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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2004

過去問 -一橋大学

【1】 
 宗教改革は、ルターにより神学上の議論として始められたが、その影響は広範囲に及び、近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し、その政治的帰結について述べなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)
  アウグスブルクの和議 首長法
 
(この問題は『世界史論述練習帳 new』(パレード)「東・京・一・筑」にもコメントを掲載)

【2】
 
次の文章は、1725年1月に亡くなったロシアの皇帝ピョートル1世の業績を称えた詩である。これを読んで、下の設問に答えなさい。

 彼は亡くなった。だが彼は我々を貧しく不幸なまま残さなかった。彼のもたらした巨大な力と栄誉は我々とともにある。彼が我がロシアを形づくったように、ロシアは存続するだろう。彼が良き人びとにロシアを愛すべきものにしたように、ロシアは愛されるであろう。彼が敵にロシアを恐れるものにしたように、ロシアは恐れられるだろう。彼は世界中にロシアの名を高からしめ、そしてロシアの栄光は終わることはないだろう。彼は我々に精神の、民政の、そして軍事の改革を残した。たとえ彼の亡骸が我々に残されたとしても、彼の精神は生きつづける。

 1 ピョートルの改革は「西欧化」と特徴づけられるが、当時のヨーロッパの政治と経済の基本的動向について述べなさい。(100字以内)
 2 文中下線部にある「精神の、民政の、そして軍事の改革」とはどういう改革を指すのか。できるだけ具体的に述べなさい。(300字以内)

【3】
 
問題A、Bに答えなさい。

A 広大なイスラーム世界は、10世紀におけるアッバース朝の衰退以降、イスラーム諸王朝が分立する時代に入る。しかし、ヨーロッパ史で大航海時代といわれる16世紀には、三つの強大な王朝が鼎立する時代を迎えた。この三つの王朝の崩壊過程から、イスラーム世界の近代は生まれる。その一つは、イスタンブルを首都とするオスマン朝であるが、あとの二つの王朝は何か。その名前を述べ、それぞれの王朝の成立経緯(いつ、誰によって建設され、どの地域を、どのような理念で統治したのか、など)を簡潔に述べなさい。(200字以内)
  (この問題は『世界史論述練習帳』資料編にもコメントを掲載)

B 次の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
 中国はプロレタリア文化大革命の終結後、1978年末からは「改革と開放」政策へと路線の大転換をうちだした。国内では、プロレタリア文化大革命時代には批判されて発言を封じられた知識人たちも多くが復権し.学校教育の混乱も修復され、1980年代をとおして、民主化への動きが作られた。ゴルバチョフが訪中して中ソ関係正常化がはかられることになった年には、民主化要求が高まったが、天安門事件へと展開し、政府の武力鎮圧による流血の惨事に終わった。その年の民主化要求運動においては、北京の学生が中心となって広がっていったこともあり、同様にして広まった70年前の[  ]が強く意識されることになった。1980年代の思想界で影響力をもった知識人のひとり、李沢厚は、1986年に当時の中国の課題を思索するなかで、歴史をふりかえり、[  ]をめぐって以下のような認識を示していた。

 啓蒙的な新文化運動は、始まると間もなく救国の反帝政治運動に遭遇し、両者はすぐに一つの流れに合流していったのであった。(中略)
 [  ]時期の啓蒙と救国が矛盾することなく進み互いに促進しあった局面は、長くは続かなかった。救国という歴史的局面と苛烈な現実闘争のなかで、啓蒙という思想的主題は、またもや、救国の政治的主題に圧倒されてしまったのである。
    (砂山幸雄訳、李沢厚「啓蒙と救国の二重変奏」、1989年、より)

 このような「啓蒙と救国」の関係づけは、当初から議論をまきおこし、上述の民主化要求運動では[  ]期に唱えられたスローガン「民主と科学」が叫ばれることにもなったが、天安門事件がおこると、李沢厚らは政府によってふたたび発言を制限された。

