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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2013

第1問

 次の図は、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』に収められている有名な昔話「ハーメルンの子供たち」に登場する「笛吹き男」の絵である。この絵に関する下の文章を読み、問いに答えなさい。

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(出典:阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』)

 1284年のこと、ハーメルンに一人の風変わりな男が姿を現した。(中略)自分は鼠捕りだと称し、一定の代金をもらえれば町から鼠を退治してやろうと公言した。町の人々はこの男と話をつけ、一定の報酬を与えようと請け負った。そう決まると鼠捕りの男は小さな笛を取り出し、それを吹きならした。すると即座に町のありとあらゆる家々から鼠がはい出してきて、男の回りに集まった。(中略)鼠をヴェーザー河のところまで連れ出すと、男は衣服をたくし上げて河の中へはいって行った。鼠もその後を追い、一匹残らず河に落ちおぼれ死んでしまった。

 

 ところが町の人々は、苦しみから解放されてしまうと約束した報酬が惜しくなり、ありとあらゆる口実をもうけて男に金を与えることを拒んだので、男は立腹して町を去って行った。6月26日、ヨハネとパウロの日の早朝7時に、別の言い伝えによれば正午に、この男は再び町に姿を現した。(中略)そして横町横町で例の笛を吹きならした。するとすぐさま、今度は鼠ではなしに大変な数の子供が、4歳から上の男の子や女の子が走ってやって来た。その中にはもう成年に達していた市長の娘もいた。群れをなした子供たちはこぞって男の後についていった。男は子供たちを町から連れ出し、とある山の洞穴に入ると子供たちもろとも姿を消してしまった。(中略)全部で130人の子供が行方不明になった。(以下略)(桜沢正勝・鍛冶哲郎訳『グリムドイツ伝説集上巻』より引用。但し、一部改変)

 

 ドイツの歴史学界では、この伝承は完全なフィクションではないと考えられ、「鼠捕り男」の正体や姿を消した子どもたちの行方について、これまで様々な学説が打ち立てられてきた。その中の有力説の一つによれば、中世ドイツの東方植民が伝承の歴史的モチーフになったとされる。

 

問い 中世ドイツの東方植民の経緯を、送り出した地域の当時の社会状況を踏まえて述べるとともに、植民を受け入れた地域が近代に至るまでのヨーロッパ世界のなかで果たした経済史的意義について、その地域の社会状況の変化に言及しつつ論じなさい。

 

第2問

 次の文章を読んで、下線部に関する問いに答えなさい。

 

 フランスの歴史家アルベール・マチエはその著書『フランス大革命』の第一巻を「君主制の瓦解(1787年-1792年)」とし、その第二章を「貴族の反乱」とした。王室財政の破産がこのままでは不可避とみた国王政府は、貴族への課税を中心とする改革案を作り、主として大貴族からなる「名士会」を1787年に召集して改革案の承認を求めたが、「名士会」は、貴族が課税されることよりも、むしろこのように臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判し、全国三部会の開催を要求した。マチエはこの「名士会」の召集から『フランス大革命』の論述を始めたのである。従来は1789年に始まると考えられていたフランス革命の叙述を1787年から始めたのはマチエの卓見であったが、1787年-88年の段階は「革命」ではなく「反乱」とされた。それに対してジョルジュ・ルフェーヴルは「フランス革命と農民」と題する論文において、マチエの「1787年開始説」を引き継ぎながら、「…したがって、フランス革命の開始期ではまだブルジョワ革命ではなくて貴族革命である。貴族革命は結局流産したが、それを無視してはブルジョワ革命を説明できないであろう。(中略)フランス革命の火蓋はそのために滅んでゆく階級によってきられたのであって、そのために利益をえる階級によってではなかった」と記し、マチエが「貴族の反乱」と呼んだものを「貴族革命」と言い換えた。他方、この論文の訳者である柴田三千雄氏はその著書『フランス革命』において「まず、フランス革命はいつからいつまでかといえば、1789年から99年までの約10年間とみるのが、通説です。貴族の反抗をいれると12年になりますが、それはいわば前段階です。」として「反乱(もしくは反抗)」についてはマチエ説に立ち返るとともに、フランス革命の叙述を1789年から始めている。

