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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2010

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 「政治的主権者は、もしキリスト教徒であれば、かれ自身の領土における教会の首長である。キリスト教徒たる主権者たちにおける、政治的権利と教会的権利との、この統合から、政治と宗教との双方における人びとの外的行為を統治するために人間にあたえられうるかぎりの、あらゆる様式の権力を、かれらの臣民たちに対してかれらがもっているということは、明白である。そして、かれらは、コモン-ウェルスとして、および教会としての、かれら自身の臣民を統治するために、かれらが最適と判断するであろうような諸法をつくっていいのであって、国家と教会とは、同一の人びとなのである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』水田洋訳より)

問い 17世紀に執筆されたこの文章は、当時のヨーロッパ世界になお残っていた政治・社会状況を前提に書かれている。中世のヨーロッパ世界では、11世紀後半から13世紀初頭にかけて、皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争は、1122年の協約によって一応の結論に達したとされる。この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは、どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。(400字以内)

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 2008年アメリカ大統領選における民主党候補者争いは、ヒラリー・クリントンとバラク・オバマによる史上まれに見る接戦となった。いずれも本選で当選すれば、アメリカ政治史上、初の女性大統領、黒人大統領の誕生となることから大きな注目を集めることとなった。しかし、歴史をさかのぼれば、そもそも、アメリカ合衆国の建国時、女性にも黒人にも、大統領に立候補する被選挙権はもちろんのこと、政治に一票を投じる参政権すら付与されていなかった。
 アメリカでは、19世紀前半のジャクソン大統領の時代に男子普通選挙制が採用されたが、黒人(奴隷)や女性は蚊帳の外に置かれた。南北の激しい内戦をへて、奴隷制が解体されたのちの再建の時代になって、憲法修正15条により「合衆国市民の投票権は、人種、肌の色、または過去における労役の状態を理由にして、合衆国または州によって拒否または制限されることはない」(1870年)と定められ、黒人男子の政治参加への道が開かれるかにみえた。しかし、白人による激しい抵抗にあい投票権を剥奪され、実質的な政治参加は、約百年後に成立した1965年の投票権法の成立を待たなければならなかった。
 一方の女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった。

問1 南北戦争後の1869年には、アメリカの政治・経済の統合に大きな役割を果たす交通網が完成する。これは何か。また、海外においても同年、ヨーロッパとアジアの距離を短縮する交通史上の大きな変化が起こるが、それは何か。(50字以内)
 
問2 アメリカ合衆国以外の各国においても、この1920年前後に、女性参政権が実現した国々が多い。なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか、その歴史的背景を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(350字以内)

 クリミア戦争 総力戦 ウィルソン ロシア革命 国民

第3問
 次の文章はある国際会議の最終コミュニケの冒頭部分である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 アジア・アフリカ会議はビルマ、セイロン、インド、(A、  )及びパキスタンの各国首相の招請のもとに召集され、(B.  )年4月18日から24日まで(C.  )で会合した。主催諸国のほか次の24カ国が会議に参加した。

 1.アフガニスタン、2.カンボジア、3.中華人民共和国、4.エジプト、
 5.エチオピア、6.ゴールド・コースト、7.イラン、8.イラク、
 9.日本、10.ヨルダン、11.ラオス、12.レバノン、
 13.リベリア、14.リビア、15.ネパール、16.フィリピン、
 17.サウジアラビア、18.スーダン、19.シリア、20.タイ、
 21トルコ、22.ベトナム民主共和国、23.ベトナム国、24.イエメン

 アジア・アフリ力会議はアジア・アフリカ諸国に共通の利害と関心のある問題を検討し、各国国民が一層十分な経済的、文化的及び政治的協力を達成しうるための方法及び手段を討議した。
 (国名は原文に基づく。また、問題作成のため文章の一部改変を行った。)

問1 空欄(A. )、(B. )、(C. )に入る適当な語句を記しなさい。
 なお、Aには国名、Bには西暦年、Cには都市名が入る。次に、このコミュニケのなかで宣言された内容とはどのようなものであったかを説明しなさい。(100字以内)

問2 この会議に中華人民共和国を代表して参加した人物は、1936年にその後の中国国民党と中国共産党との関係に大きな影響を与えた出来事のなかで重要な役割を果たした。その人物とは誰であり、その出来事とはどのようなことであったかを説明しなさい。(150字以内)

問3 この会議にインドを代表して参加した人物は、英国の植民地支配下にあったインドを独立に導いた民族主義的政治団体の指導者の一人であった。この人物および政治団体の名前を記し、次に、この団体の政治運動の展開過程を説明しなさい。(150字以内)


