世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2007

【1】
 カール大帝とその後継者ルートヴィヒ1世の死後、フランク王国は分裂の道を歩んだ。その過程で東西王国のいずれにおいてもカロリング家の血統に属さない国王が現れ、新しい独自の王国が形成された。王国は後にさらに発展し、西欧中世世界の中心となっていった。とくに東側の王国は神聖ローマ帝国の中核部を構成した。フランク王国の分裂と東側の王国の成立と発展の過程を、分裂に関わる二つの条約の締結から神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出にいたるまでの期間について記しなさい。その際、二つの条約と以下の語句を必ず使用し、その条約名と語句に下線を引きなさい。語句を用いる順序は自由である。(400字以内)  

 マジャール人  ロートリンゲン  ザクセン朝  ハインリヒ1世

【2】
 18世紀後半のフランスは、それまでの絶対王政がゆきづまり、不安定な時代を迎えていたとされる。とりわけルイ16世(在位1774~92年)時代は多くの社会的矛盾や財政難が顕著となる時期であり、政府はそうした事態への対応を迫られていた。ルイ16世の即位からフランス革命勃発に至るまでの期間を取り上げ、その間、どういった問題が生じていたかを説明したうえで、政府はそれに対処するためにどのような改革を行おうとしたのか、そして、そうした改革はなぜ挫折したのかを述べなさい。(400字以内)

【3】
  次の文章を読んで、問いに答えなさい。
「[ A ]は1860年代に内陸諸省にたいする支配を失ったあとは戦闘を沿海地域に拡大してさらなる高揚を示した。杭州・寧波・蘇州・上海が占領された。……[ A ]との闘いの最後の数年、文官出身の指揮官たちは西洋製の火器や汽船に感銘を深くした。そのため[A]の鎮圧のあと総督となった曾国藩・李鴻章・左宗棠の下で機器局や船政局(造船所)が南部のいくつかの都市で作られた。機器は海外から購入し、技師も外国から雇った。「対外関係が悪化した」1870年代にもこの傾向が続いた。造船会社が組織され、10代の留学生の一団が酉学を学ぶためにアメリカに到着した。華北で炭鉱が開かれ、電信が主要都市を結んだ。こうした一連の改革の動きは[ B ]と呼ぱれた。……その後、中国の立て続けの「外交上の失敗」は[ B ]をまずいものと印象づけ、そこに費やされた貴重な時間を無駄にしたかのように思わせた。しかし、中国近代史において、この運動は中国が経験することになる長期にわたる「失敗」の最初のものにすぎなかった。この一連の出来事に積極的な観点が与えられるのは最近になってからのことである。歴史の奥深さをもってすれば、これらは一見失敗であるかのようにみえるが、実は巨大な革命に向かう必要な一歩だったとみることができる。」
 (黄仁宇著、山本英史訳『中国 マクロヒストリー』に基づき、問題作成のため、文章の省略・改変を行った。)

問1 空欄[A]に当てはまる語句を記し、次に、その鎮圧に曾国藩・李鴻章・左宗棠がどのような役割を果たしたのか、具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め、100字以内)

問2 空欄[B]に当てはまる語句を記し、次に、こうした一連の改革を推進した人たちのとった基本的な立場・主張がどのようなものであったか、述べなさい。(問題番号の記入を含め、100字以内)

問3「対外関係が悪化した」「外交上の失敗」とあるが、1870~80年代における清朝の対外関係を、対ロシア、対フランスの場合について、具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め、200字以内)


コメント
第1問
 はじめの2文が導入文で、要求は3文目からでてきます。要求は「フランク王国の分裂と東側の王国の成立と発展の過程」、その期間が「分裂に関わる二つの条約の締結(843,870──中谷の注)から神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出(936──中谷の注)にいたるまで」です。約1世紀です。4文目は事務的要求です。指定語句は4つでありながら、2条約をあげて下線を引け、とあるので、実質6個です。
 要するにフランク王国分裂史です。「カロリング家の血統に属さない国王が現れ」というところまで、とくに東フランク王、かつ皇帝として戴冠するオットー1世が即位するまで、と。
 指定語句の中で分かりにくかったのは「ロートリンゲン」でした。アルザス・ロレーヌのロレーヌにあたるドイツ語です。しかし分からない語句は無理に使わずに、使用せず(不使用)、と合格者の再現答案(掲載停止)のように書いたらいいのです。もし現代史で学ぶロレーヌのことだと知っていたら、フランスのドイツに近い側にあり、東フランク王国領となったと書いておきます。
 次に困ったのは「ハインリヒ1世」でしょうか? 1991年度の問題に、

