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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2012

第1問
 1598年のナントの勅令(王令)の公布は、16世紀後半のフランスで30年間以上にわたって続いていた長い戦乱を終結させた出来事として有名である。では、この勅令(王令)に至るまでの経緯はどのようなものであったのか、またその目的は何であったのかを、当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら説明しなさい。(400字以内)

第2問
 次の宣言は、1943年10月に出されたものである。これを読んで以下の問に答えなさい。
 
 アメリカ合衆国、連合王国、ソヴィエト連邦および中国の政府は、各国が1942年1月の連合国による宣言、およびその後の諸宣言に従って、四カ国がそれぞれ交戦状態にある枢軸諸国に対する戦争を、枢軸諸国が無条件降伏を基礎として降伏するまで継続するという決意ににおいて結束し、四カ国自身及び四カ国と同盟を結ぶ人々を侵略の脅威から解放することを保障する義務を自覚し、戦争から平和への迅速で秩序ある移行を確保し、且つ、世界の人的及び経済的資源が兵器のために流用されることを最小限にしながら国際的な平和と安全を確立・維持する必要を認め、以下のように共同で宣言する:
 1. 各国の敵国に対する戦争遂行のために誓約された四カ国の共同行動は、平和と安全を組織化し維持するために継続される。
 2. 四カ国のうち共通の敵と交戦状態にある国は、その敵国の降伏及び武装解除に関する全ての事項について共同で行動する。
 3. 四カ国は、敵国に課される条件の違反に対して、必要と認める全ての処置をとる。
 4. 四カ国は、全ての平和愛好国の主権平等の原則に基づき、且つ、そのような大国小国の全てが参加し得る、国際的な平和と安全維持のための一般的国際機構を、実現可能な限り早期に設置する必要性を認める。
 (以下略)

問い この宣言の名称を答えなさい。ところで20世紀には、この宣言で打ち出された目的を実現するための国際機構を作る試みが二度行われている。どのような国際機構が設立されたのか、またそれらはどのような問題に直面したのか、20世紀の国際関係を踏まえながら論じなさい。その際、次の語句を必ず用い、用いた語句に下線を引きなさい(400字以内)

  総力戦 安全保障理事会 イタリア 冷戦 PKO*
                     *PKO=平和維持活動

第3問
 次の文章は1820年代初頭に植民地官僚ラッフルズが彼の母国イギリスとアジアとの交易について述べたものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。

 私がイギリス国旗をかかげたとき、その人口は二百人にも達しないほどでした。三ヶ月のうちに、その数は三千人に及び、現在は一万人を越えております。主としてシナ人であります。最後の二ヶ月のあいだに主として原住民の色々な種類の船が百七十三隻も到着したり、出帆したりしました。それはすでに重要な商港となったのです。
 (中略)
 それは積極的にはオランダから何も奪いませんが、しかも、私たちにとってはすべてであります。それは、私たちにシャム・カムボヂャ・コーチシナその他とともにシナおよび日本に対する支配をあたえます。……この港を通じてシナへイギリスの綿製品を導入することに関して観察なさっていることは、一つの非常に重要な問題であります。……インドが充分廉価に製造することができなくても、イギリスはそうすることができます。……私はシナの大部分がイギリスの綿製品をつけないという理由を見い出すことはできません。……イギリスにおける東インド会社とシナにおける行(ホン)商人の独占は、私たちの船舶や広東港における公正な競争といったようなものの観念を排除しております。……(A.  )においてすべての目的は達せられるでしょう。……シナ人自身が(A.  )にやってきて購買します。彼らは行(ホン)商人の制限や着服なしに広東の色々な港に輸入する手段をもっております。シナの多くの総督は自分で秘密に外国貿易に従事しており、(A.  )は、自由港として、かようにしてヨーロッパ・アジアおよびシナの間を結ぶ環となり、偉大な集積港となるのです。事実、そうなってきています。
  (信夫清三郎著『ラッフルズ伝』より引用、一部改変した。)

問1 文中の(A.  )に入る地名を答えなさい。ところで、ラッフルズは(A.  )における交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)

問2 この時期の、ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明したうえで、その後の同国の交易体制の変化について述べなさい。
(200字以内)


一橋・世界史、2012年
第1問
 
課題は「勅令(王令)に至るまでの経緯はどのようなものであったのか、またその目的は何であったのかを、当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら」でした。
 まとめると、1)経緯、2)目的、3)政治状況、4)宗教問題、の4つでした。3)と4)は1)や2)にもかかっているもので、単独の問いではありません。1)を書く際に3)と4)をからませ、2)を書く際に3)と4)をからませる、ということです。

