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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2006

1】
 フランク王オットー1世(在位936~973年)の皇帝戴冠は,中世ヨーロッパ世界に一つの転機をもたらしたといわれる。彼は,10世紀半ばのイタリア情勢に対応してアルプスを越えて南下し,962年2月にローマで皇帝としての冠を受けた。このとき地中海の周辺には,東方にビザンツ帝国が,また地中海の南岸とイベリア半島にはイスラム勢力があった。オットーの皇帝戴冠の歴史的意義を,9~10世紀の地中海世界の政治動向との関係に言及しながら論じなさい。(400字以内)
  (この問題は『世界史論述練習帳』資料編にもコメントを掲載)

【2】
 次の文章を読んで,問いに答えなさい。
 1996年にユネスコ世界文化遺産に指定されたケルン大聖堂は,代表的なゴシック様式の教会建築である。ライン地方に位置するケルンは,古くから交通・交易の要衝であった。大聖堂は,ローマ帝政時代からキリスト教徒たちの集う聖堂があった場所に,1248年から建立が始められた。1164年に三聖王(東方三博士)の聖遺物がもたらされたことで,ヨーロッパ中から巡礼者を集めることになったのが直接の契機だが,〔1〕その背景にはケルン大司教から12世紀初頭に自治権をかちとった市民たちがいた。建立は,内陣が1322年に完成した後も続けられたが,16世紀になると市民の関心が薄れ資金難から中断してしまった。1794年から1801年までは,フランス軍の占頷下で,大聖堂はもっぱら倉庫の代わりに用いられる有様だった。しかし,〔2〕大聖堂建立への情熱は,まさにこの時期から再びよみがえった。1848年に再開された建立資金の半分はプロイセン政府が、残り半分は市民たちが負担した。1880年,ついに高さ157メートルの双塔を擁する大聖堂が完成した。南塔に据えられた「皇帝の鐘」は,フランス軍から奪った大砲を溶かして作られた。とはいえ,この「皇帝の鐘」は第一次世界大戦に際して武器鋳造のため溶かされてしまい,また大聖堂は第二次世界大戦に際して14回もの爆撃を被った。修復工事を終えた現在も,大聖堂は,深刻な酸性雨被害に加えて,周辺の高層ビル開発計画にさらされている。

問1 下線〔1〕について,この時代の市民をめぐる一般的状況を説明しなさい。(250字以内)
問2 下線〔2〕について,理由として考えられる政治的・文化的状況を説明しなさい。(150宇以内)

【3】
 次の文章は,いずれも,17世紀後半にアジアの2つの帝国を訪問した2人のフランス人の見聞録の一部である。それぞれの文章を読んで,問題に答えなさい。 (合わせて400宇以内)

1 次の文章A,Bは,1659年から1668年まで10年近くを医官,哲学者としてムガル帝国に仕えたフランス人ベルニエの著書『ムガル帝国誌』(1670年)から抜粋したものである。

A 「シャー・ジャハーンの息子4人のうち,長男はダーラー、三男はアウラングゼーブである。ダーラーは,マホメット教徒であるが,ヒンドゥー教徒に向かえばヒンドゥー教徒になり.キリスト教徒に向かえばキリスト教徒になる。ヒンドゥー教徒の学僧を何人か,いつも側近に持らせている。アウラングゼーブがダーラーの首を切らせるのに使った口実は,彼が背教者に偶像崇拝者になってしまった,というものである。」

B 「この国土の上には,大ムガルの支配力が十分に及ばない民族が少なからず居て、大抵は今でも独自の首長,君主を戴いており,この君主たちは,強制されてしぶしぶ大ムガルに従い,貢物を納めているのです。王国全土に有力なラージャつまりヒンドゥーの君主があり,もしも力を合わせれば,大ムガルにとってひどく厄介な問題になるでしょう。大ムガルは敵国の真っただ中に居るようなもので,常に大軍を維持していなければなりません。軍隊を構成するのは,一部はラージャやパタン人ですが,主として王と同じムガル人か,少なくともそう見なされている人間です。大ムガルはラージャたちにたいそう多額の俸禄を当てがい,外国人でマホメット教徒である他の貴族と同等に見なし,いつも身辺においている軍勢の中に入れたり,野戦場にいる軍隊に加えたりしています。貴族は、低い官職から高い者へと進んでいくのが、ほぼ一般的な慣習です。彼等の俸禄は馬の数で決まります。土地の割り当てを受けます。」
  (ベルニエ著,関美奈子,倉田信子共訳,『ムガル帝国誌』,岩波書店,に基づく。)