 1787-88年の貴族の動きが「反乱(もしくは反抗)である「革命」であるかは、一見すると些細な用語の違いにすぎないと思われるかもしれないが、この用語の違いは、「そもそも革命とは何か」という大きな問題に直結しており、フランス革命という世界史上の大事件の定義もしくは性格付けに直接にかかわる問題なのである。(ジョルジュ・ルフェーヴル著・柴田三千雄訳『フランス革命と農民』柴田三千雄著『フランス革命』より引用。)

 

問い 「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱(もしくは反抗)」とみなされ、また「革命」を逆にどのようなものと考えると同じものが革命とみなされることになるか答えなさい。絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化、フランス革命の際のスローガン等を参考に考察しなさい。

 

第3問

A 中国最後の王朝である清朝に対する革命運動は、1894年孫文がハワイで( a )を結成した時点にさかのぼる。1900年の義和団事件のあと、革命派の勢力が拡大し、1905年には多数の留学生がいた東京で中国同盟会が結成された。その後、革命派は、( b )ら立憲派と激しい論争を展開することとなる。こうした中で、1911年、四川における鉄道国有化反対運動活動をきっかけとして、辛亥革命が起こり、南京で孫文が中華民国臨時大統領に就任した。しかし革命派の基盤はなお脆弱であり、華北を基盤として( c )の強大な軍事力を有していた袁世凱との間で、清朝皇帝の退位を条件に臨時大統領の地位を袁が譲り受けるという妥協的な取引を余儀なくされた。革命派の宋教仁は( d )を結成し、議会の多数を制して議員内閣制により袁世凱の力に対抗しようとしたが、逆に暗殺された。こうして、革命の成果は半ばに終わり、孫文らは再び日本に亡命した。

 

 問い ( a )から( d )にあてはまる語句を答えなさい。a、c、dには組織名、bには人名が入る。また、下線部の革命派と立憲派との論争について説明しなさい。(全体で200字以内)

 

B 朝鮮は1876年の日朝修好条規についで、1880年代初めに西洋諸国とも条約を結び、こうした新しい外交関係と清との冊封関係が併存したことによって、国際政治の複雑な圧力を受けるようになった。そのような状況のもとで、内政の改革と国家の自立・独立をめざす改革派である、開化派の勢力が形成され、成長していった。1884年の金玉均らの行動、1894-95年に進められた政治改革(甲午改革と称される)、1898年の独立教会による改革運動は、開化派の運動の代表的なものであった。

 

問い 以下に掲げる史料を参照して、1880-90年代に開化派のめざした改革はどのようなものであったのか、それは朝鮮の社会と政治をどのように変えたのかを、説明しなさい。なお、史料は現代語訳したものであり、一部に意訳しているところがある。(200字以内)

 

〔史料1〕 金玉均らが樹立した政権によ改革方針(抜粋)

一 大院君には日ならずして、ご帰国いただく事(朝貢の虚礼は廃止する)

一 門閥を廃止し、以て人民平等の権を制定し、人を以て官を選ぶことにし、官を以て人に選ぶことのないようにする事。

一 国中の地租の法を改革し、吏による悪事を杜絶し、民の苦しみをやわらげるとともに、国の財政を裕かにする事。

 

〔史料2〕 1894年7-8月(陽暦)に開化派政権の決定した改革方針(抜粋)

一 今より国内外向けの公私の文書は、開国紀年を書く事。

一 門閥、両班と常民の等級を打破し、貴賎に拘らず人材を選び用いる事。

一 公私奴婢の制度は一切廃止し、人身の売買を禁止すること。

一 一切の税として納めてきた米・大豆・綿布・麻布は。みな代銭(銭による納付)とすること。

 ※開国紀年:朝鮮王朝が建国された1392年を元年とする紀年法

 

〔史料3〕 1898年11月2日の「中枢院官制改正件」(抜粋)