1 空欄[  ]の中に適切な語句を入れて、文を完成させなさい。空欄には、すべて同じ語句が入ります。答は解答欄の1行分を使用しなさい。
2 李沢厚の文章において「啓蒙と救国」として言及されている内容について、それぞれの運動の時期と様態、中心人物・刊行物などにもふれ、具体的に述べなさい。(175宇以内)


コメント  
1】 比較の問題です。比較は相違点と類似点の双方を含んでいるものですが、ここではどちらかは問題文に書いてありません。どちらもあり、ということになりますが、一般的には「比較」させる理由は相違点を表わさせるためです。2003年の問題(【3】A)のように「この二つの改革の相違点を説明しなさい」と「相違点」とはっきり要求を出してくる場合があり、1999年度【2】の「ドイツ民法典への社会的要請について、フランス民法典と比較しつつ」のように、どちらとも書いてないものの、明らかに相違点を求めている問題もあります。この問題も「ドイツとイギリス」と出してきている以上、相違点を求めているだろうととり、またそれを書いて共通(類似)点を一切書かなくてもじゅうぶんな解答になります。どうにしろ宗教改革という同じ土俵の上にたっての比較ですから、土台としての共通点は問題の前提でもあります。類似点があるからこそ、「比較」したいという学問的要請もでてきます。奈良と京都という古都という点で共通する点があるからこそ、どうちがうのか、という興味もでてきます。奈良と東京では比較の興味がうすれます。ちがいがハッキリしすぎるからです。
 同じ西ヨーロッパのキリスト教という共通の宗教をもちながら、帰結がちがうことになってしまった二つの国の宗教改革を比べて相違点をあらわす、という課題です。「ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し」という「経緯」という流れを「比較し」、その上で「その政治的帰結について述べよ」という要求です。政治と宗教という一橋大学のいつものテーマです。東大の2004年度の第2問も同じテーマでしたからごらんください。一橋大学が出しそうな問題ですが、まだ出したことがないので解いてみるといいです。
 「宗教改革の経緯」とは時間的にいつまでを指しているのでしょうか。17世紀も含むのか含まないのか、それは明示してありませんが、16世紀まででいいでしょう。理由は17世紀まで書いても16世紀で確立したことの深化・拡大にすぎないからです。三十年戦争やピューリタン革命にまで言及した解答が予備校のものにありますが、それがどういう相違した帰結かは示していません。
 ここで強調しなくてはならないのは「比較し」とある以上、比較しなくてはならない、もっといえば、比較したことを文章で表さなくてはならない、ということです。というのは、独英の経緯=流れをそれぞれバラバラに書けばおのずと比較したことになると勘違いしているものが多いからです。いや、すべてといってもいいくらいに予備校の解答のどれも経緯を書いているだけです(K、S、T、Y)。相違点を文章で表したものが少なく、あってもわずかの部分しかないからです。相違点は採点官が探してくれという、おまかせ的な解答です。見習ってはいけない解答ばかりが並んでいます。受験生が寄せてくれた解答(ここでは掲載できませんが)の方が数段も上という、さみしい状況です。受験産業の解答を「模範」と学生が勘違いして暗記するひとがいますが、やめなはれ。
 「経緯」だけであれば実にかんたんな問題でした。ああなって、こうなってと流れを書けばいいわけですから。しかし「比較し」が入ると一気に難化します。いや比較の方法を学んでおけば、いともかんたんなことですが、それを習得していなければ困難です。拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)に比較の訓練の場が提供してあります。予備校講師がなにより習得していない方法です。
 すぐ、ちがいが見つけられない場合は、まず問題のとおり経緯をメモしてみるといいのです。主なものでいいのです。下ではメモ風にはしていません。自分だけ分かるように頭文字だけでもいいのですが、ここではなんのことか分からないと困るでしょうから、文章的なメモにしています。

