世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2009

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 カール大帝の帝国は、イスラムによってヨーロッパの均衡が崩壊したことの総決算だった。この帝国が実現しえた理由は、一方では、東方世界と西方世界の分離が教皇の権威を西ヨーロッパに限定してしまったことであり、他方では、イスラムによるイスパニアとアフリカの征服がフランク王をキリスト教的西方世界の支配者たらしめたことである。それ故マホメットなくしてはカール大帝の出現は考えられない、と言って全く正しいのである。古代のローマ帝国は7世紀には実質上にすでに東方世界の帝国となっており、カールの帝国が、西方世界の帝国になった。

問い この文章は、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862-1935年)による『マホメットとシャルルマーニュ』(日本語訳の標題『ヨーロッパ世界の誕生』)からの一節である。ここで述べられる「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか。当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係に言及しながら論じなさい。(400字以内)

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 第一次世界大戦は、植民地をめぐる帝国主義列強間の対立を要因として勃発したことから、戦火はヨーロッパの内部にとどまらず、かつてない規模での紛争をもたらした。しかし、人類がグローパルな紛争を体験したのは、このときが最初ではなかった。大航海時代がもたらした空間秩序は、しだいに緊密の度を強め、局地的な紛争がグローバルに波及する構造を創り出した。世界大戦のように総力戦体制をともなうものではなかったが、これらの紛争では先住民や移民など植民地に住む人々や、ヨーロッパの外にある独立諸国が、すでに「主体」として一定の役割を果たしていた。

問い 下線部に関連して18世紀なかばに生じた「グローバルな紛争」について論じなさい。(400字以内)

第3問
 次の2つの文章A、Bを読んで、それぞれの問いに答えなさい。

A 貿易と雇用が不振に陥り、企業は赤字を招いていますが、これは現代世界史上で最悪といってよいでしょう。どの国も例外ではありません。今日、全世界の何百万もの家庭にみられる窮乏と……不安とは、はなはだしいものがあります。世界の三大工業国であるイギリス、ドイツ、アメリカにおいて、おそらく1,200万人の工業労働者が失業中であると私は推察しています。しかし、世界の主要農業国……では、何百万人という小農が、生産物価格の下落のために破滅に瀕しており、収穫後の彼らの収入が、全農作物の生産に要した費用よりもはるかに少ないという状態です。小麦、羊毛、砂糖、綿花のような世界の重要商品や、その他実に多くの商品の価格下落がまったく破壊的だからです。
(J.M.ケインズ著『ケインズ全集 第9巻 説得論集』から一部改変)
 これは、イギリスの著名な経済学者ケインズが失業に関して行った連続ラジオ講演の原稿として執筆され、1931年1月に公表された文章から抜粋したものである。この中で、彼は主要農業国としてカナダ、オーストラリア、南アメリカ諸国などを念頭においているが、それ以外の諸国においても同様の惨状が見られた。この事態がきっかけとなって、(1)世界的な規模で貿易構造に変化が生じ、また、イギリスの植民地インドでも、第一次世界大戦の影響も加わり、(2)重要な政治的展開や、(3)経済的な変化が生じた。

問い
 下線部(1)、(2)、(3)を説明しなさい。(200字以内)

B 日本による植民地支配の下で朝鮮が担わされた役割は、多様であった。まず重視されたのは食糧供給基地としての役割、日本本国における食糧需給の調整弁としての役割であった。また、中国に隣接する地理的位置に規定されて、中国侵略のための基地としての役割を担わされた。そして、戦争が拡大されるにつれて、総力戦体制の一環に深く組み込まれ朝鮮の人びとはその底部を支える労働力・兵力として広範に動員されるに至ったのである。

問い
 1920年代後半から1940年代前半までの時期において、日本の支配の下で朝鮮がどのように位置づけられたのか、その推移について説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(200字以内)

 米の増産 日中戦争 世界恐慌 満州事変 徴兵制


第1問
 2009年度の類題は2006年度のオットー戴冠の歴史的意義を問うた問題です。カールから半世紀後のオットー1世にも似た状況がありました。2006年度の問題を簡略化したものは、拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)巻末問題集「基本60字」にのっていて、解答の初めはこうです。 

南イタリアのビザンツが居座り、ムスリムはピレネーにせまっていた。東にはポーランド王国ができ、マジャール人が襲い、北からはノルマン人の侵攻がはげしい。……

 このうちマジャール人来襲はカール1世にはないものの、マジャール人に代わるアヴァール人の侵入があり、またノルマン人の動きも始まっていました。

 さらに、この問題に関連するものとしては、『世界史論述練習帳 new』に「知っておくべき歴史学説」として、ピレンヌ=テーゼをあげています(p.79)。2つの主張「古代連続説」と「商業ルネサンス」を解説しています。