問1 引用文Aのダーラーとアウラングゼーブは,宗教・異教徒(特に,ヒンドウー教徒)に対して,対照的な態度を示している。この事を念頭において,ムガル帝国の宗教政策とその変化を説明しなさい。(60宇以内)
問2 引用文Bを読み,ムガル帝国の統治・行政・財政機構の特徴を説明しなさい。(140字以内)

2 次の文章は,1697年に,フランス人宣教師ブーヴエが,当時の中国皇帝についてフランス国王に報告したものである。
「[ A  ]は順治帝の王子であり,後継者で御座います。この順治帝は,満州族,言い換えれば,満洲国民の、(註)韃靼王でありまして,この満洲族は,〔1〕東韃靼から発して、シナの東北に位置する遼東地方までまず国を建て、ついで現世紀の中葉,この大満洲の全土を征服したのでありました。…そもそも韃靼人は常に戦争を心がけておりますから,一切の武芸を尊んでおります。また漢人は,学問こそ自国の殆ど全価値だと見なしております。それ故,[  A  ]は文武両道に精通して,自己の統治べき韃靼人にも,漢人にも,好感を持たれようと努められたのであります。…遂に皇帝は戦乱の障害から全く解放されましたし,また約八年前,幸いにもロシアと締結された講和条約のおかげで,シナ人,韃靼人の如何を問わず,等しくシナ臣民が,現在,この深遠な平和を楽しむに至りましたので,皇帝は昔よりもますます熱心に西洋科学の研究に出精されたのであります。〔2〕その頃、我々四人の耶蘇会士が北京におりました。皇帝は西洋科学のご進講にこの四人を起用される光栄を賜わったのであります。
  (ブーヴエ著,後藤末雄訳に基づき,出題に際して,一部表記を改めた。)
註 韃靼とは,タタールの音訳であり,元来,モンゴル系部族を指す呼称である。しかし,もともと一部族を指すに過ぎなかった名称は,次第に拡大されて満洲族のようなツングース系部族をも含むようになった。イエズス会士が韃靼と言った場合には,満洲を指すことが多い。

問1 文中の中国皇帝[  A  ]の名前を答えなさい。
問2 この報告を受け取ったフランス国王の名前を答えなさい。
問3 下線〔1〕は,帝国が成立する過程について述べている。この時に編成された,帝国の軍事・社会制度について説明しなさい。(50宇以内)
問4 下線〔2〕は,宣教師と皇帝との関係を伝えている。この両者の関係を踏まえて,17世紀末から18世紀初頭にかけての,[  A  ]の対キリスト教政策について説明しなさい。(140宇以内)


コメント
第1問
(1) 動向と意義
 一橋はオットーが好きですね。これで4回目です。
 オットー(1世)については、過去問に3つあり、それを解いていたらある程度は書ける問題です。過去問を拾ってみると以下の問題です。

 (イ)ヨーロッパ諸国のなかで、マジャール族の脅威をもっとも深刻に蒙ったのは東フランク王国であったが、919年、はじめてザクセン族出身の貴族として王位についたハインリッヒ1世(ヘンリー1世)とその子オットー1世は、いくつかの重要な戦いに勝利し、この外敵の侵入を終らせることによって、王としての不動の地位を固めたのみならず、キリスト教世界の防衛者として西欧世界全体における最高位につくに至った。その経過を具体的に記せ(200字)。(1991年度)……この問題文にある「はじめてザクセン族出身……防衛者として西欧世界全体における最高位」はそのままこの問題の解答に使えます。

 (ア)ここでルターが述べている第二のローマ帝国成立についての歴史的事実を述べ、これに関係する西ヨーロッパにおける中世の政治理念について説明せよ(300字)(1989年度)。……この「第二のローマ帝国」は神聖ローマ帝国のことです。

 10世紀後半から11世紀にかけて、地中海世界は大きな歴史の転換期を迎えていた。キリスト教世界は拡大し、ローマ皇帝位をめぐる政治交渉も見られた。「ヨーロッパ世界の形成」という観点から当時の事情について述べ、その政治的・宗教的背景について説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)
 (指定語句)ビザンツ帝国  オットー1世  ウラジミール1世  ファーティマ朝(2001年度)

