世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

『テーマ別東大世界史論述問題集』駿台文庫-1

○ 長所

1)2012年から1989年までの24年分全問と、簡単なポイント、解説的な視点、そして解答例です。問題が付録のように付いていてます。つまり問題をかの赤本同様に25年分網羅している点は、それに付随した解説・解答例がなんであれ、倉庫のような価値はあります。

2)問題を内容から構成し直したところ。次のような構成です。
第1章 経済史1 ─世界システム論,覇権国家の交代─
第2章 経済史2 ─農業と土地制度,人口変動と移民─
第3章 国家論1 ─帝国の盛衰,主権国家体制の展開─
第4章 国家論2 ─国家と宗教─
第5章 国家論3 ─植民地と民族問題─
第6章 異文化間の交流
第7章 特定地域の通史

3)この参考書に載っている解答例は添削の対象にはもってこいなので、利用価値は高いでしょう。

 ● 短所

1)第1問の解答例が間違いだらけであることです(第2問にも変なものあり)。駿台・世界史科の氷河期といっていい「作品」で、そのひどさは青本にすでに表れているのですが、著者たちが青本を執筆しなかった2006年以前のものは特にひどいものです。青本に良答があるにもかかわらず、それを無視して誤答を作成してしまった。といって上3に書いたように、これは長所でもあります。

2)問題の分析にあたる解説的なところは、2項目で、「加点ポイント

」と「視点」と構成し、いわゆる問題解説はこの視点のところに示されています。解答例がひどいために、この視点が実は無意味であり、加点ポイントもまちがっているので、何のために存在するのか分からなくなります。

3)元の問題をそのまま載せていない修正問題がいくつもあること。たとえば、巻末p.18の3-3-1にある

 ナチスの迫害を逃れてパレスチナへ移住するユダヤ人が増えたため、1939年5月にイギリスはパレスチナに受け入れるユダヤ人の人数を大幅に制限した。イギリスとパレスチナとの関係に触れ、当時の状況を2行(60字)以内で記せ。

 という問題の元の問題は、以下。

 ドイツに併合・占領された国のなかで最も多くのユダヤ人が虐殺された国の名を記せ。またユダヤ人のなかには迫害を逃れてパレスティナヘ移住する者も多かったが、イギリスは1939年5月、パレスティナに受け入れるユダヤ人の数を大幅に制限した。この制限がおこなわれたのはなぜか、1行以内で記せ。

 これでは長所1が削がれてしまう。全体で21問も直されていました。

  こういう批評の仕方をすると、自分の本を売るための過剰宣伝だととるでしょう。そういうものではありません。著者たちの解答については従来からネットに批判(受験生・教師から)はあります。また全国からのわたし宛のメールでも非難が来ています。非難の文面をここに列挙してもいいですが、生々しすぎるので控えます。

 わたしもまちがった解答をつくることがあり、受験生や教師から指摘されてやっと気がつく、という経験があります。しかし本書はまちがいがある、というより、まちがいが余りに多く、根本的に作答能力に疑問、という深刻な事態です。

 本論では、わたしの答案でなく、他人(絶版の青本・受験生)の答案を対置します。良否の判断はこの記事を読む君が、他人の答案も見て判断すればいい。なお比較してもらう青本や受験生の解答がカンペキということで出しているのでなく、少なくともこの参考書より課題に合った良答という判断です。

 なお、基本的にはこの参考書を持っているという前提で行きます。あまり解答例を引用すると出版社が文句を言ってくる可能性があるので少なめにします(「……」が省略部分。とくに第1問は大幅に省略しているので下線を引いていません)。●以降が本書の解答例、▲がわたしの簡単なコメント、○が他人の解答例の3点セット。ページ順に並んでます。

 本文

2009-2-1(p.24)

●(a)アテネではイオニア人が貴族の指導で軍事拠点のアクロポリスを中心に集住し、スパルタではドーリア人が先住民を征服した。

 ▲この解答の変なところが分かりますか? アテネは集住、スパルタは征服? スパルタは集住していない? 「視点」に「「集住型」アテネと、「征服型」スパルタを対比」とありますが、こういう対比は可能でしょうか?

 アテネは前1100年頃には都市・アクロポリスができており、4部族が協力して生きてきたのが、それぞれの協議機関を一箇所に集めることを前8世紀にやり、これを集住と言っています。ところが、スパルタも集住しているのであり、スパルタの特異性は集住しても都市を築かない点にあります。5つの村が連合するという特異なものでした。都市をつくると、都市と農村との差ができ平等が達成できないからです。征服がどうのこうのは無関係。『詳説世界史研究』に集住のいろいろなタイプを書いてますが、スパルタについて「ラコニアに侵入して先住民を征服し、やがて自分たちだけが集住してポリスをつくった」とあります(p.38)。これらのことは、トゥキディデスを読んでいたら分かること。

○(受験生の答案)

散在して村落に住んでいた市民が貴族の指導下に集住したり、有力者だけが集まったり、集会所を一箇所に集めたりした。

 

2003-2-5(p.28)

