世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2002

【1】 次の文章を読んで、下記の問題に答えなさい。

 ウルバヌス2世が十字軍の必要性を訴えて聴衆の熱狂的な支持をうけたのは、クレルモン公会議でのことである。この演説は閉会式で行われたといわれるから、もともとこの会議の主題は十字軍ではなかった。参加者もそれを予想してはいなかった。しかし、この会議には多数の高位聖職者が集まり、会場は熱気に満ち溢れていた。多数の聖職者たちの行列を見るためにあふれ返るほど多くの群集も集まっていた。これほどの熱気と多数の人々をここにもたらしたのは、クレルモン公会議が重要なものと認識されていたからである。この会議は、彼の2代前のローマ教皇によって開始されていた、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との熾烈(しれつ)な戦いの一環として開催されたものだった。ウルバヌス2世は、ローマ教皇としての自己の権威を広め確立するためにフランスでこの公会議を開催し、教会改革を推進することを目指した。公会議はそのためにいくつかのことを決議した。したがって、十字軍が提唱されたのも、聖地の解放を目指すとともに、ローマ教皇がキリスト教世界の指導者であることを示すためだった、と考えることもできるだろう。第1回十字軍の間にもなお教会改革をめぐる争いが続けられていた、ということを忘れてはいけない。

問題 ウルバヌス2世の前からはじめられ、1122年に一応の妥協をみた「熾烈(しれつ)な戦い」の名称を記し、その過程について説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

  クリュニー修道院  破門  ハインリヒ5世
 (この問題は『世界史論述練習帳new』(パレード)資料編にもコメントを掲載)

【2】 1848年は、フランスやオーストリア、ドイツにおいて革命が勃発し、イギリスでもチャーティズム運動が高揚するなど、ヨーロッパ各国が大きな変動に見舞われた年であった。フランス二月革命を例に取り、こうした変革を求める運動を生み出した社会的・政治的原因を説明したうえで、革命の成果と限界を論じなさい。(400字以内)
 (この問題は『世界史論述練習帳』資料編にもコメントを掲載)

【3】問題A、Bに答えなさい。

A 1937年7月、中国のある都市の近郊で中国軍と日本軍の間で衝突が発生し、その後8年間にわたって続く全面戦争のきっかけとなった。衝突が発生した場所は中華民国の領土内にあったが、当時5000名以上の日本軍がこの都市及びその周辺地域に駐屯していた。この地域における外国軍の駐兵権は、どのような取り決め(条約)に由来するものであったのか、また、駐兵権に関する項目以外にこの条約ではどのようなことが定められたか、その主な内容を二つ述べなさい。(200字以内)

B 日本と中国の間に全面戦争がはじまると、日本の朝鮮に対する植民地支配はいっそう苛酷なものとなった。以下に掲げる史料は、1937年10月に制定された文書で、戦時期の支配政策を特徴づけるものの一つである。この史料を読み、下記の問いに答えなさい。
【史料】
 一、我等ハ皇国臣民ナリ 忠誠以テ君国ニ報ゼン
 二、我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ 以テ団結ヲ固クセン
 三、我等皇国臣民ハ 忍苦鍛錬カラ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン

問い
 日本の朝鮮植民地支配政策は、「韓国併合」以来、どのように変化してきたのかを簡潔に述べたうえで、日中全面戦争の開始以降には、どのような支配政策が展開されたのか、それはどのような特徴をもつものであったのかを説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(200字以内)

  三・一独立運動  創氏改名  強制連行
 (この問題は『世界史論述練習帳new』にもコメントを掲載)


