世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大のディープな世界史

『東大のディープな世界史』中経出版

 この参考書はすべて縦書きにしていますが、なぜそうしたのか理由が書いてありません。東大のじっさいの問題文は横書きですし、解答用紙も横書きです。

 それだけでなく段落分けをよく使っていますが、これは要らないことです。解答の要請は一つの段落として書け、ということで段落のために空けた部分は使用しなかったマス目となります。したがって、これは受験生に向かって書いたのでなく、一般読者向きに書いていることが明らかです。これは8頁にも「学習参考書というより」と書いている点でも明らかです。それでも受験生が買うことも考えられるので取り上げて批評することにしました。

  問題と解答を検討します。途中の解説がこの本のメイン(長所)ですが、問いに対してどう答えたか、ということが著者の能力を測るには分かりやすいので、問答に集中して説明します。もし解答が問いに対して不備・間違いがあれば途中の解説が無意味であったり、誤謬のあることの証明になりますから。

 p.43-44の解答

 エジプトはナイル川流域の穀倉地帯に文明を築くと、外国勢の侵入を受け、ヒクソス、アッシリア、アケメネス朝下では直接支配された。アレクサンドロスの征服後は、プトレマイオス朝を開いたが、アクティウムの海戦でローマの属州とされた。7世紀イスラム教に入ると、地中海とアジアを結ぶ海上交易の中継点として繁栄した。

 12世紀はイェルサレム王国の侵攻に見まわれ、エジプトは存亡の危機に直面した。これを救ったのは、サラディンのアイユーブ朝であった。第3回十字軍も撃退しイェルサレムを奪回した。

 16世紀にオスマン帝国に征服されたが、18世紀インド航路の要衝として注目されると、ナポレオンによるエジプト占領が強行され、事態は緊迫した。総督ムハンマド・アリーは富国強兵政策で、エジプトの独立を図り近代化を推進。しかしスエズ運河開通を機に英仏の介入が強まると、『エジプト人のエジプト』を掲げたウラービーの反乱で抵抗したが、英軍に鎮圧され、20紀初めに保護国とされた。

 第一次世界大戦後、ワフド党の運動で独立を回復したが、依然英軍の運河管理は続いた。第二次世界大戦後、共和政を樹立した大統領ナセルがスエズ運河国有化を宣言し、スエズ戦争を招いたが、国際世論に押されたエジプトは、アラブ民族主義の盟主として称賛された。

  段落分けは要らないのですが、取り上げるには段落毎の説明が分かりやすいので、これを利用します。

 課題は、たんに5000年の歴史の流れを書けというものでなく、「1)エジプトに到来した側の関心や、進出にいたった背景、2)進出をうけたエジプト側がとった政策や行動」と2つの条件が付いてます。この条件が満たされているか?

1 「穀倉地帯に文明を築くと、外国勢の侵入を受け」はあいまいな表現ですが、「穀倉」を「到来した側の関心」を示しているととってあげましょう。ナイル川の関心のもう一つは黄金でした。紀元前における金産出の半分はエジプトが占めているというくらいの「黄金の河」として知られていました。これは書けないとしても、この後いっきにローマの支配まで突っ走ってしまい、5000年の歴史のうちの紀元前3000年分が1文で済まされてしました。いくらなんでも解答文全体としてはアンバランスという他なく、得点ポイントをここで失っています。

 「7世紀イスラム教に入ると」という文は「関心」が示されていません。布教なり、地中海世界商業圏の拡大くらいは書けたないでしょうか? 「海上交易の中継点として繁栄した」という状況説明は要らないのです。どちらかの「関心・政策」を書くのが課題ですから。イスラーム教世界に入る前にここは東ローマ(ビザンティン)帝国領でした。これも不可欠なデータです。

 2 いきなり書かれた「12世紀はイェルサレム王国の侵攻に見まわれ」という説明がなぜ「エジプトは存亡の危機に直面した」ことになるのか文脈がありません。カイロを建設したファーティマ朝が十字軍と戦い、それを受けついだアイユーブ朝、という文が「12世紀」の前に必要でした。

 この後の「これを救ったのは、サラディンのアイユーブ朝であった。第3回十字軍も撃退しイェルサレムを奪回した」は間違いです。サラディンがイェルサレムを奪ったために第3回十字軍が結成されたからです。順が逆。p.29の解説で「1187年にはイェルサレムを奪取。そして第3回十字軍(1189-92年)に対抗した」と書いているのに忘れたのでしょうか? 第3回十字軍がイェルサレムを奪い返して、それをまたサラディンが奪回した、というのなら話はわかりますが、その事実はありません。