2010年一橋コメント
第1問

 予備校の解答を吟味する前に課題を確認しておきます。
 課題は分かりにくいものでした。
 課題文は「この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは、どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。」です。三つの課題があります。「争い(=叙任権闘争)」のもった意義が二つ(政治と社会生活)、それに追加的に書いてある「協約の意義」そのものです。三つも意義を書くのは過去にない。たぶんこれは言葉のまずさとわたしは見ています。初めの2つは意義より「影響」で良かったはずで、「政治・社会生活に対してもった影響」で良かったと。最後の意義はこのままで良いと。ただ出題者としては意義という言葉をつかうと長い時間をかけた影響になるので強調したかったのだと推測します。
 初めに「争い」の決着としての「協約の意義」を書き、その上で政治・社会生活の長い影響を書く、という順でいくと整理した解答になります。単純化すれば、争いの前と後です。
 この問題の取り方で分かるように、「争い」そのものは書かなくていいことです。問題文に「皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争」と概略を書いてしまっています。叙任権闘争がどういうものだったか書け、という問題なら2002年の問題「ウルバヌス2世の前からはじめられ、1122年に一応の妥協をみた「熾烈(しれつ)な戦い」の名称を記し、その過程について説明しなさい」がありました。
 もちろん闘争のもつ意義ですから、ある程度は書かざるをえませんが、それより闘争の前だとか後だとかに視点・比重をかけた解答でなくてはならないことです。
 叙任権闘争・協約の意義というのも過去問にありました。1987年の「「叙任権闘争」とよばれ、教会と国家の関係に根本的な転換をもたらすものであった。この争乱の概要を記し、また、それがいかなる意味で、ヨーロッパ史上、宗教改革、フランス大革命に匹敵するような大変革であったと言いうるのかを説明せよ」という問題です。ここで書けた意義(大変革)をそのまま使えばいでしょう。

 政治的意義は、争いの「前」にあったオットー1世の帝国教会政策に破綻が起きます。ヨーロッパの最高権威はローマ皇帝であるという押し付け(叙任権)を排除できました。ここに楕円構造という皇帝と教皇の二元体制ができます。協約の段階では、それまで皇帝より低かった教皇権が高まり拮抗した状態になります。
 「後」としては、二元状況を越えて皇帝権に勝るようになったのがインノケンティウス3世のときです。英王ジョンを破門し、仏王フィリップ2世を破門し、第四回十字軍のラテン帝国を破門しました。それらを皆、教皇に国土を寄進し、家臣として主人たる教皇から改めて封土してもらう、という中世独自の偽装封建関係ができて初めて破門が解かれました。
 インノケンティウス3世まで待たなくても、叙任権闘争の途中から、闘争の一環として十字軍・レコンキスタ・東方植民が教皇によって奨励されました。十字軍が叙任権闘争の一環であったことは過去問2002年の導入文と課題文にありました(こちら→)。
 もちろん東方の帝国ビザンツの皇帝教皇主義とはちがい西欧ではそれは不可能であり、政教分離の原則ができたことになります。
 教皇領といわれる教会国家はインノケンティウス3世のときに最大版図を形成します。海軍・陸軍をもつ、れっきとした政治権力でした。これはラヴェンナの寄進から始まり、周辺の領主たちが寄進してきて最大となったのですが、教皇権の高まりなしには考えられない現象でした。

 社会的生活の意義は、何より「社会的」が曖昧なことばであるため、何を書いたらいいのか判らない、というのが受験生一般の反応です。拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)のコラム(ここだけの話)に「社会ってなに?」という詳しい説明があります(p.53)。かんたんに言えば政治以外のすべてです。民族・身分・経済・教育・宗教・共同体など。
 民族なら十字軍から推測できるように、反ムスリム、反ユダヤ人感情が出てきて、じっさいインノケンティウス3世も第四回ラテラノ公会議を召集して(1215)ユダヤ人がそれと判るような、尖がった帽子やマント、頭巾などを着て、ユダヤの印としての黄色のリングをつけることを義務付けました。山川用語集にも「ユダヤ人迫害」のところで、「一般的に十字軍運動以降、激化した」と書いています。
 身分ということでいえば、聖職者が第一に尊ばれる身分となり、都市にも村にも教会が建てられ、ギルド毎の一員として、荘園おける領主の農奴として信徒の生活が営まれるのも、この教皇権の高まりとともに確立しました。
 経済面では、教会に対する十分の一税支払があり、聖職者である領主が荘園の経営者でもありました。西欧全土の3分の1が教会領でした。シトー派を中心に東方植民をおこない開拓の奨励をしたのも教会でした。森を切り開き、道路・橋の建設をし、ワインを醸造したり、三圃制の拡大をしたのも教会・修道院でした。旅行者を保護したり、貧者の生活援助をしたのもそうでした。
 教育という点では、ボローニャ大学の設立の一因は叙任権闘争でした。この闘争の中で政治権力の側にはローマ法があるのに教会の権限を定めた法がないため、教会法をつくるべく、ローマ法大全の古いのが見つかったボローニャで主に学僧たちが集まってできたのが大学でした。教授も修道僧たちでした。ドミニコ派のトマス=アクィナスはパリ大学神学教授です。
 宗教といえば、巡礼熱がさかんでした。十字軍も巡礼の一つとさえ見られました。「イェルサレム巡礼」「聖墓もうで」「道行き」とも言われました。特に今も巡礼が盛んなスペイン西北サンティアゴ=デ=コンポステラはセンター試験にも出ていました(01,07)。