 第一条 中枢院は左記の事項を審査議定する場所とする事。

 一 法律・勅令の制定・廃止、或いは改正に関す事項

 二 議政府の議を経て上奏する一切の事項

 六 人民の献議する事項

第三条 ……議官の半数は政府が……会議推薦して上奏し、半数は人民協会で27歳以上の人が政治法律学識に通達した者から投票選挙する事

 

第十六条 本官制第三条の人民選挙は、当分の間は独立協会で行う事

 ※中枢院は1894年12月に設置された政府の諮問機関であり、議政府は当時における政府の名称である。

………………………………………

(コメント)

第1問

 「東方植民」は現一橋学長・山内進著『北の十字軍 ヨーロッパの北方拡大』(講談社学術文庫)という本に詳しい。学長が出題者であるか分かりませんが、中世中期(盛期)の出題は一橋の頻出テーマであり、例年のものと言えます。東方植民は「北ドイツ植民」ともいい、十字軍・レコンキスタとともに「初期膨張」の一つです。過去問では中世中期の空間革命(1982-1)に類する問題で、「送り出した地域の当時の社会状況」としては、農業に関する過去問(1996-1の14世紀と18世紀農業の制度・技術の変化、1998-1の人口増減の理由)も利用できます。

 課題は、第一に「送り出した地域の当時の社会状況」というプッシュ側と、第二に「植民を受け入れた地域が近代に至るまでのヨーロッパ世界のなかで果たした経済史的意義」というプル側で、この第二に「その地域の社会状況の変化」が付帯条件となっています。地域的には第一の課題は西欧であり、第二の課題は東欧です。

 第一の課題は、「送り出した地域(西欧)の当時の社会状況」とは、11-13世紀という時期であることが先ず分からなくてはならない。十字軍の開始期であり、レコンキスタの本格化した時期です。これらをまとめて「初期膨張」といいます。これらはみな政治的軍事的な行動であり、この膨大な費用の要する攻撃を支えた「社会状況」があったという想定です。

 「社会」は政治的でないことがらを指すので、ここでは農業技術革新を指摘したらいいでしょう。「この時代はおおむね気候が温和で、三圃制の普及や犂・水車の改良など農業技術の進歩により農業生産は増大し、人口も飛躍的にふえた。それにともない西ヨーロッパ世界は、しだいに内外に向けて拡大しはじめた(詳説世界史)」とある部分です。予備校の解答例に「11世紀以降西洋では三圃制の普及などにより農業生産力が増大」と一例だけあげて「など」で誤魔化さないように。数例あげて実証することが社会科学的な説明です。

 また「社会」とあったら何を書いてもいいとは思わないことです(拙著『世界史論述練習帳new』に「社会ってなに?」というコラムがあります)。過去問を研究したら一橋の「社会」が政治以外を問うていることは明らかです(いや一橋だけではありませんが)。「社会」は主に経済や文化に該当することがらです。予備校の解答例に「ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などが形成されたが、対抗してポーランドではヤゲウォ朝が成立した」という解答例がありますが、こういう政治史は要らない。

 

 「社会」的なものとして巡礼熱(流行)があり、スペイン西北のサンチャゴ=デ=コンポステラは今もつづくカトリックの巡礼地です。当時は十字軍も、十字軍といわないで巡礼といっていました。これに布教も加わり、エルベ川以東のスラヴ人地域はまだキリスト教が充分伝わっていない地域であり、宗教騎士団や托鉢修道会が布教を兼ねて軍事的な植民をしました。東方植民では、とくにシトー修道会の先導が目立ってます。後につづいたのがドイツ騎士団(正式にはドイツ騎士修道会)です。山川用語集の「東方植民」の項目に「12-14世紀にドイツ諸侯・騎士・修道院などが行ったエルベ川以東のスラヴ入居住地などへの植民。とくに、ドイツ騎士団は先住民のキリスト教化を理由にバルト海東南沿岸地域で軍事的性格の濃い植民を推し進め、のちのプロイセンのもとになる大規模な領土を獲得した」とあります。