 ヨーロッパ諸国のなかで、マジャール族の脅威をもっとも深刻に蒙ったのは東フランク王国であったが、919年、はじめてザクセン族出身の貴族として王位についたハインリッヒ1世(ヘンリー1世)とその子オットー1世は、いくつかの重要な戦いに勝利し、この外敵の侵入を終らせることによって、王としての不動の地位を固めたのみならず、キリスト教世界の防衛者として西欧世界全体における最高位につくに至った。その経過を具体的に記せ(200字)。  

 という問題があり、この問題の言い換えみたいなものが今年の問題でした。ハインリヒ1世は一橋受験生にとっては必須です。詳説世界史(旧版)でも「ハインリヒ1世の子オットー1世は、……962年教皇から帝冠をさずけられた。これがのちの神聖ローマ帝国の起源である」と出てきます。それに東フランク王国やオットー1世のことは一橋受験生にとっては不可欠です(新課程の用語集では頻度2)。昨年度のコメントでも、「一橋はオットーが好きですね。これで4回目です」と書きました。また今年も出すとは。種切れとはおもいたくないが。それにしてもこうも類題が出題されると出題者の限界をおもわざるをえません。来年から交代してほしい。いや受験生のためにはいつまでも類似問題を出しつづけてほしい……と複雑です。
 東フランク王国だけでない点が1991年度とちがっています。西フランク王国や中フランク王国(イタリア)についても書いておかなくてはならない。それが分裂してできた3国のどこでも「カロリング家の血統に属さない国王が現れ」となります。「フランク王国の分裂」が主題ですから、フランスとイタリアの分裂後について書いてもいいはずです。東フランク王国の歴史だけ書け、とは要求していません。もし書かなくてもいいのなら、2つの条約も要らなかったはずです。また東フランク王国だけなら、上の1991年度の問題とほとんど同じになってしまいます。
 この問題について、あるヨビは「非常に厳しい問題であった。「部族諸侯」の存在を指摘できるかどうかで差がつく。いずれにせよ200字で十分な内容ではないか」と奇妙な「分析」を出しています。奇妙さは「非常に厳しい問題」、「「部族諸侯」の存在を指摘できるかどうかで差がつく」という2点です。前者は、2つの条約の内容を説明し、3国おいてカロリング家以外の王家ができていくことを書き、さらに東フランク王国でザクセン朝ができて、二代目オットー1世が即位するまでの過程、その中に「マジャール人」との戦いも書けばいいわけで、これがなぜ「非常に厳しい……200字で十分」なのか? 新版の『詳説世界史』の中から、この部分を抜粋すれば以下のとおりです。数字も1字とすると、452字あります。

843年のヴェルダン条約と 870年のメルセン条約により、帝国は東・西フランクとイタリアの三つに分裂した。これらはそれぞれのちのドイツ・フランス・イタリアに発展した。東フランク(ドイツ)では、10世紀初めカロリング家の血統が絶え、各部族を支配する諸侯の選挙で王が選ばれるようになった。ザクセン家の王オットー1世は、ウラル語系のマジャール人やスラヴ人の侵入をしりぞけ、北イタリアを制圧して、 962年教皇からローマ皇帝の位をあたえられた。これが神聖ローマ帝国の始まりである。皇帝位はドイツ王が兼ねたが、皇帝はイタリア政策に熱心で本国をおろそかにし、国内に不統一をもたらした。西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家の血筋が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王位についてカペー朝をひらいた。しかし王権はパリ周辺などせまい領域を支配するのみできわめて弱く、王に匹敵する大諸侯が多数分立していた。イタリアでもまもなくカロリング家は断絶し、その後神聖ローマ帝国の介入やイスラーム勢力の侵入などで国内は乱れた。