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
1122年のウオルムス協約で「一応の結論に達した」政治闘争は叙任権闘争と呼ばれる。ウォルムス協約では教皇も皇帝もともにカトリック世界における普遍的権威という位置づけが確認された。一般的に政教分離の妥協といわれるものである。ところが実態は教皇インノケンティウス3世が「教皇権は太陽、皇帝権は月」といったように教皇権が皇帝権を上回っていた。それは叙任権闘争の途中で皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に屈服したカノッサの屈辱や、教皇ウルバヌス2世によって十字軍が提唱されたように教皇権が伸長していたからである。そのため現実の政治・社会生活において宗教の影響は深まる。政治と宗教の関係は後に展開する宗教改革で逆転するが、政治と宗教が不可分の存在であることにはかわりがない。まさに、ホッブズが「リヴァイアサン』で述べているように「国家と教会は同一の人々」という状況が生まれたのである。
協約(1122)の意義にあたる「ともにカトリック世界における普遍的権威という位置づけが確認」はできているが、「実態は……皇帝権を上回っていた」は後のインノケンティウス3世(1198-1216)のことを初めからそうであったかのように書いてしまった。政治的意義の「それは叙任権闘争の途中で皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に屈服したカノッサの屈辱」は叙任権闘争の一過程を書いてしまった。この問題は闘争のことは書かなくて良い、それがあったという前提での問題なのです。「ウルバヌス2世によって十字軍が提唱」は政治的意義としてまだいい。「現実の政治・社会生活に……状況が生まれたのである」はまったく中身のない、たんなる問題文の解説になった。社会生活への意義は何かが書かれていない。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/ht1.html
当初の神聖ローマ帝国では、帝国教会体制のもと皇帝が聖俗両権に君臨していたが、教会刷新運動から始まった聖職叙任権闘争は、カノッサ事件より本格化し、1122年のヴォルムス協約で叙任権を教皇、授封権を皇帝に帰する妥協が成立した。これにより皇帝権の神聖性が失われ、帝国教会政策が挫折してドイツの封建化が進むことになった。一方で叙任権闘争と、その最中における十字軍の成功は、西ヨーロッパ世界での皇帝権に対する教皇権の優位性を決定づけ、13世紀初頭には教皇インノケンティウス3世のもと教皇権の極盛期を迎えた。教皇は教区教会を通じて聖遺物崇拝・聖地巡礼熱の高まる民衆を掌握して精神的な主柱となったうえ、集権的な教会組織のもとで独自の教会法や十分の一税を通じ、世俗君主とは別個の普遍的支配を西欧世界にうち立てた。そのため、民衆は聖俗両権による二重支配を受け、世俗君主は領域の排他的・統一的支配を妨げられることになった。
東進とは比べものにならないくらい内容のある良答です。欠点は、叙任権闘争と協約の意義はよく書かれているが、政治的意義が十字軍と3世のとき極盛期だという2点だけであることです。社会的意義は聖遺物崇拝・聖地巡礼熱、十分の一税と、ま、書いている方です。前半に書いてある「ドイツの封建化が進むことになった」と末尾の「世俗君主は領域の排他的・統一的支配を妨げられることになった」は内容重複です。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/hitotubashi/sekai/index.htm
教皇から神聖ローマ皇帝冠を受けたオットー1世は、大諸侯抑圧のため聖職者叙任権の掌握を図る帝国教会政策を実施し、中央集権化を図った。荘園領主として世俗権力の影響を受けた教会では腐敗・堕落が進み、クリュ二ー修道院を中心に刷新運動が展開された。その中で教皇グレゴリウス7世は叙任権闘争を行い、皇帝ハインリヒ4世を破門しカノクサで屈服させた。闘争は続いたが、ヴォルムス協約で叙任権は教皇に、領地承認権は皇帝に認めるという妥協が成立、世俗権力に対する教会権力の優越が確定した。この過程でドイツでは政治的分裂が固定化した。教会は西欧で普遍的な権威となり、独自の教会法と裁判権を行使し「神の平和」運動を推進した。農民に対してはミサや冠婚葬祭を通じて教化にあたり、また十分の一税を取り立てた。こうして教会は秩序の形成に関わり、教皇を頂点とし、村落の司祭を末端とする位階制が確立され、13世紀初めに教皇権は頂点に達した。
叙任権闘争そのものは課題ではないのに、長々と説明しています。協約の意義は「ドイツでは政治的分裂が固定化した」と政治的意義が重なっています。協約の意義をもっと大きな視点で説明すべきです。政治的意義は「教会は西欧で普遍的……運動を推進した」に表されているのですが、少なめです。社会的意義がまあまあ書いてあります。