 この植民を西欧で唱導したのが十字軍の唱導者でもあったローマ教皇です。ときは叙任権闘争期であり、教皇の地位が高まっていました。他の軍事行動と同様に国際的な行動は教皇が号令をかけて行っています。学長の『北の十字軍』を読むと、教皇と植民がいかに緊密に連絡をとりながら行なわれていたか知ることができます。しかし教皇との関係は教科書には書いてありません。宗教と政治の関係は絶えずテーマになっているので、これは一橋向きには覚えておくといいでしょう。

 

 第二課題の「植民を受け入れた地域が近代に至るまでのヨーロッパ世界のなかで果たした経済史的意義」のことは教科書(詳説世界史)が雄弁に語っています。以下の引用文の前半が中世末のところに書いてあり、「……」以降の後半は近世(近代)のところ(商業革命と価格革命)に書いてあります。

12世紀から14世紀にかけてドイツ人による大規模な植民がおこなわれ(東方植民)、ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などの諸侯国がつくられた。イギリス・フランス・西南ドイツなどの諸地域とはちがって、これらの地方では15世紀以降、領主が農奴への身分的束縛を逆に強め、直営地をひろげて大農場を経営し、西ヨーロッパ向けの穀物生産を大規模におこなうようになっていった。……西欧諸国では商工業が活発となる一方、エルベ川以東の東ヨーロッパ地域は西欧諸国に穀物を輸出するため、領主が輸出用穀物を生産する直営地経営をおこなう農場領主制(グーツヘルシャフト)がひろまり、農奴に対する支配がかえって強化された。ヨーロッパにおける東・西間の分業体制の形成は、その後の東欧の発展に大きな影響をあたえた。

 この引用文の前半はまだ「なっていった」とありますが、後半では「分業体制」形成と仕上がった表現になってます。つまりこれが付帯課題の「社会状況の変化」にあたり、一般に東欧の「後背地化」(商工業の西欧を農業面で支える)といいます。東欧では、15-16世紀ころから、都市経済が後退し、大土地所有たる貴族の権力が増し、農民保有地を奪い、農民の移動を制限し、領主直営地の拡大による「再版農奴制」(グーツヘルシャフト)が生まれました。多くの領主たちは自ら農産物の販売者となって西欧工業地域の市場と結びつき、この経済関係を通じて東欧を西欧に対する農業的後背地にしたのです。この後背地化が「意義」になります。というのはこの商工業の西欧、農業の東欧というあり方は20世紀の前半まで継続したあり方でしたから。

 教科書と用語集で解ける問題でした。

 

第2問

 フランス革命の初期をいつに設定するかという歴史家の議論を受験生にぶつけた奇問です。大学で講義したような内容をそのまま高校生に問題として出題するという、一橋らしい出題の苦労を省いた安直な姿勢が見えます。

 柴田三千雄の『フランス革命』(1989年)のだいぶ前に京大人文研が出した桑原武夫編『フランス革命の研究』(1959年)にこの革命のスタート時期をめぐる議論をしていて、この『研究』の立場は、「私たちはフランス革命を1788年5月8日から1799年11月9日にいたる11年間の過程としてとらえる」(p.15)と明言しています(柴田とちがい名士会開催の翌年にしています。理由は省きます)。どちらにしろ名士会からです。この名士会を書いている教科書は皆無です。高校の教師によっては教えているかも知れないので全面否定はできませんが、過大な問い方でした。わたしは私大で出題されるため、名士会を説明します(2006年関西学院大学・総合政策学部、第4問)。併し論述問題として問うのは細かすぎるとおもいます。考えさせる良問と出題者は誇っているかも知れませんが、考える材料が少なすぎます。これは名士会を習ったかどうかで差がついてしまう。

 受験生は受験場で文句は言えないので、問題文から何とか探っていきましょう。

 課題は二つあり、(1)「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱(もしくは反抗)」とみなされ(反乱説)、(2)また「革命」を逆にどのようなものと考えると同じものが革命とみなされることになるか(革命説)答えなさい……ということです。これを考えるさいに「参考に」とあるのが、(a)絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化、(b)フランス革命の際のスローガン等を、ということです。(a)は(1)に関連してきますし、(b)は(2)と関連してきます……と分かるかどうか?