 課題はカール1世の戴冠への経緯だけでなく「当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係に言及しながら」とあり、周辺の情勢もふまえた8世紀欧州の全体像を描かせようとしています。そのため、課題そのまま、イタリアは○○、東地中海(事実上ビザンツ帝国)は○○、イスラム世界の動きは○○、と見回すように描くことが必要です。
 時間的には、西ローマ帝国の解体から書き始めること(S・T)は題意に沿っていない。問題文をよく読めばおかしい。 
 「カール大帝の帝国は、イスラムによってヨーロッパの均衡が崩壊したことの総決算だった。この帝国が実現しえた理由は、……イスラムによるイスパニアとアフリカの征服がフランク王をキリスト教的西方世界の支配者たらしめたことである。それ故マホメットなくしてはカール大帝の出現は考えられない、と言って全く正しいのである。……「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか。当時の……」 
 つまりイスラーム教・アラブ人が顔を出す以前では、こうした問題設定はできない。「帝国」はクローヴィス以来のものでなく、あくまで「カール大帝の帝国」であり、それはイスラム世界(マホメット)との関係でしか成り立たないことを著者も作問者も述べているからです。前にさかのぼるのは7世紀までです。もちろんビザンツ帝国の体制・皇帝教皇主義は6世紀に完成して継続しているので、体制の言及の際にさかのぼるのは構わないでしょう。
 予備校の解答は何をまちがえたのか、カールまでのフランク王国史を書いているものが多く(K・Y)、おいおい問題文を読んだのか、ときいてみたくなります。むしろ王国の周辺史に重点のある問題です。これを流れとして時間順に書いてしまうと周辺の動きが見えにくくなります。たいていの予備校の解答はそうなっていますが。

 著者ピレンヌが「イスラムによるイスパニアとアフリカの征服がフランク王をキリスト教的西方世界の支配者たらしめた」ことを証明するために、長々と克明に書き込んだのは周辺諸民族・諸国との戦いです(和訳〔『ヨーロッパ世界の誕生』この書は以下「ピレンヌ」と略称〕全ページ数は410)。カール帝国は西がエブロ川、東はドナウ川、北はエルベ川、南はポー川に達しています。戦わねばならなかった敵は、ビザンツ帝国・ムスリム・アヴァール人・デーン人・スラヴ人・ザクセン人でした。ピレンヌは「800年という年を迎えるまでに、カールはザクセン、バイエルンを征服し、アヴァール人を絶滅し、イスパニアに攻撃をかけていた。西欧キリスト教世界の殆どすべてを彼は掌握していた」と述べています(p.332)。 

 8世紀のイタリアは、6世紀後半に移住してきたゲルマン人のランゴバルト王国が北から征服し、ビザンツ帝国領であった半島の大半を奪っていきます。残るは東北のヴェネツィア市とローマ市・ナポリ市を含む西海岸であり、かつ半島南端とシチリア島はビザンツ領でした。ラヴェンナ市もビザンツは持っていましたが、これは751年に占領されました。ランゴバルトはフランス南部プロヴァンス地方に侵入したイスラーム教徒とも戦っていました。  
 カール=マルテルのトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム教徒との戦いが終わったのではありません。732年の戦いの後も100年近く戦いは続いており、アラブ人がガリア南部を荒らしてしまいました。そのためガリア北方の王国フランクの重要性が増してきます。またムスリムの地中海世界侵入は東西の帝国を分離させたため、世俗最大の領主たるフランク王国に教皇は頼らざるをえなくなります。

