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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2011

第1問
 次の文章は、フス戦争の直前に、フス派(フシーテン)によって作成された「プラハの4ヵ条」の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 チェコの共同体と、神のもとに忠実なキリスト教徒たちは、……主イエス・キリストによって新約聖書のなかで命じられている以下の4ヵ条以外には何もなさず、求めず、自らのあらゆる財産および生死をかけて、可能な限り、神の加護を得て、これに反対するあらゆる人々に対抗しようとするものである。……
 4. 死に値する罪を犯した人々、とくに公然とあるいはそうでなくても神の法に背いた人々は、どのような身分であれ、しかるべき方法で、そのための職務を有する人々によって捕えられ、取り締まられるべきであり、……
 それらの罪とは、……聖職者においては、聖職売買の異端、そして洗礼や堅信、告解、神の体[聖体]や聖油[の付与]と結婚に際しての金銭の徴収、……死者のためのミサ、徹夜の祈祷、その他の祈祷などを有料として金銭を徴収すること、埋葬、教会の歌、鐘[を鳴らすこと]のための金銭の徴収、教会や礼拝堂、祭壇、墓地の聖職者の叙階における金銭の徴収、贖宥による金銭の徴収……などである。
  (ヨーロッパ中世史研究会編『西洋中世史料集』より、一部改変)

問い フス戦争へと至った経緯を踏まえるとともにフス派が何に対して戦っていたかに重点を置きつつ、その結果と歴史的意義を論じなさい。(400字以内)

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 明治4年11月12日(陰暦)、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを副使とする総勢46名の外交団をのせた商船アメリカ号が横浜港を出港した。一般に岩倉使節団と呼ばれるこの一行は、約3週間の太平洋横断航海ののちサンフランシスコに到着し1年半あまりに及ぶ長い欧米歴訪を開始した。竣工したばかりの大陸横断鉄道などを使ってワシントンD.C.へ移動した岩倉らは、その後、大西洋を渡ってロンドンへ、ドーヴァー海峡を越えて(a)パリへ行き、ここで、(b)明治6年1月1日の改暦(注)を迎えた。その後も、ブリュッセル、ハーグ、ベルリン、サンクトペテルブルク、コペンハーゲン、ストックホルム、ローマ、ウィーン、そしてベルンなどの各都市を訪問した一行は、同年7月にマルセイユから再び船上の人となり、完成まもないスエズ運河を経由して、9月に横浜に帰着した。
 岩倉使節団の目的は、幕末に相次いで結ばれた条約の締約国を訪れて元首に謁見し、加えて条約改正の予備交渉を行うこと、さらには、欧米諸国の政治制度、経済状況から都市や農村の景観に至るまで、さまざまな側面について見聞を広めることであった。
 随行した久米邦武が帰国後にまとめて出版した記録『特命全権大使米欧回覧実記』には、多くの風景スケッチや各国についての概説がもりこまれており、明治初年の日本人が欧米に対してどのようなまなざしを向けていたかを知ることができる。とくに、本書で久米が大国だけでなく、東欧や中欧の小国についても十分な紙幅を割き、それぞれが有する可能性と直面する課題を論じていることは注目に値する。小国に対するこのような関心は、その後、日本が大国への道を歩み始めるにつれて急速に薄れていくことになる。
 (注) 陰暦明治5年12月3日を陽暦に基づき明治6年1月1日とした。

問1 下線部(a)での滞在中に、久米らは、その2年足らず前にこの都市を舞台にして起こったある出来事で最後の大規模な戦闘があった墓地を訪れている。この出来事については、カール・マルクスが『フランスにおける内乱』と題した冊子で議論している。この出来事を説明しなさい。(50字以内)

問2 下線部(b)に先立つ十数年間のうちに、ヨーロッパの国際関係は大きく変化した。この変化が準備し、この世紀の末にかけて顕著になる国際関係上の趨勢を視野に入れながら、この変化を説明しなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(350字以内)