 このように、2006年度の問題は2001年度の問題の焼き直しでした。まず空間の設定が「地中海世界」となっているのが、2006年度のでは「地中海の周辺……地中海世界」とあり、同じです。時間は少しずれて「10世紀後半から11世紀」が、6年度のは「9~10世紀」となり、テーマが「「ヨーロッパ世界の形成」という観点」だったのが、「中世ヨーロッパ世界に一つの転機……オットーの皇帝戴冠の歴史的意義を」とより具体的になり、副次的な部分である「政治的・宗教的背景」は「地中海世界の政治動向との関係」となっています。

 時間が「9~10世紀」に限定されると、2001年度とはだいぶ違う様相があらわれます。11世紀は十字軍・東方植民・レコンキスタがあり、全部まとめて「膨張」と呼べる積極的な時期がはじまるのですが、10世紀までなら、ノルマン人・マジャール人・アラブ人の侵入がつづいていて受動的で閉鎖的なヨーロッパ空間です。対照的です。この受動的な環境の中で、オットーがどう動き、それがどんな歴史的意義をもったか、という課題です。
 問題文に合わせて言いかえれば、動向と意義です。この二つはバラバラに書いても意味がありません。「関係」ということばがすぐ後にくっついているからです。ですから、自分の解答であれ、他人の答案であれ、この二つが書いてあるか、そして関係しているか、という質問をぶつけて見なおしてみるといいのです。

 動向→意義

という内容・文脈ができているか、ということです。

(2) 動向
 「9~10世紀の地中海世界の政治動向」はヒントとして、「地中海の周辺には,東方にビザンツ帝国が,また地中海の南岸とイベリア半島にはイスラム勢力があった」と地中海世界にどんな地域があったかを書いています。これが全部ではないとしても、どうしても書かざるをえないところです。
 この問題文の順で、それらの地域がどういう「政治的動向」にあり、それがオットー1世の行動にどういう行動をうながしたのか見ていきましょう。
 まずビザンツ帝国です。当時はたんにバルカン半島の支配者であっただけでなく、7世紀に多くの領土をアラブ人に奪われましたが、残っていた土地として小アジアの他に、イタリア半島南部とシチリア島がありました。シチリア島はチュニジアのアグラブ朝(800~909)に奪われました(878)が、このアグラブ朝を倒してチュニジアの支配者となったのがファーティマ朝(909~1169)です。これらのイスラーム王朝とビザンツ帝国は戦っていて、しだいに追いつめられていました。ここでオットー1世に助けを求め同盟関係になったことがあります。イスラームの脅威がなくなると、その後は南イタリアをめぐってビザンツに圧力をかけ、皇帝位を認めさせました。オットー1世が占領した土地を返還するという代償を払ってでした。
 イベリア半島のイスラーム教徒は後ウマイヤ朝であり、10世紀にはアブド=アッラフマーン3世がカリフを名乗ってアッバース朝とファーティマ朝の2カリフに対抗していました。また地中海の島々を奪い、南フランスの沿岸を襲っていました。オットー1世と直接の対決はないものの、イスラームの脅威は感じていたでしょう。
 問題文にヒントとしては書いてないものの、世界史の教科書程度の知識から、まだ浮かんでくる脅威がありました。それはこの9~10世紀がノルマン人(ヴァイキング)の活動の最盛期であることです。実際、オットーたちの本拠地ザクセンのすぐ北にいたデンマーク人(デーン人)が襲ってきていました。
 また9~10世紀はスラヴ人の移動期でもあります。ザクセンの東部に侵入してくるスラヴ人に悩まされています。
 もちろんマジャール人の襲撃は書かなくてはならないでしょう。とくにオットーはレヒフェルトの戦い(955)でこの民族を追放しています。戦いはつづくと見て、多くの要塞を建設しています。ノルトマルク、オストマルク、マイセンなどです。
 「脅威」ということばで、あくまでオットー側にたって書いてきましたが、これが周辺の民族からすれば逆にオットーそのひとが「脅威」であったはずです。じっさい、父のハインリヒ1世やオットー1世の攻撃を受けて絶滅したスラヴ人もいるようです(ポーランド北部にいたポラブ人がその例)。
 どちらにしろ戦いの中に生きていた、周囲には侵入してくるもの、また侵入してくる可能性のある民族がたくさんいた、ということになります。帝国内の諸侯も自立の傾向がつよく、オットーに対する反乱もよくおきていました。

