世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

『テーマ別東大世界史論述問題集』駿台文庫-2

1997-1(p.141)

●列強に半植民地化された清では、孫文の三民主義が華僑や民族資本家に広まり、辛亥革命が勃発、中華民国が成立し清は滅亡した。これを機に外モンゴルはソ連の影響下で独立し、……ロシアも革命で崩壊しフィンランド・バルト三国・ポーランドなどが独立、ソヴィエト政権は連邦国家を形成したが、ザカフカースや中央アジアのムスリムなど少数民族に対する抑圧問題が生じた。

▲ただ4帝国の解体を羅列しただけで、解体を比較をして「とくに……相違に留意」した跡が見えません。留意したかどうかは表現しないと分からない。(何が問われているか)(加点ポイント)(視点)のどこにも「相違」ということばが出てきません。相違を考えなかったから書いてないのは当然ですが。

○(青本)

第一次大戦前。既に越南等の属国、直轄地台湾を日欧列強に奪われた清朝は辛亥革命により12年中華民国に替られたが、領土・民族はほぼ変らず、モンゴル人だけが内蒙古・戦後成立した人民共和国・ソ連に分断された。孫文の三民主義の民族は反満州人から反帝に転じた。「諸民族の牢獄」ロシア帝国と多くのスラヴ人を支配するオーストリア・ハンガリー帝国は、19世紀末解体の途上にあるオスマントルコ旧領を蚕食しつつ対立し、自滅の大戦への道を歩んだ。第一次大戦後。ウィルソンの民族自決により敗戦国のオーストリアとオスマン帝国は解体されたが、前者からはポーランド等が独立し、後者のアラブ人の統一国家は実現せず英仏の委任統治領となった。前者のドイツ人には民族自決は認められず、ソポ間に戦争も勃発、後者のパレスティナではシオニズムのユダヤ人移住の道が開かれた。ソヴィエト政権はロシア・ウクライナ・ザカフカズ等の連邦国家となり、分離したバルト三国等は西側諸国の承認を受けたが、中央アジアのムスリム等少数民族抑圧の問題は未解決であった。

 

1992-1(p.146)

●英の重商主義に対して、北米では植民地系白人地主によりアメリカ合衆国が独立した。中南米では仏革命の影響でハイチの黒人奴隷が独立運動を開始、……第二次世界大戦後、反植民地主義を掲げて仏からベトナム|など3国が、英からビルマ、蘭からインドネシア、米からフィリピンが独立したが、ベトナムでは植民地支配の復活を図る仏とベトナム民主共和国の間でインドシナ戦争が勃発した。米ソ対立の冷戦構造下で、インドネシアなどは第三勢力の中核として、コロンボ会議やアジア=アフリカ会議を主導するなど、非同盟運動を推進した。

▲ (視点)に「「国際社会=主権国家体制」にどのような「新たな展開=変化」が生じたのか、を論証すればよい」と取ったのはいいものの、論証できなかった。せいぜい「民族自決主義の対象から除外された東南アジアでは、……が独立した」のところぐらいが新しい展開になっている唯一の文。わざわざ白地図を6枚も提示した意味が分からなかったようです。

○(青本)

図①1783年のアメリカの独立と87年連邦主義・人民主権の合衆国憲法の制定は、近代史上初めての植民地独立であり、ウェストファリア以来の君主統治権による主権国家体制に大規模な共和制国家を加え、その影響は欧州の君主国への自由主義・国民主義の反逆に及び、白人植民地者中心の独立とはいえ多人種国家形成の嚆矢となった。1810〜20年代のスペイン領中南米の独立は、ウィーン体制に打撃を与えたが、合衆国のような統一に失敗し、ブラジルも含めナショナリズムを欠きエリート中心の、経済的従属の強い不完全な主権国家として体制に加わった。西半球は英国の影響とモンロー主義により欧州の体制から相対的に独立し、諸国は相互に対立した。図②多民族的な独墺露三帝国の敗戦と革命による解体およびウィルソンの民族自決、旧同盟国とソヴィエト政権の列強の意図から、多くの主権国家が誕生したが、複雑な民族分布の上に人為的に国境が引かれたため紛争の種がまかれ、政治的経済的に不安定で、後のナチスの進出に対し体制のこの部分は有効に機能しなかった。図③第二次大戦中日本が占領したこの地域は、多かれ少なかれ抗日運動を基盤として旧宗主国仏、蘭との戦争によって独立した。これらの諸国は内部に民族統合の課題をかかえつつ、米ソ対立の緊張を緩和させ、非同盟主義という行動原理を主権国家体制の権力政治にもちこみ、第三勢力のメンバーとして国連等の国際機構でも発言力を高めた。

 

2004-2-1(p.148)

●ソロモン王の死後、王国は分裂北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は新バビロニアに滅ぼされて住民はバビロン捕囚を受けた。のちアケメネス朝に解放されパレスチナに帰還し、選民思想や救世主の思想を含む「旧約聖書」が成立した。

▲ 末尾が変てこりん。旧約聖書が成立したでなく、ユダヤ教が成立したと書くべき。教科書(詳説)に「ユダヤ人は約50年後にバビロンから解放されて帰国すると、イェルサレムにヤハウェの神殿を再興し、ユダヤ教を確立した」とあります。旧約聖書の歴史書や預言書は、その多くの部分がバビロニアおける捕囚時代にまとめあげられたものであり、何も帰還してから編集したものではありません。捕囚の身の下でシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)をつくり、聖書を読み合って信仰を守ったのです。

○(青本)

前10世紀後半ソロモン王の死後へブライ人の王国は南北分裂した。北のイスラエル王国は前8世紀後半にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は前6世紀前半、新バビロニアに制圧されバビロン捕囚を体験した。この苦難の運命がユダヤ教の成立につながった。

 

1998-2-2(p.150)