 教皇 ヴェルサイユ 資本 バルカン アフリカ

第3問
 次の文章を読み、問いに答えなさい。

 明の自滅と清の入関は、 (A. )にとって大きな岐路となった。(A. )は福州において皇族の朱聿鍵を唐王として擁立したが、1646年に福州が陥落すると清に帰順した。……これに対して息子の(B. )は官僚になるための研錆を積んでいたためであろうか、父と別れて清に抵抗する道を選んだあと、一個の政権を目指して活動を展開する。
 清朝は(B.  )を弱らせるために、順治13年(1656)には、沿海地域の商船が出航して(B.  )の側に食料や貨物を売ることを禁止し、さらに玄ヨウ(火+華、康煕帝)が即位した順治18年(1661)には福建省を中心に広東から山東にかけて、海岸線から30里(約15キロメートル)以内の地帯の住民を内陸に移住させる政策を強行した。
 沿海地域を無人化するこの(c. )は、私たち現代人の感覚からすると無謀であるように感じられるものの、福建の沿海地域で村落調査をしてみると、確かに実行されたことが明らかである。(B. )の勢力は本土から切り離され、海上に孤立した。(B. )は厦門から撤退し台湾に拠点を移した。
台湾に2万5000の将兵を率いて移った(B. )は、康煕元年(1662)には(D. )人が築いていたプロヴィンシア砦(赤嵌城)を攻略し、ゼーランジディア砦(台湾城)を包囲し、(D. )人勢力を台湾から撤退させた。
  (上田信『海と帝国:明清時代』より、一部改変)

問1 空欄(A. ) (B. ) (C. ) (D. )に当てはまる語句を答えなさい。なお、A、Bには人名、Cには政策名、Dには国名が入る。さらに、Dが17世紀アジアにおいて展開した活動について述べなさい。(200字以内)

問2 Bが台湾にその拠点を移した直後、漢人武将による清朝に対する大きな反乱が起こった。その反乱とは何であるかを述べたうえで、その経緯、清朝史において有した意味を論じなさい。(200字以内)


2011年
第1問

  課題は「フス戦争へと至った経緯を踏まえるとともにフス派が何に対して戦っていたかに重点を置きつつ、その結果と歴史的意義を」でした。ここに4つの要求があります。
 1) フス戦争へと至った経緯
 2) フス派が何に対して戦っていたか(目標)
 3) 結果
 4) 歴史的意義

  1) これは、a フスの活動→b 公会議・処刑→c フス戦争・妥協(鎮圧)、という経緯になります。a については、ウィクリフの教会批判(教義・聖書無視・シスマへの批判)が必要です。そしてこれに共鳴したプラハ大学の学者がオクスフォードを訪れてウィクリフの教説を持ち帰ったこと、あるいはフス自身はイギリスに渡っていないが、ウィクリフに共鳴したことを書いておく。フスはチェコ訳聖書をつくった点でもウィクリフの英訳聖書(聖書主義)に影響を受けていたことが挙げてあること。
  b 公会議がコンスタンツ公会議であること、召集したのが皇帝ジギスムントであること(不可欠ではないが)、討議の内容にシスマ(教会大分裂)とウィクリフ・フスの異端裁判の二つ。そのうちシスマは3人いた教皇をローマだけの教皇にして他の教皇(庁)を廃止したこと、公会議主義といって教皇は公会議の決定に従わなくてはならないことも決めたこと。これによって教皇の地位が公会議の下に位置づけられました。これは教科書に書いてない知識です(拙著『センター世界史B各駅停車』には「以後教皇は公会議の決定に従わねばならなくなったため、教皇権はより落ちこみました」と書いてます)。
  次は、二人とも異端と裁定し処刑したこと(ウィクリフは既に死去しているので墓から骨を取り出して燃やし、これで焚刑処置をしたことにして、灰をテームズ川に放った)が必要です。
  c フスの処刑後にボヘミア(ベーメン)の王として新たに赴任(位は1419-37)してきたのが公会議の召集者であるジギスムントであり、怒りはフス派に高まったこと、19-36年の戦争に発展したこと、皇帝軍側もなかなかフス派を鎮圧できずに苦しみ約20年ほどの戦争になったこと、倦怠もあり、結果は妥協に達して終了した。
  これらのことについて書いている教科書で一番詳しいのは詳説世界史でした。以下。