 3 「16世紀にオスマン帝国に征服された」の「関心」は書いてありません。ここにバグダードから亡命してきたアッバース朝のカリフがおり、当時のエジプトを支配していたマムルーク朝はメッカ・メディナの宗主権ももっていました。これを狙ってます。

 また「18世紀インド航路の要衝として注目されると、ナポレオンによるエジプト占領が強行され」はナポレオン側の関心が示されていますが、「注目されると」がまちがいです。何も18世紀になって急にエジプトが注目されたのではありません。16世紀の大航海時代以来、西欧側がエジプト・シリア・トルコ経由でインドに向かうことは、喜望峰経由の開始後も続いていました。喜望峰は直接インドに行けるとしても遠すぎるのです。

 教科書(東京書籍)では「フランスの商人にも領内での安全保障、免税、治外法権などの特権(カピチュレーション)を与えた。この特権はやがてイギリスやオランダの商人にも与えられ、西ヨーロッパとの交易がさかんになった。このため、世界の交易網の結節点となった首都イスタンブルは、西方世界最大の都市として繁栄した」と書いてあります。

 後はほぼできてますが、「スエズ運河開通を機に英仏の介入が強まると」という場合の英仏の「関心」が書いてありません。

 4 「依然英軍の運河管理は続いた」は状況説明です。英国の関心は書けないでしょうか?

 「共和政を樹立した大統領ナセル」は微妙です。エジプト革命(1952)は幼い王をかかえていた首相役のナギブが、革命後には首相を兼任しつつ大統領になり、かれのときに共和政になります。かれが属していた自由将校団はしだいにナセルが実権をにぎり、両者が対決するようになってナセルがナギブを幽閉して第2代大統領に就任します。教科書(東京書籍)は「1952年に自由将校団が革命(エジプト革命)をおこし、国王を追放して共和国を樹立し(1953)、54年にはナセルが政権を握った」と書いてます。

 末尾の「スエズ戦争を招いたが、国際世論に押されたエジプトは、アラブ民族主義の盟主として称賛された」という、またまた状況説明文は要らないです。「政策・行動」にこだわれば、むしろスエズ運河国有化に成功した、英仏の関心は挫折した、(ナセル後の)第三次中東戦争でシナイ半島を失った、などの文章がほしいところです。

 平凡な学生並の、不合格に接近する解答でした。

46頁の問題文

 つぎにかかげる8つの事項は、すべて、ある同一の世紀に属している。それは何世紀か。その世紀における、これらの事項が関係する地域の特徴を論述せよ。その際、この世紀に見られるそうした特徴が、それ以後の発展に対してどのような影響を与えたかという点に、とりわけ留意すること。解答では、下記の諸事項に、随意の順序で、かならず1回は言及し、言及箇所を下線で明示せよ。 

 解答は、答案用紙(イ)のB欄の第1行目に、問われている世紀を明記し、つぎの行から21行以内(700字ていど)で記入せよ。数字、括弧、句読点も、それぞれ1字に数える。

 キリスト教の国教化 フン族の西方移動 コンスタンティノープル遷都 コロヌスの土地緊縛令 西ゴート族 キリスト教徒大迫害 ニケーア公会議 ドミナートゥス

  修正があります。本来の問題は「言及箇所をわくで囲んで明示せよ」のところが、「言及箇所を下線で明示せよ」になってます。理由は書いてありません。縦書きでもわくで囲むことはできるはずですが。

 

p.64-65 解答

4世紀

 4世紀のローマ帝国は、ドミナートゥスと呼ばれる専制君主政治のもとで進展した。この体制を導入したのは、『3世紀の危機』を収拾したディオクレティアヌス帝であった。ササン朝ペルシアに対抗して領土防衛にも尽力し、また、自らの権威を高めるために、皇帝崇拝を強化した。しかし、社会不安を背景に伸張したキリスト教がこれを拒否したため、キリスト教徒大迫害を行った。