 さてどうするか。国内では反抗する諸侯に戦いをいどんでつぶし、つぶした地方の支配を徹底するために、帝国教会政策をとります。帝国教会政策とは、教会を帝国の下に位置づけて支配する政策です。これをビザンツ的言い方にかえれば皇帝教皇主義です。聖職者を官僚として利用し、諸侯の監視と統制に当らせることです。大司教・司教・修道院長などの聖職者は中世では珍しく読み書きができるひとたちであり、独身であるため、その地位は世襲されず、まさに官僚にちかい存在だったからです。それも親族・一族を聖職者に任命(叙任)し派遣するというやりかたでした。聖職者にインムニテート(不輸不入)ほか諸特権を与えて諸侯に対抗できる領主としたのです。こうして君主に忠実な高位聖職者を各地に置いて集権化につとめたのです。
 そして、この帝国教会政策のゆきつく先は、教皇です。聖職者を忠実な犬にするには、その頭をおさえるにしくはなく、それが教皇です。当時、教皇を圧迫する勢力があり、教皇ヨハネス12世を助けて戴冠式をやらせます。また教皇の就任には皇帝の認可が必要であることを認めさせます。完全に皇帝が教皇以下の教会を押さえたかたちです。西ローマ帝国皇帝に就任することは、もちろんビザンツ皇帝に対抗する意味をもっていました。

(3) 意義
 意義は上の動向との関連で書かなくてはなりません。ネットの中の解答では、どう関係しているのか分からないものがあります(Y・S)。また「防衛者」としているもの(K・T)は合っていますが、それだけであるのはさみしい。それにこの防衛者というのは当時のヨコ世界(同時代)での意義ですが、「歴史的」という長いタテ時間の中で意義づけたものとしては、いささか弱いといわなくてはなりません。本来、歴史的意義とはこのタテの長い歴史の中で重要性を評価することです。拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)で説明している「さよならの意義」は書いてあるが、「こんにちはの意義」を書いたものはありません。
 さらに、皇帝と教皇の楕円構造(二つの中心)が形成されたと過去形で書いたもの(K・T)があり、この9~10世紀の段階でこれをいうのは早すぎます。上で書いたように帝国教会政策をすすめた結果、教会・教皇は皇帝の下に位置づけられた状態がオットーのときの姿だからです。11世紀からの叙任権闘争と十字軍運動の結果として教皇権がたかまり、やっと拮抗した状態になって「楕円」です。まだ始まっていない闘争とその結果までとりこんでしまう解答は変ですね。しかもこの問題はオットーの皇帝就任の意義なのですから、楕円構造とは皇帝権がオットーのときより落ちこんで教皇と対等になることですから意義になりません。まして、イタリアの政治的混乱・ドイツ統一を遅らせた(S)では、プラス評価の意義ではなく限界・悪影響・裏目になります。

 意義をどう書くかは拙著『練習帳』に、とくべつに意義を書く章をもうけて説明しています。つまり、さよならの意義とこんにちはの意義、といって長い時間の中でスポットライトをあてる書き方です。この問題の場合は、

 西ローマ皇帝消滅(476)──カール皇帝(800)──[オットー1世]──帝国滅亡(1806)

という教科書に書いてあるごく常識的なことから考えます。オットー1世が前の何を否定し(さよならの意義)、後のどういう道を開いた(こんにちはの意義)のか? 
 この左右・前後の視点からでてくるのは、なによりローマ皇帝理念を継承・復活させたものの、いったんカール大帝の孫の代で皇帝位は途絶えたのに対して、永続的な呼称として定着させ、これが19世紀初めまで西欧世界最高の世俗の君主の権威となったことです。教科書外の知識でいえば、ビザンツ帝国としても皇帝位はカール大帝1代に与えたにすぎない、としていたものをビザンツ帝国側に代々受け継ぐ称号であることを認めさせています。つまり長男オットー2世は1世の在世中にビザンツ帝国の皇女をめとって就任し、またその子たるオットー3世もみずから叙任した教皇から戴冠させています。後は「大空位時代(ホントはこの時代も皇帝はいました)」を別として、とぎれることなく19世紀までつづきます。
 また皇帝こそヨーロッパの政治秩序の頂点とみなすことは、たんに理念であるだけでなく、この時期の封建制の形成にあたって、皇帝を頂点とする上下関係をつくりあげることに役に立ったといえます。封建制が完全に崩壊する1800年頃までつづいた秩序の頂点でした。部族を超越する組織である教会勢力と結び、いわゆる帝国教会政策によってこれを実現しました。不安定で不統一な当時のフランスと比べて統一をもたらしたのはオットー1世によります。教科書は封建制度ができあがることを次のように述べていますが、これはまさにオットーの事績と関係しています。