 1)経緯は、ユグノー戦争の帰結としてナント王令はありますから、戦争の原因から書き始めて勅令発布→戦争→終結、にもっていきます。
 経緯の2)政治状況は、絶対王政の形成期にあたっていること、フランソワ1世とカール5世による皇帝位をめぐる争いがあったこと、イタリア戦争でも抗争していること、ルターの「九十五ヶ条の論題」から始まる宗教問題はドイツ国内の問題にとどまらず、西欧全体の新旧の対立というかたちをとりだしていることなどです。フランス国内としては王権とて絶対とはいいがたく、自立的な諸侯が多数存在したこと(割拠状態)。
 経緯の3)宗教問題は、「九十五ヶ条の論題」は知識人、とくにパリ大学で共鳴するものと反発するものの争いがおき、フランソワ1世はルター派を大学から追放処分にしたこと(追放例がラブレー、カルヴァン)、支持する諸侯はユグノーと呼ばれ、これは王宮も巻き込み、政治的な統一問題にも発展すること。
 内戦は
 (1)カトリーヌ=ド=メディシスの弾圧と懐柔の両面から展開し、弾圧に傾いていき(解答としては弾圧だけでいい)、「バシーの虐殺(1562)」から内乱に発展(これは書けなくていい)。
 (2)パリ市内「サン=バルテルミの虐殺(1572)」で旧教側が新教徒諸侯を殺害、それが全国に波及。
 (3)この虐殺の後に宮廷内紛争もふくむ複雑な戦いに発展。それとも当時の王家はヴァロア朝(家)であること。
 (4)ヴァロア朝が内戦中に絶え、アンリ4世がブルボン朝を興すこと。 
 (5)ナントの王令とその内容が一つでも書いてあること。1.個人の信仰の自由、2.指定地区での公の集会(パリ市は禁止)、3.公職就任・大学入学・出版の自由を保証など。4.新旧両教徒間の紛争を審理するためにの特別法廷をパリ高等法院内に設ける。
 (6)アンリ4世の改宗(新教から旧教へ)。政治思想として、ボーダンの『国家主権論』、ユグノー派の暴君放伐論の登場。

 2)目的は、政治的にも宗教的にも内乱の沈静化と国内統一。王権強化。ガリカニズム(フランス型の国家教会主義)の徹底。ドイツの和議のように分権的な領邦教会ができず、ほぼ旧教による統一にこぎつけた。というのは個人の信仰の自由を史上初めて認めた、といっても、ユグノーは全人口の15分の1くらいにすぎず、ユグノーは少数派であり、カトリック(旧教)が圧倒していました。またこの後も個人の自由を邪魔する政策がとられていき、ルイ14世で勅令の廃止(1685)となります。
 商工業者の保護もあげられます。ユグノーにこの業者が多かったからです。
 類題として東大過去問(2009)に国家の宗教政策を問うたものがあります。
 
第2問
 宣言の名称が正答できた受験生は1人か 2人か、というほどの奇問。1943年なら名高いのは蒋介石が参加したカイロ会談ですが、しかしカイロ会談のように三カ国でなく、参加国が四カ国になっていること、東アジア情勢のことではなく、宣言内容を見れば国際機構をつくるための準備会議のようになものであったこと(とくに4)です。用語集では頻度1という極端に低いものでした。
 次の問いは、「どのような国際機構」と「どのような問題に直面したのか」の二つでした。
 初めの問いはかんたんに機構の特色、つまり連盟と連合の構成員・制裁の内容・軍事力・脱退などについて相違点を意識的に書きます。
 後者の問いは「直面」ですから機構が解決しにくかった問題を挙げればいいでしょう。
 
 連盟。総会,理事会,事務局の3主要機関。総会は全会一致。常任理事国は英仏伊日本の4国。加盟国が欧米諸国にかたより、大国の参加を欠いた。軍事力なし。初めの不参加は独(26年から参加して常任理事国)、合衆国、ソ連(34~39除名)、脱退は日独(33)、伊(37)。
 直面したのは、軍縮の遅延と不十分さ、世界恐慌の波及防止、枢軸国(ファシズム諸国)の侵略防止に苦慮、日本の満州事変に対して妥協的な姿勢、伊のエチオピア侵略に経済制裁しかできず。

 連合。総会、安全保障理事会。経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、および事務局の六つであり、連盟よりも中央機関は増えてます。従来「国内問題」としていた人権について、国連憲章では「人種,性、言語又は宗教による差別なく、すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励する(国際人権規約)とあり、連盟とちがい、人権を国際政治の重要な指標にした点が際立っています。総会は多数決制、安全保障理事会の権限を強化、5大国に拒否権、総会安全保障理事会の他、多くの諸機関がある。大国はすべて参加。戦後の独立国はみな参加。国連軍の存在。脱退はインドネシアが1年(65年)だけ。
 直面した問題は、朝鮮戦争・インドシナ戦争・カンボシア内戦・中東戦争(パレスティナ紛争)・ヴェトナム戦争・イラク戦争など戦争防止に貢献できなかったこと。大国(米ソ)間の対立(冷戦)・核開発・軍縮に貢献することが少なかった。常任理事国が拒否権を発動した場合、採択は全て否決されるという困難さが克服できていない。