●北部では東方貿易で台頭したヴェネツィア、フィレンツェなど都市共和国中南部では教皇領、ナポリ王国が分立、抗争を続けた。

▲ 課題は「イタリア戦争はルネサンス期に半世紀以上にわたってくりひろげられた。この戦争の誘因となったイタリアの政治状況」で、なぜ都市共和国だけに「東方貿易で台頭した」が付いているのか不明。イタリア半島全体が分裂・対立がひどいということなら、それを書けばよく16世紀の問題なのに中世中期からの「東方貿易で台頭」は無関係です。それに何も貿易だけがイタリアに南下したい誘因ではない。「内陸都市も毛織物産業や金融業で栄えた(詳説)」都市があり、その富を狙っていました。しかしこういう経済的誘因は要らない。「政治状況」だけでいいのです。

○(青本)

フランス・スペインなどが政治的統一をはたしていたのに対し、諸侯・都市共和国・教皇領などに分裂し統一を実現できなかった。

 

1997-2-1(p.30)

●ミケーネ文明の崩壊により線文字が廃れ、フェニキア人が伝えたアルファベットを改良したギリシア文字が普及した。……植民市の人々もホメロスの叙事詩『イリアス』などの文化を共有し、ヘレネスとして同胞意識を持った。

▲下線「前8世紀後半」が時間設定なので、「ミケーネ文明の崩壊により線文字が廃れ」という古い時期の説明は要らないし(加点ポイントに「ミケーネ文明の崩壊/ドーリア人の侵入」とあるのが解せない)、何より必要な前8世紀からの「大植民」時代や、南イタリアにギリシア人が住みついた結果できる「マグナ=グラエキア(大ギリシア)」への言及がない。また「ポリスの形成期には商業活動が拡大……植民市が建設された」は逆のはず。植民市建設→商業、という順。教科書(詳説)には「前8世紀なかばからギリシア人は大規模な植民活動にのりだし、地中海と黒海の沿岸各地に植民市を建設したが、これは貿易活動を活発化させることになった」とあります。

○(青本)

ナポリにはギリシア人が前8世紀に作った植民市ネアポリスがあり、南イタリア、シチリア島は大ギリシアと呼ばれ海洋民族ギリシア人の文化圏・交易圏に含まれていた。盲目の詩人ホメロスの『イーリアス』か『オデュッセイア』の口誦の詩をフェニキア人から取り入れた表音文字で記したワイン用の杯も愛用されたのであろう。

 

1997-2-2(p.31)

●アッバース朝が衰退し、ブワイフ朝のバグダード入城以後も、イクター制により地方分権化が固定された。……ファーティマ朝は、首都カイロを建設し、紅海貿易を保護した。

▲設問は「ペルシア湾ルートに代わって紅海ルートが栄えるようになった歴史的要因を、3行以内で説明せよ」。「衰退」の要因がなく、いきなり衰退、次は分権固定化という。分権だから商業が衰えたといいうるか? 解説にはファーティマ朝がイクター制を採用する必要がなかった、ということで繁栄の理由にしています(p.32)が、教科書(詳説)「10-11世紀にかけて、バグダードが政治的混乱によって衰退すると、エジプトのカイロがインド洋と地中海を結ぶ交易活動の中心となった。……アイユーブ朝やマムルーク朝は、豊かな農業生産に加えて東西貿易の利益を独占し、首都カイロはイスラーム世界の経済・文化の中心地として繁栄をきわめた」と。ファーティマ朝の後のアイユーブ朝もマムルーク朝もイクター制を採用するが繁栄は衰えていません。イクター制の有無を盛衰の根拠にできないということです。家島彦一著『イスラム世界の成立と国際商業』(岩波書店)ではルートの変遷について、アッバース朝の種々の事件による衰退と、ファーティマ朝がおこなった商業の保護政策をあげ、それを後のアイユーブ朝・マムルーク朝もうけついだことが決定的な理由としてあげています。イクター制の影響などひとかけらも書いてない。むしろ佐藤次高編著(故佐藤は東大教授)『世界各国史・西アジア史』ではブワイフ朝とセルジューク朝による「イクター制の採用により、社会の安定化はいちじるしく進んだ」と書いています(p.159)。

○(受験生の答案)

アッバース朝勢力の後退でバグダード及びペルシア湾岸地域が不安定化する一方、ファーティマ朝は紅海・インド洋の結節点にカイロを建設、紅海交易権を押さえ東地中海の交易活動も保護した。

 

1999-2-2(p.40)

●貨幣経済が浸透した南欧や西欧では価格革命で物価が高騰、東欧との価格差が拡大。東欧は穀物輸出で銀を入手し、差が縮小した。

▲ 問われているのは18世紀の縮小理由なのに、16世紀のことを書いていてます。(視点)の初めに「まずは落ち着いてグラフを読もう」とありますが、それより「まずは落ち着いて問題を読もう」と言ってあげたい。このグラフと解説は岩波講座『世界歴史17』p.48にあり、そこには「全ヨーロッパ的規模での諸国民経済の相互規定的関連の緊密化によっても特徴づけられる」と書いてます。

○(青本)

絶対主義時代の列強が重商主義政策を展開して輸出を促進したため、各国間の競争を通じて全ヨーロッパ的な小麦相場が成立した。

(右ページの問3は16世紀を問うているので、この問題の解答とほぼ同じ解答をしていることに気がつかなかったのか?)