  14世紀後半、イギリスのウィクリフは、聖書こそ信仰の最高の権威であって、教会はその教えから離れていると批判し、聖書を英訳するなどして自説の普及につとめた。ベーメンのフスは彼の説に共鳴し、教皇からの破門にもひるまず教会の世俗化を批判した。こうした宗教界の混乱を収拾するため、ドイツ皇帝の提唱によってひらかれたコンスタンツ公会議(1414~18年)は、彼ら2人を異端と宣告し、フスを火刑に処し、ローマの教皇を正統と認めて教会大分裂をおわらせた。しかしベーメンではチェコ民族運動と結んだフス派の反乱が長く続くなど(フス戦争)、もはや教皇権の勢いはもどらなかった。それからもキリスト教の革新運動は跡をたたず、やがて近代初頭の宗教改革につながるのである。(322字)

  東京書籍は187字、実教出版は179字、帝国書院は注で説明していて、129字、山川の別の教科書『新世界史』は205字でした。字数だけなら300字書けたらベスト、という奇問でした。400字満たせるかどうかは検討なしに出題する、という一橋の悪い癖がまた現れた、という問題でした。
  このフス戦争(1419-36)が「長く続」いたのはフス派の優勢でほとんど戦争が展開したからでした。神聖ローマ帝国側として5回もこのフス派を討つための十字軍を派遣しながら倒せませんでした。いやむしろフス派の方が果敢に攻撃し、シュレジエン、ハンガリー、オーストリアなどにしばしば遠征し、北方ではプランデンプルクの国境に迫り、西に向っては大挙ザクセン、テューリンゲン、フランケン地方を侵し、1432年にはオーデル河畔のフランクフルトからベルリンの北まで進撃しました。双方とも戦い疲れて止めた、というくらい長い戦闘をくりかえしました。

  2) 戦うターゲットはリード文の「4ヵ条」にあげてある「チェコの共同体」が示唆している民族主義がひとつ。これは大学におけるドイツ人教授やドイツ人商人の横暴にたいするチェコ人の反発があったこと。これを書いている教科書はないです。大学でのチェコ語の授業も許可してほしい、という民族的要求がありました。
  リード文の「新約聖書」については、上に引用した詳説世界史にあるようにウィクリフの聖書主義を受けついでおり、これはそのまま宗教改革につながるものです。ラテン語(聖なる言葉で書かれた『ウルガータ』)しかなかった当時、英語やチェコ語という庶民の言葉(俗語)に訳すのは冒涜である、という考えに挑戦しています。
 後はリード文に書いてある教会の腐敗、ことごとに金をとる教会行事のあり方にたいする批判がターゲットでした。

  3) 結果は鎮圧されたでも、妥協でもどちらも可能です。妥協とは、フス派の要求していたドイツ人の横暴の是正、大学におけるチェコ語の授業の許可というチェ人側の要求が満たされたからです。

  4) 歴史的意義のうち「さよならの意義」は教会批判というタブーは弾圧されて西欧の大きな問題に発展しなかったが、このフス派の場合は戦争に発展したこと(フス戦争より規模の小さいフランス西南部だけのアルビジョア派を鎮圧する十字軍が派遣されたことを別にすれば)。
  「こんにちはの意義」は教科書にあるように、宗教改革の先駆、国家教会主義(国家や民族を第一として、教会をその支配下に置こうとする政策、これは国教会や領邦教会への先駆)、民族(国民)主義の萌芽、ということになります。三十年戦争や主権国家にまでつなげるのは飛びすぎです。まだ宗教改革も起こっていないので、それも飛び越えることになりますし、「主権国家」はこれも三十年戦争の結果として固まるかたちなので、飛びすぎです。15世紀前半の出来事を17世紀まで無理に結び付けない方が、史実を信条とする歴史学の抑制です。確かにフス派のひとびとは三十年戦争でも戦った、という言い方はあるのですが、刺激されて再起した、とはいえても、じゃその間どうしていたの? という問いに応えられないはすです。