●帝国統一を望む皇帝は、高位聖職者を臣下として行政権を委ねた。また彼らの軍事力を利用して有力諸侯に対抗しようとしたから。

▲ 課題は「神聖ローマ皇帝が、聖職叙任権を手放そうとしなかった最も大きな理由」でした。(視点)に「大司教・司教・修道院長などの高位聖職者は、信徒からの土地財産の寄進を受けて荘園領主となり、領地を守るために武装していた」と妙な解説をしています。もともと世俗領主が自分の土地に自分の費用で開拓しそこに教会や修道院を自分のために(主従契約場・来世のための祈りのため)に建てたもので、自分の親族を司教にしたり修道院長にしていた。これを私有教会制という。

○(受験生の答案)

聖職者の任命権を確保することにより、教会を帝権の支配下に置きつつ諸侯の勢力を抑えるという帝国教会政策を進めていたため。

 

2004-2-3(p.153)

●前者では、信徒が選出した正統カリフが、唯一のカリフとして政治権力を握った。後者では世襲制となり、アッバース朝カリフはセルジューク朝に政治権力を奪われ、宗教権威として存続した。ファーティマ朝の君主もカリフを称してアッバース朝に対抗した。

▲ 課題は「7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて」とあるのに、選挙・世襲、唯一のカリフ・ファーティマ朝の君主もカリフ、と2つしか挙げてない。8世紀にできたアッバース朝について書くは「7世紀」と限定している課題に反してます。

○(青本)

相違の第一、7世紀前半カリフは選挙制で、11世紀後半世襲だった。第二、7世紀前半カリフは唯一人だったが、11世紀後半にはファーティマ朝がカリフを称していた。第三、7世紀前半カリフは聖俗両面の指導者だったが、11世紀後半スルタンに俗権が移った。

 

2002-2(p.156)

●アクバルは宗教融和を説き、異教徒に対するジズヤを廃止して、ヒンドゥー教徒を官僚に採用した。アウラングゼーブはイスラーム法に厳格で、ジズヤを復活し、ヒンドゥー教徒の反発を招いた。

▲ 課題は「16〜17世紀の間に宗教政策を大きく変えた。その変化を、関係する二人の皇帝の名を用い」。初めの皇帝が「官僚に採用」であれば、後の皇帝は「官僚」をどうしたのか分からない解答になってます。官僚をどうあつかったのか分からないのであれば、分かる範囲で、「ヒンドゥー寺院を破壊するなど圧迫を加えた(東京書籍)」のように書けばいい。

○(受験生の解答)

アクバルは寛容策で、回印融和のためジズヤを廃し、諸宗教折衷の新宗教を創った。アクラングゼーブはスンナ派徹底の不寛容策で、ヒンドゥー教寺院を破壊しジズヤを復活、シーア派も圧迫した。

 

1993-2-B(p.161)

●スペイン=ハプスブルク家のフェリペ2世による重税とカトリック強制に対して蜂起したが、カトリックの多い南部10州は離脱してスペイン領にとどまった。一方、カルヴァン派が多い北部7州はユトレヒト同盟を結成してスペインに抵抗を続け‘オラニエ公ウィレムを総督とするネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。

▲ 「カトリックの多い南部……カルヴァン派が多い北部」を自明のこととして書いてますが、もともとカルヴァン派は南部に多かったのであり、北に逃亡したため北部が「多い」状態になります。『詳説世界史研究』は「フランドル・ブラバント同州からは、1万人以上の商工業者が北部ネーデルラントやヨーロッパ各地に亡命した」と書いています。

○(青本)

反スペイン反乱の担い手は新旧両教徒の貴族とカルヴァン派の商工業者だった。カルヴァン派とカトリックは内戦をおこし、カトリック・スペインは南部カトリックのアラス同盟と和解した。カルヴァン派は北部に結集し、1579年ユトレヒト同盟を結び、1581年カトリックの国王を拒否して連合ネーデルラント共和国の独立を宣した。

 

2009-1(p.168)

●中世西欧で超越的権威であった教皇権は、王権の伸張と宗教改革により揺らぎ、16世紀には王権が教権を排除する形で主権国家が成立した。英ではヘンリ8世の首長法により国王が宗教面においても絶対権をもつ英国教会が成立。統一法で一般祈祷書を国民に強制し、旧教を弾圧する一方、審査法で国教徒を優遇した。……チベット・モンゴルの諸民族では、チベット仏教の転生観に基づき、16世紀以降、黄帽派の教主ダライ=ラマの権威が確立した。満州族が建てた清朝は.儒教的皇帝観念を受け継ぐと同時に、チベット仏教を保護し、チベット・モンゴルなどを藩部として理藩院による間接統治を行った。

▲ 課題は「3つの地域の特徴を比較して」というもの。この解答文を読んで「3つの地域の特徴を比較し」た文がどこにあるか当てられるひとは手を挙げて! どこにもない。解答例2も同じ。

○(受験生の解答)

西ヨーロッパ。フランスでは1598年にアンリ4世によりナントの王令が出されてユグノー戦争が終結したものの、ルイ14世の治世中にナントの王令廃止があり、ユグノーは国外に流出した。ドイツでは1555年にアウグスブルクの和議でルター派と神聖ローマ皇帝の対立は一旦決着し、領邦教会制がとられ、新教か旧教かは諸侯の判断に委ねられた。また、カルヴァン派は認められなかった。イギリスではヘンリ8世が1534年に首長法を制定して教会を支配し、修道院領を没収した。エリザベス1世の治世中に統一法によりイギリス国教会が確立した。清教徒革命を経て王政復古の後は審査法・人身保護法で官吏は国教徒に限定され、清教徒は差別を受けた。西アジア。オスマン帝国では、キリスト教徒やユダヤ教徒はミッレトの中で自治を許された。また、デウシルメ制がとられ、キリスト教徒の男子はイェニチェリとして育成された。西欧とちがい、概ね異教徒の信仰は納税と引き換えに許された。東アジア。明では、儒教が統治に利用され、「忠」や「孝」といった概念が人民支配に用いられた。清は文字の獄で反清王朝的言論を排除・弾圧した。また、藩部に対しては理藩院を置いて間接統治を行いダライ=ラマを首長とするチベット仏教黄帽派を保護した。イエズス会士に対しては典礼問題から禁令を出したが、政治に関わらない限り、個人の信仰に干渉することなく、西欧や西アジア世界よりずっと寛容であった。