 この教科書の説明に「部族諸侯」という用語は出てきませんが、必要ありません。再現してくれた答案を見ても、そんなことばはなくても合格しています。またハインリヒ1世については教科書には何も書いてないから、書くことがなく悪問だと、断じている「解説」があったりします(?ヨビ)が、書かなくていいのです。ザクセン朝の創始者であるか、オットー1世の父親であることがあればそれで十分。これだけで悪問とするのはいかがなものでしょうか?  また指定語句「マジャール人」といえば、オットー1世の戦いであるレヒフェルトの戦い(955)が知られていて、マジャール人と父ハインリヒ1世が戦ったかどうか教科書には書いてありません(ホントは父のときにも戦っています。933年)。こういう場合は、マジャール人の脅威があった、オットー1世のときに戦うことになるマジャール人が接近していた、あるいは、神聖ローマ皇帝となる次期の王はマジャール人を破る、などと書いておきます。

 分裂の過程をもっと詳しく学んだひとは、そのことについて教科書よりもっと書けるかもしれません。つまり、分裂の原因としてフランク家伝統の兄弟分割相続制による相続争いが起き、それに伴なう伯や地方有力者の自立(封建諸侯化)をあげることができます。
 そしてヴェルダン条約(843)については、カール大帝の子ルイ1世(位814~840)の死後3子が抗争して3分が決定し、ロタール1世は中部フランクと北イタリアを領有、ルートヴィヒ2世は東フランクを領有、シャルル2世は西フランクを領有した、と。さらに、メルセン条約(870)について、ロタール1世の死後にルートヴィヒ2世とシャルル2世が領土相続をめぐり抗争し、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が北イタリアを除く中部フランクを分割領有したため、このことが起源となりイタリア・ドイツ・フランスの元が誕生した、と。これらの王名は省略してもいいでしょう。
 分裂した後の3国については、イタリアでは9世紀に(875)にカロリング朝が断絶し、半島北部は教皇領・諸侯領・都市が分立抗争し、後に東フランク王国(神聖ローマ帝国)が介入があります。半島南部はビザンツ領(6世紀)後にアラブ人(9世紀)、そしてノルマン人が侵入・建国(11世紀)します。
 西フランクでは、10世紀(987)にカロリング家が断絶し、カペー朝が成立(987~1328)します。つまりパリ伯ユーグ=カペーが諸侯に推されて王位に就任しました。しかし王領狭小・王権弱体で地方分権的傾向の強いフランスがその後もつづきます。
 東フランク王国、つまり中世ドイツでは、10世紀(911)にカロリング家が断絶し、短命なコンラート朝を経てザクセン朝(919~1024)が成立します。初代国王がハインリヒ1世(位919~936)で、彼の子がオットー1世(936~973)です。オットー1世のことは詳しく書かなくてもいいものの、一橋のことですから一応おさらいしておくと、マジャール人の侵入を撃退し(レヒフェルトの戦い)、再侵入に備えてオストマルク(オーストリアの起源)を設置し、イタリア遠征を実施。その目的はイタリアの混乱を収拾してローマ教皇を支援することでした。それが神聖ローマ皇帝戴冠につながります。つまり教皇ヨハネス12世が上述の業績を評価してオットー1世に西ローマ皇帝位を授与したものです。以後、歴代のドイツ国王は「神聖ローマ皇帝」として理念的には西欧世界の世俗の頂点に君臨します。これはかれの帝国教会政策(聖職者の任命=叙任権を掌握した上で、聖職者を皇帝の官僚として教会を統制する政策)からきます。また「イタリア政策」の起源ともなり、ローマ皇帝という理念からイタリア支配を企図して進出したものでした。