 <ドイツ
 ルターの「九十五ヶ条の論題」発表
 ルター、破門される
 ヴォルムス帝国議会で皇帝カール5世はルターに所説取消し要求、拒否される
 新約聖書をドイツ語訳
 ドイツ農民戦争 
 
ウィーン包囲
 シュマルカルデン同盟→シュマルカルデン戦争
 アウグスブルクの和議:新旧採用の領邦教会が成立、カルヴァン派を認めず
 <イギリス
 ヘンリ8世、ルター批判の書を著す、教皇から「信仰擁護者」の称号をうける
 ヘンリ8世、キャサリン(母はイザベラ)と離婚
 首長法(国王至上法)発布、イギリス国教会の成立
 修道院解散・没収→売却、ジェントリが購入
 エドワード6世、新教化(カルヴァン派の教義に近い祈祷書を発布)
 メアリ1世、旧教に復帰
 エリザベス1世の統一法、国王至上法の復活、儀式面で旧教の要素をのこす
 
アルマダ海戦

 さあ、上のドイツと下のイギリスを見つめてください。全部のデータが比較の対象になるのではありません。比較になりそうなものを探します。どういう点でちがいますか? 以下のわたしの解説を見ないで、こんどはきみが相違点をメモしてください。
 ------------------------------
 ちがいはいくつ見つかりましたか?
 (1)まずドイツはルターの説が諸侯や農民に広がって内戦(農民戦争、シュマルカルデン戦争)に発展しましたが、イギリスに内戦はありません(厳密には皆無というわけではないのですが、ドイツと比べものになりません)。
 (2)ドイツは君主(カール5世)が主導できず、イギリスは国王(ヘンリ8世)が主導しています。 
 (3)ドイツは領邦ごとに別々の信仰をもつことになったため領邦教会となり、イギリスは国家としてひとつのまとまった信仰にしたため国教会が成立しました。これにはこの16世紀以前のドイツでは300を越す領邦が存在していたこと、イギリスは百年戦争の敗戦によりフランスの領土を失い、かえって国としてのまとまりができていた、という背景があります。これは背景ですし宗教改革以前のことですから言及しなくてもいいのですが、政治的帰結としてこのことが宗教改革で再確認され、分裂と統一が固定化したのです。
 (4)はじめはドイツは教義上の対立からはじまったのが、イギリスには対立はなかった。
 (5)従来から信仰されたカトリックはドイツ南部に残り地域的な共存、というかたちをとったのに対して、イギリスでは教義内容は新教(主にカルヴァン派)にしたが、儀式的な面だけはカトリックの慣習を残した、地域的にはカトリックはわずかしか残らなかった、という帰結のちがいもあります。どこかの予備校には「ともにカトリック教会を排除」とまちがった解答を出しているところもありました。妥協のあり方がちがうのであって排除はしていません。和議により領主が新旧を選ぶという決定をしているので「旧」=カトリックの排除なんてしていません。教壇から降りて学生にもどったほうがいいようです。
 (6)ドイツには修道院解散(没収)はないが、イギリスにはあります。修道院というものは教皇が管轄する土地でもあり、国内に教皇の権限がおよぶ地域があるということをヘンリ8世は嫌い、それを没収することで教皇離れ(これぞ宗教改革)、換言すれば国土統一をなしたくらいに徹底した宗教改革であったといえます。離婚問題からおきた、儀式面で旧教の要素をのこしたので、いいかげんな改革だったととりやすいですが、これほど制度的に教皇から離れた改革国はなかったのです
 (7)なかなか思いつかないですが、外圧の有無も両者のちがいをきわだたせたといえます。ドイツの場合はオスマン帝国が近づいている中での改革=対立・分裂でした。ルターの『ローマ書講義』(教文館)を読むと、たびたびトルコ人が悪魔と同様な意味合いで講義のなかにでてきます。また皇帝カール5世もオスマン帝国の接近にたいして初めは妥協してルター派の信仰を許可し(シュパイエル国会、1526年)、脅威が去ったら撤回する(第二回シュパイエル国会、1529年)という一貫性のない態度が、けっきょく旧新の共存というかたちでおちつきました。一方のイギリスにはめだった外圧はなくイギリス一国内の対立でほぼ済みました。それが国教会という国王をトップにした統一性のある教会を成立させています。アルマダ海戦(1588年)はありますが、すでに国教会が固まってからでした。メアリー1世とフェリペ2世の政略結婚と国教徒迫害がありましたから、スペインと緊張関係にあった、とはいえるでしょう
 これで7つになりましたが、この全部を解答にあげることはできません。経緯を書いてから指摘するのですから、マス目に余裕がありません。上にあげたうち一つか二つを書くだけで、どんな予備校の解答よりも上にいき、かつ他の受験生と差がつけられます。
 