 

1991-1(p.173)

●ブワイフ朝はアッバース朝カリフの政治権力を奪い、セルジューク朝以降はスルタン制がトルコ系諸王朝に広まり政教分離が明確化した。またイクター制が世襲化され、トルコ系マムルークが封建領主化した。モンゴルのアッバース朝征服でカリフ制は事実上消滅したが、モンゴルを撃退したマムルーク朝やオスマン帝国は聖地の守護者としてスンナ派への権威を確立、異教徒を宗教別共同体ミッレトに編成し、ムスリムとの共存を図る一方、シーア派のサファヴィー朝と抗争した。西欧では権力確立のため帝国教会政策を推進する神聖ローマ皇帝とローマ教皇が叙任権闘争を展開。これに勝利した教皇は王権弱体な封建制度下で普遍的権威を確立したが、……アウラングゼーブは人頭税を復活しヒンドゥー教徒やシク教徒の反発を招いた。

▲ 西アジア最後は「ムスリムとの共存……シーア派のサファヴィー朝と抗争した」という締めくくりは、いったい前9世紀までの「権威はしだいに失われ……体制を維持することがむずかしくなった」はどうなったと言いたいのか分からない。西欧の「宗教教改革期には教皇権は失墜」はまちがい。公会議でそれまでに失墜していた教皇権は高められます。また独英仏と分けて書いているが、これは9世紀までの「フランク王国分裂後、諸侯が割拠し」がどうなったのか、同じだと言いたいのか分からない。問題文は「フランク王国」と西欧全体の歴史を問うているのに個別の歴史になってしまった。南アジアでアウラングゼーブまで書いてはいけない。10〜17世紀という長いスパンの中で、9世紀までの混乱はどうなったか、という答えにはならず、むしろ18世紀以降の歴史につながる面を最後にもってくることになります。省いた方が問題に合っています。もっとも大きな欠点は、「対比しつつ」という課題にまったく応えていないことです。

○(青本)

西アジア。10世紀にアッバース朝の都はブワイフ朝に占領されて力リフ制は名目化し、11世紀のセルジューク・トルコの占領とスルタン制の成立は、カリフ制を宗教面だけの権威に落とし政教の指導者は分離した。また10世紀にイベリア・チュニジアのカリフ君主の登場、イラン人・トルコ人政権の独立はカリフの地位をより名目化する。また軍人奴隷マムルークによる武断政治とイクター制の施行は分裂を促進する原因となった。だが、I4世紀から16世紀にかけて西アジアの大半を制圧したオスマン・トルコ帝国においてイクター制的秩序を残したままスルタン制とカリフ制は合体し再び権威が回復された。西ヨーロッパ。神聖ローマ皇帝の権力は11世紀の叙任権闘争、13世紀の大空位時代、14世紀の金印勅書によって名目化し、西欧における普遍的権威を主張する教皇権も十字軍の失敗、コンスタンツ公会議、16世紀の宗教改革によって失墜した。むしろ各国とも封建制度の分権性を打破していった絶対王政が確立し西欧全体としてはより強固な割拠状態となった。南アジア。イスラム教徒トルコ人の侵入とデリー・スルタン朝の成立によってイスラム教とイクター制が浸透し、16世紀に建国したムガル帝国はヒンドゥー教徒とイスラム教徒との融和のため人頭税ジズヤを廃止し多宗教・多民族のままの統合政権の回復にこぎつけた。これは西欧とはちがい、封建制を推持した西アジアの体制に似ており、乱立時代はおわった。

 

2000-1(p.177)

●中国にカトリックを伝えたイエズス会士は科挙制・宋学の理論などを西欧に伝え、フランス啓蒙主義者はこれを理性主義的と捉え、これらの情報と自国の旧体制を対比し批判した。中国では主観的で政治哲学的な宋学が主流であり、仏教も信仰されていたのに対し、フランスではルイ14世のナント勅令廃止以来、信仰はカトリックに統一されており、啓蒙思想家は教会の独善を批判した。……モンテスキューはこれをフランス絶対王政と同一視し、専制を批判して三権分立を説いた。このように啓蒙思想家は自由主義貴族や第三身分、特にブルジョワを代弁して絶対王政を批判し、人間の自由・平等と主権在民を掲げるフランス革命への道を開いた。

▲ 「18世紀の時代背景」にあたるものがハッキリしません。フランスなら旧体制・身分制度は18世紀だけのものではないし、清朝の場合、科挙・宋学・文字の獄も伝統的に宋以降の中国王朝にあるものです。わざわざ「18世紀」と時間限定した課題を無視しました。

 3人の思想家の文章をあげているのは、「これらの知識人がこのような議論をするに至った18世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況」と全体像を描かせようという意図に反して、三権分立を説いたモンテスキューだけいやに挙げています。

○(受験生の答案)

中国は清朝最盛期を迎えた。皇帝専制政を非世襲の科挙官僚と理論的な朱子学が支え銀経済も活況する一方、社会の安定は文字の獄による思想統制が支えた。この情報はイエズス会士を介して西欧に伝播、思想家は合理的宗教観、身分制度廃止、能力別人材登用、言論・思想の自由、重農政策など近代的思想・制度を着想しえた。仏ではブルボン朝絶対王政が行詰り、宮廷の浪費や度重なる戦費で財政逼迫し、産業革命下の英に対抗する近代化も必要化した。少数の聖職者・貴族が身分的世襲的特権を享受し大多数の平民のみ負担を強いられる旧制度は、資本主義経済発展の実情にそぐわず階層分解を招き、ナント勅令廃止での宗教統制や三部会停止の閉塞的状況もあり、台頭したブルジョアに啓蒙思想を志向させた。啓蒙思想はフランス革命など市民革命の思想的支柱となり、人間の自由・平等や主権在民を原理とする近代市民社会を準備した。従来のエリートによる理論・思索と違い実践的改革案を提示する。自由放任主義や自然科学の進歩にも寄与したが、専制君主の王権伸張にも利用された。