第2問
 時期はルイ16世時代で革命勃発まで、主問は3つ「問題(王政がゆきづまり、社会的矛盾や財政難)と改革、挫折した原因」です。
 ルイ16世を「啓蒙」専制君主だったととる説があります。啓蒙的な改革を貴族に反対されて、とうとう革命にいたったと。改革の延長線上に革命があるとする、この説にしたがえば、ルイ16世の首は飛びますがフランスの変革としてはつながっています。
 「問題」は政治・経済(社会としてもいい)・文化の3つに分けてみましょう。受験場でこういう区分はできなくてもいいですが。ただ「問題」とあれば財政難と3身分のことを書いて満足している解答がネットにのっていますから、それに対する反論でもあります。政治面と文化面も書けるとベターです。
 政治面は、問題文に「王政がゆきづまり」とありますが、そのひとつが中央の宮廷と地方の高等法院との対立です。国王は高等法院の拒否権を無視して採決する独裁的な権限をもっており、また上層身分の要求も三部会で表わされても蹴ることができました。これに対する憤懣が法服貴族にたまっています。この場合もちろんルイ16世という政治に興味のない人物が独裁的にこういう権限を行使している、ということではなく国王の取り巻きの貴族たちが「宮廷」を構成し、かれらが実際は行使している権力です。ルイ16世のときにはこの三部会じたいが開かれていません。ここには民衆の声を反映する組織「安全弁」はないのです。
 宮廷の決定に背く動きも頻繁にありました。たとえば、出版物にたいしては検閲があるものの、出版統制局長や警視総監の目をすり抜けて地下出版がさかんであり、かならずしも統制がとれませんでした(後述)。
 もちろん第三身分にはいっさい市民権はありません。農民は裁判権をもつ領主の支配下にありました。
 社会的には身分間と身分内対立がありました。たいてい第一・第二身分に対して第三身分が対立していた、と身分間対立だけ書いて終わりにしてしまいやすいですが(ネットの解答を見よ)、それは主たる対立ではありません。身分対立が問題なのです。たとえば、山川の『新世界史』に「革命前のフランスの社会は旧制度(アンシャン=レジーム)とよばれ、三つの身分に分かれていた。第一身分(聖職者)と第二……あった。しかし経済発展のため、この身分制度と貧富の差がいりまじり、複雑な社会となっていた。第一身分では司教など上級職は貴族、司祭など下級職は平民に占められ、第二身分では富裕な宮廷大貴族と貧しい地方貴族との分化が生じていた。第三身分の内部では……」と。
 この記述の中の「経済発展のため」をまちがいではないか、とおもうひともいるかもしれません。正しいのです。この問題の解答として財政難をあげてもいいのですが、それは宮廷財政の破綻であって、国全体としては必ずしも不況ではありません。つまりブルジョワジーの育成期です。少なくとも革命の直前までは発展期でした。このあたりは拙著『センター世界史B 各駅停車』に、「第三身分(平民)が全人口の9割以上を占めていて前二者に反発していた、と単純にとりがちですが、中身はそう単純ではありません。フランスは18世紀における経済発展と経済変動のため、この身分制度と貧富(階級)の差がいりまじるようになったからです。……」(p.278)。
 イギリスと比較してフランスの18世紀の経済成長を見てみると、フランスの成長の度合のほうが大きいのです。イギリスは18世紀に輸出・輸入は2倍に増加していますが、フランスは5倍です。その中身はヨーロッパ貿易が4倍、植民地貿易が10倍増加しています。ただし1770年代までで、80年代になるとイギリスの産業革命(1760年代から開始)の影響がでてきて、フランスの経済は鈍化し、イギリスの経済が急速に伸びてきます。さらに英仏通商条約(1786)が痛手になります(この条約については、山川の『現代世界史』、三省堂の『詳説世界史』、東京書籍の『世界史B』に記載)。たとえイギリスが13州を失っても米大陸との貿易は伸びていきましたし、アジアとの貿易も拡大していきます。しかしフランスは革命と戦争に入り、かつ植民地の多彩さはイギリスに劣りました。なによりフランスは18世紀全体で工業の発展がないことで、これはイギリスに差をつけられます。フランスにはギルド制が残っていて、イギリスは17世紀に廃止していますから、その差も出てきます。イギリスはすでに責任内閣制を実施していて議会主権ができており、経済も産業革命で大躍進の最中でした。それに比べてフランスの牛はなんと遅い! と嘆くひとは下にも上にもいたのです。