 導入文にある名士会は、ルイ13世が三部会を開かなくなった(1615年)代わりとして国王任命の51人の貴族で構成した諮問会議です。国王はこの会議での諮問を経ることで、国民の代表者による承諾を得たとして課税が可能になりました。というか中国の全国人民代表大会(国会)のように、討論・協議機関でなくイエスを表するだけのゴム印機関です。

 

 1789年の教科書的な革命開始の前に何かもめごとがあったのだということが文面から分かります。

 (1)の反乱説としては「1787年に召集して改革案の承認を求めたが「名士会」は、貴族が課税されることよりも、むしろこのように臨時にしか貴族が国政に発言できない政治体制そのものを批判し、全国三部会の開催を要求した」という点に、それまで従順であった貴族が「批判」したことが反乱のようです。同じ国王とともに支配階層の構成員であるはずの貴族が反抗したため、支配構造にひびが入り、自壊の傾向を示した、ということでしょう。

 詳しく説明すると、名士会において財務総監(事実上の首相)カロンヌが免税特権をなくして課税しようとして断わられ、さらに新財務総監ブリェンヌは名士会を閉会して、地方にある高等法院に課税案を出して打開しようとしたのですが、これを高等法院が拒絶しました。課税の協議は(全国)三部会でするのが筋だという理由でした。すると国王政府は高等法院にそういう拒否の権限はないという新法を突きつけてきます。これはもう我慢ができないと聖俗貴族たちが連合して抵抗しだします。こうしたやり合いが革命を準備しました。しかしまだ革命には入っていません。

 ここに「(a)絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化」があります。それまでは、国王と貴族は共存関係にあり、互いにあまり干渉しないで、社団国家(多様な自治的組織の複合体)を構成してきました。国王と貴族は互いの領地・特権を認めあう関係です。認め合う代表的な機関が高等法院です。全国に13箇所の高等法院がありました。国王とて自分の発した勅令はすんなり実行されず、勅令を審査する権限を法院は持っていました。それが絶対王政の強化とともに権限は削られていきましたが、完全になくなったのではありませんでした。上の新法が出されて両者は対立は退(の)っ引きならないところまで来ました。ここまでは「貴族革命=貴族の反乱」の段階です。

 ここまでの解答に、免税特権・高等法院・社団国家について書けたらベストです。過去問の2001年第2問の「絶対主義の絶対性」も役に立ちます。

 

 第二課題の革命説の場合は、この免税特権階級が、市民(第三身分)と結びつくところで「(市民=ブルジョワ)革命」になります。(b)フランス革命の際のスローガン「自由・平等・友愛」を参考に、ということは特権階級だけでは革命に進まないことを示唆しています。王権と衝突した免税特権階級が市民と手を組むことで革命に入ります。柴田が「三部会の召集がきまり、彼ら(第三身分)に政治的発言の機会が170年ぶりに突然に与えられた。貴族が王権からかちとった成果が、皮肉にも、ブルジョワジーを革命化させるきっかけとなったのです」(p.74)と述べる部分です。

 召集された三部会でいきなり議決方法をめぐった争い、自由主義貴族が中心になってテニスコートの誓いがあり、全国的な農民蜂起を背景に、「自由・平等・友愛」を唱える空気ができあがりました。初めはこれらのスローガンは文字通りにとってはおらず、理想をかかげたにすぎませんが、次第に現実化していきます。思いもかけずこの抽象的な理念は革命を「過激」な方向に向かわせていきます。

 このように貴族の反乱が契機となり、次第に特権身分ではない方に革命の推進力が移っていくため、貴族の反抗は革命の発端だった、という革命説が説明できます。

 ここまでの解答に、スローガンの内容・市民(ブルジョワジー)・三部会などに言及できたらいいでしょう。

 