 

2010-1(p.51)

●15世紀後半にハプスブルク家領となったネーデルラントでは中世以来、商工業が発展、宗教改革後、カルヴァン派が拡大した。フェリペ2世の旧教強制に対しオラニエ公を中心に北部7州がネーデルラント連邦共和国として独立した。17世紀には世界初の株式会社・蘭東インド会社がポルトガルや英を排しバタヴィアを拠点に香辛料貿易を独占、さらに台湾などを拠点に鎖国中の長崎で得た日本銀で中国物産との中継貿易……マーストリヒト条約でEUが成立した。

▲「中世末から」のことは家領だといっているだけで役割は述べてない。後はオランダ史の流れになっていて、役割を説明した部分の拾えるところは、「中継貿易をも独占、首都アムステルダムは欧州経済の中心となった」だけ。事実だけあげていくと、オランダ史の流れになり「役割」が見えてきません。解説の初め(何が問われているか)に「東大は単純な通史は出題しない」と教訓を垂れているのはいいが、解答は通史になってしまった。

○(合格者の再現答案)

中世末にはフランドル地方が毛織物産業で栄えて百年戦争の原因の一つとなり、またこの地の出身者がイギリスに毛織物産業技術を伝えた。16世紀にハプスブルク家のスペインがカトリックを強制したため独立してスペイン衰退の一因となった。宗教的に寛容であったオランダは文化が発達してルネサンスの中心の一つとなり、エラスムスは教会批判をして宗教改革に影響を与えた。中継貿易や加工貿易を主とするオランダは17世紀に世界貿易の覇権を握り世界各地に植民地を形成した。北米のニューネーデルラントはイギリスのニューヨークへと繋がった。ケープタウンは入植者の子孫であるボーア人が南アフリカ戦争で帝国主義時代のイギリスを苦しめた。日本とは長崎の出島で通商して鎖国中の日本に外国情報を提供した。国内では三十年戦争後にグロティウスが国際法を始めて提唱した。香辛料価格の下落により衰退したがインドネシアは維持し、強制栽培制度ではコーヒーなどの栽培を強制した。この頃、ベルギーへのオランダ語強制への反発からベルギーが独立した。太平洋戦争ではABCDラインの一員となり日本を包囲したが、ドイツに侵攻された。戦後はEC加盟など西欧統合の動きに最初から参加し、マーストリヒト条約が調印されてEUが成立した。ハーグは国際司法の中心となっている。

 

2004-1(p.55)

●16世紀、アジアに進出したポルトガルは日本と中国を結ぶ南蛮貿易で日本銀と中国の陶磁器や絹などを交換し、スペインは新大陸に進出してポトシなどの銀山を開発、アカプルコからマニラにメキシコ銀を運び中国と交易した。銀が流入した明では一条鞭法、清では地丁銀が実施され、税が銀納となった。……17世紀にはオランダが東インド会社を設立して東南アジアや中国との交易を独占し、首都アムステルダムが繁栄したが、英蘭戦争を機にイギリスのロンドンが国際金融の中心となった。イギリス東インド会社は中国から茶インドから綿織物を輸入したが、18世紀には……清に自由貿易を求めて対立した。

▲ 地丁銀は18世紀からなのに16世紀のところに書いてあります。17世紀は銀がどうかかわっているのかまったく言及がない。「英蘭戦争を機にイギリスのロンドンが国際金融の中心」は正しいか? 用語集の「イングランド銀行 (4) イギリスの中央銀行。1694年創設され、以後イギリス資本主義の発展とともに、世界の金融界を支配する存在となった」とあります。英蘭戦争が終わったのが、1674年で20年先。

 イギリス東インド会社はその東洋貿易のために、毎年、700万から800万ギルダーの銀貨をオランダから購入しました。貨幣そのものがオランダの重要な輸出産業であったと専門家は述べているくらいです。これは18世紀にもつづき、18世紀のイギリスで活躍した金融業者の多くがオランダ人でした。代表的なのはロイズ銀行で、その創設者はオランダ人でした。またイングランド銀行の最大の公債所有者であり、顧客であったのもオランダのひとたちでした。

 18世紀の銀は、清朝へ銀が流出したことしか書いていません。18世紀末から銀はイギリスへ流出していますし、インド地税収入も銀で得ています。ブラジルの金もイギリスに入ってきます。

○(青本)

15〜16世紀の大航海時代の結果、世界商業圏が成立し、資本主義経済は広大な世界市場を獲得し世界経済の一体化が進んだ。商業革命により商業の中心となったスペインは、1545年南米にポトシ銀山を開き、新大陸産銀は欧州に大量に流入して物価を2〜3倍に引き上げる価格革命を招いた。西欧諸国の経済は発展し、アントウェルペンは国際金融の中心となった。東欧諸国はグーツヘルシャフトによる穀物の西欧への輸出で銀を獲得するという西欧に従属する地位におち込んだ。南独の銀山は没落した。商品経済の発達する中国では銀が主要な貨幣となり、日本銀を輸入していたが、やがてメキシコ銀の大量の流入を見て、16世紀半税法は両税法に代わり地銀・丁銀を一括納入する一条鞭法が施行された。銀の流入は以後も続き税法は18世紀地丁銀に代わった。世界金融の中心は17世紀アムステルダム、18世紀ロンドンに移った。英国東インド会社は銀によりインド産の綿織物を輸入しインドにも銀が流入した。18世紀インド綿の圧迫から産業革命を始めたイギリスは、銀を必要とし、インドに綿製品を輸出し、インド産アヘンを中国に密輸する三角貿易を始めた。

 

1989-1-A(p.57)