 皇帝・国王・諸侯(大貴族)・騎士(小貴族)や聖職者などの有力者たちは,自分の安全をまもるため,たがいに政治的な結びつきを求めるようになった。……このように封建社会は,荘園を経済的基盤とし,そのうえに封建的主従関係による階層組織をもつ社会であった。封建社会は10~11世紀に成立し,西ヨーロッパ中世世界の基本的な骨組みとなった。(詳説世界史)

 さらに、過去をふりかえれば、オットー1世の王朝名である「ザクセン朝」が表わしているように、もともとザクセン族はカール大帝に征服された側でした。それまでの多神教であったザクセン族はカトリックを強制され、従わないものたちは大量殺戮・強制移住の憂き目にあいました。信仰はもうかわらなかったものの、被征服者が仕返しをして、ここに「西ローマ帝国」の重心は東(東フランク王国・ドイツ王)に移り、どこでも弱体化し断絶していったカロリング家に代って帝国の支配者となったのです。しだいにドイツではカール大帝はフランスの王にすぎず、オットーこそ全欧の皇帝であるという考えを歴史観としてもつようになります。
 またさらに、「東方植民」という名のスラヴ人地域にたいする植民活動をはじめていて、これは11世紀以降かっぱつになり、19世紀のビスマルク、20世紀のヒトラーにうけつがれるドイツ人の東方移住のスタートを切ったことになります。
 意義はこのようにいくつか書けますが、ひとつでも良いでしょう。
 しかしこれらを実現するために教会を保護し、その地位を固めたために、つぎの世紀からは教会が台頭し、叙任権闘争をまねくのですが、これはオットー1世にとっては負の遺産となります。ビザンツ帝国のような皇帝教皇主義は西方では無理であることが証明されていきます。オットー1世の生きた時期に、オットーとは別の理念(教会こそヨーロッパの中心であるべきだ)をもったクリュニー修道院(910、『世界史年代 ワンフレーズ new』の語呂では、クリュニー求910院)が支持をあつめていました。このことは書かなくてもいいです。戴冠の意義からはずれますから。
 なお、『練習帳』の巻末「基本60字」には、これを縮小した問題をのせています。

第2問
問1
 これは易問です。都市の自由について書けばいいのです。「一般的」があいまいな問い方ですが、「市民」に力点をおいてみれば、周辺の農村に住む農奴とはちがい、自由を享受していたのですし、その限界を近代と比較してもいいし、解答には幅があります。
 過去問の例は、1983-1の「西ヨーロッパにおける中世都市の市民は「自由」を享受していたといわれている。例えば、皇帝フリードリヒ(フレデリック)2世は、都市リューベックに与えた特許状(1226年)のなかで、「都市リューベックは常に自由であるべきである」と記しており、また都市ウィーンに与えた特許状(1237年)においては、「都市の空気は自由にする」という命題を明示している。このように都市についてしばしば示される「自由」が、どのような意味を有していたか、知るところを記せ。(300字以内)」、

1994-1の「問1 ここで宣言されているヨーロッパ中世都市の「自由」の内容と性格について具体的に記せ(200字)。問2 ヨーロッパ中世都市の市民は、この「自由」を維持するためにどのような方策をとったか、具体例を挙げて説明せよ(200字)。」と類似の問題です。
 中世都市とその中身の一橋風の問題は、拙著『練習帳』の巻末「基本60字」にいくつも例(9~14)があげてあります。
 ケルン市の歴史や、中世都市としての特権について書いた記述がネットの中にありました。
http://homepage2.nifty.com/bachhaus/reise/koeln02.html