2
問1 「当時のヨーロッパの政治と経済の基本的動向」という漠然とした問題です。意外とむつかしいでしょう。この「ヨーロッパ」を西ヨーロッパと勘違いした答案ばかりが予備校の解答としてあります。ヨーロッパ=西ヨーロッパではありません。ましてこのロシアから見て西方は東欧という広い世界がすぐそばに横たわっています。拙著『練習帳』p.92で「ヨーロッパとあれば東欧も入れる」と注意しています。
 時間的には問題文の最初に「1725年1月に亡くなった」とあり、かれがいつ即位したかは知らなくてもネルチンスク条約の1689年は知っているでしょう。この年はかれの親政開始の年でもあります。共同統治者の狂った兄貴が亡くなったのです。かんたんには1700年前後のひとということになります。同時代の君主は浮かびますか? 教科書に出てくる人物では、ルイ14世(1643~1715)、イギリスならジェームズ2世(1685~88)、ウィリアム3世(1689~1702)、アン(1702~14)、ジョージ1世(1714~27)、プロイセン王国ならフリードリヒ1世(1701~13)、ちびの軍隊王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(1713~40)などです。
 東欧北部ではなにより分割前の大国ヤゲロ朝リトアニア・ポーランド王国があり、東欧の南部バルカン半島ではオスマン帝国の支配下にあり、第2次ウィーン包囲失敗(1683)、カルロヴィッツ条約(1699)、テューリップ時代(1703~30)ができごとです。全体的には三十年戦争が終わってから、18世紀のオーストリア継承戦争までのあいだの時期といえます。
 「基本的動向」ですから、君主の名前は一切あげる必要はないですが、時代の様相が想像できそうです。強力な君主政があり、さらにそれを強化すべく軍事力・官僚制の整備につとめていた時期といえます。中欧(西欧と東欧にまたがる地域)では神聖ローマ帝国が有名無実化した三十年戦争後の領邦絶対主義(『世界歴史講座』第15巻(岩波書店)の「ドイツ領邦国家」の中に「三十年戦争と領邦絶対主義の形成」という題の中村賢二郎の論文に出てくる用語)が形成期にありました。ポーランドやハンガリー王国では王権がよわく貴族の勢力がつよい、南欧ではオスマン帝国が後退しはじめます。
 経済的には、なにより農奴制がイギリス以外の農民のあり方であり、農業中心の社会でしたが、絶対王政はマニュファクチュアの建設につとめています。農奴制を強化しつつ西欧むけ商品(穀物・材木)を生産するグーツヘルシャフトはドイツ人の地域だけでなく、東欧一帯にひろがっていた制度でした。ブルジョワは少ない。東欧の西欧にたいする後背地化はよりすすんでいます。西欧は重商主義政策と植民地との貿易で活況をていしていたからです。

 