 7世紀にビザンツ帝国領はアラブ人の侵入によって大幅に削られました。シリア・パレスティナの沿岸線、そしてエジプトから西方の北アフリカ全域です。700年ちょうどにモロッコに達しています。そこからイベリア半島に入るのは711年からでした。ビザンツ帝国に残された土地はバルカン半島南部、小アジア、イタリア半島の一部です。もう少し詳しくは、上に書いたようにヴェネツィア市、ラヴェンナ市、半島の足の底とシチリア島・コルシカ島・サルデーニャ島です。しかしこれらの島々に7世紀から攻撃を受け、シチリア島には720年にウマイヤ朝が、次にチュニジアにできたアグラブ朝(800-909)が827年に占領します。これらの残った地域にはギリシア人が紀元前から移住していたところ、かの「マグナ=グラエキア(大ギリシア)」であり、アラブ人に削られた「おかげ」でラテン的帝国(東ローマ帝国)はギリシア的帝国(ビザンティン帝国)に変貌します。公用語をギリシア語に変更したのはヘラクレイオス1世でした(610-641)。 
 都のコンスタンティノープル市は絶えまなく攻撃されながら、命脈を保ちました。襲撃・包囲は617年、626年、673-78年、712年、717-18年(レオン3世〔717~74l〕の即位当初でした)、813年とつづきました。レオン3世の聖像禁止令は、反対する修道院領を没収して国有地を増やし、その土地にコロヌスを送り込んで屯田兵とするテマ制の強化という面をもっていました。テマ制は、一橋の先生たちの訳語では「屯田軍管区制」と屯田兵制とセットになった語句です。このレオン3世につづくコンスタンティノス5世も法令を徹底したため、ローマ市に5万人のギリシア人が亡命してくる騒ぎがおきました(ピレンヌ、p.317)。聖像禁止をめぐってローマ教皇との対立はきびしくなっていきます。

 イベリア半島でのレコンキスタはカールが始めたものではありません。西ゴート王国の残党による戦いは722年からウマイヤ朝に対して起こっていました。カールの東北からの攻撃は778年と785年の2回行なわれています。カールのときは後ウマイヤ朝に代わっています。778年のときに戦死したブルターニュ公ローランをモデルに『ローランの歌』が作られました。この歌では敵はムスリムになっていまが、本当はバスク人との戦いでした。バスク人といえばイエズス会をつくったロヨラ、ザビエルがそうであり、シモン=ボリバルやチェ・ゲバラらもそうです。戦闘的なイメージですね。2回目のときはカールの息子のルイが指揮し、バルセロナを獲得しています。この都市がレコンキスタの前線基地となります。

 ピピンはメロヴィング朝国王を修道院に放り込んでカロリング朝を創始します(751)。これはローマ教会と仕組んだクーデタでした。教皇からの救援依頼を受けてラヴェンナを取り戻し教皇に寄進します。教皇側は「ローマ守護者」の称号を贈ります。これは皇帝が贈る称号であるため教皇の越権行為です。さらにピピンの子孫以外の者は国王になったら破門に処す、と教皇は約束します。 
 ランゴバルト王国はローマ占領の野心を捨てていないので、父の後をついだカール1世は、都パヴィアを奪い王国を滅ぼして名実ともに教皇の保護者となりました。800年の戴冠は教皇が創作した皇帝であり、二人いてはおかしい皇帝が誕生します。父ピピンの称号と同様に教皇の越権行為でした。これはむしろ教皇レオ3世のお礼でした。前年に暗殺者に襲われてカールのもと亡命し、その後カールに保護されて復帰しているからです。 
 この戴冠をピレンヌは厳しく見ています(p.334)。 

 皇帝の実質的な力の中心は、かれが皇帝の権力を授与されたローマではなく、ヨーロッパの北部にあった。古代の地中海帝国の中心はローマにあったが、新しい帝国の中心はこれまた論理必然的にアウストラシア(ライン川とセーヌ川の間……中谷の注)にあった。ビザンツ皇帝はなすところなく即位を傍観していた。かれにできることはカールの即位を否認することだけであった。しかし、812年1月13日、両皇帝は和親条約(アーヘンの和約──中谷の注)を結んだ。ビザンツの皇帝は新しい事態〔カールの即位〕を承認し、カールの方は、ヴェネツィアならびにイタリア南部を放棄し、これをビザンツ皇帝に返還することになった。カールのイタリア政策は失敗であった。

(構想メモ──詳細なものはカッコ〔 〕の中)  
7-8世紀  
 イタリア…ランゴバルト王国の支配、ピピンが王国との戦い、奪ったラヴェンナを寄進、カールのランゴバルト王国征服
 東地中海(ビザンツ帝国)…領土が縮小、ギリシア語を公用語に(帝国のギリシア化)、テマ制、聖像禁止令とローマ教会との対立〔ハールーン=アッラシードと帝国を挟撃、アーヘンの和約、奪ったクロアチアやイタリア半島南端を返還〕 
 イベリア半島…ウマイヤ朝(祖父がトゥール=ポワティエ間の戦い)・後ウマイヤ朝、カールの攻撃(レコンキスタ初期)、 
 北アフリカ…イスラム圏(アッバース朝、ファーティマ朝〔アグラブ朝、シチリア島への攻撃〕)
 その他の周辺…スラヴ人・アヴァール人・ノルマン人との戦い、後者を征服 
 フランク王国…自然経済、三圃制、メロヴィング朝からカロリング朝へ、ローマ教会との関係が密に