 

2006-2-3(p.185)

●ナポレオンの遠征後ムハンマドーアリーが総督となった。同家はスエズ運河会社株を英に売却ウラービーの反乱を機に英に占領された。第一次世界大戦後ワフド党の運動で独立するが、英の運河地帯駐兵を承認。エジプト革命後ナセルが運河を国有化した。

▲ 1行目の文内容が急ぎすぎで、息ぐるしい文章。「遠征後ムハンマドーアリーが総督となった。同家は……」って、これは何ですか? 「遠征後」は「撤退後(英軍との戦いに勝利して)」であり、「アリーが総督となった。同家は」でなく「アリーが総督となった。同家は」は「アリーが総督となった。アリー朝は」がふさわしい。

○(受験生の解答)

英印の連絡遮断を狙うナポレオンの撤退後、ムハンマド・アリーが東方問題を通じオスマン帝国から自立。スエズ運河開通後、運河株を買収した英がウラービーの乱を鎮圧し事実上保護国化。戦間期に独立を達成し、戦後ナセルの同運河国有化でスエズ戦争を招く。

 

2003-1(p.191)

●フルトンが発明した汽船やスティーヴンソンによる蒸気機関車……独の膠州湾租借を機に鉄道輸送の普及で失業した中国人は扶清滅洋を唱えて義和団に参加した。日露戦争での日本勝利の報道に刺激され、英露に服従する政府に対するイラン立憲革命が勃発、インドでは国民会議派がスワデーシ、スワラージなどの4綱領を提唱して英に対抗し、ガンディーの非暴力・不服従運動に影響を与えた。

▲ 植民地化のことは11行目まで正しいが、後の民族意識に関する箇所は「日本勝利の報道に刺激され」のところだけ。これで後の運動をすべて言い切っていて、通信以外は使用しなかったことになる。「鉄道輸送の普及で失業した中国人」は鉄道を民族側が使用したということにはならない。むしろ植民地敷設側の説明になる。鉄道破壊ぐらい書けばいい。教科書(詳説)に「義和団は、「扶清滅洋」をとなえて鉄道や教会を破壊し」と書いてあるのに。(視点)に「解答を作成するに当たっては「運輸・通信手段の発展」と「列強の帝国主義的進出」をどのように手際よく関連づけるか、その情報処理が意外に難しいのではないだろうか」と書いてあるが、そうではなく民族側でどう使用したかが難しい。気がついていないから書いてない。

○(受験生の答案)

鉄道は従属地域における内陸市場を広げ、資源や食料を港市に運搬し、反乱鎮圧軍の輸送も容易にする。英仏によるインドやアフリカ・中国における敷設、ドイツのバグダード鉄道、ロシアのシベリア鉄道・東清鉄道が植民地化を推進した。鉄道は分業体制を可能にし従属地域にモノカルチャー経済を形成した。しかし鉄道維持のための備品生産から現地に近代工業が興す契機となり、また鉄道を利用して反帝国主義運動の全国化が可能となり、鉄道を破壊して列強の活動を分断した。義和団は鉄道を破壊した。汽船は大量輸送を可能にする。タバコ・綿花・アヘンを運び、自国工業製品の販路を広げた。海運は領有欲を刺激し、スエズ運河は英国に支配され、パナマ運河は米国に支配された。しかし民族側に国際的な移動を可能にした。ガンディーはロンドンに学び、南アフリカで弁護士をし、インドに帰った。孫文は香港・ハワイ・東京を往復し革命運動を指導した。メッカ巡礼者は反帝ネットワークを形成した。モールス信号やマルコーニの無線伝信の普及で情報伝達が迅速化し、商品の需給状況や反乱情報を伝え植民地経営を支える。しかし日露戦争の日本勝利のニュースはイラン立憲革命やカルカッタ大会を刺激した。

 

1990-1(p.194)

●露ではソヴィエトを組織した労働者・兵士が3月革命で帝政を打倒・ボリシェヴィキはソヴィエトの支持を得て11月革命で社会主義政権を樹立。連合国の干渉や帝政派の抵抗を排除、コミンテルンを結成して革命の輸出を図った。キール暴動……孫文は民族資本家を中心に中国国民党を組織、共産党との合作を成立させ列強と結ぶ軍閥打倒を図った。インドでは全インド=ムスリム連盟も反英運動を展開したが、国民会議派との対立が激化した。インドネシアではムスリムが独立連動を展開、トルコではムスタファ篝ケマルがトルコ革命を遂行して西欧的近代化を進め、イランでも立憲体制のパフレヴィ一朝が成立した。

▲ 運動の担い手が「大衆」であることを実証することが課題。露はできているが、独のスパルタクス団の担い手は? ナチスの担い手は? 英は選挙法改正は戦後の運動で改正が行なわれたのではないのに結果としている不思議。アイルランド独立運動の担い手は? 伊の「地主・資本家」って大衆? ガンディーは大衆? 三・一運動・五・四運動の担い手は? 五・四運動はまず大学生から「労働者・農民に拡大」のはず。「孫文は民族資本家」は大衆? インドの国民会議派は大衆? ケマルは大衆?