 国としての財政難よりひどいのは一般のひとの生活です。都市の労働者が日給1~2リーブル(1リーブル=20スー)で、パンの一斤の値段が革命直前で4スーくらいになり、家族4人いたとして、まさかパンだけで生きてはいけないが、仮に1日3食ともパンだけとすると6斤(24スー)必要とし、日給をこえてしまいます。これは死なないだけのぎりぎりの水準でした。いっぽう農民は生活がなりたつくらいの畑の保有面積は5ha(ヘクタール)といわれましたが、約半数ちかくが1ha未満でくらしていました(小林良彰著『フランス革命入門』三一書房)。わずかな物価騰貴で餓死の危機にさらされます。貧富の格差はあまりに大きい。ルイ16世は酒を飲まなかったものの、群がる貴族が飲みほしたワイン代は1789年の年には、計60899リーブルでした(ワインだけの計算です)。都市労働者が12時間以上あせ水たらして得る日給の167倍の価値の液体が毎日消えていく勘定です。それでいて第一・第二身分は免税特権をもっていました。
 こうした宮廷の浪費のほかに、対外戦争の敗北(七年戦争・フレンチ=インディアン戦争)とアメリカ独立革命への援軍も重なり、財政難はひどくなりました。敗戦・戦費はルイ15世のときですが、戦争直後よりも後になって効いてくるのが財政難ですから、「問題」としてあげていいでしょう。といえばこの財政難はルイ15世からあるのでなくルイ14世以来の蓄積があります。

 文化的には、啓蒙思想の影響をあげます。ブルジョワジーはとくに、絶対王政が推進する重商主義政策には不満で、その不合理を批判する重農主義、レッセ=フェール(自由放任)、もっと大きくは啓蒙思想に共鳴して旧体制の打倒を目ざすようになりました。とくにアメリカ独立革命に何より義勇兵として参戦したものたちが帰国して、そのできたばかりの合衆国という共和国の話を伝えます。かのヴァルミーの戦いのときには、アメリカ独立革命のときに海を渡った義勇兵が参戦していました。啓蒙思想はアメリカ独立革命で花開き、それがフランスで息を吹き返すということになりました。この思想の普及について教科書『新世界史』は「都市民衆のあいだには理論内容を通俗化した小冊子のかたちではいったが、あまり普及せず、農村では司祭が啓蒙思想に共鳴した場合に影響がみられた」と小さいことを指摘しています。
 啓蒙思想がホントに革命に影響を与えたのか、つまりヴォルテールやモンテスキュー、そしてルソーは読まれたのか、についての疑問はあり、それはロバート・ダートン著『革命前夜の地下出版』(岩波書店)にくわしい。当時の出版事情と読書傾向をさぐり、ルソーの『社会契約論』はほとんど読まれなくても、流布した非合法出版物、とくにパンフレットによって「どぶ川のルソー(三文文士)」たちが描いた宮廷の腐敗暴露本、ポルノ・私生活・スキャンダルなど、噂を食って生きている大衆に、宮廷に対する激しい恨み・憤懣を積もらせたと説明しています。また啓蒙思想の影響が反教会の傾向を生んでいたことは、山川の教科書『現代世界史』の注に「人心はキリスト教の教えからはなれ、「教会離れ」がすすんだ」と描いています。 
 
 さてこんどは「改革」です。国王がなにより改革派(重農主義者)の財務総監(テュルゴー、ネッケル)を任命し財政再建につとめたことです。このあたりは『詳解世界史(旧版)』に「ルイ16世は、重農主義者のテュルゴーや銀行家のネッケルを財務総監に任用して財政再建をはかったが、貴族などの反対で成果をあげることはできなかった。財務総監カロンヌは免税特権に手をつけようとしたが、これも名士会の反発にぶつかった」とあります。テュルゴーは国内関税の廃止、穀物流通の自由化、ギルドの廃止(商工業の自由)、賦役の廃止とつぎつぎと改革を打ち出しましたが、反対が強く辞任せざるをえませんでした。ネッケルは公債の発行で切り抜けようとしたのですが、財政は窮迫していて公債はかえって利子負担の増加を招き、さらに財政難がどれほどのものであるかを公表したため、宮廷の非難をうけて失脚します。こんどはカロンヌが財務総監となり、免税特権をうばう貴族・聖職者に対する租税改革案をだし、それを協議するために特権貴族のあつまる名士会をひらいたのですが、会は紛糾してしまい否決されました。