第2問
問1 『特命全権大使米欧回覧実記』は2003年第2問にも引用されてアメリカの南北戦争に関しての設問がありました。
  導入文の初めにある「明治4年」とは明治維新が1868年だから、1871年と計算できます。じっさい岩倉使節団は1871年(明治4)から73年(明治6)まで世界を見て回り2年弱の旅は終わりました。フランス滞在中に「2年足らず前」とは出発(11月)の前ということになり、1871年のパリでの「大規模な戦闘」に発展したものはパリ=コミューンしかないでしょう。設問文にある「戦闘があった墓地を訪れている」のところは『米欧回覧実記』(岩波文庫、三巻、p.82)に、

 此墓地ハ、去年「コンミュン」ノ乱ニ、「コンミュン」ノ党、此ヲ占メテ屯営トセルヲ、政府ノ兵、前後ヨリ回リ出テ、烈戦ヲナシ、此墓間ニ於テ、三百余人ヲ屠殺セリ、其時紅血漂ヒ流レテ、墓中ナル大路ノ坂ヲ、混沌トシテ流レ下リ、屍ノ丘ヲ築キヌ、此ヲ「コンミュン」ノ乱ノ畢(おわ)リナリトスル……

 これは「血の一週間」といわれる政府軍とパリ市民との最後の戦闘場で、ペール=ラシェーズ墓地を描いています。
  マルクスの『フランスの内乱』では「コミューンのほんとうの秘密はこうであった。それは、本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」(『マルクス=エンゲルス全集』大月書店、第17巻)と高く評価しています。この内乱が終わった直後にこの文章が発表されたため、コミューンの黒幕はマルクスだと各国の新聞は書き立てましたが、かれは当時ロンドンで時事問題の評論をしていただけでした。
  いずれにしろこの高評価はレーニンに毛沢東に(人民公社はパリ=コミューン再現)うけつがれます。このことについては拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)の「意義」を書くにはどう書くか、という説明文の中で論じています(p.99-100)。
  教科書はマルクス・レーニンがいうほどの階級闘争史観ではないものの結構な評価をして書いてます。「3月に革命的自治政府を樹立した。これをパリ=コミューンといい、労働者などの民衆が中心となってつくった世界史上初の自治政府であった(詳説世界史)」、「史上最初の労働者・市民による自治政府(東京書籍)」と。普仏戦争とその敗北、パリ市の抵抗、パリ=コミューン、という流れを書けば50字に近づくはずです。

問2 
  分かりにくい設問です。下線部(b)「明治6年(1873)」「に先立つ十数年間」とは1850年代半ば頃から、という時間設定は何か。1848年革命なら「先立つ数十年間」ですが、そうではなく、「十数年間」にどれほどの意味があるのか。「ヨーロッパの国際関係は大きく変化した」どんな出来事があったのでしょうか? クリミア戦争(1853-56)くらいが該当しますが、しかしこれは「大きく変化」というほどの出来事でしょうか? どうも課題はこの「先立つ十数年」でなく「間のうちに」に意味があるようです。クリミア戦争の後に、デンマーク戦争(1864)、普墺戦争(1866-67)、普仏戦争(1870-71)などプロイセンの台頭があり、この国が主導したドイツ統一です。またイタリアの統一(1861-71)もこの時期に重なっています。
  内政面は1848年革命によってウィーン体制の抑圧的体制が緩んできたことは言えますが、外交的には、つまり国際政治の面では、出発点のクリミア戦争によってウィーン体制の保障した五国体制が崩れた、ということを、いくらか誇張気味にいいます。ある予備校の「クリミア戦争でオーストリアとロシアが反目したことで保守反動体制は完全に崩壊」は内政面でも誇張ですが、外交面で「完全に崩壊」は言えないものの、一角が崩れる現象が現れました。つまり五国同盟を建前とした英仏普墺露の5国によるヨーロッパの平和、勢力均衡を保つはずのものが、この戦争で墺と露が対立し、この5つの列強が自己の欲望まるだしで行動するようになる事態が生まれます。強力な指導力を発揮するビスマルク、ナポレオン3世、カヴール、リンカンの登場です。
  この辺りを教科書(詳説世界史)では、

