煙令がだされると,一般民衆も抗議の運動にひろく参加するようになった(タバコ=ボイコット運動)。皮肉なことに,宮廷でも禁煙がまもられていたという。
 運動の高まりに抗しきれなくなったカージャール朝政府は,1892年,やむなくタバコ利権の譲渡を破棄することを宣言し,運動はその目的を達成した。この民衆運動のうねりが,やがて20世紀初頭の立憲革命へとつながっていくことになる。宗教指導者であるウラマーは,みずからの言動が運動の成功に大きな影響をあたえたことに自信をもった。これ以後イランでは,立憲革命や1979年のイラン革命にみられるように,宗教勢力の社会への影響力が強まっていく」(山川『世界の歴史』)。全部で半角文字も入れると602字もあります。3分の1に縮めなくてはなりません。やってみてください。一橋のこの問題ではさいごの段落の「この民衆運動のうねり……」以降は要りません。要約も論述の良い練習になります