●A清の乾隆帝は対外貿易を広州一港に制限し、特権商人公行に広州での対外貿易を独占させた。当時対清貿易を独占した英では喫茶の習慣が広まり、中国茶の輸入が増大し清へ銀が流出した。英はマカートニーらを清に派遣し自由貿易を要求したが拒否されたため、本国の機械製綿布をインドへ、インド産アヘンを清へ、中国茶を本国へ運ぶ三角貿易を本格化させた。19世紀前半には清から英に銀が流出し、清では事実上の増税となり、社会不安が増した。清はアヘン禁輸を図ったがアヘン戦争で英に敗れ、南京条約で香港島の割譲、広州など5港開港。公行廃止を認め、虎門案追加条約では関税自主権を失い、英に片務的最恵国待遇を与えた。戦後も対清貿易が伸び悩んだ英は、仏と共にアロー戦争で清を破り、天津、北京条約で天津など11港を開かせ、米・仏・露と共に中国の市場化を進めた。

▲ 課題は1世紀間の「通商関係の推移」です。この解答にある推移は

一港→11港、公行→公行廃止、銀が流出→? アヘンを清へ→? ?→関税自主権を失い、と。つまり ? のところを言及していないため推移が成立していません。アヘン戦争・アロー戦争の後もアヘンは入りつづけ、銀流出はとまらなかった、いやもっと増えた、という貿易の推移があります。これが書けてない。

○(受験生の解答)

A清の乾隆帝は18世紀半ば、港を広州に限定し、公行に貿易を管理させ、関税自主権もあった。だが依然として生糸や陶磁器、茶などを通じて銀が流入していた。清は中華の立場を維持し、英国のマカートニーやアマーストの自由貿易要求も拒否していた。朝貢形式は西欧の近代国際法と衝突していた。一方、英国は19世紀初めからアヘン密輸の三角貿易で銀を取り返し始め、銀が清から国外へ大量に流出し始めた。清が林則徐にアヘン貿易の取り締まりを強化させると、英国との対立が増し、アヘン戦争となった。南京条約で清は公行廃止、五港開港、協定関税を西欧諸国に認め、朝貢貿易も放棄して中華の立場を失った。開港場には租界も増えていき、アロー戦争後の北京条約で清は11港を開港し、アヘン貿易も公認したためアヘン流入は増加するばかりであった。銀の流出も止まらなかった。

 

1989-1-B(p.60)

●B明や清前期の皇帝はイエズス会士に『坤輿万国全図』などの作成や円明園の設計を行わせるなど、彼らの実用的知識を重用し、彼らも宣教の手段として中国の伝統的な典礼を容認し、自らの学識を皇帝に提供した。徐光啓など士大夫層の中にはキリスト教を信奉する者も現れたが、儒教を基盤とする専制を支配理念とする皇帝はキリスト教には改宗しなかった。洋務運動では軍事を中心とした欧米の技術のみを導入して近代化を進めたが、専制体制や儒教思想を温存し、欧米的な近代国家形成のための思想.制度は導入しなかった。

▲ 課題は共通性を探す問題です。共通性とは明示してないものの「態度の特徴」は16世紀と19世紀の西欧文明にたいする対応ですから、ちがう時代とちがうものが入ってきていながら、それを受け入れる中国人的な態度がある、ということですから共通性ですね。それを説明した解答文が存在しません。全体からそうだろうと言えてもハッキリ言わないと課題に対応したとはいえないものになります。

 イエズス会士のことは実例もあげて書いて、洋務の方は軍事・技術とだけ書いてアンバランス。

 また「『坤輿万国全図』など……徐光啓など」は避けたい表現です。短文の中にこれだけ使うのはどうか。社会科学の文章として多用してはいけない助詞です。教科書にも「1事項+など」という表現が無いわけではないが、極めて少ない。「など」は他にもありますよ、という示唆なのですが、他にあるけど省きますよ、と解答を拒否するものです。大きいテーマにたいして事例をあげて証明していくのが解答する側の義務なのに、これはいただけない書き方です。事例があげられないのであれば「徐光啓など士大夫層」は「徐光啓のような士大夫層」とするのがいい。

○(受験生の解答)

B明末清初、清はイエズス会士を技術者・学者として重宝し、地理、暦法、数学など、実用知識を吸収した。イエズス会宣教師は布教に際し、孔子崇拝や祖先の祭祀を認めていたため清朝から容認されていた。清朝末期の洋務運動は西洋の学問や技術、とくに紡績・造船・製鉄などを取り入れ、兵器を輸入したが、中国の伝統的道徳原理を根本とする「中体西用」の立場をとっていた。両時代いずれも西洋の思想や社会制度を導入しようとするものではなく、伝統を重んじ、体制の変革を伴うものには発展しなかった。

 

1998-1(p.65)

●18世紀に重商主義政策を採る英から独立した米では19世紀……一方、仏革命とナポレオン戦争期の混乱に乗じ、米英の支持でウィーン体制を主導するメッテルニ上の干渉を排して独立した中南米ではクリオーリョの大土地所有が温存され、自由貿易を推進する英の市場兼原料供給地としてプランテーションが発達し、工業化は遅れた。1823年のモンロー宣言で相互不干渉を主張して中南米独立を支持した米は、南北戦争後、工業発展を背景に英に対抗して中南米の市場化を図るため、第1回バン=アメリカ会議を開催し、米西戦争を機に力リブ海政策を進めた。