(代々木)http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/hitotsubashi/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
中世の西欧世界はカールの戴冠以来、皇帝が世俗世界を、教皇が教会を支配する権力として並立していた。しかし、神聖ローマ帝国が成立して帝国教会政策がとられると皇帝は教会に介入、高位聖職者は封建領主として扱われて世俗化し教皇から切り離された。そこで教皇グレゴリウス7世はクリュニー修道院に端を発した改革運動を推進し聖職売買や聖職者妻帯の禁止を定め、叙任権闘争を開始した。これはカノッサの屈辱を経てヴォルムス協約にて決着し、教皇は実質的に聖職者の叙任権を獲得した。その結果、教皇は統一的なヒエラルキーを整え、十分のー税の徴収や信徒の寄付により財源を確保し、カトリック教会全体を支配する普遍的権力となることができた。一方、教皇権の優位を認めた皇帝権は弱体化し諸侯が台頭してドイツの分裂が促進された。同時に、統一された教会は西欧の精神世界に強く影響を及ぼし、冠婚葬祭など信徒の社会生活に積極的にかかわっていった。
これも要らない叙任権闘争の経過を長々と書いています。「その結果」の後のことは正しいことを書いていながら政治的なものと社会的なものがごっちゃに混ざった解答です。政治的と社会的との区別ができなかった。

 わたしの解答例は最下段にあります。合格者の再現答案はこちら→

第2問
問1
 「1869年……交通網が完成……交通史上の大きな変化」とあるので大陸横断鉄道とスエズ運河についてかんたんに書けばいい易問でした。年代は『世界史年代ワンフレーズnew』の語呂は同年なので一緒におぼえます「運河・鉄道で、ひと1869ット」。
 この問1と下の問2とでは何かいやに違和感のある問題が並置されていますが、出題者の意図はどうであれ、この1869年は全米女性参政権協会が結成の年でもあります(山川用語集の頻度1)。この用語集の説明には「1869年結成され、白人女性を中心に拡大した。1848年アメリカのセネカ=フォールズで開かれた女性参政権要求の集会が出発点となった」とあり、三省堂の『世界史B』には、「女性運動も1848年にセネカ=フォールズ会議で女性参政権の要求が決議され、1869年には全米女性参政権協会が結成されるなど、中産階級の白人女性を中心に進展をみた」と書いてあります。
 
問2 
 過去問にない問題でした。「女性参政権実現の背景」という課題です。Z会の解説に「「背景」を説明することが求められているので、各国の女性参政権実現の経緯ではなく、1920年前後という年代から、総力戦のための国民統合の必要性を中心に論じる必要がある」とおかしな取り方をしています。
http://www20.atwiki.jp/zwiki?cmd=upload&act=open&pageid=133&file=033_10W1.pdf
 背景が主であってもテーマは女性参政権であり、しかも一国だけのものでない以上、「経緯」的なものに触れざるをえない問題です。課題文に「なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか」は共通要因ばかりではない「国々」の事情もあります。それに総力戦だけで書けるはずもない350字の字数です。戦争だけが背景でもない。一部の「1920年前後」と取るのも変です。指定語句のクリミア戦争(1853-56)も入れないといけないし、クリミア戦争を総力戦だとは誰も言わないでしょう。無理に一点集中で行こうというのは安易な取り方です。課題は全部受けとめる姿勢がないと良答はできません。
 総力戦と女性参政権とを結びつけるだけでは半世紀を超えた参政権要求運動を展開した女性達を無視することになります。

解答例
(東進) 出典同上
問1
1869年にアメリカでは最初の大陸横断鉄道が開通した。同年、エジプトにスエズ運河が開通される。
問2
クリミア戦争はそれまでヨーロッパの軍事大国であったロシアの敗北に終わる。当時のロシアは未だ専制政治であり、アレクサンドル2世によって自由主義的改革がはじめられる。まさに時代は国民国家の建設、つまり民主政治の進展を必要としたのである。この流れを決定づけたのが第一次世界大戦であった。総力戦となったこの戦争では銃後を守る女性の役割が不可欠であった。おびただしい消耗戦において工業力を支えたのは女性だったからである。女性の地位向上、すなわち民主政治の進展にはロシア革命の影響もある。ウィルソンの14ヵ条平和原則がソヴィエト=ロシアが発表した平和に関する布告に対抗して出されたように、社会主義革命に対抗するために国民統合を進めなければならなかったからである。
課題は女性参政権なのに、これに関連するところは、「銃後を守る女性の役割が不可欠」以外なにもない。「背景」といっても戦争だけが背景ではないし、いくら背景を書くとしても何でもかんでも女性参政権につながった訳ではない。「背景」というのは舞台装置であり、そこで踊る主役が女性参政権です。無関係な舞台装置をいくら述べても「背景」になりません。クリミア戦争、アレクサンドル2世の改革、ロシア革命、十四ヵ条がどう関係してるのか? 関連のない戦争そのものについていくら書いても参政権拡大の背景にならない。ナイチンゲール、ロシア革命による男女平等選挙権付与、ウィルソンの修正19条、イギリス第四回選挙法改正が書けなかったのは予備校として失格。言っておきますが、わたしには東進に何の憎しみもない。いや知っている講師もいます。上に書いていることは事実の指摘であり、悪口ではない。たんなる悪口とおもうひとは事実としての上の解答文をよく見たらいい。わたしが何を言おうと言うまいと上の文章は変わらない。批判されたものは被害者であり、批判したものは加害者である、という取り方が日本の腐った通弊ですが、黙っていることは受験生のためにならない。もちろん、ここに書いているわたしの異見は、わたし個人の異見であり、眉唾つけながら読んで下さい。冷静な目を。f:id:kufuhigashi2:20130623211406g:plain