○(受験生の答案)

ヨーロッパでは、第一次大戦期は総力戦となり、都市住民は食糧不足に悩み、食料暴動や反戦ストライキが多発した。その中、国民に参政権拡大の要求が強まり、英国では選挙法が改正され、初の労働党内閣が生まれた。アイルランドでは市民や労働者が戦中のイースター蜂起に参加し、戦後にアイルランド自由国をつくった。ロシアでは大戦中、ペトログラードでパンと平和を求める主婦と労働者の大規模なデモやストライキがおき、その動きはソヴィエト・ロシアの革命に結実した。戦後の戦時共産主義に反発した農民一揆は政府のネップの採用を促した。イタリアでは戦後のインフレーションで生活を破壊された農民は土地を占拠し、労働者は社会改革を求めて工場を占拠した。アジアでは、日本には漁村の女性をきっかけに都市民衆や貧農を巻き込んで、米騒動が起きた。この大衆運動の力によって元老は政党内閣を認めた。一方国民の大正デモクラシーの運動は普通選挙法成立を導いた。朝鮮では、学生や市民が独立万歳を叫んで大規模なデモ行進を行い、三・一運動は全国的な民衆運動となった。この運動は日本の統治政策を武断政治から文化政治へと改めさせた。中国では、文学革命の影響を受けた北京大学の学生をきっかけに、労働者や商人も巻き込んで、大衆が団結して五・四運動が起きた。政府はこの運動の拡大を阻止することができず、事態収拾のためにヴェルサイユ条約の調印の拒否を声明した。

 

1993-1(p.202)

●大戦後のソ連の東欧共産化に対するトルーマン米大統領の封じこめ政策で冷戦が始まった。チェコ・クーデタを機に米英仏が占領下の西独で通貨改革を行うとソ連はベルリン封鎖で対抗、ソ連の核武装を背景に49年独は東西に分裂した。……解放民族戦線のゲリラ戦が活発化し、南を支援する米は軍事介入を本格化させた。米は北爆を行ったが北はソ連。中国の援助を受け頑強に抵抗、米中接近を機にパリ和平協定で米は撤退した。南ベトナムは75年に降伏しベトナム社会主義共和国が成立した。

▲ 課題を忘れた解答です。両国ともきっちりと、どのような過程で分裂・統一したかを書かなくてはならないのに、分裂・統一の過程は曖昧な記述で終わってます。冷戦の展開はドイツにしかなかったみたいでヴェトナムは無視されてます。

○(青本)

ポツダム会談でのドイツ処理に関する米ソの合意は、米ソの勢力圏拡大政策、特にトルーマン宣言の封じこめ政策で崩れ、西側3国占領地域の通貨改革とソ連の抵抗(ベルリン封鎖)を経て49年西にドイツ連邦共和国、東にドイツ民主共和国が樹立された。西はNATO、東はWTOに加盟し、対立する東西両陣営に組み込まれ、東西ベルリン間の交通も61年ベルリンの壁により再封鎖された。70年代初めデタントへの動きの中で西独プラント政権は大戦後の国境を認め、72年東西ドイツ基本条約を結び、両国の国連加盟も翌年実現した。ソ連のゴルバチョフの全面的改革と米ソの冷戦解消の動きの中で89年ベルリンの壁は崩壊し、90年西独は東を吸収合併した。ヴェトナムではヴェトミン指導下の8月革命で45年ヴェトナム民主共和国の独立が宣言されたが、旧宗主国の仏が介入して第1次インドシナ戦争となった。54年ディエンビエンフー陥落で仏の敗北は決定的となりジュネーヴ会議で北緯17度線を南北の暫定軍事境界線とする協定が結ばれた。ソ連の平和共存路線後、特にキューバ危機後米ソの歩み寄りと第三世界の紛争への関与拡大の中で、南に解放戦線が結成されると米は南に軍事・経済援助を強化し、ジョンソンは65年北爆を開始した。北と解放戦線は中ソ等の支援を受け戦線を拡大、攻勢に出て73年パリ和平協定により米軍を撤退させ75年全土を解放して、翌年ヴェトナムを統一して、冷戦のわく組みを崩した。

 

2005-1(p.207)

●戦後の平和構想を明示した1941年の大西洋憲章にはソ連もやがて参加したが、大戦末期から米ソ間の対立が表面化した。中国では国共内戦での共産党の勝利により成立した中華人民共和国はソ連と中ソ友好同盟相互援助条約を結び、国民党は台湾に逃れた。カイロ宣言で独立を約束されていた朝鮮は北緯38度線を境に米ソにより分割占領された後、……大量虐殺はシオニズム運動を加速させ、国連のパレスチナ分割決議の翌年にユダヤ人が建設したイスラエルは、第1次中東戦争で領土を拡大して大量のパレスチナ難民を発生させ、アラブ側との対立が激化した。

▲ 戦中と戦後のリンクができているのは、大西洋憲章→米ソ間対立、カイロ宣言→朝鮮分裂、アウシュヴィッツ→第1次中東戦争、の3点だけ。出来事に大西洋憲章やカイロ宣言が入ると仮定してのこと。後は戦後史で戦後史を語っています。それをやってしまうと、この問題が崩壊します。

○(受験生の解答)

戦中の大西洋憲章を基に1945年サンフランシスコ会議で国際連合が創設されるも二超大国の姿勢は当初から乖離。国土の戦争被害が少なく戦争で経済・軍事力を飛躍させ覇権を得た米が戦中のブレトン=ウッズ協定を基に国際経済体制を構築する一方、国土が激戦場となり荒廃したソ連は復興を占領地の資源や労働力に求めた。戦中の第二戦線問題・ポーランド解放問題での相互不信も相俟って冷戦に繋がり、独は西・東ドイツに分断された。戦中レジスタンスで活躍した左翼勢力の伸張は封じ込め政策に繋がる。大戦での疲弊は西欧の植民地喪失と経済統合を促しEECが発足した。朝鮮は43年カイロ会談で独立を約束されたが金日成の北朝鮮と李承晩の大韓民国に分裂する形で独立。中国では戦中から国共合作が崩れ国民党軍が解放区を攻撃したが、戦後土地改革を進めた共産党に敗れ台湾に逃れた。日本は戦中のポツダム宣言を基本とする米の占領政策の影響下に46年日本国憲法を制定。東南アジアではベトミンなど戦中の抗日ゲリラ勢力が戦後は宗主国相手に蜂起し独立を達成。ナチスのアウシュビッツ等でのホロコーストはユダヤ人移住を加速し戦後イスラエル建国を契機とする第一次中東戦争でパレスチナ難民が生まれた。