 これで書けるでしょう。さて、ピレンヌに刺激されて次のような問題を作ってみました。

 ローマ帝国と地中海世界に侵入した民族の流れとしては4世紀と7世紀の二つの大きい波が認められる。この二つの波はそれぞれちがう民族であり、かつその影響はきわめてちがった結果となった。この二つの侵入について比較し、侵入のあり方や侵入後の政治・社会の影響・結果について、相違点に留意しながら400字以内で述べよ。

第2問
 課題の、18世紀なかばに生じた「グローバルな紛争」は3つ考えられます。オーストリア継承戦争(1740-48)・七年戦争(1756-63)・アメリカ独立革命(1775~83)です(1775-83)。いちばんピッタリは七年戦争です。これはアメリカにフレンチ=インディアン戦争(1755~63)があり、インドにおける英仏の争奪戦(カーナティック戦争、カルナータカ戦争ともいう、1744~63)もありますから。グローバルさでは他は勝てません。もっともアメリカ独立革命もけっこう国際的なものでした。対英武装中立同盟があり、第一次マラータ戦争(1775~82)も伴っているからです。といって書きやすいのはやはり七年戦争です。一橋としては易しい、得点が確実にかせげる問題でした。

 七年戦争を主に描けば、オーストリア継承戦争の続きであることも書けます。要するにシュレジエンの争奪戦です。啓蒙専制君主どうしの戦争でした。 
 フレンチ=インディアン戦争では23歳のワシントンが参戦して激戦に嫌気がさしたのか、終わったらバージニアの農園に16年間こもることになります。メル=ギブソン主演の映画「パトリオット」にもなりました。イギリスとフランスの戦争でありながら、利用される植民地人とインディアンの方に自立の動きが芽生えてくることを描いています。
 インドでは、英仏の戦いは、カーナティック戦争といい、戦争は3回あり、1744-48年、50-54年、58-63年です。3次に分けなくてもいいくらい絶えまなく戦ったということで、2次と3次の間にもプラッシーの戦い(1757)があります。 
 ただ、この3つの戦争をそれぞれバラバラに書いて終わりにしないように。「グローバルな紛争」として、何よりこれは英仏という18世紀の対立軸があることの指摘。そしてすべてにイギリスとイギリス側が勝利したこと。「(第一次)イギリス帝国」の形成になったこもあげられたらいい。いずれ13州の反発である独立戦争によって13州を失うことになり、インドに植民地の土台をおかざるをえなくなって、「第二次」帝国となります。

 もうひとつ。問題文にある「これらの紛争では先住民や移民など植民地に住む人々や、ヨーロッパの外にある独立諸国が、すでに「主体」として一定の役割を果たしていた」は書くのか? 書けるに越したことはない。問題文ぜんぶを素直にとれば書くべきでしょう。 
 フレンチ=インディアン戦争はインディアンがフランスと「協力」して、というより巻き込まれて戦ったが、講和会議にインディアンは参加できなかった。しかも白人が土地のやりとりを勝手に決めていった(パリ条約、1763)。そのため勝ったイギリスとインディアンの戦いがこの後につづきます。 
 プラッシーの戦いにしても、英仏の戦いの前に、東インド会社の横暴からベンガル太守が反発して抗争となったものでした。たんなるフランス軍が雇ったベンガル太守という訳ではなかった。これらのことは教科書には書いてないが高校の学習で学ぶだろうか?  
 インドの場合は、イギリスがベンガル(・ビハール・オリッサ3州)の地税徴収権を獲得するので、この地税制度はザミーンダーリー制とよばれ、インド農民の収奪を容易にしました。徴税請負人であったザミーンダールが地主として位置づけられ、地税納入の直接責任者とされた制度です。これを書いてもいい。これなら教科書に書いてあります。主体というより隷属化されましたが。 
 このような「先住民や移民……一定の役割を果たし」たように書いた答案は予備校のものでは見い出すことができません。