(コメント)
【1】 叙任権闘争という一橋としてはありきたりのテーマです。昨年度の第一問の続編みたいな問題でした。問題文に「ウルバヌス2世の前からはじめられ」とあり、ヒントとして問題文の「彼の2代前のローマ教皇」、すなわちグレゴリウス7世を示しています。
 ただこれが十字軍とのかかわりで説明している問題文を、受験生も書けたかどうかは怪しい。予備校の解答もこのあたりが分かっていないのか、十字軍とのかかわりに言及できていません。聖地奪還との関係でやっと書いているものもありますが、的外れです。
 このことは末尾の「ローマ教皇がキリスト教世界の指導者であることを示すためだった、と考えることもできるだろう」という文章でも強調されています。叙任権闘争の一環として十字軍運動があったことを知っていましたか? これを学んでいれば、なんでもない問題でした。レコンキスタもこのテーマの文脈にあります。対イスラム政策は当時の西欧全体の課題でもありましたから。大学の成立もこの叙任権闘争と関係があることを知っていますか? 西欧史はばらばらに勉強していては分からない。
 「1122年に一応の妥協をみた「熾烈な戦い」の名称を記し、その過程について説明しなさい」という過程・流れの問題ではあるものの、十字軍との関係をどれくらい書けるか……。
 また「クリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世は……」とまちがって書いてはいけませんよ。これはよくあるまちがい(たとえば『ナビゲーター世界史B-1』p.150,151、『本番で勝つ ! 世界史B』p.199)で、グレゴリウス7世はクリュニーに泊まったことはあるものの、ここの修道士ではありません。ウルバヌス2世はこの修道院の出身ですが。
 ハインリヒ4世でなくハインリヒ5世を指定語句にしたところが一橋らしく細かい用語です(かの用語集ではゼロ)が、これは私大的な用語も把握していないと答えられないときもあることを示しています。一橋向きには中世史は詳しく学んでこい、ということでしょう。もっとも使わなくても書くことはできるテーマです。
 叙任権闘争の人物名がまちがえやすいので、しっかり語呂合わせでも覚えておく。皇帝がハインリヒ4世、教皇がグレゴリウス7世。語呂は、H4G7(エッチな4世、グレない)(ハイと呼んだらグレない)。逆にして、G7H4(ジー・セヴンのエッチな4世)(グレないエッチな4世)と書いてくると余計に迷いそう……。どれか気に入ったものをひとつ決めてください。
 1122年のヴォルムス協約は、皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間に結ばれた協定。語呂合わせは、(配合した借り薬はにせもの)。なんかやはり私大向きですね。

【2】 課題は「1848年は、……ヨーロッパ各国が大きな変動に見舞われた年であった。フランス二月革命を例に取り、こうした変革を求める運動を生み出した社会的・政治的原因を説明したうえで、革命の成果と限界を論じなさい。」と明解です。しかし、難点はこの問題提示のしかたのように分解して解答ができるかどうか。四つの課題があります。

 運動(二月革命)の政治的原因
 その社会的原因
 革命の成果
 革命の限界
 たんに流れ的に書いても応えたことにならない。予備校の流れ的な解答をみればこれらの課題に応えていないことを発見するでしょう。なんとか「運動を生み出した社会的・政治的原因」を説明しているものの、「革命の成果と限界」はなんなのか文章としてハッキリ示していません。これらは弱点、たぶん加点してもらえない粗末な答案です。書いたつもり、読み取ってくれよ、と採点官に答えを預けたような甘いものばかりです。
 せめて教科書に書いてあるウィーン体制の崩壊につながったことくらい書いたらいいのに。これはセンター試験レベルです。また『詳解世界史』(三省堂)だったら、「しかし、革命運動の側には、労働者階級の進出をおそれる自由主義者の妥協的態度、民族運動と農民運動との不一致、被支配民族どうしの対立などの問題があった。……1848年の諸革命は挫折したが、その後のヨーロッパはウィーン体制のヨーロッパと同じではなかった。経済面では、中東欧で封建的な諸制度が改革され、資本主義発展のための道が開かれた。とくに領主制が廃止されて、農民の解放が進んだ。政治的には、自由主義をかかげるブルジョアジーが指導的勢力となった。だが、労働者階級の政治的な力が認められはじめ、そのためにブルジョアジーは保守勢力に妥協的となった。また、民族運動が人びとを動かす力であることが示され、各地で農民が政治を左右する存在となってきた。」と長々と書いています。課題はフランスの二月革命だけが問われているものの、この中からいくつも使えるデータがあります。予備校は教科書も見ていないのか? 的中にうつつをぬかす以前に自ら正しい答えが書けるか自問したほうがいいようです。
 受験生にとっては「社会的原因」も難しいでしょう。
 添削をしている一部の受験生には「フランスの1814~1852年における政変を、フランスの社会経済の変動との関連に留意して400字以内で述べよ。」という予想問題をやってもらった。似てはいた。この「予想」は未出題分野という意味で当てるつもりがなかった。当たれば儲けもん、という感覚です。
 