 

2012-1(p.215)

●第一次大戦後、インドでは国民会議派のガンディーが非暴力・不服従運動を推進し、完全独立を決議したが、英は宗教対立を煽って民族運動を分断、第二次大戦後、ヒンドゥー教徒のインド、ムスリムのパキスタンに分離独立した。両国間ではカシミール紛争が勃発、……アルジェリアではFLNの独立運動が激化してアルジェリア戦争に発展した結果、ド=ゴールに独立を承認された。これ以降、困窮した多くのムスリムは仏に渡ったが、政教分離を掲げる仏が宗教的標章法を制定するなど、反発する移民との間で宗教的な軋轢が生じた。

▲ フロチャートが付いているが、7ページも付いている解説に、どう差異を表すかの解説がまったくなく、ただ4地域の過程を羅列しています。問題文には「差異、異、差異」と相違点を表すように、3個も書いてある語句に目が止まらないのは盲目。

○(受験生の解答)

独立過程について、戦争により独立したのが、ディエンビエンフーで大勝して仏から独立したベトナム、第一次大戦時アフガン戦争で英から独立したアフガニスタン、スカルノの下で蘭と戦い独立したインドネシアである。平和的に民衆の力や情勢を利用して独立したのが、米の善隣外交下で10年後の独立を約束されたフィリピン、第一次大戦後の英の衰退で独立したビルマ、ワフド党と党を支持する民衆の力で英から独立したエジプト、ガンディーの非暴力・不服従運動や民衆の不買運動を通じて独立したインド、「アフリカの年」やその後の情勢下で独立した南アフリカ、コンゴ、アルジェリアである。経済的従属から脱しようと試みたのがスエズ運河国有化で英・仏・イスラエルに攻め込まれたエジプト、開放的経済政策のドイモイを施行したベトナム、冷戦下で東西どちらか一方に依存して台頭を企図した開発独裁を行った国々である。旧宗主国との文化的結びつきが強いのが、アパルトヘイトが施行された南アフリカ、アルジェリア戦争が勃発しムスリムの信仰が宗教的標章法で抑圧されたアルジェリアなど仏からの独立国である。社会問題が起こったのがカシミール紛争が起きたインド、カタンガ州を巡って動乱が発生したコンゴである。

 

2005-2-1(p.218)

●クシャーナ朝のカニシカ王は大乗仏教を保護し、……写実的なギリシア彫刻の影響を受けたガンダーラ美術が生まれ、最初の仏像が作られた。

▲ 課題は「ヘレニズムの影響を受けながら発達した美術には注目すべきものがある。その美術の特質」でした。この特質は何を書いてもいいものの、「美術」の特質とわざわざ問うているこに誠実に応えようとした、美術そのものについて書くのがまったとうな書き方です。

○(受験生の解答例)

ガンダーラ地方で成立した仏教美術であり、インド史上初めて仏像を製作した。仏像の容貌や衣服は西方的で、ヘレニズムの写実的な彫刻技法が応用されており、ギリシア・ローマ神像と類似する。

 

2006-2-1(p.223)

●アフガニスタンのガズナ朝やゴール朝が北インドへ侵攻した結果、インド初のイスラーム王朝・奴隷王朝が成立。以後デリー・スルタン朝からムガル帝国に至るイスラーム王朝が成立した。この間スーフィー教団の布教でインド人下位カーストがムスリムとなった。

▲ 課題は「政治的側面と文化的側面の双方」とあるにもかかわらず、文化的側面がお粗末。

○(受験生の解答)

ガズナ朝とゴール朝によりインドのイスラム化が進み、スーフィズムが民間に適合し、デリー=スルタン朝の寛容策は信徒を増やした。ムガル帝国ではタージ=マハルやムガル絵画に代表されるインド=イスラム文化が形成された。シク教も成立した。

 

2003-2-7改(類題1987-2)(p.229)

●周敦頤・朱熹。宋学は南宋で広まり,元では弾圧されたが,明・清で官学化され,『四書大全』などが編纂された。黎朝・朝鮮王朝・日本の江戸幕府も官学化した。理気二元論に立ち,華夷の別,君臣の別を説く朱子学は民族意識を高め,体制の維持にも利用された。

▲ 二つの問題を合体したとのことですが、本来のものとはちがったものになっていて、元は「近隣諸国でも官学として受けいれられていった。その理由」でしたが「近隣諸国でどのように受け入れられ,どのような役割を果たしたか」に修正されてます。修正の課題にもこの解答は答えていないし、儒学が「元では弾圧された」は変な解答です。無視されたのであり、弾圧はしていません。科挙を復活したときに採用したのは朱子学でした。元朝によく用いられた郭守敬ほかの官僚達も儒学者でした。


1990-2-A(p.232)

●朝鮮。高麗時代に栄えた仏教を排除し,……太宗は銅活字を鋳造して出版事業を奨励した。世宗は朝鮮語の表音文字である訓民正音を公布して庶民への文字の普及に努めた。

▲ 課題は「新王朝の名を挙げ、当時の思想・文化上の特徴につき、高麗王朝のそれらとの比較をも念頭において、具体的に」でした。初めの2行は出来ていても、後の2行は李氏朝鮮の文化を説明しているだけで、高麗との「比較をも念頭において」いないことは明らか。

○(受験生の解答)