問2 ピョートル1世の「「精神の、民政の、そして軍事の改革」とはどういう改革を指すのか。できるだけ具体的に」という課題は細かい設問でした。
 教科書で精神=宗教、民政=政治、軍事の三つをちゃんとあげたものは少ないです。この際、あげられるものは何でもあげてみる、というのが良いでしょう。新課程の『詳説世界史』は「みずから西欧諸国を視察し,これを模範に改革をすすめた」とそっけないものです。注に「バルト海沿岸にあらたに建設されたペテルブルクが,1712年から首都とされた」とあるくらいが具体的な民政にあたります。旧課程ではどの教科書も大同小異ですが、同じ山川出版社でも消えてしまう教科書『世界の歴史』には〔人物 ピョートル大帝〕と題したコラムがあり、そこには次のような記事がありました。

 18世紀前半,ロシアの近代化と領土拡張に不滅の業績を残したピョートル1世は,わずか10歳で即位し,最初の12年は異母姉ソフィアの摂政のもとにおかれた。はやくもこのころから西欧への強い関心を示し,モスクワ郊外の外人居留地に出向いて軍人や技術者から砲術や造船に関する知識を吸収していたという。1697年,数百人の使節団を西欧に派遣するが,皇帝みずから匿名で一行に加わり,1年半にわたり先進諸国の文物を見学した。なかでも,オランダ東インド会社の造船所で,一労働者として修業した話は有名である。北方戦争でスウェーデンからバルト海域の覇権をうばった皇帝は,バルチック艦隊建設など軍備拡張につとめるかたわら,商工業育成のため,工場主に農奴をやといいれることを認めた。また,中央・地方の行政改革にもとりくみ,おもに貴族からなる官僚をきびしく監査するいっぽう,14等級からなる官等表をつくって,官僚の国家勤務への意欲をかきたてた。

 ここまで詳しくなくても、『詳解世界史』(三省堂)の「ヨーロッパ諸国を視察したのち、技術者・職人を連れて帰国し、産業をおこし、軍制・財政制度の改革や行政機構の整備をおこなった。教会制度も改革し、ビザンツ帝国滅亡後のギリシア正教を担っていた、ロシア正教会に対する支配を強めた……ピョートルは工場での農奴使用を認める勅令を出している」という記事が現行の教科書のなかではもっとも具体的です。『詳説世界史』がかならずしも「詳説」でないことはこれでも分かるでしょう。

3
A 「イスラーム世界は、……16世紀には、三つの強大な王朝が鼎立する時代を迎えた……オスマン朝であるが、あとの二つの王朝は何か」という問い方と似たものがセンター試験の2002年度・世界史Aにありました。それは「オスマン朝の勢いにも陰りが見られ、ユーラシア各地で強盛を誇った[ a ],[ b ]といった大帝国にも動揺が見られた」という問題文があり、この空欄aとbに適当な帝国名を選ぶというものです。
 なにもセンター試験でなくても16世紀のイスラーム世界における重要性は知っておくべきです(近刊の拙著『世界史年代 one phrase』(P.Press)にも地図とともに同時代史年代として載せています)。16世紀はサファヴィー朝が1501(1502)年にでき、ムガル帝国(ムガル朝)が1526年にできて、これらの王朝が結構長く保てたため、それまでのめまぐるしい王朝の興亡史がいったん休息するような特別な世紀でした。もちろんオスマン帝国以外とはサファヴィー朝とムガル帝国ですが、それを「王朝の成立経緯(いつ、誰によって建設され、どの地域を、どのような理念で統治」を述べさせるという問題です。
 わたしがもっている教科書でサファヴィー朝の建国者イスマ(ー)イール1世の名前をあげているのは『新世界史』と『詳解世界史』だけです。少し細かい。
 「どの地域……統治」といってもイラン(ペルシア)だけでなく、建国当初はイラク(メソポタミア)も支配下においています。いずれスレイマン1世に奪われますが。このイラクをあげているのは予備校(K)だけでした。
 「理念」とは難しい用語をつかっています。理念は国語辞典では、「何を最高のものとするかについての、その・人(面で)の根本的な考え方」(新明解国語辞典、第四版)です。過去問では「アメリカ独立革命とフランス革命とを比較し、共通点と相違点とを述べよ。なお解答にあたっては、革命の基本的宣言の中で表明された理念、革命の国際政治との関わり、および革命で生まれた政治体制のゆくえについて(1985)」と出ています。いくらか略していえば、最重要とおもっている考え、ということになるでしょう。二つの王朝の最高とおもう考え方、もっとも重要とおもう考え方は、支配者・君主名の由来なり、強制(国教に)した宗教なりです。というかそれぐらいしか教科書には書いてないし、これしか書けない。サファヴィー朝は、シーア派のなかの12イマーム派を国教と定めたこと、ペルシアの古い称号「シャー」をつかい王権神授思想を強く打ちだしたこと、前者はスンナ派に、後者はスルタンに対抗する面をもっていました。イラン人意識を芽生えさせた、としてもいいでしょう。
 ムガル帝国は、バーブルの建国で、支配地域がアフガニスタンから北インド、16世紀後半にはデカン高原もとります。理念はイスラーム教スンナ派ですが、融和政策でヒンドゥー教との共存をはかりジズヤを廃止しヒンドゥー教徒の官僚も採用しました。
 この問題は【1】のように比較の要求をしていないので、二つの王朝にかんする記述を並べるだけでいいのです。