▲ 「18世紀から」とある時間設定に対して18世紀は「英から独立した米」以外言及せず、ラテンアメリカの18世紀は全くなし。工業と農業の双方のちがいは導入文に書いてあることで、それをまたここで繰りかえす必要はない。つまり導入文で書いてある「対照的な性格」以外は何も書いてない。

○(受験生の解答)

合衆国は独立前から自治制度をもったが中南米と違い先住民との融合はない。独立は英側の大地主らを排除して成された社会革命で、独立後、米英戦争で経済的自立を果たし民主政も発達。中南米独立を阻むウィーン体制下の西欧にはモンロー宣言で米欧両大陸の相互不干渉を唱えた。19世紀半ば大量の移民と西部開拓で発展し米墨戦争で中米を蚕食、南北戦争では北部の南部支配が実現、自由貿易主義から保護貿易に転換し工業化を成した。世紀末、フロンティア消滅を受け海洋帝国に変貌、パン=アメリカ会議を主催し中南米の指導権を掌握、米西戦争に勝ちカリブ海政策を進める。18世紀中南米では実権を握る本国人の下に厳格な人種的身分秩序があった。19世紀、ナポレオン戦争を機にクリオーリョ中心で独立をなしたが、統合はなくアシエンダ制など植民地時代の因習も残存。欧米に倣い法体系を整えたが、カウディーリョの寡頭政治が散在し民主政発展は阻害された。世紀後半、政治安定化の一方で欧米依存のプランテーションに基づくモノカルチャー経済が進行、対欧米従属を深めた。

 

2008-1(p.69)

●ロンドンで、第一回万国博覧会を開催して圧……開国以来日米修好通商条約に代表される不平等条約を欧米諸国に押しつけられた日本は、明治維新後西欧的近代化を進めるー方、江華島事件を機に不平等条約の日朝修好条規を朝鮮に結ぱせた。英が植民地化を進めてきたインドではインド大反乱が起こったが鎮圧された。この反乱を機にムガル帝国が滅亡するとともに東インド会社が解散されてインドは英政府の直轄領となり、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が樹立された。

▲ 課題は「パクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか」なのに、組み込みが書いてある箇所は「不平等条約を欧米諸国に押しつけられた日本……インドは英政府の直轄領」の2箇所で、この2箇所の内容にしても組み込み(ブリタニカの経済的支配)にしてはあまりに内容がない。解答例2でも組み込みにあたるところは、「綿工業の主な原料供給地はインドとなった……日米修好通商条約で不平等条約を強制された日本」で上と同じしょぼい内容の2箇所しかありません。組み込みとセットで「対抗」があるはずなので、対抗そのものが活きてこない。組み込まれてないロシア・アメリカなどの列強国をあげてます。問題の問うていることが分からなかったらしい。

○(受験生の再現答案)

イギリスは第1回万国博覧会をロンドンで開催するなど世界経済の覇権を握り、自由貿易を各地に押し付けて進出していった。日本では、日米修好通商条約と同内容の条約を結ばされ従属下に入ったが、江華島事件を機に日朝修好条規を結び、朝鮮に進出する事で対抗した。中国では、アロー戦争後、各国公使が北京に駐在することになり総理衙門が設置され従属化に入っていったが、漢人官僚によって西洋技術を導入する洋務運動が展開され対抗した。インドでは、イギリスへの対抗の反乱であるインド大反乱の鎮圧後、ムガル帝国が滅ぼされ、インド帝国が建てられるなど英の植民地となった。アメリカ南部では、ホイットニーの綿繰り機の発明後、綿花プランテーションが盛んになりイギリスの原料供給地となったが、南北戦争で北部による市場統一で排除された。オスマン帝国では、クリミア戦争で英仏の経済上の従属化に入り、露土戦争後、ビスマルクの仲介でベルリン会議が開かれ、バルカン半島の領土の大部分を失うと、さらに従属化に入っていったが、非ムスリムとムスリムの平等を定めたミドハト憲法を制定するなど近代化を進め、対抗した。

 

1996-1(p.72)

●英は自由貿易を求める産業資本家の台頭を背景に穀物法などを廃止。アヘン戦争の南京条約、アロー戦争の天津・北京条約で中国市場を開放させ、インドではインド大反乱を鎮圧、ムガル皇帝を廃し、後にインド帝国を成立させた。アフリカではスエズ運河会社株式を買収、ウラービー=パシャの乱を鎮圧してエジプトを制圧、3C政策の一環としてアフリカ縦断政策を進め、南ア戦争でブール人国家を併合した。光栄ある孤立を放棄して日英同盟を、また3B政策を推進する独……国際世論や国連の反対で撤兵、英の威信は失墜した。

▲ 盛衰のうちの「盛(展開)」の部分は指定語句がかかわる4地域(中国・インド・エジプト・南アフリカ)の他なく、これではパックス=ブリタニカ(大英帝国の支配)がどれほど世界的であったかが分からない。(得点ポイント)に指定語句以外の地域に関する文はなく、著者の視野がいかに狭いか分からないままになってます。

 衰退期に入るところで、「3B政策を推進する独との対立で三国協商を締結、第一次大戦に参戦した」がなぜ書かなくてはならないのか必要性が分からない。「参戦した」は「盛」でも「衰」でもない。