第3問

 この第3問は例年アジア史にあてられており、たいてい2問、200字ずつという設定です。

A この問題でも一橋らしく象牙の塔(受験生知らず)らしい問い方がしてあります。空欄は易問としても、設問の「革命派と立憲派との論争」を説明しろ、というのは高校生に出す問題ではないでしょう。教科書を読んだら、この課題に応えられるだけのデータが教科書にないことがすぐ分かるはずです。教科書なんて見ないよ、あんなもの、と一橋の出題者たちは馬鹿にしているでしょう。東大・京大・阪大が高校生で解ける問題を苦労して良問を作っているのに、そういう考慮は一切なし。ずぼら、と言うしかない。
 もちろん、わたしは現行の教科書が良い、これに従うべきだと言いたいのではない。古代から現代まで隅なく網羅した現行の教科書は異常なものであり、事件の原因・影響をかんたんにのべて、いや時には無視して次々と事件を追いかけるだけで内容があまりに乏しい。いいかげんこのような教科書は廃棄すべきですが、しかし現行のこの教科書で学んでいる以上、これに見合った問題を作るべきだと思います。

 導入文はこの二つの派の論争についてではなく、辛亥革命の経緯を語っているだけなので、説明の材料にもなりません。放棄するのも一つの手です。世界史に関して詳しく説明している山川の『詳説世界史研究』でも革命派ということばは辛亥革命がおきてから孫文たちを革命派と呼んでいるだけで、革命前の論争では書いてありません。ここで問われている論争は革命前のものです。

 なんとかアクセスするとすれば、この経緯説明の中にある革命派は、孫文・中国同盟会のグループだと分かります。立憲派(変法派)は変法運動をすすめた派、つまり康有為・梁啓超のグループと推理できます。いいかえれば清朝打倒と清朝は維持しながら改革をすすめようという論争でしょう。

 論争の中身までは受験生としては入れないので、ここは思いきって得点はないかもしれないが、孫文(中国同盟会)と康有為(変法運動)について知っていることを羅列することにします。100字に近づくだけで喜びましょう。

 導入文から分かるように、何も孫文がどうした、康有為がどうしたと聞いているのではなく、変法運動が失敗して海外(日本)に亡命している最中での双方の論争のことです。そういう論争があったということは、中国現代史の専門家にとっては自明のことですが、教科書・参考書はそこまでは書いてませんよ。

 次のような解答例があります。これは論争の説明になっていますか?

日露戦争の日本の勝利を機に、清朝内部では変法運動で挫折した立憲君主政への転換により清朝存続を図る光緒新政が始まり、立憲派の梁啓超や康有為はこれを擁護した。一方、義和団事件の後、清朝打倒をめざす革命派を中国同盟会に結集した孫文は、民族の独立、民権の伸張、民生の安定を内容とする三民主義に基づき、漢民族主導の共和国樹立を主張し立憲派を清朝擁護の保守派として批判した。

 ほとんど経過説明です。しかし次善の策としてこういうふうに書くことも避けられません。

 その論争はどんなものだったか。

 亡命した康・梁らが保皇会をつくり(1899年結成)、孫文はハワイで輿中会、東京で中国同盟会など革命派を形成します。それは在外中国系住民のあいだでの組織拡大をめぐる争いにも発展しました。

 時期と国際情勢の見方で対立していました。前者(立憲派)は、まだ中国で共和政の政体をつくってやっていくには時期尚早であり、皇帝保持を守りつつ改革を重ねていくべきだ、いま革命をやれば混乱の元であり、かえって列強につけこまれる空きを与えてしまう、革命は避けるべきだ、という穏便な主張でした。辛亥革命以降の中国のすがたを想起すればこれは当たっていました。しかし革命派からすれば、清朝は列強に対してあまりに弱腰であり、植民地化は進む一方だと見えました。「洋人の朝廷」と化した清朝は許せない。革命は今だ、と。列強間は勢力均衡の状態であり、介入はないだろうとの見通しでした。ここは甘い見解です。

 こうした対立はメンシェヴィキとボリシェヴィキの対立と似ています。革命をいますぐ起すにはそれを支えるブルジョワジーがロシアに育っていない、時期尚早だと。一方のボリシェヴィキは革命的意識をもった一部の前衛(急進派)で革命をいまおこすべきだ、という対立です。