B 
問1 異様な問題です。予備校の解答がどれも正解でなかったのは、問題自体に問題があったからです。「空欄[  ]の中に適切な語句を入れて、文を完成させなさい。空欄には、すべて同じ語句が入ります」といっても、4つの空欄のうち3番目の「[  ]時期の啓蒙と救国」という部分をどうするかピッタリのものが考えられないからです。五四(五・四)運動、文学革命のどれかが考えられるのですが、どれもこの3番目にピッタリはしません。「五四運動時期」という表現を日本語としてつかうひとはいないでしょう。たいてい五四運動期とか、文学革命期とかでしょう。問題文の末尾には「[  ]期に唱えられたスローガン……」と日本語らしくなっています。「時期」の前に「の」を入れるといいのですが、それでは他の空欄があてはまらなくなります。この論文の翻訳者であり、たぶん出題者であるひとには(一橋でもこの訳書をもとに講義もしている中国現代史の専門家ですから)たぶん違和感のないことでしょう。が、一般には日本ではつかわない表現がここではつかわれています。固い岩のような中国語の表現は岩を溶かすような日本語には馴染めません。
 京都市の図書館に、引用された論文について調べてほしいと頼むと、この論文は『中国の文化心理構造 現代中国を解く鍵』(平凡社)所収のものだと教えてくれました。それで近くの大学で借りて読んでみると、この箇所が出てきました。
 「長い論文のなかの一部だけ出してきて、空欄に適語をといっても、ただあまりに断片的に出された場合には、全体的な論理は破綻する。したがって、あの断片的な一節の中で論理的関係を考えればいいだけで、「五四運動」としても、十分解答になるのではないか」という反論があっても仕方ないでしょう。しかし出題者が歴史家である場合は、極端なくらいに原典に忠実、あるいは依存しがちであることを考慮すると、五四運動も答えになるかは怪しい。
 「五四」が正解です。「五四時期」という表現は日本ではつかわない表現であっても、中国人の著者はこの本(『中国の文化心理構造 現代中国を解く鍵』平凡社)でひんぱんにつかっています。また「五四」をはじめの二つの空欄に入れてみても日本人なら違和感を感ぜざるをえないでしょう。これを当てさせようとした出題者はいかにも象牙の塔のひとらしい。
 それと問題文の「70年前」「1986年」もいったい文学革命(1917年)なのか、五四運動(1919年)なのか混乱させるあいまいな問い方でした。ま、この1問ができなくても大きなミスではありませんが。たぶん答案にもひとつも正解はなかったでしょう。
問2 「啓蒙」は引用された李沢厚の文章「啓蒙的な新文化運動」とあるので文学革命だとわかり、また「救国」もその後の「救国の反帝国主義運動」とあるので五四運動以降と国共合作・北伐(国民革命)への発展であることが推理できます。
 課題は「それぞれの運動の時期と様態中心人物刊行物」とここでも、「それぞれ」と二つの運動であることを指摘して要求しています。