○(受験生の解答)

産業革命後、経済的・軍事的に優位に立った英は自国製品の海外市場、原料供給地を求めて植民地を建設し自由貿易を推し進めた。中国ではアヘン戦争後の南京条約・アロー戦争後の北京条約で市場開放、経済支配を進め義和団事件を鎮圧すると軍隊を駐留させ半植民地化を進めた。アフリカでは3C政策を推進しアラービー=パシャの反乱、マフディーの乱、南アフリカ戦争を経て植民地を建設した。インドでは大衆運動であるシパーヒーの乱を鎮圧するとインド帝国を建設して行政・司法・立法に至るまで幅広い政策を展開した。東南アジアでは港市支配から領域支配に切り替え海峡植民地を直轄地としマレー連合州をつくり、イギリス領マラヤを完成させた。しかし第一次世界大戦後、米の伸張に押される中で英は世界的な地位を落としていった。エジプトでワフド党を中心とする大衆運動に押され独立を認めるのを余儀なくされ、このとき離さなかったスエズ運河の利権もエジプト革命後のスエズ運河国有化で失った。インドではマハトマ=カンディーを中心とする大衆運動に戦間期は強気に臨むも第一次世界大戦後に独立を許した。またウェストミンスター憲章で自治領が自立し、世界恐慌に時にはポンド=ブロックに頼らざるを得なくなった。独の攻勢に対して絶対の軍事的優位を維持できなくなり宥和政策に踏み切り、戦後は米主導の経済体制に組み込まれ、経済復興のためにマーシャル=プランを受け入れざるを得なかった。

 

1994-2-A(p.75)

●皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、農奴に人格的自由を与え、領主の土地を有償でミールに分与させた。第一革命後ストルイピン首相がミールを解体し、土地の個人所有を認めると、富農が出現した。十一月革命後ソヴィエト政府は土地に関する布告で土地を国有化干渉戦争下の戦時共産主義で食料を徴発した。

▲(視点)に「ミールの解体に着手し、土地所有権を個人に分割して自作農を育成しようとした。皆が等しく貧しかった社会主義的なミールの平等にかわって、資本主義的な自由競争が導入された結果政府に協力する一握りの富麗と、大多数の貧農とに階層分化が進み、都市への人口移動も加速した」とさも成功したかのように書いてますが、これは教科書(詳説)の「独立自営農を育成しようとしたが挫折した」に反してます。ミールの解体は半分くらいはできてもミールのまま維持した農民も半分くらいいて成功したものではなかった。このミール残存農民が革命時に私有地化した土地を奪い、ミールに復帰させる活動をしていて都市政権であったボリシェヴィキはこの動きをどうすることもできなかった。土地を国有化してミール農民に使用を許可せざるをえなかった。

○(受験生の答案)

アレクサンドル2世は1861年農奴解放令で農奴に人格的自由を与えたが土地は有償解放でミールが管理した。1906年ストルイピンはミール解体で自作農創設を目指すも挫折。十一月革命後レーニンは土地に関する布告で土地私有制を廃止、地主の土地を無償没収・国有化した。戦時共産主義での穀物強制徴発は農村を荒廃させる。

 

1991-2-A(p.82)

●鉄製農具と牛耕が普及して小家族経営による開墾や、治水事業が容易になった。都市国家の邑は領域国家に発展し、領土争いが激化した。布銭などの青銅貨幣が流通し、各国は富国強兵を図った。

▲ (視点)に「原題は「技術上、経済上の変化」を問うものだったが、政治・社会に与えた影響にまで範囲を拡げて改題した」とあるが、そのような必要性がどこにあったのか疑わせるもの。変化する前が書いてないため、そのことに気づかず、マス目を埋めるために改悪してしまった。「都市国家の邑は領域国家に発展……各国は富国強兵を図った」は政治史であり、「社会」は本来政治以外のことを指すのに政治を入れてしまった。

○(受験生の解答)

技術。石器・木器に代わる鉄製農具の使用で牛耕農法が普及した。経済。農業生産力の増大で氏族共同体単位から小家族単位の経営に。富国策で商工業が発展し貝貨に代わり青銅貨幣が流通する。

 

1991-2-C(p.84)

●囲田により低湿地の干拓が進み、……福建の茶、景徳鎮の陶磁器など特産品もうまれ、絹織物業など手工業も発達した。

▲ 課題は「南方での人口増加に関係の深い技術上ならびに経済上の変化」なのに人口増加と無関係な工業もあげてます。

○(受験生の答案)

技術。湿地をウ田・囲田に変え占城稲を導入し二期作が普及、商品作物栽培も発展した。経済。中心が華北から江南に移行、草市・鎮など商業都市が発生し、海外貿易の盛行で港湾都市が繁栄した。

 

2007-1(p.89)

●宋代、干拓地の急増や占城稲の伝来によって長江下流域が最大の穀倉地帯となり「江湖熱すれば天下足る」といわれたが、……十字軍などの対外進出や商業ルネサンスをもたらした。大航海時代以降、新大陸の市場化を背景に工業化し、人口が増加した西欧に対応して東欧では農場領主制が発達し、国際的分業が進んだ。18世紀には英を中心にノーフォーク農法が普及、第2次囲い込みを伴う晨業革命が進行し、市場向けの大規模な穀物生産が発展した。……一方1840年代のアイルランドではジャガイモ飢饅により米への移民が急増したため、英政府は穀物法廃止により安価な外国産穀物を輸入、同地の農業は打撃を受けた。