 

(河合塾) 出典同上
1 アメリカの太平洋岸と東部地域を結ぶ大陸横断鉄道が完成し、地中海と紅海を結ぶスエズ運河も完成した。
2 19世紀の欧米諸国で資本主義が進展するなか、女性の地位向上と社会進出をめざす運動が活発化した。クリミア戦争では従軍看護師のナイティンゲールの活躍が注目され、国際赤十字社の設立につながった。第一次世界大戦は総力戦となり、女性も国民の一翼として軍需工場に動員されるなど各国政府が国民に多くの負担を課し、日常生活も規制した。そのため、戦争への協力の見返りに参政権を要求する声が高まり、各国は戦後の改革を約束することで戦争を継続した。その結果女性参政権は、アメリカのウィルソン政権で1920年に承認されるなど、この前後に各国で認められた。また大戦中のロシアでは、女性労働者のデモからロシア革命が始まり、ソヴィエト政権が成立すると、社会主義活動家が女性の解放を訴えてきたことを背景に、男女の同権が宣言された。
よく出来た解答です。ただ「女性の地位向上と社会進出をめざす運動」が何かが示せたらもっと良いものになった。たんに地位向上でなく、参政権要求運動があったからです。教科書では問1に挙げたように三省堂の教科書に書いてあります。東京書籍の教科書には19世紀の女性運動家の写真が載ってます。山川の『詳説世界史研究』にも連行されるパンクハーストさんの写真が載ってます。キャプションには「警察に逮捕されるパンクハースト夫人 女性たちは、参政権を獲得するために、デモ・すわりこみ・戸別訪問・演説など、できるかぎりの手段をとった。投獄さえもおそれなかった」とあります。これは第一次世界大戦前の運動です。「戦後……戦後」と書いてますが、戦争末期の1918年にイギリスで女性参政権が30歳以上に認めらたこと(第四回選挙法改正)に気がつかなかったのでしょうか?

駿台) 出典同上
1 大陸横断鉄道。エジプトで仏のレセップスが建設を指導したスエズ運河が開通し、地中海と紅海が結ばれた。
問2
2 仏革命以降、国民国家形成の過程で女性参政権実現が叫ばれた。クリミア戦争でナイティングールが従軍看護婦として活躍するなど、一部の女性が社会進出したが参政権は実現しなかった。第一次世界大戦が長期化し、国家の生産力が勝敗を左右する総力戦に突入すると、従来家庭で良妻賢母たることを求められていた女性が工場労働に従事するようになった、総力戦で高揚した社会主義運動と女性運動が結ぴ付き、ロシア革命後ソヴィエト政権は女性参政権を付与した。これらの運動は資本主義諸国でも圧力となり、英ではロイド=ジョージ内閣の第4次選挙法改正で一部の女性に参政権が付与され、第5次改正では男女普通選挙が実現した。また独では敗戦後のヴァイマル憲法で、米ではウィルソン政権下で女性参政権が付与されるなど、女性が国民国家に組み込まれた。
「実現が叫ばれた」のは誰が叫んだのかがハッキリしない。主語がないため。女性たち(女性知識人)が発表した、でいい。フランス革命期の声明は劇作家オランプ・ドゥ・グージュが1791年9月に発表した『女性および女性市民の権利宣言』があり、イギリスでは1792年に作家メアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』が出版されてます(『世界史史料 6』岩波書店)。第一次世界大戦での戦場での働きが書いてないが、これはどの解答例にもあてはまります。ロシア革命以降はよく書けてます。