李氏朝鮮。高麗では『大蔵経』でみられるような仏教の国家的保護にたいし、李朝では朱子学を国教として仏教を弾圧した。金属活字は高麗より発展し、 漢字に代わる訓民正音という表音文字を考案し高麗より民族主義はつよい。

 

2007-2-1(p.244)

●(a)古代エジプトでは,ナイル川の定期的な氾濫を予知するため、太陽と星の位置関係を基準とする太陽暦が発達した。古代メソポタミアでは、月の満ち欠けを基準とする太陰暦と占星術が発達した。

▲ 課題は「暦とその発達の背景」とあり、暦という時間計測のスタート時点のことを問うています。暦ができてしまった後に発達したことがらはここでは問われてないのです。小林登志子著『シュメル』(中公新書)ように農事暦として発展したのが背景です。占星術はシュメールでは確かめられず、バビロン第一王朝(前1800年頃)に萌芽が認められるものです。

○(受験生の解答)

メソポタミアでは不定期なティグリス・ユーフラテス川の氾濫を使って農耕するため太陰暦が、エジプトでは定期的なナイル川の洪水を使って農耕するため太陽暦がつくられた。

 

2007-2-1(p.245)

●(b)閏月で補正しない純粋太陰暦であるため,1年の長さが不正確で季節とのずれを生じる。このため農耕用に太陽暦を併用した。

▲ 課題は「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由」とあり、「最大」を何にするかは意見が分かれそうなところです。しかし発行する側からすれば、これはハラージュを取るのが最大の目的のはずです。農耕と徴税の双方があるとベスト。

○(受験生の答案)

ムハンマドの聖遷の6月をヒジュラ暦は元日とした太陰暦であるため、季節に合わず農耕と徴税には不向きだったため。

 

2011-1(p.257)

●イスラーム勢力は8世紀までにイベリア半島・北アフリカから中央アジア・インドまで勢力を拡大した。この結果、アッバース朝ではタラス河畔の戦いを機に唐から製紙法が伝来し、イスラーム文化の流布に貢献した。バグダードの知恵の館を中心にアリストテレス哲学、ヒポクラテスの医学、エウクレイデスの幾何学、……西洋医学やトマス=アクィナスのスコラ哲学確立に影響を与えた。言語面ではジハードやイスラーム商人の活動に伴い、アラビア語が各地に伝播し、東アフリカ沿岸では混成言語スワヒリ語が派生した。

▲ 「影響を与えた」を2回使っているが、論述で影響は禁句。中身が必要。「他地域へ影響」としてインドへの影響はなく、東アジアへの影響も授時暦だけ。与えた影響は西欧に偏ってます。その中で、十字軍の説明は文脈からは学問ももたらしたかのように読み取れるところがまちがい。

○(受験生の答案)

アッバー朝の時代にはバグダードに知恵の館が建設されギリシア語文献がアラビア語に翻訳された。これらの文献からイブン=シーナーは医学を、ウマル=ハイヤームは天文学を発展させ、再びヨーロッパへと伝わった。インドからゼロの概念が取り入れられ十進法に基づくアラビア数字が発明された。フワーリズミーは代数学を発展させた。タラス河畔の戦いにより唐から製紙法が伝わって、カイロに製紙工場が建設された。これらの技術・知識に関する文献は、イベリア半島やシチリア島を経てトレドを中心にラテン語に翻訳され、ヨーロッパに12世紀ルネサンスをもたらした。また、アリストテレスの哲学の研究も行われ、このおかげで信仰と理性の調和を保った神秘主義思想が確立されスーフィーの活動がさかんになった。彼らは東南アジアやインド、アフリカに進出し各地の風俗を取り入れながら布教したため、インド=イスラーム文化やスワヒリ語などの融合文化が発達し、各地にイスラーム国家も誕生した。イブン=ルシュドはアリストテレスの哲学の注釈研究を行い、のちのヨーロッパのスコラ哲学の形成に大きな影響を与えた。

 

1994-1(p.261)

●チンギス・ハンは、モンゴル高原統一後、金を攻め、……滅ぼし、チベットを服属させる一方、フラグがアッバース朝を滅ぼしイラン・イラクを支配、シリアに侵攻したが、後にマムルーク朝に撃退された。ハイドゥの乱で帝国は分裂した。国号を中国風に元としたフビライ遠征軍は日本やベトナムの陳朝・占城、ジャワのマジャパヒト王国に敗れたが、……イル・ハン国のガザン・ハンの改宗など支配領域でイスラーム化が進行した。全土に実施した駅伝制により経済・文化交流も活発化し、アラビア天文学の影響下で郭守敬は授時暦を作成、中国絵画の技法はイランに伝わり細密画に影響を与えた。イル・ハン国を通した西欧との交流を機にモンテ・コルヴィノは元にカトリックを伝えた。

▲ 何が融合で衝突かをハッキリさせないで、採点官に探させる答案。指定語句ガザン・ハーンが「ハン」になっている。(加点ポイント)にも繰りかえし「ハン」としている。また「マジャパイト王国」が指定なのに「マジャパヒト王国」にしている。指定語句は勝手に変えてはいけない。

○(青本)

拡大過程。チンギス・ハーンは、モンゴル高原統一後、東西トルキスタンのナイマン部とホラズム王朝と河西の西夏を征服、2代オゴタイの時代、バトゥはロシアの大半を征服、ワールシュタットで東欧の連合軍を破り、4代モンケの時代、フラグはアッバース朝を滅ぼしイラン・イラクを支配した。5代フピライは日本・ベトナム・ジャワへの遠征には失敗、ジャワではマジャパイト王国の成立を許したが、ビルマのパガン朝、雲南タイ族の大理国、チベット、漢族の南宋の征服に成功、既に服属していた高麗も含む東アジアを統一した。衝突。フピライの元はモンゴル第一主義をとり、モンゴル人は中央アジア・西アジア系の色目人とともに支配階級を形成、旧金領の漢人・旧南宋領の南人を冷遇し、儒者の士大夫を権力から排除し、文字もウイグル文字・パスパ文字を用いた。フラグもイスラム教徒を圧迫した。融合。元の国号は中国風で、モンゴル人は中国的官僚制を用い、チベットの仏教を信じ、元曲等庶民文化には理解を示した。イル汗国のガザン・ハーンはイスラム教に改宗した。モンゴル人が四汗国と元に建設した駅伝制による交通の安全の結果、中国にイスラム教が拡大し、アラビア天文学の影響のもとに郭守敬は授時暦を作成し、中国絵画の技法はイランに伝わり細密画に影響を与えた。モンゴル帝国・イル汗国と教皇庁の交流もおこり、モンテ・コルヴィノは初めて中国にローマン・カトリックを伝えた。