▲ 農業技術革新は書いてあっても「意義」も書いているのは、「十字軍などの対外進出や商業ルネサンスをもたらした」と、飢饉による「米への移民が急増」の2箇所だけ。後は「人口急増……人口増加」と当たり前のことを書いています。導入文にヒントとして「人口成長の前提をなすと同時に、やがて商品作物栽培や工業化を促し、分業発展と経済成長の原動力にもなった。しかしその反面、凶作による飢饉は、世界各地にたびたび危機をもたらした」と詳しくガイドにしているにもかかわらず。

○(受験生の答案)

11世紀以降、西欧では重量有輪犂や三圃制の普及による農業生産力向上で余剰農産物が増加し、衰弱していた都市と商業活動が復活した。また修道院の森林開拓の進行で特に東欧への移民が増加した。宋代の中国では南部を中心に日照りに強い占城稲と二期作の導入が人口支持力を上げ、江南の発展に寄与した。西欧では14〜15世紀の百年戦争で国土が疲弊したが、16世紀に大航海時代が本格化すると新大陸のアンデス原産の耐寒性の強いトウモロコシやジャガイモが普及し安定した食料供給が実現した。また西欧で商工業が発展した結果、東欧は穀物輸出地域となった。明清代の中国では綿花などの商品作物の普及が長江下流域を中心に進み、それを用いた手工業が発達、貨幣経済が繁栄した。稲作地帯は長江中流域に移り、「湖広熟すれば天下足る」といわれた。18世紀以降の西欧では英国を皮切りにノーフォーク農法が普及し、大土地所有制に基づく小麦増産が実現、増加する人口を支えた。これを農業革命と呼ぶ。一方で大地主が資本主義的経営で富裕化したが穀物法廃止で抑制された。19世紀にはアイルランドでジャガイモ飢饉が発生し、同国民のアメリカへの大量移民が起きた。

 

2002-1(p.93)

●中国ではアヘン戦争の敗北で海禁が実質的に崩壊し、外国商人や彼らと結ぶ買弁商人が戦後の銀価高騰に苦しむ農民を契約移民として世界各地に移動させ始めた。苦力と呼ばれた彼らは、植民地奴隷制の廃止に伴い代替労働力を求める……中国系移民の歴史は宋代に本格化し、彼ら華僑は地縁・血縁を利用して各地で交易・商業活動を展開する一方、早期から反清運動を展開していた。苦力として新たに移住した漢族を受け入れて急速に影響力を増した華僑は、中国本土で清朝打倒の革命運動を開始した孫文や民族資本家を中心に展開される利権回収運動に呼応し、これを資金や人脈面から強く支持した。

▲ 「銀価高騰に苦しむ農民」が地丁銀の支配らに関係することを指摘していない。「宋代に本格化」などと書き、解説でも前期・後期倭寇の説明という不要なことを書いているが、この問題は、「19世紀から20世紀はじめ」に時間が限定されている。

○(青本)

19世紀になって中国からの移民が増大したプッシュの要因としては、中国国内の地主制の伸展や太平天国の乱等の戦乱で土地を持たぬ貧民が大量に発生したことである。従来中国人の海外移住を禁止していた海禁政策は、アヘン戦争後の1842年の南京条約で廃止された。ブルの要因としては、イギリスが1833年植民地奴隷制の廃止に踏み切り、アフリカ人奴隷に代わる労働力として中国人やインド人のクーリーに注目し、クーリー貿易を始めたことがまずあげられる。イギリス領海峡植民地の錫鉱山、のちにはゴム・プランテーションでは大量の中国人が使用された。カリブ海やラテン・アメリカやオランダ領東インドのサトウキビ・プランテーションでも中国人は労働力の需要を満たした。アメリカ合衆国の1848年からのゴールド・ラッシュや大陸横断鉄道の労働需要も吸収力となった。東南アジア等の華僑・留学生は政治意識が高く、本国の利権回収運動や清朝打倒の武装蜂起に軍資金や人員を提供した。孫文は1905年東京でこれら統一性を欠く運動を中国同盟会に統一し蜂起を繰り返した。

 

1995-2-A(p.116)

●理藩院。

モンゴル系遊牧民でチベット仏教徒のジュンガルが、トルコ系ムスリムのウイグル人を支配していた。清の乾隆帝が遠征してジュンガルを滅ぼし、藩部に編入して新彊と呼び、間接統治を行った。

 

▲ 課題は「18世紀中期以降の東トルキスタンは、モンゴル・チベットなどとともに、清朝の間接的統治を受けていた。これらの地域を統括していた中央官庁の名称を記せ。次に改行して、当時の東トルキスタンの民族的・宗教的特徴、およびこの地域が清朝統治下に入った事情を、90字以内で記せ」というもの。このうち「民族的特徴」にあたるものが、「モンゴル系遊牧民……ルコ系ムスリムのウイグル人」となぜか「遊牧民」とだけあり、ウイグル人も遊牧民なのかどうか分からない。「間接統治を行った」は問題文に書いてあることを再録しているだけなのに、(加点ポイント)に「間接統治を行った」ことも加点されることになっています。コピーも加点?