第3問 
A
 最近よく聞く台詞「100年に一度の不況(不景気/危機)」と似た「現代世界史上で最悪」という世界恐慌の話です。経済重視の一橋が、恐慌の問題をいつか出してくると予想していたので、添削した学生には予想問題を解かせてきました。今年がまさにふさわしい年でした。ただ恐慌の影響が貿易とインドにかぎった点から、これ以外の分野も出る可能性はあります。
 課題はまず、(1)世界的な規模で貿易構造に変化
 変化ですから前→後、の構成が必要です。書いてない答案はいくつも見られます。「変化」を甘くとっているからでしょう。自由貿易→保護貿易(ブロック経済)、列強による全世界収奪→列強と自国植民地の関係緊密化、金本位制→(金流出防止のため)廃止、など。

 (2)インドの重要な政治的展開。 
 教科書には恐慌の影響は欧米に集中していますが、ほんとにしんどかったのはアジア・アフリカの農産物をつくって売っている農民でした。農産物価格の下落は飢餓に追いやるくらいのものでした。「世界恐慌の影響下で植民地インドの民衆の苦しみは増大し、これがガンディーの指導する非暴力的抵抗運動の再開の前堤となった(詳解世界史)」のであり、民族運動は激化した、といえます。ラホール大会(1929)で決議したプールナ=スワラージの実現を求め、国民会議は小作料と地租の不払い運動を開始することになります(1931)。 
 ガンディーの「塩の行進」もあげていいでしょう。1930年3月12日から4月6日までの24日間、約380kmを、ガンディーが数千人と行進し、到着した海岸で禁制の塩作りを行なった事件です。またイギリス商品の不買運動も展開しました。イギリスはガンディーらを逮捕しますが、翌年、釈放し、不服従運動停止のデリー協定とひきかえに自家用製塩を認めます。 
 ムスリムはパキスタンを構想したため(1930)、20年代の回印融和は崩れます。全インド=ムスリム連盟のラホール大会(1940)では「パキスタン」建設を決議します。イギリスは自治問題の解決を迫られ、サイモン委員会の報告(1930)を受けて、英印円卓会議(1930~32)を3回開きます。
 この辺りは今年の京大の問題(以下)と似てきます。以下。 

 インド亜大陸の民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の関係や立場の違い、およびこれをめぐるイギリスの政策について、1947年の分離・独立までの変遷を300字以内で説明せよ。 

 (3)インドの経済的な変化。 
 教科書では恐慌の影響は「世界各地」と説明しても、書いてあるのは資本主義の欧米の影響しか書いてない。しかし東京書籍の教科書には、「世界恐慌と植民地・従属国」という題で、次のように書いています。

 列強の市場と原料供給地とされていた植民地や従属国では,本国資本によって綿花,コーヒー,ゴム,羊毛などのモノカルチャー経済が強制されていた。そのため,世界恐慌によって資本主義諸国の購買力が激減すると、植民地や従属国の農産物や工業用原料の価格が暴落し、壊滅的な打撃を受けた。また、資本主義諸国が輸出する工業製品は、輸入する農産物や諸原料にくらべてつねに高い価格を保っていたが、恐慌時にはその価格差がいっそう拡大して、植民地や従属国の経済を強く圧迫した。 

 これはインドに限った説明ではないがインドにそのまま該当する内容です。輸出用の商品作物の価格の下落は農民には大きな打撃を与えました。「1928年から33年の間にかけて、農産物価格は約半額に」(山本達郎編『世界各国史・10 インド史』山川、p.358)なりました。つづけて「自作農を小作農に、小作農を奴隷に変え、……多数の農民がひどく貧しく不健康な状態にあった……1943年、第二次世界大戦の渦中において、日本軍がビルマを占領するという事態の中で、ベンガルなど東部・南部インドをおそった飢饉は、コレラ・マラリアなどの流行をともなって恐るべき惨状を生み出し、1944年任命の飢餓調査委員会報告によっても、飢饉・疫病を直接の原因とするベンガルの死者約150万人と見積もられる有様で、けっきょくインド飢餓史上最大のものとなったのである」(前掲書)とあります。この飢饉は『遠い雷鳴』という映画(1978)にもなりました。