 19世紀後半にはいるとヨーロッパは好況期をむかえ、世紀末にかけて、各国で大衆の政治参加がすすんだ。他方、クリミア戦争におけるロシアの敗北によって、国際秩序は大きく動揺し、それ以後、イタリアやドイツの統一が軍事力によって実現された。1870年代には、ドイツの宰相ビスマルクが、あらたな国際体制の構築につとめたが、列強間の利害の対立は深刻であった。

 というくだりです。クリミア戦争だけなら「動揺し」たには違いないものの、それがすぐ現れた訳ではありません。パリ講和会議は、ロシアが徹底して敗北した訳でもなく、戦勝国なのかどうかもハッキリしないまま、もっぱらサルデーニャのカヴール首相が根回ししてまとめた会議でした。まだここにはプロイセンは参戦もしておらず、会議の仲介役はしましたが主役という役割を演じてはいません。戦争中に軍備強化につとめただけでした。戦前の国際政治の面々が変わったのでもない。ただひび割れした列強関係は60年代になるとビスルクのプロイセンが主軸となって動くようになり、これはかれを辞任させたウィルヘルム2世に代わっても変わりませんでした。このゆっくり変わっていく趨勢を出題者はどうも求めているようです。
 とすると、「大きく変化」というのは、19世紀前半と後半の趨勢の違いを明らかにすれば良いと判断しておきましょう。指定語句の「資本 バルカン アフリカ」もそれを示唆しています。
 かつて東大の過去問(1983年第2問)に、

 1848年の各地の革命をへて19世紀後半に入ったヨーロッパでは、社会・政治の分野で変化が生じた。その重要な諸点について述べよ。

 というのがありました。これと同問です。社会は入れなくて政治の中の国際政治の分野に限って、ということになります。変化らしく、前と後が書けるかどうか。予備校の解答のように、ほぼ19世紀後半の政治の流れになっていて、どういう大きい変化があったと言いたいのか分からないものにならないように。

 世紀前半      世紀後半
 勢力均衡・正統主義 国民主義の実現は戦争で
 独伊の統一失敗   統一実現(伊の教皇領併合)
           (独のヴェルサイユ宮殿における帝国成立)
 産業革命      完成(70年代)、50年代の鉄道ブーム
           第二次産業革命・独占資本の形成
 トルコ弱体(ギリシア独立) バルカン進出(3B政策)
 英仏アフリカ進出  独伊のアフリカ進出  
 五国体制      独の仏孤立化→世界政策→独包囲網   

第3問
問1 空欄のAが父で、Bが息子ですから、父(鄭芝竜、山川用語集では頻度3)が分からなくても息子の鄭成功(頻度10)は答えられるでしょう。Cは「住民を内陸に移住させる政策」は遷界令(山川用語集で頻度2)です。Dは「ゼーランジディア砦(山川用語集のゼーランディア城、頻度2)」を築いた西欧人でオランダです。
  清朝の約300年の歴史は一橋受験生にとっては必須といっていいでしょう。2008(光緒新政)、2007(1870~80年代における清朝の対外関係)、2006(清朝の軍事・社会制度)、2005(19世紀末の海外移動のインド・中国との関連)、2003(洋務と変法の相違点)、2002(北京議定書)、2000(アヘン戦争)、1998(朝鮮と日本、清との外交関係の変化)という具合です。
 残りの180字で書かなくてはならない問題は「D(オランダ)が17世紀アジアにおいて展開した活動」です。オランダ東インド会社の歴史でもあります。予備校の解答は東南アジアでの活動に集中していますが「アジア」は東南アジアだけではありません。西アジアやインドも入れていいはずです。
  西アジアの場合はこの時期のオスマン帝国とカピチュレーションを結んでいます。カピチュレーションは、商習慣や法体系の異なる国家間で、相互に商業活動の円滑化を促進するための特権で、外国商人に対し、自国内で通商や交易の自由・航海の安全・税の免除・家屋所有権の取得・自国法による領事裁判権の承認などを保障したもの。「治外法権」を認めることと同じです。フランスに1536年、イギリスに1579年、オランダに1613年にこの特権を認めました。バグダードの外港バスラ、サファヴィー朝の港バンダレ・アッバースなどに寄港し、地中海でも活動していますが、相手がアジアの大国であるので、 「アジアにおいて展開」の中に入れても構わないはず。
  インドではセイロン(1658)、コロンボ(1656)、コーチン(1665)を獲得しています。ポルトガルの基地マラッカは1641年、バタヴィアは1619年から建設、モルッカ諸島は1602年から入ってます。もちろんアンボイナ事件(1623)でイギリスを追放したことはあげなくてはならない。
  台湾は1624-62年の約40年の支配で鄭成功に追放されました。日本とは平戸で、次いで長崎で幕末まで貿易をつつけました。
  オランダは何も本国から商品を持ち込まなくてもアジア内の各地域の豊かな商品をやりとりするだけで利益をあげることができました。これを「アジア内貿易」といいます。用語集は拾っていませんが、山川・詳説世界史では、「ヨーロッパ人がアジアに進出した当時は、既存のアジア内貿易に参加する形がおもで、領土支配が重視されるようになるのは、18世紀以降である」とある部分です。
  山川『新世界史』に、「アジア内貿易と日本」というトピックがあり、こう説明しています。