 キリスト教が民族と階級を超越する世界宗教に発展すると、次代のコンスタンティヌス帝は、迫害よりも懐柔が得策と考え、ミラノ勅令でキリスト教を公認した。その保護下で開かれたニケーア公会議では、イエスを神の子とするアタナシウスの説が正統とされ、教義の統一が図られた。また、東方の重要性をふまえ、コンスタンティノープル遷都を行うとともに、ソリドゥス金貨を創設して地中海の国際交易網の安定も図った。さらにティフンディアに代わって、無産市民や解放奴隷に農地を貸与する小作制が帝国西部に広がると、コロヌスの土地緊縛令を制定した。

3 ところが4世紀後半、フン族の西方移動がゲルマニアに到達すると、西ゴート族を先頭にゲルマン人のローマ領侵入が始まった。加えて、キリスト教側では教義をめぐって混乱が続いたことから、4世紀末、テオドシウス帝はキリスト教の国教化を行うとともに、帝国を東西に分割して事態の悪化に対処した。その後のヨーロッパ世界の成立を見ると、フランク王国が教皇との提携関係によって「西ローマの復活」という形式をとったことや農奴制による農業経済の発達は、4世紀のローマの影響を受けるものであった。一方、東ローマでは皇帝教皇主義が確立され、ノミスマのもとで貨幣経済が発展した。

  この問題の課題は「(4世紀の)特徴」を書くことです。ということは4世紀だけいくら説明しても、他の世紀とちがう点(特徴)が表せません。それが著者には分からなかったようです。これも4世紀の流れを書けば、自ずと特徴が現れるはずだと勘違いしたようです。また流れ。

 君は大阪の特徴を述べよ、と言われて、どれだけ大阪のことを語っても、おっとそれと似た都市は他にもあるで、と言われたらどうします? 何か他の対照的な都市、たとえば京都と比べて大阪はこうなんや、と説明があれば成る程、とうなずくでしょう。特徴というのは他の何かと比べて明らかになるものです。

 つまり3世紀までのあり方→【4世紀】→5世紀以降、と間にはさまった時期の特徴を明示するために前後の時代も描かなくては特徴は出ない、ということです。

 1 「『3世紀の危機』を収拾」という説明では、どういう危機があり、それをちがう体制(ドミナートゥス/専制君主政治)に変えたのか不明です。それまでの元首制と元老院の位置について言及すべきでした。p.46で3世紀の危機を説明していますが、これが活かせませんでした。

 「また、自らの権威を高めるために、皇帝崇拝を強化した」は変な表現です。ドミナートゥス制とこの皇帝崇拝はセットのはずです。ディオクレティアヌス帝以前から皇帝崇拝を強制して迫害をしてきたのであり、何か改めてディオクレティアヌス帝が始めたものではありません。とくに不安定な軍人皇帝たちは皇帝崇拝を強制し、迫害を頻繁に行いました。「皇帝崇拝を強化した……これを拒否したため、キリスト教徒大迫害を行った」のではなく、これまでの迫害をより徹底したものです。教科書(詳説世界史)は密接な関係を書いてます。「皇帝を神として礼拝させ専制君主として支配したので、体制はこれ以後元首政から専制君主政(ドミナトゥス)へと変化した」と。

 2 段落分けをして「キリスト教が民族と階級を超越する世界宗教に発展すると」と述べてコンスタンティヌス帝の公認にもっていってますが、ここがおかしい。段落1に「伸張したキリスト教」と述べているのに、さらにこれを書く必要がどこにあったのでしょうか? ディオクレティアヌス帝の辞任後に急に「発展」したため次帝が公認に踏み切ったかのようにとれます。まさか。ディオクレティアヌス帝は305年に辞め、コンスタンティヌス帝は副帝としては306年に就任しています(正帝としはて310年)。公認(313年)までの短いうちに大発展でもあったのでしょうか? もちろんそんなことはありません。ディオクレティアヌス帝の迫害が失敗と言われる理由は官僚にも信徒は広がっていて、どうすることもできない大勢力になっていることを証明したからです。何もコンスタンティヌス帝になって「発展」をわざわざ言う必要はありません。

 「東方の重要性をふまえ、コンスタンティノープル遷都を行う」という解答文で、ああこの著者は問題が分かっていないのだと気がつきます。この問題は4世紀という時期が、いろいろな側面で西から東に重心が移っていることを証明させるために意図された問題です。教科書(詳説世界史)に、ディオクレティアヌス帝の説明の前の段階で、「都市は重税を課されて経済的に疲弊し、とくに西方で衰退しはじめた。都市の上層市民のなかには、都市を去って田園に大所領を経営するものがあらわれた」と書いてます。4世紀になって「重要性をふまえ」だすのではありません。4世紀は3世紀にはじまった東西のひび割れが、より明確に出てきたので、その説明を求めています。