 民族と国家像をめぐる対立もありました。立憲派は立憲君主政・責任内閣制の他に地方分権などを唱え、五族共和も主張して多民族帝国の維持を図ろうとしていました。これに対して革命派は、少数民族にすぎない満人支配を排除して多数派・漢人中心の国民国家こそめざすべきだとみなしていました。いや満人は排除すべき外国人だ、と。

 

B これもまた奇問です。課題「史料を参照して、1880-90年代に開化派のめざした改革はどのようなものであったのか、それは朝鮮の社会と政治をどのように変えたのかを、説明しなさい」のうち、前半は史料を要約するだけですむので良いとして、後半の「社会と政治をどのように変えたのか」は答えられないものです。だいたい甲午改革などというものは教科書にも参考書にも載っていません。

  たとえば日朝修好条規の後の教科書(詳説世界史)では、こうです。

朝鮮内部では、日本に接近して急進的な改革をはかろうとする金玉均らと、清との関係を維持して漸進的な改革をおこなおうとする外戚の閔氏一族などとが対立し、壬午軍乱や甲申政変など内争が激しくなり、日清間の対立も深まった。

 「急進的な改革をはかろう」とまでは書いてあっても、その中身はなく、中身と関係して「などとが対立し」たのかどうかも分かりません。対立が日清の利用するところとなり、外圧が日本の有利に働いていく過程が書いてあります。しかしここで問われているのは外圧でなく「朝鮮の社会と政治」です。Aの中国の革命派と立憲派に似た現象として出題しているのは分かるとしても、ないものねだりです。ここはあっさり諦めて、甲申事変(政変)か世紀末の朝鮮情勢について書いてお茶を濁す、というのが対策になります(開化派・金玉均のクーデタ失敗、日清戦争後の大韓帝国という国号改称、義兵闘争)。改革の要約で半分得点できたら良いとしましょう。「社会」は何を書くのでしょう? 予備校の解答で「政治」以外の「社会」について影響を書いた答案があるか探してみましょう。

 こういう問題に真面目につきあっておられません。

 一橋の出題者は問題ができてから、教科書を開き、教科書の内容で答えられるか、と自問してほしいものですが、これは無理なようです。

 この「社会」にあたる解答は趙景達著『近代朝鮮と日本』岩波新書の中に次のように書いてある部分が該当します(p.124)。

甲午改革は、甲午農民戦争における農民的諸要求に対して、国政全般にわたる近代的な諸改革によって応えようとするものであった。しかし、政治・財政基盤が脆弱であったため、その実現は部分的にしか達成されなかった。しかも急激な「上から」の改革は、民衆の支持を得られるものではなかった。零細な農業や商工業への改革・保護がなされなかったことは、かえって民衆の反発を呼び起こした。何よりも農民は小農回帰的な土地政策を望んだが、甲午改革政権は地主擁護的立場からそれに一切手をつけようとしなかった。また租税の金納化は、農民がますます商品貨幣経済に巻き込まれて没落の道を加速させていくことを意味し、歓迎されるべきことではなかった。。民衆は、甲午改革政権とは逆に反近代的な志向をしていた。

 この後におきる閔妃暗殺事件(1895)と親日改革派政権が事件をうやむやにしようとしたこともあり、甲午農民戦争がおき、義兵闘争が民間で始まります。これもあげていいでしょう。

 課題の時間「1880-90年代」は何より日本の侵略が加速する時期です。この外圧は問われていないことがらですが、しかし根本的な改革の失敗原因は日本にあるのです。海野福寿著『韓国併合』岩波新書には甲午改革の性格について、こう書いてあります。

 しかし、政府と民衆とのよじれた関係のもとでは、改革は民衆の支持をとりつけることができなかった。その理由のひとつは、前述のように開化派政権成立の自主的基盤の欠如であり、もうひとつは、日本軍の朝鮮軍事占領下で改革がおこなわれたことである。

 何より王妃殺害事件に関して、政府が日本の責任を不問に付そうとする屈辱的な姿勢である以上、怒りと憎悪の対象となるのは当然であった。(p.105)