 

2001-1(p.270)

●エジプトでは前3000年頃にハム系民族がナイル川流域を統一し、古王国・中王国を建てた。前18世紀にはヒクソスが侵入したが、前16世紀にはこれを撃退して新王国が成立し、……18世紀末、ナポレオンは英とインドの交通遮断のためエジプトに遠征したが敗北。この間に台頭したムハンマド・アリー朝は近代化を推進し、19世紀前半のトルコとの2回の戦争で事実上独立したが、英はスエズ運河会社の株を買収、ウラービーの乱を鎮圧し、エジプトを保護国化した。戦間期に独立したエジプトは第二次大戦後に共和政に移行、ナセルがアラブ民族主義の中心となった。

▲「前18世紀にはヒクソスが侵入」は前17世紀のまちがい。課題の「関心・背景・政策・行動」を書かなくてはならないのに、ほとんど書いてない。ただ、ずらずらと王朝・王国の流れ。せいぜい「英とインドの交通遮断のため」くらいが関心を書いている唯一の例。いわば「行動」だけが書いてあるという奇妙な答案です。歴史の論述は流れを書くものである、という素人のような観念に囚われています。

○(青本)

エジプトのナイル川に依る農業生産および地中海・紅海・アフリカ内陸部の交通の枢要の地であることに注目して諸勢力は侵入した。古代オリエント時代、ヒクソスとクシュの周辺民族が支配し、世界帝国アッシリアとアケメネス朝はここを重要な属州とし重税を課した。前4世紀アレクサンドロスの征服、プトレマイオス朝の支配下でエジプトはギリシア文化を受容しヘレニズム文化が成立した。前1世紀アクティウムの海戦によりローマ領となり、エジプトはキリスト教を受け入れた。7世紀アラブ人の大征服を歓迎したエジプト人はイスラム教に改宗し、10世紀にはシーア派のファーテイマ朝、12世紀アイユーブ朝、13世紀以降マムルーク朝の下で建設されたカイロ等でエジプト商業は栄えた。十字軍も第3回以降はこの国を敵としたが、アイユーブ朝のサラディン等はこれを撃退した。16世紀にはオスマン帝国が征服し、地中海進出の拠点となった。18世紀ナポレオンは英国とインドの交通路遮断のため侵入したが敗北した。19世紀オスマンの太守ムハンマド・アリーは近代化・西欧化に着手し2回の戦争で事実上の王朝を樹立した。アラビ・パシャの乱を鎮圧した英国はスエズ運河を確保しこの国を支配した。1922年形式的独立を達成したこの国はナセル時代アラブ世界の一中心となった。

 

1999-1(p.273)

●ポエニ戦争中にカルタコの将軍ハンニバルと戦ったイベリア半島は、カルタゴを破ったローマの属州となって住民にはローマ市民権が付与され、全盛期の皇帝トラヤヌスらを輩出した。4世紀後半以降のゲルマン人……モロッコの先住民ベルベル人がイスラームに改宗して建てたムラービト朝・ムワッヒド朝がイベリア半島のムスリムを救援してキリスト教徒を阻止した。13世紀にはキリスト教徒が優勢となり、15世紀にカスティリア王国とアラゴン王国が統合して成立したスペイン王国が、イベリア半島最後のイスラーム王朝・ナスル朝の都グラナダを攻略し、イベリア半島からイスラーム勢力を一掃した。

▲ この中で民族にあたるものは、ゲルマン人(西ゴート)、ベルベル人だけです。文化はキリスト教化(?)、イスラームの2つくらいしかありません。恥ずかしい答案。政治史とまちがえたようです。

○(青本)

フェニキア人のカルタゴは第2回ポエニ戦争前半島を領有。この戦争で半島を属州としたローマは、都市風文化、ラテン語、キリスト教を伝えた。ゲルマン系でアリウス派の西ゴートは王国を樹立,6世紀トレドを首都にした。8世紀初めウマイヤ朝は半島に領土を拡大、高度なアラブ=イスラム文明が以後発達した。8世紀半ば後ウマイヤ朝が成立、コルドバを首都にアブド=アッラフマーン3世時代最盛期を現出した。ムスリムはキリスト教徒にアリストテレス等を伝えた。北アフリカのイスラム化したベルベル人は11世紀ムラービト朝、12世ムワッヒド朝を樹立、半島に侵入したがレコンキスタに敗北、ナスル朝のグラナダ王国が残った。この王朝はアラベスク模様のアルハンブラ宮殿を建てた。カトリック勢力は、8世紀カール大帝がスペイン辺境伯領を北部に設置したのち、カスティリア王国、アラゴン王国、ポルトガル王国を建国。これらの王国はレコンキスタを戦い、国土を回復、前二者は1479年スペイン王国を成立させ、この王国は1492年グラナダを陥しレコンキスタを完成した。

 

 第1問の全てで誤答がある、というグランドスラムを達成しています。

 『テーマ別東大世界史論述問題集』という題のうち「東大」は東京大学の略字でなく、たぶん東洋大学の略字でしょう。いや東海大学か? 他人の著作批判だけでなく自分のものも出してます →こちら