 分かっていないなあ、ということは後の解答文「小作制が帝国西部に広がると」でも明らかです。4世紀になって西部に広がったのでなく、すでに3世紀に現れているのです。これも「3世紀の危機」の一つです。

 経済だけでなく政治的にも、遷都の前の首都であるニコメディアはコンスタンティノープル市のすぐ近くにあり、これはディオクレティアヌス帝が3世紀末に定めた首都です。皇帝もディオクレティアヌス帝はユーゴスラヴィア(当時はイリリクム)出身であり、共同統治者のガレリウス帝もマクシミヌス・ダイア帝もリキニウス帝もルーマニア(当時はダキア)出身でした。西の正帝マクシミアヌス帝はハンガリー出身、継いだフラウィウス・ウァレリウス・セウェルス帝もユーゴスラヴィア出身でした。もう東方出身皇帝で占められています。コンスタンティヌス帝はセルビア(当時はモエシア)出身です。この皇帝が召集した公会議のニケーア市はトルコ西部にある町です。当時のキリスト教徒も圧倒的に東方(属州)にいました。

 3 「ところが4世紀後半……ローマ領侵入が始まった」はゲルマン大移動の説明です。このことと「キリスト教側では教義をめぐって混乱」が「事態の悪化」と総括されて、帝国分割と国教化が対策であるとつづきます。事態の把握と対策は正しいでしょうか?

 テオドシウスが即位したころの西ゴート族はギリシアに留まっています。ゲルマン人の移動は実にゆっくりしたものであり、大きな「事態」としてとらえていたか怪しい。「帝国分割」はこの皇帝の前にも頻繁にあったものです。テオドシウス帝は遺言書で息子たちが分けて統治するように言い残したもので、ゲルマン人対策と断言しにくい。教義論争があったのは確かですが、国教化の勅令はいろいろな法の集大成的な表現ですが、何よりかれを皇帝に押上てくれた司教アンブロシウスへの恩返しが大です。

  ここで4世紀の特徴は解答終了ですが、これで良いんでしょうか? 3世紀と比べたところは皆無であるため、特徴が現れておらず、時間順に流れを書くという求められていない解答になってしまいました。ディオクレティアヌス帝→コンスタンティヌス帝→(4世紀後半)ゲルマン大移動→(4世紀末)テオドシウス帝、というのがこの解答の大まかな流れです。漠然と時代の特徴を求められたら、政治・経済・文化に分けて書くと明快な書き方ができます。こういう文章構成法を知らないようです。分野別にしないで流れとして歴史を書いてしまうと不明快なものになり、次の解答に響いてきます。

 

 この後は5世紀以降、つまり「そうした特徴が、それ以後の発展に対してどのような影響を与えたか」の解答をする箇所です。「そうした特徴」が不明快だと、発展・影響も怪しくなります。

 「フランク王国が教皇との提携関係によって「西ローマの復活」という形式をとった」は4世紀のどの特徴の発展なのでしょうか? この「復活」とは8世紀末(800年)のカール大帝のことでしょうが、4世紀から8世紀まで飛んでしまいました。「以後の」はいつのことを書いてもいいのでしょうか? この間の3世紀分も素っ飛ばしても構わない? 「農奴制による農業経済の発達は、4世紀のローマの影響を受けるものであった」も飛びすぎです。農奴制が成立するのは9-10世紀です。

 「影響」はあまりに時間が経ってしまうと、その関連が怪しくなります。アヘン戦争の影響で太平天国の乱がおきた、とは言えても、アヘン戦争の影響で中華人民共和国ができた、と言うと、長すぎる間をどう関連づけるのか難しくなります。この問題の場合は、影響・発展の範囲を5-6世紀に留めておくべきでした。

 「東ローマでは皇帝教皇主義が確立され」は正しいとしても、もともとドミナートゥは東西含めた政体であり、西方属州ではどうなったのか? ササン朝との戦いという対外関係が書いてあったのが、5世紀以降どうなったのか? ゲルマン人のうちフランク族のことは4世紀で言及していないのにどうしてか説明し、書いてある西ゴート族との関係はどうなったのか? キリスト教の異端・正統の争いはどうなったのか? 「ノミスマ(ソリッドウス金貨のこと)のもとで貨幣経済が発展した」のは東ローマ帝国で、西方属州は貨幣経済はどうなったのか? 貨幣経済の対になることばは「農業経済」ではなく自然経済であるべきです。