【3】A 200字全部は埋められないでしょう。100字でも書くことです。たいていの受験生がそうだったでしょうから怖くはありません。だいたい、駐兵権以外のこととなれば教科書は巨額な賠償金のことだけで、あと「内容を二つ」も書いてないものです。「詳説世界史」には書いてありますが。想起できたかは怪しい。構わない。ひとつでも書くことです。予備校の詳しい解答に惑わされない方がいいですよ。カンニングして書いているものを「模範」にはできません。

B この問題は過去問に似たものがあります。1991年度の3問目「1930年代後半から日本は植民地朝鮮に皇民化政策という民族抹殺政策を実施したが、その政策の柱となる具体策を三つあげ、政策の意図がどこにあったのか、述べよ(200字)。」今回のは、この皇民化だけでなく、それ以前の朝鮮支配にも言及することを要求しています。皇民化は「日中全面戦争の開始以降には、どのような支配政策が展開されたのか」に該当します。「「韓国併合」以来」とあるので、憲兵政治→文化政治→戦時皇民化政策・強制連行というのが展開です。
 この問題は教科書に記述が十分あります。「詳説世界史」なら
 「朝鮮は日本に併合されたのち、朝鮮総督府によって憲兵警察によるきびしい監視・統制のもとにおかれ、政治団体の解散、集会・言論のとりしまりなど武断政治がおこなわれたため、朝鮮民衆の反発が高まった。1919年3月1日、ロシア革命やウィルソンの十四カ条などの影響をうけて、ソウルで独立を要求するデモがおこり、たちまち全国に広がった。総督府は軍隊も動員して運動を鎮圧したが、この三・一運動(万歳事件)は、以後の朝鮮民族運動の出発点となった。
 その後、日本は武断政治をある程度ゆるめ、「文化政治」とよばれる同化を進める政策をとったが、朝鮮に対する日本の経済的支配はいっそう強まった。」 
 さらに注には「日中戦争前後から朝鮮に対する日本の支配はいちだんと強まり、朝鮮名を日本名に改めさせる「創氏改名」などの同化政策が進められた。戦争中の日本の労働力不足をおぎなうため、朝鮮では労働者の強制連行もおこなわれ、戦争末期には徴兵制も適用された。」とあります。用語集の「従軍慰安婦」にあるように、日本軍が朝鮮女性を戦地に連行し、集団強姦するレイプ制度を整え、日本兵は彼女らを「共同便所」として使いました。
 朝鮮史を学んでおくことは一橋対策として必須です。
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(わたしの解答例)
【1】 君の解答

 

【2】 君の解答

 

【3】A 義和団事件にさいし自国民保護を名目に日本・ロシア軍が中心になって出兵して鎮圧した。この事件にはじめは各国に宣戦布告をした西太后が義和団を裏切って鎮圧側に回った。この清朝と各国が結んだ北京議定書により駐兵権が認められた。さらに巨額の賠償金の支払や反キリスト教運動などの排外運動の取締り、北京周辺の防備撤廃などを約束させたため、中国の半植民地化は決定的になった。
B 日本の憲兵がサーベルをさげて威圧する武断政治は、三・一独立運動が軍と警察によって鎮圧されてから転換した。不十分ながらも結社や言論の自由が認められ、朝鮮語の新聞や雑誌が発行される。この文化政治は日中戦争がはじまると、朝鮮を日本の兵站基地とするため皇国臣民の政策に転換。日本語教育や神社参拝を強要し、太平洋戦争末期には創氏改名と徴兵制も導入され、強制連行と慰安婦制度を整え、民族性と人権を否定した。