第3問
問1 空欄(A.  )の地名を広東と答えた受験生が見られました。しかし引用文に広東は2回出てきますし、「シナ人自身が(A.  )にやってきて購買」とあるから広東であるはずはない。ヒントは「人口は二百人にも達しないほど……重要な商港……シナ人自身が(A.  )にやってきて購買……自由港」とあり、時間が「1820年代初頭」というヨーロッパではナポレオン戦争とその後の時期を考慮します。
 ナポレオン戦争最中にフランスはオランダを併合しますが、その機会を利用してイギリスは海外のオランダ領を奪う行動に出ます。ジャワ島を占領したのもその一つで、ここに派遣されたのが東インド会社員のラッフルズでした。しかし戦争が終了すると本国政府はウィーン会議でジャワ島をオランダに返還することを決めました。これにラッフルズは猛反対しましたが叶えられませんでした。それで新たな貿易基地を探して、シンガポール島に目をつけます。
 シンガポール島も含むマレー半島の地域にはジョホール王国があり、もともとこの王国の都はマラッカにあり、ポルトガルに奪われて(1511)、半島南端のジョホール市に遷っていました。その後この王国は分裂していて、一方の国王とオランダがシンガポール割譲の条約を結びましたが、イギリスは反国王派の王位継承を唱える別の王と条約を結ぶことになり、オランダがこれに抗議する、という経過をたどりました。交渉はロンドンで行なわれ、財政的に苦しいオランダは対英負債の代わりにシンガポールを渡すことになります(英蘭協定、1824)。

 次の問い。ラッフルズは(A.  )における交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)……ここにはイギリス政府とラッフルズ個人の対立があげてあります。これを高校で学んだ学生も皆無に近いでしょう。しかし、導入文と世界史で学んだ南アジア史・中国史の史実から類推することになります。しかし予備校の解答にラッフルズとイギリス政府との思想を対比的に書いた解答は皆無です。
 ラッフルズの考えは「自由港として、かようにしてヨーロッパ・アジアおよびシナの間を結ぶ環となり、偉大な集積港となるのです」に表れています。かれが反対しているのは東インド会社の独占権です。インドでの自由化はすでに特許状法(1813)で実現しましたが、「中国」という言葉で含まれる東南アジア・東アジアの貿易はまだ東インド会社が独占権をもっていました。ラッフルズ自身が東インド会社の社員ですが、会社とそれを保証しているイギリス政府に楯突いていることになります。東インド会社からすれば、インドでの独占権を奪われたため、清朝との貿易独占権は生き残りをかけたものでしが、シンガポール自由港ができると邪魔になるとみました。
 しかしアジア貿易の比重が増していく中で、アンボイナ事件で撤退していたイギリスは、再び東南アジアに進出する必要を感じてきました。香料でなく原料供給地と市場拡大を求めて、オランダと対立しながら各地に植民していくことになります。
 得たシンガポール島は周辺の侵略基地として利用し、すでに得ているペナン島(1786)、マラッカはスマトラ島のイギリス領と交換にイギリスに譲渡され(1824)、このペナン島・マラッカにシンガポール島をあわせて成立させた海峡植民地をつくります(1826)。このマレー半島でゴム農園・錫鉱山の開発をやります。
 ビルマ(ミャンマー)には、イギリスがしかけて西方のアラカン(1826)、南部のテナセリム(1826)を獲得しています。ビルマは米の生産地として利用します。「3次にわたるビルマ戦争をへてインドに併合し、ミャンマー南部のデルタ地帯の水田稲作開発をすすめて世界市場に組みこんだ。(詳説)」と教科書に書いてある部分です。
 この東南アジアを基地に中国進出を進めていくイギリスは、国内の産業革命進展に伴い、中国を市場として期待していきます。アダム=スミスのような中国が自由貿易から工業化への道を進むだろうとの予測は困るので、中国が工業化する前に何とか市場化したいとの意図を抱きます。この点でもスミスの思想的弟子であるラッフルズに合わないことでした。軍事力と産業技術でパクス=ブリタニカを形成しようとするイギリス国家の勢いに対してラッフルズは抵抗しようもなかったのです。自由貿易の行き着く先は、スミスもラッフルズも予想しなかった帝国主義的収奪でした。スミスもラッフルズも甘かった。

問2 課題は「清朝の交易体制……その後の同国の交易体制の変化」でした。「1820年代」の時期の貿易体制は開国前の体制です。乾隆帝が決めたかたち、貿易は広東一港に限定、公行が貿易を独占、関税自主権をもっていた、という体制です。それが二度の敗戦によって破られ、五港から 11港の開港、公行廃止、関税自主権喪失と変化します。
 アヘンが公認され銀流出はますます増え、国内関税である釐金(りきん)税(地方通過税)は外国商人は1回2.5%で済み、中国人は省を越えるごとに払わなくてはならない。この税は太平天国を鎮圧するための臨時課税だったのが恒久化したもので、西欧の国々に対しては、天津条約(1858)では輸出入正税(従価5%)以外に2.5%の子口税を納めれば釐金を免除することが定められ、西欧に有利なものでした。
 この問題は過去問(1983-3)の「1858年と1860年に調印された二つの条件が、中国民族産業の発達の障害になっていたからである。その条約のいかなる内容がこのような事態を招いたのか」という問題の類題でした。 
 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはロバート=ハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリス人でした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。