 

 問題の把握のまずさ、入れる歴史データの不適切など、基本的なことができてないのに、途中の解説は詳しく述べている参考書です。個々のデータを詳しく説明しても全体像ができていなため、こういう解答を書いてしまいます。このくらいの解答でも予備校講師になれるという証明か。

 

 これ以上、いちいち問題と解答例をあげて説明するのは面倒くさい。かんたんに解答例の不備・誤謬を下にあげておきます。下の指摘を見る前に自分で発見できた方がいいですよ。添削対象の参考書として使い、払った代価を回収しましょう。

 p.88

  2段落目の途中に「17世紀の日本鎖国令以後は」とありなから、書いてある内容(一条鞭法)は16世紀に始まったこと、18世紀の銀の流れが不明快なこと。地丁銀くらい書けなかったのか?

 p.123-124

  パクス=ブリタニカ(大英帝国の支配)にしては、前半でもっとその支配が及んだ地域をあげないと解答として不十分です。指定語句にとらわれた解答です。なんとか米独との対抗関係を書こうとした答案ですが、その必要はなく、英国の盛衰にもっと集中すべき問題でした。

 p.14-145

 東学党の乱は使いたくない用語です。学会でも教科書でも控える用語です。

 p.167-168

 課題は「大戦中に生じた出来事が、いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのか」と戦中の出来事と戦後のリンクを求めている問題です。この解答でこのリンクができているのは、指定語句の大西洋憲章とアウシュヴィッツのところ、「国共合作で抗日戦争に勝利した中国」「ポツダム宣言にもとづく平和国家への転換を期待された日本」「ドイツ軍が占領したライン左岸は、戦後フランスに返還」の5箇所です。二重政権ポーランド、東西ドイツ、朝鮮戦争、中東戦争などはみな戦後史で戦後史を説明しています。

 p.197

 中国との政治的関係ができているところは、「新羅は唐と連合……元の属国……清国に侵攻され」の3箇所しかありません。4世紀の高句麗による楽浪・帯方郡併合、隋との興亡、10世紀の唐末五代期における高麗の成立、元明交代期を利用した李朝の成立、と中国の政治情勢と関連させる必要がありました。この問題を「歴史をどのように見るのかを鍛えさせるような問題でした(p.196)」と指摘しながら解答では表すことができない。

 p.206

 課題は「日本が明冶新政府を樹立すると、この関係は大きく変動することになる。1870年代に朝鮮および琉球にとって日本との関係が政治的にどのように変動したのか」でした。江華島事件以前の関係がどのようなものだったか書いてないため「変動」が明らかではありません。

 p.256

 課題は「スンナ派のアッバース朝カリフにどのように対応したかを」だったので、シーア派内部の称号であるイマームよりカリフ称号の方が「対応」にふさわしい。教科書(詳説世界史)も「この王朝は建国のはじめからカリフの称号をもちい」と書いてます。さらに「北アフリカからシリアに至る帝国西半部を支配した」はアッバース朝対策というのは変です。すでにアッバース朝から自立したトゥールーン朝、イフシード朝とエジプトの支配は動揺していて、ファーティマ朝がとうとうイフシード朝を破りエジプトに入りカイロを建設したました。カイロはバグダードの繁栄を奪います。これを書いたらいい。

 またブワイフ朝についても、「柔軟に対応……領内の統治権を握った」ではアッバース朝対策とは言いがたいものです。むしろ、カリフを保護下におき武断政治をはじめた、と書くべきでした。その方がアッバース朝の文治主義に対抗したことになります。

 p.263

 課題は「タンジマート(1839-76)はどのような結果をもたらしたのか」でした。それが「トルコ国民革命(1919-23)を将来する結果」と書いては飛躍しすぎです。革命をいう前に書かなくてはならないことがあります。教科書(詳説世界史)に「ヨーロッパ工業製品の流入は土着産業の没落をうながし、外国資本への従属がかえってすすんだ」と書いてあるように書けば済むことです。飛躍すれば何か長大で深遠なことを語っている、と錯覚しているのかな。