 「挫折」の原因は3つです。国王ルイ16世は改革の考えはありながら意志薄弱であり、取り巻きの反対にあうと考えを変え、財務総監を辞任させてしまったこと。そして何より、特権身分の強固な反対です。既得権を維持したい取り巻きと全国の領主たちは免税特権を剥奪されたくはありませんでした。「改革」程度ではどうすることもできないほどの機能しなくなった絶対王政を、しっかり支えている階層でもあります。第三に革命直前の凶作・飢饉です。全国的な暴動の到来は「改革」を粉砕しました。この危機について、1789年の旅行記でアーサー・ヤングはこう書いています(Young, Arthur著 Arthur Young's Travels in France During the Years 1787, 1788, 1789)。
 (凶作のために)あらゆる事柄が現在のフランスを危機的な状況に陥らせています。パンの欠乏ははなはだしく、地方の反乱・蜂起のニュースがとどき、そのために軍隊が召集され、市場の安定を破壊しています。

 なお、経済のところにあげた英仏通商条約(1786)も革命直前なので、挫折の一因としてあげてもいいでしょう。どちらにしろ、問題文の要求どおり、問題・改革・挫折が明快に表れるように書くことです。どこからどこまでが、問題であり、改革であり、挫折である、のか混ざった書き方はしないように。さいごの挫折のところも革命に突入していくことを書いて原因がハッキリしない「うやむや答案」がネットで見られます。見習わないように。

第3問
問1 空欄[A]は「1860年代……沿海地域に拡大」とあり、また問題文に「鎮圧」とあり、これに対抗したひとたちの名前もあがっているので、太平天国のことだとは容易に分かります。課題は、「その鎮圧に曾国藩・李鴻章・左宗棠がどのような役割を果たした」か。左宗棠が細かいが学んだひともいるでしょう。またこれら3人の名前をいちいちあげて郷勇名をそれぞれあげないで、一括して説明、つまり郷勇とは何かの説明にあててもいいでしょう。無理に左宗棠はつかわなくてもいいということです。ただし山川の『詳説世界史』にも東京書籍の『世界史B』にものっています。曾国藩の湘勇、李鴻章の淮勇、左宗棠の楚勇(資料文の本では「湘軍の指揮官」とある)という郷勇は、地方ごとの自衛軍です。もともとは臨時に徴募された非正規の地方自衛軍で、指導する郷紳(地方の有力者)の私兵でもあり、しだいに各省の軍・財・政を掌握して軍閥を形成します。白蓮教徒・太平天国・捻軍の鎮圧に功績があり、正規軍より給与が高く、かつ西洋の近代火器を装備していくので戦闘力が強くなります。清朝の正規軍たる八旗より強力になるということは、ゆっくり軍事力も地方の支配も漢人側に移っていくことを意味します。教科書(東京書籍)の注に「曾国藩は湖南で湘勇を、李鴻章は安徽で淮勇を編成した」とあったり、どこかのヨビのように「曾国藩・左宗案は湘南省で湘勇を、李鴻章は安徽省で」と細かい解答を「模範」とする必要はありません。
 左宗棠についてもう少しコメントするなら、三省堂の教科書解説では写真「馬尾船政局(p.245)」の説明文として、以下の文章がついています。
 1866年、洋務派官僚の一人、左宗棠(1812~85年)がフランスから機械・材料を購入し、フランス人を監督として造った福州湾の造船所。清朝設立の工場中、最も完備した工場とされ、2100tの砲艦などが建造された。福州湾は清朝の南洋艦隊の根拠地でもあったから、清仏戦争の時フランス軍に攻撃された。