 『新青年(青年雑誌)』が発行されたときの時期・様態(状況とほぼ同じ意味)は、1915年5月7日に日本が最後通牒を発し9日に中国側(袁世凱)はこれを受諾したという状況があります。日本の帝国主義的圧力が民族主義を刺激しました。『新青年』はこの1915年9月、陳独秀の主編で上海群益書社から発刊されました。課題にたいしては、この雑誌名と主編名とははずせません。この雑誌に寄稿して運動をすすめた胡適(論文「文学改良芻議」)、さらに白話ではじめて近代的な小説『狂人日記』(1918)を著した魯迅なども書けるでしょう。ちなみに『新青年』は1917年陳独秀が北京に移ってからは北京大学の公共刊行物となります。そして次の「救国」の時期1919年5月にマルクス主義特集号を組みますから、初めの「民主と科学」は後退していきます。『新青年』は共産主義の紹介雑誌に変わります。
 1919年という時期の様態とは、パリ講和会議にたいする失望と、北京大学の大学生による反日運動・反帝国主義運動、すなわち五四運動です。これを見て孫文は中国国民党を結成し(1919年)、参加した教授・学生たちが中国共産党を結成します(1921年)。「中心人物」としては孫文のほかに李大ショウ(金+リ)・毛沢東をあげることができます。この時期の作品としては、なにより口語の新聞が全国で発刊され、また魯迅の『阿Q正伝』(1921年)が著されます。
 文学革命は民主主義ももとめるものであったのが、いつのまにか中国の統一・軍閥打倒・反日反帝国主義の中に呑み込まれてしまいました。これはそのまま「救国」=国家権力の強化という課題だけが果たされていて、「啓蒙」の内容は実現しないままです。「五つ目の現代化」として民主化を求めた天安門事件も戦車でつぶされました。
 引用された李沢厚は、天安門事件以後、アメリカに亡命したままのようです。この論文の中で、「啓蒙という思想的主題は、またもや、救国の政治的主題に圧倒されてしまった」と民主と科学の失われた中国を批判したからです。この論文の他の頁には「すべては反帝に服従するという革命闘争であり、鉄の規律、意志の統一、集団の力であった。これと較べれば、個人の権利、個性の自由、個の独立と尊厳などのいかなるものも、とるに足らない、現実とはかかわりあいのないものに変わってしまうのだ。個としての我は、ここでは微小で、消え失せてしまった。……進歩的な青年・学生から紅軍の将兵へ、北京・上海・長沙などの大中都市から井岡山……延安の辺鄙な片田舎へ」と変貌していくすがたを追っています。
 現在、中国の国家新聞「人民日報」の日本語版は朱穆之の論文[「人権は主権を上回る」という主張に反論]というのを堂々とのせています。
 http://kyoto.cool.ne.jp/jiangbo/china/inter/inter029.htm
 中国は人権を認めたことなど歴史上一度たりともないのですが、この野蛮な状況はまだまだつづくでしょう。この論文で「先に国の主権を勝ち取ってはじめて人権改善が得られる」といい、すでに主権を得ていながら、実際は「人権改善」はしないで、他国の批判は当たらない、価値観の相違だとうそぶいています。中国に実際に行ってみるとわかることですが、ひとりひとりの人間の肩にいかに国家権力が重くのしかかっていることか。自由な中国はいつできるのでしょうか。果敢にひとりの女性が国家権力に抗った記録、鄭念著『上海の長い夜(上・下)』朝日文庫をすすめたい。強靭な知性によるたたかいです。これを読むと希望がかすかにわいてきます。この著者もアメリカに亡命しました。