ヨーロッパ人のアジア内貿易は,中国人・アラブ人・インド人・日本人などによる既存の商業網に参加することから始まり,しだいに強大となった。最初に来航したポルトガル人は1543年に種子島に商船が漂着して以来,日本とも通商を始め,マカオを根拠地としてからは(1557年)東アジア貿易を支配した。16世紀にはスペイン船も日本にあらわれた。日本人はこの貿易を南蛮貿易とよび,ヨーロッパの鉄砲,中国の生糸などが輸入され,銀が輸出された。17世紀になるとオランダ,ついでイギリス船とも通商した。

  こうしたアジア内貿易を指摘した解答は予備校のものでは見つけられませんでした。貿易品は「東南アジアのコショウ・香料や中国の生糸,インドの綿布などアジアの特産品が銀によって買い付けられ,その販路は急速に拡大した(詳説)」のうち一商品くらいは挙げておきましょう。もちろん会社は利益のためだけに動いたたのですが、それ以外のものも結果的にはもたらしました。風説書で世界情勢を、書籍によって西洋の学問ももってきました。「活動」の中に入れてもいいものです。
  商売と学問、というと平和な感じがしますが、当時の会社は武器をもつ戦闘集団であり、何より先住民を無差別に殺して植民地化するのが第一の仕事です。火器をもつ会社軍にアジアの人々は勝てませんでした。1687-88年の数字ですが、会社従業員11,551人のうち軍人は7,806人でした(科野孝蔵『オランダ東インド会社』同文館)。征服も仕事だったということです。1621年、2,000人の兵士でナツメグを産するバンダ島に上陸し、見つけ次第、住民を殺戮したため1,500人いた島民全員が死に絶えるか、生き残りは奴隷としてジャワ島に売り払い、一人も島民は居なくなりました。ために、わざわざ奴隷を他の島から連れてきて西欧人に農園を貸して利益を上げることになりました(詳しくは羽田正『興亡の世界史15・東インド会社とアジアの海』講談社)。鬼です。

問2 
  鄭成功が台湾に移ってから(1661)の漢人武将の反乱とは三藩の乱です。順治帝に協力して中国征服のお手伝いのほうびとして呉三桂は雲南の藩王に、他の武将は広東・福建の藩王になりました。清朝支配下に漢人の自治国ができたことになります。一国二制度です。しかしこの存在を許さなくなった清朝は次第に圧力を強め、三藩の方から攻撃をし、中国の半分を制圧するくらいの勢いでした(1673-81)。それに呼応し鄭氏台湾も反清復明のスローガンに加わり、海を渡ることになったものの、フェルビースト製作の大砲が功を奏し敗退します(「ベルギー人フェルビースト(南懐仁)は大砲鋳造などの技術を伝え」東京書籍)。
  「清朝史において有した意味」は南部の三藩を吸収しただけでなく、台湾も取り、満人の一元的支配が完成したことです。漢人官僚の支配地域はなくなり、康熙帝は全盛期の基盤を築きました。