問2 空欄[B]は「機器局や船政局(造船所)……機器は海外から購入し、技師も外国から雇った……造船会社」とあるから洋務運動と分かります。さらに課題は、「改革を推進した人たちのとった基本的な立場・主張がどのようなものであったか」ですから「中体西用」について説明してほしいということです。つまり具体例は資料文にもういくつか書いてあるのですから、どこぞのヨビの解答のように「軍備増強、鉱山開発、鉄道建設など」と書かなくていいのです。それを実施したひとたちの「立場・主張」を書け、と要求しています。
 この洋務運動は2003年度の問題では変法運動との比較をする課題で出題されていて、第1問と同様に、またか、ということになります。この問題のほうが易しいことはいうまでもありません。
 「立場」としては、3人は太平天国鎮圧に功績のあった漢人の郷紳でした。鎮圧のさい西洋人による常勝軍の強さをみて、こういう軍隊をつくりたいと念願しました。そのための武器製造と原材料の製造の必要性を痛感したのです。とすると、西洋の技術導入を図らなくてはならない。このさい中国は最高の技術をもっているという誇りは捨てよう、他の分野では負けないのだ、という空威張りの「主張」です。変えなくてもいいとおもっている他の分野のなかに曾国藩・李鴻章たちの朱子学をあげてもいいでしょう。清朝の考証学はこうした西欧の砲艦外交の圧迫のなかでは役に立たず、国粋主義(中華思想)の朱子学や、後には改革を志向する公羊学(変法運動の思想)が台頭しました。
 ただこの資料文に「「失敗」の最初のものにすぎなかった。この一連の出来事に積極的な観点が与えられるのは最近になってからのことである。歴史の奥深さをもってすれば、これらは一見失敗であるかのようにみえるが、実は巨大な革命に向かう必要な一歩だったとみることができる。」とあるように洋務運動は工業化(産業革命の言い換え)であることです。中国にとっては機械工業のスタートでした。この『中国 マクロヒストリー』には引用された文章の後に「伝統中国の頑固な構造に孔(あな)をあけたのである。彼らの「自強」の範囲はもちろん我々を失望させる。しかし、その時代と環境の下では考えられないことではない。工業化に努めるために……」と書いています。この説明は、一般には受け入れられていません。一般には「しかし日清戦争での敗戦を以って洋務運動の挫折は明らかとなった。」(wikipedia──ネットの百科事典)と一時的な現象のようにみていますが、これは東大型の誤解。わたしは引用した著者の意見に賛成です。
 2003年のコメントのところでも「結果のところで(わたしは賛同しないが)としているのは、洋務運動は対外戦争に勝つために軍備の近代化をしているのでないことは、李鴻章が言明しているからです。太平天国のようなでっかい反乱が再びおきたときに、常勝軍のように鎮圧できる軍隊をもちたい、ということです。だから日清戦争で敗北したら即挫折とはならないのです。むしろゆっくりではあれ、中国にとってはこの洋務運動をとおして機械工業がはじまったことを評価すべきでしょう。通説には反しますが。」と書きました。
 また洋務運動を表面的・皮相的などという形容をすることも一般的です(たとえば『東大合格への世界史』の解答p.41)。しかし引用文も具体的に事例をあげ、『詳説世界史』なら「おもな事業としては、兵器工場・紡績工場や汽船会社の設立、鉱山開発や電信事業などがある」とあり、中国にとっての機械工業の開始です。皮相なんてとんでもない。
 もちろん資料文の著者も書いているように、当時は当時なりの欠陥はありました。数学の教科書からつくらねばならない、兵器工場や造船所は営利企業としてつくられたのに商社がない、代理店もない、下請け企業もない、予算がない……と。このような欠陥はありながら、工業化ははじまりました。

問3 「1870~80年代における清朝の対外関係を、対ロシア、対フランスの場合について」200字という問題です。いわば太平天国の乱もおわり2つのアヘン戦争も終わった後の対外関係です。このあたり時期になにがあったのか、かすかに浮かんでも年代に自信がなければ書けませんが、イリ条約(イリリイ、イ188イ1)、ユエ条約(故に、人883)、清仏戦争(甲申事変)(神仏交信、火1884る)、天津条約(天津の電1885)などは必須の年代です(語呂は中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズ new』パレードから)。
 対ロシアでは、イリ事件(1871)というイスラム教徒の反乱にロシアが介入したことと、その後で左宗棠がここでどう活躍したかは書けなくても、イリ条約(1881)でイリ地方の国境設定を露清間でやつたことをあげたらいいです。なにもどこかのヨビのように、賠償金と貿易の利権をロシアに与えた、と書けなくてもいい。
 また対フランスでは、 第二次仏越戦争(1883,84)のユエ(フエ)条約でヴェトナム全土が植民地化され、その後で清仏戦争(1884)に清が敗戦して結んだ天津条的(1885)は、清のヴェトナム宗主権の放棄、フランスの保護国化を承認した、と書けばいいです。これもどこぞのヨビのように、中国南部地方でのフランスの特権も承認した、と書けなくてもいいのです。余裕があればですが、むしろ一橋としては過去問(1993)にあるように劉永福と黒旗軍について言及した方がいいでしょう。