B
 朝鮮現代史は一橋に糟谷憲一がいるので、この教授の出題といってまちがいないでしょう。著書に『世界史リブレット 朝鮮の近代』(山川出版社)がありますから読んでおくといいでしょう。これも添削してきた受験生に薦めてきました。似た問題は過去問にありますが、同教授の出題です。以下。
 1991年の第3問。 
 2002年の第3問。 
 昨年(2008)の第3問。
 今年(2009)の問題は、時間が「1920年代後半から1940年代前半」、テーマが「日本の支配の下で朝鮮がどのように位置づけられたのか、その推移」というものでした。指定語句らしくない「米の増産」も、問の答もほとんど導入文に書いてあります。まさか導入文をそのまま写していいはずはありません。といっても予備校の解答をご覧あれ、ほとんどコピーに近いですね。 
 「位置づけ」は導入文に、「食糧供給基地としての役割……中国侵略のための基地としての役割……労働力・兵力として広範に動員」と書いてあります。これは親切ととって「推移」を書けということなので、指定語句を散らばせながら時間軸にあわせて流れとして書けばいいのだ、と開き直るのもいいでしょう。しかしてきるだけ導入文に書いてないことを書けるに越したことはありません。 
 指定語句は日中戦争だけ、満州事変の後にもっていけば時間順になります。現代史が一橋は詳しいことを考えると、三省堂の教科書が合います。この問題文にピッタリの記述が三省堂の『世界史B』にありました。

 朝鮮では日本向けの米の増産がすすめられたため、農民は窮乏し、日本へわたって低賃金労働者となる者や、中国東北地方に移住する者が増加した。……日中戦争がはじまると、朝鮮では、大日本帝国の国民(臣民)として、神社参拝が義務づけられ、1938年からは学校などでの朝鮮語の使用が禁止され、1939年からは、名前を日本風にあらためさせる創氏改名が強制された。これらは皇民化政策とよばれた。1943年からは朝鮮で、1945年からは台湾でも徴兵制が行なわれた。また、労働力不足をおぎなうために朝鮮人や中国人を強制連行し、朝鮮・中国・フィリピン・オランダなどの女性を日本軍兵士のための慰安婦として戦場に送りこんだ。 

 米の増産や徴兵制は、わたしの持っている範囲では書いている教科書はこの三省堂以外にはありません。
 またもっと詳しくは『詳解世界史用語事典』(三省堂)を薦めます。この用語には、「産米増殖計画」があり、「日本の米不足解消と文化政策の一貫として、 1920~34年に行なわれた米の増産計画。地主制強化、日本型稲作の強制、米流通の地主・日本人による支配のため農民は一層貧窮化し、土地を失った」と解説しています。
 また『朝鮮日報』『東亜日報』という用語もあり、「いずれも1920年に創刊された朝鮮の新聞。民族主義、民衆の啓蒙に大きな役割を果たした。40年に強制廃刊されたが、45年に復刊された」と日本の文化統制が書いてあります。これらは山川の用語集には載っていないものです。

 米の増産と日本への輸出とあれば、朝鮮人は何を食べたのか? 麦や雑穀の大豆・豆・黍などです。朴慶植著『日本帝国主義の朝鮮支配・上』青木書店には、農民の一般的な生活を次のように書いています(p.275)。

 小作農のうち中・小小作人級では住宅のほか付属建物もなく、また耕牛も飼養できず、重要な農具でさえ他人から借用した。住宅は自己の所有であるが、宅地は自小作農民の場合でも地主の所有である場合が多い。小作農民は普通ポロをまとい、雑穀を喰い、小屋に住み築細工や賃仕事で辛うじて生きている状態である。僅かな税金を支払うにも苦しみ、米を売って雑穀を買って食べ、家族がそろって肉食するのは年二回ぐらいのものである。生活費を補うために立毛の作物を抵当にして借金をしたり、また未熟の穀物を取入れて補食をした。  

 日本が朝鮮から奪ったものは米だけではありません。土地・山林・鉱山・漁場もあり、棉花・繭を強要してつくらせ、共同販売制で安価に供出が強制されました。
 これが世界恐慌から満州事変・満州占領・満州国樹立とつきすすみ、とうとう日中戦争にまでいきました。戦火の激しくなるのに伴って朝鮮人の狩りたてがはじまります。 
 朝鮮総督府財務局長だった水田直昌の証言を前掲書はこう引用してまいす(下、p.33)。

 もっと悪いことは、人間を取上げた。何とならば日本においては壮丁が皆兵隊に行くから、石炭を掘る者が要る。五千万トンの石炭を掘らなければならぬ。その六割は朝鮮人、南洋群島で築港、軍港をつくったのも朝鮮人であった。ところが軍の機密ということで、どこにおるか、死んでおるか、生きておるか、連絡しないのでわからない。食糧と人間というものを戦争の犠牲において取上げた。 

 朝鮮人の民族性も奪うべく皇民化改策を実施しますが、これはどの教科書にも書いてあります。