代々木) 出典同上
問1 アメリカでは大陸横断鉄道が開通した。エジプトでは地中海と紅海を開通させるスエズ運河が完成した。
問2 19世紀前半における国民国家形成では女性の参政権が無視され続けていた。19世紀半ばに起きたクリミア戦争ではナイティンゲールが看護活動に従事して女性が戦場で活躍すると、国際赤十字社の設立に影響を与えるとともに女性の社会的地位向上の気運を高めた。やがて第一次世界大戦が勃発すると国民を総動員した総力戦となり、男性に代わる労働力としての女性の存在が再認識された。その結果、女性から参政権が要求されるようになった。また大戦中にロシア革命が起き、成立したソヴィエト政権は社会主義的平等から女性参政権を認めた。これらの影響を受け、戦後のアメリカではウィルソン大統領のもとで女性に参政権が与えられた。同様にイギリスでは第4回選挙法改正が、ドイツではヴァイマル憲法が制定され、女性参政権は一挙に普及していった。
これも内容のある良答です。「その結果、女性から参政権が要求されるようになった」はまちがいで、それは18-19世紀からあり、その実例は上でも挙げました。「ナイティンゲールが看護活動に従事して女性が戦場で活躍する」は第一次世界大戦でもそうでした。これはどの答案も教科書も挙げていませんが、次のサイトをご覧になれば戦場で働き、かつ戦った兵士がいたことがわかります。
 看護士としてでなく兵士として参加した女性達のことは、次の二つのサイトで見られます。
http://userpages.aug.com/captbarb/femvets4.html
http://www.firstworldwar.com/features/womenww1_one.html

 またクリミア戦争における看護活動や看護学校の設立者であったことだけがナイチンゲールの功績でないことは、次のブログに指摘してあります。
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-258.html


 わたしの解答例は最下段にあります。

第3問
 易問でした。
問1 
 空欄(A.インドネシア)、(B.1955年)、(C.バンドン)というアジア・アフリカ会議についての私大のような問題でした。この1955年は会議・条約の年といってもいいくらい多い。それで『『世界史年代ワンフレーズnew』ではバンドン会議・バグダード条約機構・ジュネーヴ4巨頭会談・ワルシャワ条約機構とあり、「バ・バ・ジワ、防1955わい」が語呂になってます。
 「コミュニケのなかで宣言された内容」とは平和十原則といわれるものですが、この十個全部書けるひとは少ないでしょう。前年の周・ネルーの平和五原則を拡大したものなので、この五原則だけでも書いておくことです。領土主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の5つ。これに基本的人権と国連憲章の尊重、人種と国家間の平等、集団防衛の排除(大国主義の抑制)、正義と国際義務の尊重などが加わります。
 平和五原則の覚え方は「両(領)親(侵)不干渉へへ」。

問2 この人物が誰かは、問1の平和五原則にかかわること、「1936年にその後の中国国民党と中国共産党との関係」とあれば西安事件だ、と推理できたかどうか(『ワンフレーズnew』の語呂は「西安の人1936」)。「この事件の解決に共産党の周恩来が協力し」(三省堂『世界史B』)という説明を授業でうけているかどうか。山川用語集には「中国共産党の周恩来らの説得によって」と書いてあります。説得の必要性は、すぐは折れない蒋介石に対して、張学良と楊虎城の名で、全国に向かって内戦停止、一致抗日を訴えたため国中(「蒋」は異体字。)が粉糾しだしたからです。中国の最高指導者の監禁という異常な事件に対して、裁判や公開処刑の声もあがっていました。張の依頼を受け、周恩来・葉剣英らが延安から飛来して、蒋介石を説得するとともに、南京代表の宋子文、宋美齢らと折衝を重ね、和解に達しました。この会談の結果、すぐ第二次国共合作ができたのではないが内戦停止にはなりました。この事件をおこしたことで、張学良はその後、蒋介石によって幽閉され、そのまま台湾に連れて行かれて軟禁され、50年以上もの軟禁が解かれたのは1990年でした。ハワイで100歳で亡くなります(2001年)。

注 学生からの質問で、青本・一橋・2010年度第3問・問2に間違いのあることを知りました。 その解説に次のように書いてあります。

 よく「延安から駆けつけた」と書いてある本もあるが、この時点では共産党はまだ延安に辿り着いていないので、余計なことを書かないことである。

 1「延安から駆けつけた」と2「この時点では共産党はまだ延安に辿り着いていないので」が関連しているかのように書いている点がまちがっています。すべての共産党員が長征中で、到達していない延安から西安に駆けつけられるはずがない、という誤解です。 
 著者に確かめてみると、用語集の「延安」が共産党の「1937年初めに毛沢東らが移って」とあるので、1936年時点でまだ入っていないから無理だととっていることが判明しました。長征が終わった1936年10月は、延安より相当西にある呉起鎮に到達したことを指しているが、延安にはまだ入っていない、と。 
 第一の誤解は、呉起鎮に入った最初の第一方面軍部隊は前年の1935年10月であり、他の部隊である第二、第四方面軍と合流したのは36年10月です。しかし長征の軍は主なもので第一、第二、第四、第六、第二十五軍とありました。このうち第二十五方面軍は呉起鎮についた第一方面軍と違い、第一方面軍より先に、呉起鎮を通らないで直接延安に到着しています。 
 この到達とは無関係に、周恩来は西安事件(1963年12月12日)の起きる前に2回、1936年4月9日と5月12日に延安で張学良と会っていて、この年だけで3回も会うことになります。なぜそれが可能かといえば飛行機です。張学良は自家用飛行機を操っていて、張学良の方から延安に飛んでいます。NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(角川書店)に会見場所のカトリック教会の写真と張が周に会ったときの感激が長文で載ってます。 
 また西安事件のときに張が直接飛ばないものの、部下に周恩来を載せて西安に来るように指示した様子が、岸田五郎著『張学良はなぜ西安事変に走ったか』(中公新書、p.125)に書いてあります。「延安から西安へ」という題で詳しく飛行機(ボーイング247)で延安から西安に向かったことが書いてあります。 
 これらの説明をしましたが、未回答のままです。