問2
 これは今までにない問題です。いくらか難問かもしれません。
 下線部周辺の導入文は、「ゴシック様式……ローマ帝政時代から……ヨーロッパ中から巡礼者……倉庫の代わり(屈辱!)……建立資金の半分はプロイセン政府(統一の中心国)」と、古い時代を懐古しながら、いかにもナショナリズム=ドイツ統一気運の中での建設という文章です。ナポレオン戦争とナショナリズムの関係については、今年(2006)の東大第1問の問題解説も読まれると理解は深まるかもしれません。
 政治的状況は1842年直前のナショナリズムに関係することがらを表わせばよく、ブルシェンシャフト運動・関税同盟(これはプロイセン中心の同盟でオーストリアを排除しています)をあげるといいでしょう。
 文化的状況は古典主義からロマン主義に移るときです。両方の作家・学者を書いていいはずです。古典主義ならゲーテ・シラー。このうちゲーテは大聖堂の建築再開運動をおこなっています。ロマン主義なら、理性ではなく感情・主観を大事にし、民族や歴史を重んじた主義として。導入文にある「ゴシック様式……ローマ帝政時代から……ヨーロッパ中から巡礼者」などがこれを示唆しています。これはシュレーゲル兄弟・グリム兄弟・ハイネなどです。じっさいシュレーゲル兄弟もゲーテとともに再建運動をしています。学者としてはヘーゲル・リスト・フィヒテ・サヴィニーなどの名前をあげてかんたんにどんな作家・学者か書くのでいいでしょう。リストなら歴史学派経済学をおこしたとか、保護貿易を唱えた、などです。きわめてナショナリスティックな文化的状況です。ナポレオン戦争中の哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」をあげてもいいでしょう。
 ゲーテがいかにケルン大聖堂に思いをはせたかについては、酒井建著『ゴシックとは何か──大聖堂の精神史』(講談社現代新書)に詳しい(p.183~197)。
 なお大聖堂を上から見た光景は以下にあります。
http://www.wikimapia.org/#y=50941421&x=6958171&z=17&l=0&m=s
 正面から見たいひとは、
http://www.panoramalampe.com/fotografie/vollbild/qtvr_domwestfassade.html
 また聖堂の中をぐるっと見たいひとは、
http://www.panoramalampe.com/fotografie/rundgang.html
 もちろんネットで見る事物は影にすぎません。とくに建物は現地にいって、その前に立つことをすすめます。日本には巨大建築を都市の中に見ることはあまりありませんから、実際に目の前にすれば、その偉容さがわかります。都会に高いビルがある? ビルなど教会建築からすれば軽薄な箱にすぎません。大聖堂には、たいてい頂上まで登れる階段がついていますからフーフーいいながら階段をあがり、その高さを実感してください。イタリアでは、ミラノの大聖堂、ローマのサン=ピエトロ大聖堂、フィレンツェのドゥオーモ(サンタ=マリア大聖堂)などを登ってきました。さらに頂上では彫刻群を見ることになります。ケルン大聖堂は見たことがありません。わたしが見たものからの推測です。日本の建築で巨大さ・偉容さを感じたのは、京都の東本願寺くらいか。
 ネットでは影の知識ばかりが増えていきますが、それは知識ではありません。これからは、知ってるかい? ではなく、見たのかい? と自他ともに訊いていきたいものです。インターネットはガリレオの望遠鏡にはなれません。世界史のすべてを現地にいって見ることは不可能ですが、それでもできるだけ見ておきたいものです。見た見ないの差は文章にもあらわれます。

第3問
1 
問1 ジズヤの廃止と復活、という解答だけでも可能ではありますが、「政策」としてはもうひとつくらいほしいところです。資料が示しているように、他宗教のものも官僚として採用したり、また姻戚関係をもったりしました。諸宗教の融合である神聖宗教(ディーネイラーヒ)も創始しています。これらを否定したのがアウラングゼーブ帝でした。アウラングゼーブはヒンドゥー教寺院の破壊も命じています。60字しかないので苦しいが、2つくらいは書けそうです。
 なお資料として引用された岩波文庫『ムガル帝国誌』は面白い読みものです。アウラングゼーブというずる賢い男が皇帝になるつもりはないと言いつつ兄弟たちをだまし、一方で裏工作をつづけて兄弟たちを追いつめ、けっきょく皇帝位につく過程が描いてあります。