○(青本)

理藩院

遊牧民と農耕民の混住地で、ウイグル族のほかに漢族とカザフ族が多く居住する。スンナ派イスラム教徒。雍正帝は軍機処を設け、ジュンガル部に勝って乾隆帝が南の回部と合わせ新疆と呼んだ。

 

1995-1(p.132)

●ローマ帝国は地中海統一でローマ法などラテン文化を東半部に広める一方、ヘレニズム文化を受容した。公用語とされたギリシア語を用いて広まったキリスト教を、……シチリアやイベリア半島のトレドを拠点にアラビア語の学術書がラテン語に翻訳され、イスラーム科学やギリシア哲学などが西欧に流入した。15世紀にはオスマン帝国の圧迫を逃れた学者によりビザンツ文化がイタリアに流入し、ルネサンス文化が発展した。

▲ 課題は「どのような文明がおこり、また異なる文明の間でどのような交流と対立が生じたのか」という文明とその内容を書くことが求められているのに、(何が問われているか)で「時系列を正確に追って記述する」とまちがったとらえ方。たんなる地中海史の流れ。ローマ帝国で「公用語とされたギリシア語」という誤答だけでなく、解答文には文化・文化とばかり書いて「文明」という字がまったく見当たらないことでも、この誤読が明らかです。ハッキリどんな文明と明示していないため、文明間対立がどれなのかも分からない。採点官に推測をお願いしています。

○(受験生)

ローマ文明は文芸ではギリシア・ヘレニズム文明の模倣と継承に終るも、建築・土木・法律など実用面で独自性を発揮、ローマの平和の下で先進文明と地域固有の土着文化が融合し地中海世界は古典文明の頂点に至る。ローマと抗争した西アジアではイラン伝統文化が復興し、ササン朝期に新たなペルシア文明が起こる。ローマは東方の圧力とセム的なキリスト教の浸透で古典文明の変質を被り、4世紀末ゲルマン人の侵入に遭うと地中海都市文明は衰退した。その後3文明が鼎立する。イスラム文明は先進文明、イスラム教、アラビア語が融合した都市文明かつ普遍的文明で、イスラム商人は中印洋を結ぶ交易活動で文明の交流を促した。ジハードはキリスト教圏との軋轢を生む。ビザンツ文明はギリシア古典文化を継承、正教と融合させた。正教を東・南スラヴ人に伝え自文明圏に取込み、古代ギリシアの遺産はイタリア=ルネサンスに繋がる。西欧文明は、聖像禁止令での東西間分裂の深化後、カール戴冠でローマ古典文化・ゲルマン人・カトリックが融合する形で形成された。キリスト教中心で文化活動は修道院に限られたが、十字軍等の対外膨張運動は東欧・イスラムとの対立を生む反面、東方貿易を活性化し都市文明が復活、12世紀のアラビア・ギリシア語文献の翻訳は大学設立やスコラ学大成に繋がり、イスラム科学の摂取は近代科学を準備させた。14世紀、他文明の刺激を受け人文主義を掲げるルネサンスが始まる。

 

2006-1(p.137)

●新旧両派の宗教戦争として始まった三十年戦争は反ハプスブルク政策を採るフランスの新教側への参戦で欧州の主導権をめぐる戦争に発展、ウェストファリア条約では……帝国主義列強による三国同盟・三国協商の対立を背景とした第一次世界大戦は長期戦となったため、国民を総動員する総力戦体制が取られ、戦車・飛行機など新兵器の登場は戦争犠牲者を急増させた。ロシア革命後成立したソヴィエト政権は平和に関す審る布告を出して交戦国に即時停戦を訴え、またアメリカ大統領ウィルソンが発表した十四カ条に基づき、戦後のヴェルサイユ体制下で集団安全保障機構として国際連盟が結成された。

▲ 三十年戦争の抑制がグロティウスだけなのはしょぼい。フランス革命戦争の助走が何か分かりにくい。第一次世界大戦の助走もしょぼい。

○(受験生の答案)

三十年戦争期。宗教和議の不備に因る新旧宗教対立の持続が戦争勃発を、周辺新教国の介入、宗教対立を超えた西欧の覇権争い、傭兵の使用が戦争拡大を助長した。抑制。戦中、グロティウスは『戦争と平和の法』で戦時でも守るべき国際法があると説き、戦後ウェストファリア条約は国際条約の先駆となり国家主権の不可侵性が確立した。フランス革命戦争期。国内外の反革命勢力の策動が戦争勃発を、革命独裁の出現、徴兵制の実施と国民戦争の登場、対仏大同盟の結成、反仏ナショナリズムの高揚が拡大を助長した。抑制。ウィーン会議の正統主義と勢力均衡の原則を基に神聖同盟・五国同盟が結成された。英の圧倒的海軍力がパクス・ブリタニカを現出。第一次大戦期。バルカン半島の民族問題、独帝の追い上げと第二次世界分割の進展、秘密同盟網の形成が戦争勃発を、塹壕戦や毒ガスなど新兵器の登場、秘密外交の横行、物量戦を支える総力戦体制の構築が拡大を助長した。抑制。レーニンが平和に関する布告で無併合・無賠償の即時停戦を提唱、ウィルソンの十四カ条を基に平和維持組織国際連盟が誕生した。ヴェルサイユ体制下、海軍軍縮がなされ、ロカルノ条約で西欧安全保障体制が成立、不戦条約も締結された。(→つづく