問3 「この会議にインドを代表して参加」とあっても前年のチベットに関する周恩来との会談で現れた初代首相ネルーのことであり、この時期のインドの人名としては他にガンディー以外に出てこない。このガンディーは暗殺(1948)されていて会議(1955)には出られない。この人物は東大(2010)でも、第3問・問(10)「インドの独立運動に参加し、1947年の独立直後に首相を務めた政治家は、すぐれた歴史認識の持ち主でもあり、獄中で『インドの発見』を書いた。この人物の名を記しなさい」と出ました。

 「この団体の政治運動の展開過程」は昨年(2009)の第3問Aに「イギリスの植民地インドでも、第一次世界大戦の影響も加わり、(2)重要な政治的展開」や、(3)経済的な変化」が生じた。と導入文にあり、問いは「下線部(1)、(2)、(3)を説明しなさい。(200字以内)」でした。(2)でこの国民会議派を登場させないでは書けない問題でした。類題としては、京大(2009)に「インド亜大陸の民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の関係や立場の違い、およびこれをめぐるイギリスの政策について、1947年の分離・独立までの変遷を300字以内で説明せよ」があります(こちら→)。あくまで国民会議派中心のかんたんな説明をすれば満点も難しくない。

解答例
東進) 出典同上
問1 A インドネシア B 1955年 C バンドン
この宣言とは平和十原則で、基本的人権と国連憲章の尊重、主権と催土保全、人種と国家間の平等、内政不干渉、自衛権の尊重、集団防衛の排除、武力侵略の否定、国際紛争の平和的解決などがうたわれている。
問2 周恩来は1936年の酉安事件に重要な役割を果たした。西安事件は国民党と共産党の内戦において、延安に拠点を置く共産党掃討の役を任ぜられていた張学良が、西安に督戦に赴いた蒋介石を監禁した事件で、周恩来はこれを仲介し抗日民族統?戦線の結成に至る。
問3 ネルーの所属したインド国民会議派は、1885年に設立当初は親英団体であったが、ベンガル分割令を機にカルカッタ大会で反英に転じた。第一次世界大戦後はガンディーの指導の下でイスラームとも共闘を行うが、次第にヒンドゥー教徒の団体と云う性格を深め、インド共和国建国の中心となる。

河合塾) 出典同上
1 Aインドネシア B1955 Cバンドン。平和五原則を発展させた平和十原則は、国連憲章の尊重、主権と領土の保全、人種と国家聞の平等、自衛権の尊重、武力侵略の否定などを掲げ、反植民地主義と平和共存を訴えた。
2 周恩来。満州事変後に日本軍の侵略が激化し、抗日運動が拡大するなか、中国共産党の八・ー宣言の影響を受けた中国国民党の張学良らが、内戦の停止を求めて蒋介石を監禁する西安事件を起こした。中国共産党の周恩来は延安から西安に来て、蒋介石を説得した結果、蒋介石は抗日に同意し、第2次国共合作の道を聞いた。
3 ネルー。国民会議派。当初は知識人などを中心とする親英的団体であったが、ベンガル分割令を機に反英的団体に転化し、カルカッタ大会で自治を要求した。第一次世界大戦後、イギリスが自治を認めなかったため、ガンディーは非協力運動に民衆を動員した。その後ラホール大会で完全自治を要求し、独立運動の中心となった。

駿台) 出典同上
1 Aインドネシア B1955 Cバンドン 領土主権の尊重、内政不干渉、平和共存などの平和五原則を拡大した平和十原則を採択。反帝国主義・反植民地主義の理念を打ち出し、非同盟運動やアフリカの独立運動などに影響を与えた。
2 周恩来。満州事変後、侵略を進める日本に対し、1935年、長征途上の中国共産党はハ・一宣言を発して、内戦の停止と抗日民族統?戦線の結成を訴えた。これに共鳴した張学良は36年、督戦に西安を訪れた蒋介石を監禁し、内戦停止・一致抗日を迫った。共産党の周恩来の説得により蒋介石が抗日に同意し、政府の改組を表明した。
3 ネルー。国民会議派。ボンベイ大会で地主や知識人が親英組織として結成。その後急進化し、ティラクが主導するカルカッタ大会でスワラージなど4綱領を採択。戦間期、ガンディーが非曇力・不服従運動を指導し、ラホ一ル大会はネルーの主導で完全独立を採択。ムスリム連盟との対立激化により、パキスタンとは分離独立した。