問2 ムガル帝国の統治・行政・財政機構は、1988年の「16世紀のインドと17世紀の中国に樹立された二つの帝国には、ある共通する性格があった。そのことを念頭におきつつ、両帝国の支配機構、土地制度、思想・宗教政策の特徴について述べ、さらに、それぞれの帝国を解体に導いた要因を簡単に記せ。」という問題の焼き直しみたいです。でも少し難しい。
 問題文のとおりに、統治・行政・徴税機構という順で述べるのが得点差をつける、まっとうな答え方。
 支配機構は少数トルコ系民族、かつイスラーム教徒が多数のヒンドゥー教徒を支配した、というのがまず基本です。これを書いた解答はネットにないですが。他には中央集権体制のための地方の分割です。州県に分けたということです。
 行政はイクター制で、官職をもつマンサブダール、徴税権をあたえられた貴族ジャーギールダールがいます。この行政に関しては、史料文の中にイスラーム教徒でなくてもヒンドゥー教徒もつかったことがあげてありますから、融合政策を指摘してもいいです。詳説世界史に「アクバルは,すべての官僚に維持すべき騎兵・騎馬数とそれに応じた給与を定めた官位をあたえる制度(この制度は,マンサブダール制とよばれる)や,全国の土地を測量して徴税する制度を導入し,中央集権的な統治機構をととのえた」とあるところです。
 これらの官僚・軍人の下にいた旧来の領主層ザミーンダールに徴税を請け負わせる、という徴税機構です。
 拙著『練習帳』巻末「基本60字」には、「16世紀のムガル帝国の支配体制について述べよ(120字)<指定語句>マンサブダール、ザミンダール」がのっています。

2
問1
 史料に3代目「順治帝の子」とあります。そうでなくても資料の年代が「1697年」とあれば、同時代のルイ14世が親政をはじめた年が康煕帝の即位の年(1661)です。引用してある著書『康煕帝伝』(平凡社の東洋文庫155)は古本かオンデマンド版でしか今は見ることができなくなりました。一部は岡田英弘著『康煕帝の手紙』(中公新書)で読むことができます。
問2 上のフランス国王。
問3 「東北に位置する遼東地方までまず国を建て」たヌルハチの創始した「軍事制度」は民族の部族制度とセットでした。「社会制度」は政治以外のことだから、軍事をになう部族にあたえた土地に言及するといいです。
問4 典礼問題の説明です。
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(わたしの解答例)
第1問
 (君の答え)
第2問
問1
 (君の答え)
問2
  (君の答え)
第3問
1
問1
1-1 アクバル以来、非ムスリムのジズヤを免除し官僚として登用した。しかしアウラングゼーブ帝は免除や登用を廃止し弾圧した。
問2
1-2 統治は少数トルコ系イスラーム教徒による多数ヒンドゥー教徒の支配である。行政は他宗教徒も登用した中央集権的官僚制をしき、全国を州県に分けて派遣した。徴税は文官・武官の区別がなく給与をあたえず給与地(ジャーギール)を与え、そこの徴税権をもたせた。その下にいた旧来の領主層ザミーンダールに徴税を請け負わせもした。(別解)少数トルコ系イスラーム教徒が多数のヒンドゥー教徒を支配した。専制皇帝の支配下に官僚制をととのえ、上層官僚としてマンサブダールをおき、かれらに徴税権をあたえた。地方の徴税は在地領主のザミーンダールにまかせた。ムスリムのイラン系・トルコ系やヒンドゥー教徒も官僚とし、その下にヒンドゥー教を主とする小地主・農民がいた。

問1 2-1 康煕帝
問2 2-2 ルイ14世
問3 2-3 満州族を八旗という部族・軍事を兼ねた組織に入れ、旗人には旗地の支給を代償に兵役を課した。(別解)軍事・社会の双方を兼ねた八旗に満州族を編入し、入関後は北京駐在の八旗とそれ以外の八旗に分けた。
問4 2-4 上帝・孔子・祖先の祭祀など儒教の典礼を容認して布教していたイエズス会をローマ教皇は異端とした。それに対して、康煕帝はイエズス会以外の布教方法を禁じ、他の会派をマカオに追放した。皇帝にとりイエズス会士のもたらす科学・軍事の技術は貴重であった。