代々木) 出典同上
問1 Aはインドネシア、Bは1955年、cはバンドン。平和五原則を具体化させた平和十原則を発表し、反植民地主義と平和共存を理念として、主権と領土の保全、内政不干渉、自衛権の尊重、武力侵略の否定などを唱えた。
問2 周恩来。内線(←原文のママ)の停止と抗日民族統一戦線の結成を提唱した中国共産党の八・一宣言に共鳴した張学良は、対共産党戦の督促に西安を訪れた国民党の指導者蒋介石を監禁し、対日戦の断行を訴えた。この西安事件に対して共産党の周恩来が蒋介石の説得にあたり、抗日戦実行の約束を取り付け、こうして第2次国共合作が実現した。
問3 ネルー、国民会議派。当初は親英的団体として設立されたが、ティラクが指導者になると反英化しベンガル分割令にはカルカッタ大会で四大綱領を採択して抵抗した。一次大戦後はガンディーの非暴力・不服従運動に協力。ラホール大会でプールナ=スワラージを掲げて独立運動を展開、独立達成後は政党化し政権を担当した。
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(わたしの解答例)
 上に予備校の解答例を挙げ、その批判もしました。他人の答案を批判して自分の答案を隠すのは卑怯なので今年に限り自分の解答例も挙げておきます。比較してみてください。他の年度の解答例を挙げてないのは、一度掲載したときに参考書の会社でわたしの解答をまねたもがあったからで、今年だけにします。もっとも『世界史論述練習帳new』(パレード)を買っていただいた方には、他年度の解答例をメールで配信しています。
第1問
この協約により教皇が聖職者の叙任権を、皇帝が世俗の封土権を持つと決まり、皇帝は叙任権を失った。オットー1世以来の帝国教会政策の破綻となり、従来より教皇権が高まり皇帝権に拮抗するようになった。意義はビザンツのような皇帝教皇主義は西欧では成り立たないこと、政教分離が原則となり楕円構造ができたことである。後の宗教改革がキリスト教を二分し、フランス革命が宗教を否定したことに匹敵する大変革であった。政治的意義は教皇の呼びかけは全欧にひびき、十字軍・レコンキスタ・東方植民のように軍事的活動を促す効果をもつようになった。教皇領はインノケンティウス3世のときに最大となり、各国君主を臣下とする権威をもつに至った。社会的意義は、聖職者は第一身分と位置づけられ、農民・市民は教会の一員として生涯をおくる体制が教区毎に整ったこと。巡礼が奨励され、ゴシック寺院が都市の中心に建てられた。ユダヤ人はゲットーに隔離された。
第2問 
1 この年、米国では大陸横断鉄道が開通し東西の海岸を結んだ。スエズ運河は地中海・インド洋間を短縮した。
2 クリミア戦争でナイチンゲールが活躍したのがきっかけで赤十字がつくられ、戦場に女性が看護兵として参戦する機会が出てきた。19世紀後半には欧米各国で女性参政権獲得の運動が展開し、パンクハーストのような過激な運動者も現れた。国民総力戦となった第一次世界大戦になると、銃後の女性も工場・病院・会社で働き、戦場でも看護兵・兵士として参加した。戦争中に婦人たちのパンと平和を求めたデモ行進がきっかけでロシア革命がおき、ソヴィエト政府は男女平等の選挙権を与えた。またこの大戦は長くつづいた君主支配を終わらせ、民主化が世界の趨勢となった。こうした運動・参戦・革命の成果として、英国は戦争末期に30歳以上の女性に参政権を認め、ドイツではヴァイマル憲法で、米国ではウィルソンの提案で修正19条により参政権が認められた。
第3問
問1 
インドネシア、1955年、バンドン。欧米による植民地時代の終焉を告げ、領土主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、互恵平等、平和共存、国連憲章の尊重や人種・国民の同権、大国主義の抑制などを唱えた。
問2 
周恩来。20年代の合作は上海クーデタで崩壊し、国民党は一応の中国統一を果たすと共産党攻撃を始めた。日本に対して一致抗日を訴えると、張学良が応え、西安に督促にきた蒋介石を監禁し説得しようとしたが失敗した。そこで周の来訪を延安に願い三者会談が開かれた。内戦停止となり再合作の土台が成立した。
問3 
ネルー。インド国民会議派。結成は英国側から促された親英団体であったが、次第に反英的な組織に変貌した。1906年のカルカッタ大会で自治を要求し、29年のラホール大会では完全独立を要求した。20年代共闘したムスリム連盟と対立を深め、第二次世界大戦後にこの団体が中心となってヒンドゥー教のインドが独立した。